7月14日 雨 20℃

雨、雨…。

今日は断続的ではあるが、如何にも梅雨「らしい」シトシト雨が続いた。

梅雨前線上を低気圧が進んでいるため、日中雨足が強まる事もあり、傘を手放せない一日だ。

気温も全く上がらず、5月上旬並み。雨のせいで「湿気寒さ」を感じる。

西日本では今日も大雨が続いて、被害は広島県や島根県などの中国地方に広がっている。

宮城県に雨をもたらしている低気圧は、動きが遅く、明日までまとまった雨量が予想されている。

宮城県は数日前から「低温注意報」が発令されており、雨と相まって農作物への影響が懸念される。

街では「仙台人」の威力が発揮されているようで、半袖姿の人は殆ど見かけない。

今の7月、本来ならば長袖はとうに秋までタンスや押し入れの中…のはずだが、仙台人は全てではないものの、たいてい春物もしくは秋物をいくつか手元に残しておく。

今年は5月のGW辺りから高温傾向で、あくまでも若い女性限定の傾向として(笑)、例年よりも半袖姿になる人が早く、そして多かった。

梅雨入り後も、珍しく気温が高い状態が続いていたから、さすがに皆さん衣服は整理してしまったかな?と思っていた。

大半の人は、こうなる事をちゃんと予測していると言う事だ。

街ではTシャツ一枚で歩いている大学生くらいの子を見かけたが、今日は寒かっただろう。

熱気がこもった我が家も、やっと室温が下がった。

昨日今日はエアコンはもちろん、扇風機も全く必要なかった。

子供達も一枚羽織っている子の方が多い。

今日のような湿気寒さは、つい体調不良にもつながってしまう。

特に夜は、暑い気がして薄着のまま寝てしまい、次の日に風邪…良くあるパターン。

しかもカビや雑菌が繁殖しやすい環境だから、体調を崩しやすいのだ。

だが今年はコロナ禍があり、単なる「夏風邪」で済まされない不安がつきまとう。

体調不良が自己管理不足によるものか、もしかしたら…と考えてしまいそうだ。

今日も全国で新たな感染者は増え、仙台でも濃厚接触者が連日1〜2人出ている。

来週後半はオリンピックを記念した祝日があり、政府は何とかキャンペーンを盛り上げようとしている。

感染者拡大に、自治体は当惑していて、特に地方は「持ち込み」による拡大を懸念している。

政府は「官民一体で予防対策をとり、キャンペーンで旅行して欲しい」と言うが、今いくらキャンペーンで特典つきでも、喜んで旅行する人がいるだろうか。

YouTubeでも、旅行する動画を再開する人が増えている。

もちろん「密」を避け、マスク着用に消毒の励行しているようだから、そのものを批判するつもりはない。

でも今、旅行する理由があるのだろうか?とも思う。

緊急事態宣言中は、県境を越えた移動も自粛され、国民はよく協力した。

そして「経済活動」を理由に大半の規制が解除され、わかってはいるであろうが再び感染者拡大に転じている。

自粛中、いわゆる「ステイホーム」が言われて、メディアでは「お家で楽しく」過ごすアイデアが、連日報道されていたが、日本人はいつから家にいる事が「ストレス」になったのだろう。

確かにそれぞれ家庭の事情はあるだろうが、歓楽街や風俗店での感染者拡大を聞くと、「何故我慢出来ないのだろう」と思う。

お店は経営の為に、それこそ赤字覚悟で精一杯の予防対策をやっている。

にもかかわらず仲間同士、酔った勢いで対策グッズを勝手に避けたり、対面で大声…なるほど、これでは拡大してしまうだろう。

私は「お家に帰ろう。」と言う言葉が、漠然とではあるけれど、子供の頃から好きだ。

私だって、家庭の事情で家にいたくない…と思った事はたくさんある。

そして友人と、時には一人で深夜まで遊び歩き、家族と顔を合わせないように帰った事もある。

外にいれば、面倒くさくない。好きな場所にいれるし、お金があればもっと楽しい。

綺麗で楽しい音楽が流れるお店や街は、そこにいる分には自分を拒否しない。

ずっとこういう所にいたい…と思うのだ。

しかしそうした思いは、何故か長続きしないのである。

家にいたくないはずなのに、必ず恋しくなってしまう。

例え嫌な事があっても、家は自分の「居場所」なのだ…と思うと、憂鬱にもかかわらず家に足が向いてしまうのだ。

ただただ楽しいつもりでぶらついている自分が、ふと凄く虚しく馬鹿げた存在に思えたものだ。

最も人間誰しもそういう時があるし、増して情緒不安定な若い時代はそうだろう。

私も休みと言うと、とにかく友人と出かけてばかりで、「二言目には友達、友達って!たまには家族と過ごせないのか!」と、よく祖母に言われたものだ。

その時は「ばあちゃんなんかに気持ちがわかるものか、家族より友達が大事だ!」なんて、自分を正当化していた。

もちろん今も若い人に、友人は大切な存在だろうから、つきあうなと言うつもりは毛頭ない。

家族は家族、友達は友達とメリハリつければ良いだけの事だ。

だが最近は、その親世代が「家にいるとストレス」だ、というからわからない。

まあ、奥様・お母さんの立場ならば、「亭主と子供は元気で留守が良い」が本音かも知れない。

しかしコロナ禍では、旦那さんや一人暮らしの人が「ステイホーム」がストレスと主張する。

例え一間の安アパートでも、それは自分を守ってくれる存在である。

社会的ルールの尊守は当然だが、自宅は自分の「城」。

好きなように過ごせる、ただ一つの場所だろう。

それだけではない。家族がいるから「家」なのであり、「一つ屋根の下」にいられる幸せを、当たり前に思ってはいけないのだ。

「ステイホーム」で、家族の絆が深まった…という素敵な家族もたくさんいる。

外で遊び、飲んだり食べて楽しむ事は悪い訳ではない。

でも規制緩和を、自分流に解釈し、コロナ禍を既に人事のように振る舞うのはまだ早い。

ガッチリの自粛はせずとも、各々がちょっとだけの自粛を意識して欲しい。

政府はまた給付金を出したくないからか、人が集まるものの再開を奨励しているのはおかしい。

だが国民が少し遠慮するのも、今こそ必要ではないか。

辛いけれど、毎年楽しみにしていた旅行やイベントは、一年間我慢して何の損になろうか。

事態が明らかに好転したら、今年の分も倍楽しめば良いではないか。

とは言え、私だって旅行に行きたいとも思う。

個人的事情で、この何年かどこへも行けない状態が続いている。

今年になって、そろそろ良いかな・・と思った矢先にコロナ禍だ。

特に「古代史」研究のために、奈良県を中心にどうしても現地に行かなくてはならないこともあった。

最も今の時点でも、交通機関はまだ臨時運航の域を出ていないし、ならでは寺院の拝観や見学もまだ通常に戻っていない。

感染者拡大は「第二波」と思って良いだろうし、少なくとも夏が終わるまでは「様子見」した方が良いと思っている。

だが裏腹に、世間が勇み足してぶち壊しさせたら本末転倒。

何処かへ行きたいという気持ちは誰もが持っているけれど、この夏は考え方を変えコロナに負けないような楽しみ方を「皆」で考えたら良いな・・と思う。



夜も細かい雨が続く。

本降りではないけれど、時々ザッと強くなったかと思うとふと止んだり。

肌寒さは今週いっぱい、梅雨空は「当分」続きそう。

この時期適度の雨が降らないと、夏場の水、秋の収穫に影響を与えるから仕方ないけれど、こんなに大雨が長いのは行き過ぎだ。

気象庁も、来週以降は梅雨明けに向かって動く可能性を指摘しつつ、「全く予想できない」を繰り返している。

梅雨前線を消す太平洋高気圧が、どうしても安定せず、今後もその傾向が続きそうだと言う。

傘を差す事が、こんなにも重くて面倒だとは、今更ながら一人ボヤいでいる。


元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

肌寒い日が続いていますが、大丈夫ですか?

人は勝手なもので、こう言う日々が続くと、暑くても良いからスカッとした青空が見たいと思ってしまいます。

君は夏が好きだったでしょうか?

いずれ夏空は見られると思いますが、異常気象の多い今、どうなるか分かりません。

憂鬱ですが、雨もまた季節として受け入れるしかないようです。

明日明後日は、再び雨の予報が出ていますので、外出の際には充分気をつけて下さい。

無意識に身体が冷えている場合もあるので、体調管理にも注意して下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




雨障(あまざわり) 常する君は ひさかたの 昨夜の雨に 懲りにけむかも(万葉集巻四 519 大伴女郎)

飛行機ネタ 忘れられない基本形、B767-200(7月12日 雨 21℃)

やっと…と言ったら誤解されそうだが、「仙台らしい梅雨」の日曜日だ。

せっかくの日曜日、終日シトシト雨が続き、小康状態になったのは夕方以降だ。

それでもご近所は朝こそドタバタしていたけれど、日中はシンとしていたから外出していたのだろう。

ずっと梅雨空が続いているが、今日は冷たい海風が入った為に気温は上がらず、最低気温は18℃、最高気温は21℃に留まった。

早朝5時頃外を見たら、視界は霧雨で真っ白。

300メートルくらいしかなかったのではないか。

昨日までは南風の影響で、雨が降りながらも27〜8℃程度もあって非常に蒸し暑かったが、今日は一息つけた感じだ。

だがいつも言う通り、我が家はここしばらくの高温多湿状態が保たれたままで、とにかく暑くて困る。

窓を開けても無風状態で、夜の寝苦しさと言ったらない。

本格的夏の到来に備えて、エアコンは極力控えているのだが、2〜3時間は我慢出来ずに使ってしまう。

でも今日は雨なれど、窓からヒンヤリした空気が入って来て、室温もようやく下がった。

冬場は暖房がいらないくらい暖かいが、夏場は熱がこもっていつまでも冷めないから困る。

狭いからキッチンでの調理熱が、換気扇を使っても全体の温度を上げてしまう。

下手すると、家の中より外の方が涼しい事もある。

今年は記録的暖冬だったせいで、虫が多いらしい。

虫の越冬環境が良かったから、蚊やブヨなどの発生数が多いと言う。

我が家は3階で、窓には網戸があるので虫の侵入は少ないのだけど、一戸建てに住む人や周囲に草藪など草木が多い環境に住む人は、悩まされるかも。

最も今日のような「ヤマセ」の影響で、梅雨明けしない夏になれば心配ないが、それはそれで困りものだ。

加えて今年はコロナ禍という、目に見えない厄介者がつきまとっている。

市内では今日も新たに二人の感染者が確認され、総数は106人になった。

いずれも1〜20代の若者で、再び拡大が止まらない東京と同じ傾向だ。

しかも旅行や遊びで東京へ行き、「貰って」来るケースが多い。

仕事や就活、家族の都合で行き来するのは仕方ないが、規制解除イコール終息でないことは、子供でもわかっているはず。

叩きたくはないが、首都圏の状況はわからないはずがなく、どうして我慢出来ないのか理解に苦しむ。

もちろん若者だけではなく、大人もそうだ。

例えば呑み屋さんや風俗店は、それこそコスト割れ覚悟で感染対策しつつ影響を再開した。

ところが肝心の客の方が、ウイルスを撒き散らしている。

お店が苦心して「ソーシャルディスタンス」を促しても、だんだんアルコールが回って来ると面倒くさいのか、守らなくなる客が多いそう。

まさに本末転倒だし、万が一感染者が出たら、名指しで悪者にされるのはお店だ。

県内の新たな感染者は、幸いな事に家族を含めた濃厚接触者への感染が少ない。

0ではないが、「クラスター感染」は減っているように見える。

面倒くさいし大変な事は理解出来るが、完全なコロナ対策が構築するまでは、それこそ「新しい生活様式」をお互いにしながら、普段の生活に慣れて行くしかない。

海外と違って、日本人は「自粛」「要請」で一通りを乗り切った。

アメリカを見ればわかる。

いくらかの落ち着きに規制を緩和した途端、カリフォルニアやフロリダのビーチには人で溢れ、「密」はもちろん、マスクや消毒さえしない人ばかりだ。


当然感染者が増えて、慌てた州政府は再び規制したが、人々は「自分が感染するとは思わない。ここがダメなら別のビーチに行く。」という認識らしい。

これを聞いた州知事は「炎上」覚悟で、「君達はバカか、コロナは全く衰えていないのだ。」と呆れ返ったコメントを出した。

爆発的拡大したフランスでも、首都パリを中心に罰則を伴う「ロックダウン」を行ったが、その理由として、マクロン大統領は「個人主義的な国民性は理解していたつもりだが、ここまで身勝手で、協力しあおうとしないとは思わなかった。」と嘆いた。

さすがにこれは効いたようで、フランスを含めたヨーロッパ各国は落ち着きを見せている。

その点、普段から自然災害が日常的な日本人は、仕方ないと思っても自然と協力しあう性質を古来から受け継いでいる。

しかし半端な個人主義が浸透して、全体像を見渡して判断出来ない人が増えているように思えてならない。

欲望ばかり優先させて、「待てよ、大丈夫だろうか?」と客観視出来ない人は確実に多い。

正直者は損すると思うのかも知れないが、結果的に「勝利」するのは正直者だ。

これまで経験した事のない経済自粛を体験した事を、「財産」と「教訓」にしなければならない。

日本人には、それが出来るのだから。



飛行機ネタ。

ボーイング767が日本にデビューしてから、間もなく40年を迎える。

初めて採用したのは全日空で、就航したのは83年だから、間もなくと言っても3年後の事ではあるが。

でも今更ながら考えると、それは驚き以外何物でもない。

1A14 ANA B767-200 JA8342.jpg ←日本初の「ハイテク機」として、83年にデビューした全日空のB767-200(ウィキペディア英語版より)

これまで日本のエアラインで長い間就航したのは、B747とB737がある。

前者は日本航空が70年にデビューさせ、15年に全日空で引退したから、足かけ45年間だった(旅客機として)。

B737は、全日空が68年から就航し、現在も同社の他、日本航空、日本トランスオーシャン航空、ソラシドエア、スプリングエアラインズ(春秋航空日本)で活躍中で、既に半世紀を超えている。

しかしファン的視線からすれば、両者の運用期間は長いものの、いずれも「世代交代」しながらの長期間運用であると言う事だ。

即ちどちらも、初期導入機と現役機は、何度もモデルチェンジした「新しい機体」であり、シリーズが同じだけで全く別物である。

外観こそ継承しているが、中身は完全な別物と言って良い。

しかしながらB767は、善くも悪くも40年近く、外観はもちろん、中身もほとんど変化がないのは驚きの事実と言える。

もちろんキャビンは、時代に合わせて何度かリニューアルされているし、新たなサービスもどんどん追加されている。

だが機体そのものの形態やメカニズムは、80年代からほとんど変わっていないのもまた、紛れもない事実だ。

日本にB767が到着したのは83年(昭和58年)春の事で、夏スケジュールから運用が開始された。

全日空では79年に国内線用機材として、導入を決定した。

実際にはボーイングが提案した、全く新しい中型機の計画に、日本は各航空関連メーカーが立ちあげた合同企業体で参加を予定していた。

当時航空法に定められた「46・47体制」の終了を控え、多くの点で規制されていた国内エアラインの門戸が開かれようとしていた時代である。

この開発計画に積極的だったのが全日空で、国内線の主力機だった「トライスター」とB727に変わる後継機種を望んでいた。

B767の開発経緯はこれまで何度か書かせてもらっているので、今回は割愛するが、同機は日本のメーカーが初めて「生産分担」としてジェット旅客機の生産に携わるチャンスをもたらせた機体でもあった。

全日空は最初の生産型である「B767-200」を、確定25機・オプション15機、合計40機を発注していた。

もちろん同社では、初めての一括大量発注でもあった。

1A14 ANA_B767-281 JA8238_KIX_11JAN99_(6741776739).jpg

1A14 ANA_B767-281_(JA8244_23146_121)_(5679722011).jpg ←(2枚)25機も導入されたB767-200は、全国の空港に定期就航した最初のワイドボディ機でもある(ウィキペディア英語版より)

80年代後半になると、胴体を延長し座席数を増加させた「300」が生産開始したため、オプション15機は「300」の発注に切り替えられた。

だが83年の初号機以来、200型は87年までの約4年間で25機全てを受領した。

年間5~6機と言うペースは、ワイドボディ機として当時は異常とも言うべき早さと多さだった。

全日空の200型は国内線専用機で、オール普通席234席。

これは退役した00年代初頭まで、一貫して変わらなかった。

座席は767独特の2-3-2の7列配置だが、当時日本航空が幹線に投入していたDC-8-61とほぼ同数である(244席)。

70年代後半には、既に日本航空・全日空とも国内線用のB747SRやDC-10、トライスターを導入し、300~500席級として増加し続ける航空需要に対応していた。

DC-8は4発ナローボディ機で、747の補完的役割になっていたが、ほぼ同数の座席数でエンジンは半分の双発・・と言うのはインパクトが強かった。

何よりも多数の座席は、大型ワイドボディ機だけの「特権」であって、それは3・4発と言う多発機の分野だと思われていたからだ。

B767派「最初のハイテク機」として大いに宣伝されたが、コクピットを従来のアナログ計器からCRTのデジタル表示に変えた最初の旅客機である。

ただし現在のように、全ての計器がデジタル化されたのではなく、一部のアナログ計器が残されている。

またCRTも、現在のような液晶ディスプレイではなく、ブラウン管である。

1A5-B767-300ER_flight_deck.jpg ←世界で最初に実用化されたB767のグラスコクピット(ウィキペディア英語版より)

それでもコンピューターとの併用で、特にエンジン関係の計器は大幅に削減・集約され、パイロットのワークロードも激減した。

これについては、開発当初ローンチユーザーだったユナイテッド航空やアメリカン航空の労組から猛反発を食らい、FAA(連邦航空局)も良い顔をしなかった。

ボーイングは操縦機器のデジタル化によって、ワイドボディ機でも航空機関士を排した「2人乗務」が可能としたからである。

エアラインが反発したのは、航空機関士職が削減されることだったが、FAAは安全上の理由も挙げていた。

ボーイングは頑として対抗したが、大手クライアントが開いてだったこと、FAAには充分な説明の上納得に導いたが、労組の反発はなおも強かった。

1A14-B767-222,_United_Airlines_AN1083056.jpg

1A14 AMERCAN_B767-200;_N315AA@ZRH;02.10.1995_(8352839635).jpg

1A14-Delta_Air_Lines_B767-232;_N113DA@LAS;01.08.1995_(5445473642).jpg ←(3枚)ローンチユーザーとして最初にB767が納入されたユナイテッド航空、アメリカン航空、デルタ航空(ウィキペディア英語版より)

ボーイングは止む無く「折衷案」として、機関士を乗せる「3人乗務」もオプションで可能にした。

81年に初飛行した原形機は、パイロット席の後方に航法士席と操作パネルが設置された状態で完成した。

しかしテスト飛行が順調で、予想以上の性能が証明されたことから、82年に初号機を受け取ったユナイテッド航空は2人乗務を承諾している。

反対していたアメリカン航空やデルタ航空も、結局2人乗務を受け入れることになって、「3人乗務機」は実現しなかった。

唯一オーストラリアのアンセット・オーストラリア航空が、3人乗務機として少数を導入したが、後に2人乗務機に改修された。

1A14_Ansett_Australia_B767-277;_VH-RME@SYD;11.09.1999_(5016109365).jpg ←3人乗務機でB767-200を受領したアンセット・オーストラリア航空(ウィキペディア英語版より)

全日空が同機をデビューさせたのは大阪・伊丹~松山と仙台線だった。

松山線は30分程度の超短距離路線だったが、当時はまだ本四連絡橋が開通しておらず、航空需要の高い路線だった。

同時に最新鋭機は、東京主体の幹線ではなく、大都市圏と地方を結ぶ亜幹線での運用が可能になったことを証明した。

B767の機体重量は約100トンで、国内線ならば2,000メートル級の滑走路での運用が可能であった。

一方DC-10/トライスターだと2,500メートル級、B747SRでは3,000メートル級が必要だった。

なので2,000メートル級が多かった地方空港でのジェット便は、B727・737、DC-9などの小型ナローボディ機に限られており、需要の少ない路線だとYS-11と言ったプロペラ機が常識だった。

そこへ「セミ・ワイドボディ」とは言え、一応は「通路2本」のワイドボディ機が就航できるようになったのだから、これは革命的なことだったのだ。

亜幹線では座席供給量が飛躍的に増加するとともに、利用率も増加した。

当初は大阪をベースにして運用されたが、機数が増えるとともに東京発着の路線にも投入され、全国各地へ飛ぶようになっていった。

1A14-JAL_B767-200_Groves.jpg ←3機の導入に留まった日本航空のB767-200(ウィキペディア英語版より)

日本航空は当初、200を4機、まだ開発中だった航続距離延長型の「200ER」を2機発注していたが、胴体延長型である300型をローンチしたことで200型1機とERは300型へ変更。

全日空よりも半年ほど遅れて最初の200型が到着し、合計3機だけの導入に留まった。

日本航空は老朽化していた国内線用のDC-8-61の後継機として767を選択したが、座席数はやや少ないことから300型を望んでいた。

ボーイングでは200型と同時進行で開発していたが、初期の200型はなかなか受注が伸びなかったため、300型の開発は後回しになっていた。

ヨーロッパでは一足先にエアバスの処女作「A300」がデビューしていたが。まだ「双発ワイドボディ機」の信頼度が低かったからだ。

ただライバルである全日空が大量発注していたこともあって、767自体のデビューは出遅れないように、まずは200型を発注したと言える。

300型は同社が最初のローンチユーザーであり、具体化したことから、DC-8の後継機種に決定し、3機の200型は全く新しいカテゴリーの機種として運用を開始した。

1A14 JAL_B767-200_fukuoka_20041228142340.jpg

1A14-JAL B767-246,_Japan_Airlines_-_JAL_AN1603037.jpg

1A14 JAL_B767-200_fukuoka_20040926152926.jpg ←僅か3機ながら歴代塗装を施した日本航空のB767-200(ウィキペディア英語版より)

日本航空の200型は、機数が少ないことから地味な存在に見えるが、300型に比べて運用は特殊だった。

当初座席数は219席と、全日空機よりも2列分少なかった。

これは国際線に対応するために、ギャレーやトイレの数を増やしたためである。

たった3機ではあったが、その運用方法は全日空とは対照的。

「内外両用機」として、国内線・国際線双方を交互に運用した。

日本の旅客機は、国交省からの許可をもらって飛んでいるが、それには個々の機体ごとの許可証が必要である。

国内線を飛ぶ場合には「内航機」、国際線を飛ぶ場合は「外航機」として許可証を必ずキャビンの指定された場所に掲示しなければならない。

これは外航機の場合、搭載する燃料やサービス用の食品、貨物が課税の対象となるためである。

国内空港では、担当者立会いのもとで「内外変更」は可能なので、日本航空のB767-200は複雑な運用が行われた。

基本的には韓国線などの近距離国際線に投入されたが、間合い運用で国内線も運航したのである。

時には午前中にソウルまで往復し、午後国内線を往復するなど行ったり来たりの激しい運用であった。

それは同機がどちらでも対応できる性質を持っていたからで、効率と言う点でも新しいやり方の先駆けになった。

1A14-Japan_Transocean_Air_B767-200_tyo.jpg ←日本トランスオーシャン航空へウェットリースされたB767-200(ウィキペディア英語版より)

90年代になると、国内ではこれまで考えられなかった路線が各社によって開拓される時代を迎えたが、大阪や名古屋初の新規路線に同機が充当されることが多かった。

また短期間ではあったが、グループ会社で社名を変更したばかりの日本トランスオーシャン航空にリースされ、同社のフルカラーになって東京~沖縄間の直行便に充当された。

季節限定だったが、パイロットは日本航空、客室乗務員は双方の乗務員で運航した。

90年代末になると、国内線は300型やB737が中心になったことから、国際線専用に変化し、キャビンもビジネスクラスを設置した2クラス制に変更された。

だが繁忙期には、再び間合い運用で国内線で運航することも多く、その時のビジネスクラスは「スーパーシート」として運航している。

25機運用した全日空と、僅か3機の日本航空は対照的で、全日空機は00年代前半に退役するまでほぼ国内線だけの運用を貫いた。

また現行塗装である「トリトンブルー」は、B767-200の導入に合わせて決定されたもので、同機に旧塗装の「モヒカンルック」の時代はない。

90年代に流行した特別塗装も、一度も施されたことがないと言う珍しい機体でもある。

胴体ロゴも300型と違い、退役まで一貫して漢字タイトルだけで、300型で見られた欧文タイトルや現行の「ANA」ロゴになった機体もない。

キャビンも20年間変更がなく、配置も20年以上変化がなかった。

変わった事と言えば、晩年退役間近になって、当時新興エアラインだったスカイマークと北海道国際航空(現エア・ドゥ)にリースされたことぐらい。

どちらも1~2年と言う短期間のリースだったが、双方のフルカラーに変更されての運用であった。

1A14 AIR DO-B767-281_JA8251.jpg ←北海道国際航空(現エア・ドゥ)にリースされた全日空のB767-200(ウィキペディア英語版より)

一方日本航空の200型は、導入当初は「レッド&ブルー鶴丸」塗装、その後の「ランドー」(ランドーアソシエイツデザイン)、そして「太陽アーク」塗装と、3代の塗装を経験し、上記のようにJTA塗装になったこともある。

特別塗装はなかったが、3機しかないのに4種類の塗装を経験したことになる。

退役も全日空より後の、00年代末であった。

日本では長距離型の「200ER」は幻に終わったが、これは300ERが登場したからである。

両者とも中距離以上の国際線は大型ワイドボディ機の独壇場であり、300ERも基本的には現在まで中距離運用が主体である。

「通常型」の200だと、航続距離は最大で7,500キロ程度。日本のエアラインでは3,000キロ程度にして機体重量を軽く押さえていた。

これは空港使用料が重量によって変わる事の他、国内線専用機なので燃料は最低限で充分だったからだ。

軽い方が離着陸性能が良くなるし、燃費も良い。それでいて200席以上の輸送力と言うのは、日本の航空需要にぴったりだったと言える。

しかし海外では、アメリカ製としては初の「ワイドボディ双発機」であり、経済性が有効だとわかると長距離性能を求めるエアラインが増加した。

1A14 AIR NEWZEALAND-B767-219-ER,_Air_New_Zealand_AN0367693.jpg

1A14 QANTAS_B767-238ER_Qantas_SYD_05JAN99_(6762974775).jpg ←(2枚)10,000キロ以上の航続力を持つB767-200ER。長距離路線が多いニュージーランド航空やカンタス航空が初期に導入した(ウィキペディア英語版より)

最初こそ受注が伸びなかったが、信頼性が確かめられたことで見直されたと言う事である。

アメリカのメジャーでは、主に大陸横断便やカナダ・中米・カリブ諸国などの近距離国際線向け機材として、姉妹機のB757と共に重宝されたが、同じ機体奈良航続性能が良い方がよりメリットがあるとして大手も「ER」に動いた。

「200ER」は主翼中央部と床下貨物室の一部を燃料タンクとしたタイプで、2クラス200席前後で約12,000キロの航続力を持っていた。

1A14-AIRCHINA B767-2J6-ER,_Air_China_AN0193521.jpg ←中国国際航空のB767-200ER。日本線にも投入された(ウィキペディア英語版より)

しかし当時はまだ双発機の洋上飛行には、「ETOPS」と言う規制があり、B767は「ETOPS60」に従う必要があった。

最もヨーロッパやアフリカ、ユーラシア大陸ではその規制は対象にならないので、「200ER」が具体化すると受注が相次いだ。

「ER」がデビューすると、特に中小国のエアラインを中心に売れて生産自体も殆どこちらに振り向けられた。

80年代半ばになると、イスラエルのフラッグキャリア、エルアル航空が北米線に同機を投入した。

B767では最初の大西洋横断飛行で、「ETOPS60」をクリアするために経由地を使い大西洋の北側を飛行すると言う少し遠回りコースを取ったが、B747による直行便よりも運賃を少し安くすることで人気が出る路線となった。

1A14 ELAL_B767-258ER_El_Al_GVA_29AUG99_(6695328403).jpg

1A14-B767-258-ER,_El_Al_Israel_Airlines_AN0167054.jpg

1A14_EL_AL_Israel_Airlines_B767-200ER(2151014041).jpg ←(3枚)最初に大西洋横断路線にB767-200ERをと投入したエルアル・イスラエル航空(ウィキペディア英語版より)

やや遅れてアメリカのメジャーであったTWAもアメリカ東海岸とヨーロッパを結ぶ路線にB767-200ERを投入し、充分すぎる航続力と適度の座席数が効率良い運用になることを証明した。

これをきっかけに双発機の洋上飛行規制「ETOPS」の基準が見直されることになり、機種ではなく個体ごと基準をクリアして規制が緩和されることになる。

1A14-Trans_World_B767-231ER.jpg

1A14 TWA-B767-231(ER),_Trans_World_Airlines_-_TWA_AN0215833.jpg

1A14-B767-231(ER),_Trans_World_Airlines_-_TWA_AN1398079.jpg ←(3枚)ETOPS緩和に貢献したTWAのB767-200ER(ウィキペディア英語版より)

それは一気に流れることになり、B767-200ERは段階的に「ETOPS90」「ETOPS120」に改正され、300ERでは180まで延長された。

ETOPSとはエンジンが故障して緊急着陸が必要となった場合、ルート上に避難できる空港が「60」ならば1時間以内に必ずあるルートを飛ぶ、と言う事。

従来の「60分」では、大西洋や太平洋では飛べないエリアが出てしまうが、120分であれば世界の7割以上が対象になる。

21世紀の今こそB777/787、A350などは「ETOPS300」など事実上規制はない状態まで発展したが、そのきっかけを達成したのはほかならぬB767-200ERだったのである。

以後上記のような双発機全盛の時代が到来し、長距離機=多発機と言う概念は見事なまでに打ち砕かれて行くのであった。

1A14-B767-204,_Britannia_Airways_JP6025199.jpg ←イギリスで最初にB767を導入したブリタニア航空(ウィキペディア英語版より)

B767-200では、エンジンはGE製「CF-6」とP&W製「JT-9D」及び「PW4000」が選択できたが、「200ER」では「ロールスロイスRB211」が加えられ、事実上4種類のエンジンが用意された。

最も「PW4000」は「JT-9」の 発展・改良型で、200型で採用したエアラインはない。「RB211」は「ER」のみで選択できたが、これも採用したエアラインはない。

「PW4000」と「RB211」は、300型用に用意されたエンジンであり、主翼構造が共通なので選択可能とされたが、この時には200型の受注は殆ど止まっていた。

日本では全日空がCF-6を、日本航空がJT-9Dを選択し、エンジンでも対照的だった。

前者はB747SRで同じCF-6を採用していた琴、後者もB747とDC-10でJT-9Dを使っていたから当然の選択でもあった。

B767-200/200ERは249機が生産され、通常型の200が128機、ERが121機だった。

1A14_Maxjet_B767-238ER_N250MY_(2132957237).jpg

1A14-MAXjet_Airways_B767-200ER_cabin_interior.jpg ←(2枚)中古のB767-200ERをオールビジネスクラスで運航して話題になったMAXジェットとキャビン(ウィキペディア英語版より)

このうち通常型はアメリカメジャーが7割近くを占め、ERは世界中のエアラインで採用された。

日本では需要の高まりと、同機の経済性から座席数の多い300型へシフトし、200ERは最後まで導入されることはなかった。

現在200型は、世界で70~80機前後が現役にあると思われる。

ただコロナ禍の影響や、国内事情が複雑な国のエアラインも含まれており、その動向は不明なことが多い。

同機は00年初期に生産が停止しているので、最も機齢の若い機体でも20年経ている。

1A14-Kam_Air_B767-200ER_KvW-2.jpg ←アフガニスタンのカーム・エアが保有するB767-200ERは、現時点で現役は確認されていないが、首都カーブル空港で駐機されている謎めいた機体(ウィキペディア英語版より)

一方300型はこれまで1,000機以上生産され、700機前後が現役にある。

残存する200型のうち、少なくとも50機以上は貨物機。

200型では新造機としての貨物機はなく、全て旅客機を改造した機体で「200SF」もしくは「200BDSF」と呼ばれる。

日本で有名なのはアメリカの中堅貨物エアライン「ABXエア」(当初はエアボーン・エクスプレス)で、同社は元全日空のB767-200を25機全機引き取り改造し運用した。

同社は現在も11機のB767-200BDSFを保有しているが、殆どは元デルタ航空などアメリカのエアライン機。

1A14_ABX_B767-200F_on_final_for_R-W16R._(5485025363).jpg

1A14-ABX_Air_B767-281F;_N797AX@MIA;17.10.2011_626dx_(6446873987).jpg ←(2枚)元全日空機も保有するABXエアのB767-200BDSF。00年代には日本航空と提携運航を実施している(ウィキペディア英語版より)

確認出来る元全日空機は2機程度で、他は退役したようだ。

ABXエアは、00年代の一時期、貨物便の自社運航を止めた日本航空と提携し、主にアジア線を定期運航していた時期もあった。

機体にはJALのロゴが書かれており、元全日空機が「里帰り」したこともある。

だが旅客機として200型を運用するエアラインも、辛うじてと言う程度だが存在する。

確認できるのは6社で、アメリカのチャーターエアライン、オムニ・インターナショナルが3機、イースタン航空が4機在籍している。

1A14 OMNI B767-200ER-N225AX@YVR_26Oct19.jpg

1A14_Omni_Air_International_B767-224(ER)_-_cn_30438_-_845_(28192126642).jpg

1A5-OmniAirInternational B767-200ER EconomyCabinFebruary2020.jpg ←(3枚)オムニ・インターナショナルで現役のB767-200ERとキャビン(ウィキペディア英語版より)

前者はツアーの他、米軍関係のチャーターも行うエアラインで、日本にも良く飛来している。

後者は、以前はダイナミック・エアと言うチャーターエアラインが保有していた機体で、同社を買収したことで保有した767である。

70~80年代に存在したイースタン航空とは別会社で、近年では三菱重工の「スペースジェット」を発注したことでも知られる(その後同社を買収したスイフト・エアがキャンセルした)。

双方とも、他の機種と共にチャーター機材として現役にある。

1A14-Dynamic_Airways_B767-233_N770JM.jpg

1A14-Dynamic_N767DA_B767-200_JA8232 (24232845695).jpg

1A14-Eastern_Airlines_B767-200ER_N605KW.jpg ←(3枚)ダイナミック・エアウェイズとイースタン航空のB767-200/200ER(ウィキペディア英語版より)

この他南部アフリカ、ジンバブエのエア・ジンバブエが1機、ヨルダンのチャーターエアライン、ヨルダン・アビエーションが2機、ロシアの民間エアライン「UTエア」が3機保有している。

貨物機では、上記のABXエアの他、同じくアメリカの「アメリジェット」と「ATI」、ヨーロッパではベルギーの「ASL」とスウェーデンの「ウエストアトランティック航空」、カナダの「カーゴジェット」、メキシコの「エアロウニオン」が保有していることになっている。

デンマークに籍を置く「スターエアラインズ」は、大手海運業者「マースク・エア」の後を継いで運航する貨物エアライン。

マースク・エアを買収後もブランドを引き継いで運航しているが、最近になって独自ブランドに移行した。

1A14-Star_Air,_OY-SRH,_B767-204BDSF_ERF_(16456466365).jpg

1A14 Star_Air_(Maersk)_B767-200BDSF_OY-SRL.jpg

1A14 STARAIR-B767-232(BDSF),_Star_Air_(Maersk_Air)_AN1589583.jpg

1A14-Star_Air,_B767-204(BDSF),_OY-SRK_-_CDG_(24584098613).jpg ←(4枚)スター・エアのB767-200BDSFは、旧ブランド「マースク」を書いた機体と、フルカラー機がある。「マースク」塗装機は全日空塗装を思わせるカラーリングだ(ウィキペディア英語版より)


アメリカの大手貨物エアライン、アトラス・エアも元全日空機を含めて20機前後のB767-200BDSFを保有するが、関連会社のDHLに委託運航しており、更にDHLがウェットリースで運航している機体が存在し、現状で正確な機数は把握しにくい。

1A14 ATLASAIR B767-200F-N659GT_(24643780209).jpg

1A14-DHL_(ABX_Air)_Boeing_767-200F_N792AX_(1)_(15638494570).jpg

1A14 RAYA AIRWAYS B767-200BDSF -9M-RXA_(39142310370).jpg ←(3枚)DHLとラヤ・エアウェイズのB767-200BDSF(ウィキペディア英語版より)

マレーシアに本拠を置く「ラヤ・エアウェイズ」は、たった1機のB767-200BDSFで不定期貨物便を運航しているようだが、フルカラーの機体が確認されている。だが実際の運航はDHLが行っている。

データが正しいとすると、残存率は3割前後になるが、意外と高い事が分かる。

さすがに老朽化は否めないので、現役機も徐々に淘汰されていくことは間違いない。

1A14 UTair_B767-224_ER_(31072329580).jpg

1A14 UTAIR-B767-224(ER),_UTair_Aviation_JP7587837.jpg ←(2枚)新造機のようにピカピカのUTエアのB767-200ER。長距離線の主力として運航する(ウィキペディア英語版より)

貨物機にしても、300型の中古機は何百機とあるし、実はボーイングでは767の生産ラインは閉じていないとい事実がある。

旅客機の受注は殆どないが、貨物型は今も受注が続いている。

また200型は軍用機のベースになっており、今後もしばらく生産が続く。

エンジンも改良され、「FADEC」などのコンピューター制御も可能になっているが、現在もCF-6/PW4000が装備されている。

1A14 AMERIJET B767-200BDSF-N739AX_(15498849225).jpg

1A14 West_Air_Sweden,_SE-RLC,_B767-232_BDSF_(26554985636).jpg

1A14_ATI_Air_Transport_International_B767-200BDSF(7170429741).jpg ←(3枚)現役にあるアメリジェット、ウエスト・アトランティック・エア、ATIのB767-200BDSF(ウィキペディア英語版より)

私事ではあるが、これまで乗った旅客機の中では、B767-200が最も多い。

もう乗れなくなって久しいが、それでも300型よりもまだ回数が多い。

いずれ抜かす日が来るかも知れないが、一番慣れ親しんだ機体と言っても良いかも知れない。

日本では姿を消して久しく、雑誌やSNSなどのネット上でも、同機の事が話題になることはほとんどなくなった。

1A14-Aeromexico_B767-200ER(XA-TOJ)_(5946174367).jpg ←日本就航時に投入されたエアロメヒコのB767-200ERは、同機最長の定期便だった(ウィキペディア英語版より)

でもファンの人であれば、ちょっと考えて頂きたい。

例えば今では完全なスタンダードになったB787は、基本型である「8」はほぼB767-200とほぼ同格の機体だ。

故に「後継機」と言われるのだが、胴体は一回り太く、純粋なワイドボディ機である。

全日空や日本航空の「8」は、国際線仕様だと2クラス、もしくはプレミアムエコノミークラスを含めた3クラスで180~200席前後で運航され、国内線仕様だと300席前後で運航されている。

時代の差があるから単純な比較は禁物だが、その「スタイル」を確立させたのは、ほかならぬB767-200であると言う事だ。

今こそ787を始め、21世紀型の高性能の旅客機が世界中を飛んでいるが、その基盤を作ったのはB767-200以外ない。

開発当時、世界はまだ米ソの冷戦時代だった。

その後冷戦は終結し、旧社会主義国は一斉に自由化に走った。

1A14_LOT_Polish_Airlines_B767-200ER_SP-LOB_(23402102963).jpg ←自由化後、初めて導入したLOTポーランド航空のB767-200ER。同社初の日本へのチャーター便としても飛来した(ウィキペディア英語版より)

古く効率の悪い旧ソ連機ばかりだったそれらの国のエアラインは、機材更新が急務だった。

それはB737であり、A320であったが、長距離機の筆頭に挙げられたのはB767-200だった。

機体価格や運航コスト、安全性、信頼性と言う点で同機を選ぶエアラインが多かったのである。

途上国のエアラインでは、300型のおかげで中古の200が安くなったことを受け、中南米やアフリカのエアラインの多くが導入し、同機によって初めて長距離国際線を実現したエアラインも多かった。

それは手ごろなサイズながら、新しい国際関係を築くのに最適の機材だったと言う事でもある。

1A14 JORDAN AVIATION B767-200ER-JY-JAG_at_Heathrow_(8033685654).jpg

1A14 JORDAN AVIATION-B767-200ER_(Silverjet_+_Syrianair)_(4953156957).jpg ←(2枚)2機のB767-200ERを保有するヨルダン・アビエーションは、ウェットリースを専門とするエアライン。内戦中のシリアで「シルバージェット」として運航している(ウィキペディア英語版より)

日本では国内線機材として、終始地味な存在だったが、同機のおかげで地方空港が整備され、利用率が増加した。

今の航空事情があるのは、同機の功績だと言っても良いと考える。

なお日本における200型は、国内エアラインの他では更に影が薄い。

日本へ定期便として同機を運航したのは中国国際航空、ニュージーランド航空、カンタス航空ぐらい。

しかもこれらのエアラインも、主力は300型であったため、200は機材変更などの時に飛来する「ピンチヒッター」的な存在だった。

300型は今も多くが現役で、日本でもしばらく退役の予定はないが、新鋭機に押されてやはり地味な存在になりつつある。

シンプルながら「セミワイドボディ」のスリムさや、回収されたウィングレットなど、格好良さを指摘する若いファンも多い。

だが私は印象が強いせいか、200型の方がデザイン的にもバランスがとれていて格好良いと思っている。

1A14 21AIR B767-200BDSF_2018_(52)_(39188103455).jpg ←最も派手なB767-200であろう、21エアのBDSF(ウィキペディア英語版より)

現在の目では、ちょっと小ぶりに見えるが、実力は今でも充分通用するほどだからだ。

それは40年も前に開発されたとは、とても思えない程なのである。

出足では、全くの「0」からのスタートだったため、迷走気味だった。

だが出来上がってみれば、40年後を占う様な機体であり、その予想は見事「的中」した。

1A14-Air_Zimbabwe_Boeing_767-200ER_Bidini-2.jpg ←エア・ジンバブエのB767-200ERは、同社唯一の長距離ワイドボディ機として現役にある(ウィキペディア英語版より)

「中型双発長距離機」と言うカテゴリーは、当時「夢」であった。

技術的にも困難で、商業的にも不可能と見られていた。

しかし767はその概念を打ち破り、21世紀に繋げた。

その功績はB767・・ではなく、基本型である200型の功績なのである。

まだ現役機が残っているうちに、その功績をしっかりと心に留めておきたいものである。



夜も霧雨が降っていた。

霧雨は悩ましい。

傘を差すかどうか、いつも迷う。

霧雨と言っても強弱があるのだけれど、今夜は「弱」だ。

少しくらい濡れてもいいか・・と、傘は差さずに歩いた。

世の中はどうか知らないけれど、雨で使った傘、帰宅後はどうしていますか?

殆どの人は、あまり考えずに自宅の傘立てに入れておしまいではないか。

特に最近は、コンビニで買える「ビニ傘」を使う人が多いから、「使用後」を気にする人は少ないのではないか。

使用後の傘は、風呂場で開いて乾かすのが長持ちさせる手段。

傘の生地であるビニールやナイロンは、濡れたままでも傷むことは少ないが、骨や支柱は金属なので当然錆びやすい。

最近の傘は、さび止めに塗料などでコーティングしてあるものもあるが、表面だけの事が多く、動く部分はそうでないことが普通。

なので水分が浸透して錆び、いざ使う時に錆びで固まって広がらず、無理やりやるとそれこそ「骨が折れる」。

またビニ傘は、今の時期だとカビが繁殖して生地を傷めてしまう事もある。

折り畳み傘も、濡れたまま収納すると、作動部分が錆びてしまい、開くことすらできなくなることもある。

高価な傘ならば、手入れする人もいるだろうが、ビニ傘も長持ちさせることに越したことはないだろう。

それこそプラゴミ減少のためにも、手入れまでしなくとも、家に帰ったら乾かすくらいはした方が良い。

それで何年も使えるならば、充分元も取れるというものだ。

風呂場ならば水滴が落ちても大丈夫だし、入浴後ならば室温がドライヤーの役目を果たして、2~3時間ですっかり乾く。

毎日傘を持ち歩くのは面倒だけど、愛着を持っても良いかな、とも思う。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

雨が続いていますが、君は毎日どう過ごしていますか?

ちょっと肌寒くなっており、先日までの蒸し暑さとは対照的です。

相変わらず湿度は高いので、体調管理には充分注意して下さい。

長雨、大雨、そしてコロナと、落ち着かない世相ですが、君らしく毎日を過ごして下さい。

しばらくは梅雨空が続き、低温も数日続きそうですので気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




くれないに 衣染めまく 欲しけども 著くにほはばや 人の知るべき(万葉集巻七 1297 比喩歌)

仙台空襲75年(7月10日 曇りのち雨 26℃)

今年の梅雨前線はしつこくパワフル。

東海から九州は、今日も大雨が続き、全国の犠牲者は100人を超える勢いだ。

一方東京を中心に、コロナ感染者増加も止まらない。

東京は2日連続の200人超えを記録。しかも今日は一日当たりとして、最も多かった。

新規患者の7割近くが若者で、半数以上が新宿や池袋の歓楽街関係者だと言う。

だが感染拡大にあたり、ホストクラブやキャバクラの従業員や関係者が、声をかけて自主的にPCR検査を受けての結果。

無症状・軽症が大半だと言うが、家族や友人への「濃厚接触」も増えていると言う。

雨と言いウイルスと言い、人類の英知をまるで嘲り笑っているように思えて来る。

ほんの2〜30年前に比べ、世間は格段に進歩し物も豊富になって便利な世の中なのに、自然はもちろん、ウイルスにすら慌てふためいてばかりだ。

歴史学をかじっている私には、科学がなかった昔の人々の方が遥かに逞しく、そして冷静沈着だったように思えてならない。

多くの犠牲を払いながらも、今我々が便利で楽な生活を享受しているのは、先人たちが「未来」を繋げてくれたから。

目先の事ばかりに捕らわれ、自分さえ良ければ良い…と、現代人はどこかしら思っている。

もしそれが達成出来たとして、自分だけ生き残ったら…?

コロナも大雨も、尊い犠牲を払っている。

本人はさぞかし苦しく悔しいだろうし、残された家族や友人の悲しみは消える事がない。

私達はこの国の「未来」を残す義務がある事を、今だからこそ忘れてならないし、思い出さなければならない。



今日7月10日は「仙台空襲」の日。

今から75年前の1945年(昭和20年)、未明にマリアナ諸島テニアン島から飛来したアメリカ陸軍航空隊(現在のアメリカ空軍)の「ボーイングB-29」爆撃機、約130機が市内中心部を目掛けて無差別爆撃を行った。

「焼夷弾」と呼ばれる爆弾は、1個当たりは数十キロ程度の小型爆弾だが、中には爆薬ではなく、半固形化したガソリンなどの高燃焼物が装填されていた。

後に「ナパーム弾」と呼ばれるようになる爆弾で、通常の爆弾が爆発力による破壊と火災を発生させるのと違い、強力な火焔を発生させる爆弾であった。

何故アメリカは、日本各地の無差別爆撃に焼夷弾をばらまいたか。

答えは簡単。日本の家屋の殆どが木造だったからだ。

即ちアメリカは、日本の庶民の生活事情を把握していたからに他ならない。

更にB-29には、コンピューターを使った航法機器とジャイロコンパスを利用した爆撃照準器が装備されており、成層圏から水平爆撃という極めて不正確な爆撃でも、ピンポイント爆撃が可能であった。

仙台空襲では、仙台駅から西側、現在の中心部を爆撃したが、仙台駅と東北本線が目印だったらしく、線路の東側は一切爆撃されなかった。

爆撃された中心部は、焼夷弾攻撃によって連鎖反応的に大火災となり、市内だけで約1.000人以上が死亡した。

市街地は、完全な焦土と化したと言う。

1A13-Sendai_after_the_1945_air_raid.JPG ←1945年7月10日深夜の空襲で焦土と化した仙台市内中心部(ウィキペディア英語版より)

私はもちろん話でしか知らないが、母が当日の事を話してくれたことがある。

母はまだ小学校に入る前の6歳で、家には祖父と祖母、6歳上の兄(私の叔父)の四人がいたと言う。

幼少期の事だから朧気な記憶だったそうだが、直前に「空襲警報」のサイレンが鳴り、祖母が叔父と母を連れて避難したと言う。

祖父は、会社に泊まり込みだったと言う。

祖母は子供二人を連れて、家から数百メートル先の丘の茂みに逃げて、隠れたそうである。

その丘の現在は、国道が走り、官庁や公園などがあるが、当時は国道以外広々とした草原だったと言う。

幼い母は、祖母がおぶっていたと言うが、それ以上の記憶はないと言う。

1A13-B-29s_of_the_462d_Bomb_Group_West_Field_Tinian.jpg ←日本空襲のためテニアン島の基地を発進するボーイングB-29戦略爆撃機(ウィキペディア英語版より)

空襲は深夜だったから、怖さよりもただ眠くて寝ていたんだろう…とは、本人の弁である。

日米双方の史料を照らし合わせると、空襲より1カ月半前の5月25日にB-29の偵察機型である「F13」1機が仙台上空に現れ、高度8,000フィート(約2,500メートル)上空から市街地の航空写真を撮影した。

空襲数日前には、再びF13らしき機体が飛来し、「良い街仙台、森の街仙台、7月10日は灰の街」と日本語で書かれたビラ数千枚を投下した。

要するに空襲の「予告」をしたのである。

こうした宣伝ビラは、都市無差別爆撃開始当初から全国で行われており、米軍なりの「避難勧告」」だったと言えよう。

日本人がどれほど信用したかは不明だが、逆に言えば市街地上空を堂々と何度も米軍機が飛来出来た訳で、日本軍は既に敵機の領空侵入を阻止する能力は「0」であったのである。

1A13-39th_Bombardment_Group_B-29_bombing_to_Hiratsuka_19450716.jpg ←日本へ焼夷弾を投下するB-29。有名な写真で、当時は宣伝ビラにも使われた(アメリカ空軍提供)

当日、21時頃から3回に渡って「空襲警報」が鳴ったとされるので、一応はビラを信用していたのであろう。

最初の2回は「誤報」だったとして、数分後に解除されたが、0時前の3回目の警報は本物だった。

空襲は0:05頃から開始され、約2時間続いたと言う。

米軍資料では、仙台空襲に飛来したのはテニアン島(サイパン島の南にある島)の基地に所属する陸軍航空隊第20戦略航空団第58爆撃航空隊のB-29で、現地時間16時に出撃したと言う。

仙台空襲に向かったのは131機だったが、1機が離陸に失敗、7機が故障して途中で引き返し、123機が来襲した。

爆撃は1小隊(3~5機)ずつ、25波に分けて侵入して行われた。

投下された焼夷弾は約13,000発、このうち約2,150発は「集束焼夷弾」と呼ばれるクラスター爆弾、数十発が100キロ級の通常爆弾だったと言う。

爆撃は高度約3,000メートルから行われたが、本来都市に対する戦略爆撃は5,000メートル以上で行うものだ。

それがより正確な効果を期待できる低高度で行われたのは、日本軍の反撃がないとわかっていたからだ。

1A13-B-29_DOC.jpg

1A13-B-29_-_Flickr_-_Beige_Alert_(4).jpg ←(2枚)現在も飛行可能な状態で保存されているB-29(ウィキペディア英語版より)

日本側の記録では、陸軍航空隊が駐屯していた「霞の目飛行場」付近に、約15門の高射砲が装備されていたと言う。

またたまたま関東方面から訪れていた戦闘機(二式戦闘機とも伝わる)が、迎撃に上がったとも言われているが、B-29の損害は0だった。

12日には、たった1機のB-29が来襲し、数十発の焼夷弾を投下したと言う記録がある。

この他7月下旬から8月上旬にかけては、沖縄を占領し太平洋岸を北上して来た海軍の空母艦載機が数回来襲し、仙台市内の他、塩釜市・石巻市・気仙沼市などの港湾施設を銃撃している。

母は空襲当日の事の他に、何度か「ゴロンゴロン」と言うB-29の通過音を聞いた記憶があると言っていたから、恐らく空襲前の偵察やビラ撒きなどで飛来した機体の音だったと思われる。

また12日に飛来した1機は、恐らく爆撃の成果を確認するために飛来したと思われ、ついでに爆撃したのだろう。

他界して久しいが、当時高校生だった叔父の一人は、白昼飛来したB-29を目撃している。

一目で大型機だと分かったことや、機体が太陽光に反射してキラキラ光っていたとも言っていたから、ジュラルミン地肌の無塗装だったB-29の特徴と一致する。

叔父が見たのも、偵察に来たF13かビラ撒きに来た機体のいずれかだったと思われる。

仙台への大規模空襲は7月10日だけだったが、東京・横浜・名古屋・大阪などは前年から何度も空襲を受けており、死者は数十万人に上る。

そして極めつけは8月6日の広島、9日の長崎に投下された「原爆」であり、人類史上初の「核攻撃」が実行。

8月15日に終戦・敗戦の日を迎えるのである。

戦後生まれの私が言うべきことではないが、約1か月後には戦争が終結した訳で、犠牲者やその家族の無念さは想像を絶することだっただろう。

子供のころは、随分戦時中・戦後の話を聞かされたものだが、幸い我が家では犠牲者は出ず、空襲による被害もなかった。

我が家は仙台駅から僅か2キロ東にあり(私の生まれ育った家でもある)、燃え盛る炎が良く見えたそうである。

また火災の熱気も感じられ、数日後まで焦げ臭さが漂って来たと、祖母に聞いた記憶がある。

母は幼かったので、恐怖は感じなかったと言うが、「母親」であった祖母はさぞかし怖かっただろうと思う。

さりとて子供の前でうろたえる訳にもいかず、と言うよりも「明治の女」だったから、何が何でも家族を守ろうと言う気持ちが強かったに違いない。

先に書いたように、祖父は出かけており、顔には出さなかったが、さぞかし心細かっただろう・・と、母が言っていた。

今思えば、祖父が会社に泊まり込んでいたのは、空襲の「予告」があったからだろう。

祖父は70年代までその会社に勤め続けたが、機械部品製造の会社で、当然軍関係の仕事も請け負っていた。

私が聞いた記憶では、大きな被害はなく、当日の昼前に帰宅したと言っていたが、「軍需工場」として目標にされたと思っていたようだ(ちなみにこの会社は現在も黒川郡に移転して操業している)。

最も会社が直撃されていたなら、祖父は無事で済まなかったかも知れないが。

それから75年、子供の私は良く理解できなかったし、正直話は退屈だったこともあるが、今になって彼らの大変さは少しだけど理解できるような気がする。

今は祖父母、叔父、そして母もこの世の人ではなくなって、今一度詳しく聞き直す事は出来ない。

記憶があるだけマシなのかも知れないが、私にとっては決して遠い「歴史」とも言えないのだ。

何よりもずっと一緒に暮らしていた家族が、リアルに体験した「戦争」なのである。

戦後もしばらくは大変な暮らしを強いられたが、祖父母は家族を守り通した。

故に孫である私は、いい加減で野放図ながらも2020年を生きている。

そう思うと、どこか不思議な気がしてくる。

きっと「天界」でも、今日は祖父母・叔父、母が思い出話に花が咲いているに違いない。

変な解釈だけど、75年前の戦火を潜り抜けた我が家の血筋を、私は受け継いでいる。

昔の事であっても、決して忘れてはならず、何かの形で将来に残さねばなるまい・・とも思うのである。





元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

暑さは大丈夫ですか?

