飛行機ネタ 思えば全てのスタートはA300だったのだ(7月8日 曇りのち晴れ 27℃)

※2日分の日記を掲載します。

◎7月2日 晴れ 34℃

令和4年・2022年も「折り返し点」。

あっという間に、1年の半分が過ぎた。

そんな感慨に浸ることを許さないかのように、今日も全国的な猛暑が続く。

仙台もまる一週間続きっぱなしで、公式には「猛暑日」ではないものの、連日34℃前後と実質的には猛暑日だと思う。

今更「平年」を行っても仕方ない気がするが、仙台は一夏当たりの平均「真夏日」が10日前後なのに、6月中にそれを「消化」してしまっているのだ。

生活上家にいる事が大半の私は、ある意味炎天下の中に行かないと言う特典はあるものの、我が家も相当に暑いのである。

何度か書いて来たように、我が家は昔ながらの鉄筋コンクリート造りの集合住宅。

住み心地が良くて気に入ってはいるのだが、ごついコンクリート住宅故のデメリットも存在する。

良くも悪くも「保温性」が良い為、冬は非常に暖かい。

氷点下、雪の日でも事実上暖房なしでも過ごせる。

と言う事は、反対に夏は暑いと言う事でもある。

コンクリートに熱が「保管」されるのか、一度室温が上がると容易に下がらないのである。

エアコンを付ければちゃんと涼しくなるが、切れば小一時間で外気と同じ程度まで戻ってしまう。

外気以上には上がらないのだが、困るのは気温が下がる夜間でも「保温」されやすいと言う事だ。

しかもここ数日は風が殆どないため、窓を開けても暑い空気が入るだけ。

何とかエアコンは使わずに・・と思うのだが、室温30℃では使わざるを得ない。

ただでさえ電気代が高騰しているのに、どうしたものか。

母に供えている仏花も、異常な暑さに長持ちしない。

毎日花瓶の水を取り換え、花と葉に霧吹きで水をかけてやっても、すぐ萎えてしまう。

冬場だったら2週間ぐらいもつのに、この暑さでは頑張っても数日。

エアコンをかけても状況は変わらず、人工的な冷たい風に当たってもダメらしい。

近年は自宅で熱中症になる人も多いと聞くが、私も危険かな?と思う時もある。

特に朝起きた直後、酷く喉が渇いているような気がして、一気に500mlぐらい一気飲みしてしまう事もあるし、何となく頭痛を感じる事もある。

夏は暑くて当たり前なのだが、我が仙台は全国レベルから見ると涼しい都市であり、僅か一週間程度でも続くと結構堪える。

ドイツでは32℃を超えると「仕事をしてはいけない」と言う法律があり、その日は強制的に休日になると聞いたことがあるが、それは極端にしても、何か手を考えた方が良い。

これだけ猛暑続きなのに、政府は電力不足を理由に「節電」を呼び掛け、円安や戦争を理由に電気代は毎月のように値上げ。

一方で「熱中症予防のために、適切なエアコンの利用を」と聞くと、暑さのせいもあってかムカッと来る。

言っている事とやっている事が違う。

ちょうど今は参院選。

景気対策とか防衛政策も結構だが、「今ここにある危機」をまずは政治が行うべきでは?

投票はもちろんだが、街角で口角泡を飛ばす候補者、そして応援する政治家に、直接訴える、いや怒なってやっても良いのではないか?


