飛行機ネタ 存在感増すバルトのエアライン(5月9日 晴れ 24℃)

「五月晴れの日曜日」と言いたいところだが、仙台上空は「黄砂」に覆われた。

気温は今年初の夏日となった昨日より低かったが、それでも7月並み。

日中は風が強く、こう言う日こそ窓を全開に・・と思ったが、それが黄砂の原因だ。

なるほど、確かに雲が少ない青空なのに、遠くが霞んでいた。

私には黄色く見えなかったけれど、地上も空も何となく白く霞んでいた事は間違いない。

街では子供を中心に「半袖」姿が現れた。

休みと言う事もあり、この陽気ならば半袖でも充分だろう。

と言うよりも、いつしかそういう季節になったのか・・と、変に目が覚めた思いである。

最も「オトナ」は薄着の人もいるけれど、上着を着ている人の方が圧倒的。

暑ければ脱ぐだけだし、何よりも気まぐれの高温だと分かっているからだ。

今は季節と言うよりも、気温で調節できる服装は当たり前。

暑けりゃ脱ぐ、寒けりゃ着る。大人も子供もそれが普通。

でも私の子供の頃は、それこそ夏服・冬服がはっきりと分かれていて、融通性が低かった。

一番悩ましかったのは中学生の時で、当然制服である。

今でも変わらないが「衣替え」は6月だから、気温差が大きく、肌寒い日もあれば暑い日もある今頃は大変。

成長期を迎え新陳代謝が激しくなる年頃に、あのまっくろで暑苦しい「学ラン」はまるで我慢比べみたいなものだった。

当時は「校則」が非常に厳しく、それが社会問題になり始めた頃だったが、「規則を守る」ことは当然だと思っていた。

もちろん暑くて学ランを脱いでも教師に怒られる事はなかったが、「冬服」の時期である以上学ランは着て然るべきと思っていたように思う。

唯一楽に慣れるのは体育授業の時だけだが、これまで何度か書いて来たように当時の体操服もまた夏服と冬服がはっきり区別されていた。

制服の衣替えと違い、担当教師の「気分次第」で指定されることが多く、たいてい4月後半には「夏服」が強要された。

夏服はトップスは半袖、ボトムは男子がショートパンツ、女子が伝説の「ブ○マー」だから手足はどちらも「全開」である。

不思議なことに、秋の「衣替え」では教師は「冬服」を指示することはなく、生徒の自由だった。

故に私と友人二人は、真冬になっても「半袖半ズボン」で我慢比べをしたのだが、春先はいくら運動すると言ってもまだ寒い。

今頃は爽快ではあるけれど、ピチピチの半袖半ズボン・ブ○マーはさすがに授業以外着れなかった。

結果授業以外で体操服を着る時は「冬服」を着ざるを得ず、例えば校外学習の時など暑くても全員が「長袖長ズボン」だった。

今思えば何とも面倒臭く、非合理的なことであったと思う。


今日は「母の日」。

連休明けでどこか忙しないが、スーパーでは特設売り場が設けられ、カーネーションの花束を買う人の姿が見られた。

笑われるかも知れないが、母がいたころは毎年「母の日」のプレゼントを贈っていた。

大げさなものではなく、金額にすればせいぜい数百円か1,000円くらいの予算で、カーネーションかハンカチなどが多かった。

花だと日持ちしない生ものだから、ハンカチなど日用品の方が喜んだ。

昔の人だから、普段出かける時にハンカチは必携の人で「何枚あっても良い」と言っていた。

時には高級ブランド品を買ってあげたこともあったが、安価な普及品の方が「遠慮せず使える」として好んだ。

最後まで楽させるような親孝行をできなかったから、せめて母の日と誕生日は必ずプレゼントしていた。

だが今それをすることすらできなくなって、あっという間に4年の歳月が流れた。

仏前に供えることで何か買ってきても良いかな・・と思ったが、ちょうどカーネーションがついた仏花が売っていたのでそれで良しとした。

我が家には、今も母愛用の洋服タンスがそのままにしてあり、引き出しには母の服と何十枚ものハンカチが詰め込まれている。

何度か確認の為に開けたが、中身をかき回した事はない。

故に、母が洗濯して畳んで入れたままの状態だ。

私物は現世と天界が繋がっていると言うから、多分今も「向こう」で使っているのだろう。

そう思うと、やはりハンカチ1枚買って来れば良かったかな?と思うが、明日以降でも良いだろう。

母親と離れて暮らしている人は、コロナ禍で会う事さえも躊躇されて気の毒だと思う。

でも明日でも良いから、電話一本して欲しいし、今ならネットで何かを注文してお母さんに届けてもらう事も難しくないはず。

もちろん昨日今日母の日をできた人は良いが、コロナ禍のせいにしたり仕事のせいにしてスルーしない方が良い。

感謝の気持ちは、お母さんならば必ず伝わる。

母親は、いつの時代も偉大な存在。

いて当たり前・・と思うのは子供の勝手な都合で、分かっていても永遠の別れは急に訪れる。

ならばできる今こそ、お母さんを大事にしよう。





夜はやはり気温が下がり、上着は必要だ。

かと言って日中着たままは暑く、手に持ち歩くのも不便。

若い人なら、薄着で良いだろうが、このご時世ちょっと風邪気味・・になれない。

全く誰でも罹る風邪なのに、どうして世間に気を使わなければならないのか。

人が多い場所でゴホッと咳をしただけで、周囲からじろりと睨まれそうだ。

そうならない為には、身体を冷やさないようにしないと。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

初夏を実感できる天気が続き、光が眩しく思えるようになりました。

季節の移ろいは、本当に早く、そして毎年必ず訪れるものです。

世間はひたすらざわついて、いつしか自然に心を落ち着かせる余裕がなくなっているように思えます。

君もいろいろ大変だと思いますが、新緑の中で深呼吸して見て下さい。

きっと不安が意味のない事に思えて来ることでしょう。

空気が乾燥し、朝晩はまだ冷え込むことがあるので、体調管理には気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



暇(いとま)無み 五月をすらに 吾背子が 花橘を 見ずか過ぎなむ(万葉集巻八 1504 高安の歌)






飛行機ネタ。

「バルト三国」と聞いてすぐわかる人は、意外と少ないのではないか。

日本では一部を除いて、あまり話題になることがなく、航空路も拓かれていない。

名前の通り、ヨーロッパ北部に食い込むように入り組む海「バルト海」沿岸に位置する3カ国を指す。

最もバルト海沿岸には多くの国が面しているが、3カ国はバルト海の一番奥にある。

3カ国は南北に並んでいて、北からエストニア共和国、ラトビア共和国、そしてリトアニア共和国を指す。

海に面していることは、港として栄えることであり古代から人が住みついていた地域だが、中世以降は様々な民族や国が支配を繰り返す所でもあった。

「バルト三国」と一括りにされるのは理由があって、地勢的な特徴を持つと同時に周辺とは文化や民族的に異質な部分があるからだ。

国際情勢に詳しい人ならば、三国は30年前までソ連の構成国だったことを記憶しているだろう。

位置的に三国はいわゆる「東欧圏」にあるように見えるが、文化的には北欧に近く、現在は東欧ではなく「北欧」に区分されることが多い。

例えば最も北側にあるエストニアは、バルト海を挟んで対岸にはフィンランドがあり、エストニアの首都タリン都フィンランドの首都ヘルシンキは100キロ足らずの距離にある。

1-1-28A-Tallinn.jpg ←エストニア共和国の首都タリン(ウィキペディア英語版より)

同国を構成するエストニア人は「フィン・ウゴル族」に分類され、アジア系の遺伝子を持ち、フィンランド人と極めて近い。

公用語であるエストニア語もフィンランド語とは別言語とされるが、意思の疎通は可能だと言われる。

一方真ん中のラトビア、南端のリトアニアで話されるラトビア語、リトアニア語はロシア語などのスラブ系、ドイツ語やスウェーデン語などのゲルマン系、そしてフランス語などのラテン系などヨーロッパの主流である言語系に全く属さない珍しい独立系言語で「バルト諸語」として区分されている。

ただし歴史的には、エストニアはフィンランドやスウェーデン、ラトビアはドイツ、リトアニアは現在も国境を接するポーランドとつながりが深く、文化や宗教などでは共通する部分も多く見られる。

近世三国はロシア帝国の支配を受け、「ロシア革命」の後独立を果たした。

しかし第二次大戦が始まるとナチス・ドイツに占領され、終戦を迎えると再独立する暇を与えずソ連が「占領」し、どさくさにまぎれてソ連に組み込んでしまった。

数百年と言う長い時間を経て、やっと名実ともに独立を果たしたのはソ連が崩壊する直前であった。

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1-1-28A-Vilnius_11.JPG ←(2枚)ラトビア共和国の首都リガとリトアニア共和国の首都ヴィリニュス(ウィキペディア英語版より)

ソ連が社会主義政策を大幅に転向し、自由化を図った80年代末、最初に独立運動を起こしたのはこの三国だった。

ソ連政府は「反逆」と言う名目で軍事介入をちらつかせて脅したが、自由化で世界にその情勢が伝わりやすくなったことで国民が「人間の鎖」運動を起こしたのである。

ソ連の「脅し」はすぐさま世界から強烈な避難を浴びることになり、三国は独立を果たすとともに、ソ連自体の崩壊の引き金になった。

40年以上に渡るソ連の支配は、政治的建前を持っての「ロシア化」政策が中心だった。

ソ連崩壊後、構成国は「CIS(独立国家共同体)」を結成したが、三国はソ連崩壊前に独立したこともあって加盟しておらず、00年代に相次いでEUに加盟している。

それ以上に「反ロシア」感情が強い国々でもあり、エストニアやリトアニアのようにロシア系住民に国籍を与えない、ロシア語を公用語として認めないなど、露骨な反ロシア政策を行っている。

比較的寛大な政策を持つラトビアでも、ロシア語や文化の排斥傾向は強いとされる。

独立して30年以上経過し、近年には念願の「ユーロ圏」への加盟も果たして、経済成長も著しい。

三国とも、大国に蹂躙されたものの国土を戦火で荒らされなかったこともあって、世界歴史遺産が多く、観光業が盛んである。

いずれもヨーロッパでは珍しくない小国で、面積も同じくらい。

最も広いリトアニアが約6.5万平方キロ、人口は約280万。首都はヴィリニュスで、人口は約60万。

次いでラトビアが6.4万平方キロ、人口は約200万。首都はリガ、人口約70万。

最も小さいエストニアは4.5万平方キロ、人口132万。首都はタリン、人口約42万。

三国合わせると、面積は日本の約半分。人口は僅か1/20だ。

小国故の経済政策が重要で、各国とも独自の経済政策を続けている。

エストニアは金融・IT産業を主幹としており、世界初の「電子政府」を構築。

海外からの投資を見込んで、一定の税金や登録料を収めると誰でもエストニアの居住権を得られると言う先進的なシステムを持つ。

「スカイプ」を発明した事でも知られるが、現在ではEU及びNATOの「サイバーテロ」対策の事務所もエストニアに置かれている。

エアラインも、三国は独立と同時に発足させ、西欧との繋がりに大きく寄与した。

いずれも第二次大戦前からエアラインが存在していたが、戦時中に運航は停止。

戦後は当然のように「アエロフロート」に統合された。

エストニアは91年、国営フラッグキャリアとして「エストニアン・エア」を設立した。

当初はアエロフロートの旧ソ連機を使っていたが、すぐに中古機で「西側製」に切り替え、路線を拡大させた。

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1-1-28A-Estonian_Air_B737-500_.jpg ←(2枚)エストニアン・エアの主力機だったB737-500(ウィキペディア英語版より)

路線はヨーロッパ域内に限られ、長距離路線は持たなかったが、B737を主力にしたほか、プロペラ機も導入して近距離線の運航も積極的に行っていた。

96年には民営化が決定し、北欧最大大手であるSAS(スカンジナビア航空)が筆頭株主になり、同社とのコードシェア運航を開始した。

機材も中古機が主流ながら、SASからリースなどで更新するようになり、利便性・サービス体制も充実した。

だがエストニア自体小国であり、国内には数か所の空港しかないことや、鉄道や道路網が整備された事で需要は伸び悩んだ。

1-1-28A ESTONIAN_Tu-134A,_Estonian_Air.jpg ←91年設立当初運航していたエストニアン・エアのTU-134A-3(ウィキペディア英語版より)

同社の主な業務は国際線と言う事になるが、アエロフロート時代が長く競争力と言う点で力不足感は否めなかった。

リトアニアでもほぼ同時期に国営リトアニア航空を設立し、エストニアン・エアと同様旧ソ連機から近距離国際線の運航を開始。

その後、B737などをリースしてソ連機を更新した。

当初ロシアやベラルーシ、ウクライナなど旧ソ連の諸都市を中心に路線を展開したが、西欧方面にシフトさせ、フランクフルトやロンドンに就航した。

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1-1-28A-Estonian_Air_Saab_340A_ES-ASN.jpg ←(2枚)近距離線用として運航されたエストニアン・エアのサーブ340B(ウィキペディア英語版より)

機材も中古機ながら、リース機だった古いB737-200などからB737-300/500に変更し、近距離路線及び低需要路線向けにサーブ2000を購入し近代化を促進させた。

その為にアメリカの投資銀行などから援助を受けての事だったが、今度は西欧のメジャーと「直接対決」を強いられる事になった。

利用率は好調だったが、便数や就航地数、そしてサービス面でルフトハンザなど大手には太刀打ちできず、負債が増加した。

05年にチャーター運航などを手掛ける「FLYLAL」グループに売却することで民営化され、社名も「フライ・ラル・リトアニア航空」に変更された。

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1-1-28A_Lithuanian_Airlines_B737-300.jpg ←(4枚)リトアニア航空のB737-200/300/500(ウィキペディア英語版より)

ところが西欧メジャーに加え、同じなると三国ラトビアのフラッグキャリア「エア・バルティック」と価格競争に巻き込まれ、09年に倒産した。

尚親会社である「フライ・ラル」は継続し、チャーター運航専門エアラインとして残存したが、リトアニアの定期エアラインは20年未満で消滅した。

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1-1-28A LITHUANIAN SAAB2000 LY-SBC.jpg ←(2枚)リトアニア航空設立当初運用されたTU-134A-3と後の主力機になったサーブ2000(ウィキペディア英語版より)

エストニアン・エアはもう少し頑張ったが、赤字は解消できず、10年にエストニア政府が資金援助することで再国営化、経営不振からの脱出を試みたが、欧州銀行から不法資金援助の警告が出されたことで、政府は直接の資金投入を断念。

15年エストニアン・エアは会社清算、事実上倒産した事で、同国からもエアラインが消滅した。

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1-1-28A LITHUANIAN B737-500 FLYLAL-LY-AWE.jpg ←(2枚)組織改編で「FLY LAL」になったB737-500(ウィキペディア英語版より)

結果残ったのはラトビアの「エア・バルティック」で、同社もSASが支援して設立したエアラインである。

設立は少し遅く95年の事で、ラトビア政府とSASを経営母体とする公営エアラインとして運航を開始した。

SASとの関係が強く、マイレージサービスなどでパートナーシップ提携を結び、貨物事業も展開した。

機材は当初中古の「4発機」、アブロRJ-70やサーブ340Bで運航を開始した。

1-1-28A_Air_Baltic_RJ70 CPH.jpg ←就航当初導入されたエア・バルティックのRJ70(ウィキペディア英語版より)

99年には株式会社として民営化されたが、00年代にSASとの資本関係が解消されたため、同社の株式の大半はラトビア政府が買い取り、数パーセントが投資会社の保有となった。

登記上は株式会社の民営エアラインのままだったが、事実上現在まで国営エアラインと同じ経営になっている。

民営化をきっかけに機材の充実を行い、やはり中古機ながらB737-300/500を10機以上導入した他、近距離線用としてDHC-8-400も導入し、需要に合わせた運用を行った。

また将来的な長距離線開設に合わせてB757-200もリースで導入したが、目標とした大西洋方面の需要予測が困難なSことから短期間でリースバックされている。

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1-1-28A-Air_Baltic,_YL-BAI_DHC-8-402Q.jpg ←(4枚)エア・バルティックのB757-200、B737-300/500、DHC-8-400。これらの機材は現在全て退役した(ウィキペディア英語版より)

結果的にヨーロッパ域内を中心とした運航に集中し、チャーター運航で地中海方面へ展開したが、00~10年代になるとリトアニア航空、エストニアン・エアが相次いで経営破綻・運航停止となり、同社は両国の運航権を取得した。

更に域内の営業権も認められたことで、ラトビアのフラッグキャリアの他に「バルト三国」のエアラインとしての使命、ヨーロッパ全域のエアラインとして機能するようになった。

最も経営状態は決して芳しいものではなく、何よりもラトビア自体の経済力にも限界があったため、思い切って保有機の統合・整理を計画。

カナダ・ボンバルディア社が自主開発した新型リージョナル機(CS300)をいち早く発注し、世界で最初に同機の運航を開始したエアラインとなった。

これを機にサービス体制などもリニューアルし、実質的にLCCとして格安運賃運航がメインになった。

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1-1-28A AIR BALTIC A220-300-YL-CSF.jpg ←(2枚)現在エア・バルティックの主力機A220-300.すでに20機以上を運航し、モノクラス145席(ウィキペディア英語版より)

CS300は導入後、販売権がエアバス社に売却され「A220-300」となったが、同社は現在まで20機を超える同機を保有している。

同機の増強に合わせて、従来の保有機が順次整理され、保有機はA220-300に統一されている。

サービスは「準LCC」と言って良い、最近では標準的なサービス。

ミールサービスは全て有料だが、セットメニューや特別職は予約制で注文が可能だ。

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1-1-28A-Air_Baltic_Airbus_A220_YL-CSK.jpg ←(3枚)「バルト3国」の国旗をデザインしたA220-300特別塗装機。上からラトビア、エストニア、リトアニア(ウィキペディア英語版より)

エア・バルティックはラトビアのエアラインながら、ヨーロッパ各地に路線を拡張している。

最大のLCC、アイルランドのライアン・エア、イギリスのイージージェット、ハンガリーのWIZZ、スペインのヴエリングなど大手には及ばないものの、準LCCとして差別化して高品質なサービスに高い評価を得ている。

乗務員もラトビア人だけでなく、各国から採用していて社員同士のコミュニケーションは英語が基本だ。

バルト三国以外での路線も増えており、オランダ・アムステルダムが拠点の一つになりつつある。

また定時就航率は、年間通じて95%以上を記録し、ヨーロッパのエアラインではトップの成績をたたき出しており、大手メジャー並みの信頼度を築きつつある。

ラトビアは三国の「真ん中」にあることもあって、ラトビアのエアラインでありながらもエストニアとリトアニアのエアラインもかめている状況にある。

エストニアでは、エストニアン・エア倒産後、路線の権利や資産の一部は民間のリージョナルエアライン「ノルディカ」が引き継いだが、現在はポーランドのフラッグキャリア「LOTポーランド航空」の受託運航と言う形態で運航を続けている。

「ノルディカ」はエストニア登録のエアラインだが、全てLOT便として運航するため自社便運航はない。

機体はCRJ900だけで、独自の美しい塗装を施し「NORDICA」のロゴも記入されている。

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1-1-28A ESTONIAN Nordica_CRJ-900ER.jpg ←(3枚)エストニア唯一のエアラインとなったノルディカのCRJ700とCRJ900ER。CRJ700は退役し、全便がLOTポーランド航空便として運航している(ウィキペディア英語版より)

「バルト三国」と言っても、その歴史や置かれていた状況が似ていただけで、小国ながら各国の文化・言語・風習などは大きく違っている。

だが歴史的には「ワンセット」で歩んだ時期も多く、一種の連帯感も存在するようで、エアライン事情がそれを物語っていると言える。

経営状況はコロナ禍で厳しいが、今後「新しい北欧のエアライン」として成長する余地は充分持っている。

各社の塗装は、設立時にはさすがに垢ぬけしないデザインだったが、その後はいずれも美しいデザインに変更された。

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1-1-28A ESTONIAN-ES-ACB_CRJ900_Estonian_Ai.jpg ←(5枚)国旗をモチーフにしたエストニアン・エアのフォッカー50、B737-500、E170、CRJ900ER。E170はエア・リトアニアから移籍した機体、CRJ900ERはノルディカに継承された(ウィキペディア英語版より)

エストニアン・エアは、同国の国旗をモチーフとした青・紺・白の3色をあしらっており、後継となったノルディカでも配色意匠は継承されている。

リトアニア航空も国旗をモチーフにした物だが、黄色・赤・緑はヨーロッパと言うよりもアフリカ系の配色に思える、末期のFLY LALでは、180度イメージチェンジ。ホワイトボディにピンクの大きなロゴと言うLCCの様な現代的で大胆な塗装に変更したが、ごく短期間で運航を取りやめている。

エア・バルティックは初期こそ大人しいデザインだったが、これは短期間の仕様に留まりB737の導入後現行塗装に変更した。

全体的には大人しいデザインと言えるが、エンジンと尾翼のライトグリーンは清潔感・清涼感があり、好感を持てる塗装である。

日本のソラシード・エアと良く似ている。

飛行機ネタ 今もこれからも飛び続ける3発機、KC-10A(5月5日 雨のち曇り 17℃)

あっという間にGW最終日。

低気圧の通過で、朝から雨。何とも冴えない連休最終日である。

最高気温は朝早く記録されたもので、日中は14℃前後と「湿気寒い」1日だった。

最も冴えない空模様を嘆く人は少ないだろうか、世の中はコロナ禍で相変わらずだ。

「普通の連休」がお預けだから、明日からを「連休ロス」になる人はあまりいないのでは?

逆に「どうせどこへも行けないから」と、明日明後日を「有給」にして日曜日まで・・と言う人も少なからずいるようだ。

しかし観光地では人出が多く、「緊急事態宣言」が出されていない隣県に繰り出す人が多かったと言う。

宮城でも「昨年の連休と比べて」ではあるが、松島では県外からの観光客が増えたと言う。

5月5日は「子供の日」と言う祝日だが、元々は「端午の節句」である。

いわば初夏の「厄払い」に通じる風習で、その起源は平安時代にさかのぼると言われ、さらに突き詰めると大陸の風習に繋がると言う。

江戸時代までの旧暦では、現在の6月初旬に当たる為、元々は「菖蒲」を飾って無病息災を祈る行事だったと言う。

それが武家社会の平安末期から鎌倉時代にかけて、「菖蒲」=「尚武」と解され男子の武勇を祈る行事に変化していったとされる。

端午の節句と言えば「鯉のぼり」だが、日本では古来鯉は吉祥の魚であることから菖蒲及びそれに代わる「吹き流し」が鯉の形に変化していったものと考えられている。

史料ではっきりと鯉のぼりが現れるのは江戸時代中期からで、その起源ははっきりとしないが庶民の間で広がったと言う。

後期の浮世絵な絵巻には、随所で鯉のぼりが見られる事から少なくともその頃には一般に普及していたようである。

そういえばここ何年も、まともに鯉のぼりを見なくなった気がする。

地方では季節イベントとして、渓流などに数百物鯉のぼりを飾る事があり、観光の目玉になっていたりするが、個人宅で飾ると言うのはすたれてしまったようである。

確かにマンションやアパート住まいが多い都会では、自宅で上げるスペースがないだろうし、戸建てだとしても庭が狭いとか近所に迷惑、面倒臭いなどの理由もあるだろう。

スーパーの玩具売り場に行くと、小さなプラスチック製の鯉のぼり(なぜかお菓子付き)が売られていて、鯉のぼりへの意識だけは薄れていないのかな、とも思う。

私が子供の時、自宅には鯉のぼりがあった。

生家は古い戸建てだったが、そこそこ広い庭があり、真ん中に物干しざおをかける柱が建っていて、そこに鯉のぼりを括りつけていた。

残念ながらどういう鯉のぼりだったか記憶にないが、最近古い写真を整理していたら鯉のぼりが写っている写真があった。

ちゃんと1セット揃っていて、写真から見る限りは立派な鯉のぼりである。

祖父母・母とともに中心に写っているのは、もちろん「可愛い」私である(笑)。

恐らくは1~2歳のころだろう、当然この時の記憶はない。

それでも私が小学生の時までは、毎年祖父が飾っていた。

住宅街だから、鯉のぼりが空を泳ぐ事は難しかったが、私はもちろん嬉しかった。

鯉のぼりは私の為ではなく、ずっと昔からあったらしい。

母はきょうだいで唯一の女子であり、他は男子。すなわち私の叔父達なのだが、母は6人きょうだいの末子だったから、叔父達の時代に作った鯉のぼりだったらしい。

だとすると、この時点で3~40年は経っていたはずだし、当時「既製品」として売っていたことは少ないから祖父の「オーダーメイド」だったと思われる。

この鯉のぼり、どこに行ったのだろう?

祖父は私が中学生の時に他界し、以後鯉のぼりを出す人はいなくなった。

10年後生家に住んでいた叔父と祖母が相次いで亡くなり、住む人がいなくなって家と土地は人手に渡った。

その前に私と母、叔父達と家財の整理を行い「形見分け」もしたが、鯉のぼりはどこにもなかったと思う。

先に亡くなった叔父が処分したと言う可能性もあるが、そうした話は聞いていない。

ふと小学生の時、祖父に「この鯉のぼりはお前にやろう。将来子供が出来たら飾ってやりなさい。」と言われた事を思い出した。

今更だけれど「しまった!」と思う。

子供過ぎて、祖父の言っていることを良く理解できていなかった。

加えて子供心に、別に鯉のぼりなんてもらっても・・と思った気がする。もちろん口には出さなかったが。

ちゃんと理解していれば、祖父から私へ「代々」引く継ぐ家系の証になったかも知れない。

甚だ残念で愚かな事だと後悔するとともに、祖父の気持ちに応えられなかったふがいなさを痛感した今年の端午の節句である。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

GW、君はどう過ごしましたか?

もしかしたら仕事が忙しく、これから休みと言うかも知れませんね。

5月になって、春から初夏へ。

街は青空と新緑が綺麗になりました。

気温も汗ばむ陽気になる日も、これから増えて来るでしょう。

身体が慣れるまでは、気温差が負担になることもあるので、体調管理には注意して下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




み空行く 月の光に ただ一目 あひ見し人の 夢にし見ゆる(万葉集巻四 710 安都扉娘子)



飛行機ネタ。

私のSNSには、多くの飛行機ファンの呟きを多く見ることができるが、10~20代の若い人が多いのだろう。

話題にするのはB787やA350と言った、まさに「現代っ子」を「好き」「格好良い」と言う人が大半だ。

たまにB767やB737が好き・・と言う人もいるようだが、いずれにしても現役バリバリの機体ばかりだ。

実際に見て乗ることができるから当然なのだけれど、少し古い旅客機は見向きもされないような風潮にも思える。

「コロナ前には戻らない」と言われて久しいが、世界のエアライン事情は先が見えないだけに厳しさが増す一方だ。

それは全ての面に置いての「大規模リストラ」であり、もしコロナが収まった後はどうするのだろうか・・などと思ってしまうぐらい、エアラインの形態は変化してしまった。

利益が上がらない以上、エアラインにとっては死活問題であるし、国によってはエアラインが倒産すれば全体に大きなダメージが出かねない時代である。

とにかく目先の事だけでも・・・と言う想いから、古い機材や運航コストの高い機材は、まだまだ寿命があるにもかかわらずどんどん追いやられて姿を消している。

コロナ禍前から既にそういう風潮は出来ていたにせよ、いっそうの拍車がかかった状態である。

「夢の豪華旅客機」と世界中が期待したA380でさえ、デビュー後10年足らずでコロナ禍の前に、いわば残酷なまでに「戦力外」を通告される始末だ。

「現代っ子」の新鋭機が、コロナの様な災難を乗り越えられる物と言う認識がどこかしら浸透しているのだ。

それが過去の機体を、単なる「時代の産物」として忘れ去られる事は今を否定するのに等しいと思う。

それでもインパクトの強いA380やB747は、今でも話題に上るけれど「3発機」となるととみに話題性が低くなった気がする。

先の若いファン世代になると、実機を見たこともない人もいて、現実味がないのだろう。

これまでに何度もここで書いて来た「DC-10」は、70年代に開発された「3発ワイドボディ機」。

日本では日本航空と旧日本エアシステムが70~90年代にかけて導入し、国際線・国内線で活躍した。

両者とも00年代に老朽化を理由に退役し、世界でも現時点で旅客機として運航する機体はない。

辛うじて貨物エアライン最大大手、アメリカのフェデックスを筆頭に貨物機として残存する機体もあるが、最後に製造された機体でも30年近い機齢の為、引退は時間の問題だ。

増してコロナ禍で、その勢いは更に加速度を増しそうだが、「民間機」に限定しなければ、実はこの「3発機」は「現役バリバリ」にあるのだ。

ファンの方なら周知の事実だろうが、アメリカ空軍が運用する空中給油機・輸送機の「KC-10Aエクステンダー」だ。

1-1-27A-KC10_-_RAF_Mildenhall_.jpg  ←現時点でも現役にある「DC-10」の空中給油機KC-10Aエクステンダー(ウィキペディア英語版より)

米空軍は、第二次大戦直後から空中給油機の必要性を見越して、既存の輸送機や大戦で余剰となった爆撃機などを改造した。

それはジェット時代の到来とともに、冷戦で自由陣営のリーダー格になったアメリカは、迅速かつ長距離に進出できる空軍を計画した。

しかし当時のジェット機は燃費が悪く、「仮想的国」となったソ連は「地球の裏側」に当たり、戦略上軍用機の航続力延伸は必須の課題であった。

空中給油は第一次大戦後から既に試されていたが、実用化されたのは第二次大戦後である。

40年代にはレシプロ機の給油機が主体だったが、50年代になると戦闘機や攻撃機はもちろん、輸送機もジェット化が進んだことで、速度の遅いレシプロ給油機では用を足さなくなっており、ジェット化が急務になっていた。

空軍が目をつけたのは、ボーイングが初めて開発中のジェット旅客機「367-80」と言う4発ジェット機だった。

これはのちに「B707」の母体となる機体で、初期の時点では軍の新型給油機・輸送機が優先され、「C-135」シリーズとしてデビューすることになった。

1-1-27A KC-135R-22doperationsgroup-kc135.jpg ←今なお400機近くが現役にあるアメリカ空軍のKC-135R/T。エンジンを換装し大改修を加えて2030年代まで現役に留まる(ウィキペディア英語版より)

C-135は「367-80」とほぼ同格の機体であるが、旅客機としては胴体直径が小さいとされたため、B707では若干拡大された胴体で生産されている。

C-135は輸送機としての他、米空軍待望の空中給油機としても生産されることになり、以後約30年間、1,000機近くが生産された。

しかし70年代になると、初期生産機が老朽化し始めたことに加え、ベトナム戦争などで損耗した機体もあり、数を補てんする意味で新しい後継機の計画がスタートした。

計画は76年に正式に開始され、全く新規の軍用機ではなく、既存の旅客機ベースの機体にすることで予算削減も目標に掲げられていた。

候補に挙がったのはB747、L-1011トライスター、そしてDC-10の3機種だった。

いずれもジェット大量輸送時代に臨まれた、最新鋭かつ世界ではこの3機種だけが「ワイドボディ機」だった。

米空軍はKC-135(C-135の空中給油機型)の欠点を踏まえて、これらワイドボディ機が必須であると結論していた。

KC-135は優秀な機体ではあったが、B707と同じくナローボディ4発機で、エンジンも低バイパスエンジンで積載量には限界があった。

また胴体が小さいことで、大型化・高性能化が進む作戦機に対して、能力不足が出始めていたのも理由だった。

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1-1-27A_KC-10A_Extender_(DC-10-30CF),_79-30077.jpg ←(3枚)80年から運用を開始したアメリカ空軍のKC-10Aは、当初エアラインの様な塗装を施していた(ウィキペディア英語版より)

空軍が求めたのは、もちろんKC-135よりも多くの給油燃料が搭載できること、自機が長距離運航能力を持つこと、そして燃料だけでなく貨物や人員輸送も行えることなど「多目的性」が重要視されていた。

結果としてDC-10が選ばれて、メーカーであるマクドネル・ダグラスに60機の新型空中給油機が発注され、原形機は80年に初飛行し直ちに空軍に「KC-10A」として納入された。

ベースとなったのは貨客両用型「DC-10-30CF」で、90%が共通の部品と構造で構成されている。

DC-10はB747程の需要がなく、アメリカ大陸横断用に大量輸送できる「エアバス構想」から生まれた初の3発ワイドボディ機で、同時に開発していたロッキード社の「トライスター」と熾烈な競争を行って誕生した。

いずれもエンジンは主翼と胴体尾部に取り付ける形状で、キャビンは747より若干小さく、座席は横8列もしくは9列が標準だった。

1-1-27A KC-10A_B-52_Stratofortress_receiving_fuel_from_a_KC-10_Extender.jpg ←B-52Hに給油するKC-10A(アメリカ空軍提供)

開発自体はトライスターが先行していたものの、同機は政治的・経済的思惑が絡んでエンジンをイギリス製の「ロールス・ロイスRB211」を予定していたが、開発費用がかさんでロールス・ロイス社が破綻するアクシデントに見舞われ、もたついている間にDC-10に追い抜かれてしまった。

実際にはトライスターの方が高性能で、ロッキード初のジェット旅客機だったにも関わらず技術的な問題は殆ど起きなかったのに対して、初期のDC-10は構造上の問題が多く、事故を頻発させていた。

70年代末には徐々に解消していたが、その状況でも敢えてDC-10が選ばれたのはエンジンが「国産」だったことだ。

民間エアラインと違い、軍の場合当時は国の「メンツ」も絡むことが多く、トライスターのトラブルでは費用を巡って米英間で政治問題に発展した経緯もあった。

DC-10はGE社製「CF-6」エンジンが標準で、その後P&W社の「JT-9D」も選択肢に追加されたが、KC-10AではCF-6が装備されている。

1-1-27A_KC-10A_Extender_on_short_finals_at_Berlin_Tempelhof.jpg ←90年代以降はグリーン系の迷彩だったKC-10A(ウィキペディア英語版より)

DC-10とKC-10Aの外観上の大きな違いはなく、機内もほぼ貨物型「CF」の準じている。

またコクピットも、一部の計器や装置が軍用であること以外は基本的に共通であり、当然ながら機関士が乗務する3人乗務機だ。

最大の特徴は、尾部に装備される給油装置で、全長10メートルに及ぶ「フライング・ブーム」だ。

給油用の燃料は、床下貨物室が宛がわれており最大で160トン(220キロリットル)を搭載できる。

大型戦略爆撃機B-52Hなら約1.5機分、F-22Aラプターだと約14機分、F-35ライトニングⅡならば約50機分に相当し、KC-135の1.5倍の搭載量を持つ。

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1-1-27A KDC10-Eindhoven_Air_Base.jpg ←(2枚)KC-10Aの給油装置。その形状から「エレファント・ウォーク」と呼ばれている。フライングブーム付け根右側には「プローブ」が1基だけ装備されている(アメリカ空軍提供)

メインデッキは完全な貨物室で、胴体左側前部に大型のカーゴドアを備えている。

床にはコンテナ及びパレット移動用の電動ローラーが装備されているが、別の床板を敷くことで最大77名分の座席を設置することも可能だ。

給油は後部にいる専門のオペレーターが行うが、KC-135ではスペースの関係で「腹ばい」になって捜査せざるを得なかったが、KC-10Aでは専用の「部屋」があり、座席が設けられて作業環境が大幅に改善された。

給油装置であるフライング・ブームも、KC-135では油圧と電動ながらもマニュアル操作だったが、KC-10Aではコンピューターを介する「フライ・バイ・ワイヤ」方式に改められ、オペレーターは操縦桿の様な2本のスティックでブームを操作する。

フライングブームは、1分当たり約4,800リットルの給油が可能で、KC-135の倍近い能力を持つ。

米空軍の機体は全てフライングブーム方式を採用しているが、海軍や海兵隊、同盟国などでは無誘導の「プローブ&ドローグ」方式が主流の為、KC-10Aではフライングブームの脇に1本だけ給油プローブが装備されている。

ただし1度に両方は使えない。

1-1-27A KC-10A-Defense.gov_News_Photo.jpg ←給油作業中のオペレーター(アメリカ空軍提供)

民間型DC-10と事なっている点で違っているのは、コクピット上方に自身の空中給油口が設けられている事。

給油機が給油?と思うけれど、これこそ世界最大の空軍ならではの手法。

給油用の燃料と自機用の燃料を満載すると、旅客機と同じく最大離陸重量を超えてしまう可能性がある。

その為に戦闘機や爆撃機に給油する機体は、離陸重量以内で離陸し、上空で「給油機に給油」する為もしくは自機の別機から燃料を「受け取る」のだ。

運用にはち密な計算を必要とするが、これならばフルペーロードで給油任務をこなせるわけだ。

事実91年の湾岸戦争の時には、短期間で全ての部隊を中東に派遣しなければならなかったので、例えば20機の戦闘機・攻撃機をアメリカ本土から駐留場所となるトルコやサウジアラビアまでノンストップで送り届けるために、同数以上の給油機が同行した。

更に「給油機に給油」するための機体は、同数以上が用意され、交替しながら給油した。

1個中隊の戦闘機や攻撃機を派遣するのに、延べ数十機と給油機を稼働させた事になる。

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1-1-27A KC-10A-908th_Expeditionary_Air_Refueling_Squadron.jpg ←(2枚)給油母機に近づき給油を受けるKC-10A。飛行中の「DC-10」をこの角度から見られるのは軍用機ならでは(アメリカ空軍提供)

KC-10A自体の航続距離は10,000キロ以上であり、貨物だけ搭載しても大西洋を横断できる能力を持つので、貨物と給油を同時にこなす事も出来る。

機体の小さいKC-135では出来ない能力で、同機の就役で米軍の世界展開能力は飛躍的に向上したのである。

アメリカはその地勢上、紛争地域にはどうしても海を横断する必要があるので、空中給油能力は必須なのである。

一方大陸に位置する旧ソ連・ロシアは、そうした状況が少なく、局地戦向けの戦略を占めており、給油機の数は現在までそう多くない。

現在米空軍は600機近い給油機を保有しているが、そのうち約500機はKC-10Aを含むジェット機である。

そのほかに海軍・海兵隊・陸軍がC-130ベースの給油機を保有しており、当然この規模を持つのは米軍だけである。

自国だけでなく、日本を含む同盟国機への給油も任務になっており、演習では各国軍機との給油訓練が頻繁に行われている。

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1-1-27A KC-10_crew_enjoys_in-flight_at_30,000_.jpg ←(2枚)民間型DC-10-30CFの同様の貨物積載能力を持つKC-10Aは、軍事物資だけでなく災害救援などでもその搭載量・航続距離・速度で威力を発揮している(アメリカ空軍提供)

米空軍では、現在B767-200ERをベースとした新型給油機「KC-46Aペガサス」を調達中で、約150機の配備を予定している。

我が日本の航空自衛隊では「KC767」を4機、KC-46Aも4機導入することが決定しているが、米軍の規模とは比べ物にならない事がわかるだろう。

ただKC-46Aは、老朽化したKC-135の後継機種でありKC-10Aの退役予定はまだない。

更にトランプ政権の緊縮財政のおかげで、給油機の体制も見直しを余儀なくされKC-46Aの調達数は削減されてしまった。

また同機はある意味「いわくつき」の機体で、空軍では殆ど興味を示さなかった機体だった。

KC-135の後継機種として安価な「A330MRTT」の導入が決定されたものの、エアバス社の売り込みに不正があったと議会が騒いで「お流れ」になってしまった。

要するに「国産機」にしろ、と言う一種の圧力であったが、この時点で実用化できるのは輸出向けに作られたKC-767だけだった。

空軍は止むなく、独自仕様を施し改修した「KC-46A」に変更せざるを得なかったという経緯を持つ。

同機は主翼端に「プローブ&ドローグ」のリールポッドを持ち、2機同時に給油が可能である他、旅客機ベースなので物資輸送や人員輸送もこなす事が出来ると言う点ではKC-10Aと同じだ。

1-1-27A MC-46A-N464KC_taking_off_in_October_2018.jpg ←紆余曲折の上配備が始まったKC-46Aペガサス(ウィキペディア英語版より)

しかし機体規模と言う点ではKC-10Aに及ばず、A330の方がキャパシティは大きい。

また国産機にもかかわらず、価格もA330MRTTより高価になっており、実力はともかく予算を鑑みると中途半端な機体になってしまった。

調達数が減らされた事もあり、空軍はKC-135とKC-10Aの延命及び改修プログラムを計画し、当分の間3種併用を決定している。

最も古いKC-135は、90年代以降エンジン換装を主とする大規模改修を行っているが、それに加えて構造材の交換、フライ・バイ・ワイヤ化とPグラスコクピット化を開始している。

経年機は順次KC-46Aと交替させる予定だが、それでも現在400機近くが現役にあり、近代化改修も200機以上が予定されている。

最も新しい機体でも、機齢は40年に達するが、大規模改修により少なくとも2030年代いっぱいは現役に留まるものと見られている。

古いKC-135ですらこうだから、それよりも新しいKC-10Aに関しても当然で、最近近代化改修プログラムが開始されている。

これにはグラスコクピット化の他、翼端のリールポッドを追加、それに伴う給油能力の強化、機体構造の強化が含まれている。

1-1-27A_KC-10__refuels_a_F-A-18C.jpg ←「プローグ&ドローグ」で海軍のF/A-18Cに給油するKC-10A(ウィキペディア英語版より)

昨年就役後初めて退役機が2機出たが、それでも60機中58機が現役を続け、最低でも2~30機程度が更新プログラムを受ける事が決まっている。

米空軍以外では、オランダ空軍が同機を運用していた唯一の例。

オランダ空軍は、95年にマーティン・エアが運用していたDC-10-30CFを中古機として導入し、給油機に改造した。

KC-10AはDC-10-30CFをベースとしながらも、全機が新造機として最初からKC-10Aとして生産されたが、オランダ空軍機は改造機であることから「KDC-10」と言う名称を用いている。

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1-1-27A KDC10-Royal_Netherlands_Air_Force_KDC-10.jpg ←(3枚)19年に退役したオランダ空軍の給油機KDC-10。グレー迷彩塗装ながら民間エアラインのDC-10のようにも見える(ウィキペディア英語版より)

給油機としての性能はほぼ同格だが、給油のための燃料積載量はいくらか少ない。

給油オペレーター席は尾部ではなく、操縦席後方のメインデッキにあり、カメラの画像を見ながらリモートコントロールで給油する。

1-1-27A_DC-10-30(CF),_Martinair_Holland_.jpg ←KDC-10の前身、マーティン・エア時代のDC-10-30CF(ウィキペディア英語版より)

貨物用サイドカーゴドアはそのまま残されていて、物資輸送の他専用のパレットを敷いて座席を設置して人員輸送できるのはKC-10Aと同じだ。

同空軍では述べ4機のKDC-10を運用し、オランダ空軍だけでなくNATO軍の給油機としての任務もあり、国外派遣任務にも参加している。

後継機にはA330MRTTが決定し、19年にKDC-10は退役した。

1-1-27A-KDC-10_Extender_of_the_RNLAF.jpg ←F-16に給油するオランダ空軍のKDC-10(ウィキペディア英語版より)

しかし機体寿命がまだ残っていることから,同機は民間企業である「オメガ・インターナショナル」(アメリカ)に売却された。

同社は「民間軍事サービス」の企業で、B707を改造した給油機「KC707」を保有していて、米軍だけでなくNATO軍の給油オペレーションを受託している。

経費削減効果があるため、近年ではパイロット訓練などの後方支援を請け負う企業が進出し、空中給油も「民間委託」することが増えている。

1-1-27A KDC-10 N974VV_DC-10_Omega_Air.jpg ←民間軍事サービス会社、オムニ・インターナショナルが運用する元オランダ空軍のKDC-10(ウィキペディア英語版より)

同社ではオランダ空軍のKDC-10を2機購入しており、既に1機がヨーロッパをベースに受託運用に就いている。

つまり同社は2020年に「DC-10」の運用を開始したエアライン・・とも言え、民間エアラインでは「過去帳入り」のはずが、給油機として「逆デビュー」しているのである。

KC-10Aにしても、民間貨物エアラインより遥かに重量物を積載する機会が多いことから、「底力」のある3発機KC-10Aは重宝されている。

またエンジンを高バイパスの「F108」(民間呼称ではCFM-56)に換装したKC-135R/Tは、現代的なエンジンを装備したことで運用の柔軟性が増した。

1-1-27A-KDC-10-ROYAL DUTCH AIRFORCE.jpg ←アメリカ空軍の輸送機C-17Aに給油するオランダ空軍のKDC-10(アメリカ空軍提供)

民間と軍用を単純に比べることは出来ないが、「軍用DC-10」は今も効果の高い機種としての認識が強く、KC-135のように4発機でも同様でまだまだ頼りにされている。

軍用では燃費や環境性は民間ほど厳しくないが、「実用性」が重視された結果である。

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1-1-27A_KDC-10-30CF,_Netherlands_-_Air_Force.jpg ←(3枚)見た目は完全な民間エアラインのDC-10に見える、上2枚は初期塗装のKDC-10(ウィキペディア英語版より)

初期には事故も多かったDC-10であるが、KC-10Aでの事故率は低いと言われ、就役後約40年でようやく最初の2機が退役した事は特筆に値するだろう。

現場でも完全に使いこなす技術を蓄積しており、信頼性も高いと言う。

民間機としての役目は終えたが、KC-10Aは今後少なくとも20年以上現役で活躍する。

だとするとデビュー以来、なんと60年以上も「3発機」が飛び続ける計算である。

ベースとなったDC-10-30CFは「コンバーチブル型」とも言われ、貨客両用機。

KC-10Aは新造機の為、客室窓は最初から埋められているが、胴体パーツとして窓枠は残っている。

現代ではコンバーチブル型は全く見向きもされないが、これこそ究極の経済性とは言えまいか。

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1-1-27A_KC-10A_Extender US_Air_Force_(USAF).jpg ←(2枚)旅客機としては「過去」になってしまったが、KC-10Aは今後しばらく「3発機」として姿を残す(ウィキペディア英語版より)

今コロナ禍で旅客需要が減り「プレイター」と呼ばれる、臨時的な貨物機が注目を集めている。

これは床下貨物室の他、キャビンを臨時的な貨物室として利用するものだ。

エアラインによっては座席・ギャレー・ラバトリーを最低限だけ残して全て取り外し、内装に保護シートを貼りパレットを敷いて本当の貨物室にしてしまった機体も出ている。

正にコンバーチブル的な運用法と言えるが、60~70年代には需要こそ少なかったが、オプションとして用意されていた機種が多かった。

B747のように貨客混載の「コンビ型」もあったが、コンバーチブル型はB737にも用意されていたほどだった。

旅客機として運用し、時には完全な貨物機としても利用でき、大型貨物を出し入れできるサイドドアも付いていた。

1-1-27A KC-10A 305th_airmen_execute_Elephant_Walk_in_stride.jpg ←演習のため発進準備するKC-10Aの列線。旅客機時代でもめったに見られなかった「現役3発機」の集団(アメリカ空軍提供)

もし現在なら、コンバーチブル型はさぞかし重宝されたであろう。

そのことを軍用機とは言え、KC-10Aは見事に有効性を証明しているのではないかと思う。

民間では忘れられようとしているDC-10だが、KC-10Aとして実はまだまだ現役に留まると言う揺るぎない事実がある。



飛行機ネタ 今後が気になるフラッグキャリア、マレーシア航空(5月2日 曇りのち晴れ 16℃)

※諸般の事情により2日分の日記を掲載します。

◎4月30日 曇り時々晴れ 20℃

あっという間に4月は最終日。

昨日29日「昭和の日」の祝日からGWが始まったが、今日は半端な「中日」である。

昨日降り続いた雨は未明には止み、午前中こそ雲が多かったが徐々に青空も見えるようになった。

少し風が強めに吹いていたが、気温は20℃超え。

無精な私でも、そろそろ春物上着はどうかな・・と考える。

最も朝晩との気温差が大きく、1日中シャツ1枚・・と言う人はまだ少ない。

街では10~20代の女の子が、春と言うよりも初夏の装いが目立つようになったが、少々我慢しつつの服装かも。

薄い上着を着ているが、じっとしている分には良いのだけど、歩くと汗ばむ事もあるし、室内では暑いと感じる事も。

店などの建物では、まだ「冷房」の季節ではないから、まるで暖房入っているようにさえ思える。

関東以西では、25℃超えの「夏日」も出て来てシャツ1枚、半袖でも良い気候になっているが、東北ではまだ早い。

先の事だけれど、僅か1か月後には「衣替え」のシーズンを迎えるのだから季節の移ろいは時には驚く。

しかも今はとにかくコロナ・コロナ・・で、どうしても季節感を味わう事が憚られてしまう。


◎5月2日

いつしかカレンダーは5月。GW真っ盛りだが、空模様はイマイチだ。

強い寒気を伴った低気圧の影響で、昨日から各地で荒れ模様が続いた。

仙台は昨日雨が続いたが、今日は止んだ。

日中は重苦しい曇り空と青空が交互に現れ、不安定であることが分かる。

県内では雷注意報や大雨注意報が出されたが、少なくとも我が泉区では雨が降ることはなかった。

ただ午後から夕方にかけて、風が強い時間帯もあった。

コロナ禍でさっぱり気分が出ないGWだが、さらに追い打ちをかけるように悪天候と昨日の地震。

宮城県民がそんなに悪い事をしたのか・・と思うほど、この2カ月半の間に震度5以上の地震は3度目だ。

昨日午前中の地震は、3月20日に発生したM6.9の地震の震源に近く、この時のずれの「残り」であろうか。

仙台市は殆どが震度4だったが、宮城野区と泉区だけ5弱を記録。

我が家も2分近く揺れて、よろけるような揺れを2度ほど感じた。

3月20日の地震では、家の中は何も変化がなかったが、昨日は棚の上から幾つか物が落ちた。

2月の福島沖地震に比べると少なく、揺れは2月と3月の中間ぐらいだったと言う事だ。

大きな被害はなかったが、こう立て続けだと変に「慣れて」しまい、防災意識が低下しそうだ。

そしてすっきりしない天気が、余計気分を阻害させるようで嫌だ。

最もGWだからと言って、私は全く予定はないけれど。

仕事はもちろん休みだが、相変わらず貧乏だし(再度一律給付金を望む!)何処かへ行くアテもない。

結果普段と同じく、家でひたすらごろごろしてネット動画でも見て、夕方買い物に行きつつコーヒーでも飲んで帰って来るぐらい。

コロナ禍で市内の飲食店は20時までで、いい加減時短営業は慣れたが、どうする予定はない。

県内一の観光地松島では、昨日の地震と悪天候で連休の出鼻をくじかれたようだが、昨日今日は昨年よりも観光客が多く見られたと言う。

コロナ前とは比べるべくもないが、良い意味でコロナと付き合う気持ちが出ているのではないか。

街も混雑こそしていないが、そこそこ買い物客はいる。

スーパーは通常通りの営業で、飲食店が終了しても買い物する人が多く、要するに飲食店へは「早め」に言って、その後買い物・・と言うパターンだろう。

国や行政は「変異株」の脅威を強調し、半ば脅迫とも思えるように訴えるが、一方でワクチン状況はさっぱり。

加えて未だオリンピックを「無観客でも開催する」と引かず、言ってる事を理解できていないの?と思う。




夕方買い物に出ようと思ったら雨が降っていて、ありゃりゃ傘を持って行かねば・・と準備して外に出たら雨は止んでいる。

僅か数分の事で、なんという気まぐれな空模様だ。

しかも夕焼けが出ていて、一応折りたたみ傘を持って出かけたが以降雨が降ることはなかった。

代わりに強い西風が吹き始め、肌寒くなった。

予報では連休後半の4・5日は晴れて、気温もかなり上昇すると言うが、今日の時点では信用できない。

今年初の「夏日」になる可能性もあると言うが、今日は上着が必要だし、街で薄着の人は見かけない。

関東以西では、子供など既に半袖姿のようだが、仙台ではまだだろう。

仮に気温が上がっても、半袖の季節はずっと先。

極端な気温差は、正直迷惑だ。

そうでなくともコロナで過敏になっていて、ちょっとした「風邪気味」でくしゃみや咳すら憚られるご時世。

季節の移ろいは「徐々に」が良い。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

昨日の地震、君は大丈夫でしたか?