青空が見えなくなって何日も経ちます。

季節とは言え、ちょっとめげてしまいそうですが、君はどうでしょうか。

湿度の高い蒸し暑さは、真夏の暑さよりも始末が悪く思えます。

気分を含めて、体調を崩しやすい環境ですので、充分気をつけて下さい。

せっかくの週末も、雨と高い湿度で過ぎそうです。

大雨の心配もあるので、外出時には注意して下さい。

特に夜の帰宅時には、足元だけでなく車にも気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



卯の花の 咲くとは無しに ある人に 恋ひや渡らむ 独念(かたもひ)して(万葉集巻十 1989 夏相聞)


飛行機ネタ 時代遅れと言うには早すぎる、B747-8(7月8日 雨時々曇り 24℃)

梅雨前線の勢いは止まらず、九州に続き東海や信越地方でも河川の氾濫や浸水被害が出た。

通常大雨は梅雨の末期に起こりやすいとされるが、今のところその気配は薄い。

昨日から前線がやや北上したことで、宮城県内も深夜から朝にかけて本降りの雨が降った。

強い雨の時間は短かったものの、通勤時間帯に罹ったこともあり、交通機関の乱れが出た。

JRなどは運休・遅延が出たほか、道路が冠水したり、陥没したと事もあったと言う。

今朝までは前線が県内の僅かに北側にあったため、暖かく湿った空気が流入した。

最高気温は日付が変わった直後で、確かに昨夜は蒸し暑かった。

雨が降った後は、前線が再び南下したことで、日中の気温のの方が低くなった。

特に午後は涼しくも感じる東寄りの風が吹いており、夕方には一時雲が薄くなって薄日が射した時間もあった。

梅雨前線は、少なくとも向こう1週間は停滞する見込みだと言う。

気象庁も(長期的な予測は出来ない)と、ちょっと責任放棄みたいなことも言っている。

先々週頃は、この週末辺りから太平洋高気圧が強まり、関東以西では「梅雨明け」の可能性も指摘していた。

今後も西日本や中部地方の山間部を中心に、大雨の可能性が高いと言う。












飛行機ネタ。

個人的な話で恐縮だが、最近「時代遅れ」と言う言葉にナーバスだ。

何がと具体的には言えないのだけれど、日本人の平均寿命の半分はとうに通り越した私には、若いつもりでも「時代遅れ」の人間に見られているのだろうか…と、ドキリとすることも増えて来た。

特に最近ネットやSNS上で書かれている「省略語」みたいな用語は、全く見当がつかない事がある。

若者言葉など、いつの時代も年寄りには理解出来ず、眉をひそめる繰り返しだけれど、最近の言葉はあまりに複雑だ。

私は同世代の中では、比較的若者文化に理解と興味も持っている方だと思っているが、時には「平成世代は…」と思う事は多いから、彼らから見れば時代遅れの人間に見られるのだろうか。

SNS上では同じ趣味を持つ人と交流を持てる良いチャンスでもあるが、パッと見では相手の年齢がわからないから、ついリツイートしたらチンプンカンプンのやり取りになって恥をかいてしまう事もある。

だから申し訳ないが、めったに反応せず読むだけが多い。

同時に学校がどうとか、テストがどうとか呟いているから、しばらくして高校生か大学生だろうとわかり。

ぶっちゃけ言わせて貰えば、彼らは私から見れば「子供」の世代になってしまうから、絡まれるのは多分迷惑だろうと思う。

最近気になってしまうのは、飛行機ファンの中でも「省略語」が増えて、それは仲間同時通じ合うのだろうけど、どうしても違和感を感じてしまう。

それが「時代遅れ」と言うのだろうが。

例えばエアラインでは、宣伝用として「特別塗装」機を作る事があり、ファン以外にも人気が高い。

最近特別塗装機の事は「スペマ」と言うらしい。「スペシャルマーキング」の略だとはわかるが、どこか卑猥な響きに聞こえてしまうのは私だけだろうか。

これは以前「SPマーキング」とか「SPマーク」と言っていたと思う。

この他「スターアライアンス」を「スタアラ」、スカンジナビア航空を「スカンジ」と言うらしい。

「スタアラ」はなんとなく同意出来るが、「スカンジ」はおかしいだろ?と思う。

普通は「SAS」と呼ぶ。

ファンに限った事ではないが、全日空の「ANA」を「アナ」と呼ぶのも変。

これは全日空本人が、「アナ」ではなく「エーエヌエー」だと言っている。

何でも略するのは、いかにも通…という感じがするが、どうも最近は略し方が違うのでは?と思う事が多い。

これも「時代遅れ」の証なのだろうか。

話が大きく逸れてしまったが、飛行機自体も時代とともにどんどん進化し、古い機体が時代遅れになってしまうのは仕方ない事だ。

旅客機は人や物を運ぶと同時に、大事な商売道具であり、エアラインに利益をもたらさなければ意味がない。

前世紀までの旅客機は、安全・高速・大量輸送の三拍子揃っている事が重要だった。

だが世界中に飛行機が飛ぶようになると、空港が混雑し、周辺環境の問題が取り沙汰されるようになって来た。

また安全性も、昔と比べ物にならないほど高い精度が必須となり、機体に求められる性能は環境性能が加わり、それが利益率に繋がる事になった。

また90年代になると、冷戦終結と同時にエアラインが激増、多様化する。

エアラインが求める利益は、単にお金の問題だけでなく、「時代」に合ったやり方をしないと顧客層を獲得しにくい時代になったのである。

最も典型的な例は、経済性・環境性能を楯に、4発機などの大型機が「時代遅れ」の烙印を完全に押されてしまったのである。

現代スタンダードになった最新鋭のB787やA350、間もなくデビューするB777-9など、確かに現代テクノロジーを結集させた高性能旅客機である事は間違いないが、私にはどこか「潮流」を理由に流されているような気がしてならない。

新型コロナは、ある程度予測はされていたものの、世界的影響が長引く事はほぼ決定的で、世界のエアラインは底の見えない苦境に晒されている。

既に大手やフラッグキャリアの経営破綻が相次ぎ、そうでなくとも社員の大規模解雇や業務の縮小、機材の整理が各国で始まっている。

少しずつ改善しつあるが、「コロナ前」に戻るには早くても数年以上と言う予測が出ており、コロナの世界的収束が見えない限り、旅客機が自由に空を飛ぶ日は遠い。

そしてリストラのやり玉に真っ先に挙げられたのが、「不経済」とされてしまった古い機体と大型多発機である。

古い機体の場合、メーカーが生産を停止して久しく、部品供給の問題が整備コストを上げてしまうのでやむを得ない所もあるが、多発機はまだまだ機体の寿命が残されているにもかかわらず、「時代遅れ」のレッテルで追いやられている。

だが果たして4発機が、本当に不経済で時代にそぐわないのか…ファンは元より、エアライン自身わかっているのか実に疑わしい。

表向き、座席数が同程度なら4発機より双発機の方が経済的、と言うのはわかる。

更にB787やA350のように、以前では考えられなかった軽量化が実現して中型機ながら、それまで大型多発機でなければ飛べなかった長距離飛行が可能になった事は間違いない。

しかし機体は「道具」である以上、経済的・利益率云々は、本来エアライン自身の運用次第で大きく変わって来るものなのだ。

例えがわかりづらいかも知れないが、例えばあるバス路線を運行するとして、車体価格が安く、燃費の良い小型バスとそこそこ高い大型バスで比べた場合、乗せられる乗客数が少ない小型バスだと、複数便運行させないと乗客を捌けない。

仮にその路線の乗客数が50人だとして、定員が25人の小型バスならば、2回もしくは2台で運行しなければならない。

定員50人以上の大型バスならば、一度の運行で捌ける。

もちろんこれは極論で単純計算だが、大型多発機イコール不経済の時代遅れ…と言うのは、根拠のない決め付けだと思う。

エアラインによって事情が違うけれども、そして語弊があるけれども「なんとかとハサミは使いよう」であり、今大型多発機を「時代遅れ」と切り捨てるのは間違いだ。

使い方が悪いから、つい最新鋭機と比べて「不経済」と言う理屈になっているに過ぎない。

コロナの影響で「最大の旅客機」のオール二階建て旅客機A380は、バックオーダーが完了する来年で正式に「生産中止」になる事が決定。

また半世紀以上の歴史を持つ「ジャンボ機」、B747も現行型「8」が事実上生産中止が決定されている。

いずれもコロナ前から受注が減少し続けていて、コロナが決定打となってしまった形だ。

1A12 Korean_Air,_HL-7630,_B747-8I_-_FRA_(20522480784).jpg

1A12 KOREAN AIR B747-8I-HL7637@HKG_(20181021143558).jpg ←大韓航空のB747-8I(ウィキペディア英語版より)

日本では昨年、全日空が初めてA380を導入し、大きな話題を呼んだが、導入と同じくして生産中止が報じられた。

同機は既に200機以上が活躍して来たが、コロナの影響で真っ先に矛先を向けられ、運用エアラインからは次々退役もしくは減勢が開始されている。

またB747は、コロナ前から引退が相次いでおり、一気にたたみかけられている状況にある。

最も「400」型は生産中止から10年経っており、新しい機体の大半は貨物機の「400F」で、旅客型は機齢が20年近い物が多い。

「クラシック」と呼ばれる100〜300型は、旅客型は元より貨物機でも殆ど退役したが、400型はなおも300機程度が現役にある。

だが残存機の大半は貨物機で、旅客型の退役はここ数年間で著しく進んでいた。

日本では15年に全日空が最後の1機を、そして一般人は乗れないが唯一旅客型として残っていた政府専用機も、昨年度からB777-300ERに交替し、日本籍の旅客型B747は姿を消した。

海外ではコロナ前に、アメリカのメジャー、デルタとユナイテッドから退役し、北米での旅客型はなくなった。

なんとか頑張っていたのがヨーロッパで、特にイギリスのブリティッシュ・エアウェイズ、ドイツのルフトハンザ、フランスのエールフランス、オランダのKLMなどがまとまった数を保有していたが、10年代後半から計画退役が始まっていた。

ところがコロナ禍は、予想以上の打撃となり、各社とも計画の前倒しが急激に進んでいる。

エールフランスは既に全機が退役し、当初予定のなかったA380も先日退役させた。

ブリティッシュ・エアウェイズは22年まで段階的に退役させる予定だったが、全機ではないものの、順次退役予定だった747を前倒しして退役させた。

ルフトハンザも同様で、各社とも20年以上に渡って、フラッグシップとして世界中を飛び回った功績を称える余地すら与えられず、ひっそりと退役してしまった。

エアライン側にして見れば、大型の747は地上待機させておくだけでも場所はもちろん、維持費がかかる事を何よりも嫌ったのである。

各社は後継機として、双発機のB787、A350などの導入を決定、既に運用しているエアラインもあり、コロナ禍は「在庫処分」の良い機会になってしまった。

また長期運休・減便の影響は、今度もしばらく続くと見られる事から、一掃された分の機材不足は補えると判断しているようだ。

残念ながら4発機への風当たりは、止みそいにない。

ファンとして辛うじて支えになっているのは、貨物機としての需要は落ち込んでいない事と、最新型である「B747-8」が残っている事だ。

1A12-_Silk_Way_West_Airlines_B747-8F takeoff_from_Schiphol.jpg

1A12_Silk_Way_West_Airlines_B747-83QF_at_Schiphol.JPG ←(2枚)最も新しいB747-8Fユーザー、アゼルバイジャンのシルクウェイ・ウエスト・エアラインズ。日本にも定期就航していた(ウィキペディア英語版より)

「8」は09年に原型機が初飛行したばかりの最新鋭機材で、400型をベースにしながら最新の技術を盛り込んだシリーズである。

またボーイング伝統の3桁型式番号が、787と並んで新規格の一桁に変わった唯一のタイプでもある。

400型がデビューしたのは80年代末の事で、航空需要が増大していた。

400型はB747では、最大の座席数を持つシリーズであるが、胴体の全長70メートルは初代の100型以来変わっておらず、アッパーデッキの延長や内装の改良などで座席数を増やしていた。

しかし物理的に限界であった事から、ボーイングは更なる進化型の計画をいくつか持っていた。

それは大きく分けると3種類あって、400型ベースの拡大型、アッパーデッキを後部まで延長したオール二階建て、そして全く新規格の4発ワイドボディ機だった。

だが当時最大の747は、機体価格・維持費とも高い事から運用出来るエアラインは限られており、開発コストを考えると後者2プランは非現実的と見られた。

ボーイングは400型の胴体を延長した案を複数計画し、最大の機体は全長80メートル、最大座席数は650席程度として、747ユーザーに対してリサーチを行った。

ところが747の信奉者と思われていたエアラインの反応は悪かった。

日本航空と全日空は、全く新規格の双発ワイドボディ機、B777に開発から携わっていて、その経済性から747の後継機種に考えていた。

ボーイングは自ら作る777の人気は良かったが、同時に伝統あるB747の人気のなさに直面することになった。

結果的にリスクの少ない「胴体延長」モデルが決定したが、このまごつきが新しいB747の運命を決めてしまったようになってしまう。

同社はライバルであるエアバス社が、大型機「A3XX」計画を持つのを知っており、この時点で具体化はしていなかったが「オール二階建て」機であることがほぼ決定していた。

更に自社では、B787計画もスタートしており、B747更新計画はとん挫した。

しかし既存の400型の後継機は必要であることから、僅かに大きい機体として「A3XX」と競合しない程度の規模として00年に開始された「747X」は、05年になってようやく具体化し「B747-8」として明示された。

既にB777-300ERと言う、大型双発機が登場していたが、座席数は400席級。一方のちに「A380」となる機体は500~600席とされていたので、B747-8は450席級とされた。

開発は順調に進められたが、エアラインの反応は予想を裏切るものだった。

同機は400型と同じく、旅客型と貨物専用型が用意され、ボーイングではどちらも数百機の需要があると見込んでいた。

おおよそのスペックが固まると、期待していた旅客型への反応は燦々たるものであった。

とりあえずドイツのルフトハンザ、中国国際航空、大韓航空が発注の意向を示したことでローンチにこぎつけたが、それだけだった。

1A12_British_Airways_World_Cargo_B747-8F(Global_Supply_Systems)_AN2107963.jpg

1A12_British_Airways_World_Cargo_B747-8F(Global_Supply_Systems)_AN2017818.jpg ←(2枚)イギリス製エンジンが採用されなかったことで導入を見送ったブリティッシュ・エアウェイズ。「グローバル・サプライシステムズ」のB747-8Fをウェットリースして、貨物便を委託運航している。唯一同社のフルカラーで飛ぶB747-8だ(ウィキペディア英語版より)

初期段階で、大量発注の意向を示していたブリティッシュ・エアウェイズは、同機がこれまでの747と違い、エンジンの選択制を取らないことに不快感を示すとともに、自国製の「ロールス・ロイス・トレント」を強く希望したが、ボーイングはコストを理由に承諾しなかった。

同機のエンジンは、B787用に開発された大口径ターボファン「GEnx」エンジンを4発搭載することになっており、他社製は外されていた。

ブリティッシュ・エアウェイズは「トレント」エンジンならば、20機以上受注しても良いとしていたのであった。

1A12-B747-8F_GENx_engines_and_main_landing_gear.jpg ←B747-8I/Fに搭載されるGEnxエンジン(ウィキペディア英語版より)

一方貨物機の反応はまあまあだったことから、原型機は貨物型である「8F」が最初に作られ、09年に初飛行。

旅客型の「8I」は、翌年初飛行すると言う、旅客機としては珍しいスタートだった。

1A12-Boeing_B747-8F_N747EX_First_Flight.jpg

1A12-BOEING B747-8F_N5017Q_in-flight.jpg

1A12 BOEING-B747-8I_(N6067E)_wide_angle.jpg ←(3枚)B747-8Fと8Iの原形機(ウィキペディア英語版より)

これこそが、同機の未来を暗示することでもあった。

「8」は400型の胴体を5.7メートル延長し、全長76.3メートルある。

747はA340-600に「最長胴体」のタイトルを奪われていたが、僅か数年でそのタイトルを奪取した。

最も今年初飛行した「B777-9」の全長は76.7メートルで、B747-8は逆に約10年で再びタイトルを失っている。

747最大の特徴であるアッパーデッキも約2メートル延長され、予定通り3クラスで最大450席を確保できる。

1A12-Korean_Air_Cargo_B747-8F_(12259010636)_(2).jpg ←「シェブロン」が特徴のGEnxエンジン(ウィキペディア英語版より)

エンジンの換装に合わせ、主翼は再設計され後退角が僅かに減ったほか、翼端にはB777-300ERで採用された「レイクドウィングチップ」が取り付けられている。

操縦システムはデジタル式のフライ・バイ・ワイヤが採用されたが、尾翼及び尾部の形状は400の物が流用されており、昇降舵と方向舵の作動は油圧及び機械式である。

航法システムはGPSを筆頭にB787/777と同等の最新型、および多重のフューエルセーフ機能が完備されている。

コクピットは400型とほぼ同じで、パイロットは共通資格で操縦できることで、エアラインの負担を軽減させている。

1A12_Lufthansa_B747-8I AN2121159.jpg ←B747-400と共通のコクピット(ウィキペディア英語版より)

キャビンも787に倣って、新素材が使用されたため軽量化と空間増大に成功しており、後部には乗務員休息用のロフトが設けられる。

エンジンは上記のように、新開発のGE製「GEnx」で、カウリング後部には騒音低下効果をもたらっす「シェブロン」がついている。

旅客型はサブネームとして「インターコンチネンタル」がつけられ、「8I」が正式名称である。

1A12-_Lufthansa_B747-8I AN2119979.jpg

1A12_Lufthansa_B747-8I AN2119980.jpg

1A12-_Lufthansa_B747-8I AN2115472.jpg ←(3枚)ルフトハンザのB747-8Iのキャビン。上からAコンパートのファーストクラス、アッパーデッキのビジネスクラス、メインデッキのエコノミークラス(ウィキペディア英語版より)

貨物型は従来の慣習に従って「8F」と呼ばれるが、最大積載量は最大122トン。

満載状態での航続距離は約7,000キロだが、400Fの最大搭載量は約110トンで、航続距離は約7,000キロ。

通常満載することは殆どないので、運航ベースでは400型に比べて約10,000キロの行程ならば、最低でも10トンほど多く貨物を輸送でき、同じ搭載量ならば15%程航続距離が長い。

胴体延長と内装構造の見直して、容積が大きくなっており、重量よりも貨物容積と言う点であれば400Fよりも20%程増大している。

もちろん先頭部のノーズカーゴドアが装備され、後部にはサイドドアもついていて、メインデッキでは電動ローラーによる自動積載が可能である。

1A12_-_Qatar_Airways_Cargo_B747-8F AN5074311.jpg

1A12-_Qatar_Airways_Cargo_B747-8F AN4867387.jpg

1A12_Qatar_Airways CARGO B747-8F_-_G-CLAB_(43475310891).jpg ←(3枚)カタール航空のB747-8F(ウィキペディア英語版より)

アッパーデッキはB747-100/200と同じサイズの「ショートデッキ」だが、前後寸法が若干長い。

キャビンには「荷主用座席」の他、セルフサービス式のギャレーも完備されている。
欠けていたようにも見える。

ファンならば、一見同じ様に見えて異常に長くなったアッパーデッキや、曲線が描かれた主翼、そして大口径エンジンに、未来型747の様な格好良さと新しさを見いだせるが、エアラインにとっては魅力の薄い機体に見えていた。

事実期待された旅客型は、ローンチユーザーの3社以上現れず、一部の国が政府専用機として発注しただけであった。

1A12-Lufthansa,_B747-8I_D-ABYK_(14231915948).jpg

1A12-LUFTHANSA B747-8I D-ABYA@PEK_(20180316091434).jpg

1A12 LUFTHANSA B747-8I_Frankfurt_Flughafen_Ankunft_Olympiamannschaft-5753.jpg

1A12 LUFTHANSA B747-8I-D-ABYT@HKG_(20190222160900).jpg

1A12-Lufthansa_(Retro_livery)_B747-8I_(D-ABYT)_at_Frankfurt_Airport.jpg ←(5枚)B747-8Iのローンチユーザー、ルフトハンザは旧塗装から新塗装に変更しつつある。1機は70年代の「レトロ塗装」が施されている(ウィキペディア英語版より)
「8F」は予想通りの受注を得、旅客型を買わないエアラインも導入に動いたが、これまでの受注数は「8I」が47機、「8F」が106機である。

このうち「8I」は17年に大韓航空機に納入されたのが最後で、以降生産はされておらず、新規の受注もない。

「8F」は現時点で90機が納入されたが、コロナ禍の影響もあり、20年になってからの発注はない。

このまま受注がないと、遅くても22年には全ての受注残が消化することになり、ボーイングは事実上同機の生産停止を予定している。

生産停止とは、工場の生産ラインも処分することを意味するので、将来よほど大きな受注交渉でもない限り、再生産の可能性は極めて低い。

1A12-Korean_Air_Lines_B747-8I_(HL7633)_at_Frankfurt_Airport_(3).jpg

1A12 KOREAN AIR B747-8I-HL7637@HKG_(20181021143558).jpg

1A12_Korean_Air_Cargo_HL7629_B748F_PANC_NAEDIT_(27364006778).jpg

1A12-Korean_Air_Cargo_B747-8F_(HL7629)_at_Frankfurt_Airport_(3).jpg ←(4枚)大韓航空は世界で唯一旅客型・貨物型両方のB747-8を運用している。長いボディラインが美しい(ウィキペディア英語版より)

アメリカ政府は、寿命を迎える大統領専用機「VC-25A(エアフォース・ワン)」の後継機種として2機発注していたが、緊縮財政を目標とするトランプ大統領の指示でキャンセルされ、同機は発注しておきながら倒産してしまったロシアの「トランスアエロ」向けの機体を「中古機」ですり替えることになっている。

また同じく寿命を迎えた日本政府専用機の受注も期待されていたが、整備を委託していた日本航空・全日空とも747が全機引退。

それに合わせるためB777-300ERを選択して、受注は得られなかった。

従来の747に比べて、燃費を含むコストは大幅に削減されているのだが、カタログデータでは双発機の方が経済性と言う点で遥かに有利と見られてしまい、ただでさえ新鮮味がないと言われていた同機は、デビュー後10年満たずに「時代遅れ」にされてしまったのである。

1A12 AIR CHINA B747-8I-B-2481@PEK_(20180528170851).jpg

1A12 AIR CHINA B747-8I-B-2481_PAE_(23267937180).jpg

1A12 AIR CHINA B747-8I-B-2482@PEK_(20200511142019).jpg ←(3枚)中国国際航空のB747-8I。VIP機としても使用される(ウィキペディア英語版より)

一般的には、同機のデビューの時点で、世界は既に双発機全盛時代を迎えており、売れなくて当然・・という見方が大きかった。

だがそれは大勢の見かたであって、突き詰めた運用方法であればまだまだ充分有益性は残っているはずなのに、「4発機は不経済」と言う烙印を押されてしまった。

あくまで素人妄想だけど、例えば「貨客両用」ならばどうだろうか。

事実これまでも貨客両用型の旅客機は数多く存在しており、747でも200~400型では「M」型がある。

これはメインデッキの後方区画を仕切って貨物室にしたタイプで、10~15トン程度の貨物とコンテナを搭載できる。

1A12 _Air_Bridge_Cargo_B747-8F JP7343045.jpg

1A12 AIR BRIDGE CARGO B747-8F VQ-BVR_(20216256599).jpg ←アッパーデッキが短いB747-8F。エア・ブリッジカーゴは、ロシアで唯一同機を運用するエアライン(ウィキペディア英語版より)

ならば「8」は、ノーズドアを装備し、かつアッパーデッキは旅客型の大きな物にして、乗客はアッパーデッキだけ・・と言う運用方法な出来ないものか。

「8」では、3-3配列のエコノミークラスであれば、最大で100席前後設けることが可能である。

これはリージョナル機のE190、A220-2001機分に相当する。

それでいてメインデッキと床下貨物室は、フルで使用できるし、長尺物の出し入れも容易である。

仮に貨物を70トン搭載しても、乗客を100名乗せれば、10,000キロ近く航続力を出せるのだ。

最も現実はそう簡単ではない。

アッパーデッキが長くなった300型以降では、中央部に大きなドアは左右についている。

これはメインデッキにある乗降用ドアと同じ大きさだが、もちろん乗降用ではなく「非常口」だ。

1A12 KOREANAIR B747-8I-HL7637_(33054377671).jpg

1A12-Air_China,_B747-8I_B-2481_-_PAE_(20602314641).jpg ←(2枚)B747-8Iのアッパーデッキ部分(ウィキペディア英語版より)

旅客機では、満員状態で緊急事態になった場合、どんな状況でも90秒以内に全員が機外に脱出できなければならないと言う規則がある。

その為メインデッキには小さな非常口も数個備えて、規制をクリアしている。

一方アッパーデッキでは、小さな非常口を複数つけるスペースがないので、大きなドアを2つにすることでクリアしている。

最もアッパーデッキからは「脱出シュート」で飛び降りることは不可能なので、実際には階段を下りてメインデッキから脱出するが。

客室をアッパーデッキだけにすると、何が何でもそこから脱出しなければならず、安全な脱出装置が新たに必要になるだろう。

メインデッキは貨物室だから、旅客型の様な階段は作れない。

1A12 ATLAS AIR B747-8F-N854GT@HKG_(20181026132801).jpg

1A12_Panalpina_(Atlas_Air)B747-8F N850GT,_LUX_Luxembourg_(Findel).jpg

1A12_Polar_Air_Cargo_-_B747-87UF_-_HKG_(13538008394).jpg

1A12 ETIHADCARGO B747-8F-N855GT.jpg ←(4枚)アメリカのアトラス・エアグループが運用するB747-8F。ウェツトリースでエティハド航空便としても運航している(ウィキペディア英語版より)

実際貨物機でのアッパーデッキへの搭乗は、収納式の階段で行うが、角度が急で殆ど「梯子」に近い。

まさか乗客をそれで乗降させられないから、非常口での乗降しかないが、あの高さまでどうやって・・という問題が残る。

幸い「A380」のおかげで、同機の就航する空港では、アッパーデック用のボーディングブリッジが存在し、それを流用することは間ろうだろう。

だがそれは限られた空港でしかなく、運用と言う点では非現実的だ。

加えて100席となれば、相当のトイレとギャレーが必要で、客室乗務員のスペースも必要だからやはり現実的ではない。

実機と同様、40~50席程度のビジネスクラスだけ・・と言う手もあるが、採算性と言う点で難しいか。

1A12-Cathay_Pacific_Cargo_Boeing_747-867F_B-LJH.jpg

1A12_Cathay_Pacific_Cargo_B747-8F_FRA_(47107593062).jpg ←(2枚)貨物型だけ採用したキャセイ・パシフィック航空(ウィキペディア英語版より)

でも単なるアイディアとして、B747-8ならばできないこともない・・ように思える。

貨物容量は変わらず、ノーズドアもつければ貨物の輸送費はこれまでと変わらず取れるはずである。

最もそういう運用をするエアラインは皆無だと思うけれど・・・。

1A12_Cargolux_B747-8F_PANC_NASEDIT_(41751949421).jpg

1A12_Cargolux_B747-8F Cutaway_(22262143611).jpg ←(2枚)日本へもB747-8Fで定期運航するカーゴルクス(ウィキペディア英語版より)

もし「8」が正式な生産停止となれば、今後貨物機の不足は明らかである。

当面は「8F」の他、比較的寿命の残っている400Fや、旅客型から改造した「400BCF」で充足できようが、貨物需要は増加しており、既に機材不足が懸念されている。

現時点で新造機として生産されている大型貨物機はB767F/B77F、そしてA330-200Fだけ。

同時に退役が進みつつあるA380は、その特殊な構造から純粋な貨物機には改造できず、大容量貨物を輸送できるのは目下B747だけであると言う事を話売れてはならない。

1A12 Abu_Dhabi_Amiri_Flight,_B747-8Z5(BBJ),_A6-PFA_-_LHR.jpg

1A12_Presidencial_Brasileiro_modelo_B747-8I.jpg ←(2枚)UAEアブダビとブラジルの政府専用機として採用されたB747-8I。後者はエアラインのように美しい塗装(ウィキペディア英語版より)

ロシア製のアントノフ124があるじゃあないか、と言われるかもしれないが、同機はとうに生産は中止されており、そもそも軍用機で、大量生産向きに作られた機体ではない。

「高速大量輸送」と言う点では、今なお747しか持たない芸当なのに、世相は表面上だけで「時代遅れ」としている。

これは大きな誤りであると思う。

決めつける前に、そして思わぬ惨事ではあるけれど、コロナ禍でエアライン事情は再び大改革を余儀なくされることは間違いない。

その時「747だったら・・」と言う時が来るかも知れない訳で、今全てを切り捨てるのは尚早だと思う。

1A12 UPS B747-8F-N611UP@HKG_(20190125173611).jpg

1A12 UPS B747-8F-CGN_20190331_N610UP_04.jpg ←(2枚)今も納入が続くUPSのB747-8F(ウィキペディア英語版より)

もちろん「商売」だから、のんきに構えられないのは承知の上だが、「道具」をただ新しいもの=優秀・正しいと考えるのはおかしい。

それは歴史上でも証明されており、いつか後悔しても遅い。

せめて当分は「8」だけでも何とか生き延びて、それを証明して欲しいと切に願う次第である。

1A12 NCA_B747-8F_Nippon_Cargo_31_jan_2013_jfk_(8441063755).jpg

1A12 NCA_B747-8F,_JA18KZ_-_NRT_(19213672140).jpg

1A12 NCA B747-8F-JA12KZ@HKG_(20190220125400).jpg ←(3枚)日本で唯一「B747」を保有・運航する日本貨物航空(ウィキペディア英語版より)



なお旅客型「8I」を保有するルフトハンザ・中国国際航空・大韓航空では、今のところ同機の退役は予定しておらず、当面運用を続ける見込み。

貨物型「8F」は、日本では唯一日本貨物航空が8機保有しているが、こちらも将来の活躍が約束されている。

B747-8は現在まで153機受注し、これまで約140機が生産された。

内訳は「8I」が47機、「8F」が106機である。





今週はずっと傘が手放せない。

降り続くのは困るけれど、断続的も困りもの。

私は直径65センチの大きめの「ビニ傘」と、軽量コンパクトの折り畳みを持っているが、毎日迷う。

折り畳みはあくまで緊急用で、小雨や霧雨は凌げるけれど、本降りでは役に立たない。

ビニ傘は鞄や買い物もカバーできる大きさだけど、傘自体が重く、使わない時はひたすら邪魔だ。

車を使っていた時代は、傘など重要でなかったけれど、今は雨ごとどうしようかと迷う。

普段気象庁のウェブサイトにある「短時間雨予報」などで判断しているが、正解率は意外と低め。

信じすぎるとバカをみる。疑心暗鬼だ。

今夜は大きな傘は必要ないと判断して出かけて正解で、久し振りに傘を持たずに帰宅した気がする。

傘の存在感は、意外と大きいのだなと思う。

でも西日本では、数日後まで大雨の恐れがあり、仙台も週間予報には全て傘マーク。

梅雨だから・・と思いたいが、被害が出ていると思うとやり切れない。

暑いのは嫌だけど、真っ青な青空が広がる夏の方がやはり良い。

コロナも東京を中心に、収まりを見せようとしていない。

県内も入院加療中の人は数人まで減少したが、ぽつぽつ感染者が出ており、総数として100人超えは確実。

蒸し暑さ、続く雨、そしてコロナと苛立たせられてばかりだ。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

雨が続いていますが、君に影響は出ていないでしょうか?

コロナの事もあり、蒸し暑さや雨派本当にイライラしてきます。

かと言ってどうしようもないから、少しでも和むことも必要です。

君も今は仕事でも、コロナ対策があって大変かと思いますが、プライベートでは充分注意しつつ、リラックスを心がけて下さい。

本格的に暑い訳ではありませんが、蒸し暑さで身体に変調をきたしやすくなっています。

特に夜の自宅では、気付かないうちに熱中症になる危険もあるので、努めて涼しく、水分も充分補給して過ごして下さい。

明日も雨の予報が出ているので、外出時には足元も気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




月待ちて 家には行かむ わが挿せる あからたちばな 影に見えつつ(万葉集巻十八 4060 粟田女王)

恋するクリームソーダ(7月6日 雨時々曇り 23℃)

ただでさえ陰鬱な月曜日に、輪をかけたように雨が続く。

梅雨だから仕方ないけれど、そうも言っていられない。

前線の停滞で集中豪雨になった九州南部では、1日以上経って甚大な被害が明らかになった。

今日までに死者・行方不明者は50人に及び、山間部では道路、通信も途絶して被害状況さえわからない地域もあると言う。

梅雨前線はしばらく停滞する見込みで、九州から東北までの広範囲で大雨の恐れがある。

仙台は相変わらず降り方が断続的で、時々本降りの時間帯もあり傘が手離せない。

奇しくも2年前に、やはり活発化した梅雨前線の影響で岡山県や広島県で大きな被害となり、多数の犠牲者が出た。

当時私の知り合いが岡山県に住んでいて、安否確認に何度もメールのやり取りをした。

幸い知り合いの住んでいる地域に被害はなかったが、大雨が深夜だった為避難すべきか自宅に留まるべきか、大いに狼狽したと言う。

今はスマホやパソコンでリアルタイムの情報が得られ、活用するように推奨されているが、実際には発信元自体が混乱し、情報の信用度が確保出来ない事もある。

昨年秋の台風では、通信設備自体が被害に遭い、全くの役立たずだった事も取り沙汰された。

結局情報はある程度の「参考」にして、最終判断は各々…と言う無責任な結論になってしまう。

ここ数年間、自然災害が増え続けているにもかかわらず、毎回犠牲が出る。

要するに情報なんちゃらが、全く役に立っていないと言う事ではないか。

昔の人は情報などなくとも、犠牲を払いつつ潜り抜けて来たと思う。

ありとあらゆる手段がある現代に、何故毎回犠牲が出てしまうのか。

まずそれを考えなければならないと思う。



たまたま新聞の特集記事に、目が留まった。

定期的に掲載されている地元のお店や食文化を紹介する記事で、今回は仙台市内にある老舗の「喫茶店」だ。

そう、カフェではなく喫茶店である。

申し訳ないが「平成世代」には、一体何の事?と、すぐさま「ググる」だろうか。

取材先は市内中心部にある「E」と言う喫茶店で、創業以来40年以上のまさに老舗である。

実は私もこの店を知っているし、何度か行った事もある。

失礼ながら、記事を見て「まだあったのか」と思い出した次第である。

記事によれば、今から3年前に元々の経営者が年齢を理由に閉店する予定だったと言う。

それを耳にしたある常連客が惜しんで、それまでのサラリーマン生活を脱して「後を継いだ」そうである。

昔懐かしい「喫茶店メニュー」はそのまま受け継ぐと共に、新オーナー独自のメニューも数多くラインナップされているそうだ。

店の最大のウリは「クリームソーダ」。

前オーナーの時代から看板メニューであったが、現オーナーは更に進化させて7種ものテイストのクリームソーダを開発した。

オーナーは7色にあやかって「レインボーフロート」と名付けていて、SNSでも評判になっていると言う。

ただし伝統の「クリームソーダ」は7色に入らず、別格の扱いなのだそう。

因みに「レインボーフロート」は、赤(ストロベリー)・黄緑(マスカット)、オレンジ(マンゴー)、紫(グレープ)、黄色(パイナップル)、ピンク(ピーチ)、青(ブルーハワイ)。

お分かりの通り「フロート」とはアイスクリームを浮かせてあるから。

敢えて差別化したのは、元祖クリームソーダに敬意を表しての事。

またも年寄りのボヤキになってしまうけれど、「クリームソーダ」とはメロンソーダにバニラアイスクリームを浮かせてあるものだ。

本来ソーダと言うのは「炭酸水」を意味するが、喫茶店文化が出来た昭和初期にメロンソーダ自体を指す言葉として定着した。

Creamsoda_Ueshima1.jpg ←これが元祖クリームソーダの姿(ウィキペディアより)

諸説あるが、戦前の日本では炭酸飲料と言えば「ラムネ」と「サイダー」くらいしかなかった。

因みに「ラムネ」はレモネードが訛った単語、「サイダー」はシードルから訛った単語だ。

そのせいか、戦後も感覚として定着しており「昭和世代」は、ソーダと言えば緑色の「メロンソーダ」が当たり前なのである。

今は多種多様な飲み物があり、「ソーダ」だけでは何の事か通じないに違いないし、わざわざ「メロンソーダ」と言わなくてはならない時代だ。

私が20代の頃まで、クリームソーダは喫茶店だけでなく、レストランでも定番中の定番ドリンクメニューであり、中には和食の店でもデザートメニューで置いていた。

昔は「炭酸水」と「メロンシロップ」を合わせて作る。

メロンシロップとは、この季節になるとスーパーに並ぶ「かき氷」用のメロンシロップだ。

作るには結構コツがいり、炭酸水とメロンシロップの比率や混ぜ方の他、アイスクリームも上手に浮かべないと炭酸が反応して泡立ってしまったり、底が溶けてお客さんに持って行く時にソーダが濁ってしまう。

ちょっと洒落た喫茶店だと、炭酸水とメロンシロップはわざと攪拌せず、透明部分とグリーン部分が綺麗に分かれていたりする。

アイスクリームはもちろんバニラが原則で、大抵脇には真っ赤なチェリーが載っていて、良いアクセントになった。

メロンソーダは透明グリーン、これがとにかく美しく、何よりも美味しそうなのだ。

今も変わらないけれど、綺麗ではあるが、あの緑色は正直毒々しい。

だいたいメロンを絞っても、絶対あんな透明感のある綺麗な緑色にはならないはずで、私も子供の時からわかっていた。

だが飲めば、やはりメロンソーダなのである。

でもメロンソーダに、メロンの果汁は入っていない。

香料がメロンっぽくなっているだけだし、へ理屈的に味わえば果たしてメロンの味なのか?と思う事必至である。

なのにあのガラス細工のような「クリアグリーン」は、心を魅了して止まないのだ。

近年市中で、元祖「クリームソーダ」を見かけなくなって久しい。

喫茶店自体が少なくなったことや、上記のように意外と手間がかかることが理由だろう。

またファミレスなどでは、セルフサービスでお代わり自由の「ドリンクバー」が主流になり、単品でのドリンクメニューは殆ど見かけなくなった。

面白いことに、ドリンクバーにはたいてい「メロンソーダ」がある。

見ていると、意外にも人気が高いのである。

子供のみならず、大人でもあの濃い「緑色」のメロンソーダを飲む人が結構いる。

何となく男性が多い気がするし、10~20代の若者が多いようだが、時にはおっさんでも飲んでいる人がいる。

なるほど「男子」が好む色なのかしらん・・?と思うのだが、どうだろうか。

中年男ならば、おそらく子供の時の「クリームソーダ」を思い出して飲んでいるかも知れない。

残念ながらドリンクバーでは、クリームソーダを体験できない。

強いて言えば、ファミレスならばたいていデザートメニューで単品の「アイスクリーム」があるだろうから、別オーダーして自分で浮かべる・・と言う方法だろうか。

そういう人は見かけたことがないが・・・。

私は子供の時は大好物で、まさに夢の飲み物だった。

外食の習慣がまだ浸透していない時代であり、せいぜい年数回連れて行かれればよい方だ。

それも寿司屋やそば屋ではないから、レストランでなければクリームソーダはなかった。

高校生になると、友人もしくは一人で「喫茶店」に行くことを覚え、この時代はどこの喫茶店でも置いてあった。

だがちょっと大人びて来たから、「クリームソーダなど子供っぽい」などと、訳のわからない理由で我慢して、コーヒーを飲んでいた。

逆に大学生になると、そうした羞恥心が薄れ、時々飲むようになったが、同時に喫茶店自体が減少してしまった。

母もクリームソーダが大好きで、メロンソーダが濃い薄い、アイスクリームが上手いまずいなど、なかなかの「評論家」。

特にアイスクリーム好きでもあったので、毎年旅行に行っていた北海道では、単品のほかクリームソーダを探す事もよくあった。

もちろん私も付き合っていたのだが、どうも母親と一緒だと照れが出るのか、どうしてもコーヒーを頼んでしまい、美味しそうに飲む母の姿を心の中できりきり舞いしつつ眺めるばかりであった。

もう母とクリームソーダを飲むことは出来なくなったし、仮に見つけてもさすがにオッサン一人で頼むのは更に憚れる。

件の「喫茶店」では、新オーナーのアイディアである「レインボーフロート」を「制覇」しようとするツワモノもいるとか。

中学生のころだっただろうか。

街の自販機に、「クリームソーダ」が売られていることを発見したことがある。当時ペットボトル飲料はないから、当然缶飲料である。

ご丁寧に、缶には思い浮かべるようなクリームソーダのイラストが描かれており、おバカ中学生は大いに興奮した。

しかし一体缶ジュースなのに、アイスクリームと「ソーダ」はどうやって入っているのだろうか・・という疑問にぶち当たった。

少し考えれば分かることなのに、とりあえず喜び勇んで買った。

さっそくプシュッと開けてみると、おお!、穴から湧きたつ香りは正にメロンとバニラの香り。

一口飲んでの感想は「・・・・」。

当然である。どう考えてもアイスクリームが入っている訳でなく、「バニラメロン」的な飲料であった。

そう、思い出したが、クリームソーダを体験した人はどうやって飲むだろうか?

浮かんだアイスクリームは、当然時間と共に溶けて来る。

私はアイスクリームが好きなので、殆ど一気に食べてしまう派。

アイスクリームが溶けて混ざると、それはそれで美味しいのだが、炭酸が弱まるのと、あの綺麗なクリアグリーンが濁ってしまうのが嫌い。

どうしてもそうなってしまうのだけれど、少しでもそれを回避したくて、アイスクリームはあらかた食べてしまう。

逆に「バニラミルク」風が好きな人は、ほんの少しだけ食べて、わざわざアイスクリームをかき混ぜて溶かすのが好きな人もいる。

大半は「半々」と言う人だろうか、母はさすが親子だけあって、私と同じくソーダの透明感をギリギリまで楽しむ派だった。

好みで楽しめるのが魅力の一つだが、缶ジュースのクリームソーダは、まさに「バニラメロン」味だったのだ。

現在もペットボトル飲料として店頭に並んでいて、人気商品と聞くが、あれは「クリームソーダ」ではない!と思う。

最も欧米ではアイスクリームを溶かした状態で飲むのが定番だそうで、綺麗に浮かせて見栄えを良くし、本人の好み次第で味を楽しめるのは日本だけだそうである。

思い出したが、子供の頃「ソーダ」自体がメロンソーダの事を指していたが、喫茶店のメニューでは「ソーダ水」になっていることが多かった。

今ならば「ソーダ水」とは、無味無臭の「炭酸水」の事を言うが、昔はアイスクリームがない「メロンソーダ」の事だった。

もちろん炭酸水も存在したが、今みたいに水の代わりに飲む習慣はなく、業務用が主流。

ウィスキーや焼酎などを「割る」材料で、商品名は単なる「炭酸」だった。

缶入りはなく、殆どビン詰めだったと思う。

今普段私が動く範囲で、「クリームソーダ」を提供している店は知らない。

その中で記事に載った「喫茶店」が、今も頑張っていることは感動すら覚える。

喫茶店の良さは、比較的安価でありながら、コーヒー一杯でもきちんとした「手作り」が基本だったこと。

最近のカフェは、ドリンクバーと同じでコーヒーは機械で瞬時に作ってしまう。

優秀な機会なのだろうけれど、「サイフォン」や「ドリップ」で一杯ずつ淹れる店はほとんどなくなった。

逆に言えば、いつでもどこでも美味しいコーヒーが飲める良い時代になったとも言えるが、さすがにクリームソーダは機械では絶対作れない。

贅沢を言えば、出来合いのメロンソーダを使うのではなく、昔と同じく「炭酸水」とシロップをマニュアルで混合した方が美味しい。

記事の店も、そうやって提供しており、それが客の支持を得ていると言う。

そしてリラックスできるインテリア、雰囲気も喫茶店には大切な要素で、行くこと自体が癒しだったように思う。

こんな記事を目にしたのは偶然だけど、ふとこんな思い出が湧いて来た。

ちょっと恥ずかしいけれど、一度行って見たくなった。

母の写真を連れて、何年振りかに一緒に・・・。

本当は、今でもあの美しい色合いは、私の心をワクワクさせているのだ。






元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

鬱陶しい梅雨空が続き、今後しばらくも続きそうです。

気分も萎えてしまいますが、高温多湿は物理的にも影響します。

相変わらずコロナが気になりますが、それに加えて蒸し暑さからの注意も怠らないようにして下さい。

メロンソーダで思い出しましたが、今も君は「緑色のメロン」はダメですか?

あまり言うと怒られそうですが、私は今も「メロン=緑」だと思っています。

時々「赤玉メロン」のジュースも見かけますが、例え「無果汁」であっても、私は透き通った緑色が「メロンンジュース」です。

明日も雨が降りそうで、一時的に強く降る予報が出ています。

外出には充分気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



吾背子が その名告らじと たまきはる 命は棄てつ 忘れたまふな(万葉集巻十一 2531 正に心緒を述ぶ)


飛行機ネタ B727を駆逐、MD-80シリーズの実力(7月1日 曇り時々雨 27℃)


今日から7月。

2020年がちょうど半分を過ぎたことに、いつの間に・・と言う思い。

この半年間は、コロナ・コロナばかりでただただ過ぎたような気がする。

お正月、誰もが「今年は良い1年でありますように」と祈り、オリンピック開催に期待を寄せていたのが嘘のよう。

そう、本来ならば今日あたりは「いよいよ今月!」と、大騒ぎだったに違いない。

未来は誰も予測できないけれど、まさか何もかもが消滅してしまうような事態になるとは。

大都市圏では再び感染者の増加が高まり、歓楽街の「再要請」も取りざたされ始めている。

活発な梅雨前線で、東海や中部地方、関東では大雨。

仙台も午後から夜にかけて激しい雷雨・・と言う予報が出ていたが、ここしばらくと変わらず小雨が断続的と言う空模様だった。

6月に於いての降水量は全国で平年より多めで推移したが、なぜか宮城を含む東北南部だけ平年の3割程度に留まっていると言う。

いやな梅雨空続きなのだけど、確かにまとまった雨は殆どなく、それでいて小雨ばかり降ったり止んだりと言う天気だ。

今日も湿度ばかり不快で、ちょっと歩くだけでじわっと汗をかいてしまう。

それでいてエアコンは「除湿」でもひんやり感じてしまい、とにかく中途半端な暑さだ。

街の人も服装に悩んでいるらしく、今日は半袖で充分だと思うが、エアコンを気にしてか長袖の人も多い。

と言うよりも、むしろ長袖の人の割合が高かったのではないか。

今日からお店の「レジ袋」が有料化された。

終日メディアで報じていたが、スーパーやドラッグストアなどは既に有料化されて久しい。

ただ今度は「規格」内の袋が基本的に有料化され、テナントや一般商店でも基本的に有料になる。

主だったのはコンビニで、およそ1枚3円かかるようだ。

スーパーではこれまで袋の種類によって有料・無料があったが、全て有料化され一部が廃止されている。

確かに私もコンビニでは意味なく袋に入れてもらい、家では即座に捨ててしまう事もある。

スーパーの買い物には「マイバッグ」(と言うか、ためておいた大きめのレジ袋)を繰り返し使うようにしているが、コンビニではついもらってしまう。

家ではなるべく生ごみを入れたりして使うように心がけているが、時には1日で何枚も貰ってしまう事もあり、いつの間にか溜まって結局捨てることになる。

捨てる時は必ず「プラゴミ」にしているが、やはり資源の無駄遣いに思えるのは確かだ。

だが規制をなんでも「お金」で解決しようとするのもどうか、と思う。

最初のうちは意識するかも知れないが、3~5円だから面倒臭くなって貰う人が増える様な気がする。

国としては儲かるから、本当はそれを狙っているのかも知れないが。

最もレジ袋は、国内で消費されるプラ製品の僅か数%なのだそうだ。

無責任に捨てて「環境汚染」と言われるのであって、有料化することで減少するとは思えない。

一時的には減少するだろうが、結局元に戻る様な気がする。

私は昔のように「紙袋」に戻すべきではないか、と思っている。

再生紙で充分だし、廃棄されても「土」に戻るだけだ。

この国は二言目には「コスト」を口にするが、有料化してもプラゴミは増え続ける。

紙袋の方が長持ちするし、環境にも優しいではないか。

持ちにくいと言うかもしれないが、取っ手をつければ良いし、スタンダードになればコストは下がるはず。

なぜ単純に有料化に走るのか、ちょっと理解に苦しむ。

屁理屈なのだけど、レジ袋は底が「閉じた」構造なので、例えば大きめで四角い物は非常に入れにくい。

食料品などで傾くと困る物など、何とか底に収めても持ち歩いているうちに袋がすぼまって、いつしか中でひっくり返っていることがある。

そもそもあの構造は、物理的に「理にかなっていない」のである。

その点昔スタンダードだった紙袋は、底が平面になるから荷物はきちんと収まりやすくできている。

「物を入れて運ぶ」と言う機能を、ちゃんとこなしているのに、プラ袋には「無理」があるのだ。

このことを、今も日本人は忘れている・・と言うよりも知らない人が多い。

私はぜひ紙袋に復活を望みたい。







飛行機ネタ。

先月初め、アメリカの大手デルタ航空から、国内線用機材だったナローボディ機「MD-88/90」が全て退役した。

両機種は老朽化及び後継機種が充足するにあたって、21年を目処に退役が予定されていたが、コロナ禍の影響で計画を前倒しした。

こうした状況は各国のエアラインで深刻化しており、つい先日はエール・フランスからA380が全機退役してしまった。

古い機種は止むを得ない部分もあるが、A380やB777と言った新しい機材も「余剰」となりつつあるのは、いかにコロナが深刻な事かを改めて認識させられる思いである。

日本では13年に日本航空のMD-90が退役し「ダグラス」の血筋は絶えてしまった。

これまで何度か書いて来たが、忘れ去られようとしている同機を改めて見てみたい。

1A9-HarlequinAir_MD-81_fukuoka_20041003113216.jpg ←ハーレクイン・エアで使われたMD-81(ウィキペディア英語版より)

MD-80は個別の名称ではなく、一連のシリーズの総称で、基本型となるのが「81」で、その改良型に「82」「83」「87」「88」があり、更に発展させたのが「90」である。

同シリーズは、60年代にアメリカの名門航空機メーカー「ダグラス」社が開発した短距離用小型旅客機「DC-9」に源を発する。

DC-9はジェット化が進み、航空需要が大きく伸び始めた頃に、近距離用の需要も高まると見て開発された機体である。

ライバルだったボーイングとは熾烈な開発競争を演じており、アメリカでは初となる量産型長距離用旅客機「B707」と「DC-8」は、世界中をジェット時代に染め、まさに「ガチ勝負」を行っていた。

1A9-Delta_Air_Lines_MD-88;_N930DL@DCA;19.07.1995_(5517398488).jpg

1A9-Delta_MD-88_(36081871410).jpg ←(2枚)6月に退役したデルタ航空のMD-88初期塗装と現行塗装(ウィキペディア英語版より)

そして60年代初頭、ボーイングは707をベースに一回り小型化し、エンジンも4発から3発にした中型機「B727」を開発した。

707は大型長距離機だったが、初期の727は150席前後の中型機で、2~3,000キロの航続力を持つ機体だった。

これが大ヒットとなり、すぐに胴体を延長し座席数を増やした「200」型が更に大ヒットすることになる。

だがダグラスは、国内線や近距離国際線向けの機体はボーイングに一歩出遅れていた。

そこで開発したのが90席級と言う、ごく小型の双発ジェット「DC-9」であった。

1A11_SAS_DC-9-21;_OY-KID@ZRH;17.05.1998_(5134777839).jpg ←SASのDC-9-21。20型は10型のエンジンをパワーアップした型(ウィキペディア英語版より)

同機がデビューしたのは65年の事だったが、それは驚きを持って迎えられた。

当時ジェット旅客機や大型機を運航するには、2人のパイロットの他、航空機関士が必須だった。

更に初期には航法士など、運航乗務員は3~5人が必要であり、ジェット機に関しては最低3人と言う規則が設けられていた。

それは座席数や機体の規模に寄ったが、ダグラスはその規制をクリアする小型機とすることで、同機を2人乗務機としたのである。

軍用機では事例があったが、民間のジェット機では初めての2人乗務機であり、それはエアラインの人件費を削減することを意味した。

短距離用小型機である以上、システムの操作と管理は機関士なしでも行えるようにし、レーダーも最初から標準装備した。

DC-9の登場で、それまで古く遅いプロペラ機しかなかった路線が、一気にジェット化されることになり、同機はベストセラーになった。

驚いたのはボーイングも同様で、急きょB727を小型化し双発機にしたB737を開発するに至らしめたのである。

1A9-Japan_air_system_DC-9-40.jpg ←70年代に東亜国内航空が導入したDC-9-41(ウィキペディア英語版より)

DC-9はダグラスのお家芸でもあった「ストレッチ」化され、最初のシリーズである「10」型から110席級の「30」で、より売り上げが伸びた。

アメリカだけでなく、世界中が同機のおかげでジェット化され、運賃も値下げできるようになっていったのである。

機体価格も安価で抑えられていたため、就航後10年と待たずに減価償却に至ったが、今度は「豊漁貧乏」に陥ってしまうほどであった。

航空需要は70年代になると急増し、後を追うB737も販売業績をどんどん伸ばしていた。

ダグラスは更に737を引き離すべく、DC-9の「肥大化」を計画していた。

既に最初の生産型であるDC-9-10から、胴体延長は回を重ねて「50」型では約8メートルも伸び、座席数も140席に増えていた。

DC-9シリーズで最も売れたのは110席級の「30」型だが、B737は僅かに多い120席級であった。

そこで120席級の「40」、そして140席級の「50」と発展したが、737と決定的な違いだったのは胴体の直径だった。

同機の胴体意匠は、長距離4発機DC-8そのものであるが、近距離機と言う事で直径は一回り小さくしてあった。

一方B737も、4発機B707の胴体を流用していたが、直径はほぼ同じで、座席配置はDC-9が2-3の5列だったのに対し、B737は3-3の6列であった。

1A9-MD-82,inside_the_cabin.jpg ←DC-9からMD-90まで一貫した2-3列配置のキャビン(ウィキペディア英語版より)

たった1列の違いだが、キャビンの広さの違いは明白であった。

最もダグラスは737の前からキャビンの狭さは認識しており、内装を工夫して少しでも空間を取れるようにしていた他、客室窓を大きくすることで採光性を向上させていた。

これはのちのMD-90まで受け継がれた大きな特徴で、胴体の構造材も工夫しており、大きな窓による強度不足を解消させていた。

同シリーズの窓は楕円形ではなく、四隅は丸みを帯びているものの四角に近い形をしており、737のそれと比べると11%面積が大きかった。

だが利用客が増えると、B737の方が居住性が高いと認識された他、DC-9のように胴体を大きく延長せずとも座席数を確保できるのは737の方が優れていた。

1A9_DC-9-51_HB-ISM_-Wettingen-_(28311505576).jpg

1A9_MD-81,_Austrian_Airlines_JP6204606.jpg ←(2枚)スイス航空のDC-9-51とオーストリア航空のMD-81(ウィキペディア得英語版より)

ダグラスは737と張り合うよりも、老朽化しつつある「B727」に狙いを定め、更に胴体を延長し、かつシステムを更新した新シリーズの開発に70年代半ば着手した。

これが新たな「DC-9-80」シリーズであったが、「豊漁貧乏」による経営不振、それに伴って発生した経営上層部の争いが同社の経営を追い込む形となり、70年代末戦前から続いた名門「ダグラス」は、軍用機メーカーだったマクドネル社に売却・統合と言う形を取って破綻を回避した。

新型は更に胴体が延長され、それまで最も大きかった「50」型から更に5メートル近くも伸ばされ座席数は170席に増加した。

受注は順調で、原型機は78年に初飛行したが、同時に「マクドネル・ダグラス」に社名を変更したことから、機体の名称も「MD-80」に変更されることになった。

最も機体の法的な開発登録は「DC-9-80」で、あくまでDC-9一族の改良型と言う機体とされた。

翌年ローンチカスタマーの一つであったスイス航空(現スイス・インターナショナル)に納入され、就航した。

開発には基本型をベースに「オプション」型が用意されており、以後それが「82」「83」として生産される。

1A9-American_Airlines_MD-82;_N411AA.jpg

1A9-Alaska_Airlines_MD-83_N977AS_2322622821.jpg ←(2枚)アメリカン航空のMD-82とアラスカ航空のMD-83(ウィキペディア英語版より)

MD-81のエンジンはDC-9シリーズと同じく、P&W社製の低バイパスターボファン「JT-8D」だが、低燃費・低騒音に改良した「200」シリーズが標準で搭載された。

操縦システムも踏襲して、開発費を極力抑えることで機体価格も安価に仕上げたが、これはダグラス伝統芸でもあった。

最新システムは意外と消極的で、これまで培ってきた技術を熟成させ、確実な物を採用するやり方であった。

当時としては的を得た方式であり、故障が少なく、既に長期間DC-9を運用していたエアラインにとっては維持しやすいことも売れる理由であった。

航法機器などは最新型が搭載され、INSなども標準化された。

MD-80の登場は、エアライン事情に少なからぬ影響を及ぼした。

1,000機以上のベストセラーで、20年近く生産されて来たB727が、同機の登場で生産停止に追い込まれたのである。

B727は180席級で、MD-80シリーズとほぼ同格である。

開発時期を考えれば仕方ないのだが、B727は3発機で、航空機関士が乗務する3人乗務機。

絶大な信頼を得ていた中距離機ではあったが、座席数が同じならば新しいMD-80に顧客が流れるのは当然であった。

1A9_MD-87_(DC-9-87),_Scandinavian_Airlines_-_SAS_AN1481402.jpg ←MD-80シリーズで唯一の胴体短縮モデル、SASのMD-87(ウィキペディア英語版より)

DC-9ユーザー以外に、B727ユーザーもこぞって採用するとともに、よりB727に近い性能も求められたことから、計画のあった「82」「83」も生産されることになり、それぞれ81年と83年に就航した。

「MD-82」はエンジン出力向上型、「MD-83」は燃料タンクを増設した長距離型である。

一方87年に登場した「MD-87」は、胴体を逆に短縮し120席級の「DC-9-40」程度にした機体で、コクピットに初めてグラスコクピットが採用された。

「MD-88」は、「MD-83」にそのグラスコクピットをつけたタイプである。

1A9-MD-83_flight_deck.jpg

1A9  MD88 The_Flight_Deck_of_the_Maddog_(2930792642).jpg ←(2枚)MD-81~83(上)とMD-88のコクピット(ウィキペディア英語版より)

この辺がとてもややこしく、マクドネル・ダグラスの命名法は分かりにくい。

ボーイングのように、「MD-80-200」とでもした方がはっきりする気がする。

DC-9では、胴体が長くなるにつれ数字が大きくなっていたが、MD-80シリーズでは唯一MD-87が外観で識別できるが、ほかの4タイプは区別がつかない。

出現当時は採用エアラインで区別できたが、機数が多いことで中古機の動きが多く、現在ではよく調べないとどの機種かわからないこともある。

MD-80は、全タイプ合わせて1,191機が生産された。

DC-9は976機、MD-90は116機だから、総合すると2,283機が生産されたことになる。

MD-80シリーズに限って言えば、「81」は132機生産され、最終号機は94年に旧日本エアシステムに納入された。

最も多く生産されたのは「82」で、539機。最後の機体は97年に台湾のUランド航空機。

「83」は265機生産され、最後の生産機は99年のTWA機。

同機は中国でも30機が生産されている。

「87」は75機生産、92年のSAS機が最後。「88」は150機生産され、97年にトルコのオヌール・エアに納入された。

日本では70年代半ばに東亜国内航空が、同社初のジェット機として「DC-9-41」を導入した。

「40」型は同社の他、ノースウエスト航空やSASの要望に応じて作られた120席級の機体だったが、納入が間に合わず、短期間ではあったがノースウエスト航空から30型と50型をリースして、予定通り就航させたという経緯を持つ。

短期間リースだったため、機体はアメリカ籍のまま。

当時の東亜国内航空にアメリカのライセンスを持っているパイロットがいなかったことから、「パイロット込み」のウェットリースでの運航だった。

同社のDC-9は非常に有益で、全国のローカル空港のジェット化に大きく貢献した。

また北海道や九州の「島内路線」にも投入され、距離にして3~400キロ、フライトタイムも3~40分と言う短い路線でもジェット機が有効であることを証明した。

同社は80年に「MD-81」を発注したが、最初の9機は敢えて「DC-9-80」として導入した。

メーカーでは既に同機の呼称をMD-80にしていたが、運用していたDC-9-41と乗務員の共通化を図るための措置であった。

MD-81ではアナログ計器ではあったが、DC-9よりも新しい配置と機器に変更されていた。

その為パイロットのライセンスは別物扱いとなり、一定の移行訓練が義務化されていた。

1A9-TDA_MD-81_(8544137766).jpg

1A9 JAS_DC-9-81(MD-81)_(JA8462-48033-988)_-_Flickr_-_contri.jpg ←(2枚)TDA(東亜国内航空)時代のMD-81と日本エアシステムに変更後も運用されたDC-9スーパー80(ウィキペディア英語版より)

東亜国内航空では、座席数が飛躍的に増えた同機を即座に戦力化させたいのと、訓練プログラムのコストを嫌って、わざわざマクドネル・ダグラスにDC-9と同じ仕様のコクピットを注文したのである。

これにより同社ではDC-9-41と同じライセンスで操縦できることになり、パイロットは大型化された機体のクセを覚えるだけで乗務できたのである。

だが「特別仕様」はあくまで特別であり、10機目以降に関しては「MD-81」として新しいコクピットの機体が納入された。

その為初期の9機は「DC-9スーパー80」と言う独自の呼称をつけて、運用も区別していた。

東亜国内航空は88年、規制緩和による国際線進出を目指し「日本エアシステム」に社名を変更したが、90年代後半まで両機種が併用されている。

MD-81の方が多数派になったので、パイロットは古い「スーパー80」も操縦できるようになったが、整備上の違いもあって、晩年の「スーパー80」は福岡ベースに集約され運用された。

またMD-81でも、初期導入機はテールコーンが「スーパー80」と同じく円錐形で、その後の機体は空力性を改選した扁平型に変更されている。

1A9-JA8260_MD-81_JAS_KIX_11JAN99_(6908966581).jpg

1A9-JapanAirSystem_MD-81_fukuoka_20040911134418.jpg

1A9-JapanAirlines_MD-81_JA8496 fukuoka_20050314151738.jpg

1A9-JapanAirlines_MD-81_fukuoka_20041023103320.jpg ←(4枚)円錐形のテールを持つ初期型と扁平形の後期型(ウィキペディア英語版より)

同社の機体は日本エアシステム時代に最盛期を迎え、文字通り全国を飛んだ。

2000年代になると、子会社として立ちあげたチャーターエアライン「ハーレクイン・エア」に1機が移籍し、オリジナルの塗装がファンの間で人気となった。

最も同機は日本エアシステムに「ウェットリース」と言う形で運航され、それまで通りエアシステム便として定期運航を続けた。

期待されたチャーター運航は、同じく移籍したDC-10が主体で、MD-81は表向きの機体だった。

それでもキャビンはオリジナルに改装されており、乗務員も「ハーレクイン・エア」の社員であった。

日本航空との統合後は、古い「スーパー80」は引退したものの、MD-81は「JAL」塗装に変更され、主に旧日本エアシステムの路線を中心に運用された。

1A9-HarlequinAir_MD-81_fukuoka_20040812153958.jpg

1A9-HarlequinAir_MD-81_fukuoka_20041023120134.jpg

1A9-Harlequin_Air_MD-81-JA8552-Fukuoka_airport-20040613_165842.JPG ←(3枚)たった1機フルカラーになったハーレクイン・エアのMD-81(ウィキペディア英語版より)

00年代後半には「JALエクスプレス」に移籍し、新たな路線も飛ぶようになった。

MD-87は8機導入されたが、こちらは胴体短縮で軽量化されながらもエンジンはMD-82と同じものだったことから、離着陸性能に優れており、滑走路が短く、プロペラ機YS-11でしか運用できなかった空港への路線に投入された。

日本航空との統合後は、主に北海道内路線などへ転出したが、座席数が少なめだったことで、MD-81よりも先に退役している。

日本エアシステム・日本航空のMD-81のエンジンはしばらく標準の「JT-9D-209」だったが、MD-87の導入後は整備性を考慮して同期と同じ「JT-8D-217」に換装されていた。

1A9 JAS_MD-87_JA8371_HND_13JAN99_(6909063007).jpg

1A9-Japan_Air_Lines_MD-87_(JA8281-49467-1742).jpg ←(2枚)離着陸性能の良さで限定運用されたMD-87は、日本航空移籍後は域内限定運用が多かった(ウィキペディア英語版より)

意外と知られていない事実だが、これは高出力型だった「MD-82」と同じスペックのエンジンであったが、同社では機体重量を変更せず運用していた。

その代わり離着陸性能が向上することになり、それは燃費向上と低騒音に繋がることであった。

元々MD-82は、高地や高温地域での運用を考慮してエンジンの出力を上げた機体だったが、日本では経済性に特化させる運用を行っていたのである。

1A9 JAL_MD-81_(DC-9-81),_JAL_Express_-_JAL_AN1605065.jpg

1A9_MD-81_(DC-9-81),_JAL_Express_-_JAL_AN1600374.jpg ←(2枚)晩年には「JALエクスプレス」機として大阪・伊丹ベースで運航されたMD-81(ウィキペディア英語版より)