◎7月8日

まさか、そんな・・・気の早い夏の到来に戸惑う日本に、追い打ちをかけるかのような衝撃。

もはや世界中を駆け巡った大事件。

昼前、奈良市で参院選の応援演説を行っていた安倍元首相が、突然暴漢に発砲され緊急搬送されたものの、17時過ぎに死亡と報道された。

これを殺人事件と言うべきか、首相は辞職したもののつい最近のことであり、れっきとした衆議院議員。

「暗殺」と言っても良いだろうか、まさか彼が凶弾に倒れるとは誰が予想したことだろう。

私事で恐縮だが、現場は良く知っている。

奈良に行く時は、いつも京都から近鉄線に乗って、大和西大寺駅で下車。

そこからバスかタクシーで中心部に向かうのが、一種のルーティンになっているからだ。

ある意味非常に馴染み深い場所であり、そこが凶行の現場になったかと思うと遺憾と言わざるを得ない。

同時に激しい怒り、悔しさも湧く。

犯人は計画的で、元首相を「許せなかった」と供述していると聞くが、単なる暴力行為に他ならない。

このような自己中心的な犯罪を、決して許してはならないと思う。

気になるのは報道だ。

SNS上でも騒がれているが、確かに重大事件とは言え、各局とも昼以降ブチ抜きで事件の瞬間を流し続けるのはいかがなものか。

事実ツイッターを見ていると、哀悼の意を表する意見の他、気分が悪くなったと言う意見も数多く見られる。

メディアは「事実の報道」を理由に、スクープのつもりなのだろうが、人が襲われ殺された瞬間である。

その映像をこぞって流すと言うのは、報道と言うよりもただの「野次馬」的無責任ではないだろうか。

事件直後ならまだしも、深夜まで「特別報道」と銘打って同じ画像を何十回も流すのが報道なのだろうか。

幸い、現代はそうした画像を見たくなければ、ネットなど別の物を見ると言う手段はある。

でも事件の瞬間を繰り返し流す事に、何の意味があるのか、メディアに聞きたい。

元総理はいわば「強行派」とも言われ、独裁者などと悪口も言われていたが、私は決して嫌いではなかった。

真のリーダーとは、反発やそれこそ恨みや妬みも覚悟の上で、すなわち「命がけ」でなければ務まらない。

安倍元総理は、骨のある首相、リーダーだったと思う。

無能だとか、不適格だとか、散々言っていた野党の面々は、今どう思っているのだろうか。

特に外交政策では、これまでにない手腕を発揮したし、賛否両論あれど内政も決して妥協しない政策を取り続けた。

良い悪いは結果論であり、日本のリーダーとして素晴らしい人であったと思う。

安倍晋三元首相のご冥福を、心よりお祈りいたします。

そしてこの日本が、あらゆる苦難に決して負けてはならない事を、国民の一人として受け継いでいきたい。



今日は終日曇り一時雨と言う予報だったが、曇っていたのは午前中だけで、昼ごろから青空が広がった。

先日までの予想外の猛暑に辟易していたので、悪天候でも涼しい方が・・と思っていた事が裏切られた気分だった。

しかし心地よい風が吹いていたせいで、気温は思った程上がらず、平年より少し高いくらい。

夕方まで日差しがあったことを考えれば、むしろ過ごしやすい暑さだっただろう。

慣れとは恐ろしいもので、30℃以上が10日間ぐらい続いたから、今日は特に涼しく思えてしまう。

あまりに早い梅雨明けに、「戻り梅雨」も予想されていたが、今後の予報を見ると確かにそんな感じ。

週末から週明けにかけては再び30℃超えが予想されているものの、その後はずっと「梅雨空」で気温も25℃前後だと言う。

蒸し風呂状態の我が家も、今日はいくらか落ち着き、エアコンを使う時間は少なくて済んだ。

まだ7月になったばかり。常識的に言えば、夏は少なくともあと2カ月近く続く事になるが、異常気象が異常でなくなりつつある今、もしかしたら夏の「終り」は早くなるのかも知れない。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

毎日暑さが続いていますが、大丈夫ですか?

そして不安をあおるような事件が起きて、暑さとともに気分が悪くなってしまいます。

でも不安は誰にでもある訳で、決して「私だけ」と思ってしまい込んだままにしないでください。

不安・心配は恥ずかしい事ではありません。

むしろ誰かに「吐き出す」ことで、心が軽くなる事が多いのです。

家族でも、友人でも、職場の同僚でも良いから、話して下さい。

出来る事なら私が受け止めたいですが、それが出来ない限り、君にこう促すしかありません。

またコロナ禍が、ジワリと再び拡大しているのも気になります。

恐らく人の流れが増加したことが原因と思われますが、決して油断しないようにして下さい。

私は君がワクチンを受けたかわからないし、その効果が絶対であるとも思っていませんが、罹らない事に越したことはないでしょう。

どうもこの夏の日本は、全てにおいて「メンタル」が試される年のように思います。

面倒ではあるけれど、くれぐれも普段の生活は穏やかに、そして夏を味わい、気を付けて日々をお過ごしください。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




故郷の 奈良思の岳の ほととぎす 言告げやりし いかに告げきや(万葉集巻八 1506 大伴田村大嬢)







飛行機ネタ。

今から遡る事半世紀、1972年秋。

フランス南西部の都市、トゥールーズ近郊にあるブランニャック空港から、ピカピカの旅客機が初飛行した。

今や航空大国アメリカのボーイングを「手玉」に取る程、世界の旅客機市場を席巻する「エアバス社」だが、そのスタートはこの日飛び立った1機の飛行機であった。

A300。

「エアバス製300人乗り旅客機」と言う、何とも簡素というか、ある意味適当につけたような名称だが、以降新しく開発した機種は310,320・・・と数字を重ねて行くことになる。

結論から言ってしまうと、オリジナルの「A300」を改良した「A300-600R」を含めると、「ほぼ」原形を保ったまま、50年後の現在も現役にあると言うから、改めて驚きの旅客機である。

1-1-1-1H A300B4-203_Airbus_Industrie_(AIB)_F-WUAB.jpg ↑1972年に初飛行したA300原形機。4機が生産され、各種テストに用いられた。4機のうち、最初の2機は「B1」と呼ばれるタイプ、3・4号機は胴体を約2.5メートル伸ばした「B2」として落成した。原形機で形状が異なるのは珍しく、全くの「未経験」からスタートしたA300らしい展開だった。量産機は「B2」仕様で決定された(ウィキペディア英語版より)

これまでも同機の事を何度か書き綴って来たけれど、今も良い飛行機だなあ・・と思うのだ。もちろん個人的志向の観点ではあるけれど。

だってそうだろう、現在の旅客機の形を思い浮かべた場合、殆どが「双発機」だ。

当たり前すぎて「旅客機のエンジンは2基」と思いこんでしまう程だが、かつては3発機・4発機と言う「多発機」も普通に存在していた。

今はB787、A350と言った新世代「21世紀型」の双発ワイドボディ機が、15,000キロにも及ぶ航続距離を有し、2点間輸送と言う意味でもはや直行出来ない都市はないほどだ。

だがA300を目の当たりにしたアメリカの関係者は、懐疑的な、場合によっては嘲笑とも言える目で同機を見ていた。

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1-1-1-1H A300B2-1C,_Air_Inter.jpg ↑(3枚)A300を最初に就航させたのは、エアバス社の地元であるエール・フランスで、74年5月の事だった。ヨーロッパ初、世界初の実用双発ワイドボディ機であったが、域内と言った短中距離路線用として開発されたため、長距離性能は有していなかった。それでも100~150席程度の小型ナローボディ機ばかりの時代に、300席級の機体は画期的であり、革命的ですらあった。エール・フランスのA300は、80年代後半に系列エアラインのエール・アンテールに移籍して90年代まで活躍したが、発展型の600は導入せず、さらなる発展型であるA330を選んだ(ウィキペディア英語版より)

同時期、アメリカでは名門ダグラス(のちのマクドネル・ダグラス)とロッキードが、新時代の旅客機としてDC-10、トライスターを開発中だった。

両機とも実用化されつつあった高バイパスエンジンを3基搭載する、3発ワイドボディ機として開発されていた。

60年代まではエンジンを始め、技術が進化の途中であったため事故も多く、ようやく実現の目処がつき始めた高バイパスエンジンに対しても、同様の見解があった。

故にDC-10とトライスターは、安全性という見地からエアライン側の要望に合わせて敢えて3発としたのであった。

一方エアバスが、そうした一種の「タブー」に挑戦したのは、確かに賭けに近い状況であった。

1-1-1-1H A300B4-203_JAS(JA8560).jpg ↑日本エアシステムのA300-B4-200。エアバス社自身のデビュー作A300は、80年旧東亜国内航空が日本で最初に導入、運航を開始した。日本でのエアバス機は、91年に就航を開始した全日空のA320までなく、「ヨーロッパ製」のジェット旅客機はA300が初めてだった(ウィキペディア英語版より)