続けざまの大きな地震に不安だと思いますが、小さな地震はあっても大きな地震は当分ないと思います。

備え・・と言っても、突然起きる地震に普段からの備えなど出来る訳もなく、大切なのは冷静さです。

地震は誰もが怖いと思うけれど、本来は地面がちょっと「揺れる」だけの現象。

もちろん津波や土砂崩れと言った危険は伴いますが、これは避ける事が出来ます。

怖いのは地面の上にある、人間が作った「物」だと言う事を考えてみて下さい。

君に会えずとも、いつも心配して守りたいと願っています。

連休はコロナ禍で楽しめませんが、後半は晴れそうです。

気温も上がり初夏の陽気を味わえそうですから、新緑を楽しむ祝日が良いかも知れません。

気温の上下差が大きいので、体調管理には気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




春されば まづ鳴く鳥の うぐひすの 言さきだちし 君をし待たむ(万葉集巻十 1935 相聞歌)







飛行機ネタ。

東南アジアは日本の「お隣さん」と言う事もあって、あらゆる面に置いて関係が深い。

今こそコロナ禍で海外旅行は行けない状況だが、人気の地域である。

政治的・経済的にも日本とは友好関係を持つ国が殆どで、大事な「お隣さん」と言える。

私と違って良く海外旅行に言っていた母は、「ちょうど良い距離」だと言っていた。

日本人には馴染み深いシンガポールやタイだと、距離にして約5,000キロ。

決して近い距離ではないが、わざわざ海外旅行に行く事で「近すぎず遠すぎず」の距離だと言う。

飛行機だと場所にもよるが、日本からだとだいたい5~7時間程度。

機内食など国際線らしいサービスを受けつつ、退屈・窮屈で肉体・精神とも疲労するほどの距離でもなく、それでいて数時間と言うのはいかにも海外に来た・・と言う気分になるそうだ。

加えて常夏と言うよりも、かなり暑い熱帯性気候、エスニックな文化が異国情緒を感じさせ、一方で食文化や宗教文化は日本と似ている事が「ちょうど良さ」を実感できるのだと言う。

些か抽象的表現ではあるが、言っている事は理解できる気がする。

近年ではビーチリゾートなど、海外からの旅行客を意識した観光業も盛んな地域であり、人気が窺えるというものだ。

エアラインも古くから双方との行き来が多く、現在も旅行・ビジネスに行きやすい海外だろう。

日本では東南アジア諸国と言うと、多分上記のシンガポール・タイが筆頭になると思うが、「マレーシア」もまた魅力に富んだ国の一つだ。

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1-1-26A-KLCC_Park,_Kuala_Lumpur.jpg ←(2枚)マレーシアの首都クアラルンプール(ウィキペディア英語版より)

もう30年以上前の事になるが、日本でいられているオーディオ機器や家電製品の多くに「Made in Malaysia」と書かれていた。

販売は誰もが知る大手電機メーカーだったが、生産がマレーシアだった。

90年代以降、東南アジア諸国が形成する経済連盟「ASEAN」(東南アジア諸国連合」は、「NIES」と呼ばれる「先進発展途上国」と言われた。

文字だけ見ると微妙な意味合いなのだけれど、単なる途上国から経済成長著しい国々だとされたのである。

それは日本を始めとする先進国が、生産コストの安い東南アジア諸国に生産拠点を移し始めたからだった。

例えば電化製品は、設計・販売は日本のメーカーで行うので、国産品よりも価格が安くなり、需要を拡大させた。

現地では雇用が増加するとともに、技術も蓄積され、輸出が伸びて経済成長を促したのである。

タイやシンガポール製も見られたが、電化製品はマレーシア製が多かったように思う。

1-1-26A-Moonrise_over_kuala_lumpur.jpg ←美しいクアラルンプールの夜景(ウィキペディア英語版より)

マレーシアは東南アジア南部、インドシナ半島から「盲腸」のように突き出したマレー半島に位置する国。

人口は約3,700万人、首都クアラルンプールの都市圏人口は700万人以上を誇る。

マレー半島東部に広がる南シナ海を挟んで、ボルネオ島の国西部もマレーシア領になっており、国土の総面積は約33万平方キロ。

日本より少し小さいくらいだ。

正式国名は「マレーシア」もしくは「マレーシア連邦」。

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1-1-26A-Gurney_Drive,_George_Town_in_2018.jpg ←(2枚)マレーシア最大のリゾート地ペナン(ウィキペディア英語版より)

意外と知られていないが、マレーシアは国王を元首とする立憲君主制国家。

だが日本を含む一般的な君主制国家とは若干異なり、地方行政は州を中心とする連邦制である。

マレーシアの国民は8割がマレー人で、殆どがイスラム教徒。

これは同国の発祥となる14世紀の「マラヤ王国」が、西から移動して来たイスラム教徒によって建てられた事に由来する。

以後国土は各地の「スルタン」(領主」が地方自治を担っていて、現在こそ行政機構はれっきとした民主制で行われているが、州はそのスルタンの領地に基づいている。

更に国王は任期を持つ選挙制で、今も健在する各州の「スルタン」が交替で国王を務める。

選挙制ではあるが、公平を期すために「輪番制」でもあり、任期を続ける事はないと言う非常に珍しい形態を持っている。

ただ他の君主国家と同じく、国王に政治の権限はなく、日本と同じく首相の任命などに留められている。

1-1-26A-Cenang_Beach_view,_Langkawi.jpg ←ビーチリゾート、ランカウィ島(ウィキペディア英語版より)

80年代から長期に渡って首相を務めたマハティールは、「ルック・イースト」政策を打ち出し、それがマレーシア発展に大きく寄与した。

彼は非常な「親日家」で知られ、敗戦した日本が奇跡の経済復興を成し遂げた事に感銘を受け「日本のように慣れ」が政策だった。

また近年日本経済が不振な事を危惧して、「アメリカの属国意識は捨てるべきで、名実ともにアジアのリーダーであるべき」と檄を飛ばす。

加えてかつて同国を訪問した日本の首相が、いずれも戦時中マレーシアを占領支配した事を謝罪したが「日本はいつまで謝罪しているのだ。50年以上も経って謝罪するべき時期はとうに過ぎた。」とまで言いのけた人物である。

全く75年経って謝罪・補償しろと騒ぐ立てる「どこか」の国とはエライ違いで、事実彼自身「どこかの国」を猛烈に批判している。

70年代までは「プランテーション」を主軸として、ゴム・スズなどの天然資源を輸出するモノカルチャー経済だったが、マハティール首相の政策で工業・商業部門ででも一気に発展を続ける国である。

マレーシアのフラッグキャリアは、日本でも馴染み深い「マレーシア航空」である。

同社は47年に「マラヤ航空」として設立されたのが発端で、東南アジアでは最も古いエアラインの一つでもある。

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1-1-26A-Malaysia_Airlines A350-900_9M-MAF.jpg ←(2枚)マレーシア航空の主力機A350-900。同機にはマレーシア国旗がデザインされている(ウィキペディア英語版より)

第二次大戦後、同国は再びイギリスの支配下に置かれ保護国「マラヤ連邦」になったが、同社が設立されたのもまだイギリス統治時代である。

「マラヤ連邦」が独立したのは10年後の事で、この間の同社はイギリス資本の民間エアラインであった。

更に独立後の63年に、シンガポールが正式に分離・独立したことで「マラヤ航空」は、両国政府の共同経営となって「マレーシア・シンガポール航空(MSA)」になった。

日本ではもちろん、世界的にも評価の高いシンガポール航空だが、ルーツはマレーシア航空と同体だったのである。

両者が分離したのは63年の事で、マレーシア航空は「マレーシア・エアライン・システム(MAS)」として再出発することになった。

「MSA」時代に既にジェット化されており、創立当初には世界初のジェット旅客機「デ・ハビランド・コメット4」を導入して国際線の運航を実施していたが、シンガポール航空が分離したことで機材は均等に引き継ぐ形が取られていた。

1-1-26A_Comet_4_9V-BAT_MSA_.jpg ←マレーシア・シンガポール航空のコメット4。機首には両国の国旗が記入されている(ウィキペディア英語版より)

しかし都市国家のシンガポール航空には「国内線」がなく、全て国際線であったことに比べ、マレーシア航空はボルネオ島の「東マレーシア」を含めて国内線の需要もあったため、機材は多様性が必要であった。

70年代後半から、マレーシア航空は政府が後押しする形で成長を一途を辿り、B747を始めとする大型ワイドボディ機をどんどん導入して国際線ネットワークを拡大した。

国内ではフラッグキャリアとしてほぼ独占状態にあると同時に、長距離路線の発展には目を見張るものがあった。

1-1-26A-Malaysian_Airline_System_B707-300.jpg ←長距離路線拡大に貢献したB707-300(ウィキペディア英語版より)

80年代になると北米線やヨーロッパ線はもちろん、南米・アフリカと言ったこれまでなかった新規ルートを開設した。

B747を使ったクアラルンプール~ケープタウン~ブエノスアイレス線は、経由便としては世界最長の定期路線の一つで10年代前半まで運航し、ファンには有名な路線だった。

東南アジアから見ると、南北アメリカとヨーロッパのちょうど中間に位置するので、同社は各国から「以遠権」を購入して世界的ネットワークを構成しようとしていた。

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1-1-26A-Malaysia_Airlines_B737-2H6;_9M-MBF.jpg ←(3枚)MAS時代に国内線の主力だったフォッカー27フレンドシップとB737-200(ウィキペディア英語版より)

日本線は68年から就航しているが、70年代後半になると日本の以遠権を獲得し北米線を運航した。

機材の航続距離の問題があったからだが、日本~ロサンゼルス間での利用も可能だった。

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1-1-26A_Malaysia_Airlines_DC-10-30.jpg ←(2枚)中距離機材として運航していたDC-10-30(ウィキペディア英語版より)

00年代まではアジア諸国の多くのエアラインが「日本経由」の北米線を運航しており、日系エアラインより運賃が安い事で人気だった。

マレーシア航空の他、シンガポール航空、キャセイ・パシフィック航空、大韓航空などが東京経由北米線を運航しており、選択肢が多かった。

ドル箱路線の一つでもあり、機材もサービスも最新の物が投入される事が多かった。

87年にMASから現在の「マレーシア航空」に名称を変更後、02年には政府系投資会社が株式を取得し、持ち株会社の傘下企業に変更された。

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1-1-26A_Malaysia_Airlines_B747-4H6.jpg  ←(3枚)クアラルンプール~東京~ロサンゼルス線の主力機として日本でも常連だったマレーシア航空のB747-400(ウィキペディア英語版より)

しかしこのころから経営に暗雲が立ち込める。

拡大に伴い、機材は年々増強され最新鋭機材もどんどん発注した。

アメリカ機一辺倒からエアバス機も積極的に導入し、A330は同社はローンチカスタマーの一つになっている。

90年代後半以降は、特に機材更新に熱心で、主力機だったB747も400をいち早く導入した他、B777は初期型ではなく最初から長距離仕様の乃200ERを発注した。

経営は半官半民に近いが、その資金自体は政府からの資金であり、こうした拡充はそこから充当されていた。

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1-1-26A_Malaysia_Airlines_B777-200ER 9M-MRN.jpg ←(3枚)B747-400に代わって長距離線の主役になったB777-200ER(ウィキペディア英語版より)

ところが21世紀に入ると、事態は急変する。

今や世界トップクラスのLCCに成長した「エア・アジア」の登場である。

エア・アジアは90年代に設立された純民営エアラインで、マレーシアの経済成長が伸び始めた頃に運航を開始した。

だが当時のマレーシアは国営に近いマレーシア航空が大きなシェアを占めていただけでなく、民間エアライン経営の基盤もなく、その走り出しは順調とは言えず、就航許可さえ満足に取得できない状態だった。

ところが東南アジア全体の経済が成長するに従って、格安エアラインの需要も徐々に伸び始めていた。

それまで飛行機を利用する事のなかった国民が、所得が増えたことで旅行などをするようになり、飛行機の利用も増えたのである。

同社はヨーロッパ最大大手のライアン・エアやアメリカのサウスウエスト航空などを手本にして、徹底したノンフリルサービスで格安運賃を構築したのである。

1-1-26A AIRASIA A320NEO-9M-NEO@HKG_(20181006111528).jpg ←エア・アジアのA320neo。初号機は特別塗装で導入され、登録記号も「9M-NEO」(ウィキペディア英語版より)

特に気軽に行ける東南アジア圏内では、マレーシアだけでなく各国からの需要も激増し、同社は急激に成長していた。

当然近中距離路線の顧客は一斉に流れることになり、マレーシア航空は赤字に転落する。

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1-1-26A-Malaysia_Airlines,_A330-300,_9M-MTO.jpg ←(2枚)日本線を始めとする中距離線や高需要線に投入されるA330-300(ウィキペディア英語版より)

その凋落は早く、06年には本来ライバルであるはずのエア・アジアと「提携」関係を結び、国内線を中心に運航を譲渡することになった。

フルサービスキャリアと、対抗関係のLCCが提携することは、当時としては異例の事だったが、それだけLCCの台頭は凄まじかったのである(その後提携関係は解消された)。

一方でマレーシア航空側は対抗策も進め、07年には最大の観光地ペナンを拠点とする「ファイアフライ」、ボルネオ島サワラク州を本拠とする「MASウィングス」を系列子会社として設立。

国内リージョナル専門エアラインとして、マレーシア航空とコードシェア運航を開始した。

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1-1-26A FIREFLY ATR72-500-9M-FYC.jpg ←(3枚)国内ローカル線を担当していたフォッカー50と、ペナンを拠点とするリージョナル部門「ファイアフライ」のATR72-500(ウィキペディア英語版より9

13年には航空連合「ワンワールド」に加盟し、世界のメジャーと提携することでネットワークを再構築したが、既に経営不振は目に見えて酷くなっていた。

そして同社の凋落を加速させたのは、14年3月と7月に発生した連続事故であった。

3月8日、クアラルンプール発北京行き370便、7月17日アムステルダム発クアラルンプール行き017便の事故は双方とも乗員乗客全員死亡。

合わせて600名近い死者を出した。

370便は離陸直後消息を絶ち、現在まで行方不明と言う航空事故の中では最もミステリーを残した事故である。

各国が協力して数年以上に渡って捜索が続けられ、近年インド洋西端にある仏領レ・ユニオン付近で370便と思われる機体の破片が発見されたが、数年間海流に流されての発見であり、今もって墜落現場は特定されておらず、犠牲者の遺体は一人も発見されていない。

自機の位置をGPSに送信するトランスポンダが意図的に切られていたと推測されることから、パイロットの「自殺「説が有力視されているが、今日まで原因は究明されていない。

017便は、紛争中のウクライナ東部上空で墜落した事故で、紛争地域から発射された対空ミサイルによる撃墜であることは分かっているが、現在までウクライナ・ロシアとも関与を否定している。

1-1-26A _Malaysia_Airlines_B777-200ER 9M-MRD.jpg ←ミサイル攻撃で「撃墜」された特別塗装のB777-200ER(9M-MRD)(ウィキペディア英語版より)

墜落現場はウクライナ領内ながら、反ウクライナ武装勢力が支配していた地域で、ロシアが支援していたことは確実である。

しかも第三者の事故調査・捜索をロシアが拒否し、ようやく現場に入れた時は現場はロシア軍に荒らされていた形跡があった。

017便は国際的に決められていた航空路を飛行していたが、紛争地域に近いことから通常より高い高度を飛んでいたと言う。

だがロシア側は「万が一」の事態が起こりうるとして、ルートを変更するよう警告を出していた。

同機を撃墜したのはロシア製のミサイルである事が判明したが、未だ「誰が」発射したのか、誤射だったのか任意だったのか不明のままだ。

017便に関しては、全面的にマレーシア航空のミスではなかったが、僅か数ヶ月で2度も大事故を起こした事は致命傷とも言えた。

加えて両者ともB777-200ERだったことで、B747-400に変わって長距離線の主力機だった同機を全て退役に追い込まれた。

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1-1-26A_A380_Malaysia_Airlines 9M-MNF.jpg ←(3枚)マレーシア航空のフラッグシップA380は、経営不振で定期運航から外れ、売却も出来ていない(ウィキペディア英語版より)

マレーシア航空はサービスと言う点では、世界ランキング上位の常連だったが、過去にも重大事故を何度も起こしている。

ただでさえ経営不振の同社にとって、この連続事故は管理体制・安全性へ大きな疑問がもたれることにもなり、主力機を失った同社は長距離国際線の大半を運休せざるを得なくなったと同時に、経営も破綻寸前まで到達した。

翌年マレーシア政府は一時的措置として同社の株式を取得して、国有化して経営再建を公表した。

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1-1-26A MALAYSIA B737-800-9M-MXA.jpg ←(4枚)国内線・近距離国際線の主役B737-800の新旧塗装と、40周年記念のレトロ塗装機(ウィキペディア英語版より)

長距離路線は一部を除いて当分運休し、機材は経済性の高い種類に更新した。

機材更新を図ったのは良かったが、同社の収益と経営状態は一向に改善せず、税金を投入することに国民から反発を買うようになった。

長期政権のマハティール首相は、前経営者である投資ファンドは「政府」とは直接関係ないと主張するとともに、国有化も一時的措置であるとしたが、「今後同社を清算・処分する可能性」もあると指摘して反発をかわした。

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1-1-26A Malaysia_Airlines_B747-400_Hibiscus.jpg ←(2枚)ハイビスカス特別塗装のB747-400(ウィキペディア英語版より)

しかし追い打ちをかけるようにコロナ禍が始まり、同社は「どん詰まり」の様相を見せている。

コロナ直前では81機を保有し、64都市に就航していた。

ワイドボディ機は全てエアバス機で、B777退役後はA350とA330が国際線の主力機になっている。

10年代初めにはアジアでは最も早くA380を導入し、日本線にも投入して大きな話題になったが、需要は低迷した。

不経済な4発機と言う潮流に、同社は売却を考えたが、既にA380は持てあまされた状態であり、仮に売却しても赤字を埋めるほどの効果はなかった。

結果同機は運航から外されたまま、クアラルンプール国際空港に保管されることになったが、マレーシア航空では「ハッジフライト」などのチャーター運航などに今後活用する計画だと言う。

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1-1-26A_A330-200F_MAS KARGO.jpg ←(2枚)比較的好調の子会社MASカーゴのA330-200F(ウィキペディア英語版より)

国内線の主力はB737-800に統一され、近距離国際線でも活躍するが、ローカル線は子会社の「ファイアフライ」「MASウィングス」がコードシェアで運航する。

日本線はかつてはB747が主力だったが、00年代以降はA330に置き換えられている。

同機はアジア・中東方面の主力機で、A350を補完する役割も持つ。

サービスは今も高いクオリティを保持しており、最新のA350とA380は個室タイプの「ファースト」を含む3クラス制。

他はビジネスクラスを含む2クラス制が基本。

1-1-26A-Lunch_on_Malaysia_Airlines.jpg ←エコノミークラスのミール(ウィキペディア英語版より)

先に書いたように、サービスは評価が高いとされるが、イスラム教国家のため「豚肉」を使った料理は提供されない。

ところがアルコール類はOKだ。

だがキャビンサービスはともかく、口コミ情報などを総合すると遅延やロストばゲージなど、海外のエアラインではありがちなトラブルは多いようである。

また安全性と言う点でも、過去の事例からあまり褒められるものではなく、経営状態の悪さもそうした低評価に影響しているようだ。

機体の塗装は、80年代から赤と青を基調としたチートラインだった。

デザイン的にはちょっと古い気がするが、かつての日本航空を彷彿とさせるカラーリングでまとまりは良かった。

尾翼のマークは、古くから儀式などで使われる伝統的な「凧」をモチーフとしたデザイン。

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1-1-26A_Malaysia_Airlines_B747-300M.jpg ←(4枚)旧塗装のB737-400/500とB747-300M(ウィキペディア英語版より)

社名ロゴは「,Malaysia」だけだったが、10年代から変更した現行塗装では「Airlines」が追加された。

尾翼マークは継承されたが、チートラインは流行のウェーブラインに変更されホワイトが基調になってすっきりしたイメージを持つ。

A350は新しい世代の主力機として宣伝する意味を込めて、胴体側面にマレーシア国旗が大きく記入されている他、A380はブルー系の塗装で機体をアピールする手法だ。

特別塗装機は少ないが、センスの良い物が多くフラッグキャリアらしい派手な塗装も多い。

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1-1-26A MAS B747-400F-9M-MPS_.jpg ←(2枚)新旧塗装のMASカーゴ、B747-400F(ウィキペディア英語版より)

世界的にコロナ禍で航空不況が続く中、同社の経営不振解消は当分望めそうにない。

政府はフラッグキャリアである以上、何とか存続させたい方針のようだが、利益が上がらなければ社員の処遇も低下し、それは安全性に直結する。

ライバルであるエア・アジアは、各国に現地法人を持つほか長距離専門の「エア・アジアX」も保有しており、少なくともマレーシア国内では同社の必要性は低下している。

日本でも馴染み深いエアラインだけに、今後の行く末が気になるところだ。



月命日 4月28日 晴れ時々曇り 21℃

早朝は昨日のように、綺麗な青空が広がったが天気はゆっくり下り坂。

低気圧が接近しており、暖かく湿った空気が入りやすくなり雲が増えた割には気温が上がった。

仙台では21℃と5月下旬並みで、汗ばむほどではないが空気はちょっとムワッと感じた。

気付けば明日からGW開始で、暦の上でももはや春ではなく「初夏」だ。

昨日までは雲一つない快晴が続き、代わりに朝晩は「放射冷却」でかなり冷え込んだが、今夜は気温の低下はなさそう。

予報では明日連休初日は全国的に雨で、宮城では夜から本降りになりそう。

残念ながら2年連続で、大型連休への期待は皆無。

「緊急事態宣言」が出された4都府県は、まだ拡大が止まらない。

一方「まん防措置」の宮城では、50人以下の日が多くなった。

それを油断する訳にはいかないが、県民の意識が一応は功を奏していると言う事だろう。

最も仕事帰りにいつもの駅前に行くと、買い物客で混雑していた。

もちろん行き交う人はほぼ全員マスクを着用しているし、カフェやファミレスでもグループ客は少なく「複数」の客は、会話中はマスクをするよう努力しているように見える。

市内の飲食店は20時までの時短営業が続き、当初5月5日までだったのが11日まで延長されたが、慣れてしまった感がある。

逆に言うと「時短営業」の範囲内であれば・・と言う事でもあり、お店に行くのを「前倒し」すれば良いと思う人が多いのかもしれない。

でも「飲み屋さん」だと20時閉店では商売にならず、さぞかしご苦労がある事と思う。

先日傷めた手首は、まだ治らない。

それでもだいぶ動かせるようになって、痛みも減った様に思う。

とにかく湿布を貼って、痛み止めを飲むしか方法がないが、シップは剥がれやすくドラッグストアで包帯を買った。

今は従来の「帯状」だけでなく、伸縮素材でできた部位ごとの様々な包帯があることに驚く。

ちゃんと「手首用」と言うのもあって、要するに手袋見たいな形だが、なるほど便利な代物だ。

ちょっと圧迫感があって、長時間していると痺れて来る気がするが、湿布はしっかりと抑えられていて痛みを伴う指の無駄な動きも抑制してくれる。

おかげで手を使う仕事中も、あまり気にすることがなく済んだ。

包帯なんて何年ぶりだが、しばらく見ないうちに実に多様な商品が売られている事に驚いた。

私は人一倍無精な人間だが、幸い大きな病気や怪我とはあまり縁のない人生を送って来た。

入院・手術も20年ほど前に目の病気でやった以外経験がない。

骨折も一度だけ「疲労骨折」を経験したが、「ギプス」をはめるようなこっせつではなかった。

もちろん小さなけがは何度もしているけれど、ありがたく幸せな事だと思う。

同時に年齢による衰え、と言うか弱くなったなあと思う事も多くなった。

10年ほど前にダイエットの為に始めたウォーキングは、今でも続けており毎日ほぼ4~5キロは歩くようにしていて(マイナス30キロの減量に成功。ノウハウ本執筆依頼お待ちしています・笑)、体力維持に努めているつもりだが、徐々に無理も利かなくなっている事を実感する。

同じ距離を歩いても、その時のコンディションによってはとても疲れたり足や腰が痛む事がある。

太っていた頃患った腰痛が、今も尾を引いていて歳を重ねるごとにナーバスになって来た気がする。

また今回のように、原因が分からず急に筋を傷める、突然「こむら返り」に見舞われたりすることがあり、人並みに気にしている。

気をつける・・しかないのだが、精神と肉体は別物であることをこの歳になって自覚しつつある。



今日28日は母の「月命日」で、4年1カ月目。

1カ月は本当にあっという間だ。

今年は冬が寒かった反動で春が早く、桜も3月中に咲いてしまった。

今月は比較的天気が良く、気温も高く初夏を思わせる日が増えた。

毎日通る近所の集会所の敷地では、「八重桜」が見ごろだ。

桜と言うと「ソメイヨシノ」ばかりもてはやされるが、母は八重桜も好きだった。

八重桜とは品種の名前でなく、花弁が6枚以上で重なり合うように咲く桜の総称である。

IMG_5611.JPG ←八重桜(奈良県桜井市、筆者撮影)

日本では「ヤエベニシダレ」と「カンザン」が主流で、花同士が丸くくっつきあうことから「ボタンザクラ」などと呼ばれることもある。

実は仙台は八重桜の「名所」で、藩政時代交配された八重桜を藩主伊達正宗がいたく気に入り、増殖を命ずるとともに京都御所へ献上したと言われる。

この八重桜は「仙台八重枝垂」「仙台小桜」とも呼ばれ、先の「ヤエベニシダレ」の中核になっていると言う。

普通の桜に比べて遅く咲く他、花期が非常に長く、色が濃いのも特徴だ。

しかし時期がずれる事や、ソメイヨシノの名所のように「群生」する場所が少ないせいか人気はいま一つ。

でも春色らしく、迫力があり、何よりも見ごたえがあると思う。

今咲いている八重桜は見やすい場所なのだが、通り過ぎる人々で立ち止まって見上げる人は何故か少ないのだ。

新緑の季節になって「今更桜?」と言う気持ちが出るのか、単なる季節外れの桜とでも思われているような気がする。

母は濃い色の花が好きで、突然パアッと知ってしまう一般的な桜より八重桜の方が「花」として好きだと言っていた。

初夏の高く明るい青空に、ピンク色の八重桜は良く似合うし良く映える。

今しばらく咲いていそうなので、気付いたらぜひ見上げて頂きたい。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

過ごしやすい季節、君もすっかり春の装いになったことでしょう。

もしかしたら一歩進んで、初夏の装いになっているかも知れません。

明日からGW、君はどう過ごしますか。

残念ながらコロナ禍で、これまでの様な過ごし方は出来ませんが、その分家でゆっくりと過ごすのも良いかと思います。

気温差が大きく、服装に悩ましいかと思いますが、体調管理には気をつけて連休を過ごして下さい。

今日は母の月命日です。

君はもう母の顔も覚えていないかも知れませんが、心の中で手を合わせてでも頂けたら幸いです。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



後れゐて 吾はや恋ひむ 春がすみ たなびく山を 君が越えいなば(万葉集巻九 1771 相聞歌)



飛行機ネタ 正体不明になったシリア航空(4月25日 晴れ時々曇り 16℃)

とても穏やかな週末だ。

少し雲が多く、昨日までのような快晴とはいかなかったが、気持ち良い天気と言えるだろう。

いつもは早朝からどたばたしているご近所も、今朝はしばらくシンとしていた。

コロナ禍で、天気の良い週末こそ早起きして・・となれないのが残念。

最も1年経って「慣れて」きたとも言えるかも知れない。

東京・大阪・兵庫・京都の4都府県の3度目の緊急事態宣言が昨夜決定し、明日から施行される。

話が宮城県は独自の緊急事態宣言と「まん防」が重なっていて、良く分からないことになっているが、新規感染者数は一時期100人超えだったのが、措置以降20~30人で推移している。

決して良い事とは言えないが、横ばい傾向なのは県民が一定の意識を持って行動しているからだろう。

それにしても連日1,000人超えの大阪は異常だ。

「変異株」のせいだと言うが、それにしても東京より遥かに多いと言うのはどうしてだろう。

そもそもウィルスは元となる「核」があり、時間・状況でいわゆる「外観」はどんどん変化して当たり前なのだそう。

人間で言えば、毎日背かつしている中で服装を変える、太る・やせると同じ事だ。

故に変異株は予想できたことであり、最初は感染力が強いと思われるが、拡大すると弱まるのだそうである。

大阪の激増は、何か別の理由があるのではないか。

大阪と繋がりが深い兵庫県南部の他、通勤や通学する人の多い奈良県や滋賀県でも激増している。

来週から始まるGWを控え、国や自治体は人の動きを抑えて拡大を最小限に留めたいと言う事だろうが、その背後には3か月後のオリンピックがあるのだろう。

延長してからの、さらに延長や中止は国のメンツに関わる・・と言う事もあろうが、緊急事態を受けてとても開催できるとは思えない。

もちろん「5年間」も頑張って来たアスリートの方々は、なんとしてでも出場したい気持ちはあるだろうが、仮に宣言が功を奏しても一時的なもので根本的な解決にならないのは誰もが分かっている。

それでも開催すると言うのだろうか。どうも納得できない気がする。あくまで私見ですが。




先日、恐らくは仕事中に手首をねん挫してしまった。

瞬間傷めた事は気付かず、帰宅する頃に何となく親指の付け根あたりが痛いなあ・・と思った程度だった。

ところが1日、2日と過ぎると指全体が痛くて動かせなくなってしまった。

正確には力を入れられないと言う感じなのだが、ちょっと力を入れたりひねったりするだけで痛みが走るのだ。

一瞬骨がどうにかなったのかとも思ったが、経験上そして記憶上骨折するような行動は取っていない。

痛みの範囲がだんだん広がるようで、かつ熱を持ったり腫れた理していないので、やはり筋を痛めてしまったようだ。

病院に行く暇もないし、何よりも面倒。

とは言え自前で治療すると言っても湿布を貼って、痛み止めを飲むぐらいしか手立てはないのだが、幸い痛みはかなり引いた。

今日の時点ではまだ指を握って力を入れる事は難しいが、昨日までは何もしなくとも痛みがあったので効果は出ているようだ。

今日明日は仕事がないので助かるが、この程度で休むのも嫌なので何とか収めたいと思う。

傷めたのは左手で、普段の私は右利き。

ならばそれほど・・のはずなのだけれど、実は子供のころから「左手使い」でもある。

つまり字を書く、箸を持つのは完全に右手なのだけれど握力は左手の方が強い。

例えば蓋を開け閉めしたり、重い物を持つ時は自然と左手を使っている。

変に握力が強く、無意識に蓋を閉めたつもりが、他の人が開けようとするときつくて開けられない事がある。

母にもよく文句を言われたものだ。

またお札など紙をめくって数えたり(大量の札束など、数えた事はないけれど)、トランプを「切る」のに右手だと上手くいかず、左手だと実にスムーズにできる。

本当は生まれつき「左利き」だったのが、育てた母や祖母は意識することなくごく常識として右利きに育てたのではないか・・と思う事がある。

手を傷めたのは本当に久し振りで、何気ない普段の生活にこんなに支障をきたすとは思いもよらなかった次第。

服を着るにも、シャツに腕を通す、ズボンを上げ下げするにも痛くて上手く出来ない。

食品の袋を開ける事もだ。

普段こんなにも左手に頼っていたのか・・・と変に感心してしまった。

だいぶ良くはなって来たので安心しているが、何十年も生きて来て今更気付く事もあるのだ。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

少し空気が冷たいですが、新緑と共に爽やかな週末です。

君はどう過ごしたでしょう。

お仕事だったでしょうか、お休みだったのでしょうか?

コロナ禍で外出が憚られるご時世ですが、対策を取って季節を楽しむ事は出来ると思います。

君もいろいろ大変だと思いますが、青空と新緑、そして風を感じて下さい。

朝晩は冷え込む事がありそうですので、体調管理には注意して下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



望(もち)の日に 出でにし月にの 高高に 君を坐せて 何をか思ハム(万葉集巻十二 3005の 物に寄せて思を陳ぶ)







飛行機ネタ。

シリアと言うと、日本では殆ど話題に上らない。

数年前はメディアを賑わせていたが、最近は聞くことも少なくなった。

シリアは中東諸国の一つで、アラブ世界と呼ばれる地域のほぼ中央にある。

北にはトルコ、東はイラク、南にはヨルダン、西にはレバノンと地中海、そして南西にはイスラエルと接している。

正式国名は「シリア・アラブ共和国」と言い、面積は約18万平方キロ。日本の約1/3に当たる。

アラブ諸国と言う事で砂漠のイメージが強いが、地中海沿岸は南欧と同じく地中海性気候を持ち、山岳部では冬に積雪もある程気候は変化に富んだ国である。

首都はダマスカスで、人口は約200万人とされるが、都市圏人口は倍近くある。

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1-1-25A-Barada_river_in_Damascus_(April_2009).jpg  ←(3枚)シリアの首都ダマスカス。中は最古のイスラム教モスク、ウマヤドモスク(ウィキペディア英語版より)

同市は世界で最も古くから存在する都市の一つで、3,000年前には街が出来ていたと言われる。

先史文明時代から交易路の要に位置していたことから、ヒッタイトの様な謎の民族から古代ペルシア、ギリシア、ローマ、イスラム、そしてオスマンと世界史に必ず出て来る大帝国の支配を受けて来た。

故に「シリア」と言う国自体の歴史は浅く、19世紀にオスマン帝国が滅びるとイギリス、そして20世紀にはフランスの統治領になった。

主権国家として独立したのは第二次大戦後の46年で、50年代にはエジプトやイラクと共に「アラブ連合」の1国でもあった。

それが解消された60年代になると、民主制を訴える「バース党」が政権を握り、旧ソ連との関係を強めた社会主義色の濃い政治体制を敷いた。

しかし70年に軍部がクーデターを起こし、首謀者の一人であったハフェズ・アサドが大統領となると、独裁政治に傾倒した。

彼は政教分離政策を実施し、豊かな石油資源を活用して経済を安定させると同時に、ソ連や東欧諸国の様な「秘密警察」を樹立させ国民への監視社会も敷いて独裁体制を固めて行った。

また48年に勃発した隣国イスラエルとの「中東戦争」を継続させ、パレスチナゲリラを公然と支援。

彼らが拠点とするレバノンへひっきりなしに干渉した。

アサド大統領は00年に死去したが、その後を息子である現大統領バシャール・アサドが引き継ぎ、独裁体制を継続させた。

父親に比べると、国民への弾圧策は緩和させたと言われるが、11年チュニジアに発端を持つ民主化運動「アラブの春」が起こると、シリア国内でも反政府運動が活発化した。

しかしそれは政府VS反政府派と言う単純な構図ではなく、特に反政府組織は複数立ち上がり、クルド人勢力なども加わって反政府派同士の争いに発展した。

以来シリアは、10年近く「内戦」が続いている。

1-1-25A Temple_of_Bel_in_Palmyra.JPG ←世界遺産パルミラ遺跡のベル神殿。紀元前3世紀頃(ウィキペディア英語版より)

10年代後半には、その内戦に乗じてイスラム過激派テロ組織「ISIS」が勢力を伸ばして一時は同国の1/3まで支配した。

前面には宗教色を強く打ち出した武装勢力だったが、実際にはイスラム教徒は全く関係ない外国人を一種の「傭兵」として雇い、支配地域ではシリア人を虐殺したり、略奪を日常化するなど単なる犯罪組織であることから、欧米諸国を中心とした「有志連合」が軍を派遣し、ISISの鎮圧に乗り出した。

おかげで彼らの勢力が大きく衰えたものの、完全に壊滅したわけではなく、なおも武力闘争を続けている。

更に「テロ戦争」としてトルコやロシアが独自でシリア内戦に加わっており、終結の糸口は全く見えていない。

現アサド政権は、反政府組織及び支配地域に対して化学兵器を使用するなど、国際的な批判が高まり経済制裁が行われている。

一方でロシアやイランが密かに支援を行っていて、内戦は「外側」の利権争いを呈している。

長期に渡る内戦は、当然国民に多大な犠牲を強いることになり、多くの死者だけでなく1,000万人以上が難民として国外に逃れたと言われているが、政権はあくまでも正当性と安定を主張している。

こうした状況から、国家として外交は殆ど機能しておらず、エアラインもまたまともな運航できる状態にない。

同国のフラッグキャリアは国営の「シリア航空」である。

正式には「シリア・アラブ航空」だが、一般的には「シリア航空」と呼ばれている。

同社が発足したのはシリアが独立した46年で、47年から国内線の運航を開始した。

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1-1-25A SYRIAN-B747SP-94,_Syrianair_-_Syrian_Arab_Airlines_.jpg ←(3枚)素晴らしいかつ貴重なシリア航空のB747SPの写真(ウィキペディア英語版より)

にはパンナムが関わっており、同社から小型機と戦時払い下げのC47を無償で譲り受けた。

しかし48年から始まった断続的な中東戦争のため、運航はしばしば停止を余儀なくされた他、運営資金も不足気味だった。

戦火がいったん落ち着いた50年代初頭に再開し、機材もDC-4などが加わって初めて国際線の運航を開始した。

とは言え就航先はベイルート、バグダッド、アンマンと言った近隣のアラブ諸国が主体であった。

それでも中古機ながら機材も少しずつ増えて、便数を増加させた。

58年アラブ連合が結成されると同時に、エジプトのミスル・エア(現在のエジプト航空)と統合され、「ユナイテッド・アラブ航空」が発足する。

これによって、ロンドンやパリまどのヨーロッパ諸都市へ初めて運航が開始されたが、シリア航空に適する機材はなく、殆どがエジプト側の機材であった。

まだ言葉がなかったが、今で言えば「コードシェア運航」もしくは「ウェットリース運航」に近い形態と言えるだろうか。

しかし構成国同士の思惑が一致せず、アラブ連合は約2年で解散状態に陥り「ユナイテッド・アラブ航空」も事実上解散した(エジプト側はしばらく運航を続けた)。

同時に「シリア航空」が再開することになったが、アメリカは親イスラエルだったためパンナムが同社の支援から手を引いた。

シリア自体も欧米諸国寄りの姿勢は難しくなり、バース党政権が親ソ連寄りになった事も影響していた。

だが西欧との関係は継続しており、旧宗主国でもあったフランスと接近出来たことで、同社初のジェット旅客機となる「シュド・カラヴェル」を導入した。

1-1-25A SYRIAN-Sud_SE-210_Caravelle_10B3.jpg ←シリア航空初のジェット機、カラヴェル10(ウィキペディア英語版より)

70年代まで、シリアはイスラエルと4度に渡る戦争を繰り返したが、その後アメリカは細々ながらもシリアとの関係を切らない状態にあった。

親イスラエルと言う立場ながらも、その為にシリアを敵視するとソ連の南下を許す事になるからであった。

20年以上に渡るアラブ対イスラエルの戦争は、冷戦における米ソの「代理戦争」の様相を見せており、特に兵器に関してはあからさまだった。

ソ連は軍事大国であるエジプトとシリアに大量の併記を供与して、中東での覇権を模索し続けていたのである。

アメリカは「アメとムチ」のように、政治的には公然とイスラエルを支持しつつ、時には「建前」として避難した。

67年に発生した第三次中東戦争では、イギリスやフランスがイスラエルを非難して一時的に制裁する態度を示した事で、アメリカも同調せざるを得なかった。

その一方で民間レベルでのシリアへの支援を行う事で、ソ連への忖度を防ごうともしていたのである。

60年代のシリア航空は、保有機こそ30機前後と中東では比較的大きい規模のエアラインに成長していたが、機材はカラヴェル以外はレシプロ機ばかりであった。

長距離を飛べるDC-6Bも保有していたが、長引く戦争で新型機材の導入はままならず、60年代末には世界的に見ても遅れたエアラインに落ちていたのである。

1-1-25A SYRIAN_B707-420B_G-APFB.png ←国際線拡張の為導入されたB70-420B(ウィキペディア英語版より)は
そこでアメリカはイスラエルとの停戦に応じた事で、経済制裁を一部解除してボーイング機の輸出を認めたのである。

シリア航空はその先鋒として、リースでB707を導入し、ヨーロッパ線の他アジア線を開設してメジャー級の国際線運航を開始した。

同時に古いレシプロ機と、性能的に限界になったカラヴェルを一気に更新させる計画を打ち出してB727を発注した。

更に本格的な国際線運用機材として、B747SPも発注した。

中東ではイスラエルのエルアル航空、サウジアラビアのサウディア、イランのイラン航空に次いでのB747導入エアラインとなった。

これらのエアラインはいずれも親米国家であり、既にソ連寄りだったシリアに対しては破格の対応と言える。

70年代後半から80年代にかけてのシリア航空は「全盛期」を迎え、完全なジェット化を達成した。

B747SPは「虎の子」的な存在で、2機だけではあったが高需要路線でもあるロンドン線や東南アジア線などに投入された。

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1-1-25A SRYAN-YK-AHB_1_B747SP-94_Syrian_Arab.jpg ←(3枚)新造機で導入したB747SP。ヨーロッパ線など高需要路線に投入され、同社の規模をアピールした(ウィキペディア英語版より)

この他イスラム教徒の巡礼を行う「ハッジフライト」も手掛け、シリア国内だけでなく隣国からのチャーターフライトも実施した。

しかしその栄光は長続きせず、友好関係を保っていたイランとイラクが戦争状態になり、レバノンではイスラエルと再び戦火を交える事になり、同社の運航は減少せざるを得なかった。

特にレバノンにおけるイスラエルとの紛争では、再びアメリカの態度を硬化させることになり、自慢のボーイング機の維持が困難になっていった。

長距離線は運休せざるを得なかったが、短中距離線の維持は必要だったことから、補充機材としてソ連からTU134,154を導入した他、貨物機としてIL76も導入した。

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1-1-25A_T134(B-3)_Syrian_(Government).jpg ←(3枚)旧塗装のTU154Mと現行塗装のTU134B-3。後者は最近まで現役にあった(ウィキペディア英語版より)

だがイラン・イラク戦争が終結しても、90年にはイラクのクウェート侵攻など中東情勢は混迷を極め、同社の運航は縮小せざるを得ない状況が続いた。

そして「アラブの春」をきっかけにした内戦が発生し、シリア航空自体運航の「必要性」が消滅してしまった。

それまでは近隣諸国や国内線の運航を行っていたが、イスラエルのダマスカス国際空港の空爆や内戦で、同社の運営はほぼ停止した。

機材も古い機材は修理・整備が不可能で、辛うじて00年代にリース会社を通じて導入したA320やATR数機が稼働状態にあった。

これらの機材も、内戦の収束が見えない状態で稼働率は低下している。

現在同社が登録上保有するのは僅か4機のA320だけで、最盛期には10機前後保有していた。

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1-1-25A SYRIAN-B727-294-Adv.jpg ←(2枚)新旧塗装のB727-200(ウィキペディア英語版より

試しにウェブページを調べてみると、動作するようにはなっているが、フライトスケジュールは停止状態のようである。

コロナ禍の影響もあると思うが、内戦に対する現政権への制裁は続いており、かつて友好関係を持っていたトルコとも紛争状態になっていることから、同社自体の維持すら困難な状態だ。

ウェブによれば「不定期」ながら、UAEドバイ・バグダッド・テヘラン・アンマン・ドーハ・モスクワなど約15都市に就航している事になっている。

一部の情報では、モスクワやドバイでは同社のA320が目撃されており、便数こそ少ないが運航は継続しているようだ。

A320はビジネスクラスを含む2クラス制で、一応はメジャーと同じくフルサービスが基本だ。

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1-1-25A SYRIAN-Innengestaltung_(Syrianair)2.jpg ←(4枚)現在シリア航空唯一の保有機となったA320とキャビン。翼端のウィングチップにはシリア国旗がデザインされていて、全体的に気の効いたデザイン(ウィキペディア英語版より)

拠点は首都のダマスカス国際空港だが、空軍基地がある他、今もイスラエル軍の攻撃対象になっているためしょっちゅう閉鎖されると言う。

前大統領時代より自由になったと言われるが、「警察国家」は存続しており、空港での写真撮影は厳禁である。

内戦と相まって、外国人の入国は著しく制限されており、詳しい状況は不明である。

ファンに注目のB747SPは、00年代初頭までは現役で運航されていたが、現在は退役となっている。

ところがダマスカス空港には同機が駐機している姿が良く目撃されているようで、どうも「政府専用機」として残されているようだ。

政府専用機は他に「ダッソー・ファルコン20」が数機存在しており、モスクワやテヘランに飛来する姿が目撃されている。

1-1-25A SYRIAN_Government_Dassault_Falcon_(Mystere)_20F_YK-ASA.jpg ←政府専用機のダッソー・ファルコン20は、シリア航空塗装を施している(ウィキペディア英語版より)

また数年前にはリースでA340が1機だけ導入され、モスクワ線に投入されていたが、現在は返却された模様。

B747SPは新造機で購入しているが、40年以上経過しているが、同じく欧米から制裁を受けているイランも同機を近年まで保有・運航していて、部品の融通などし合っているのだろうか。

アフガンやイラクがいくらか安定したのに、今度はシリアがそこの見えない混乱に陥っている。

内戦前に発行されていた某有名ガイドブックシリーズでも、「シリアは比較的治安は良いが、政治や宗教の話は外国人であってもしない方が良い。」と書かれていた。

1-1-25A SYRIAN_A340-300 YK-AZA.jpg ←10年代の短期間だけ運用されたA340-300(ウィキペディア英語版より)

厳しい情報統制は内戦でより厳しくなったようで、現状を知る事すら難しくなっている。

それは情報化社会にあって、鎖国状態に等しい。

1-1-25A SYRIAN IL-76-YK-ATA.jpg ←80年代に導入されたイリューシンIL76は、空軍に移管され現役にある(ウィキペディア英語版より)

20年アサド大統領は、同社の名称を「シリア・アラブ航空」から「シリア航空」に変更する事を発表した。

一見どうってことない内容に思えるが、今なお「シリア航空」はれっきとしたシリア政府が保有・運営する国営エアラインであり、政権の正統性をアピールする手段の一環であろう。

08年、内戦下でありながらもシリア初のLCC「シャーム・ウィングス」が設立され、イラク・バグダッド線で運航を開始した。

同社はシリア初の民営エアラインでもあり、自動車販売や鉄鉱業を手掛けるシリアで最大の企業グループ、シャムモングループが経営している。

4~6機のA320を保有し、クウェートやUAEなどへ運航しているが、近距離線に関してはシリア航空の「代わり」として運航されているようだ。

1-1-25A-Cham_Wings_Airlines,_YK-BAA_A320-212.jpg ←シリア初・唯一のLCCシャーム・ウィングスのA320。激レア画像でもある(ウィキペディア英語版より)

そもそもシリアは社会主義政策を続けており、LCCのメリットは見いだせない。

企業グループと言う事から、アサド政権に極めて近い存在と思われるから「シリア航空」として制裁で運航しづらい路線を担当する為のエアランのようである。

加えて国民のほとんどは、内戦で海外へ旅行・ビジネスなどする人はない。

どれだけの需要予測を立ててのLCCかと思うが、対外的・政治的意図を持つエアラインと言えるだろう。

1-1-25A-Damascus_-_International.jpg ←ダマスカス国際空港(ウィキペディア英語版より)




飛行機ネタ チェコ製旅客機L410ターボレット(4月21日 晴れ 20℃)

※諸般の事情により2回分の日記を掲載しています。

◎4月18日 曇り時々晴れ 18℃

県民の「心がけ」が悪いのか、この春の週末はどうも調子がよろしくない。

昨日の予報では、昨日降り続いた雨は午前中いっぱい降る・・ように言っていたが、朝は青空が広がった。

ところがすぐに空模様は急変し、曇ると同時に暴風が吹き荒れるように。

そのせいで雲は途切れがちではあったが、せっかくの日曜日にお出かけ・・と言うにはコンディション悪過ぎ。

加えて午前9時半ごろ、宮城県沖を震源とするM5.8の地震が発生し、石巻市や一関市で最大震度4を観測した。

仙台市は震度3だった。

恥ずかしながら日曜日と言う事で、私はまだ「夢の中」にいて地震と言う強烈な「目覚まし」で起こされた次第。

しかも最初の揺れは気付かなかったらしく、「ドン」と言う一度の揺れがそれこそ夢だと思ったが、その後ぐらぐら始まって飛び起きた。

体感的に2か3程度だと分かったが、揺れが長く1分近く揺れていたように思う。

寝ぼけていたから、実際にはもっと短かったかも。

ちょうど1か月前の3月20日に起きたM6.9の地震と、震源地が一致するので明らかな「余震」だろう。

実に気持ち悪いが、この程度の余震はありうることだし、徐々に活動は減衰している。

ただ周期的に余震活動の活発化が繰り返される事が多いから、その一環だろう。

影響はなかったようだが、本震も土曜祝日だったし、2月の福島沖の地震も週末。

そうでなくともコロナ禍で週末を楽しめないご時世に、余計な不安は至極迷惑である。

最も地震より、暴風の影響があったようで、JR線の一部では運休や遅延が終日続いたと言う。

3月以降県内ではコロナ感染者が急増し、県独自の「緊急事態宣言」に加え、5日からは国の「蔓延防止措置」が適用されている。

楽観はできないけれど、今週は数十人程度で推移しており、自粛がある程度の効果を出しているのだろうか。

今回飲食店の時短要請は、いわゆる呑み屋さんや風俗店だけでなく、一般の飲食店にも適用されている。

ファミレスやカフェも20時閉店が多いが、中には「イートイン」が20時まで、テイクアウトは22時までと言う店もある。

ちょうど1年前に、20時までの時短営業を経験したせいか、行きたい人は20時まで間に合うように行く事に慣れ始めているように見える。

昨年は営業中の店は、どこもガランとしていたが、今回は通常通りとは田舎今でも「そこそこ」お客さんはいる。

それが良いか悪いか判断できないが、会社や学校は対策を講じつつも通常通りやっているし、飲食店以外の店舗も基本的に通常営業だ。

慣れる事が「油断」に繋がるかどうか、正直難しい。

あくまで私が見る範囲では、やはり10~20代の若者は「つい」と言う事が多い様に思えるが、全員と言う訳でもない。

カフェやファミレスは良く行くが、「黙食」「マスク会話」を心がけている人の方が増えたとは思う。

一方で友人同士、学校帰りに7~8人で「会食」する高校生も目立ち、学校でどういう指導をしているのかとも思う。

いわゆる「寄り道」を禁止する必要はないし、生徒の放課後は個人の権利・・と言うかもしれないが、夕方の街で教師が「巡回」しても良いのでは?

