飛行機ネタ ユナイテッド航空事故(2月24日 晴れ 4℃)

※2日分の日記を掲載しています。

◎2月22日 曇り時々晴れ 19℃

気温、間違いでは?と思うけれど正しい。

「1.9℃」ではなく「19℃」なのだ。

予想されてはいたが、仙台でのこの気温はGWあたりの気温。

北の方で低気圧が通過し、それに向かって暖かい空気が流入したため県内では20℃前後まで上昇した。

雲が多めながら晴れ間もあり、外にいると冬もの上着はつい脱いでしまったと言う人も多かっただろう。

家にいる分にはそこまで暖かさは実感しにくかったが、少なくとも寒さは全く感じない1日だった。

関東以西では23℃前後まで上がった所も多く、上着どころかシャツ1枚、暑がりな人であれば「半袖」でも良いくらいの陽気だ。

最もこの暖かさは「気まぐれ」で、低気圧と前線が通過する今夜以降西高東低の気圧配置になり、寒気が流れ込んでくると言う。

このまま春になるのであれば良いけれど、気まぐれは迷惑。

ちょっと暖かい程度なら気持ち良いが、今日は行き過ぎ。

夜もいつもの上着を着て歩いたら、いつしか汗ばんでいるし、お店ではエアコンが「暖房」のままだから上着を脱いでも暑い、と言うかモヤモヤして気分が悪くなりそう。

気まぐれが分かっているから、誰も冬もののまま。

中にはしっかりマフラーしている女性も見かけたが、さすがに鬱陶しかったのでは?

そう言えば今日は2月22日、「2」並びの日。

一般的には「にゃあにゃあにゃあ」で、「猫の日」なのだそうだが、他にもダジャレで何とかの日があるとか。

最も並びの日は毎月あるし、「時間まで」並ぶのも5月までは毎月ある。

そう、今日も「2月22日2時22分22秒」を意識した人がいたのでは?



◎2月24日

西高東低の気圧配置は今日も継続。

昨日ほどではないにせよ、終日冷たく強い西風が吹いていた。

気温も平年並みで推移。一昨日の20℃前後は「幻」だったような気がする。

青空が綺麗だったが、西の奥羽山脈の方を見ると雪雲がドーンと構えており寒いことが分かる。

雪こそ降らなかったけれど、ここ数日の気温差は極端過ぎ。

県内は昨日から暴風が続いており、今日も風がより寒さを増長させているようで、春はまだまだ・・と言っているよう。

13日の福島県沖地震で不通になっていた新幹線が、11日ぶりに全線開通した。

ただし当面はダイヤの8割程度の本数で、被害が大きかった区間では速度を落として走行するので、東京~仙台間では通常より1時間程度遅くなると言う。

それでも再開したことで、6:06発の東京行き始発列車には大勢の乗客が乗り込んだと言う。

一方「代行輸送」を行っていた飛行機や高速バスの臨時便は、一応の役目を終えた。

今回の不通では、この代行輸送の対応が早かった。

航空会社は東京・羽田便の他、大阪・伊丹便なども増便した。

でも当初仙台空港はアクセス鉄道である「仙台空港線」も運休しており、その情報が周知できなかった部分もあったと言う。

それでもすぐに各社が対応したのは凄いと思うし、特に東京便自体がない航空路の運航はありがたいものだっただろう。

余震活動も、1週間を経た週末辺りから収まりつつあるようだ。

油断は出来ないが、大きな余震の確率は低くなったと思われる。

何度か書いた通り、今回の不通は災害だけでなく「人災」だった可能性もある。

今は手一杯だろうが、JRは一言言っただけで原因釈明をしていない。

この10日間、乗客も代替え輸送側の労苦も大変だった訳で、JRを被災者として見ることは出来ないと思う。



強風は夜になっても続いている。

気温は0℃前後と思われるが、風は体感温度を下げるから感覚的には氷点下。

しかも帰宅する時、駅から我が家までは完全な「向かい風」で寒さに加えて余計な体力を消耗する。

母に供える仏花を買って行こうと思ったが、延期。

この風では、帰宅するまでに花が駄目になってしまいそうだからだ。

宮城では、この時期から「蔵王下ろし」「舟形下ろし」と言われる西寄りの暴風が時々吹き荒れる。

初夏にかけても吹くことが多く、良い意味で仙台っ子は慣れている。

転勤や入学などで他県から移住して来た人は、まずこの暴風に驚くそうである。

さすがに鉄道などは運休や遅延することがあるけれど、地下鉄はもちろんバスもよほどのことがない限り平常運行だし、街中は至って普通、いつも通り。

歩くことが困難で、車もハンドルに力を入れていないと風に取られてしまうほどなのに、市民生活に支障が出ない。

強風だと、この季節は火災にも厳重注意だが、やはり慣れているから注意するのも当たり前。

外の物が飛んだり損壊する事故も、実は少ないのは慣れているからだ。

ピークの昨日は、仙台で27メートルを記録している。

因みに秒速27メートルは、時速に直すと約97キロである。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

予想通り、寒さが戻りました。

大きな気温差ですが、君は大丈夫でしたか?

暴風も大丈夫ですか?君は小柄だから、風が強い日はつい心配してしまいます。

今後平年並みの寒さが続くようですが、明日は風は収まりそうです。

コロナもどうなるかわかりませんが、少し落ち着いたようにも見えます。

今君のいる環境がどういう所なのかわかりませんし、世の中は「コロナ前」には戻らないでしょう。

でも10年前に、我々は同様の経験をしています。

だからきっと乗り越える事も、できると思います。

明日も寒いそうですし、空気が冷たく乾燥していますので、体調管理には気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




いにしへの ふるき堤は 年深み 池のなぎさに 水草生ひにけり(万葉集巻三 378 山部宿禰赤人)






飛行機ネタ。

多くのメディアで騒動になってしまったが、20日アメリカ・コロラド州デンバー発ホノルル行きユナイテッド航空328便・B777-200が、離陸直後右側エンジンが故障し、緊急着陸した。

同機は高度約3,000メートル付近で爆発音を発し、キャビンからもエンジンの激しい損傷が確認されたことから、すぐにデンバー空港へ引き返した。

この事故でのけが人はなく、同機は無事デンバー空港に着陸した。

事故発生直後、市内から警察に飛行機の部品らしきものが多数落下・散乱しているという通報が相次いだ。

調べてみると一般住宅の庭に、エンジンナセルの一部と思われる金属片や先端部分のカウリングなどが発見された。

幸いらった貯点付近でのけが人もいなかった。

乗客が機内から撮影した動画では、右エンジンにナセル・カウリングがほぼすべて吹き飛び、タービン付近から残留ガスか回転摩擦による炎のようなものが見え、覆いを全て失ったエンジンは気流に激しく震動している様子が映っていた。

米事故調査委員は、まだ原因は調査中としながらも「ファンブレードを含むエンジン内部部品の損傷が原因ではないか」とコメントしている。

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1-1-14A B777-200-United_Airlines_-_N772UA.jpg ←(2枚)2月20日に事故を起こしたユナイテッド航空のB777-200「N772A」(ウィキペディア英語版より)

何度もニュースで流れたのでご覧になった人は多いと思うが、破損したエンジンが飛行中震動するのは極めて危険な状態。

ネット上では「B777は片発(エンジン1基)でも安全に飛行できる。」と言う意見が見られたが,それはあくまで物理的に安定した状態でエンジンを停止させたときの話。

覆いが全て吹き飛んだ事の他に、その衝撃でエンジンの「軸線」もずれた可能性があり、あの震動ぶりは重大事故に繋がりかねない極限状態だった可能性がある。

緊急着陸に備えて速度は落としていたと思うが、機体のバランスが突然崩れる危険性もあったはずだ。

不幸中の幸いは爆発の衝撃でエンジンを吊るすパイロンに破損が生じなかったことと、燃料に引火しなかった事だろう。

離陸直後で、ホノルル行きと言う長距離便だから燃料は大量に搭載していたはずで、着陸には「燃料の投棄」をしたはず。

着陸重量に下げるまでの陶器に、最低でも数分かかっただろうから、乗客だけでなく乗務員の緊張と不安はさぞかし大変だったであろう。

同時に「通常」の着陸のように無事帰還させた乗務員は、例え職務であり訓練しているとは言え見事だったと思う。

実は昨年12月4日、同じようなトラブルが日本でも起きている。

沖縄発東京・羽田行き、日本航空904便のB777-200がユナイテッド航空機と同じく、離陸直後爆発音とともに左側のエンジンが破損。

緊急着陸したが、けが人はいなかった。

1-1-14A B777-200 Japan_Airlines JA8978.jpg ←12月にエンジン破損事故を起こした日本航空のB777-200「JA8978」(ウィキペディア英語版より)

2カ月の間があるが、ほぼ同様の「重大インシデント」が発生した事で、アメリカの運輸省は同機の運航停止措置を取った。

日本でも当初同機を運用する日本航空と全日空に対し、国交省が「点検の頻度を上げるよう」に指示を出したが、その後運航停止勧告に切り替えた。

不幸中の幸いと言っては言い過ぎかも知れないが、コロナ禍により減便・運休策で両者とも同機の運航は少なく、他機種での代替えが利くとのことで運航に支障はないと言う。

事故を起こしたユナイテッド航空機は、95年納入のB777-200「N772A」。

日本航空の機体は97年に、統合前の日本エアシステムが導入した「JA8978」のB777-200。

共通しているのはどちらもエンジンがP&W製「PW4000-112」ターボファンエンジンを搭載していることだ。

国交省によると「JA8978」の場合、22枚ある推進ファンのブレードのうち2枚が何らかの原因で破損し、その破片がエンジン内部に侵入。

破壊を生じさせたとしている。

同エンジンは全日空のB777-200/200ERでも使用しており、日本では両者合わせて32機が保有されている。

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1-1-14A-Pratt_&_Whitney_PW4000_22.jpg ←(2枚)B777に搭載されたP&W「PW4000-112」ターボファンエンジン(ウィキペディア英語版より)

この他韓国の大韓航空と、その系列会社でLCCのジン・エアがそれぞれ同エンジンを装備した300型と200ERを保有。

アシアナ航空も200ERを保有。

3社も事故を鑑みて、運航を停止した。

またイギリス当局は、今日になってPW4000エンジンを搭載する民間機の「領空通過」を一時禁止すると発表した。

ユナイテッド航空では、同エンジンを搭載するB777は24機保有しているが、殆どは国内線で運航されている。

同社はB777のローンチカスタマーで、最初に同機を受け取り就航させたエアライン。

事故を起こした「N772A」は、2号機に当たる。

機齢は26年と高く、正直「まだ現役だったのか」と思ったが、もちろん恒常的に点検・整備はしているし、機体自体は規格に耐えうる状態だったはずである。

1-1-14A -B777-222,_United_Airlines_N771A.jpg ←最初に営業飛行を行ったユナイテッド航空B-777-200の初号機「N771A」(ウィキペディア英語版より)

更に誤解されそうなのは、エンジンも=古い・・と思われること。

事故機の状況は分からないが、基本的にエンジンは消耗品であることから、耐用時間を過ぎればまるごと「交換」する。

B777は元々「中型機」としてベストセラーになった、B767の「拡大版」と言うコンセプトで開発された。

それまで長距離機は、エンジンや航法装置の信頼性の問題から特に洋上飛行に関しては多発機に限られ、双発機は「ETOPS」と言う規制がかけられていた。

しかしエンジンの技術向上とコンピューターの普及で、B767が初めてその規制をクリアすることになり、経済性・環境性に優れた双発機が必要とされた。

1-1-14A-B777-200 FIRST_.jpg ←94年に初飛行したB777-200初号機(ウィキペディア襟語版より)

B767は少し小さい機体だったことから、一回り大きく。そして長距離を充分こなせる双発機としてB777が登場したのである。

日本では全日空がユナイテッド航空に続いて発注し、日本航空は6番目に発注した。

この時はまだ「青写真」の状態で、ボーイングはこれらのエアラインにB777の仕様に関する意見を求めながら開発する「ワーキング・トゥゲザー」プロジェクトを立ち上げて、ユーザー側の要求を満たしながら開発した。

当初の計画では、エアラインの需要に合わせて3つのタイプが考えられた。

バリエーションと言うよりも「仕様」の違いで、同一機種ながら座席数を可能な限り増やし、標準航続距離を10,000キロ前後とした「Aタイプ」。

12,000キロ前後まで飛べる「Bタイプ」、そして13,000~15,000キロと言う超長距離能力を持たせた「Cタイプ」であった。

90年代初頭では、まだ長距離路線の主役は3発機・4発機であり、ボーイング自身B747-400を発売したばかりだった。

マクドネルダグラスのMD-11、エアバスはA340のデビュー直前だったこともあり、とりあえず基本型となる「Aタイプ」でゴーサインに至った。

そうして完成したB777は「世界最大の双発機」としてデビューし、ボーイング初のフライ・バイ・ワイヤ機として大きな注目を浴びた。

またCADを主体として、初めて全面的にコンピューターを使って設計された旅客機でもあった。

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1-1-14A_B777-200_ANA JA8199.jpg ←(2枚)日本で最初にB777を就航させた全日空。同機をアピールするため3号機までは尾翼の「ANA」ロゴを「777」に替えていたが、これはB767と「見分けにくい」と言う意見があったからでもある(ウィキペディア英語版より)
最も注目されたのは、B747の次ぐ大きな機体を飛ばすエンジンだった。

エンジンは選択制が取られ、今回問題となっている「PW4000」、「GE90」、「トレント800」の3種類が用意された。

最初の運用者となったユナイテッド航空はPW4000を選択したが、このエンジンは製造したP&W社が初期に開発した「JT-9D」をベースに、大幅に改良した高バイパス比エンジン。

推進ファンの大きさでバリエーションがあり、小さい径のエンジンはエアバスのA300/310/330シリーズやB767にも使われている。

B777の「112」シリーズは、同機のデビュー時点で世界最大の旅客機用エンジンで、推進ファンの直径は2.84メートルもある。

カウリング・ナセルを含めるとゆうに3メートルを超え、B737の胴体とほぼ同じ口径を持つ巨大な常識外れのエンジンだった。

もちろん2基のエンジンは、専用のコンピューター「FADEC」で制御され、常時最適な回転数を調節できる。

同エンジンを持ったB777は、営業開始と同時に洋上飛行制限「ETOPS180」を取得した最初のエンジンであり、この時点で「長距離飛行は多発機」と言う概念を瞬時に覆したエンジンであった。

日本では全日空、日本航空、そして日本エアシステム大手3社が揃ってB777-200を導入するとともに、エンジンもPW4000を選択した。

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1-1-14A_B777-289_JAS_JA8978.jpg ←(2枚)全日空に続き導入した日本航空は「スタージェット」と命名し、B727以来のボーイング機導入となった日本エアシステムは公募デザインと国内線発の3クラス制で大きな話題を振りまいた。同社での愛称は「恋慕―セブン」(ウィキペディア英語版より)

最新の大型ワイドボディ機であり、開発から部品の製造も日本が関わっていた事もあり、同機の整備に関してお互いに情報や技術を共有する協定が結ばれると言う、異例事態だった。

3社が同機種を導入するのはB727以来の事で、このことも注目された。

全日空と日本航空は、老朽化しつつあるB747クラシックの後継機として導入したが、日本エアシステムは輸送力増強の為の導入だった。

同社は先にB747-400を発注していたが、それをキャンセルしてB777-200に切り替えていた。

また環境問題もこの時代から取りざたされるようになると、大空港の一つ大阪・伊丹空港が多発機の乗り入れを禁止したことも加わって、主力だったB747の運用が不可能になった。

そこで200型の胴体を延長し、B747を越える全長約74メートルの300型が開発された。

同機は全日空と日本航空が発注し、B747-400Dと比べても最大で15%も燃費が良いことから国内幹線の主力機に位置付けられた。

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1-1-14A B777-300-JapanAirlines JA751A.jpg ←(4枚)747クラシックの後継機として導入されたB777-300。全日空の初号機は特別塗装だった。日本航空は200型と同じく「スタージェット」だったが「アーク塗装」で消滅した(ウィキペディア英語版より)

両社の300型もエンジンはPW4000を選択していたが、この後導入した国際線機材となる「200ER」になると、全日空は出力を向上させたPW4000を踏襲したが、日本航空はGE製の「GE90」を初めて選択した。

最初の200型でPW4000が選択されたのは、受注の時点で「GE90」とイギリス、ロールス・ロイス製「トレント800」が未完成だったこともあったし、PW4000自体既にB747やB767で実績を獲得していたからだった。

生産では300型ではGE90を選択したエアラインがなく、PW4000とトレント800だけである他、メイン機種となった「300ER」ではGE90だけとなり選択制が廃止された。

生産自体「通常型」の200・300型は少数生産に留まり、生産の中心はどちらも「ER」に移行した。

日本の200型は一部機材が近距離国際線用機材として運用されたが、300型は完全な国内線仕様。

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1-1-14A_B777-200ER ANA JA716A.jpg ←(3枚)国際線機材として導入された全日空のB777-200ER。通常型200の退役に伴い国内線に転用されている(ウィキペディア英語版より)

導入当時普通席は3-3-3の9列と言う標準配置だったが、数年後3-4-3の10列に変更し、500席を越える座席数を確保した。

代わりに航続距離は5,000キロ程度に抑えられており、全日空の300型は2クラスながら525席と言う双発機としては世界最大の座席数を実現した。

00年代には日本航空と日本エアシステムが統合し、文字通り2巨頭体制の主力機は間違いなくB777になって言ったのである。

10年代になると、老朽化で初期導入機の退役が始まり、全日空では国際線用機材だった200ERを国内線用に改装して初期型と更新した。

しかしB787が登場すると、航続距離・経済性と言う点でB777のそれを上回る機体と言う事で、日本のB777が少しずつ減勢し始める。

1-1-14A B777-200ER JAL-JA711J.jpg ←現在も国際線機材として活躍する日本航空のB777-200ER。200・300型と違い、日本で初めてGE90エンジンを装備した(ウィキペディア英語版より)

私の手元には、00年代前半に某出版社が発行したB777の本が残っている。

200型がデビューしてから約10年後の刊行だが、ちょうどB777-300ERが国際線の主力になった頃である。

かなり「持ち上げた」内容になっているのは仕方ないが、当時としてはB747にしかできなかった長距離飛行と大きな座席数を両立し、かつ遥かに経済的で環境性に優れていることが随所に書かれている。

B777は確かにそういう機体ではあるが、B787の登場で急に霞んでしまったように見える。

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1-1-14A_B777-381_(JA757A).jpg ←(2枚)全日空現行塗装のB777-300(ウィキペディア英語版より)

B787は一回り小さい「中型機」のカテゴリーだが、それは基本型である「8」が相当し、胴体を延長した「9」はB777-200に相当し、最長モデルの「10」では、B777-300には及ばないものの飛行パフォーマンスと言う点では上である。

加えて予想だにしなかったコロナ禍は、若干霞んでいたB777に追い打ちをかけることになってしまい、日本の2社は老朽化による退役計画を前倒しした他、全日空のように経営不振が加わって新しい300ERまで退役せざるを得ない状況になってしまった。

そこに今回の連続したエンジン損傷事故は痛い。

ボーイングによると、PW4000を搭載したB777は約130機残存しているが、コロナ禍の影響で稼働しているのは69機とされている。

運用中なのはユナイテッド航空の他、全日空と日本航空、大韓航空とジン・エアーだけ。

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1-1-14A-B777-2B5ER_HL7733_Jin_Air.jpg ←(3枚)大韓航空のB777-200ERは、子会社のLCC、ジン・エアーに移籍した(ウィキペディア英語版より)

こうして見ると、PW4000エンジン機はかなりの少数派であることが窺える。

事故機を含め「通常型」は200・300型とも、機齢は20年前後に達しており、コロナ禍前から順次退役が予定されていた。

先に書いたように、機体とエンジンが「同い年」であるとは限らず、通常は交換しているが、エアラインの事情にもよる。

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1-1-14A B777-300 CATHAY B-HNP.jpg ←(2枚)キャセイ・パシフィック航空のB777-200/300は、ロールス・ロイス「トレント800」エンジンを選択した。200型は退役したが、300型はまだ残存している(ウィキペディア英語版より)

真偽のほどはわからないが、退役間近の機材に対しては「あまり手間とお金をかけたくない」と言うのがエアラインの「本音」だと聞いたことがある。

事実退役する機体の多くは、徐々に機数を減らし、最終的にはレギュラー運航をせず「予備機」扱いにされることも多い。

PW4000はタイプとしては「古い」部類に入り、退役を鑑みて整備が「手薄」になっていた・・と考えられなくもない。

最も安全と言う点であってはならない事だが、本体は限界まで使いブレードなどの消耗品だけをこまめに交換・・と言う事はあり得ることだ。

少なくともメーカーサイド、各国の当局が運航・飛行停止措置を取ったと言う事は、同機の寿命を一気に縮める可能性もあるだろう。

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1-1-14A B777-300 Japan_Airlines_JA752J.jpg ←(2枚)日本航空のB777-200と300(ウィキペディア英語版より)

今のところGE90・トレント800搭載型では何の問題も起きていないので、古いB777と言うよりもPW4000エンジン自体に問題が浮上したと言う事かも知れない。

もう四半世紀も前の事になるが、日本の300型は国内線専用機材だったが、海外では輸送力を生かした中距離国際線機材としても運用されていた。

日本へはシンガポール航空やキャセイ・パシフィック航空、タイ国際航空などが同機を就航させていたが、最も注目されたのは大韓航空の300型だった。

同機は完全な国際線仕様で、なんとETOPS運航を利用してソウル~東京~ロサンゼルスを定期運航していた。

前任はMD-11で、これもファンの人気が高かったが、定期便として世界で初めて「太平洋横断」したのである。

このことはギネスにも認定され、「世界一長距離を飛ぶ双発機」になった。

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1-1-14A B777-300 KOREANAIR-HL7532.jpg ←(3枚)ソウル~東京~ロサンゼルスを運航した大韓航空のB777-300(ウィキペディア英語版より)

まだ「ER」が出る前だから、「通常型」の300である。

座席数を減らし、燃料を目いっぱい積むことで運航していた。さすがにソウル~ロサンゼルス間の直行は出来なかったが、大韓航空は「以遠権」を持っていたので、ソウル~東京間の利用も出来た。

ERでなくても太平洋横断・・と言うスペックに、非常に驚いた記憶がある。

これらの機材はキャビンが改修され、日本と同じく輸送力重視型として近距離国際線で運航されているが、コロナ禍と今回の運航停止措置で退役になる可能性も大きい。

何よりもコロナ禍が大きいが、あれだけ「常識を覆す最新鋭機」ともてはやされたB777が、いつしか「古い」機体になってしまったことは残念である。

それ以上に、今回の事故で「古くて危険」「不経済」と言うレッテルが貼られてしまいそうで、それが一番残念に思う。

B777はあらゆる面に置いて、エポックメイキングな旅客機である。

現在発展・改良型として「B777X」が開発され、原形機も初飛行したが、製造トラブル・コロナ禍と言うダブルパンチを浴び、テスト飛行八円している。

加えて「B737MAX」の連続事故も尾を引いており、ここにきて初期型とは言え今回の事故は痛い。

いずれ幕引きの日は来るにせよ、このような形で終わって欲しくない。

初めてB777に乗った時、その大きさに信じられず「新時代」を感じずにはいられなかった。

双発機なのに747並みの大きさ、キャビンの広さ、そして当時としては異例の巨大エンジンは正直「あり得ない飛行機」に思えた。

あれから25年もの月日が経ったとは思えないぐらい、B777はまだまだ現役・・だと思っていた。

しかし度重なる「不運」が、同機を一気に過去に連れ去ろうとしていることにならなければ良いが・・と思う。

飛行機ネタ 真価を問われるエア・インディア(2月19日 晴れ時々曇り 8℃)

出来ればもう少し青空が欲しい・・・基本晴れなのだけど、日中は雲が優勢。

でも冷たい風もなく、穏やかな冬の1日。

日陰でしつこく残っていた雪も、いつしか消えた。

この週末は再び春のような気温になるそうで、「三寒四温」の時期を迎えたのだろうか。

最大震度6強の大地震から、約1週間。

揺れの強かった地域で続いていた断水などは、ほぼ解消したと言う。

運休中の新幹線は、来週24日に復旧すると発表された。

余震は相変わらず続いているが、有感地震の数は減衰している。

来月は東日本大震災から10年と言う大きな節目を迎えるが、その直前に震災以来の大地震は何か因縁めいている気がする。

ちょっと思ったのだけれど、今回の地震に「まさかまたこんな大きな地震が・・」と言う人がいることに疑問を感じた。

テレビのインタビューやSNSでの話だから、そういう意見ばかりピックアップしているだけかも知れない。

今回の地震は震災の余震と思われるが、気象庁では今後そのような表現を止める検討をしていると言う。

おおざっぱに言えば余震と言えるだけで、今回の地震は震災の震源地とは直接関係なく、「影響」を受けた「誘発地震」とした方が良いと言う。

元々東北の太平洋側は「地震の巣」であり、過去に何度も大きな地震が発生している。

震災は1,000年規模の「特殊」な地震で、今回程度の地震は福島・宮城・岩手・青森付近だと5~10年ごとに発生するほどだ。

あくまでメディア上での印象なのだけれど、震災のおかげでもう大地震はあり得ないと勘違いしている人がいるのかな、と思う。

確かに震災級は向こう1,000年間ないかも知れないが、今回程度の地震はいつでもどこでも起こりうる。

たまたま10年間なかったに過ぎず、震度5クラスは何度か発生している。

新幹線もそうだが、県内では多くの公共施設が壁に亀裂が入ったり、天井の板が崩落したり、ガラスが割れるなどの被害が多発している。

仙台市内の給食センターでも同様の被害が発生し、今週いっぱい給食が中止し、担当区域の小中学校では弁当持参を強いられた。

民間の建物でも被害が出たが、「公僕」が複数被害と言う事に「はあ?何やってんの?」と「愒」を入れたい。

災害だから・・と思うけれど、この10年間何を考えていたのだろうか?

新幹線も含めて公共物は、最大限の技術とお金をかけてでも災害に耐えうる物を作る「努力」が必要ではないか?