第二次大戦まで、ヨーロッパ各国は自国開発をしている国が多く、技術力ではアメリカに勝るとも劣らない実力を持っていた。

しかし戦後世界情勢が変化すると、莫大な資源と資金、生産力を持つアメリカが力量で圧倒した。

ヨーロッパ各国も暫くは自主開発を続けていたが、技術の進歩とともに開発費も膨大なものとなって1国ではとても賄えない状態になっていた。

旅客機部門ではイギリスが世界初の実用ジェット旅客機「コメット」を、フランスは双発ナローボディ機「カラヴェル」を開発していたが、商業的にはうまくいかず、大きな赤字を出していた。

そこでイギリスが先頭に立って、各国に「共同開発プロジェクト」を呼びかけたのがエアバスの発端である。

最も完全な政府主導ではリスクを伴う事から、各国の航空機メーカー自体が話し合っての設立であり、しかも言い出しっぺのイギリスはいざプロジェクトが動き出すと消極的であった。

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1-1-1-1H A300B4-605R,_Lufthansa.jpg ↑(2枚)第二次大戦の敗戦で、長らく航空機の自主開発を禁止されていたドイツ(旧西ドイツ)だが、他国との合弁企業と言う形でエアバスに参加。フランスと並んでリーダーシップを取る事になった。エアバスの本社はフランスにあるが、ドイツにも現地法人が設立され、部品の生産と機体の組み立ても行う。A300はドイツにとって「国産機」の様な存在で、フラッグキャリアのルフトハンザも当然のように採用した。同社は初期型の他(上・B4)、500・600Rも導入し、域内だけでなく中東や北アフリカ方面などの中距離路線でも主力として運用し、00年代後半まで現役にあった(ウィキペディア英語版より)

結果新会社の設立にはフランスのアエロスパシアル、旧西ドイツのMBB(現DASA)などが中心となり骨子を整えた後、イギリスからはホーカーシドレー(現BAEシステムズ)とスペインのCASAが参加して、70年に正式に「エアバス社」として設立された。

ただし同社への出資はアエロスパシアルとMBB、CASAであり、ホーカーシドレーは後から参加したオランダのフォッカーとともに部品の生産分担だけに留まり、事実上仏独の国際企業であった。

言いだしこそイギリスだったが、出資率と生産分担、そして売り上げの分配で仏独側と折り合いがつかなかったのである。

同社初の機体は、いきなりワイドボディ機であった。

それこそ大きなリスクを孕んでいたが、来るべき航空時代に備え、大量輸送出来る大型機は必須だと考えられていた。

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1-1-1-1H A300B4-103,_Dan-Air_London.jpg ↑(3枚)イベリア航空、アリタリア航空、イギリスのダン・エア・ロンドンのA300初期型。当初こそ受注の伸びなかったA300だが、大きなトラブルもなく、安価で経済性に優れた機体であることが分かると、大手の発注も増加した。スペインとイタリアは部品の生産分担を担当したこともあって、採用は当然と言えたが、初めての短中距離用ワイドボディ機と言う事で導入は大手に限られた事の事実だった。一方プロジェクトを提案しながら、経済的理由で脱退したイギリスは、遠慮があったのか採用例が少ない。新造機で発注したのは、画像のダン・エア・ロンドンとLCCのレイカー航空だけだった(ウィキペディア英語版より)

更に冷戦時代にあり、最前線であるヨーロッパだけでなく、世界は途上国もまた米ソの影響が強く、ソ連寄りの国々は最新鋭のアメリカ機は購入しにくい状況にあった。

同じ西側諸国でも、フランスやドイツはそうした国々との交流ももっており、アメリカ機が入り込めない新たな市場への目論みがあったのだった。

その基盤となるのが「経済性」であり、機体価格も出来るだけ安く、短中距離機と言う割りきりがあった。

それが当時としては常識外れだったとも言える、「双発ワイドボディ」だったのである。

とは言え、60年代末から70年代初頭は、B747が登場したばかりで、DC-10とトライスターも同様の時代で、ワイドボディ機はこれだけだった。

いきなり巨大なB747が出たと言っても、いわゆる大型旅客機はまだ試行錯誤の状態だった訳だ。

ならばA300が失笑の対象になるのはおかしく、アメリカだけの「上から目線」的な要素も強かったであろう。

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1-1-1-1H A300B4-203 PAN AM-N6254X.jpg ↑(3枚)旅客機市場をアメリカが独占していたことで、エアバス社の悲願は北米でのセールス成功であった。多くのメジャーは双発ワイドボディ機に懐疑的な目を向けたが、そうした一種の「愛国主義」に対抗する異端児大手、イースタン航空への売り込みに成功した。当然アメリカの航空業界は圧力をかけようとしたが、エンジンがアメリカ製とあって強固な態度は取れなかった。イースタン航空は初期型だけで32機も導入し、世界最大数であった。主に需要が高く、本拠地でもある東部とカリブ海諸国や中米路線に投入され、先に導入したトライスターよりも業績が良かったと言われる。その後パンナム、コンチネンタル航空と言ったメジャーも採用し、「無名」に等しかったエアバスの名が知れ渡った(ウィキペディア英語版より)

だがエアバス内も決して順風満帆という訳ではなく、先に書いたように各国の足並みがなかなか揃わなかった。

加えてワイドボディ機は、フランスもドイツも、そしてイギリスも全く未経験だったからなおさらであった。

おおよその構図・仕様は何とか固まったものの、特にエンジンの選択は時間を要した。

A300の基本コンセプトの一つに、「すべて欧州製で作る」と言うものがあった。

その中で唯一エンジンだけは、選択する余地がない状態であった。

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1-1-1-1H A300B4-203_QANTAS.jpg ↑(3枚)ブラジル、VARIGとクルゼイロ航空、オーストラリア・カンタス航空のB4。数自体は少なかったが、A300は全州制覇を果たしている(ウィキペディア英語版より)

当初イギリスは、A300向けとして全く新しいエンジン「RB207」を提唱していたが、トライスター用の「RB211」を優先させることになり、それは開発遅延で会社が倒産する騒ぎまで発展。RB207の話は何処かへ消えてしまった。