こうして見ると日本の「MD-81」は、初期の「スーパー80」、テールコーンの丸い「MD-81初期型」、そしてエンジンを換装した「オリジナル」の3タイプが存在したことになる。

加えて「JT-8D-217」装備のMD-81は、エンジンナセル(カウリング)も防音仕様になっており、一見では判別しにくいものの下部が従来型より若干膨らみが大きくなっている。

こうした「改良」は、DC-9以来30年以上運用し続けて来た技術の蓄積であり、運用期間中大きな事故は一度も起こさなかった。

日本航空に移籍語は旧態然とした機体になってしまったが、キャビンも日本エアシステム時代から全く変わらなかった。

古い機種なので改装しなかった訳だが、最後までオーディオシステムもつかない機体であった。

だがリアジェット機だったのでキャビンは思いのほか静かで、後部座席以外はどこでもそうだった。

最も後部席もエンジンの前に位置していたので、騒々しいと言うほどでもない。

実際B737やA320に比べると、静粛性と言う点では勝っていたように思う。

1A9-JapanAirSystem_MD-81_fukuoka_20050213154300.jpg

1A9-JapanAirSystem_MD-81_fukuoka_20040926125020.jpg ←(2枚)スマートなシルエットと「JAS」カラーは良く似合っていた(ウィキペディア英語版より)

更に静粛性に優れたエンジンを持つMD-90はなおさらで、快適な旅客機だった。

狭く思えるキャビンも「ダグラス流」は、それを感じさせなかった。

主翼はエンジンがないので細長く、視界を大きく妨げることもなかった。

同シリーズの操縦システムは、今のレベルから見ると極めて原始的である。

操縦は基本的に「人力」で行われ、フラップと前縁スラットが油圧作動、水平尾翼のトリムが油圧と電動で作動するが、補助翼・昇降舵・方向舵はケーブルによる人力である。

1A9 MD81 -Flying_on_that_good_ole_maddog!_(4147873715).jpg ←MD-80シリーズの主翼(ウィキペディア英語版より)

ジェット機は高速かつ重量があるため、人力操縦は舵が重く困難になりがちだが、同機は動翼の一部に「コントロールタブ」がついており、直接的な入力はそこに伝わる。

例えば補助翼(エルロン)を作動させるには、後縁にある「コントロールタブ」が上下することで、その抵抗力を使い補助翼はタブと逆方向に作動する。

すなわちタブが上向きになると、空気の抵抗力で補助翼が「下がる」わけだ。

パイロットは小さなコントロールタブを操作するだけだから、高速でも舵は軽い。

もちろん自動操縦装置と連動しており、人力で直接操縦するのは離着陸時だけが基本である。

MD-83では自重が増加したので、主翼の形状と前縁スラットの変更が行われた他、MD-87では垂直尾翼が若干延長されている。

またMD-88では、主翼・尾翼の一部に複合材が使われて軽量化されている。

主翼上のスポイラーは3枚あって、1枚は飛行中のスピードブレーキとしても使用できる。

エンジンのない主翼は抵抗がなく、旋回を含めて舵の効きが非常に良い機体だったと言う。

悪天候でも、主翼に無理な力がかからないので、安定性に優れた飛行機だった。

1A9 Bravo_Airways_MD-83_(UR-COC)_takes_off_at_Kharkiv_Airport.jpg

1A9 WORLD ATLANTIC MD-83-N802WA_(15542161835).jpg

1A9-AirFast_Indonesia_MD82.jpg ←(3枚)数少なくなった現用ユーザー。ウクライナのブラボー・エアウェイズとアメリカ、ワールド・アトランティック航空のMD-83、インドネシア、エア・ファーストのMD-82(ウィキペディア英語版より)

リアジェット機のT字尾翼は、一定の仰角を越えると主翼と方向性が重なって「ディープストール」と言う一種の失速特性を持つことで知られる。

前方の主翼が気流を遮って、水平尾翼に風が当たらなくなり効力を失う現象である。

これについては50年代から知られており、DC-9時代から一定の仰角に近付くと警報が鳴り、操縦桿のシェイカーが作動する。

それでも仰角が戻らないと、センサーが感知して自動的に機首を下げるようになっている。

古めかしい構造ながら、飛行機として確実なセーフ機能を有しており、かつ複雑なコンピューターもないので整備は容易だった。

最も整備もパイロットも、機体を隅々まで熟知してこその「職人技」が要求される機体だったが、極めて信頼度の高い機体だったと言う。

生産数が多かったことや、2000年代になると先進国や大手エアラインではB737NGやA320に更新され、中古機が多く出回ったことで相対的な採用エアライン数は非常に多い。

その分DC-9を含めて事故も多かったが、機数に対する割合は高くなく、機体の構造に起因する事例は少ない。

旧ダグラス製では、DC-10が初期に事故率が高かったが、DC9/MD-80は構造がシンプルに設計されていたことで安全性の高い機材であった。

アメリカではノースウエスト、アメリカン、TWA、アラスカ、そしてデルタが大手ユーザーであり、いずれも100機以上と言うけた外れの運用実績を持つ。

アメリカン航空は昨年末にMD-82/83の運用を終了したが、00年代には最大で200機以上を保有していたこともある。

つい10年前まではB737と並んで、アメリカではどの空港でも見られた機種であった。

1A9-Iran_Airtour_MD-82_(39055988355).jpg

1A9 KISH_MD-82_(DC-9-82)_AN2224543.jpg

1A9 CASPIAN MD-82-Ep-cpz.jpg

1A9-ATA_Airlines,_EP-TAP_MD-83_(45247571502).jpg ←(4枚)イランで活躍するMD-82/83。上からイラン・エアツアーズ、キッシュ・エア、カスピアン航空、ATAエアラインズ(ウィキペディア英語版より)

古い機種として退役が進行したが、実際には上記のようにシンプル故に運航コストは最新鋭とまでは行かないが、現代でも充分耐えうる性能を持っていた。

しかし製造元のマクドネル・ダグラスがボーイングと合併したことで、部品供給などが先細りしてしまったことが退役に拍車をかけてしまった。

まだまだ信頼性と言う保守的な意識が強い時代に、あの傑作機の一つ「B727」を広義において、と言う条件がつくが「駆逐」した機体でもある。

それまでの「2人乗務機」は、座席数の少ない機体に限られていたが、MD-80はDC-9からの流れを保ちつつ、その「鉄則」を覆した。

すなわち機体の信頼性によって、180席級と言うナローボディ機としては大きな機体を「2人乗務機」で成功させた初の機体だったのである。

最後の牙城であったデルタ航空がMD-88/90を退役させたことで、残存する同シリーズは一気に減少した。

新しいながら少数生産に留まったMD-90は、事実上「絶滅」に追い込まれたが、MD-80は途上国を中心になおも現役にある。

コロナの影響で、世界中のエアラインが運休もしくは大幅減便しているので、状況は流動的だが、現時点で約110機が現役にあると思われる。

ただしまとまった数を運用するのは僅かで、登録上では南米ベネズエラのLASERが12機、メキシコのチャーターエアラインTSMとブルガリアのチャーターエアライン、ブルガリアン・エアチャーターがそれぞれ11機、アメリカ・フロリダに本拠を多くチャーターエアライン、ワールド・アトランティック航空が10機登録が確認されている。

1A9_MD-81,_Laser_Airlines_JA8297 JP7277166.jpg

1A9_MD-81_Laser_Airlines.jpg

1A9-MD82_LASER_Airlines.jpg ←(3枚)ベネズエラのLASERが運用するMD-81。1枚目の機体は元日本航空のJA8297(ウィキペディア英語版より)

エアライン数だと約30社程度が保有しているようだが、大半がMD-81~83で、MD-87/88は確認できない。

この他厳しい経済制裁が続くイランで、数社の在籍が確認されるが、いずれも少数。

どうも各社で機材を融通し合っているようで、機数が一定していない。

だが国営イラン航空の子会社「イラン・エアツアー」のMD-82、ザクロス航空、キッシュ航空などで運用されており、前者は「イラン航空」便としてトルコなどに飛来することが多いようである。

日本では日本航空がMD-90を退役させて約7年、MD-81も約9年が経とうとしており、当然ながら海外の様な「保存機」はない。

画像や模型でその雄姿を見ることができないが、数ある旅客機の中で最も美しい機体の一つだと思う。

DC-8譲りの機首はレトロチックだが、同シリーズならではの逞しさも感じさせる。

1A9-JAL_MD-81(JA8295)_(4674936440).jpg ←DC-8譲りの独特なデザインを継承した機首部分(ウィキペディア英語版より)

コクピットは小さな窓がズラリと並んでいるが、これもDC-8以来の伝統。

「夢の時代」であった50年代を、ひっそりと伝え続けて来たMD-80シリーズもまた、コロナと言う未知の物に突然追い込まれつつある。





夜の気温は高くないはずだが、決して涼しくない。

深夜の時点で21℃と、真夏並みだ。

それ以上に湿度が90%近くあり、歩くだけでじとっと汗をかく。

食べ物にも気を使うし、母に備える花も長持ちしない。

毎年の事なのに、少々うんざりする。

それでいてエアコンをつけると寒く感じるから、なお始末が悪い。

私自身、夏場にマスクを使う事は初めての事で、口の周りだけ汗でベタベタ。

世間では「マスク熱中症防止」のマスクが売り出されていると言うが、本当に効果があるのだろうか。

我慢できないようであれば、試すのも良いかも。





元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

非常に蒸し暑い日々が続いていますが、大丈夫ですか?

君はあまり暑がりではなかった気がしますが、コロナの事もあるので意識して「涼」を摂るように心がけて下さい。

面倒この上ないですが、慣れるしかないようです。

でも我慢は禁物。

水分補給を含め、少しでも季節を良い意味で味わえるように過ごして下さい。

服装もきっと悩ましい事と思いますが、もう若くはないので(失礼)、調節できるよう工夫して下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



今のごと 恋しく君が 思ほえば いかにかもせむ するすべのなさ(万葉集巻十七 3928 大伴坂上郎女)


月命日 6月28日 曇り時々晴れ 27℃

今日も梅雨空・・と言いたいが、一時的に青空も見えてまあまあの天気。

日曜日としても、合格点の空模様か。

だが蒸し暑い。

風は殆どなく、窓を開けていても全く涼しくない。

と言うよりも、窓を開けている方が却って暑くなりそうな、何ともいやらしいコンディションだ。

予報が当たらず、一昨日までは晴れて暑くなり、昨日は曇りで気温も低めと出ていた。

実に中途半端で、暑い気がしてエアコンをつけると寒く、黙っているとモヤモヤして暑い。

今更だけど、食べ物の心配も出て来る訳で、一人暮らしの者には余計な気遣いが必要だ。

ただでさえコロナがうろついて気を取られがちだが、「食中毒」も最前線の時期。

自宅はもちろん、外での飲食や買い物にも注意が必要だ。

すっかり忘れていたのだけれど、ちょうど1週間前の21日は「夏至」だった。

これも「コロナのせい」で、季節感を味わえなくなった所以か。

今日の仙台の日の出は4:15、日没は19:04。

21日の時点では日の出が4:13、日没が19:03だったから、7日間で「昼間」は1分短くなった。

今後1週間、7月の第一週までが最も「昼間」が長く、以降今度は9月の「秋分」に向けてどんどん短くなって行くのである。

夏至における「昼間」の長さは緯度によって変わるのは周知のとおりで、北へ行けばいくほど長くなる。

北緯50度以上では太陽が沈みきらず、「白夜」の時期を迎えている。

日本ではそこまで行かないけれど、北緯43~46度に位置する北海道では、午前3時過ぎには空が白み始め、20時頃まで明るい。

ちょうど梅雨時に当たるため、天気が悪いと日照時間の長さを実感しにくいが、仙台でも4時前には東の空が明るくなっているし、夜は19時半頃にようやく空が暗くなる。

夜型人間には案外辛い季節で、そろそろ寝ようか・・と思う頃には外が明るくなっていることもある。

最も日本では「夏至」と「真夏」に若干のずれがあり、本格的な夏は少なくとも1カ月先。

何となく夏休みの時期こそ「昼間」が最も長い様な気がするけれど、二十四節気の「立秋」を迎える8月上旬ころは今よりも1時間以上「昼間」は短くなっている。

今年はコロナのせいで、各地の花火大会は中止が多くなっているが、お盆ごろの花火はだいたい19時頃から始まるだろう。

今ならばまだ景色が見える程度の明るさがあって、とても花火には向かないくらいだ。

コロナを抜きにすれば、楽しい夏の予定はこれから・・と言うタイミングだけれど、穿った見方をすれば今こそ「盛夏」であって、季節は着実に「秋」に向かっているとも言える。

暑いのが苦手な私は、毎年そう「暗示」をかけて夏を乗り切っている・・かな?

でも一番好きなのが秋なので、「夏の次はいよいよ秋だ」と思うと、自然と夏も悪くないと思える。

今年の夏は、コロナでいろんな意味で変わった夏になりそう。

8月6~8日の「仙台七夕祭り」も中止が決まり、泉区名物の「ふるさと祭り」も早々中止が決まっている。

どちらも事情を鑑みて、「密」にならないような代替えイベントも考えられているようだが、どうなるだろう。



今日28日は母、3年3カ月の「月命日」。

仏壇にはいつも花を供えているのだが、夏場は日持ちしないのが悩み。

スーパーで買ってくることが多く、保存状態があまり良くないこともあるのだろうが、この時期になると1週間持たない事が多い。

マメに水は取り換えていても、長くて4~5日で萎れてしまう。

水に浸けた茎部分も、うっかりすると腐敗して、自ら腐敗臭を発生させる。

冬場はそうしたことは殆どなく、場合によっては10日以上大丈夫なのだが、夏場の花は難しい。

お金がない時もあるので「100均」で買った造花も供えているが、やはり生花の方が良い。

母は花がとても好きで、結構詳しかった。

最もどちらかと言えばズボラな性格だったので、自分で育てるのは苦手だった。

以前住んでいた家では庭が広く、そこに引っ越した時は「ガーデニングする」と息巻いて、暇さえあれば私はホームセンターに付き合わされて鉢植えの花や重い土、などを買わせられた。

だが庭の手入れは思いのほか大変で、それこそ今頃の季節は雑草との戦い。

近所との兼ね合いもあるのでやたら除草剤は使えず、手作業の草むしりが必要で、結果的に「夢の」ガーデニングは諦めてしまった。

現実には非常な手間とお金がかかるもので、プランターの花だけになってしまった。

でも花好きは諦めた訳でなく、季節ごと街のあちこちに出かけて花を見にドライブに行くことは続けていた。

ドライバーはもちろん私だが、いつの間にか私も楽しむようになり、時には季節の花で有名な公園まで足を延ばしたり、毎年行っていた北海道旅行では、季節の花に合わせてスケジュールを組み見に行くこともしょっちゅうだった。

おかげで私も季節の花は、男性としてはいくらか詳しい方になったと思う。

一緒に季節の花を見に行くことができなくなって、もう3年3カ月が経った。

いつも言うように、私の人生において母がいなくなってからの時間は、生まれて初めて恐ろしいほど早く、記憶にない。

私にとってたった一人の家族だった母がいなくなり、私自身たった独りになった。

年齢的に、もう家族が増えることは0ではないにせよ、確率は高い。

それも運命なのだろう。

だが独りだと、やはりどこか惰性で生きてしまう。

母はいつも私を連れ出す事によって、季節を生きる喜びを共有していたのだ。

今はアジサイの季節。

近くの道路ではアオイの花も咲き始めた。

とても寂しいけれど、母の遺影を片手にゆっくり見に行ければ・・とも思う。





元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

蒸し暑く、気分が優れないこともあると思います。

真夏と違い、半端な暑さに君も大変だと思いますが、体調管理には気をつけて下さい。

毎月の事で恐縮ですが、今日は母の月命日です。

君には記憶はおぼろげかも知れませんが、心の中で一言母に語りかけてくれれば幸いです。

母がいつも座っていた場所に、今も母のハンドバッグや私物をそのまま置いています。

バッグの中には愛用していた、小さな小銭入れが入っています。

覚えていますか?

これは君が奈良のお土産として、母に買って来てくれた小銭入れです。

母は最後まで大事に使っていて、今の汚れすらありません。

口には出さずとも、君の事をずっと覚えていた証拠です。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。


おもひ遣る たどきも吾は 今は無し 妹にあはずて 年の経行けば(万葉集巻十二 2941 正に心緒を述ぶ)


飛行機ネタ ブルガリアのエアライン(6月27日 曇り 28℃)

◎6月25日 曇り 19℃

いつの間にか、6月も下旬になってしまった。

ボーッと生きているからだ・・と言われると抗えないのだけど、月日の流れの何と早いことか。

今日も引き続き梅雨空で、「ヤマセ」の吹き込みは更に「梅雨寒」を促すことになった。

仙台の最高気温は19℃と、4月下旬並み。

敢えて雨ではなく「曇り」にしたが、実際には断続的に霧雨が降っていた。

本降りよりは良いけれど、濡れるような濡れないような何とも半端な天気。

傘を持って歩くのが、実に鬱陶しい。

気温は低めだが、湿度はたっぷりで決して過ごしやすい訳ではない。

街では半袖姿の人は殆ど見かけくなった。

梅雨前線が停滞する九州では、未明から大雨が続いており、災害が懸念されている。

また早朝5時前、千葉県東方沖を震源とするM6.2の地震が発生し、千葉県旭市で最大震度5弱を観測した。

幸い被害は出なかったが、大雨・地震、そして収まりそうで収まらないコロナに不安が募る。

移動制限や遊戯施設、歓楽街の自粛緩和で人出が増え、大幅ではないものの感染拡大が続いている。

これまでと違い、感染経路がはっきりしており「クラスター」が多いようだが、世間はどうも「油断」しているようだ。

私も今夜、食事を使用と思ってとあるファミレスに行ったが、平日にもかかわらず混んでいた。

一瞬止めようと思ったが、お店の予防策を信じてそのまま利用したが、やはり「集団」が気になってしまう。

偏見と言われそうだが、若い人を中心に数人グループで利用している人が多く、賑やかなのは結構だがちょっと遠慮して良いのでは・・とも思う。

飲食するのは自由だが、できるだけ少人数で、大声で話さないなどの「自粛」はもはや常識ではないか。

友人と一緒が楽しいのは理解できるが、今しばらくは「新しい生活様式」に協力するのも「オトナ」の行為だと思う。

もちろん若い人に限らないが、ここしばらく街を見ていると「集団」なのは圧倒的に10~20代の若者だ。

宮城県では4月末以来新たな感染者が出ず、入院・療養の人も0になっていたが、この1週間で僅か3人だが増加した。

いずれも軽症もしくは無症状だそうだが、県外との行き来も可能になったことから、リスクはむしろ高まったのではないか。

GWの時程自粛する必要はないだろうが、イコール「安全」でもないことを、一人一人が認識すべきだ。

お店などは賢明に予防策を講じているのだから、市民もそれに応えなければならないと思う。


◎6月27日

昨日まで続いた梅雨寒は解消したが、予報のように晴れることもなかった。

日中薄日が射す時間もあったが、雲が優勢で雨こそ降らなかったが完全な梅雨空だ。

気温も28℃と、高い湿度と相まって蒸し暑さが復活した。

日差しがないからじっとしていれば暑さを感じないが、身体を動かすとすぐに汗ばんでしまう。

南岸に停滞する梅雨前線は非常に活発で、九州地方では大雨が続いている。

既に冠水や土砂崩れなどが発生しており、少なくとも月曜までは注意が必要だと言う。

一方コロナも再び感染拡大の様相を見せている。

東京ではここ数日50人前後の新規感染者が確認されており、特に繁華街での感染が増えている。

飲食店や遊戯施設、風俗店などの規制が解除されて1週間。同時に感染者の増加が見られている。

我が仙台も、週末の人出が増えたように思う。

泉中央でも、飲食店の殆どが再開しているが、今夜とあるダイニングバーの前を通りかかったらほぼ満席だった。

週末と言う事から、飲み会を楽しみたい気持ちは理解できるが、大丈夫だろうか・・と思う。

パッと見だけど、店内は感染対策をしているようには思えず、「ソーシャル・ディスタンス」を保っているようには見えなかった。

屋外のテラス席があり、室内も扉は全開で換気しているようではあるが、座席はコロナ前と変わっておらず、客の大半は対面で飲食している。

加えて会話時にマスクをしている人もおらず、中には子供を連れた家族連れもいた。

テレビでも繁華街の混雑を報道していたが、油断と言うよりも「コロナは終わった」と思っている人が多いと言う事なのだろうか。

ニュースでは「人が増えて、油断している人がいるのでは?」とインタビューに答えた人がいたが、そもそもあなたもその一人では?

「ステイホーム」がどれだけストレスだったか知らないけれど、それでもこの2~3カ月間いろいろ考えて自粛生活を送ってきたはず。

もちろん店舗の人々の事を考えると、商売を回してあげなければならないけれど、様子を見つつ「徐々に」が出来ないものか。

飲み会だけが週末・休日の過ごし方と言う事自体、失礼だが単純過ぎ。

再び拡大して規制になったら、この人たちはどう考えるのだろうと思う。

自重しろと言うつもりはないが、万が一を考えて、常日頃一定の距離感を保ちつつ、新しい楽しみ方を作るべきではないだろうか。





飛行機ネタ。

世界には約190の国と地域があるが、それを全て知っている人はそう多くないだろう。

その中でヨーロッパは比較的日本では良く知られた地域だと思うが、すべての国と首都の名前、場所が分かる人は地理に詳しい人であろう。

ブルガリア・・と聞いて、あの辺だなと思い浮かべる人はどのくらいいるだろうか。

残念ながら日本では某乳製品メーカーのおかげで、「ブルガリア・ヨーグルト」が有名過ぎてそれだけのような気がする。

事実製品名として登録商標までされているが、このヨーグルトは単なるイメージではなく、元々「ヨーグルトの種」をブルガリアから輸入して作った製品である。

すなわち日本でブルガリアと言うと「ヨーグルト」になってしまうが、あながち間違いではない。

とは言え、ブルガリアの人からすればちょっと残念・・と思うかも知れない。

1A10 BULGARIA AIR A320-LZ-FBE_(6921128976).jpg ←ブルガリアのフラッグキャリア、ブルガリア・エアのA320(ウィキペディア英語版より)

ブルガリアはヨーロッパ大陸の南東端に位置し、かつては「東欧諸国」の1つだった。

正式国名は「ブルガリア共和国」で、面積は約11万平方キロ。人口は約710万人。

首都はソフィア、人口は約130万人である。

1A10-Downtown_Sofia_Boby_Dimitrov_1.jpg ←ブルガリア共和国の首都ソフィア(ウィキペディア英語版より)

地理的には正にヨーロッパの「端」にあり、周囲はルーマニア・マケドニア・ギリシアなどと国境を接するが、南東部はトルコと比較的長い国境を接している。

旧ソ連地域を除くと、ヨーロッパでは唯一アジア・中東と隣接する国でもある。

東には黒海に面していて、気候は地中海性気候を持つが、西部の山岳地帯は冬の積雪量も多く冷涼な気候である。

同地の歴史は非常に古く、紀元前4000年頃にはトラキア人が居住し、「5つ目の古代文明」を築いていたのではないかとも言われている。

有史以降はローマ帝国に支配され、それは北から来たスラブ人が定住した後も続いたが、5世紀ごろには東方からトルコ系ブルガル人が侵入し、7世紀には東ローマ帝国から自治権を得た。

これが「ブルガリア」の発祥と言われている。

最も移住して来たブルガル人よりも、既にスラブ人が多くを占めていたことから、混血が進みそれが現在のブルガリア人だと言われている。

14世紀になるとモンゴル帝国が侵略したが、1393年にはオスマン帝国の支配下に置かれ、それから485年間も同国の領地になった。

1878年に発生した「露土戦争」でオスマン帝国は敗れ、終戦条約である「サン・ステファノ条約」でブルガリアを放棄。

ここに事実上現ブルガリアが独立した。

最もこれは開けた海を持たなかったロシア帝国の、海外進出のための独立であり、同国の影響が多かった。

独立後20世紀初頭にかけては、複数の民族が入り混じるバルカン半島の覇権を巡り「バルカン戦争」を仕掛けて勢力の拡大を図ったが、それは同時に「帝国主義」が蔓延る西欧を刺激することになり、1914年の第一次大戦へ繋がった。

「ヨーロッパの火薬庫」と言われるように、ブルガリアを含むバルカン半島は、古代から交易の要にあったため様々な民族が入れ替わる土地柄だったのである。

ブルガリアも、500年近いトルコ(オスマン帝国)の支配で、イスラム教を始めとするトルコ及びアラブ系の文化や風俗も入り混じった文化を持っている。

第二次大戦ではナチス・ドイツの枢軸国側についたブルガリアだったが、他国の占領など進出しなかったことから、敗戦国として領土を失う事はなかった。

だがドイツに対して石油などの供給をしていたことから、米英軍の空襲を受けたほか、ソ連軍の侵攻で大きな被害を受けた。

ブルガリアはソ連軍に「解放」されたことで、大戦終結を待たずにソ連の占領下に置かれるとともに、いち早く「ブルガリア人民共和国」として衛星国に組み入れられた。

故に良くも悪くも戦後復興は他の東欧諸国よりも早く、逆にソ連に強く依存した。

大戦後東欧諸国はユーゴスラビアとアルバニアを除いて、社会主義政権の衛星国として表向き主権国家として独立した。

本来独裁者スターリンは、東欧諸国もソ連構成国に組み入れるつもりであった。

しかし戦後米英仏との「冷戦」が避けられないと分かると、軍事の先端技術では著しく遅れていたソ連は直に対抗できない事が明白であった。

結果東欧は一種の「緩衝地帯」として表向き独立させ、ソ連と直接国境を接しないようにしたのである。

それはあくまで建前であり、戦後旧東ドイツ・ポーランド・チェコスロバキア・ハンガリー・ルーマニア、そしてブルガリアには多数の駐留ソ連軍の他、政治機構にもソ連人が多数入り込んでコントロールしていた。

ソ連と東欧は「コメコン」と言う経済同盟と「ワルシャワ条約機構」と言う軍事同盟を結び、各国の「独り立ち」は一切許されない状況を作っていた。

それでもハンガリーやチェコでは、自由化を求める暴動が発生し、その都度ソ連は軍事力で抑圧下が、ブルガリアは比較的平穏な国家であった。

ソ連から見ると、東欧の中で同国は最も「忠実」の見られていて、厚遇される立場にあった。

ブルガリアに民間航空が設立されたのは47年の事で、「ブルガリア航空輸送会社(TABSO)」が最初である。

もちろん国営企業で、設立にはソ連が深く関わっていたのは言うまでもない。

機材は全て戦時で余剰となった機体を無償で供与されたが、それらはソ連製のLi-2や米英から「リース」されたC-47も含まれていた。

その後イリューシン14などが供与されて、国内線の他ルーマニアやチェコなどの近距離国際線の運航を開始したが、国内での航空需要は低かった。

1A10 BALKAN IL-14-TABSO_VEB_VEB-14P_Manteufel.jpg ←TABSOのイリューシン14(ウィキペディア英語版より)

東欧諸国では国民の旅行による移動に自由がないことや、小国であること、鉄道などの交通機関があったことから、国民が利用する機会は殆どなかった。

60年代になって初めての大型機、4発ターボプロップ旅客機「イリューシン18」が導入され、フランクフルト・ロンドンなどの西欧都市への就航も実現した。

また東欧諸国では初めて中東のイスラエルのテルアビブへ路線を開設したが、これは戦前からブルガリアに多く居住していたユダヤ人のためだった。

1A10 BALKAN-Ilyushin_Il-18_LZ-BEL_Bulair_LGW_27.09.69_edited-2.jpg

1A10-Balkan_Bulgarian_Airlines_Il-18_LZ-BEK_LBG_September_1974.png ←「BUL AIR」時代とバルカン航空のイリューシン18(ウィキペディア英語版より)
 
67年に初めてのジェット機としてツポレフ134が導入され、ソ連各都市へも就航した。

これに合わせて社名も「バルカン・ブルガリア航空」に変更されると同時に、黒海沿岸のリゾート地に西欧の観光客を呼び込むための便が増加した。

ブルガリアは西欧諸国と比較的良好な関係を保っており、農業製品などを輸出し外貨を稼いでいた。

1A10-Balkan_Bulgarian_Airlines_Tu-134A-3_LZ-TUM_ZRH_1985-11-11.png

1A10BALKAN_Tu-134,_Balkan_-_Bulgarian_Airlines_AN0143344.jpg ←(2枚)バルカン航空のツポレフ134A-3(ウィキペディア英語版より)

ソ連にしてみても、西欧の文化や情報を取れることもあり、団体客に限られていたが西側からの観光客を容認していた。

より大きな機材であるツポレフ154も導入され、東欧諸国の中ではバルカン航空は最も多くの乗客を輸送する実績を上げるまでに成長したが、長距離機材であるイリューシン62などは導入されず、国際線は中距離に留まっていた。

同じ東欧ではポーランドのLOT、東ドイツのインターフルグ、チェコスロバキアのCSAなどは70年代にイリューシン62を導入し、カナダやキューバなどの長距離国際線を運航したのに対し、バルカン航空は対照的であった。

西側のそれと違い、当時社会主義国のエアライン市場は小さく、実際には「当主」であるアエロフロートで充分賄えていた。

1A10 BALKAN_Tu-154B,_Balkan_Bulgarian_Airlines_JP6022876.jpg ←バルカン航空のツポレフ154B。同社最大の機材だった(ウィキペディア英語版より)

先に書いたように東欧諸国の「衛星国」は、自ら志願してそうなったのではなく、戦争による戦勝国の勝手な「国盗り」であった。

敗戦国でなかったポーランドやチェコスロバキアでさえ、終戦後自由に独立することができずどさくさに紛れてソ連に組み込まれたようなかたちだった。

表向き主権を保っていても、国内の統制さえソ連の主導だった。

故にエアラインも同様であり、機材も欲しいからと言って供与されるものではなかった。

逆に利益を追従することもないので、乱暴ではあるが「適当」に飛ばしていればエアラインを維持することは可能だったとも言える。

大きな転機が訪れたのは90年の事で、前年に発生した東欧民主化そして宗主国ソ連の崩壊である。

当然ブルガリアも自由化・民主化の道に引きずられ、「ブルガリア共和国」として正式に独立した。

バルカン航空は経営体制を変えたものの、国営エアラインとしてそのまま存続された。

同時にヨーロッパを中心に路線拡大を開始したが、機材の古さは隠せずすぐに行き詰ってしまった。

当然ながら機材は社会主義時代の旧ソ連機だけで、かつ古いタイプの物が殆どであった。

この時点ではプロペラ機のイリューシン18も現役にあり、安全性やサービス概念が180度変わった資本主義体制下にあっては無理なことであった。

加えて世界は環境基準が厳しくなっており、古いソ連機での乗り入れ自体難しい状況になっていた。

そこで中古機のリースと言う形で急ぎ西側製機体を導入し、ブルガリアでは初めてのアメリカ機・B737-300/500の運航を開始した。

1A10-Balkan_Bulgarian_Airlines_B737-500_LZ-BOC_LIS_1992.png

1A10-Balkan_Bulgarian_Airlines_A320-231;_LZ-ABB,_May_1994).jpg ←(2枚)自由化後導入されたB737-500とA320(ウィキペディア英語版より)

旧ソ連機は国内線や東欧及び旧ソ連域内で運用し、B737は西欧や中東路線に投入された。

90年代半ばには大半のソ連機は一掃されたが、唯一貨物機である「アントノフ12」が残存していた。

東欧のエアラインでも唯一の存在で、ブルガリア発着の貨物便だけでなく、チャーター便としてヨーロッパ域内各地に飛来した。

1A10_Balkan_YAK40-_Bulgarian_Airlines_AN0196771.jpg

1A10 BALKAN_An-12B,_Balkan_-_Bulgarian_Airlines_Cargo_AN0198232.jpg

1A10 BALKAN_An-12B,_Balkan_-_Bulgarian_Airlines_Cargo_AN0221020.jpg ←(3枚)自由化後もしばらく運用されたヤコブレフ40と貨物機アントノフ12(ウィキペディア英語版より)

しかしブルガリア経済はすぐには安定せず、02年にバルカン航空は「会社清算」と言う形で運航を停止した。

国内需要だけでなく、国際線もブルガリアに需要をもたらす力を出す事は出来なかった。

ルーマニアのタロム航空やチェコのCSA、ポーランドのLOTなどは早くから海外投資を呼び込んで機材だけでなく、経営システムの近代化に成功したが、バルカン航空はそれが達成できなかった。

1A10 BALKAN-B767-27E(ER),_Balkan_Bulgarian_Airlines_JP6022540.jpg ←長距離線向けに中古リースで導入したB767-200ERだったが、短期間の運用に終わった(ウィキペディア英語版より)

ブルガリアの自由化は比較的スムーズに行われたが、同時に社会主義時代の共産党勢力も強く、国民の支持も二分していた。

その為近代化に必要なソフト・ハード両面におけるインフラ整備が遅れ、海外からの投資も少ない状態であった。

元々同国は農業国であり、工業化が一歩遅れていたことも一因だった。

社会主義時代はソ連を筆頭に、相互間の扶助があったから水準を保っていたが、いざ「自立」となると他国に比べて材料が少ない国であった。

同年にシンガポールとベトナムの投資会社がブルガリアに、「JES AIR」と言うエアラインを設立した。

これはフラッグキャリアであるバルカン航空の代わりとして、何とか投資を誘致しての結果だった。

だが乗務員・整備士は当然ながら人手不足で、機材はリース会社を通じて調達した3機のA310が用立てられた。

乗務員もシンガポールやベトナム、タイなどから派遣し、ブルガリア初の民間エアラインとして運航を開始した。

しかも最初の路線はいきなりニューヨーク線で、建国以来初めてのアメリカ直行便でもあった。

国内では大いに期待されたが、リサーチ不足は明白で、利用は全く伸びず、僅か1年後に運航を停止してしまった。

1A10-Jes_Air_Airbus_A310-200_Wallner.jpg ←ブルガリア初の民営エアライン「JES AIR」のA310-200(ウィキペディア英語版より)

だが同社が呼び水となって、国内では小規模ながらもエアラインビジネスが開始され、国内線やチャーターエアラインも誕生し始めていた。

ブルガリア政府も資金提供に動き、同じく02年に新たな国営エアラインを再生させた。

旧バルカン航空は資金不足で運航停止を余儀なくされ、最も利益を上げていたロンドン線のスロット(発着枠)をブリティッシュ・エアウェイズに売却していた。

その為新たなエアラインを「バルカン・エアツアーズ」と言う名称で起こし、表向き「チャーターエアライン」として運航を開始した。

これならば空港の発着枠の制限に捕われず、「定期チャーター」として月何便と言う形で運航できたのである。

代わりにチケットの販売は個人には行われず、同社のオフィスもしくは契約した旅行会社のみでの販売だった。

機材もバルカン航空時代のB737などが、ロゴを書き換えるだけで継続したことから、相対的な便数は減少したが、国営エアラインとしての運航は続けられたことになる。

1A10-B737-522,_Bulgaria_Air_AN1240329.jpg

1A10-B737-522,_Bulgaria_Air_JP5752558.jpg ←(2枚)バルカン航空のB737-500は運航停止後、バルカン・エアツアーズ、そして民営化後のブルガリア・エアで連続して使われた(ウィキペディア英語版より)

06年同社は民営化されることになり、民間企業として小規模エアラインを運航していた「ヘムス・エア」の持ち株会社が株式を取得。

社名も「ブルガリア・エア」に変更すると同時に、ブルガリアのナショナルフラッグキャリアが返り咲いた。

一方比較的好調だった「バルカン・エアツアーズ」は、別会社として半官半民のチャーターエアラインに変更した・

現在ブルガリア・エアは9機を保有し、26都市に定期便を運航している。

1国のフラッグキャリアとしては小ぶりであるが、国内線は黒海沿岸の2都市だけ。

国際線はヨーロッパ各都市の他、テルアビブ・ベイルート・ドバイ・カイロなど中東やロシア、マヨルカ島など地中海方面への路線も運航している。

1A10_Bulgaria_Air_A319 (6143965015).jpg ←ブルガリア・エアの主力機A319(ウィキペディア英語版より)

独自のマイレージプログラムを持つが、国際航空連盟には加盟していない。

だが各社との提携には積極的で、ギリシアのエーゲ航空、エール・フランス、アリタリア、アエロフロート、KLM、エア・セルビア、イベリア、LOT、チェコ航空、タロム航空などヨーロッパの主だったエアラインとコードシェア運航を実施しており、これらのエアラインを含めると80都市以上に就航していることになる。

この他アメリカン航空、LATMブラジル航空、フィン・エア、ブリュッセル航空、エミレイツ航空とは包括提携を結んでいる。

これらはコードシェア運航ではないが、ブルガリア・エア便との乗り換え・接続利用者は預託荷物のスルーが可能でスムーズに行えるようになっており、世界からブルガリアへの空路は便利になった。

06年以降はA320シリーズ数機だけだったが、11年からは100席級のE190を導入し、今後増機させる予定である。

1A10 BULGARIA AIR E190 LZ-SOF_(16943053362).jpg

1A10-Bulgaria_Air_E190AR_LZ-SOF_FRA_2014-08-21.jpg ←ブルガリアでは初めての新造機として導入されたE190(ウィキペディア英語版より)

長距離線がないのでキャビンサービスは簡素だが、LCCでもないので事実上はフルサービスキャリアである。

保有機は全てビジネスクラスを含めた2クラス制で、ミール・ドリンクは基本無料である。

だが機材の絶対数が少なく、新規導入のペースが遅いこともあって、時には「ブルガリア・エア・チャーター」の機材が運航されることもある。

同社の主力機材はMD-82/83で、現時点で11機が確認されている。これはブルガリア・エアよりも多い。

もちろん全て中古機だが、往年の傑作機MD-80シリーズをまとまった数で運用する貴重なエアラインである。

同社はヨーロッパやロシア方面から黒海リゾートへ向かうツアー客の他、ブルガリアとは関係ないチャーターフライトも手掛けている。

上記のように多客期や機材の点検で不足したブルガリア・エア便として運航されることも多いようで、ヨーロッパ各地ではブルガリア・エア機より各地の空港で頻繁に見られると言う。

1A9 BULGARIAN AIRCHARTER MD-82-LZ-LDK_LLBG1.jpg

1A9 BULGARIAN AIR CHATER MD-82-LZ-LDF@FRA;08.07.2010_580bk_(4780856471).jpg

1A9 BULGARIAN AIR CHARTER-LZ-LDP_(8171561755)_(2).jpg ←(3枚)フラッグキャリアより規模の大きいブルガリア・エアチャーターのMD-82。3枚目は導入直後の写真で、元アリタリア航空機であることが一目瞭然(ウィキペディア英語版より)

ブルガリアは運航コストが安いため、夏休みやクリスマス休暇シーズンには、ドイツやイギリスからスペインやギリシア、イスラエルやキプロスなどのリゾート地へツアー客を輸送している。

MD-82/83だけと言うのは、もちろんヨーロッパでは同社が唯一。

長期的には更新の予定があるようだが、現時点で同機の退役は予定されていない。

もう一つのエアラインは、16年に純民営エアラインとして設立された「ALKエアラインズ」。

正式には「AIR LUBO」と言う名称のようだが、B737-300とMD-82を2機ずつ保有し、チャーター運航を行っている。

チャーターエアラインなので、クラス制のサービスはなく全てエコノミーだけのモノクラスだ。

機材はもちろん中古で、MD-82は座席数が若干違う。

同社も主に地中海沿岸都市にツアー客を運んでおり、ブルガリアだけでなくヨーロッパ各地から飛んでいる。

1A10_ALK MD-82_Alk_VGO.jpg

1A10 ALK MD-82 Manchester_Airport_(34550808176).jpg

1A10 ALK B737-300-LZ-LVK_at_STR.jpg ←(3枚)16年に設立・運航を開始したALKエアラインズのMD-82とB737-300。B737はコクピットの天窓が埋められ、主翼にはウィングレットが装備されている(ウィキペディア英語版より)

定期便運航ではマーケットが小さいが、ブルガリアのエアライン事情はチャーター運航が功を奏しているようだ。

先に書いたように、日本では知名度が高いとは言えないブルガリア。

だが歴史はヨーロッパではもっいとも古い地域の一つで、世界遺産に指定されている文化財も多い。

ヨーグルトが有名なのは、ブルガリア伝統の製法が現代の大量生産向きだった事と、クセのない純粋なヨーグルトだったことだと言う。

日本ではどちらかと言うと、甘い系デザート的存在だが、ブルガリアではデザートと言うよりもスープや煮込み料理などにも使われるマルチな素材だ。

主食・おかず系にヨーグルトと言うのは日本人には考えられないが、確かにブルガリア人のヨーグルトの消費量は世界トップクラスだと言う。

この他高級品であるバラの香水も、ブルガリアが世界トップの生産量を誇る。

首都ソフィアから北西の山岳地帯は「バラ谷」と呼ばれる一大生産地で、毎年夏には盛大な「バラ祭り」が開催される。

ブルガリアの所謂「ローズオイル」は高品質として評価が高いが、100グラムの香水を得るのに100キロ以上の花が必要だと言う。

加えて機械化生産が難しいため、殆どが伝統的な手作業で行われており、同国の貴重な輸出品になっている。

近年ではワインの生産地としても有名で、社会主義時代は殆ど出回ることがなかった。

しかし自由化後は安価で良質と言う評価が高まり、日本でも主にブレンド用として樽ごと輸入されることが多い。

もちろん生産地指定の高級ワインも多く、大半が赤ワインだがフランス・イタリア・スペイン産と肩を並べる程の味わいを持つ。

他国と比べて素朴な国だが、最近は政治経済とも安定しており、観光地としての期待も高まっている。

なお国内では首都ソフィアの他、大きな空港は黒海沿岸だけで空路事情は良いとは言えない。

代わりに鉄道の他、自由化後は高速道路も整備されており、公共交通機関は充足している。

人件費がヨーロッパでは安いことから、近年では海外のIT企業の進出が増えており、それらに対するアウトソーシングが活発である。

日本からは直行できないが、ヨーロッパ各地の他トルコやドバイなどからであれば利便性は良い。

同国のエアライン機材の多くはリースだが、国籍登録は殆どがブルガリア籍で登録されている。

蛇足だがブルガリア語は、ロシア語と同じく独特のキリル文字で表記する。

ヨーロッパ大陸(旧ソ連構成国を除く)では、セルビアとブルガリアだけが使用している。

言語自体は違うが、アルファベッドの読みは共通である。





雨が降らなかったせいか、土曜日の夜は人出は多い。

コロナの影響で長らく人出が途絶えていたが、賑わいが復活した。

だがここにきて県内でも新たな感染者が発生しており、賑わいを素直に喜べない気がする。

周囲の道では、酔って大声を上げたり千鳥足の輩が見られ、申し訳ないが我慢できない人たちだと思ってしまう。

東京での感染者は、規制が解除された歓楽街や飲み会で拡大しているのも事実で、この人々はどう意識しているのだろう。

飲食を楽しむのは結構だが、店だけでなく利用者側も「密」を意識して行かないと、再び窮屈な規制を強いられることになるのではないか。

自粛と言うのではなく、求められているのはお互いの気遣いではないだろうか。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

梅雨寒だったり蒸し暑かったりと、不快な梅雨の日々で大変ですが、体調管理には気をつけて下さい。

書いたように、街は人の流れが増えています。

過度の不安は無用に思いたいですが、君が気をつけても周囲の無責任を被る可能性もあります。

「密」をできるだけ避けるなど、意識を優先させつつ、難しいけれど少しでも楽しい日常を過ごして下さい。

気温の割に湿度が高く、無意識に汗をかくので、水分補給や涼しい環境に注意して下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



夕月夜 あかとき闇の おほほしく 見し人ゆえに 恋ひわたるかも(万葉集巻十二 3003 物に寄せて思を陳ぶ)


※諸般の事情により、日記は2回分掲載しています。


飛行機ネタ 大国なのにエアラインは2つ、アルゼンチン事情(6月23日 曇り 24℃)


典型的な梅雨空だ。

雨こそ降らなかったが、終日重々しい曇り空で湿度も高い。

海風が入り始めたため気温の上昇は抑えられたが、暑くはないにせよどことなく不快でムシッとする。

昨日までの予報では、今週は梅雨空続きで気温は高め・・としていたが、今日になってオホーツク高気圧の勢力が強まる気配。

今後22~25℃前後と、平年並みかやや高めで推移すると言う。

宮城名物の「ヤマセ」は、オホーツク高気圧から吹き込む湿って冷たい東寄りの風。

梅雨前線と「コラボ」することで、日差しを遮断し気温を下げる。

一見良い事に思えるが、それが「冷害」に導く可能性がある。

温暖化の成果、最近はヤマセによる「梅雨寒」が少なくなったが、気象は大きな波を持つので油断できない。

今から27年前の93年には、今頃から夏の終わりまでヤマセが止まらず、稲作が大打撃を被った。

「平成の大飢饉」と呼ばれる冷害で、宮城を含む東北・新潟・北海道の米どころは極端な日照不足と低温でコメの収穫量が例年の1/3と言う、未曽有の凶作に見舞われた。

戦後初めての冷害とあって、世の中はデマを含めた大混乱に陥り、秋以降「コメ不足」に陥った。

本来は冷害にならなかった地域や備蓄米があり、供給量に不足が生じるはずはなかったのだが、買い占めが横行した。

慌てた政府は規制に走り、輸入米と国産米を混ぜた「ブレンド米」を強要した。

騒ぎは収まったが、翌年冷害に強い「ひとめぼれ」が開発され、以降日本のコメは災害に強くなってきた。

今思えば笑い話なのだが、今再び凶作になったら、SNSなどでデマを拡散させるバカが出現するのだろうか。

最もコメの消費は年々減少していると言うから、コメ不足になってもピンと来ない日本人が多いかも知れないが。

ここしばらく暑い日が続いていたので、今後のヤマセには注意だ。

街では、少し強めの海風が吹いていて、私は涼しくて良いと思ったが、いわゆる湿気寒さもあっただろう。

歩いていた半袖姿の女の子が、ついさらけ出した二の腕を寒そうに摩っていた。

中途半端な気温であり、服装も悩ましい。

私もカフェに入ったら、冷房が効きすぎてちょっと寒く感じたほどだ。

日中は半袖でも良い暑さが続いて来たが、今後は面倒でも1枚羽織る物を持ち歩くか、薄手の長袖の方が良いかもしれない。

特にエアコンが効いた建物は、肌を出していると冷えすぎる可能性もあり、気温に敏感な人は要注意だ。




飛行機ネタ。

南米アルゼンチンを本拠地としていたエアライン、「LATAMアルヘンチナス」は先日運航停止になった。

コロナ禍による需要の低迷を受けた措置であるが、完全な撤退ではなく「無期限運休」であるとされている。

同社は隣国チリに本社を置くLATAMグループの1社で、同グループの現地法人である。

LATAMは元々チリのフラッグキャリアである「LAN航空」が母体で、ブラジルの大手エアライン「TAM航空」と経営統合してできたエアライングループである。

持ち株会社を設立し、関係各社だけで数百を超える巨大企業であり、中南米では最大大手エアラインでもある。

コロナ禍の影響で、先月本社となるチリのLATAMは、一部関連企業を含めてアメリカで「チャプター11(連邦破産法11条)」適用申請を行っていた。

だがこの申請には、アルゼンチンを含むブラジルやペルーの現地法人は含まれていなかった。

ほぼ同時期に、中南米では同グループとシェアを二分していたコロンビアの「アビアンカ航空」も、「チャプター11」を申請している。

1A7 LATAM_A320-233_LV-BSJ_(33907622701).jpg

1A7 LATAM A320-200-LV-BSJ@AEP_21DEC11_(6953018116).jpg ←(2枚)先日運航を停止したLATAMアルヘンチナスのA320。下は統合前の「LANアルヘンチナス」時代の同機(ウィキペディア英語版より)

いずれもリストラを中心とした再建を目標に、運航を継続する方針になっているが、南米のコロナ禍はピークを迎えつつあり、その動静は極めて流動的である。

特に最大の国であるブラジルは、感染者数が110万人に達し(半数は回復)、死者数も5万人を超え、感染者・死者数ともアメリカに次ぐ勢いに迫りつつある。

極右出「南米のトランプ」と言われるボルソナール大統領は、コロナを「軽いインフルエンザ」「人は誰でもいつかは死ぬ」と言って予防対策を殆ど採らず、各自治体に任せきりであったことが爆発的拡大を招いていると言われている。

ところがブラジルを鑑みてか、国境を接するアルゼンチン・パラグアイ・ウルグアイなどは、全く事情が異なっている。

人口の少ないパラグアイやウルグアイは、感染者数自体が1,000人単位に留まっており、死者数も100人以下で抑えられている。

ブラジルとの国境を封鎖し、徹底的な封じ込めを行っているためだそうだが、ブラジルに次いで大きいアルゼンチンも同様である。

現時点でアルゼンチンの感染者数は約4.5万人と、決して少ない数字ではないが、死者数は僅か1,000人に留まっている。

感染者も半数以上が回復しており、国境を越えた拡大は防げている。

同国の面積は約278万平方キロで、日本の約7倍もの広さを持つが、人口は約4,000万と日本の1/3しかない。

このうち首都ブエノスアイレスと首都圏に居住するのが約1,450万人もおり、日本よりも首都圏への人口集中度が高い。

コロナ感染者も、8割が首都圏に集中しており、政府はブエノスアイレスを事実上「ロックダウン」させている。

首都ブエノスアイレスには「ホルヘ・ニューベリー国際空港」と「ミニストロ・ピスタリーニ国際空港(エサイサ国際空港」も、旅客便の殆どが運休中であり、海外のエアラインも貨物便以外は殆ど運休している状況にある。

2つの空港は前者の方が古く、市街地からほど近いところにあるが、小さい空港なので主に国内線と近距離国際線が運航されている。

後者のエサイサ空港が長距離国際線の拠点で、LATAMアルヘンチナスは前者、フラッグキャリアである国営のアルゼンチン航空は両空港を拠点としている。

1A7_Aerolineas_Argentinas_A332_LV-FNK_(44274230212).jpg ←アルゼンチン航空の主力機A330-200(ウィキペディア英語版より)

LATAMが運航停止になったことで、アルゼンチンのエアラインは実質上アルゼンチン航空とその子会社であるアウストラル航空、そしてへき地を担当するLADE航空だけになった。

アルゼンチン航空は、同国で最も古いエアラインで、創業は1929年。

当初は郵便輸送を主体とする会社で、名前も単純な「エアロポスタル(郵便航空)」であった。

その後国内各都市を結ぶ旅客事業を拡大させたが、本格的に事業を拡大させたのは1950年からで、国営エアライン「アルゼンチン航空(アエロライナス・アルヘンチナス)として運航を開始した。

同国は第二次大戦に参加しておらず、国内の疲弊もなかった事や、敗戦国だったイタリアやドイツからの移住者が多く、国内産業が活性化し、アメリカやカナダからの投資も相次いでいた。

1A7 Aerolineas_Argentinas_DC4_atEZE_1958.jpg ←50年代に活躍したDC-4(ウィキペディア英語版より)

アルゼンチンは、ほかの中南米諸国と同じく16世紀にスペインに征服されたため、公用語はスペイン語である。

「アルゼンチン」と言う名前も英語読みで、スペイン語では「アルヘンチナ」である。

だが国土が広く、アンデス山脈や高緯度地方の機構が厳しかったことから、先住民の人口が極端に少なく、ブラジルのようにアフリカから奴隷を連れて来て開拓することもなかった。

ブエノスアイレス周辺が最も気候が穏やかで、ヨーロッパと似た気候だったことから、スペイン人よりもイタリア人やドイツ人が「新天地」として移住する例が多く、上記のように敗戦によって祖国を逃れて来た人々も多い。

同国の国民は9割がヨーロッパ系白人の末裔で、他の中南米諸国のように先住民族や、白人との混血「メスチソ」、黒人との混血「ムラート」窓が非常に少ないことで知られるが、同じ白人でもイタリア系が3割、ドイツ系も1割以上を占めている。

ブエノスアイレスは街の中心を、大きな直線道路が貫いているが、これはパリを模したもので「南米のパリ」と言われる所以である。

話されるスペイン語も、他の言語の語彙が多く混じる独特のもので、その大半はイタリア語からきていると言う。

アルゼンチンはサッカー王国で良く知られているが、スター選手のリカルド・メッシも、名前から分かる通りイタリア系である。

中南米では最もヨーロッパの色が濃いことから、戦後の発展も一歩先んじていて、アルゼンチン航空も近代化は早かった。

設立当初はアメリカから中古のDC-3やDC-4で運航したが、50年代後半には南米で最も早くジェット化を行い、最初のジェット旅客機である「デ・ハビランド・コメット」とフランス製の「シュド・カラヴェル」を導入した。

1A7-Aerolineas_Argentinas_Comet_4_Groves.jpg

1A7 ARGENTINAS-Sud_SE-210_VIN_LV-HGX_Aerol_AEP_26.04.72_edited-2.jpg ←(2枚)コメット4とカラヴェル3(ウィキペディア英語版より)

同国はスペインを始め、ヨーロッパ諸国との関係が深く、大西洋を横断する路線を充実させていた。

60年代になるとより長距離性能に優れたB707を導入し、ヨーロッパ線の他北米路線を開設してネットワークは南米トップであった。

特に長距離線を重視する姿勢が強く、70年代にはB747も導入し、ブラジルのフラッグキャリアVARIGと並ぶ長距離エアラインの代表格に成長した。

1A7_Aerolineas_Argentinas_YS-11(4742831818).jpg ←70年代に短期間だったが「日本製」のYS-11を運用したこともあるアルゼンチン航空(ウィキペディア英語版より)

広大な国土は国内線も比較的長距離が多く、B727のように航続距離の大きな機材が必要だった。

70年代にはニュージーランドやオーストラリア線を、南米のエアラインでは初めて開設した。

これは「南極」上空を通過するルートで、世界初の試みだった。

実際には南極上空通過は認められないので、沿岸上空を飛んだのだが、最短ルートとして開拓した意味もあった。

1A7 Aerolineas_Argentinas_B727-200 AN1098293.jpg

1A7-Aerolineas_Argentinas_B707-300B_Fitzgerald.jpg ←6~70年代の主力だったB727-200とB707-320B。727は90年まで運用された(ウィキペディア英語版より)

だがこのころになると、国内の政治情勢が際立って不安定になっていた。

50年代から大統領を務めたペロン政権は、投資や輸出で稼いだ外貨を殆ど食いつぶし、アルゼンチンの経済は破綻状態であった。

国民の不満を背にした軍がクーデターを繰り返し、ペロン死後に後を継いだ政権も経済を安定させることができず、国家債務が膨れ上がるばかりで、経済は破綻した。

1A7_Aerolineas_Argentinas_B747-200 AN0201786.jpg

1A7-Aerolineas_Argentinas_B747-200_KvW.jpg

1A7-Aerolineas_Argentinas_B747-287B_(LV-MLR)_taxiing_at_Berlin.jpg ←(3枚)3代の塗装のB747-200B。00年代初頭まで長距離線の主力にあった(ウィキペディア英語版より)

80年代になると、当時のガリチェリ大統領は国民の不満を逸らすために、かねてからイギリスと領有権を争っていた「マルビナス諸島(フォークランド諸島)」を突如軍事進攻して占領した。

いぎリスのサッチャー首相は、同盟国同士の争いを懐柔しようとしたアメリカの意見を押しのけて軍事力による奪還を決行。

イギリス軍は8,000キロの大西洋を越えて、同諸島を奪還。

アルゼンチン軍は降伏し、撤退した。

慣れない戦場に当初イギリス軍は苦戦したが、最新鋭機材を持つ同軍と、殆ど戦争経験がなく、古い装備が多いアルゼンチン軍との差はすぐに埋まり、3カ月足らずで紛争は終結した。

当然アルゼンチンは、莫大な戦費を投じており、この年82年末には「デフォルト(債務不履行)」に陥っている。

こうした混乱で、アルゼンチン航空も機材不足や給料未払いなどが発生し、一時的ではあったが全面運休を余儀なくされた。

1A7-Aerolineas_Argentinas_B747SP-27_Zurich_International_Airport.jpg ←オセアニア線などで使われたB747SP(ウィキペディア英語版より)

90年代初頭には民営化されたが、経済は一向に安定せず、08年には再び国営化され現在に至っている。

それでも90年代までは、B747を始めとする大型ワイドボディ機を複数導入し、長距離路線を維持していた。

特にB747は、中古機を含めて200型の他長距離型である「SP」を運用し、90年代には400型も導入した。

同国は82年に続き、89年と01年に再びデフォルトを起こし、さすがに長距離路線の縮小を強いられる事になる。

1A7-Aerolíneas_Argentinas_B747-400_LV-BBU_MAD_2008-7-16.png

1A7_Aerolineas_Argentinas_B747-400 JP6673733.jpg

1A7_B747-400_Argentina_front_(4586363434).jpg ←(3枚)アルゼンチン航空は、意外と知られていないB747-400のユーザー。中南米ではVARIGと同社だけだった(ウィキペディア英語版より)

01年以降は政治・経済とも一定の安定を見せたが、14年に再びデフォルトに陥り、北米線やオセアニア線は全て運休となった。

最も路線撤退ではなく、業務提携した海外エアラインとの「コードシェア」と言う形で存続させ、その形態は現在まで維持されている。

同社は航空同盟「スカイチーム」のメンバーだが、それ以外のエアラインとも業務提携に積極的であり、自社運航よりもコードシェア便の方が便数・就航都市とも多い状態にある。

1A7 ARGENTINAS B737-500-LV-BAX@AEP_21DEC11_(7099004789).jpg

1A7 ARGENTINAS B737-700-LV-BYY@AEP_21DEC11_(7099647897).jpg

1A7 ARGENTINAS B737-700-LV-CAD@AEP_21DEC11_(6953579252).jpg

1A7 ARGENTINAS B737-700_SkyTeam.jpg ←(4枚)旧塗装のB737-500と700。700はウィングレットなしとありの機体がある(ウィキペディア英語版より)

比較的需要の高いオセアニア線では、アルゼンチンに就航するニュージーランド航空とコードシェアして事実上の運航を続けている。

唯一ヨーロッパ線に限っては自社運航も続けているが、大型機材を整理した2000年代以降は、中古のA310が長距離機の主力になった。

だが同機だけでは供給量が不足がちだったため、なんと国内及び近距離国際線用だった小型ナローボディ機のMD-83/88がヨーロッパ線に投入された時期もある。

キャビンはビジネスクラスを含む国際線用の2クラス仕様に改装したが、航続距離が足りないため大西洋上のカナリア諸島などで給油する経由便として運航されていた。

殆ど知られていないが、経由便であるがMD-80シリーズでは史上最長距離を運航する定期便でもあった。

1A7_Aerolineas_Argentinas_A310-300 JP6074824.jpg

1A7 Aerolineas_Argentinas_MD-88_LV-VCB_(22915336994).jpg

1A7-Aerolineas_Argentinas_MD-88_LV-VGB_LGW_2002-6-23.png

1A7 ARGENTINAS MD-88-LV-VBX@AEP_21DEC11_(7099893559).jpg ←(3枚)B747の引退後長距離機材のメインとなったA310-300と、国内線の他遠くヨーロッパ線に投入されたMD-88新旧塗装(ウィキペディア英語版より)

10年代にはリース及び中古機でA330/340を導入し、ヨーロッパ線に投入している。

1A7 ARGENTINAS A330-200-LV-FNI_(14346183710).jpg

1A7-La_presidenta_Cristina_Fernandez_recorre_el_nuevo_A330-200_de_Aerolíneas_Argentinas,.jpg ←(2枚)現在のフラッグシップA330-200とキャビン。キャビンで左側に映っている女性は、視察に訪れた当時のクリスティーナ・フェルナンデス・キルチネル大統領。現在は副大統領の職にある(ウィキペディア英語版より)

第二のエアラインであったアウストラル航空は90年代に買収・統合し、ブランドは残しているものの、現在ではアルゼンチン航空便として国内線を中心に運航する。

現在アルゼンチン航空は56機保有し、58都市に就航しているが、海外の就航地の1/3はコードシェア運航である。

国内線と近距離路線はB737シリーズが中心で、00年代までは「737クラシック」がメインだったが、現在は800型が中心である。

1A7 ARGENTINAS AUSTRAL E190-LV-CHS@AEP_21DEC11_(7099706881).jpg

1A7_Aerolineas_Argentinas_B737-800(8163982639).jpg

1A7 ARGENTINAS B737-800-LV-CTB@AEP_11AUG14_(15338060919).jpg ←(3枚)国内線と近距離国際線を担当する子会社アウストラル航空のE190と、アルゼンチン航空のB737-800(ウィキペディア英語版より)

アルゼンチンは14年にもデフォルトを起こし、この4月にもデフォルトに陥り、独立以来9度目のデフォルトになった。

資本主義政策の国では最多であるが、その度に再生も繰り返している。

ブラジルに次ぐ広大な国土は、食料の自給を達成しており、近年では天然ガスやリチウムと言った新しい天然資源が採掘されている。

これがデフォルトしても、完全な国家破綻に至らないと言う不思議な国である。

この他アルゼンチンには「LADE」と言うエアラインが存在するが、同社の経営は「空軍」である。

途上国には時々見られる軍経営のエアラインと言えるが、同社はへき地への軍事輸送を行うほか、地元住民のための旅客輸送も行っている。

1A7 LADE SA340B.jpg ←LADE航空のサーブ340B。機体には「アルゼンチン空軍」と記入されている(ウィキペディア英語版より)

コロナ禍の現在、同国も他の国と同様エアラインは一部だけの運航で、国際線はほぼ運休状態にある。

国の経済自体も、コロナが原因でデフォルトされており、国営航空とて今後の見通しは決して良いとは言えない。

逆説的だが、フラッグキャリアであるため、コストをなるべくセーブしつつ運航は継続させているのは幸いと言えよう。

常に政治経済が不安定な南米では、エアラインの出入りが非常に激しいのが現状だが、同社は唯一50年以上頑張っているエアラインの一つである。

10年代には再生の意味を込めて、思い切ったCIを実施し、現在に至っている。

ブルーはアルゼンチンのナショナルカラーで、澄み切った広大な青空をイメージしていると言われる。

同社のコーポレートカラーも、代々ブルーが受け継がれてきたが、現行塗装は機体の上面全てをブルーという大胆な塗装である。

下面の白とは、シルバーのウェーブラインで区別し、曲線で塗り分けると言う現代的でハイセンスなデザインである。

1A7-Almuerzo_en_vuelo_de_larga_distancia_de_Aerolíneas_Argentinas.JPG ←国際線エコノミークラスのミール。トレイや容器まで、イメージカラーのブルーが使われている(ウィキペディア英語版より)

子会社のアウストラル航空も共通カラーだが、区別できるようにシルバーラインを赤に変更している(旧塗装でもデザインが同じで、カラーリングだけ違っていた)。

経済が不安定とは言え、南米ではブラジルと並んでトップレベルにあるアルゼンチンは、新興経済国家として期待されている。

先に書いたように農業・工業とも、規模・技術はブラジルと肩を並べる実力を持っており、残念ながら政治家がそれらを全く活かしきれていないのが混乱の原因にある。

それでもアルゼンチン航空は破綻や運休せず、同国の「プライド」を守って飛んでいる。

残念ながら独特の南半球「のみ」の路線などは運休してしまったが、それを最初に行ったのは同社であった。

日本にはチャーター便としても、一度の飛来もない「レア」なエアラインである。

加えて同社機自体を見るには、近くともヨーロッパまで行かないと見れないと言う、日本では「激レア」に属するエアライン。

一方南米ではメジャーなエアラインでもあるが、地理学的にも日本から最も遠い国がアルゼンチンであると言う事実がある。

LATAMの運休は、同国の物流経済にどの程度影響を及ぼすのか不明である。

だが同社は利便性や低価格で需要を伸ばしていたことから、今後アルゼンチン航空がどう動くのかにかかっているだろう。

先に書いたようにLATAMの運休は撤退ではなく、無期限運休となっていることから復活の可能性はある。

コロナ後、アルゼンチン航空が通常運航に再開する時どうなっているか、注目したい。



夜も空気がひんやりしているが、歩くとなんとなく蒸し暑くも感じる。

湿度は90%以上、いかにも梅雨らしい。

この後数日は気温は低めに推移し、湿気寒さが続きそう。

暑かったと思うとこうだから、体調が悲鳴を上げてしまいそう。

そういえばコロナ禍で、平日も休日ダイヤで運航していた宮城交通が、今週から通常ダイヤに戻った。

同時に22日付けでダイヤ改正が行われたが、これが新聞に載るほど評判が悪い。

同社によると、3月以降利用率は最大で7割、規制が緩和された後もコロナ前より3割ほど落ち込んでおり、以前のダイヤに戻しにくいと説明している。

しかし泉中央駅や八乙女駅の路線では、夜のダイヤが大幅に削減されると言う「改悪」になってしまった。

殆どの路線の最終バス時間が繰り上がり、最大で2時間も前倒しになった路線もある。

朝も路線によっては、ラッシュにも関わらず減便された路線があり、実行前からクレームが殺到していると言う。

ずっと休日ダイヤだったので慣れたと言う人も多いだろうが、都市部のバス路線でこれほどの「リストラ」は珍しい。

週末でさえ遅くても22時前後に最終となってしまい、地下鉄は0時近くまで運行しているのに、公共交通のバランスが崩れ始めた。

これでは自動車通勤に・・となる人が増えそうで、渋滞や事故の増加にもつながりかねない。

宮城交通は民営だからか、コラボするはずの仙台市は、以前から同社の動向に全くと言って良いほど不熱心。

一昨年前の運賃値上げの際も足並みを揃えようとしなかったし、地下鉄・バスの公益性が損なわれつつある。

せっかく社会は、変わりつつも元に戻ろうとしているのに、水を差すような事態に、行政はなぜ動かないのか。

大いに問題である。





元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

暑い日が続いたかと思うと、やはり「梅雨寒」がやって来ました。

面倒この上ないのですが、身体に言い聞かせないと体調を崩します。

「夏風邪」になりやすい時期と言えるのですが、コロナ禍で普通の風邪すら「引きにくい」状況にあります。

単なる風邪なのか、そうでないのか・・・そうなるときちんと予防するしかありません。

ただでさえマスクで暑苦しい思いをしていると思いますが、こまめに切り替えをして乗り切って下さい。

君はもう夏服を着ていると思いますが、家でも外でも調節できる衣服の方が良いでしょう。

先日テレビで、奈良・明日香の画像が流れていました。

今ではとても懐かしく、すぐにでも行きたい気持ちに駆られます。

君は今も奈良を好きでいるでしょうか?