禁止するのではなく、仮に7~8人で行動するのを注意したり、お店ではテーブルを分ける「マスク会食」を直接指導することも必要に思う。

申し訳ないが大人数なのは殆どが男子で、一応はマスクをしているけれど、時間が経つにつれ外して騒いでいる事も。

高校生なのだから自覚がある・・と言うのは、学校や保護者の無責任な言い逃れ。

あの世代は頭で分かっていても、友人同士だと「つい」が連発する世代でもある。

私も経験があるから言うのであって、特別な事情なのだからもっと大人が糺すべきだ。

相変わらず若者の感染率が高いのだから、やむを得ないと思う。

◎4月21日

もう「初夏」と言って充分なほど、抜けるような青空が広がる。

昨日仙台では最高気温23℃と、今年一番を記録したが、今日はいくらか低め。

それでも5月下旬並みとのことで、日差したっぷりの日中はシャツ1枚でも良いくらいの陽気だ。

昨日は山越えの風による「フェーン現象」で気温が上昇したそうだが、今日もその影響だったようだ。

空気が非常に乾燥しており、湿度は20~30%台まで下がった。

風も午後を中心に吹いており、当然ながら冬場と同じく火の元に注意すべきだが、体調にも留意。

極端な乾燥は、喉・鼻・肌に悪影響を及ぼすし、暑くはないから水分不足に気付きにくい。

汗をかく前にどんどん蒸発するから、ある意味夏より気をつけなければならない。

また紫外線が最も強い季節の到来で、気になる人は対策が必要かも。

春を迎えたばかりのような気がしていたけれど、日差しの眩しい事と言ったら。

私はあまり目が良くないので、昨日今日はただ歩いていても目がチカチカする。

街はあっという間に桜から「新緑」の季節へ、こちらも眩く美しい。

桜はすっかり終わってしまったけれど、近所の公園では八重桜が満開だった。

ソメイヨシノを筆頭とする桜も良いが、比較的花期が長いシダレザクラや八重桜も風情があって綺麗だしもっと高く評価去れても良いと思う。

日本で暮らすある外国人が、こんな事を言っていた。

「満開の桜は確かに素晴らしいが、葉桜もまた良い。薄ピンク色と鮮やかな新緑のコラボは実に捨てがたい美しさを感じる。」

なるほど、そういう見方もあるのか・・と感心した。

更に散り始めた桜も、「道が桜の花びらで埋め尽くされる風景も、実に美しい。」と言う。

ある意味桜を見慣れている日本人は、葉桜も散った桜もあまり良い印象を持たない。

そもそも「桜散る」と言う言葉を、ネガティブと言う意味で誰が言い始めたのだろうか。

当たり前過ぎて、より悪い印象を持っているが、本来植物は「生きる為の営み」として花を咲かせ、葉を新しく出し、種類によっては実をつけ、秋には冬眠するように葉を落とす。

元が枯れない限り、半永久的にそれを繰り返して生きている。

故に花は彼らが生きる為の、ごく普通の営みであり、それ以外をネガティブに捉えるのは実に失礼な事ではないだろうか。

ちょうどその話を聞いた時、葉桜は目に入って、そうか綺麗と見るべきなんだな・・と初めて思った。

特に今年はコロナ禍で「花より団子」は出来ないから、改めて桜の美しさを見た人も多いのではないか。

桜に限らず、どんなものでも一定の価値観に捕われないことも必要なのだ。




今月は期間限定ながら、ちょっと生活パターンが変わっている。

故にこのブログの更新も遅れ気味で・・すみません。

私としては「珍しい」普通の生活パターンで、正直肉体的に疲れている訳で。

それでも帰り道、空気が冷えて来た事が分かる。

服装に悩ましい季節で、上着を着てると暑いと感じる事もあるが、脱ぐと寒い。

朝晩は結構冷えるので、家にいても油断できない。

昨日の夜は生温かい感じがしたが、今夜はまだ風も強くちょっと寒いかなと思いながら帰宅した。

考えたら4月も下旬で、GWも近い。

だが今年もコロナ禍で、連休を意識すること自体無駄に思えてしまう。

東京や大阪は3度目の「緊急事態宣言」になりそうで、やむを得ないと思うが、一方でオリンピックはどうするの?と思う。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

初夏を思わせる気温と青空、つい空を見上げてしまいました。

ちょうど今頃、君と公園を散歩した事を思い出します。

覚えていますか?コブシの花を一緒に見た事を。

遠い昔・・と言うかも知れませんが、私は楽しい思い出として鮮明に覚えています。

意外と言っては失礼ですが、君が植物の事を良く見ていることに感心したものです。

今日も、君は新緑と青空を見たことでしょう。

でも朝晩と日中の気温差が大きく、空気もかなり乾燥しているので体調管理には気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



屋戸にある 桜の花は 今もかも 松風いたみ 地に落るらむ(万葉集巻八 1458 厚見王)







飛行機ネタ。

冷戦が終結して30年以上が経ち、「東西陣営」と言う言葉も遠くなった。

最も冷戦が「ホット」だったヨーロッパは、旧ソ連の衛星国を「東欧」と呼んでいた。

だが最近は「中欧」と呼ぶ事が多いらしい。

「東欧」とは文字通り「東ヨーロッパ」を指す言葉だが、冷戦時代「東側」とはソ連陣営の事を意味した。

そういう意味を込めて、自由化された現在は「中欧」と呼ぶことにしたと思われるが、イギリス・フランス・ドイツなどは今でも「西欧」と呼ぶ。

気を回し過ぎのようにも思え、西欧に対しての東欧であれば良いと思う。

そもそも中欧とは「中部ヨーロッパ」の意味だから、地勢的にはスイス・オーストリア・リヒテンシュタインを指す言葉だ。

加えて冷戦時代にあっても、ソ連及びロシアは「東欧」には含まれず、独立して呼ばれていたのだ。

故に私は中欧と言う呼び方が、どうしても違和感を覚えてしまう。

更にデンマーク・スウェーデン・ノルウェー・フィンランド・アイスランドを「北欧」と言うのだから、旧ソ連衛星国とその地域は東欧の方が相応しく分かりやすい。

なので私見ではあるが、ここでは「東欧」で通す事にする。

上記のように東欧とは、旧ソ連衛星国の他旧ユーゴスラビア・アルバニアが含まれるが、およそポーランド・チェコ・スロバキア・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリアを指す事が多い。

第二次大戦中、これらの国の殆どはナチス・ドイツに占領・支配されてが、同国が敗戦すると「解放軍」のソ連に逆に占領・支配された。

建前上は、主権国家として独立を取り戻したが、政治的にはソ連の属国であった。

チェコ共和国もその一つで、社会主義時代は「チェコスロバキア社会主義共和国」と言った。

89年の自由化で「チェコ・スロバキア連邦共和国」となり、92年には両者がそれぞれ独立した。

首都プラハは、チェコスロバキア時代からの首都。

チェコとスロバキアは1918年に統合し、人種・言葉が異なる事で独立したが、民族的にはどちらも東スラブ系に属する。

チェコ語とスロバキア語は良く似ているそうで、意思の疎通は可能だと言う。

聞くとことによると、チェコ語で育てられる子供は、低年齢時だとスロバキア語は理解できないが、中学生ぐらいになると教えられずとも自然とスロバキア語が理解できるようになると言う。

ヨーロッパでは民族や国境が入り混じっており、同じ言葉なのに国の違いで別言語とされたりすることが多く見られる。

日本人から見ると「方言」としか思えないのだが、ヨーロッパでは別言語=外国=異民族と考える向きもあり、それが紛争の火種になって来た歴史がある。

元チェコ共和国の面積は約7.9万平方キロで、北海道と同じくらい。

人口は約1.045万人、首都プラハは約135万人。

海のない内陸国だが、プラハを始め国内には大河・ヴルタヴァ川やエルベ川が流れており、中世から水運に恵まれて来た。

チェコは西部でドイツ・オーストリアと国境を接し、特にドイツとの国境地帯は以前からドイツ系住民が多い。

その為東欧でありながら、ドイツとの繋がりも深かった。

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1-1-24A-Prague_Castle_as_seen_at_night.jpg ←(2枚)チェコ共和国の首都プラハ(ウィキペディア英語版より)

第二次大戦までは、ドイツの影響もあって早くから工業化を進めた国で、特に機械分野においては西欧並みに進んだ国だった。

プラハがある西部は古くから「ボヘミア」地方と呼ばれ、東部は第二の都市ブルノを中心に「モラヴィア」地方と言う。

更にポーランドに近い北東部を「シレジア」、西部ドイツとの国境地帯は「スデーテン」と呼ばれている。

チェコは小国ながら、交通の要衝の位置にあったこともあって中世から栄えていた。

20世紀になると、自動車工業を筆頭とする機械工業が発達したが、第一次大戦後には航空産業も発展した。

意外に思われるかもしれないが、19世紀以降学問分野も非常に発達した国の一つでカフカ・チャペックと言った文学分野の他、指揮者や作曲家などを多く輩出した他、ボヘミアガラスなどの工芸品、そして「ピルスナー」と呼ばれるビールの原産地でもある。

こうした背景には同様に発展していたドイツの影響が強く、航空機産業も同様であった。

20年代には国産機の開発が盛んに行われ、独自の技術を蓄積した。

第二次大戦直前、ナチスドイツに占領されチェコは飛行機や自動車などの生産供給地になった。

戦後もドイツの技術が残されたことから、旧ドイツ製の機体ににチェコ製のエンジンを換装した軍用機が多数生産され、輸出もされた。

他の東欧諸国と違い、戦時中国内は戦争の被害が比較的少なく、多くの工場が残っていたことも戦後復興の役に立った。

ソ連の衛星国になった後も、ソ連機のライセンス生産拠点になって「MIG」戦闘機などを国産化した他、練習機など小型機を自主開発している。

最も大きなメーカーはLET社で、創業は大戦前の36年。

同社は現在も続く大手自動車メーカー「シュコダ」が系列会社として設立した。

戦時中は主にドイツ機の部品などを生産していたが、戦後は上記の機体の他民間機開発も並行して開発していた。

その中で成功したのが「L410ターボレット」である。

1-1-24A LET_L-410NG_OK-NGA.jpg ←チェコ製のコミューター旅客機、L410ターボレット。画像は最新の航法機器や複合材などを多用した「L410NG」。15年から生産が開始された(ウィキペディア英語版より)

冷戦時代の東欧諸国の産業は、すべての分野に置いて「国営」である。

更に宗主国であるソ連は、自国の物資や技術・資源を各国に供給するとともに、衛星諸国にも様々な分野で責務を割り振っていた。

それはそれぞれの「得意分野」から発生するもので、例えば光学機器やテレビなどの電化製品は東ドイツ、トラックやバスはハンガリー、自家用車はポーランド、農産物はブルガリア・・と言った感じだ。

チェコは「シュコダ」が自動車、国営航空機製造会社も自国用と言うよりもソ連向けに開発していた。

1-1-24A_Skoda_Fabia_SE_MPi_1.0.jpg ←チェコの国産車「シュコダ・ファビア」(ウィキペディア英語版より)

ソ連では地方コミューター機として、50年代後半にアントノフ24を完成させていたが、へき地輸送などに適する最小のコミューター機をチェコに依頼した。

ソ連では、同じくチェコの「アエロ社」が開発した、空軍用ジェット練習機「L29デルフィン」と、その後継機「L39アルバトロス」を委託して大量に発注しており、信用を得ていたと言える。

「チェコスロバキア」時代にあっても、同国は小さく民間航空需要は極めて限定的だった。

加えて当時のチェコスロバキアは、東ドイツと並んで国民を厳しく監視する「警察国家」の統制下にあり、国民が自由に旅行することは出来なかった。

故に国産旅客機の需要も正直皆無に近かったが、小型のコミューター機であればある程度の需要は見込めたし、軍用機としても運用出来る機体を望まれていた。

1-1-24A-L-410M_Czech_AF.jpg ←チェコ空軍所属のL410M(ウィキペディア英語版より)

60年代後半、同国のエンジンメーカーである「ワルター社」は、小型機用のターボプロップエンジンを開発中だったことから、このエンジンを搭載する機体として開発されたのが「L410」であった。

仕様として、巡航速度は350~500キロ前後、航続距離は1,000~1,500キロ前後で、座席数は20席程度だが貨物室がある事、そして「不整地」での運用が可能である事が要求されていた。

このスペック自体、小国チェコではさほど重要視される事ではなく、明らかにソ連からの要求であることが分かる。

広大なソ連ではへき地輸送のために、40年代に開発されたレシプロ「複葉旅客機」のAN-2が軍民両用機として大量生産されていたが、その後継機としてより高速・積載量の多いターボプロップ機を要望していたのである。

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1-1-24A_L-410UVP-E3_Turbolet,_Russia_-_Air_Force.jpg ←(2枚)ロシア空軍で使われるL410UVP(ウィキペディア英語版より)

そうして完成したL410の原形機は69年に初飛行した。

操縦性などは極めて優れた機体だったが、チェコ初の本格的ターボプロップエンジン「ワルターM601」が難航した。

機体の完成まで出力不足が解決できず、先行量産型は予定通りの性能を満たせていなかった。

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1-1-24A_L-410UVP-E_Turbolet,_Transaven_Airlines_VENEZUERA.jpg ←(2枚)SOSA(ホンジュラス)とトランザビアン航空(ベネズエラ)のL410UVP-E(ウィキペディア英語版より)

だがSTOL性能(短距離離着陸)や、操縦性は計画通りの性能を見せたことから本格的な生産が決定され、エンジンの改良が急がれた。

ようやく実用化にこぎつけたのは数年経た73年だったが、M601エンジンは間に合わず、量産型はカナダのP&W社製「PT-6A-27」を搭載した。

冷戦真っただ中の時代に信じられない事だが、当時チェコやハンガリーは比較的西側へ門戸を開いていた。

それは「中立国」であるオーストリアと国境を接していたからで、一定の文化交流や貿易は行われていた。

このエンジンは軍用ではなく、製造元も本家アメリカのP&W社ではなくカナダの系列会社だったので、カナダ政府が輸出を認めていた。

だが輸入品である事と、チェコが社会主義国であることは「高価」になる事でもあり、「ワルターM601」エンジンの実用化が急がれた。

1-1-24A_Walter_M601T.jpg ←ワルターM601ターボプロップエンジン(ウィキペディア英語版より)

「PT-6A」エンジンを装備した機体は、「L410A」型とされ、70年代半ばにようやく既定の性能を出せる「M601」エンジンが量産できるようになったことで「L410M」の生産に移行した。

初期のA型は3枚ブレードのプロペラを装備していたが、後に4枚に変更された。

ただしオペレーターによって、後から4枚に交換したり、その逆もあるようで一定しない。

エンジンでもたついたものの、機体構造は計画通りの性能を発揮した。

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1-1-24A L410-Sprint_Air_Let_L-410UVP-3.jpg ←(2枚)カザン・エア(ロシア)とスプリント・エア(ポーランド)のL410UVP。翼端の増槽に注意(ウィキペディア英語版より)

最も注目すべきは、不整地での運用である。

開発したチェコではそこまで必要としていなかったはずだが、ソ連の要求をきちんと満たすのが当時の力関係と言う事だろうか。

そもそもソ連が求めたのは、先に書いたようにレシプロ複葉機AN-2の後継機だったが、L410とは似ても似つかぬ機体だ。

確かに良い意味で「前近代的」で、最低限「飛ぶ」ことと、頑丈さと言うソ連・ロシアお得意の機体であった。

敢えて複葉機にしたのは、極端なSTOL性能と平地であれば「どこでも」離着陸できるようにしたためで、座席は僅か9席しかない。

速度もせいぜい200キロ程度で、新幹線よりも遥かに遅いが、風向き・重量によっては何と滑走距離は100メートル前後で機体が浮く。

同機はへき地での旅客および貨物輸送だけでなく、小型軍用輸送機としても真価を発揮し、空てい部隊などで多数が使用された。

1-1-24A-Antonov_AN-2.jpg ←旧ソ連で開発した複葉輸送機アントノフAN-2(ウィキペディア英語版より)

ソ連以外でも生産され、実に20,000機以上が生産され、現在も現役の機体が多数存在している。

また某国では「奇襲部隊」の輸送に最適とされ、レーダーに映らない超低空を自動車程度の速度で飛行し、敵地に侵入して特殊部隊を送り込む任務も行っている。

そのような機体の後継機と言われても、現代のコミューター機と併用できる性能はどだい無理なのだが、L410はそれこそ大戦中の飛行機のように単なる草地からでも平然と離着陸が可能であり、アエロフロートに納入された機体はへき地路線で大活躍している。

1-1-24A_L-410_KOMIAVIATRANS.jpg ←コミアビアトランス(ロシア)のL410UVP-E(©VITALY.V.KUZMIN)

80年代半ばには、エンジンをさらに改良した「UVP」が登場した。

エンジンは従来通りワルターM601だが、出力が向上したほか燃料タンクを増加させた他、翼端に軍用機が使う「増槽」をオプションとして取り付けられるようになり、航続距離が大幅に延長した。

胴体後部の貨物室が大型化されたため、初期のUVPでは座席数が15席に低下したが、その後尾翼と主翼の形状を変更し、キャビンの構造も見直した「UVP-E」シリーズで改善されて19席に戻っている。

またプロペラも複合材を用いた5枚ブレードに変更し、速度と燃費も改善した。

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1-1-24A_L-410_Turbolet,_Czech_Republic_-_Air_Force.jpg ←(2枚)サウス・イースト・アジアン航空(インドネシア)とチェコ空軍のL410UVP。同機は軍用機としても多数が使われている(ウィキペディア英語版より)

後部の貨物室はコミューター機としては大きい方で、へき地輸送の重要な積載能力を持つ。

機体規模としては、デ・ハビランド・カナダの「DHC-6ツインオター」、ドルニエDO228と対応し、これらの機体と同じくキャビンは非与圧である。

しかし自体は非常に堅牢かつ多用途性が重視されており、それが「軍民共用」が強く意識されているからだ。

脚は一般的な引きこみ式で、胴体下部に設けられたバルジ(張り出し)に収容される。

主翼は直線に近く、フラップは単純なシングルタイプだ。

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1-1-24_L-410UVP.jpg ←(2枚)不整地で運用されるロシア空軍のL410。機首で輝くのは着陸灯(ウィキペディア英語版より)

前縁スラットはないが、寒冷地での運用を考慮して防氷ブーツが備えられており、尾翼にも装備されている。

面白いのはフラップのアクチェータが「むき出し」になっていることで、旧ソ連機と良く似た整備性を重視したやり方である。

シベリアや極地方などで、ハードな運用にも耐えられる設計である。

こうした「タフさ」はソ連だけでなく、中南米・アフリカなどの途上国への売り込みにも成功した。

ライバル機よりも航続距離が長く、貨物積載スペースがあることから発注が増え、チェコに貴重な外貨をもたらした。

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1-1-24A L410 AIR GUYANE-F-OIXT.jpg ←(2枚)L410は中南米諸国でも多くが現役にある。ベネズエラCIACAとフランス領ギアナのエール・ギアーネ(ウィキペディア英語版より)

「UVP-E」シリーズはマイナーチェンジが繰り返され、自由化後の90年代には「解禁」となった西側製の航法機器が搭載され「CAT-Ⅰ」条件下での自動着陸が可能になった。

安全装置なども順次更新され、今世紀になっても生産が継続された。

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1-1-24A-L410 ElbaFly_Let_L-410UVP-E_Turbolet.jpg ←(2枚)スロベニア空軍とエルバ・フライ(スロバキア)のL410UVP-E(ウィキペディア英語版より)

05年にはCRTを使った計器盤、軽量化を進めた「E20」が登場し、LET社は「L410NG」として公開した。

実際にはL410の進化型と言う事で、「L420」と言う名称であるが宣伝では「L410NG」が使われている。

尚L410NGに搭載される「M601F」エンジンは、ワルター社がアメリカの名門エンジンメーカーGE社の傘下になったため「H80-200」の改称され、出力も1.5倍に増強されている。

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1-1-24A_L-410A_Turbolet_CABIN.jpg ←(2枚)L410UVPのコクピットとキャビン(ウィキペディア英語版より)

同機はこれまでに1,200機以上が生産され、現在も半数が現役にある。

軍用機も多く、輸送機としての他救援機や偵察機、哨戒機として運用されている。

民間では中南米やアフリカの小規模エアラインで運用が続くほか、ロシアではコミューターエアラインで運用されている。

1-1-24A LET_L-410NG_OK-NGA_H80-200.jpg ←L410NGに搭載されたGEチェコの「H80-200」エンジン(ウィキペディア英語版より)

変わった所では、消防機として使ったり、「スカイダイビング」の輸送に使う会社もある。

実は後部貨物室は、壁を取り払う事が出来るので、旧ソ連軍などではAN-2と同じく空挺部隊で使っていた事があり、スカイダイビングにもうってつけと言う訳。

貨物用ドアが大きいので、そこから「飛び降りる」わけだ。

「L410NG」では、ビジネス機も提唱しており、オプションとして与圧キャビンも用意されていると言う。

1-1-24A-L410_VIP_interior.jpg ←L410ビジネス機のキャビン(ウィキペディア英語版より)

この類いの機体は、とにかくシンプルさが優先されるので、生産期間が極めて長く、同機では原形機が初飛行して50年を突破した。

日本では「チェコ製」は殆ど馴染みがないが、ヨーロッパや中近東・アフリカでは非常に評価が高い。

現在の航空事情では、こうした小型コミューター機の需要が減少しており、メーカーも少なくなった。

しかしコロナ禍で、180度転換の時代を迎えつつある中、L410がにわかに注目される可能性は大きいと思う。

飛行機ネタ 今更なぜ?IL96再生産?(4月14日 曇り時々晴れ 16℃)

変わりやすい空模様。

予報では昨日・今日は雨だったが、市内では小雨がぱらつく程度だった。

低気圧と前線が通過したからだが、その後急変。

午前中は曇り空が中心で、前線の後に寒気が流入したため、風向きが急変した。

市内では一部「雹」が降った所もあったそうで、一時暴風警報も出された。

午後は青空が見えたものの、雲が優勢ですっきりせず風は夜まで吹いていた

今夜から明日朝気温は低く、最低気温は5℃以下と冷え込み「霜注意報」が出されていた。

日中は16℃と気温が上がったが、冷たい北西風が強く日差しの温かみはあまり感じなかった。

桜がそろそろ終了を迎え、木々には新緑の芽が目立ってきた。

しかし昨日・今日は、新緑と体感のアンバランス。

目には春まっ盛りに写るのに、とにかく空気が冷たくて妙な世界に見えてしまった。

街では、ミニスカートやショートパンツ姿の若い女性を見かけたが、いくら春のおしゃれとは言えこの気温ではかなり寒かったに違いない。

来週以降は平年並みに戻る予想だが、この春は急に暖かくなり好天気が続いたことから、逆に「戻り」があるのではないかと思う。

先日は汗ばむくらいの日もあったのに、今度は暖房が欲しくなるような気温。

こうなると体調にも影響し、私も肩こりを筆頭に鼻がぐずぐずし、痰が絡みやすくなっている。

増して今はコロナにどこかナーバスになっているから、うっかり「ただの風邪」引く事まで躊躇してしまう。

空気もカラカラだから、元々喉鼻に持病を持つ身には厳しい。



近所の桜もすっかり散ってしまい、遅咲きのシダレザクラや八重桜が何とか咲いている程度。

だが夜の空気は冷たく、そして寒い。

季節の移ろいは、当たり前過ぎて時には戸惑う事もある。

特に今は、二言目には「コロナ」だから、季節を感じようとするとそれが憚られるような世相だ。

気にならないと言ったらウソになるが、メディアの報道もうんざり。

政治・行政、そして「専門家」らの喚きも、しらけてしまう。

言いようがないからだろうが、「密を避ける」「不要不急の外出は控える」「会食は控える」・・まるでオウムのよう。

一方でワクチンはさっぱり進まず、海外から「途上国並み」と揶揄されている。

にもかかわらず、3か月後に控えたオリンピックは「無観客で開催」するという。

はあ?と思う。

オリンピックにお金をかける前に、すべきことはいくらでもあると思うのは私だけだろうか。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

日ごと変わりゆく空気が、時の流れを惜しんでいきます。

春は華やかなれど、しばしば残酷に思える事もあります。

気付いているようで、気付かない過ぎ去る季節・・・。

この春、君はどんな春を過ごしているのでしょう。

どうか自分を見失うことなく、今の季節に君の命を感じて下さい。

気温差が大きいので、体調管理には気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。


かくしてぞ 人の死ぬとふ 藤波の ただ一目のみ 見し人ゆゑに(万葉集巻十二 3075 物に寄せて思を陳ぶ)






飛行機ネタ。

ロシアの航空機メーカー「統一航空機製造(UAC)」は、このほど国産旅客機である「イリューシン96-300」(IL96)の生産再開第一号機を公開。

初飛行に成功したとともに、テスト飛行後発注者に納入予定だと発表した。

ただし納入先は非公表となっている。

ネット上では飛行機ファンから、「なんで今頃IL-96?」と言う書き込みが見られたが、当然の反応と言えよう。

なぜなら同機は「4発ワイドボディ機」だからだ。

1-1-23A_IL96_Aeroflot.jpg ←アエロフロートで運用されていたIL96-300(ウィキペディア英語版より)

近年技術の向上が顕著になって、旅客機は経済性・環境性が強く叫ばれる時代である。

そこに未曽有のコロナ禍が世界を襲い、エアラインは大不況時代を迎えている。

それは大規模なリストラと大幅な経営戦略の見直しを迫られることになり、いわゆる「大型機」は「余剰」になり始めている。

基本設計の古い「ジャンボ機」B747はもちろん、デビュー後僅か10年足らずのA380、そして「ポスト747」として大いにもてはやされたB777でさえ「余剰」扱いされ始めており、今後旅客機のコンパクト化が一層進むものと思われる。

広いキャビンと多くの座席を併せ持つ「ワイドボディ機」は、不経済と言うレッテルが張られつつあり、近い将来例え長距離路線でも狭いナローボディ機・・と言う、一種の時代の逆行現象が見られるのではないだろうか。

ところがロシア国産機であるIL96は、「再生産」と言う形で復活したと言うのだから、首を傾げる向きがあって当然と言えるのである。

同機の原形機は88年に初飛行したが、旧ソ連が消滅する直前の事である。

旧ソ連は米英を中心とする自由主義諸国「西側」と双壁をなす「東側」諸国の盟主であり、第二次大戦後から対立して「冷戦」時代を続けていた。

それは主に軍拡競争が中心だったが、民間機も独自で開発し衛星諸国や同盟国に供給していた。

1-1-23A_Il-96-300,_Aeroflot_OLD.jpg ←92年にアエロフロートでデビューしたIL96-300(ウィキペディア英語版より)

しかしエアラインは商売ではなく、単なる公共交通であり、有事には軍の輸送部隊に編入される事が前提にあった。

その為旅客機とは「運ぶため」のものであり、経済性や快適さは二の次だった。

「鉄のカーテン」と呼ばれて、その内情は徹底的に秘密主義を貫いていたソ連だが、時には西側に公開することで国力を誇示していた。

加えて同盟国の前で、ソ連が技術的に「劣る」と思われることは離反を招きかねないことから、民間部門では「西側に追いつき追い越せ」と言う感覚も強かった。

超音速旅客機「ツポレフ144」は、有名な「コンコルド」よりも先に開発している。

当時西側ではコピーと揶揄されていたが、それはプロバガンダで、実際には「似て非なる」ものであった。

最も初の超音速旅客機は、問題も多く、旅客機としての実用化は失敗に終わり、「世界最速の旅客機」の名誉はコンコルドに奪われてしまった。

これに懲りたのか、次にトライしたのは通常の旅客機で、ソ連にはなかったワイドボディ機の開発であった。

80年代初頭に完成した「イリューシン86」は、ソ連初のワイドボディ機として大いに宣伝された。

同機は6メートルの胴体径を持ち、座席は3-3-3の9列配置が可能で、西側のDC-10・A300などとほぼ同じサイズを持ち300席が可能だった。

それまでソ連製の旅客機は、最大で200席前後のナローボディ機しかなかったから革新的な機体であった。

唯一の長距離機材であるIL62でさえ、4発機ながらもナローボディ機だった。

1-1-23A_Il-86.jpg ←ソ連初のワイドボディ旅客機IL86(ウィキペディア英語版より)

IL86は見た目こそ西側水準に達したように見え、唯一のエアライン国営アエロフロートは、さっそく西ヨーロッパへ運航して最新鋭機をアピールした。

だが西側では標準になった、低燃費の高バイパスエンジンが完成できず、「4発ワイドボディ機」にも関わらず航続距離は5,000キロ程度であった。

同機は80年に開催された「モスクワオリンピック」の宣伝材料として期待されたが、エンジン開発にもたつき僅かに間に合わなかった。

高バイパスエンジンの技術に関しては、残念ながら当時のソ連は10年程度遅れていた。

ソ連機共通の「タフさ」は見たしており、故障の少ない機体ではあったが、意味のない「4発機」であった。

開発当初は西側を含む世界にセールスも考えていたらしいが、商売道具として見向きもされずじまいだったのである。

その失敗を教訓にしたのが「IL96」であったのだ。

IL86最大の決定んであった低バイパスエンジンと低燃費は、10年近くかけて開発した「PS-90」高バイパスエンジンの完成で一気に解決した。

同エンジンは完全な西側水準を意識して作られており、騒音や排気ガスの規制もクリアできた。

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1-1-23A-Aviadvigatel_PS-90.jpg ←IL96に搭載されたPS-90Aターボファンエンジン(ウィキペディア英語版より)

操縦システムも、ソ連旅客機では初めて全面的なデジタル化「フライ・バイ・ワイヤ」式になり、コクピットは一部アナログ計器が残されたもののCRT表示のグラスコクピットになった。

機体形状はほぼIL86を継承し、全長55.3メートル、全幅60メートルあり、胴体の直径は約6.1メートル。

デザインはエアバスのワイドボディ機A300を参考にしたようで、胴体の断面はほぼ円形、台形をしたコクピットの窓もどこかA300を思わせるが、胴体径はIL86・96の方が若干大きい。

翼端には86ではなかったウィングレットが取り付けられ、念願の高バイパスエンジンと相まって航続距離は約11,000キロに達した。

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1-1-23A_Il-96-300 CABIN.jpg ←(2枚)IL96-300のコクピットとキャビン。CRTを使ったグラスコクピットだが、機関士が乗務する。キャビンは3-3-3の9列が標準だが、中央部にオーバーヘッドストウェッジはない(ウィキペディア英語版より)

88年に原形機が初飛行しているが、国営アエロフロートで就航したのは93年である。

新型機としては少し時間がかかっているが、この間にソ連は解体・消滅。社会主義もなくなった時期に当たる。

故に「ソ連」が尽力して完成したIL96は、変革の波にかき消されたようになってしまった。

ソ連時代、航空機の開発は各「設計局」が担当し、国の命令によって開発を手掛けていた。

戦後独裁者スターリンは、航空機開発に熱心で多大な支援を行ったが、同時に失敗すると責任者が処罰された。

設計局は「得意分野」があったが、責任者は技術者以上に政治的な流れに載せられ、スターリンを含む上層部に気に入られる者もいれば、嫌われて冷遇される者もあって、当然ながら自由な開発は不可能だった。

その為国から「こう言う飛行機を作れ」と言う命令に従う必要があり、それが西側より遅れを取ることも多かった。

イリューシン設計局は、戦時中開発した「襲撃機」IL-2が大成功を収め、ドイツ軍を弱体化させた武勲機だった。

そのせいでスターリンにも「覚え」が良く、戦後はソ連初のジェット爆撃機「IL28」を始めに、ジェット機の製造は早くから行われた。

同局は主に輸送機・旅客機を得意とし、50年代にはソ連最初の本格的旅客機となった「IL14」や、4発ターボプロップ機「IL18」などを開発している。

ジェット機では、やはりソ連初の長距離旅客機となった「IL62」を成功させ、軍用機では同じく4発機の戦術輸送機「IL76」を開発し、後者は現在も生産・現役にある。

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1-1-23A_Il-96-300,_Domodedovo_Airlines A.jpg ←(2枚)ソ連解体後設立されたドモデドヴォ航空で運用されたIL96(ウィキペディア英語版より)

だがソ連が解体すると、イリューシンだけでなく各設計局は「民営化」を余儀なくされたため、多くが運営が継続できなくなった。

ロシア政府は支援を開始したが、00年代までは軍用機が優先されたため、旅客機の開発や生産はほぼ停止状態になってしまった。

加えて自由化された事で、ボーイングやエアバス機の導入も可能になったことから、「ソ連製」が不要になるのは自明の理であった。

混乱期だったため、せっかくデビューしたIL96の生産も僅かで停止してしまい、アエロフロートに納入されたのは10機前後だった。

もちろんすぐにボーイング・エアバス機は変えないから、しばらく同社に留まっていたが、アエロフロート自体も民営化・分社化で混乱しており、同機の本来の性能を活かすチャンスは殆どなかった。

資金不足と言う事でしばらくは、ヨーロッパ線や北米線に投入されたが、リースと言う形でエアバス機などの導入が出来るようになったため、いつしか姿を消してしまった。

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1-1-23A_Il-96-300_AEROFLOT RA-96008.png ←(2枚)アエロフロート新旧塗装のIL96。10機前後が引き渡されたが、ほどなくリースで導入したA310やB767と交替した(ウィキペディア英語版より)

同機は2クラスで270席前後を設定でき、座席数と言う点では水準を見たしていたが、なぜか「3人乗務機」のままだった。

グラスコクピットか、フライ・バイ・ワイヤ化させてはずなのに、である。

この事やはりデジタル技術が不足していたからだ、と言う見方が強いが、それは「ソ連」が人的な効率を考えない文化を引きずっていたとも言える。

上記のように同機がデビューしたのはソ連解体とほぼ同時であり、セールスなど出来る状態になかっただけでなく、自由化された旧ソ連系エアラインも興味を示す事はなかった。

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1-1-23A_Il-96-300 KRASAIR.jpg ←(2枚)ロシア・クラスエアは、IL96を運用した数少ないエアラインの一つ(ウィキペディア英語版より)

唯一ソ連時代から強い同盟関係を結んでいたキューバの国営航空「クバーナ」が発注していたのが、唯一のセールスだった。

ロシアとなって00年代までは、航空機産業は実質的に停止状態にあり、部品供給などのサービス体制も維持できなかった。

ロシア大統領となったプーチンは、就任後ロシアの航空産業を重要視して、いったん民営化した各設計局を再び統合させる方針に転じた。

それが現在のUAC(統一航空機製造)と言う会社で、一種の持ち株会社として各設計局をグループ部門として傘下に置いているが、その間にロシアのエアライン自体淘汰・統合されている。

民営化を余儀なくされた旧アエロフロートの地方支社や、旧構成国のエアラインは、当初こそ移譲されたソ連旅客機を運用していたが、殆どが数年以内に退役している。

各社の資金不足や人員不足、「メーカー」の弱体化でとても古いソ連機を維持することは困難だったのだ。

このような状況を見たプーチンは、ロシアの航空技術を復興させるべく設計局を統合する政策を取ったと言える。

「単体」としてのIL96は、優秀な機体であったが、「商売道具」としてはデビュー直後に旧式化していた事も否めなかった。

3人乗務機ではあるが、航法装置は西側水準の物が装備され「CAT-Ⅲ」対応の自動着陸装置やレーダーが標準装備されている。

IL86では、未整備の地方空港での運用を考慮して、乗客の乗降口は胴体下部に設けられていたが、IL96は通常型に戻されている。

キャビンは3クラスで237席、モノクラスならば最大で300席となる。

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1-1-23A_IL-96-400T_PORET.jpg ←(2枚)胴体を延長したIL96Mをベースに近代化改修したのがIL96-400で、更に貨物機としてデビューしたポーレット航空のIL96-400T(ウィキペディア英語版より)

イリューシンでは将来性を考えて、胴体を約9メートル延長し最大座席数400席にした「IL96M」を計画し、90年代に原形機を完成させた。

更にアビオニクスを最新型に交換し、2人乗務を実現した「400」も製造されたが物にならなかった。

と言うよりも、自由化された事で旧態然としたソ連時代の産物よりもボーイング機やエアバス機を買って当たり前であった。

故に生産は全く進まず、30機程度が生産されただけでいつしか忘れ去られたようになってしまった。

ロシア国内では、新興エアラインがいわば「新古機」として導入した機体もあったが、経営に行き詰まり政府に「担保」として取られたりした機体もあった。

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1-1-23A_IL-96-400VVIP_Ministry_of_Defence.jpg ←(2枚)IL96M→IL96-400と変化し、さらにIL-96-400VPUとIL96-400VVIP(下)に変化した2機。VPUはロシア国境警備隊に所属する電子偵察機、VVIPは国防省に所属する空中指揮機と見られている(ウィキペディア英語版より)

今回突如リリースされたIL96の「新造機」は、UACに所属するロシア中部・ヴォロネジ工場で生産された機体で、同工場は主にイリューシン部門の機体を製造及びメンテナンスを担当している。

公開された画像は、ロシア第二のエアラインである「ロシア航空」の塗装が施されている。

これがファンには「なぜ?」と混乱を来したようだが、同社は一般の定期路線を運航する傍ら、「スペシャル・フライト・ユニット」と言う特別部門を持つ。

同社は一応民間エアラインとしての顔を持つが、経営母体はロシア政府であり半官半民のエアライン。

株式の多くは政府が所有しているため、実質的には国営もしくは公営エアラインとも言える。

旅客部門では赤とグレーをベースにした美しい塗装を施していて、ロシアでは唯一B747-400を保有するエアラインとして知られている。

保有機材の多くは中古機で、B747-400の他B777-300も保有していて、これらの機体は元日本航空機は含まれている。

一方「スペシャル・フライト・ユニット」は、グレー基調にロシア国旗をあしらった3色のラインが塗装されており、一見出民間エアラインと言うよりも軍用機に近いイメージだ。

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1-1-23A IL-96-300PU-RA-96016.jpg ←(2枚)「スペシャル・フライト・ユニット」に所属するVIP輸送型のIL96-300PU。胴体背部のフェアリングに注意(ウィキペディア英語版より)

非常に実態が分かりにくいのだが、運用自体は空軍が行っており、主にVIP輸送や有事における「空中指揮機」などの運用を担当している。

機材は殆どが「旧ソ連機」で、少数ながらもTU134/154なども現役で運用している。

現在4機のIL96が所属しており、このうち1機ないし2機が「大統領専用機」に充当されている。

ベースはIL-96-300で、外観はほぼ変わりないが、垂直尾翼付け根から胴体上部にかけてフェアリングが増設されているのが特徴だ。

ロシアでは「IL96-300PU」と名付けて、旅客型とは区別している。

ソ連時代のVIP機はアエロフロート機を使っていたが、プーチン大統領は「専用機」として「国産機」の同機を指名したのである。

大統領は飛行機好きで有名だが、先に書いたように航空産業の復興も重要な政策として打ち出しており、同機の改良と再生産には熱心だと言われている。

一旦大統領職を退き、メドベジェーエフ大統領に変わった後も、IL96を「政府専用機」として使っており、再任後は「大統領専用機」に改修させて、外遊などで積極的に使っている。

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1-1-23A_Il-96-300PU_RA-96012.png ←(2枚)「スペシャル・フライト・ユニット」所属のIL96は、大統領専用機としても運用される。背部のフェアリングの他、衛星通信用のアンテナなどが追加され、尾翼にはロシア国旗と大統領府の紋章が記入される(ウィキペディア英語版より)

今回公開されたIL96は上記のフェアリングが見えていることから、どうやら旅客機としてではなく、政府専用機の「更新機材」であるようだ。

大統領は今も同機に熱心で、海外セールスも諦めていないと言われている。

いくら大統領命令だとしても、民間エアラインで同機を使う所はないはず。

そうでなくともリージョナル機の「スホーイ・スーパージェット100」が、アエロフロートを筆頭に多くのエアラインが「押しつけ」られており、今更いくら改良版とは言え、従うエアラインはないだろう。

ただ世界で唯一旅客機として同機を運航するキューバの「クバーナ」は、保有する4機の同機が老朽化しつつあるため、新造機を発注もしている。

面白い事に、発注は10年以上も前に行われ、納入の見通しは全くない。

普通ならばクバーナ側が違約金を請求し、キャンセルしてもおかしくないのだが、絶対的な資金不足が慢性化しているため、部品供給などのサービスで双方ともお茶を濁している状態だ。

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1-1-23A_Il-96-300_CUBANA.jpg ←(4枚)現時点では世界で唯一IL96を「旅客営業」するキューバのクバーナ航空(ウィキペディア英語版より)