ヨーロッパ製の高バイパスエンジンは、イギリスのロールス・ロイス「RB211」だけで、アメリカのトライスターに供給するだけで手いっぱいの状態であった。

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1-1-1-1H A300-600R Olympic_Airlines_SX-BEM.jpg ↑(2枚)ギリシア、オリンピック航空のB4と600R(ウィキペディア英語版より)

「ヨーロッパ製の旅客機を」と言っておきながら、自国のエンジンはアメリカ機の為に作っていたのである。

それがあったせいかどうかはわからないが、唯一の「RB211」が入手しにくいならば、とエアバスが選んだのはアメリカ、GE製「CF-6」であった。

CF-6はDC-10に合わせて完成したエンジンだったが、開発遅延でいっぱいいっぱいのRB211と違って余裕があった。

同エンジンはその後改良・発展を続け、B747やB767の主要エンジンとして現在まで使われるエンジン。

「完全なヨーロッパ製」にこだわっていたら、今日のエアバスはなかったかもしれない。

1-1-1-1H A300-B4-300-SAS.jpg ↑僅か4機だけ生産されたB4-300。スカンジナビア航空だけが発注したバリエーションで、座席数を増やし離陸重量を引き上げて輸送力を重視したタイプ。その為に脚や床が強化されたが、後に燃料タンクを増設し「B4-200」仕様に変更された。また300は初めてJT-9Dエンジン装備のタイプでもある(ウィキペディア英語版より)

A300の初飛行はDC-10より2年程遅かったが、その間にCF-6エンジンは改良されていた。

DC-10初期型に搭載されたのは「6」シリーズで、発展型の「30」型で「50」シリーズに換装されたが、A300は最初からこの「50」シリーズを搭載する事が出来た。

またエアラインの選択肢として、P&W製「JT-9D」も用意されたが、当初はCF-6-50一本で開発が進んだ。

機体のコンセプトは、アメリカ機にはない要素が詰め込まれた。

A300は、まさに「空飛ぶバス」と言う、アメリカで発生した「エアバス構想」をより煮詰めたものであった。

安全性を意識して3発機としたDC-10/トライスターとは対照的に、短距離路線で大量輸送を目的としていたことである。

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1-1-1-1H A300-600R KoreanAir.jpg ↑(2枚)日本線でも常連だった大韓航空の600R。600を含めて24機導入し、国内線と近距離国際線の主力だった(ウィキペディア英語版より)

それは大型ワイドボディ機ながら、離着陸性能を特に重視した設計を施していた。

主翼の後退角は25度と比較的浅く、30度以上を持つDC-10・トライスターとは対照的で、巡航速度もマッハ0.83~0.84とやや低い。

断面は大きな膨らみを持つ「リア・ローディング翼」を採用し、前縁スラットと大型のスロテッド・フラップを持つ。

1-1-1-1H A300-600RJAL (JA8559).jpg ↑比較的大きな面積の主翼と、高揚力装置を持つA300(ウィキペディア英語版より)

これは滑走路の短い空港での運用を考慮したもので、ローカル空港での運用が可能であった。

胴体は完全な真円形の断面をもち、キャビンでの座席は標準が2-4-2の8列、ハイデンシティ(高密度)ならば9列である。

真円形にしたのは床下貨物室のスペースを大きく取るための措置で、LD-3規格のコンテナを並列に搭載できる。

1-1-1-1H A300_cross.jpg ↑A300の胴体断面を表した実物大モックアップ。真円形にしたことでほぼ同じ容積で上下2分割でき、貨物室にはLD-3規格のコンテナが並列で搭載できる。B747、DC-10、トライスターよりも直径が小さいにも関わらず、これだけの積載能力を持たせたのは真円形胴体ならではの事であった(ウィキペディア英語版より)

これは前部貨物室だけでなく、後部貨物室もそうしたので、キャビンでは後方に行くほどやや床が持ち上がった状態になっている。

この思想は、後にエアバスの大ヒット作となるA320シリーズでも継承されている。

短中距離機が故に、多くの乗客とともに貨物輸送もこなせるようにした訳である。

1-1-1-1H A300-600R IRAN AIR-EP-IBC.jpg ↑真円形の胴体と、中心線付近に位置する主翼。中翼配置にすることで接合部に燃料タンクを増設することが出来るが、その分脚が長い(ウィキペディア英語版より)

また短距離機として運用する事は、キャビンの装備品も簡略化できる訳で、乗客向けのオーディオ装置などやギャレーは全てオプションとされた。

原形機は4機生産され、記念すべき初号機と2号機は「A300B1」と名付けられたが、3・4号機は「B2」だった。

最初の「B1」は全長51メートル、最大座席数は320席だったが、2クラス制ではやや座席数が少ないと言う意見があったため、「B1」の胴体を約2.5メートル延長し、53.6メートルとしたのが「B2」となった。

その為「B1」は先行量産型的な要素が強く、生産は2機だけで終了し、以後3・4号機を含めて生産は「B2」になった。

1-1-1-1H A300B1,_Transeuropean_Airlines.jpg ↑たった2機の生産で終わった「B1」。各種テスト後、トランス・ヨーロピアン航空に売却され、短期間ではあったが営業運航を行っている(ウィキペディア英語版より)

コクピットは当時標準的なアナログコクピットで、航空機関士が乗務する3人乗務。

就航後74~76年にかけては、複数の派生形が登場した。

「B2K」は、主翼内側、エンジンと胴体の間部分の前縁に「クルーガー・フラップ」を追加し、離着陸性能を向上させた型。

これによって2,000メートル級滑走路での運用が可能になり、ワイドボディ機としては世界初の快挙であった。

「B2K」は「B2-200」とも呼ばれ、さらに離陸重量を引き上げて短距離運用に適した仕様とした「B2-300」も存在する。

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1-1-1-1H A300-600R THAI-HS-TAZ.jpg ↑(2枚)タイ国際航空のB4と600R。どちらも日本線の常連だった。同社は600も導入しているが、後にウイングチップをレトロフィットさせて外観上Rと同様になっていた(ウィキペディア英語版より)