画像を見ながら、そんなことも思いました。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



うべ児なは 吾に恋ふなも 立と月の のがなへ行けば 恋しかるなも(万葉集巻十四 3476 雑歌)


6月21日 晴れのち曇り 24℃

気持ち良い日曜日。

朝は良く晴れて青空が出ていたが、風があり気温上昇は抑えられて爽やかな初夏の陽気になった。

ここしばらく暑さが籠ってさっぱり涼しくない我が家も、今日は窓を全開。

ちょっと風が強くて埃が立ったけど(笑)、居眠りしていると肌寒さまで感じてしまった。

重い腰を上げて、洗濯と掃除をしてすっきりした。

午後は久し振りに、墓参りに出かけた。

コロナ禍でこの2カ月間、極力外出を控えていた。

毎月行っていたのに、それを途切らせてしまったが、「不要不急の移動自粛」を守っていた。

日曜日ならば交通機関もさほど混んでいないだろうと思う反面、この週末から長距離移動の自粛緩和、観光地などの再開が相次ぎ、逆に外出する人で混んでいるかも・・とも思った。

午後遅くと言う半端な時間帯だったこともあり、地下鉄・JR・バスとも思いのほか空いていた。

特に帰りの地下鉄は、中心部方面からの利用客が多いと思ったが、通常の日曜日以上に空いていた。

首都圏などでは繁華街が混雑し、「密」が懸念されているが、我が仙台では気持ち的な「自粛」は続いているようだ。

最も移動には自家用車、郊外の行楽地は混雑したかも知れないが。

私も車を使えるならば、コロナ禍を深く考えずに済むのだが、できない以上自衛策として「密」を避けるしかない。

それでも墓苑はとても涼しく、静かで気持ち良く過ごす事ができた。

コロナ禍のおかげで、お店などに行くと無意識に手をアルコール消毒するようになった。

あくまでお店や建物側の「好意」によるものなので、大事にありがたく使わせてもらっている。

緊急事態宣言の前後は、出入りする人の殆どが利用していたが、最近は少ないようにも思う。

泉中央でも、約3カ月間に渡る自粛で時短や休業していた店舗は、殆どが通常に戻りつつある。

残念ながら休業に耐えられず、閉店してしまった店も随分出た。

それでも今月以降、なんとなく「コロナ前」の雰囲気が戻っているように感じると同時に、「油断」も蔓延ってはいまいか?と心配だ。

アルコール消毒が完全な防止策かどうかは分からないが、やらないよりは良いだろう。

ところが最近、このて消毒も妙な変化が。

「通常」の事として定着しつつあるからだろうか、無意識に使うと「ヘンな匂い」の消毒液に当たる事があるのだ。

先日もとあるドラッグストアで使ったら、液状噴霧ではなく「ジェル」タイプのものだった。

どうもあのジェルタイプはべとつく感じで好きになれないのだが、仕方ない。

その後妙な匂いがまとわりつき、変だなと思っていると、匂いの元は何と自分の手。

しかも妙な匂いは「バニラの匂い」だった。

女性なら喜ぶかもしれないが、おっさんの手からバニラ臭とは・・正直「加齢臭」より始末が悪そう。

大量に使ったつもりはないが、帰宅するまでずっと匂いがまとわりつき参ってしまった。

その後も噴霧タイプだと思って安心したら、今度はきつい香水と同じ香り。

これもしばらく取れなくて辟易した.

ツンとしたアルコール臭が苦手・・と言う人もいるだろうが、これらの香りは行きすぎではないか。

そのまま食べ物を持ったり、料理することは不可能で、せっけんですっかり流さないと消えないと言う本末転倒さ。

うっかりそのままで、コメを研いだり生ものを扱えば、調理は見事台無しになる可能性が・・。

置いている側の「気遣い」かも知れないが、せめて「この消毒液はバニラの香りです」と分かりやすく書いておいて欲しい。

むしろアルコール臭はすぐ消えるので、よほど苦手な人以外は「普通」で良いと思うがどうだろうか。

移動自粛の緩和で、駅ではキャリーケースを引っ張る人の姿も見かけた。

自粛で帰省できなかった人が、徐々に動き始めたと言う事だろうか。

過敏にならざるを得ないのだが、隣県同士はともかく、首都圏との行き来はいかがなものか・・とつい考えてしまう。

一時のように多数の感染者は出なくなったが、東京では今も連日20~40人程度の新規感染者が発生している。

ただ医療体制に余裕ができたので、重症者に対する医療ひっ迫は避けられており、死亡者数は減少している。

世界でもアメリカとブラジルを除けば、感染者数に対して死亡者の数は相対的に減っている状態だ。

だからと言って日本が「もう大丈夫」ではない訳で、緩和した途端に繁華街や観光地が人出で賑わうのはいかがなものかと思う。

自粛でどこへも行けずストレスが溜まっていた事は理解できるが、コロナ禍は「白黒」で割り切れる話ではないだろう。


夜は雲が出ており、湿度も上がっているようだ。

暑くないけれど、空気は何処かべたっとしている。

涼しい日に墓参りに行けたのは良かった。

墓苑は風通しの良い場所にあるが、夏場暑い事に変わりはない。

不思議なことに、周囲は緑に覆われているのに、夏に行っても「虫さされ」されることがないのだ。

良く手入れされてはいるが、草木に覆われており、本来ならばヤブ蚊やブヨが良そうだが、殆どいないのである。

また夏から初秋に発生する蜂の類も、これまで殆ど見かけたことがない。

私はいつも小一間ほど滞在するのだが、7~9月でも虫さされに遭ったことがないのだ。

墓地だから線香の煙が「蚊取り線香」の役目を果たすのかしら?とも思うが、例えお盆やお彼岸でも効果がありそうなほど煙でむせかえっている事はない。

蚊の類は水場があると発生する。

逆に草木が生い茂っていても、まとまった水場がなければ繁殖しない。

市営墓地だがら、墓参用の水道やトイレが完備されているので、全く水気がないわけではないはずだが、実は「ミステリー」だと思っている。

ただし樹木が多いためか、鳥類は多く、年中鳴き声が枯れない。

特にカラスの営巣地があるらしく、彼らもまた墓参に来る人間を観察している。

今の時期は「儲け」にならないだろうが、お盆やお彼岸の時期は「お供え」に食べ物を置いて行く人がいるため、それを狙っているのだ。

最もそうした「害」を防ぐため、お供え物は「持ち帰る」ように勧告されている。

最近ではプラスチックの「イミテーション」があるので、それを置いていく人も見られる。

「鳥害」だけでなく、夏場に食べ物を備えるとすぐに腐敗し、それこそ虫などが発生する可能性も高い。

それでも置いて行く人が絶えないそうで、墓参シーズンでは管理の職員が毎日巡回し回収していると言う。

結果それらは「ゴミ」として処分されるわけだから、やはりお供えして拝んだ後は持ち帰って食べる方が合理的だ。

花もそうだ。

普通は「生花」を備えるのが一般的だが、それが枯れた後は墓苑が回収して処分している。

もちろんその手数料は管理費として払っているのだが、ゴミになってしまうと考えると、いささか時代にそぐわなくなっているのではないか。

年に2~3回だから気にする人は少ないが、お盆・お彼岸シーズンに売られる仏花は総じて高い。

普段なら3~500円程度で売られている花束が、これらのシーズンになると3~4割も高くなる。

商売の常とう手段とも言えるが、実にもったいないことだ。

それに花束を持ち歩くのは大変だし、車なら良いが、私のように公共交通を使う場合は持ち歩くこと自体が大変だ。

かさばるうえ、混雑の中だと迷惑だし、花自体が損傷したり、夏場は墓苑に着く前に水不足で萎れてしまう事もある。

私は「造花」をお墓の花刺しに入れてあり、チャンスがある時だけ生花を持って行くようにしている。

味気ないと言えばそれまでだけど、「100均」にはちゃんと「仏花」としての造花が売っている。

もちろん自宅の仏壇に飾っても良いが、汚れにくい材質が使われていて、外で放置していても結構長持ちする。

コンディションにもよるが、破損や色あせまでには1~2年持つようで、私は重宝している。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

蒸し暑さは小休止ですが、来週は重苦しい梅雨空が続きそうです。

体調だけでなく、食べ物の管理などにも気をつけて下さい。

君なら分かると思いますが、コロナはまだ終息していません。

過剰反応はどうかと思うけれど、油断もできません。

経済活動の再開は、コロナを再び拡大させることにもなるでしょう。

もう慣れたと思いますが、普段の予防や「密」は出来るだけ避けるなど、今後も意識するようにして下さい。

道端では、いつの間にかアジサイの花が咲き始めています。

今年は暑い日が多いせいか、鮮やかな青い花が多いようです。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



暫くは 寝つつもあらむを 夢のみに もとな見えつつ 我をねし泣くる(万葉集巻十四 3471 雑歌)










飛行機ネタ 今だからこそ、B767かも(6月19日 雨時々止む 23℃)

◎6月17日 晴れ 27℃

確か「梅雨入り」したはず・・・?

にも関わらず、連日の晴天と酷暑は一体なぜ?

でも今日は北寄りの風がやや強く、気温の上昇が抑えられたため比較的「過ごしやすい」暑さだった。

あくまでも昨日・一昨日に比べて、と言う一言が付け加えられるが、湿度も低くそう思える。

事実家では昨日までは窓を開けていてもさっぱり涼しくなく、止むを得ずエアコンを使う時間があった。

いつの言う通り保温性の良い我が家では、一度室温が上昇するとなかなか涼しくならない。

だが今日は窓から時折音を立てるほどの涼しい風が吹き込み、エアコンはもちろん扇風機も必要なかった。

日差しは相変わらず強く、外は暑いが日陰は充分涼しく、こう言う夏ならば大歓迎だ。

梅雨前線は九州南部に停滞し、週末にかけて徐々に北上する見込みだが、どうも「梅雨入り宣言」は勇み足だったのではないだろうか。

ところが朝から爽やかに気分に水を射すかのように、やたらヘリコプターや飛行機がうるさく飛び回っているのが気になった。

空気が澄んでいるので、数十キロ先からでも音が聞こえるコンディションだったからだが、実は午前中に仙台市上空に「UFO(未確認飛行物体)」が現れ、通報が相次いだからだ。

メディアや警察のヘリなどが確認と映像撮影のために、上空を飛びまわっていたらしい。

ニュースを見て私も上空を見たが、視力が悪いのと強い日差しで確認は出来なかった。

画像を見ると直径数メートルぐらいの白い「気球」で、ぶら下げたワイヤーの先端には十字型の金属器具が確認できた。

それにはゆっくり回転する小さなプロペラが、いくつか回転しているのが見えた。

高度は2,500~3,000メートル前後で、市内だけでなく県内各地からも見えたと言う。

観測気球を使う気象庁、国交省、自衛隊などでは該当する気球は上げていないと言う事である。

私は全く同様の物を、記憶が薄いが十数年前にも出現し騒動になったことを覚えている。

形もほぼ似ているし、上空で風が吹いているにもかかわらず殆ど動かない気球だった。

その時は上空に数時間以上耐空し、日暮れと共に視認できなくなり、次の日には確認できなかったと思う。

風に流されない所を見ると、プロペラが推進力を持っていると言う事ではないか。

画像を見た限り、カメラや観測機器らしい物は見えないが、少なくとも気象観測のためのものではない。

かと言って個人で打ち上げたとすると「無許可」の違法行為に当たるし、大きさからいってこっそり打ちあげられる様な物でもなさそう。

不気味としか言いようがないが、北朝鮮が上げたGPSや通信などの観測気球ではないかと思う。

昨日北朝鮮は、開城にある「南北連絡事務所」の建物を爆破・破壊するニュースが流れた。

先日韓国に逃れた脱北者の団体が、金委員長を批判する気球を北朝鮮側に複数飛ばし、北朝鮮側は団体を「クズ」呼ばわりして激しく批難。

韓国政府への批判も強めていて、両国間関係の緊張が高まっている。

もちろん断定できないが、北朝鮮が韓国に向けて上げた気球が風に流されて来たのではないだろうか。



◎6月19日

予報通り朝から梅雨らしく、鬱陶しい雨。

しかも雨は断続的で、強弱まで断続的だ。朝も通勤時間から物凄い雨音を立てる土砂降りの時間があり、傘を差しても濡れた人もいただろう。

土砂降りは夜まで数回繰り返したが、午後はしばし止んでいる時間帯もあって、実にネチネチした空模様だ。

これならいっそのこと、シトシト雨が終日続く方が対応しやすい。

かく言う私も、断続的と言う事もあって折り畳み傘を持って出かけた。

直前に気象庁の雨雲レーダー予測を見てからの・・だったのだが、ちょうど歩いている途中急に降り出し、数分と経たないうちに土砂降りになった。

周囲が白く霞んで見えるほどの降りで、歩道はあっという間に水浸しだ。

幸い防水機能の靴を履いていたけれど、折りたたみ傘は小さめで、片腕のシャツがびっしょり濡れてしまった。

しかも目的地に着いて間もなく雨は止む・・と言う皮肉さに、やたら腹立たしい。

私だけでなく、同じ思いをした人は多かったはずだ。

気温は低めだったが、湿度は90%以上と高く、正直さっぱり涼しくない。

本来仙台の梅雨は「梅雨寒」が多いのだが、今年はただ蒸し暑い。

今日からコロナによる規制が大幅に緩和され、県を越える移動や首都圏での営業自粛が事実上解除された。

プロ野球も当面「無観客」ながら、3カ月近く遅れて開幕した(イーグルス、勝利!)。

夜のニュースでは、週末の夜の町で飲食を楽しむ人が取材されていた。

仙台は雨のせいか、街の人出は思いのほか少ないように思えたが、果たしてこれで良いのか・・と言う疑問はぬぐえない。

安倍首相は「これ以上自粛だけでは無理だ。経済を回しつつコロナと共存して行かなくてはならない」とコメントしていたが、それは正しい事なのだろうか。

確かに新たな感染者の増加は少なくなっているが、0ではない。

仙台でも昨日、20代の男性が感染確認・発症し、4月28日以来の感染者になった。

今のところ濃厚接触者と見られる数人は「陰性」と見られているが、人の移動で感染者が増える可能性はあるだろう。

二言目には「経済を回す」と言うが、それは「コロナ前」を意識しての事であり、大きな間違いではないか。

コロナが全く脅威でなくならない以上、コロナ前に戻ることは不可能だ。

戻ったように見えて、再び拡大が始まったらどうするのか。

雇用もそれに乗じて、今後会社は正規雇用者を減らし、契約社員やバイト社員を増やす。

いざ感染拡大になれば、すぐそれを盾に解雇や無給休養・自宅待機に踏み切るに違いない。

これまでのように、雇用を増やして儲ける事ばかり考えられなくなっているはず。

「危機管理対策」と銘打って、今仕事のある人でも今後安穏としていられなくなるだろう。

近い将来、コロナの脅威はなくなると思うが、それまでは皆で辛抱すべきではないか。

同時にそれこそ危機管理として、こう言う事が再発しても社会が守られるシステムを考え実行して行くべきだと思う。







飛行機ネタ。

新型コロナの影響は、なおもエアライン業界に強い影響を及ぼしている。

日本を始め、各国は一定の落ち着きを見せていて、エアラインも徐々に再開の動きが出始めている。

しかし長期間にわたる運休は大きな赤字を産み、「コロナ前」に戻るのは早くても3年後という見方が強い。

破綻するエアラインが続出し、そうでなくとも従業員のリストラ・路線の縮小・機材の整理などを余儀なくされるエアラインが増加している。

今のところ日本のエアラインでは、大きな減益を強いられながらも、上記のようなリストラの動きは見られない。

だが「今後」次第では、業界に再編の波が押し寄せる可能性は否定できないだろう。

カナダのフラッグキャリアである「エア・カナダ」は、6月初旬に保有するB767を全機退役させた。

同機は今年から順次退役し、後継機種であるB787と完全に交替する計画だったが、コロナの影響で前倒しした。

1A5 AIRCANADA-B767-375(ER)_Air_Canada_C-FPCA,_GVA_Geneva_(Geneve-Cointrin).jpg

1A5-Air_Canada_B767-300ER_C-FPCA_GRU_2012-4-8.png

1A5-Air_Canada_Rouge,_B767-33A(ER),_C-GHPE_-_LAX_(19745056251).jpg ←(3枚)今月初めに全機が退役したエア・カナダのB767-300ERと間もなく退役するエア・カナダ・ルージュ(ウィキペディア英語版より)

同社のB767は30機以上登録されていたが、このうち25機は子会社のLCC部門「エア・カナダ・ルージュ」にリースされている。

4日付で退役したのは「本社」に所属する数機のB767だったが、「ルージュ」に残存する機体も早々退役させる方針である。

またアメリカのメガキャリア・アメリカン航空も、計画を大幅に前倒しして30機以上あった同機を全て退役させている。

6機保有するオーストリア航空も、3機を退役させる方針を公表している。

1A5 AUSTRIAN B767-300ER-OE-LAY.jpg ←コロナの影響でB767-300ERを半数に削減するオーストリア航空(ウィキペディア英語版より)

B767は老朽化している機体が多く、コロナ前から減勢が続いていたが、今後それに拍車がかかるかも知れない。

同じアメリカのメジャーでは、デルタ航空とユナイテッド航空がそれぞれ数十機を保有しているが、今のところ動きはない。

1A5-B767-322(ER),_United_Airlines_JP7243392.jpg

1A5-B767-300ER UNITED N667UA_(40792164455).jpg

1A5-United_Airlines,_B767-300ER N676UA.jpg ←(3枚)旧塗装と現行塗装のユナイテッド航空のB767-300ER(ウィキペディア英語版より)

ただデルタ航空は、先日B777-200LRやMD-88/90を急遽退役させ、B717も半減させる事を発表しており、B767の去就は安泰とは言えない状況にある。

ファンには人気のあるB767だが、一方で新しいB787やA350が数を増やして「古い機種」と言うイメージを持つ人も多いだろう。

同機の就航は1980年代前半だから、もう40年近くも前。

そういう意味では、確かに古い旅客機と言えなくもない。

1A5 ANA B767-300ER-JA620A@HKG_(20181006132915).jpg ←日本ではまだまだ活躍中のB767-300ER(ウィキペディア英語版より)

同機が登場した時代は、航空需要が増大した時だったが、その時点での旅客機はB727・737、DC-9と言った「短距離用」のナローーボディ機か、B747を始めとする大型ワイドボディ機だけの、両極端な時代でもあった。

しかし需要の高まりはエアラインにとって、より細やかな運用が収益性を高めることになり、「中間サイズ」が望まれるようになった。

契機となったのは、できたての「A300」である。

同機はフランスと当時の西ドイツが主体となって立ち上げた国際共同メーカー「エアバス」社のデビュー作で、世界で最初の実用「双発ワイドボディ機」である。

登場時はメーカーに経験がなく、その形態に大きな疑問がもたれていたが、実際には非常に経済的で利益率が高い事が実証された。

「中距離用中型機」として、アメリカでは3発機のDC-10やトライスターが既に活躍していたが、ほぼ同じ大きさで双発機であれば当然運航コストは安い。

ボーイングではA300のコンセプトに注目し、「7X7」計画として中型機の発想を持っていたが、当初は3発ワイドボディ機であった。

DC-10はマクドネル・ダグラス、トライスターはロッキードの開発で、ボーイングでは中型機をまだ持っていなかった。

国内のエアラインは、これらの機体より経済的で大陸横断が可能な機体を要望していたが、A300を見てより経済的な双発機をボーイングに要望した。

加えて国内幹線用として、通常のワイドボディ機よりもやや小さめが良いと言う事から、キャビンに通路2本のワイドボディ機ながら、若干細めの「セミ・ワイドボディ」と言う、独特の形状がB767として開発された。

1A5 JAL B767-300ER-JA608J@HKG_(20190125102956).jpg

1A5 JAL-B767-346ER_JA606J 2019_Japan_Airlines_(48587357836).jpg ←(2枚)日本で最も多くのB767を運用する日本航空。国内線から中距離国際線まで幅広く運用されている。翼端にウィングレットを装備した機体もある(ウィキペディア英語版より)

同機のキャビンは、座席は配列が標準で2-3-2・7列と言う、かつてない方式がウリだった。

ボーイングは「ミドルマンの悲劇」を理由としていた。

ビジネスマンなど単独利用が多いアメリカでは、3列もしくは4列座席だと、中間席に当たる確率が高く、その座席は窮屈で評判が悪かった。

乗降やトイレに行くのが不便であり、両脇を他人に囲まれるのも嫌われる原因だった。

しかし7列であれば、中間席に当たる確率は1/7であり、窓際か通路側に座れる確率は85%以上に達する。

一方3-3のナローボディ機では65%、3-4-3のB747では60%程度である。

最も「半端」な直径は、床下貨物室の狭さを誘発し、ワイドボディ機共通の航空用コンテナ「LD-3」規格だと並列に積載できない。

そこでボーイングは「767専用」の「LD-2」と言う一回り小さいコンテナを開発し、並列に搭載できるようにした。

これはエアラインだけでなく、コンテナを出し入れする空港ハンドリングでも賛否両論だった。

新しい規格のコンテナだから、それなりの道具や器具が必要になるからである。

1A5-B767-300ER_flight_deck.jpg

1A5-JAL_B767-300ER(JA610J)_(4322655793).jpg ←(2枚)ボーイング初のグラスコクピットとなったB767のフライトデッキと機首部分(ウィキペディア英語版より)

結果B767は当初セールスが伸び悩み、順調になった後も導入には地域の偏りが生じている。

それでも売れたのは、それまで双発機に課せられていた長距離洋上飛行の規制「ETOPS」が緩和されるようになったからだ。

旅客機は、エンジンの半分が故障で停止しても安全に飛行できるようになっているが、80年代前半までは信頼性と言う意味から、双発機には「ETOPS60」と言う規制かかけられていた。

これは万が一片側のエンジンが故障した際、緊急着陸を60分以内に行わなければならないと言うルールである。

それは予定する飛行ルート上全てに適用され、常に60分以内に着陸できる空港があるルートを飛ばなくてはならない。

ただし陸上での飛行にその制限がないため、双発機は基本的に洋上横断飛行は限られており、その主役は制限のない3・4発機に限られていたのだ。

だがエンジンだけでなく、コンピューターの普及で航法装置なども大きな進化を遂げて、安全性が向上した。

更に機体構造や新しいエンジンのおかげで、双発でも10,000キロに達する航続力を得られるようになったためETPOS規制は緩和に動いたのである。

その発端となったのがB767で、アメリカメジャーの一つTWAとイスラエルのフラッグキャリア、エルアル航空がB767-200ERを用いて大西洋横断路線に投入した。

ELAL_B767-27E-ER_4X-EAF_(22343721261).jpg ←双発機の時代を開拓したエルアル・イスラエル航空のB767-200ER(ウィキペディア英語版より)

当初は「ETOPS60」に則って、途中経由地を使う飛行だったが、同時に双発機の安全性が証明され、90分そして120分へと規制が緩和されていった。

本格的な長距離モデルとなった300ERが登場した80年代後半には、機体によって180分も適用されるようになり、双発機時代の本格的な幕開けとなったのである。

日本では最初に全日空が200型を導入し、その後日本航空が200型と胴体を延長した300型を導入し「大きすぎず小さすぎない」機体として全国を飛ぶ唯一の「ワイドボディ機」となった。

B767-JA8238_B767-281_ANA_KIX_11JAN99_(6741776739).jpg

1A5-JAL_B767-346;_JA8266,_September_1990_(5624254560).jpg 

1A5 JAL_B767-300_JA8235 fukuoka_20050314153122.jpg ←(3枚)初めてB767-200を導入した全日空と、300型のローンチカスタマーである日本航空(ウィキペディア英語版より)


日本の航空事情にジャストサイズと言われるが、それ以前に同機は初めて日本の工業メーカーが部品の生産を分担した機体と言う理由も大きかった。

胴体や主翼、尾翼などの一部が日本で生産する「分担制」を取り入れた最初の機体だった。

逆説的に言えば、それは「有無を言わさず」同機の導入が強要される事と同じで、日米貿易摩擦問題の一端でもあった。

アメリカはB767の日本製部分が大きいことから、「ボーイング・ジャパンB767」にしてはどうか、と言う提案をしたほどである。

もちろんそれは、同機の購入を強制する意味も含まれていたのである。

幸い同機が日本の事情に合った事は幸いで、幹線だけでなく亜幹線やローカル線にも充分対応できた。

1A5 ANA-B767-381(ER),_All_Nippon_Airways_(ANA)_JP6463409.jpg

1A5 JAL B767-300ER-JA654J@PEK_(20190623192545).jpg ←全日空と日本航空のB767-300ER(ウィキペディア英語版より)

当初は両社とも国内線用機材として運用していたが、80年代末からは長距離型の「ER」が導入され、国際線でも運航されるようになって行った。

また90年代後半の規制緩和後、新興エアラインとして設立されたスカイマーク・北海道国際航空(現エア・ドゥ)でも採用され、日本各地で見られるスタンダード機材に成長した。

現在日本では全日空が25機、日本航空が32機、エア・ドゥが6機保有し、全て300型で200型は2000年代に全機退役している。

このうち「通常型」の300型は3社合わせて7機残っているが、いずれも機齢が高く、近々引退が予定されている。

1A5 AirDo_B767-300ER_(JA98AD)_(25977609581).jpg

1A5 AIR DO B767-300 JA602A_(28386223405).jpg ←(2枚)エア・ドゥのB767-300ERと通常型300。自社導入機と全日空からのリース機がある(ウィキペディア英語版より)

大手2社は後継機種としてB787を多数導入しているが、実際運用して見ると長距離国際線でその性能が発揮されることから、国内線や近距離国際線では、なおもB767が重要な位置を占めている。

ホノルル線などの中距離線でも主力機になっており、今のところ全機退役の予定はない。

この他全日空では貨物型の300F、および旅客機から改造した「300BCF」を運用している。

世界ではコロナを受けて減勢したと書いたが、実は総数としてはさほどの減少率ではない。

1A5-B767-381ER_JA623A 2019_(48367174887).jpg

1A5_ANA_B767-300ER(WL)_take_off_from_R-W16R._(5679378311).jpg ←(2枚)ハワイ線でも活躍する全日空のB767-300ER(ウィキペディア英語版より)

既に生産停止になっていると誤解されがちだが、同機の生産ラインは現在も維持されている。

旅客型については既に受注分の生産・納入は終えており、2010年代半ば以降新規の受注はない。

ところがボーイングが公表する同機の受注数は、少数ではあるが20年になっても増えているという事実がある。

これは貨物型の「300F(ERF)」と、軍用で空中給油機の「KC-46A」ペガサスの受注があるからだ。

現時点で300Fのバックオーダーは数十機あり、KC-46Aも予定発注を含めると同数の見込みがある。

1A5 ANA B767-300ERF JA605F_(34755375036).jpg

1A5 ANA CARGO B767-300F JA605A.jpg ←(2枚)ANAカーゴが運用するB767-300ERFは、ウィングレットつき(ウィキペディア英語版より)

KC-46Aはその納入過程が異なるので実数とは言えない部分があるが、生産ラインは通常のB767と同じである。

また退役した中古の旅客型を貨物機に改造した「BCF」及び「BDSF」も、受注が伸びている。

先日大手ネット通販の「アマゾン」が、リース会社に対し「B767-300BCF」20機のリース導入契約を完了した。

中古機ではあるけれど、コロナの影響で逆に通販が大きな伸びを見せていることから増備に踏み切った形である。

1A5 AMAZON B767-300F N1217A-Prime_Air_(47137434372).jpg

1A5 AMAZON B767-300F-Prime_Air_(47137631292).jpg ←(2枚)中古のB767F20機の導入を決めたアマゾン。ブランドは(プライム・エア)でアトラス・エアが運航を担当する。写真の機体は昨年事故を起こした(ウィキペディア英語版より)

B767Fの貨物は、最大で約55トン。

航続距離と相互するが、最大積載量だと約6,500キロ程度の航続力を持つ。

だが生活用品や個人消費用の食料品、電化製品などが主体の通販貨物であれば、20トン程度で満載になる。

それだと太平洋を横断できるぐらいの航続力になるので、宅配貨物にはうってつけである。

新造機のバックオーダーも、アメリカのフェデックスとUPSが多くを占めており、前者は古いDC-10FやMD-11を引退させ、B777FとB767Fに統一させる予定である。

宅配貨物便としては、767はまだまだ充分な機能を持つと見込まれている証と言えるだろう。

1A5 ANA B767-300F-JA604F_(4260501006).jpg

1A5 ANA CARGO B767-300BCF-JA8970@HKG_(20190125134033).jpg

1A5 ANA-B767-381(BCF)_JA8323 2019_ANA_Cargo_(48579393141).jpg ←(3枚)旧塗装のB767Fと現行塗装のB767-300BCF。BCFは旅客型から改造した機体(ウィキペディア英語版より)

また767ファンには、興味深い情報もある。

ボーイングは787に続く新型機として「7X7」計画を持っていて、最近まで詳細は公表していなかった。

しかし先日なおも詳細は公表しないながらも、新しい機体は「797」であることを大筋で認めた。

残念ながらコロナ禍だけでなく、連続事故を起こして生産停止中の「737MAX」の事もあり、「797」の具体案は出ていないと言う。

ところがボーイングでは、B767の「再生案」が持ち上がっているのである。

アメリカのエアラインを筆頭に、生産停止久しいB757と767の代替え機の要望が今も強く残っている。

ボーイングは787を後継機としてきたが、「優秀過ぎて」融通性に若干欠ける部分も現れて来た。

1A5 FEDEX B767-300ERF-N107FE@PEK_(20191028153434).jpg

1A5 ATLAS B767-300F-N643GT_(9029054422).jpg

1A5-UPS_,B767-34AF(ER)_,N357UP.jpg

1A5-UPS_B767-34AF(ER),_N357UP,_departing_to_Shanghai,_Kansai_Airport.jpg 

1A5 AMERJET B767-300F N319CM_KMIA_(33850956015).jpg ←(5枚)フェデックス、UPS、DHLカーゴ、アメリジェットのB767-300F。フェデックスとUPSは現時点で最大の767ユーザーで、新造機の発注も行っている(ウィキペディア英語版より)


例えば貨物型については、同機の胴体が一体成型に近い複合材で作られていることから、貨物用の大型サイドカーゴドアの増設が従来機に比べ難しく、コストが高くつく事が分かっている。

不可能ではないものの、強度などの点で設計を変更する項目が多いことや、乗客を運ぶよりも遥かに重い貨物を運ぶと、同機の経済性はさほど高くないとも言われている。

そうした理由から、今のところB787の貨物型は計画がない。

B777Fだと、MD-11Fなど「大型貨物機」の代替え機であり、中型貨物機は空白になっている。

1A5 JAL CARGO B767-300F JA632J.jpg ←最も格好良かったB767の一つ、JALカーゴのB767-300F(ウィキペディア英語版より)

このことから、ボーイングではB767にB787やB747-8で使われている新型エンジン「GEnx」に換装する計画を進めていると言う。

もちろん換装だけでなく、完全なグラスコクピット、操縦・航法システムのコンピューター化など、改修点は多岐に渡る。

それでも全くの新規開発よりも遥かにコストは低いことから、ユナイテッドやデルタが興味を示していると言う。

この発展型は、アメリカ空軍も興味を示しており、仮に実現すると生産開始から7~80年間も生き続ける可能性がある。

特にB767は軍用機としても優秀さを実証しており、それを最初に実行したのは航空自衛隊だ。

自衛隊では早期警戒機「E-767」の他、空中給油・輸送機型の「KC-767」を運用しているが、それを発展させたのがKC-46Aだ。

1A5-E-767_64-3502_2019_(40715295103).jpg

1A5_E-767_(6).jpg

1A5-KC-767_-_RIAT_2012_(15864326863).jpg

1A5-KC-767_Japan_Air_Force.jpg

1A5-87-3602_Boeing_KC-767J_(767-2FK-ER)_JASDF_(11474463676).jpg ←(5枚)航空自衛隊が運用するE-767とKC-767。邦人救出などの緊急時には座席を装備できる、旅客機と違って内装がないので、横8列の座席が設けられる(航空自衛隊提供、ウィキペディア英語版より)

元々旅客機だけあって、キャビンに余裕があり、それでいて中型であることは取り回ししやすさがある。

それに767は、すでに進化を遂げている。

全日空・日本航空では2000年代以降、翼端にウィングレットをつけた機体を登場させた。

いずれも既存の機体にレトロフィットさせたものと、新造機で最初から付けられている機体がある。

これによって全幅は、約3.2メートル延長したが、燃費は5%改善された。

たった5%だと思うが、全日空の運航ベースだと、1機当たり年間1億円前後の燃費節約が実現し、二酸化炭素排出量は1,200トンも削減していると言う。

1A5-B767-346ER_JA617J 2019_Japan_Air_Lines.jpg ←性能が向上した日本航空のウィングレットつきB767-300ER(ウィキペディア英語版より)

目立たない改修ではあるが、改良の余地が残っていると言う事でもある。

「797」と改良型が一致するとは限らないが、ボーイングでは兼ねてから要望の強かった757の後継機種と767の後継機種を統合した様な機体を考えているようだ。

そうなるとナローボディ機なのか、767と同じ「セミ・ワイドボディ」機なのか、と言う事になるが、貨物機の需要も考えると後者の方が現実的にも思える。

また767では少数派である「400ER」も、見直すべき存在ではないか。

400ERは300の胴体を約6.3メートル延長し、最大座席数を400席に拡大した767最大のモデルである。

デルタ航空と旧コンチネンタル航空だけが発注し、僅か38機だけ生産されたレアモデルである。

1A5-B767-432(ER),_Delta_Air_Lines_JP7191416.jpg

1A5-B767-424(ER),_United_Airlines_JP7720438.jpg ←(2枚)デルタ航空とユナイテッド航空のB767-400ERは全機が現役にある(ウィキペディア英語版より)

既にB777が登場していたが、両社は既存の767とのコンポーネントが共通である事や、パイロット・整備士のライセンスが共通化されることでB777-200並みの輸送力を持つ同機を発注した。

システムなどは300型と共通なので、単に胴体を延長したモデルとも言えるが、コクピットはB777と同じタイプの液晶タイプに置きかえられ、キャビンも777風に改修された。

客室窓が767の特徴であった四角形から、777と同じ楕円形に変わった他、オーバーヘッドストウェッジも最初から777と同じ大容量タイプが層迹されている。

1A5_B767-424ER_flight_deck.jpg ←B777タイプに変更された400ERのコクピット。パイロットの資格は200・300と共通で操縦できる(ウィキペディア英語版より)

エンジンは300型ではCF-6/JT-9D・PW4000/RB211からの選択制だったが、400ERではRB211とJT-9Dは廃止されている。

CF-6とPW4000も出力を向上させた発展型で、デジタル制御装置(FADEC)の標準化されている。

航続距離も、フルペイロードになると300ERより若干劣るが、それでも10,500キロ程度を確保している。

400には通常型は存在せず、「ER」1種のみだが、777が既にあったため興味を示すエアラインはなかった。

航空業界が好景気の時代だったことから「新しい方が良い」と言うイメージが強く、世界のエアラインの殆どはB777に流れてしまった。

確かに座席数が同じならば、胴体径の大きい777の方が融通性は高い。

システムも新しく、経済性と言う意味では当然とも言えるが、運用上長期的な観念から見れば、決して正しいとも言えないのだ。

デルタやコンチネンタル、ユナイテッドが主張するように、767を長期間多数運用していれば、同機のメリットは大きい。

逆説的に、777と同じ座席数であれば機体重量の軽い767の方がコストが安いだけでなく、整備費用も同様の効果が出て来るとも言えるのである。

私は適度の大きさである「400ER」も、まだ生き残れる価値があると思う。

それは「797」及び767の発展・改修案にも連なる事が可能ではないかと思うし、貨物型に着いても400ERベースであれば可能だと思う。

それでいて777Fよりも価格が安ければ、「400ERF」もアリだと思う。

先に書いたように、B767の生産ラインは現在も維持されており、受注も僅かではあるが増えていると言う事実がある。

今後コロナの影響を差し引く必要はあると思うが、300F(ERF)の受注残は30機近くあり、新規発注も続いている。

軍用型のKC-46は、生産及び納入のペースがゆっくりである事、当初の予定より大幅に遅れていることで、767の生産ラインは少なくとも向こう10年間は閉じられないことになっている。

1A5-KC-46_refuels_F-35_20190122.jpg ←F-35Aに空中給油するKC-46Aペガサス(アメリカ空軍提供)

B777は生産開始から約25年、B787も間もなく10年を迎え、767は「過去帳入り」した機体に見られがちだ。

しかしれっきとした「生産中」の機種であると同時に、まだ改良の余地が残されている。

「コロナ後」のエアラインは、より厳しい経営が続くと思われるが、それは新しく優秀な機材だけで経済的・・という認識も変化するだろう。

むしろ熟成・安定した767のような機体が、改良を加えつつ長期間運用できるような作りが求められてくるのではないか、と思う。

1A5 JAL B767-300ER-JA622J_DORAEMONJET (32654384743).jpg

1A5 JAL B767-300-JA602J_JAL_DREAM_EXPRESS_90.jpg ←(2枚)日本では特別塗装機も多い。日本航空の「ドラえもんジェット」と「ディズニー90周年」塗装機(ウィキペディア英語版より)

今のところ旅客型の減勢が著しいが、それでも世界では200機以上が現役にある。

最も身近な日本のエアラインでも、経年機の退役が続けられているが、全面退役の予定は全くない。

運用3社にとっては、「後輩」である777や787を差しおいても、767故のメリットがあると言う事だ。

767の「時代」は、実はまだまだ終わっていないのである。





あれだけ降った雨。

帰宅する時空を見たら、雲が取れていた。

結局、本当の「濡れ損」だった。

梅雨だから仕方ないけれど、何とも気まぐれな空模様だ。

湿気はまだ残っていて、急ぎ足で歩くとじわっと汗ばむ。

気温自体はそんなに高くないと思うが、身体にカビが生えて来そう。

明日は再び「中休み」で晴れ間が戻り、気温も26℃が予想されている。

また暑くなりそうだが、雨でその気温よりは良いはずだ。

週末で外出する人も多そうだが、熱中症対策と共に、人が集まる場所ではコロナ対策も忘れずに。

規制が解除されて「もう大丈夫」と本気で思っている人がいるようで、正直理解しがたい。

特に飲食店に行く人は、楽しむのは構わないが気遣いを忘れずに。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

蒸し暑く、体調がついていけないような感じがします。

君は暑がりではなかったと思いますが、水分補給などは怠らないようにして下さい。

ここ1週間暑い日が続いているので、君も半袖姿が増えたと思います。

エアコンなどで知らずに冷えている可能性もあるので、充分気をつけて下さい。

今年の夏は、コロナがどう影響するか分かりません。

君は何か予定を立てていたのでしょうか?

もしかしたら、秋以降までは様子を見た方が良い・・と言う事になるかも知れません。

季節を味わえないのは辛いですが、用心した方が良いことも確かです。

様子を見つつ、できることから初めて行くしかないでしょう。

お店なども徐々に通常に戻っていますので、状況を見ながら楽しむのも良いかと思います。

湿度が高いので、体調管理にはくれぐれも注意して下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




あしひきの 山より出づる 月待つと 人にはいひて 妹待つ吾を(万葉集巻十二 3002 物に寄せて思を陳ぶ)


※諸般の事情により、日記は2回分掲載しています。

飛行機ネタ B737-500「スーパードルフィン」引退(6月14日 曇りのち雨 27℃)

◎6月12日 晴れ時々曇り 32℃

暑い!6月ってこんなに暑かった?と何度思ったことか。

昨日九州北部から関東・甲信越、そして東北南部まで梅雨入りしたはずだが、僅か1日で「中休み」だ。

昨日に比べ、北寄りの風が吹いたことで湿度が下がり、暑さはいくらか・・と思ったが、午後以降気温はどんどん上がった。

県内は殆どが30℃超えの「真夏日」を記録し、仙台も3度目の真夏日で一番暑い日になった。

電気代が気になるけれど、家の中はとにかく暑く、背に腹は代えられぬとエアコンを動かした。

宮城の梅雨は海風が入りやすく、気温は低めの事が多いのだが、現時点では夏休みのようだ。

しかも今日はあちこち出歩く用事があり、熱中症が気にかかる。

建物の中はエアコンが効いて入るが、キンキンと言うほどではなくマスクをしていると顔だけ汗でびちゃびちゃに・・・。

外でも頑なにマスクをしている人が多いけれど、歩く分にはリスクは低いので外すべきだ。

この暑さの中、顔を覆って出歩くのは危険だ。

今日6月12日は「県民防災の日」。

コロナの影響で、毎年行われる県及び市町村主催の防災訓練は中止された。

今から42年前、1978年(昭和53年)6月12日、17時15分ごろ、宮城県沖を震源とするM7.2の大地震が発生。

大きな津波は発生しなかったが、仙台市は震度5の揺れに見舞われた。

最も当時震度の判断は、気象台担当者の「体感」で判断された他、今のように9段階ではなかった。

公式として「震度5」だったが、後の分析で仙台市内は最大で震度6弱以上の揺れを観測していたことが分かっている。

当時の仙台は、まだ政令市になる前で人口は約65万程度だったが、戦後初めて大都市を直撃した大地震であった。

仙台市を中心に、県内では27人が死亡したが、このうち18人が地震で倒壊した「ブロック塀」の下敷きになって死亡した。

震災後、ブロック塀は事実上「禁止」され、住宅の屋根瓦も条例で規制された他、新築の建物は全て耐震基準を満たすものでなければならなくなった。

しかしこの規制は、80年ごろに制定され、それ以前の物については「改修」を促す事に留まっている。

新聞によると、県内では未だ3割近くのブロック塀が基準をクリアしていない古いものだと言う。

この時私は小学6年生で、地震の事は今でもはっきりと覚えている。

既に帰宅していた時間だったが、本震の約8分前に震度3の「前震」があった。

よくある地震なので全く気に留めなかったが、本震は子供心に驚くのを通り越し、死ぬんだなと思ったほど。

子供の目には、道路が揺れで完全な斜めに傾いたようにも見えた。

インフラも停止したが、古い我が家では大きな被害はなかった。

停電は深夜に復旧したし、水道は一時的に濁り水が出たものの断水せず、ガスはプロパンだった。

次の日にはガス業者が点検に来てくれて、異常はなかった。

被害は屋根瓦が数枚ずれたのと、居間のサイドボードが倒れてガラス戸が1枚割れただけだった。

瓦は後日祖父が屋根に上って直したが、サイドボードは母の私物で、新しいガラスは高価でいつまでも文句を言っていた事を思い出す。

そのサイドボードは、今も我が家で「現役」である。

加えて被害のなかった祖母の「茶箪笥」や母の「本箱」も、我が家に残存している。

当時私は祖父母と母との4人暮らしだったが、42年後の今、私は天涯孤独になった。

小学生だったから無理もないが、40年後に独りきりになるなんて予想だにしなかった。

加えて33年後に、未曽有の「東日本大震災」を経験するなど、当然思いもよらなかった。

これだけ時間が経つと、知らない県民の方が圧倒的。いわば「記憶の風化」だ。

記憶が何とか残る子供でさえ、もう40代後半だろう。

大震災から来年で10年になるが、コロナで自然災害に対して気持ちが疎かになりそうで怖い。

誤解を恐れずに言うならば、ウィルスは医学・科学、そして一人一人の「努力」で防げ、対抗できる。

しかし地震を含む自然災害は、今後必ずそして何度も起こる。

それに対し、人間が出来るのは「備える」ことだけだ。

その為には絶対風化させてはならない事。

さすがに妃だし日本大震災は、多くの県民に記憶が残っているが、今後「知らない」世代が増えて来る。

県外から移住して来た人々も、どんどん増えて、大地震が未体験の人が間違いなく増える。

「伝える」ことを、絶対忘れてはいけないことなのだ。



◎6月14日

梅雨入りから4日目にして、ようやく「らしい」空模様だ。

真夏のような日差しと暑さは和らいだが、代わりに蒸し暑さが到来。

仙台は日中曇り空で、気温も緩い上昇だったが、午後からは雲に厚みが増し、夕方から小雨が降り出した。

午前中までは風があって涼しかったが、雨が降りだすと逆に湿度が上がって蒸し暑い。

夜には湿度が100%で、べたべたこの上ない。

梅雨だから当然なのだけれど、せめてもう少し気温が低ければ・・。

予報では、来週後半以降同じ梅雨空ながら、「オホーツク海高気圧」が勢力を強め「ヤマセ」が流入する見込み。

今日14日は08年に起きた「宮城・岩手内陸地震」の日である。

12日は宮城県沖地震、そして14日がそうだ。

地震発生は朝8時43分ごろ。宮城県と岩手県の県境付近の山岳地帯でM7.2と言う大地震だった。

最大震度は宮城県栗原市と岩手県奥州市で震度6強を観測し、17名の死亡者と400名以上の怪我人が出た。

仙台市でも震度5強と言う強い揺れを観測したが、建物やインフラの被害は軽微だった。

震源地が山奥だった事もあったが、現地では山菜採りやハイキングに行った人が山崩れなどに巻き込まれ、死亡者のうち6名が12年経った現在でも遺体が確認されていない。

現地では橋梁が崩壊した他、尾根一つが完全に崩壊して「山一つ」が消滅した。

このことは海外でも大きく報道され、活断層の内陸地震の恐怖を正にビジュアルで体験することになった。

折しも前々日の12日は、「宮城県沖地震」からちょうど30年目に当たっていた。

宮城県沖では平均30数年置きにM7クラスの大地震が発生しており、その危険性が迫っているとして大規模な防災訓練が行われたばかりであった。

そした3年後に東日本大震災が発生したが、度重なる余震で「宮城県沖」もどさくさに紛れて発生した。

あまり報道されなかったが、震源域ではいつの間にかプレートの歪が解消しており、震災でそれが解放されたと言う。

一方この地震だけではなく、宮城県周辺では2000年以降内陸型の大地震がたびたび発生しており、震災の「布石」だったとも言われている。

科学的根拠は証明されていないが、海溝型大地震の前にはプレートが大きく押されるため、活断層が動く可能性があると言う。

結果論に過ぎないが、今思えば確かなように思える。

その証拠に、震災以降内陸型地震は殆ど発生しておらず、やはり「前兆」だったのでは?と思う。







飛行機ネタ。

コロナウィルスによるエアラインの打撃は、もはや世界レベルである。

既に経営破綻に追い込まれたエアラインも出始めているが、拡大が少し落ち着きを見せて来たことで再開の動きも見られるようになった。

「コロナ前」に戻るのは、早く手も数年と言われるが、それは仕方ない事かも知れない。

逆に需要の高まりを見せているのが「貨物便」で、自粛が続く現在ネット通販などが国を跨いで活発になっているほか、感染拡大が続く国に対して医療品などの物資を送る、もしくは輸入する動きが加速している。

エアラインも通常便が運航できない中、「貨物便」として運航することで、少しでも利益を出そうと模索している。

先日に日本航空の子会社として初めて設立されたLCC「ZIP TOKYO」が、東京~バンコク間に初就航した。

機材は日本航空から移籍したB787-8だが、旅客便は運航できないため「臨時貨物便」として初就航を果たすことになった。

日本航空は「リーマンショック」による経営破綻前に、自社による航空貨物事業を廃止したが、それ以来グループでの貨物専用便の運航である。

全日空は「ANAカーゴ」と言うブランドで自社貨物便を運航しているが、コロナの影響でグランド(地上待機)になった旅客機を利用し、複数の臨時貨物便を運航している。

こうした貨物便は、月当たり数百便に上る。

業界では、乗客を輸送できない代わりに、こうした世界的危機に於いては飛行機が「サプライチェーン」の一役を担う事で物流の確保が保たれる事を強く認識していると言う。

これらの貨物便は、通常の旅客機を利用するため積載量は限定されるが、床下貨物室にはコンテナも搭載できるし、キャビンでは座席やオーバーヘッドストウェッジの中に医療品や生活用品など、比較的軽量な物を搭載する。

その為には荷物を固定するベルトが必要で、上げおろしは完全な「人海戦術」だが、背に腹は代えられない。

それでも全体で10トン程度の貨物を搭載できるから、一定の輸送力を確保できる。

日本のエアラインではまだないが、海外では思い切ってキャビンの座席やギャレーなどを取りはらってキャビン内を完全な貨物室にしてしまったエアラインも登場している。

最も本当の貨物機のように専用のカーゴドアはないので、通常の乗降口からやはり「人海戦術」で上げ下ろしを行っている。

一方で、長期間運休のせいで機種そのものを予定外もしくは大きく前倒しして退役させ、リストラを図るエアラインも増加中だ。

今のところ日本のエアラインでは、そうした具体的な動きが出ていない。

だが6月14日を以て退役した機種がある。

ファンの方には周知の事だが、全日空グループの「ANAウィングス」が運航する「B737-500」が、14日の福岡発東京行き254便で「ラストフライト」を迎えた。

同機の退役は、コロナの影響と直接関係なく、予め決められていた計画に則った退役と言える。

1A6-ANA_B737-500(JA306K)_(3504895038).jpg

1A6-ANA_B737-54K(JA306K)_landing_@MYJ_RJOM_(2058507184).jpg ←(2枚)6月14日の254便で25年に渡る運航を終えたB737-500の「JA306K」(ウィキペディア英語版より)

実際には退役の瞬間が懸念されていたが、コロナが一定の落ち着きを見せていることで、正式の退役となった。

国内線もコロナの影響で、大幅な運休が続いており、今後本格的な夏にかけて順次再開する見通し。

だがコロナの情勢は極めて不透明・流動的であり、今のうちに・・・と言う感じではある。

「密」を避けるため、全日空では退役セレモニーなどは「ごく身内」だけでささやかに行う予定。

でも空港にはその有終の美を見ようとするファンの姿が、雨の中見られた。

最も同機の退役は、本来昨年か一昨年前に行われるはずであった。

老朽化の他、後継機種として国産初のジェット旅客機「三菱スペースジェット」が指定されていたからだ。

スペースジェットは予定通りだったならば、18年ごろに就航し、今頃には発注の半数以上が就航しているはずであった。

しかし不具合の続出で計画は大きく遅延し、これまで5度の予定延期が行われている。

加えてコロナの影響で遅延し、6度目の延期はもはや避けられない状況に追い込まれている。

開発を担当している三菱は、先日従業員の削減を決定するとともに「スペースジェット」開発の事実上の「中止」を窺わせる発言も行った。

こうした状況から、後継機が完成せず、全日空はB737-500を経年機から徐々に退役させつつ、予定を先伸ばして運用を続けて来たのである。

残念ながら機体の法的寿命をコスト上延長することは難しく、後継機「なし」のままやむを得ず退役を迎えた。

1A6-JA302K_B737-54K_ANK_Air_Nippon_NGO_07JUL01_(6880863964).jpg ←エアー・ニッポン時代のB737-500(ウィキペディア英語版より)

ラストフライトを担当するのは「JA306K」の予定で、99年に「エアー・ニッポン」が新造機で発注した機体。

座席数は一貫して126席を守り続け、21年間に渡る現役生活にピリオドを打つ。

これまで何度か同機について語って来たが、改めて見つめてみたいと思う。

日本でB737-500がデビューしたのは95年。今から25年前の事。

導入したのは全日空の系列子会社だった「エアー・ニッポン」で、同社で初めての自社発注・導入機でもあった。

同社は70年代に「日本近距離航空」として設立され、主に全日空からYS-11などを譲り受けてローカル線を運航していた。

80年代後半に社名を「エアー・ニッポン」に変更したが、前後してB737-200を全日空からリース。

同社初のジェット機として運航するとともに、全日空の路線も一部移譲された。

1A6 ANK_B737-500_fukuoka_20050314162010.jpg

1A6 ANK_B737-500_fukuoka_20041228123528.jpg ←(2枚)全日空と共通の塗装ながら独自のロゴで導入されたエアー・ニッポンのB737-500_(ウィキペディア英語版より)

以降独自路線の他、移管された路線が増えることで、機材の更新を迫られてB737-500の導入に至った。

200型の後継機として、座席数も同数。

だが古く低バイパスエンジンの「JT-8D」を搭載した200型に比べ、高バイパスの「CFM-56」に変更された500型は20%も向上しており、収益性は大幅に向上した。

また1,500メートル級と言う、ローカル空港の短い滑走路でも運用できることから、北は北海道・利尻島、南は沖縄。石垣島まで文字通り日本全国を「制覇」した機体である。

500型は80年代に開発された「新世代737」の一つで、標準型で130席級の300型、150席級で最大の400型、そして120席級で最小の500型から成るシリーズ。

2000年の生産中止まで、約2,000機が生産されたベストセラーシリーズである。

200型は60年代の「短距離旅客機」と言うカテゴリーで開発されたので、バリエーションは存在しなかった。

しかし航空需要が一気に増加した時代で、ライバルだったマクドネル・ダグラスはDC-9の胴体を徐々に延長して大型化させ、更に発展させたMD-80シリーズを持っていた。

そこでボーイングは、開発されたばかりの低燃費・低騒音のCFM-56エンジンに換装すると同時に、胴体のバリエーションを持つことで選択肢を広げることにした。

一方MD-80シリーズは、ストレッチはしたものの基本的なバリエーションモデルはエンジン出力や航続距離の違いだけであり、エンジンも「JT-8D」だけであった。

リアジェット式を踏襲したため、重量バランスの関係から髙バイパスエンジンは見送られていたのである。

ボーイングはDC-9以来、マクドネル・ダグラスに対して一歩遅れを取っていたが、「新世代737」で一気に巻き返しする事になる。

特にアメリカ国内のエアラインでは大歓迎され、当時新興エアラインで急成長中だったサウスウエスト航空が300型を一度に100機以上発注したことで、受注も拡大して行った。

バリエーションが増やせたのは、新しく採用したCFM-56エンジンだからだった。

このエンジンはそれまでのJT-8Dとは、同じターボファンと言っても全く異なるタイプであり、何よりも推進ファンは3倍以上の直径がある。

1A6-B737-524.jpg ←苦肉の策で独特の形状になったCFM-56-3Bターボファンエンジン(ウィキペディア英語版より)