それでもクバーナのIL96は貴重な長距離機材で、同社最長の国際線マドリード線・ロンドン線に投入されている。

しかしクバーナは「例外」であり、厳しい経済制裁で機材購入に苦しむイランでさえ、同機を購入していない。

00年代にはTU154や輸送機のIL76を導入した経歴はあるものの、サービス体制の不備などで短期間で退役させており、IL96には興味を示さなかった。

単体としては、ソ連時代に開発された機体として優秀であるが、市場では全く「お呼びでない」旅客機になってしまった。

世界は「潮流」が価値観になり、4発機は古く不経済で時代にそぐわない・・と言う概念が蔓延し、それにコロナ禍が拍車をかけてしまった。

だが旅客機としては無用とされても、同機のように大統領・政府専用機などのVIP機や貨物機としては道が残されている。

政府専用機では設けになるような機数は生産されないが、緊急時に不時着を避けるため多発機が必要とされる。

アメリカの大統領専用機「エア・フォース・ワン」は、間もなくB747-200からB747-8Iに交替するし、中国の政府専用機も近年B747-400から「8I」に変更されている。

世界では、機体に関わらず大阪・伊丹空港のように「多発機」の乗り入れを禁止する空港が増えているが、軍用機や政府専用機はその規制の枠外である。

ロシアとしてはIL96の「貨物機」に期待を寄せているようだが、B777F・A330Fと言った最新鋭かつ双発ワイドボディの貨物機が存在し、B747やB767の貨物機も多い。

とくに後者は新造機以上に、安い中古機からの改造機市場が広がっており、IL96貨物機の入り込む余地は少なそうに見える。

今になって生産を再開したと言うのは、政治的な意味合いが強そうだ。

ロシアは軍用機や宇宙部門では米中以上の技術を持っており、今後の航空業界の発展はセールスとサービスの充実だろう。

実は「スホーイ・スーパージェット」に関しても、ロシアと近隣諸国はともかく、ほかの海外ユーザーからは至極評判が悪い。

格安だったことから複数の同機を購入した中米のLCC、インテルジェットは10機以上導入したが、故障が多発した上、部品供給や整備保証が行き届かず、就航後僅かで運航できる機体が半減した。

自由化されて30年もの月日が経ったが、現在のロシアはまだどこかソ連時代の体質が抜けていないようである。

少なくとも「4発旅客機、ロシアで復活!」と言う事には、どうもならないのではないかと思う。



飛行機ネタ B747を忘れてはいけない(4月8日 晴れのち曇り 16℃)

※諸般の事情により2回分の日記を掲載します。

◎4月5日 曇りのち晴れ 12℃

最近週末と言うと、なぜか天気が悪い。

今日もその後を受けて、午前中を中心にズンと重苦しい曇り空だった。

北西の風が強く、気温も上がらず肌寒い1日だった。

仙台の桜が「満開」になったのは先月31日。

3月中の「満開宣言」は、観測史上初めてのことだと言う。

連日天気が良く、気温も20℃前後と初夏並みが続いていたせいだ。

しかも雨や風もあまりなかったので、開花宣言から満開まで僅か3日。桜には最適のコンディションだったのだろう。

我が家のベランダの前には「ヤマザクラ」の大きな木があるが、今朝見たら幾つかの花が咲いていた。

ヤマザクラは少し開花が遅いのだが、今年は同時進行のようだ。

街でも急な暖かさに、若い女性などは早速春の装いになっている人も増えて来たが、一方でまだ上着を手放さない人も多い。

朝晩はまだ寒さを感じるし、今の暖かさが「気まぐれ」ではないか?と疑っているに違いなく、気温に合わせてすぐ服装を変えようとしない仙台人の特徴だ。

今日など、慌てて厚手の上着に切り替えた人もいたと思う。

「花冷え」と言う言葉があるが、今日はまさにそれ。

日中近所の桜並木を見て来たが、まだ満開であった。

我が泉区は、市内中心部より少し遅いのが普通だが、今年は同時進行だったようだ。

ちょうど一週間が経つが、「葉桜」にはなっていないようだった。

予報ではここ数日、さほど気温は上がらないと言うから、多少葉桜になっても今週いっぱいくらいは「見ごろ」ではないか。

この桜並木はあくまで「生活道路」なので、町内会の桜祭りやシートを拡げてのお花見をする人はほとんどいない。

故にコロナ禍でもあまり影響がないと思うが、今日も買い物や散歩がてらの人がスマホやカメラを持って撮影していた。



もう書くのも面倒だが、本格的な春の訪れをあざけ笑うかのように、県内のコロナ拡大が止まらない。

施設や店舗のクラスターが拡大させているようで、先日はついに200人を突破。

来月11日まで緊急事態宣言中だが、果たして効果が出るのかは流動的だ。

そして今日から最大で1カ月間、国の「蔓延防止策」が初めて適用された。

だが街では春休みとあって、どうしても若者の姿が目立つ。

特に先週は大学や専門学校の卒業式が多かった為か、「集団」で行動する若者が多い。

感染者は年代を問わないが、比率としてはどうしても10~30代に偏重していることも事実のように思える。

私の周辺で感染した・・と言う人はおらず、知り合いの知り合いでも聞いた事はない。

無用な誤解を避けるため、わざわざ言う人もいないのかも知れないが実感を掴めないのも事実。

拡大予防のためにあまり言いたくないのか、実は宮城は感染者の重症化率・死亡率は逆にトップクラスで低いと言う。

良く考えると、我々が知るコロナの実態とは非常に曖昧だ。

いかにもメディアで報道しているようにも見えるが、最近は感染した人の体験談などはなりを潜めている。

だいたい根本は「風邪」の1種だから、人によって症状も様々。

ただ「COVID-19」は新種であるため、全く免疫がないから肺炎を起こしやすいとされている。

でも普通の風邪から肺炎を併発することは珍しくないし、肺炎を起こさずとも風邪が原因で亡くなる人もたくさんいる。

最近では「変種株」が危惧されているが、既存のウィルス(コロナウィルス)では変種株は「当たり前」なのだと言う。

ウィルスは温度など多様な環境に敏感で、それに合わないと消え生き残れるように次々と姿を変えるのが普通なのだそうだ。

逆にインフルエンザウィルスは適応性に優れて姿を変えない為、感染力が強い。

変種株が出来ると言う事は、核となるウィルス本体の適応力が低いと言う事なのだ。

事実今回のウィルスは、昨年半ばの時点で既に数種類の変種株が確認去れており医学的には珍しくない、と言うよりも当然の結果だと言う。

しかし今は国内での変種株発生に懸念だけが広がり、ウィルスの特性や実態は殆ど公表されていない。

どこか「情報操作」でもしているのでは?と思う事もしばしばあるのは、どういうことなのだろうか。

「蔓延防止策」に関して、県知事や市長は協力を訴えるが、県民の反応は昨年に比べて冷ややか・・と言うよりもシラケムードに思う。

これらの措置は飲食店ありきで、時短要請もしくは休業要請だけ。

今回は「緊急事態宣言」ではないので、あくまで協力要請の範囲内だが、夜しか営業しない呑み屋さんや風俗業はともかく、一般の飲食店での時短営業に果たして意味があるのかと思う。

事実カフェやファミレス、ファーストフード店など、ランチタイムを含めて日中は平日でも混雑している。

確かに大勢での「会食」やアルコールが、つい盛り上がって感染拡大させる要因と言うならば、一般飲食店ではアルコール提供を制限すれば良い事であるし、店側としては難しいと言うかもしれないが大勢の利用は断るか、席を分割させる、会話中のマスク着用をお願いする。

それを拒否する客は、堂々と「お断り」すれば良い。

客商売として難しい事はわかるが、それこそ「みんなで乗り切る」ためだと思う。

そういう事を人ごと、「自分だけは良い」と思う輩がいるから駄目なのだ。


◎4月8日

午前中は良く晴れていたが、午後からは怪しい空模様に。

気温は日差しがあった午前中を中心に上がったが、午後以降は下降線を辿っている。

北からこの時期としては珍しい寒気が南下しており、今日は北海道から東北の日本海側で雪が降っている。

寒気は明日にかけて更に南下し、仙台市の明日の予想最高気温は10℃前後と季節の逆戻りを感じそう。

今年は早々と桜が咲いたが、その後は気温の上下差が激しい。

たまたまケータイの過去の画像を見ていたら、19年4月11日の日付で雪景色が写っていた。

ちょうど2年前の事だが、正直記憶にない。

でも4月半ばに降雪・積雪があっても、決して異常気象と言う訳でもないと言う事。

今から24~5年前には、4月30日に降雪(積雪はなかった)した事があるから、雪はともかく寒く感じる日はまだ充分ありうる。

服装に鈍感な私は平気だが、敏感な女性などは出かける際に悩ましいことだろう。

汗ばむ陽気が続いた先月末、街中では春の装いを通り越して「初夏」らしい服装の女性も見かけた程だった。

だがここ数日は、薄着もしくは肌を出すような服装は避けた方が良さそうだ。

「まん防」が適用されて4日目を迎えたが、街では良くも悪くも「慣れ」が充満しているように思う。

今回飲食店は呑み屋さんだけでなく、全ての飲食店に20時閉店を要請されており、殆どが従っている。

中には「イートイン」は20時まで、テイクアウトは22~23時までと言うお店もあるようだ。

食事やコーヒーを飲むため、いつも行くカフェやファミレスに行ったが、時短営業はおおよそ受け入れられているようだ。

私も月曜以降頭に入れて行動しているが、営業時間内での客入りは思うほど少ないと言う感じがしない。

混雑する週末は、明日以降が初めてとなるが、平日でも混雑する夕方以降に関しては良い意味で「変わらない」という印象だ。

でも先週よりは若い人にありがちなグループでの利用、ついマスクなしでの会話・・は目立たなくなったと思う。

あくまで私の行動範囲内と言う、狭い視野ではあるが、「地元」では一種の「諦めムード」みたいな感覚かも知れない。

一方スーパーや商店は通常通りの営業だから、昨年の緊急事態宣言時寄りはやり方を心得た部分もあるだろう。

こうなって来ると、ひたすら「数」にこだわって右往左往している行政が腹立たしく見えて来る。

言いたいことは理解できるが、肝心の「ワクチン」はさっぱり進んでいない。

来週から一般高齢者の接種が開始されると言うが、「予約」が必要で、電話もネットも混雑して繋がらず、予約開始後30分弱で締め切られると言う。

だいたい順序とは言え、国民全員に摂取する権利があるにもかかわらず、自前で予約・・と言う「自己責任」が理解できない。

第一誰もが電話やネット環境を持っているとは限らず、高齢者は特にそういう人も多いはずである。

しかもやり方は自治体任せで、格差が広がるのは自明の理ではないか。

「まん防」も結構だが、今のところウィルスを抑え込む確実な手段はワクチンだ。

措置を出してもその時だけ効果が出て、解除すれば元通り。

そんなことは分かり切っているではないのか。

個人的意見だけれど、この状況下においてオリンピックの「聖火リレー」が続いている。

自治体によっては「見学禁止」とか、リレーそのものを中止する動きがあるようだが、そもそも聖火リレー自体実行することがおかしい。

ワクチンは昨年までは「遅くとも21年夏まで」には、国民全員に行き渡ると言っていた。

故に「オリンピックも開催できる」としていた訳だが、今の状況では夏どころか1億2千万人に行き渡るのは急いでも秋以降だろう。

先日北朝鮮がオリンピック「不参加」を通告した。

日本人から見れば「また反日」・・と思いそうだが、「選手や関係者をコロナ禍の脅威に晒したくない」と言う「まとも」な理由であった。

北朝鮮に続く国が、今後出る可能性は大きくなったのに、国はまるで触れたくないとでも言いたいような雰囲気だ。

チグハグ感いっぱい・・と思うのは私だけだろうか。



20時頃、パラパラ小雨が降った。傘はない。

ありゃりゃ・・と思ったが「通り雨」だったようだ。

しかし気温は着実に下がっており、正直寒い。

やっと体感が「春モード」になりつつあるから、余計寒く感じてしまう。

「花冷え」が続く。

コロナ禍でお花見は出来ないが、「花より団子」になれない分、散歩がてらじっくり見るのも良いと思う。

この週末も見ごろだろう、「ディスタンス」を意識すれば散歩ぐらいは許されるし、ベンチでお茶を飲むぐらいも良いのでは。

人間はうろたえてばかりだが、花はちゃんと、そして一生懸命命を紡いでいることに気付かされるだろう。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

桜は満開を迎え、まさに春本番ですが、ここ数日はちょっと肌寒くなっています。

4月・新年度になって、君を取り巻く環境に変化はありましたか?

若い時のように、劇的な変化はもうないかも知れませんが、君なりの「春」を感じているでしょうか?

相変わらずコロナ禍で騒然としていますが、君が影響を受けていないかちょっと心配もあります。

また家族の事も気がかりだったり、落ち着かない状況にあるかも知れません。

私はもう家族がいないので、正直怖いと言う感じがしません。

でも君の事は、どこか心配してしまいます。

もちろん信じてはいるけれど、神経質になる必要はありませんが、常に予防意識は持ち続けて下さい。

辛い部分もあるかも知れませんが、君がコロナ禍に巻き込まれぬよう毎日祈っています。

明日は今日よりも肌寒いようなので、体調管理にはくれぐれも気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



窓越しに 月おし照りて あしひきの あらし吹く夜は 君をしぞ思ふ(万葉集巻十一 2679 物に寄せて思を述ぶ)








飛行機ネタ。

最近世間では「ジャンボ」と言う言葉を、あまり聞かなくなったように思う。

「ジャンボ宝くじ」の他、「チョコモ○カ・ジャンボ」ぐらいはテレビで見かけるが、食べ物などの「ジャンボサイズ」という宣伝文句は少なくなった。

それでも「ジャンボ」と言う言葉が、大きいとか巨大と言う意味で通用していることは誰しも知るところだろう。

語源は諸説あるのだが、本来はアフリカ東部の言葉で「こんにちは」を意味する言葉だと言う。

世間に広がったのは、19世紀末イギリスのサーカス団で飼われていたアフリカゾウの名前で「ジャンボ」と言う名前だったと言う。

ゾウの「ジャンボ」は、普通のアフリカゾウよりも非常に大きく、それが一躍有名になったことから、いつしか巨大な物を「ジャンボ」と言うようになった・・と言うのが通説である。

だが現代では、旅客機の「B747」を指す事も多く、メディアでも「ボーイング747型機」と紹介される他、「○○航空のジャンボ機」などと言われることも多い。

飛行機に興味のない人でも「ジャンボ機」と言われれば、なんとなくイメージが湧くだろうか。

しかし現時点においては、それは穿ち過ぎかも知れないが、「巨人機」と言うとB777やA380の事を指す誤解を招くのでは?とも思う。

ファンには承知の上だが、70年代から長きに渡って「最大の旅客機」として君臨し続けた同機は、いつしか「時代遅れ」の烙印が押されて世界中のエアラインからどんどん姿を消した。

そしてコロナ禍は、まるでスケープゴートのように同機を「絶滅」に追い込もうとしているのである。

かつて100機以上のB747を国内外で運用し「ジャンボ王国」と呼ばれた日本では、1機残らず退役して数年が経つ。

現在日本籍を持つ「ジャンボ機」は、日本貨物航空が保有する「8F」だけ。

一昨年前までは、「旅客型」として政府専用機のB747-400が2機残留していたが、ついにB777-300ERに置き換えられてしまい、日本籍の「ジャンボ旅客機」は「絶滅」した。

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1-1-22A B747-121_Pan_Am_N750PA.jpg ←(3枚)世界で初めてB747を運航したパンナム。各地に就航して、新時代を築いた(ウィキペディア英語版より)

B747が「ジャンボ機」と言われるのは、開発当時常識破りの大きさだったからで、同機の正式名称ではない。

50年代に始まったジェット化は、60年代になると急進し、世界は一気に狭まるほどの勢いでジェット化が進んだ。

当時旅客機は全てナローボディ機であり、拡大の原因となった初の本格的長距離機ボーイング707やダグラスDC-8にあってもナローボディ機であった。

だが技術の向上とともに、需要の増加も充分予測できたことから、より高性能で大型化もしくは高速化が今後のカギになると見られていた。

60年代前半、ボーイングはアメリカ空軍の次期戦略輸送機のコンペに参加したが、惜しくもライバルだったロッキード社の「C-5ギャラクシー」に敗れていた。

空軍の要求は、100トン以上の貨物を積載し、最大で数千キロの航続力を持つ大型輸送機であった。

更に重さとともに、高さや容積の大きな貨物が搭載できる能力も要求していたことから、超大型機が必須であった。

1-1-22A-B747_rollout.jpg ←69年、シアトル郊外のボーイング社エバレット工場でロールアウトしたB747-100初号機「シティ・オブ・エバレット」(ウィキペディア英語版より)

両社ともその要求を満たすべく、胴体はビル3階建以上の高さを持ち、機首から尾部まで大容量の貨物を搭載できる構造の機体を計画した。

敗れたボーイングは、設計自体は非常に優れている自信を持っており、需要が高まりつつある民間機に応用できないか検討を開始した。

軍用機であれば開発費は国から支給されるが、民間機は「商品」であるため、あくまで自主開発だった。

ところが当時世界最大のエアラインである「パンナム」が興味を示したことで、史上例を見ない「巨人機」の開発がスタートしたのである。

それがB747で、ボーイングにとっては初めての「ワイドボディ機」であり、それが以後30年近く「世界最大の旅客機」として君臨することになった。

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1-1-22A-B747-146_-_JAL JA8101.jpg ←(2枚)パンナムに続きB747を発注・就航させた日本航空のB747-100。初号機の「JA8101」(ウィキペディア英語版より)

何しろ「ワイドボディ」と言う言葉も概念もない時代のことで、その大きさと形は驚きと言うよりも、どこか奇異にも見られたのである。

同機最大の特徴は、一部であるが「二階建て」構造になっていることだった。

いわゆる「ダブルデッカー」と言う事だが、旅客機としては最初ではなく、40年代のレシプロ旅客機「ボーイング377ストラトクルーザー」でも採用されていた。

同機はメインデッキに客室や操縦席を置き、ロワーデッキ(床下)の一部をファーストクラスの乗客が利用するラウンジやベッドルームが設置されていた。

一方B747は、見てわかる通り客室はメインデッキと「アッパーデッキ」に設けられている。

このような構造になったのは、先の輸送機計画の産物。

すなわち機首に大型のノーズカーゴドアを作るために、操縦席や乗務員室を「二階」に持ちあげることでメインデッキを1本の「筒」のようにするためだった。

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1-1-22A_B747-100 UNITED_N4710U.jpg ←(2枚)ルフトハンザのB747-200Mとユナイテッド航空のB747-100(ウィキペディア英語版より)

今こそB777やA350・380などがあるが、B747のメインデッキは全長約55メートルもあり、B767-300ERの胴体とほぼ同じ長さを誇る。

それは同機最大の特徴と言える、キャビンが「機首」まであることだ。

更に通路2本を設けられるキャビンは、多彩なアレンジが可能になることを示していた。

当時としては正に「夢の旅客機」であったが、同時に「非現実的」と見られてもいた。

同機を最初に発注したのはパンナムだが、直後に日本航空とルフトハンザが発注している。

史上初の「巨人機」であるB747が、懐疑的な見方が強い中でも成功を収めたのは「信頼性」だった。

原形機が初飛行した68年、旅客機はまだ未熟だった。

エンジンの耐久性の他、航法装置や安全装置も開発の途上にあり、事故も多かった。

エンジンは純粋なターボジェットが幅を利かせている時代で、理論上「ターボファンジェット」が経済性に優れている事はわかっていたが、技術は確立されていなかった。

ようやく低バイパスターボファンエンジンが実用化され始めた頃で、機体を充分な速度で推進出来る大型で高速回転できるファンは作れなかった。

それこそ「C-5ギャラクシー」が装備した、GE製の「TF-30」がようやく実用化にこぎつけた時であった。

初期のターボファンエンジンの「バイパス比」は、1以下が標準であり、推進力の半分以上は燃焼ガスに頼っていた。

元々ジェットエンジンは高速用としてのアイディアから生まれた物であり、ターボジェットではそれが実現したが、当然燃費は悪く、騒音や排気ガスの量も大きかった。

しかしさほど高速を必要としない機種に関しては、推進ファンをメインとする「ターボファン」の方が効率的である訳だ。

ボーイングはエンジンメーカーの一つであるP&W社と協力して、新しい時代に合わせた「高バイパス比」のターボファンエンジンの開発も並行させた。

それがのちに傑作エンジンと言われるようになる、「JT-9D」だった。

P&WはJT-3を筆頭に、50年代から大型機向けのターボファンエンジンを生産していたが、高バイパスエンジンは「JT-9D」が最初であった。

C-5に採用されたのはGE社のTF-30だったが、B747のゴーサインによりJT-9Dもまたコンペ脱落から復活を果たした事になる。

現在の目で見ると、JT-9Dの外観は特徴的であるとともに、低バイパスと高バイパスエンジンの過渡期であることが分かる。

通常旅客機のターボファンエンジンは、本体全体を覆う流線型のカウリング(ナセル)に包まれていて、それと本体の隙間で推進ファンからの気流が狭窄されることで強い推進力を得ている。

1-1-22A-B747-100 JT9D_turbofan.jpg ←B747を成功に導いたP&W JT-9Dターボファンエンジン(ウィキペディア英語版より)

しかしJT-9Dのカウリングは、全体の1/3ほどしかなく、後半部分は本体がむき出しの様なスタイルを取っている。

これは本体主タービン部の冷却効果を考慮した結果で、まだファン径が小さかった同エンジンで効果的な推力を得るにはタービンの高速回転が必須であった。

それでも予定した出力よりも、若干低い値しか出せない状態で完成していた。

しかもB747自体、機体重量が当初の計画よりも重くなってしまっていて、完成した最初の量産型「100」では出力不足であった。

故に航続距離も、最大重量だと約7,000キロ程度であった。

1-1-22A-B747-121,_Pan_American_World_Airways.jpg  ←パンナムのB747-100(ウィキペディア英語版より)

だがそれでもパワー不足の感は否めず、苦肉の策として4つのエンジンそれぞれに「水噴射装置」を取り付け、離陸時にタービン内に水を噴射することで出力不足の原因となる高温の空気を「冷やして」から燃焼させて、出力不足を補っていた。

それでもパンナムが大量に発注し運航を開始したことが呼び水となって、懐疑的だった世界のエアラインは発注に動いた。

B747は座席数が多い、ただ大きいと言うだけではなかった。

コクピットは機関士を含む3人乗務機であったが、コンピューターを搭載しINS(慣性航法装置)が最初から標準装備されて、これまで以上に安全な運航が保証されていた。

かつてない6メートル以上に及ぶ幅を持つキャビンは、2-4-2の8列座席が標準でこれまでにない余裕を持つ快適な空間を設ける事が出来た。

最も8列座席は間もなく9列に増やされ、日本航空が運航した短距離向け「SR」では10列に増やされると、国際線用機材も10列になった。

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1-1-22A_B747-243B_ALITALIA I-DEMV.jpg ←(3枚)B747は世界の大手エアラインが続々採用した。エンジンもGE製「CF-6」、ロールス・ロイス「RB211」が追加され選択肢が広がった。上からブリティッシュ・エアウェイズ、カンタス航空、アリタリア航空の200B(ウィキペディア英語版より)

今こそ当たり前になっている機内エンターティメント設備も、B747が初めて標準装備したものであった。

それに合わせて個々の座席に、オーディオジャックやボリュームダイヤル、読書灯と乗務員呼び出しボタンなども同機で初めて採用された。

キャビンの内装は出来るだけ軽量化が図られており、アレンジメントしやすいように設計されていた。

これによって座席数や上級クラスの配置に合わせたギャレーやトイレの加減、レイアウトの自由度が大きかった。

1-1-22A-B747-246B,_Japan_Air_Lines_-_JA8110.jpg ←初期のアッパーデッキの客室窓は3個が基本。ラウンジなどに使われたため(ウィキペディア英語版より)

70年代ではファーストクラスとエコノミークラスの2クラスが一般的で、上級クラスはもちろん最前部の「Aコンパート」に設けられる事が多かった。

就航からしばらく、アッパーデッキは座席を設置せず、ファーストクラス専用の「ラウンジ」として使うエアラインが多かった。

最初にB747を運航したパンナムはもちろん、続いて採用した日本航空もアッパーデッキは「特別室」になっていた。

客室はあくまでもメインデッキである・・と言う、どこか「客船」に似たイメージである。

航空業界では機体の事を「シップ」と呼ぶ事があるが、乗客が乗降する胴体左側を「ポートサイド」、右側を「スターボード」と呼ぶのも船の用語だ。

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1-1-22A-B747-212B,_Olympic_SX-DAG.jpg ←(3枚)日本にも乗り入れていたギリシア・オリンピック航空のB747-200B(ウィキペディア英語版より)

いつから旅客機を「シップ」と呼び始めたは諸説あって、第二次大戦までの長距離旅客機は「飛行艇」が主流だったから・・と言うのが有力だ。

しかし大戦後は高速化が最優先となり、機体は徐々に小さくなって「シップ」と呼ぶのは相応しくなくなってしまった。

そして再び「シップ」と呼ばれるようになったのは、まさに船を思わせる巨大なB747からだとも言われているのだ。

アッパーデッキの使い方も、往年の豪華客船を思わせるようだ。

パンナムでは、ファーストクラスの乗客がくつろいで談笑したりするほか、食事も座席から呼び出されてまるで高級レストランのようにサービスが行われた。

日本航空ではラウンジだけでなく、70年代後半から80年代前半にかけては「スカイスリーパー」と名付けた特別席が用意されていた事もある。

同じファーストクラスながら、さらに追加料金を払うとアッパーデッキのソファ見たいなシートがあつらえられ、夜間になると「ベッド」になった。

今でこそファーストクラスだけでなく、ビジネスクラスでもベッドになる座席が流行しているが、B747がジェット旅客機として初めて「標準装備」した旅客機だった。

最もそうした「セレブ的」は運用は「オイルショック」以降利益率が低下し、B747は贅沢な旅客機から大量輸送用に転換して行く。

上記のようにエコノミークラスは、当初の横8列から10列が標準となり、2クラスでは400席以上の座席数が可能となった。

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1-1-22A_B747SR-81_ANA_JA8157.jpg ←(3枚)規制緩和で全日空もB747を導入し、国内線仕様の「SR」を幹線に投入した。下のJA8157は中距離国際線仕様に改修された機体で、唯一欧文タイトルを入れていた。このほか200Bも導入した(ウィキペディア英語版より)

同時にアッパーデッキも座席に変化し、多くのエアラインは上級クラスとして使用したが、3-3のエコノミークラスを設けるエアラインもあった。

初期の100・200型のアッパーデッキの窓は僅か3個しかなかったが、それは前述のようにラウンジなどとして使っていたためで、座席に返還後は8~10個の客室窓が増設されるいようになった。

これは新造機では標準化され、既存の3個窓機は改修で増設することが可能であった。

70年代末になると、日本では航空法の規制緩和が実施され、全日空が初めて同機を導入した。

導入には日本航空よりも10年近く遅れていたが、日本航空のB747は主に国際線用で、国内線用の「SR」は東京・羽田をベースとした幹線運用に限られていた。

全日空が導入した「SR」も主に幹線用だったが、地方空港の整備が進んだこともあって、繁忙期などにはローカル線に投入されることも多かった。

その後同社は国際線用機材として200型を導入したが、日本航空のそれと違ってエンジンはGE製「CF-6」を選択している。

「日航に追いつけ追い越せ」にこだわる全日空は、東京~大阪・札幌・福岡と大幹線の主力機に据え、これらの路線は1日当たり両社だけでも往復100便以上が運航され、その大半がB747と言う世界で例を見ない路線になった。

10,000キロの長距離国際線の為に開発された同機なのに、日本では長くても1,000キロ、東京~大阪間に至っては僅か600キロの短距離区間を、両社のB747が早朝から深夜まで30分おきに飛んでいたのだ。

その為にわざわざ「短距離型」である「SR」まで導入したのだった。

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1-1-22A_B747-246B_Japan_Airlines_JA8131.jpg ←(3枚)B747-400導入後は、近中距離国際線機材として運用が続いた日本航空のB747-200B。グループエアラインの日本アジア航空でも運用された(ウィキペディア英語版より)

初期型747は、最初の生産型「100」、100型の機体重量を引き下げて「中距離仕様」にしたのが「100B」だが、オリジナルの生産数は少ない。

ベストセラーとなる「200B」は、燃料とエンジンを改良して出力を上げた本格的な長距離仕様。

エンジンは100と同系列の「JT-9D」ながら、出力を向上させた「7A」に換装し、水噴射装置が不要となった。

これは太平洋線のメイン機材として運用していた日本航空とノースウエスト航空の要望で実現したタイプだが、ボーイングでは当初改良を渋ったと言われる。

実は地元アメリカでは、パンナムの他ユナイテッド航空が日本航空やルフトハンザと並んで最も早く発注し、その後アメリカン・デルタ・ノースウエスト、TWAなどメジャーが続々とB747を発注し、就航させた。

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1-1-22A_B747-100_DELTA.jpg ←(3枚)ユナイテッド航空、アメリカン航空、デルタ航空のB747-100。長距離路線を持たない事で、当初これらのエアラインでは比較的短期間の運用に留まった。因みにアメリカンのB747は75年公開の映画「エアポート’75」で架空の「コロンビア航空」機として出演した他、NASAがスペースシャトル運搬用とし改造機に転用された(ウィキペディア英語版より)

しかし当時のアメリカでは、日本と同じく航空法による規制があり、長距離国際線の運航はパンナムの他、ノースウエスト・TWAなどが限定的に認められているだけで、大手であるユナイテッド・アメリカン・デルタ・コンチネンタル・イースタンなどは国内線と近距離国際線に限られていた。

それでもユナイテッド・アメリカン・デルタは大陸横断幹線や大幹線用としてB747に期待を寄せていたが、思いの外業績は芳しくなかった。

大型4発機である以上、B727や737に比べて運航経費は遥かに高く、同じ4発機でもB707やDC-8の方が採算に合っていた。

また同機だと確かにノンストップで大陸横断は可能だったが、座席の供給過剰になるため便数は限定された。

すなわち500人運ぶのに、747を1便飛ばせば済むと思うが、利便性と言う点では250席級の機体を2便飛ばした方が乗客には選択肢が広がるのだ。

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1-1-22A_B747-200_AMERICA WEST.jpg ←(4枚)日本線の常連だったノースウエスト航空とコンチネンタル航空のB747-200Bと、アメリカ・ウエスト航空のB747-200B。同社は2機の中古機で初の長距離国際線となるフェニックス~名古屋線を運航したが、短期間で運休。B747も退役した(ウィキペディア英語版より)

機材の柔軟な運用と言う点でも、747は路線が限定されてしまい融通性が良くなかった。

故に3社は747を持てあます事になり、数年で殆ど退役させて一回り小さい3発機のDC-10やトライスターに交替させた。

その後規制緩和と競争激化により、天下のパンナムは倒産。

同社の路線や機材の権利を譲渡されたユナイテッド・アメリカンは、同社の747を再び運航するようになるが、古い機体が多く運用期間はまたも短かった。

日本を始め、アジアやヨーロッパの大手エアラインによって同機は黄金時代を迎えたが、「本家」であるアメリカでは機数こそそこそこ売れたものの、成功したとは言えなかったのが印象的である。

1-1-22A-B747-282B,_Trans_World_Airlines.jpg ←パンナム、ノースウエスト航空と並んで長距離国際線でB747を運用したTWA(ウィキペディア英語版より)

しかし「飛行機は安全な乗り物」であることを証明したのは、やはりB747であった。

各地で重大事故を何度か起こしてはいるが、機体の構造や欠陥による事故は殆どないのだ。

多くは操縦ミス、管制の誘導ミス、そしてテロなどの犯罪行為によるものである。

同機で初めて標準化されたINSは、今こそ大きく進化してデジタル化されているが、当時はジャイロコンパスとコンピューターを組み合わせた「アナログ式」だった。

運航前にパイロットが、予め飛行ルートのウェイポイント(通過ポイント)の緯度・経度を入力することで、自動操縦装置とリンクさせて確実な飛行ルートを辿る事が出来た。

それ以前は、セクターの管制からいちいち指示され、航法士もしくは機関士が地図とコンパスで計算して「マニュアル」で速度・高度・方向を調整しながら飛行していた。

それがINSのおかげで、地上にいる時点でルートが確定できるようになったのである。

もちろん飛行中、天候などでルートを変更する場合は新たに打ち込めば良い。

最も現代では手動で打ち込む事さえなくなったが。

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1-1-22A-B747-206B(M)(SUD),_KLM_Royal_Dutch_Airlines.jpg ←(2枚)外観は300型だが、KLMは既存の200型のアッパーデッキを延長改造した。下は胴体後部が貨物室の「M(コンビ型)」で、200B(SUD)と呼ばれる(ウィキペディア英語版より)

だがB747は、現在に続く旅客機のあり方を確立した偉大な功績を残した機体だった事は間違いない。

初期型として分類される3人乗務機の「747クラシック」は、胴体を短縮して自重を軽くさせ航続距離を延長した「747SP」を経て、アッパーデッキを延長した「300」が80年代初頭に登場した。

これは「SP」で改修した空力的変化が、通常型747に応用することで航続距離延伸と座席数増加を同時に実現できることが分かったからだ。

3種のエンジンも改修が加えられた事で、相反すると思われていた利点が並立出来たのである。

しかしこの時代にはB767が2人乗務を可能とするデジタル化を促進させた事で、3人乗務機のままだった300型は人気と言う点ではぱっとせず、400型の進化に移って行くことになる。

「二階建て」旅客機はB747が唯一の存在だったが、21世紀になって「オール二階建て」のA380が登場した。

1-1-22A B747-200B ELAL-4X-AXC.jpg ←エルアル航空のB747-200B(ウィキペディア英語版より)

でもA380はキャビンこそオール二階建てだが、操縦席は最前部の「中二階」に置かれている。

一方で747は最新の「8」シリーズまで、操縦席は「二階」である。

キャビン最前部となる「Aコンパート」は、操縦席の「真下」に位置し、座席によっては操縦席よりも「前」にある。

加えてAコンパートは機首にあることで、前方に「絞られた」ような形になっている。

座席配置には些かマイナス要因でもあるのだが、客室窓が「斜め」になっているので、なんと「前方」が見えるのである。

80年代以降、サービスの一環として前脚にカメラがつく旅客機が現れ、キャビンのスクリーンやモニターで普通に見られるようにはなったが、それは地上だけであり飛行中見ることは出来ない。

最も747で前方を見ようとすると、顔を窓に押しつけるようにしていくらか見える・・程度なのだけれど、飛行中キャビンで「前方」を見る事が出来るのは747だけである。

1-1-22A-B747-186B,_IRAN AIR.jpg ←最前部の「Aコンパート」の客室窓は、いくらか前方を向いている(ウィキペディア英語版より)

また機首から最後部まで全てキャビンと言うのも、当然ながら747だけだ。

キャビン長と言う点ではB777-300やA350も同格だが、空間の有効利用性と言う点では747に及ばない。

80年代以降は需要増に合わせて座席数が増加し、日本航空の「300SR」が短期間だが584席と言うギネスタイトルを取った。

乗客にしてみれば「詰め込み」されているに等しく、あまり歓迎すべき事ではないが、余裕を持たせた豪華なキャビンアレンジから「詰め込み」まで、いかなる需要にも対応できると言う事でもある。

100・200・SPでは、アッパーデッキが小さく、300以降の747に見慣れているといかにも小さく感じるが、スマートさと言う点では職型の方が上に思う。

穿った見方をすれば、鎌首を持ちあげた毒蛇のようにも見えるが、初期型747は大きさがスマートさに変化させていて、いかにも「ジャンボ機」と言う姿であると思う。

空力的には300型以降の方が良いとされるが、初期型の方はデザイン的に無理がない。

現時点で100~200型の現役機はほぼ皆無で、改造機の多い貨物機でもほぼ絶滅に近い。

旅客機として原形を保っているアメリカ空軍のVC-25A「エア・フォース・ワン」も、間もなく「B747-8I」に交替する。

この他確認できるのは、イラン空軍で3機のB747が現役にあると思われる。

「思われる」と言うのは、お国柄軍事機密に当たり、基本的に公開される事がない事と、核開発疑惑に始まる経済制裁などで機材を官民で「使いまわす」ことが多い事だ。

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1-1-22A-B747-100_of_IRIAF_taking_off.jpg ←(2枚)現役にあるイラン空軍のB747-100(ウィキペディア英語版より)

イランでは、フラッグキャリアで国営のイラン航空が70年代にB747を導入し、100・200・SPを保有していた。

革命でアメリカと断交後、機材の購入ができなくなり、いわば「闇ルート」を通じて部品を調達するなど自助努力を続けて古い機材をひじしていた。

90年代にはロシア、近年は制裁を一部緩和したヨーロッパ諸国からエアバス機などを新造機・中古機で導入できるようになり、アメリカ機は退役した。

しかしB747だけは、イランにとって貴重な長距離機であると同時に、貨物搭載能力も重要な物であることから、細々と運用が続けられていた。

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1-1-22A B747-200B-Iran_Air_EP-IAG.jpg ←(3枚)イラン航空のB747-100(上)と200B。後者は近年まで現役にあり、現在も保管中と思われる(ウィキペディア英語版より)

日本にも2000年代までは「激レア機」であるSPが、定期運航していたことでファンに人気だった。

若干特別仕様のSPはさすがに退役したようだが、「通常型」である100・200は現役は退いたものの「予備機」として保存されているようである。

イラン航空は、10年ごろまでは100型が1機、200Bを2機保有していた事になっているが、現在イラン空軍に在籍する同機も同じ構成だ。

ただ数少ない写真を見ると、空軍機では民間登録記号が外されているので、元イラン航空の機体かどうかは不明だ。

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1-1-22A B747-200SF-Iran_Air_Cargo.jpg ←(2枚)イラン航空の200Bのコクピットと、レアモデルの200C。コクピットの計器は、一部がCRTに置き換えられている(ウィキペディア英語版より)

イラン空軍では同機をVIP機として運用する他、空中給油機に改造した機体も存在する。

また10年代前半までは、13機しか生産されなかったコンバーチブル型の「200C」も運用されていた。

ネット情報などを総合すると、首都テヘランを筆頭に大きな空港の片隅には保管中と思われる同機が加Sく仁されており、状況次第では「復活」する可能性もなくはなさそう。

空軍機は飛行している姿は良く目撃されているようで、イランは初期型747最後の牙城のようである。

747自体、経済性を理由に淘汰され、「8」シリーズも22年ついに生産停止が見込まれている。

あれほどもてはやされた747は、経済性から始まりコロナ禍に至ってはまるで「敵」のように見られてしまっている。

「ポスト747」として大歓迎されたB777でさえ、30年も経たないうちに「いらない」と言われる始末だ。

コロナ後がどうなるか予測できない今、「ジャンボ」は言葉そのものが絶滅しかかっているのだ。

このままだと「中型機」であるはずのB787が、「大きい旅客機」になってしまいそうで、生産開始から半世紀も続いた747が、一体何だったのか・・・と悔しささえ感じてしまう。

だが今があるのは、747のおかげと言う事を忘れてはならないのである。

祥月命日 3月28日 曇りのち雨 15℃

1年と言う時間の流れが、どれだけ早いことか。

2021年3月28日、母「4回目」の祥月命日。

1年・・ではなく、4年間は本当にあっという間、瞬く間。

正直時間の経過は、全く認識出来ていない。

こんな私を、人は世間は情けないと笑うだろう。

命は限りあるもので、誰もがいつかは必ず死を迎えるし、愛する人と別れの時が来る。

そんなことは分かり切っていたし、それ以前に家族や親しい人との別れは何度もあった。

もちろんショックで悲しかったけれど、誰でもいつかは死ぬのだと思っていたから、気持ちをある程度切り替えることは出来た。

要するに受け入れられた。

誰でもそうだろうと思う。

亡くなった人に悲しんでばかりいても、まだ生きている自分がいる。

いつも通り寝起きして、飲食して、仕事に学校に行かなければならない。

社会は一人の悲しみに、決して合わせてくれない。

いや、合わせてくれたとしても慰めにはならず、むしろ辛さが増すだけかも知れぬ。

母を失った悲しみは、予想を遥かに超えたものだった。

しかもその瞬間は、一体何が起きているのか、どうすれば良いのかさっぱり分からず、涙さえこぼれない。

悲しむ暇もないとは、このことだったのか・・とだけ思った。

でも数日経って、悲しみと言うよりも恐怖を覚えるのだ。

家の中は何も変わっていないのに、母の姿がない。声が聴こえない。匂いがしない。

部屋の「定位置」には、あの日までと同じく母の愛用品や道具はそのまま動いていない。

重ねていた着替えも、そのままだ。

キッチン用品も、私はめったに触らなかったから、母の好みで配置されていて、それもそのまま。

なのに本人の姿は、4年経っても見えない。

私は母の「帰り」を、今日も待っている。

親不孝でふがいない息子に嫌気が挿して、ちょっと「家出」して私を困らせようと思っているのだ。

でも私は知っている。

母は意外とさびしがり屋で、一人が嫌いだ。

例え買い物やお茶を飲みに行くにしても、一人は嫌がる。

かと言って大勢の中と言うのもそれほど好きではなかったようだが、静かより賑やかの方が好きだと言っていた。

だが家族は私だけ。

30年前までは祖父母を含めて賑やかな家族暮らしをしていたが、一人また一人と旅立って、残ったのは息子である私だけ。

私は一人で出歩くことも、一人旅も好きなのとは親子なのに対照的だ。

だから私が旅に出ると、毎日電話とメールを要求する。

こう言ったら母は起るか、寂しがっていると思って、要求されずともそうしていた。

もちろんそういう母を、疎ましいと思った事は一度もない。

それはそれで、私にもたった一人の家族として嬉しいことだった。

何度も親子の前に苦難が現れては消え、私の不徳の致すところ、晩年の母には苦労をかけた。

と言うよりも、母は一言も文句さえ言う事もなく、いつもと変わらぬ母として、私に付き合ってくれただけだ。

そのことは感謝しきれない程であるが、同時に今も私は自責の念にかられている。

意地さえ張らなければ、もっと長生きしたのではないか、楽な生活をさせてやれたのではないか・・・。

確かに母の「定命」だったも知れない。

でも私のせいで、早めてしまったのではないか?と今も思い続けている。

家は今日もあの日と同じだ。

昨年も今年も、何も変わっていない。

時々忘れてしまうけれど、母の衣服は定期的に洗濯し、母がしていたように重ねて置いてあるし、玄関には靴と歩行用の杖もそのままだ。

毎日のように、母の夢を見る。

でも何か言いたいようではなく、ごく普通の会話を交わし、どこかへ出かけたり食べたりする。

この4年の間、世間一般で言う「不思議なこと」も何度かあった。

多分母が来たのだろうと思っている。

4年目は「三回忌」の様な法要は必要なく、次は「七回忌」。

時間だけが過ぎて行く。

当初は1日過ぎる事さえ悲しく、辛かった。

母が「いた」日々が、どんどん遠くなるからだ。

だが最近は、そうした感情は薄らいだ。

なぜなら私と我が家は、時が「止まって」いるからだ。

良くも悪くも、今日と言う日は特別な日だ。

けれど特に何もすることができない。

貧乏だし、何より私一人きりではやってあげられる事さえできない。

遺骨は今も私の手元にある。

何も話してくれないし、ご飯も作ってくれなくなったけれど、あの日以前と同じく母は今日も家にいる。

そう思える。

それ以前に、今はまだ離れたくないのだ。傍にいて欲しいと言う想いが強いのだ。

だから今日は仏前に新しい花を供え、手を合わせ、勤行と唱題を上げた。

最も、毎日欠かさずしていることなのだけれど。


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母ちゃん。

今年もまた、この日が来ました。

もう4年、早いね。

今日仙台では、桜が開花しました。

ウチの近くは、もう数日かかるでしょうか。

あの時はもう少し後から咲いたと思いますが、まだ直に見られません。

見に行こうと約束していたのに、その前に逝ってしまったから。

去年は遠くから見て、やっと綺麗だなと思えましたが、やはり母ちゃんの事を思うと見に行けません。

そっちではじいちゃんやばあちゃんと、楽しくお花見出来るんでしょうね。

今も家にいると、ドアのカギをカチャカチャさせて「ただいま」って、帰って来るような気がします。

だからいつでも母ちゃんが帰ってきても良い様に、家の中はそのままにしてあります。

掃除が下手だから、随分汚くしているけれど、4年と言う時間の割には・・と差し引いて見て下さい。

母ちゃんあっての人生。

人からどう言われようと見られようと、これまでもこれからもその気持ちは変わりません。

あと何年この世で生きられるかわからないけれど、息子として生きて行きます。

あの時見に行こうと約束していた桜の写真、貼っておきます。

今日はまだ咲いていないけれど、次の週末にはこういう風になっているでしょう。

母ちゃんありがとう、そしてごめんなさい。

せっかく天界に行って楽しているのに、心配かけてばかりで。

でもこの場所で、少しでも親孝行出来たら良いな・・と思います。

飛行機ネタ 見ても乗っても楽しかった「リゾッチャ」(3月26日 晴れ時々曇り 15℃)

※諸般の事情により2日分の日記を掲載しています。

◎3月23日 晴れ時々曇り 13℃

雲が優位ながら、概ね天気は良好。

最近週末と言うと雨が降ったり、地震があったりと落ち着かないのに、平日は実に穏やかだ。

少し空気が冷たい気がしたが、近所の桜は目に見えるほど蕾が膨らんでいた。

今週後半から数日は天気も良く、暖かくなるそうで、気象台では仙台市の桜開花予想を29日としている。

私にはまだ春を実感できないけれど、季節はちゃんと歩んでいるのだ。

しかし春を目の前に、コロナ禍はそれを阻む。

県内では急に感染拡大が広がり、連日100人規模の新規感染者が出ており、25日から「酒類を提供する店舗、接待を伴う飲食店、カラオケ店」が再度営業自粛要請に入る。

それでも効果が見られない場合は、従わない店舗に対して自粛命令を出せるよう、県知事が厚労省に陳情した。

昨日は40人程度だったが、今日は再び120人を数え、仙台市だけでも90人を超えた。

大半が「クラスター」による集団感染だが、対策に効果があるとどうかは疑わしい。

確かに呑み屋さんやカラオケ店、福祉施設などでのクラスターが目立つ事は確かだが、「時短営業」で効果は薄いと思う。

本気で「それ」が原因と言うならば、全面休業にしなければならないだろう。

しかも21日で首都圏の緊急事態が解除されており、宮城県だけ制限することに意味があるのだろうか?