口では「あの日を忘れない」とか言いながら、あちこちで被害とは責任うんぬん以前の問題。

落ち着いたらで良いから、行政に追及すべき事態だと思う。

10年はあっという間に思えるけれど、どれだけ長い月日でもある事か。

私の家の近所には、小学生・高校生を持つご家庭がある。

ふと10年を考えると、高校生の子たちは震災当時小学校低学年。

ご近所の小学生は確か4年生と2年生と聞いていたから、彼らは震災を「知らない」のである。

この辺りは被害が出るほどの揺れはなかったが、強く揺れた地域の子供達はどれほど怖かったことだろう。

なのに体験したはずの大人たちは、「大きい地震はもう来ないだろう」と勝手に思いこみ、慌てふためいている。

子供たちを前に「恥を知れ!」と言われても、反論する資格はない。

震災の時、私と母は地域の小学校へ避難して3泊した。

数分置きに大きな余震が続き、停電・断水する中、緊急物資の遅延にいら立ち、市や県の職員や自治会に食ってかかる人もいた。

貯蓄していた非常食や水、毛布などを避難していないにもかかわらず大量にもらおうとする住民がいて、自治会ともめた場面もあった。

どちらの気持ちも理解できたけれど、不安を感情ですり替える大人たちをしり目に、子供達は冷静だった。

中高生が率先して、水や食料を避難している人に配ったり、小さな子供の面倒を見たり、給水所から見知らぬ人の家にポリタンクを運んであげたり、その行動は素晴らしかった。

大人に言われてではなく、自主的な行動だった。

そのうち小学生も「お兄さん、お姉さん」たちに、自主的に手伝うようになっていた。

彼らこそ人生初の大災害に、どれだけ恐怖と不安で泣き叫びたかったことか・・・。

今でも思い出すと、目頭が熱くなる。

子供だと思っているのは大人の身勝手であって、時には怖くなるほど彼らは冷静で、人のために尽くす事を躊躇しない。

それがどうだろうか、コロナ禍でもそう思うのだが、今の大人たちは損得勘定ばかりで、最悪の事態を恐れてうろたえるだけ。

コロナ禍では「自粛警察」なんてのが流行したが、子供達がそれを見て正しい行動だと思うだろうか?

うろたえている大人に、子供達は誰を頼れば良いのだろうか。

子供が見てる前で、大人は安易に「怖い」「不安」を口にすべきではないし、社会全体も「大丈夫だ」と言える責任を持つべきであろう。




夜にちょっとお茶を・・・と思って、ファミレス「S」に言ったら家族連れでいっぱいだった。

休日前は混む事を知っていたが、それにしてもただの土曜日なのに・・・と思った。

よく考えたら、来週火曜日は「天皇誕生日」の祝日で、事実上今日から「飛び石連休」なのだ。

中には月曜日に休みを取って「4連休」と言う人もいるのだろう。

そのせいで混んでいたのかも知れない。

明日明後日は気温が上がり、春のような暖かさが予想されていて、今夜も寒さをあまり感じない。

いつしか2月も下旬に突入で、そろそろ春の息吹が・・と思いたいが、暖かさは一時的。

「連休後」は、この時期本来の寒さが戻ると言う。

関東以西では「花粉」の飛散が始まっているそうで、花粉症の人には悩ましい季節の到来だ。

仙台ではまだだそうだが、空気の乾燥と気温の上昇で、過敏な人は症状が出るかも。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

週末、飛び石連休。君はどう過ごすのでしょう。

まだコロナ禍が収まらず、連休と言う言葉にときめく事ができませんが、春の声も微かに聞こえて来るようです。

空気が乾燥していますので、喉や鼻の調子には気をつけて下さい。

寒さもまだ続く可能性があるので、体調管理には注意して下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




妹が家に 咲きたる梅の いつもいつも なりなむ時に 事は定めむ(万葉集巻三 藤原朝臣八束)







飛行機ネタ。

近年インドの発展が目覚ましいことは、日本でも良く報じられている。

インドと言うと「カオス」を思い浮かべるが、同時にIT産業や自動車などの工業部門の躍進が目覚ましい。

ご存じの通りインドはアジア南部、「インド亜大陸」を占める大国で、その面積は約328.7万平方キロ。日本の約8倍もある。

最も話題になるのは人口で、現在で約13.5憶人。世界最大の人口を持つのは中国だが、最近出生率が低下しており、近い将来インドが中国を抜いて世界一になることが確実視されている。

歴史も古く、インド発祥の物も多い。

もちろんカレーもそうだけれど、仏教もそうだし、数学は古代インドで確立されたと言われている。

日本では最近まで途上国のイメージが強かったが、実際には農業・工業の分野では過去から先進的な部分を多く持つ。

航空機も軍用機を中心に開発して来た経緯があり、世界で「6カ国目」の核保有国になっているのも同国の科学技術の一つと言える。

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1-1-13A-Cheh_Tuti_Chowk_or_Six_Tuti_Chowk,_Main_Bazar,_Paharganj.jpg ←インドの首都デリー。高層ビル群と下町の通り(ウィキペディア英語版より)

一方で8割以上の国民が信仰するヒンドゥ教では、独特の「カースト」と呼ばれる出生身分制度が貧富の差を生んでいると言われる。

「カースト」はインドの憲法で否定され違法になっているが、2,000年以上インド社会に浸透してきただけに「慣習」として根強く残されていると言う。

その為貧困層が多いことも事実で、社会問題になっている。

更に人口の多さは広い国土における地域差も生み出し、インド国内では方言を含めると800を越える言語があると言われている。

「公用語」として最も話者の多いヒンディ語と英語が指定されているが、この他に20の言語が「準公用語」として認定されており、通貨である「ルピー」の札には14の公用語が記入されている。

ヒンドゥ語話者は人口の4割前後と見られ、州ごと全く言葉が通じないことも珍しくなく、近年は英語を話す人が増えている。

19世紀からイギリスの統治下にあったため、元々英語話者が多く、道路は日本と同じく車は右ハンドル左側通行である。

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1-1-13A Tata_Hexa_(10).JPG ←(2枚)58年から14年まで生産が続いた国産車「ヒンドゥスタン・アンバサダー」と最新のSUV車「タタ・ヘクサ」(ウィキペディア英語版より)

意外と知られていないが、インドは大変親日国であり、国民の多くも親日派が多い。

インドがイギリスの支配から独立したのは1948年で、その指導者が「非暴力主義」を訴えたマハトマ・カンディであることは良く知られているが、独立運動のきっかけを作ったのが日本だった。

第二次大戦後半の1944年(昭和19年)、ビルマ(現ミャンマー)に展開していた日本陸軍はインド側にありイギリス軍の拠点インパールを奪取すべく侵攻作戦を行った。

悪名高い「インパール作戦」である。

既に日本は敗戦への一途を辿っていたにも関わらず、司令官の「功名心」で作戦が実行された。

結果的に16万人とも言われる莫大な犠牲を出して、作戦は失敗したのだが、この裏にはインドの独立運動があった。

20世紀以降、インドでは反イギリス勢力が台頭し、「インド国民軍」が抵抗運動を続けていた。

日本軍のインパール攻略は、インド国民軍にとって独立運動を本格化させるきっかけとなった。

作戦は失敗したが、イギリス軍も相当の犠牲を出して戦力を消耗させており、翌年日本が敗戦するとインド全土で独立機運が高まったのである。

結果的には負けたものの、全滅を覚悟でイギリス軍に立ち向かった日本軍の姿に、インド人は勇気づけられたと言う。

1-1-13A-QtubIronPillar.JPG ←世界遺産「デリーの鉄柱」。5世紀に建てられ、「錆びない鉄」は未だ謎である(ウィキペディア英語版より)

欧米の植民地主義・帝国主義は、武力で途上国を抑えつけ、搾取することが目的であり、現地人は抵抗する気力も奪われていたのであった。

インドの独立にも多くの犠牲が伴ったが、同じアジアの国である日本が米英に正面から戦った事がインドでは高く評価されている。

加えて8月6日と9日の「原爆記念日」には、現在も毎年メディアで報道され、追悼行事も行われている程日本に対して親近感が高い。

独立後のインドは「非同盟主義」を掲げ、東西冷戦中は中立の立場を保ち、旧宗主国イギリスとの関係の他旧ソ連とも友好関係を保った。

特に50~60年代のソ連は中国と激しく対立しており、インドも北部国境地帯で中国と係争していたため「敵の敵は味方」と言う関係だった。

中国とは現在も対立関係にあり、インドは日本やアメリカ、オーストラリアと言った「アンチ中国」派との関係を強めている。


インドのフラッグキャリアは、日本にも就航している「エア・インディア」である。

同社はインドで最も古いエアラインで、1932年にJ・R・D・タタによって設立された民営の「タタ航空」が源流である。

タタは現在インド最大の企業グループ「タタグループ」の創始者。

戦時中は運休を余儀なくされたが、インド人による初のエアラインであった。

1-1-13A AIR INDIA-B747-437,_Air_India.jpg ←大国インドのフラッグキャリア、エア・インディアのB747-400(ウィキペディア英語版より)

独立後タタ航空をインド政府が買収し、インド初の国営エアライン「エア・インディア」として再編された。

資金や機材はイギリスが多くを提供し、戦後余剰となったDC-3/C-47をほぼ無償で提供され、デリー~ムンバイ間などの国内線の運航を開始した。

企業形態としては、インド政府が51%の株式を保有し、残りはタタグループが所有して「半官半民」の体制であったが、事実上は国営エアラインであった。

48年には最新のレシプロ4発旅客機、アメリカ製のロッキード「L749コンステレーション」を導入し、ロンドン線などを直行便化した。

1-1-13A-Air_India_DC_3_at_Heathrow.jpg ←設立当時のDC-3(ウィキペディア英語版より)

日本へは55年にL749の発展型「L1049スーパーコンステレーション」で、羽田に就航した。

外国のエアラインとしては、アメリカ・ノースウエスト航空、北欧のSAS、オランダのKLMと並んで最も初期に日本線を開設したエアラインの一つである。

長距離機の導入で、経由便ではあったがニューヨーク線なども次々開設し、文字通りインドのフラッグキャリアとして順調に業績を上げた。

1-1-13A Air_India_L-1049G_Super_Constellation_at_Prague_Airport.jpg ←55年(昭和30年)羽田線に就航したエア・インディアのL1049Gスーパーコンステレーション(ウィキペディア英語版より)

ジェット化は62年、B707の導入からである。

同機は早速デリー・ボンベイ(現ムンバイ)~ロンドン~ニューヨーク線に投入された。

初期の導入機は、イギリスの影響もあってロールス・ロイス「コンウェイ」を装備するB70-420だったが、その後燃費の良い「JT-3D」ターボファンエンジンを装備したB707-320に切り替え、長距離路線の主力になった。

71年には南アジアでは初めてB747を導入し、輸送力が増強された。

話が少し遡るが、53年インド政府はもう一つの国営エアラインとして「インディアン航空」を設立していた。

同社は国内線と近隣諸国などの近距離国際線を担当し、エア・インディアは中長距離国際線に特化させていた。

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1-1-13A AIR INDIA B707-320B-VT-DVB.jpg ←(2枚)エア・インディア初のジェット機として導入されたB70-420と320B(ウィキペディア英語版より)

これによってエア・インディアは名実ともに、インドを代表するエアラインとなったが、実は90年代前半までインドのエアラインは国営のエア・インディアとインディアン航空の2社だけだった。

この時代で人口は既に10億人を突破しつつあったが、幾つかの小規模のエアラインは幾つか存在していたものの、エアラインと言えばこの2社しかなかった。

インドは広大な国土を持っているが、国民の貧富の差は非常に大きく、全人口の8割が低所得層と言われている。

憲法で否定されている「カースト」制度は、生活レベルではなおも影響を残しており、自由に就学・就労できる人が少なかった。

故に広大な国土にも関わらず、国内移動の主力は鉄道やバスだった。

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1-1-13A AIR INDIA-B747-237B.jpg ←(2枚)日本線にも投入されたエア・インディアのB747-200B(ウィキペディア英語版より)

周知の通り、イギリスがインドを統治したのは豊かな資源のためであった。

発端は日本でも良く知られる多様な「スパイス」だと言われるが、この他にお茶・繊維類などの生産が豊富であり、イギリスの近代化に大きく貢献した。

これらの産物を輸送する手段として、イギリスは早期から全土に鉄道網・道路網を拡張していたのである。

こうした事情から、インド国内での飛行機の利用者は限られた存在であった事と、政府の「寡占」が黙認され続けていた結果でもあった。

しかし経済が向上し始めた80年代になると、中間所得層が増え始め、飛行機の利用者も増加した。

するとサービスの悪い「国営エアライン」に批判が起き、92年に「タタ航空」以来の民間エアライン「ジェット・エアウェイズ」が設立された。

同社は民間資本で運営され、先進国のエアラインをお手本とした高品位のサービスと、割引運賃などで乗客の誘致に成功した。

国際線の運航も素早く、機材はリースで短期に調達し、瞬く間に輸送人員はエア・インディアに追いつき、インド第二位のエアラインに成長した。

1-1-13A AIR INDIA_TriStar_500.jpg ←輸送力増強のために中古で購入したトライスター500(ウィキペディア英語版より)

21世紀になると、法律が改正されエアラインの設立・運航の規制が緩和されると、異業種の大手企業グループの参入が始まる。

特に00年代前半には、世界的潮流に乗ってLCCが次々設立されるようになる。

コストの安さから、インドへは海外の投資が増え、「隠れたマーケット」を見つけた先進国の企業が相次いでインドに進出した。

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1-1-13A AIR INDIA B747-400 VT-EVB.jpg ←(3枚)長年親しまれた旧塗装のB747-400(ウィキペディア英語版より)

日本も自動車メーカーや電機メーカー、IT企業など多数がインドへ進出し、現地法人を開設している。

それは雇用を増やし、国民の所得が増えることも意味し、これまで安い鉄道やバスを利用して来た一般国民も飛行機を利用し始めた。

そこに目を付けてLCCが台頭し、まさに「バブル」のように成長したのである。

国際線専門のエア・インディアはともかく、国内線・近距離国際線専門の「インディアン航空」は、これら新興エアラインの波をモロに被ることになり、一気に業績が悪化した。

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1-1-13A INDIAN AIRLINES_A320-231 VT-EYL.jpg ←(3枚)国内線・近距離国際線専門だったインディアン航空のA300-B4とA320。下は統合直前に変更された新塗装のA320(ウィキペディア英語版より)

05年打開策として、LCC部門の「エア・インディア・エクスプレス」、06年にはリージョナル専門の「アライアンス・エア」を設立し、民間LLCに対抗策を取り始めた。

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1-1-13A-ATR.72-600_AIR_INDIA_EXPRESS_F-WWEZ_1226_TO_VT-AIT.jpg ←(2枚)エア・インディアのLCC部門、エア・インディア・エクスプレスのB737-800と、リージョナル・コネクション便を運航するアライアンス・エアのATR-72-600(ウィキペディア英語版より)

07年には、政府主導でエア・インディアとインディアン航空が統合されることになり、移行期間は両者はコードシェア運航でブランドを継続させたが、11年正式に統合完了し、インディアン航空は消滅した。

インドのLCCは格安と言うだけでなく、欧米のそれとは違ってメジャー並みのサービスを提供するエアラインが多く、エア・インディアの苦戦は続いている。

再編はしたが、国営エアラインであることは変わりなく、サービスの質の低さが尾を引き、業績は改善していない。

00年代までに比べれば良くなったという評価が多いが、民営に比べて賃金が安いことから乗務員の質も低いと言うイメージが固着しており、遅延及び欠航率も高い。

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1-1-13A Air_India_B777-200LR_Lofting.jpg ←(4枚)エア・インディアのフラッグシップB777-300ERとB777-200LR(ウィキペディア英語版より)

統合時に「スターアライアンス」に加盟する予定だったが、連盟から資金不足とそれに伴う安全性が問われて延期され、14年に加盟している。

政府は株式の売却や投資誘致に乗り出しているが、過去の負債が大きく厳しい経営状態が続いている。

最も民営のLCCは、国内線や近隣諸国だけが多く、長距離国際線は現在もエア・インディアの寡占状態にあるため、政府は外国人利用者の誘致にも力を入れて、機材の更新を進めている。

日本線はB707から、70年代にB747に変更され、長らく同機の時代が続いていた。

80年代後半には同社初のエアバス機、A310を導入してダウンサイジングによる効率化を図っている。

それまでは大型機ばかりで効率が悪かったが、A310の導入で柔軟な運用が可能になった。

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1-1-13A Air_India_Cargo_A310-304(F).jpg ←(5枚)B747の後、日本線に投入された新旧塗装のA310-300。晩年は貨物機に改造されて10年代初期まで使われた(下2枚)(ウィキペディア英語版より)

日本へは関空の常連機材だったが、現在は東京線にA310の後継機として導入されたB787-8が就航している。

この他国内線と近距離国際線用としてA320シリーズが主力になっていて、デリーやムンバイでは国際線との乗り継ぎが考慮されたスケジュールが組まれている。

長距離機材は30年以上B747を運用していたが、00年代に初めてB777を導入。

初期には通常型の200型と200ERだったが、その後200LRと300ERに変更。

特に「レア機」である200LRは、北米線の直行便に運用されている。

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1-1-13A Air_India_B777-200ER.jpg ←旧塗装時代に導入されたB777-200ER(ウィキペディア英語版より)

またB747は、200~400型まで運用し、日本線も200型の他300型では「300M」のコンビ型がレギュラーで飛来し、日本では貴重な「300コンビ」としてファンに人気があった。

残念ながら機数の少ない400型はレギュラーで投入されず、一時は東京線もA310で運航され、その後はB777が飛来した。

現時点で「747クラシック」は退役したが、4機のB747-400が現役にある。

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1-1-13A AIR INDIA-B747-337(M),_VT-EPW.jpg ←(2枚)エア・インディアのB747-300M(ウィキペディア英語版より)

同社ではB777/B787が充足したことで、B747を21~22年中に退役させる予定だ。

ただ1機はVIP機として政府専用機の役割を持つことから、全機退役の計画は流動的である。

インド国内では相変わらずLCCが優勢だが、一方で競争激化による飽和状態になりつつあり、最大規模だったキングフィッシャー航空が倒産するなど変化が起き始めている。

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1-1-13A AUR IINDIA B787-8 VT-ANU_Star_Alliance.jpg ←(3枚)エア・インディアの最新機材B787-8は、日本線の主力機種。同社は「8」だけを保有する(ウィキペディア英語版より)

エア・インディアの塗装は、個人的に異国情緒があって好きだ。

現行塗装はインディアン航空との統合に合わせて変更されたが、旧塗装は60年代から続く「伝統的」な塗装。

故にチートラインと言う、ちょっとレトロなデザインでやぼったい感じもするが、いかにも「インド的」で良かった。

社名ロゴなど細かい部分は何度か変更されたが、ポートサイド(胴体左側)にはヒンディ語、尾翼は英語で表記されている。

反対側のスターボード側には英語、尾翼はヒンディ語になっている。

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1-1-13A AIR INDIA-B747-400_VT-ESP.jpg ←(2枚)現行塗装のB747-400。現時点で4機が現役(ウィキペディア英語版より)
最も面白いのは客室窓で、すべての窓が赤く縁取られていて、良く見ると何かを表すような形。

これはインドでもっとも有名な世界遺産「タージ・マハル」をデザインした縁取りで、実にユニークで秀逸なデザインである。

90年代にこの塗装が変更され、「タージ・マハル」が消えると国内から猛反発が起こり、慌てた同社は「旧塗装」に戻すと言うエピソードを持つ。

1-1-13A AIR INDIA B747-337M,_VT-ERX.jpg ←想像以上に評判が悪く、短期間で廃止された旧塗装のB747-300M(ウィキペディア英語版より)

現行塗装はインディアン航空と統合されたのを機に変更され、チートラインが消えベースカラーが赤から黄色みの強いシャインレッドに変わった。

ヒンディ語と英語の併記は存続しているが、尾翼はインドの国章でもある「アショーカ・チャクラ(法輪)」が描かれ、エンジンにも記入されている。

気になる「タージ・マハル」は継承されたが、デザインはシンプル化されてしまい、旧塗装ほどのなるほど感はなくなった。

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1-1-13A AIRINDIA B747-437,_Air-India.jpg ←(2枚)旧塗装(上)と現行塗装のB747-400(ウィキペディア英語版より)

近年はラッピング技術が発展したが、旧塗装時代は窓1個1個全てに直接塗装しており、さぞかし大変な作業だったであろう。

その見返りとして「インドのエアライン」だと、一目でわかる優れた、そして洒落たデザインであった。

現在エア・インディアは127機保有し、国内外合わせて102都市に就航する。

評価はまだ高くないが、年々質は上がっていると言う意見が増えている。

1-1-13A-Taj_Mahal,_Agra,_India_edit3.jpg ←アグラにある世界遺産「タージ・マハル」(ウィキペディア英語版より)

ミールサービスでは、もちろん「カレー」がメイン。

一時期ベジタリアンが多いとして、肉料理を廃止する動きがあったが、現在は国内線や近距離国際線だけに留まる。

ただしヒンドゥ教では、牛肉・豚肉が禁忌なので、チキンと羊肉が主流だ。

長距離機材のワイドボディ機はB787を除いて、ファーストクラスを含む3クラス制。

B787とA320シリーズはビジネスクラスを含む2クラス制が基本だが、A319の一部機材はエコノミーだけのモノクラス。

60分未満の短距離路線以外は、国内線。国際線ともにドリンクを含むミールサービスは基本無料。

国際線ではアルコール類もサービスされる他、ワイドボディ機ではエンターティメント設備も完備している。

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1-1-13A-Air_India_-_Meal.jpg ←(2枚)B777のビジネスクラスと、カレー(インド料理)をメインにしたミール(ウィキペディア英語版より)

ある日本航空の機長は、以前のデリーなどインドの空港はとにかく「暗い」と言う話をしていた。

首都デリーでさえ電力事情が貧弱で、特に誘導路や駐機場は夜になると真っ暗で、機体のライトだけが頼りだったと言う。

それだけでは危険なので、誘導路や駐機場には専門の誘導員が配置されていて、ハンドライトで「交通誘導」していたと言う。

初めて降り立った時は、暗闇から突然人影が現れて侵入者だと思ったそうである。

もちろん現在は好調な経済に押されて、空港設備は完備されており、エア・インディアが本拠を置くデリーのインディラ・ガンジー国際空港とムンバイのチャトラパティ・シヴァージー国際空港では専用のターミナルを持つ。

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1-1-13A AIR INDIA_A321-211.jpg ←(5枚)インディアン航空と統合でB707以来のナローボディ機となった、国内線と近距離国際線の主力、A319/320/321と更新機材として導入が始まったA320neo。下はA321のキャビン(ウィキペディア英語版より)

コロナ禍を除いても、インドのエアライン事情は混沌としている。

経営不振と言われて久しいが、「国営」と言う基盤は強く駄目になりそうでならない・・のがエア・インディア。

日本では目立たない印象があるが、インド経済はまだ発展の可能性が高く、将来的には中国を凌ぐとまで言われている。

新興エアラインに押され気味ではあるが、今も国際線は良くも悪くも同社が主力である。

フラッグキャリアとしての重要性は、今後本格的に真価を問われると思われる。

尚インドの首都は、近年まで「ニューデリー」とされて来たが、同地は「デリー政府直轄地」の一部区域を指す為、現在日本では「デリー」に変更されている。

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1-1-13A Mumbai_03-2016_114_Airport_international_terminal_interior.jpg ←(2枚)デリーのインディラ・ガンジー国際空港とムンバイのチャトラパティ・シヴァージー国際空港(ウィキペディア英語版より)





飛行機ネタ 長寿が決定したトーネード(2月17日 曇り時々雪 4℃)

寒々しい1日だった。

寒気が居座って、断続的に雪が降る。

かと思うと日差しが出たり、実に変わりやすい空模様だ。

気温も平年並みの寒さで、夕方には氷点下まで下がった。

まだ2月と考えれば、ごく自然の事なのだけれど。

明日は二十四節気の「雨水」で、雪もいい加減雨に変わる頃・・とされるが、今年はどうだろうか。

土曜日の地震から4日目、余震もいくらか落ち着いて来たようだが、被害の影響が続く。

昨日仙台市内に水を供給する青葉区の大倉川で「灯油のような匂い」が確認され、浄水場で取水を一時中断した。

大倉川は大倉ダムを伴う仙台圏では最大のダムで、市内の他塩釜市や多賀城市、利府町などへも給水している。

トラブルで塩釜市や多賀城市で、昨日から今日にかけて断水した。

当初仙台市内も、青葉区西部の一部が昨夜0時から朝8時頃まで断水すると予告されたが、直前に安全が確認されたとして断水は回避された。

原因は大倉川上流沿いにある民家にある据え置き型の灯油タンクの管が、土曜日の地震で外れて灯油が漏れ出し、川に流れ込んだと言う。

とんだ迷惑話だが、これも二次災害と言えるのだろうか。

疑問なのは新幹線。

揺れが強かった福島県内を中心に、電柱が折れたり傾く被害が多発。

全面復旧まで10日以上・・として、今日も那須塩原~盛岡間が運休中だ。

同時に航空各社とバス会社が、東北各地に臨時便を運航して対処している他、JR在来線でも臨時列車を運行している。

仙台空港では全日空と日本航空が、少なくとも20日頃まで1日辺り数便ずつ運航する他、高速バスは10便以上増発している。

折しも受験シーズンで、首都圏方面へ行く学生さんが多いそうで、大変だろう。

しかし新幹線の被害は、正直「お粗末」と言わざるを得ない。

10年前の震災でも同様の被害が発生し、修理だけでなく補強工事を行ったはずだと思っていた。

ところがJRによれば、今回被害が出た電柱や橋脚は「まだ未改修」だったと言うから呆れてしまう。

あれから10年も経っていながら、「まだやっていなかった」とは言い訳にもならないのではないか。

今はとにかく復旧を急ぐことと、代替え輸送に頼る事が優先だろうが、今後大きな批判を浴びることになるだろう。

この10年間の間に、新幹線は渇望された青函トンネルを越えて北海道まで達し、北陸新幹線も開業した。

ちょうど震災の時にデビューした「E5系」が増備され、今や東北・北海道新幹線の最大速度は日本一の320キロ。

世界でもトップレベルに返り咲いた。

それは結構なことだが、裏を返せば目先の事ばかり一生懸命になって、肝心の「安全対策」を怠っていたと言う事ではないか。

新幹線はもはや日本の「動脈」であり、例え災害であっても被害は最小限に抑える技術を持っているはずなのに、10年間ほったらかしとはどういう了見であろうか。

新線開業や新しい車両を作る暇と金があったのなら、安全対策を先に手掛けるべきではないか?

今のところ災害と言う事で批判は見られないようだが、落ち着いたらJRを糾弾すべきだ。実に腹立たしい。

国会でも問題にすべきことだと思う。




この冬の寒さに慣れてしまったのか、夜はさほど感じない。

それでも気温は19時過ぎに氷点下になっており、真冬の寒さには違いない。

スーパーでは案の定、14日までのバレンタインの催しが、そのまま「ホワイトデー」に切り替わった。

バレンタインも1カ月前から出て、さっそく見ていた人がいたが、どうもホワイトデーは食い付きが悪い様で。

確かに1カ月も前から買う男性はいないと思うし、女性から見てもあまり良い感じがしないのでは?

余計なお世話ですが。

カフェに行くと、テストシーズンなのか教科書やノートを拡げる高校生の姿を見かける。

気持ちは分からなくもないが、友人同士で食べたり飲んだりしながらでは勉強にならないように思えるし、独りでいる生徒は本やノートに向かっている時間よりスマホをいじっている時間の方が多い。

中にはテーブルに伏せて居眠りする者もいるが、ちょっとマナー違反。

迷惑ではないけれど、疲れて居眠りするならばさっさと家に帰った方が良いのでは?