しかしボーイングは開発コストをギリギリまで下げるために、200型からの設計変更は最小限にとどめたいと考えていた。

ところが200型は、短距離線用機で、設備の乏しい地方空港での運用ができるように工夫されていた。

それはDC-9も同じだったが、脚をできるだけ短くすることで地上高を下げ、タラップやボーディングブリッジ無しで乗客の乗降、荷物の出し入れが可能になっていた。

加えてキャビン前方左側の出入り口には、収納式のタラップ「エアステア」を装備していた。

DC-9はリアジェット式なので、この構造でも問題なかったが、B737のエンジンは通常の主翼にぶら下げる方式だったので、クリアランスが取れなかった。

低バイパスエンジンのJT-8Dは、細長くスリムな形状を持つが、それでも737ではパイロンに取り付けることが不可能だったのである。

1A6-Tow_bar_of_Boeing_737.JPG ←B737-500の前脚。人物との比較で短さが分かる8ウィキペディア英語版より)

結果ボーイングは、エンジンを主翼に「直接」取り付けることで、地上とのクリアランスを確保したのであった。

整備性でハンデを持つことになったが、空気抵抗が減って燃費提言の役割も果たしていた。

だがCFM-56はさらに大きなエンジンであることから、今度はパイロンを用いつつ、エンジン本体をグッと前方に「突き出す」ような格好で取る付けたのである。

1A6-SCAT_B737-500_Pichugin.jpg ←カザフスタンのSCATが運航するB737-500(ウィキペディア英語版より)

エンジンカウリング上部は、主翼上面とほぼ同じ高さにあり、主翼にぶら下げると言うよりも前縁に括りつけていると言う感じである。

アイディアではあったが、それでも高さが不足し、カウリング下部を「平面」にして僅か数センチでも高さを稼ぎ、更にエンジン本体も通常よりも若干上向きにつけることで何とかクリアできたと言う、まさに苦肉の策であった。

当然機体のバランスが大きく変わるので、尾翼や主翼の設計変更は免れなかったが、その分胴体の長さを変えることが可能になったのだった。

最初の生産型である300型は、200型より胴体が約3メートル延長されており、84年にサウスウエスト航空で就航した。

その後88年に、200型より約4メートル延長した400型がデビューし、500型は90年にデビューした。

1A6_Southwest_Airlines_B737-5H4_(cn_26568-2285)_(5640960339).jpg ←「737クラシック」最大のユーザーだったサウスウエスト航空のB737-500(ウィキペディア英語版より)

500型は「新世代737」では最も小さいモデルであり、胴体長は200型とほぼ同じである。

300型との差が小さい様に思うが、機体価格や運航コストは500型の方が安く、200型で充分な需要を持つエアラインでは500型を望む声が多かった。

各型共通だが「新世代737」では、コクピットが「グラスコクピット」に変更された。

これは世界初のグラスコクピット機となったB767の物に準じており、4枚のCRTを装備している。

ただし通常のアナログ計器と併用した「準グラスコクピット」と言える。

1A6-Cockpit_of_737-300_LN-KKU.jpg ←300~500型共通のコクピット(ウィキペディア英語版より)

それでもレーダーを含む航法装置の大半がCRT表示できるようになり、デジタル航法化が進んだ。

INSやFMS(フライトマネージメントシステム)が採用され、運航中の自動化・安全かが大きく向上していた。

操縦システムはケーブルで行うが、動翼の作動は油圧アクチェータで行う。

ただし緊急時には人力による操縦も可能で、フューエルセーフ機能の充実が図られた。

1A6 SAS-B737-505,_Scandinavian_Airlines_(SAS)_JP6246275.jpg

1A6-LOT_B737-500_at_KBP.jpg ←(2枚)小型の500型は北欧や旧東欧のエアランに好まれた。SASと「スターアライアンス」塗装のLOTポーランド航空(ウィキペディア英語版より)

400・500型がデビューした時期は、旧ソ連の崩壊があって「冷戦」時代が終結し、同時に自由化された元社会主義国がエアラインの刷新に乗り出した事で、737の売り上げは向上した。

日本では94年に日本航空及び系列の日本トランスオーシャン航空が400型を導入し、ローカル線の充実を開始していた。

特に日本航空はDC-8やB727-100以来のナローボディ機で、その後「JALエクスプレス」に移籍させた。

エアー・ニッポンは95年に初号機を九州内路線から就航させ、その後全国にその活躍を拡げた。

導入の際に「スーパードルフィン」と言う愛称を、社内公募で決定し、エンジンにイルカのオリジナルイラストを記入した。

なぜ「ドルフィン」だったかと言うと、胴体の短い500型の全体的なイメージがイルカと似ていた事、そして同機を投入する路線に島嶼路線が多く予定されていたからだ。

特に沖縄・石垣島に路線を持つ同社は、当時石垣空港の短い滑走路に対応するために同機はピタリの機体だった。

1A6 ANA_Wings_B737-500_JA_8596_at_OKA_(33133851380).jpg ←25年間カウリングに居続けた「スーパードルフィン」(ウィキペディア英語版より)

同じくして日本トランスオーシャン航空が導入した400型は「スカイマンタ」と愛称が付けられた他、日本航空の400型には「フラワージェット」と言う愛称が付けられた。

折しも94年は関空が開港した時で、国内は一種の「エアラインブーム」が沸き起こっていた。

今のように「先割」やバーゲン価格はなかったが、法律が改正されて「包括運賃」が個人客にも適用できるようになった時代だった。

これはエアラインが旅行会社に割り振る「団体枠」を個人客に、「切り売り」するシステム。

代わりにチケットだけの販売をせず、1泊以上のホテルや旅館を組み合わせた「パッケージツアー」であった。

旅行会社にもよるが、包括運賃は最大で2週間の期限があるため、利用者は好きな場所へ自分だけのオリジナル旅行が可能であった。

すなわち申し込みは往復の飛行機とホテルを同時に「予約」するのが条件だが、指定された地域内であれば往路と復路は別路線でも適用される。

この場合差額運賃が必要な場合もあったが、運賃とホテル代を加算すると、自前で予約するよりも時期によっては半額程度で利用できた。

今こそ自分でネット予約した方が自由度があって、格安になるが、当時はまだネットの普及率は低かったのだ。

1A6 ANK_B737-500_fukuoka_20050101160026.jpg

1A6 ANK_B737-500_fukuoka_20050314162010.jpg ←(2枚)日本の航空旅客事情を一変させたとも言えるANK時代のB737-500(ウィキペディア英語版より)

こうした背景は、国際線以上に国内線の需要が大きく高まる事になり、各社の新規路線開設が相次いだ時代であった。

それまでの国内線は高価で、特別な交通機関と言うイメージが残っていたが、この時代で様変わりしたのだった。

最も新規路線の多くは、数年で運休することも多かったが、地方VS地方路線が多く、それまで考えられなかった都市間を同機が結んでいった。

事実同機が導入された後、エアー・ニッポンでは季節運航を含め2~3年の間に20以上の新規路線を新設している。

まだ残存していた200型での運航もあったが、大半は「最新鋭」の「スーパードルフィン」で運航されていた。

愛称もある意味「ブーム」に乗った方法だったと言えるが、飛行機がより身近に感じられる効果ももたらした。

エアー・ニッポンでは、同機以前に全日空と共同所有の形でA320も導入しており、こちらは「ユーロサルーン」の愛称が与えられていた。

「ANK」塗装になったA320も存在したが、全日空では愛称をつけていなかったのであまり浸透しなかった。

エアー・ニッポンは同機を15機発注していたが、成績の良い事で90年代末に追加導入を決定する。

しかし製造元のボーイングでは、「新世代737」の受注・生産を停止し「737NG」に移行していたことから、程度の良い中古機を導入することにした。

ただしこれらの機体は「購入」ではなく、海外のリース会社からのリース機として、最終的に9機が導入された。

1A6 ANK_B737-500_fukuoka_20050213143738.jpg ←リースで導入した追加の中古機。このJA351Kはブラジルのリオ・スル航空で運用されていた機体8ウィキペディア英語版より)


いずれもブラジルの「リオ・スル航空」やデンマークの「マースク・エア」で使用されていた機体だった。

これらの機体はもちろんフルカラーが施され、2000年代にエアー・ニッポンが整理され、全日空に統一された時も「ANA」ロゴに変更された。

だがこれらの機体は微妙に違っていて、キャビンでは自社導入機が126席だったのに対して133席と若干多めだった。

コクピットでも計器の一部に違いがあり、パイロットや整備士は誤解しないよう細心の注意が払われた。

1A6-JA359K_B737-5L9_Air_Nippon_NGO_20MAY03_(8409872943).jpg

1A6-OY-MAF_B737-5L9_Maersk_Air JA359K _MAN_15APR00_(6319222513).jpg ←(2枚)中古リース機の「JA359K」と、マースク・エア時代の「OY-MAF」(ウィキペディア英語版より)

どうせ導入するなら新しい737NGの方が・・と思うが、当時全日空ではまだB737-700/800Bの導入は決まっていなかった。

それよりも中古でも従来機材の方が、コストは安くできたからであった。

期限付きのリース機だったので、9機の活躍は数年間だけだったが、この時点で25機もの500型が揃っていた。

2000年代になると、全日空は持ち株会社設立によりグループの再編を開始し、エアー・ニッポンは「子会社」として地域エアラインの「A-net」、「エアー・ネクスト」「エアー・セントラル」を配下に置き、全便を全日空便として運航することで、独自の運航を終了した。

B737-500はエア・ネクストでも運航されることになり、数機が福岡空港に拠点を移した。

1A6 AIRNEXT-ANA_B737-500(JA8596)_(3815082472).jpg ←エアー・ネクストのロゴを入れたB737-500(ウィキペディア英語版より)

同時に機体のロゴは全て「ANA」ブランドに統一され、運航会社は小さく社名を入れるようになった。

同じ塗装とは言え「ANA」の文字を書き入れたB737は末期の200型以来で、ちょっとした新型機材に見えたものである。

またエア・ドゥが経営不振から全日空の支援を受けて再建することで、同機がリースされることになる。

これはエアー・ニッポンと同じく、全日空のローカル線を「コードシェア」で運航し、路線の一部も同社に移管した。

それまでは限られた路線しか運航していなかったが、同機のリースで路線は西日本まで拡大することになった。

1A6 ADO-B737-54K,_Hokkaido_International_Airlines_-_Air_Do_AN1610648.jpg

1A6-AirDo_B737-500(JA8595)_(4801329021).jpg

1A6 ADO-B737-54K,_Hokkaido_International_Airlines_-_Air_Do_AN2003957.jpg ←(3枚)業務提携によってエア・ドゥにリースされたB737-500は、全国を飛び回った(ウィキペディア英語版より)

その後再び再編され、エアー・ニッポンが清算されて「ANAウィングス」に統合されて現在に至っている。

B737-500は、エアー・ニッポンから始まって、エアー・ネクストやエア・ドゥなどを「転々」とし、最終的には「ANAウィングス」まで変遷した機体だった。

言うなれば、そうした時代の流れにあっても充分価値のある機材だったと言う事でもある。

その証拠に正式な後継機ではなかったが、「737NG」が導入された後も、基本的に退役することなく、四半世紀と言う長期間同社の屋台骨として飛び続けて来た。

現場では737NGと比べると確かに古めかしく、特に整備では「職人技」が求められる機体だったと言う。

それは難しいと言う意味ではなく、昔ながらの「機械」的な部分が大半を占めていると言う事だ。

737NGでは、コンピューターがコンディションを総合的に判断し、不具合か所などはすぐ見分けられるようになっている。

1A6 ANA_B737-500_JA305K_NRT_(16781378477).jpg ←最終形態では「IOJ」ロゴが描き入れられた(ウィキペディア英語版より)

しかし500型は、整備士の腕と経験が最も頼りになる機体であり、長期間の運用で多くの「737のプロ」を育てて来たという。

機体は1機ごと微妙な癖があると言うが、同機は良い意味でその癖が分かりやすく、個別に合った整備ができたそうである。

操縦性では「737クラシック」共通の部分が多いが、最近の旅客機と違って主翼は堅固で直進性に優れていたと言う。

1A6-SAT_Airlines_B737-500_Galkin.jpg

1A6 AUROLA B737-500 VVO_9397_(21030357213).jpg ←(2枚)恐らくは最も派手だったであろうサハリン航空とオーロラ航空のB737-500(ウィキペディア英語版より)

機体の規模の割に大きなエンジンが、上記のように少々特殊な形状で取り付けられているため、パワーを上げると上昇すると同時に「機首上げ」する癖がある。

それを見越して、水平尾翼は自動の「トリムバランス」装置がつけられているが、そのコントロールホイールは操縦席にある。

中央コンソールの左右に円形のハンドルみたいなものがそれで、自動モードで離陸上昇するとものすごい勢いで回転する。

トリムバランスは手動でも調整できるように、こうしたハンドルがどの旅客機にもついているが、フライ・バイ・ワイヤ方式のA320シリーズなどは緊急時以外手動で調整することはなく、ホイールは半円形で視覚上確認する道具みたいになっている。

737クラシックの場合はいかにもメカニカルで、古臭いと言えばそれまでだが、パイロットは「操縦している」と言う実感が湧くそうである。

また短く固めの主翼は、揚力に優れていて、何もしなくとも先に飛ぼうとする性質があり、混雑している空港へ着陸する場合は管制の降下指示が間に合わない事もあると言う。

1A6-LUFTHANSA B737-530_AN0927364.jpg ←スポイラーとフラップが作動中の主翼(ウィキペディア英語版より)

その為パイロットは事前に状況をきちんと把握して、若干早めに降下準備を開始するなど、同機の特性を活かした操縦が要求されるそうだ。

「737クラシック」は各型合わせて1,988機が生産され、最も多いのは300型で1.113機、次いで400型が486機、500型が389機だった。

500型が最も少ないのは、生産開始時期にもよることで、300型より約6年も跡と言う事を考えると、売り上げは悪いとは言えないだろう。

現時点で「737クラシック」は、1/3程度の500機前後が現役にあると思われ、500型は100機前後が残存している。

1A6 LUFTHANZA-B737-530,_AN1140216.jpg

1A6_B737-500_S7_(7401899388).jpg ←(2枚)ルフトハンザとロシアのS7航空。ルフトハンザはヨーロッパでB737-500最大のユーザー(ウィキペデイア英語版より)

300・400型では旅客機の他、貨物機に改造した機体も多く現役にある。

他機種と比べて積載量は少ないが、需要が増えている小口の宅配貨物や生活物資と言う点では充分使える貨物機として、中古機の人気が高い。

だが胴体が短い500型では積載量の他、サイドカーゴドアの増設が難しく、貨物機に改造された機体がない。

すなわち安い中古機ではあるが、旅客機としてしか運用ができないために個体数は減少傾向が続いている。

1A6 BELAVIA B737-500.jpg

1A6-B737-528,_Ukraine_International_Airlines_JP6447359.jpg ←(2枚)現役にあるベラビアとウクライナ国際航空のB737-500(ウィキペディア英語版より)

それでも途上国や旧東欧、ロシアなどの新興エアラインでは近距離線用として現役にある機体も多い。

また「737NG」を模した改修も行われており、主翼端を延長し「ウィングレット」をつけた機体も存在する。

ANAでは「737クラシック」の特徴の一つだった、コクピットの「天窓(アイブロウウィンドウ)を埋めてしまった機体もあり、海外のエアラインでもそうなっている機体が多い。

1A6 ANA B737-500-Portrait_(5990516932).jpg

1A6 ANA B737-500 JA8500_(28352903536).jpg ←(2枚)オリジナルの天窓と、埋められた後の姿(ウィキペディア英語版より)

ウィングレットについては、ANA機も・・と思ったファンは多かっただろう。

海外ではもうしばらく現役に残る機体は見られそうだが、最も新しい機体でも機齢は20年を越えており、その寿命は短くなっている。

この他海外では政府専用機やVIP機として軍属の機体が多くあり、これらも当分は現役にあると思われる。

個人的には「スーパードルフィン」のデビューは鮮明に記憶に残っており、何十回も搭乗した。

エアー・ニッポンが整理され「ANA」ブランドに統一された時には、ファンの誰もが「スーパードルフィン」の去就が気になった。

だが全日空が、ラストフライトまで残してくれたのはありがたいことだ。

でも25年間、特別塗装は殆どされることもなかった。

エア・ドゥ時代には広告を入れたり、同社のキャラクター「ベア・ドゥ」を描いた機体が存在したが、「トリトンブルー」時代は特別塗装は全く存在しない。

これはA320もそうだったが、地味ながらも「縁の下の力持ち」的な存在だったと言う事だろう。

せめて「スターアライアンス」塗装ぐらいあっても良かった気がするが、代わりに「スーパードルフィン」は25年間一度も消えることはなかった。

「通常塗装」としてキャラクターが描かれ続けたのは、このB737-500だけである。

できればB738-800に「2代目」として復活・・・今更無理だろうが・・・。

コロナの影響で運休が続く中、何とか営業便としてラストフライトを迎えられたのは同機にとって幸せな事だったかも知れない。

同時に既に退役していたはずなのに、諸事情とは言え今日まで現役で飛ばした全日空も、同機に特別の思い入れがあったのだろうか。

1A6 UNITED-B737-524_(Continental_Airlines)_JP7185324.jpg

1A6 Air_Kyrgyzstan_B737-500.jpg

1A6-NAM_Air B737-500.jpg ←(3枚)ウィングレットをつけて「737NG」並みの外観になったユナイテッド航空、キルギスタン航空、インドネシアのNAMエアのB737-500。下の2社では現役(ウィキペディア英語版より)

今となっては「御苦労さま、ありがとう」以外言葉が見つからないが、日本の航空史上に大きな功績を残した偉大な機種であったことを絶対忘れないで欲しいし、記憶だけでも残して欲しいと思う。

これで日本の空から「737クラシック」は消滅し、「737NG」だけになった。

逆説的だが126席は、まさにローカル線やシャトル便に最適サイズであるけれど、今はE195やA220と言った「リージョナル機」のカテゴリーになってしまった。

正に隔世の感とは、このことだろうか。

当たり前の飛んでいた同機が、今後見られなくなるのはやはり寂しいと感じる。

1A6-ANA B737-54K_JA8595 2019_ANA_Wings.jpg ←最後はANAウィングスとして運航された「スーパードルフィン」(ウィキペディア英語版より)

個人的には、500型が最も「737らしい」スタイルだと思っている。

人によってはコロコロッとしている・・なんて見えるかも知れないが、元々737は「コンパクト」な旅客機だ。

目的にかなったムダのない大きさとスタイルだと思うし、胴体が伸ばされた800や900ERなど本来の737から外れた大きさだと、勝手に思っている。

500型はビッとしているなあ、とつくづく感じるのだが、どうだろうか。






20時頃から一時的に雨脚が強くなった。

最も30分ぐらいだったが、止んだ後も猛烈な湿度だ。

気温は深夜の時点で20℃前後だが、湿度は100%。

「保温性」の良い我が家は、日中よりも蒸し暑い。

夜に窓を開けておくと騒音になる可能性があるし、虫が入って来るので基本的には閉めたまま。

我慢しているつもりはないが、開けても湿度が高いから同じだろう。

いやな季節だなあ、と思う。

明日は晴れそうだが、同時に予想気温は何と32℃。

今日昨日は何とか我慢できたけど、明日はエアコンが必要になりそうだ。

全国的に暑くなりそうで、テレビでは熱中症への注意を繰り返している。

暑い日々がこれから約3カ月・・そう考えるとうんざりだ。

コロナのせいで、今度の夏休みは例年のように「涼」を求める事がしづらくなるだろう。

暑さ対策の「工夫」が、より求められるなつになりそうだ。

明日15日は、叔父の30周忌。

秋には祖母も30周忌を迎える。

あれから30年も経つのか・・と言うのが実感。

何も出来ないけれど、仏壇に手を合わせて叔父の顔を思い出したい。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

雨は大丈夫でしたか?

今日は蒸し暑い1日でしたが、暑さはどうですか。

少しずつ身体が慣れて来るとは思いますが、我慢しないで暑さを凌ぐようにして下さい。

何度も言う通り、今年は「マスク」と言う伏兵があります。

君も外出時にはマスクを使っていると思いますが、人混み以外ではこまめに外して熱中症にならないよう気をつけて下さい。

水分補給も忘れずに、これから本番を迎えるであろう夏に備えて下さい。

街はだいぶ日常を取り戻していますが、注意しつつ涼しい所でリラックスするなどして下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



くもり夜の たどきも知らず 山越えて 往ます君をば いつとか待たむ_(万葉集巻十二 3186 別を悲しめる歌)



※諸般の事情により、日記は2回分掲載しています。

飛行機ネタ 今があるのはB707のおかげ(6月10日 晴れ 30℃)


朝から青空、そして気温もジワジワ上昇。

仙台では最高気温30.2℃を記録。今年2回目の「真夏日」となった。

内陸ではさらに暑く、福島県の会津若松市では36.4℃、福島市では35.8℃と言う猛暑美を記録した。

今日は四国・中国・東海地方が梅雨入りしたが、前線の北側すなわち東北・北海道を覆っていた高気圧に暑い空気が流入した。

その為関東以西よりも、北日本が「真夏以上」の暑さになった。

6月前半でこの暑さは先が思いやられるが、明日以降前線が北上し、晴天と暑さは打ち止めになりそう。
週間予報では、今日を最後にお日様マークが消え、雲と傘のマークが並んでいる。

明日は曇りベースでにわか雨の予報だが、週末までに「梅雨入り」になりそうだ。

同時に熱中症のリスクが高まっており、注意が喚起されている。

身体がまだ暑さに順応していないだけでなく、コロナの影響でマスクをする機会が多い事、自粛続きであまり外出せず、水分を保つ筋肉が落ちている事が、熱中症のリスクを高めるとか。

私も、外ではとてもマスクをして歩くことは苦痛になってきた。

エアコンの効いた建物内ではまだ良いが、まだキンキンと冷やされておらず、意外と暑い。

汗だくで中に入っても、マスクをしていると顔が汗びっしょりのまま。

せめてエアコンをもう少し効かせて欲しいと思うが、まだ6月・・と言う事もあるのだろうか。

それでも通勤帰りの人などは、我慢してマスクをしている。

バスや地下鉄の車内ではマスクをしても、降りたら外した方が良いと思う。

先が思いやられるが、できれば猛暑にならないか、マスクが必要ない様になれば良いのだが。






















飛行機ネタ。

物事には全て「原因」がある。

哲学的ではあるけれど、真実でもある。

人類が「空」を飛べるようになってから、既に100年以上過ぎた。

これは我々が認識する「飛行機」に於いてのことで、実際に空を飛んだ事のある人間はもっとく菓子だったかも知れない。

「飛行機」を成功させたのは、1903年アメリカのライト兄弟が自作した「ライトフライヤー1号」だが、彼らもまたその前から無動力のグライダーで空を飛んでいる。

飛行機とは動力を使って自発的に空を飛ぶ者を指し、そういう意味でライトフライヤーが世界初と言われている。

だがライト兄弟よりもずっと早い1874年にフランスのデュ・タンブル兄弟、1884年にロシアのモジャイスキーがそれぞれ上記による動力を使って飛行機を「飛ばした」と言われている。

ただしどちらも様道を利用し、ほんの2~30秒「浮いた」だけであったことから、自発的な飛行と認められていない。

フランスとロシアでは、今も彼らが「飛行機の発明者」と言う認識があるそうだが、公式にはライト兄弟と言う事になっている。

飛行機は1914年に勃発した第一次大戦で初めて武器として使用され、製品として生産された。

以後人や物を運ぶ輸送手段として発達することになるが、本格的になったのは第二次大戦後の事である。

ジェットエンジンに関しては、理論として1920年代から研究が行われていたが、1930年代後半にイギリスとドイツでようやく開発された。

それ以前にも原始的なジェットエンジンを搭載した実験機は存在したが、いずれも失敗に終わっているだけでなく、補助動力として従来のレシプロエンジンを併用していた。

成功した純粋なジェット機は、1939年に初飛行したドイツの「ハインケルHe178」で、続いたのはイギリスの「グロスターE28/39」が41年に成功している。

1A3_USAF_He_178_page61.jpg

1A3 Gloster_E28-39_first_prototyp_lr.jpg ←(2枚)世界初のジェット機、ハインケルHe178とグロスターE28/39(ウィキペディア英語版より)

実用化したのもドイツが先で、1944年に「メッサーシュミットMe262」戦闘機がデビューした。

イギリスでは大戦終結直前の45年に「グロスター・ミーティア」戦闘機が実用化された。

そして大戦後、ジェット化は急速に進み、商用機すなわち旅客機でも実用化されることになる。

世界で最初のジェット旅客機は、イギリスの「デ・ハビランド・コメット」で、1952年に就航した。

しかしジェットエンジンの性能は低く身体性も乏しかっただけでなく、高高度を高速で飛ぶ旅客機自体が全く未知の分野であった。

華々しくデビューした「コメット」だったが、就航直後立て続けに墜落事故を起こした。

原因は高高度における機体の気密構造にあり、機体に激しい金属疲労が発生し空中分解すると言う事故であった。

その後同機は大幅に改修されたが、ジェット機に対する信頼を得ることは出来なかった。

今でこそ慮楽機と言えばアメリカだが、実はイギリスに一歩遅れていた。

と言うよりジェットエンジンそのものに、アメリカは出遅れていた。

大戦中のアメリカは万単位の航空機を生産し、日本やドイツを敗戦に追い込んだが、その思想は極めて保守的であった。

技術や工作がまだ未発達のジェットエンジンよりも、熟成されたレシプロエンジンに重きを置いており、ジェット機の実用化は戦後になってからであった。

しかし50年に発生した朝鮮戦争では、緒戦でアメリカは辛酸を舐めることになった。

大戦中「連合国」の一員であったソ連が、突如38度線を越えて韓国に侵入した北朝鮮軍に軍事支援を行ったのである。

できたばかりの国連は安保理でソ連に回答を求めたが欠席したため、米英を中心とする「国連軍」が初めて派遣された。

これが米ソの「東西冷戦」を決定づけたが、北朝鮮軍には本格的なジェット戦闘機「MIG-15」が供与され、国連軍を圧倒した。

雨り母発のジェット戦闘機「P-80」、イギリスは「グロスター・ミーティア」を派遣したが、MIG-15の方が優勢であった。

驚いたアメリカは、急きょ開発したての「F-86」を派遣し、ようやく対抗できるようになったが、それはソ連が予想以上にジェット機開発を進ませていたと言う事実であった。

北朝鮮軍のMIG-15は、そのほとんどが北朝鮮人ではなくソ連空軍のパイロットが操縦しており、基地も「義勇軍」と称したソ連軍が派遣されていた。

つまり期待だけでなく、パイロットや整備と言った分野でも、一歩先に言っていたのであった。

慌てたアメリカは、軍の近代化が急務となり、航空機の更新が最優先されたのだった。

ボーイングも大戦直後から、独自のジェット機を研究していた。

同社は大型機を得意としたことから、戦後アメリカ発のジェット戦略爆撃機「B-47」を開発し、この部門ではソ連を追い越した。

だが大型機もジェット化の時代を迎えると言う事は、空中給油機や輸送機も高速化が必要になることから、同社は軍の発注以前に独自の輸送機を系楽していた。

それが車内開発番号「367-80」と呼ばれる機体で、同社では「ダッシュ80」と呼び慣らす機体であった。

同機はこれまでにない全く新しいジェット機で、与圧構造を持ち4発のジェットエンジンを持つ機体である。

原形機が完成したのは52年の事だったが、先の「コメット」の失敗の他、ライバルだったダグラスも独自のジェット旅客機を開発中だった。

1A3-Boeing_Model_367-80.jpg

1A3-Boeing_367-80_in_flight.jpg ←(2枚)ロールアウトした「ボーイング367-80」と飛行中の同機。こちらはエンジンを換装してレストアしたもの(ウィキペディア英語版より)

ボーイングにとっては初めてのジェット旅客機であったが、B-47がまあまあの成功を収めていたため、空力性やコンセプトの多くが流用されていた。

これを聞いた米空軍は即座に反応し、新しい戦略輸送機及び空中給油機候補として打診して来た。

同時に旅客機としては、胴体幅が若干不足に思えたため、幅を約15センチ拡大したモデルも並行して開発していた。

通常新型旅客機は、メーカーがコンセプトを発表し、エアラインにプレゼンした後、様々な要求を効き、充分なマーケティングを行い、それで納得したエアラインが発注することでようやくゴーサイン、すなわち「ローンチ」して生産に至る。

開発には莫大な費用がかかるため、この時点で発注したエアラインから一定の「前払い」をしてもらう事で生産を開始するのが普通だ。

しかし「367-80」の民間型は、この時点ではどこのエアラインも興味を示さず、ボーイングの完全な「自腹」での開発であった。

底に最大のエアラインである「パンナム」が興味を示し、いきなり20機の発注を行ったことで正式にローンチされ、機体名も「B707」と命名された。

1A3-Western_B707.jpg ←世界にジェット時代を定着させたB707-320B。写真はウェスタン航空機。フォルムが美しい(ウィキペディア英語版より)

一方基本モデルとなった「367-80」は、長期間のテスト飛行後「C-135」輸送機として空軍に採用され、同時に空中給油機「KC-135」としても採用された。

1A3-KC-135_-_RIAT_2017_(35430467194).jpg ←アメリカ空軍のKC-135E(アメリカ空軍提供)

ご存じのように「707」は、21世紀の現在に至るまでボーイング機が使う名称である。

なぜ「707」になったかは諸説あるようだが、戦前から同社の開発ナンバーが3ケタ崇じであった事、商品明として浸透しやすい事、そして「7)がラッキーナンバーだったからという説がある。

以降、開発順に2ケタ目の数字が宛がわれていくようになるのである。

ボーイングにとって初めてのジェット旅客機である事、そして既に就航していた「コメット」を教訓にするため、就航までは3年以上の長い時間をかけた。

同社による各種テストの他、パンナムが協力してパイロット・整備士の徹底的な教育と準備を進めた。

先行量産機を幾つか生産し、実機による訓練も念入りに行われた。

今と違って「フライトシュミレーター」がなく、稚拙なモデルと実機による訓練が必要だった。

先行量産機は「120」型として登録されたが、操縦システムは「人力」であった。

だが大型で高速のジェット機では、場合によっては操縦が困難になることが予想されていた。

しかし期待コストや空量の関係から、当初はケーブルだけによる人力飛行だった。

だが予想通り、操縦には相当の腕力が必要で、状況によってはパイロット2人でもコントロールできない事態に至ることが判明した。

結果生産機には油圧及び電動式のアクチェーターなどが、標準装備されることになった。

これらはB-47爆撃機で実用化されており、707と同時進行で開発していた新型戦略爆撃機「B-52」で葉改良したシステムが搭載されており、707もそれに準じたシステムが標準化された。

こうして初号機がパンナムに納入され、1958年10月28日にニューヨーク発パリ行きでデビューした。

1A3-PAN AM B707-121,_Pan_Am_JP6888703.jpg ←58年にデビューしたパンナムのB707-120ウィキペディア英語版より)

パンナムに触発され、アメリカン航空やTWA、エール・フランス等の大手も同機の導入に動き、ライバルへの遅れはどんどん取り戻し始めた。

最初の生産型である120型は全長44.2メートル、全幅は39.9メートル。

座席数は2クラスで標準150席、最大で180席を設けることができた。

エンジンはP&W製の「JT-3C」ターボジェット4基を装備し、航続距離は最大で6,000キロ弱だった。

キャビンは3-3の6列で、ファーストクラスは2-2の4列が標準だった。

胴体断面は逆卵型で、直径はDC-8より僅かに広い。

DC-8では、胴体構造の関係から客室窓が2列に1個だったが、B707では1列に1個を配置したため、キャビンは明るく好評だった。

しかし装備した「JT-3C」エンジンは、軍用の「J57」をベースに民生用にしたもので、当初「機密」として国防総省が他国への販売に難色を示した。

同エンジンはDC-8の初期型でも使われていたが、海外への輸出は規制がかけられていた。

1A3 SAUDIA-B707-368C-_Saudi_Arabian_Royal_Flight_AN2250000.jpg

1A3-Qantas_B707-300_SYD_Wheatley.jpg ←(2枚)サウディアとカンタス航空の320C(ウィキペディア英語版より)

セールスに大きな影響を出す事になったが、その他にも問題があった。

「ターボジェットエンジン」であるために、燃費が悪く長距離機としては性能が今一歩だったのである。

燃費の良い「ターボファンジェット」は開発中で、実用化の目処はほぼ立っていたものの、高速ファンの工作に手間取っていた。

これは707に限ったことでなく、先行していたコメットやDC-8、旧ソ連のツポレフ104でも同じだった。

その為初期の120型では大西洋を直行・横断できず、ニューヨーク~パリ間でもカナダのグースベイやアイルランドのシャノンなど、風向きによっては2回の給油を余儀なくされていた。

それまでもレシプロ機よりも倍近い速度を持っていても、給油で時間のアドバンテージを大きくリードできていなかった。

加えて707便は運賃が高く設定されたため、多少時間がかかっても直行便のレシプロ基を選ぶ乗客が多かった。

「220」はエンジンがより高出力の「JT-4A」に換装したタイプで、巡航速度が向上。機体重量も僅かに引き上げられたが、燃費は更に悪くなり、5機しか生産されなかった。

1A3-JT-4A B707-328,_Air_France_AN1634050.jpg ←初期のJT-4Aターボジェットエンジン(ウィキペディア英語版より)

続いて生産されたのは「320」で、胴体を2.2メートル延長し座席数を増加させたタイプで、エンジンは220型と同じ「JT-4A」だった。

120型は垂直尾翼の面積が不足気味で、ダッチロールの危険性が指摘されていたことから、320では面積を増加させたほか、主翼も延長された。

この他カンタス航空が要望したサブタイプとして「138型」が存在する。

これは120の胴体を約3メートル短縮し、機体重量を下げて航続距離を延長させたタイプ。

1A3-B707-138B_Qantas_Jett_Clipper_Ella_N707JT.jpg ←120の長距離モデルとして胴体を短縮したB707-138B。この機体はアメリカの俳優ジョン・トラボルタの所有機(ウィキペディア英語版より)

だが低燃費の上、騒音も大きく、離陸時には大量の黒煙を吐くターボジェットエンジンの評判は悪く、一刻も早いターボファンらが望まれた。

そうした過程を経て登場したのが「JT-3D」エンジンで、ターボジェットだった「JT-3C」をターボファン化させたエンジンである。

いわば「付け焼刃」みたいなエンジンだったが、JT-3C自体はターボジェットとしては完成したエンジンだったため、JT-3Dも完成度の高いターボファンになった。

1A3 JT-3D-B707-338C,_Australia_-_Royal_Australian_Air_Force_(RAAF)_JP5845779.jpg ←B707を成功に導いた「JT-3D」ターボファンエンジン(ウィキペディア英語版より)

このエンジンのおかげでようやく満足できる性能が出せるようになり、軍からの規制も解除されたことで以後の生産機には全てこのエンジンが付けられる事になった。

また受注が残っていた120も同エンジンが付けられる事になり、いずれも型式名の後に「B」が付加された。

1A3-B707-321B,_Pan_American_World_Airways_-_Pan_Am_AN0938389.jpg

1A3-PAN_AM_B707-321B_N761PA.jpg ←(2枚)航続距離が10,000キロに及んだことで、世界一周航路を開設したパンナム(ウィキペディア英語版より)

ボーイングでは既存の機体に対しても換装できるようにし、多くの機体がエンジンを交換した。

このため120と138、初期の320には「B」がつかない機体が損竿する。

同時に子も「320B」が、707の中心モデルとなり爆発的なセールスになった。

問題とされた航続距離も、最大で10,000キロ前後になることで、先進国だけでなく途上国のエアラインも採用するようになった。

1A3-B707-331B,_Trans_World_Airlines_-_TWA_AN2063261.jpg

1A3-B707-331B,_Trans_World_Airlines_-_TWA_AN0610031.jpg

1A3-B707-328,_Air_France_AN1389581.jpg

1A3-B707-328B,_Air_France_AN1402411.jpg ←(2枚)TWAとエール・フランスのB707-320B(ウィキペディア英語版より)

売れ行きが好調になったため、ボーイングでは「320B」のバリエーションとして「貨客混載型」の「C」も開発した。

これは胴体前部左側に貨物用のサイドカーゴドアを増設したもので、後部に客室を設けて乗客は後部ドアから乗降する。

最も「320C」は、貨客混載型と言うよりも「両用」に近く、後の「クイックチェンジ」型に近い。

実際導入したエアラインの多くは、純粋な旅客型か貨物機として運用することが多く見られ、混載運用は途上国のエアラインが中心だった。

このアイディアはDC-8ではなかったもので、多くの受注を得ることになった。

貨物用のサイドドア葉史上初のもので、以後現在に至るまで踏襲されている手法である。

1A3 EGYPTAIR-B707-366C,_EgyptAir_AN0808818.jpg

1A3-B707-323C,_American_Airlines_JP6852886.jpg

1A3-B707-323C,_American_Airlines_AN1880366.jpg ←(3枚)エジプト航空とアメリカン航空のB707-320C(ウィキペディア英語版より)

更にC型の登場で「航空コンテナ」が開発され、ジェット機による航空貨物の礎を築いた。

707はまだ航空旅行が特別だった時代の開発であり、床下の貨物室は主に乗客の荷物や郵便物などが主流であった。

上下寸法が低く、貨物の出し入れは人力である。

メインキャビンが貨物室として使えることで、大量かつかさばる貨物も輸送できるようになり、専用のコンテナは貨物の保護や食品などの輸送も可能となったのであった。

またC型の登場は、将来性も示唆していた。

中古機として旅客機・貨物機どちらとしても売れる可能性があるからだ。

その他のサブ対応としては、320Bのエンジンをイギリス製の「ロールス・ロイス・コンウェイ508」ターボファンを搭載した「420」がある。

これは当時イギリスのフラッグキャリアだったBOAC(英国海外航空、現ブリティッシュ・エアウェイズ)の要望で生産されたもので、主に英連邦系のエアラインに採用された。

最もJT-3Dに比べて構造が複雑で、整備性・燃費が劣ることから採用したエアラインは少なく、BOACものちには320Bを導入している。

1A3-BOAC_B707-436_Wheatley.jpg

1A3-Air-India_B707-400_Manteufel.jpg ←(2枚)ロールス・ロイス・コンウェイ508を搭載したBOACとエア。インディアのB707-420。両機とも日本線に就航していた(ウィキペディア英語版より)

変わり種としては、320の胴体を約3メートル短縮した「B720」の存在である。

このモデルも初期の生産機はJT-3Cエンジンで、後半にJT-3Dに置きかえられ「720B」になっている。

「720」は中小エアライン向けの機体で、小型化された分航続距離を伸ばしたモデルではなく、座席数を抑えた「中距離モデル」と言う変わったタイプだ。

胴体の長さは「138」と同じだが、こちらは120と同じ量の燃料を搭載する「長距離モデル」だが、720では中央部の燃料タンクがない。

このため航続距離は5,000キロ程度に抑えられ、座席数も最大で160席前後になっている。

1A3-Cyprus_Airways_B720B_G-BCBB_LHR_1978-8-24.png

1A3-Olympic_Airways_B720_Fitzgerald.jpg

1A3-Braniff_B720-027_Volpati-1.jpg

1A3-PIA_B720_at_LHR_1964.jpg ←(4枚)キプロス航空、オリンピック航空、ブラニフ・インターナショナル、パキスタン国際航空のB720(ウィキペディア英語版より)

ボーイングの慣習から外れたモデルナンバーだが、これは元々「B707-020」として、120型より前にコンセプトが整えられていたからだ。

パンナムやTWAなどが座席数が少なすぎとして、お穂と周り大きな120型を発注したため、「020」は宙に浮いたままになっていたのである。

だがアメリカの大手だったウェスタン航空や途上国のエアラインが、後に興味を示した事、138型が生産されていたことから、「020」が復活した。

ただ120~420と比べて、大きな違いが出ていたことで「B707-020」とはせず、区別する目的であえて「720」を割り振った。

言いかえれば「似て非なるもの」と言う認識を、ボーイングは持っていたのである。

こうして707は改良を重ねることでセールスを伸ばし続け、世界の空を駆け巡った。

1A3-B707-330B,_Lufthansa_AN2025731.jpg

1A3-British_Caledonian_B707-338C.jpg

1A3-Cathay_Pacific_B707-351C_at_Sydney_Airport.jpg ←(3枚)ルフトハンザとブリティッシュ・カレドニアン航空の320Bとキャセイ・パシフィック航空の320C(ウィキペディア英語版より)

最もライバルのDC-8も負けてはおらず、ダグラス特異の「ストレッチ」に転じ、胴体を延長させて座席数を増やす事で対抗した。

逆に707は構造上、320以上の胴体延長は考慮されておらず、そこが大きなウィークポイントであった。

60年代後半になると、航空需要は増大し続け、座席数の多いDC-8に再び引き離されつつあったが、ボーイングにとって救世主になったのは空軍だった。

既に「367-80」をベースとしたC-137/KC-135は数百機が納入され、絶大な信頼を得ていた。

アメリカ空軍は新しい早期警戒機「E-3セントリー」を、B707ベースで開発することになり、707の軍用型の受注を得ることになったのである。

1A3-E-3_Sentry_exercise_Green_Flag_2012_(Cropped).jpg

1A3-E3D_Sentry_-_RIAT_2018_(43227150735).jpg ←(2枚)B707から発達したアメリカ空軍のE-3Aとイギリス空軍のE-3D(ウィキペディア英語版より)

大量生産は望めないものの、機体価格は比較にならない程高価であると同時に、民間機よりも遥かに長期間運用されることで、ボーイングは向こう数十年分のメンテナンスや改修を請け負う事になったのであった。

70年代以降には新造機。中古機改造による電子偵察機の「E-6/E-8」も受注しており、これらの機体は現在も現役にある。

E-3は90年代にも追加生産され、イギリス空軍やフランス空軍が新造機で導入。

これらの機体のエンジンは、高バイパスエンジンの「CFM-56」が搭載されている。

1A3 USAF_Northrop_Grumman_E-8_Joint_STARS_in_flight.jpg ←中古機を改造した電子戦機E-8(ジョイントスター)(アメリカ空軍提供)

旅客機の707は、78年まで生産が続けられた。

もう40年も前の事になるが、最初の生産は57年だったから、足掛け20年以上も生産されたことになる。

総数は1,010機。

創世期の機体としては異例の多さである。

内訳では120が56機、120Bが72機、138/138Bが13機、220が5機、420が37機、320が174機、そして320Bが337機。

B720は「B」と合わせて154機であった。

B707が後世に残した者も多く、例えばボーイングが得意とする「スロテッドフラップ」は、320で初めて実用化された。

320では翼幅の他、前縁に「ドッグツース」と言う切り欠きを設けることで、亜音速域での整流を向上させた。

また707共通で面白いのは「前スラット」だ。

1A3-Korean_Air_Lines_B707-320C_Fitzgerald.jpg

1A3-B707_engineviewedit.jpg ←(2枚)大韓航空の320Bと主翼付近(ウィキペディア英語版より)


現代の機体は、主翼の前縁部分がせり出すような構造になっているが、707のそれは単なる「金属板」。

内側から、エンジンの間ごと3枚・4枚・5枚の長方形の金属板が、主翼の下面から突き出すように出てくるのである。

スラットは油圧作動だが、面白いことに一斉に出るのではなく、内側から順にパタパタと作動する。

全てが解放・収納されるのは数秒だが、時代を感じる。

更に着陸後には、角度を変えて「エアブレーキ」としても使う(飛行中その角度はロックされている)。

主翼上面にはスポイラーもあるが、前縁スラットもブレーキとして補助するようになっている。

リバーサは、カウリングが前後にスライドするタイプで、これもジェットエンジンとして最初の実用化されたものである。

乗務員はもちろん、航空機関士を含めた3人乗務。初期ではレーダーや管制航法装置が未発達だったので、航法士を乗務させる場合もあった。

1A3-Singapore_Airlines_Boeing_B707-327C_at_Sydney_Airport.jpg

1A3-Varig_B707-320C_PP-VJK_ZRH_Sep_1982.png ←(2枚)シンガポール航空とVARIGブラジル航空の320C(ウィキペディア英語版より)

創世期の機体だったことから事故も多かったが、当時としては非常に先進的な機体であり、ボーイングが旅客機メーカーとして頂点に立つことができたのは同機の成功からである。

旅客機としての生産は78年に終了したが、1,000機以上生産された事や古くても期待・運用側とも熟成されていたので、中古機としての人気も抜群だった。

今ほど高頻度で運用されない時代だったから、フライトサイクルも少ない程度の良い中古機がたくさんあった。

1A3-PIA_Cargo_B707-300C_Durand-1.jpg

1A3-B707-330C,_Challenge_Air_Cargo_-_CAC_AN0195821.jpg

1A3-B707-324C,_Tampa_Colombia_AN0195055.jpg

1A3-B707-369C,_Southern_Air_Transport_AN0195058.jpg ←(4枚)貨物機に改造されたパキスタン国際航空、チャレンジ・エアカーゴ、タンパ・コロンビア、サザン・エア・トランスポートの320C。なお貨物機に改造されても「320C」のままで「320F」は存在しない(ウィキペディア英語版より)

また先のE-3のように、軍用型の生産が続いていたことから、部品供給も新品が継続されており、多くのエアラインが長期に渡って運用した。

90年代以降は旅客機としての役目を終えたが、貨物機としてはなお有効な機体であった。

細心の機体と比べて積載量は少なかったが、4発機の信頼性と頑丈さはかみつきとしても最適で、主に中南米諸国のエアラインでは21世紀初頭まで現役に遭った機体も複数存在した。

残念ながら現在、エアラインで運用される同機はないが、数年前までイランの「サハ航空」が国内線用機材として現役で飛ばしていた事はファンには有名な話だ。

イラン国内でも話題となり、情報管理の厳しいイランにあっても晩年には海外から多くのファンが訪れた。

1A3-Saha_Air_B707_Haghgoo-2.jpg

1A3 SAHA AIR B707-3J9C,_Saha_Air_AN1733880.jpg

1A3-B707-3J9C,_Saha_Airlines_AN2137981.jpg

1A3 SAHA AIR-B707-3J9C,_Saha_Air_AN0923419.jpg

1A3-B707-3J9C,_Saha_Airlines_AN1871928.jpg  ←(5枚)近年まで現役にあったイラン・サハ航空の320Cだが、尾部には空軍時代の空中給油装置の基部が残されていた。下はコクピットとキャビン。航法装置は改められているが、キャビンにオーバーヘッドストウェッジはない。


イランは空港を含むインフラの写真撮影や立ち入りは、国民でも厳しく制限されているが、サハ航空の707に関しては大目に見られていた。

最も空港外での写真撮影などは難しかったようだが、乗客が機内から撮影することは良かったらしく、「You Tube」などには複数の動画がアップされている。

ネットも管理するイランだが、ずっと削除されないところを見ると、ファンの趣向は理解しているようだ。

同社では最後まで3機の707が現役にあったが、実は元イラン空軍の「KC-707」だった。

キャビンは古臭いながられっきとした旅客機仕様だったが、元々は貨客混載型の「320C」。

イラン空軍は王政時代にVIP機を含めて20機以上の707を導入したが、アメリカと断絶した後も同機を運用し続けている。

そのうち何機化は、尾部に空中給油装置を付加した「KC707」に改造された。

ところが経済制裁が30年以上も続くイランでは、機材不足が深刻で、空軍とエアラインが機材を融通し合う事が多い。

その為707はイラン航空やサハ航空と空軍の間を行ったり来たりしており、給油装置を外して旅客機として運用していた。

入れ替えすると再び給油装置を取り付けたり、貨物機として運用したりと、古い機体をとことん使っていた。

1A3 IRAM AIR-B707-321C,_Iran_Air_AN0597257.jpg

1A3 IRAM AIR-B707-321C,_Iran_Air_AN0597257.jpg

1A3-IRAN AIR B707-386C,_Iran_Air_AN2043517.jpg ←(3枚)イラン国営航空の320C(ウィキペディア英語版より)

一昨年前、イラン空軍所属の707が墜落事故を起こしたが、事故機の塗装は何とサハ航空のまま。

事故機はイラン空軍所属だったが、隣国キルギスタンから食料品を輸送していた。

それは軍の任務ではなく、民間の貨物便として運航された機体だった。

イランでは現時点で現役にはないが、空軍所属の707は少なくとも数機が現役にあり、今後「復活」する可能性は否定できない。

この他アルゼンチンやブラジル空軍が、主にVIP機として少数現役にあるほか、イスラエル空軍も複数の707を保有している。

同空軍機は全て民間の中古機で、半数以上が元エル・アル航空機。

近年までは同社の塗装のまま飛ばしていた機体もあるが、現在はホワイトかグレー1色に変更されている。

ただし機体の詳細は不明な事が多く、純粋な輸送機の他、機体の各所に複数のアンテナを追加した機体もあり、その内容は機密になっている。

1A3-EL_AL_Israel_Airlines_B707-358B_Hoppe.jpg

1A3-IsraelI_Air_Force_B707-3J6C(KC)_Re'em_Freer.jpg

B707 4X-JYN_Dietrich_Eggert_FRA_07-1987.jpg

B707-Israeli_Air_Force_Boeing_707-344C_Reem_Freer.jpg ←(4枚)エルアル航空の320Bとイスラエル空軍の320C(KC)(ウィキペディア英語版より)

イスラエル空軍の707は、ヨーロッパのNATO軍基地でも頻繁に目撃されているほか、アメリカやカナダへも合同訓練に参加している。

輸送機型は近年になって「ISRAERI AIR FORCE」と言うロゴが記入されるようになったが、電子戦機・電子偵察機と思われる707は一切記入がない。

この他空中給油機の「KC707」も保有しており、各型合わせて20機以上を保有していると見られる。

1A3 ISRAEL_KC-707_2019_(48644515381).jpg

1A3_-_Israel_Defense_Forces_-_IAF_Flight_for_Israel'.jpg ←(2枚)イスラエル空軍のKC707とF-15Iに給油する同機(ウィキペディア英語版より)

現役の機体はエンジンをCFM-56に換装した物もあるが、大半はJT-3Dのままだ。

燃費・静粛性などは劣るが、頑丈なエンジンで故障が少なく、整備しやすいエンジンとして重宝されている。

B707が登場して、実に60年以上も経つ。

軍用の他「プライベート機」として残存している機体もあり、これらの機体は製造後40年以上経っている。

特に軍用機は後継機の開発ペースが非常に遅いことから、当面現役に残ると見られる。

亜流ではあるがE-3などは、後継機種自体が予定されておらず、米空軍機は少なくともこの先20年以上現役に留まる。

1A3_KC-137_(707-345C),_Brazil_-_Air_Force_AN1324571.jpg ←ブラジル空軍で運用中の「KC137」は中古の320Cを改造した機体(ウィキペディア英語版より)

それだけB707と言う機体は、結果論だが「完成」された機体であった。

ご存じのように、胴体の意匠はB727、そして「B737MAX」まで受け継がれていると言う事は特筆に値する。

今後も707のDNAは間違いなく継続する訳で、80年以上生産されることはほぼ確定的である。

1A3-B707-321C,_Ecuatoriana_Jet_Cargo_AN0493383.jpg

1A3-Ecuatoriana_B707-321C_Hoppe.jpg ←(2枚)最も派手な707と思われるエクアトリアーナの320C(ウィキペディア英語版より)

707自体も、乗客として乗ることは困難になったが、現役機はまだ多いのである。

先に書いたお蘭のように「復活」の可能性が否定できないのは、それだけ同機の優秀さを示すものであると同時に、現在に至るまでの旅客機の基盤を築いた事に他ならない。

これだけ後世に影響を及ぼした機体は、ほぼ皆無でなのである。

1A3-Somali_Airlines_B707-320 6O-SBN_FRA_1984-8-16.png

1A3-Nigeria_Airways_B707-320C_5N-ABK_AMS_1990-6-23.png ←(2枚)激レア画像とも言えるソマリア航空とナイジェリア航空の320C(ウィキペディア得尾語版より)

日本のエアラインで同機を運用したエアラインは1つもなく、フラッグキャリアである日本航空はDC-8を使った。

もし規制緩和が60年代に行われていたら、全日空がB707を採用して対抗したかも知れない。

代わりに旧羽田時代には、各国の707が多数飛来していた。

だが「日本籍」も707は、最後まで実現しなかったのはある意味不思議である。

血筋の727と737は大量に使われているのに、707は1機もなかったのはどうしても残念に思える。

その素質は充分すぎる程であったのだから。





30℃超えは、夜になっても暑く感じる。

深夜の時点で気温は23℃前後で、これはもう真夏の気温だ。

梅雨入りが迫っているが、しばらくは気温が高い日々が続きそうで先が思いやられる。

電気代がもったいないから、できれば家でのエアコン使用は先延ばしにしたいけれど、健康を考えるとそうもいかない。

今年はまだ一度も動かしていないので、掃除して「テスト」ぐらいはしておこうと思う。

明日も30℃前後まで上がりそうで、何よりも夜の寝苦しさが憂鬱。

気分的には、すでに早く「秋」が来て欲しい・・(笑)。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

暑さは大丈夫ですか?