尚「300」はスカンジナビア航空が発注した4機だけの生産で、エンジンも初めてP&W製の「JT-9D」が搭載された。

以後の派生形はクルーガー・フラップが標準装備となり、A300の大きな特徴にもなった。

加えて機体重量を引き上げた「B4」が生産され、主翼中央部すなわち胴体と交わる部分に燃料タンクを増設して航続距離を伸ばした。

基本型が「B4-100」、さらに機体重量を引き上げたのが「B4-200」とされ、航続距離は最大で約7,000キロ程度まで確保できた。

この「B4」が、初期型A300ではメインの機種となって、「C4」と「F4」が枝分かれしている。

「C4」は貨客両用型で、胴体前部左側に貨物用ドアをもち、キャビンの床が強化されている。旅客・貨物の転換はパレット状になった床ごと取り換えるシステムだ。

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1-1-1-1H A300F4-200_GCS_Cargo.jpg ↑(3枚)トルコの貨物エアライン、MNGカーゴのA300C4-200と、ジョージアの貨物エアライン、GCSカーゴのA300F4-200。「C4」は貨客両用型、「F4」は純貨物型として製造された機体。C4では両用で運用したエアラインは少ない。C4では客室窓をそのままになっている機体と、埋めてある機体があり、その場合外観上F4との区別が難しい(ウィキペディア英語版より)

「F4」は貨物専用型。

こうして難産だった「初のヨーロッパ製双発ワイドボディ機」は、徐々に受注を拡大させていった。

その背景には、時代を先読みした、ある意味特化した経済性にあった。

例えば最も重視された離着陸性能は、広大な国土を持つアメリカやカナダでは、殆ど認識されていなかった。

大都市近郊の空港では、滑走路や騒音規制が敷かれてはいたが、いずれも小型ナローボディ機で充分とされていたのである。

「エアバス構想」で作られたDC-10とトライスターは、大陸横断が可能な機体として開発されたのであって、いわば幹線用として特化されていたものだった。

1-1-1-1H A300-B4F Tristar_Air_Cargo_SU-BMZ.jpg ↑エジプト、トライスター・エア・カーゴで運用されていたA300B4-200F。形式名の通り、元旅客機を貨物機に改造したタイプ(ウィキペディア英語版より)

つまりA300は、当時としては真逆の通念で製作されたエポックメイキング的な旅客機であったのである。

当初は各国の政府やメーカーの思惑に左右されたが、「使える飛行機」の理念は保たれていた。

国としての面積がどこも小さいヨーロッパにとって、短距離離着陸性能や経済性は特に重要だった。

意外な事だが、80年代初頭に、フランスではヨーロッパ初の高速鉄道「TGV」がデビューしたが、実はA300に触発されてのことだった。

同じフランスの事だったが、日本と同じくヨーロッパも鉄道と飛行機は熾烈な競争を繰り広げるライバルであった。

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1-1-1-1H A300-600R-Compass_Airlines.jpg ↑(2枚)中国東方航空と、オーストラリア・コンパス航空の600R。自由化解放後の中国は内外とも需要が急増したため、座席数を確保できるA300の導入が相次いだ。東方航空は日本線でも同機を投入していた。コンパス航空はオセアニアで唯一600Rを運用し、主に大陸横断線やポリネシア方面へ運航した(ウィキペディア英語版より)

日本では一足先に新幹線が開業し、飛行機は後を追う形だったが、ヨーロッパでは逆に飛行機を鉄道が追いかけたのだ。

1便当たりの輸送力と言う点では鉄道に敵わないが、それまでせいぜい150席程度だった飛行機が、A300によって一気に300席以上で輸送するようになったのだ。

しかも高速であり、短距離路線ならば多数の便を往復させることも可能だから、当時の鉄道会社は大きな衝撃を受けたのである。

また初期型A300では、設計の段階でさらなる発展も考慮してあった。

先に書いたように、同機は当時標準的な3人乗務機として開発されたが、将来的に2人乗務が可能であるよう、コクピットのシステムが整えられていた。

同機のシステムはもちろんアナログだが、緊急時におけるフューエルセーフ機能はアメリカ機のそれよりも進んでいて、自動化されていた。

操縦システムも従来の油圧・電気式だが、「フライ・バイ・ワイヤ」に変更しやすいように設計されていた。

先にも書いたようにA300のコクピットは従来型のアナログ式だが、アメリカ機にはない集約性を持たせており、航空機関士の操作パネルを天井側に移設させることも可能であった。

これによって機関士は常に前方を向いて操作で着。かつパイロットへのアシストがしやすいよう工夫されていた。

実はこのシステムは「2人乗務」を前提に開発されたもので、「FFCC(Foward Facing Crew Cockpit」と呼ばれる。

このシステムを搭載した機体は、テスト飛行で世界初の2人乗務ワイドボディ機として記録されており、実はB767が最初ではなかったのである。

このFFCC仕様のB4は、フィン・エアとインドネシアのガルーダ航空が発注し、さらに数社からの受注を得た他、既存の機体を改修したものも存在する。

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1-1-1-1H A300-B4-203FF-Qeshm_Air.jpg ↑(4枚)B767より先に「2人乗務化」を実現した「B4-200FF」。アナログ式のコクピットではあったが、システムを統合することで、設計段階から2人乗務が考慮されていた。純アナログコクピットのワイドボディ機では、この「200FF」が唯一の2人乗務機である。フィン・エアとガルーダ・インドネシア航空が最初に発注した。下はイラン航空が中古で購入した200FFで、4枚目も同じくイラン、ケシェム航空の200FF。現在はラインから外れて「退役」扱いになっているが、いつでも復帰できるよう整備保存されている。そういう意味で、飛行できる貴重な200FFと言える(ウィキペディア英語版より)

すなわちA300の開発段階で、既に現在の「標準」となる「2人乗務の双発ワイドボディ機」を見据えて設計だったのであった。

加えてCF-6-50エンジンとJT-9DエンジンやAPU、エアコンなど一部の部品は、パイロンなどを含めてDC-10と共通だった。

これはDC-10を導入したエアライン、もしくは導入を検討しているエアラインに対して有利な事であった。

ただ唯一の欠点は航続距離の短さで、燃料タンクを増大させたB4-200でも運用ベースだと最大で5,500キロ程度と中距離機の範囲を出なかった。

1-1-1-1H A300-B4-Singapore_Airlines.jpg ↑シンガポール航空のB4。同社にとって最初のエアバス機だった。東南アジアのみならず、アジア線全体で運用され、一時期は日本線に投入された事もある。ただし航続距離の関係で経由便で運航された(ウィキペディア英語版より)