それこそ余計なお世話であろうが。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

気温の上下差が大きく、明日までは寒い様です。

でも週末はまた暖かく鳴りそうで、少しずつ春が近づいているのかも知れません。

同時に体調管理には、充分気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



寒過ぎて 暖(はる)来るらし 朝日さす かすがの山に 霞たなびく(万葉集巻十 1844 春雑歌)







飛行機ネタ。

ネット配信のニュースで、ふと目に留った記事。

ドイツ空軍は、保有する戦闘攻撃機「パナビア・トーネード」の機体寿命延命工事のプログラムを開始した。

前回フランス空軍が、同じく保有する「ミラージュ2000D」戦闘攻撃機の更新改修の着いて書いたが、今度はドイツ空軍だ。

最近ミリタリー部門については、若干距離を置いてしまっているので、正直「トーネードってまだ現役だったか?」と些か驚いてしまった。

ドイツ空軍では、一部の機体を除く保有する大半の機体を改修する予定。

プログラムは何と2,000項目に渡り、機体の殆どを分解して構造材などの交換や補強まで行われると言う。

その他電子装備のアップグレードなども並行され、飛行時間は8,000時間も延長される。

この改修により、ドイツ空軍のトーネードは、少なくとも2030年代末まで現役で配備されることがほぼ決定したと言う。

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1-1-12A-Tornado_IDS LUFTWAFFE.jpg ←(2枚)改修・延命工事で2030年代末まで現役で残る事になったドイツ空軍のトーネードIDS(ウィキペディア英語版より)

同機はこれまでにイギリス・イタリア・サウジアラビアで運用され、19年イギリス空軍機は退役したが、イタリアとサウジアラビアも当面現役に留まる。

イタリア空軍機はこれまでに何度か改修を受けているものの、今後ドイツ空軍と同様の寿命延命工事を行う予定があると言う。

旅客機は経済や世相に大きく左右されることもあり、だいたい20年程度で寿命を迎える事が多いが、軍用機は以前から3~40年使われることは珍しくない。

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1-1-12A_Tornado_IDS,_50-06 Italy_-_Air_Force.jpg ←(3枚)イタリア空軍のトーネードIDS(ウィキペディア英語版より)

ところが近年は、その期間が更に伸びる傾向にある。

米ソ間の冷戦が終結して30年以上経ち、国際情勢はすっかり様変わりした。

それは各国の軍事費削減を促す事になるのだが、国家間の紛争や緊張は逆に多様化し、削減ばかりでは国家の安全保障に隙が出てしまう。

最近はAIを筆頭に、兵器もハイテク化が進み、軍事費はそちらに振り向けられる傾向が強い。

かと言って「通常兵器」が不要になった訳でもなく、今後も維持して行く必要がある。

しかし新しい兵器の開発や導入には、莫大な経費と時間を必要とするため、そうした費用はハイテク兵器に優先し、通常兵器は「延命改修」で運用を続ける方法が広がっている。

先ごろ退役した航空自衛隊の要撃戦闘機「F-4EJファントム」も、就役から実に50年もの長い間現役にあったことは周知の事実であろう。

「パナビア・トーネード」は、60年代後半にイギリスを主導とする当時のNATO諸国が共同開発した戦闘攻撃機である。

1-1-12A_Tornado_GR1,_RAF.jpg ←80年から配備されたイギリス空軍のトーネードGR.1(ウィキペディア英語版より)

当時は東西冷戦真っただ中で、特に分裂国家だった「西ドイツ」は、「東ドイツ」と直接国境を接する「最前線」にあった。

米英主導のNATO軍と、ソ連をリーダーとする東欧諸国の「ワルシャワ条約軍」が1本の国境線を挟んで、双方合わせて数百万単位の軍が対峙していた。

特に東ドイツ国内には最も多くのソ連軍が駐留しており、その地上部隊は精鋭が配備されていた。

当時地上兵力では、ワルシャワ条約軍、殆どソ連軍だが、NATO軍より遥かに強力と考えられていた。

仮に国境を越えて侵入を許すと、それを阻止するにはもはや「核攻撃」しか手段がなくなる可能性が高かった。

そうなればソ連側の「報復」を招くことになり、ヨーロッパ域内での戦術核攻撃から米ソ直接対決の大陸弾道弾を打ち合う「破滅」になることは確実であった。

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1-1-12A-TornadoIDS OLD.jpg ←(2枚)グリーン系の旧塗装を施したドイツ空軍のトーネードIDS(ウィキペディア英語版より)

それを回避するには、ワルシャワ条約軍が国境を越える前に「阻止」することであり、それは航空兵力に頼らざるを得ない。

その場合正面の敵を阻止しただけでは押し切られるから、敵に知られることなく後方に回って「補給路」を徹底的に破壊することが重要だった。

1-1-12A-Tornado_IDS Italian_Air_Force.jpg ←80年代標準だったグリーンとグレーの迷彩で就役したイタリア空軍のトーネードIDS(ウィキペディア英語版より)

敵のレーダーに気付かれないように、低空を高速で飛行する攻撃機こそNATO軍に重要な兵器であった。

当時アメリカが「F-111」を開発し、大いに期待されたが、性能は申し分なかったものの、大型で機体価格が高価だった。

ソ連はF-111を大いに警戒しており、有事には最優先で同機を阻止する事を目標にしていたため、西ドイツ国内には配備できずイギリスに配備されていた。

イギリスは同機の導入を計画していたが、あまりに高価になってしまった為諦めていた。

更に西ドイツ・イタリア・オランダ・スペインなどが主力としていた攻撃機は、「F-104スターファイター」だった。

各国でライセンス生産され、数の上では主力機の座にあったが、元々は要撃機として開発された機体であり、低空飛行には不向きであった。

加えて地上攻撃用兵器の搭載と運用能力も限定的な上、高高度用の同機を超低空で飛行すること自体無理があり、事故も多発していた。

これらの国々も専用の攻撃機が必要だったことから、イギリスが主導して新しい戦闘攻撃機を共同で開発することになった。

69年にイギリスのBAE(現BAeシステムズ)、西ドイツのMBB(現DASA)、オランダのフォッカー、イタリアのフィアット(現アレニア)が開発と生産を分担する「パナビア社」を設立した。

資金分担の点でフォッカーはすぐに脱退してしまったが、残る3社で開発が決定し、「MRCA(Multi Roll Combat Aircraft)」と言う仮称で計画がスタートした。

これは「航空阻止」の為の攻撃機としてだけではなく、要撃機などの多目的性を持たせる事が最優先であった。

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1-1-12A-Tornado_GR.4_Aft_Cockpit.jpg ←(2枚)トーネードGR.4のコクピット。下は後部席(ウィキペディア英語版より)

アメリカではF-16の開発が進んでいたが、当初は「軽戦闘機」扱いだったため、MRCAは同盟国へ輸出も期待できるとされていた。

同機は出来る限り「ヨーロッパ製」を目指し、エンジンもイギリスのロールス・ロイスが主導しつつドイツ・イタリアの企業も参加するため、新たに「ターボユニオン」社を設立して、同機専用の新しいエンジンの開発に着手した。

基本的な骨子は、ターボファンエンジンの双発で複座、低速から高速まで対応できる「可変翼」を採用することにしていた。

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1-1-12A -Tornado_GR.4 RAF 5.jpg ←(2枚)可変翼の最前進位置と最後退位置のトーネード(ウィキペディア英語版より)

そして74年にプロトタイプが完成・初飛行し、テスト用の機体も何機か製造された。

テスト中は「MRCA」のままだったが、満足できる性能と判断され、3カ国の採用がほぼ決定し「トーネード」の名称が与えられた。

上記のようにトーネードは複座で、前席にはパイロット、後席には兵器担当士官が搭乗する。

装備された「RB199」ターボファンエンジンは難産で、計画に遅延が生じたが、その分完成度は高いエンジンであった。

最高速度はマッハ2.2に達し、複座の攻撃機としてはヨーロッパ最速でもあった。

1-1-12A-Rolls_Royce_RB.199_2.jpg ←トーネード専用に開発されたターボユニオンRB199ターボファンエンジン(ウィキペディア英語版より)

最大の特徴である可変翼は、25°から67°の間で展調できる。

低空及び低速飛行では前進位置に、マッハを越える高速では後退位置にすることで、速度ごと最適な角度で飛行する。

特に最後退位置では、尾翼とともに「デルタ翼」と同じ形状になるため、マッハ2以上を出せるようになっていた。

ただし可変翼は作動部分の構造が複雑で、かつ重量もかさむ欠点があり、利点もありながらあまり普及しなかった。

アメリカでは先のF-111の他、艦載機の「F-14トムキャット」が有名だが、それ以外ではソ連のMiG23/27、SU-17/22など多くは見られない。

主翼が稼働する事は、主翼自体強度の限界があり、攻撃機として主翼に吊り下げる兵器や増槽も制限を受けてしまうのである。

トーネードの主翼には、片側3か所のパイロンがあり、可変翼の角度に合わせて前を向く機構も備えているが、それはより搭載量を制限してしまった。

そこで胴体の下面を「平ら」にすることで、兵器の搭載量を増やしているのが大きな特徴である。

底までしても可変翼にこだわったのは、当時のヨーロッパの状況やマルチロール性を求めた結果である。

1-1-12A_Tornado_GR.4_Squadron_is_shown_in_flight.jpg ←四角い胴体断面を持つトーネード(ウィキペディア英語版より)

トーネードの全長は16.7メートル、全幅は25°で18.4メートル、67°で僅か8.6メートルと、意外とコンパクトだ。

にもかかわらず異常に大きい垂直尾翼を持つのは、胴体を角張らせた結果である。

その分敵のレーダーに捕まりやすい「ステルス性」が損なわれるが、同機の低空侵入ミッションでは10~20メートルと言う地上すれすれを飛ぶので、レーダーを気にする必要がないのである。

加えて最新のレーダーや航法装置、地形追随装置が必須であり、まだコンピューターが進化していない時代だったため、専門の乗員が必要だった。

それでも操縦にはデジタル方式の「フライ・バイ・ワイヤ」が実用化されており、F-16に続いて世界で2番目にオールデジタル化された機体となった。

そのおかげで低空飛行性能は抜群であった。

1-1-12A_Tornado_GR4_RAF Lofting-3.jpg ←演習で渓谷を高速で飛行するイギリス空軍のトーネードGR.4A(ウィキペディア英語版より)

80年にイギリス空軍から配備が開始され、生産を分担する西ドイツとイタリアにも配備が始まったが、期待されたヨーロッパ以外への輸出は叶わなかった。

幾つかの国が興味を示したものの、価格が高価であることや特化された機体がその行く手を阻んだような形であった。

唯一同機を採用したのは中東の大国サウジアラビアだけで、本来「輸出型」の計画があって生産ラインも用意されていた。

しかし発注がなかったことから、サウジ向けの機体はイギリス向けの機体を「割り振る」と言う形で生産された。

同機は生産だけでなく「売り上げ」も分割されることになっていたからで、結果4カ国の採用となった。

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1-1-12A_Tornado_IDS_-_Royal_Saudi_Air_Force.jpg ←(2枚)初期の砂漠塗装とグレー系現行塗装されたサウジアラビア空軍のトーネードIDS(ウィキペディア英語版より)

それでも同機の性能は予想通りで、行動距離にもよるが各種の兵器を最大で9トン搭載出来た。

これは第二次大戦中のアメリカのB-29、イギリスのランカスターと言った4発重爆撃機に相当する。

可変翼のパイロンには増槽や爆弾・対地ミサイルの他、自衛用の対空ミサイル「AIM-9サイドワインダー」を装備できる。

また機首には27ミリ機関砲が新たに開発され、固定武装として装着されている。

85年にはイギリス空軍向けとして、機首のレーダーを要撃用の「フォックスハンター」に換装した「トーネードADV」が開発・就役した。

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1-1-12A-Tornado_F3_RAF patrolling_over_the_Falkland_Islands.jpg ←(3枚)防空要撃型のトーネードADV。イギリス空軍の呼称は「F.2/3」(ウィキペディア英語版より)

これに対して従来のトーネードは「IDS」として区別されるようになったが、「ADV」はレーダーが大きくなったので、胴体が若干延長され、外観上の識別点になっている。

トーネードの実戦経験は意外と早く到来し、91年の「湾岸戦争」ではイギリス空軍の「GR.1」(イギリスでのIDSの呼称)を始めとしてイラクに送られた。

1-1-12A-Mauser_BK-27_LKCV.jpg ←トーネードの固定武装、モーゼル27ミリリボルバー機関砲。ECRでは下ろされている(ウィキペディア英語版より)

同機は予想以上の戦果を上げたが、同時にイギリス空軍では最も損害の大きい機体となった。

当時攻撃兵器は過渡期にあり、いわゆる「スタンドオフ兵器」が実戦デビューした事でも知られるが、戦術面を含めて実験的不慣れな要素も噴出したのである。

最も効果を上げたのは、レーザー照射による誘導兵器だったが、まだ自機で照射・攻撃できるシステムが確立されておらず、退役間近だった「バッカニア」攻撃機を急遽イラクに呼び寄せ、同機とコンビを組んで攻撃した。

「バッカニア」にレーザー照準装置を搭載し、ペアとなるトーネードが直接攻撃すると言うものだった。

この他に胴体下に大型のディスペンサーを吊るし、そこから200個以上の「クラスター爆弾」を敵の滑走路に散布・破壊するなど、実に様々な攻撃兵器が使用された。

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1-1-12A-Tornado_F3_RSAF_Feb1991.jpeg ←(2枚)湾岸戦争に参加したイギリス空軍のトーネードGR.1とサウジアラビア空軍のADV。イギリスのトーネードは砂漠迷彩のデザートピンクを施した(ウィキペディア英語版より)

西ドイツとイタリアはIDSのみの採用だったが、西ドイツは空軍の他海軍も運用した。

冷戦時代西ドイツ海軍はバルト海や北海での海上阻止任務を担っており、胴体下部に対艦ミサイル「コルモラン」を2基搭載出来た。

イタリア空軍のIDSも地中海における海上阻止任務を持っており、「コルモラン」を運用した。

冷戦後統一されたドイツは、海軍航空隊が再編されトーネードは空軍に移籍した。

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1-1-12A-Tornado IDS_MFG1_landing.JPEG ←(2枚)「コルモラン」対艦ミサイルを搭載し、リバーサを作動させる西ドイツ海軍のトーネードIDS(ウィキペディア英語版より)

00年代になると電子戦及び偵察機として「ECR」が追加生産され、各種電子ポッドを装備できるようになった。

ECRは敵のレーダーや、ミサイル基地を攻撃する任務も持っている。

ドイツ軍のECRは新造されたが、イタリア空軍では既存のIDSを改修した機体で、装備が異なる。

湾岸戦争の後、電子装備を中心に改良が重ねられ、イギリス空軍機は「GR.1」から「GR.4」に変更され、イラク戦争やアフガニスタン、最近では15年に開始された「ISIS」に対するテロ戦争でシリアを攻撃している。

防空・要撃型のADVは、後継機である「ユーロファイター・タイフーン」が就役したため、06年ごろに全て退役した。

90年代には、F-104の老朽化とタイフーンの遅延で防空戦闘機が不足したイタリア空軍が、イギリス空軍のADV(イギリスでの呼称はF.3」をリースで導入している。

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1-1-12A_Tornado_F.3,_Italy_-_Air_Force.jpg ←(2枚)リースで運用したイタリア空軍のトーネードF.3(ウィキペディア英語版より)

エンジンや構造はIDSと同じと言う事でリースされたが、実際にはイギリス製のレーダーを含む電子装備が同空軍では運用した経験がなく、故障も多く稼働率が低下し、現場での評判は悪かったと言う。

トーネードの後継機として開発された「ユーロファイター・タイフーン」は、それ以上のマルチロール性を持ち、各国のトーネードは全て同機に替えられるはずだった。

しかし国際共同開発の「常」で、計画は紆余曲折。大幅な遅延が発生し、機体の価格も倍増してしまった。

結果当初の配備数を、軒並み減らさざるを得ない状況に陥ってしまった。

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1-1-12A-Tornado_ECR RS-05.jpg ←(3枚)ドイツ空軍とイタリア空軍のトーネードECR(下)(ウィキペディア英語版より)

イギリスは「タイフーン」計画の筆頭であったこともあり、実戦機の総数を減らす事でタイフーンに機種を統一。トーネードGR.4を退役させたが、ドイツ・イタリア・サウジアラビアは改修することで、戦力として充分通用するとして今後同機の運用を続ける決断を下している。

00年代以降、主流となった精密誘導兵器はコンパクトになったこともあり、誘導機器と兵器を1機で運用できるようになったことから、トーネードの性能が見直された形である。

改めて見ると、トーネードは「武骨」と言えば聞こえが良いが、少なくとも格好良い飛行機ではない。

いかにも「実用的」と言うか、開発時期を考えれば当然なのだが、「同期生」にはF-16がいるから、それと比べると古典的でさえある。

今こそ「ステルス性」が優先され、機体は複雑な曲線で構成されるのが常識だが、トーネードは直線的と言うか、とにかく角張っている。

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1-1-12A_Tornado_GR4_RAF 3.jpg ←(2枚)タイフーンと交替して退役したイギリス空軍のトーネードGR.4(ウィキペディア英語版より)

ヨーロッパと言う地理的条件を鑑みて、エンジンには旅客機のようにリバーサ(逆噴射装置)がついており、戦闘機・攻撃機ではスウェーデンの「サーブ37ビゲン」とトーネードだけである。

STOL性が重視されたのは、冷戦時代基地が攻撃され使用できなくなることを考慮されたもので、直線の高速道路や草地で離着陸が可能である。

双発のRB199エンジンは整備性も考慮されており、整備員は地上で立ったままパネルを外し点検・修理ができるよう配慮されている。

先に書いた通り、比較的コンパクトな大きさながら垂直尾翼だけが異様に大きいのは、低速域での安定性を重視した結果だ。

下面が平らな事は、現在での活かされていて、新しいセンサーや電子装置の追加が容易である。

可変翼の為主翼に燃料タンクはないが、幅の広い胴体と増槽、低燃費のエンジンのおかげで航続力は悪くない。

もちろん空中給油装置も持っており、必要充分の装備が施されている。

1-1-12A_Tornado_IDS,_Germany_-_Navy.jpg ←晩年のドイツ海軍機はダークグレーベースの迷彩塗装だった。同機は全機空軍に移管された(ウィキペディア英語版より)

それでもその姿は、やはり「前近代的」と思える。

しかし今回の改修で、「直せばまだまだ」と言う事が軍用機では常識になりつつある。

国際情勢の変化や、予算の関係もあるが、だからこそ「従来型」が兵力として通用すると言う事でもあるのだ。

最近旅客機はもちろん、自動車などは未来を見据えて次々と進化しているが、果たしてその「未来」が「今」の物で通用するという保証は、実はないのである。

それは経済が優先されるからだろうが、どんどん新しいものに変えようとして少しでも古いものを否定する世相は正しいのであろうか。

なんでも新しい物は開発費がかかり、年々増大している。

メーカーの思惑で押しつけられ、欲しくもないのに「新規格」としてお金を払わせられるのはユーザーだ。

軍用機と旅客機や自動車を単純に比較することは出来ないけれど、概念として「大切に使う」ことはいけないことだろうか?

フランスのミラージュ2000にしろ、トーネードにしろ、まだまだ「役に立つ」のである。

現時点でトーネードは、ドイツ空軍がIDS約90機、ECRが約30機、イタリア空軍はIDSを約70機、ECRが5機、サウジアラビア空軍はIDSを約80機保有。

1-1-12A TORNARD IDS_Italy.jpg ←空中給油を受けるイタリア空軍のトーネードIDS(ウィキペディア英語版より)

サウジアラビアは公表していないが、イタリア空軍も今後少なくとも10年以上運用を継続させる予定で、さらなる改修で延命の計画もあると言う。

共通しているのは3カ国とも、「タイフーン」を保有していることである。

尚現役にある可変翼機はトーネードの他、旧ソ連機であるSU-22シリーズ、MiG23/27があるが、一部の途上国で少数が現役にある程度。

故に「最後の実用可変翼機」は、トーネードになることがほぼ確実である。

「元祖トランスフォーマー」的な同機は、60年以上唯一無二の飛行機として存在し続けるのだ。

飛行機ネタ B737クラシックが遺したもの(2月14日 晴れ 15℃)

今日も快晴と言って良いほど青空の1日で、気温も4月並みの暖かさ。

遠くを見ると、どこか白っぽく見えて、春特有の「霞」だ。

まだ2月なのに、時にはこういう事もある。

だがせっかくの穏やかな日曜日は、昨夜の地震で意気消沈。

今日だけでも余震が20回以上起きていて、甚大ではないものの各地の被害も明らかになった。

市内では中心部などで、建物の壁や天井、ガラスが破損するなどの被害が出た他、鉄道も午前中を中心に運休。

新幹線は、福島県内で電柱の傾きなどが発見されたことから那須塩原~盛岡間は復旧まで一週間程度かかる見込みだと言う。

けが人も福島・宮城で150人前後、多くは軽傷だが、中には慌てて転んで骨折した高齢者も。

停電や断水は朝までにほぼ復旧したようだが、被害はかなり地域差があるようだ。

私の知る限りではあるが、泉区では被害は少ない様で、泉中央周辺のお店は全て通常通りの営業だった。

日中近所の知り合いが訪ねて来たが、我が家と同じように棚の物が幾つか落ちたのと、重ねてあった新聞などが崩れた程度だったと言う。

県内のお店は商品や道具が散乱したり破損して、臨時休業した所もあったらしいが、泉では殆どがいつも通りだった。

夜になって買い物に出かけたが、乗ったバスもいつも通り結構混んでいたし、スーパーなどもほぼ普段の日曜日の人出に思えた。

余震も、私が感じたのは日中2回。

油断は禁物だが、県内で大きな余震の心配は時間の経過とともに低下して行くと思う。

地下鉄やバスも始発から平常運転。

やはり震源に近い福島県の方が、影響が大きい様だ。

今日は2月14日「バレンタインデー」。

地震で気分を削がれてしまったかも知れないが、街ではカップルの姿が多かった様に思う。

最も女性とは縁のない私だから(泣)、そう思いこんだだけかも知れないが。

毎年話題になる「義理チョコ」は、今年は週末と言う事もあって回避できたのでは?

閉店間際のスーパーでは、さすがにチョコを買い求める人の姿は見えなかった。

だがこの2~3日で、商品棚が半分ぐらい減らされたので、そこそこ売れたようである。

最も明日明後日になると、「ホワイトデー」の催しに変わる。

あまり言ってはいけないのかも知れないが、良く見るとバレンタインと同じような商品が・・・。

バレンタインで売れ残った物を、ラベルやラッピングを交換しただけでまた並べているのでは?という疑惑が(笑)。

こんな私でも、かつてはチョコを頂く相手がいて、ホワイトデーでお返しをした時代もある。

その時は結構悩んだり面倒臭いなあ・・と思ったものだが、全く縁がなくなると「贅沢な悩み」だったと思えて来る。



明日は低気圧が通過する予想で、「大荒れ」の恐れもあると予報が出ている。

地震で地盤が緩んでいる地域では、2次災害の恐れがあるとして気象台は警戒を呼び掛けている。

今夜はとても穏やかで、気温も高めのまま。

このまま春へ・・と思いたいが、低気圧が抜けた後は冬型になり寒さが戻りそう。

低気圧は暖かい状態で通過するので、雪ではなく雨が降る見込みで積雪地域では雪崩などにも注意が必要だ。

弱り目に祟り目・・と言いたくないが、風雨が酷くならなければ良いと思う。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

昨日の地震、改めて君は大丈夫だったでしょうか?