今日は特に暑く、日差しも痛い程でした。

君も強烈な日差しに、さぞかし暑かっただろうと思います。

家の中も暑くなり始めた事でしょう。

君はエアコンが苦手だと言っていましたが、我慢は禁物です。

またこの季節は暑さを意識せずとも、身体の水分が発散します。

適度の涼しさと水分を欠かさないで、快適に過ごして下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



ほととぎす 何のこころぞ たちばなの 珠貫く月し 来鳴きとよむる(万葉集巻十七 3912 大伴宿禰家持)


古代史探偵A 藤ノ木古墳の秘密(6月7日 晴れ時々曇り 24℃)

◎6月6日 晴れ時々曇り 28℃

梅雨入りはまだだが、充分それを思わせる蒸し暑さ。

昨夜はあまり気温が下がらず、20℃前後あって真夏並みの気温だ。

故に日中も気温が上昇し、最高気温28度は7月下旬並み。

家では窓を開けていても風邪通りがなく、暑い。

さすがにエアコンを使い程ではないが、扇風機を回しっ放しだった。

我が家の窓は網戸のある所とないところがあり、開けていると虫が侵入する可能性があるので注意しなければならない。

街でも半袖姿の人は多くなったが、仙台人の習性で完全な夏姿の人はまだ少ない。

気温の高い日中だけ行動するなら良いが、朝晩行動する人は半袖では心もとないだろうし、本格的な夏ではないから油断しないのだ。

それでも天気は良いから、週末と言う事で外出したくなる人は多かったに違いない。

コロナはいくらか静穏を迎えているが、緊急事態宣言解除で人出は増えた東京では、今週通して二桁台の新たな感染者が出ている。

報道によれば、歓楽街関係者が半数以上を占めており、小池都知事は懸念を示している。

休業要請が緩和されたことで、いわゆる「飲み屋」さん関係は経営が立ち行かなくなり、リスクを承知で再開している。

中には感染予防の措置をきちんと取る店も多いそうだが、客にとっては面倒で敬遠されてしまうらしい。

先日銀座の高級クラブが紹介されていたが、お客さんは入店前に靴を脱いで使い捨てスリッパかシューズカバーを履き、着席する前に「検温」と「問診」したうえでようやく案内されるとか。

店内も加湿器や扇風機で空気の循環を確保。従業員は顔が見えるようにマスクではなく「フェイスガード」。

売り上げが大切だから仕方ないと思う反面、そこまでして呑みに行きたいのか・・?とも思ってしまう。

仙台の有名歓楽街「国分町」も、再開する店が増えたが、客足はまばらだと言う。

だが気になるのは、失礼ながら相変わらず若い人たちだ。

私は中心部の様子は知らないが、いつも行く駅前では昨日・今日とも若い人が多く歩いている。

学生か社会人なのかわからないが、数人グループで遊んでいることは分かる。

それがどうだとは敢えて言わないが、もう少し我慢できないのかなとも思う。

事実東京では、緩和後さっそくパーティを開いたとかホストクラブなどで感染者が増えており、「密」が崩れかけているのではないか。

彼らはマスクをしている者としていない者が一緒で、それは過敏かも知れないが気になる。


◎6月7日

良く晴れた日曜日。日差しは強く、朝から今日も暑くなりそうな気配だったが、空気が乾燥して爽やかな暑さになった。

昨日まではとにかく蒸し暑かったが、今日は根も平年並みより少し高いぐらい。

家では風通りも良く、涼しくて気持ち良かった。

午前中に済ませた洗濯物も、午後にはおよそ乾いてしまった。

夏場は洗濯物が早く乾くのが楽だ。

でもコンタクトが渇きがちで、目薬ばかり射している。

元々と私はドライアイ気味なのだが、今日は顕著だった。

用事がないので日中出かけることはなかったけれど、天気に誘われて外出した人は多かっただろう。

その分人混みとコロナの関係がどうしても気になるけれど、良い意味で忘れて「コロナ前」に戻りたいと言う気持ちは理解できる。

仙台の梅雨入りの平均は12日ころ。

つまり次の週末辺りと言う事になるが、週間予報でも週後半は雨こそないが曇りがちで、再び蒸し暑さが戻りそう。

過ごしやすい週末は、今日で当分「お預け」になるかも。

コロナのおかげで季節感を味わう余裕がなくなってしまったが、自然はそんな人間の愚かさには目もくれず、着実に季節を運んでいる。

少し気になるのが、梅雨前線。

今年は前線がくっきりしていて、九州南部では連日大雨になっている。

この週末は高温のせいで、首都圏では「ゲリラ豪雨」は発生した。

被害はなかったが、場所によっては一時的の道路冠水など大雨になったと言う。

この梅雨は全国的に長さは平年並み、降雨量は「平年並みか多め」と言う予想が出ており、コロナに気を取られて防災を疎かにならないよう心がけたい。


日曜日の夜は、いつも早い。

明日からの1週間に備えて、家でゆっくりする人が多いのは当然だ。

通常営業に戻った飲食店では、何組かのお客さんが食事を楽しんでいた。

コロナのせいで、飲食業は大きな打撃を受け、客足は戻っていない。

「生活様式の変化」は、夜遅くまで出て歩くことを心理的に良くも悪くも抑え込んでしまった。

東京はともかく、仙台では歓楽街の人出は殆ど戻っていないと言う。

深夜営業だった飲食チェーンも、時短営業が継続し、全国の店舗数を大幅に削減する会社も出始めている。

慣れの問題かもしれないが、経営や従業員の事を考えると、何とも言えない気分だ。

かと言って経済優先で、再び感染が拡大したら、今度こそもっと手痛い打撃を被るだろう。

良く考えた上での新しい商売や生活習慣が、今後のキーワードになるのだろうか。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

間もなく梅雨を迎えますが、今年は気温差が大きい初夏が続いています。

暑さは徐々に慣れると思いますが、冷房や高い湿度による体調への影響を意識するようにして下さい。

君もそろそろ夏服を準備することだと思いますが、今年はどんな姿になるのでしょう。

同時にコロナでマスクも必携ですが、無理にしないように気をつけて下さい。

マスク着用による熱中症が懸念されていますので、面倒でも付け外しを繰り返して下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



天雲の たなびく山の 隠りたる わが下ごころ 木の葉知るらむ(万葉集巻七 1304 比喩歌)



※諸般の事情により、日記は2日分掲載させて頂きます。








◎古代史探偵A(藤ノ木古墳の秘密)


今年は新型コロナの影響で、古都奈良の観光産業は大打撃を被っている。

通常今頃の季節は小中高生の「修学旅行」シーズンで、世界遺産である奈良公園は曜日に関わらず、まっすぐ歩くのも難しいほどの人出で混雑する。

特に東大寺大仏殿に続く南大門の参道は、人だけでなく名物の一つである鹿が多数入り混じる「カオス」の状態になる。

敷地内は道路・芝生問わず多数の鹿が生息しているため、どこにでも「フン」が落ちているのだが、混雑時にそれを避けて歩くことは難しい。

と言うよりも、とても足元を気にしている余裕がないのだ。

ところが今年はコロナのせいで、先日やっと大仏殿の拝観が再開されたが、修学旅行生はまったくなし。

その次に多い外国人観光客も入国制限があるので、皆無に等しいと言う。

何よりも地元の人が「この時期にこんな風景は見たことがない」と言わしめるほど、奈良の街は閑散としていると言う。

今後コロナの収束に期待したいところだが、まとまった観光客が戻るのは早くて秋以降、最悪来年の今頃・・と言う見方も出ているようだ。

鹿達も「お目当て」の餌である「鹿せんべい」を貰いにくくなったことから、奈良市では定期的に餌を与えている。

規制緩和で地元の人を中心に、やや訪れる人が出て来たが、待ってましたとばかりあっという間に鹿に囲まれてしまうそうである。

だが学校の修学旅行は多大な費用と長期的な予約やスケジュールが求められる事から、この秋は絶望と言う声も多いらしい。

冬になるとコロナが再び流行する懸念もあり、来年以降に希望を見出す以外手段はないようだ。

誤解を恐れずに言うならば、私のように個人のリピーターであれば、本来今は大きなチャンスと言える。

残念ながら圏内の文化施設はまだ全面再開には至っておらず、何よりも交通機関も自粛が続いていて、個人旅行も少なくとも夏以降にならないと行けそうにない。

東大寺・春日大社・興福寺・正倉院など、広大な奈良公園は「平城京」時代の奈良の繁栄を1か所で体験でき、交通アクセスも整っている。

バスで移動する団体客の他、移動が苦にならない個人客であれば、奈良公園から数キロ離れた史跡平城宮跡、西の京地区の唐招提寺・薬師寺を巡り、約15キロ離れた「法隆寺」を巡るのが「定番」コースと言える。

これらは地図で見ると「一筆書き」が出来るような位置にあり、効率良い。

観光バスはもちろん、路線バスや近鉄線を使う個人客でも便利になっている。

日中ならば奈良公園~平常宮跡~西の京~法隆寺と言う観光客向けの路線バスが走っており、フリー乗車券で利用できる。

団体客は奈良で宿泊する事とは少なく、ほとんどの場合大阪・神戸~奈良~京都を行き来する。

奈良はちょうど中間地点にあり、どちらからも鉄道ならば1時間弱の距離にある。

奈良にとっては「通過型」観光地の典型で、あまり歓迎すべきことではないのだが、外国人などは比較的宿泊して行く人も多い。

私が定宿にしているホテルも、シーズンになると外国人観光客の姿が目に付く。

「法隆寺」は、周辺を含め日本で最初にユネスコが指定する「世界文化遺産」に登録された。

法隆寺は生駒郡斑鳩町に位置し、西側約1.5キロには奈良県唯一の1級河川「大和川」が流れている。

この地が歴史上に現れるのは、法隆寺の前身となる「斑鳩寺」を、厩戸皇子が建立したことからである。

史料によれば、斑鳩寺は607年に建立されたと見えるが、厩戸皇子は水運の利を得られる斑鳩に居住地として飛鳥から移動してから、同寺の建立に携わった。

今もなお元法隆寺が創建当時のものか、再建されたものなのか研究者の間で論争が残る。

「日本書紀」の天智条には、670年(天智9年)4月に斑鳩寺が火災で「全焼した」と言う記事が見えるためである。

しかし江戸末期から跋扈した同書へ対する偽書説が、この記事を根拠もなく否定する風潮が強くなり、その信ぴょう性に疑問を持つ風潮が蔓延した。

ところが1939年(昭和14年)に、元法隆寺の西院伽藍の南側の敷地内に於いて、塔と金堂が縦に並んだ「四天王寺式」の建物跡が発見された。

「若草伽藍」の命名された遺構は、明らかに寺院の跡で、周辺から6世紀後半と思われる瓦や土器が発見された。

加えて焼土など、火災の痕跡が認められた事が「日本書紀」の記事を裏付ける証拠となり、元法隆寺は670年の火災以後再建されたものであることが確実となった。

非再建論では、金堂の建築様式が飛鳥時代前半のものであると言う理由を上げているが、細かい部分では唐の初期様式を模したものが多く見られ、いわゆる「白鳳時代」の建築であることが分かっている。

記録がないので正確な時期は不明ながら、天武天皇の御代である680~690年ごろに着工・完成したと言うのが大方の見解である。

金堂は「世界最古の木造建築」と言われるが、仮に690年代だとしてもその名誉は変わらない。

多くの観光客は、南側の南大門から入場し、正面に見事な中門越しに五重塔を重ねて見ながら西院伽藍を拝観する。

金堂の本尊である「釈迦三尊像」は国宝で、光背の銘文には止利仏師が623年に製作したと刻まれている。

本尊を参拝後、五重塔を見ながら回廊を巡り、一旦外に出て「大宝蔵院」の国宝を見物することになる。

時間があれば700メートルほど東に位置する東院伽藍「夢殿」、そして中宮寺を拝観する人もいるだろう。

じっくり見れば2時間は欲しいところだが、団体客が多いシーズンはそれこそ凄まじい「密」になってしまう事も多い。

だが伽藍の一歩外に出ると、そこは静かな住宅地と畑や丘が広がる美しい場所でもある。

法隆寺の南大門の脇、西へ延びる細い町道を約500メートルほど行くと「藤ノ木古墳」がある。

そこに至るまで、その周辺は一般住宅やアパートが立ち並ぶごく普通の住宅地で、古墳へ向かう観光客はほぼ皆無である。

歩いても数分程度だが、古代史好きの人以外向かう人は見かけたことがない。

076.JPG ←藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町、筆者撮影)

藤ノ木古墳は史跡公園として整備・保存されているが、普段人影はない。

同古墳は、6世紀末築造と思われる直径約50メートルに及ぶ「円墳」である。

長年学術機関や行政の保護がなかったため、元々の墳丘が失われ、周囲は農地や住宅地にされてしまい、残存していた墳丘は直径にして30メートル程度であった。

宅地で発掘調査ができなかったため、直径は最大で40メートル程度と見られていたが、その後のトレンチ調査で一回り大きい事が分かった。

85年に初めて本格的な調査が行われると、それをきっかけに驚くべき事実が次々と発覚し、当時は全国的な話題になった。

日本の古墳は「古墳時代」と言われる2世紀後半から始まり、4世紀には最近世界遺産に登録された大阪府堺市にある「大仙陵古墳(仁徳天皇陵)」に代表される巨大な「前方後円墳」の時代に突入した。

6世紀前半にかけて、全長数百メートルに呼ぶ大型古墳が流行し、ヤマト朝廷の権勢が全国に拡大したことが分かる。

大型古墳の被葬者は皇族・王族の他に、朝廷に従う地方の有力豪族の首長などが葬られた。

古墳時代とは、主にも大型古墳が築かれた時代を指し、およそ7世紀初頭までとされる。

高位の人物の墳墓はその後も築造され続けたが、飛鳥時代になると小型化される。

形状も時代と共にバリエーションが増え、末期には「八角墳」を始めとして様々な形状の古墳が築造された。

藤ノ木古墳の円墳は、文字通りお椀を伏せたような形で、最もシンプルで古くからあるタイプである。

被葬者を安置する玄室は、初期には「竪穴式石室」と呼ばれるものが多く、墳丘の上部に設置されたものが多い。

後半になると巨大な石を組み合わせた「横穴式」が主流となり、その典型は奈良県明日香村にある「石舞台古墳」で見られるものである。

横穴式は、墳丘の側面に羨道を伴う通路と、棺を収める石室に分かれている。

飛鳥時代後半になると、石材加工技術が発達したことで、石室の「壁」が作られるようになり、漆喰などを塗布する古墳も現れた。

同じく奈良県明日香村にある「高松塚古墳」「キトラ古墳」のように、壁や天井に見事な壁画が描かれる物も登場した。

藤ノ木古墳の玄室は、自然石をパズルのように組み合わせたもので、発掘された遺品から6世紀末頃の築造と見られている。

古代古墳の多くは、被葬者の他に副葬品として多数の貴金属製品が収められていることから、殆どが盗掘被害に遭っており、内部には棺以外何も残っていないのが普通である。

ところが藤ノ木古墳は、約1,400年も経っているにもかかわらず、一切盗掘を受けていない古墳であった。

石室の奥にはベンガラで朱色に塗られた家型石棺が、蓋を閉じた状態で保存されていた。

081.JPG ←藤ノ木古墳の石棺のレプリカ(斑鳩町文化財センター、筆者撮影)

更に羨道には、当時の須恵器が多数残されていたが、調べてみると様々な時代の物が混じっており、最も新しいものでは江戸時代の物が確認された。

地元に残る資料や伝承を調べると、この地区では飛鳥時代から「陵(みささぎ)」と言う地名が伝わっていて、長年地元住民や僧侶が藤ノ木古墳を「管理」し、内部で法要し続けていたことが分かった。

資料では、江戸時代に尼僧が古墳の傍に居住して毎日法要していたが、ある時住居が火災に遭い、彼女も死亡していたことが判明した。

江戸時代は古墳が一定の管理を施された時代で、その後も郡山藩などが管理することで盗掘されずに保存されたと思われる。

調査の中心となった奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)は、棺も未開封であると仮定し、精査したところ朱塗りの筆跡などから一度も開けられていないことを確認した。

そこで開けて調査することになったのだが、石棺が安置された場所は一番奥に当たり、クレーンなどが搬入できなかった。

更に蓋は、数百キロの重さだと推察され、年代的にもろくなっている可能性があったため、似たような材質の石で「レプリカ」を製作し、石工職人の意見を重視しつつ開封方法を慎重に検討・実技を繰り返した。

同時に蓋と本体の接合部に数ミリの穴をあけ、ファイバースコープを入れて中を確認すると、棺の内部は何故か汚水で満たされていた。

スコープの画像には、水に浮く大量の遺物が確認され、恐らくは沈殿しているであろう泥の中にも遺物が残留していると思われた。

水を分析すると、近年の農薬成分が検出された。

このことから玄室に浸み出て来た雨水が、棺にも浸透したことが分かったのである。

開封まで1年以上の月日が費やされ、ついに蓋をあける事の成功したが、汚水は「銅イオン」化されていて,そのままにしておいても抜いても遺物が腐敗もしくは分解してしまう事が予想された。

そこで汚水を少しずつ抜きつつ、抜いた分を綺麗な蒸留水に入れ替えながら遺物を動かさないようにしてイオンを交換してから、全ての水を抜くと言う方法が取られた。

案の定底には泥が溜まっていたが、それを取り除くと金銅製の装身具、刀、ガラス玉など数万点に及ぶ副葬品が手つかずで残されていた。

077.JPG ←発掘当時の石棺内部を再現したレプリカ(斑鳩町文化財センター、筆者撮影)

最も長年水に浸かっていたせいで錆びたり分解していたが、驚くべき結果であった。

更に関係者を驚かせたのは、二人分の遺骨が完全ではないにせよ残っていたことであった。

遺体は何枚もの織布で丁寧に包まれており、水で粉砕していたものの、その繊維の片数万個も、1点残らず落ちていた場所まで詳細に記録された。

副葬品はこれまで例を見ない豪華な物で、馬具と思われる物の他、冠や筒状の物など多岐にわたった。

デザインも様々で、百済や高句麗系の模様の他、パルメットと呼ばれる西アジア発祥のデザインが施された物もあった。

このことから被葬者、もしくは埋葬の責任者は当時の国際関係に通じる立場、すなわち朝廷もしくはかなりの高位にある有力豪族であることが分かるのである。

1A4 HUJINOKI BAGU1.JPG

1A4 HUJINOKI BAGU2.JPG ←(2枚)金銅製の馬具(奈良県立橿原考古学研究所提供)

だが現在まで、被葬者が誰かについては諸説が錯誤していて結論を見ていない。

今のところ「墓誌」に当たる文書が発見されていないからで、古墳の全体像や副葬品、そして遺骨から一定の推論を得る以外ないのが現状である。

元法隆寺管主であった高田良信氏は、同地が「陵」と呼ばれ続けていたことに注目し、独自に法隆寺にまつわる21もの文書を研究した。

最も古い資料では平安時代末期のもので、それから江戸時代まで藤ノ木古墳は「陵」と呼ばれて管理されていたが、被葬者についての詳しいことはやはり分かっていない。

研究者の多くは、築造が6世紀末であるとし、被葬者は皇族を含む高位の人物ながら、大王(天皇)クラスよりも若干下の人物と見る向きが多い。

また古墳と言うと皇族・・と言う事に異論を唱える研究者は、藤ノ木古墳の場所から平群氏や膳氏と言った有力豪族の首長だと主張する。

藤ノ木古墳は円墳だが、当時天皇クラスの人は「方墳」と呼ばれる四角錘が流行した時代であるからだ。

例えば大阪府太子町にある「王家の谷」では、推古天皇や用明天皇、敏達天皇などの陵墓が方墳である。

このことから藤ノ木古墳は、天皇クラスではない・・という見方も強い。

1A4 HUJINOKIKOHUN.JPG

1A4 HUJINOKI SHOES.JPG

1A4 HUJINOKI TUTU.JPG

1A4 HUJINOKICROWN.JPG ←(4枚)金銅製装飾品、靴、筒状装飾品、王冠(奈良県立橿原考古学研究所提供)

しかしながらどうしても気になるのが、「二人」と言う事である。

棺は我々の時代にあっても、「一人」専用が基本である。

藤ノ木古墳のそれは、長さが約い2.3メートル、幅が約1.3メートルある。

面白いのは寸法が前後上下で僅かに違う事で、手作り感が濃厚だ。

内部を繰り抜いた構造になっているが、縁の厚さは約20センチあり、衝撃に弱い石への強度を持たせている。

すなわち棺の中は、長さが約190センチ程度、幅は約90センチ程度となり、どう見ても「二人用」ではないのである。

調査をした橿考研は「二人用」だったと認識しているようだが、私は違うと思う。

何よりも遺された二人の遺骨の状況から、奥側(北側)の人物に対し、手前側(南側)に安置された人物は「横向き」にされているのである。

加えて遺体を来るんでいた布が、北側の人物の部分に重なっていたことから、南側の人物は「後から」葬られたことは明らかである。

当然ながら遺骨は科学的方法で鑑定が行われたが、水による分解が酷く、二人とも血液型がB型であったこと、大腿骨などから北側の人物は20~40歳、南側の人物は若干年上、どちらも男性である可能性が高い・・と言う事が辛うじて分かったに過ぎない。

ただ北側の人物は、幼少期もしくは少年期に足の脱臼を経験していた形跡があり、少し引きずるような不自由な歩き方があったと思われる。

慎重は双方とも165センチ前後と見られ、当時の成人男性としては比較的背が高かったと見られている。

ただ南側の人物については、足の骨以外は残存しておらず、僅かに手の骨片などが遺されているだけだ。

北側の人物いも両足と右手、背骨が残っていたが頭骨は残っていなかった。

南側の人物については、女性ではないか・・という見解もある。

それは南側の人物周辺にあった装飾品が、女性用と思われるものが多く残っていたからである。

遺骨状況から、男性である可能性が高いと思われるが、なぜ女性用の装身具があるのか謎である。

北側の人物が最初に葬られたことは間違いなく、状況からも死亡してそれほど月日を得ずに葬られたと見られるが。南側の人物については不明である。

これらの状態から、被葬者を穴穂部皇子と宅部皇子と見る研究者が多い。

穴穂部皇子は、欽明天皇と蘇我馬子の娘である小姉君との間に生まれた皇子で、弟としてのちに崇峻天皇となる泊線部皇子、妹に用明天皇の妃で厩戸皇子の母である穴穂部間人皇女がいる。

585年に非蘇我系の敏達天皇が崩御すると、殯の最中に遭あった妃である額田皇女、すなわち推古に殯の場所に直接押しかけて自らの即位を促す事件を起こした。

「日本書紀」では、皇子が即位を迫ると同時に推古に「暴行」を働こうとし、警護隊の隊長であった三輪君逆に退去させられたと書く。

格下の者に恥をかかせられた穴穂部皇子は、大連であった物部守屋と共に逆を殺害しようとしたが、馬子に留められたと言う。

次期天皇には、推古の実兄で厩戸皇子の父である大兄皇子が用明天皇として即位したが、同時に馬子の権力が高まることになる。

この時物部守屋は、大臣であった馬子と権力闘争を行っており、新天皇即位は両社の覇権がかかっていたのである。

穴穂部皇子は、守屋に接近して次期天皇を狙っていたと見られるが、守屋と結託していたことを馬子と推古は知っていたのである。

この事件を発端に推古は穴穂部皇子を深く恨んだと見え、叔父でもある馬子との共闘姿勢を露わにした。

それは3世紀から続く大豪族・物部氏に対する、敵愾心の表れでもあった。

守屋と馬子の対立はより激しくなり、馬子はついに穴穂部皇子の殺害を実行した。

同時に守屋は一族と軍勢を、拠点の一つであった河内に移動し、587年ついに「蘇我・物部戦争」は勃発。

移動した時点で物部氏は「反政府軍」になり、用明天皇の「勅」で掃討軍が結成された。

最も実行命令を出したのは大臣である馬子であり、泊瀬部皇子・厩戸皇子・推古の嫡男であった竹田皇子などの諸皇子が「朝廷軍」の一員として参加し、物部は完全な「反乱軍」になってしまった。

さすが軍事氏族だけあって、緒戦は物部が優勢であったが、厩戸皇子が「この戦いに勝利したら寺を建てる」と仏に祈願したことで形勢が逆転。

守屋は討たれ、物部氏本家は滅亡した。

この時厩戸皇子は14歳で、エピソードは間引く必要があると思うが、物部が滅亡した事と、戦いの後四天王寺が建立されたことは事実である。

宅部皇子については不明なことが多いが、穴穂部皇子の異母弟であること、一部の史料には「親密な関係」があったとされる。

穴穂部皇子が馬子に殺害された直後、宅部皇子も何者かによって殺害されたとされる。

事件の時期と藤ノ木古墳の築造時期、そして豪華な副葬品から、被葬者がこの二人であるとする研究者が多い。

だが問題も多い。

何故なら確かに同古墳は6世紀末の様式が強く表れているが、およそと言うだけであって、587年ごろであるかどうかは不明である。

加えて古墳には被葬者が生前に築造する「寿陵」も多く存在し、それならば葬られたのはもう少し後の時代だった可能性がある。

私が最も疑問に感じるのは、穴穂部皇子と宅部皇子が斑鳩に葬られる理由が見当たらないこと、そして死亡の時点で、少なくとも穴穂部皇子は既に朝廷に対する「反逆者」であったことである。

いくら皇子とは言え、反逆者扱いの彼に豪華な副葬品を多数収めると言うのは不自然に思えてならない。

しかも発見された金銅製の王冠や装身具は、北側の人物に備えられており、もし上記の二人ならば遺骨の鑑定から宅部皇子になってしまい、南側の人物が穴穂部皇子と言う事になるのだ。

強いて言うならば、反逆者扱いとは言え、天皇に近い位置にいたのは明らかに穴穂部皇子であり、宅部皇子はあくまで傍系の皇子である。

また近郊の有力豪族首長と言うのも、疑問に思える。

ヤマトから遠く離れた地方であればまだしも、藤ノ木古墳は朝廷の「お膝元」である。

大王級の豪華な副葬品を、大王がいる飛鳥の近くでどう確保し収めることができたか。と言う事だ。

穿った見方をすれば、それこそ朝廷に対する「反逆」と取られかねない。

首長が大王に匹敵し、同族は皇室を支配者と見ていない証になってしまう。

やはり被葬者は、皇族であると考えた方が自然なのである。

法隆寺を含む斑鳩は、厩戸皇子が所領としていた地域である。

資料によると後世、藤ノ木古墳は法隆寺の所領に含まれていたことが分かっている。

ただし築造当時がどうだったかは不明だが、「斑鳩宮」そして斑鳩寺・法隆寺と深い関係性があると考えられるのである。

厩戸皇子が飛鳥から斑鳩に移住したのは、「日本書紀」では601年のことだとする。

正しいとすると、この時点で古墳があったことになるが、仮に590年ごろに築造されたとして約10年後の話である。

法隆寺は仏教に傾倒した厩戸皇子の、いわば「私寺」であり、皇子自らの理想である仏教興隆を目的に作られた。

もし藤ノ木古墳が既にあったとしたら、法隆寺・斑鳩寺は、古墳を満盛ることも目的の一つであったのではないかと思う。

ただしもし「寿陵」であれば、誰が作ったのか・・と言う疑問が生まれてくる。

厩戸皇子の墳墓は、先に書いた太子町の「叡福寺」の境内にある円墳である。

墓誌は存在しないが、古くから伝承がある事と、江戸時代に陵墓治定の際調査したと事、3つの棺が確認されている。

文書には皇子の他、妃の一人である膳大郎女と、母の間人皇女を一緒に葬ったと言う記録があり、状況は一致している。

また叡福寺近郊の寺に伝わる棺の一部と思われる板が、近年の調査で7世紀前半のものであることが判明した。

これは絹を漆で固め、実に40層にも重ねて貼り付けており、厩戸皇子の棺と同じだと伝わっていると言う。

サンプル品だったかも知れないが、少なくとも叡福寺の墳墓はほぼ厩戸皇子のものであると見て良いと思われる。

そうなると藤ノ木古墳は、厩戸皇子の関係ではない可能性がある。

だが藤ノ木古墳には、厩戸皇子が何らか関わっていることは間違いない。

「コロンブスの卵」ではないが、墳墓と斑鳩宮のどちらが先か・・と言う問題があるけれど、いずれにせよ両者は同居状態であったことは確かである。

仮に学会の多くが支持する穴穂部皇子と宅部皇子だった場合、厩戸皇子はその墳墓の「元」で引っ越しTR来たことになる。

100%不自然と言う事ではないが、わざわざ墳墓の傍に宮を構え、寺を建てて弔うほどの関係性はない。

厩戸皇子にとって、穴穂部皇子は母方の叔父ではあるが、関係性は薄い。

のちの話になるが、推古天皇も厩戸皇子の叔母であり、「初の女帝」として即位後は馬子と並んで3人で「共同統治」している。

このことから、厩戸皇子は幼少のころから推古や馬子との関係が深かったことは確かである。

事実推古の母である堅塩媛、穴穂部皇子の母である小姉君は異母姉妹であるが、当人だけでなく子である推古と穴穂部皇子や間人皇女との間の関係も悪かったと言う。

そうなると、厩戸皇子が穴穂部皇子の墳墓を管理することは、推古の意に反することにもなってしまう。

先の法隆寺元管主・高田良信氏は、研究した文書から同古墳に葬られているのは崇峻天皇ではないかと言う説を立てた。

学会では多くの支持を得ていないようだが、研究家などからは一定の支持を得ており、私もその可能性は高いと見る。

「日本書紀」には、592年(崇峻5年)秋に彼は東漢駒と言う人物に「暗殺された」と見える。

ところが「古事記」では、崩御を言うだけで、その状況は愚か崇峻天皇の御代については一切語っていない。

それどころか妃や皇子・甥所の事さえも記していないのである。

このため「日本書紀」を殆どが潤色で信頼性が低いと考える研究者は、暗殺事件すら存在せず、単なる崩御であったと言う説を唱える人もいる。

「日本書紀」は海外にも伝わるように漢文で記述された国史であるため、都合の悪い部分については潤色したり削除した部分が確かに見受けられるが、それだけで「偽書」のように扱うのは大きな誤りである。

逆に対外関係を意識するならば「古事記」のように、何も書かない方が適当である。

「日本書紀」では、崇峻は馬子の「傀儡」的な天皇であり、それに不満を持って馬子を潰そうとしていたと伝える。

ある日献上された見事なイノシシを見て、「このイノシシのように誰かさんの首を切り落としてやりたいものだ。」と言い、武器と兵士を集めた。

それを聞いた馬子は自分に対することだと察知して、自らも武器と兵員を集めたが、舎人の一人であった駒が天皇を暗殺したことになっている。

駒は崇峻の妃の一人で、馬子の娘でもあった河上娘と「不倫」関係にあり、略奪せんと天皇を殺した。

事件後馬子は駒を捜索し、発見したその場で惨殺させたと言う。

一連の場面はやけにドラマチックで、素直に信じることは難しい様に思う。

そのいきさつに関して、ここで詳細は省略するが、馬子は駒と河上娘の不倫関係を知っており、駒に暗殺をけしかけたのである。

代わりに罪は不問とし、河上娘との「略奪婚」も認めると言う条件を出したのであろう。

あくまで日本書紀から読み取れば、「天皇暗殺」は5世紀の安康天皇以来の大事件であり、国難にも匹敵する大事である。

ところが事件後の顛末に関しては、駒の大罪だけが描かれて、馬子を始めとする朝廷の動きは全く見れないのである。

加えて崇峻は、死亡した「当日」に宮の近くいにある「倉梯陵」に葬られたと言う不審な記事も併記しているのである。

事実だとすれば、崇峻は寿陵を用意していたことになるが、通常天皇の崩御後は「殯」が行われるのが慣習であり、すぐに葬られると言うのは異常としか言いようがない。

すなわち事件を「隠匿」する意図が見て取れる訳で、そもそも一舎人の駒が恋愛事情で天皇暗殺を企てること自体不自然なのだ。

加えて前代未聞の事態にも関わらず、朝廷内での混乱が一切見られない事が、最も不審であると言わざるを得ない。

逆説的に言えば、崇峻野暗殺は朝廷や諸豪族の、例え事後承諾だったとしても、合意の上だった・・と言う事なのである。

だが馬子自身、直接崇峻を暗殺する理由がない。

例え自ら「クーデター」を起こして皇位に就こうとしても、諸豪族はもちろん、多くの皇族が同意する訳がない。

崇峻暗殺は、馬子にとって直接的なメリットはないのだ。

唯一メリット、すなわち同機があるとすれば推古しかいない。

推古には寵愛する竹田皇子がおり、彼女は後を継がせたいと言う希望があったことは間違いないが、この時竹田皇子は死去していた可能性が高い。

彼は物部都の戦いに参加したことは分かっているが、その後一切登場しない。

更に即位した推古は、甥である厩戸皇子を皇太子にしたことから、即位の時点で竹田皇子は亡くなっていたと考えるべきだろう。

崇峻を力づくで排除したのは推古であり、それを計画・実行したのが馬子であった。

同時に竹田皇子のためでなく、単純に崇峻を嫌っていた・・と考えても良いと思う。

崇峻が葬られたと言う「倉梯陵」は、現在奈良県桜井市倉梯地区に宮内庁が治定するが、ここは誤りであると言われる。

宮内庁治定の「御陵」は江戸時代に前年的に見直されているが、全てが正しいとは限らないのが現実である。

「倉梯陵」の場合、古墳であるかどうかさえ不明の状態でもある。

学会では「倉梯陵」から北西約2キロ、桜井市忍阪にある「赤坂天王山古墳」が崇峻天皇の真陵画と言う意見が多く、私もそう思う。

同古墳は約50メートル四方の「方墳」で、6世紀末から7世紀初頭の緒機増と見られている。

110.JPG

111.JPG ←(2枚)赤坂天王山古墳(奈良県桜井市、筆者撮影)

小さな丘の上にあり、底辺は若干いびつになっている。周囲には「陪塚」と思われる小さな古墳が5基程確認されている。

赤坂天王山古墳は史跡などではないため、地元桜井市が保存管理しているだけで詳しい調査は行われていないが、大きな石を積み上げた玄室には藤ノ木古墳と良く似た家型石棺が残っている。

本体正面には「盗掘」の跡と見られる穴が開けられていて、内部には何も残っていない。

ところが故森浩一氏によると、この石棺の「穴」は盗掘で開けられたものではなく、手順を踏み時間をかけて丁寧にあけられていると言う。

それは盗掘ではなく、いわば「予定」を組んで穴をあけ、そこから蓋を持ちあげた跡が見られると言うのである。

つまりこの石棺の中身は盗まれたのではなく、「改葬」するために中身をまるごと引き出した可能性が高いと言うのである。

1A4-Akasaka_Tennozan_Kofun,_sekkan-1.jpg

1A4-Akasaka_Tennozan_Kofun,_genshitsu-2.jpg ←(2枚)赤坂天王山古墳の石棺(ウィキペディアより)

私も羨道の入り口からであるが、実際見ると確かに急いで壊したのではなく、道具を使って慎重に開けたような形状をしていた。

森浩一氏は「断定する材料はないが」と、前置きしながらも改葬先は「藤ノ木古墳」ではないか・・と考えていた。

かつて「陵」と言う地名があったこと、少なくとも700年以上の伝承があり、盗掘に遭わないよう法要などを続けることで守られて来たことを踏まえると、被葬者が崇峻天皇でもおかしくなないのではないか。

赤坂天王山古墳の被葬者は、形式や陪塚から天皇クラスの人物で間違いない。

記紀に示された「倉梯陵」も、場所として間違っていない。

だとしたらなぜ改葬する必要があったのか、それは例え暗殺されたとはいえ天皇だったにもかかわらず「殯」もされずに葬られたからであろう。

崇峻が暗殺された後、即位したのは推古である。

あくまで仮定であるが、彼の暗殺事件の「黒幕」が推古ならば、そして事件が東漢駒による私的な犯罪で、朝廷に動揺が見られないことを踏まれると、崇峻の遺体はすぐに「処理」されて当然であっただろう。

飛鳥周辺はともかく、全国に「天皇暗殺」が知れ渡ると反乱が起きかねないという事情もあったに違いない。

だがいくら政治抗争の犠牲者だとしても、皇位に就いた人物である。

まるで隠すように即日葬られた崇峻を、「仏教」の教えで憐れんだ者がいたであろう。

その人物が改葬することで、独自に手厚く葬ったのではないか。

それが藤ノ木古墳だと、私は思うのである。

問題は二人の遺体だが、もし藤ノ木古墳の被葬者の一人が崇峻天皇だとしたら、もう一人はそれこそ事前に既に死亡した穴穂部皇子か崇峻の皇子である蜂子皇子の可能性がある。

遺骨の調査では、後から納棺した南側の人物は北側の人物よりも年長だった可能性が指摘されている。

だとすれば穴穂部皇子が一緒に葬られたとも言えるが、北側の人物が本来は蜂子皇子で、南側の人物が改葬した崇峻と言う可能性もある。

蜂子皇子は妃・小手子媛との間に生まれた皇子で、皇位継承権があったはずである。

ところが記録には名前が出るだけで、その生涯は全く分かっていない。

だが伝承では、素峻暗殺直後、皇位継承者として推古・馬子が皇子の命を狙う可能性があるとして、妹の錦手皇女と共に東国に逃れた・・と言う。

山形県に有名な羽黒山神社があるが、ここは逃れて来た蜂子皇子が隠棲し、同神社を創建したと言う伝承がある。

付近には蜂子皇子の墓も建てられている。

当時の東北地方は、まだヤマト朝廷の支配力が弱かったと見られるが、全くの支配外でもなかった。

なので隠棲先であったかどうかの信頼性は乏しいが、一時的に逃げ隠れていた可能性は否定できないだろう。

しかも逃亡を促し手助けしたのは、なんと厩戸皇子だったと言う。

もし事実ならば、そして藤ノ木古墳が斑鳩宮の敷地の一部であったとすれば、改葬したのはほかならぬ厩戸皇子だったことになる。

蜂子皇子は逃亡する前に死亡したか、逃亡中もしくは「逃亡先」で死亡し、遺体は密かに斑鳩に戻されたのではないか。

もし鑑定通りならば、北側の人物が蜂子皇子で、南側の人物は崇峻天皇だったかもしれない。

北側の人物は王のような装飾品を身につけられていたが、悲劇の皇子としてせめて棺の中では父崇峻の後を継がせようとしたのであろうか。

崇峻が被葬者、と言うのは大きな支持を得られていないが、状況を総じて見ると穴穂部皇子と宅部皇子と言う組み合わせは説得力に欠ける。

周辺豪族の首長はなおさらで、少なくとも一人は急ぎ、そして密かに改葬された崇峻天皇と見て間違いない様に思うのである。

飛行機ネタ 消えゆくマクドネルダグラスの歴史、B717(6月4日 晴れ時々曇り 25℃)

6月になって、蒸し暑くなった。

気温も平年より高め。先月末は暑い中にもカラッとして爽やかな暑さが続いたが、ここ数日は湿度が高く蒸し暑く感じる。

風がなく、家では窓を開けていてもあまり快適ではない。

かと言ってエアコンを使うほどでもなく、何とも半端な暑さだ。

大気の状態が不安定で、市内では早朝雨が降ったところがあり、日中も青空と雲が交互世言う感じ。

午後以降は上空に霞みがかかったようになって、湿度の高さを窺わせる。

身体の体温モードを、もういい加減「夏」モードに変えて行かなければならないが、これから少なくとも3カ月以上暑い時期が続くかと思うと、いささか憂鬱だ。

今年は梅雨前線がくっきりしていて、太平洋上の暑い夏の空気と、大陸から張り出す冷たい空気がどちらも強いと言う。

全すぇんに近い九州南部では、ここ数日雨が続いていて、気象庁は警戒を呼び9かけている。

週間予報でも、東北はここしばらく良い天気が続き、気温も25℃前後と高めで推移しそう。

メディアでは、コロナとこれから増えるであろう大雨などの風水被害を懸念している。

ここ数年、毎年のように各地で大雨や台風の被害が相次いでおり、場所によっては避難しなければならない。

この時コロナ警戒を同するか・・と言う事なのだが、今のところ「どうにもならない」らしい。

避難所は例え僅か半日や1日の滞在舵Lとしても「密」は避けられず、場合によっては避難が長期化する恐れもある。

更に避難所でコロナが発生すれば、医療機関まで搬送できなかったり、診療できないと言う事も考えられるからだ。

またこの1カ月、各地で地震が多いのも気になる。

社会が少しずつ平常を取り戻すのは良いことだが、油断が怖い。








飛行機ネタ。

アメリカの大手デルタ航空は、6月2日に保有していた「MD-90」と「MD-88」を全て退役させた。

最後の営業便はテキサス州ヒューストン発、同社本拠地であるジョージア州アトランタ行き。

便名も同機に合わせて「DL090」として運航した。

同社は世界で唯一「MD-90」を保有・運航するエアラインであったが、コロナの影響により大幅な前倒しでの退役となった。

世界では徐々に運航が再開しているが、「コロナ前」に戻ることは困難な状況にあり、大手エアラインも長期運休を余儀なくされて経営不振に陥っている。

経営破綻を相次いでおり、「コロナ後」がどう変化するのか全く予測のつかない状況にある。

コロナが完全に終息している訳ではないので、エアラインの再開は苦肉の策であり、座席数を大幅に減らす、利用者の限定など、当分収益となるような運航は出来ないと見られる。

同時に破綻まで行かずとも、保有機の多いエアラインはリストラせざるを得ない状況で、各社とも古い機材や機数の少ない機材を中心に退役が相次いでいる。

1A2 DELTA MD90-N913DN_edited-1_(6828775692).jpg

1A2 DELTA_MD-90-30,_Delta_Air_Lines_AN0482799.jpg ←(2枚)6月2日付で退役したデルタ航空のMD-90.同社は95年最初に同機を導入・就航させた。下は導入時の旧塗装(ウィキペディア英語版より)

同社のMD-88/90は、22年ごろまでに後継機種であるA320neoシリーズと「順次交替」で退役が計画されていた。

しかしコロナによる長期運休で赤字が膨れ上がっており、同社の中では機齢の高い両機種は既に殆どが地上待機で留め置かれていた。

MD-90は傑作機DC-9/MD-80シリーズの血筋を引いた発展型であるが、あまり売れなかったSこともあって新しい割に退役する機体が多く、数年前からデルタ航空が唯一運用していた。

同社はMD-90を最初に運航したエアラインだったが、新造機として導入したのは僅か15機。

だが世界各地から中古機をかき集めることで、最大で70機前後の同機を運用していた。

この中には旧日本エアシステム・日本航空が保有していた機体が含まれ、同社は16機全機を買い取っていた。

デルタ航空は国内線用として、初期のDC-9シリーズから運用するヘビーユーザーで、MD-90はMD-80シリーズの代替え機種として導入し続けていた。

今年の初めの時点で30機前後が籍を置いていたようだが、直後コロナで全面運休となっていたことで、そのまま退役に追い込まれてしまった。

これでMD-90は事実上「絶滅」してしまったことになる。

むしろそれよりも古いMD-80シリーズの方が、少数なれど残存すると言う皮肉な現実がある。

1A2_MD-88_Delta_(9213543827).jpg ←MD-90と共に全機退役となったMD-88(ウィキペディア英語版より)

せめて「花道」を飾りながら退役して欲しかったが、アトランタのハーツフィールド空港ではささやかなセレモニーが関係者だけで行われたと言う。

アメリカでも同機のファンは多く、最後の雄姿をコロナのせいで見届けられなかった無念さがSNSでも書き込まれていると言う。

だが嘆くことばかりではない。実はもう1機種「血筋」を引く者が、まだ生きながらえているからである。

それが「ボーイング717」だ。

同機は98年に、アメリカのLCC「エア・トラン」で就航したナローボディ旅客機である。

その経緯はややこしいのだが、同機の開発と設計は旧マクドネル・ダグラス。

上記のMD-90は160席級のMD-80シリーズの発展型として開発されたが、一回り小さい機体として「MD-95」が計画された。

1A2 QANTASLINK_B717-231(National_Jet_Systems)_(8149873337).jpg ←「マクドネル・ダグラスMD-95」として開発されたカンタスリンクのB717(ウィキペディア英語版より)

これはMD-80シリーズで唯一小型モデルであった120席級の「MD-87」の後継機種として、需要が見込めると判断しての開発だった。

その計画はMD-90が具体化した後の90年代の初頭に始まり、95年にアメリカのLCC「バリュージェット」が確定50機、オプション50機の発注を行ったことでローンチした。

この時はまだ「MD-95」と言う名称だったが、とうのマクドネル・ダグラスは極端な経営不振に陥っていた。

同社が大きな期待をかけた大型ワイドボディ機「MD-11」が、どうしても計画通りの性能を出せず、開発が遅延していた。

またナローボディ機のMD-80/90も、ライバルであるボーイングがB737の改良型である「NG」シリーズ、エアバス社のA320シリーズが登場しており、基本設計が古く発展の限界に達していて受注は伸びていなかった。

同社はMD-95を単なるMD-90の胴体短縮バージョンとせず、外観こそ同じだが、中身をさらに改良して起死回生の材料にしようとしていたのであった。

しかしローンチした翌年の96年、バリュージェット592便の大事故が発生した。

96年5月11日、フロリダ州・マイアミ発ジョージア州アトランタ行きのバリュージェット592便(DC-9-329が、離陸直後貨物室で発生した火災が原因で墜落し、乗員乗客110名全員が死亡する惨事舵発生した。

原因は床下貨物室に「不正」に積載された、航空用緊急酸素ボトルであった。

これは緊急減圧などで酸素マスクを使用する際に使われる酸素ボトルで、592便は全てが「空」だとして積載していた。

だが実際には、全てが空であったと確認されておらず、万が一に備えての防止キャップなどは一切施されていなかったうえ、梱包も規定に沿わない方法であった。

加えて床下貨物室には火災報知機がなかったため、乗務員が異常に気付かなかった。

1A2 VALUJET DC-9-32-N904VJ.jpg ←96年5月11日に事故を起こしたバリュージェットのDC-9-32(ウィキペディア英語版より)

事後調査では、離陸前に既に貨物室は高温で残っていた酸素が漏えいし、何らかのはずみで発火。

火災で無酸素状態になるどころか、どんどん供給されて火災が広がったものと思われた。

事故機は広大な湿地帯に墜落し、巨大なワニが生息することから捜索が難航し、まともな遺体は一つもなかったと言う。

バリュージェットは92年にLCCとして設立され、同じく格安エアラインとして評判だったサウスウエスト航空をライバルとし、運賃も1/3と言う「激安」で運航して注目を浴びた。

設立後僅か1年足らずで、数十都市に就航し新しいエアラインビジネスモデルとして話題になっていた。

しかしその実情は安全より利益優先で、創業当初からトラブルが頻発し、FAA空何度も業務改善勧告を受けていた。

機材は全て「格安」の中古機で、整備は全て外注。加えて空港での安全確認も無資格の職員が行うなど、安全以前のコストカットが公然と行われていた。

パイロットの給与出来高制を取っており、過度の常務が日常茶飯事であった。

事故を起こしたDC-9-32は、元デルタ航空機で、製造後27年も経っていた老朽機であった。

しかも事故当日、機内設備の故障の他、自動操縦装置も故障しており、結構せず運航は手動で行われていたと言う。

この事故をきっかけに、同社のずさん過ぎる実態が明らかになり、FAAは業務停止命令を行った。

その後規制は解除されたが、メディアで連日叩かれることになって、同社はフロリダ州に本拠を置いていたリージョナルエアラインの「エア・トラン」を買収した。

しかも買収後は「エア・トラン」を継承し、「バリュージェット」の名前を隠すと言う姑息な手段を用いたが、世間を欺くことはできなかった。

1A2-B717-2BD,_AirTran_AN1765610.jpg

1A2-Airtran_B717_Airwim-2.jpg 

1A2_AirTran_B717-231_(788)_(cn_55079-5042)_(8944395911).jpg ←(2枚)「B717」として最初に就航したエア・トラン(ウィキペディア英語版より)

結果同社は2010年にサウスウエスト航空に買収される事になって消滅したが、発注していたMD-95のうち確定発注分の50機は「エア・トラン」に納入された(後に13機が追加された)。

マクドネル・ダグラスにしてみれば、事故で全てがキャンセルになる恐れを抱いていたが、何とか納入できたことで生産が継続できたのである。

ところがほっとしたのもつかの間、同社の経営不振はいよいよ行き詰まり、97年ついにボーイングに売却・統合されることになってしまった。

MD-95は標準座S機数が105~120席で、ボーイングではB737-600があった。

当然被ることになる訳で、統合と共にMD-95は生産停止になると思われた。

しかしこの時点で同機への発注が100機以上あり、その多くのエアラインは代替え案であるB737の導入に難色を示した。

1A2 MIDWEST B717-EM_N914ME_(2932491461).jpg

1A2-MIDWEST B717-2BL,_Midwest_Airlines_AN0501469.jpg ←(2枚)エア・トランに続いて導入した中堅エアラインのミッドウェスト航空のB717。ビジネス専用便として2-2座席のオールビジネスクラスの機体もあった。同社のB717は現在E190などに交替した(ウィキペディア英語版より)

このことからボーイングでは、反対意見も多くあったにもかかわらず、同機の生産を継続させることにした。

生産は、「元」マクドネル・ダグラスの本社工場のあるロサンゼルス近郊ロングビーチで継続された・

これには元従業員への補償や、下請け企業の契約が残っていたからで、正直ボーイングにはあまり歓迎できない事であった。

統合に先立って、旧マクドネル・ダグラスの労使殿約束があった他、同社が得意とする軍用機部門への配慮も抗K慮する必要があったからだ。

旅客機メーカーとしては、すでに斜陽化して久しかったが、軍用機部門ではF-15戦闘機、AH-64アパッチ戦闘ヘリ、そして空軍の次期戦略輸送機C-17が生産に入りつつあり、ボーイングとしては旧マクドネル。ダグラス部門を簡単に整理できない理由もあったのである。

加えてそれまで1,000機以上生産されたDC-9.MD-80のユーザーは世界に広がっており、サービス部門の継続は不可避であったのである。

1A2-B717-231,_Trans_World_Airlines_-_TWA_AN1017213.jpg ←メジャーでは唯一B717の新造機を導入したTWA(トランスワールド航空)。24機を導入した(ウィキペディア英語版より)

結果として「MD-95」は、最初に導入することになったエア・トランへの引き渡しまでに、名称を「B717」に変更し、受注も継続されることになったのである。

既に同機の生産は開始されており、統合翌年の98年に予定通り初号機がエア・トランに引き渡された。

その為「MD-95」と言う名称は、一種の幻で終ることになった。

ボーイングの旅客機は初代の「707」以来現在まで、「7X7」と言うナンバーで通しており、開発順に二桁目が宛がわれて来た。

「発売順」であれば、同機は「787」になるはずだったが、ボーイングでは初の「他社製」の機体であることから、この基準を外す事になり、「空き番」であった「717」が割り振られたのである。

「717」は本来、60年代にB707のサブタイプ用として「保存」されていた番号であった。

その証拠にB707の次に登場したのは、3発ナローボディ機のB727である。

B707は、当初ライバルだったDC-8のように、胴体を延長させ座席数を増やすモデルの他、逆に短縮して軽量化した長距離モデルが予定されていた。

その前者が「717」、後者を「720」とする予定だったが、実現したのは長距離モデルの「B720」だけだった。

1A2 HAWAIIAN B717-N489HA_(6786339482).jpg

1A2-Hawaiian_Airlines_B717_at_Hilo_International_Airport.jpg

1A2-QantasLink_B717_Port_Hedland_2012_(1).JPG ←(3枚)現役にあるハワイアン航空のB717(ウィキペディア英語版より)

需要の変化で胴体延長モデルの実現はなかったとされるが、実際には構造上B707での延長が大きな設計変更とコストがかかることが分かり、計画は廃止されたのであった。

代わりにエンジンなどを改良して、航続距離を延ばすなどを行っただけで、B707のストレッチモデルは存在しない。

つまり40年以上前に「空き番」だったナンバーが、「MD-95」で復活したのである。

B717の全長は37.8メートルで、MD-87より僅かに短い。

座席数は標準で110席クラスとし、航続距離は3,000キロ。

主翼中央部に燃料タンクを増設した「HGW」仕様だと、約3,800キロまで伸びている。

MD-90の小型版と言うコンセプトだったので、エンジンも同じ「IAE V2500」の搭載を予定したが、B717では大きすぎたことから、一回り小さい「BMWロールスロイスBR715」ターボファンエンジンに変更している。

操縦システムはMD-90に準じたものであるが、コクピットはMD-11と同じタイプの完全なグラスコクピット。

操縦システムは電動と油圧作動の併用だが、航法システムはデジタル化され、自動操縦装置では「カテゴリーⅢ」対応の自動着陸も可能になっている。

キャビンはDC-9以来受け継ぐナローボディで、座席は2-3の5列配置。上級クラスでは2-2の4列となる。

1A2 IMPULSE-B717-2K9,_Impulse_Airlines_AN0084349.jpg

1A2 Inside_a_Boeing_717.jpg ←B717のコクピットとキャビン(ウィキペディア英語版より)

この他フラップなどの形状が変更された他、複合材の比率が高められ軽量化が図られている。

また水平尾翼とエンジンパイロンは、日本の新明和工業が請け負い生産している。

B717は06年に生産が中止されたが、それまでに150機が生産された。

メーカーのトラブルで「ドサクサ」に紛れての、無理やりな生産ではあったが、本命だったMD-90よりも生産数は多かった。

当初の疑問が妥当だったと見え、新造機で導入したエアラインのうち長期間運用したエアラインはごくわずかであった。

1A2 OLYMPIC-B717-23S,_Olympic_AN0205121.jpg

1A2 SPANAIR-B717-2CM,_AeBal_(Spanair_Link)_AN1022382.jpg

1A2 MEXICANALINK _B717.jpg

1A2 MEXICANALINK-B717-2BL,_Mexicana_Click_JP6542971.jpg ←(4枚)オリンピック・アビエーション、スパンエアー、メヒカーナリンクで運用されたB717(ウィキペディア英語版より)

B737だけでなく、90年代後半には高性能で経済的なリージョナル機のCRJやEシリーズが登場し、最初はいずれも70席前後の機体だったが、すぐに90~110席級の拡大版が生産された。

その為受注は最初の段階だけで、全く伸びなかったのであった。

だが機体自体は優秀で、経済的で効率は悪くなかったと言う。

新規発注で現在まで運用しているのは、ハワイアン航空だけで20機が現役にある。

この他オーストラリアの「カンタスリンク」も20機以上現役にあるが、これらはカンタス航空が導入したのではなく、同社が買収統合したインパルス航空が発注した機体だ。

1A2-Impulse_Airlines_B717-2K9;_VH-IMD,_May_2001.jpg

1A2-Qantaslink_Cobham_717_short_final_(8117772874).jpg

1A2 QANTASLINK B717-VH-NXO_(15780852767).jpg

1A2-QantasLink_(National_Jet_Systems)_B717-200_PER_Lim-2.jpg ←(3枚)インパルス航空とカンタスリンクのB717(ウィキペディア英語版より)

エア・トラン、TWA、ミッドウエスト航空のB717のうち、エア・トラン機は統合したサウスウエスト航空が引き継いだが、TWA/ミッドウェスト航空機と同様、デルタ航空が導入した。

またこれらの機体はハワイアン航空やカンタスリンクへも流れており、中にはトレードされた機体もある。

カンタスリンクは、契約した地方エアラインがカンタスブランドでコネクション便を運航するもので、主に中西部を中心に運用されている。

ハワイアン航空は、州内航路専用機で島嶼間路線の主力になっている。

この他タイのLCCバンコクエアウェイズ、フィンランドの国内線エアライン「ブルー1」なども同機を運用していたが、いずれも退役している。

1A2-Bangkok_Air_B717-200_Prasertwit-2.jpg

1A2-Blue1_B717-200_OH-BLJ_ARN_2012-6-30.png

1A2-Blue1_(Star_Alliance_Livery),_OH-BLP,_B717-23S_(16455592562).jpg ←(3枚)バンコク・エアウェイズとブルー1のB717。下はブルー1の「スターアライアンス」塗装機で、B717では唯一であった(ウィキペディア英語版より)

現時点ではデルタ航空、カンタスリンク、ハワイアン航空、中央アジアのトルクメニスタン航空、スペインのLCCボロテアがB717を保有している。

デルタ航空は新造機では1機も導入していないにも関わらず、最も多くの同機を保有・運用するエアラインで、最大で91機を保有した。

生産数が150機だから、実に6割を同社が保有していることになる。

1A2 Delta_B717-200_N934AT_(35239860835).jpg

1A2-Delta B717-200N953AT_SANFebruary2019.jpg ←(2枚)コロナの影響で唯一残ったデルタ航空のB7178ウィキペディア英語版より)

上記のようにコロナの影響でMD-88/90を前倒しで退役させたデルタ航空だが、B717に関しては今のところ退役させる予定はない。

ただコロナで需要が落ち込んだことから、半数程度まで減らす計画はあるようだ。

ボロテアも17機運用するが、後継機種として座席数が同数のA319を導入しており、機数が揃い次第B717は退役させる方針である。

ハワイアンとカンタスリンク、トルクメニスタン航空については今のところ具体的な退役予定はないが、「コロナ後」の動静は不透明である。

比較的新しい機体ではあるが、最終生産から15年近く経つので、そろそろ代替え案は出て来ても不思議ではないという現状である。

1A2-VOLOTEA B717-2BL,_Volotea_Airlines_JP7771461.jpg

1A2-Turkmenistan_Airlines_B717.jpg ←(2枚)現役にあるスペインのボロテアとトルクメニスタン航空のB717(ウィキペディア英語版より)

しかし60年代から続いて来た名門ダグラスの傑作機。DC-9の血脈はいよいよ終焉が近づいて来たと言える。

何よりも日本ではあの「レインボーカラー」で一世を風靡したMD-90が、コロナのせいでひっそりと退役・絶滅したのは残念至極と言わざるを得ない。

胴体は50年代のDC-8の意匠を受け継いでおり、それが古いと言われている。

確かにB717も含め、機種の形状はクラシカルなデザインだ。

大きな曲面ガラスが作れなかったので、小型の窓が7枚ずらりと並んでおり、天測用の「天窓」も2枚遺されたのは「伝統芸」である。

しかしB737だって、意匠は同年代のB707であり、見てくれだけで古いと言われる筋合いはない。

胴体幅が狭い・・とも言われるが、最新のリージョナル機と同じである。

エンジンは現在の標準的な低燃費・低騒音のエンジンを装備しているし、小型である以上経済性もそれほど劣っている訳ではない。

1A2 HAWAIIAN-B717_MD95,_Hawaiian.jpg

1A2 QANTASLINK-B717-2CM,_QantasLink_(Impulse_Airlines)_JP172201.jpg

1A2-QantasLink_B717_(30924211934).jpg ←(3枚)傑作機DC-9/MD-80の血筋を引くデザインのB717(ウィキペディア英語版より)

にもかかわらず「マイナー」過ぎて、大きくイメージを損なってしまっている。

発売元のボーイングにしても、誤解を恐れずに言うならば同機は「他人の子ども」で、養子みたいなもの。

それも望んで引き取った訳ではなく、我が家にはB737と言う孝行息子が・・と言う感じで、熱心にセールスしなかった。

それでも兄弟であるMD-90に比べれば、まだ恵まれているかも知れないが。

だが機首には「BOEING717」と記入されており、「本人」にとっては複雑な思いだろうと思う。

できることなら名前だけでも「MD-95」のままであったなら、今もその伝説が語られていただろうに。

1A2_JETSTAR B717_Jetstar_(8336720689).jpg ←設立時に運用されたジェットスターのB717。インパルス航空^ジェットスター~カンタスリンクと移動した(ウィキペディア英語版より)

若いファンには殆ど注目されず、外観を見ればただの「古い飛行機」に見えるのだろうか。

せめて「MD-95」だった・・と言う事を残せるように、少しでも長く現役に留まってもらいたいと思うのは私だけであろうか。

歴史にもしも・・はタブーだけれど、もし旧日本エアシステムがもっと頑張っていたならば、経済的な機体として「MD-95」が導入されたと思うがどうだろうか。

なお同機の正式名称は「B717-200」であるが、これは胴体を短縮及び延長させたモデルが想定されていたからで、基本型を200型としたもの。

実際には1機種鹿生産されていないので、便宜上「B717」でも通用する。

加えて改造機を含めた貨物機も、今のところ1機も存在していない。




夜も日増しに暖かく、いや暑くなってきたなと感じる。

もちろん本当に暑い訳ではないけれど、シャツ1枚でも充分だ。

湿度が高いというものあるだろうが、つい2週間前の肌寒さが嘘のようだ。

私にはまだ半袖姿で闊歩するのは早いけれど、散歩程度であれば夜に半袖でも良さそうだ。

建物の中も、6月に入って冷房が効くようになって来たが、まだ慣れていないと思わぬトラブルに・・・。

私だけかも知れないが、コロナのせいで所謂「普通」の風邪すら引きにくくなってしまった。

うっかり人前で咳やくしゃみが出来ないし、仮にちょっとした風邪気味で病院に行くことが憚られてしまう。

売薬で済む程度ならば良いのだけど、症状が重いと病院に行かない訳にもいかないし、コロナの恐れがあるから保健所に相談して。。など正直やっていられない。

特に今頃の季節は、エアコンで思いのほか身体が冷えたり、喉や鼻を傷めることは良くある。

食べ物も痛みやすい季節の到来だし、つい冷たいものばかり口にしたくなってお腹を壊す事もある。

せめてコロナを極端に恐れず、治療法が確立すれば良いのだが、すっかりトラウマになってしまった。

「お家時間」が長くなって、逆に飲食が増えた人が多いと聞く。

それによる栄養過多が心配だが、それ以上に体調を崩す事がない様に。

帰り道、ふと匂いを感じた。

道端の草の匂いだ。

好き嫌いが分かれるが、私は結構好きだ。

いつしかそれが雑草だとしても、若草の匂いを発散させて成長しているのだ。

夏が近づいているのだな・・と実感する。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

蒸し暑い日が続いていますが、大丈夫ですか?

君もコロナの影響から、少しは変化が出て来たでしょうか?

仕事もまだ、不安が残っているかも知れません。

君は以前、風邪を引きやすい体質だと言っていたのを思い出します。

私と同じく、喉や鼻が弱いとも言っていました。

今はどうか分かりませんが、一気に暑くなって環境が変化しているので、体調管理にはくれぐれも注意して下さい。

またマスクなども、思わぬ熱中症の原因になるそうなので、気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




独いて もの思ふ夕に ほととぎす 此間ゆ鳴き渡る 心しあるらし(万葉集巻八 1476 小治田朝臣廣耳)

飛行機ネタ 三菱とCRJ(6月2日 晴れ時々曇り 27℃)

朝は雨がぱらついた場所があったようで、雷が鳴った所もあったらしい。

だが我が家の周辺では、ほんの僅か小雨が降っただけだったようだ。

その後は予報通り、午前中には晴れてジワジワ気温が上昇。

最高気温27℃は、7月下旬並みだ。

県内では30℃一歩手前まで上がった所もあり、暑い1日だった。

湿度が高く、風もないのでより蒸し暑く感じた気がする。

6月は、実質的な「夏」。

あくまで私見なのだけど、単純に四季を分けると6~8月が「夏」だと思っている。

コロナで季節感がさっぱりだけど、いつの間にか夏なんだなあ・・と思う。

緊急事態が解除されて、昨日から全国では学校の再開や公共施設の再開も相次いだが、人の流れが増えると同時に再び感染者も増加傾向。

既に「第二波」が発生していると言われているが、先週から拡大が始まった北九州市の他、東京や神奈川県でも少数ではあるが増加し始めている。

要請解除で、店舗などが一斉に再開し、首都圏では繁華街の様子が報道された。

コロナ前に比べるとずっと少ないそうだが、それでも土日などは大混雑。

インタビューされた人は「ずっと自粛されていたので。やっと買い物できました。でもこんなに人出が多いなんて・・」と口にしていたが、おかしいと思う。

皆規制解除=安心と解釈していたから、人出が一気に増えたのだろう。

むしろ誰もが同じことを考えると予想して、ここで一歩引く・・のが本当の予防と自粛ではないか。

混雑しそうな時間を避ける、今しばらくは「集団」を避ける・・・。

私も週末街を通過したが、高校生か大学生らしい若者のグループをいくつも見かけたし、家族連れも多かった。

解除になったからこそ、もう少し自主的自粛が大切だと思うし、自治体もそれを呼び掛けているのに、イコールもう安心・・と白黒でしか判断できない日本人が多くないだろうか?

と言うよりも、自分できちんと「判断」出来ない人が多すぎる。

過敏になる必要なないけれど、人混みが最も危険なことは誰でもわかっているはずで、それでも止む無く通勤する人もいる。

ならば買い物や遊びは、するなとは言わないけれど「自主的自粛」がどうしてできないのだろう。

少し落ち着いた今だからこそ、一人一人が「協力」の気持ちで完全にコロナを封じ込めよう・・と言う気持ちが大切では?