事実街に行くと、旅行か仕事かわからないが旅行用トランクを引っ張っている人を連日見かけるし、相変わらず若者の集団も見かける。

行政の責任を追及するのは結構だが、まずは個人の「自制心」。

我慢するのではなく、コロナ禍の中でやれること・出来ることを心がけるべきだと思う。



春のお彼岸が過ぎてしまったけれど、ふと21日が祖母の誕生日であることを思い出した。

昨年10月に30回忌を迎えた祖母だが、彼女は明治32年(1899年)生まれ。

亡くなった人の年齢を数えるものではないと言うけれど、あえて言うならば今年は「生誕122年」と言う事になる。

祖母は享年91歳と長寿であったが、「19世紀」生まれの人で元号も明治・大正・昭和そして平成まで4つも経験した。

私でさえ昭和・平成・令和で3つ目で、4つ目を体験できるかどうかは年齢的にかなり微妙だと思っている。

祖母は母子家庭だった私にとって、もう一人の「育ての親」に近い存在。

子供の時は意識しなかったけれど、私の「祖母」で19世紀生まれと言うのは凄いなと思う。

残念ながら私は曽祖父母に会ったことはなく、名前しか知らない。

なぜならば彼らは完全に「江戸時代」の生まれだから。

いわゆる幕末の「維新世代」なのだが、私の「3代前」が江戸時代と言うのは凄すぎる。

亡くなって30年が過ぎるが、不思議なことに祖母の事は匂いや肌触りまで細かく覚えており、声も鮮明に記憶している。

私の誕生日が18日だから、いつも祖母と一緒にお祝いされていた事を覚えている。

そして母が亡くなったからか、祖母を再び身近に感じるようになった。

我が家には祖母の形見が幾つか残っている。

母はあまり興味を持たなかったが、祖母が亡くなったあと親戚どうして遺品整理した時に私が持ちだした物が多い。

着物や愛用の財布などの他、昭和初期のものと思われる「茶箪笥」は今も現役である。

最も中身は私の作った飛行機の模型や、本が入れてあって本来の使い方をしていないが、我が家に鎮座している。

仏壇には母の遺影・遺骨とともに、祖母の遺影も供えているが、時々明らかに祖母の「匂い」を感じるのだ。

どんな匂いか、言葉ではうまく言い表せられないのだけれど、間違いなく祖母だ。

気のせいと言われるかも知れないが、私は時々母と一緒に祖母が「来ている」んだな・・・と思っている。
 

◎3月26日

もう春と言って良いのだろう、いつの間にか青空の色が濃くなった気がする。

でも日中は北西から少し強い風が吹き、15℃と言う気温はあまり実感できなかった。

「鈍い」私も、先週からようやく春物の上着に変えたが、今日は一瞬後悔しかけた。

桜の開花はまだのようだが、たまたま通過した市内中心部の公園では咲き始めていた。

しかし桜を前に、県内のコロナ拡大が続く。

3日連続で150人を突破。昨日25日からは呑み屋さんなどの時短要請が発効した。

夕方の駅前(泉中央)も、週末金曜の割には人出が少なかったように思う。

今後しばらくは気温の高めの状態が続き、一気に桜が咲きそうな気配。

そうなると世間は「お花見」したくなるのが理と言えるが、残念ながら2年連続でお預けになりそう。

市内で最も有名な名所、榴ヶ岡公園では毎年「桜祭り」が開催され、お花見する多くの市民で賑わうが今年もお預けになりそう。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

暖かな日々が続き、君も春を感じている事と思います。

昨年に引き続き、春を目いっぱい体感できる状況にありませんが、やり方次第という事もあるでしょう。

君なりの春、何かありますか?

君と春の花の事を話した事を、今も覚えています。

ちょうど今頃だったと思います。

暖かいのは良いですが、空気が乾燥しています。

また体も「冬モード」で、ちょっと汗ばんでしまい、薄着になりたくなりますが、それが風邪を引きやすくすることもあります。

コロナが気になるでしょうが、それ以前に季節の変わり目による体調管理には気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



うぐひすの 鳴き散らすらむ 春の花 いつしか君と 手折りかざさむ(万葉集巻十七 3966 大伴宿禰家持)






飛行機ネタ。

94年、関西空港が開港した日本は一種の「航空ブーム」に沸いた。

それは長年続いた航空業界への規制が緩和された時でもあり、エアライン各社はあらゆる手段を通じて顧客獲得に乗り出した。

異業種からの新規エアライン設立なども、この時期から始まったし、海外エアラインへの発着枠の拡大なども順次行われるようになった。

国内では大手3社(日本航空、全日空、日本エアシステム)の競争が一気に激しくなり、多様な割り引く運賃やツアー、タイアップキャンペーンなどが次々と打ち出され、飛行機が一気に身近になるきっかけでもあった。

「乗って見たくなる飛行機」も重要な宣伝材料となり、多くの特別塗装機が出現した。

例えば全日空では、旅行キャンペーンの一環として特別塗装機のデザインを、初めて「一般公募」を行い「マリンジャンボ」を登場させた。

これをきっかけに、日本のエアラインは特別塗装機のブームになった。

就航する空港では休日ともなると、これらの機体を見たさに多くの人が訪れ「見たい・乗りたい」の効果は抜群だった。

映画やイベント、人気キャラクターのコラボも増えて、飛行機に興味のなかった人々をも取り込むことに成功した。

当時はまだラッピング技術が未発達だったため、特別塗装機の殆どは通常塗装と同じく「ペイント」だった。

それは大変な手間と経費がかかることで、今ではちょっと考えられない事であったように思う。

そのことを差し引いても、顧客を誘致さえすれば元は取れると言う事でもあったのである。

この中で日本航空は、国際線の強みを活かしたキャンペーンを開始した。

規制緩和後の日本航空は、国内線では全日空・日本エアシステムに後塵を喫していた。

国際線はほぼ独占状態にあり、名実ともに日本のフラッグキャリアだったが、国内線に関しては幹線がメインだった。

その強みは誰でも気軽に行ける海外旅行こそ、大きな収益をもたらすと考えて同社がその実力を発揮できるリゾート路線が対象に選ばれた。

日本航空が絶対的優位であるハワイ・グアム線を中心にしたキャンペーン、「リゾッチャ」である。

開始されたこのキャンペーンでは、専用の特別塗装機も多数用意されて話題になった。

1-1-21A-B747-246B,_Japan_Airlines_-_JA8149 JAL_Super_Resort_Express.jpg ←94年に登場した「スーパーリゾート・エクスプレス」(イエロー)のB747-200(ウィキペディア英語版より)

それ以前の90年、日本航空は初のチャーターエアライン「ジャパン・エア・チャーター」(JAZ)を立ち上げていた。

同社は季節波動の多いリゾート路線に対応させるため、基本的には独自の運航は行わず、親会社である日本航空が「ウェットリース」する形だった。

加えて運航コストの削減も加味して、客室乗務員の大半を外国人が採用されていた。

機材はもちろん日本航空から「リース」され、最初はDC-10-40が専用機材として運用された。

塗装は80年代末に変更された「ランドー・アソシエイツ」の新塗装と共通化されていたが、区別するため尾翼の「鶴丸」は廃止。

グループのイメージカラーである赤とグレーを三角形でデザインしたマークが施された。

社名のロゴも「Japan Air Charter」に変えられたほか、胴体前部の「JAL」ロゴは「JAZ」に書き換えられており、一応のオリジナル性を持たせていた。

「JAZ」の「Z」は、日本航空グループがエアラインとして「AからZまで」なんでも・・と言う意味が込められていたとされるが、諸説もある。

だが国際的エアライン略号のICAOコードでは「JAZ」で登録されており、運航時の便名も独自の「JO」が割り振られていた。

ただしこのオリジナル塗装での運航期間は短く、便によっては通常の日本航空塗装機が当たることも多かった。

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1-1-21A DC-10-40 (JA8544 JAZ.jpg ←(2枚)日本航空グループのチャーター部門として設立された「ジャパン・エア・チャーター」のDC-10-40。実質的には日本航空のウェットリース便として定期運航を行った(ウィキペディア英語版より)

「リゾッチャ」キャンペーンが開始されると、日本航空本体ではB747が専用機として特別塗装が施されたが、同時にJAZのDC-10も変更された。

これらの機体は、日本人が「ビーチリゾート」をイメージしやすいハイビスカスと「ゴクラクチョウ」をモチーフとした鳥のイラストが描かれ、「スーパーリゾート・エクスプレス」と言う愛称が付けられた。

当初「リゾッチャ」は旅行キャンペーン全体の名前であり、機体はあくまで「スーパーリゾート・エクスプレス」であった。

しかしファンは、どちらかと言えば機体の方が「リゾッチャ」と呼ぶことが多かったように思う。

最初の「リゾッチャ塗装機」は、パープルとイエローの2種。

JAZのDC-10はパープルで塗装されると同時に、地方初の定期路線機材として3機に増強された。

1-1-21A-_B747-246B_(JA8106 JAL.jpg ←「パープル」のB747-200(ウィキペディア英語版より)

90年代前半の日本は、「バブル経済」の崩壊で不況に見舞われたが、後半になると回復傾向を見せ、円高が進んだ時代を迎える。

それは一般人が気軽に海外旅行に行ける事を指し、特に地方発着の国際線がにわかに注目された時代でもある。

日本航空は札幌・仙台・広島・福岡と言った、これまでになかった地方発着の国際線を次々開設した。

目的地は絶対的な人気を誇るハワイで、上記の空港からはJAZのDC-10がほぼ「専用機材」として投入された。

実は期待を込めてのチャーターエアラインだったが、日本ではそもそも運航経費が高く、主催する旅行会社の多くは外国のエアラインをチャーターする場合が多く、JAZの請負先は日本航空系の旅行会社に限られており、思いのほか業績は伸びていなかった。

しかし需要の拡大でのキャンペーンで、同社の方針を変更。

運航便自体を「日本航空便」として運航するようになり、「リゾッチャ」が同社の本業になっていったのである。

一方成田や関空発着の「リゾッチャ」は、B747が主体であった。

行き先もJAZの地方便はハワイだったが、日本航空はグアムの他、オーストラリアまで対象を拡大させた。

1-1-22A_B747-246B_JA8105_JAL.jpg ←「リゾッチャ」機は、比較的初期導入の機材が充当されていた。写真の「JA8105」はアッパーデッキの窓が3枚の、ごく初期の200型(ウィキペディア英語版より)

だがB747便も、運航は徐々にJAZに移籍され、同社の乗務員で運航するようになった。

非常にややこしい関係なのだが、3機のDC-10は「JAZ」塗装のリゾッチャで、客室乗務員はJAZの社員。だが販売は日本航空便でウェットリース運航。

B747「リゾッチャ」は、機材は日本航空で、乗務員がJAZ。便名はもちろん日本航空。

尚パイロットは、B747は日本航空、DC-10は日本航空からの「出向」と言う形が取られていた。

また機材も基本的には全て日本航空の物なので、検査などの場合は日本航空塗装機に変更されることも珍しくなかった。

機内では南国リゾートをイメージしたミールや、クーポン付きのキャンペーンブックの配布、記念写真撮影などのサービスが行われた他、客室乗務員は通常の制服でなく、アロハシャツなどを着用して出発の時点で南国リゾートを味わえるように工夫されていた。

1-1-21A_B747-246B_JA8114_Japan_Airlines(Resocha).jpg ←「スーパーリゾート・エクスプレス」の愛称は、キャンペーン名と同じく「リゾッチャ」に変更され、機体のロゴも書き換えられた(ウィキペディア英語版より)

一方大半の乗客がツアー申し込みの「包括運賃」利用だったため、ビジネスクラスを含む2クラス制の機材が充当された。

ちょうどこの時代、こうした包括運賃が一般的になっていたこともあり、大型連休や夏休み、年末年始は「リゾッチャ」の利用が拡大した。

乗客は旅行会社が主催する「ツアー」に申し込むが、添乗員つきの団体旅行だけでなく、いわゆる「個人ツアー客」も包括運賃で利用できるようになったためだ。

ライバルの全日空もリゾート路線の拡大を初めていたが、この時点ではやはり日本航空の方に1日の長があった。

上記のようにJAZのおかげで、それまでチャーター運航しかできなかった地方都市からの定期便運航が可能になったことは大きかった。

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1-1-21A B747-100B-JA8128_JALways(Resocha).jpg ←(2枚)「JAZ」の後を受け継いだJALウェイズのB747。下は最後まで現役にあった100型のJA8128(ウィキペディア英語版より)

また同社は設立にあたって、多くの外国人客室乗務員を採用したことも特徴であった。

そのほとんどがタイ人で、バンコクにはトレーニングセンターも設置された。

これは日本人が理解しやすい、タイ人のサービス精神が一致していた事が理由とされているが、コストと言う事も大きかったようである。

もちろん日本人乗務員も多く乗務していたが、タイ人乗務員の大半は日本語の訓練も受けていた。

「リゾッチャ」は国際線限定だったが、人気を受けて国内線にも進出。

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1-1-21A_B747-346SR_JA8187 JAL.jpg ←(2枚)沖縄線用として新たに「ピンク」で登場したB747-300SR「スーパーリゾート・エクスプレス・オキナワ」。のちにグアム線などにも充当された為「OKINAWA」の文字は短期間で消滅した(ウィキペディア英語版より)

東京~沖縄線が指定され、専用機として2機のB747-300SRが選ばれて、塗装もパープル・イエローに続いて「ピンク」で登場した。

胴体のロゴには「OKINAWA」が付け加えられたほか、国内線で「リゾッチャに乗れる」として、当該機便は季節を問わず満席が多かった。

あまりの人気ぶりに、ごく短期間ではあったが2機のB747-300SRのキャビンをオール普通席に変更し、584席で運航した事もある。

通常同機は最前部の「Aコンパート」にスーパーシートが設置されていたが、そこも普通席に変更した。

584席は当時としては世界最大の座席数であり、後に全日空のB747-400Dに抜かれるまでギネスのタイトルを保持したほどであった。

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1-1-21A_B747-146_ JA8116 Japan_Air_Lines(Resocha).jpg ←(2枚)アッパーデッキの窓が2枚しかないB747-100Bと新しい「リゾッチャ」ロゴに変更された200型(ウィキペディア英語版より)

99年、日本航空はJAZを「JALウェイズ」と社名変更して、同社を運航会社として再編した。

これによりJAZと日本航空の「リゾッチャ」機はJALウェイズに「移籍」した形を取り、運航は日本航空との「コードシェア運航」になった。

尚人気だった「リゾッチャ・オキナワ」は、一足先に国内線から「引退」し、2クラス制(一部のB747は3クラス)に戻され国際線に転用されている。

その為胴体に書かれていた「OKINAWA」の文字だけ消され、主にオーストラリア線に投入された。

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1-1-21A_B747-346SR_JA8186 JALways(Resocha_Okinawa).jpg ←(2枚)「リゾッチャ・オキナワ」のB747-300SRは、JALウェイズ発足後「サーモンピンク」に変更され、国際線専用機材になった(ウィキペディア英語版より)

JALウェイズに移籍後、花柄マークも順次デザインや色が変更された他、リゾッチャの文字も大型化され、初期よりも目立つようになった。

「新リゾッチャ」は、JAL塗装機にも施された機体があり、JALウェイズ専用と言う訳ではなかった。

「リゾッチャ」キャンペーンは08年で終了したが、これは日本エアシステムとの統合が開始されたからだ。

完全な統合までは「日本航空インターナショナル」と「日本航空ジャパン」と言う、正直訳のわからない新会社に変わった。

要するにそれまでの日本航空は「インターナショナル」として主に国際線を、旧日本エアシステムを国内線専門として「ジャパン」としたのだが、同時に日本航空傘下のJALウェイズとJALエクスプレスは前者と後者に整理されることになり、JALウェイズは「日本航空インターナショナル」に再統合され、「JAZ」時代から約20年間の運航を終了した。

1-1-21A_B747-200B JA8150 JALWAYS.jpg ←JALウェイズに移籍後のB747-200(ウィキペディア英語版より)

だがJALウェイズは一応独立したエアラインであったが、サービスは日本航空と統一化されており、実質的には運航のみであった。

統合そして経営破綻に向かったことで、リゾッチャが消えた事は当然とも思え、どこか中途半端でいつの間にかと言う感じでもあった。

リゾッチャ機も全て通常塗装に戻されたが、統合後新たに制定された新塗装「アーク」になっても一部の機体が残っていたのはファンに注目された。

しかしリゾッチャ機はB747クラシックとDC-10のみで、既に主力の地位にあったB747-400、B777、B767には1機も施されなかった。

故に一部のファンからは、古い機材ばかりだったので「ボロッチャ」などと揶揄されたこともあると言う。

だが会社を上げて、長期間に渡るキャンペーンと言うのは日本航空ならではのやり方であったと言える。

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1-1-21A-DC-10-40I JA8547_JALways_Resocha.jpg ←(2枚)DC-10は社名ロゴだけ変更され、デザイン自体はそのままだった(ウィキペディア英語版より)

飛行機に興味がない人から「リゾッチャに乗った」と言う言葉が良く聞かれたし、空港でも目立って人気であった。

今思えば確かにリゾッチャ機は全て「3人乗務」の古い機材で、格安利用便だから・・と充当されたような気がしないでもない。

でも綺麗な塗装で、「見るだけでも南国リゾート気分」は成功だったと思う。

時代が変わり、こうした特別塗装機の役割は変化してしまった。

ネットなどの普及で、旅行会社のデスクでパンフレットを見ながら申し込むと言うやり方は減少し、いつでもどこでもパソコンやスマホで簡単に申し込める時代である。

1-1-21A B747-300SR JA8183_Resocha_Japan_Airlines.jpg ←唯一「JAL」のまま新デザインになったB747-300SR(JA8183)(ウィキペディア英語版より)

何よりも競争激化でLCCなどが増え、ツアー旅行の意味が薄れてしまっている。

気がつけばキャンペーンが開始された94年とは、もう四半世紀以上前のこと。

日本航空ではB747-400、95年以降になればB777の同級が開始された時代だが「747クラシック」とDC-10もまだまだ現役にあった。

でもB747-200/300とDC-10のリゾッチャ塗装は良く似合っていたし、実に格好良かった。

コロナ禍が加わって、今後こうした特別塗装機によるキャンペーンは行われることはないだろう。

1-1-21A B747-200B-JA8149_JALways(Resocha).jpg

1-1-21A DC-10-40 JA8544_JALways(Resocha).jpg ←(2枚こちらも唯一「サーモンピンク」に変更されたB747-200と、「アーク」塗装以後残ったDC-10-40のリゾッチャ機(ウィキペディア英語版より)

何よりも特別塗装ではない様な程機数が多く、うそのような話だが「リゾッチャ」と言うエアラインもしくは機体の名称だと思っていた人も多かった。

それだけ浸透していた事は、評価に値するだろう。

考えてみれば、見て楽しくワクワクするような旅客機は、最近見られなくなったなあと思う。

時代の変化、と言えばそれまでだが、「リゾッチャ」機はそういう気持ちを湧かせる魅力を持っていた事は確か。

もうこう言う機体は現れないだろうか、そう思うとどこか寂しく味気ない時代になったな・・とも思う。

地震、雨、そしてコロナ(3月20日 曇りのち雨 9℃)

今日は「春分の日」。

お彼岸の中日でもあり、半年間に渡って続いた「夜長」の季節が終わる。

春分は年によって移動し、20~22日と一定せず、今年は一番早い20日でしかも土曜日だ。

21日か22日だったら「3連休」になったのに・・と思う人もいたはずだ。

え?普通土曜日も休日じゃん・・・と勘違いする人がいるのだが、日本では法律上土曜日はただの「平日扱い」。

なので振り替え休日にはならないのであります。

面倒なのは、公共交通機関のダイヤ。

業者にもよるけれど、通常運行は「平日」と「休日・祝日」に分かれている他、「土曜日」も分けている場合がある。

今日は「土曜日」で「祝日」。

一体どっちのダイヤ?と迷ってしまうが、基本的には「休日・祝日」ダイヤだ。

「土曜日」ダイヤだと思って電車やバスを待っていたのに、いつまでも来ない・・と言う経験をした人もいるのでは?

そしてまた大きな地震。

18:09頃、宮城県沖深さ60キロでM6.9.

最大震度は石巻市や登米市、仙台市宮城野区で5強を観測。

直後宮城県沿岸部に津波注意報が出されたが、19:30頃に全て解除された。

先月13日に福島県沖の地震があり、先週11日は震災10周年を迎えたばかり。

何か因縁めいたものを感じて気持ち悪いが、地震は周期的に発生する。

私は自宅にいたが、揺れ自体は先月の地震よりも小さく思えたが、かなり長く揺れた。

サイドボードの小物が再び落下したが、それだけで破損した物はなし。

泉区では5弱だったが、「4強」ぐらいだったように思う。

停電や断水もなく、前回同様周辺に影響はなかった。

どうしても買い物があったので、夜に泉中央駅前に出たが、こちらも直接的な影響・被害はなかった。

「アリオ泉」の顔見知りの店員さんに聞くと、1Fでは揺れは感じたが大きくは感じなかったし、食器などが落ちることもなかったと言う。

地階では殆ど気付かず、直後の店内放送で地震があった事を知ったそうである。

周辺を含めてお店はどこも通常営業していたが、地下鉄が運休してしまったのでタクシー乗り場には長い列ができていた。

バスは平常運行なのに・・と思ったが、こちらから市内中心部方向へ行く人もいる訳で、その人たちがタクシーを待っていたようである。

気象庁の発表では、先月の福島県沖と違い、プレート境界付近で発生した地震で、直後から余震が続いているものの比較的小規模で収まっている。

当初はM7.2と発表されたが、6.9に修正された。

震災の余震と思われるが、この辺りは78年の宮城県沖地震の震源域でもあり、周期的に大きな地震が発生している。

油断は禁物だが、プレート内断層地震だった福島県沖と違い、規模からしてもプレートの歪みが解放されたタイプの地震であること、震源が深いことから大きな余震はないと見られる。

だた土曜日夜と言う事もあってか、交通機関の乱れの解消が遅れているようで、22時頃駅を除くと「本日中の運転再開はありません」と駅員さんが言いきっていた。

地下鉄は地震に強いはずだが、構内のエレベーターなどが自動停止し、その復旧に時間がかかっているのかも知れない。

降り出した雨は予想されていたが、明日日中にかけて風雨が強まる恐れがあり、地震で地盤が緩んでいる場所もあるかも知れない。

交通機関は明日は平常運行するだろうが、大雨や強風の影響が出る可能性もあるだろう。

嫌な事は重なるもので、県内ではコロナ感染者が急増し、18日から独自の緊急事態宣言が出されている。

今日も県全体で125人が判明し、最大になった。

大半が仙台市だが、経路不明者は1/3程度で殆どが「クラスター」であると言う。

やはりと言っては失礼だけど、繁華街のカラオケ店でクラスターが起きた他、自衛隊や医療施設でもクラスターが発生している。

現時点で飲み屋さんに対しての営業自粛要請は出ていないが、この状態だと再び出されそうだ。

だが市民自身の認識も問題で、今夜も地震があって雨も降りだしたにもかかわらず、集団で騒ぐ若者のグループを幾つか見かけた。

地下鉄で足止めされている連中もいたようだが、中には酔って騒いで走り回っている「バカ者」もいた。

地震と雨はともかく、コロナが騒がれている中で大人数で飲み会をする神経が理解できない。

前回も書いたけれど、集団で騒いでいるのは圧倒的に男子だ。

もちろん若者以外でも、いい歳のオッサン・オバハンが騒いでいる事もあるけれど、ここしばらくは明らかに10~20代の若者が多い。

季節柄、卒業・進学・就職などでお別れする友人もいるだろうし、そうでなくとも春休みで楽しみたいと言う気持ちは分からなくもないが、もう少し「分別」があっても良いのではないか?

特に男子は仲間といると気が大きくなるのか、子供みたいにはしゃぐヤツが多い。

コロナがなければ結構だが、まさに子供以下に見えて腹立たしく感じてしまう。

以前から予定していた飲み会なのかも知れないけれど、それこそ「大人」なのだから酒は控えめにして食事をメインにするとか、方法はいくらでもあるだろう。

友人と会うなとは言わないが、やり方ってもんがあるだろうとも思う。

長引くコロナ禍に油断・慣れが出来ているのも事実だが、ほんの少しの「自制心」はさほど辛いものではないはずだ。

若者だけでなく、市民全員が揃って認識することが収束に繋がる近道だと思うのだが。

宮城だけが災難続き見たいに思えて来るが、それは県民の「心がけ」のせいかも知れない。

それ一つで今度は良い傾向が見えて来るかも知れないのだから。



元気ですか?

地震、大丈夫でしたか?

もしかしたら君は仕事中で、帰りの手段に困ったのではないですか?

お家の人に迎えに来てもらったならば良いですが、ちょっと心配しました。

今後大きな余震はないと思いますが、明日にかけて大雨の予想も出ているので充分注意して下さい。

君はとうに知っていたかも知れませんが、「アリオ泉」に書店が復活しました。

場所は同じフロアですが、反対側です。

とても大きく種類も豊富で、毎日寄ってしまいそうです。

同時に君の姿が、どうしても重なってしまいました。

一旦閉店して7年、君の姿があった頃から10年以上です。

形は変わりましたが、まさか「復活」するとは夢のように思えます。

もし君が覗いてみれば、きっと大きな懐かしさがこみ上げて来ることでしょう。

残念ながらお店の人は全て新しい人だけのようですが、良かったら良い思い出だけを持って来て見て下さい。

時が経てば、仮に辛い思い出も美しく思える事があるものです。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



梅の花 み山と繁に ありともや かくのみ君は 見れど飽かにせむ(万葉集巻十七 3902 大伴宿禰書持)

飛行機ネタ スペインのエアラインだけど名前はエア・ヨーロッパ(3月18日 晴れ時々曇り 13℃)

少し風があったものの、おおむね穏やかで綺麗な青空に満たされた1日だった。

気温もちょうど良いくらいで、散歩にでも行きたくなる陽気だった。

しかしコロナの新規患者は増加を辿り、昨日の県内ではついにこれまで最大の「100人」を超えた。

このうち大半が仙台市で、さらに半数以上が20~30代の若い人。

夕方村井県知事と郡仙台市長が緊急共同会見を行い、県内に独自の「緊急事態宣言」を発表した。

店舗などに対する自粛要請は行わないが、状況によっては行うと含みを持たせたが、基本的には不要不急の外出を控える、感染防止の徹底を強く呼び掛ける事に留まっている。

でも複数の感染者が出ており、増加率は最も高い東京や千葉県と並ぶ勢いである。

どうやら先月解除された飲食店の時短営業要請や、「Go To イート」キャンペーンの再開が人出を増やしたようだ。

県ではキャンペーンチケットの販売を再度中止しているが、11日の震災10周年でもメディアを中心に人の出入りが増えた事も影響しているようだ。

私が感じるのは、やはり学生らしい若い人の姿が街で増えていると感じることだ。

特に今月に入って、主に卒業生だろうか、姿が目立つ。

彼らのせいとは言わないけれど、飲食店を含め数人、時には10人前後で動くグループが多い。

卒業生ならば、4月以降長年一緒に過ごして来た友人がそれぞれの道を歩み始め、会う事が出来なくなる・・と言う思いも強いだろう。

偏見かも知れないが、こうした「集団」は圧倒的に男子だ。

もちろん同世代の女子も多く出歩いてはいるが、飲食店などではせいぜい2~3人であることが多く、大人数は殆ど見かけない。

私もいつもカフェやファミレスに行くが、ここ1週間ぐらいはそうしたグループを見かけないが、それまでは結構多かったように思う。

また会話中マスクを忘れるのも男子グループで、人数が増えるとどうも緊張感がない。

2~3人だとそうでもないようだが、5人以上ともなると駄目。

このご時世に、なぜ「群れる」のかな・・?と思うのだが、それは酷というものか。

でも時には大声で盛り上がる場合もあろうし、店側は入店を断る事は出来なくとも、分散して着席させるとか、会話はマスク・・を言っても良いと思う。

SNSでは行政を批判する意見が多く見られるが、私は違和感を覚える。

確かに「緊急事態宣言」を含む規制も一定の有効性はあるだろうが、果たしてお店が拡大の「元凶」と言い切れるだろうか?

感染させているのは人が集まる「場所」ではなく、「集まる人」である。

初期に流行した「自粛警察」的なことは許されないが、今一度市民自身が会食を控える、会話時はマスクと言った自制を促す事が一番大切だと思う。

二言目には行政のせいにするのは無責任としか言いようがない。

事実あらゆる業種がコロナ禍で経済的に苦境に立たされており、ただ「引きこもり」したらそれこそ感染拡大以上に大きな影響が出て回復も出来なくなる。

まずは普通どおりの生活の中で、「Withコロナ」を改めて認識し行動することが重要だと思う。



3月18日は、不肖私めの「誕生日」であります。

ウン十ウン歳としておきましょうか(笑)、一応誕生日を意識はしたけれど、だからと言って何がある訳でもなく。

知り合いや友人もいなくなったし、今や私の誕生日を覚えているのは君くらいだろう。

もう祝ってもらう歳ではないけれど、唯一「おめでとう」と言ってくれた母もいない。

孤独は慣れているから平気だけど、誕生日を知っている人がいないと言う事は、存在を否定されている様な、ふとそんな気がした。

そう思うとちょっと侘びしくなったので、夜買い物のついでにお茶しようと寄った某ファミレスで、「祝杯」を挙げてみた。

最もグラス1杯100円のワインだけれど(どこかすぐわかる・笑)。

今後誕生日を言ってくれる人は現れないだろうし、自分自身忘れて行くのかも。

でも母には感謝。

さっぱり親孝行出来ないうちに逝ってしまってけれど、私と言う人間に後悔は全くない。

いろいろあって辛いことばかりだけれど、人生不幸とも思っていない。

歳は取りたくないけれど、また1年生きた証拠。

来年誕生日を迎えられるかどうかはわからないが、少なくとも今年は迎えられた。

母ちゃん、ありがとう。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

少しずつですが、春を感じ目で見えることも増えて来ました。

一方人間自身は、相変わらずコロナに翻弄され続けています。

再びの緊急事態宣言ですが、どうか動揺だけはしないようにして下さい。

君の置かれている状況は分かりませんが、いつもと変わらずの生活を続けて下さい。

空気が乾燥しているので、火の元・体調には気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




春の日の うらがなしきに おくれゐて 君に恋ひつつ 現しけめやも(万葉集巻十五 3752 娘子)







飛行機ネタ。

前回ドイツ人の旅行好きについて書いたが、その行き先で最も人気があるのはスペインだそうである。

また比較的寒い気候の北欧やイギリス、アイルランドの人もスペインを旅行先にする人が多いと言う。

スペインはフランス・イタリアと並んで、世界的にも観光国として名高い。

地中海性気候で冬でも温暖、多くの世界遺産を持つ歴史、そしてグルメと確かに観光地としての魅力が備わっている。

日本ではその利便性からフランスとイタリアが人気の旅行先と言うが、近年しばらく運休していたスペインのフラッグキャリア、イベリア航空が日本線を再開し、再び注目を浴びている(コロナ禍を除く)。

北ヨーロッパの人に人気なのは、やはり陽光に満ちたビーチリゾートだと言う。

日本人がハワイやグアムに行きたがるのと同じことのようだが、ヨーロッパ人は休暇が長いのでアクティビティよりもリゾートホテルや個人経営のペンションなどで長期に滞在し、のんびりと過ごす事が主流で、天候の安定した地中海方面がうってうつけと言う事なのだろう。

その中で最も人気があるのが同じスペインでも、地中海に浮かぶ「バレアレス諸島」である。

スペイン第二の都市バルセロナから南東約200キロの地中海に浮かぶバレアレス諸島は、主島となるマヨルカ島や世界遺産に指定されているイビサ島など大小数十個の島から成り、バレアレス諸島自治州としての行政単位を形成している。

中心となるのがマヨルカ島で、面積は約3,640平方キロ。奈良県とほぼ同じ面積。

1-1-20A PALMA DE MALLORCA-.jpg ←マヨルカ島の中心都市、パルマ・デ・マヨルカ(ウィキペディア英語版より)

首都はパルマであるが、正式には「パルマ・デ・マヨルカ」と言い、人口は約40万人。

諸島全体の8割がマヨルカ島に居住しており、人口密度は島としてはヨーロッパで最も高い。

島の南北には山脈が走り、その間に平野部があって、海沿いには山に挟まれた美しい入り江が存在する。

故に「小さな大陸」と言われるほど、その地勢は変化に富んで風光明媚である。

気候は典型的な地中海性気候で、農業の他革製品などの特産品も多い。

島ではあるが交通機関も良く発達しており、島内に「マヨルカ鉄道」と言う鉄道路線がある他、パルマ市内にはメトロも運行されている。

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1-1-20A-MP_Train.JPG ←(2枚)マヨルカ鉄道とパルマ・デ・マヨルカのメトロ(ウィキペディア英語版より)

ヨーロッパ随一の観光地で、大手ツアー会社が主催する巨大クルーズ船が寄港する他、空港も整備されている。

パルマ国際空港は市内から至近距離にあり、諸島内路線やスペイン本土方面の他、ヨーロッパ域内だけでなく北米などからの直行便が発着する。

特徴的なのは季節運航便及びチャーター便が非常に多いことで、それらを捌く為に滑走路を3本持つ。

スペインでは首都マドリードのバラハス国際空港、バルセロナ国際空港に次いで利用客の多い空港である。

先のドイツやイギリスでも、一番渡航者数が多いのはこのマヨルカ島で,ここを拠点とするエアラインが「エア・ヨーロッパ」である。

1-1-20A AIREUROPA B787-9.jpg ←エア・ヨーロッパの最新鋭機材B787-9(ウィキペディア英語版より)

同社は86年、イギリスを本拠とするILGエア・ヨーロッパグループとスペインの銀行などが共同出資して設立された。

ILGのエア・ヨーロッパは、イギリスから地中海やカリブ海へチャーター便を運航するエアラインを経営し、イタリアにも「エア・ヨーロッパ・イタリー」と言う現地法人を持っていた。

少々混乱する話なのだが、それを区別するためイギリスの「本家」をILG、エア・ヨーロッパ・イタリーを「イタリー」、そしてここでの中心となるスペインを「エア・ヨーロッパ」としておく。

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1-1-20A_Air_Europe_Italy B767-352ER.jpg ←(2枚)エア・ヨーロッパ・イタリーのB767-300ER(ウィキペディア英語版より)

エア・ヨーロッパ自体は、ILGやイタリーとは出資社が共通と言うだけで完全に独立したエアラインである。

だが創業時の機体の塗装は3社共通を用い、社名ロゴにそれぞれの国旗が示されていた。

最もILGとイタリーの表記は「Air Eupope」と英語であるのに対し、エア・ヨーロッパは「Air Eupopa」とスペイン語表記になっている。

ただし2社とは全く関係ない・・と紹介されることが多いが、資本関係と言う点では同族企業であった。

1-1-20A-Palma_de_Mallorca_Airport_Terminal_C.JPG ←パルマ国際空港(ウィキペディア英語版より)

しかし91年にILGが倒産したため、イギリス本家は運航を停止し、イタリーとエア・ヨーロッパが残った(イタリーも廃業した)。

設立当初からスペインのエアラインであり、本拠をパルマに置いていた。

現在本社は首都マドリードに移したが、パルマも主要空港として運航を行っている。

ILGの消滅後、同社の経営はスペインの投資会社に遷ると同時に、機材もそのまま残留した。

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1-1-20A Air_EuropeUK_B757.jpg ←(2枚)イギリスのエア・ヨーロッパが主力として運用したB757-200(ウィキペディア英語版より)

それまでは外資系のチャーター専門エアラインで登録されていたが、91年以降スペインのエアラインとして定期便の運航も許可されることになり、B737やB757出国内線定期便の運航を開始した。

だが営業の中心はもっぱらチャーター便で、ライバルが多い中で善戦している。

地元の利を活かして、マヨルカ島だけでなくスペイン本土やカナリア諸島などの観光地も旅行会社と提携してツアー運航を積極的に行った。

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1-1-20A AIREUROPA-B757-236.jpg ←(2枚)親会社ILG倒産後、そのままエア・ヨーロッパに継承されたB737-300とB757-200。塗装は共通だが「Air Europa」と綴りが違う事に注意(ウィキペディア英語版より)

更に北米からのチャーター運航を機に利用者が増え、90年代後半には中古機ながら同社初のワイドボディ機としてB767を導入した。

意外なことだが、同社はスペインで初めて定期運航を許可された民間エアラインで、80年代までは国営のイベリア航空とその系列エアラインだけが運航を許されていた。

だが冷戦終結と、EUの結成で各国の経済が自由になったと同時に競争も過酷になったため自由化が進められたのである。

自由化されたことで同社は従来のチャーター便だけでなく、定期路線を国内からヨーロッパ域内、そして大西洋路線へと拡大させた。

00年代になると機材の更新を開始し、短中距離用にB737-800、長距離及び髙需要専用にA330を中古ながら導入して効率化を図った。

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1-1-20A_Air_Europa_B737-800 EC-LPQ.jpg ←(2枚)導入を機にオリジナル塗装に変更されたB737-800(ウィキペディア英語版より)

航空同盟「スカイチーム」には当初「アソシエートメンバー」として参加していたが、07年に正式メンバーになって、各社とのコードシェア運航やマイレージプログラムの共通化が実施されるようになった。

16年には新たに「エア・ヨーロッパ・エクスプレス」を設立し、国内線の一部の運航を担当し、本体は国際線運航が主体となっている。

同社はLCCではなく、フルサービスキャリアの形態を持つ。

ヨーロッパには80年代以降多くのチャーター専門エアラインが存在したが、世界経済情勢の変化やLCCの台頭で殆どが姿を消す中、メジャーキャリアに「昇格」して残存する珍しいエアラインである。

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1-1-20A AIREUROPA-B767-3Q8(ER).jpg ←(2枚)定期便運航の増加に合わせて初めてのワイドボディ機として導入されたB767-300ER(ウィキペディア英語版より)

現在はバルセロナに本拠を多く大手エアライン「ブエリング」に顧客を奪われているが、それでもイベリア航空を含めてスペインで第三位の規模を持つエアラインになっている。

サービス形態は「準LCC」の様な基準で、域内路線の殆どでサービスは有料である。

また機内持ち込みや預託荷物の規定はLCC並みであるが、予約や発券はメジャーと同じシステムを持つ。

機材は「エア・ヨーロッパ・エクスプレス」を含めて45機保有し、内外合わせて40都市以上に就航している。

「以上」と言のは季節運航が非常に多く、その運航期間が一定しないためだ。

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1-1-20A AIREUROPA_A330-343_EC-MHL.jpg ←(4枚)B767-300ERの後継機として中古で導入されたA330-200(上2枚)とA330-300。コロナ禍とB787の導入で、21年初頭に退役した(ウィキペディア英語版より)

だが地元ではイベリア航空と並ぶメジャーキャリアとしての認識が強く、リピーターも多い。

最もサービス基準は日本のレベルで考えるとLCCに限りなく近いようで、荷物のトラブルは頻発すると言う意見が多い様だ。

現在大西洋路線には最新鋭のB787-8/9がリースで導入され、A330と交替した。

長距離線は一部メニューを除いて無料となっているが、上記のように域内路線では有料が基本だ。

キャビンはビジネスクラスを含む2クラスだが、B737と「エクスプレス」で使われるE195は域内標準スタイルの「簡易ビジネスクラス」。

本拠地であるマヨルカ島の他、大西洋岸のリゾート地・カナリア諸島もハブにしていて、シーズンには大幅に増便される。

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1-1-20A AIREUROPA_B737-85PW_Skyteam.jpg ←(4枚)現在の主力B737-800は16年頃から現行塗装に変更が開始されたが、旧塗装機も残存する。下は「スカイチーム」の特別塗装機(ウィキペディア英語版より)

定期便も多く運航することから、ドイツやイギリスからの利用客も比較的多いのが同社の特徴でもある。

また南米ブラジルでは、初めて「外国エアライン」として国内営業の許可を取ったエアラインでもあり、10年代初頭には現地法人を設立する動きがあったが、現在まで実現していない。

ヨーロッパでは企業以上にエアラインの「ボーダーレス化」が加速していて、アイルランドのLCC「ライアン・エア」やハンガリーの「WIZZ」が各国に拠点を設けており、スペインも先の「ブエリング」と共にLCCが台頭している。

1-1-20A AIREUROPA -B787-8_EC-MIG.jpg ←「9」と共に長距離線を担当するB787-8(ウィキペディア英語版より)

エア・ヨーロッパは定時運航率などでは高い評価を得ているが、サービスでは長距離線以外はLCCと同レベルと言う事もあり、近年苦戦していると言われている。

19年にブリティッシュ・エアウェイズとイベリア航空を保有する「IAGグループ」が、エア・ヨーロッパの買収を発表。

同社との交渉に入った。

今後数年かけて株式を取得することになっているが、IAGグループになると「スカイチーム」は脱退して「ワンワールド」に加盟する事になる。

しかしライバル関係であるイベリア航空と同列になることから、同社と統合と言う形になる可能性も出て来ると思われる。

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1-1-20A AIREUROPA E195-EC-KXD.jpg ←(2枚)国内線・近距離国際線に投入されるE195は、16年以降「エア・ヨーロッパ・エクスプレス」に移籍している(ウィキペディア英語版より)

「エア・ヨーロッパ」と言う名称は、実はありそうでなかったものだ。

ヨーロッパと言う言葉自体は商標権を持たないから、いくらでも使えるはずだが広義過ぎたのかあまり見られなかった。

「ヨーロピアン」だと幾つか散見できるが、ずばり「ヨーロッパ」の名称を持つのは現時点では同社だけである。

そう見るとなかなかダイナミックな名前だが、元々は域内全域を対象としたリゾート専門チャーターエアラインだったからだ。

今もその本質は変わっていないが、あくまでスペインのエアラインであり、各国に現地法人を持つ大手LCCの方がイメージとして「エア・ヨーロッパ」風なのは皮肉とも言える。

日本人には分かりづらいが綴りが「e」ではなく「a」なのは、スペイン語だけでありそれが「スペインのエアライン」を表すと言う地元のこだわりがあるそうだ。

スペインはかつて「世界帝国」と呼ばれた時代があったが、イギリスにお株を奪われてしまった。

同社ブランドも、もとはイギリスが発祥だから、その元締めが消えたことで「ヨーロッパ」ブランドをスペインが奪取した・・と言う事なのだろうか。




飛行機ネタ 怪鳥の名を持つコンドル航空(3月14日 曇り 12℃)

※諸般の事情により、2日分の日記を掲載しています。

◎3月13日 雨 8℃

低気圧の接近で、終日雨模様。

せっかくの週末はテンションダウン。

最も3月になって、県内のコロナ患者数が増加傾向にあり、出控えるにはちょうど良かったかも。

湿気寒いとはこのことで、今日の最高気温は低気圧が近づいた夜22時過ぎ。

日中は5℃前後と、冬の様な気温だった。

ここしばらく晴天が続いており、空気も乾燥していたので、ちょうど良い「お湿り」になったかも。

しかし低気圧は発達しながら接近したため、強風も伴っており非常に始末が悪い。

特に午後以降風が強く、台風を思わせる時間帯も。

止せば良いのに、食事の材料がないから買い物に行かざるを得ず、バスを使って駅前まで出た。

お茶して買い物するまでは良かったが、帰宅するまで風雨が強く身体中濡れてしまった。

もちろん傘は差していたけれど、風に煽られて傘の骨は曲がるし、吹き飛ばされそうになってしまった。

帰宅してすぐにシャワーを浴びようと思ったから良かったが、何とも腹立たしい低気圧だ。

明日も強風が続くと予想されており、JRでは今日に引き続き一部区間の運休や間引き運転が予告されている。

3月には行って比較的暖かい日が続いており、長期予想でも今後気温は高めで推移すると言っているので、桜の開花も早まるだろうか。

だが油断は禁物。

この冬は久し振りに寒く、雪も多かった。

仙台では何十年ぶりかに、-8℃を記録したし、寒さの「戻り」があってもおかしくない。

過去には4月末のGW中に「雪」が降った事もあり、急に春めくことがどうも信用できない。



◎3月14日

荒れ模様の昨日を引きずるような天気。

雨は明け方に止んだようだが、青空は見えず強風も終日吹き続いた。

特に沿岸部では風が強く、JR常磐線などでは運休も出たようだ。

気温は少し上がったものの、曇り空と強風で暖かさは皆無。

特に強風は冷たい北寄りで、外で春物はちょっと寒かったのではないか。

服装に悩ましい時期の到来で、朝晩はまだ冬の名残、日中はポカポカと言う時もあり、女性は大変だろう。

季節の変わり目故、変わりやすい天気は仕方ないが、週末にかかるとどこかもったいない気がする。

今日は「ホワイトデー」だったらしいが、天気も相まってあまり盛り上がらなかったのでは?

夜買い物に出てスーパーの催事場を見たら、意外と商品棚は空きが目立ったが、バレンタインの時のような「駆け込み」需要はなかった。

ここ数日何となく売り場を見ていたが、勝っている人の多くは何故か女性が多い。

近年職場における「義理チョコ」とそのお返しを止めよう・・と言う雰囲気が浸透し、恐らくはそうであろう男性が悩んでいる姿は確実に減った。

中年女性客だと、もしかするとご主人に頼まれて買いに来たともとれるが、若い女性は友人などいわゆる「友チョコ」のお返しを買い求めているのだろうか。

フェア期間限定の商品も多いから、単なる「自分用」の可能性も。

このスーパーでは1月半ばから「バレンタインフェア」が設置され、先月15日以降は「ホワイトデーフェア」が継続されていた。

良く見るとレジでの包装だけ変えて、商品自体は同じものが多い「気がする」がどうだろうか。

考えたらほぼ2カ月間も催事が続いていた訳で、明日以降しばらくは何にもない状態になるのだと思うと、ちょっとさびしい気がしないでもない。

春休みが近いから、新たな催事が予定されているのだろうが、今更ながらお菓子が並ぶ光景は見納めかあ・・なんて思う。

あまり記憶にないが、昨年の今頃はコロナ禍が現実味を帯びて来た時期で、このお店も自主的にテナントの時短営業が始まったころだ。

バレンタインとホワイトデーフェアは例年通りやっていたが、「ソーシャルディスタンス」「マスク着用」などを店員さんが「監視」するように人数を増やして呼びかけていた。

まさか1年経っても解決しないとは思わなかったが、良い悪いは別として「慣れて」しまった感があり、今年は至って普通のフェアになったようだ。




夜になっても風が吹いていた。

ちょうど駄目になっていた仏壇の花を新しいものに変えようと買ったのは良かったが、持ち帰るまでが一苦労。

専用のビニール袋には入れてあるのだが、元々軽いから風に煽られてしまう。

うっかりすると折れてしまうから、今日買った事を些か後悔した.

来週は春の「お彼岸」で、月末には母の4回忌を迎える。

私以外誰もいないので、法要も出来ないが、せめて綺麗な花は切らさないようにと思って供えている。

最もお金がなかったり、買うチャンスがなくて切らす事もあるのだけれど。

3~4歳の頃だったと思う。

母と何処かへ外出して帰宅する時、歩くことも困難なほど猛烈な向かい風に遭った。

人通りも全くない夜で、幼少の私は強風がひたすら怖くて泣き叫んだ記憶がある。

まだ体も小さく、吹き飛ばされそうなほどの強さと音、そして暗闇が相乗効果で怖さが増したのだろうか。

その時母は、私の手を痛いほど儀っちり握りしめ「大丈夫、大丈夫、恐くない」と言いながら歩いたことを、なぜか今でも覚えている。

多分当時近所に住んでいた親せきの家に行った帰り道だと思うから、自宅まで歩いてもほんの数分程度の距離だったはず。

自然の脅威を生まれて初めて感じたと言う事なのか、とにかく風が怖かった。

同時に握り締めた母の手が、どれほど頼もしく思ったことか。

今夜も自宅まで、ずっと向かい風。

ふと花を、あの日の母の手のように思えてならなかった。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

この週末は天気が悪かったですが、君は大丈夫でしたか?

花粉症はないですか?