気象台では大きな余震に警戒を呼び掛けていますが、仙台では影響は少ないと思います。

小さな余震は続く可能性がありますが、極度に不安がる必要はないでしょう。

もちろん油断は禁物ですが、それは普段からの防災意識で充分です。

今はコロナがあって、いい加減うんざりですね。

これを天からの「試練」と思うほかないですが、自然の中で生きている以上避けられない定めとも言えるかも知れません。

明日は風雨が強まる可能性があるので、外出の際にはくれぐれも気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



このころに 千歳や往きも 過ぎぬると 吾やしか思ふ 見まく欲れかも(万葉集巻四 686 大伴坂上郎女)






飛行機ネタ。

既に航空ニュースで報じられているが、2件の墜落事故を起こして運航停止になっていた「B737MAX」が、改修を完了・長期に渡るテストを行い、安全性が確認されたとしてFAAが耐空証明を「再発行」した。

これによりアメリカン航空から同機の運航が再開され、ヨーロッパの運輸委員会も同機の運航再開を承認した。

同機にとって約2年振りの運航再開となるほか、停止措置で保管されていた機体も徐々に納入が再開されている。

運区停止後も、スケジュールのせいで生産が続行され、専用の保管場には最大で数百機のB737MAXが保管されていた。

本格的な生産はまだだが、当面はこうした保管機の整備とテスト飛行、エアラインへの納入が優先されると言う。

コロナ禍のまっ最中と言う事もあり、発注のキャンセルは事故直後よりも増えて、昨年末の時点で900機近くがキャンセルに追い込まれている。

しかし今やボーイングの「稼ぎ頭」であるB787は、納入どころかしばらく新規の受注がなく、コロナ禍が終息してもどうなるか予測は付いておらず、ある程度期待できるのはB737だけかもしれない。

ファンには周知の通り、B737は68年に最初のタイプである100型がルフトハンザで初就航を果たしたが、この型は「先行量産型」と呼べるもので、胴体を若干延長した200型が主力生産型となった。

「短距離用」旅客機としては、当時ライバルだったダグラスのDC-9がセールスを伸ばしており、ボーイングはそれに引きづられた形で同機を開発した。

シンプルで安価な機体にするため、胴体は4発機のB707,3発機のB727と同じ意匠を使い、DC-9よりも広いキャビンが特徴だった。

また未整備のローカル空港での運用も考慮されており、ローカル線だけでなく、途上国のエアラインの近代化にも大きく貢献した。

生産は10年以上も続けられ、その数は100型が30機だけだったが、200型は1,114機と当時としてはけた外れの生産数を記録した。

同時にそれは「陳腐化」「旧式化」も併せ持っており、DC-9は航空需要の増加に合わせて次々と胴体を延長して大型化させていたのに対し、B737は200型「一本」だった。

70年代末、ボーイングは同機の発展改良型の開発に着手し、ライバルへの猛追を図ろうとした。

航空需要への対応として、胴体の長さすなわち座席数を変えて、一度に2~3タイプを開発してエアラインへ選択肢を持たせること、新しい低燃費・低騒音のエンジンを搭載することなどが骨子とされた。

その計画を公表すると、200型のユーザーだけでなく、新規のエアラインからも大きな関心が寄せられてローンチに至った。

1-1-11A_B737-446_JEX_JAL_Express_JA8991.jpg ←JALエクスプレス・オリジナル塗装のB737-400(ウィキペディア英語版より)

83年に最初のタイプである300型が初飛行し、アメリカのサウスウエスト航空で初就航した。

300型は標準座席数を130席級とし、200型より僅かながら大きい。

シリーズ最大となる400型は88年、逆に最小となる500型は90年にそれぞれ初就航を果たした。

400型は標準で150~160席級とされたが、「ハイデンシティ」と呼ばれる高密度配置のレイアウトも可能で、最大で187席まで設けられる。

ただしこの場合は航空法に従い、非常口の増設にオプションがつけられた。

1-1-11A B737-300_Southwest_Airlines.jpg ←サウスウエスト航空のB737-300は、晩年ウィングレットをレトロフィットさせた機体を保有していた(ウィキペディア英語版より)

最小の500型のデビューが遅かったのは、座席数が120席級と200型と同じであり、この時点ではまだ多数の200型が現役にあったためである。

DC-9は「MD-80」と名前を変えた後も発展を続けていたが、バリエーションの「並行販売」は行われておらず(MD-87のデビューで開始)、選択肢がなかった。

そしてB737がDC-9/MD-80より抜きんでていたのは、エンジンと操縦システムの大幅な刷新にあった。

同機が装備するCFMインターナショナル製の「CFM-56」ターボファンエンジンは、現代のスタンダードである高バイパスエンジン。

元々は70年代に開発されたアメリカ空軍の戦略爆撃機「B-1」用に開発されたGE製「F-101」を、民生用に改良したエンジンである。

開発にはフランスのエンジンメーカー「スネクマ」も参加していたが、政治的な理由から双方の輸出権利を巡り折り合いが合わず開発が遅れていた。

そこでGE社とスネクマ社が共同で出資して、新たに「CFMインターナショナル」を設立することでようやくゴーサインが出たばかりのエンジンであった。

同エンジンは、まだ現役に合ったDC-8やアメリカ空軍のE-3/KC-135など、初期の低バイパスエンジン機の更新用にされたが、ほどなくB737にも採用されることになったのであった。

1-1-11A B737-54K-AIR_DO_JA8196.jpg ←エア・ドゥの500型を正面から見る。「おむすび」型のエンジンカウリングと、やや前のめりで地上高の低さが良く分かる(ウィキペディア英語版より)

ボーイングは出来るだけ200型のコンセプトを継承させて、機体価格を抑えるようにしたが、このエンジンは厄介だった。

初代の200型は低バイパスの「JT-8D」エンジンを装備して、直径は小さかったが、それでも地上とのクリアランスはギリギリだった。

B737には、空港でタラップやボーディングブリッジを使わず乗降できるように、ドアの下に格納式のエアステア(タラップ)を装備している。

加えて貨物の上げ下ろしも容易にできるように、脚を短くして地上高を限界まで下げていた。

これが同機をベストセラーに押し上げる要因でもあったのだが、JT-8Dエンジンはポッドを介して吊り下げる事ができず、主翼に「直接」取り付けることで高さをクリアさせていた。

一方全く同じエンジンを持つDC-9も、地上高を低くさせていたが、リアジェット式だった為エンジンの取り付け方法に問題はなかった。

ところが300~500型のCFM-56エンジンは、正面のファン径がJT-8Dの倍近くもあり、その形状から200型のような取り付け方は不可能だった。

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B737-400 JAL JTA CFM-56.jpg ←(2枚)主翼に直接取り付けられた200型のJT-8Dエンジンと、400型のCFM-56エンジン。前方に突き出すように取り付けられている(ウィキペディア英語版より)

結果エンジンはパイロンに吊るしながらも、エンジン本体を大きく「前進」させ持ちあげるように取り付けた。

それでもエンジンを覆うカウリングの下部が出っ張ってしまうので、「平面」に整形した。

その為同機を真正面から見ると、エンジンのカウリングは「おむすび」のような奇異な形になった。

更にCFM-56エンジンの出力はJT-8Dに比べて遥かに大きくなったことから、機体の重量バランスも調節する必要があり、主翼・尾翼の形状を変更した他、垂直尾翼は付け根部分を延長して面積を拡大させた。

1-1-11A B737-300-KLM_PH-BTP.jpg ←KLMの300型。日本で300型は1機も運用されなかった(ウィキペディア英語版より)

この他離着陸時と水平飛行時のバランスを保つため、水平尾翼のトリム(つり合い)角度も変更された。

旅客機のコクピットのセンターコンソール脇には、このトリムバランスのハンドルがついていて、通常は自動で作動するようになっている。

B737ではその作動量が非常に大きく、機体が傾く離陸時などは大きな音とともにハンドルが回転するのが特徴だった。

コクピットは、主要計器がCRTに変更されたグラスコクピットになった。

ちょうどB767でグラスコクピットが実用化された直後で、レイアウトもB767に準じていた。

1-1-11A B737-300-Cockpit.jpg ←「新世代737」のコクピット。各型共通である為パイロットのライセンスも共通だ(ウィキペディア英語版より)

これによって操縦士システムの一部がデジタル化され、エンジンもデジタル制御が可能になった(FADECはない)。

主翼の一部には複合材が使われ、軽量化が図られ、CFM-56エンジンの低燃費性能と相まって航続距離も増大した。

胴体が大型化したことで燃料搭載量も増えており、シリーズ全体で最大で5,000キロに及ぶ。

この距離は「中距離機」だった3発機のB727と同格であり、「短距離機」だったB737がカテゴリーを超えてマルチ化したことを意味したのである。

日本では導入が遅れて、最初に同シリーズを導入したのは94年に日本トランスオーシャン航空の400型である。

翌95年には日本航空とエアー・ニッポンが、それぞれ400型・500型を導入した。

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1-1-11A_B737-4Q3 JTA JA8523.jpg ←(3枚)日本で最初に「新世代737」を導入した日本トランスオーシャン航空の400型「スカイマンタ」(ウィキペディア英語版より)

日本経済は「バブル経済」が弾けつつある時期で、不景気よりも「デフレ」が進みつつあった。

94年に関空が開港すると、一種の「航空ブーム」が起きる。

それまで飛行機は「速いけれど高い」が常識だったがバブル崩壊は、格安の高速バスなどを台頭させることになり、エアラインは苦境に立たされた。

挽回するにはコストの安い機材で便数を増やし、パッケージツアーなどを獲得して搭乗率を上げることだった。

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1-1-11A_B737-500_ANK JA8504.jpg ←(2枚)エアー・ニッポン初の自社導入機となった500型(ウィキペディア英語版より)

関空開港は国内航空の運航規制も緩和させたため、国内エアラインは機材のダウンサイジングによる「高頻度」運航やローカル線の拡充が必要になったのである。

ローカル線を専門にしていた日本トランスオーシャン航空やエアー・ニッポンは、B737-200の他プロペラ機の運航が主体で,新社名となった日本エアシステムだけが、DC-9/MD-81を使って高頻度運航を行っていた。

しかしB737-200は既に老朽化していたこともあって、3社が揃い踏みで導入した。

日本航空はDC-8以来のナローボディ機と言う事で、大きな話題を振りまいた。

それまでは国際線と国内幹線が主体で、機材もワイドボディ機ばかりだったが、需要の多様化で対応しにくくなっていた。

更に日本トランスオーシャン航空が系列会社だったことも、導入の弾みをつけた。

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1-1-11A_B737-446_JAL_Japan_Airlines_JA8998.jpg ←(2枚)DC-8以来のナローボディ機となった日本航空の400型は、「フラワージェット」と命名され、同社初のローカル線開拓に貢献した(ウィキペディア英語版より)

導入後、日本航空は亜幹線のダウンサイジングと新規のローカル線開設にB737-400を投入した。

日本トランスオーシャン航空は、機材の更新が目的だったが、主力機のB737-200は航続距離が2,000キロ程度で本土線の運航が難しかった。

しかしB737-400だと、東京線は難しいが大阪線には適応できるため、本土へ直行便を運航出来た。

離着陸性能も大幅に向上していたため、滑走路の短い石垣空港などでも重量や風の制限を受けず運航出来るようになった。

エアー・ニッポンは全日空の系列会社で、同社から移籍したB737-200を運用していたが、機材更新用として初めて500型を自社導入した。

小型の500型にしたのは、まさに200型の後継機としてであるが、規制緩和を受けてこれまでにない新規路線を同機で複数開設した。

同社の500型導入で、全日空のローカル線がエアー・ニッポンに移譲された他、チャーター便の運航も担当。

更に離島空港への路線も、同機によってジェット化されていった。

98年になると、日本航空はB737-400を新たに設立した「JALエクスプレス(JEX)」に移籍する。

同社はローカル線専門の低価格エアラインというコンセプトで、大阪・伊丹空港をベースにした。

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1-1-11A_B737-400_JEX fukuoka.jpg ←(2枚)筆者が世界で最も優れた塗装の一つだと思うJALエクスプレス。B737-400だけに施された(ウィキペディア英語版より)

空港ではキャビンの清掃などは、専門の業者にやらせず「スカイキャスト」と名付けた客室乗務員が行う事で、コストセーブを図るなど、今で言うLCCの発想に近いやり方を初めて実施した。

機材もオリジナルの塗装に変更し、大胆で美しい塗装は注目の的であった。

逆にファンに大人気だった「鶴丸」塗装は、僅か数年に終わった。

日本トランスオーシャン航空の400型は、「スカイマンタ」と言う愛称が付けられてドアの脇にキャラクターのステッカーが全機に貼られた他、日本航空は「フラワージェット」と命名し、1機ずつ花の名称をつけていた。

エアー・ニッポンの500型は、そのコロッとした外観から「スーパードルフィン」と名付けられ、エンジンカウリングにイルカのキャラクターが描かれていた。

3社の「新世代737」は、折からの航空ブームに乗じて、国内線の活発化に大きく貢献した。

それまで考えられなかったような地方同士の路線や、観光需要の高い地方線などに、経済的で小回りのきく同機は最適であった。

90年代後半になると、ボーイングは更に発展・改良した600~800型の「NG(次世代737)」シリーズを発表したが、日本では「新世代737」が熟成の時代を迎えており、「NG」に移行せず不足しつつあった機材は中古やリースによって増強した。

00年代後半になるとJALエクスプレスと日本トランスオーシャン航空機は、両社の「共通運用機材」となり、「アーク」塗装変更後全国に展開した。

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1-1-11A-JEX_B737-400_JA8999.jpg ←(3枚)日本エアシステムと統合後グループ共通塗装の「アーク」に変更されたJALエクスプレスの400型(ウィキペディア英語版より)

JALエクスプレス機は「クラスJ」を含む2クラス制が好評で、当初採用していなかった日本トランスオーシャン航空機も設置されるようになったが、一部機材は普通席のみの機体も存在し、これらの機体は沖縄県内路線などで運用されている。

この為JALエクスプレス便(日本航空便)として、日本トランスオーシャン航空機が運用に入ることも見られた。

その後日本航空はB737-800の導入を決定し、JALエクスプレスでも運用されるようになる。

同時に日本トランスオーシャン航空では、初期導入機の「入れ替え」として元日本航空・JALエクスプレス機を導入することになった。

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1-1-11A_B737-400_JTA JA8539.jpg ←共通事業機として「アーク」塗装になった日本トランスオーシャン航空の400型は、日本航空・JALエクスプレス便として全国を飛んだ(ウィキペディア英語版より)

エアー・ニッポンの500型も、00年代後半の全日空グループの再編計画により、同社が消滅。

機体の塗装に変更はなかったが、尾翼のロゴが「ANK」から[ANA」に変更されると同時に、運航会社として「エアーネクスト」などの文字が書き込まれた。

全日空もまた、B737-700/800の導入を決定したことで、余剰となった500型は経営不振で系列会社となった「北海道国際航空(現エア・ドゥ)」にリースされ、同時に全日空便としてコードシェア運航を開始した。

同社にとっては初めての小型機材で、全日空の路線を受託運航する他、独自の路線も開設するようになった。

また00年代には、エアー・ニッポンが東京~八丈島線「専用機」として中古のB737-400を2機導入。

この2機は機体全体に「ドルフィン」のイラストが描かれ、「アイランド・ドルフィン」と名付けられた。

高需要路線だったことから、500型より座席数の多い400型が宛がわれたのだが、500型も中古リース機で増強されたため、400型の運用は比較的短期に終り、エア・ドゥに「サブリース」している。

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1-1-11A B737-400 ADO-JA391K.JPG ←(2枚)八丈島線用として2機が中古で導入されたエアー・ニッポンのB737-400「アイランド・ドルフィン」とエア・ドゥで使用された「あさひかわ号」(ウィキペディア英語版より)

この他新興エアラインとして設立された「スカイネット・アジア航空」も400型を採用し、その後「ソラシード・エア」に名称を変更してからも後継機種B737-800の導入まで400型を運用し続けた。

エア・ドゥの500型は、全日空の700型をリースすることで「退役」したが、機材自体は退役せず「ANAウィングス」が運航する全日空機として「出戻り」した。

こうして見ると日本の「新世代737」は、系列エアライン同士で行ったり来たりしたり、リース機の出入りが見られたが、それだけ需要に合わせた柔軟な運用ができる貴重な機材であった。

日本航空グループは総数23機、全日空グループは500型が25機、400型が2機の総数27機、スカイネット・アジア航空(ソラシード・エア)が8機。合計58機の「新世代737」が日本の空を飛び、北海道最北端の稚内・利尻(季節運航)から最南端・最西端の石垣島、そして羽田・成田・関空と、ジェット機が就航できるほぼ空港に、まさに「翼を広げた」機体であった。

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1-1-11A B737-400-Solaseed_Air_JA392K.jpg ←(2枚)スカイネット・アジア航空とソラシード・エアの400型(ウィキペディア英語版より)

ただ300型だけは、日本では1機も運用されなかったが、2000年に最終号機が生産されるまで、実に1,988機も生産された。

最も多いのは300型で1,113機、400型が486機、500型が389機だった。

300型はアメリカのサウスウエスト航空が300機以上導入しており、メジャーの多くが国内線用機として多数運用したことで生産数が多い。

しかし最も新しい機体でも、機齢は20年。「737NG」の生産が始まると、急にその数を減らし始めた。

多くのエアラインが後継機種として当然のようにNGの導入に動いた為、交代のスピードは予想よりも早かった。

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1-1-11A-B737-54K,_ADO JA305K.jpg ←(4枚)全日空と提携することで、B737-500をリースしたエア・ドゥ。導入時はまだ「北海道国際航空」のロゴが残されていた。下2枚は特別塗装の「ベア・ドゥ」と「ベア・ドゥ・ドリーム」(ウィキペディア英語版より)

機体の性質から、飛行時間よりも離着陸回数が多いこともあり、中古機の価格は安いがスクラップや部品取りにされる機体も多かった。

「新世代737」には、新造機での貨物機はなく、これまでに数十機が改造されている。

面白いところでは、アメリカでは珍しく400型を主力として運用したアラスカ航空が、「コンビ型」に改造した400「C」を運用していた。

これは胴体前半のメインデッキを貨物室にして、サイドカーゴドアも増設しているが、後半部分は客室のまま。

乗客は後部ドアから乗降すると言う変わり種。へき地の物資輸送に適していた事で、通常の400型が引退した後もしばらく使われていた。

現時点で「新世代737」は300機前後が現役にあると思われるが、小さなエアラインでの運用が多い事と、製造されてから何社も中古機として「使いまわされる」ことが多く、状況は極めて流動的だ。

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1-1-11A-B737-300_Combi_interior.jpg ←(3枚)貨客混載型「C」に改造されたアラスカ航空の400型。前方が貨物室。後部に客室が残され、後部ドアから乗降する(ウィキペディア英語版より)

資料でも現状を把握しにくいのか、現役機は100機に満たないとする場合もあって特定が難しい。

長引くコロナ禍で、古い同機の退役はいっそう進むと思われるが、2,000機近く生産されているので簡単には消えないとも言える。

しかし「新世代737」は、現在に繋がる旅客機の形態を確立した機種だったと言えまいか。

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1-1-11A B737-500-NAM_Air.jpg ←(3枚)現役にあるベラルーシのベラビア、タジキスタン、サモン・エアの300型とインドネシアのNAMの500型(ウィキペディア英語版より)

初期の200型は「短距離旅客機」として特化されていたが、それは開発時期の技術的な限界も関係していた。

特に高バイパスエンジンは実用化されたばかりで、その性能を発揮するにはワイドボディ機用の大きさが必要であった。

と言うよりも需要の増加で、長距離機はどんどん大型化され、燃費や出力の点で高バイパスエンジンが必須だったからだ。

故に小型機用の高バイパスエンジンは、まだ必要とされていなかった。

ところがボーイングでは「中距離機」の性能を持たせることで、エアラインの収益率が上がると考えて敢えて高バイパスエンジンを採用したのである。

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1-1-11A B737-400SF-Express_Freighters_Australia_(VH-XNH).jpg  ←(4枚)貨物機の改造されたフェデックスの400BDSFと、SFエアラインズ、カーゴロジック、エクスプレス・降れいたーず・オーストラリアの400SF。今も現役(ウィキペディア英語版より)

同機は日本では「国内線専用」のイメージが強かったが、韓国のアシアナ航空や中国のエアラインの一部が地方空港定期路線で国際線として飛来していた。

特にアシアナ航空は設立直後から、日本の地方空港へ定期路線を開設し、我が仙台空港に最初に就航した国際線は同社のB737-400だった。

00年代にはロシア・サハリンをベースとするサハリン航空と、その後社名が変更されたオーロラ航空が500型で乗り入れていた事があり、唯一日本に就航していた500型でもある。

紆余曲折はあったものの、CFM-56エンジンの成功が同機の成功に直接結びついたと言って良い。

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1-1-11A_B737-400_Air_Busan.jpg ←(2枚)アシアナ航空の400型。日本に初めて国際線定期便として運航された。その後子会社LCCのエア・プサンに移籍して日本へ運航を続けている(ウィキペディア英語版より)

デビュー当時、世界のエアラインはまだ737を遠くに飛ばす事を考えていなかったが、200型とほぼ同じ座席数であっても、航続距離が長いと言う事は、燃費がずっと良いと言う事にもなる。

同機を長距離運用するエアラインは少なかったが、ライバルであったDC-9/MD-80は最後まで低バイパスの「JT-8D」のままで、MD-90でようやく高バイパスの「V2500」に換装したが、737は既に「NG」に切り替わり対抗できなかった。

今こそ「737NG」は国内線だけでなく、日本からはアジア圏の国際線機材として活躍しているし、海外では4~5,000キロの路線での運航は珍しくない。

「NG」のエンジンも、発展・改良型ではあるが「新世代737」と同じCFM-56であることからや、新しいライバルとなって現在まで熾烈な販売競争を繰り広げているA320シリーズも、同エンジンを採用しているのはその実力の証である。

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1-1-11A B737-500 AURORA.jpg ←サハリン航空とオーロラ航空の500型(ウィキペディア英語版より)

一方で「小型ナローボディ機は短距離向け」と言う概念を打ち砕いて、カテゴリーを過去の物にした事も大きな功績だと思う。

面白いエピソードとして、この「新世代737」の主翼がある。

「NG」では、主翼を延長し、翼端には整流用にウィングレットが装備されている。

更に構造材の一部に複合材を使って軽量化を図るとともに、柔軟性を持たせている。

B787程ではないが、先端に行けばいくほど「柔らかい」主翼で、揚力を発生すると持ちあがる。

そうするとより揚力が増加・安定し、燃費提言や低騒音に一躍買う事にもなる。

今や常識となっているが「新世代737」では、真逆なのだ。

同機の翼幅は約29メートルあるが、これは300・400・500型共通だ。

全長は最も短い500型が31メートルで、200型より僅かに長い。300型が33.4メートル、最も大きい400型が36.4メートル。

すなわち400型と500型では5メートル以上の差があるにもかかわらず、主翼は全く同じなのである。

しかもNGとは対照的に、従来の「硬い」主翼だ。

1-1-11A-B737_flaps_partially_extended_during_approach.jpg ←「短くて硬い」主翼。フラップはシングルスロテッドタイプ(ウィキペディア英語版より)

外観的には300型と500型では違和感ないが、胴体の長い400型では随分と「短い主翼」に見えるのである。

一瞬「こんな小さい主翼でちゃんと飛ぶのだろうか?」と思ってしまうほどなのだが、カチッと硬い為揚力は充分確保できる。

1-1-11A-B737-5K5,_Hapag-Lloyd_JP6161708.jpg ←ドイツの大手チャーターエアラインだったハパグ・ロイド航空の500型。ツアー客を乗せて日本にも何度か飛来している(ウィキペディア英語版より)

加えて非常に安定性があり、機体規模の割にパワーの大きなCFM-56エンジンと相まって乱気流に強い。

本来ならば柔らかい翼の方が乱気流を「かわす」ことで揺れを防ぐが、逆に短めで硬い主翼だからこそ気流を「引き裂く」ようにどんどん進む感覚があるのだそうだ。

硬い主翼は、大きくハイパワーのエンジンの為でもあったのである。

安定性は、時には「クセ」となることもあり、巡航からディセント(降下)しようとしてもパイロットの思い通りにならないこともあったと言う。

つまり安定性とは、先に飛ぼうとする性質を持つことでもあるので、高度を下げるには半ば強制的にすることもある訳だ。

特に距離の短い路線では、巡航(水平飛行)が僅か数分間と言う事も多く、すぐにディセントし始めなければならないこともある。

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1-1-11A B737-400 JTA JA8991.jpg ←10年代、破綻を経て日本航空グループは「鶴丸」を復活させた。同時に日本トランスオーシャン航空の400型も「鶴丸」塗装に変更され、「フラワージェット」以来の奇跡の復活となった(ウィキペディア英語版より)

パイロットは同機の性質に合わせ、通常よりも早めにディセントを開始したり、巡航高度をあまり上げないよう管制に要請したりしたそうである。

追い風の時などは中尉が必要で、タイミングを逃すと急降下せざるを得なかったりする。

急降下と言っても危険なものではないが、確かに同機に乗ると時々エレベーターのような重力を感じることがあった。

また降下中、速度が出過ぎてエアブレーキ(スポイラー)を立てる事も同機ではよく見られた光景だった。

同機の脚は200型譲りの短いものだが、主脚は収納されてもカバーがなくむき出しである。

これは少しでも重量を軽減させる為だけでなく、頻繁に離着陸を繰り返す時にタイヤ・ブレーキの冷却効果を高める目的もあった。

200型で採用されたアイディアだが、現在の「MAX」シリーズまで受け継がれる737の大きな特徴の一つだ。

1-1-11A B737-54K-AirDo_JA8404.jpg ←軽量化と冷却効果を狙ってむき出しのままの主脚(ウィキペディア英語版より)

後継の「NG」がデビューして20年近く経ち、事故とコロナ禍と言う躓きはあったものの737は「MAX」シリーズに進化し、50年以上も生産されている。

「新世代737」でさえ、もう40年近い月日が経っていることは驚きである。

ファンの方なら御承知のように、日本では19年に日本トランスオーシャン航空の400型が、全日空の500型は昨年退役したばかりだ。

個体では違うけれど、導入されてから四半世紀以上経ってからの退役である。

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1-1-11A B737-500-ANA_WingsJA8419.jpg ←(2枚)就航から25年目の昨年退役した全日空の500型。「スーパードルフィン」も最後まで残されていた(ウィキペディア英語版より)

「NG」が導入され、発注数が充足してもなお減勢しつつもギリギリまで使われたのは、同機の優秀さを物語る以外何ものでもない。

ある意味地味な存在ではあったが、全国に足跡を残した最初のジェット機とも言える功績を残したのだ。

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1-1-11A_B737-400,_JTA JA8992.jpg ←(2枚)800型が導入され始めた後も、400型を大事に使い続けたん日本トランスオーシャン航空。特別塗装も多く、19年惜しまれつつ引退した(ウィキペディア英語版より)

尚B737のシリーズ区分は、100・200型が「オリジナル」、300~500型を「クラシック」、そして600~900型を「NG」とすることが多い。

本来300~500型は「New Generation」、600~900型を「Next Generation」と呼んでおり、略すとどちらも「NG」だった。

日本のファンは区別するため、日本語で「新世代」「次世代」と呼んでいたが、「MAX」が登場したことで「737クラシック」「737NG」と呼ぶことが定着している。

確かに「クラシック」とも言えるだろうが、まだ現役機も多く、この呼び方は失礼ではないか、と思うのは個人的感情だろうか。



地震(2月13日 晴れ 12℃)

春を思わせる気温と青空に、良い気分で迎えた週末。

一日中穏やかだったのに、それを一蹴させるような地震。

23:08分ごろ、福島県沖を震源とするM7.3の大きな地震。

宮城県蔵王町・福島県相馬市などで、最大震度6強の強い揺れを観測した。

仙台市は東部が震度5強、西部が5弱。

幸い市内では被害の他、停電や断水などはなかったようだ。

鉄道なども緊急停止したようだが、既に運行は終了していたため大きな影響はなかった。

私は外出していて、自宅近くを歩いていた最中。

ケータイの緊急速報が鳴ったが、その直前にゴゴゴという地鳴りのような音が聞こえ、地震だと分かった。

ただ歩いていたせいか、大きな揺れはあまり感じなかったし、辺りも停電したり慌てて外に出て来た人もいなかった。

なので震度は3~4くらいだろう・・と思っていたけれど、気になって急いで家に帰ったら大変な事に・・・。

面倒臭くて処分せず適当に重ねていた古新聞や広告が、雪崩を起こして散らばっていたのと、テレビやサイドボードの上に置いてあった人形などが落ちていた。

最もこれらは地震でなくとも、ちょっとぶつけただけで崩れる事もあるので当然の結果。

唯一テレビの上から落ちた陶器の人形の一部が欠けて破損しており、唯一の「被害」か。

数分で「復旧」したが、普段から整理整頓しておけば崩れる事もないのだ。

ガスが自動停止したかと思ったが、それもなし。

我が家のあたりは震度4程度の揺れだったようだ。

震源の深さは60キロと深い地震で、津波はなし。

地震後何度か余震はあったが、地震のタイプからして大きな余震の可能性は低いと思われる。

場所によっては停電や水道管の破損が伝えられているが、仙台市内ではなかったようだ。

震災の「余震」の一つであろうし、この辺は数年置きにこの程度の地震が発生する。

なので余震活動もすぐに収まると思うが、やはり油断は禁物。

来月は震災から10年。

ある意味「天」は、忘れるなかれと警告しているのかも知れない。

また季節がら火災の危険性があるが、最近はエアコンで暖房する家庭が増えているし、それこそ防災意識は浸透しているので心配はないと思う。

今後もこのような地震はいつでも発生するし、それは日本全国どこでも可能性がある。

日ごろの「備え」は、気持ちだけでも違うので心構えだけでも持っておこう。

深夜になって各地の被害状況が分かって来たが、なぜか関東地方を中心に停電が広がっている。

宮城や福島は一部地域なのに、首都圏も停電していると言う。

多少びっくりしたのは、地震直後帰宅前に周辺を見たら、風呂に入っている家庭が多かったこと。

我が家は団地なので、基本的に間取りが同じ。

風呂やトイレもそうだが、あちこちの家庭で風呂場に灯りが点いていた。

最も万が一の断水に備えて、風呂桶に水を溜めていたのかも知れないが、揺れが収まったことで安心したのかもと思う。

先に書いたように、驚いて外に出ている人はいなかったので、多分「入浴」していたのでは?

良くも悪くも「地震慣れ」しているから、大丈夫と踏んでの事だと思うが、良い意味でみなさん落ち着いている。

メディアや行政は「最悪」の事態に備えて騒ぎたてるが、各々が冷静であることが何よりの「防災」だ。



君へ。

大丈夫ですか?