未来にこの国を残そう・・と、今こそ考えるべきだと思う。






飛行機ネタ。

三菱重工は、6月1日付で「MHI CR」と言う新たな子会社を設立した事を明らかにした。

昨年から報道されていた、カナダの航空機メーカー「ボンバルディア」社との交渉で、同社が製造するリージョナル機「CRJ」部門の買収が完了した。

公表されていないが、日本円にして約600億円規模だったと予想されている。

これによりCRJの生産・販売・サービスに関する各部門が、三菱重工系列の会社に編入された。

CRJ部門は、ボンバルディアの本社があるカナダ・ケベック州のミラベルに本拠を置くが、この他トロント、アメリカ・ウエストヴァージニア州ブリッジポート、アリゾナ州ツーソンを含む4か所が「MHI CR」の所有となった。

日本の企業が海外の航空機メーカーを買収するのは事実上初めてのことである。

1A1 IBEXAIRLINES CRJ700 JA09RJ.jpg ←「ボンバルディアCRJ」から「MHI CR CRJ」に変わったIBEXのCRJ700(ウィキペディア英語版より)

ボンバルディア社は42年創業の総合機械メーカーで、元々は「スノーモービル」を開発したことで有名。

その他鉄道車両や船舶など、交通部門の総合メーカーとしても名高い。

その為元々は航空機メーカーではなく、かつてカナダに存在した「カナディア」や「デ・ハビランド・カナダ」などを吸収して現在に至っている。

ここ数年同社は再編を図っており、同社が扱ってきた航空機部門をバラバラにしつつある。

全日空や琉球エアコミューターが保有する高速ターボプロップ旅客機「DHC-8」シリーズ部門はボンバルディアに残されているが、小型機である「DHC-6ツインオター」は、小型機メーカーバイキング社に譲渡した後、「デ・ハビランド・カナダ」のブランドを復活させ生産・販売を継続している。

最も新しいリージョナルジェットの「Cシリーズ」は、当初セールスが上手くいかなかったことから、エアバス社に事実上売却した。

生産はボンバルディアの工場で行うが、機材は全てエアバスブランドである「A220」として販売される。

そしてもう一つのリージョナル部門であった「CRJ」が、このたび三菱重工の傘下になった。

しかしこの買収に関しては、航空業界・経済界からも疑問が持たれている。

周知の通り三菱重工のグループ企業「三菱航空機」では、日本初の国産ジェット旅客機「スペースジェット(旧称MRJ)」を開発中である。

現時点で先行量産型として10機が生産され、昨年末に製造された10号機はアメリカのFAA(連邦航空局」の耐空証明を取るために準備をしていた。

しかし5度に渡る納入時期の遅延で、開発スケジュールは大幅に狂っており、現在もその予定は全く流動的で不透明なままになっている。

コロナの影響で、10号機はアメリカに回送することもできず、耐空証明取得のためのテスト飛行は無期限延長になってしまった。

三菱航空機は大規模なリストラを発表し、従業員を半減させることの他「スペースジェット」の生産中止も視野に入れた事を明らかにしている。

1A1-M90_JA26MJ_landing_at_NKM_RWY34.jpg ←耐空証明用に生産された「スペースジェットM90」の10号機(ウィキペディア英語版より)

三菱航空機は「スペースジェット」の他、ボーイングやエアバスと言った主要航空機メーカーから部品の生産などを数多く請け負っているが、今年初めボーイングから契約打ち切りを通告されていた。

これはボーイングはリージョナルジェット「Eシリーズ」を生産するブラジルのエンブラエル社と提携しており、ボンバルディアと提携した三菱に対しての「制裁」と見られている。

加えて「スペースジェット」が完成すると、「Eシリーズ」と完全に被ることも理由であると考えられる。

「スペースジェット」は数々の不具合が発生し、計画通りの性能が出せず、既に数年もの遅れが生じている。

ローンチした全日空・日本航空を始め、一時は400機近い受注を得ていたが、計画遅延・性能不足でキャンセルや確定からオプションに格下げが相次ぎ、確定発注は約130機程度まで落ち込んでいる。

大幅な遅延により、機体価格は当初の倍以上になることが予想され、発注済みの全日空や日本航空へは初期価格で納入する他なく、既に大きな赤字が見込まれている状況にある。

その最中に「CRJ」を獲得すると言う事は、「スペースジェット」を放棄する可能性も孕んでいるのである。

CRJは91年に登場したリージョナルジェット機で、開発したのはボンバルディアに統合される前のカナディア社である。

1A1-OH-WII_CL604_pvt_(7950005490).jpg ←CRJのベースとなったビジネス機「CL600チャレンジャー」(ウィキペディア英語版より)

同社が70年代に開発し、ベストセラーとなったビジネスジェット「CL-600チャレンジャー」をベースに開発したのがCRJである。

名称は「カナディア・リージョナル・ジェット」の略で、最初は50席級の「CRJ100」、その航続距離延長が他の「CRJ200」が生産され、その後胴体を延長し70席~100席級にした「CRJ700~1000」シリーズに発展した。

主にアメリカメジャーエアラインのコネクションエアラインが採用し、ヨーロッパでも採用例が多い。

アメリカは広大なので航空需要は以前から高いが、地方都市は人口が少ないことから小型機によるリージョナル路線が主体である。

80年代までは20~30席程度のプロペラ機が主体だったが、需要が増加し50席前後が求められるようになった。

この規模だと、ジェット機では機体自体も運航コストも高くつくことから、非現実的と見做されていた。

だが多くのコネクション便を持つメジャーは、速達化することで便数を増やしたり、路線数を増やす事が出来、ジェット機でも運用方法によっては充分収益が上がるとして、メーカーに要望していた。

1A1_LUFTHANZA CRJ.200LR_Lufthansa_MAN_04JUN02_(8204229728).jpg ←CRJ最初のユーザー、ルフトハンザ・シティラインのCRJ200LR(ウィキペディア英語版より)

またジェット機であれば、比較的長距離も飛べることになり、採算性もある程度確保できると考えられたのである。

そこでカナディアは、すでにベストセラーになっていた「チャレンジャー」を拡大させて、開発コストを下げた「CRJ」の開発に着手したのであった。

CRJの原形機は91年に初飛行したが、この時カナディア社はボンバルディア社に吸収された後だった。

だが「チャレンジャー」の発展型と言う事と、部門は残されていたことから名称も「CRJ」として登録された。

登録には、原型となった「チャレンジャー」の派生形と言う事にして耐空証明を申請したため、開発時は極力抑えることができていた。

このため登記上は「CL600-CRJ」となっている。

1A1_CRJ-1000_NextGen,_Brit_Air_AN1967464.jpg ←シリーズ共通のグラスコクピット(ウィキペディア英語版より)

最初の機体は基本型として「CRJ100」となり、初号機はルフトハンザのコネクション部門である「ルフトハンザ・シティライン」に納入された。

エンジンはGE製の高バイパスターボファン「CF-34-3A1」を、リアジェット方式で尾部に2基装備している。

標準座席数は50席で、座席配置は2-2の4列である。

100型はすぐにエンジンの出力が上げられ、航続距離を伸ばした「200」型に生産が切り替えられ、アメリカのリージョナルエアラインの主力機としてベストセラーになった。

1A1 IBEX_CRJ-100ER,_Fair_(ANA_Connection)_AN0599984.jpg ←日本で最初にリージョナルジェットを運航したフェアリンクのCRJ100ER(ウィキペディア英語版より)

全長は26.7メートル、全幅は21.2メートルで、胴体はチャレンジャーと同じ意匠だが、キャビンの内装を変更することで室内幅を若干広げてある。

また安定化のために主翼も延長され、それに合わせてフラップや前縁スラットも改修された。

95年には胴体を延長し、70席級とした「CRJ700」が開発され、その後90席級の「900」、100席級の「1000」へと発展する。

全長は700が32.3メートル、900が36.2メートル、1000が39.1メートルあり、主翼もそれぞれ数十センチずつ延長されている。

1A1-Nwa_airlink_CRJ440_(552368886).jpg ←ノースウエスト・エアリンクの「CRJ440」。200がベースだが44席仕様とした機体(ウィキペディア英語版より)

コクピットはもちろんグラスコクピットで、2人乗務機。

「カテゴリーⅢ」対応の自動着陸装置を始めとする航法機器は、大型機と同水準の物を標準装備している。

キャビンはナローボディ機としては狭い方に位置するが、オーバーヘッドストウェッジも装備している。

1A1 ALASKA CRJ700-N219AG_PDX_(18190525192).jpg

1A1 AMERICAN_CRJ-700,_N710PS,_American_Eagle_(18752342421).jpg ←(2枚)アラスカ航空とアメリカン航空のコネクション便として運航されるCRJ700(ウィキペディア英語版より)

ただし小型のCRJ100/200では、床下の容積に余裕がないため、乗客の荷物や郵便・宅配貨物はキャビン後部に設けられたカーゴスペースに積載する。

700以降は胴体のアレンジメントが大幅に見直され、キャビンの床を低くすることで上下高を増やした.。

更に胴体下部に小さいながら貨物室、と言うよりも「トランクルーム」が増設され、バルク(バラ積み)だが荷物を収容するスペースが設けられている。

エンジンは同じCF-34が踏襲されたが、700以降は機体の大型化に合わせて出力増強型に変更されている。

1A1_CRJ-200LR,_UTair_Aviation_AN2213397.jpg ←GE CF-34ターボファンエンジン(ウィキペディア英語版より)

700以降は主翼がそれぞれ延長されているが、取り付け部が強化された以外は基本的に共通である。

200型以降はオプションとして、主翼中央部に燃料タンクを増設した「ER」と「LR」が用意されたが、殆どの機体がどちらかのタイプで生産されており、標準化されている。

航続距離は100・200で最大2,500キロ、700以降では最大で4,000キロ程度を確保できる。

リージョナル機なので、前部の乗降口には収納式のエアステアが標準装備されており、タラップやボーディングブリッジのない空港での運用を容易にしている。

1A1-IBEX_Airlines_CRJ_CRJ700.JPG

1A1 IBX-CRJ700_room001.JPG ←(2枚)IBEXエアラインズのCRJ700とキャビン(ウィキペディア英語版より)

00年代になると、ライバルであるボンバルディア社の「Eシリーズ」が台頭し始め、CRJが全体的に見劣りするようになったこと、それに対抗して「Cシリーズ」の計画が持ち上がったことから、CRJはマイナーチェンジを行う事になった。

主にキャビンの変更が主体で、内装材の変更で容積が拡大した他、客室窓の上下寸法を拡げるなど快適性を重視した変更となり、これらの機体は「Next Gen」と名付けられた。

コクピットもそれまでのCRTから液晶パネルへ変更されたが、これは既存の機体でも変更が可能である。

キャビンの照明もLEDに変更し、機体の軽量化に努めた。

以降の生産機は基本的に全て「Next Gen」で製造されているが、100・200は生産中止になっており同仕様の生産機はない。

同シリーズは現在まで約2,000気が生産されており、最も多いのが初期の100・200型だが、900がそれに続く。

1A1-Adria_CRJ900_S5-AAL_(9153821180).jpg

1A1 GARUDA CRJ1000 PK-GRC_(cropped).jpg

1A1 Garuda_Indonesia_CRJ1000_at_YPXM.jpg ←(3枚)アドリア航空のCRJ900とガルーダ・インドネシア航空のCRJ1000(ウィキペディア英語版より)

10年代にデビューした1000の数は少ないが、全体の7割が北米で運用されており、新しいシリーズができた後も同シリーズを運用するエアラインが多い。

「Eシリーズ」は、これまでのリージョナル機の概念を打ち崩していて、もはやB737やA320シリーズの最小モデルと同じカテゴリーになっている。

エアバスの後押しでようやく軌道に乗りつつある「Cシリーズ」も、120~130席級でありリージョナル機とは言えなくなっている。

最新鋭と言う事で好調なセールスを伸ばしているが、機体価格の安さや取扱安さでCRJをエアラブエアラインはまだまだ多く存在する。

日本では99年に設立された「フェアリンク」(現IBEXエアラインズ)が、中古のCRJ100を2機導入して運航を開始し、その後新造機でCRJ200も導入した。

1A1 IBX_CRJ-200ER_on_final_for_R-W16L._(4973035153).jpg ←IBEXエアラインズのCRJ200(ウィキペディア英語版より)

01年にはJ-AIRが初めてのジェット機としてCRJ200を導入し、中古機を含めて最大9機を運用した。

その後IBEXエアラインズは「CRJ700」に変更、J-AIRはE170と190に変更し、両社のCRJ100/200は退役。

現時点でIBEXエアラインズが、日本で唯一の同機ユーザーとなっている。

日本でもリージョナル機と言えば、プロペラ機が常識だった。

海外と違い、地方VS地方線は距離が短く、需要も希薄な事が多いからであった。

加えて新幹線や高速道路の整備で、90年代までのリージョナル路線と言えば北海道や沖縄、伊豆諸島などの離島航路が主体であった。

1A1 J-AIR_CRJ.200_J-Air_NGO_2-MAY03_(8407938253).jpg

1A1-J-Air,_CRJ-200,_JA209J_(17146051447).jpg

1A1-JAL_CRJ-200ER(JA208J)_(4570580655).jpg

1A1-J-Air,_CRJ-200,_JA207J_(21740427989).jpg ←(4枚)CRJ200を9機を運用したJ-AIRは、退役まで3つの塗装を施した(ウィキペディア英語版より)

だが90年代後半になると、航空運賃が安くなり利用客が増加すると、地方都市間の航空需要も増加しつつあった。

地方空港の整備が進んで、ジェット機禁止空港が少なくなったこともあって、CRJは注目された。

ジェット機なので、通常便と同じ速度で飛ぶことができるので、それまでプロペラ機で運航していた路線は高速化が実現したと同時に、便数の融通性も向上した。

日本航空系列のJ-AIRは、旧日本エアシステムが運航していた北海道内路線や大阪発のローカル線などを運航するようになった。

それまではB737/MD-80などでしか運航できなかった路線に、同じジェット機ながら50席の同機でコストを削減できるようになったのである。

1A1 LUFTHANZA_CRJ-701ER,_Lufthansa_(Lufthansa_CityLine)_AN0772496.jpg

1A1 LUFTHANZA_CRJ-701ER,_Lufthansa_(Lufthansa_CityLine)_AN0361097.jpg

1A1 Nordica_CRJ-900ER_(32981364324).jpg

1A1 SAS_CRJ-900NextGen,_Scandinavian_Airlines_(SAS)_JP6686179.jpg

1A1_Air_Nostrum_CRJ1000 SCQ_02.jpg ←(5枚)ルフトハンザシティラインのCRJ700、LOTポーランド(運航はノルディカ航空9)、SASのCRJ900、イベリア航空(運航はエア・ノストラム)のCRJ1000(ウィキペディア英語版より)

上記にあるように同機の基本はビジネス機と言うアイディア商品がウリだったが、その分小柄である。

Eシリーズなどは、それを充分見越して拡大させ余裕を持たせているが、エンジンは同系列を使っている。

基本設計が古い分、魅力が薄れているようにも見られているが、運用方法にもよるだろう。

1A1 HOP_CRJ700_HOP_(32886094682).jpg

1A1_HOP CRJ-1000_Hop!_(34232939141).jpg ←(2枚)エール・フランスのコネクション部門「HOP!」のCRJ700/1000(ウィキペディア英語版より)

EシリーズやA220は、先に書いたようにB737やA320シリーズをカバーするカテゴリーになっており、比較的長距離を運用できるように作られている。

キャビンもギャレーやラバトリーなど、数時間のフライトに対応できるように設計されている。

一方CRJは純粋な「リージョナル機」であり、最大2~3時間以内の路線であれば運航コストは安く済む飛行機なのである。

小型軽量であるから運航コストは安く、700移行であれば座席数も充分確保できる。

北米やヨーロッパの同機は、エアライン独自の運航よりも大手と契約したコネクション便が殆どである。

1A1-Delta_Connection_CRJ-700_(N759EV)_(6819983288).jpg

1A1 UNITED CRJ700-N706SK_LAX_(25226562657).jpg

1A1 UNITED_CRJ-700,_United_Express_(SkyWest_Airlines)_AN1385675.jpg ←(3枚)デルタコネクションとユナイテッド・エクスプレスのCRJ700。キャビンは国内用ファーストクラスを含む2クラスで、1-2の座席配列になっている(ウィキペディア英語版より)

機体の塗装も大手と同じで、大都市からの乗り継ぎ便で重宝されている。

ヨーロッパだと、国内だけでなく数十分から1~2時間で到達できる域内諸国路線で多くが運航されており、日本からでも乗り継ぎ便として同機に当たる事が多い。

日本では国土の狭さから、こうしたコネクション便が少ないが、IBEXは同機を使って成田便を各地から運航。

提携先の全日空とコードシェアしており、通常の全日空路線でも運用されている。

1A1-IBEX_CRJ-700 JA06RJ_1.JPG

1A1-Tailbumper_Bombardier_CRJ700.JPG ←(2枚)IBEXエアラインズのCRJ700と「尻もち防止」のスキッド(ウィキペディア英語版より)

現在「MHI CR」となった工場で受注・生産しているのはCRJ700~1000とオプションの「550」「705」である。

「550」は700の胴体を用いながら、ビジネスクラスのみ50席級とした機体、「705」も外観は胴体の長い900を使い、2クラス70席級とした機体である。

その為サブタイプにややこしさがあるのだが、基本的には3種類と言う事になる。

1A1 JAZZ_CRJ.705_Air_Canada_Jazz_YYC_20JUN07_(6808738225).jpg

1A1 JAZZ CRJ705_C-GJAZ_(6908271472).jpg ←(2枚)胴体はCRJ900と同じながら座席数を2クラス70席級にした「CRJ705」。エア・カナダのコネクション部門「JAZZ」が運航する(ウィキペディア英語版より)

生産が終了した100・200も、半数以上が現役にあり、中古機市場での人気が高い。

特にアフリカやロシアの新興エアラインの人気が高く、同機が唯一のジェット機・・と言うエアラインも少なくない。

「手軽」と言うには簡単すぎるが、目的に特化した機体であり、まだまだ使い勝手の良さは失われていないのだ。

1A1-Air_Mali_CRJ-200ER-1.jpg

1A1 UTair_CRJ-200LR_(16454476631).jpg

1A1 BELAVIA CRJ200-EW-277PJ_BCN_(24856463472).jpg ←(3枚)西アフリカ・マリ共和国の「エール・マリ」、ロシアのUTエア、ベラルーシのベラヴィアが運用するCRJ200(ウィキペディア英語版より)

「贅沢病」が蔓延する日本では、豪華なEシリーズやスペースジェットに期待が寄せられているが、短距離区間の多い日本国内ではCRJの方が好ましい。

私も何度か乗ったことがあるが、見た目以上に快適な旅客機である。

確かにキャビンは狭いが、それも日本人が慣れている贅沢病の一つではないか。

100・200だと窮屈感は否めないが、座席数50席は高速バスとほぼ同数であり、内部の空間も似たようなものである。

CRJ700では、窮屈さは殆ど感じない。リアジェットだからキャビンは非常に静かである。

客室乗務員は100・200では1名だったが、700移行では2~3名乗務しており、IBEXではドリンクサービスも実施している。

いわば「日系企業」になったことで、今後新たなユーザーや追加導入も可能性が出て来たかも知れない。

三菱はこれまでプロペラ機であるDHC-8シリーズとCRJの一部部品の開発・生産を担当していたが、CRJに関しては契約を終了していた。

「スペースジェット」の開発のために手を引いたとも言われるが、今になってCRJを買収するという意図は何なのか?

同機のノウハウを入手してスペースジェットに活かしたい・・と言う事だったように思えるが、コロナの影響もあって同機の行き先は事実上閉ざされた状態にある。

1A1 M90-Mitsubishi_Aircraft_Corporation,_JA23MJ,_Mitsubishi_MRJ90STD_.jpg ←今後の去就が気になるスペースジェット。全日空塗装を施してアピールした3号機(ウィキペディア英語版より)

一度「突き放した」CRJを、今になって買収と言うのは、正直不審とも取れる。

少なくともスペースジェットは、今の状態で2,000機以上売れないと完全な赤字である。

にもかかわらず約600億円も投じてCRJを買収したからには、良い意味での計算づくであろうが、開発費の回収はどう考えているのだろうか。

量産を停止すると言う告知は、計画を凍結するとも取れる。

だが確定発注しているエアラインに対し、今後損害賠償も発生する可能性が具体性を帯びており、まさか三菱はCRJでお茶を濁す・・・つもりなのだろうか。

それはあり得ないと思うが、スペースジェットが完成しない以上、旅客機市場から離れたくない気持ちは強いであろうと思われる。

それとも開発を「CRJ」に移す・・と言う選択肢も考えているのかも知れないが。

なおCRJの機首は、プロペラ機の「DHC-8」シリーズとデザインが共通で、前脚も共通である。

地方空港用に短い脚になっており、着陸時にはジェット機ながら着地直前まで機首上げ(フレア)をかけず、下げた状態で降りて来るのがCRJの特徴だ。

知らないと一瞬ドキッとしてしまうのだが、着陸速度が低く設定されているため、ぎりぎりまでフレアをかけなくても良いのだ。

地上でも機首が若干下がり気味の姿勢で、スリムなボディと相まって、どこかスポーツカーのようなイメージがあって格好良い。





夜も雨り気温が下がらず、夏を思わせる。

最も暑い訳でなく、空気の冷たさを感じないと言う意味だ。

制服組は6月から「衣替え」になったはずで、今日の暑さはちょうど良かっただろう。

ただし紫外線が最も強い時期であり、女性など気になる向きは要注意。

そういえばコロナウィルスは、紫外線に特に弱い・・と聞いたことがある。

感染者が著しいニューヨークでは、地下鉄車両に紫外線消毒装置を導入し、殺菌をしていると言う。

もちろん営業中ではなく、車庫で整備中に車内を数分間照射することで効果が得られるとか。

あまりに不確定要素が多く、情報を信じられる事が出来ないが、日本人の感染が少ないのは「通常の風邪」の抗体を持っていて、それが「COVID-19」にも有効・・と言う意見もあるとか。

コロナが流行する前、すなわちこの冬以前に風邪を引いた人は感染しにくい?

間もなく訪れる鬱陶しい梅雨に、再び感染拡大にならないことを祈るばかりだ。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

今日は蒸し暑い1日でしたが、大丈夫ですか。

君も今日は夏服で過ごしたかと思いますが、エアコンなどでの冷えには注意して下さい。

また外出時にマスクをしていると思いますが、暑い外では熱中症の原因になるそうです。

歩く分には感染リスクは低いので、面倒ですが室内と外で付け外しをした方が良いようです。

まだ猛暑ではないので、身体の水分不足に気付きにくく、マスクがより増長させるようです。

充分気をつけて下さい。

街ではお店も再開しているようですので、たまにはカフェで冷たいものでも飲んで下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



あぢま野に 宿れる君が 帰り来む 時の迎へを いつとか待たむ(万葉集巻十五 3770 娘子)


飛行機ネタ 日系アメリカエアライン?ノースウエスト航空の功績(5月31日 晴れ 26℃)

少し霞みがかった感じがするが、概ね良好な天気。

その分日差しが強く、外では暑いけれど日陰や家の中は涼しい。

空気が乾燥しているから、過ごしやすい暑さと言える。

洗濯や布団干しには最適だろうし、週末と言う事で何処か行きたくなる陽気だ。

南風が強く、窓を開けていると風通しで気持ち良いのだが、時々強く吹きこんできて家の中で埃が飛んでしまう(笑)。

西日本は低気圧の影響で雨が降ったが、気象庁は九州南部と四国の「梅雨入り」を発表。

いよいよ本土にも鬱陶しい季節の到来だ。

緊急事態宣言が全面解除になって最初の週末であり、全国でも街や観光地は人出が増えたと言う。

もちろん皆「ソーシャル・ディスタンス」を意識しての事だろうが、同じことを考えたいるから「密」になってしまいそう。

事実東京はまだ日々感染者が出ているし、3週間以上「0」だった北九州市の例もあり、油断できない。

完全に収束するまでは要請や規制を・・と思う人も多いと思う。

制限がなくなるのはありがたいが、個人レベルでどこまで対応できるのか・・という不安が残る。

来週からは学校も基本的に再開するが、手放しで喜べない気がする。

3カ月近くも休みだった小中高は、自治体にも夜が授業の遅れを取り戻すために、当面「土曜日」も授業を行い、夏休みも半分以上短縮することが予定されていると言う。

天気が良いこともあって、近所では子供たちが走り回っていた。

我が家は「団地」なので、敷地内に住民専用の公園があり、「昭和」を思わせる子供たちの姿が残っている。

学校も歩いて数分圏内にあるし、小中学校は一緒だから子供たちの殆どは「幼馴染」だ。

だから同級生だけでなく、兄弟や近所の歳の違う子供同士も仲が良い事が多く、学校が変わる高校生や大学生ぐらいになっても仲が良い事が多い。

昨日今日は特に天気が良かったからか、正直騒々しい程歓声を上げて行ったり来たりしていた。

不思議なことに、外で遊んでいるのは女子が多く、男子の姿が少ない。

暑いとはいえ、まだ夏前なのに子供たちはもう完全な夏服。

中にはタンクトップにショートパンツ姿の子もいて、時代は変われど子供の基本は今も「元気」なのだなと思う。

むしろ情報過多・物が溢れすぎ、教育の判断を上手く下せない大人の方が過剰反応が多い様な気がする。

親御さんは大変だと思うが、子供たちは考えている以上にしっかりしているし、考えている。

大人に対する尊敬や遠慮も、私の時代よりずっとわかっているようにも思える。

何処かでは、子供たちが外で遊んでいるだけでコロナがどうと「言いがかり」をつける馬鹿者がいたそうだが、ウチの団地でそういう事を言う人はいない。





飛行機ネタ。

中学生の頃、私は洋楽や洋画に大きな興味を持っていた。

学校で「英語」を習い始めたからだろうか、自発的な意識が芽生え始めたからかは分からないが、とにかく「FMラジオ」やテレビの洋楽番組を聞き、当時活発だった海外ドラマに夢中になり、休日ともなると映画館通いしてばかりいた。

それは20歳台まで「趣味」として続き、教科書の英語よりも良い「先生」だったように思う。

今こそ忘れてしまったが、一定の会話力は身についていたと思うし、音楽や字幕スーパーの映画は原語で何となくわかるまでにはなっていたと思う。

夢中になったのは、何よりも「アメリカ」であった。

同じ英語圏の国でも、イギリスやカナダにはあまり興味が向かなかったのは、アメリカ自体に憧れのような感を抱いていたからだと思う。

今こそ私は日本の歴史学を研究するようになって、改めて「日本人」であることに喜びと誇りを持っているが、子供のころは外国に憧れを持つことは普通だっただろう。

今から3~40年も前の事だから、一介の中高生が手にできる外国の情報羽限られていた。

最も有効だったのは「本」で、これは今も変わらないと思うが、簡単でインパクトの強い「ビジュアル」の情報と言えば、テレビや映画、音楽しかなかったのだ。

当時のアメリカは「なんでもありの超先進国」と言う、根拠の乏しい概念がどこかしらあった。

実際第二次大戦でアメリカに敗戦した日本は、「冷戦」のさなかに例えアメリカの「衛星国」的な扱いだったにせよ、「赤化」させないためにアメリカが復興の大きな力を注いだ。

戦中までの独裁的封建的な社会が、敗戦によって自由と共に「アメリカ文化」も大量に持ち込まれたのである。

今思えばアメリカ文化がなんでも進んでいて格好良い・・と言うのは誤解であり、自国文化を卑下する愚行だと思うのだけど、当時はそこまで難しく考えていなかったように思う。

だがエンターティメント、と言う点では、日本にはない独自の面白さが、私には「憧れ」に変化させていたように思う。

テレビや映画の中に映るアメリカの風景にさえ、強い憧れを抱いていた。

しかもストーリや演出も、日本では考えられない大胆さや面白さがあり、アメリカ以外では絶対不可能な場面も多かった。

私はアクション物が大好きで、ポリスアクション・カーアクションは当時のアメリカ映画・テレビの「定番」だった。

非現実的と分かっていても、それを実写化できるアメリカはやはりすごいと思った。

カーチェイスシーンでは、高級車を「惜しげなく」何台も壊し、時には飛行機までも墜落させてしまう。

なんてもったいない・・と思いつつ、さすがアメリカ・・と唸るしかなかったものだ。

アメリカでは、車でも何でも、一度使ったら即座に「使い捨て」で、いつも新しいものばかり使う贅沢すぎる国なのだと勘違いしていたほどだ。

現代文明の多くは、確かにアメリカ発祥の物が数多くあり、今やそれを意識せずとも世界に浸透していることは数え切れないだろう。

ハンバーガーだって、コーラだって、コンビニだって、アメリカが発祥である。

そして「飛行機」もまた、1903年の「ライト兄弟」が最初に動力で飛ばしたことだ。

エアラインも戦後を中心に見れば、飛行機社会を世界に構築したのは「パンナム」を筆頭としたアメリカのエアラインである。

ボーイング・ダグラス・ロッキードと言った航空産業が盛んなアメリカでは当然のことであったが、エアラインもまた他国では真似できない程の資金と規模を持っていたのである。

とにかく何でも必要な物は、バンバン作って買う・・と言う雰囲気を、私は感じていたのである。

ところが一見そう見えて、実はそうでないエアラインがかつてあった。

日本人には最も縁が深かった「ノースウエスト航空」である。

同社は2000年代まで、規模と言う点では全米5位につける大手メジャーであった。

アメリカのエアラインは70年代まで、大きな規制がかけられており、特に国際線に関しては細かい規定があった。

1Z_DC-10-30,_Northwest_Airlines_AN0561955.jpg

1Z NORTHWEST_DC-10-30_JP485124.jpg ←(2枚)ノースウエスト航空のDC-10-30(ウィキペディア英語版より)

今こそ世界最大級のエアラインであるアメリカン・デルタ・ユナイテッドは、保有機数や従業員数と言う点では大きかったものの、国際線の運航は規制によって中南米など、ごく限られた地域に限定されていた。

逆にパンナムは国内線や近距離線を殆ど持たなかった代わりに、世界中に路線を持っていた。

ノースウエスト航空は、その中間にあたるポジションのエアラインだった。

創設は26年と古く、最初は小型機による郵便輸送を目的とするエアラインであった。

本拠を中西部ミネソタ州の州都ミネアポリス・セントポール郊外に置き、リージョナルエアラインとして細々と運航していた。

転機となったのは第二次大戦で、同社は軍と契約することで戦時輸送の任務を請け負う事になった。

それは41年に始まった日本との戦争で、同社はアラスカなどへ軍の物資や兵員を輸送した。

それが政府に認められ、戦後民間エアラインとして復帰した際に厚遇されることになった。

結果的にパンナムと並んで、広範囲の国際線運航を連邦政府に認められたエアラインだったのである。

日本へは終戦間もない47年に就航し、最初に定期便を運航した外国のエアラインとして知られる。

当初は駐留軍の輸送が目的だったが、すぐに羽田や大阪に民間運航を開始した。

1Z Northwest_Martin_202_(4589908153).jpg

1Z_DC-4_Northwest_Airlines_(4589814311).jpg ←(2枚)日本に初めて乗り入れたノースウェスト航空のマーチン202とDC-4(ウィキペディア英語版より)

同社は日本の民間航空復興にも大きく寄与し、日本航空設立時には機材と乗務員込みの「ウェットリース」で運航した。

最も当初日本はまだ「連合軍」の管理下にあって、日本人が「操縦」する事が認められていなかったからであった。

主権を回復したサンフランシスコ条約以降は、機体はそのままリースし、乗務員や整備士の教育も請け負った。

日本航空が最初に運航したマーチン202、DC-4、DC-7などは、同社が最初に運航していた機体を払い下げで導入したものである。

つまり現代に至る日本のエアラインの基礎を作ったのは、他ならぬノースウエスト航空だったと言う事だ。

日本側も同社の功績を鑑み、それは政治的な「忖度」も大きかったのだが、日本からアジア方面への大幅な「以遠権」を与えていた。

日本航空はまだ成長の過程にあったため、日本~アジア間の運航を同社に任せることで空路を確保したのである。

1Z NORTHWEST_L-188C_Electra_(4590513500).jpg

1Z NORTHWEST-Boeing_377_Stratocruiser_(Northwest_AL)_on_ramp.jpg

1Z_DC-7C_Seven_Seas,_Northwest_Airlines_JP7675846.jpg ←(3枚)国内幹線に投入されたロッキードL-188エレクトラと太平洋路線に投入したボーイング377ストラトクルーザー、DC-7C。ストラトクルーザーは女優マリリン・モンローとメジャーリーガー、ジョー・ディマジオが日本への新婚旅行で利用した(ウィキペディア英語版より)

また大西洋方面でも、戦中。戦後の軍用輸送が功を奏して国際線の運航が認められていた。

70年代まで、両方の長距離路線を運航したのは同社とパンナムだけで、TWAなどが僅かに大西洋路線を許可されていただけである。

同社は日本を拠点の一つにし、アジア諸国の他ミクロネシア線など次々と路線を拡大した。

このためジェット化も積極的で、60年に最初のジェット旅客機であるDC-8を導入し、61年にはB720,63年にはB707を導入した。

すなわち60年代に入手できる長距離機の全てを持っていたことになるが、それも必然であったのである。

1Z NORTHWEST_B720-051B_A-l_JFK_09JUL70_(6054317398).jpg

1Z-B707-351B_N377US_NWAL_SFO_19.09.70_edited-2.jpg ←(2枚9本格的な長距離機材となったB720とB707-320B(ウィキペディア英語版より)

盤石となったのは70年に導入したB747からで、特に太平洋路線が充実した。

折しも航空需要が増加し始めたころで、日本航空もこのころには一流エアラインの仲間入りを果たしており、北米線は過酷な競争であった。

最もノースウエストと日本航空の関係は、ライバルながら切磋琢磨の関係にあり、本当のライバルはパンナムであった。

特に有名なのは東京~ニューヨーク線で、それまでは3社ともDC-8やB707でアンカレッジを経由していた。

1Z-Northwest_Orient_Airlines_B747-151;_N604US_(6084154942).jpg ←ノースウエストはB747を最初に導入したエアラインの一つ。初期導入の100型(ウィキペディア英語版より)

747のデビューで、同じ行程ながら座席数は倍増し、観光・ビジネス双方とも需要が激増していた。

しかし初期の747は航続距離が足りなかったことから、パンナムは多少座席数が減っても直行できる機体を希望し「B747SP」を導入した。

同機は胴体を短縮して機体重量を軽くし、航続距離を飛躍的に伸ばしたタイプである。

これによりパンナムの東京~ニューヨーク線は、世界で初めてノンストップ運航となり、アンカレッジ経由よりも3時間近くも短縮された。

またアジアの大都市とアメリカ最大の都市ニューヨークをダイレクトに結んだのも、この時が最初であった。

当然のことながらノースウエストと日本航空は大打撃を受けることになったが、両社は「タッグ」を組んで対抗した。

747SPの航続力は認めるものの、747本来の特徴である座席数が半減するのは本末転倒であるとして、ボーイングに従来型の改良を迫ったのである。

当時747に搭載されていたエンジンは、初期の高バイパスファンエンジンP&W製の「JT-9D」だったが、高出力することで機体重量を引き上げれば燃料を増加させられると主張したのである。

当初ボーイングもエンジンメーカーのP&Wも難色を示したと言うが、まずは離陸時にエンジン内で「水噴射」装置をつけることで圧縮空気の密度を上げ、一時的に出力を高められるようにした。

その後基本的なスペックを向上させた「JT-9D-7R4G2」が実用化され、通常型の747でも直行できるスペックを確立させた。

1Z-Northwest_Airlines_B747-251B_(N637US_644_23548)_(8276880142).jpg

1Z NORTHWEST B747-200B-N623US_(2767178267).jpg ←(2枚)性能を向上させた200型のおかげで、ノースウェスト航空はアメリカ最大の747ユーザーに成長した(ウィキペディア英語版より)

それでも航続距離はギリギリで、特に東京行きの場合風向きによって積載量を減らしたり、シアトルなどで給油を余儀なくされたが、それでも400席をキープしてのノンストップ便の効果は絶大で、パンナムに流れた顧客を取り戻す事ができた。

72年にはDC-10の導入を開始し、大陸横断便の他、大西洋路線の主力機として投入する。

DC-10に至っても、日本航空と再び共同戦線を張って、ラインナップになかったJT-9D仕様の「40」型をマクドネル・ダグラスに作らせている。

これは747と同じエンジンにすることで、整備や部品供給の安定化とコストを削減するのが目的であった。

最初に提案したのは日本航空で、ノースウエストが追随した形だったが、このころ大手エアラインでこうしたコストセーブの発想を持つエアラインは珍しかった。

1Z-Northwest_Orient_DC-10-40_(6142354648).jpg

1Z_ NORTHWEST DC-10-40_AN0613187.jpg ←(2枚)ノースウェスト航空と日本航空だけが導入したDC-10-40(ウィキペディア英語版より)

ノースウエストはアメリカのエアラインでは唯一、東京をアジアの拠点としていて、羽田時代から専用のハンガーを持っていたが、成田に移動するとより拡大させた。

専用のターミナルも持つことになり、整備上は本国と同規模の大規模な物が建設された。

1Z_Northwest_Airlines_B747-200B AN0217703.jpg ←2000年代初頭まで、成田空港は本国以外では同社のB747が最も集中する空港で、時間帯によっては「レッドテイル」が連続した(ウィキペディア英語版より)

特に太平洋路線専用でもあった747の整備拠点として整備され、晩年に至るまで同社の重要整備拠点として機能した。

同社の「成田デポ」は業界でも有名で、常に747用のエンジンが4基常備されていた。

専門の整備士も日本人を含めて、常時100~200人が配置されており、同機の解体整備も可能であった。

その為本国からわざわざ回送してまで整備することもしばしば行われていたし、他社への融通や協力も常時行われていた。

羽田時代から事務所を含め、普段から「省エネ」が徹底されており、事務用品や制服、作業用の服や手袋まで、大事に使う事が奨励されていたと言う。

ボールペン1本も、最後まで使い切ってからでないと支給されず、きちんと管理することが命じられていたと言う。

今だとハラスメントと誤解されそうだが、社員一丸となって「無駄遣い」を止めることが常日頃言われていたそうである。

それは日本支社だけでなく、本国のオフィスや工場でも徹底されていたと言う。

1Z NORTHWEST-B747-451_AN0205144.jpg

1Z-Northwest_B747-400_Spijkers.jpg ←(2枚)B747-400のローンチカスタマーだったノースウェスト航空(ウィキペディア英語版より)

羽田時代には、ライバルであるパンナムが駐機場で隣接していた時、地上整備士はパンナムの社員が羨ましかったと言う。

世界最大のエアラインだけあって、飛行機はいつもピカピカ、乗務員はもちろん汚れる仕事の多い地上職員でさえ、いつも新しく綺麗にクリーニングされた服を着ていたと言う。

一方ノースウエストは、油で薄汚れよれよれの服で、みすぼらしく感じたと言う。

当時の社員は会社が貧乏だからと嘆いたそうだが、実は同社は日本人の習慣に習ったものであった。

先に書いたように、戦後最初に日本に進出したノースウエストは、復興途中の貧しい日本人の暮らしを目の当たりにしていた。

朝鮮戦争の「特需」によって、あの奇跡的な高度経済成長を遂げたのであるが、同社の幹部はそれ以前に日本人が元来受け継いできた質素な生活館に感銘を受けたと言う。

我々が常日頃考える「もったいない」精神が、同社の経営に反映されたのであった。

1Z NORTHWEST-B727-251-Adv,_Northwest_Airlines_AN0200768.jpg ←国内線の他、以遠権を行使した海外路線でも運用されたB727-200。日本でも数機が常駐してアジア線を運航していた(ウィキペディア英語版より)

なんでもお金で新しいものに取り換えると言う「アメリカン」な感覚では、この先過当競争時代に突入した時、余力を得られないと感じたのだ。

会社の運営コストをできる限り減らす事で、その分飛行機をより多く飛ばすと言う考え方であった。

同社の興味深い点は、そうした「隠れた」経営理念が機材に見ることができると言う事だ。

たとえば80年代末に登場したB747-400やB757-300は、同社がローンチカスタマーであり、前者は初号機を受領・初就航させている。

新しい機材を積極的に導入するかと思いきや、古いDC-9やDC-10を21世紀になるまで使い続けてもいる。

DC-9は初期からのヘビーユーザーで、10~50シリーズまで全て運用した唯一のエアラインでもある(20型は特殊型で生産型ではない)。

1Z_DC-9-14_Northwest_IAH_26APR00_(5592642501).jpg

1Z DC-9-32 NORTHWEST_(293090062).jpg

1Z Northwest_Airlines_DC-9-41 N759NW_(1570303814).jpg

1Z Northwest_Airlines_DC-9-51;_N767NC@MIA;31.01.1998_(5531614361).jpg ←(4枚)DC-9-10~50。30型と50型は提携先だった東亜国内航空にリースされた事がある(ウィキペディア英語版より)

80年代にはB727の代替えとしてB757を大量に導入したが、アメリカのエアラインでは大ウケしたB767には一切興味を示さなかった。

アメリカのメジャーでは、唯一767を1機も運用した事がないエアラインなのだ。

何故なら300席級はDC-10があったからで、例え3発機3人乗務で効率が悪いと言われようとも、新しい機材の導入費用をかけるより安価で済むと言う考え方だった。

しかもDC-10ならば国内線の幹線から長距離路線まで幅広くこなせる機体であり、オリジナルの40型では足らず、90年代以降は各地から引退したDC-10-30型をかき集めてまで体制を維持した。

提携していた日本エアシステムが持てあまして放出したDC-10-30も、同社が引き取り、最後の退役まで運用させたのはファンには有名な話だ。

1Z DC-10-30_Northwest_Airlines_(2243943673).jpg

1Z_DC-10-30,_Northwest_Airlines_AN0554879.jpg

1Z_DC-10-30_Northwest_Airlines(JA8550)_AMS_24MAR04_(11098307944).jpg ←(3枚)90年代になるとDC-10-30の中古機を世界中から集めて機数を維持し、国内線から太平洋温暖路線までオールマイティに運用した。3枚目の機体は元日本エアシステム、ハーレクインエアで運用されたJA8550(ウィキペディア英語版より)

747も最新の400型が導入されても、200型が併用された。

同社のB747-200とDC-10はオリジナルの改修が加えられていて、コクピットの計器盤などは独特のオリジナルタイプに変更されていた。

90年代後半になるとB777を始めとする21世紀型の機体が次々登場し始めたが、ノースウエストは潮流には乗らないエアラインだった。

国内線用として100機以上保有していたDC-9シリーズのうち、古い10~30型については後継機が必要よなったが、同社が選んだのは「国産機」のMD-80やB737ではなく、ヨーロッパ製のA320シリーズだった。

アメリカでは最も初期にエアバス機を導入したエアラインの一つで、ユナイテッドと共にボーイング・マクドネルダグラスの牙城を最初に崩したことで知られている。

1Z-Northwest_Airlines_A319_(552711537).jpg

1Z NORTHWEST_A319-114_YYC_20JUN07_(5805833262).jpg

1Y-Northwest_Airlines_A-320_(292518383).jpg

1Y NORTHWEST A320-N362NW-2008-09-13-YVR.jpg ←(4枚)DC-9の後継機種として導入されたA319・320は、デルタ航空にも引き継がれている(ウィキペディア英語版より)

最もこの話には裏があって、エアバス社北米市場開拓のためなりふり構わない「ダンピング」を行っていたと言う。

特にユナイテッドとノースウエストに対しては、大量発注と引き換えに最大で40%ものダンピングで契約したと言われている。

もちろん機体に沿うような性能だったからの話なのだが、排他的なアメリカ市場に大きな楔を打ち込んだのである。

同社はDC-9の代替えとしてA319と320を導入したが、そのペースはゆっくりだった。

21世紀になると「9.11」から始まる航空不況で、同社も05年に連邦破産法11条「チャプター11」の申請に陥り、再建策が採られた。

翌年にはオランダのフラッグキャリアKLMと包括的提携関係を結び、両社の全ての便でコードシェア運航を開始した。

航空同盟とは別に、エアライン同士の包括的提携は珍しく注目を集めた。

同社は独自のマイレージサービスを持っていたが、KLMとは完全に共有することになった半面、会員は両社が就航する地域の人のみという限定がついていた。

1Z Northwest_Airlines-KLM_DC-10_hybrid_livery_KvW.jpg

1Z-Northwest_Airlines-KLM_DC-10_hybrid_livery_Spijkers.jpg ←(2枚)KLMとの提携を記念した特別塗装のDC-10-30。左をKLM塗装、右側がノースウエスト塗装だった(ウィキペディア英語版より)

08年、同社は突如デルタ航空との統合を発表し世界を驚かせた。

これについては独禁法違反ではないか、と言うクレームが多く寄せられたため、両社は「持ち株会社」の子会社化され、しばらく独自の運航を行っていたが、10年にノースウエスト航空は完全にデルタ航空に吸収され、消滅した。

機材と従業員はそのまま移籍することになり、路線も継承された。

統合直前にはDC-10の後継機としてA330を導入し、日本線にも投入していたが、晩年では東京~シアトル線などでDC-10が最後の活躍を見せてファンを喜ばせている。

同機は統合発表直前にB747-200とともに全機が退役したが、日本航空よりも長生きであった。

統合後、デルタ航空はそれまで運用実績がなかったB747-400・A330を入手したことで、日本を含むアジア広範囲の以遠権を含む営業権も手に入れたことになる。

1Z NORTHWEST_A330-223_N851NW,_AMS_Amsterda_PP1165934332.jpg

1Z NORTHWEST_A330-323X_N802NW,_AMS_PP1164914103.jpg

1Z NORTHWEST_A330-323X_JP485143.jpg ←(3枚)DC-10の後継機として導入したA330-200/300は、同社にとって初めてのエアバス製ワイドボディ機だった。晩年の導入だったため新塗装以外ない(ウィキペディア英語版より)

国内線でも、デルタはDC-9/MD-80シリーズを運用していたので、老朽機を除いてしばらく継続して運用した。

しかし10年代になると、デルタ航空は日本市場で利益が上がらないとの理由で日本線の縮小を開始。

アジアでの拠点を韓国ソウルのインチョン空港に移す事になり、長年運航して来た路線の整理が行われれた。

更に今年になって、デルタ航空は成田を撤退。東京線は全て羽田に集約させることになった。

1Z Northwest_Orient_Airlines_B757-251;_N519US,_May_1987_(5876319440).jpg

1Z NORTHWEST-B757-251,_Northwest_Airlines_AN0151667.jpg

1Z NORTHWEST B757-200_(7116032349).jpg

1Z NORTHWEST_B757-300_(385585503).jpg

1Z_Northwest_Airlines_B757-351;_N591NW@LAS;15.03.2005_(5237665579).jpg ←(4枚)B727の後継機として導入されたB757-200と国内幹線用に導入されたB757-300。200型は日本からのアジア線でも運航されていた。300型はデルタ航空に引き継がれ、現在も全機現役にある(ウィキペディア英語版より)

また日本では人気のあったミクロネシア線なども殆ど撤退し、ノースウエスト航空が築いて来た日本の基盤を、悪く言えば全て「ぶち壊し」にかかっている。

以遠権を使ったアジア・ミクロネシア線は日本人にも人気で、80年代には本土からわざわざB727を回送し、成田に2~4機を常駐して運航していた。

その後B757、A320が変わって日本に常駐していた。

デルタもミクロネシア線にB757を常駐させていたが、既に撤退させている。

ノースウエストの場合は、ミクロネシア線の他、ソウルや北京、香港線などもこれらの機材で運航していた。

建前上では「東京経由」の便として運航し、乗り換えるというやり方である。

もちろん東京からアジア・アメリカへ区間利用が可能で、と言うよりも利用客の殆どがそうだった。

アメリカのエアラインのサービスは、何かと問題が多く、今でもSNSで「炎上」する事が多いが、その中で同社は比較的クレームが少ない事でも知られていた。

「おもてなし」の日本のエアラインと比べると、やはり「アメリカン」なのだが、客室乗務員には古くから日本人を多く採用し、彼らの意見を反映させたサービスが行われていた。

ただ晩年では古い機材に対するクレームは多かったそうで、そこは「もったいない」「大事に使う」と言うポリシーへの反発だったのかも知れない。

それでも日本人だけでなく、韓国・中国・台湾、そして東南アジアでも同社の評判は相対的に良かった。

便数が多く、乗り継ぎも便利に設定されていたし、独自のマイレージサービスも人気があった。

同社の塗装も特徴的である。

初期は個性のないシンプルなものだったが、尾翼が赤く塗られていたのが大きな特徴だった。

これは諸説あるが、同社の本窮地ミネソタ州は冬の気候が非常に厳しい場所で、雪が多い地域。

万が一事故を起こしたりの他、視界が悪い時でも視認しやすいように赤い尾翼にした・・と言われている。

1Z _Northwest_Airlines_B747-400 NGO_08JUL01_(7026965685).jpg ←旧名古屋空港に乗り入れていたB747-400(ウィキペディア英語版より)

70年代B747から採用された塗装は胴体は白と紺、機体の「地肌」を利用した銀と、いささかまとまりのないデザインだったが、980年代になると胴体上部から尾翼までが赤になり、胴体側面はチャコールグレー、下部は白と大胆な塗装に変更された。

赤とグレーと言う、デザインとしては通常考え付かない色調であるが、赤が非常に目立つ色調でもあった。

恐らく赤をより目立たせるデザインとして採用したのだろう、なるほど遠くからでもノースウェスト機と分かる良くできたデザインであった。

見慣れて来ると実に格好良く見え、どの機体にも似合うデザインであった。

1Z DC-10-30 NORTHWEST N240NW_(20459282134).jpg

1Z-Northwest_B747-251B.jpg

1Z-B747-251B_Northwest_Airlines_PP1160900241.jpg

1Z NORTHWEST-N661US_B747-451_Northwest_Airlines_NRT_21MAY03_(8439823437).jpg ←(4枚)新塗装(最終塗装)のDC-10-30、B747-200、B747-400(ウィキペディア英語版より)

00年代には短期間であったが、再び全面的な変更を行い、胴体はシルバーと言うよりも「パールグレー」に近い光沢のあるグレーになった。

赤は尾翼だけに戻ったが、ロゴマークが胴体前部に大きく移され、それまでの「NOTHWEST」から略号の「nwa」に変わった。

マークは円の左上に楔形と言う妙な形だが、これは楔型が「ノースウエスト」つまり北西方向を指している。

なお70年代Kら80年代前半にかけて、機体のロゴには「NORTHWEST ORIENT」と記入した機体が多く見られたが、これは「ORIENT」、日本を含むアジアに強いエアラインを宣伝するためのものだった。

社名が変更された訳でなく「宣伝」のため、と言うのは当時としては非常に珍しい事例だったが、やはり社名変更と勘違いされることが多く、記入されたのは国際線機材のB747/DC-10の一部だけで、短期間で取りやめになった。

日本でも当時は「ノースウエスト・オリエント航空」と紹介された時期があったが、あくまで「ノースウエスト航空」が正式名称である。

だがこんなことまでするというのは、同社が日本を含むアジアに特別な思い入れがあったと言う事でもある。

古い機体を直しながら大事に使い、社員にもそれを意識させるのは、日本人の習慣を摂り入れた結果である。

1Z-B747-222B(SF),_Northwest_Cargo_JP333380.jpg ←旅客型を改造して貨物型で運用されたB747-200SF(ウィキペディア英語版より)

今こそコスト削減と言って、まだまだ使える機体をさっさと退役させてしまう事が多いが、同社はそういうやり方をしないエアラインであった。

乗客には「ボロいエアライン」と思われることもあっただろうが、決して汚ない状態で飛ばしていた訳ではない。

その反面80年代半ばには、国内で大きなシェアを持ってたリパブリック航空を買収するなど、お金をかけるところではかけているのである。

でたらめに拡大しようと投資するのではなく、普段はコストをセーブして「貯金」し、ここぞと言うところで・・と言うのは、まさに日本人の経済観念に共通するのではないか。

それでいながら大規模なエアラインだったのだから、方向としては間違っていなかったという事だ。

デルタと統合された時点で、保有機は365機、内外合わせて255都市に就航させていた。

最近SNSなどでは若いファンが「デルタのA350」がとか「成田撤退」などを話題にする事が多いが、残念ながらその歴史にノースウエストがあることを知らない世代が多いようである。

赤い尾翼が日本から消えて10年以上経つが、それほど昔ではないにせよ忘れ去られてしまった。

1Z NORTHWEST-N661US_1_B747-451_KIX_11JAN99_(6559458855).jpg

1Z NORTHWEST B747-400-N661US_LLBG.jpg ←(2枚)B747-400の初号機「N661US」は、デルタ航空でも使用された(ウィキペディア英語版より)

数年前には、デルタ航空がB747-400を引退させ、その初号機を博物館に保存・展示したことが大きな話題となったが、オールドファンにとっては、なぜデルタが「我々が遺す」みたいな顔をしてるのか・・と思ってしまう。

同機はノースウエストがローンチして世に送り出した記念すべき初号機であり、讃えられるのはノースウエストだと思うのだが・・・。

同社が消えて残念だと思う利用者は、実際に多かった。

時代の流れは仕方ないとして、デルタ航空はその功績を奪い去ってしまっているように思えてならないのは私だけだろうか。





昼間は暑くとも、夜は空気がひんやり感じる程で気持ち良い。

既に半袖など薄着になった人も多いだろうが、朝晩はまだ気温が低いので上着や長袖が必要だろう。

気温差が大きいので体調に注意が必要だけど、過ごしやすくもある。

仙台の梅雨入りの平年は6月12日。

今年は早くから梅雨前線がくっきり現れており、西日本では前半を中心に大雨の恐れもあると言う。

コロナは落ち着きを見せているが、単なる「引き潮」の可能性があり、規制緩和で油断したら大変だ。

そこに自然災害が重なったら、今度こそ本当の「国難」になるだろう。

歴史を見ても、疫病・災害は連続することがある。

特にこれから秋の初めにかけては、雨・台風の季節でもあり、昨年甚大な被害を出した台風は記憶に新しい。

私見だが、この1~2カ月、全国で地震が多いのも気になる。

緊急地震速報が出る地震も数回発生しているが、特定の地域ではなく、全国的だと言う事。

幸い被害が出やすい震度5以上の強い地震はないが、震度4は頻発している。

先日には岐阜県と長野県の県境付近で、群発地震が発生している。

それがどうとは言わないけれど、いつも言うように大地震は5~6月に何故か集中しやすい傾向がある。

コロナに気を取られて、防災意識が疎かにならないように。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

少し汗ばむ初夏の陽気が続いていますが、暑さは大丈夫ですか?

君もここ数日は、半袖姿で過ごしたかも知れません。

でも朝晩は冷え込むので、気をつけて下さい。

5月は今日で終わり、明日から6月です。

コロナの影響は、少しずつ解消しているように見えますが、今後も油断せず注意を続けて下さい。

飲食店が自粛でリラックスできませんが、明日以降再開や通常営業に戻る店も多いようです。

君も久し振りにティタイムを取ることも、できるようになるかも知れません。

新しい1カ月を、君が健康で幸せに過ごせますように。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



紫草の 草と別く別く 伏する鹿の 野は異にして 心は同じ(万葉集巻十二 3099 物に寄せて思を陳ぶ)


月命日 5月28日 晴れ 25℃

初夏の日差しが眩しく、爽やかな陽気。

昨日よりも雲も少なく、明るい空が覆った。

でも日差しは強く、喜んでばかりいられないが、うっとうしいよりは遥かに良い。

家の中も窓を開けていれば風通しがあって気持ち良く、過ごしやすい。

今朝はガスの点検作業があってゴタゴタしていたけど、予定通りで問題なし。

業者の作業員が2人組みで一軒ずつ、ガス漏れや器具の点検を行う。

確か毎年ではなく、2年に一度くらいのペースだと思ったが、コロナの影響で大変だろう。

一定の落ち着きを見せているとはいえ、家の中に入っての作業。

中には、まだ嫌がる家庭もあるのではないか。

ご近所はスムースに終わったようだが、地味で大変な作業だ。

考えたら今週いっぱいで5月は終わりなのである。

ちょっと気が早いけれど、6月は1年の半分。

口にするのは1カ月先が適当だけど、もうそんな時期を迎えるのだ。

だがコロナに翻弄されて、今年は誰もが季節感を味わう事が出来ない。

桜もそうだったが、季節感を感じることが何一つできていない。

卒業式・入学式・新学期、何一つできなかった。

桜も満足に見れず、高校野球もプロスポーツも消えた。

オリンピックも延期されたが、1年後に本当に開催できるのか・・みんなそう思っているだろう。

落ち着きが見えたところで、社会は少しずつ動こうとしているが、感染者の増加は決して収まっていない。

報道にもあるように、3週間ほど全く感染者が出なかった北九州市では、ここ数日急に増え始めた。

20~30人程度ではあるが、感染経路が不明で、再び拡大が懸念されている。

隣接する人口の多い福岡市などに飛び火する可能性もあり、油断は出来ない。

コロナの騒ぎが始まったのは、横浜のクルーズ船。あれはもう2月のことだ。

連日報道されていたが、まだ人ごとだった。

あれから間もなく4カ月も経とうとしていることに、別の意味で驚いてしまう。

確かに街でも、行政より先に、3月の初めには飲食店などが時短営業などの自粛を開始しており、いつしか長期戦になった。

私は極端な恐怖感まではなかったけれど、意識しない日はないし、今でも不安感は大きい。

今月は「令和」になって1年が経つ記念すべき時だったのに、GWの緊急事態宣言にすっかり飲み込まれて忘れてしまった。

日本は春先から今頃が最も過ごしやすく美しい時期なのに、コロナは全てを覆い尽くした感がある。

今更だけど、まさに「コロナのばか」である。


今日は28日。母の3年2カ月の月命日。

早いと思う以上に、人生の中でこれほど「記憶にない」年月は初めてだ。

人はいくら家族でも、これだけ時間が経てば良い意味で忘れると言うが、私にはできない。

家もあの日以来、殆ど変わっていない。

母の愛用品も、殆ど同じ場所に置いてある。

汚れると悪いから、一部は箱などに入れてしまったけれど、場所はそのままだ。

でも私一人だと、できる限りは頑張っているけれど、家の中は汚れていると思う。

もちろんありがちな「ゴミ屋敷」になど一切なっていないけど、母のようにマメに掃除をしないので・・。

自分ではまあまあ綺麗にしていると思っているけれど、母が見たらきっと汚ないと文句を言うだろう。

母の衣服も、本人が使っていた時と同じように畳んで重ねてある。

1カ月に1回の割合で洗濯している。

未練がましいとか、子供じゃあるまいし・・と人に言われたとしても、構わないと思っている。

そう言われたことはないけれど。

でもコロナの流行で、母がいたらお互いかなり不安だっただろうなとは思う。

母は家から出ずとも良かっただろうが、私が外からウィルスを知らずに持ちこんで・・と言ったこともあり得たかも知れない・・なんてこのごろ思う。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

暑さは大丈夫ですか?