最もそれが同機のコンセプトだった訳だが、ライバルと見ていたDC-10は10,000キロに迫る長距離性能を持つようになっており、エアバスもやはり長距離機は必須であった。

そこで単純ながらも、A300の胴体を短縮し、自重を減らす事で航続距離を伸ばしたのが「A310」だった。

最初こそA300に失笑したアメリカだったが、双発機の安全性と経済性は将来的に必須と見るようになり、その答えがボーイングのB767である。

同機の登場で、双発機による長時間洋上飛行規制「ETOPS」が見直され緩和されることになると、時代は徐々に双発機へ傾いていく。

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1-1-1-1H A300B4-603,_Lufthansa_Ecconomy.jpg ↑DC-10よりやや細い胴体径を持つA300のキャビン。エコノミークラスは2-4-2、8列、上級クラスは2-2-2の6列が標準。このレイアウトは、A330neoが登場した現在まで受け継がれている。画像はルフトハンザ、600アールのビジネスクラスとエコノミークラス(ウィキペディア英語版より)

A310は単に胴体を短縮させただけでなく、エアバスが温めていた発展性を盛り込んだ機体になった。

A310は当初「A300-B10」と言う名称で、あくまでA300のバリエーションとして考えられていたが、「中身」もかなり変更したことから新たなモデルとして「A310」に変更された。

同機は座席数こそ少なくなったが、10,000キロ近い航続距離を持つ事になり、エアバス初の本格的長距離機になった。

同機の新機軸をフィードバックする形で開発されたのが「A300-600」であり、正式には「A300-B4-600」と言う。

「600」の原形機は83年に初飛行し、翌年にはローンチカスタマーのサウディアによって営業運航を開始した。

1-1-1-1H A300B4-620,_Saudia.jpg ↑サウディアのA300-600(ウィキペディア英語版より)

同機の全長は54.8メートル、翼幅は44.8メートルと、全長は僅かに長く、翼幅は同じである。

全長が伸びたのは、A310で開発した空力性を向上させた尾部とやや大型化した尾翼を付けた為だ。

システム・部品ともA310と共通部分を多く持ち、主翼の高揚力装置も簡略化された。

最初の生産型「600」の直後に作られた「600R」は同シリーズのメインモデルで、A310と同じく水平尾翼に燃料タンクが増設されている。

ここの燃料は、消費量に応じて胴体タンクと行き来させて機体のバランスを取るシステムを採用しており、離陸重量の大幅な引き上げに貢献している。

コクピットもA310で実用化された2人乗務機、グラスコクピットが採用され、両機種のライセンスが共通化された。

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1-1-1-1H A310-204,_S7_-_Siberia_Airlines.jpg ↑(2枚)A300初期型のコクピットと、グラスコクピット化された600のコクピット(画像はA310)(ウィキペディア英語版より)

エンジンは「600」ではCF-6-80とJT-9D-7Rに加え、PW4158が指定されたが、「600R」ではJT-9Dが廃止された。

航続距離は「600」で最大約7,000キロ、「600R」で約8,000キロ。

この数値はB767の「「ER」と比べると低い水準だが、A310があったことで割りきった。

外観こそ「初期型」であるA300とほぼ同じであるが、中身のそれは「A310」と同格であり、A300はあくまで中距離機と言うカテゴリーだった。

それでも初期型の比べて、エアラインの反応は高かった。

600は84年、600Rは87年にデビュー。

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1-1-1-1H A300-600R American_Airlines_Main_Cabin.jpg ↑(4枚)600型で、ついにアメリカのメジャーが採用に踏み切った。アメリカン航空は老朽化したDC-10の後継機として600Rを採用。34機を導入した。600型の新造機では最大の導入数で、国内線の他カリブ海諸国や中南米路線で活躍した(ウィキペディア英語版より)

主力となったのはもちろん後発の600Rで、先に書いたように水平尾翼の燃料タンクの他、翼端には整流性を高める為の「ウイング・チップ」が装着された。

今の旅客機では当たり前となったウイングレット・ウイングフェンスだが、標準装備として装着されたのはA300-600Rが最初であった事を忘れてはならない。

操縦システムも初期型をベースに改良され、動翼の一部はフライ・バイ・ワイヤ化された。

胴体と主翼の一部には複合材も用いられ、全体の重量は軽量化された。

ルフトハンザのように初期型から導入し、更新機材として600・600Rを導入したエアラインもあったが、逆に600で初めてA300を運航するエアラインも多かった。

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1-1-1-1H A300-B2K Mahan_Air.jpg ↑(4枚)経済制裁で、機材更新がままならないイランでは、A300は今も貴重な戦力機材。制裁の監視をかいくぐるかのように、世界中から中古機・部品をかき集めている。故にエアラインごと調達するのではなく、国が行い機材を各エアラインに「分配」するシステムが取られている。その為機体の所属は年単位で入れ替わり、かつ古い機体は時間をかけて整備保存・再生させることから、機数は一定しないのが現状だ。少なくとも革命前に導入したボーイング機よりは機齢が若い為、初期型A300も、複数がいつでも復帰できるように保存されている。現時点で初期型の運用は見られないが、600・600Rは20機以上が現役にあると思われる。上からイラン国営航空、メライ航空の600R。マハーン航空の600とB2K。600型ではあるが、翼端のウイングチップがレトロフィットされている(ウィキペディア英語版より)

アメリカでは既にB767がデビューしており、A310に大いに触発されての開発だったが、A300は輸送力重視型としてヨーロッパだけでなく、途上国のエアラインの人気も高かった。

中には長距離用にA310、短中距離用にA300と運用する途上国エアラインも見受けられた。

両機は別機種であるが、パイロットのライセンスは基本的に共通で、メンテナンスも共通部分を持っていたからだ。

1-1-1-1H A300-600RF A7-ABY_Qatar_Cargo.jpg ↑カタール航空の600RF。今でこそ最新鋭機をバンバン飛ばす同社だが、00年代までは小規模の新興エアラインだった。600Rは00年代初期までの主力機で、主にヨーロッパ線で活躍したが、その後貨物機に改造され、近年まで現役にあった(ウィキペディア英語版より)