時間的にお家にいたと思いますが、怪我などしていないか心配です。

小さな余震が続いていますが、じき収まると思います。

震源が離れてもいるので、本震のような大きな余震も可能性は低いと思います。

でも夜中であり、家の物がずれたり傾いていて、揺れがなくともフイに落ちたり倒れて来ることもあるので、充分注意して下さい。

気温も低くなっていますので、暖かくして休んで下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。

古代史探偵A 神武天皇、実在したからこそ今の日本(2月11日 晴れ時々曇り 7℃)

祝日「建国記念日」は、午前中曇りがちだったが午後からは青空。

気温も平年並みで、穏やかな冬の休日だった。

残念ながら記念日の祝日だから、最近流行の「第2○曜日」などには移動させられない為「飛び石連休」だ。

人によっては職場で代休にしてもらったり、有給を取って「4連休」にした人もいるだろうか。

今月は、23日も「天皇誕生日」で飛び石連休がある。

最もコロナ禍で旅行や遊びに行くのが憚られ、4連休にしても・・・と思うだろうか。

この頃メディアもコロナの事が、微妙に下火になっているような気がする。

首都圏などは現在も「緊急事態宣言」中だが、数だけでは言いきれないだろうが新規の感染者数は減少傾向にあるようだ。

それを言ってしまうと、油断して再び拡大・・と言う懸念もあるかも知れないが、宮城県内でも2月になって減少し続けている。

世界から一歩出遅れたワクチンも、一定の目処が立ちつつあり、春にはいくらか底が見え始めるのかも知れない。

だが1年以上も続いた「災厄」が残した爪痕は、今後何年間は残るだろう。

一見繁栄しているかに見えるこの国は、何度も「災害」に遭遇し、乗り越えて来たはずなのに、「疫病」は本当の意味で「免疫」がなかった。

この20年程度で、社会は大きく変化し生活は便利になったはずだが、ウィルス一つに翻弄されている。

それは医学的な事以上に、社会と経済基盤がいかに脆く薄弱であったことが証明されたのであり、「コロナ後」は復興よりもそれをまず「認識」することが大切だと思う。

医学が未熟だった時代には、この国は何度も災害と疫病に苦しめられ、大きな犠牲を払いつつ滅亡もしなかった。

それは先人達が、われわれの時代つまり未来にこの国を残そうと連帯していたからに他ならない。

いつしか日本人は「自分さえ」に捕われて、国全体の事を忘れているのではないか。

もちろんコロナ禍にあって、たくさんの人々が連帯して助け合い乗り切ろうとしているが、一方で「自分さえ」と言う人も目立つような気がした。

「建国記念日」だからこそ、未来のこの国の事を一人一人が考えても良いと思う。



いつしか陰の雪もなくなり、歩く苦労がなくなった。

週末にかけては高気圧に覆われ、気温が上がる予想だが、来週はまた寒くなるとも。

もう2月も半ばだが、この冬は久し振りに「らしい冬」だから、春はしばし先の事だろう。

たまたまニュースで、沖縄県宮古島が映し出されていたが、通りを歩く小中学生の何人かは半袖姿。

一瞬過去の映像かな、と思ったのだが、八重山地方では22~24℃くらいあるそう。

羨ましいかと言えばそうでもないような気がするが、北海道では流氷、日本海側では雪が降っているのに、沖縄では半袖で過ごせる。

日本と言う国は狭い様で広い。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

寒さは少し緩んでいますが、冬はまだ続きます。

体調管理は、充分気をつけて下さい。

2月11日、君は覚えていますか?

ちょうど今日を挟んで、君が奈良を旅していた日です。

いつだったかなと思ったら、もう12年も前のことです。

君が旅している間、そして約1か月後私も奈良に行き、メールで君とやり取りした事が懐かしく思います。

今でも鮮明に思い出す事が出来ます。

君はあれから、何度奈良へ行ったのでしょう?

私は何十回と行きましたが、ここ何年かはいろいろあって行く事ができず苦しい想いです。

今はコロナ禍で、旅行自体行きにくい状態ですが、落ち着いたらぜひ行きたいと思っています。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



いにしへに ありけむ人も わがごとか 妹に恋ひつつ いねかてずけむ(万葉集巻四 497 柿本朝臣人麻呂)








◎古代史探偵A(神武天皇、実在したからこそ今の日本)


「建国記念日」とは、初代神武天皇が「柏原宮」にて即位した日とされ、「日本と言う国が出来た日」と言うことでもない。

神武天皇については、「古事記」「日本書紀」の記述に拠る。

残念ながらそれまでの経緯は「神話」と同一化されており、真実は不明である。

記紀では「辛酉年1月1日」に即位したと見えるが、明治時代に旧暦から換算して「2月11日」に定めたものである。

辛酉年とは60年周期の「千支」で表した年数で、古代日本ではよく使われた暦である。

「古事記」「日本書紀」は、飛鳥時代後期に天武天皇の勅で編纂が開始された正規の「国史」。

元々「旧辞」「帝紀」と言う史書が存在したが、645年の「乙巳の変」で焼失してしまい、加えて各地の伝承や伝記が不確実だとして、新たに調査・編集せよと命じたのが始まりである。

その完成には数十年を要し、奈良時代になってから完成している。

故に神武天皇の話については、編纂者が伝承を元にまとめたものであって、現実離れした部分も多く見られる。

辛酉年は、大陸の故事で「革命」が起きる年と言われており、日本では事実上「初」の女帝となった推古天皇の即位が辛酉年(601年)だったことから、そこから起算して神武天皇即位年を引きだしている。

ところがちょっと大げさに起算したせいで、神武天皇の即位は紀元前660年にしてしまった。

今から約2,800年も前の事であるが、この時代の日本はまだ縄文時代末期及び弥生時代に当たり、遺跡などからこの時代に「国」としての統一的社会は存在していない。

更に20世紀前半の軍国主義の時代には、神武天皇を政治・思想のプロバガンダに利用したことで、戦後「皇国史観否定論」を導きだし、非現実的なエピソードに乗じて存在性を否定され続けて来た。

近年になってようやく一部の研究者が、改めてその実態を模索し始めたことで、現在は「実在したという確証はないが、存在を否定する材料もない。」と言う、いささか曖昧で無責任に思えるが、完全な否定には至っていない。

最も今でも強く否定する人はいるし、「皇国史観否定論」者の書いた学術書は多く出回っており、誤解も色濃く残っていると言わざるを得ないのが現状である。

確かに神武天皇の存在を立証する遺物は、現時点では発見されていない。

だが「正規の国史」である記紀が、どう見ても創作と思える人物を堂々と書くのもおかしいと思わなければならない。

確かに神武天皇の出自は、この国の「創世記」に当たる神々の子孫とされている。

皇祖神とされる「アマテラス」だが、神武天皇は彼女の「5世孫」と位置付けられている。

彼が即位した「畝傍柏原宮」は、現在奈良県橿原市にある「橿原神宮」がその跡地として治定されている。

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1-1-11A-Kashihara_jingu_gehaiden2.jpg ←橿原神宮外拝殿(奈良県橿原市、ウィキペディアより)

ただしここが神武天皇の宮であったと言う確証はなく、明治維新政府が治定・築造下に過ぎない。

周辺からは縄文末期から弥生時代の遺跡が確認されているが、神武天皇と直接結び付く要素は少ない。

また橿原神宮の北には、宮内庁治定の「神武天皇陵」があり、神宮とともに皇室の方々が度々参拝に訪れる。

こちらも治定は江戸時代末期の事で、記紀には「畝傍北東陵」としか書かれていない。

現在の治定前は2代綏清天皇陵にされていた経緯を持つが、辛うじて古墳と分かっているだけで詳細は不明である。

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135.JPG ←(2枚)神武天皇陵(奈良県橿原市、筆者撮影)

私の考えでは、仮に即位が辛酉年もしくはその前後だったとして、神武天皇は2世紀末から3世紀初頭の人物だと考える。

即位の辛酉年を紀元前660年に置いてしまった為に、16代の仁徳天皇辺りまでの天皇は100歳以上の長寿で、その在位期間も同様長い。

故に「創作」とされる一因になっているのだが、それは編纂時に「帳尻」を合わせようとした結果であろうと思われる。

すなわち記紀が完成した奈良時代(8世紀)の時点で、神武天皇は500年も前の人物である。

これは我々が、それこそ織田信長や豊臣秀吉の時代を語ると同じ事である。

増して文字文化がまだ浸透していなかった上代で、正確な記録を残す事は困難であり、「伝承」に託し頼る以外方法がない。

改めて記紀を見直すと、編集者・執筆者の苦悩が窺える。

いくらなんでも150歳も生きて、130年も在位など出来る訳がないことは充分承知の上であっただろう。

しかし天皇の「勅」として命令が出ている以上、伝承を勝手に解釈するには限界があり、かつ500年も前の人物像となればより「非現実的」なエピソードも当然ではないか。

例えば日本の仏教に大きな影響を与えた空海を、今更創作上の人物と疑う人はいないが、彼の伝説はそれこそ想像の域を超えている物が多い。

江戸時代後半になってようやく拓け始めた北海道まで足跡を残し、山奥で温泉を発見した・・なんて伝説まであるほどだ。

何事でも「パイオニア」は、後世良くも悪くも「尾ひれ」がついて伝説的になるのが常套手段であり、「非現実的」と決めつけるのはこの国の悪癖である。

イワレヒコ・神武天皇の素顔については、「古代史探偵A」で書いたのでここでは省略するが、少なくとも神武天皇は実在した。

ただ記紀にあるような「英雄伝」は、やはり飛鳥・奈良時代に権力の盤石化を狙った皇室及び政権の「潤色」が加えられているのもまた、事実であろうと思われる。

何しろ500年も前の事を、完全な事実として考証することなど不可能に近く、断片的な伝承を繋ぎ合わせ潤色で補ったものだろう。

それでもその間に伝承が受け継がれて来たという事は、逆に真実の部分もあると言う証ではないかと思うのだ。

弥生時代末期の日本は、王を権力とする「国」が出来初めていた時代である。

有名な「魏志倭人伝」にあるように、これも内容は差し引いて見る必要があるが、西日本や九州を中心に小国が割拠していた事が分かる。

これらの国々は時には戦で争い、時には「連合」を組んでいた。

特に九州は部族国家が幾つか存在しており、1~2世紀には連合になっていたと思われる。

一方出雲・吉備・そしてヤマトには、「九州連合」とは一線を画する「国」が存在した。

その後九州連合は、リーダーの死去などでその均衡が崩れ、再び戦争状態に陥り混乱し、それに乗じて「原ヤマト政権」が西日本統一を謀ろうとして、足元が揺らいでいた「九州連合」の一つ、「日向国」と結託し、その時の王の子であるイワレヒコを「婿養子」に迎えることで、畿内と九州南部が別の「連合」と化し、北部九州諸国を挟撃しようと考えたと思われる。

しかしそれは極秘裏で行う必要があったため、ヤマトへ向かうイワレヒコは最小限の人数で密かに東国へ旅立った。

秘密裏であったため、その行程は苦難の連続で、ようやく畿内に辿りついても、原ヤマト政権の王ニギハヤヒの家臣で義兄でもあるナガスネヒコに行く手を阻まれた。

止むなくイワレヒコ一行は、ヤマトを目前にしながら難波へ引き返し、紀伊半島を海路で大きく迂回し、なんと紀伊半島を「縦断」してついにヤマト入りを果たすのである。

これが記紀における「東征」物語で、それは困難に遭いながらも各地を平定し、西日本を全て支配に収めつつヤマトに到着した・・と言う話にすり替わっている。

すなわち奈良時代・平城宮政権は、既に500年続く日本の「元首」たる皇室が、正当な理由で国土を統一したと訴えようとしたのである。

だがいわゆる「冒険的」な要素を削いで見ると、イワレヒコの「東征」は全く別の事で、密かに少しずつ東へ向かい、苦難に次ぐ苦難の行程だったことが分かるのである。

膨らませられた東征物語ならば、生駒山まで来てナガスネヒコの前に敗退し、紀伊半島を迂回・縦断する必要はないはずである。

死を覚悟で正面から立ち向かうのではなく、絶対に原ヤマト王ニギハヤヒの元へ行かねばならない、と言う「執念」さえ感じるのである。

現在でさえ、和歌山県から奈良県にかけての紀伊山地は、道路の整備も進んでおらず「日本一の秘境」と呼ばれている。

それこそ空海が高野山を開いたのも、外界と完全に遮断された場所だからであって、道など殆どなく幾重にも重なった尾根を越えて行かねばヤマトに辿りつくことなどできなかった。

それが山人などの助力があったからこそで、とても東征などと呼べる旅路ではなかったのである。

執念を貫いたのは、争いのない統一国家を作る、と言うニギハヤヒの理想に、若いイワレヒコは深い共感を覚えたのだろう。

無事ヤマトに着いたイワレヒコは、ニギハヤヒの娘とされるイスケ媛と結婚し妃とした。

同時にニギハヤヒは、生前譲位なのかどうかは不明だが、自らの理想で立てた国邑を婿養子となったイワレヒコに譲渡。

ニギハヤヒの国邑は、三輪山の麓にあったが、新しい国邑は恐らくは当時パワースポットと考えられていたであろう「大和三山」の近く、それが畝傍柏原宮として即位・居住して施政に臨んだのである。

三輪山は奈良盆地の南東端にあたるが、橿原市付近は平坦で盆地が360度見渡せる事が出来たであろう。

記紀では神話におけるイワレヒコの系譜と、東征ばかりにページを割いてしまい、即位後の施政やエピソードは意外なほど少ない。

それは新政権が比較的穏やかにスタートしたと見られ、ここに以後126代「以降」まで続く「皇室」が誕生したのであった。

今の日本があるのは、やはり神武天皇が実在したからこそと言える。

この時以来、約1,800年以上に渡り皇室・天皇は「元首」であり続け、王朝が交替したことは一度もない。

「万世一系」がどこまで連なるのかは別として、社会制度が何度も変わっても、それは天皇をトップとして政治が変化したに過ぎない。

平安時代末期以降、政治自体は武家政治、明治維新以後は民主制でこの国は運営されて来たが、天皇の位置に変化はない。

いつも言うように皇室は「世界で最も長く続く王室」としてギネスに認定されている他、日本として一つの「国」が維持されているのも、世界で最も長く続く国である。

エピソードはともかく、神武天皇がいたからこそその基盤が完成し、紆余曲折がありながらも現代へ続いていることは確かなのである。




飛行機ネタ まだ過去形じゃなかったMD-80シリーズ(2月8日 雪 2℃)

春を予感させる週末が嘘のように、週明けは雪とともに始まった。

朝出かける時に、がっかりした人が多かったのでは?

風はあまり吹いていなかったが、雪は夜まで断続的に降った。

日中は積もらずに済んだが、夕方以降気温が氷点下になるとうっすら白くなり始めた。

強い寒気の影響は明日も続き、雪が降りやすい天気となりそう。

雪は大粒で、風がないのでフワフワ降って来る。

部屋の中から見ている分には、綺麗だなと思う。

でもカーテンを開けたとたん、結構強めに降っていて思わず「ゲッ!」と言ってしまう。

ふと子供のころを思い出して、大人とはつまらない感情の生き物だなと思った。

最近の子供達は良くも悪くも「クール」だから、雪を見ても喜ばないかも知れない。

ただ寒いだけだし、服や靴が冷たく濡れるし…大人と同じ感情を持つのだろうか。

私の子供のころは、雪を見ると何故か意味なく嬉しかったと思う。

今思えば、何が嬉しかったのだろう。

でも降るだけではなくて、積もる事が最大の期待。

「何センチ積もるかなあ」と楽しみにしていたし、積もれば当然のように「雪遊び」であった。

生家では結構広い庭があり、頼まれもしないのに喜んで雪かきをした。

「雪と戯れる」と言うけれど、まさにそうだったと思う。

雪をいじれば、当然手袋も濡れて来るし、長靴でもいつしか指先が痛くなるほど冷たくなる。

それでも雪は楽しいのだ。

学校で雪の中「半袖半ズボン」姿になったら、どのくらい寒いのか・・と「実験」しようと言う事になった。

私服はまさかそうなれないので、体育の授業の時「夏服」になってみた。

最も雪の日の体育は「室内」だから、着替え直後はさすがに寒いと感じたが、授業中は身体を動かすから気にならなかった。

何となく納得できない気がして、放課後まで半袖半ズボンでいようと言う事になったのだが、教室には大きなダルマストーブがガンガン焚かれていて、いつも汗ばむくらい。

だから全く寒くなどなく、むしろちょうど良い・・なんて言っていた。

おバカ小学生の典型だが、そうまでしても雪と寒さを楽しんでいたとも言えるような気がする。

それが大人になってどうだろう。

歳を重ねるごとに寒さが辛くなり、うっかりすればすぐ風邪を引き寝込んでしまうし、筋肉が寒さで強張るのか、肩こり・こむらがえり・腰痛に悩まされる。

歩けば滑りそうで、そればかり気を取られて足腰が痛くなる。

家にいても指先の冷たさが辛いし、すぐに布団に包まってしまう。

何と言うていたらくであろうか。

そのくせ、暖房完備の建物と外を行き来するだけで温度差で疲れるし、空気が乾燥して不快極まりない。

大人になることは、「堕落」であろうかと、この頃考えてしまう。



夜も雪は断続的で、普段の行いが悪いのか、買い物やカフェにいた時は止んでいたのに、さあ帰ろうと出るとパーッと降って来る。

傘は持っていたけれど、面倒臭くなってそのまま歩いた。

気温はそれほど低く感じないが、寒い事に変わりはない。

月初めに「立春」を迎えたばかりだが、本物の春はまだまだ先。

雪は迷惑だけど、せめて見方だけでも変えて冬を良い意味で味わう。

今夜は「雪灯り」が綺麗だ。





元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

雪は大丈夫でしたか?

寒暖差が出始めているので、体調管理には充分注意して下さい。

明日朝も道路はまだ雪が積もっていると思いますので、出かける際には気をつけて下さい。

雪を見ると、いつも君の事を思い出します。

あれから長い月日が経ちましたが、つい最近の事のように思えてきます。

君とたくさん話をしたことも、雪を見ると鮮明に思いだしてきます。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



雪見れば いまだ冬なり しかすがに 春がすみ立ち 梅は散りつつ(万葉集巻十 1862 春雑歌)










飛行機ネタ。

先の見えぬコロナ禍に、世界中のエアラインが苦境に陥っている。

何よりも運航したくとも、運航できない状況にあるのだからどうしようもない。

特に国際線を多く運航するエアラインは、例え国内線の運航は可能でも、他国との渡航制限があれば飛びたくとも飛べないと言う、前代未聞の状況が続く。

故に機材そして社員の大幅リストラに手を付けざるを得ず、今後コロナが終息に向かったとしても業界の回復は少なくとも数年かかると言う見方が強い。

多くの長距離国際線を運航する大手エアラインでは、主力機材の大型機をどんどん手放すようになっている。

経年と言う理由もあって、数年以内に退役が予定されていた機材などは、昨年後半より前倒しして一気に退役・・と言う事態を引き起こしており、「9.11テロ」以来の危機に迫られている。

特にB747、B575、B767と言った、若干「古め」の機材が、まとまって退役する事態が続いており、ファンとしてはいかんともしがたい想いである。

ある意味不幸中の幸いとして、B787やA350と言った新世代のワイドボディ機や、増加していたナローボディ機のおかげで上記の機種を代替え出来ている事もあるだろう。

確かにこれらの機体は、初飛行が80年代と言う前世代の物であり、経済性と言う意味では「現代っ子」たちに太刀打ちできないと思われても仕方ないのかも知れない。

先日ちょっと気になって調べたところ、急激な機材整理が各国で起きているため、資料の更新も追い付いていない状況にあるようだ。

その中で目を引いたのが、「MD-80」シリーズである。

個人的に大好きな機体なので、これまで何度か書かせて頂いて来たが、ナローボディ機としては既に「古典」であるため、コロナ前から退役が進んでいた。

それでもアメリカのメジャーで、同機のヘビーユーザーだったアメリカン航空やデルタ航空は、つい2~3年前まで100機以上を保有・運用していた。

しかしアメリカン航空は一昨年前に、予定通り全てを退役させたものの、デルタ航空はなおも同機の運用を続けており、遅くとも25年頃までに退役・・と公表していた。

だがコロナ禍で、その計画は前倒しされ、アメリカン航空と同じく100機近くの同機を退役させてしまった。

MD-80は固有の名称ではなく、シリーズの総称。

元となるのは60年代に開発された、ダグラス社初の短距離ナローボディ機「DC-9」から発展したシリーズである。

ダグラス社は「DC-9」の開発後、経営不振に陥って「マクドネル」社に売却・統合したが、名称は登録済だったことで「DC」の呼称は継続された。

最初のDC-9は100席にも満たない小型機で、現在のCRJやEシリーズと言ったリージョナル機とほぼ同格であったが、すぐに胴体を延長して座席数を増やす「ストレッチ」が開始された。

これは4発機「DC-8」で培った、ダグラス得意の手法である。

基本型「10」型から始まり、70年代には早くも150席級の「50」型まで登場し、各型合わせて1,000機近くが生産された。

ライバルであるボーイングは中距離機のB727で成功を収めていたが、DC-9に巻き返されB737の開発に着手することになった。

世界的な航空需要の高まりが確定しつつある中、マクドネル・ダグラスは同機のさらなる改良を計画する。

DC-9の発展型と位置付けながらも、メカニズムなどを一新させることで、形式名も飛ばして「80」型とされた。

最もこれは80年代初頭に就航を目指す意味で、新しい時代の機体と言う意味も込められていた。

その為計画当初は「DC-9-80」とされていたが、エアラインからの興味が引かれたことでローンチに成功し、同社は「MD-80」に名称を変更の上販売することにした。

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1-1-10A_DC-9-41_JAS (JA8450).jpg ←(2枚)ノースウエスト航空のDC-9-10と日本エアシステムのDC-9-40(ウィキペディア英語版より)

FAA(米航空局)の耐空証明及び登録では、DC-9シリーズの改良型なので「DC-9-80」になっている。

全長は45メートル、標準座席数は170席。

「10」が全長約31メートル、標準座席数が90席だった事を考えると、ほぼ別の機体である。

特に全長は約15年間で14メートルも伸びており、ナローボディ機としては異例の「成長」と言える。

胴体の意匠は、ダグラスの名機DC-8の物が受け継がれているが、直径は小さく、キャビンの座席配置は2-3の5列が標準である。

リアジェット方式、T字尾翼もそのままだが、もちろん安定化のため主翼や尾翼の形状に変更が加えられている。

エンジンはDC-9時代から一貫してP&W製の「JT-8D」ターボファンエンジン。

初期の低バイパスエンジンであるが、堅牢で故障しにくく、低バイパスエンジンとしては燃費や騒音性に優れたエンジンである。

B727/B737-100・200でも採用された傑作エンジンで、MD-80では出力を上げ経済性を改良させた200シリーズに変更されている。

コクピットもDC-9と同様2人乗務機だが、計器盤はアナログ式ながらINSなど最新の航法機器・レーダーが搭載されており、パイロットのライセンスは新規での訓練・取得が必要になった。

最も飛行システムの基本は同じことから、移行訓練は容易に行えた。

1-1-10A  MD-83_BRAVO AIRWAYS(UR-COC).jpg ←現時点でも現役にあるウクライナ、ブラボー・エアウェイズのMD-83(ウィキペディア英語版より)

日本では70年代に東亜国内航空(後の日本エアシステム)が、初めてDC-9-40を自社導入し、「80」の導入も決めた。

しかし同社ではジェット機の他機種が存在せず、従来の「40」と「80」は併用する事にしていたので、初期導入機は計器盤が「40」と同じ仕様に変更していた。

1-1-10A_MD-81_JAS_KIX.jpg ←東亜国内航空時代に導入した日本エアシステムのMD-81は、全国のローカル線で活躍した(ウィキペディア英語版より)

MD-80シリーズの基本型は「MD-81」で、原形機は79年に初飛行。翌年スイス航空(現スイス・インターナショナル)で就航した。

続くバリエーションは「MD-82」で81年に登場、エンジンの出力を向上させたモデル。

これは当時メキシコのフラッグキャリアだったメヒカーナ航空からの要望で実現したモデルで、高温・高所での運用を考慮して離陸時の出力を上げた。

84年になると「82」をベースに、燃料タンクを増設した航続距離延長型の「MD-83」が登場し、事実上完成型になった。

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1-1-10A MD-83-American_Airlines.jpg ←(2枚)MD-82/83を合わせて300機以上も運用したアメリカン航空。最後に残ったMD-83は一昨年前全て退役した(ウィキペディア英語版より)

86年には短い滑走路での運用ができるように、胴体をDC-9-40程度に短縮したMD-87がデビューした。

この時点でライバルとなるB737は、300~500型の「新世代737」が登場してセールスを伸ばしていた。

座席数によってエアラインが大きさを選択でき、エンジンも高バイパスの「CFM-56」に換装。

200型を運用していたユーザーの買い替えを中心に、受注が伸びていた。

そこでMD-87では、コクピットの計器を一部CRTに変えてグラスコクピット化させ、航法機器も一新してデジタル化を進めた。

同時に従来の胴体にも同様の改修を行う事で、87年に「MD-88」を発売した。

1-1-10A MD-88-Delta_N941DL.jpg ←MD-80シリーズの最終モデルMD-88。100機近く現役にあったデルタ航空は、コロナ禍の影響で計画を大幅に前倒しして、同機を全て退役させた(ウィキペディア英語版より)

コロナ禍の影響で、世界のエアラインの状況は極めて流動的で実数の把握が難しくなっているが、現時点でMD-80シリーズは約240機が現役にあると思われる。

81から88まで、シリーズ全体では約1,200機が生産されたが、90年以降は「MD-90」の生産が始まったことで受注は減少し、最終生産は99年まで続けられたが、90年代の新規の受注は僅かであった。

このころにはB737も、600~900の「次世代737」が姿を見せる時代になっており、MD-80シリーズは新鮮味のない機体となってしまった。

実質的な生産と販売は90年代初頭までで、現存する機体も機齢の若い物で20年以上経過しており、その数は減少の一途を辿っている。

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1-1-10A ND-87 88-The_Flight_Deck.jpg ←(2枚)MD-81~83のコクピットとMD-87/88のコクピット(ウィキペディア英語版より)

それはやむを得ないとしても、コロナ禍を除いた現況下に於いても残存数は意外である。

型式別では、生産数が多かったMD-82と83が最も多く、それぞれ52機、67機が確認できる。

しかし日本で主流だった基本型の「81」、改良型の「87」と「88」は「87」が16機残存しているが、「81」と「88」は5機ずつと青色吐息の状態。

1-1-10A_MD-87_(DC-9-87),_Danish_Air_Transport_.jpg ←ダニッシュ・エアトランスポートのMD-87(ウィキペディア英語版より)

一番新しいMD-88が絶滅寸前なのが意外だが、新造機でも生産数は少なく、殆どがヘビーユーザーのデルタ航空が購入していたからだろう。

エアライン別では、イランの新興エアライン、ATAエアラインズが10機、南米ベネズエラのLASER航空が12機、アメリカ・フロリダに本拠を多くチャーターエアライン、ワールド・アトランティック航空が10機保有・運用している。

運用エアライン数だと30社以上見られるが、上記以外のエアラインの大半は10機以下である。

またメキシコの貨物エアライン「TSM」が10機以上のMD-82/83を、貨物機に改造して主にDHLの受託運航を行っているとされるが、残念ながら実態は掴めなかった。