季節の変わり目を感じますが、同時に体調が追いつかなくなることもあるので気をつけて下さい。

3月は君も私も、複雑な気持ちになる月ですが、今日を幸せな気持ちで生きることも大切です。

世間もなかなか落ち着きませんが、それに流されず君らしい春を迎えて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



ひさかたの 天つみ空に 照れる日の 失せなむ日こそ わが恋止まめ(万葉集巻十二 3004 物に寄せて思を陳ぶ)







飛行機ネタ。

ある統計によると、世界で一番海外旅行をするにはドイツ人だそうである。

過去のデータなので、今はもしかしたら中国人かも知れないが、ドイツ人の旅行好きは欧米では良く知られていると言う。

ドイツは寒冷な気候だからか、休暇ともなると老若男女がこぞってリゾート地に出かける。

特に季節を問わず、気候のよい地中海やエーゲ海などの観光地が大人気で、暖かく天候のよい地域を求めることが分かる。

第二次大戦前、独裁者ヒトラーはドイツ人の優秀性と先進性をアピールする為に様々な政策を行った。

日本でも良く知られている「フォルクスワーゲン」(ビートル)は、ドイツ語で「国民車」と言う意味。

安くても頑丈な自動車を開発させ、一般国民が「自家用車」を保有出来るようにした。

同時に全国に速度「無制限・無料」の高速道路、「アウトバーン」を建設し、個人が自動車旅行出来るようにさせた。

また国民共済制度を作り、積立金を使っての「団体旅行」も奨励した。

その為の専用の客船を建造し、地中海クルーズなどを頻繁に実施していた。

ナチス党に対する一種の「洗脳」政策とも言えたが、1930年代のドイツは既にモータリゼーションが起こり一般国民の休暇旅行が浸透していた事は確かである。

ナチスの政策を称賛する訳には行かないが、少なくともドイツ人の旅行好きを利用した政策だったと言えよう。

敗戦して滅亡したナチス・ドイツは戦後、連合国の管理下に置かれ東西に分断された。

同時に米英仏とソ連の「冷戦時代」が始まり、東西ドイツはその最前線になったため、戦後復興は比較的早く行われた。

民間航空も終戦直後は禁止されていたが、40年代末には解禁されて、フラッグキャリアである「ルフトハンザ」も再開した。

日本でも良く知られた同社は、現在もドイツ最大のエアラインでありフラッグキャリア。

系列会社にはスイス・インターナショナル、オーストリア航空、ブリュッセル航空など各国の代表的エアラインが存在し、ヨーロッパ最大のエアライングループを形成している。

東西ドイツが統一されて以降、冷戦も終結したが、同時にヨーロッパ域内のボーダーレス化・自由化が進んだ。

共通通貨「ユーロ」もその一環であるが、同時に各国の「格差」と域外での経済的競争力のばらつきが出始めて、多くの企業が分社化されたり、アジアや北米の企業グループなどに「切り売り」されることも多くなった。

エアライン業界も同様の状況に置かれており、特に中小規模のエアラインになると国籍は従来通りでも「親企業」が外国だったり、同じ様に買収・統合された他のエアラインとブランドの均一化されたりと、気がつくと一体どこの国のエアラインか分からない事もある。

中にはブランドだけを売却・買収したりすることも珍しくなく、何度も経営基盤が入れ替わり、いつしか消滅してしまったエアラインも少なくない。

統一後のドイツは、経済成長を期待して新しいエアラインが複数設立されたが、近年になって淘汰され、結果的にルフトハンザが寡占する状況にある。

そうした激戦の中で、意外にも頑張っているのが「コンドル航空」だ。

日本には就航した事がないので、ファン以外では殆ど知られていないエアラインだが、ドイツではルフトハンザに続く規模を持つエアラインでもある。

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1-1-19A CONDOR B767-300ER-D-ABUB.jpg ←(2枚)ドイツではルフトハンザに次ぐ規模を持つ、コンドル航空の主力機材B767-300ER(ウィキペディア英語版より)

創業は1955年のことで、当時ルフトハンザは「半官半民」のエアラインだったが、前身となる「ドイツ航空」は純民間エアラインとして設立された。

当初はイギリスから中古のプロペラ機を購入し、国内線の運航を開始したが、ほどなく国際線も運航した。

最初の国際線はイスラエルのテルアビブで、解放されたドイツ系ユダヤ人がイスラエルへ移住するためのものだった。

その後経営者が変わり、社名も「コンドル航空」と変更されたが、60年にルフトハンザが同社の株式を購入し、事実上の子会社になった。

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1-1-19A CONDOR VISCOUNT-D-ANUR.jpg ←(2枚)設立時に導入されたヴィッカース・バイキングとバイカウント(ウィキペディア英語版より)

この時代になると、西ドイツ国内は戦後の復興を果たし、西ヨーロッパではトップクラスの工業国に戻っていた。

元々科学分野や工業分野が得意だっただけあって、それは米英の政治にも利用されたが、国民の経済水準も向上した。

同時に旅行へ出かける人も増え、戦前船で旅行したことが今度は飛行機に変わる事になる。

ルフトハンザ傘下となったコンドル航空は、同社のチャーター部門としての色彩を強め、主に南欧を中心にチャーター便の運航を開始し、人気のリゾート地だったスペインのマヨルカ島などへ就航した。

60年代後半になるとよりルフトハンザのチャーター及びリゾート部門の色が濃くなり、66年には同社初の長距離路線となるバンコク、コロンボ、ナイロビ、カリブ海のドミニカ共和国などに路線を開設した。

機材も中古機ながらB707を導入し、本格的な路線展開が開始された。

1-1-19A-Condor_B707-420.jpg ←コンドル航空初の長距離ジェット機となったB707-420B(ウィキペディア英語版より)

これらの便は殆ど季節運航だったが、日本で言う「包括運賃(団体運賃)」が適用されたので格安運賃で利用が可能であった。

ルフトハンザ系列と言う事も信用度に貢献しており、71年にはルフトハンザからのリースと言う形ではあったが西ドイツでは2番目にB747の運航を開始した。

チャーター及び季節運航だけでなく、ルフトハンザ便としての通年運航も開始された。

70~80年代は同社が最も飛躍した時代で、定期便・チャーター便とも好調を続けていた。

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1-1-19A CONDOR-B737-230(Adv).jpg ←(3枚)ルフトハンザからリースして運用したB727-100/200とB737-200(ウィき終えD亜英語版より)

機材も需要に合わせてルフトハンザからリースすることで経費は削減され、常時運用していたのはB727やB737が主体であった。

80年代になるとDC-10やA310などのワイドボディ機も増え、ルフトハンザ便としての運航も大幅に増加した。

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1-1-19A CONDOR_A310-203.jpg ←(3枚)好調な季節・チャーター運航で、当時としては珍しく次々とワイドボディ機を導入したコンドル航空。上からB747-200、DC-10-30、A310-200(ウィキペディア英語版より)

また短期間ではあったが、ルフトハンザからB747-400を1機だけリースし、台湾線の運航を担当した時期もある。

これは80年代後半以降自由化が進んだ中国に対する措置で、ブリティッシュ・エアウェイズ、エール・フランス、KLM、スイス航空など主にヨーロッパの大手エアラインは中国本土線を運航する代わりに、中国が独立を認めない台湾に対してフラッグキャリアの就航を拒否する構えを見せた為である。

日本でも台湾線専門エアラインとして、日本航空が「日本アジア航空」を作って運航していたが、ヨーロッパのエアラインも同様の処置を施していた。

最も「建前」でのことで、一部機材のロゴを「○○アジア」と変更して運航しただけだ。

1-1-19A Condor_B747-400.jpg ←台湾線運航のためルフトハンザからリースしたB747-400(ウィキペディア英語版より)

台湾線にはその機体で運航したが、機材そのものは通常路線でも運用することが普通であったし、乗務員も「本社」所属だった。

この辺はれっきとした別会社として運航していた「日本アジア航空」と違うが、ルフトハンザも日本と似た運用を行った。

それがコンドル航空で、リースしたB747も一応はコンドル航空のフルカラー、乗務員もコンドル航空専属だった。

だが便名はルフトハンザの「コードシェア」便で運航され、コンドル航空の運航と言うよりも事実上ルフトハンザからの受託運航であった。

数年後中国側が態度を軟化させたことから、各社の「アジア」ブランドは消え、コンドル航空も役目を終えて機材も返還された。

1-1-19A CONDOR B767-330-ER,_D-ABUD.jpg ←90年代以降ワイドボディの主力になったB767-300ER(ウィキペディア英語版より)

独自の運航では、これまでと同様南欧方面の他、カリブ海諸国やアフリカ方面への運航が主体となり、アジアはルフトハンザに移譲されていった。

同社を取り巻く環境が変化したのは00年代に入ってからで、「9.11テロ」による航空不況とLCCの登場による多様化である。

コンドル航空だけでなく、それまでのヨーロッパはチャーターエアラインの全盛期だった。

特に冷戦終結後は東欧諸国も自由化され、旅行の対象になったほか、これらの国々の人々も海外旅行に行く自由が得られるようになっていた。

旧西欧のツアー会社は、東欧と言う新しい市場を手に入れ活況を呈しており、チャーターエアラインは増大していた。

しかしそれはLCCも台頭させることになり、それまで特殊と思われていたLCCが急激に脚光を浴びるようになる。

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1-1-19A CONDOR_A320-212,_D-AICC.jpg ←(2枚)コンドル航空のA300、B737-300とA320(ウィキペディア英語版より)

ヨーロッパ域内であれば、最も遠く人気があるリゾート地、スペイン・カナリア諸島まででも3,000キロ以内。

飛行機ならば長くても3~4時間程度の距離であり、徹底的に付加サービスを省略し、しかも個人客でも格安運賃で利用できるLCCはたちまち人気となって受け入れられるようになったのである。

同時に団体枠の運賃として格安で提供していたツアー会社と、チャーターエアラインとの差がなくなった。

しかもネットの普及も加わって、LCCだと個人がいつでもどこでも予約ができ、オフシーズンの予約状況による「バーゲン価格」も大きな魅力であった。

運賃を安く提供する分、手数料やホテルなどの付加価値で利益を出すツアー会社は大きな打撃を受けることになり、国境を超えたリストラ・再編が進んだ。

その中でコンドル航空は、既に独自の定期路線を運航していたので、チャーター専門エアラインよりは打撃が少なかったものの収益は大幅に低下していた。

ヨーロッパで最古・最大のツアー会社であるイギリスのトーマス・クックは、このような状況を踏まえて、これまで契約で運航していたチャーターエアラインを買収し、グループ化を図り始めていた。

同社は比較的業績の良かったコンドル航空の株式取得に乗り出し、03年には完全な傘下企業化させた。

他に買収されたエアラインを含めてブランドを統一し、「THOMAS COOK BY CONDOR」と言う名称に変更された。

同社便は「トーマス・クック航空」となり、運航を担当するのはコンドル航空と言う方式である。

1-1-19A CONDOR-B767-330-ER,_Thomas_Cook_(Condor).jpg ←トーマス・クック・バイ・コンドル時代のB767-300ER。この名称はごく短期間だけだった(ウィキペディア英語版より)

その後再びブランドの再編が行われ、コンドル航空のブランドが復活している。

すなわちトーマス・クックグループのコンドル航空となり、運航便もトーマス・クックとコンドルのコードシェアとなった。

基本的には独自の運航は継続されたため、10年代にはカナダの大手ウエストジェット、メキシコのボラリスとの業務提携を確立し、両社とのコードシェア運航を開始した。

どちらもLCCであり、そうでないコンドル航空との提携は異例と言えたが、これによって路線網の充実が図られることになった。

1-1-19A-B757-330,_Condor_(Thomas_Cook).jpg ←コンドルブランドに戻ったB757-300。尾翼にはトーマス・クックのマーク(ウィキペディア英語版より)

トーマス・クック系列になったことで、ルフトハンザの株式所有率が減ったため、機材はトーマス・クックから調達するようになっており、B737などからA320シリーズに変更。

この他長距離機材として、中古でB767を導入し北米・カリブ諸国・中南米線に投入した。

B767には同社として、初めて独自のビジネスクラスを設置した。

現在コンドル航空は54機保有し、内外合わせて81都市に就航するが、通年運航するのはこのうち1/3くらい。

他は殆ど季節運航で、チャーター運航も継続している。

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1-1-19A CONDOR B767-300ER-D-ABUE.jpg ←(2枚)トーマス・クックの共通塗装になったコンドル航空のA320とB767-300ER(ウィキペディア英語版より)

機材は上記のB767-300ERが主力で、近年ビジネスクラスに加えてプレミアム・エコノミーが設定された実質上「3クラス」である。

ナローボディ機ではA320・321が主力だが、「激レア機種」であるB757-300も保有していることが特徴で、ヨーロッパでは同社が唯一定期便として運航している。

同機を含むナローボディ機はプレミアム・エコノミークラスを含む2クラス制で、かつてのようなモノクラス制は廃止されている。

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1-1-19A CONDOR Appetizer_served_on_Condor.jpg ←(2枚)ビジネスクラスで提供されるミール(ウィキペディア英語版より)

ただしB767のプレミアム・エコノミークラスはシートピッチが拡げられているが、ナローボディ機では3列座席のうち中間席をクローズして実質的に「2席」にしただけ。

ヨーロッパのエアラインでよく見かけるビジネスクラスと同様だが、同社ではプレミアム・エコノミークラスになっている。

LCCではないのでサービスはフルサービスキャリアの準じているが、3時間以内の短距離路線に関してはドリンクとスナックが基本的に無料。

他は有料メニューが用意されるが、大西洋線や中東・アフリカ方面の長距離線はミール・アルコールは無料(特別メニューは予約・有料)だ。

またB767では全クラスにシートモニターが装備されるが、ナローボディ機では集中式モニターが装備される。

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1-1-19A -B767-300ER -ABUC.jpg ←(4枚)尾翼のマークがロゴタイトルから「サニーハート」に変更されたB757-300とB767-300ER(ウィキペディア英語版より)

19年初頭、親会社のトーマス・クックが倒産し、コンドル航空はグループを離脱した。

法的にはまだトーマス・クックが資産としての保有権を持っているが、経営権はなくなった。

同時にドイツ政府に再建の為の支援申請を行い、株主であるルフトハンザとともに新しい売却先を探している。

ポーランドのフラッグキャリア・LOTが興味を示して売却交渉に入ったと報道されたが、折り合わず取りけしになっていて、現在は政府とルフトハンザの支援で運航を続けている。

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1-1-19A CONDOR B767-300ER-D-ABUO.jpg ←(4枚)現行塗装に変更したコンドル航空のA320、B757-300、B767-300ER(ウィキペディア英語版より)

機体の塗装は変遷が多く、ルフトハンザグループ時代はデザインの意匠が共通で、イメージカラーをルフトハンザの紺からコンドル航空の黄色に変えたものだった。

同社のロゴはコンドルをイメージしたものだが、実際にはルフトハンザと良く似たデザインが特徴である。

トーマス・クックグループに加入後は、同社の共通デザインに変更されたが、当初は胴体に大きく「THOMAS COOK」と言うロゴが記入されていたが、直後に「CONNDOR」に戻されている。

10年代には尾翼のマークが同グループのシンボルマークである「サニーハート」に変更され、10年代半ばにはそれまでのブルー基調のからーから黒とオレンジをベースにしたデザインに変更されている。

現在もトーマス・クック塗装を継承しているが、尾翼の「サニーハート」が消え、従来のコンドル航空のマークに順次変更が予定されている(本記事1・2枚目の画像)。

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1-1-19A-Condor_A321.png ←(2枚)コンドル航空最新の塗装。トーマス・クック倒産でグループを離脱。尾翼には「コンドル」マークが復活し、胴体後部の「THOMAS COOK」の名前が消えた(ウィキペディア英語版より)

新塗装では、胴体後部に記入されていた「THOMAS COOK」の文字も消されている。

コンドル航空は長年ルフトハンザ系列と言うイメージが強く、時代の流れでトーマス・クックと言う外国企業に「身売り」したが、結果的に翻弄されてしまった。

幸い自身の倒産は免れたものの、直後のコロナ禍が追い打ちをかけていて厳しい状況が続いている。

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1-1-19A-Condor_A320-200 D-AICA RETORO.jpg ←(3枚)設立当時のレトロ塗装を施したA320(ウィキペディア英語版より)

しかしドイツでは現在も「リゾートエアライン」としてのイメージが強く、利用者の支持は高く、サービス面でも評価は高い。

ドイツの民間エアラインとしてはルフトハンザに次ぐ古いエアラインでもあり、今後再びルフトハンザグループに復帰する可能性も指摘されているようだ。

実際同社が得意とするリゾート地・観光地へは、ルフトハンザと一定の棲み分けがなされている。

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1-1-19A CONDOR-B767-31B-ER,.jpg ←(2枚)60~70年代のレトロ特別塗装のB767-300ER(ウィキペディア英語版より)

日本への定期便就航はないが、90年代から00年代にかけてチャーター便として飛来したことがある他、台湾線用のB747-400がルフトハンザ便として定期便運航されたこともある。

またヨーロッパでは意外と人気がなかったB767を、ブリティッシュ・エアウェイズとともに長年運用している貴重なエアラインでもある。

この他ファンには人気の高い最大のナローボディ機、B757-300も保有しており長距離線・髙需要路線にはB767と757、域内路線にはA320・321が使われている。

現在コンドル航空はB767-300ERを16機、B757-300を15機、A320が13機、A321を10機保有しているが、このうち自社発注機はB757だけだ。

尚B757-300は、コンドル航空が最初に運航したエアラインである。

1-1-19A CONDOR-B757-330,_D-ABON.jpg ←特別塗装のB757-300(ウィキペディア英語版より)

それにしても同社の塗装の変遷は、正直混乱してしまう。

過渡期の「暫定塗装」を含めても、10種類もある。

その元凶はトーマス・クックが混迷したからだとも言えるが、マークを変更するだけでも大きな費用と時間がかかる。

それをやり過ぎて経営が傾いた例もあり、コンドル航空はよく乗り越えてきたとも言える。

親会社の倒産、続くコロナ禍で情勢は流動的だが、怪鳥コンドルと同じく長生きするエアラインの一つかも知れない。

3月11日 晴れ 12℃

ずっと穏やかで、春を思わせる陽光に溢れている。

昨日は少し風が強かったけれど、今日は収まって日差しを楽しめるようだ。

しかし「あの日」は、まるで真冬の様な寒さだった。

あの日は日中こそ寒くても青空が出ていた。

「昨日」までと何ら変わりなく、いつもの時間が流れていた。

でも前々日、前日に「予兆」はあったのだ。

2日前から連続して地震があり、それも「いつものこと」と気に留める人はいなかっただろう。

それが史上最大・最悪、世界でも4番目となる、未曽有の大災害「東日本大震災」の前奏だったのだ。

2011年3月11日、14:46。

「東北沖」を震源とするM9.0の大地震。

震央は宮城県沖遥か、100キロ先の三陸沖深さ10キロ。

最初はピンポイント地震と思われたが、後から北は岩手県沖、南は茨城県沖まで、実に500キロもの大断層が一気に動いた地震だった。

だから「東北沖」と言うしかないのだ。

宮城県登米市では最大震度7、仙台市内でも最大で6強。

正に「メガ地震」は首都圏でも震度5強を観測し、パニックに陥った。

だが被災地ではインフラが全て壊滅し、被害はもちろん地震の素性さえ知ることができなかった。

余震は絶え間なく続き、本震直後もM7クラスの大地震が何度も発生し、いつしか大きな揺れに感覚がマヒしたかのようになった。

誰もが津波を予想したが、非常用ラジオで大津波警報をがなりたてるものの、様子など全く分からない。

停電被害のない「他の地域」では、津波の来襲を「ライブ」で伝えていたのに、ここでは直接の被災地以外で見た人はいないのである。

日が暮れる頃、突然雪が降り出して気温がグッと下がった。

地震直後私は近所のコンビニに駆け込んだ。

停電で店内は真っ暗だったが、営業していた。

会計は電卓を使っていて、多くの人が行列していた。

でも何の目的で皆来たのか、食料や飲料を確保しようと思ったのか、それでもコンビニではたかが知れている。

私も良く考えたら、なんで行ったのか分からなかった。

とりあえずお菓子とペットボトル、乾電池を買ったと思う。

家に戻ると、ちょうど母が勤め先から帰宅した。

道路も混乱しているだろうから、帰宅は困難だろうと諦めていたのだが、同僚に送ってもらったと言う。

地震後約1時間ぐらいだったから、道路もまだ混乱する前だったようだ。

その後避難所となっている小学校に移動し、3日間滞在した。

日中は家に戻って片付けし、暗くなると避難所へ戻る。

幸い避難所は自家発電機と暖房があり、非常食と飲料水の配給もあったし、次の日からは町内会有志による焚きだしも行われた。

据え付けられたラジオからは、津波が相次いで押し寄せており、海岸部の若林区では畑や田に数百人以上の遺体が散乱しているが、救助隊が近づけない・・と流れていた。

ラジオの前に集まった我々は、誰ひとり言葉を発さなかった。

「この街で、そんな光景があり得るのか・・」と。

県内では10,000人近い人が津波を中心に死亡し、10年経った現在でも1,000人以上の行方不明者がいる。

岩手県や福島県を含めると、死者は20,000人近くに及ぶ。

21世紀の日本で、例え災害だとしても瞬間的にこれだけ多くの人々の命がかき消されるなど、誰が予測しようか。

考えたら私を含め、地域の人々は「被災者」ではなかった。

電気は4日後、水道は6日後、ガスは遅れて21日後に復旧した。

物流の寸断で極端なモノ不足。

インフラが復旧しても、県外からの物流が停止しているため、お店は開けたくても仕入れられないから開けられない。

それでも近所のスーパーは、入場制限・購買制限を行いつつも営業した。

店員さんだって大変なのに、いつもと変わりなく仕事していた。

そう、「いつもと変わらない」ことがどれだけありがたく、心が休まる事かを痛感した。

笑顔で接客する店員さんの姿に、思わず涙かこぼれそうになった。

一方で何気なく使っていたコンビニは、いつまでも再開しなかった。

コンビニのトラックが襲撃された・・などのデマが流れたせいか、どのチェーンも貝のように全てシャッターを閉じたままで、再開したのは1カ月あとだった。

ガソリン不足は深刻だった。

ちょうど高騰している時で、記憶ではレギュラーガソリンで180円以上になっていて、誰もが満タンにせず10~20Lとこまめに入れていた。

それが仇になった。

停電でガソリンスタンドは給油すらできない。

停電が回復しても、今度はガソリン自体が届かない。

仙台港にある製油所は地震と津波で崩壊し、1週間以上火災が続き、市内からさえ黒煙が見えていた。

高速道路は大きな被害を免れていたが、混乱を防止するため国が事実上「封鎖」して、緊急車両だけが許されていた。

その後タンクローリーなどの通行が許されたが、ガソリン不足は2週間程度続いた。

物不足は徐々に解消したが、「福島第二」は重大な問題だった。

情報は錯そうしていて、事故直後には原子炉で「火災が発生しているらしい」と言うことぐらい。

電気が復旧し、テレビが見れるようになってようやく「爆発」したことが分かったのである。

つまり情報が分かるのは他地域であって、被災地では何も分からないのだ。

これが現代災害の実情であり、今も教訓が活かされているとは思えない。

事実この10年の間にも地震や台風、大雨の被害が何度も起きて、その都度被災地の酷い状況が伝えられる。

情報化が進んだのは結構なことだが、どれもインフラを頼ってこその事で、いざ災害が起きると役に立たない。

口先での「防災」、そして「自分の身は自分で守る」と言う言葉が、私には腹立たしい。

もちろん常日頃の防災意識・準備は重要だと思うが、あれほどの大災害で身を守れ、と言われても何ができると言うのだろう。

それが出来たなら、20,000人もの犠牲が出るものか。

穿ち過ぎかもしれないが、犠牲者に対して失礼極まりないと思う。

県内各地では、朝から夜まで様々な追悼行事が行われた。

行政主導の物だけでなく、住民自ら行った所も多いと聞いた。

市内中心部では地震発生時刻にサイレンが鳴り、1分間の黙とうが捧げられた。

誰もが歩みを止めて、「あの日の事を忘れない」と思ったであろうし、震災を知らない新しい住民も一緒に祈ってくれたのだろう。

中には黙とうなど意味がないとか、思い出すのが辛いから嫌だと言う人もいるだろう。

実際そういう意見がSNSで幾つか見かけたが、想いはそれぞれだから止むを得ないとしても、わざわざ世間に匿名で言う事もないと思う。

今でも思い出す。

地震後1週間目だっただろうか、たまたまスーパーに買い物に行っている時に14:46を迎えた。

すると店内放送で「これより1分間の黙とうをささげたいと思います。ご協力お願いします。」と聞こえた。

そして買い物中のほぼ全員が、その場で立ち止まった。

強制など一切されていない。でも動く人はおらず中には涙ぐむ人もいた。

今も思い出すとやり切れない気持ちになる人はたくさんいる。

「頑張ろう」「負けない」・・・そう言われても、辛い気持を拭いさる事は出来ない。

そういう人たちがまだたくさんいることを、決して忘れないことが一番の教訓ではないか、と思う。

震災はまだ終わっていない。忘れてはいけないのではなく、忘れられないだけだ。

改めて犠牲になられた方々に、心から哀悼の意を捧げます。

3月11日の君へ '21

2021年3月11日の君へ。

33歳の誕生日、おめでとうございます。

今年もこの日がやって来ました。

1年は長い様で、本当にあっという間です。

君自身も、歳を追うごとに時間の感じ方が早くなるような気がしているのではないでしょうか。

私には、1年どころか10年さえもあっという間に思えてなりません。

一緒にしては失礼なのだけど、この3月11日は震災から10年目の節目でもあります。

あの日の事は、忘れたくても忘れられないでしょう。

当日の君の事は、私は知りません。

今だから白状しますが、私自身は何の被害もなかったので、君の事が心配でしかたありませんでした。

すぐに君の元へ走って、せめて無事だけは確認したかったし、できる事なら何か手助けしたかったのです。

でもそうできない状況にあったことは、君も分かっていたことでしょう。

震災から何日かあと、良く覚えていませんが1週間ぐらいだったと思います。

たまたま道で、君とすれ違いました。

もちろん君は気付かなかったと思いますが、震災後初めて無事の君の姿を見て心からホッとしました。

あの時の君は23歳の誕生日。

生まれて初めての大震災に、恐怖や不安で心身とも疲れ果てていたのかも知れません。

私は今も、震災と君の事がダブって見えることがあります。

でもあれから10年もの歳月が経ったと思うと、とても不思議な気がしてなりません。

許されるのであれば、あの人君の状況を聞いて見たいと思いますが、10年経ったのであればあまり意味のない事かも知れません。

しかし当時まだ20代前半だった君が、この瞬間33歳と言う立派な大人の年齢に達したと言う事も私には不思議に思える事の一つです。

この10年の間、君はどう変わったのでしょう。

私はいつも感じます。

もちろん考え方や生き方は、大きく変化したかも知れませんが、君の外観(乱暴な言い方ですが)はあの時と良い意味で変わっていないだろうと。

私は君の笑顔が大好きです。

人の笑顔は良いものですが、これまで逢った人の中で、君の笑顔が最も素晴らしいものです。

その思いは、今も全く変わっていません。

「10歳から20歳、20歳から30歳、同じ10年でも中身の変化は全く違う」と言います。

当たり前と言えばそれまでなのですが、今の君なら実感出来るでしょう。

先日知り合いから、こんなことを聞きました。

「今日、今この瞬間のあなたが、人生で最も若い瞬間。」

これも当然の事なのだけれど、なるほど・・と納得しました。

30代、40代、50代だろうと、確かに今の自分が一番若く、明日は1日歳をとっているのです。

そう思うと、今日と言う日が何処かありがたく思えて来るし、年齢の事を気にしても意味がないな・・とも思えて来ます。

君と出会った時は、まだどこか少女の面影が残っていたような気がします。

あれから10年以上経ち、すっかり大人の女性になったことでしょう。

生き方や考え方も、あの時と大きく変わったかも知れません。

でも33歳の君は、今が最も可能性に満ちた時期を迎えつつあると思います。

今君がどこにいるのか、何をしているのか、私は知ることができません。

それでも君と出会った事は、私の人生の宝です。

行き違いになってしまったけれど、君と知り合えたことに感謝しています。

この10年で、世界も大きく変わりました。

あの想像を絶する大災害を経験した私たちは今、「疫病」の脅威に晒されています。

それはあらゆる常識を覆す事になるかも知れず、人々は戸惑っています。

しかし我々が初めてではなく、過去に祖先たちは何度も繰り返し体験しています。

そのことに我々は、気付かなければならないのです。

君はそれができる人です。

何が正しくて、何が誤りなのか。

周りに惑わせられてはいけません。さりとて意地になるのも良くない。

だけど正しいことを見ようと思っていれば、ちゃんと見えるものです。

君のあの笑顔は、正しい笑顔です。

これからもその笑顔を、どうか大切にして下さい。

君にとって、新たな1年の始まりです。

いつも君らしい笑顔を絶やさず、そして幸せな1年でありますように心からお祈りいたします。

改めて誕生日、おめでとうございます。

飛行機ネタ 地味だけど意外と格好良いB737-700(3月8日 晴れ 10℃)

言う事のない青空、快晴に近い。

昨日に引き続き快晴と言うのは、全く意味がないけれど何となく嬉しい。

どこか外へ行きたい!という気分に駆られるが、コロナ禍でもあるし、それ以上に行き先がない。

近くでも散歩しようかとも思ったが、陽光とは裏腹に空気は冷たく、最高気温10℃と冬の気温だ。

窓を開けて空気の入れ替えをしたけれど、入って来る空気はまだ冬の名残が残っており、春はもう少し先だと分かる。

それでも日差し自体は明るく、春が近いことも実感。

ご近所では布団を干したり洗濯物をベランダに干していたが、花粉には注意。

飛散はピークを迎えているそうで、過敏な人は干した布団や洗濯物に付着しているだけで反応するらしい。

街でも鼻水をすすったり、くしゃみをする人を見かける。

コロナのせいでオイオイ・・と思うってしまうから、花粉症の人は余計な気遣いを強いられているかも知れない。

週末は泉中央、ユアスタでサッカーJ1ベガルタ今季初のホーム試合が行われたが、人の流れも増えつつあるように思う。

首都圏では緊急事態宣言が延長されたが、今のところ規制のない宮城県も感染者は増減を繰り返している。

ワクチンの接種が開始され、それが医療従事者に限られても拡大を抑える材料にはなるだろう。

それにしても日本のワクチン事情はお粗末で、先進国の中では最も遅い。

今更ながら、日本の薬品メーカーはなぜ開発しなかったのか不思議だ。

現在日本は予め契約した米英のメーカーから供給を受けていて、国民全員に行き渡る量は確保しているとされるが、どうも「お金」のやり取りに左右されている様な気がする。

この期に及んでも国産ワクチンの話は聴こえておらず、輸入品でカタをつけようとしているように思える。

技術的には日本の製薬メーカーや大学にできないはずはないはずだが、お金と言うよりも政治的理由があるのだろうか。

優先となる高齢者への接種も、春以降。一般国民が行き渡るまでは夏以降になりそうで、オリンピックなどやれるのかと思う。

政府やJOCは「利権」が絡んでいるから、「無観客」でも強行する姿勢のようだが、海外では既に冷めた見方が出ている。

ヨーロッパや南米では「変異種」による拡大が増えつつあり、「ロックダウン」が解除できない状況にある。

日本のメディアも煽るばかりで、現実を反映していないように思う。

アスリートの人たちはさぞかし複雑だと思うが、ワクチンの先が見えていないこの国で「開催します」と言えるのだろうか。

「勇気ある撤退」も、国民全体で考えるべき時ではないかと思う。




夜は星が出ていて綺麗だが、それは冷えると言う事。

放射冷却で寒い。

明日朝の最低気温は-1℃、日中は暖かさを感じても朝晩はまだまだ冬。

コロナがなくとも、体調がついていけなくなる時期でもあり、油断は禁物だ。

この冬は寒い日が多かったこともあって、インスタントの「鍋焼きうどん」にはまっていた。

カップ麺ではなく、アルミの容器に入ったうどん。

うどん自体は真空パックされた「生麺」で、アルミ容器でお湯を沸かしうどんを煮込んで出来上がり。

特売だと100円程度、通常価格だと150円前後とカップ麺寄り若干割高だが、ちゃんとしたしかもアツアツのうどんが食べられる。

メーカーにもよるが天ぷらうどん、きつねうどん、カレーうどん、みそ煮込みうどんなど数種類ある。

ところが春が近づいて来たせいか、スーパーでは仕入れをしなくなったようで入手しにくくなってしまった。

確かに季節商品なのだろうけれど、せめて今月いっぱいぐらいは・・と思う。

最も売れ残っても困るから、早めに「打ち切り」したのかも知れない。

寒いよりこそ簡単で安くて、助かっていたのだけれど。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

日ごと空が明るく、日差しも眩しくなって来ました。

春はそこまで来ている・・・そう思えるようになったと思います。

でも朝晩はまだ冬と同じ。体調管理にはくれぐれも注意して下さい。

君にとって、今度の春はどう迎えるのでしょう。

コロナ禍も終息せず、残念ながら春を満喫できそうにはありませんが、きっと君なりの春を迎える事と思います。

あの春、君はいろいろあって、何の力にもなってあげられない自分が情けなくなったことを思い出します。

あれから10年以上の月日が経ったと思うと、どこか不思議な気もします。

空気も乾燥していますので、喉や鼻などの調子にも気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。


風の音の 遠き吾妹が 着せし衣 たもとの行(くだり) まよひ来にけり(万葉集巻十四 3453 雑歌)





飛行機ネタ。

コロナ禍の影響で、世界中のエアラインがリストラを強いられ、機材や路線を大幅に縮小せざるを得ない状況が続いている。

特に国際線は、国によって事情が違うのでより状況は厳しく、ウェイトの高いエアラインは経営を圧迫されている。

日本のエアラインはまだ頑張っているほうだと思うが、大手2社はこの1年だけで数千億円の赤字を出すなど予断を許さない状況が続く。

コロナ前に計画していた機材計画を、大幅の前倒しや見直しを迫られており、予定外の退役・廃止機材も出始めている。

この中でファンにもあまり注目されず、「風前の灯」になっている機体がいくつかある。

SNSなどを見ていると、急な退役・勢力縮小で注目されるのはB777やB767が多い様だが、「B737-700」もその一つ。

ところがメディアでもSNSでも、注目度が低いのが残念だ。

1-1-18A B737-700 ANA-JA06AN.jpg ←国内線・国際線で運用される全日空のB737-700(ウィキペディア英語版より)

昨年全日空と日本トランスオーシャン航空に残存していた「737クラシック」が全て退役し話題を呼んで、日本籍のB737は「NG」と呼ばれる「新世代737」に統一された。

現在「737NG」を保有・運用するのは全日空、日本航空、日本トランスオーシャン航空、AIR DO、ソラシド・エア、スカイマーク、春秋航空日本の7社。

このうち全日空が700型と800型の2機種、AIR DOが700型のみ、他は全て800型である。

また「現行機種」となるB737MAXは、現時点で全日空が30機発注しているだけで、当分737NGの天下が続く気配である。

「新世代737」は、前世代でベストセラーとなった300~500型の「737クラシック」から発展したシリーズ。

座席数と胴体長の違いで、600~900型まで基本的に4つのバリエーションを持つ。

元々は「737クラシック」の後継機種として計画されたことから、大きさもそれぞれ対応させている。

最も小さい120席級の600型は500型に対応し、700型は中間サイズとして300型に対応する。

1-1-18A B737-700 SOUTHWEST-N785SW.jpg

1-1-18A B737-700 SOUTHWEST-N730SW.jpg ←(2枚)B737-700のローンチカスタマーで最大のユーザー、サウスウエスト航空。上は導入時の旧塗装、下は現行塗装。中古機を含めて現時点でも約480機もの同機を保有している(ウィキペディア英語版より)

800型は、クラシックで最も大きかった400型に相当するが、需要の高まりを見越して400型が150席級だったのに対し、800型では思い切って180席級に拡大させている。

一番最後に開発された900型を除くと、「737クラシック」の更新機材としての役目を持っている。

NGはライバルであるエアバスのA320シリーズに対抗するべく、経済性や環境性を重視した改良が行われた。

それはB737のデビュー以来、小型ナローボディ機として「短距離機」と言う概念が続いていたが、技術の向上でそうした区分が消滅したからだった。

1-1-18A-B737-7GL,_Turkmenistan_Airlines.jpg

1-1-18A-B737-76N_WestJet_C-GTWS,_YYZ.jpg ←(2枚)「激レア」トルクメニスタン航空と、カナダのウエストジェットのB737-700。後者はカナダ最大の700型ユーザー(ウィキペディア英語版より)

主な改良点は主翼を中心として、細かい部分が時代に合わせられたこと。

主翼は複合材を割合が増加し、軽量化した分形状が変化し面積が増大した。

「737クラシック」では、胴体に対して比較的翼幅が短く、硬い主翼を持っていたが、NGでは逆に複合材のおかげで「しなやかさ」を持たせ、乱気流に強い主翼に変わった。

面積が増大したことで揚力も増し、それは結果的に燃費節減にも繋がった。

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1-1-18A B737-700 AIR CHINA-B-5228.jpg ←(2枚)中国国際航空のB737-700。初期生産機にはウィングレットがない(ウィキペディア英語版より)

初期の生産機では翼端はプレーンだったが、その後オプションとして「ブレンディド・ウィングレット」が用意された。

コクピットはクラシックではアナログ計器と併用の「準グラスコクピット」だったが、NGでは全面液晶CRTに変更され、完全なグラスコクピットになった。

この他オプションとして、機長席側にHUDが装備可能となり、旅客機では初めて実用化されて話題になった。

1-1-18A_B737-800_Flight_Deck.jpg ←B737NGのグラスコクピット(ウィキペディア英語版より)

同時に操縦システムの一部がコンピューター化され、エンジンも「FADEC」が装備されて燃費節減に貢献している。

機体コスト抑制の為、操縦システム全体のデジタル化、すなわちフライ・バイ・ワイヤ化は行われていないが、スポイラーがフライ・バイ・ワイヤ方式での作動に変更され、左右別々に作動できるようになりエルロンの働きを持たせている。

エンジンはクラシックと同じくCFMインターナショナル製「CFM-56」エンジンで、選択肢はない。

もちろんクラシックのそれよりも改良された新型とも言えるシリーズで、「CFM-56-7B/20~26」である。

唯一の選択肢は定格出力を選べることだが、一般的には「CFM56-7B-24」が使われている。

上記のように左右の回転数などをコンピューターで解析し、最適な運転を制御するFADECが標準で装備されている。

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1-1-18A B737-700 ANA-JA03AN.jpg ←(2枚)エアー・ニッポンのタイトルを入れた時と、ブランド統一直後タイトルが消えたB737-700(ウィキペディア英語版より)

クラシックでは、大口径の同エンジンを取り付けるのに苦心したが、NGではついに脚を延長・強化することで機体の地上高を引き上げた。

それでもまだ大きいことから、クラシックほどではないものの、若干前にせり出すように取り付けられている。

またローカル運用を考慮してキャビンドア下方にあった収納式ステアは、脚が延長されたことで廃止されている。

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1-1-18A_B737-7FE_Virgin_Australia.jpg ←(3枚)B737-700は最初に六大州を制覇した737NG。エチオピア航空、TAAGアンゴラ航空、ヴァージン・オーストラリア(ウィキペディア英語版より)

エンジン出力の増加と機体重量を引き上げたことから、尾翼も面積を拡大させており、垂直尾翼はフィレット部分が延長され高さも上げられている。

737NGで最初に完成したのは700型で、96年に原形機が初飛行。翌年ローンチカスタマーだったアメリカの大手サウスウエスト航空で就航した。

700型が最初だったのは、クラシックで最も売れたのが300型だったからで、サウスウエスト航空は300機以上の300型を運用していた。

その更新機材として700型を一度に100機以上発注しており、基本型として最初に生産されることになっていた。

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1-1-18A-B737-732,_Delta.jpg ←(2枚)アラスカ航空とデルタ航空のB737-700は少数派で、後者は最近退役した(ウィキペディア英語版より)

700型は尾翼などの形状変更のため、300型に比べて僅かに胴体が長い33.6メートル。

キャビン長はほぼ同じだが、内装材や構造の変更でフロア面積が拡大し、座席数は2クラスで約130席、エコノミークラスだけならば最大で148席設けられる。

日本で最初に737NGを導入したのは全日空で、初号機は03年に受領した。

同社は90年代後半からグループ再編を行っていて、系列子会社だったエアー・ニッポンなどを「運航会社」化してブランドの統一を図っていた。

1-1-18A_B737-700 ANA(JA03AN).jpg ←エアー・ニッポンのタイトルを入れたB737-700(ウィキペディア英語版より)

その一環策として同機の導入が決定し、主にローカル線を担当していたエアー・ニッポンが運用していた500型の後継機種として700型を選択。

45機もの大量発注を行った。

700型は、500型よりも座席数が増えているにもかかわらず、航続距離は約5,000キロと倍増しており、国内線だけでなく近距離国際線にも投入できるパフォーマンスが選ばれた理由であった。

同時に初期導入から10年以上過ぎたA320も、将来的にはB737NGに置き換えて機種の統一も図る計画も盛られていた。

日本初の737NGとして700型は宣伝され、1・2号機はトリトンブルー部分を金色に変えた特別塗装「ゴールドジェット」として納入されて注目を浴びた。

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1-1-18A B737-700 ANA-JA02AN.jpg ←(2枚)日本で最初の737NGとなった全日空のB737-700は、金色の特別塗装「ゴールドジェット」として宣伝された(ウィキペディア英語版より)

更に注目を浴びたのは、2機を「B737-700ER」として発注していたことだ。

ボーイングでは700型をローンチした際に、航続力を活かした軍用型とプライベート機(ビジネス機)のバリエーションを提案していて、全日空は「BBJ」と呼ばれるプライベート機タイプの応用型として「ER」をローンチさせていた。

同機は床下貨物室にオプションのコンテナタイプの増加燃料タンクを最大で9個まで搭載でき、機体重量を引き上げる事ができる。

主翼の燃料タンクも増量させるため、全幅は同じながら800型で使用する構造の主翼に変更し、なんと航続距離は最大で約10,000キロに達する。

全日空では経済発展著しいインドを、新しい市場に求め、新規国際線のターゲットにしていた。

その中でインドの経済中心地であるムンバイが、日本企業の進出が増えていたことから潜在的なビジネス需要があると見込んで同機を投入した。

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1-1-18A ANA_B737-700ER(JA10AN).jpg ←(3枚)世界初のB737-700ERとして就航した全日空の「ANAビジネスジェット」(ウィキペディア英語版より)

東京~ムンバイの距離は約6,700キロもあり、従来ならばB767クラス以上のワイドボディ機でなければ運航できない長距離路線だった。

同社のB737-700ERはスペシャルバージョンで、キャビンは上級クラスのみとしたことも大きな話題となった。

実は導入された2機は、ムンバイ線専用機とされながらも仕様が若干違っていた。

最初に導入された機体は「準ER」と呼べるもので、増加燃料タンクはつけられていない。

キャビンはビジネスクラスと「ビジネス・エコノミー」と名付けられたオリジナル仕様で、全50席。

両クラスとも2-2の4列配置だが、「ビジネス・エコノミー」は前後のシートピッチが狭い。

続く2号機は完全な「ER」仕様で、オールビジネスのモノクラス38席と言う豪華なキャビンがしつらえていた。

当初は中部・関空から中国線に投入されたが、その後ムンバイ線にも投入されるようになった。

ムンバイ線はB737、と言うよりも双発ナローボディ機による定期路線としては「世界最長」であった。

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1-1-18A B737-700ER ANA JA13AN.jpg ←(2枚)2機導入されたB737-700ERのうち2号機となった「JA13AN」は、10,000キロに及ぶ航続力を持つ「特注仕様」(ウィキペディア英語版より)

同時にこれは、737クラスでも10時間以内の長距離線でも運用できると言う証明にもなり、エアラインにとっては運航コストの大幅な削減の起爆剤にもなったのである。

700型では、サウスウエスト航空が米西海岸とハワイを結ぶ直行便に投入し、その運航距離は伸びることになる。

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1-1-18A B737-700 Turkish_Airlines,_TC-JKO.jpg ←(2枚)ジョージア、エア・ゼナとターキッシュ・エアラインズのB737-700。後者は少数派で、現在は国内エアラインにリースされている(ウィキペディア英語版より)

全日空の700ERは、胴体側面に大きく「ANA BUIJINESSJET」と書きいれた特別塗装でアピールしたが、皮肉にも需要が高まり同機では対処できなくなってB767に変更されてしまった。

その後はしばらく中国線に戻って運航されていたが、融通性が悪くなりキャビンはビジネスと通常のエコノミークラスの2クラスに変更。

塗装も通常塗装に戻されたが、「中身」他の機体と大きく違う事もあって海外に売却・退役してしまった。

1-1-18A B737-781ER ANA-_JA10AN.jpg ←通常塗装に戻されたB737-700ER「JA10AN」。キャビンも他の700型と同じに改修されていた(ウィキペディア英語版より)

また45機発注していたが、700型の導入はERを含めて18機に留まり、残りの発注分は800型に変更された。

日本航空は全日空より後にNGを導入したが、全て800型だった。

座席数が多く、運用の柔軟性は700型よりも上であることで、全日空も当初予定していなかった800型の導入に傾いた。

16機になった700型は、数機が2クラス制の国際線機材、残りが普通席のみの国内線機材として運用された。

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1-1-18-B737-7V3,_Copa_Airlines.jpg ←(2枚)中国南方航空と、パナマ、コパ航空のB737-700(ウィキペディア英語版より)

当初は再編に伴って、グループ内の運航担当会社となったエアー・ニッポンが同機を担当していた。

だがさらなる再編で、各運航会社が「ANAウィングス」に統合されると、700型の仕様も統合され、国内線の「プレミアムクラス」が設定されるとともに、同じ仕様で近距離国際線にも運用されるようになった。

しかし800型が充足すると、いつしか700型は「半端」な存在と見られるようになったのか、10年代になるとAIR DOに「出向」するようになる。

AIR DOは経営不振に陥って、全日空と提携関係を持ち、自社便の他全日空とのコードシェア運航を行う事で、B737-500をリースしていたが、700型と交替させた。

半数の700型がAIR DOに移籍し、全日空の700型は少数派になってしまった。

1-1-18A_B737-700_ADO JA14AN.jpg ←リースされてAIR DOの主力機になっているB737-700(ウィキペディア英語版より)

コロナ禍の影響もあり、全日空では700型の退役を予定しており、現在は数機を残すのみとなってしまった。

そうなるとAIR DO機はどうなるのか・・と言う問題も出てきそう。

機齢自体はまだ若いので、運用には差し支えないと思われるが、同社の経営状況も決して芳しいものではない。

今年になって幹線用の6機のB767のうち、同社が創設期に自社導入した記念すべき1・2号機が相次いで退役している。

B737も9機体制が続いていたが、1機を全日空に返却しており8機体制になっている。

整備コストを考えると、AIR DOだけ同機を保有するのはそぐわなくなる可能性があり、再び800型をリースすると言う方向も出て来るかも知れない。

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1-1-18A B737-724,_United_Airlines.jpg ←(2枚)700型を大量に導入したコンチネンタル航空機は、統合後ユナイテッド航空に引き継がれた。グアムなど日本~ミクロネシア線にも投入され、日本各地に唯一定期便として就航していたB737-700(ウィキペディア英語版より)

700型は1,128機生産されたが、これは800型の1/3以下である。

旅客機の他プライベート機の「BBJ」が120機、軍用型が約40機ほど生産されている。

軍用機型では旅客機と同じ仕様の人員輸送型の他、胴体背部に大型のレーダーを搭載した早期警戒機「AEW&C」が含まれる。

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1-1-18A B737-700 USAF_C-40C_.jpg ←B737-700の軍用型、アメリカ海軍のC-40Aと空軍のC-40C(ウィキペディア英語版より)

旅客機では尚8割以上が現役にあるが、大半がアメリカのサウスウエスト航空が保有する。

同社は現時点でも約480機もの700型を保有しており、余剰となった各国から中古でも買い集めている。

なのでエアライン別としては減勢傾向にあり、座席数が多く融通の効く800型にシフトするエアラインが多い。

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1-1-18A B737-700-KLM,_PH-BGU.jpg ←(2枚)SAS、ルーマニア・タロム航空とKLMのB737-700。後者はヨーロッパで最も多くの700型を保有している(ウィキペディア英語版より)

日本でも800型に見慣れているので、700型は一瞬判別がしにくく、800型にしてはちょっと「寸詰まり」・・・?と勘違いしてしまいそう。

実際には翼幅が同じであることで、700型は全長よりも翼幅の方が大きい外観を持つ。

いかにも飛行性能が良さそうなスタイルで、逆に800型の方がアンバランスに見えなくもない。

ただ140席級と言うのは半端な事も確かで、00年代になるとリージョナル機が拡大して霞んでしまった感は否めない。

事実70~90席級が常識だったリージョナル機は、性能の向上とともに肥大化し、100席を超えてついには120~130席級が標準になりつつある。

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1-1-18A_B737-700 ANA (JA03AN).jpg ←(3枚)バランスのとれた形状を持つB737-700。全日空では残すところ僅か数機になってしまった(ウィキペディア英語版より)

737NGでは、最小の600型が同様の理由で全く売れず早々に「カタログ落ち」してしまった。

700型は当初こそ売れていたが、リージョナル機の進化が目立ち始めた10年代になると販売は不振になった。

だが800型に比べて航続力が大きいと言う「特技」もあるため、運用によってはまだまだ有効性はあると言って良い様に思う。

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1-1-18A-B737-700_AEW&C Wedgetail,_Royal_Australian_Air_Force.jpg ←(2枚)オーストラリア空軍が運用するB737-700BBJと早期警戒機AEW&C(ウィキペディア英語版より)

また新しいナローボディ機の可能性を証明したのは他ならぬ型であり、全日空だけの運用ではあったが「700ER」の功績は大きい。

乗客にとっては賛否が分かれるだろうが、数千キロの路線でも直行できる性能はダウンサイジングによる効率化を促進させたことになるのだ。

このままだと日本の700型は、ひっそりとフェーズアウトしてしまう可能性もあり、ファンとしては今一度功績を確認しておきたいところである。

地味故に、その存在性が薄れ気付けば「絶滅寸前」。

勝手だけど800型よりも無駄のないスタイルが格好良い・・・今更ながらそう思うのである。

飛行機ネタ 熟成されつつあるA321は格好良い(3月5日 晴れのち曇り 15℃)


今日は二十四節気の「啓蟄」。

冬籠りしていた虫が、暖かさに目覚めて土の上に顔を出す頃・・という意味だが、まさにその通りの陽気に。

最高気温15℃は4月中旬並みで、春を感じさせる1日だった。

だが午後以降は曇り空になり、夕方以降はぽつぽつと小雨が降る時間帯もあった。

今日は私にしては珍しくスケジュールが「詰まって」いて、行ったり来たり。

予報で暖かくなると言っていたので、思い切って春物の上着に変えて出かけたが正解だった。

気温差が大きいので、身体が暖かさに慣れておらず、あちこち歩くと何となく汗ばんだ。

お店も季節がら「暖房」なので、少々暑いくらい。

「三寒四温」とはこのことで、今後も暖かい日と寒い日が交互に訪れそう。

このまま春に・・と思いたいが、3月はまだ始まったばかり。油断は禁物だ。

久し振りに墓参りにも行ったのだが、帰りにJRに乗ろうとしたら事故の影響で運転見合わせ中。

結局地下鉄駅までの約3キロ歩くハメになってしまったが、冬の間墓参りをさぼっていたので安心した。

本当はお彼岸の時に行けばよいのだろうけれど、その時に行けるとは限らないので。

疲れたけれど、何とかスケジュールをこなして気分よく過ごせた1日ではあった。

今週始め、公立高校では卒業式があり、今日は入学試験があったと言う。

帰りにファミレスに寄ったら、金曜日と言う事もあって満席に近いほど混んでいた。

卒業式を終えた高校生だろうか、周囲には若い人が多かった。

コロナ禍でさぞかし苦労が多いと思うが、新しい人生の「門出」の季節。

一方で悲しい事も多いのが3月で、11日には震災10周年を迎える。

母の命日も3月、私の誕生日も3月。

3月は喜びと悲しみが、複雑に交差する(誕生日は喜びではないか・笑)。

あまり言いたくないけれど、今日は悲惨な事故も見た。

私自身は気分よく過ごせたつもりだが、世間は悲しみもあった。

そう思うと、どこかやるせない気持ちにもなる。




21時過ぎに帰宅したが、外はパラパラ小雨が。

濡れるほどではなかったが、夕方以降時々雨粒が落ちていた。

それでも寒さはなく、歩くのは楽だ。

最も今日はなんだかんだで、トータル7~8キロは歩いた事で、後で膝や腰が痛くなってきた。

外にいる時はなんでもなかったのに、さあ寝ようかと横になった途端だ。

気の緩み・・と言う事だろうか。

コロナ感染者は一進一退と言う感じで、首都圏の緊急事態宣言は2週間の延長が決まった。

宮城県でも2月は新規感染者が0~一桁と言う日もあったが、現在は10~20人前後。

卒業生など、一足早く春休みになった学生や暖かさで外出する人が増えると、まだ拡大する可能性も指摘されている。

ファミレスでは、食べる時以外会話はマスク・・と言うグループが殆どで、良くも悪くも「WITH コロナ」が浸透していると言う事か。

でも「コロナ後」はどうなるのだろう、とも思う。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

君は花粉症ではないですか?