ただA310と並んで、初期には大きな事故も何度か起こしている。

これは初期型では見られなかった傾向で、その原因の多くは自動化されたシステムの統合製の欠如にあった。

94年に旧名古屋空港で発生したチャイナ・エアラインズ140便事故では、着陸直前にパイロットが意図せず自動操縦のモードを切り替えてしまい、それに気付かず相反する操縦を続けたため、機体は垂直に近い上昇姿勢になって失速・墜落した。

同社は4年後に676便で同様の大事故を起こしており、パイロットの操作ミスに加え、自動操縦装置のフューエルセーフ機能の統合製が欠如していた結果であったとされる。

1-1-1-1H A300-600R-China_Airlines.jpg ↑チャイナ・エアラインズの600R(ウィキペディア英語版より)

エアバス社も緊急時における誤作動を認識していたものの、エアライン側に的確な操作法や装置の改良を徹底していなかった。

また01年に発生したアメリカン航空587便事故では、離陸直後風による揺れに驚いたパイロットが、修正しようとラダーを踏み込んだところ、踏み過ぎてかえって姿勢が変わってしまい失速して墜落した。

これは同機のラダーを操作するペダルが、他機の比べて軽く作られていた事の加え、ラダーの動く範囲も大きく取られていた事が原因だった。

1-1-1-1H A300F4-600 AIR HONGKONG-B-LDG.jpg ↑エア・ホンコンの600RF。現在も日本に飛来する、貴重な現役のA300(ウィキペディア英語版より)

ただし機体自体の欠陥ではなく、一種の特徴であったのだが、パイロットがその「クセ」を周知しておらず、緊急時における訓練も充分されていない事が最も大きな原因だったとされた。

80年代後半から90年代は、A320が急成長した時代で、世界中のエアラインはアメリカ機とともにエアバス機を併用することも多くなっていた。

それはパイロットの移行も増える訳で、アメリカ機とエアバス機の違いが充分浸透していない時期だったとも言える。

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1-1-1-1H A300-600R-C4-Kuwaiti_Government.jpg ↑(2枚)エジプト航空の600RFと、クウェート政府の600R-C4(ウィキペディア英語版より)

600のバリエーションは、貨物型の「F」と貨客両用型の「C」がある。

両社の正式名称は「A300F4-600」「A300C4-600」であり、ややこしい。

一般的には「600F」「600C」などと呼ばれることが多く、どこか自動車の呼称と似ていて、アメリカや日本のそれとは印象が違う。

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1-1-1-1H A300-600R C4 MNG_Airlines.jpg ↑(2枚)トルコ、MNGカーゴの600RFと600R-C4。前者は旅客機から改造機、後者はC4ながら、客室窓を埋めており外観上はRFと同じだ。さらにRFは新造機と改造機が存在し、形式上はどちらも「RF」である(ウィキペディア英語版より)

また旅客型から改造した貨物機も多く存在するが、こちらは「A300B4-600R(F)」が正式名称で、余計ややこしい。

これも基本的には「600RF」と呼ばれるが、新造機・改造機の区別がなく、エアライン側が(F)としている事が多い。

日本では80年に旧東亜国内航空が初期型である「B2K」を受領、日本で初めてエアバス機の運航を開始した。

以前も書いたように、エアバス社は同社にたしするセールスに非常に熱心で、それに感動した東亜側はコーポレートカラーの移譲を懇願。

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1-1-1-1H A300B2K-3C_JAS (JA8464).jpg ↑(2枚)セールスのため世界各地をデモンストレーションで訪れた3号機のB2。デモに合わせて「レインボーカラー」が施された。下は東亜航空時代の80年に導入された初号機「JA8464」(ウィキペディア英語版より)

エアバス側は当初は断ったものの、あまりの熱心さに根負けし移譲することにしたと言う。

最もこのエピソードはエアバス側は否定的で、単なる「使用許可」に過ぎず、カラー自体も大したこだわりがなかっただけとも言う。

事実この後開発されたA330・340の原形機でも、やや色調を変えながらも使用されており、ブルーを基調とした現在のカラーになるのは少し先の事である。

それでも日本初上陸のエアバス機は、当時のメディアを賑わせた。

同機をきっかけに、東亜国内航空のイメージカラーは、それまでの「レッド&グリーン」から、鮮やかな「レインボーカラー」に変更された。

ライン塗装とは言え、レッド・イエロー・オレンジが目立つ塗装は日本初の事で、どこにいても目立つ存在であった。

1-1-1-1H A300-B4C-JAS JA8237.jpg ↑運航実績が好調だった為、日本エアシステム(JAS)に社名を変更した後も増備が続いた。しかし生産は600型に移行したため、B4の増備のいくつかは海外からの中古機で調達した。画像の「JA8237」は元々リビア航空が発注した機体で、アメリカとの紛争が発生したことからフランスに保管されたままになっていた機体だった。しかも同機は貨客両用型の「C」型で、胴体左側前方にカーゴドアがついている。JASでは貨物機として運用したことはない。よく見るとキャビン前方の客室窓の一部がなく、この部分にカーゴドアがある。筆者も同機に何度か搭乗したことがあるが、キャビン内では内装材で保護されていてドアの存在を窺い知ることは出来なかった。600まで通して、日本で唯一運用されたC型である(ウィキペディア英語版より)

国内の規制が緩和され、自由に路線を開設できるようになったことに合わせ、それまでローカル線専門で小型機しか保有していなかった同社にとって、A300は初めての大型ワイドボディ機であった。