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1-1-10A MD-83-ATA_Airlines,_EP-TAR.jpg ←(2枚)10機保有するイラン、ATAエアラインズのMD-83(ウィキペディア英語版より)
だが地域としては全世界に散らばっており、中古機の動きもそこそこあるようだ。

興味深いのは、エアライン別だと1~5機と言う単位にも関わらず、「国」別でみるとイランが少なくとも40機以上の同シリーズを保有・運用していることである。

これまでもイランのエアライン事情を取り上げて来たので詳細は省くが、今も同国への経済制裁は続いており、あらゆるルートから機材や部品を調達している。

MD-80シリーズもその一つのようで、友好関係を保つトルコやロシア、ウクライナなどのエアラインやリース会社を通じて購入している。

現時点ではフラッグキャリアのイラン国営航空と、チャーター部門の子会社「イラン・エアツアー」が6機保有している。

ただしチャーター専用機材でなないようで、イラン航空便としてウェットリース運航をしているらしく、国内線や近隣諸国では定期便として飛来している。

1-1-10A MD-82-Iran_Airtour,_EP-MDC.jpg ←イラン国営航空の子会社、イラン・エアツアーのMD-82(ウィキペディア英語版より)

この他民間エアラインであるザグロス航空が9機、キッシュ・エアが5機、カスピアン航空が5機、ターバン・エアが5機、タフタン航空が2機と、全体的に平均しているのも特徴だ。

この中ではターバン・エアの5機がMD-88で、現在唯一現役にあるMD-88でもある。

他では82と83が混在しており、検査などがあるとエアライン同士で頻繁に機材を「やり取り」している。

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1-1-10A MD-88 TABAN AIRLINES.jpg ←(2枚)イランのターバン・エアのMD-88は、デルタ航空が退役させたので唯一現役にあるMD-88である(ウィキペディア英語版より)

またロシアやウクライナからは、短期リースで飛ばしているようで、機体登録もイラン籍でない機体が何度も目撃されている。

南米ベネズエラでは、LASER航空とアエロポスタルが主力機として運用しており、特にLASERは4機が元日本エアシステム・日本航空の機体。

ただし同国は内政不安による混乱とコロナ禍で、国内のエアラインは殆ど運休状態もしくは不定期運航に限られており、基本的に古い「MD-81」はいつ飛べなくなるか分からない。

経済状態も破綻に近く、部品調達や整備もままならない状態のようで、予断を許さない状況だ。

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1-1-10A_MD-82_Aeropostal.jpg ←(4枚)南米ベネズエラで現役にあるLASERのMD-81とMD-82、アエロポスタルのMD-82。上の2枚は元日本エアシステム機で、4機保有している(ウィキペディア英語版より)
MD-80は非常にシンプルな機体であり、維持コストの安い機体と言われている。

最盛期には途上国のエアラインも多数導入し、それゆえに事故も多発したが、その多くは操縦ミスや整備不良が原因だった。

初期には新しく搭載された航法装置のミスマッチが発生し、低速飛行時の事故が多かった。

DC-9ではなかった飛行姿勢制御装置が追加され、自動操縦と連動するように設定されていたが、この装置を熟知せず悪天候やエンジン故障時に操作を誤り墜落に至るケースが多かった。

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1-1-10A_MD-82_(DC-9-82),_Taban_Air.jpg ←(5枚)MD-80シリーズ最後の牙城イラン。上からキッシュ・エア、タフタン・エアのMD-82、カスピアン航空とターバン・エアのMD-83、MD-82。ターバン・エアのMD-82は塗装で分かる通り元中国南方航空の機体(ウィキペディア英語版より)

また80~90年代は、航空需要が増加してエアライン同士の過当競争も発生し、顧客争奪の為に整備を怠るエアラインもあり、安価で使いやすい同機が正に「犠牲」になった事例もある。

日本では旧日本エアシステムが導入し、日本航空と統合後もしばらくは「JALエクスプレス」で運用されたが、退役までの20年間大きな事故は起こしていない。

日本エアシステムは国内線専用機だったため、82・83・88の導入はしなかったが、南紀白浜空港のジェット化に合わせて導入したMD-87は、最初こそ同空港や松本空港など、滑走路の短い空港用として運用されたが、エンジンは同じ「JT-8D」ながらも改良型を搭載していた。

そこで日本エアシステムでは、DC-9-80を含む初期導入機を除いて、MD-81にもMD-87と同じ「JT-8D-217」エンジンに換装していた。

1-1-10A_MD-81_(DC-9-81),_JAL_Express.jpg ←日本航空と統合後、JALエクスプレスで活躍したMD-81(ウィキペディア英語版より)

構造的には古典的なエンジンだが、その分非常に熟成されたエンジンでもあり、騒音低下用のカウリングを持つことで殆どの国での基準をクリアできていた。

高バイパスエンジンには及ばないと思われているが、短距離運用では大きな差はなかったと言う。

ただ元が60年代のDC-9であることは、発展性と言う点でおのずと限界があった事も事実で、余裕を持たせていたB737とは対照的だった。

座席数を増やすための「ストレッチ」も、リアジェット方式の為MD-80シリーズが限界で、その後のMD-90ではキャビンの構造材などを改良して座席数を増加させるに留まった。

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1-1-10A MD-82 ALK_Airlines,_LZ-DEO.jpg ←(2枚)ブルガリアの主力エアライン、ブルガリアン・エアチャーターとALKエアラインズのMD-82。「チャーター」となっているが、定期便も運航しておりヨーロッパ各地に運航しているが、後継機種A320の導入も開始されている(ウィキペディア英語版より)

一方B737は、大きな事故で躓いてしまったものの「MAX」シリーズでは200席超えを実現させており、先見の明があった。

生産が中止されて20年以上経ち、今や世界のナローボディ機の認識は大きく変わった。

機体の性能が向上し、B737やA320シリーズではワイドボディ機に迫る長大な航続距離を持つに至り、「リージョナル機」ですら100~130席級まで拡大し、5,000キロにも及ぶ航続性能を持つ。

MD-80シリーズはあくまでも「短距離機」であり、それでも航続力は伸びたが、MD-83でも5,000キロに及ばなかった。

同じナローボディ機ながら、B737やA320と違い一回り細い胴体も、90年代にはハンデになってしまった。

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1-1-10A MD-83 WORLDATLANTIC-N802WA.jpg ←フロリダのチャーターエアライン、ワールド・アトランティック航空のMD-83は、北米で唯一MD-80を旅客機として運用するエアライン(ウィキペディア英語版より)

航空需要の多様化を迎えた今世紀になると、性能として多目的性が低く見られるようになっていたことも急に販売が落ち込んだ原因の一つだっただろう。

ワイドボディ機ならば、中古機を改造して貨物機にする例もあるが、同機の「転用例」は極めて少ない。

加えて新造機での貨物機や貨客混載型なども生産されなかったのは、やはり胴体が細い事だった。

B737では貨物用のサイドドアを付けられたが、細身のMD-80では強度上の問題もあり、サイドドアを増設することは難しい。

少数が貨物機として転用された例が見られるが、キャビンを改造し客室窓を埋める程度の改造に留まり、荷物の出し入れは乗客用ドアから行う。

1-1-10A MD-83(F) EVERTS AIR-N965CE.jpg ←たった1機だけ改造したMD-83を運用するアラスカの貨物エアライン、エバーツ航空(ウィキペディア英語版より)

歴史に「IF」は禁物だけれど、DC-8と同じ意匠の胴体と言うならば、B707と727・737のように直系も同じであったなら、MD-80の有効性はもっと長生きしたであろう。

ほんの座席1個分広いB737、さらに広いA320はキャビンだけでなく貨物搭載量や燃料タンクの大型化も出来る事で、発展性を持たせてあった。

しかし近年のエアライン事情を見ると、ナローボディ機のマルチ性が台頭する一方で「無駄」を省く傾向も見られる。

今やグローバルスタンダードになったエンブラエルEシリーズの標準座席数は2-2の4列だし、ボンバルディアが開発したA220はMD-80と同じ5列配置である。

中途半端とそっぽを向かれたはずが、最近は見直されつつあると言うのは何とも皮肉としか言いようがない。

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1-1-10A MD-83 DANISH AIRTRANSPORT-FIFA_OY-RUE.jpg

1-1-10A_MD-83_DANISH AIRTRANSPORT(Coca_cola).jpg ←(3枚)史上最も派手であろうデンマーク、ダニッシュ・エアトランスポートのMD-83。同社はリージョナルエアラインだが、2機のMD-83でチャーター運航を行っている。下2枚はサッカー「FIFA」W杯の特別塗装機だが、各国の選手団や観客輸送にアジアまで飛ぶこともある(ウィキペディア英語版より)

日本エアシステム、日本航空のDC-9/MD-81/87/90には随分乗ったが、キャビンの狭さを実感した事は殆どない。

その理由として、客室窓の大きさがある。

同機の窓はB737などの比べて一回り大きく、角張った形になっているため採光性に優れている。

日中のフライトに限られるが、キャビンは明るい。

また5列配置のため、2列側のオーバーヘッドストウェッジが若干小さめになっているので、上下空間の窮屈さもあまり感じない。

「中間席」が1つしかないのも乗客には好評だったし、リアジェットなので胴体の長いMD-80シリーズのキャビンは静かだった。

ただひと昔前の導入機だったので、インテリアや装備は単純だったが、国内線用だから不満といえるほどでもなかった。

日本航空・JALエクスプレスでは、B737-800が導入されたことでB737-400よりも先に退役してしまったが、話題にもならなかった。

同機に対して失礼だと思うのだが、既に旧式機と言う事や日本航空自信が導入した機材ではないため、思い入れが弱い機種立ったのかも知れない。

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1-1-10A_MD-82_(DC-9-82),_Kam_Air.jpg ←(2枚)登録上現役にあると思われるインドネシア、エア・ファーストとアフガニスタン、カム・エアのMD-82(ウィキペディア英語版より)

私は今でも、MD-80シリーズは最も美しく格好良い旅客機の一つだと思っている。

リアジェット・T字尾翼機は流麗なスタイルを持つ機体が多いが、スマートさではMD-80が抜きんでている。

後継機のMD-90も同じだが、高バイパスエンジン「V2500」はいかにも現代的だが、スレンダーボディには些か不似合い。

性能はともかく、胴体・翼・エンジンとも全てバランスよく細身で構成されており、小柄な女性を思わせる控えめさが堪らない。

特に機首上げする離着陸時には、長い胴体が大きな鳥のような雰囲気を醸し出す。

主翼は薄く細長く、もちろんエンジンはついていないので意外と乱気流に強い。

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1-1-10A MD-81-JapanAirSystem_MD-81_fukuoka.jpg ←美しいボディラインを見せる日本エアシステムのMD-81(ウィキペディア英語版より)
日本では、退役して10年近く経ち、話題に上ることも殆どなくなった。

若いファンの中には、同機を見たことも乗ったこともない人がいるだろう。

僅かに存在はしたが、海外のエアラインが日本へ運航することもなかったので、旧日本エアシステムの同機が全てだったと言っても良い。

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1-1-10A_MD-83_(DC-9-83)_DANA AIR.jpg ←(2枚)アルゼンチンのアンデス航空、ナイジェリアのダナ・エアのMD-83(ウィキペディア英語版より)

過去の旅客機とされて久しいにもかかわらず、世界ではまだ「現役」にあることが驚きなのだ。

シリーズ全体の生産数から見れば、生存率は1割強しかないが、それでも150機前後が現役。

このうち企業などのプライベート機が20機前後あると見られる他、上記のようにその国の事情で現役なのか退役したのか不明なエアラインもある一方、本当に細々ながらも生きながらえていると言う事実。

忘れ去られた過去の機体・・と決めつけるのは、まだ早いのである。

冬晴れの空舞う白鳥(2月5日 晴れ 7℃)

今週は何かとバタバタして、ブログの更新ができませんでした。

週明けから何故か予想外の「予定」が入り込み、それを合わせるのに目いっぱいで。

単なる言い訳ではありますが。

私にとっては久し振りに「長い一週間」で、精神・肉体とも疲労困憊であります。

特に荒れ模様の天気だった昨日など、移動するだけでも体力を消耗してしまった。

でもそれへのご褒美なのか、今日は午前中風が強かったものの、綺麗な青空が広がった。

市内は未明にかけて再び雪が降り、泉区では5センチほどの積雪。

午前中銀行などに用事があったので歩いて出かけたが、気温が下がったこともあって一面銀世界。

昨日など、一気に数センチ積もりながら同時に融け始めて、道路はどこもぐちゃぐちゃ。

靴の中まで水がしみ込んでエライ目にあったが、今朝は良い意味で引きしまったコンディションだった。

加えて日中ずっと日差しがあったおかげで、道路・歩道とも乾いた部分も多かった。

そうした中歩いていると、空から鳥の鳴き声が聴こえた。

こう見えても(誰も見ていないか)、野鳥には詳しい方なので、その主が「白鳥」であることが分かった。

どこかな・・と青空を仰ぐと、いた!

1,2,3・・・数えてみると全部で18羽の白鳥が、高度100メートルぐらいの場所でサークルを描いていた。

ちょうど西風が強く吹いていた時間で、飛ぶのは大変だっただろう。

我が家のすぐ近くには大きな沼があり、そこに滞在している白鳥かとも思ったが、沼は凍結しているし、逗留しているとは聞いたことがないので、近くの川か別の沼や池にいる白鳥だろう。

そうか、そろそろ「北帰行」の時が近づいているか、と思った。

今年の仙台は久し振りに雪が多く寒い冬で、彼らの越冬も若干伸びるのではないか。

それでも天気が良い事で、北帰行に備えて「トレーニング」が始まったに違いない。

集団は数羽ずつ3つに分かれて飛んでいたが、飛ぶ方向は一緒。

体力を蓄え、「編隊飛行」の勘を取り戻しているように見えた。

冬の青空に、真っ白な白鳥が優雅に飛ぶ姿は実に美しく圧巻である。

歩いている人はいなかったので、気付いた人もいなかっただろう。

ちょっと得した気分。

写真を撮る事ができず、残念。

ご存じのように白鳥には幾つかの亜種があり、越冬のため日本へ渡って来るのは「オオハクチョウ」と「コハクチョウ」。

主に北海道と東北太平洋側に飛来し、湖沼や河川で一冬過ごす。

春から秋はシベリアやオホーツク沿岸で過ごして繁殖し、晩秋の頃千島列島やサハリンを経由して1,000~2,000キロもの長旅をしつつ飛来する。

1-1-9A CYGNUS-Whooper_Swan_RWD2.jpg ←毎年数万羽が越冬のために「来日」するオオハクチョウ(ウィキペディアより)

日本では毎年約25,000~30,000羽もの白鳥が飛来するそうだが、実は最も多いのが宮城県。

ラムサール条約に登録されている登米市の伊豆沼や、大崎市の蕪栗沼は全国的に有名だが、仙台市内でも比較的大きな池や川に数十羽単位で滞留している。

県民にとっては「冬の風物詩」みたいなものだが、飛来する白鳥の半分近くが宮城県で冬を越すのだと言う。

白鳥は「飛翔する」鳥類としては最も大きな鳥の一つで、全長は平均で1.5メートルくらい、体重も15キロ前後もあり、翼は拡げると2.5メートルほどにもなる。

大きさゆえ、寿命も20年以上と長い。

なので越冬による長旅は何度も経験している事になるが、一度決めた場所に毎年戻って来るのが普通。

ただ「人間」の都合や、自然災害などで逗留出来なくなった場合は、その近くで適当な場所を探すのだと言う。

今更ながら、ロシアと日本を「自力」で往復するだけでも凄いのに、ピンポイントで前年までの沼や川を覚えていることは驚嘆としか言いようがない。

「自分たち」で作った道すらよく分からず、GPSに頼り切る人間とはエライちがいではないか。

繁殖では雌は一度に数個の卵を産むが、1カ月程度で孵化し、約3カ月もすれば幼鳥も一人前に飛ぶようになる。

最も海を渡るのは2度目の冬が多く、時々白ではなくグレーの個体が混じっているのは2~3歳の若鳥だ。

また怪我をしたりして北帰行出来ない個体もあり、その年は夏も日本で過ごす事もある。

1-1-9A-Cygnus_cygnus.jpg ←オオハクチョウの親子。「渡り」は自助努力しかないが、親は必ず傍で見守る(ウィキペディアより)

非常にタフな鳥だそうで、実際には渡りをせずとも繁殖・生活は出来るのだそうである。

食性は主に草食だが、水草や藻などが主流で、水中昆虫などを捕食することもある。

でも逗留地によっては、人間が餌付けすることも多く、ちゃんとそれを知っての飛来である。

最近は遠くなって行けなくなってしまったが、以前住んでいた地区で家から車で5分くらいの所に彼らがやって来る沼があった。

地区では結構有名で、今頃の季節は我が家上空をいつも白鳥が飛んでいた。

今も続いているかどうかわからないが、毎日どこからか餌を撒きに来る人がいて、時々近所の子供なども給食の残りのパンなどを撒きに来ていた。

繁殖期や子育て中の白鳥は気が荒くなることもあるが、越冬中は極めて大人しく人懐こい。

日常的に餌をくれる人の顔を覚えているようで、実に頭が良い。

ところが沼にはカモや野生のアヒルも棲息していて、「おこぼれ」に預かろうとたくさん寄って来る。

身体が小さく首も短い彼らは心得ていて、撒かれた餌を白鳥が取る前に横取りしてしまう。

要領の悪い白鳥は、きっと若鳥なのだろう、食べようとしてもカモやアヒルがさっと食べてしまい、右往左往してしまう。

餌やりの人も、食べ損ねないように狙って撒いてやるが、すると今度は陸に上がって愛想を振りまく。

白鳥はあまり陸に上がらないことを知っており、カモとアヒルはしっかりと人間の足元まで来ておねだりするのである。

生物学上カモ・アヒル・白鳥は仲間だから、なんとなく習性も似ている気がする。

そして恒常的に人間と共存しているカモ・アヒルの方が、いささかずうずうしいとも言える。

しかし心和む事である。

実際にはこうした水鳥が集まる湖沼では、彼らのフンなどによる水質汚濁が問題となることもあるし、近くの田や畑での「食害」が発生することもあると聞く。

でも彼らは生命に対する警戒心は持っていても、人間との「共存」を望んでいると言う部分は大切な事だ。

白鳥の場合は必ずしも人間の手を必要としていないようだが、助力を拒むこともない。

何よりも人間界を熟知しているようにも見え、我々はお互い干渉せずとも一定の距離感をもって共存する意識を常日頃心がけるべきだ。

日本では意外にも、古代からその存在が知られている。

古事記・日本書紀の「垂仁天皇記」には、「クグイ」と言う古語の呼び名で登場する他、次代の「景行天皇記」には、彼の子である「ヤマトタケル」が、死亡後その魂が白鳥に姿を変えて遥か山奥の方へ飛び去っていった・・と言う伝説が記載されている。

ヤマトタケルは景行天皇の子で、本名は「小碓皇子」と言う。

あまりに伝説的なエピソードが多く、故に我が国初の「ヒーロー」に仕立て上げられてしまい、学者・研究者の中には「創作された人物像」としている人も多い。

彼には「大碓皇子」と言う兄がおり、皇位は兄が継ぐことになっていた。

ところが大碓皇子は、美濃の豪族の娘に一目ぼれし、皇位を捨ててでも彼女と夫婦になろうとする。

一方小碓皇子は、父に勇敢さを認められて、ヤマト政権の支配を拡大させる為、九州や東国の「まつろわぬ民」の平定を命じられる。

ところが父王は、その功績は認めるものの、なぜか彼に休む間を与えず、全国を行脚させるのである。

これは父の命にさっぱり従わない、兄をいとも簡単に殺害したからである。

景行天皇は、小碓皇子に「兄の大碓を(ねんごろ)に諭せ」と命じたが、小碓は平然と兄を殺害し驚いた天皇にも「父上に言われた通り、ねんごろに諭しました。」と答えた。

命令だからと、平気で実兄を殺し顔色一つ変えない小碓に、天皇が背筋が凍る想いだった。

命令には忠実と思っていたが、いざとなれば肉親も平気で殺す・・と取った天皇は、彼を自分から遠ざけるために「全国出張」を続けさせたのである。

「ヤマトタケル」と異名は、九州の「熊襲」の首長が、単身乗り込んで来た彼の勇気を讃え、死の直前に与えた名前だと言われる。

しかし彼の行脚は決して平坦ではなく東国遠征の帰路、厳寒の伊吹山で息絶えた。

その直後、彼の魂は美しい白鳥に姿を変えて冬の空に消えて行ったというのである。

いかにも伝説的な悲劇の終末と言えるが、一方で報われぬ努力の結果若くして命を落とした彼に、せめて白鳥に生まれ変わって自由に空を・・と言う、慰めが強く感じ取れるエピソードと言えよう。

1-1-9A-Kotohikihara_Tomb,_haisho.jpg ←ヤマトタケルの陵墓に治定されている「白鳥陵」(奈良県御所市、ウィキペディアより)

記紀の編纂は奈良時代。

飛鳥時代に紛失した史料を、改めて改修・編纂した我が国最古の史料であるが、少なくとも奈良時代以前に白鳥が単なる「鳥類」としてでなく、いわば「霊的」な扱いも受けていたことが分かる。

事実記紀では、白鳥だけでなくサギなどの大型鳥類で、白い鳥は「吉祥」のシンボルと位置付けられていたことが分かる。

更に遠く、海を超えて日本へ越冬しに来る事も知られていたはずで、空を飛んで異国と行き来できるのは、まさに霊的な存在だったかもしれない。

尚宮内庁は、ヤマトタケルを「皇族」と認定し、陵墓を治定している。

だが「伝説のヒーロー」らしく、「ヤマトタケルの墓」は北海道と沖縄を除く全国に伝わっており、より彼を「伝説化」させてしまっている。

しかも宮内庁が治定している陵墓は3か所あり、「同一人物」で複数治定されているのは極めて異例である。

3つのうち三重県亀山市にある「能褒野王塚古墳」は4世紀築造と思われる前方後円墳、奈良県御所市の「白鳥陵」は小高い山を利用した円墳と思われるが、詳細は不明。ただしこちらも4世紀頃の築造と思われる。もう一つ大阪羽曳野市にある「白鳥陵」は5世紀の築造と見られるため、時代に相違が見られる。

1-1-9A-Nobono_Otsuka_Kofun_zenkei.JPG ←ヤマトタケルの御陵に治定されている能褒野王塚古墳(三重県亀山市、ウィキペディアより)

こうしてみると、日本人は古代から白鳥を愛していたと言えると思う。

今人間界はコロナに翻弄され、それはいつしか「お金」の問題が複雑に絡み合っている。

予測は出来たにせよ、地球上で唯一「文明」を持つ人類が、「たかが」ウイルスに振り回されている。

その傍らで、彼らは季節を敏感に感じ、受け継いできた命を更に繋げようと今日も生きている。



朝は雪が積もって寒かったが、日中気温が7℃まで上がったので、夜にはかなり融けていた。

金曜日と言う事もあり、街の人出は多かったようだが、市内の飲み屋さんへの時短要請が続く。

県では感染者数がいくらか減少傾向にあることから、この週末で要請を停止する方針だと言う。

スーパーの催事場はひときわ賑やか。

見れば「バレンタイン」のセールで、「全く」縁のない私には「ああ、そうか」である。

今年の2月14日は日曜日。

コロナ禍で憚れる事も多いと思うが、想いを寄せる相手にプレゼントするぐらいは良いだろう。

「義理チョコ」は、なんとなくコロナを理由に拒絶されそうだけれど、家族同士・友人・恋人同士ならさほど気にすることもあるまい。

言われてみれば、先月下旬には会場が設けられていた気がするが、まだ1週間あるのに空になった棚もある。

まだ補充するのだろうが、売れ行きは良さそうだ。

この週末も買い求める人が、たくさん来るに違いない。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

この冬は雪が多く寒く、君も大変だと思いますがどうですか?

最も寒さに強い君の事だから、このぐらい・・かも知れません。

コロナ禍は相変わらずですが、いつまでも続きません。

君がどういう影響を受けたかがとても心配ですが、大切なのは感染せず元気に過ごす事です。

コロナに捕われ過ぎて、普通の風邪なども油断せず気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




白鳥の 飛羽山松の 待ちつつぞ わが恋ひわたる この月ころを(万葉集巻四 588 笠女郎)






飛行機ネタ 傀儡系エアライン キプロス・トルコ航空(1月31日 晴れ 4℃)

1月も今日で終わり。

ボーッと生きているせいか、1カ月の早い事・・・。

この正月は何年振りかに体調を崩した事で、何の思いもなく過ぎていて、いつも以上に時の感覚が鈍っている。

今日は良く晴れた日曜日となったが、午前中は風が強かった。

昨日から続く冬型の天気で、今朝は雪が積もっていた。

昨日もうっすらと積もる1日だったが、夜には大かた融けていたので(凍ってはいたけれど)、昨夜のうちにまた降ったらしい。

無責任に言えば、晴れての銀世界は綺麗だなと思う。

でも県北では暴風雪になったようで、鉄道や高速道路が一時運休・通行止めになったと言う。

春を待つ季節・・ではあるが、東北で春を感じるのは3月後半。

この冬は「らしい」寒さが続いているので、まだまだ油断は出来ない。

スーパーに行ったら、お総菜のコーナーに「恵方巻き」が大量に並んでいた。

まだ1月ですが・・・。

今年は暦の関係で節分は2月4日でなく、2日なのだそうだけど、土日と言う事で並べたのだろうか。

気持ちの問題とは言え、1月中に食べるのは如何なものか。

コロナ禍で飲食業が大変の中、スーパーで買い物する人が増えていると言う一応「縁起もの」である物を前倒しして意味があるのかなあと思う。

同じことを考える人がいたのか、気の毒に大量に売れ残っていた。

最近「恵方巻」は季節の風物詩のようになっているが、実際には約30年までに某大手コンビニチェーンの開発室で全国に広まったのが始まり。

大阪を中心とした近畿地方では、節分に特別あつらえた「太巻き寿司」を食べる風習があり、それをヒントに季節商品として売り出したのが始まりだと言う。

今やスーパーやデパートで全国どこでも見かけるようになったが、良く言われるのがその年の「恵方」を向き、「一気に食べる」と願いが叶うとされる。

最もこの説は全く根拠はなく、「笑いながら食べる」などの諸説もあるし、まるごと1本「無言」で食べる・・と言うのは「一説」に過ぎないそうである。

スーパーで見ると、それを意識して「短め」の恵方巻も売っていて、さすが日本のスーパーは親切・・と思ってしまう。

あくまで気持ちの問題なのだけれど、普段「お総菜」として売っている太巻きに比べ、異常に高価なのが気にかかる。

中の具材が良いからだろうが、わざわざ具材ごと理由をつけたポップが添えられていたりして、ちょっとやり過ぎに思える。

最も今年はコロナ禍で社会は翻弄されているから、「願いを込めて」求めたくなる人は多いかも知れない。



午後には暴風も収まったが、気温は低いまま。

晴れていても日差しは空気を暖めようとしないのは、真冬の証拠だ。

暦上も、今がまさに「真冬」の季節。

オホーツク沿岸では、「順調に」流氷が接岸を続けており、今年の冬は少し長引きそう。

雪は迷惑だけど、今日のような冬晴れは気持ち良い。

そう言いながら、家でヌクヌク・・と言う日曜日ではあったけれど。

明日から2月。

節分を迎えるけれども、本当の春はまだ先。

今年の春は、コロナがどう「邪魔」するのか。

でもイーグルスの田中投手の復活は、そんな不安を忘れさせてくれる嬉しいニュースだった。

その流れでコロナを吹きとばしたいものだ。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

寒さは大丈夫ですか?