朝晩は気温が低いので、外出の際には服装に注意して下さい。

今日は母の月命日でした。

君はもう、母の顔は覚えていないかも知れません。

最後に会ったのは、9~10年も前のことでしょう。

いつも言う通り、母は亡くなる直前まで君の事を気にかけていました。

だからと言ってどうにもなることではないし、君にとっては迷惑なことだと思いますが、もしうろ覚えでも顔を覚えていたら、心の中で手を合わせて頂ければ、と思います。

きっと母は喜ぶと思いますので。

初夏のさわやかな陽気が続きそうですが、気温差も大きいので体調管理には気をつけて下さい。

日中は半袖で過ごすかも知れませんが、1枚羽織るものも持っていた方が良さそうです。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




極まりて 吾もあはむと 思へども 人の言こそ 繁き君にあれ(万葉集巻十二 3114 問答歌)

飛行機ネタ 「様式の変化」に移るカンタス航空(5月27日 曇り時々晴れ 26℃)

もう少し青空が・・と思う。

日差しはあるのだけれど、雲の方が優勢で薄日と言う感じだ。

変わりやすい天気で、市内では早朝にわか雨が降った時間もあったし、午後には県内全域に雷注意報が出た。

湿った空気が入っているため、雲が多めの天気だった。気温は平年並みだが、湿度が少し高めだ。

街では半袖姿で歩く人も僅かに見られるが、まるごと半袖と言うほどではない。

見かけたのは女性だったから、恐らく羽織るものを持ってのことだろう。

向こう1週間、気温は21~25℃程度の予想が出ているから、日中に関しては薄着で充分だろうが、朝晩は12~15℃くらいだから1枚あった方が良さそうだ。

いつの間にか5月は最終週。

来週からは「衣替え」で、ついに「夏」が目に見えてくる時期。

コロナの影響で休校が続く学校も、臨時登校と言う形で少しずつ再開しているが、現時点では6月初旬から正式に再開する見込み。

自治体によっては既に再開しているが、制服の中高生特に新入生は、初めて着る制服は「夏服」からになりそうだ。

昨日緊急事態宣言は全て解除されたが、コロナは収束していない。

国民は「新しい生活様式」に変えようと頑張っているが、人の流れも当然増えつつあり、再び感染拡大の可能性は否定できない。

いつまでも「自粛」している訳にもいかず、コロナ前のように戻る訳にもいかず、当惑の日々が続くのだろうか。

いつかは「あの時は大変だったなあ」と言う歴史になるのだろうけど、今年は季節を噛みしめる余裕がない様に思う。

メディアは自粛を逆手に、「こんな時だからこそ」と家での過ごし方を宣伝するが、世間はうわの空だったのではないか。

家に籠ることが多くなり、外での季節感自体分かりにくくなってしまった。

コロナが落ち着いたかどうかわからないが、仙台では6月から学校だけでなく、時短営業中だったお店も通常営業に戻す予定のところも出て来た。

また利用者減少で休日ダイヤで運行しているバスや地下鉄も、通常に戻る予定だ。

日本人は警戒感が強いけれど、欧米では緩和されたとたん観光地や商業地に人が押し寄せ、マスクをするのも止める人が多いと言う。

関東や関西では、厳しい自粛が終わり、同じように街には人が増えた。

大丈夫だろうか・・と思うのは、私だけでないだろう。

北九州市では、約3週間感染者が出なかったのに、ここ数日急に数人ずつ発生し始めた。

緊急事態宣言解除を受けて、市内の公共施設が再開したばかりだったが、僅か1日で再び休業になったと言う。

人口が多い地域なので、隣接する福岡市などに飛び火する可能性もあるだろうし、まだまだ警戒感を緩めてはいけないと言う事だろう。



飛行機ネタ。

南米チリに本拠を置く「LATAM」航空が、アメリカ連邦裁判所に「連邦破産法11条(チャプター11)」を今日付けで申請、事実上破綻した。

本国チリの他、ペルー・エクアドル・コロンビア・アメリカの関連会社を含めた申請だが、アルゼンチンやブラジルのグループ会社はその範疇に入っていないと言う。

コロナによる長期運休で大きな赤字負債を抱え込んでおり、今後再生を目指す。

同社によれば、今後政府を含む多方面からの支援策を受け入れ、コロナ後速やかな運航再開に備えるとしており、倒産及び全面運航停止にはならないことを強調した。

「LATAM」はブラジルの大手「TAM」航空を統合してできた南米最大のエアライングループで、元々はチリのフラッグキャリア「LANチリ航空」である。

先日ライバルであるコロンビアの「アビアンカ航空」も、チャプター11を申請しており、中南米の大手2社が揃って破綻したことになる。

またヨーロッパ最大のエアライン、ドイツのルフトハンザも破産申請を視野に入れていたが、ドイツ政府が数千億円規模の融資・支援を決定したことで破綻は回避された。

今回の騒ぎは大手程打撃が大きく、日本航空や全日空も既に数百億円の赤字を出していると言われ、今後売り上げが伸びないと早ければ1年後には手持ちの資金が底を尽くと言う噂も流れている。

世界的流行であるため、今後需要が「コロナ前」のように戻ることは困難で、少なくとも数年以上かかるとも言われている。

だがエアラインは国の国策事業としている国が多く、単にお金の問題で経営が左右される訳にはいかない国も多い。

今のところ経営不振の噂は出ていなくとも、危うい状況にあるのはどこも同じだ。

気温が高くなったせいか。北半球のコロナは減衰傾向を見せているが、逆に南半球を中心に感染拡大が続いている。

WHOも「流行の中心は南米とアフリカに移った」と指摘したように、ブラジルではこの1カ月で感染者・死者とも世界3位にまで上昇した。

アフリカ諸国も、数はまだ少ないものの、各国への拡大は広がっている。

これから気温が下がり空気が乾燥する冬を迎える南半球は、流行のピークを迎えると言う見方もある。

その中で戦々恐々としているのがオーストラリアだ。

ご存じの通り、オーストラリアは世界で唯一「1大陸1国」で、面積は約769万平方キロ。大陸としては世界最小だが、それでも日本の19倍もある。

そこに人口は僅か約2.500万人で、そのほとんどが東部に集中している。

いわば国自体があまり「密」になっていないのだが、これまでにコロナの感染者数は約7,100人、死者数は102人と比較的低い水準が続いている。

感染者のうち9割の人は既に回復し、社会復帰しており、入院・治療中の患者は1,000人を切っている。

大都市が数か所しかないことや、東部と西部・北部は2~3,000キロも離れており、元々人の移動が少ない事が感染拡大を防いでいると思われるが、政府は冬を迎えるこれから「第二波」が来るのでは、と警戒を強めている。

国内では州を越えての移動が自粛されており、交通機関も間引き運航を継続している。

3月に日本初就航を予定していた、オーストラリア第二のエアライン「ヴァージン・オーストラリア」が直前に経営破綻・運休になり、現在大手のエアラインはフラッグキャリアである「カンタス航空」だけになっている。

同社のウェブによると、国内線は週辺り60便前後だけの運航で、国際線はニュージーランド線と海外滞在の帰国者のための臨時便以外、6月末まで全て運休を予定している。

ヴァージン・オーストラリアは売却を探しており、中国系のエアラインやシンガポール航空が興味を示していると言われており、もし復活すれば再びカンタス航空のライバルとなるが、同社の目下の脅威は冬場のコロナだとしている。

1X QANTAS B747-400ER-VH-OEJ_LAX_(36386785496).jpg ←カンタス航空だけが保有するB747-400ER(ウィキペディア英語版より)

日本でも人気で馴染み深いカンタス航空は1920年に設立された、世界で3番目に古いエアラインである。

今年は設立100周年と言う、驚くべき金字塔が建つ記念すべき年だったが、コロナに完全に水を射された格好だ。

当初は北東部クイーンズランド州の砂漠地帯にある小さな町、ロングリーチで開業し、郵便輸送や観光飛行を行う会社としてスタートした。

その後都市部への不定期旅客飛行などを手掛けるようになり、34年にイギリスのインペリアル航空(ブリティッシュ・エアウェイズの原形)と共同出資と言う形で新たに「カンタス・エンパイア・エアウェイズ」を設立し、本格的なエアライン事業を開始した。

「QANTAS」(カンタス)と言うのは造語で、「Queensland And Northernterritory Aerial Transport Services Ltd」の略。

今でこそクイーンズランド州や北部準州は、熱帯地方に属し、海岸部は州都ブリスベンを始めビーチリゾートとして人気だが、当時は砂漠とジャングルだけの「へき地」であった。

ブリスベン自体は港湾都市として発達していたが、それ以外は人跡未踏の地域で、いわばへき地事業から始まったと言える。

本格的事業に移行したことで、本拠地をシドニーに移し、イギリス製の「デ・ハビランドDH.86ドラゴンラピード」などでシドニー~メルボルン間などの運航を開始した。

1X QANTAS DH86-VH-USE.jpg ←初めて定期便として運航したDH.86(ウィキペディア英語版より)

更にブリスベン~シンガポール間で、最初の国際線を開設した。

この路線はインペリアル航空との共同運航で、シンガポールでインペリアル機に乗り換える航路である。

最も当時は長距離飛行・夜間飛行は不可能だったから、ブリスベン~ロンドン間は実に12日間。途中31か所も経由しての長い旅路であった。

38年には同じくイギリス製の4発大型飛行艇「ショート・エンパイア23」が導入され、長距離飛行が可能になり、行程は「9日間」に短縮された。

1X QANTAS SHORT EMPIRE-VH-ABBcrop.jpg ←オーストラリア~イギリスを結んだショート・エンパイア飛行艇(ウィキペディア英語版より)

今ではとても考えられない話だが、船が長距離移動の主役だった時代、この行程は驚異的な早さだった。

船だとインド洋を横断し、アフリカ大陸を絨毯するように北上。スエズ運河を通過してようやく地中海だから、通常1カ月近くかかっていた。

スエズが開通する前は、アフリカ大陸南端の喜望峰経由だったから、更に時間を要した。

これらの巡航速度は250~300キロ前後で、新幹線よりも遅いが船より10倍は早い。

飛行艇だったのは、空港を必要としない事と、当時は港湾が発達していてホテルなどの設備が整っていたからだ。

乗客は1日中飛んで「寄港地」に着くと、夜はそこのホテルに宿泊し、翌日次の目的地に向かう。

荒天で海が荒れると運休になるから、よほど運が良くないと予定通り着くことがなかったと言う。

第二次大戦中は、日本との戦争で運休を余儀なくされるが、イギリスとの関係が強いオーストラリアにとって、エアラインは「命綱」とも言える重要な輸送機関になっていた。

オーストラリア~東南アジア~イギリスは「カンガルールート」と呼ばれ、同国では最も重要かつ利用率が大きいルートとして現在まで運航が続けられている。

孤立した地勢から、カンタス航空は長距離飛行が必然であり課題であった。

大戦後になると48年にはアメリカからロッキード「L-1049スーパーコンステレーション」を導入して、「カンガルールート」に投入した他、北米線も開設した。

日本には48年にDC-4を持ちいて岩国に初就航し、52年からは羽田に就航した。

岩国は現在も米軍基地があるが、戦後直後の同基地にはアメリカ軍だけでなく、イギリス軍やオーストラリア軍も進駐していたので、そのための就航であった。

1X-QANTAS_DC-4-1009_Wheatley.jpg

1X QANTAS-Lockheed_L1049_VH-EAK_Qantas_LAP_04.06.55_edited-2.jpg ←(2枚)DC-4とL-1049(ウィキペディア英語版より)

60年代にはいち早くジェット化を推進させ、B707を導入し、カンガルールートと北米線を繋ぐ「世界一周」路線も開設した。

70年代にはB747の他、超長距離仕様のB747SPなども導入し、世界で最も長距離機の比率が多いエアラインの一つであった。

また国内も広大ながら、人口が東西南北に偏っており、相互の行き来にも飛行機は欠かせないことから、同社の経営は比較的盤石であった。

70年代までは、株式の半分を政府が保持する「半官半民」のエアラインだったが、その後民営化された。

1X-Qantas_B707-300_SYD_Wheatley.jpg

1X QANTAS_B747-200_EMA_04-06-1978_(19528667146).jpg ←(2枚)世界に「カンガルー」を広めたB707-320BとB747-200B(ウィキペディア英語版より)

それでも株式の一部は政府が所有するとともに、半分以上をオーストラリア人が保有すると言う法律が定められているため、今も半官半民の性格が強い。

90年代にはニュージーラン度にも現地法人を設立し、南太平洋路線などを運航していたが、ニュージーランド政府が市場の独占を申し立てたため、経営権は移譲している。

日本では「バブル経済」で海外旅行が定着し、オーストラリアも人気の旅行先となり、00年代にかけては日系エアラインも定期路線を開設している。

1X QANTAS_B747-300_(7131216639).jpg

1X QANTAS-B747-338_AN0698439.jpg ←(2枚)20年以上主力機として運用されたB747-300。400導入後は座席数を増やして中距離運用に転じ、10年以上日本線の主力として飛来した。エンジンはロールス・ロイスRB-211(ウィキペディア英語版より)

だが両国間の関係は、観光よりも経済的な結びつきが強く、観光客の需要は変動しやすいことから、現在ではオーストラリア側だけの運航が続いている。

国内や近距離国際線では、路線がどうしても限定されてしまう事から、カンタス航空以外の大手エアラインは育ちにくいと言う同国ならではの事情もある。

事実国内には小規模のリージョナルエアラインは複数存在するものの、幹線や長距離国際線の競合相手はない。

00年代まではカンタスは主に国際線、そして国内線を専門に運航する「アンセット航空」とのすみ分けができていたが、規制緩和でアンセット航空が国際線に進出すると、カンタスは同じ区間に新たに安い運賃で運航したりと露骨な妨害らしき手段を使ったりした。

ただ長距離機を維持するのは、資金力だけでなく乗務員の確保や整備力も問われることから、戦前からそうした事業を行ってきたカンタスに太刀打ちできない事実もあった。

良く言われるのが、同社は創立以来死亡事故を一度も起こしたことがない・・と言う記録だ。

これは国内を含め、どこへ飛ぶにも長距離飛行となる運命が、同社の乗務員や整備士のクオリティをトップレベルまで引き上げたことである。

1X QANTAS B737-400-VH-TJR_taking_off_from_Canberra_Airport_June_2013.jpg

1X-QANTAS B737-400_JP489921.jpg ←(2枚)90年代国内線用に導入されたB737-400(ウィキペディア英語版より)

それが絶対的自信に繋がっているようで、他社の追随を許さない基盤に成長させたのと同時に、オーストラリアでのエアラインビジネスは成り立ちにくい・・と言う構図も引き出している。

「ヴァージン・オーストラリア」は、名前の通りイギリスに本拠を多く「ヴァージングループ」のエアラインだが、元々はLCC「ヴァージン・ブルー」として設立されたエアラインだった。

同社は国内と近距離国際線の他、ニュージーランドやサモアに現地法人を設立し、人気を得たが、カンタスは対抗策として「ジェットスター」を立ち上げ、シェアを即座に奪い返した。

結果「ヴァージン・ブルー」は「ヴァージン・オーストラリア」に変更するとともに、LCCから「準LCC」に戦略を変更し、長距離便では比較的安い運賃を設定しつつフルサービスと言うエアラインに変わっていた。

機材も中古機で賄い、コストを削減していたが、カンタスのシェアを取り返すまでにはいたらなかった。

1X-Qantas_B747-400_VH-OJM_NRT_(19049438554).jpg

1X QANTAS-B747-400_AN1578296.jpg

1X QANTAS B747-400_OneWorld_Logo-jet_(6600558667).jpg ←(3枚)最近退役したB747-400(ウィキペディア英語版より)

カンタスと言えば赤いテールに白ヌキの「カンガルー」がシンボルで、シンプルながら私も好きなデザインなのだが、このカンガルーも実はカンタスが商標登録をしている。

遠くから見ても一目でオーストラリアのエアラインであることが分かる秀逸なデザインだが、カンタス以外で使う事が出来ない。

別にカンタスがカンガルー自体を独占・保有している訳でもないのに、カンガルーマークは同社だけの「オリジナル」なのである。

思い込みとは面白いもので、このカンガルーは輪郭だけをデザインした「線画」でありながら、誰もがカンガルーだと思ってしまう。

70年代までの塗装ではカンタスのイメージに合わせ、カンガルーの背中に「羽」がついていたのだが、意外と印象に薄い。

にもかかわらずカンタス=カンガルーと思わせているのは、さすがとしか言いようがない。

加えてカンタス=オーストラリアのエアラインと言う認識は、世界共通であり、同国へ出入国する人の3割以上が同社の利用者とも言われている。

1X QANTAS-B767-238-ER,_Qantas_AN0330662.jpg

1X-B767-238-ER,_Qantas_AN0375840.jpg

1X QANTAS_B767-338(ER)_Qantas_(8184925468).jpg

1X QANTAS_B767-338(ER)_Qantas_(7423955214).jpg

1X-Qantas_B767-300ER_Disney_Planes_3.jpg

1X-Qantas_B767-300ER_MEL_Koch-1.jpg

1X QANTAS-B767-338ER,_Qantas_AN0688061.jpg ←(7枚)日本線を中心に中距離線の主力として使われたB767-200ER/300ERとビジネスクラスのキャビン。07年からは「QANTAS」の書体が変更された(ウィキペディア英語版より)

近年では国内線や近距離国際線を、子会社の「ジェットスター」に移管することで、カンタス自体のシェアは若干落ちているが、グループとしては逆にシェアを伸ばしている状況にある。

オーストラリア人は、旅行好きが多い事でも知られる。

国内は雪の降る地域から砂漠、ジャングルに至るまで観光要素は全て兼ね備えているはずだが、孤立した場所のせいか、海外に出る人が多い。

逆に観光やビジネス、留学先として外国人にも人気のオーストラリアだが、共通する感覚は文化が平坦である事らしい。

「インバウンド」需要で、日本への外国人観光客が増加して久しいが、人数としては中国人・韓国人が最も多くを占めるものの、アメリカ人とオーストラリア人の訪日数も非常に多い。

東京や京都では、欧米人の1/3程度がオーストラリア人と言われるほど日本へ旅行しにくる人が多い。

しかも何度も来るリピーターが多く、多くは食べ物や街の多様さを理由に挙げる。

1X QANTAS B767-300ER-Australian_Airlines_Pichugin-1.jpg ←格安ブランドとして運航したオーストラリアン航空。のちにジェットスターに整理された(ウィキペディア英語版より)

大陸文化と言う部分があるのだろうが、食べ物は総じて「まずい」と言うのがオーストラリア。

これは旅行で行った日本人だけでなく、当のオーストラリア人が認めている。

店の数も少ないばかりか、コンビニですら日本は比較にならない程種類が豊富で、食べ物は個人的な嗜好を別にすれば、何を食べても手がかかっていて美味しく、そして安いと賛美する人が多い。

1X QANTAS_B747-300_Qantas_in_Nalanji_Dreaming_Colours_(8336714403).jpg

1X-Qantas_B747-438ER_(VH-OEJ)_at_Sydney_Airport.jpg

1X-Qantas_B737-800_Yananyi_Dreaming_Finney.jpg

1X-Qantas_B737-800_Yananyi_Dreaming_Finney-2.jpg ←(4枚)先住民アボリジニ伝統工芸をイメージした特別塗装機。B747-300「ナラニ・ドリーミング」、B747-400ER「ナランジ・ドリーミング」、B737-800「ヤナニ・ドリーミング」(ウィキペディア英語版より)

1大陸1国が、一種の「鎖国」的な気分になってしまうのだろうか、休暇と言うと海外に行く人が圧倒的に多いと言う。

人気があるのは言葉の壁がないイギリスやアメリカ、カナダだが、いずれもオーストラリアから最も遠い地域に当たる。

一方日本は飛行機で8~9時間程度で済み、気候も良く治安も良く、そして「時差」をあまり気にしなくても良いのが人気の理由だそうである。

イギリス行きは、上記のようにカンタス航空にとっては伝統的路線であり、オーストラリアにとっては親子関係に近い立場にある。

その距離はシドニー~ロンドン間で17,000キロ以上になるため、現代でも直行は不可能だ。

ロンドン線はシドニーの他、北部のブリスベン、南部のメルボルン、西部唯一の大都市パースからも路線があるが、全てシンガポールを経由していた。

その時間は、実に24時間前後。気象条件等によってはそれ以上かかることも珍しくない。

1X-Qantas_Airbus_A300B4-203_PER_Wheatley.jpg ←トランス・オーストラリアン航空から編入したA300-B4(ウィキペディア英語版より)

北米線も、かつては太平洋上のラロトンガなどの島嶼を経由して15~18時間ぐらいかかっていた。

どこへ行くにもこの調子だから、日本を含むアジアは「お隣さん」に近い存在である。

オーストラリア人も慣れたもので、ロンドン線では搭乗するとそれまでの「よそいき」の服をさっさと脱いで、「部屋着」に着替えてしまう。

本来マナーと言う点から言えば、機内で部屋着になることは常識外なのだが、カンタス航空は黙認している。

靴も脱ぎ、子供たちは部屋着どころかパジャマになってしまう。

まるで家でくつろぐのと同じだが、そうでもないと長時間機内で過ごすのは苦痛になってしまう。

1Y-Qantas_B747-400,_SIN.jpg

1X-Qantas_B747-400ER;_VH-OEI@SYD;06.07.2012_661bw_(7744476194).jpg ←(2枚)長時間飛行の中核だったB747-400と400ER(ウィキペディア英語版より)

同時にカンタス側も、シンガポールを経由すれど、退屈しないように飲食物を大量に積み込む必要があり、大型ワイドボディ機は必須である。

ところが最近になって、長年の慣習が変わりつつある。

17年から導入した「B787-9」である。

同社は00年代まではボーイング党で、エアバス機の導入は殆どなかった。

92年に統合した国内専門エアランの「オーストラリアン航空」が運用していたA300を、一時引き継いで運用していたが、短期間で退役させていた。

一方B747は200型から300,400型まで全て導入しており、00年代には航続距離を伸ばした「400ER」まで導入している。

同機は400型に燃料タンクを増設したタイプで、カンタスが6機発注・生産された「レア機」であるが、一貫して747にこだわって来た。

1X-B747-400ER,_Qantas_AN0476373.jpg

1X-Qantas_B747-400ER_SYD_Li_Pang.jpg ←(2枚)長距離長時間飛行のために「特注品」となったB747-400ER。カンタス航空だけが導入したレアモデル(ウィキペディア英語版より)

中距離用はB767で、200・300型とも「ER」を導入。中距離線の主力として運用し、日本線でもお馴染みの機体だった。

国内線用ではB737-400からB737-800と連続しており、現在もB737-800は70機以上保有している。

しかしB767の老朽化が始まったことで、同社としては初めて新造機でA330の導入に踏み切り、エアバス機の併用が始まった。

ところがB787はもちろん、長距離機として既に定着していつB777も1機も発注してこなかった。

これは国際線は全て洋上飛行であり、長距離飛行であることが双発機の導入を阻んだと言われている。

今更双発機への不信感はないだろうが、万が一・・と考えると、長距離機は4発機・・と言う考えが捨てられなかったのだろう。

1Y QANTAS B787-9-VH-ZNA@HKG_(20190302160612).jpg

1X-Qantas_B787-9(Yam_Dreaming_Livery),_VH-ZND_(49596942288).jpg ←(2枚)カンタスの伝統と概念を変えつつあるB787-9。下は「ヤム・ドリーミング」の特別塗装機(ウィキペディア英語版より)

しかし業界の多様化、採算性の低下は現実的で、16年ついに15機のB787-9を発注し、17年から運用を開始したのである。

15,000キロに及ぶ同機の長距離性能を活かし、同社は西部のパースからロンドン行きの「ノンストップ便」を初めて同機によって就航させたのである。

さすがにシドニーやメルボルンからは無理だったが、これまでシンガポールを経由して20時間以上かかったパース~ロンドン線が、一気に3時間短縮され、17時間で到達できるようになった。

最もシドニーからだとパース乗り換えで、結果的に24時間かかるため、シドニー・メルボルン~シンガポール~ロンドン線は継続している。

だが国内では例えパース発としても、イギリスまでノンストップ運航は驚きを持って迎えられたのである。

国民にとってはB787の凄さが、半ば信じられないと取られた様である。

1X-Qantas_B787-9_Dreamliner_VH-ZNJ_(100th_Anniversary_livery).jpg ←創立100周年記念塗装のB787-9(ウィキペディア英語版より)

カンタス航空にとっても初めてのことであり、長時間飛行に対しての対応も特別に行う事にした。

それは乗務員に特別な訓練を受けさせ、「エコノミー症候群」への対応を準備する他に、飛行中乗客には適宣な水分補給を「管理」するようにしている。

水や炭酸水の他、オリジナルの水分補給ドリンクなどを大量に用意し、乗客からリクエストされずとも飲用を進めたり、果物なども頻繁に提供するなど、狭い機内で長時間飛行のストレスに備えている。

現在同社では北米線にも同機を導入し、ロサンゼルス経由ニューヨーク便も運航するまでになっているが、今後ニューヨーク線に関しては直行を計画している。

実現するとパース~ロンドン線より長距離となり、20時間近い飛行になることから、実際にB787-9を飛ばし乗務員や社員だけでテスト及び訓練を行っている。

キャビンは座席数を減らし、空間を少しでも拡げる工夫も考えられている。

パース~ロンドン線では、これまでのB747での運航に比べ、コストが20%削減されたと言う。

結果を踏まえ、B787の追加発注をしたほか、昨年にはエアバス社に「A350-900ULR」の発注も行った。

だが利用者には時短が必ずしも歓迎されていないようで、時間はかかっても経由地での「トランジット」があった方が良い・・という意見も多いと言う。

1X-Qantas_A330-200_VH-EBF_(41297568702).jpg

1Y-Qantas_A330-300,_SIN.jpg

1X_QANTAS A330-303_VH-QP2019_QANTAS.jpg ←(3枚)日本線の主力機A330-200/300(ウィキペディア英語版より)

カンタスにとっては、経費の安いノンストップ便が良いに決まっているが、利用者に嫌われては本末転倒だ。

せっかちな日本人ならば多少窮屈な思いをしても、直行便を歓迎するだろうが、オーストラリア人はそうでもないようだ。

B787の好成績を鑑みて、カンタスは機材更新計画を新たに設けて、「B777-9X」の発注も行った。

将来的に、全機の双発化に踏み切る構えだ。

これにより長年運用して来たB747-400が、最近全機退役した。

現時点で同社が保有する4発機はB747-400ERと、最大の旅客機A380である。

コロナによる運休を除くと、A380はシドニーを中心としてヨーロッパ線と北米線、「カンガルールート」に投入されているが、B747-400ERはブリスベンからの北米線に運航されており、予備的な扱いになっている。

コロナの影響を受け、同社では12機保有するA380のうち8機を退役させ、4機だけ残す事を公表した。

1X-QANTAS_A380_VH-OQF_4974.jpg ←新塗装になったA380(ウィキペディア英語版より)

B747も退役の方向だが、コロナで新造機の生産及び納入が延期されることが必須なので、正式な退役時期は発表されていない。

A380に至っても、4発の重量機と言うハンデは認めるものの、他にはないダブルデッカーとしての「居住性」が捨てがたいと言う事なのだろう。

コロナ後は「カンガルールート」のメイン機材として、今後しばらく現役に留まると見られる。

ファンとして気がかりなのは5機残るB747-400ERだが、後継機となるB787-9の充足、そしてA350-900ULR・B777-9Xの動向次第・・と言う事になるかも知れない。

またコロナ後再開に合わせ、日本線のうち羽田便に関しては、これまでのA330からB787に機材変更、と言うニュースも流れて来ている。

カンタスのA330は、B767の後継機として導入され、200・300型併せて30機を保有しており、国内線ではシドニー・メルボルン~パース・ダーウィンなどの大陸横断線に運用されるほか、日本を含むアジア・太平洋路線の中核である。

だがB787が気に入ってるようで、長距離線以外への投入も積極的になっており、将来的には787を追加導入してA330と交替させる可能性もあるだろう。

オーストラリアでは、カンタスの子会社LCC・ジェットスターが、ワイドボディ機としてB787-8を独自に導入している。

それまではカンタスのA330-200がリースされていたが、787の導入に伴い返還されている。

同社の運航実績も大いに参考にしたであろうが、コロナを含めてカンタスの「こだわり」は良くも悪くも変化の時期を迎えていると言えるかも知れない。

1V B747SP-Australia_Asia_Airlines_Wheatley.jpg

1X-QANTAS Australia_Asia_Airlines_B767-300ER_PER_Wheatley.jpg ←(2枚)台湾線を運航するためのブランド「オーストラリア・アジア航空」として運航したB747SPとB767-300ER(ウィキペディア英語版より)

意外な事に、発売開始以来20年以上カンタスを含めてオーストラリアのエアラインはB777さえも導入しておらず、「ヴァージン・オーストラリア」が最初であった。

カンタスにとつて「双発機の時代」は、世界に比べやや遅く訪れることになりそうだが、同時にオーストラリアのエアライン事情も均一化されていくと言う事だろうか。

ファンにとって興味深い事の一つは、カンタスのリージョナル部門である「カンタスリンク」もある。

これは会社でなく「ブランド」で、提携するリージョナルエアラインが運航している。

主に西部やタスマニアなどが中心で、各エアラインの所有機はカンタス塗装でコネクション便・独自便を運航。

全てカンタス航空のコードシェア便で運航している。

1X QANTASLINK DHC-8-400-VH-LQB_(15935628913).jpg

1X QANTASLINK F100_in_new_Qantaslink_new_roo_.jpg

1X QANTASLINK_B717-231_(National_Jet_Systems)_(8149873337).jpg ←(3枚)カンタスリンクのDHC-8-400、フォッカー100、B717(ウィキペディア英語版より)

機材はプロペラ機のDHC-8シリーズが最も多いが、運航する提携エアラインの中には20機のB717と17機のフォッカー100が含まれており、比較的距離の長い便に運用されている。

リージョナル便ながら、この2機種はビジネスクラスを含む2クラス制である。

コロナの影響でB717を最も多く保有するアメリカのデルタ航空が退役を予定しており、残るはハワイアン航空とカンタスリンクだけになろうとしている。

同社のB717は、統合した元インパルス航空が自社発注したものだ。

西部のパースを中心に運航されており、広大な地域をきめ細かくカバーしている。

1X-QANTAS_Freight_B767-300ER_SYD_Spijkers.jpg ←1機だけ運航されていた貨物機のB767-300ER/BCF(ウィキペディア英語版より)

なおB787-9の導入に合わせ、約35年ぶりに塗装の大幅な変更が実施された。

ホワイトボディに「レッドテールとカンガルー」は、80年代半ばに登場し、30年近く変更されていなかったが、07年に「QANTAS」のロゴの書体と大きさが変更。カンガルーも若干形が変更された。

現行塗装は、ロゴが再び変更され、細字で全体が大きくなったほか、カンガルーもラインを変更。

レッドテールは、前側にグレーの縁取りがつき、立体感を出している。

ある意味「マイナーチェンジ」に近く、パッと見はあまり違和感はない。

しかし「QANTAS」の文字は大きすぎて、正直バランスが悪いように思える。

1X-Qantas_A330_VH-EBM_Perth_2019_(01).jpg

1X QANTAS B737-800-Lightroom-IMG-4414.jpg

1X Qantas_B737-800_short_final_(8117773093).jpg ←(3枚)新塗装に変更されたA330-200と新旧塗装のB737-800(ウィキペディア英語版より)

慣れの問題かもしれないが、機体によってはアンバランス感が否めず、微妙である。

既存の機体には順次変更されているが、その速度は遅いようだ。

1X-Qantas_B737-800_(VH-XZP)_retrojet.jpg ←70年代までのレトロ塗装のB737-800(ウィキペディア英語版より)



夜も上着は要らなくなった気がする。

気温は15℃前後で、正直微妙なのだけど歩くと少し暑く感じそう。

日中との気温差は10℃以上あるから、体調には要注意だ。

テレビでも報道されているが、これから暑さが本格化してくると「マスク」が問題。

暑さの中無理にしていると、熱中症を誘発する可能性があると言う。

でもしばらく人と接する場所ではマスクは必須で、エアコンの効いている室内や車内ではマスク、外を歩く時は外す・・と言う方法しかないようだ。

先日近所で、マスクに帽子、ゴーグルをつけてジョギングしている人を見かけたが、平気なのかも知れないが行き過ぎでは・・・?

人とすれ違う程度で感染することはほぼないから、外では外しても良いかと思う。

面倒だが、それも「生活様式の変化」の一つか。

夕方一時雨が降りそうな空だったが、夜は綺麗に星が見えていた。

コロナの事に翻弄されて、ここしばらく星など見ていなかった気がする。

間もなく梅雨を迎えれば、また星空は見にくくなる。

ちょっと「得」して気分になった。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

先週の肌寒さは解消し、初夏らしい陽気が戻って来ました。

少し暑く思えますが、新緑が日差しに輝くようでとても綺麗です。

君も見ている事と思います。

ただ急に寒くなったり、暑くなったりは今後も繰り返しますので、体調管理に気をつけて下さい。

コロナの影響で、買い物や飲食がしにくくなっていますが、君はどうですか。

私もいつも行っていたカフェが時短営業になり、1カ月以上行けずにいます。

止むを得ず別のお店に行ったりしていますが、間もなく戻るようです。

君にコロナの影響がどう関わったか、私は知る由がありませんが、世間に流されず君の道を外れないで下さい。

魂に行き先を指示していれば、必ず思い通りの生き方ができます。

君ならそれができると思います。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



卯の花の 咲く月立ちぬ ほととぎす 今も鳴かぬか 君に聞かせむ(万葉集巻十八 4066 大伴宿禰家持)


飛行機ネタ A380の受難(5月24日 曇り時々晴れ 23℃)

待ち遠しかった日差し。

まだ雲が多めで「薄日」に近かったけど、1週間ぶりに空が明るい。

気温も平年以上に上がって、ずっと続いていた肌寒さも解消した。

暑いのは苦手だけど、やはり季節らしい気温でないと困る。

週間予報を見ると、来週は一転して気温は高めで推移しそうだが、期待の青空はあまり見えなそう。

空は春と夏のせめぎ合い、「梅雨」の準備が始まっているようだ。

今年は平年より数日程度早めの「梅雨入り」が予想されていて、それまでもスカッとした初夏の陽気はあまり期待できないようだ。

コロナの緊急事態宣言も、明日全面解除の見通し。

当初は「今月いっぱい」だったから、約1週間の前倒しだ。

全国的に感染者数が減ったことが根拠だが、宣言が残された都道県は少数ながらも毎日感染者が出ている。

政府・自治体は店舗の休業要請などは緩和する見通しだが、テレワークの継続・ソーシャルディスタンスの継続・消毒、マスクの着用、不要不急の長距離移動などは当面続けて欲しいと国民に訴えている。

ある意味「自粛」に慣れてしまった感があり、宣伝されている「生活様式の変化」も馴染みつつあるが、一方で「コロナは収束した」と解釈した感覚に捕われてしまうのも怖い。

この辺の判断が難しいが、いつまでも完全な自粛を続けていることも出来ないのも事実だ。

「自粛」に慣れたことで、この1カ月以上私も無駄な外出はしなくなったが、同時に世間と同じく暇も増えた。

結果ネットの動画をボーッと見てしまう事も増えたのだけど、先日適当にサーフしていたら懐かしい物に出逢った。

私は海外メディアの番組を見るのが好きで、言葉など分からないけれど面白いと思っている。

しかも最近は個人が編集してアップした過去の番組だけでなく、メディア自身がチャンネルを持っていて、ライブ配信も多い。

種類は限定されてしまうが、大半は言葉が分からないからどうでも良いし、自宅でライブの外国メディアを見れるのは面白いのだ。

それはニュース番組だったり、音楽番組だったり、日本で言うバラエティ的な番組もある。

その中でイタリアの公共放送「RAI」が放送した、「サンレモ音楽祭」の画像が目に留まった。

イタリア北部リグーリア州の港湾都市サンレモで毎年開催される音楽祭は、日本でも耳にする大きな音楽イベント。

コンテスト形式で、日本で言えば「レコ大」に近いイベントで、数十年の歴史を持つ。

出場者はイタリアのアーティストが多いが、ゲストで米英のアーティストが出演することも多い。

2月に開催された今年の音楽祭の様子だったが、イタリアはコロナの被害が最も深刻な国の一つ。

2月後半の開催となっているから、この時には既に流行が始まっていたと思うが、まだ危機感が出ていなかったのだろうか。

そこに「ゲスト」として出演したユニットが歌い始めて、「ああっ!」と思わず叫んでしまった。

聞き覚えのある歌、と言うよりも何度も聞いたのに、この瞬間まですっかり忘れていたからだ。

曲名は「マンマ・マリア」。これを聞いて「そんな曲、あったな!」と思いだした人は、間違いなく50歳以上でしょう(笑)。

ユニット名は「リッキ・エ・ポーヴェリ」と言う、3人組ポップユニット。

ユニットは60年代後半にデビューし、元々は男女二人ずつの4人組。ほどなく女性一人が脱退し、女性一人男性二人のユニットとして本国のみならず、ヨーロッパで大成功を収めた。

「マンマ・マリア」は、折しも世界中でディスコソングが大流行していた時代の82年の曲で、日本でも輸入されヒットした。

洋楽と言えば米英が大半の時代だったが、ディスコソングではヨーロッパのアーティストの多くが日本でも輸入・紹介され始めた時期であった。

90年代には「ユーロ・ビート」などと言われていたが、その先駆けだったとも言える。

この他当時の西ドイツ出身のユニット「アラベスク」「カラット5」など、米英に比べると野暮ったさが目立つものの、日本のポップスに近い感覚が大ウケした。

ただヨーロッパの曲は英語の場合と、現地語の場合があり、現地語の歌は米英や日本ではあまりウケなかった。

だがイタリアのユニットと言う物珍しさもあって、「マンマ・マリア」は日本でブームになった程だった。

私が歌を聞くまでピンとこなかったのは、ユニット名だ。

実は当時日本で発売された「レコード」は、「リッキー&ポベリー」となっていたからだ。

この名前は記憶の片隅に残っていたのだけれど、イタリア語では「リッキ・エ・ポーヴェリ」であり、英語でも同じ。

当時のレコード会社はイタリア語では分かりにくいからと、勝手に英語読みに変えて販売していたのだ。

40年近くも経って、真実を知るとは(笑)。

名前は固定名詞だから、本来勝手に読みを変えてはおかしいのだけど、そこは「時代」だったのだろう。

「リッキー&ポベリーのマンマ・マリア」で、ようやく記憶が結びついたと言う訳だ。

軽いリズムと「マンマ・マリア」の繰り返しが覚えやすく、良くも悪くも耳にこびりついてしまう曲である。

「リッキ・エ・ポーヴェリ」は、現在も現役。男性メンバーの一人は年齢を理由に引退したが、今年の「サンレモ音楽祭」では復帰。

体調に合わせて時々「ゲスト」として活動するらしく、普段は残る二人で活躍中。

3人とも70歳を超えた「おじいちゃん・おばあちゃん」ユニットなのだが、見た目はもちろん歌唱力も80年代から全く衰えていないのは、さすが音楽の国イタリアならではだろうか。

実は「リッキ・エ・ポーヴェリ」はイタリアでは国民的グループで、子供から大人まで誰でも知っていると言う大御所なのだそう。

会場では、「特別ゲスト」としてマンマ・マリアを披露したが、彼らがステージに上がると数千人の観客が一斉に総立ち。

しかも老若男女関わらず「マンマ・マリア」を合唱している程で、日本で言えばさしづめ「サザン」のようなユニットのようだ。

ついでだから他曲も聞いて見たが、米英曲とは一線を画しながらも独特のリズムや流れは、今も充分通用するものばかりだ。

似たような名前の曲が多いけれど、お暇なら「You Tube」で一度お試しあれ。結構楽しいですぞ。





飛行機ネタ。

フランスのフラッグキャリア、エール・フランスは、5月20付けで9機保有していた「A380」を「退役」させたことを明らかにした。

コロナ拡大で、同社の旅客便は殆ど運休状態にあり、同機も全機が休止状態に置かれていた。

感染拡大の被害が大きかったヨーロッパでは、少しずつ勢いが収束しつつあることから、各国では6~7月にかけて経済活動が再開される見込みだが、同時にエアラインも徐々に運航を開始できる見込みである。

しかし需要が感染前のように回復するには、最低でも3~4年間が見込まれることから、同社のA380は休止から復帰することなく「印籠」を渡された形になった。

同社によると、昨年から導入が開始されたA350やB787など、新世代のワイドボディ機を効率よく運航させることで経営のスリム化を推進して行くと言う。

1W-A380 Air_France_landing_at_LAX.jpg  

1W A380_Air_France_F-HPJJ_KMIA_NASEDIT_(33273362278).jpg ←(2枚)5月20日付けで9機全機が退役になったエール・フランスのA380(ウィキペディア英語版より)

全世界に広まった「COVID-19」は、エアラインがほぼ欠航すると言う前代未聞の事態を引き起こした。

再開されても「第二波」の懸念があるため、国際線の旅客便は当分限定的になることが予想されている。

そうなると大型機の需要は、回復できるとは考えられないと言う風潮が強まって来た。

この他にも同機を保有・運用する複数のエアラインが、退役や減数させることを決定している。

エール・フランスでは、A380を22年までに退役させる方針を公表していたが、コロナ騒ぎによる需要激減で前倒しの退役となった。

1W A380-Air_France_F-HPJB.jpg

1W A380-Air_France(F-HPJD)_(5233706017).jpg

1W A380-Air_France_Voyageur_CDG.jpg ←(3枚)エール・フランスのA380とエコノミークラスのキャビン(ウィキペディア英語版より)

この他では同じく、コロナ前から退役計画を出していたドイツのルフトハンザが、保有する14機のうち6機を前倒しして退役させることを発表している他、カンタス航空が12機のうち8機を退役させるとしている。

A380最大のユーザーで、115機も保有するUAEドバイのエミレイツ航空は今週になって約半数に当たる46機を退役させる方針であることを明らかにしている。

カタール航空も24年までに退役させる方針だったが、これも前倒しの可能性が高い。

同社は昨年、発注中だった同機39機をキャンセルし、A350に切り替えていたが、コロナの影響で更に減勢を余儀なくされることになった。

日本では昨年全日空が国内で初めて2機のA380を導入し、ホノルル線専用機材として就航して大きな話題を呼んだ。

就航してちょうど1年が経つが、この春受領予定だった最終号機である3機目はコロナの影響で受領を延期している。

現時点でキャンセルはなく、状況を鑑みて受領・就航させる予定になっている。

1W_A380_ANA(JA381A).jpg

1W_A380_ANA(JA382A).png

1W A380-ANA_First_Class_(2).png ←(3枚)昨年大きな話題と共に就航した全日空のA380とファーストクラス。コロナ前までは良好な利用実績を重ねている(ウィキペディア英語版より)

A380は現在まで世界で14社が運用し、242機が生産・運用中。

エアライン数の割に機数が多いのは、半数近くをエミレイツ航空が占めているからだ。

それでも機体の特殊性を考えれば、大量生産の成功作と言っても良いのだが、このままいくと「失敗作」になりかねない状況になりつつある。

A380は現時点では「世界最大」の量産機であり、最大座席数と言う点でB747を遥かにしのぐ4発大型旅客機である。

物理的な大きさと言う点では、ほかにも大きな機体はあるものの、上記のように量産された商業機と言う点では「最大」である。

1W A380 EMIRATES-A6-EDI@PEK_(20191108143826).jpg

1W_A380_Emirates_JP7310690.jpg ←(2枚)115機も保有するエミレイツ航空。コロナの影響で半減させることを発表した(ウィキペディア英語版より)

70年代に登場したB747は、一部「二階建て」と言う特徴を持って、大量輸送時代の立役者となったが、それは唯一無二の存在だった。

事実「二階建て」の旅客機は、747以来30年以上も実現しなかった。

A380は全長73メートルで、長さと言う点ではB747-8やA340-600、B777-300ERなどの比べれば若干小さい。

しかし世界初の「オール二階建て」旅客機であり、座席は最大で850席も設けることができる。

現実にこの座席数で運航された実績はまだないが、単純計算でB747の1.5倍。3クラスでも標準で500席以上が可能だから、747より1.3倍以上の座席数が確保できる。

1W_A380-841,_Lufthansa_AN1713521.jpg

1W_A380-841,_Lufthansa_AN1713520.jpg

1W_A380_Lufthansa_AN1713519.jpg ←(3枚)アッパーデッキのファースト・ビジネスクラスとメインデッキのエコノミークラス。ルフトハンザのA380のキャビン(ウィキペディア英語版より)

エアバス社は90年代から、747を凌ぐ「ダブルデッカー(二階建て)機」の構想を持っており、研究を進めていた。

時代は正に大量輸送時代の真っただ中で、1席でも多い機体が今後どんどん要求されると考えていた。

だが同時に環境問題が取りざたされ、LCCなど新しい方向性が加わり始めると、大量輸送機に疑問が出始めたのである。

決定的だったのは90年代半ばにデビューしたB777で、双発機ながら10,000キロ以上の長距離性能を持ち、400~500席級と言う破格の大きさの双発機が現実のものとなったのである。

双発ながらエンジンの出力は4発機並みであり、反して低燃費・低騒音が環境基準に適合するとともに、エアラインの利益率が向上することを意味した。

エアバス社自身もA330で対抗し、世界はあっという間に双発機の時代に突入したのであった。

1W_A380_Lufthansa_FRA_30JUN13_(9201531154).jpg

1W A380-Lufthansa_D-AIMG_2019-10-01_Munich_Airport_p05.jpg

1W A380 LUFTHANZA-D-AIMG@HKG_(20190302162425).jpg ←(3枚)機数は減らすものの退役はしないルフトハンザのA380、新旧塗装(ウィキペディア英語版より)



この時点で4発機の構想は途絶えるかに思えたが、座席数が増えれば乗客一人当たりのマイルコストが減らせると試算し、エミレイツ航空を筆頭にA380がローンチ。

原形機は、05年に初飛行した。

だがここにたどり着くまでは多くの時間を擁し、特に全体のデザインは最後まで決まっていなかった。

1W_A380_at_BRE_(3519263240).jpg ←テストとデモを兼ねて世界中を飛んだ原形機(ウィキペディア英語版より)

それはアメリカの大手貨物エアラインのフェデックスやUPSも同機に関心を示しており、貨物型が考えられたからである。

A380は747以上に胴体の上下寸法が大きいので、当初から貨物型は考えられていた。

しかし二階建てと言う構造上、その床部分は構造材として最初から計算に入れての設計であり、それを省く様な構造は不可能であった。

フェデックスなどは、小口の宅配貨物が主体なので、二階構造のままでも良いとしたが、そうすると貨物の搬出口が問題だった。

更に操縦室を747のように、二階部分に持ちあげればノーズカーゴドアを付けられるが、エアバス社ではそれを考慮しなかった。

パイロットが、従来の機種から移行するに当たり、コクピットからの視界をできるだけ違和感なく収めるには、二階部分ではなく1階部分か中間位置に持ってくることを考えていた。

最終的にコクピット(フライトデッキ)は「中二階」に置かれたが、結果的にこれがA380の命運を決めたのであった。

1W_A380_Air_France_(AFR)_F-HPJH_-_MSN_099_(9649161030).jpg ←「中二階」に位置するコクピット(ウィキペディア英語版より)

この形態では、貨物機のノーズカーゴドアは不可能であり、最低でもサイドカーゴドアしか付けられないことになる。

だが今度はキャブンの「二階建て」をどうするのか、という問題にぶつかった。

二階部分を貨物室にするならば、貨物の上げ下げが必要となり、空港では新たなリフトも必要になる。

そればかりか、二階部分の積載量は床の強度からかなり限定され、強化することも物理的に困難であった。

これらをクリアしたとしても、空港での貨物の出し入れに時間がかかるなど、副次的な問題が次々と噴出し、仮発注していたフェデックスとUPSはキャンセルに至り、貨物型A380計画は幻に終わった。

デザインが決定したことで、世界初のダブルデッカー旅客機は、純粋な旅客機として生産することになった。

しかし出来上がったA380は奇異としか言いようがない外観だったものの、ある意味「夢の飛行機」であった。

747でさえ「船」のような広大なキャビンは、当時「夢の飛行機」と言われていたが、A380はそれを上回る可能性を秘めていた。

エアバス社が様々なプランをデモンストレーションした中には、上級クラス向けの「シャワー室」やまるで本物のようなバーラウンジ、免税店など、およそ飛行機の中とは思えぬ設備が可能とされたのである。

オール二階建てと言う事は、床面積が2機分あるのと同じだから、最高のサービスを提供できる可能性を秘めていたのである。

加えてそれだけの装備をしても、座席数は400席以上確保できることも大きな魅力であった。

エンジンは同機用に開発された大口径ターボファンの「ロールスロイス・トレント900」と、「EA GP7270」が指定された。

このご時世に「4発機」はなおも不経済、と言う印象が強かったが、エアバスは上記のような設備を伴う上級クラスで顧客を集めれば、収益性は高いと主張した。

加えて2種類のエンジンも、21世紀型の低燃費・低公害基準をクリアしており、1機当たりの収益性はB777などに比べて高い事を特に主張した。

1W A380-EA_GP7200.jpg

1W_A380_Trent_970_engine.jpg ←(2枚)A380専用に開発されたGP7270エンジンとトレント970エンジン(ウィキペディア英語版より)

無事初飛行した原形機は、デモンストレーションを兼ねて世界中を飛び回り、同時にから緩状況での運用をテストした。

エミレイツ航空やエール・フランス、ブリティッシュエアウェイズなどが正式発注に動いたことで、同機は生産決定に至ったが、量産に向けて設計上の不具合が多発し、修正に時間がかかって初飛行は約1年遅れた。

それでも原形機は順調なテストを続けたが、同時にじっ気が出来て初めて遭遇する問題も露呈した。

ある程度予測は出来ていたのだが、あまりに巨大なため受け入れる空港側の「準備」が必要であり、それがかなり経費と手間がかかることであった。

1W_A380_British_Airways_JP7680662.jpg

1W A380 BRITISH AIRWAYS-G-XLEB_landing_at_LAX_(13707990444).jpg ←(2枚)ブリティッシュ・エアウェイズのA380(ウィキペディア英語版より)

発注したエアライン側はそれを承知でのことだったが、旅客機は就航先が受け入れてくれなくては意味がない。

例えば乗客の乗降には、通常ならば前部の乗降口が、後部の乗降口を使うが、A380ではアッパーデッキ・二階部分からの乗降が必要である。

それに対応するボーディングブリッジが必要であり、施設の改修が必要だった。

もちろんメインデッキの身での乗降は可能だが、それでは時間がかかってしまう。

また同機は最大機体重量が560トンと、B747よりも50トン以上も重く、空港のアスファルトやコンクリートの強化が必須であった。

更にエンジンは747より強力なため、離着陸時における「後方乱気流」が発生しやすいため、管制都の連絡と調整も必須であった。

空港の設備は、基本的に自己負担であるため「来てもらわなくても良い」と言われれば、就航できないことになる。

1W A380 Singapore_Airlines_9V-SKR_at_LSZH_(26465049242).jpg

1W A380-Singapore_Airlines.jpg ←(2枚)07年に世界で最初に就航させたシンガポール航空。日本線に投入した(ウィキペディア英語版より)

また同機はオールエコノミークラスであれば800席以上と言う、とてつもない座席数を設けることが可能とされていた。

これならばチャーター便などで、大きな採算が取れると期待されたが、仮に800席を設けると緊急脱出時の追加設備が必要だった。

同機にはメインデッキ・アッパーデッキともに乗降口と非常口が作られているが、収納式の「脱出シュート」は危険などでアッパーデッキからは使用できない。

緊急時の際にはメインデッキから脱出するか、アッパーデッキに届く様なタラップを使用する他ない。

加えて座席数が多ければ多いほど、ミールやドリンクを多く搭載する必要があるばかりか、ラバトリーも増やさなくてはならない。

更に客室乗務員も増やす事になり、簡単に「薄利多売」にはならないのである。

1W A380-Emirates_onboard_lounge_ITB2014_(2).jpg

1W A380-Emirates_Shower_SPA_ITB2014.jpg

1W-Bathroom_on_an_Emirates_Airbus_A380.jpg ←(3枚)A380ならではの豪華装備。バーラウンジやシャワールームは一流ホテル並みだ(ウィキペディア英語版より)

このためアッパーデッキまでオールエコノミーと言うエアラインはこれまで出現せず、非現実的な話になってしまった。

現状ではエミレイツ航空が中距離仕様として2クラスの機体が、合計615席で運航するのが最大で、これはかつて全日空がB747-400Dで記録した586席を上回る最大の座席数になっている。

因みに2機運用する全日空のA380は、ファーストクラス、プレミアムエコノミークラスを含む4クラス525席で運航するが、こちらも「4クラス」としては世界最大の座席数記録になっている。

不具合の修正を完了し、07年にシンガポール航空が最初に営業便を就航させ、日本はその目的地と言う名誉を貰う事になる。

同社を始め、導入した各社は上級クラスに力を注ぎ、UAEアブダビのエティハド航空の「レジデンス」のように、ファーストクラスより「上」のクラスまで現れた。

これはアッパーデッキ最前方に僅か「2室」の特別席で、文字通り完全な個室としたクラスだ。

1W_A380_Etihad_(35303562091).jpg

1W-A380_The_Residence_Apartment_Etihad_Airways_ITB2015_(1).JPG ←(2枚)エティハド航空のA380と「ザ・レジデンス」(ウィキペディア英語版より)

シンガポール航空、エミレイツ航空、カタール航空などはファーストクラスを「準個室」のようにして、完全なプライベート空間を提供する。

座席はもちろんフルフラットのベッドになるほか、32インチの大型液晶モニターや完全なネット環境など、まるで高級ホテルのような空間を提供している。

一方ヨーロッパ系のエアラインは、専用ではあるものの一般的な上級クラスとして座席数を多めに取っている事が多い。

それでも通常より高級感は高く、上級クラス向けのバーラウンジや免税ショップなどは人気が高い。

A380を導入したエアラインは、主力機と言うよりも「シンボル」的な役割を果たす事で、あえて同機を「選んで乗る」対象になった。

1W A380 QATAR-A7-APJ_(29850828768).jpg

1W A380-Singapore_Airlines_in_SG50_livery_(2).jpg ←(2枚)カタール航空とシンガポール建国50周年塗装のA380。前者は全機退役予定(ウィキペディア英語版より)

だが問題は「それまで」であったことだ。

A380は、融通性に欠けるのである。

コロナのように、現代は世界が突発的な事件で大きく情勢が変動する。

冷戦時代のような政治的緊張は減少したものの、テロのような国際犯罪や自然災害が増え、それは当事国だけの問題に留まらなくなっている。

グローバル化が進んだことで「対岸の火事」で傍観することが難しくなり、特に経済事情は連鎖の連続である。

エアラインもそうした不安定な情勢に過敏なほど反映されるので、経営と運用も危機管理能力が高く問われるのである。

LCCの台頭で、飛行機はもはや世界中で「生活用品」のように手軽な乗り物になって、以前のような高価で特別な乗り物ではなくなってしまった。

1W_A380_Qantas_AN1693643.jpg

1W_A380_Qantas_(6058867734).jpg ←(2枚)カンタス航空は12機中8機を退役させ、残る4機は北米線専用機として運航を継続させる(ウィキペディア英語版より)

その傾向は90年代から現れていたが、A380はそれを逆行するかのように、そして飛行機の価値観を新たにしようと言う試みの機体であった。

しかしその特殊性から、現代の潮流そのものに逆行した形になってしまっている。

B747が登場した時、アッパーデッキは座席ではなくファーストクラス専用の「ラウンジ」として使われたことがある。

アッパーデッキがナローボディ機のように狭かったからだったが、今では考えられない贅沢な使い方だ。

日本航空では同じファーストクラスながら、さらに追加料金で「スカイスリーパー」の名付けたベッド席にしたこともある。

飛行機は高価な乗り物で、上級クラスもセレブだけが使う時代だったからだ。

最近では顧客獲得のため、エアラインはマイレージサービスが当たり前となり、マイルをためて差額なしで上級クラスを使えるようになったが、それはエアラインの首を絞めることにもなった。

高額運賃を撮れないばかりか、わざわざお金を支払って乗る乗客からクレームが多く寄せられる事になり、上級クラスの利用率が低下した。

1W A380 KOREAN AIR-HL7614_(14187427287).jpg

1W_A380,_Korean_Air_AN1977682.jpg ←(2枚)ニューヨーク線など主幹路線で運用する大韓航空。「ナッツリターン事件」で不名誉も受けてしまった(ウィキペディア英語版より)

そこでマイレージによる「アップグレード」を事実上限定し、代わりに「プレミアムエコノミークラス」を提供するようになったことで、再び上級クラスは「儲かる」座席に戻ったかのように見えた。

だがそれは70年代の「懐古趣味」に過ぎず、利益よりもコストの方が高くつくようになってしまった。

ところが物理的な問題や、需要の問題から、上級クラスを減らしてエコノミークラスに転換することもままならない機体であることにエアラインは困惑することになる。

下手に特別な装備を付けていることで、クラス変更には膨大な時間と経費がかかるのである。

通常の機体であれば、座席数にもよるが上級クラスの数を増減することは普通に行われるが、A380ではそれさえも困難な機体なのだ。

1W-A380 Asiana_Airlines(HL7626)_at_Frankfurt_Airport.jpg

1W A380-Asiana_Airline_HL7634_(17765412761).jpg ←(2枚)アシアナ航空のA380(ウィキペディア英語版より)

先日ルフトハンザの子会社で、整備や改修を担当する「ルフトハンザ・テクニーク」が、余剰となりつつあるA380を、貨物機に改修する計画があると発表した。

幾つかのエアラインから打診されたとして、現在計画段階として詳細の明言は避けたが、業界では疑問視する向きが多い。

先に書いたように、A380は「旅客機」として特化させた構造を持たせていることから、今更貨物機への転用は難しい。

貨物用ドアは増設できないため、通常のドアで搬出する以外なく、内部もせいぜい座席やギャレー、ラバトリーを撤去する程度にしかできないというのだ。

貨物型を断念した理由が、今度も付きまとっており、いかに同機に融通性が伴っていないかを物語る。

1W_A380_Airbus_Industrie_AN1131817.jpg

1W_A380_tail_camera.jpg ←(2枚)A380のコクピットと垂直尾翼先端に設置されたカメラ画像。座席でも見ることができる(ウィキペディア英語版より)

ルフトハンザ・テクニークは「あらゆる可能性を考えている」としているが、業界の見方は厳しいようだ。

エアバス社では、昨年に「今後新たな受注がなければ21年に生産を中止する」と発表していたが、コロナの影響で今後新たな受注はほぼ絶望と見て良いかと思う。

エミレイツ航空が大量にキャンセルしたことで、受注残も減少した。

エアバス社では発売当時、採算ラインを270機と見込んでいたが、開発の遅延や大量のキャンセルなどに翻弄され、現在では450機以上売れないと採算割れになるほど価格も高騰してしまった。

1W A380 HI FLY MALTA-9H-MIP@TSN_(20200515140103).jpg ←唯一「中古」のA380でチャーター運航を行うハイ・フライ・マルタ。キャビンは3クラス(ウィキペディア英語版より)

現在同機が最も集中するのは北米で、保有するエアラインの殆どが運航している。

これは目当てとなる上級クラスの利用が最も機込めるのが、アメリカ・カナダであるからだ。

A380はエコノミーが満席よりも、ビジネスクラス・ファーストクラスが満席であることが儲かる機体。

故にコロナが引き起こした世界的不況で、今後その需要が大幅に落ち込むことは明らかだ。

エール・フランス以外では、機数こそ減らすが完全退役にはしない予定なのが、ファンにとっては救いと言えるだろうか。

1W A380 CHINA SOUTHERN-B-6136@PEK_(20190730170341).jpg

1W_A380_China_Southern_Airlines_(7470795654).jpg ←(2枚)中国で唯一A380を保有する中国南方航空(ウィキペディア英語版より)

だが「夢の旅客機」は、就航後僅か13年足らずで最大の苦境に追い込まれている。

しかもそれを挽回する要素が、きわめて少ない。

でもA380にしかない特徴は、エアラインによって今後も活かせるチャンスは充分に残されているはずである。

これまでと同じく「シンボル」として、乗客が乗りたいと選ぶ飛行機に徹することだ。

それには通常便と比べられる、複数便運航の路線の方が適しているだろう。

需要の変動が大きいと、超大型のA380はすぐに「採算割れ」になってしまう。

いわば「ハイリスク・ハイリターン」に近いのだ。それならば遥かに経済的なB787やA350で良い・・となっても仕方ない。

生き残るためには、A380らしいやり方がより求められるだろう。

少なくともコロナのせいで、「過去の機体」に追いやられるのはまだ早すぎる。

機齢からしても、あと20年は充分飛べる機体なのだから。

なお日本にはこれまで運用エアラインの殆どが飛来しているが、需要の上下動が大きく、殆どが季節限定運航になっている。

コロナ前ではエミレイツ航空とタイ国際航空がレギュラー運航をしていたが、ご存じの通りタイ国際航空は先週事実上の破綻した。

1W_A380_Thai_Airways_International_AN2212979.jpg

1W A380-Thai_Airways_International_HS-TUB_(14019580973).jpg ←(2枚)破綻で去就が注目されるタイ国際航空のA380(ウィキペディア英語版より)

具体的なリストラは未定だが、A380は退役になる可能性が高い。

運用14社のうち、地中海のマルタ共和国に本拠を多くチャーターエアライン「ハイ・フライ・マルタ」が、世界で唯一「中古」のA380を1機保有しているが、正確にはルフトハンザからのリース機。

北米・南米で導入したエアラインは1つもなく、アフリカも同様。

意外なことに中国のエアラインでは、中国南方航空だけが採用しており、唯一日本への飛来実績がない。

逆に韓国では大手2社とも保有し、主に北米・ヨーロッパ線で運用されるが、季節需要の間合い運用で日本にもたびたび飛来している。

この他カンタスのA380も、北米線専用機材で来日経験がない。

1機も保有していないアメリカが、世界中のA380が飛来していると言う奇妙な現象も起きている。

だが「コロナ後」を見据えた場合、落ち着いたらA380の新たな用途が見つかる可能性も大きい。

今後各社から一気に大量の機体が放出することが予想され、情勢から見て中古価格は低落すると思われる。

だが殆どの機体は製造後10年前後と「新品同様」であり、使い方次第では「お買い得」になるかも知れない。

あくまで計画だが、公表されているだけで70機ものA380が退役することになる訳だから、中古価格は安くなるだろう。

エミレイツやルフトハンザ、ブリティッシュ・エアウェイズや全日空は、現時点で同機の全機退役予定はなく、エアバス社も生産停止後しばらくは充分なサービス体制を維持することを公表しており、新たに中古機で運用開始するエアラインが出ても充分対応は出来るだろう。

コロナの影響で原油価格も下落していることから、途上国のエアラインなどが輸送力確保に同機の導入へ動く可能性もあると思う。

出現時は「期待の大型新人」として騒がれたA380だが、「プロ」の道はなかなか険しかった。

と言うよりも潮流に上手く逆らえなかった・・とも言えるかも知れない。

でもその能力は、今後もっと活かせる可能性も捨てきれない。

現時点では、しばし「お休み」と言う事と思いたい。

「不経済」と言うだけでは、A380に取ってあまりに酷すぎる理由だろう。





コロナはもう良いのか・・・ちょっと不安になる。

経済活動が再開するのは結構だが、2カ月に及ぶ規制でこの国の事情は大きく変化した。

「生活様式の変化」と言うけれど、大きな物を失った人もいる。

コロナは収束しておらず、一時的に落ち着いている・・だけだと認識したい。

同時に元に戻るのではなく、再び流行が広まった場合に、今度こそ落ち着いて対処できるように、官民一体で備えるべきだ。

一緒にしてはいけないけれど、東日本大震災で培った「絆」や「連帯」は、9年の間に大いに薄れていると思う。

我々の先祖は、過去に何度も災害、そして「疫病」を乗り越えて来た。

医学が未発達の時代でも、多くの犠牲を出しながらもこの国を守っていたから、今の日本がある。

コロナの事も、そのうち「歴史」になるだろう。

未来の日本人たちに「2020年の日本人って、凄かったんだな、頑張ったんだな」と言われるように。

この瞬間が大変だけれど、未来を見ることも大事なことだと思う。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

今日は久しぶりに大空が見えましたが、君も見たでしょうか。

明日も青空が見えそうで、気温もずっと上がりそうです。

外へ行くなら、薄着でも大丈夫そうです。

今週は本当に寒く、君も重ね着したと思いますが、今度は一転しそうです。

身体が悲鳴を上げるかも知れませんので、体調管理には気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




月立ちし 日より招きつつ うち偲ひ 待てど来鳴かぬ ほととぎすかも(万葉集巻十九 4196 大伴宿禰家持)