花粉はピークを迎えているそうで、空気も乾燥しているので注意して下さい。

明日も暖かくなりそうですが、その後はまた寒くなるそうです。

体調管理には、充分気をつけて下さい。

今頃の季節になると、奈良の事を思い出します。

初めて奈良に行ったのがちょうど今頃で、君とたくさん話をしました。

あれからもう10年以上の月日が経ちますが、つい最近の事のような気がします。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



霞たつ 春のはじめを 今日のごと 見むと思へば 楽しとぞ思ふ(万葉集巻二十 4500 大伴宿禰池主)









飛行機ネタ。

先日プレスリリースの一つに、ドイツ・ハンブルグのエアバス工場で、ピーチ(ピーチ・アビエーション)向けと思われるA321neoLRが出場した画像があった。

機体にはまだエンジンが取り付けられておらず、塗装もされていない状態だが尾翼にはマゼンタ塗装と共に「Peach」の文字が記入されている。

ほぼピーチ向けであることは間違いないと思われるが、納入時期の状況により機体が入れ替わることもある。

今のところ同社向け初号機として組み立てているようである。

本来20年度中に導入が予定されていた機体だが、コロナ禍の影響で遅れているとのことである。

同社では昨年末、一足先にA320neoを受領し国内線で運用を開始しているが、A321neoは国際線用機材としての導入のため遅れているのだろう。

ただ組み立てが進んでいる所を見ると、受領後は状況を見つつ国内線での暫定運用もあるかも知れない。

A320neoシリーズは、全日空に続いて国内2社め。加えて航続距離延伸型のLRは国内初の導入となる。

全日空はA320・321ともエンジンをギアードファンエンジンである「PW1100G」を選択したが、ピーチは「LEAP1-A」を採用した。

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1-1-17A A321NEO LR PEACH.jpg ←(2枚)ピーチでデビューしたA320neoと、間もなく完成予定のA321neoLR。同社は「LEAP1-A」エンジンを選択し、日本初の同エンジン装備機でもある(©AIRBUS)

同社は現在の主力機であるA320の更新機材としてA320neoを発注していたが、そのうち一部をA321neoLRに変更している。

コロナ禍で世界のエアラインは先の見えないトンネルに突入し、エアバスもボーイングも前代未聞の苦境に立たされている。

しかしエアバスでは、ナローボディ機のA320シリーズは減産しながらも生産は継続されており、エアラインへの納入も行われている。

2度に渡る事故で、生産停止に追い込まれたライバルのB737MAXとは対照的とも言える状態だ。

コロナ禍を省いて見ると、エアバス社の主力商品でもあるA320シリーズは、エンジンを換装した「neo」シリーズに移行しつつあるが、それ以前に受注した「ceo(current engine option)」の生産も並行して行われている。

最も生産数が多いのは基本モデルとなる180席級のA320だが、近年徐々に売り上げを伸ばしつつあるのがA321である。

同シリーズは座席数の違いで、4つのバリエーションを持ち、最も小さいモデルが110席級のA318、次が140席級のA319、そして180席級のA320、そして最大のモデルが200席級のA321がある。

このうち最小のA318は人気がなく、約60機生産されただけで「neo」化前にカタログから外されていて、実質的には319~321の3タイプが生産され「neo」化されている。

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1-1-17A A321-131_JA102A.jpg ←(2枚)エンジンの違いや座席数のミスマッチで10年に満たず退役した全日空のA321。最初に導入された機体は、日本各地の風景を描いた特別塗装で運航された(ウィキペディア英語版より)

A321の原形機の完成は93年で、A320に遅れる事4年のことだったが、同シリーズの計画段階から胴体を延長したモデルは計画されていた。

当時200席級のナローボディ機は、ボーイング757が登場していて欧米のエアラインを中心に人気があった。

同機は200席級で、B727の後継機として開発された機体。

ファンならご存知のように、初のハイテク機となったB767と同じメカニズムを持つ旅客機でもある。

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1-1-17A A321NEO URAL-VP-BOP.jpg ←(2枚)ウラル航空のA321「ceo」と「neo」(ウィキペディア英語版より)

B757は北米大陸横断や、仮美諸国などの路線の直行便として最適な性能を持っていて、ナローボディ双発機ながら6,000キロ以上の航続力を持っていた。

しかしエアバスのお膝元であるヨーロッパでは、ナローボディ機での長い航続力は必要と考えられず、それはワイドボディ機のA300やA310の範疇と言う見方が強かった。

それでも大手リース会社やルフトハンザ、スイス航空(現スイスインターナショナル)が輸送力重視型として興味を示し、生産が決定したのである。

だがA319・320は順調に販売が伸びたのに対し、A321はパッとしなかった。

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1-1-17A A321NEO_Lufthansa_D-AIEB.jpg ←(3枚)新旧塗装のルフトハンザのA321と、最新のA321neo(ウィキペディア英語版より)

ルフトハンザは初就航した頃には200機近い受注を得たものの、320の1/3程度と販売は振るわなかった。

A321は、320の胴体を主翼の前後合わせて約7メートル延長し、B757-200に比べて1.8メートルほど短い。

当初はルフトハンザのように、320と同格で座席数が多めと言うコンセプトから、航続距離は最大で5,000キロ弱程度で考えられていた。

胴体の延長に合わせ、離着陸時の仰角が319・320より浅くなることから、主翼は再設計した専用のものに置き換えられた。

319・320のフラップは、1枚型のシングルスロテッドだったが、321ではフラップの面積を増やすとともにダブルスロテッドタイプに変更。

同時に翼弦長を伸ばして、主翼の面積が増大した。

胴体は延長した以外、尾翼は320と同じである。

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1-1-17A_A321-131,_Lufthansa.jpg ←(2枚)胴体の延長に合わせて再設計されたA321の主翼(ウィキペディア英語版より)

エンジンも320と同じくCFMインターナショナル製「CFM-56」とインターナショナル・エアロ・エンジンズ製「V2500」が用意されているが、機体重量が大きいので、エンジンの定格出力も上げられている。

操縦システムも共通のフライ・バイ・ワイヤシステムを装備している為、機体形状の変化はソフトウェアの変更で対応できた。

フライ・バイ・ワイヤ式の操縦システムは、1/1000秒以下の単位で機体の姿勢や速度、高度をコンピューターが計算し、ミリ単位で動翼を動かし機体姿勢を制御する。

通常のワイヤー・ロッド式、油圧アクチェーター式では、あくまで機械的な操作で操縦されるが、フライ・バイ・ワイヤ式ではパイロットの操縦は「入力操作」となる。

例えば左に旋回しようと思った時、希望する角度・方向に飛ぶよう「指示」すれば、最適の状態で機体は旋回する。

逆に言えば、機体が空力的に「安定」した形状だとまっすぐ飛ぼうとする習性を保持するが、フライ・バイ・ワイヤ機では真逆の不安定な形状の方が運動性に優れ、柔和な飛行が可能になる。

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1-1-17A A321 ALITALIA-EI-IXH_at_MUC.jpg ←(2枚)ギリシア・エーゲ航空とアリタリア・イタリア航空のA321。ヨーロッパメジャーでは、域内幹線の主力として運用されている(ウィキペディア英語版より)

世界で同システムを初めて実用化したのはF-16戦闘機だが、グライダーのように安定した滑空は出来ない形状を持つ。

世界初のステルス機「F-117」に至っては、物理的に飛ぶことすら困難な形状を持つにもかかわらず、フライ・バイ・ワイヤによって見かけ以上に優れた飛行性能を持っている。

旅客機に激しい運動性能は必要ないが、321のように胴体を延長したり、重量を増加させた場合でも、極論を言えば何の手直しをせずともコンピューターが修正し制御することができる。

1-1-17A_A321-231,_Vietnam_Airlines.jpg ←日本線にも投入されるベトナム航空のA321(ウィキペディア英語版より)

それでも主翼を変更したのは、将来性を見込んでのことであった。

エアバスでは最初こそA321は、短距離機的な位置づけをしていたが、航続力の延伸も必要になると見て主翼を改変したのである。

事実初期の生産型となるA321-100は90機の生産に終わり、直後に燃料搭載量と機体重量を増やして、航続距離を最大で6,500キロ程度に伸ばした200型に変更された。

既存の100型も、200型仕様に変更出来たため、殆どの100型は後に200型仕様に改修されている。

翼端には矢じり型のウィングチップが標準で装備されるが、00年代以降の生産機にはオプションとしてシャークレットが装着できる他、ウィングチップから改修も出来る。

1-1-17A A321-Iran_Air,_EP-IFA.jpg ←シャークレットをつけたイラン国営航空のA321(ウィキペディア英語版より)

コクピットはシリーズ共通で、パイロットのライセンスも共通化したことで、需要に合わせて319・320・321を運用する事も可能になった。

尚初期の機体では、計器盤の6枚のCRTはブラウン管だったが、後半の生産機は液晶パネルに変更され、ブラウン管の機体も交換できる。

最初は地味な存在の321だったが、00年代後半になると急に受注が増加した。

これはライバルとなるB757が老朽化したことと、ボーイングが生産を中止した事、航空業界の多様化で機材のダウンサイジングが活発になったからであった。

デビューして10年以上経ってから脚光を浴び始めると言う、いわば「遅咲き」とも言えた。

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1-1-17A A321-Delta_Air_Lines,_N330DX.jpg ←(2枚)エジプト航空とデルタ航空のA321(ウィキペディア英語版より)

特にLCCが流行すると、メジャーは対抗策としてダウンサイジングしつつ上級クラスの併設やフルサービスで差別化を図る必要性が生まれ、キャビンに余裕のある、321に注目が集まり始めたのだった。

座席数と航続距離はB757より若干劣ったものの、ほぼ同格と見られるようになり、2クラスでも200席以上設けられる事は重要なファクターになっていった。

日本では90年代初頭に、全日空が初めてA320を導入したが、98年にA321も国内で初めて導入した。

同社では老朽化で退役が予定されていたB767-200の後継機と位置付けていたが、同社のナローボディ機では初めて「スーパーシート」を含む2クラス制が導入された。

その為普通席のみだったB767-200に比べて、40席ほど座席数が減少したが、その分便数を増やす事で対処できると考えられた。

ところが同社ではA320はCFM-56エンジンだったのに対し、A321には「V2500」を採用したことから共通性のメリットを活かしきれなかった。

パイロットは共通で操縦できたが、整備は「別口」になってしまったのである。

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1-1-17A A321NEO ANA-JA132A.jpg ←(2枚)一度退役した全日空のA321は、neo化で復活した(ウィキペディア英語版より)

故に同機は僅か10年で全機が退役してしまったのだが、実際には当時の状況では些か半端な大きさの機体と認識されたのも原因だった。

一方海外では評価が高まり続け、困難だと思われていたアメリカで大手だったUSエアウェイズがB757の後継機としてA321を発注したことで、市場が開拓された。

これは200型が開発されたことで大陸横断が可能になったことと、CFM-56/V2500エンジンとも洋上飛行規制「ETOPS」の180分がクリアされた事が大きかった。

200型と「ETOPS180」の組み合わせは、同機の融通性をより高めることになった。

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1-1-17A A321NEO-STARLUX_Airlines_ECONOMY_B-58203.jpg ←(2枚)大量発注で機数を増やしつつある全日空のA321neoとキャビン。PW1100Gエンジンの初号機は全日空機だった(ウィキペディア英語版より)

そして10年代になると、エンジンを換装した「neo」シリーズが計画され、16年に「A321neo」が完成している。

A321の評価が上がったのは、時代の流れによる所が大きかったが、大型化が多目的性にマッチしていたことだろう。

A320シリーズはエアバスが初めて開発したナローボディ機で、それまではアメリカのボーイング737とマクドネルダグラスのDC-9/MD-80が市場を寡占していた。

そこに「0」からスタートしたエアバスは、将来性を特に重視して、ライバルとなる機体を「反面教師」にした。

最も大きかったのは胴体で、断面は真円形に近く内部はワイドボディ機と同じく完全な2層構造にした。

B737やDC-9/MD-80は、「短距離機」として作られていたため、床下貨物室は小さかった。

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1-1-17A A321CEO ANA JA113A.jpg ←(2枚)neoの納入が遅れることから、リースで導入された全日空の「ceo」。最初の導入機と違ってシャークレットつき(ウィキペディア英語版より)

エアバスは胴体を太く丸くすることで、床下貨物室の容積を大きくし、航空コンテナの搭載を可能にしたほか、後部の貨物室は燃料タンクに変更出来るようにしてあった。

この構造から主翼は胴体の中間に付ける「中翼式」になり、その分脚が長くなった。

アメリカの2機種は、ローカル空港での運用を考慮してできるだけ地上高を低くしていたが、エアバスは時代に変化で殆どの空港で整備が充実し始めていたことからそのような配慮を思い切って省略した。

中翼は、その中央部分に燃料タンクを増設できるメリットも持っていた。

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1-1-17A A321 ANA JA104A.jpg ←(2枚)美しいラインを持つA321(ウィキペディア英語版より)

しかもフライ・バイ・ワイヤ機だから、そうしたオプション変更は操縦系統のワイヤーやロッドを気にすることがなかった。

当然同システムは、動翼までは「電気コード」だけで結ばれているから重量軽減にも大きく貢献しており、その分搭載物に振り分けられるのである。

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1-1-17A A321NEO-Air_New_Zealand_ZK-NNC.jpg ←(2枚)大手メジャーが続々導入するA321neo。ブリティッシュ・エアウェイズとニュージーランド航空(ウィキペディア英語版より)

特にA321は容積が大きいため、燃料と貨物を多く搭載する中距離には最適の機体と見做されるようになったのである。

それがじわじわとセールスを伸ばし、「neo」では更に進化することになる。

基本的に「neo」前のA321のバリエーションは初期の100型と200型だけで、先に書いたように200型に改修した100型が多い。

にもかかわらず「単一機種」で、15年以上も生産が継続されている。

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1-1-17A A321NEO JETBLUE-N_9054.jpg ←(2枚)ジェットブルーのA321とA321neo。同社の機体はアメリカ国内で生産される(ウィキペディア英語版より)

10年代以降は、ウィングレットの装着の他、キャビン内装のモデルチェンジが行われて、オーバーヘッドストウェッジの変更やLED照明など、B737と同じような改修が行われているが、基本的にはオリジナルのままだ。

ようやく変わったのが「neo」であり、同機にとっては一つの「ハイエンドモデル」とでも言える機体に成長した。

100・200型「ceo」は約1,800機生産されたが、「neo」では現時点で3,500機以上の受注を得ている。

A320には及ばないものの、「ceo」の倍近くに迫っており、今後320に追いつく可能性もあるほどの勢いだ。

「ceo」と違うのは、LCCの発注も多いことにある。

1-1-17A_A321-200neo_Wizz_Air.jpg ←ハンガリーのLCC、WIZZで導入が始まったA321neo(ウィキペディア英語版より)

LCCは格安運賃が大前提だから、できる限り座席を埋める必要がある。

採算性を考えると180席前後のナローボディ機が手ごろと言う事で、LCCはA320かB737-800が主流なのはそのためだ。

A321の場合、高密度座席配置ならば最大で220席まで設けられるが、「neo」では「キャビン・フレックス」と呼ばれるオプションが用意されており、非常口の数を選択できる為、最大で230席まで増やされている。

しかしLCCだと、標準が180席とすると50席も多く、その分販売努力が必要となる。

それでも同機を選ぶLCCが増えているのは、運航コストが優れていると言う事の他に、ビジネスクラスなど上級クラスの需要も見込めるからだ。

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1-1-17A A321NEO-STARLUX_Airlines_ECONOMY_B-58203.jpg ←(3枚)日本にも就航したばかり、台湾の新興エアライン、スターラックスのA321neoのビジネスクラスとエコノミークラスのキャビン(ウィキペディア英語版より)

フルサービスキャリアであれば、2クラスで180席前後が標準となるが、LCCの2クラスならば200席でも可能である。

アメリカン航空は200機以上と最もA321を多く保有するエアラインだが、元々は統合したUSエアウェイズが導入した機体を継承していた。

しかしその融通性を認めて、新たに多数の同機を購入した他、最近では大陸横断便で運用する機体をファーストクラスを含む3クラス制に変更した。

ナローボディ機としては初の試みで、利幅の大きい上級クラスの顧客を呼び込める機体になっている。

1-1-17A_A321-231(w)_American_Airlines.jpg ←A321最大のユーザー、アメリカン航空。大陸横断便には3クラスの機体が運用される(ウィキペディア英語版より)

19年には航続距離を約7,500キロ程度まで延伸した「LR」がデビューし、更に航続力を伸ばした「XLR」も間もなくデビューする。

「XLR」では約8,000キロ前後まで延伸されており、仮に日本からだとハワイやオーストラリアまで範疇に入ってしまう。

ライバルとなる「B737MAX10」では、座席数こそ僅かな差でしかないが、航続距離は約6,500キロ程度に留まる。

機体の最大離陸重量を比較すると、A321neoの方が10トン近くも大きく、長距離飛行と言う点では明らかにA321の方が上だ。

「neoLR」では、アイルランドのフラッグキャリア、エア・リンガスがダブリン~ニューヨーク線、フランスの新興エアライン「ラ・コンパーニュ」が、パリ・オルリー~ニューヨーク線で既に大西洋横断直行便に投入していて、同機の実力を十二分に発揮している。

1-1-17A A321NEO-LR-Aer_Lingus.jpg ←最初に営業運航を開始したエア・リンガスのA321neoLR(ウィキペディア英語版より)

デビュー当時、A321は何となく「間延び」した印象があって、あまり格好良く思えない旅客機だった。

B737は、胴体断面が「逆卵型」をしているので、シュッとしたスマートなイメージを持つが、A320は全体的に丸みを帯びている。

これは胴体断面が真円形だからだが、A320ぐらいが格好良く見えるちょうど良いサイズに思えていた。

胴体の短いA319になると、逆にちょっとぽっちゃりした印象になるが、A321だと語弊があるけれど「胴長短足」のように見えてしまう。

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1-1-17A A321NEO-LR-La_Compagnie_F-HBUZ.jpg ←(3枚)全面メタリックブルーと言う強烈なデザインを持つフランス、ラ・コンパニーのA321neoLRは、オールビジネスクラスでパリ~ニューヨーク間を直行する(ウィキペディア英語版より)

あくまで印象なのだけれど、最初はそう感じた。

しかし時が経って見慣れて来ると、なぜそう思ったのか不思議なくらい、スマートに見えて来てしまう。

そして次第に機数を増やす「neo」は、大口径のエンジンが不釣り合いではなく、逞しく見える。

引きあいに出して申し訳ないけれど、同じエンジンを持つB737MAXと違って無理さがない。

同じ「LEAP1」エンジンにあって、A321neoのそれは一回り口径が大きいにも関わらず。

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1-1-17AA321NEO_CFM_LEAP-1A32_Engine_.jpg ←(2枚)A321neoが装備する「PW1100G」(上)と「LEAP1-A」エンジン(ウィキペディア英語版より)

全日空はA321を一度短期間で退役させ、A320は老朽化とともにB737に交替することにしていた。

ところがA320が退役する前に、突然方針を転換し、「neo」シリーズを導入することに決定した。

現在全日空はA320neoと321neoを保有し、その数は20機に迫っている。

320は主に近距離国際線向けだが、A321neoは国内線用。

発注時、321neoの納入が遅れることから、「ceo」をリース導入している。

「neo」が納入され始めたことで、順次返却・退役しつつあるが、98年導入機と違いシャークレットつきの「ceo」だ。

ファンとして「レア機」的だったA321が再び復活し、「neo」として進化して日本に戻って来た事は喜ばしい限りである。

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1-1-17A A321NEO_Air_Transat.jpg ←(2枚)アラスカ航空と、カナダ、エア・トランザットのA321neo。アラスカ航空機は統合したヴァージン・アメリカが発注した機体。最近エア・カナダに統合されたエア・トランザットは、航続力を活かし太平洋岸とカリブ海を結ぶ路線に投入している(ウィキペディア英語版より)

現時点で「ceo」は約1,700機が現役にあり、生産数の9割以上が残存している他、「neo」も既に450機程度が運航されている。

321自体はもう30年選手のベテランであるが、「neo」が就航し手からはまだ数年。

今後少なくとも、ceoとともに2~30年世界中の空を飛ぶことになるに違いない。

モノクラス、LCC用の高密度配置、そして3クラスまで、これだけ多様なキャビンアレンジメントを持つ旅客機は当然ワイドボディ機だけで、最新のB787やA350では未だ前例がない。

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1-1-17A A321NEOCHINASOUTHERN.jpg ←(2枚)国内生産される中国国際航空と中国南方航空のA321neo(ウィキペディア英語版より)

それをナローボディ機であるA321が「やってのける」のは、同機の融通性がいかに優れている事かの現れである。

そう思うと、よりA321がスマートで格好良く、頼りになるヤツ・・・とも思えて来るのだ。

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1-1-17A A321NEO-S7_Airlines,_VQ-BDI.jpg ←(2枚)「新しいもの好き」のターキッシュ・エアラインズとS7航空は、B737MAXも保有している(ウィキペディア英語版より)

日本では今のところ全日空だけの運用だが、先に書いたように「ピーチ」が間もなく日本初の「neoLR」を導入すれば2社目。

コロナ禍で、どのエアラインも新機材を導入する余裕はない状況にあるが、だからこそ短距離から「長距離」までこなせるA321は、これからの時代を築く手本となるかも知れない。

尚A321は、ドイツ・ハンブルグにあるエアバス工場で生産されている。

エアバス機は各地でパーツが生産され、最終組み立て工場で完成されるが、A320はエアバス本社があるフランス・トゥールーズで最終組み立てを行う。

1-1-17A-A321_final_assembly.jpg ←ドイツ・ハンブルグのエアバス工場で生産されるA321(ウィキペディア英語版より)

この他アメリカ向けと中国向けの一部は、それぞれ現地工場(アラバマ州モービル、天津)で生産されるが国外には輸出されない。

その為大半のA321は、登録上は「ドイツ機」、A320は「フランス機」として登録されている。

古代史探偵A 聖武天皇の願い(3月2日 曇り時々雨 16℃)

低気圧の通過で、冴えない空模様。

雨は断続的ながら小雨が主体で、曇りの時間が多かった。

しかし未明と、前線が通過した夕方を中心に強風が吹き、鉄道などは運休や遅延が出た。

低気圧に向かって暖かい空気が流れ込んだため、気温は上昇したが、日差しはまったくなし。

暖かいと言うよりも、どこか生ぬるい空気を感じたに過ぎなかった。

低気圧と前線が通過した夕方以降は、急に気温が下がり始め寒さが戻った。

3月になって、季節は「三寒四温」を迎えるころだが、その分上下差が激しく身体に堪える。

低気圧の中心が通過した北海道では、大雪・吹雪になって終日交通障害が続いたと言う。

札幌市では、雪が融けかかった道路が再び凍結し「ブラックバーン」状態になってスリップ事故が多発した。

ブラックバーンとは、濡れた路面が気温の低下で凍結した状態のことで、仙台ではよく見られる光景だ。

特に暗い時間は、濡れているのか凍っているのか一瞬での判断は困難だ。

最も確実なのは、窓を開けてタイヤの音を聞き分けること。

濡れているならばシャーッと水を切る音が出るが、凍っていれば無音だ。

とは言え普通に走っていて、いちいち確認できるとは限らないから実に厄介だ。

北海道の冬は「根雪」は基本だから、道路は真っ白。

その中で圧雪状態だったり氷の状態もあるが、夜間でも比較的見えやすい。

しかし「黒い」路面では、どう見ても判断は難しく、滑って初めて気付くと言う事も良くあることだ。

今後雪から雨に変わることも増えて来るだろうが、氷点下の気温は充分ありうるのでどこでもブラックバーンには注意。

車だけでなく、徒歩の人も思わず転倒して怪我することもあるから油断できない。

3月だからこそ、まだ春とは言えず、寒さも続く。

この冬はいつも以上に寒く雪も多かったから、本格的な春の訪れは遅い気がする。




3月になって、テレビでは震災関係の番組やCMが増えた。

今年は10年と言う大きな節目と言われるが、もう10年なのかまだ10年なのか正直分からない。

2月13日の地震で、あの日の記憶が恐怖として甦った人も多かっただろう。

10年間で数えきれない地震があったが、確かに震災を思い出して怖くなった。

幸い停電や断水はなかったし、地域の被害はなく影響もなかったが、我が家では陶器でできた置物が一つだけ落下して破損した。

今後もこうした災害は必ず起こるものと考え、記憶に蓋をしてはいけないと思う。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

今日は少し暖かかったですが、明日はまた寒くなりそうです。

風も強くなりそうですので、外出の際には注意して下さい。

寒暖差も続きそうですので、体調管理にも気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




相おもはず あるらむ君を あやしくも 嘆き渡るか 人の問ふまで(万葉集巻十八 4075 大伴宿禰池主)









◎古代史探偵A(聖武天皇の願い)

奈良市は日本でも屈指の観光都市であるが、その姿は何処か素朴である。

奈良県に空港はなく、新幹線も通っていないが、京都・大阪の中心部からはいずれも1時間前後とアクセスは悪くない。

だが「ブランド力」と言う点では、いささか地味な印象を拭えない部分も確かにある。

思わぬコロナ禍で、奈良だけでなく全国の観光地は経済的に大打撃を被っているが、近年増加していた外国人観光客も「東京~京都~大阪」が定番コースである。

もちろん「日本好き」の外国人の中には、奈良の魅力を充分理解して訪れる人も多いが、観光施設と言う点ではやはり京都・大阪に軍配が上がるかも知れない。

私から言わせてもらえば、外国人はともかく、日本人が求める「観光」とは一体何を目的にするのか・・時折首を傾げてしまう事もある。

個人的嗜好だから、目的は自由で良いのだけれど、例えばテレビの旅番組やガイドブックなどを見ると、実にワンパターンであることに気付く。

「グルメ」「温泉」「景色」がいわゆる「三大要素」であり、それさえあれば・・見たいに思えてならない。

これらを否定はしないけれど、そもそも旅行とは「非日常」であり、「発見」である。

もちろん忙しい日常を忘れ、贅沢でのんびりしたい旅行ならばそれでも良いだろう。

しかし何事も「幕の内」的要素を求める傾向の強い日本人には、「リゾート型」旅行は似つかわしくないし、何よりも水に合わない。

1-1-16A-Todaiji_Syunie_Nara_JPN_001.JPG ←3月1日から14日まで東大寺・二月堂で行われる「修二会」のお松明(ウィキペディアより)

例えば「休暇」と言う文化を持つヨーロッパでは、シーズンになると一斉に「リゾート地」に出かけ、短くとも1週間、長いと2~3週間も同じ場所に滞在する。

観光もするが、メインはただホテルやビーチでだらだら過ごし、食べて飲む事。

ところが「休暇」と言う文化を持たない日本では、今こそお盆やGW、年末年始に1週間・10日間と言う人も増えてはいるが、1か所でただ時間を過ごす旅行は思いつかない。

旅行は良いけれど、2~3日ぐらいは家にいたいし、ショッピングにも行きたいし・・などと考えるから、せっかくの長い休みもせいぜい3~4日程度で収めてしまう。

更にわざわざお金と時間をかけて行くのだから、先の三大要素は必須で、それにお土産やアトラクションも・・と考える。

とにかく幕の内弁当のごとく、少しずつで良いからバラエティに富んだ旅行が日本人は好きなのだ。

最近では来日する外国人も感化されたのか、それだけ交通の便も良いから1週間の旅行で東京と関西と言うコースも多くなった。

それはそれで良いと思うが、時には意識を変えて「じっくり旅」も良いのでは?と思う。

話が大きく逸れてしまったけれど、奈良は京都や大阪の様なアトラクション的要素は少ない。

あくまでも「歴史」と「日本の風情」に尽きる。

風情ならば京都も大阪も充分持っているが、「歴史」と言う点では奈良には叶わない。

京都は「千年の都」と言われ、794年桓武天皇が「平安京」として遷都してから、「大政奉還」による明治維新まで実に1.073年間「首都」であり続けた。

え?江戸時代は「江戸」が首都じゃないの?と言われそうだが、江戸は「政治の中枢」であり、国家元首たる「天皇」は京都に居住していた。

明治維新で皇居自体が「東京」に移って、初めて「首都」になったのである。

しかし京都の町並みは15世紀に起こった「応仁の乱」で荒廃し、平安時代の遺構は殆ど遺されていない。

一方奈良は710年に「平城京」として、飛鳥「藤原京」から遷都したのが始まりである。

もちろん天皇が居住した「首都」であるが、その期間は約70年強と短い。

その点では京都とは比べ物にならないが、当時の遺構が残ると言う点では逆に京都の追随を許さないのである。

更に奈良では、日本初の世界遺産となった法隆寺を始め、平城京時代以前の遺構も数多く残る事が特色である。

奈良を訪れる人の殆どは、市の中心部となる近鉄奈良駅かJR奈良駅前に降り立つ。

最寄りの新幹線の駅は京都か新大阪、空港は伊丹か関空であるが、いずれからの鉄道や高速バスも到着するのはこの2駅前である。

利便性と言う点では近鉄の方が上で、多くの旅行者は近鉄奈良駅を起点とするだろう。

同駅を出ると、表には「二条大路」と呼ばれる大きな道路が横たわっており、駅を出て東・右方向に歩きだすと5分もしないうちに緑に囲まれた広い公園が目に入って来る。

同時に奈良名物の鹿が、草と戯れる姿を見ることができるだろう。

やがて右手奥に建物が見えて、それが興福寺である。

興福寺の隣には奈良国立博物館があるが、誰もがまず目指すのはその先にある東大寺であろう。

東大寺の入り口までは、近鉄奈良駅から約15分ほど歩くことになるが、一体は広大な奈良公園になっており、季節ごと美しい風景を見ながら歩くことができる。

東大寺の参道に入ると、両脇には観光客が大好きな土産物店が軒を連ね、「鹿の餌」を売るスタンドもある。

そこを進むと巨大な「南大門」が見えて来る。

001.JPG ←東大寺・南大門(奈良県奈良市、筆者撮影)

南大門は鎌倉時代の築造で、向かって左側には金剛力士像の「阿形」、右側には「吽形」が我々を出迎える。

どちらも約9メートルと言う巨大な木彫像で、鎌倉時代の名工運慶と快慶の作である。

以前は阿形が運慶、吽形が快慶作と言われていたが、88年に行われた解体修理で阿形が運慶と快慶、吽形が定覚・湛慶の共同制作であることが分かった。

また南大門の大きさに驚くが、高さは25メートルあり国内寺院の門としては最大である。

ここを過ぎてもなお目指す「大仏殿」は遠い。

大仏殿は正面幅57メートル、奥行き50.5メートル、高さは46.8メートル(匙尾を除く)もあり、世界最大級の木造建築として知られる。

残念ながら現在の大仏殿は江戸時代半ばの1709年に再建されたもので、それまでに2度焼失している。

創建時の大仏殿は平安時代末期の1180年に、平重衡による兵火で失われ、鎌倉時代に再建された。

しかし1567年の三好・松永の戦に巻き込まれて、再び焼失した。

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169.JPG ←東大寺・大仏殿(奈良県奈良市、筆者撮影)

本尊である蘆舎那仏自体が15メートルを超える大きな仏像だったため、大仏殿も必然的に大型を強いられたが、現在の大仏殿は創建時の2/3ほどに縮小された。

すなわち創建時の大仏殿は、正面が何と85メートルもあったのである。

鎌倉時代の再建では、正面基壇はそのままの大きさだったが、全体の作りは簡略化されていたと言う。

東大寺の創建は、728年(神亀5年)に金鐘寺が建立されたことに発する。

175.JPG ←創建時の東大寺を再現した1/50の模型(東大寺大仏殿、筆者撮影)

この寺は時の聖武天皇が、皇太子だった基皇子を弔うために建てた寺と言われるが、真実は不明である。

741年、聖武天皇はわが国で初めて仏教を「国教」と定め、全国に国分寺・国分尼寺の建立を詔した。

同時に金鐘寺は、金光明寺として官寺に昇格し、747年(天平19年)東大寺に改称した。

その前の743年(天平15年)に、蘆舎那仏建立の勅が発せられた。

大仏はもちろん据え置きで鋳造され、3年かけて原形を作り、最後に鍍金を施されて752年(天平勝宝4年)に完成した。

使われた銅は500トン、鍍金に使われた金は375キロにも及んだと言う。

蛇足ながら、金1グラムを6,500円として換算すると、なんと24億円!

しかも752年春に行われた「大仏開眼供養」では、全体の鍍金が間にあっておらず上半身のみであった。

蘆舎那仏が完成を見たのは、さらに2年後のことである。

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177.JPG ←(3枚)蘆舎那仏は高さ15メートルもある。光背部分と大仏殿作りと言われる壮大な木造建築が分かる(奈良県奈良市、筆者撮影)

しかし1180年と1567年の兵火で、大仏殿とともに激しく損傷し、奈良時代からの部分は腹部の一部と台座・蓮弁だけになってしまった。

開眼供養の時、聖武天皇は一人娘である孝謙天皇に譲位しており「上皇」となっていたが、10年以上の歳月をかけての完成であった。

だがそこに至るまでは、大変な経緯があった。

実は743年の大仏建立の詔は、東大寺ではなく近江信楽でのことであった。

聖武天皇の御代、日本は国難が続いていた。

それは遣新羅使を発端と思われる「疫病」の大流行、近畿・東海地方を中心に大地震が頻発。

加えて藤原氏の台頭による政治抗争が激化し、地方での反乱も相次いでいた。

平城京を祟りの都と感じた聖武天皇は、各地を彷徨し、信楽・恭仁・難波と数カ月ごとに「遷都」を繰り返していた。

平城京には留守政府が置かれていたが、多くの官人と住民も移転を余儀なくされ、その為の国費は莫大な物に膨らんでいた。

そこに大仏建立とは、政権を担当していた橘諸兄が猛反対しても当然のことだった。

しかし天皇の意思は固く、信楽の甲賀寺に大仏の「心柱」を立てたが、その前後に甲賀周辺では不審火が相次ぎ、付近の山々は木一本残らず灰になったと言う。

当時平城京の留守政府には、この後権力を握る藤原仲麻呂がおり、擁護者である叔母の光明皇后と何とか天皇を平城京に戻そうと説得していた。

結局甲賀での大仏建立は「柱一本」で終り、数年に及ぶ彷徨は幕を閉じた。

1-1-16A_Model_of_the_garan_of_Todaiji_seen_from_north_side.jpg ←創建時の伽藍を再現した1/1000のジオラマ(ウィキペディアより)

紆余曲折を経て、何とか平城京に建立された大仏殿だが、その経緯は凄まじいものがあった。

国難が続いたことで、聖武天皇は租税の免除や大祓をたびたび行ったが、その詔には「朕の不徳と致すところ・・」と言う自責の言葉が何度も現れる。

聖武天皇の本名は首(おびと)と言い、父は藤原京時代の文武天皇、母は時の権力者藤原不比等の娘・宮子。

一方同い年の光明子・皇后は、不比等と首皇子の乳母でもあった県犬養橘美千代との間に生まれた子で、夫婦は「異母兄弟」の間柄にあった。

皇子や天皇が複数の妻、妃を持つことは普通の事であったが、その子の将来性は母親の出生身分に左右された。

すなわち皇位継承順位は、当然ながら皇族出身の母親を持つ皇子・皇女が優先されたのだが、首皇子の母親の宮子は、実力者不比等の事は言え、皇族・王族の血筋は一切入っていなかった。

しかし文武天皇は僅か25歳と言う若さで崩御し、遺した子は首皇子だけであった。

文武天皇は、天武天皇とその妻でもあった持統天皇の直系の孫。

父親の草壁皇子は、皇太子のままやはり早逝してしまっていた。

それでも彼は阿閉皇女との間に3人の子を設けていたが、男子は本名軽皇子・文武天皇だけであった。

文武天皇は崩御直前に、母である阿閉皇女に次期天皇を促していた。

この時首皇子はまだ幼少であったことが理由だが、一方で「全く他人の血筋」を持つ首皇子即位を阻止したい想いもあったはずである。

息子の死を悲しむ間もなく、阿閉皇女は「元明天皇」として即位し、710年平城京に遷都した。

元明天皇は約9年在位した後、長女氷高皇女に生前譲位し「元正天皇」が誕生する。

母娘と言う女帝連続は極めて異例のことだったが、未だ首皇子が年少だった事の加え、「藤原家」の血筋を何とか皇族に入れたくない・・と言う思いもあったと思われる。

017.JPG ←平城宮太極殿(奈良県奈良市、筆者撮影)

元正天皇は文武天皇の実姉だったが、この時点で他の皇族にめぼしい継承者はおらず首皇子を皇太子にする以外なかった。

結果聖武天皇が即位して、不比等の野望が達成された訳だが、彼はその4年前に他界していた。

不比等の後を継いだ4人の息子が実権を継承することで、平城京政府は完全な「藤原一族」に牛耳られることになるのである。

その後疫病の流行で「藤原四兄弟」は全て死亡し、光明皇后の異母兄にあたる橘諸兄が左大臣として政権を担当するが、このころから聖武天皇の彷徨が始まったのである。

大仏建立は、その行幸の中で河内にあった智識寺の本尊・蘆舎那仏を拝顔して思いついたとされる。

再三の説得にもかかわらず、聖武天皇の意思は異常と思えるほど頑なであった。

しかし聖武天皇の生涯を見ると、それは確かに朝廷での政治抗争に翻弄された一生であった。

しかも皇族の血筋が「半分」と言う事は、彼の意識に強く陰を落としていた。

光明皇后に至っては、5世紀の仁徳天皇の妃だった磐乃媛以来の「他人」であると同時に、「皇后」と言う名称を正式に確立させた最初のことでもあった。

記録を見る限り、聖武天皇は何処か精神が不安定で、孤独な天皇だったように思えるが、即位した以上国家元首としての義務を果たし、天皇としてのプライドだけは通そうとしていた。

だが律令体制が整い、政治自体は「下」の者たちが行い天皇の政治力は低下していた。

仏教に目覚めたのは、その「平等性」にあったと考える。

すなわち「仏」は一種の指導者であり、人間はその功徳を受けるのに身分は関係ない。

仏自体も権力を持っている訳ではなく、人々の苦しみや悩みを全て請け負い功徳に変える能力を持っているだけに過ぎない。

聖武天皇は、自身もそうありたいの考えたのであろう。

そしてそれを具体化するには、大仏建立がぜひとも必要であった。

残念ながら当時、その思いを理解する者は誰もいなかった。

度重なる災害、天皇の彷徨により国家財政はひっ迫し、国民の生活も窮乏していた。

だが大仏開眼及び落慶法要には、朝廷だけでなく多くの一般市民も拝観が許されたと言う。

開眼供養の4年後、756年(天平勝宝8年)聖武太上天皇は崩御した。享年56。

国難続きは「望まれない即位」によるものと、ある意味自分を卑下し続け、同時に政治に翻弄されつつも「天皇」として国民に心の拠り所を仏教に集めようとした人生であった。

1-1-16A-Todaiji-Tegaimon-M6820.jpg ←東大寺西端にある転害門。数少ない奈良時代の建築物(ウィキペディアより)

残念ながらその後も政変が続き、一人娘の孝謙・称徳天皇も14年後に崩御し、784年なると光仁天皇の後の桓武天皇は平城京から長岡京に遷都。そして794年平安京に遷って行った。

政治の中心は平安京に遷ったが、奈良は「南都」として東大寺を始め興福寺などは厚遇されて「仏都」としての役割を持ち続けたのである。

開眼供養のあった752年に、東大寺の実忠と言う僧が「十一面悔過法要」を開始した。

旧暦の新年に、十一面観音の前で前年の罪を悔い懺悔し、国家安泰と万民の幸せを祈る修行であった。

これが東大寺「二月堂」で行われる「修二会」で、毎年2月20から3月14日まで「練行衆」と呼ばれる11人の僧侶が厳しい苦行を行う。

観光で有名な「お水とり」の「お松明」は、3月1日から始まる「本行」に出立する練行衆を導く灯りのことだ。

毎晩19時になると練行衆は二月堂に上がり、本尊十一面観音像の前でひたすら「神名帳」に記載された17,000以上に及ぶ神名を読みあげて祈る。

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183.JPG ←修二会が行われる東大寺二月堂(奈良県奈良市、筆者撮影)

本来「お水とり」とは、二月堂の下にある井戸「若狭井」から湧いた「香水」を汲みあげる儀式。

それが3月12日に行われるため、練行衆を導くお松明が「1本」多く12本あり、最後の12本目は籠に入れられた大きなお松明が灯されるのである。

お松明は北側の階段を練行衆と共に上って来るが、その後ダダダッと反対側に走っていく様が圧巻だ。

お松明は毎日行われるが、1本多い12日が最も人気があって観光客で混雑する。

大きなかがり火が暗闇をかけ抜けるのは確かに見事で、そのたびに見物客の歓声が上がる。

時々失敗して途中で火が消えてしまったり、下に落ちてしまう事もある。

期間中練行衆は一切外界との連絡を絶ち、例え肉親に不幸があっても知らされることはない。

10年前の東日本大震災の時も、彼らには全く知らされず世話人も隠すのに必死だったと言う。

二月堂は修二会が始まった時には存在していた事が記録されているが、兵火で失われ現在の二月堂は江戸時代の再建である。

実を言うと、東大寺の中で奈良時代の建造物は少ない。

仏像や文献などは多くが残存するものの、二度の兵火、台風や落雷、地震などで損壊したものが多い。

創建時には、大仏殿の東西に高さ80~90メートルの「七重塔」があり、その基壇が今も残されているが再建されなかった。

数々の災難を乗り越えて今残るのは、「三月堂」と「正倉院」、「転害門」と三月堂の隣にある「経庫」だけである。

三月堂は創建機に製作された「不空羂索観音立像」が本尊として置かれ、「拝堂」は奈良時代のものである。

入口のある「礼堂」は、鎌倉時代に増築されたもので屋根の作りが違うが、不思議と違和感のないデザインになっていて完成度の高い建築物として評価が高い。

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1-1-16A-Todaiji10s3200.jpg ←東大寺三月堂。下の画像の左側部分が奈良時代の建築(奈良県奈良市、上・筆者撮影、下・ウィキペディアより)

戦国時代まで、東大寺はある意味荒廃していたが、江戸幕府は時間をかけて伽藍の再興に努め今に至っていると言えよう。

大仏殿が縮小されたのは、当時の余算によるものだが、代わりに「大仏殿作り」と言われる独特の工法で作られている。

縮小されたとは言え、巨大建築には変わりなく強度を持たせることに加え、荘厳に見えるように建てられている。

1-1-16A-Todaiji_Monaster_Fukuken-saku_Kannon_of_Hokke-do._Todai-ji.jpg ←東大寺三月堂本尊・不空羂索観音立像(ウィキペディア英語版より)

私はもう何十回も東大寺を参拝しているが、それでも大仏殿の前に立つと毎回圧倒され、つい立ち尽くしてしまう。

高さ約50メートルは、10階建てビルに相当するが、木造であるから驚くと言うよりも「畏怖」を感じてしまう。

初めて目の前にした人ならば、「何これ・・?」と受け入れがたい様な驚愕を覚えるに違いない。

機械が一切ない江戸時代でさえ、これだけの建築物を作ることは凄いことだと思う反面、1,270年前の「祖先」もまた同様にそれを成し遂げた事に、大きな感動を覚えるのである。

248.JPG ←二月堂から大仏殿裏側に通じる土塀の小路(奈良県奈良市、筆者撮影)