今朝は未知に雪が積もり、凍っていると事もあったようですが大丈夫でしたか?

1月は今日で終わり、明日から新しい1カ月が始まります。

寒さはまだ続きそうなので、体調管理には注意し、毎日を暖かく過ごして下さい。

そして君がコロナに負けぬよう、毎日祈っています。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




引きよぢて 折らば散るべみ 梅の花 袖にこきれつ 染まば染むとも(万葉集巻八 1644 三野連石守)









飛行機ネタ。

「分断国家」と言うのは意外と定義が難しいとされるが、何らかの理由で元々1つの国だったのが複数に分断された国家を指す。

日本では韓国と北朝鮮、中国と台湾の関係が分かりやすいが、かつでは東西ドイツ・南北ベトナム・南北イエメンなどが存在した。

最近ではウクライナとクリミア、モルドバと沿ドニエストルなども分断国家の一つである。

分裂同士が、例え国際的な承認や手続きを踏んでいないにせよ、「主権国家」を宣言して自治を行えば事実上の分断国家と言えるかもしれない。

上記のように冷戦時代と違って、現在はその定義が曖昧になりつつある。

国際社会がそう決めつけても、当の本人は「独立した国家」「内政干渉だ」と言えばその通りになってしまい、特にクリミアや沿ドニエストルなどは内政干渉として国際的仲介がなされていない。

いわば「暗黙の了解」として、分断国家として認識されているのはやはりアジアの2地域であろう。

ところがヨーロッパにも、東西ドイツの後も残る分断国家があるが、日本ではあまり知られていない。

それは地中海東部に浮かぶ島、キプロス島である。

キプロス島の面積は約9,200平方キロあり、ヨーロッパではイタリアのシチリア島、サルディーニャ島に次ぐ大きさを誇る。

その大きさは、四国のちょうど半分くらい。

ヨーロッパに分類されているが、北にはトルコ、東にはシリア・レバノン・イスラエルと言った中東に近く、どちらも150~200キロ程度の距離にある。

歴史的にも紀元前から文明の「十字路」に当たる島で、紀元前1世紀にはギリシアの影響を受けたポリス(都市国家」が存在し、ヨーロッパと中東の交易や軍事的拠点として勢力争いが続いていた。

故にギリシア時代、ローマ時代からありとあらゆる勢力・民族の侵略や支配を受けて来た島でもある。

同時にいずれの時代も、大陸の優れた文化が流入し、古代から栄えていたのも事実である。

1-1-9A-Kyrenia_view_from_castle_bastion.jpg ←北キプロスのリゾート地キレニア(ウィキペディア英語版より)

現在日本政府では「キプロス共和国」として承認、国交関係を持っており、国連加盟国の殆ども同様である。

ところが実際のキプロス島には「2つ」の政府が存在している。

キプロス島は、その歴史と地勢から住民はギリシア人とトルコ人が占めている。

19世紀まではオスマン帝国が支配していたこともあって、トルコ系住民が多い理由になっているが、全島人口約160万人のうち、約8割がギリシア系、残る約2割がトルコ系住民である。

そして現在、島の北部1/3に当たる地域が「北キプロス・トルコ共和国」として主権を持つ「独立国」になっている。

しかし同国を承認しているのはトルコだけで、日本を含めて多くの国は国家として認めていない。

日本では「その他の地域」として扱っている。

1-1-9A KHTY-B737-86N,_KTHY_Kibris_Tuerk_Hava_Yollari.jpg ←北キプロス・トルコ共和国のフラッグキャリア、「キプロス・トルコ航空」のB737-800(ウィキペディア英語版より)

オスマン帝国が滅亡後、キプロスはイギリスの保護下に置かれて植民地となり、1960年に独立した。

独立前から、多数派のギリシア系住民と少数派であるトルコ系住民の間には深い確執があったが、独立後はトルコ系住民の多い北部が一定の自治権を取得し、連邦国家として運営されていた。

しかし人口の偏りが、議会の運営もギリシア系議員が多かったことから、連邦政府は平等な政策を摂ろうとした。

しばらくは平穏な状態が続いたが、74年にギリシア系軍人が主導するクーデターが発生すると、政府と議会を掌握し、一時憲法を停止させた。

これを見たトルコは「トルコ系住民の保護」を目的にキプロス島北部に上陸、侵攻。

事実上北部を占領したのである。

当時キプロスには正規の軍隊がなく、警察組織しかなかったが、その代わりとしてギリシアも軍を派遣する準備を開始。

キプロスの内部分裂は、ギリシアとトルコの全面戦争の恐れが出たのだった。

当時は冷戦時代にあり、東欧と直接国境を接する両国は、NATOの加盟国で、国際的には「同盟国」の立場にあった。

しかし両国はそれ以前から、地中海やエーゲ海の島嶼の領有権を巡って対立関係にもあった。

NATOの盟主米英にとって、キプロスは戦略上重要な場所であるともに、どちらも同盟国であるからぜひとも紛争を止める必要があった。

幸いキプロスには植民地時代からイギリス軍が駐留しており、イギリス政府は内政干渉はしないとしながらも仲介に入らざるを得ず、国連安保理に問題を持ちこんだことで、ギリシアは軍の派遣を止めたのである。

トルコは傀儡政権を北キプロスに立ち上げることで、軍事侵攻を否定したことから、トルコを国際法違反に問えなかった。

結果国連は島内に「グリーンライン」と言う緩衝地帯を設ける事を提案し、北キプロス以外に居住していたトルコ系住民を移転させた。

更に首都ニコシア自体も、街の中心部に「グリーンライン」が貫くことで、北キプロス側も「首都」に指定した。

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1-1-9A-Buffer_zone_barricade_near_the_Ledra_Street_checkpoint,_Nicosia.jpg ←(2枚)首都ニコシア・レフコシアと、市街地にあるグリーンラインの一部(ウィキペディア英語版より)

ただし「ニコシア」はギリシア語名であることから、トルコ側ではトルコ語の「レフコシア」を使用することになった。

先に書いたように、独立時の条件としてイギリス軍の半永久的な駐留が明記されており、現在島の南東部と南西部、アクロティリと「デケリア」地区はキプロス共和国の治外法権になっており、「イギリス主権地域アクロティリ及びデケリア」と言う。

イギリスにおける植民地や海外県の扱いはなく、自治権もない。

だがれっきとした「イギリス領」であるが、空軍を主体とするイギリス軍とその家族や職員が数千人居住する。

その面積は245平方キロ、その面積は静岡県富士市、北海道小樽市とほぼ同じくらいあり、理屈と言う意味ではキプロス島は「3つ」に分断されているとも言える。

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1-1-9A-RAF_Typhoon_Aircraft_at_RAF_Akrotiri_MOD.jpg ←(2枚)イギリス主権地域アクロティリの街とイギリス空軍のタイフーン戦闘機。同機の部隊は配備されていないが、分遣隊として常駐している(ウィキペディア英語版より)

かつてグリーンラインを超えての行き来は厳しく制限され、外国人観光客だけに限られていたが、近年では双方の歩み寄りができて。住民も行き来できるようになった。

しかしそれは首都ニコシア・レフコシア市内などの検問所の限られ、郊外の緩衝地帯周辺には地雷原が市季節されていると言う。

行き来するのも時間制限がある他、情勢は極めて流動的な為検問所が突如閉鎖されることもあると言う。

北キプロス側の主張では、国名を「北キプロス・トルコ共和国」としていて、先に書いたように大統領制の政治機構を持つ。

キプロス島は山がちの島で、農業や水産業が盛んだが、地中海性の気候は観光地としても人気で、「キプロス共和国」では重要な産業の一つである。

また近年EUに加盟し、通貨も「ユーロ」であることに加え、法人税が安く設定されていて、ヨーロッパ企業を中心に現地法人を作る事が増えている。

公用語はギリシア語だが、イギリス領だったことから英語の通用度が高く、自動車通行は「右ハンドル」だ。

故に日本からの自動車輸入が多く、特に中古車の輸入が多い。

島内には鉄道がないので、公共交通はバスやタクシーで、自家用車の普及率が高い。

その為自動車の修理や部品製造業が盛んで、工業化の促進も進んでいる。

1-1-9A-Border_between_nort_and_south_cyprus_Nicosia.JPG ←ニコシア・レフコシア市内にある北キプロス側の検問所(ウィキペディア英語版より)

一方「北キプロス・トルコ共和国」は、国際的に国家と認められていないので、経済は「本国」に頼る状態にある。

キプロス共和国と同じく、観光業が盛んだが、オリーブやかんきつ類、ワインなどの農産物の生産が主体である。

分断直後、トルコ系住民が移住したことで総人口約35万人の9割以上がトルコ系である。

公用語ももちろんトルコ語になるが、「南」と同じく英語の通用度は高い。

74年に一方的独立宣言を行って政府が出来た後、75年には独自のエアラインも設立された。

いわば「既成事実」を作り上げる常套手段だと言えるが、トルコ政府が出資した「キプロス・トルコ航空」がフラッグキャリアとして設立された。

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1-1-9A KTHY B727-200-Kibris_Turkish_Airlines_TC-JEC.jpg ←75年に運航を開始したキプロス・トルコ航空のB727-200(ウィキペディア英語版より)

それまでキプロスの中心空港は「レフコシア」の国際空港だったが、「グリーンライン」が空港も貫くことになり、南も含めて74年に閉鎖された。

南は「ニコシア」の南にある郊外都市「ラルナカ」の空港を代替え空港にして、改修して現在に至っているが、「北」もまたレフコシアの西にある「エルカン空港」を首都空港に変更した。

「キプロス・トルコ航空」は、ターキッシュ・エアラインズからB727-200をリースする形でイスタンブールなどへ運航を開始した。

その後機数を増やして、ロンドン・フランクフルト・チューリヒなどの国際線も運航を開始した。

本来相手国にしてみれば、承認していないのだから「幽霊エアライン」になるはずだったが、NATO加盟国トルコとの兼ね合いもあり、「便宜上」運航を認めていた。

逆に言えば、トルコとしてはターキッシュ・エアラインズで運航したかったが、それでは北キプロスに「侵攻・占領」したことを認めることになるので、あえて同社を立ち上げたと言える。

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1-1-9A-KTHY_A310-300_Spijkers.jpg ←(3枚)ヨーロッパ線用にターキッシュ・エアラインズからリースされたA310-200/300(下)(ウィキペディア英語版より)

基本的には民営エアラインとして経営されたが、株式はトルコ政府が半分を保有しており、事実上「トルコ」のエアラインであった。

紛争が落ち着いたことで、会社の登録をイスタンブールに変更したことで、名実ともにトルコのエアラインであった。

90年代には北欧諸国へも路線を拡大させたが、元々市場は小さく、運航スタッフの多くはターキッシュ・エアラインから派遣されていた。

機材の整備ももっぱらターキッシュ・エアラインズで行われていたが、00年代になると機材の更新が計画されると同時に、整備や運航乗務員の自社養成・雇用も開始した。

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1-1-9A KTHY-Cyprus_Turkish_B737-800_TC-MZZ.jpg ←(2枚)全てリース機だったため、ロゴの違う機体も見られた。KTHYのロゴが消えたB737-800(ウィキペディア英語版より)

02年にはターキッシュ・エアラインズから、長期リースと言う形でB737-800を初めて導入した。

更に短期間ではあったが、同じくリースと言う形でMD-90を運用した事もある。

また国際線用機材としてA310を90年代後半に導入し、ヨーロッパ諸都市へ運航した。

最盛期には30都市前後まで就航したが、大半はトルコ国内だった。

1-1-9A_KTHY MD-90_Kibris_Turk_Hava_Yollari.jpg ←1機だけ運用されたキプロス・トルコ航空のMD-90(ウィキペディア英語版より)

00年代後半には、リース期限を迎えたB737に代わって、ウェットリースと言う形でA320・321が加わっている。

サービス形態はフルサービスキャリア並みで、キャビンはビジネスクラスを含む2クラス制。

ミール・飲料はもちろん無料だったが、機内エンターティメントなどはリース機材だったためサービスされなかったという。

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1-1-9A KTHY_A320-232,_Turkuaz_Airlines_JP6903535.jpg ←(2枚)トゥルガズ航空がウェットリースで運航したA320-200(ウィキペディア英語版より)

しかし00年代半ばになると、業績悪化が顕著になり、完全民営化を模索。

経営権の売却公募を行ったが、入札にならず、09年に同社は破産手続きを開始。

10年認可されて、運航を停止してしまった。

同社の略号はトルコ語で「Kibris Tuerk Hava Yollari」、「KTHY」。

英語名は「Cyplus Turkish Airlines」。

商業的な要素を全く持たない、異質のエアラインだった。

何よりも「傀儡エアライン」とでも言えるものだった。

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1-1-9A KTHY_A321_TC-KTD.jpg ←(3枚)キプロス・トルコ航空のA321。同機はトルコ本土のアトラス・グローバル航空の機体と乗員をウェツトリースして運航された(ウィキペディア英語版より)

同社が消えた後は、しばらくターキッシュ・エアラインズが代行輸送を行っていたが、やはり対外的に同社での運航はよろしくないのか、現在はエルカン~イスタンブール線のみの運航である。

代わりに完全な民間エアラインがエルカンに就航しており、アナドルジェットとLCCのペガサス航空がトルコ国内を中心に運航するようになっている。

現時点で北キプロスへの国際線定期便は運航されておらず、同地に入るには「本土」を経由しなければならない。

シーズンにはヨーロッパからチャーター便が運航されることもあるが、年間通じての旅客便はトルコ国内便だけだ。

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1-1-9A B737-800-SunExpress.jpg ←(4枚)現在北キプロスに乗り入れるのは、全てトルコのエアライン。ターキッシュ・エアラインズのA321neo、アナドルジェットのB737-800、ペガサス航空のA320neo、サンエクスプレスのB737-800(ウィキペディア英語版より)

「南」でもかつては「キプロス航空」と言う国営エアラインが存在したが、こちらも倒産している。

だがラルナカにはヨーロッパだけでなく、エル・アル・イスラエル航空やエミレイツ航空、カタール航空など中東のエアラインやライアン・エア、WIZZと言った大手LCCも多数就航しており、自前のエアラインが必要ないほどなのと対照的だ。

北キプロスでは「南」に対し、お互い自治権を持つ新しい「連邦制」を持ちかけているが、ギリシア系住民の多くが反発しており、統一の道筋は見えていない。

また数年前ギリシアが経済不振に陥った際は、キプロスも打撃を受けた事があり、北キプロス側でも統一を望む声は薄くなっていると言う。

分断直前には双方の住民が衝突し、多くの死者やけが人が出ており、「本国」同士も対立関係にある事で、住民の感情は未だわだかたまりが消えていない。

1-1-9A_Ercan Airport.JPG ←北キプロスのエルカン空港(ウィキペディア英語版より)

尚北キプロスへは、外国人観光客の「入国」は可能だが、パスポートに入国スタンプが残るとギリシアへは入国できない。

最も近年改正されて、スタンプは別紙押印もしくは電子許可が可能になっている。

今のところ南北間での武力衝突の危険性は低く、融和でいくらか行き来できるようにはなったが、「分断国家」であることは変わりない。

何となくギリシア系とトルコ系なので、分断とは言えない気がするのだが、同じ「キプロス人」として双方が対立している。

非常に難しいのだが、良く見かける民族紛争とはちょっと違うように思える。

日本ではあまり報道されないが、こうした「分断国家」がヨーロッパにはまだ存在しているのである。

月命日/飛行機ネタ 絶滅寸前、一生懸命が格好良いA310(1月28日 曇り 3℃)


重苦しい曇り空。

日本海から低気圧が近づいており、天気は下り坂。

日差しは分厚い雲に遮られ、日中気温が上がらず冬らしい寒さが戻った。

冷たくも高く濃い青空に、モザイク模様の冬枯れの樹木・・と言う風景がとても好きなのだが、今日はただ陰鬱だ。

そうでなくとも連日「コロナ」の事ばかりで、何もかもが嫌になってしまいそうになる。

でも天は見放さない。

米メジャー・ヤンキースで活躍した「マー君」こと、田中将大投手が、今シーズンからイーグルスに復帰することが決定した。

昨シーズンを以てヤンキースでFAとなった彼の去就が注目され、ヤンキースに慰留の他他のメジャーも獲得の気配を見せるなど、情報は錯そうしていた。

最も今シーズンから新監督になった石井監督は、「できれば帰って来て欲しい」と交渉の含みを見せてはいたが、いろいろ柵があるのだろう。

ギリギリまで日本復帰の情報は回避されていた。

最も先週あたりから「イーグルス復帰か?」と言うニュースが出回っていて、いささかの期待も持たれていた。

一方で「日本へ帰ると言う話は聞いていない」などと、ヤンキース関係者の意見もあった。

良くも悪くも、情報をコントロールしていたのだろう。

今日本人から石井監督へ直接連絡があり、2年契約・推定9億円プラス出来高で決定したと報じられている。

正直イーグルスにそんな資金があるの・・・?とも思うが、「投資」と言う事だろう。

仙台市内では、夕方「号外」の配られたそうで、地元は大歓迎。

13年に初めて「日本一」の功労者である彼、震災から僅か2年後に、「弱い楽天」がまさかそうなるとは誰も予測しなかった。

私は熱心なファンとは言えないけれど、あの日の事は今も忘れない。

まだ震災の傷跡が残る中で、「マー君」がどれだけ頼もしく見えた事か。

日本一になった直後、彼はメジャーからも絶大な期待を得て、ポスティングで渡米した。

地元では失望の声も聞かれたが、逆に「東北楽天」の選手が、アメリカで大暴れ・・に期待する声も多かった。

そして8年経ち、彼が仙台に帰って来る。

彼自身、震災に直面した事もあり(震災当日はオープン戦で仙台にはいなかったが)、10年と言う大きな節目を迎える今年、イーグルスと「東北」に寄せる想いは強いと聞く。

20代前半だった彼も、今や32歳の大ベテラン。

確かに投手として、当時とは違っているかも知れないが、それでも良い。

何よりもメジャーの誘いもありながら、仙台に戻って来る想いが嬉しいではないか。





28日。母3年10ヶ月目の「月命日」。

母はイーグルスのファンで、もちろんマー君のファンだった。

復帰は何より喜んでいるに違いない。

私は夜になってからニュースで知って、帰宅後母の遺影と遺骨に「報告」したが、多分天界で先に知っていただろう。

「今頃何言ってるの?」と言われたような気がする。

同時に日本一を決めた巨人戦の日の事を思い出した。

あの日私は仕事中で、テレビは見ていなかった。

車のラジオを聞いていたのだが、勝利と同時に母は仕事中と知っていながら「楽天、勝ったよ~!」と電話して来た。

よほど嬉しかったのだろうし、家で独りでテレビを見ていたので、喜びの瞬間を少しでも分かち合いたかったのだろう。

最も母の性格からして、仕事中でも電話してくるとは思っていたが。

仕事の相棒は「俺は野球に興味ない」と言う人だったが、さすがにこの時だけは「凄いな」と喜んでいた。

その相棒も、数年前病気で他界した。

あの時は母も相棒も元気だったと思うと、田中投手の復帰はとても不思議な感じがする。

そして彼を育てた野村監督や星野監督もまた、この世を去った。

こじつけかもしれないけれど、再び田中選手が、イーグルスのユニフォームを着てマウンドに立つ姿を見ることができるとは、嬉しさと寂しさが同居してしまいそうだ。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

寒さが戻りつつあり、冬はまだ続きそうです。

コロナの不安が蔓延し、君が辛い思いをしていないか時々気になります。

大丈夫と思いたいですが、もし悩みがあるならば一人で抱え込まないで下さい。

でも君の事だから、なんのその・・と頑張っていりかとも思っています。

明日はまた、雪の予報が出ています。

夜は少し積もっているかも知れません。

どうか暖かくして過ごし、体調管理には気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



わが命の 全けむかぎり 忘れめや いや日に異には 思ふ益すとも(万葉集巻四 595 笠女郎)











飛行機ネタ。

先日の夜、ちょっと体調が悪くて眠りが浅かった時、外で「ゴオォ」と言う音で目を覚ました。

こう言う場合、季節的に強風か地震の事もあるけれど、上空を飛ぶ飛行機の音だ。

朝4時半過ぎころだっただろうか。

冬場は空気が澄んでいるので、特に周囲の音がない夜は飛行機の音が良く聞こえる。

数分後、再び似た音が聴こえて来た。

あっそうか、と飛び起きて「フライトレーダー24」を見てみると、最初に聴こえたのはソウル発アンカレッジ行き、アメリカの貨物エアライン「ポーラー・エアカーゴ」のB747-8F。

続いて通過したのは同じくソウル発アンカレッジ行き、大韓航空のB747-8Fの貨物便であった。

ついでにまた接近してくる機体はないかな・・と見ると、おっ、北東から1機近付いている。

データを見ると、先の2機とは逆方向、アンカレッジ発台北行き、チャイナ・エアラインズのB747-400Fで、これも貨物便だ。

この時点で、同機の進路は238度、ちょうど気仙沼市の上空を通過中。

うーん、このコースだと我が家上空よりもやや北の方を通過するか。

速度は約時速715キロと少し遅め。先の2機は約1,080キロぐらいだったから冬特有の偏西風が強いのだろう。

コースがそのままだと、富谷市上空を通過しそうだから、窓を開ければ聴こえるはずである。

速度は遅いが、気仙沼市から富谷市、我が家のある泉区は隣接しているから、数分で到達するはずである。

地図上富谷市上空に差し掛かった辺りで、窓を開けた。

残念ながら上空は薄いながらも雲がかかっており、赤と白のポジションライトは見えそうになかった。

しかしその直後、北東の方から「ゴオォォ・・・」と言う音が聴こえ、まさにどんぴしゃり。

耳を傾けていると、確かに南西の方へ飛んで行った。

再びマップを見ると、既に太白区の方へ移動していた。

最近SNSなどでは、このレーダーマップをチェックしていろいろ呟くファンを見かけるが、よく見てるなあと感心してしまう。

どうも10~20代の若い人が多い様だが、「勉強の合間」にこれを見てばかりいると後で大変になりますぞ。

見始めると面白くて、つい時間を忘れてしまうのだ。

故に最近はわざと見ないようにしていた私だが、ファンには堪らないサイトであることは確かだ。

だが時間帯もあろうが、飛んでくる機体は何とも皆同じ種類ばかりになったなあ、とも思う。

コロナ禍で、世界中のエアラインが大幅な減便・リストラを強いられ、特に旅客便はコロナ前の8割以上減と言う前代未聞の航空不況。

どこのエアラインも、機材をどんどん減らす時代になってしまったのは仕方ないが、それを差し引いても「没個性化」の時代を感じてしまう。

いざ見ると飛んでいるのはB787、B777、A350ばかりで、貨物便とは言え上記のB747などが珍しくなってしまう。

その貨物機さえ、最近はB777Fが増えて、個性的な機体が消えて「現代っ子」ばかりに思えて来る。

今から20年前までは、日本に飛来する旅客便は実に多種多様な機材があり、「スポッター」は鵜の目鷹の目だった。

それこそ「フライトレーダー24」はないし、スマホもない時代だから、わざわざ空港に見に行くしかなく、臨時便や機材変更の情報は限られていた。

マニアともなると、空港ではカメラの他に、管制無線を聞く無線機まで準備して、次に来る機体をサーチしたり、旅行会社の広告までチェックしてチャーター便を情報を仕入れたりしていた。

最も多種多様だったのは、94年に関空が開港した後から00年代前半だっただろう。

これを機に、日本の空港の発着枠が大幅に緩和され、成田はもちろん、羽田も「再国際空港化」の話が具体化しつつある時代であった。

同時に初めて日本へ定期便を就航させるエアラインや、発着枠が取れない成田の代わりに関空で増便するエアラインがグッと増えたのである。

そうしたエアラインが、意外と多く日本へ運航した機材が「A310」だった。

同機は今日に至るまで、日本のエアラインでは1機も運用されたことがない、エアバス社初期の双発ワイドボディ機。

故に当時各エアラインが飛ばすA310は、ファンの目を引いた。

最も同じく日本のエアラインが使用した事のないB757の方が、ファンの間では「レアもの」としてもてはやされていたように思う。

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1-1-8A A310-300 MAHAN AIR-EP-MNV_(15088634953).jpg ←(2枚)現時点で最多10機のA310-300を保有するイラン、マハーン航空(ウィキペディア英語版より)

日本では、当時の日本エアシステムがA300B2/B4とA300-600Rを多数運用していたし、91年からは全日空がA320を導入しており、エアバス機自体マイナーと言う訳ではなかったが、どうもA310は地味な印象を持たれていた気がする。

思い出すと、かなりのエアラインが同機を日本に定期便として飛ばしていたし、チャーター便でも飛来していた。

名称からエアバス社の処女作A300の次のモデルであることは分かるが、実際の計画では開発は同時進行していたモデルであった。

しかしA300が具体化した70年代半ばでは、「双発ワイドボディ機」自体が世間に認識されていない時代で、A300自体エアラインからの関心がイマイチだったため、もう一つのタイプは当面棚上げされた。

そのモデルは、A300の胴体をやや小さくして座席数を抑えたモデルである。

A300は「300席」だから付けられた名称で、当時300席以上を持つのは4発のB747と、デビューしたての3発機DC-10とトライスターだけだった。

故に双発機で300席は無理ではないか・・という懸念があり、250席程度のモデルが考えられていた。

出だしこそぱっとしなかったA300だったが、双発機でも充分輸送力が得られる事が証明されると、アメリカも対抗してボーイングが「B767」の開発に乗り出す。

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1-1-8A_A310-203,_KLM_-_Royal_Dutch_Airlines_AN1045774.jpg ←(2枚)83年に営業運航を開始したルフトハンザとKLMのA310-200(ウィキペディア英語版より)

この時代は、まだエンジンの信頼性が得られないとして、双発機の長距離洋上飛行は「ETOPS」と言う制限がかけられていた。

しかしエンジンだけでなく、コンピューターの実用化で安全な飛行が可能になりつつあることから、将来性を見越してのB767であった。

加えて同機はキャビンの通路が2本あるワイドボディ機ながら、若干幅の狭い「セミワイドボディ」と言う新たなカテゴリーを持っており、それまでの常識を覆す旅客機であった。

エアバスはそれを見て、一度棚上げしたA300の縮小版を具体化することを決定した。

それがA310であった。

特に地元ヨーロッパのエアラインからは、A300より小さめで「域内専用」を要望されていた。

すなわち開発当初、A310はA300よりも近距離用と言う認識で開発されたのだった。

1-1-8A_A310-203,_Air_France.jpg ←ヨーロッパのエアラインの多くは、A310を近距離線用として導入した。エール・フランスのA310-200(ウィキペディア英語版より)