当初は幹線の主力機として活躍し、日本航空や全日空と肩を並べる事が出来るようになったが、同時に需要の多いローカル線にも投入された。

ひとえに同機の離着陸性能の良さを充分活かした運用であり、特に北海道や九州では、東京・大阪線の間合い運用で短距離線の運航も多かった。

89年に東亜国内航空は、国際線進出を狙って「日本エアシステム」に改称。

機材も、600Rで増備させた。

A300は東亜時代から非常に優秀で、大きなトラブル・事故もなく、定時運行率も高い機体だった。

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1-1-1-1H A300-600R JAS_JA8562.jpg ↑(3枚)初期型に代わって、22機が導入されたJASの600R。国内線は元より、韓国線や中国線など近距離国際線でも活躍した。それに合わせ、同社のA300として初めて2クラス制を採用した。国内線機材も「スーパーシート」として運用され、同社の主力機に成長した。下は飲料メーカーとコラボ企画で実現した「ポカリスウェット号」。実は日本で最初のアドカラー機でもある(ウィキペディア英語版より)

80年代後半には初期型の製造は停止され、600に移行していたが、海外から程度の良い中古機を探して導入までするほど気に入っていた。

初期型は合計17機が導入され、うち9機が「B2K」、8機が「B4-200」だった。

一方「600R」は90年代にかけて22機が導入され、国内線は元より国際線機材としても運用されるマルチ機材であった。

97年にはB777の導入が開始されたが、同機は完全な国内幹線用で、A300の方が活躍範囲は広かった。

日本エアシステムは00年代末、日本航空と統合することで消滅したが、初期型はそれ以前に退役したものの、600Rは継承された。

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1-1-1-1H A300-600R JAL JA8529.jpg ↑(2枚)日本航空と統合後、しばらくはJALのロゴを入れて日本エアシステムのフルカラーで運航された600Rだが、完全統合後は統合に合わせて採用された新塗装「アーク」に変更した。経営不振による再編で退役を余儀なくされたが、11年まで現役に留まり、初期型から約30年間、一度も重大事故を起こさなかった(ウィキペディア英語版より)

最も経営破綻による再編で、まだまだ寿命があるにもかかわらず整理という名目で退役を余儀なくされたが、その直前に発生した東日本大震災による輸送力補強のために、急きょ退役を延期したと言うエピソードを残した。

「if」を言っても仕方ないが、経営不振さえなければもう少し活躍できたであろうし、退役から約10年後には「A350」が導入された事は皮肉にも思える。

本体である日本航空は、A350までエアバス機を発注した事は一度もなく、日本エアシステムのA300が最初で最後だったからだ。

昔は半官半民のフラッグキャリアだったせいで、アメリカ機オンリーだったことが尾を引いていたと言えるが、A300自体は当然のように整理していたのだ。

日本航空機として活躍した期間は短かったが、相変わらず定時運航率に優れた機体だった。

日本エアシステム時代は、エアバス社から「優秀ユーザー」として表彰を受けたほどで、日本の空に良く馴染む旅客機であった。

1-1-1-1H A300-600RF GALAXY AIRLINES JA01GX.JPG ↑僅か2年で運航を停止したため、すっかり忘れ去られた感が強いギャラクシー・エアラインズの600RF。佐川急便グループが設立した貨物エアラインで、自社貨物専用として運航を開始したが、コストが膨らみ継続できなかった。2機が導入されたが、いずれも中古機だが、日本で運用された唯一のRFである(ウィキペディア英語版より)

何よりも、現在標準となった旅客機の形態を、いち早く実現したのがA300であることを、意外と忘れられているように思う。

後発のA330、そして4発機のA340は、いずれも胴体はA300と同じ意匠の物であり、A350はエアバスにとって「2種類目」のワイドボディである。

故に「XWB(エクストラ・ワイドボディ)」と言う別名を持つ。

言いかえれば、現時点でもエアバスのワイドボディはA300が「基本形」であると言う事だ。

真円形の胴体によって、広いキャビンと大きな容積を持つ床下貨物室を持ち、空力性を重視した高い離着陸性能、最大で400席に迫る輸送力、高い経済性と環境性。

1-1-1-1H A300-600R(F)-EAT_Leipzig,_D-AEAR,_JA8566.jpg

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1-1-1-1H A300B4-622R(F)_EAT JA8566.jpg ↑(3枚)DHLの受託運航を行うヨーロピアン・エア・トランスポート・ライプツィヒの600RF。EATはグループ全体で30機以上の600RFを現役で運用中。元JAS・日本航空の600Rを導入し改造している事でも知られ、上は元JA8566、中は元JA8564だ。下は一目で日本航空とわかる元JA8566で、貨物機に改造された直後、塗装変更されないまま営業運航した時の画像。白色ボディのままなので、改造箇所がよくわかる(ウィキペディア英語版より)

そして世界初の「2人乗務のワイドボディ機」と言う称号を持つのに、知名度が低いのはどうした訳だろう。

さすがにB787やA350程の能力は持っていないものの、開発時期を考慮すれば「今」を見越した、それは恐ろしいまでの先見性を持っていた機体なのである。

00年代初めに製造は中止されてしまったが、現時点でもまだ現役で残る機体は多い。

そのほとんどは貨物機であるが、フェデックス・UPS、ヨーロピアン・トランスポートなど大手貨物エアラインは、未だ数十機のA300を運用中だ。

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1-1-1-1H A300B4-622RF FEDEX N742FD.jpg ↑(2枚)現時点で最も多くのA300を運用するフェデックス。同社は42機も新造機のRFを導入したが、その後も中古改造機で頻繁に入れ替えを行っており、今も70機以上を保有している。今のところ退役の予定はない(ウィキペディア英語版より)

いずれも新造機での導入より、旅客機を改造した中古機が圧倒的に多い。

フェデックスでは、リースによって安価で導入し、期間を迎えた機体は退役させているが、入れ替わりに新たな機体を次々導入しており、具体的な退役計画はない。

旅客機としては減少の一途を辿っているが、イランなどではまだ現役としてまとまった数が運用されている。

1-1-1-1H_A300-600R_JAL (JA014D.jpg ↑日本航空の600Rを、上から見たところ(ウィキペディア英語版より)

若い旅客機ファンなどは、既に「双発機」が当たり前であろうが、A300が登場した時には正に「奇異」に見られたのである。

50年経った今、世界を飛び回る旅客機の9割は双発機だ。

それ以上に10,000キロをゆうに超える航続距離さえ、双発機はもはや当たり前の時代である。

そう思うと、A300がやけに格好良く、凄い飛行機だったのだな・・・と感慨深いものを抱くのである。

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