確かに当時、聖武天皇の行動は批判されるに値したと言えるし、それが藤原氏の専横を招き、混乱に至った原因であっただろう。

だが今日に至るまで、東大寺を訪れる我々はどう見ているだろうか。

日本人ならば、その大事業への意思を尊敬する事になるだろうし、巨大な蘆舎那仏を前にすれば自然と手を合わせてしまうだろう。

祈りは各々あるだろうが、少なくとも悪い事ではないはずだ。

1,270年前の人々は、初めて見る蘆舎那仏に日本の未来を見た。

相次ぐ災害、未曽有の疫病流行、政治混乱・・・その中に現れた蘆舎那仏は、まさに荒廃した日本をお救いに現れたと感じたであろう。

それは人々も心を「一つ」にする効果もあったはずである。

なぜこの国は災厄続きなのか、なぜ政治は国民をないがしろにして権力抗争に明け暮れるのか・・・。

そこに現れた蘆舎那仏は、苦しむ衆上を助けるだけではなく、何よすれば良いのかを教えようとしたのである。

一人一人は無力かも知れないけれど、未来にこの国を残そうと今を生きることが、結局自分の幸せに繋がる事なのだと。

私は聖武天皇の「本心」を見る。

国民が仏の元、心を一つに・・・それを伝えたかったのではないだろうか。

「それでも我は大きな蘆舎那仏が見たいのだ・・・。」

予算を理由に猛反対する諸兄たちに、聖武天皇はただ一言呟いた。

家臣たちには戯れと思われたかもしれないし、妻の光明皇后も理解していなかったかも知れない。

光明皇后も仏教には深く信仰していたことから、もしかしたら唯一の理解者だったのだろうか。

聖武天皇の意地は通った。

この時代、私は正に大仏建立の時代とダブって見えて仕方ない。

毎年のように起こる災害、そしてコロナと言う疫病、それに伴う社会崩壊。

奈良時代に比べて、ありとあらゆることを知り、物が溢れる時代の我々は災害も疫病にも対抗できないでいる。

人類が最も英知に飛んでいる時代・・と思っていることが、いかに「うのぼれ」であり滑稽な事かを認めなければならない。

医学も科学も未発達の奈良時代、われわれの「先祖」は多くの犠牲を払いつつ生き残り、未来にこの国を遺した。

だからこそ今の我々が生きていることを、蘆舎那仏の前で感謝しなければならず、そして誓わなければならないと思う。

月命日/飛行機ネタ 挽回できるのか、B737MAX(2月28日 晴れ 4℃)

青空が広がり、気持ち良い週末。

気温は平年並みでちょっと寒いけれど、どこかお出かけしたくなるような穏やかな天気だ。

外を見ると、全天に雲がない「快晴」だ。

陽だまりを感じるが、残念ながら暖かさは薄い。

空気の冷たさの方が上回っている。

2月もあっという間、今日でおしまい。

最も通常より3日も短いから当然なのだけれど、明日からは暦的には「春」でもある。

この冬は久し振りに「らしい」冬で、各地では大雪が続いたし、仙台も何度も積雪になった。

先週など北海道では大雪で、断水などの被害が出るなどこの冬は被害も相次いだ。

だがこれで冬が終わった訳ではなく、まだ油断は出来ない。

本格的な春を実感できるのは、早くても4月以降。

寒さや雪も、3月中は充分ありうる。

快晴だったから、私にしては珍しく窓を全開にして掃除と洗濯をした。

洗濯は毎週やっているけれど、掃除は不定期。

ご近所でも天気に誘われて、ベランダで布団を干したりしていたようだ。

もう少し暖かければ、公園の散歩など最適だったと思うが、家にいるのがもったいないと思わせる青空でもあった。

残念ながら私は出掛けるアテもなく、お金もないので快晴を恨めしく思いつつ見ているしかない。




今日は28日。母の3年11ヶ月目の月命日。

毎月の事なのだけれど、今日はふと1日傍にいてやろうか・・と思って、どこへも出かけず家にいた次第。

そのせいか、居眠りしていると母の夢を見た。

いつも夢に出て来るのだけれど、そしてどうってことない内容。

でも夢の中での私は、母は生きていていると思っているのが不思議だ。

テレビで大家族のドキュメンタリーをやっていた。

いつぞや流行した家族ではないが、10人もの子供を持つ家族の話。

さぞかし大変だろうなあ・・と思うが、今は子供達はそれぞれ独立し、夫婦二人きり。

昨年にはお母さんが大病を患い、コロナ禍の中お父さんも苦しい日々を過ごしたが、無事完治して退院。

20年以上子育てで悪戦苦闘した夫婦は、今静かに幸せを感じている。

家族って当たり前の存在なのだけど、例え一緒に住んでいなくとも「いる」と言う事はどれだけ幸せな事かと思う。

少なくとも私には、もう家族はいないし、年齢から見ても大家族を作ることは不可能。

まあ一人二人ならば可能性はなくもないかも・・・。

間もなく四回忌を迎えるが、今も我が家はあの日のまま。

母の「定番」の居場所もそのまま、バッグや私物も多少埃がたかっているけれど、そのまま。

最近は、良い意味で時間が止まっているなと思うようになった。

今でも母は、私にとって「たった一人」の大事な家族なのだ。

母は天界で、祖父母や叔父たちと昔のように賑やかに暮らしているだろうが、それがちょっと羨ましく妬ましい気もする。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

この週末はお天気が良くて、君も思わず青空を見上げた事と思います。

君は自然に敏感で、いつも空や天気の事を気にかけていました。

感受性と言えばそれまでだけれど、自然を愛する人なんだなあ・・と思っていました。

今もその性格は、きっと変わっていないと思いますが、これからも大事にして下さい。

少しずつ春の足音が聞こえて来るようですが、その分寒暖の差も大きくなりますので体調管理には気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔はありますように。

お休みなさい。




うちなびく 春来るらし 山の際の 遠き木末の 咲き行く見れば(万葉集巻八 1422 尾張連)






飛行機ネタ。

既に報じられて久しいが、ボーイングの「稼ぎ頭」であるナローボディ旅客機「B737MAX」が、事故による運航停止措置が解除された。

最初に停止措置を解除したのはアメリカの連邦航空局(FAA)で、それを受け昨年末アメリカン航空が同機の運航を再開。

21年になって、カナダ・ブラジル・イギリス・EU、オーストラリアが同様の措置を行っている。

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1-1-15A B737-MAX8 CABIN_.jpg ←(2枚)20年末に運航を再開したアメリカン航空のB737-MAX8(ウィキペディア英語版より)

ご存じのように「B737MAX」は、18年10月にインドネシアの大手LCC「ライオン・エア601便」、その僅か5か月後の19年3月に「エチオピア航空302便」が墜落事故を起こし、合わせて300人以上が犠牲になった。

当初メーカーであるボーイングは、機体の欠陥を認めず、エアライン側の運用ミスと主張。

加えて同機の耐空証明を審査・許可するFAAも、欠陥があると分かっていながら耐空証明を発行していた事も判明した。

事故直後、同機を保有・運用する各国は次々と運航停止措置を取り、アメリカの連邦政府は原因究明と改修をボーイングに命じていた。

そして改修と、テストの結果安全が確認されたとして、約2年ぶりの運航再開となった。

しかし昨年から世界に広がった「COVID-19」、すなわちコロナ禍が起こり、多くのエアラインは経営不振と大規模な再編・リストラを余儀なくされる事態に発展。

同機にとっては正に「泣きっ面に蜂」状態である。

18年まで、同機は約4,500機もの受注を受けていたが、2度に渡る重大事故とコロナ禍でキャンセルが相次ぎ、19・20年の2年間に800機以上のキャンセルが発生してしまった。

コロナ禍前でも、全面運航停止措置で清算済みの機体をエアラインに納入できず、ストックヤードには現在も多数の機体が保管されたままである。

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1-1-15A B737-MAX8-Ethiopian_Airlines_302 ET-AVJ.jpg ←(2枚)18年10月に事故を起こしたライオン・エア601便のB737-MAX8「PK-LQP」と19年3月に墜落したエチオピア航空302便のB737-MAX8「ET-AVJ」(ウィキペディア英語版より)

事故後もしばらく生産が続けられていたことが最大の原因と言えるが、当時は単純な製造ミス・・と言う認識が強かったと思われる。

FAAは、製造された機体のテスト飛行とストックヤードまでの飛行以外は認めず、ピカピカの新造機が工場からただストックヤードに運ばれ埃を被る状態が続いていた。

停止措置解除はまだ限定的で、日本を含むアジアやアフリカ、中近東では未だ解除に至っていない。

日本では全日空が同機を発注しているが、実機はない。

だが外国のエアラインが飛来させることもあることから、今のところ状況を見据えていると言う感じのようだ。

最もコロナ禍による影響は、国際線が最も深刻であることから、今日本側が緩和してもあまり意味のない事と言えるかもしれない。

B737MAXは、ベストセラー旅客機「B737」半世紀に渡る歴史の頂点に立つとも言える最新型で、前代「737NG」をベースに発展した改良型である。

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1-1-15A B737-MAX8-TUI_Airlines_Belgium,_OO-TMA.jpg ←(2枚)運航を再開したブラジル・GOLとベルギーのTUIフライ・ベルギーのB737-MAX8(ウィキペディア英語版より)

時代に合わせ、経済性・環境性を重視したモデルとなっていて、座席数による胴体の長さが違うバリエーションを4つ用意する。

最初に完成し、16年に原形機が初飛行したのは中間サイズとなる「MAX8」で、その後やや大きめの「MAX9」が完成。

18年に最小モデルとなる「MAX7」が初飛行している。

「MAX8」は主幹となったのは、737NGでも中間サイズとなった「800」が最も売れたからに他ならない。

現時点で「生産されて」いるのは「8」と「9」で、「7」はテスト中、「10」はまだ実機は完成していない。。

機体の大きさはほぼ「737NG」と同じで、全長は「MAX8」が39.5メートル、「MAX9」が42.2メートル。

基本的には737NGの「マイナーチェンジ型」で、多くのエアラインは同シリーズの更新機材として発注している。

MAXシリーズ最大の特徴はエンジンで、低燃費・低公害性を重視したCFM製「LEAP1-B」ターボファンエンジンにある。

このエンジンはA320neoシリーズでも使われる、まさに「新世代」のナローボディ機用エンジンで、対抗するのはギヤードファンエンジンであるP&W製「PW1100」シリーズとなる。

A320neoシリーズでは、両エンジンを搭載する選択制を取るが、B737MAXでは「LEAP1-B」だけで選択肢はない。

同エンジンはPW1100と違って、通常のターボファンエンジンであるが、部品の多くに複合材を利用し、生産には3Dプリンターを使うなどの最新技術が投入され、これまでの「CFM-56」エンジンに比べて燃費が15%低いとされる。

幾つかのバリエーションが存在するが、B737MAXに搭載されるのは「LEAP1-B」で、A320neoシリーズが搭載するのは「LEAP1-A」である。

2つの違いは正面にある推進ファンの直径の違いで、基本型である「A」が198センチであるのに対し、「B」は20センチほど小さい175センチになっている。

実はこの「LEAP1」エンジンは、当初小さい径のサブタイプを作る計画がなかった。

ところがボーイングが737MAXを設計する際に、同エンジンを予定したが「大きすぎる」ことが分かり、急きょファン径の小さなサブタイプをメーカーであるCFMインターナショナルに要求した。

1-1-15A B737-9_MAX_CFM_LEAP-1B_PAS.jpg ←737MAXが搭載する「LEAP1-B」ターボファンエンジン(ウィキペディア英語版より)
CFMインターナショナルは、先に書いた「CFM-56」エンジンを開発・製造するメーカーだが、アメリカのGE社とフランスのスネクマ社が合弁で立ちあげた企業。

同エンジンはB737の他、A320シリーズでも使われている傑作エンジンだ。

ボーイングが小さいファンを望んだのは理由があって、「A」だと取り付けが事実上不可能だったからだ。

何度も繰り返す事になるが、B737の胴体は今から60年以上も前に開発された「B707」の意匠をそのまま受け継いでいる。

更に初期型では、未整備のローカル空港での運用を考慮して脚を短くして機体と地上高を出来る限り低く抑えていた。

その為「オリジナル」と呼ばれる100・200型でも、低バイパスエンジンの「JT-8D」すら通常の取り付け方法ができず、主翼に直接固定することで地上高の低さをクリアした。

1-1-15A_B737_MAX_8_WestJet_Airlines.jpg ←アメリカン航空に続いて運航を再開したカナダ・ウエストジェットのB737-MAX8(ウィキペディア英語版より)

続く300~500型の「クラシック」は、NGと同系列の「CFM-56」に換装したが、当然そのままでは搭載できず、エンジンを思い切り前方にせり出させ、かつ「持ち上げ」、それでもクリアランスが足りないのでカウリングの底部を平らにすると言う涙ぐましいい努力、逆に言えばかなり無理やり取り付けたとも言える。

ならば脚を伸ばせば・・と素人は思うが、そうなると脚周りや強度の設計を見直す事が必要で、機体価格の上昇を招く。

それを嫌って無理やりを選択したのである。

737NGになるとさすがにそれは出来なくなり、僅かではあるが脚を延長した。

最もそれでも足りず、「クラシック」ほどではないがやはりエンジンは前方にせり出し持ちあげた状態での取り付けだった。

そして「MAX」でも、懲りずにとでも言うか、再びエンジンと地上クリアランスの壁にぶち当たったのである。

CFM-56でもいっぱいだったのに、LEAP1エンジンは更に大きいから当然であった。

当初設計陣の間では、ファン径は165センチ程度が望ましいとしていた。

しかしそれでは予定の出力が出せないことと、燃費も期待できないことから止むなく175センチで妥協した・・という経緯がある。

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1-1-15A_B737-781(WL)_-_ANA.jpg ←(2枚)B737-MAX7とB737-700。胴体の長さはほぼ等しく、LEAP1-Bエンジンの大きさが分かる(ウィキペディア英語版より)

最もCFMでは最初小型化は予定しておらず、かなりの難色を示したと言う。

175センチの「B」が決定されたものの、ボーイングには「予定外」であり、ついに前脚を約20センチ延長する事を余儀なくされた。

加えてCFM-56エンジンでも、前にせり出したせいで特に出力を上げる離陸上昇時になると、必要以上に機種が上がる傾向が出ていた。

「クラシック」「NG」では、水平尾翼を大型化し、水平安定版の角度調節も大きくすることで機首上げを抑えるようにしていた。

胴体が少し大きくなったNGでは、若干その傾向が収まったが、MAXでは再び顕著になることが予想されたため、コンピューターで機体の姿勢を制御する「MCAS」と言う装置が新たに加えられた。

この装置はエンジンの出力。機体の姿勢、速度などをコンピューターで計算し、適正な角度を保つようにするシステムである。

ところがこの最新の装置が「仇」となり、2件の重大事故を引き起こす事になったのである。

FAAの調査では、コンピューターのソフトウェアに欠陥があり、緊急時の対応がなされない可能性が指摘された。

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1-1-15A B737-MAX8-Air_Canada C-FTJV.jpg ←(2枚)エア・カナダのB737-MAX8(ウィキペディア英語版より)

ライオン・エア、エチオピア航空の事故機は、離陸直後に機体のコントロールができなくなり墜落したが、いずれも水平安定版が最大角殿「下向き」で固定されていた事が判明している。

MCASの「誤作動」で、本来機首を上げて上昇しなければならないのに、「規定角度を超えた」と判断して機首を下げたのである。

パイロットは操縦桿を引いて機首を上げようとしたが、MCASはすぐに機首を下げて激しい上下運動がおこり、高度がどんどん下がって墜落したと言う。

事故後、原形機をテスト飛行していたパイロットが、何度かMCASの不具合を確認し「危険」と報告していたにもかかわらず、上層部は「簡単な改修で済む」として黙認していたことも明らかにされている。

それはボーイングと、耐空証明を出すFAAの間に何らかの「忖度」があったことを物語るが、いつしか話は消えてしまっている。

運航停止以来約2年と言う長い期間を経て、問題となったソフトウェアなどの改修が確認されたとしてようやく再開に至ったが、この先果たして737MAXに未来はあるのだろうか。

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1-1-15A B737MAX8 CHINASOUTHERN -B-1201.jpg ←(3枚)中国国際航空、中国東方航空、中国南方航空のB737-MAX8。現時点では中国が最も多くの737MAXを保有している(ウィキペディア英語版より)

新しい機体は、何かと初期故障はつきもの・・と言われればそうなんだけれど、飛行機の場合人命が関わるので相も言っていられない。

確かに創世記の機体は事故が多く、犠牲者も多数出たことは事実であるが、現代は事情が違う。

増して737MAXは「全く新しい機体」ではない。

故に絶大な信頼を得て来たと言えるが、21世紀に置いて不具合による事故を連続させ、300人以上と言う莫大な犠牲者を出した事は重大である。

しかし工場では、既に生産ラインをほぼMAXに切り替えており、ユーザーは同機に頼るしかない状況になりつつある。

実際には「NG」のバックオーダーが多少なり残っており、生産ラインは縮小されたが維持はされている。

だが受注はMAXだけになっており、改修したから大丈夫・・と押しつける事は信頼度と言う点で説得力に欠ける様な気がする。

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1-1-15A B737_Max8_-_LOT.jpg ←(2枚)ノルウェイジャンとLOTポーランド航空のB737-MAX8。ノルウェイジャンはコロナ禍で経営破綻した(ウィキペディア英語版より)

そもそも同機の開発は、ライバルであるA320neoに引きずられた事にある。

事故の原因となったMCASの不具合も、物理的なアンバランスさえなければ問題なかった訳だし、せめて同機が「フライ・バイ・ワイヤ」機であれば、やはり問題は生じなかったはずである。

意外に思われるが、B737はMAXに至るまで操縦システムのフライ・バイ・ワイヤ化はされていない。

唯一スポイラーだけがフライ・バイ・ワイヤで作動するが、それ以外の動翼は全て油圧作動である。

敢えてフライ・バイ・ワイヤ化しなかったのは、コストパフォーマンス優先にしたためだ。

B737が半世紀以上に渡って売れ続けているのは、先に書いたように胴体をB707と同じにすることで全面新設計をせず、開発コストを激減させたことにある。

もちろん性能も優秀だったからだが、MAXに至っても最新鋭ながら機体価格を極限まで抑える事が第一にあった。

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1-1-15A B737MAX8-SmartWings,_OK-SWA.jpg ←S7航空と、チェコのLCCスマートウィングスのB737-MAX8(ウィキペディア英語版より)

技術的にフライ・バイ・ワイヤ化は難しい事ではないが、外観はそのままでも内部を全面的に見直す必要性が出るため避けたと言える。

A320シリーズのように、フライ・バイ・ワイヤでの操縦システムならば、恐らく今回のような事故は発生しなかったと思われる。

こればかりは言っても仕方ない事であるが、A320neoに対抗するにはエンジンや主翼の形状などを「修正」して経済性を高める以外手法はなかった・・とも言える訳で、これ以上B737の「進化」は難しい。

737MAXでは、エンジンの他主翼や尾翼に複合材の割合を増やし、翼端のウィングレットも上下につく「スプリット・シミタール・ウィングレット」に変更されて整流性を向上させたが、B737NGでもレトロフィットさせた機体が存在する。

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1-1-15A B737-MAX8-FlyDubai,_A6-FMB.jpg ←(2枚)中東でも多数のエアラインが発注している。ターキッシュ・エアラインズとLCCフライ・ドバイのB737-MAX8(ウィキペディア英語版より)

確かにNGに比べても、燃費や環境性は向上していると言えるが、多数の犠牲の上に成り立つと言うほどではないように思う。

またMAXのキャビンは、B787で採用された「BSI(ボーイング・スカイ・インテリア)」が標準となって、快適性が向上している。

これは内装材の変更によって、僅かではあるが空間が拡大し、アレンジメントの自由度が増している他、照明はLEDを採用し、色が変更できる。

オーバーヘッドストウェッジも、B777で開発された容積の大きいものに変更されている。

最もこのBSIは、737NGでも採用されておりMAX故のものではない。

しかしこれまで多くの受注を取っている事も確かで、ローンチの時点でもアメリカン航空やユナイテッド航空などの大手メジャーの他、事故を起こしたライオン・エアを始め、UAEのフライドバイと言ったLCCからも100機単位と言う大口の受注をいくつも取っている。

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1-1-15A B737-MAX8-SCAT_Airlines,_UP-B3720.jpg ←(2枚)アイスランド航空とカザフスタンのSCATは、老朽化したB757-200の後継機としてB737-MAX8を発注した(ウィキペディア英語版より)

今更「不良品」と言われても困る訳だが、事故とコロナ禍によりキャンセルするエアラインも連続しており、中にはA320neoシリーズに乗り換えたエアラインもある。

加えてコロナ禍によって、もう一つの大黒柱と言えるB787は、昨年1機も新規受注がなかった。

規制解除で今後、新たな受注は再開するだろうが、同時に「NG」でもしばらくは充分・・と言う認識も広がるのではないか。

MAXではNGになかったモデルとして、全長43.8メートルにもなる「10」の開発も予定しており、各エアラインから要望の多かったB757の後継機種として開発中だ。

しかし座席数は最大で230席を謳うものの、これは「ハイデンシティ」と呼ばれる高密度配置での座席数。

更に「8」「9」では、オプションとして非常口を左右1か所ずつ増設したモデルが用意されており、「8」ならば最大200席、「9」では220席設けることが可能である。

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1-1-15A B737MAX9-Copa_Airlines,_HP-9901CMP.jpg ←(2枚)まだ数が少ないユナイテッド航空とパナマ・COPA航空のB737-MAX9(ウィキペディア英語版より)

これらはLCC向けのオプションであるが、問題は航続距離だ。

ボーイングでは「7」以外のモデルに、床下貨物室の一部を燃料タンクに変更できる別のオプションも用意しているが、それでも「8」で最大約6,000キロ前後である。

欧米のエアラインでは中距離機として人気の高いB757は、生産停止してから久しく、既存の機体の老朽化が進んでいる。

エアバスでは200席級として人気の高いA321neoで、同様に燃料タンクを増設した「LR」「XLR」を計画し、前者は既にデビューしている。

これらの機体は最大で8,000キロ近い航続距離を有し、大西洋横断が充分可能になっている。

B737の胴体はA320シリーズに比べて小さいことから、容量を増やす事はせいぜい胴体を伸ばすことぐらいだ。

特に貨物室や燃料タンクのスペースとなる床下部分は、元々それが「必要ない」時代の産物であるため、最低限の容積しか設けられない。

A320シリーズは、胴体断面をほぼ円形にして床下スペースを大きく取り、航空用コンテナの搭載が可能であるが、B737ではMAXまで「ばら積み」が基本である。

1-1-15A B737-MAX8 RAM-CN.jpg ←ロイヤル・エア・モロッコのB737-MAX8。同機の導入に合わせて塗装がリニューアルされた(ウィキペディア英語版より)

過当競争に加え、コロナ禍と言う前代未聞の惨事に、世界のエアラインは大きく舵を切らなくてはならない時代に突入した。

ファンならご存知のように、B747・B777・A380と言った「巨人機」はもはや時代遅れのレッテルを貼られつつあり、今後の空はとにかく運航コストの安いダウンサイジングが加速するだろう。

ある意味まだナローボディ機が全てだった60年代に、「逆行」していくのでは?とさえ思えて来る。

しかもB737クラスは、より「マルチ性」が求められることも必至で、それに「737MAX」が対応できるかどうかがカギになると思う。

コロナ禍は仕方ないとしても、二度の大事故はあってはならないことであり、同機の躓きは当分取り戻す事は難しい。

日本で唯一発注している全日空は、「まだ先のことで今のところ変更はない」としているが、極めて流動的と言える。

また発注の意向を示していたスカイマークも、事故を受けて計画はいったん白紙に戻している。

1-1-15A-_B737-MAX7_.jpg ←テスト飛行中の最小モデル、MAX7(ウィキペディア英語版より)

事故とコロナとは直接関係ないが、B737-800を導入した日本トランスオーシャン航空は、オプションとして「MAX8」に変更できる権利を持っていたが、発注分は全て800型で受領している。

このことから、世界のエアラインは前世代である「NG」で充分と考えている部分もあり、コロナ禍でよりそう考えるエアラインも出始めるかもしれない。

MAXはこれまで450機以上生産され、少なくとも約390機が納入されている。

ただし納入された機体には、ストックヤードで繋留されたままの機体が多数存在する。

飛行再開が認められた事で、ボーイングは引き取りを促しているが、それこそコロナ禍で多くの機体が休止状態にあり、空港の駐機場はどこもいっぱいの状態にある。

大手リース会社では、事実上放棄された機体を買い取る動きも出ており、このタイミングでの運航再開措置が果たして正しい事なのか疑問である。

最も無責任なファンとしては、不安材料を一掃した上で「最新鋭」のMAXが飛ぶ姿を見たいとは思うのだけれど。



飛行機ネタ ユナイテッド航空事故(2月24日 晴れ 4℃)

※2日分の日記を掲載しています。

◎2月22日 曇り時々晴れ 19℃

気温、間違いでは?と思うけれど正しい。

「1.9℃」ではなく「19℃」なのだ。

予想されてはいたが、仙台でのこの気温はGWあたりの気温。

北の方で低気圧が通過し、それに向かって暖かい空気が流入したため県内では20℃前後まで上昇した。

雲が多めながら晴れ間もあり、外にいると冬もの上着はつい脱いでしまったと言う人も多かっただろう。

家にいる分にはそこまで暖かさは実感しにくかったが、少なくとも寒さは全く感じない1日だった。

関東以西では23℃前後まで上がった所も多く、上着どころかシャツ1枚、暑がりな人であれば「半袖」でも良いくらいの陽気だ。

最もこの暖かさは「気まぐれ」で、低気圧と前線が通過する今夜以降西高東低の気圧配置になり、寒気が流れ込んでくると言う。

このまま春になるのであれば良いけれど、気まぐれは迷惑。

ちょっと暖かい程度なら気持ち良いが、今日は行き過ぎ。

夜もいつもの上着を着て歩いたら、いつしか汗ばんでいるし、お店ではエアコンが「暖房」のままだから上着を脱いでも暑い、と言うかモヤモヤして気分が悪くなりそう。

気まぐれが分かっているから、誰も冬もののまま。

中にはしっかりマフラーしている女性も見かけたが、さすがに鬱陶しかったのでは?

そう言えば今日は2月22日、「2」並びの日。

一般的には「にゃあにゃあにゃあ」で、「猫の日」なのだそうだが、他にもダジャレで何とかの日があるとか。

最も並びの日は毎月あるし、「時間まで」並ぶのも5月までは毎月ある。

そう、今日も「2月22日2時22分22秒」を意識した人がいたのでは?



◎2月24日

西高東低の気圧配置は今日も継続。

昨日ほどではないにせよ、終日冷たく強い西風が吹いていた。

気温も平年並みで推移。一昨日の20℃前後は「幻」だったような気がする。

青空が綺麗だったが、西の奥羽山脈の方を見ると雪雲がドーンと構えており寒いことが分かる。

雪こそ降らなかったけれど、ここ数日の気温差は極端過ぎ。

県内は昨日から暴風が続いており、今日も風がより寒さを増長させているようで、春はまだまだ・・と言っているよう。

13日の福島県沖地震で不通になっていた新幹線が、11日ぶりに全線開通した。

ただし当面はダイヤの8割程度の本数で、被害が大きかった区間では速度を落として走行するので、東京~仙台間では通常より1時間程度遅くなると言う。

それでも再開したことで、6:06発の東京行き始発列車には大勢の乗客が乗り込んだと言う。

一方「代行輸送」を行っていた飛行機や高速バスの臨時便は、一応の役目を終えた。

今回の不通では、この代行輸送の対応が早かった。

航空会社は東京・羽田便の他、大阪・伊丹便なども増便した。

でも当初仙台空港はアクセス鉄道である「仙台空港線」も運休しており、その情報が周知できなかった部分もあったと言う。

それでもすぐに各社が対応したのは凄いと思うし、特に東京便自体がない航空路の運航はありがたいものだっただろう。

余震活動も、1週間を経た週末辺りから収まりつつあるようだ。

油断は出来ないが、大きな余震の確率は低くなったと思われる。

何度か書いた通り、今回の不通は災害だけでなく「人災」だった可能性もある。

今は手一杯だろうが、JRは一言言っただけで原因釈明をしていない。

この10日間、乗客も代替え輸送側の労苦も大変だった訳で、JRを被災者として見ることは出来ないと思う。



強風は夜になっても続いている。

気温は0℃前後と思われるが、風は体感温度を下げるから感覚的には氷点下。

しかも帰宅する時、駅から我が家までは完全な「向かい風」で寒さに加えて余計な体力を消耗する。

母に供える仏花を買って行こうと思ったが、延期。

この風では、帰宅するまでに花が駄目になってしまいそうだからだ。

宮城では、この時期から「蔵王下ろし」「舟形下ろし」と言われる西寄りの暴風が時々吹き荒れる。

初夏にかけても吹くことが多く、良い意味で仙台っ子は慣れている。

転勤や入学などで他県から移住して来た人は、まずこの暴風に驚くそうである。

さすがに鉄道などは運休や遅延することがあるけれど、地下鉄はもちろんバスもよほどのことがない限り平常運行だし、街中は至って普通、いつも通り。

歩くことが困難で、車もハンドルに力を入れていないと風に取られてしまうほどなのに、市民生活に支障が出ない。

強風だと、この季節は火災にも厳重注意だが、やはり慣れているから注意するのも当たり前。

外の物が飛んだり損壊する事故も、実は少ないのは慣れているからだ。

ピークの昨日は、仙台で27メートルを記録している。

因みに秒速27メートルは、時速に直すと約97キロである。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

予想通り、寒さが戻りました。

大きな気温差ですが、君は大丈夫でしたか?

暴風も大丈夫ですか?君は小柄だから、風が強い日はつい心配してしまいます。

今後平年並みの寒さが続くようですが、明日は風は収まりそうです。

コロナもどうなるかわかりませんが、少し落ち着いたようにも見えます。

今君のいる環境がどういう所なのかわかりませんし、世の中は「コロナ前」には戻らないでしょう。

でも10年前に、我々は同様の経験をしています。

だからきっと乗り越える事も、できると思います。

明日も寒いそうですし、空気が冷たく乾燥していますので、体調管理には気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




いにしへの ふるき堤は 年深み 池のなぎさに 水草生ひにけり(万葉集巻三 378 山部宿禰赤人)






飛行機ネタ。

多くのメディアで騒動になってしまったが、20日アメリカ・コロラド州デンバー発ホノルル行きユナイテッド航空328便・B777-200が、離陸直後右側エンジンが故障し、緊急着陸した。

同機は高度約3,000メートル付近で爆発音を発し、キャビンからもエンジンの激しい損傷が確認されたことから、すぐにデンバー空港へ引き返した。

この事故でのけが人はなく、同機は無事デンバー空港に着陸した。

事故発生直後、市内から警察に飛行機の部品らしきものが多数落下・散乱しているという通報が相次いだ。

調べてみると一般住宅の庭に、エンジンナセルの一部と思われる金属片や先端部分のカウリングなどが発見された。

幸いらった貯点付近でのけが人もいなかった。

乗客が機内から撮影した動画では、右エンジンにナセル・カウリングがほぼすべて吹き飛び、タービン付近から残留ガスか回転摩擦による炎のようなものが見え、覆いを全て失ったエンジンは気流に激しく震動している様子が映っていた。

米事故調査委員は、まだ原因は調査中としながらも「ファンブレードを含むエンジン内部部品の損傷が原因ではないか」とコメントしている。

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1-1-14A B777-200-United_Airlines_-_N772UA.jpg ←(2枚)2月20日に事故を起こしたユナイテッド航空のB777-200「N772A」(ウィキペディア英語版より)

何度もニュースで流れたのでご覧になった人は多いと思うが、破損したエンジンが飛行中震動するのは極めて危険な状態。

ネット上では「B777は片発(エンジン1基)でも安全に飛行できる。」と言う意見が見られたが,それはあくまで物理的に安定した状態でエンジンを停止させたときの話。

覆いが全て吹き飛んだ事の他に、その衝撃でエンジンの「軸線」もずれた可能性があり、あの震動ぶりは重大事故に繋がりかねない極限状態だった可能性がある。

緊急着陸に備えて速度は落としていたと思うが、機体のバランスが突然崩れる危険性もあったはずだ。

不幸中の幸いは爆発の衝撃でエンジンを吊るすパイロンに破損が生じなかったことと、燃料に引火しなかった事だろう。

離陸直後で、ホノルル行きと言う長距離便だから燃料は大量に搭載していたはずで、着陸には「燃料の投棄」をしたはず。

着陸重量に下げるまでの陶器に、最低でも数分かかっただろうから、乗客だけでなく乗務員の緊張と不安はさぞかし大変だったであろう。

同時に「通常」の着陸のように無事帰還させた乗務員は、例え職務であり訓練しているとは言え見事だったと思う。

実は昨年12月4日、同じようなトラブルが日本でも起きている。

沖縄発東京・羽田行き、日本航空904便のB777-200がユナイテッド航空機と同じく、離陸直後爆発音とともに左側のエンジンが破損。

緊急着陸したが、けが人はいなかった。

1-1-14A B777-200 Japan_Airlines JA8978.jpg ←12月にエンジン破損事故を起こした日本航空のB777-200「JA8978」(ウィキペディア英語版より)

2カ月の間があるが、ほぼ同様の「重大インシデント」が発生した事で、アメリカの運輸省は同機の運航停止措置を取った。

日本でも当初同機を運用する日本航空と全日空に対し、国交省が「点検の頻度を上げるよう」に指示を出したが、その後運航停止勧告に切り替えた。

不幸中の幸いと言っては言い過ぎかも知れないが、コロナ禍により減便・運休策で両者とも同機の運航は少なく、他機種での代替えが利くとのことで運航に支障はないと言う。

事故を起こしたユナイテッド航空機は、95年納入のB777-200「N772A」。

日本航空の機体は97年に、統合前の日本エアシステムが導入した「JA8978」のB777-200。

共通しているのはどちらもエンジンがP&W製「PW4000-112」ターボファンエンジンを搭載していることだ。

国交省によると「JA8978」の場合、22枚ある推進ファンのブレードのうち2枚が何らかの原因で破損し、その破片がエンジン内部に侵入。

破壊を生じさせたとしている。

同エンジンは全日空のB777-200/200ERでも使用しており、日本では両者合わせて32機が保有されている。

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1-1-14A-Pratt_&_Whitney_PW4000_22.jpg ←(2枚)B777に搭載されたP&W「PW4000-112」ターボファンエンジン(ウィキペディア英語版より)

この他韓国の大韓航空と、その系列会社でLCCのジン・エアがそれぞれ同エンジンを装備した300型と200ERを保有。

アシアナ航空も200ERを保有。

3社も事故を鑑みて、運航を停止した。

またイギリス当局は、今日になってPW4000エンジンを搭載する民間機の「領空通過」を一時禁止すると発表した。

ユナイテッド航空では、同エンジンを搭載するB777は24機保有しているが、殆どは国内線で運航されている。

同社はB777のローンチカスタマーで、最初に同機を受け取り就航させたエアライン。

事故を起こした「N772A」は、2号機に当たる。

機齢は26年と高く、正直「まだ現役だったのか」と思ったが、もちろん恒常的に点検・整備はしているし、機体自体は規格に耐えうる状態だったはずである。

1-1-14A -B777-222,_United_Airlines_N771A.jpg ←最初に営業飛行を行ったユナイテッド航空B-777-200の初号機「N771A」(ウィキペディア英語版より)

更に誤解されそうなのは、エンジンも=古い・・と思われること。

事故機の状況は分からないが、基本的にエンジンは消耗品であることから、耐用時間を過ぎればまるごと「交換」する。

B777は元々「中型機」としてベストセラーになった、B767の「拡大版」と言うコンセプトで開発された。

それまで長距離機は、エンジンや航法装置の信頼性の問題から特に洋上飛行に関しては多発機に限られ、双発機は「ETOPS」と言う規制がかけられていた。

しかしエンジンの技術向上とコンピューターの普及で、B767が初めてその規制をクリアすることになり、経済性・環境性に優れた双発機が必要とされた。

1-1-14A-B777-200 FIRST_.jpg ←94年に初飛行したB777-200初号機(ウィキペディア襟語版より)

B767は少し小さい機体だったことから、一回り大きく。そして長距離を充分こなせる双発機としてB777が登場したのである。

日本では全日空がユナイテッド航空に続いて発注し、日本航空は6番目に発注した。

この時はまだ「青写真」の状態で、ボーイングはこれらのエアラインにB777の仕様に関する意見を求めながら開発する「ワーキング・トゥゲザー」プロジェクトを立ち上げて、ユーザー側の要求を満たしながら開発した。

当初の計画では、エアラインの需要に合わせて3つのタイプが考えられた。

バリエーションと言うよりも「仕様」の違いで、同一機種ながら座席数を可能な限り増やし、標準航続距離を10,000キロ前後とした「Aタイプ」。

12,000キロ前後まで飛べる「Bタイプ」、そして13,000~15,000キロと言う超長距離能力を持たせた「Cタイプ」であった。

90年代初頭では、まだ長距離路線の主役は3発機・4発機であり、ボーイング自身B747-400を発売したばかりだった。

マクドネルダグラスのMD-11、エアバスはA340のデビュー直前だったこともあり、とりあえず基本型となる「Aタイプ」でゴーサインに至った。

そうして完成したB777は「世界最大の双発機」としてデビューし、ボーイング初のフライ・バイ・ワイヤ機として大きな注目を浴びた。

またCADを主体として、初めて全面的にコンピューターを使って設計された旅客機でもあった。

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1-1-14A_B777-200_ANA JA8199.jpg ←(2枚)日本で最初にB777を就航させた全日空。同機をアピールするため3号機までは尾翼の「ANA」ロゴを「777」に替えていたが、これはB767と「見分けにくい」と言う意見があったからでもある(ウィキペディア英語版より)
最も注目されたのは、B747の次ぐ大きな機体を飛ばすエンジンだった。

エンジンは選択制が取られ、今回問題となっている「PW4000」、「GE90」、「トレント800」の3種類が用意された。

最初の運用者となったユナイテッド航空はPW4000を選択したが、このエンジンは製造したP&W社が初期に開発した「JT-9D」をベースに、大幅に改良した高バイパス比エンジン。

推進ファンの大きさでバリエーションがあり、小さい径のエンジンはエアバスのA300/310/330シリーズやB767にも使われている。

B777の「112」シリーズは、同機のデビュー時点で世界最大の旅客機用エンジンで、推進ファンの直径は2.84メートルもある。

カウリング・ナセルを含めるとゆうに3メートルを超え、B737の胴体とほぼ同じ口径を持つ巨大な常識外れのエンジンだった。

もちろん2基のエンジンは、専用のコンピューター「FADEC」で制御され、常時最適な回転数を調節できる。

同エンジンを持ったB777は、営業開始と同時に洋上飛行制限「ETOPS180」を取得した最初のエンジンであり、この時点で「長距離飛行は多発機」と言う概念を瞬時に覆したエンジンであった。

日本では全日空、日本航空、そして日本エアシステム大手3社が揃ってB777-200を導入するとともに、エンジンもPW4000を選択した。

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1-1-14A_B777-289_JAS_JA8978.jpg ←(2枚)全日空に続き導入した日本航空は「スタージェット」と命名し、B727以来のボーイング機導入となった日本エアシステムは公募デザインと国内線発の3クラス制で大きな話題を振りまいた。同社での愛称は「恋慕―セブン」(ウィキペディア英語版より)

最新の大型ワイドボディ機であり、開発から部品の製造も日本が関わっていた事もあり、同機の整備に関してお互いに情報や技術を共有する協定が結ばれると言う、異例事態だった。

3社が同機種を導入するのはB727以来の事で、このことも注目された。

全日空と日本航空は、老朽化しつつあるB747クラシックの後継機として導入したが、日本エアシステムは輸送力増強の為の導入だった。

同社は先にB747-400を発注していたが、それをキャンセルしてB777-200に切り替えていた。

また環境問題もこの時代から取りざたされるようになると、大空港の一つ大阪・伊丹空港が多発機の乗り入れを禁止したことも加わって、主力だったB747の運用が不可能になった。

そこで200型の胴体を延長し、B747を越える全長約74メートルの300型が開発された。

同機は全日空と日本航空が発注し、B747-400Dと比べても最大で15%も燃費が良いことから国内幹線の主力機に位置付けられた。

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1-1-14A B777-300-JapanAirlines JA751A.jpg ←(4枚)747クラシックの後継機として導入されたB777-300。全日空の初号機は特別塗装だった。日本航空は200型と同じく「スタージェット」だったが「アーク塗装」で消滅した(ウィキペディア英語版より)

両社の300型もエンジンはPW4000を選択していたが、この後導入した国際線機材となる「200ER」になると、全日空は出力を向上させたPW4000を踏襲したが、日本航空はGE製の「GE90」を初めて選択した。

最初の200型でPW4000が選択されたのは、受注の時点で「GE90」とイギリス、ロールス・ロイス製「トレント800」が未完成だったこともあったし、PW4000自体既にB747やB767で実績を獲得していたからだった。

生産では300型ではGE90を選択したエアラインがなく、PW4000とトレント800だけである他、メイン機種となった「300ER」ではGE90だけとなり選択制が廃止された。

生産自体「通常型」の200・300型は少数生産に留まり、生産の中心はどちらも「ER」に移行した。

日本の200型は一部機材が近距離国際線用機材として運用されたが、300型は完全な国内線仕様。

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1-1-14A_B777-200ER ANA JA716A.jpg ←(3枚)国際線機材として導入された全日空のB777-200ER。通常型200の退役に伴い国内線に転用されている(ウィキペディア英語版より)

導入当時普通席は3-3-3の9列と言う標準配置だったが、数年後3-4-3の10列に変更し、500席を越える座席数を確保した。

代わりに航続距離は5,000キロ程度に抑えられており、全日空の300型は2クラスながら525席と言う双発機としては世界最大の座席数を実現した。

00年代には日本航空と日本エアシステムが統合し、文字通り2巨頭体制の主力機は間違いなくB777になって言ったのである。

10年代になると、老朽化で初期導入機の退役が始まり、全日空では国際線用機材だった200ERを国内線用に改装して初期型と更新した。

しかしB787が登場すると、航続距離・経済性と言う点でB777のそれを上回る機体と言う事で、日本のB777が少しずつ減勢し始める。

1-1-14A B777-200ER JAL-JA711J.jpg ←現在も国際線機材として活躍する日本航空のB777-200ER。200・300型と違い、日本で初めてGE90エンジンを装備した(ウィキペディア英語版より)

私の手元には、00年代前半に某出版社が発行したB777の本が残っている。

200型がデビューしてから約10年後の刊行だが、ちょうどB777-300ERが国際線の主力になった頃である。

かなり「持ち上げた」内容になっているのは仕方ないが、当時としてはB747にしかできなかった長距離飛行と大きな座席数を両立し、かつ遥かに経済的で環境性に優れていることが随所に書かれている。

B777は確かにそういう機体ではあるが、B787の登場で急に霞んでしまったように見える。

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1-1-14A_B777-381_(JA757A).jpg ←(2枚)全日空現行塗装のB777-300(ウィキペディア英語版より)

B787は一回り小さい「中型機」のカテゴリーだが、それは基本型である「8」が相当し、胴体を延長した「9」はB777-200に相当し、最長モデルの「10」では、B777-300には及ばないものの飛行パフォーマンスと言う点では上である。

加えて予想だにしなかったコロナ禍は、若干霞んでいたB777に追い打ちをかけることになってしまい、日本の2社は老朽化による退役計画を前倒しした他、全日空のように経営不振が加わって新しい300ERまで退役せざるを得ない状況になってしまった。

そこに今回の連続したエンジン損傷事故は痛い。

ボーイングによると、PW4000を搭載したB777は約130機残存しているが、コロナ禍の影響で稼働しているのは69機とされている。

運用中なのはユナイテッド航空の他、全日空と日本航空、大韓航空とジン・エアーだけ。

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1-1-14A-B777-2B5ER_HL7733_Jin_Air.jpg ←(3枚)大韓航空のB777-200ERは、子会社のLCC、ジン・エアーに移籍した(ウィキペディア英語版より)

こうして見ると、PW4000エンジン機はかなりの少数派であることが窺える。

事故機を含め「通常型」は200・300型とも、機齢は20年前後に達しており、コロナ禍前から順次退役が予定されていた。

先に書いたように、機体とエンジンが「同い年」であるとは限らず、通常は交換しているが、エアラインの事情にもよる。

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1-1-14A B777-300 CATHAY B-HNP.jpg ←(2枚)キャセイ・パシフィック航空のB777-200/300は、ロールス・ロイス「トレント800」エンジンを選択した。200型は退役したが、300型はまだ残存している(ウィキペディア英語版より)

真偽のほどはわからないが、退役間近の機材に対しては「あまり手間とお金をかけたくない」と言うのがエアラインの「本音」だと聞いたことがある。

事実退役する機体の多くは、徐々に機数を減らし、最終的にはレギュラー運航をせず「予備機」扱いにされることも多い。

PW4000はタイプとしては「古い」部類に入り、退役を鑑みて整備が「手薄」になっていた・・と考えられなくもない。

最も安全と言う点であってはならない事だが、本体は限界まで使いブレードなどの消耗品だけをこまめに交換・・と言う事はあり得ることだ。

少なくともメーカーサイド、各国の当局が運航・飛行停止措置を取ったと言う事は、同機の寿命を一気に縮める可能性もあるだろう。

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1-1-14A B777-300 Japan_Airlines_JA752J.jpg ←(2枚)日本航空のB777-200と300(ウィキペディア英語版より)

今のところGE90・トレント800搭載型では何の問題も起きていないので、古いB777と言うよりもPW4000エンジン自体に問題が浮上したと言う事かも知れない。

もう四半世紀も前の事になるが、日本の300型は国内線専用機材だったが、海外では輸送力を生かした中距離国際線機材としても運用されていた。

日本へはシンガポール航空やキャセイ・パシフィック航空、タイ国際航空などが同機を就航させていたが、最も注目されたのは大韓航空の300型だった。

同機は完全な国際線仕様で、なんとETOPS運航を利用してソウル~東京~ロサンゼルスを定期運航していた。

前任はMD-11で、これもファンの人気が高かったが、定期便として世界で初めて「太平洋横断」したのである。

このことはギネスにも認定され、「世界一長距離を飛ぶ双発機」になった。

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1-1-14A B777-300 KOREANAIR-HL7532.jpg ←(3枚)ソウル~東京~ロサンゼルスを運航した大韓航空のB777-300(ウィキペディア英語版より)

まだ「ER」が出る前だから、「通常型」の300である。

座席数を減らし、燃料を目いっぱい積むことで運航していた。さすがにソウル~ロサンゼルス間の直行は出来なかったが、大韓航空は「以遠権」を持っていたので、ソウル~東京間の利用も出来た。

ERでなくても太平洋横断・・と言うスペックに、非常に驚いた記憶がある。

これらの機材はキャビンが改修され、日本と同じく輸送力重視型として近距離国際線で運航されているが、コロナ禍と今回の運航停止措置で退役になる可能性も大きい。

何よりもコロナ禍が大きいが、あれだけ「常識を覆す最新鋭機」ともてはやされたB777が、いつしか「古い」機体になってしまったことは残念である。

それ以上に、今回の事故で「古くて危険」「不経済」と言うレッテルが貼られてしまいそうで、それが一番残念に思う。

B777はあらゆる面に置いて、エポックメイキングな旅客機である。

現在発展・改良型として「B777X」が開発され、原形機も初飛行したが、製造トラブル・コロナ禍と言うダブルパンチを浴び、テスト飛行八円している。

加えて「B737MAX」の連続事故も尾を引いており、ここにきて初期型とは言え今回の事故は痛い。

いずれ幕引きの日は来るにせよ、このような形で終わって欲しくない。

初めてB777に乗った時、その大きさに信じられず「新時代」を感じずにはいられなかった。

双発機なのに747並みの大きさ、キャビンの広さ、そして当時としては異例の巨大エンジンは正直「あり得ない飛行機」に思えた。

あれから25年もの月日が経ったとは思えないぐらい、B777はまだまだ現役・・だと思っていた。

しかし度重なる「不運」が、同機を一気に過去に連れ去ろうとしていることにならなければ良いが・・と思う。