だがB767を見たエアバスは、将来的に航続距離延伸の需要もあると考えて、卓上プランは一度白紙に戻している。

それはA300の胴体を単純に縮めただけで、発展型を作るにはもっと手直しが必要だと分かった。

まず胴体の短縮は、機体の軽量化の手段でもあった。

当時軽量の複合材は実用化されて間もないころで、機体全体に使える技術は確立していなかった。

つまり軽量化するには、全体を小さくする以外なかったのである。

胴体の短縮は、構造上のフレームごとに減らす事とし、最初は10フレームを予定していたが、最終的には13フレーム分を短縮することになった。

それは胴体前部、主翼付近、後部と3セクションに分けて短縮された。

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1-1-8A_A310-204,_S7_-_Siberia_Airlines.jpg ←(2枚)エコノミークラスのキャビンは標準で横8列だが(上・ルフトハンザ)、下のS7航空のように9列配置のエアラインもあった(ウィキペディア英語版より)

これによってA300よりも約7メートル胴体が短くなったが、少しでもキャビン長を確保するために後部の圧力壁をギリギリまで下げ、その分胴体尾部を絞った。

そのおかげでキャビン長は、A300より約6メートル短いに留まった。

この他主翼を全面的に改修し、A300では2分割構造だったものを1枚構造に変更し、空気抵抗を軽減させるためにアスペクト比(主翼の長さに対する細長さの比率)は、A300よりも大きくなっている。

断面は後方に膨らみを持つアフターローディング翼を踏襲したが、細長くなったため膨らみ比率が上げられた。

フラップもA300より簡素化されたが、主翼付け根付近のクルーガーフラップは最初から標準とされた。

この他尾翼の面積と形状も変更され、空力性はA300よりも遥かに洗練された機体となった。

メカニズムでは、B767と同じくエアバス初のCRT計器を使ったグラスコクピットが採用され、2人乗務が可能になった。

同時に操縦システムの一部が「フライ・バイ・ワイヤ」化され、動翼はこれによって作動する。

1-1-8A_A310-304-MRTT,_Germany_-_Air_Force.jpg ←エアバス初となったA310のグラスコクピット(ウィキペディア英語版より)

同機をローンチしたルフトハンザなどは、A300と同性能で一回り小さい域内路線向けを希望していたが、こうした新機軸の採用は、短距離運用から中距離運用まで経済性に優れた機体となっていた。

当初最初のモデルである「200」では、主翼構造の変更で燃料タンクは主翼内だけとしていたが、生産型では中央翼タンクが追加され、航続距離も最大で7,000キロまで伸ばす事が出来た。

こうして82年に原形機が初飛行し、83年にルフトハンザでデビューした。

そして「決定打」となる「300」型は、2年後の85年にスイス航空(現スイス・インターナショナル)でデビューした。

300型は「中距離型」とされた200型に代わって、「長距離型」とされたもので、水平尾翼にも燃料タンクが増設された他、超音速旅客機「コンコルド」で実用化された燃料移送システムを採用し、水平尾翼のトリムバランスを保つようにした。

一般の旅客機としては、同機が最初の採用であった。

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1-1-8A_A310-325-ET,_Biman_Bangladesh.jpg ←(3枚)最近まで現役にあったTAPポルトガル航空、エア・インディア、ビーマン・バングラデシュ航空のA310-300(ウィキペディア英語版より)


この他にも構造材における複合材の比率を増やすことで軽量化し、床下貨物室には「LD-3」航空コンテナ2個分の後付け燃料タンクがオプションで取り付けられるようにした。

この他空気抵抗軽減のために、主翼端に「ウイングフェンス」を取り付け、300型の主な特徴となっているが、その後既存の200型でもれ取りフィットした機体が存在する。

この燃料タンク装備型は、非公式に「ET」と言う型式名が存在するが、最初装備されていなくとも容易に改修出来るため、殆どの機体が装備している。

300型では航続距離が最大で約9,600キロと、ほぼ10,000キロに迫り、エアバス社初の長距離機となった。

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1-1-8A A310-324,_Singapore_Airlines_A.jpg ←(2枚)最も多くの300型を運用したシンガポール航空。日本の地方空港線でも定期便として運航された(ウィキペディア英語版より)

200型では些か中途半端で受注が伸びなかったが、300型の登場は世界中のエアラインに注目された。

特に長距離洋上飛行の規制である「ETOPS」が、徐々に緩和される動きが出て、ライバルとなるB767がそれまでの「ETOPS60」から「90」を取得し、A310-300も取得が可能であった。

また当時はまだ冷戦時代だったことで、アメリカ機を導入しにくい旧ソ連寄りもしくは反米諸国などが同機をこぞって発注した。

80年代末の東欧自由化、90年代最初のソ連崩壊でも、これらの国が一斉に旧ソ連機からの脱却と近代化のためにA310を導入した。

崩壊直前のソ連、アエロフロートもリースと言う形で導入に動き、A310は「ソ連」で初めて耐空証明を取得した西側製の旅客機であった。

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1-1-8A A310-300-Aeroflot_VP-BAF.png ←(2枚)旧ソ連初のエアバス機となったアエロフロートのA310-300。上の塗装は同型機が墜落事故を起こしたため、他の機体は従来塗装に戻された。日本線にも就航していた(ウィキペディア英語版より)

300型の登場は、同機を「ワールドワイド」にさせ、全大陸制覇を成し遂げている。

国産機が絶大なアメリカでは、異端児パンナムが200型から20機以上を採用した。

最も北米では、カナダのチャーターエアラインなど採用したエアラインはごく少数に留まったが、既にB767があったにもかかわらず、最大大手のパンナムが採用したことはエアバス社にとって大きなことだった。

残念ながら、同機を導入して数年後にパンナムは経営破綻・倒産。

多数の機材は各エアラインが引き取って、A310はデルタ航空が引き取った。

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1-1-8A_A310-222,_Delta_Air_Lines.jpg ←(2枚)アメリカメジャーで唯一採用したパンナムのA310-200と、破たん後はデルタ航空が引き継いだが、短期間の運用に終わった(ウィキペディア英語版より)

だが順調な販売は、長く続かなかった。

ライバルのB767は、エアバスとは真逆に基本型の200型から胴体を延長した300型を作り、さらに航続距離延長型である「ER」も発売した。

200型もERが追加され、いずれも「ETOPS」を120分まで取得するようになる。

A310のエンジンはGE製の「CF-6」、P&W製の「JT-9D」(200型)、「PW4000」(300型)が用意されていた。

ロールス・ロイス製の「RB211」もラインナップしていたが、発注するエアラインはなく、実質的には2種類である。

一方B767も全く同じ3種類が用意され、かつ「RB211」で発注するエアラインも多かった。

1-1-8A A310-300-Emirates.jpg ←今やメガキャリアとなったエミレイツ航空も、設立初期はA310-300がメイン機材だった(ウィキペディア英語版より)

A310の標準座席数は3クラスで190席程度、モノクラスであれば最大で250席程度が設定されていたが、これはB767-200とほぼ同じである。

280席級のB767-300は通常型では航続距離が短かったものの、ERでは230席前後で10,000キロに達していた。

200ERならば11,000キロに及び、10,000キロ弱のA310はにわかに旗色が悪くなってしまった。

基本的にはA300と同じ燃料搭載量で、胴体を短縮して軽量化させて長距離性能を引きだした訳だから、これ以上の座席数と航続距離延伸は事実上不可能だったのだ。

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1-1-8A_A310-304,_Hapag-Lloyd_JP6109444.jpg ←(3枚)旧東ドイツのインターフルグ、ルーマニアのタロム航空、ドイツのチャーターエアライン、ハパグ・ロイドのA310-300(ウィキペディア英語版より)

加えて90年代後半になると、同機の事故も頻発するようになる。

機体そのものの欠陥による事故はなかったものの、同社初の2人乗務による統合システムが些か不十分だったことで、操作ミスによる重大事故が連続したのである。

それは自動操縦装置に於いて、同機独自の「解除コマンド」が存在することであった。

これは自動操縦中に、パイロットが一定時間を超えて操縦桿を動かすと、自動操縦の「一部」が解除されると言うシステムだった。

現在の旅客機は完全に統合されて作動するが、初期のコンピューター制御だったため、一定のシラバスが設定されていた。

通常自動操縦が解除されると、大きな警告音が鳴るが、同機の場合「一部解除」だと警告音が鳴らない状態であった。

ところがこの「解除コマンド」と、緊急時における対処法の周知をエアバス社は怠っていた。

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1-1-8A_A310-300_-_Cyprus_Turkish_Airlines_.jpg ←(2枚)ターキッシュ・エアラインズの旧塗装とキプロス・トルコ航空のA310-300(ウィキペディア英語版より)

新造機で導入したエアラインには、訓練を含めてマニュアルが配布されていたが、リース機や中古機での導入エアラインに対してのサービス体制が不十分であった。

加えてスロットルの誤作動や、リバーサの故障が多く、特にリバーサについては着陸時の条件によっては車輪ブレーキとスポイラーだけでも可能としていたため、中小エアラインではリバーサが故障しているにもかかわらず、マニュアルの範囲内として運航していた。

リバーサの故障と、スロットルレバーの不具合は着陸事故を併発させてしまった。

多くは部品の交換やマニュアルの徹底で防げた事故とされるが、途上国のエアラインではマニュアルの不徹底も多かった。

エアバス社は周知不足を認めて修正に応じたが、自動操縦装置の「面倒臭さ」は改善せず、同機のシステムを踏襲した「A300-600R」でも事故が発生している。

B767も、初期を中心に誤作動や故障による重大事故を起こしており、A310が決して欠陥機ではなかったのだが、メーカーとユーザーの連携及び認識がずれてしまい、「事故の多い旅客機」と言うイメージが生まれたのも確かである。

A310の受注は06年、正式に停止されたが、98年には事実上生産が終了し、合計255機に終わった。

98年の時点で、B767は700機以上生産されており、セールスと言う点では大きなビハインドを背負ったままだった。

94年の関空開港では、既存の海外エアラインは増便や新たに関空線を開設した他、日本初就航のエアラインも多数あった。

それらのエアラインの多くが、A310だったことは意外と忘れられているように思う。

日本に就航したA310の中で、最も遠くから定期便として飛んできたのはオーストリア航空で、トルコのターキッシュ・エアラインズも就航当初はA310で遥々ヨーロッパから飛んできた。

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1-1-8A A310-300 Turkish_Airlines_TC-JCZ.jpg ←(2枚)日本就航当初はA310-300を投入していたオーストリア航空とターキッシュ・エアラインズ(ウィキペディア英語版より)

中距離となるアジア各国のエアラインでは、B767を採用するエアラインが少なく、A310の人気が高かった。

今や世界トップクラスのエアラインであるシンガポール航空は、地方空港発着路線の主力として各地に運航した。

繁忙期には臨時便として成田や関空でも良く飛来していた。

面白いところでは、関空開港後日本初就航となったモンゴルのMIATモンゴル航空が同機で就航させている(現在はB738-800)。

インドネシアの新興エアライン「エア・パラダイス」もファンに注目されたが、ごく短期間で会社そのものが倒産してしまった。

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1-1-8A A310-300-Air_Paradise_International.jpg ←(2枚)MIATモンゴル航空とエア・パラダイス・インターナショナルのA310-300(ウィキペディア英語版より)

エア・インディア、パキスタン国際航空も当時は常連で、後者ではほんの数年前まで日本線に運用されていた。

エア・インディアは関空線や臨時便での運航が多かったが、パキスタン国際航空は導入後実に四半世紀近く日本線に投入していた。

00年代以降、世界的に「禁煙」が進む中、最後まで「喫煙席」を残していた。

長年、ほぼ日本線専用機が2クラスで運航されていたが、機体の老朽化で退役し、晩年には国内線・近距離用のモノクラス仕様が投入されていた。

10時間近い長い距離のフルサービスキャリアで、オールエコノミーと言う珍しい形態のA310でもあった。

しかし日本のA310もそう長続きせず、A330や340、B777に変更されることが多かった。

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1-1-8A_A310-308,_Pakistan_International_Airlines.jpg ←(3枚)20年以上も日本線で運用されたパキスタン国際航空の旧塗装と現行塗装のA310-300(ウィキペディア英語版より)

こうした流れで退役したA310は、比較的飛行時間・フライトサイクルが少なめの機体が多く、中古機市場では格安だった。

同機のバリエーションには、200型ベースの貨客混載型の「C」型が存在するが、新造機としてはオランダのマーチン・エアが導入した1機だけ生産された。

また200・300型とも「F」を名乗る貨物機が存在するが、これらは全て中古の旅客機を改造した機体で新造機はない。

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1-1-8A_A310-304(F)_Turkish_Cargo_TC-JCV.jpg ←(2枚)現役のULSカーゴのA310-300Fは、現在ターキッシュ・エアラインズでウェットリースされて運航中(ウィキペディア英語版より)

その為改造機を示す「CF」などのむ別表示はなく、「F」だけだ。

「C」仕様の改造機もあるが、これも改造機を示す型式名はない。

この他軍用機及び政府専用機として生産された機体があり、軍用機の輸送機バージョンは「C」仕様、空中給油機能を持たせた機体は「A310MRT」となっている。

改造貨物機は、アメリカの大手フェデックスが「200F」を中心に70機以上を導入し、国内線や近距離線で運用したが、老朽化を理由に昨年全ての機体が退役した。

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1-1-8A A330-200F FEDEX-N414FE_cargo_hold.jpg ←(3枚)昨年退役したフェデックスのA310-200F(ウィキペディア英語版より)

現在「現役」として確認できるA310は約30機で、このうち旅客機として確認できるのは半数。

最終生産が98年なので、最も新しい機体でも機齢は22年だ。

最大勢力を誇るのがイランで、フラッグキャリアのイラン国営航空が4機、第2のエアライン、マハーン航空が10機も保有している。

この他ではアフガニスタンのフラッグキャリア「アリアナ・アフガン航空」が1機、アラビア半島南端、イエメン共和国のフラッグキャリア「イエメニア」がやはり1機保有している。

つまり現役機の9割がイランに集中している訳だが、これまで何度か書いているように、世界から経済制裁を受けているイランでは稼働出来る機材は貴重品。

かつ旅客機は国の重要な経済戦略道具であることから、官民分け隔てなく機材を「使いまわし」している。

部品などは共同で調達していると見え、エアラインの保有機数は常に一定していないのだ。

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1-1-8A_A310-304,_Iran_Air_AN.jpg ←(4枚)現役にあるイラン国営航空のA310。1枚目は200型でこちらは退役している(ウィキペディア英語版より)

今のところ、イラン航空とマハーン航空が主な運用者のようで、モスクワやヘルシンキ、ウィーン、ブダペストなどヨーロッパ諸国やロシアなどに投入されている。

「激レア」となるアリアナ・アフガン機とイエメニア機は、前者は同社唯一の長距離用ワイドボディ機で、モスクワ線専用機のような運用をされている。同社は数機しか保有しておらず、ヨーロッパやアジア圏からは国が安全基準を満たしていないと言う理由から乗り入れ、上空通過も禁止されており、例外としてモスクワだけに飛んでいる。

ただ1機しかないので、欠航することが多い様だ。

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1-1-8A_A310-304,_Ariana_Afghan_Airlines_JP.jpg ←(3枚)「激レア機」現役にあるアリアナ・アフガン航空のA310-300(ウィキペディア英語版より)

イエメニアはかつて3機保有していて、ロンドン線などヨーロッパ線に投入されていたが、1機が墜落事故を起こしている。

10年代の同国は内戦状態にあるため、フラッグキャリアであるイエメニアもほぼ運休状態が続いており、首都サヌアの空港に留置されているという情報しかない。

しかも現時点で1機と言う情報と、2機と言う情報の他、2機とも退役はしていないがグランド(地上待機)状態にあると言う情報があり詳細は不明だ。

イエメニアは他にA320を3機保有しており、不定期にドバイなどに飛来が目撃されているようだが、エアラインとしての機能は停止しているようだ。

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1-1-8A A310-300-_Yemen_Airways_7O-ADJ.jpg ←(2枚)イエメニアのA310-300(ウィキペディア英語版より)

軍用機ではドイツ空軍が「MRTT」の他、人員輸送機として保有しており後者は旧東ドイツの「インターフルグ」の機体。https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/032/941/91/N000/000/000/161185767420469678781-thumbnail2.jpg?1611867763348

カナダ国防軍では「CC-150ポラリス」と言う独自の名称を持っていて、VIP輸送任務も持っており、何度か来日している。

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1-1-8A  A310-300 Canadian_Air_Force_CC-150_Polars.jpg ←最も凄味があって格好良い、ドイツ空軍のA310MRTTとカナダ国防軍・空軍のCC-150ポラリス(ウィキペディア英語版より)

尚貨物機ではトルコのULSカーゴが300Fを2機保有しているが、現在はターキッシュ・エアラインズ便として同社のフルカラーで運航誰ている。

昨年まではカナダのチャーター及び定期エアライン、エア・トランザットが7機のA310を保有していたが、後継機種であるA321neo/LRが導入されたため、全機が退役してしまった。

貨物機もフェデックスの退役で一気に減勢し、軍用機を合わせても30機強と「絶滅」寸前の状態にある。

改造貨物機は安いながら、やはり胴体が短い分搭載量も少なく、機数と言う点からもB767Fに軍配が上がっている。

「同族」であるA300-600Fの方が残存数が多いことからも、A310は飛行性能は良くとも「融通性」と言う点で及ばなかった・・とも言える。

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1-1-8A_A310-300 AIR TRANSAT.jpg ←(2枚)昨年退役したエア・トランザットのA310-300(ウィキペディア英語版より)

A300と同じ意匠の胴体を持つので、断面系は真円形である。

その為か見方によっては「ぽっちゃり」型と言えなくもないが、決して不格好でもない。

どうしてもB767と比べられてしまう為、かなり損をしていると思うのだが、どこか一生懸命遠くまで飛んでいるようなイメージが私にはある。

90年代のオーストリア航空やターキッシュ・エアラインズのA310を見て、良くこれだけ小ぶりな機体で飛んでくるなあ・・と思ったものだ。

私はぽっちゃり型とは思わないし、側面などA300よりむしろまとまっている、バランスの良いスタイルをしていると思う。

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1-1-8A_A310-304(F)_ ROYAL JORDANIAN JY-AGQ.jpg ←ロイヤル・ヨルダン航空のA310-300と300F。貨物機は1機だけ現役で残っている(ウィキペディア英語版より)

いわばいろいろ詰め込み過ぎた感も否定できず、ちょうど世界的な航空需要の高まりが始まった時代に合わなかったのかもしれない。

残存率は約12%。残念ながら旅客機としては、そう遠くない将来退役は確実だろう。

イランの航空業界に頑張ってもらいたいが、コロナ禍がどう影響するか分からない。

ただ今のところイラン航空もマハーン航空も、同機を退役させる予定は出ていない。

グランドと復帰を繰り返す事が多いので、需要が減ればしばし保管・・で済ませる可能性もある。

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1-1-8A_A310-304,_Mahan_Air_7443693.jpg ←(2枚)A310最後の牙城、マハーン航空(ウィキペディア英語版より)

軍用機もA330の軍用型が登場したことから、徐々に退役して行くと思われる。

だがA310は、エアバス初の「ハイテク機」と言う事を忘れてはならない。

ハイテク機と言うとA320が元祖のように思われるが、実はA310で実用化できたからこそのA320なのである。



飛行機ネタ 何気にお金持ち?オマーン・エア(1月25日 晴れ 13℃)

空を見上げると雲がない。

快晴の週明け月曜日。何となくそれが恨めしくも思える。

昨日ならば・・と思った人が多いのでは?

大きな移動性高気圧に覆われ、実に爽快な冬晴れ。

日差しのおかげで気温も上昇し、二桁に。

春を思うが、残念ながらまだ1月。

青空と高めの気温は明日も続きそうだが、週後半は再び寒さが戻る予想だ。

しつこく残っていた雪も、ようやく・・と思ったが、それでもまだ日陰で頑張っている。

北海道オホーツク沿岸では、いよいよ「流氷」のシーズンを迎えた。

網走市では17日に、陸上から流氷が肉眼で直接見える「流氷初日」を迎えたが、昨日の時点で沖合1~2キロまで接近。

この週末には、流氷観光船も出航したと言う。

温暖化のせいか、流氷は減少傾向にあり暖冬の時などは全く姿を現さない事もある。

流氷は、ロシア極東沿海州を流れる大河・アムール川からオホーツク海に流れ出した「淡水」が凍ったもの。

寒い年だと、3月いっぱいぐらい北海道沿岸に流れて来る。

多い年には知床半島を周回して根室海峡へ流れ込み、日本最東端の地・根室市の納沙布岬まで到達する。

オホーツク海沿岸の網走市や紋別市だけでなく、根室海峡沿いの羅臼町や標津町、別海町の港まで流氷が押し寄せ、さらに低温で凍り固まってしまう。

当然船の出入りは不可能で、漁業は「海明け」する春まで休業する。

北海道は海が凍る、世界最南端でもある。

私も何度か行って実際見たが、流氷は非常にきまぐれ。

基本は海面を漂う氷だから、風の影響を受けやすい。

今はネットで随時状況を確認できるが、今日「接岸」したとしても、次に朝には何にもない・・と言うのも珍しくない。

流氷を動かす北風が続き、びっしり接岸し低温で更に凍ればしばし動かないが、ゆるゆるの状態だと風に翻弄されるばかりなのだ。

だから観光客が期待して行っても、青い海しか見れないこともある。

「昨日はびっしりだったんだけどねえ」なんて、地元の人に言われることもしばしば。

しかも数時間のうちに離岸してしまう事もあるので、ネット情報ですらアテにならないこともある。

最も相手は「自然」なのだから、恨み節を言っても虚しくなるだけだ。

私は久しく言っていないし、今のコロナ禍ではオススメするのが躊躇われるが、日本人ならば一度は見て頂きたいと思う。

我々観光客は、ある意味無責任にその壮大な風景に圧倒され感動するが、同時に数カ月間も海が氷で閉ざされる地域の人々の生活とその忍耐強さも感じたい。

それこそ今は動画などでバーチャル体験がいつでもどこでもできるけれど、実際に行って体験することには敵わない。

来年以降を期待するしかないが、私も久し振りに流氷が見たくなった。



夜も比較的気温が高く、身体は楽だ。

年末年始は久し振りに厳しい寒さと雪が続いたので、特にそう思う。

歳のせいか、年々寒さが辛くなっており、10~20代の頃は・・・とつい思い出す。

真冬にバイクでどこへでも吹っ飛んでいたし、それこそ冬の北海道も何十回と言った。

指先が冷たいとか、顔がピリピリすると言う物理的な寒さはあったけれど、動くのが憂鬱になったことはない様に思う。

単なる怠惰なのかも知れないけれど、寒いと本当に動きたくない。

血行不良なのか、いつも指先が冷たく、夜などトイレに行くだけで寒くて震えてしまう。

冬が大好きだった頃が懐かしく、さりとて暑いのも嫌な訳で(笑)。

でも冬はまだまだ。何となく2月以降「大雪」があるような予感もするし、寒さも続くだろう。

冬は寒くて当然なのだから、騒ぐこともないはずなのだ。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

空気が乾燥しているので、火の元はもちろん、喉や鼻の調子などにも気をつけて下さい。

先日母の夢を見ました。

と言ってもしょっちゅう見るのですが、珍しく君の事を言っていました。

何を言ったか、目を覚ました後忘れてしまったのですが、何か君の事を言ったのは間違いないです。

どうやら天界に行っても、時々君の事を思い出しているようです。

コロナ禍は相変わらずで、聞くのもうんざりですが、君にできる範囲で良いから対策を怠らないようにして下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



梅の花 咲けるが中に 含めるは 恋やこもれる 雪を待つとか(万葉集巻十九 4284 茨田王)






飛行機ネタ。


「アリババと40人の盗賊」と言う話は、子供の頃誰でも一度は本やアニメなどで見た記憶があるだろう。

この物語は、古代ペルシアから伝わる話とされ、以前はイスラム世界の有名な物語集「千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)」の一つとされていた。

実際には「千夜一夜物語」には、後世組み入れられたと言う説が強く、原典が存在するかどうか不明だとも言われている。

主人公アリババが盗賊を従えて、砂漠を旅する「冒険物語」とも言えるが、舞台となったのは現在のイランではなくアラビア半島だとされる。

7世紀頃までは、アラビア半島の大部分がペルシア帝国であったが、内容を見ると確かにペルシア人ではなくアラブ人の様相を見せている。

更に大部分の舞台であると言われているのが、アラビア半島南東部、「オマーン」辺りではないかとも言われている。

オマーンはペルシア湾の出入り口(オマーン湾)にあり、対岸はイランである。

両国を隔てる海峡は、最も狭い所で数十キロ程度しかない。

日本ではあまり紹介されることの少ない国だが、正式国名は「オマーン国」と言う。

これを微妙に「卑猥」と思うのは自由だけれど(余計な事ですが)、英語名では「Sultanese of Oman」と言う。

「スルタン」とは、イスラム世界における宗教的指導者もしくは王を指す言葉だが、宗教色が濃いことから「キング」とは区別されている。

以前日本では「土候」という表現を用いていた事があり、数十年前は「オマーン土候国」とも表記されていた。

スルタンは国や地域によって様々な形態があり、部族のリーダーを指す事もあって、日本語も英語も最適な訳語がないのだ。

故に外務省だけでなく、在日大使館も「オマーン国」で表記している。

先に書いたように、同国はアラビア半島南東部に位置し、ペルシア湾とインド洋に面している。

面積は約32万平方キロで、日本より一回り小さいが、周辺に島嶼も持つ。

人口は約280万、首都マスカットは都市圏人口として約80万人。

全人口・首都圏人口を見ても、ささやかな小国と言える。

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1-1-6A Bus_terminal_Muscat.JPG ←(2枚)オマーンの首都マスカット(ウィキペディア英語版より)

しかし歴史は古く、世界遺産に登録されている「アル・アユーン遺跡」は、約5,000年前のものと言われていて、当時周辺では銅が採掘され、世界初の金属精錬技術を持っていたと言われる「シュメール人」と交易があったと言う。

首都マスカットは現在でも港湾都市であるが、紀元前2世紀頃にはペルシアとローマなどヨーロッパとの貿易の拠点として街が建設されていた。

ペルシア帝国の支配が終わると、部族単位の地域自治が長らく続いたが、19世紀にサイード家が「オマーン帝国」を建設した。

1891年にはイギリスの保護国となったが、他のアラブ諸国と同様一定の自治は認められていた。

主権国家として正式に独立したのは1971年のことで、それまでは事実上の「鎖国」体制を敷いていた。

それは前年に、当時皇太子だったカブース・ザイードが、クーデターを起こして父王を追放したことで「開国」し、王位に就いた。

1-1-6A OMAN_Al_Ayn_Oman.JPG ←世界遺産に登録されている「アル・アユーン遺跡」(ウィキペディア英語版より)

現国王ハイサム・ザイードは、カブースの従兄弟にあたる人物で、カブースの崩御に伴い20年に即位したばかりである。

「スルタン制」の同国は、一般的に言うと「絶対君主制」を持つ国家である。

議会と裁判所はあるが、立法権がなく、国王が国家元首と政治的指導者・首相を兼ねている。

国土の大半が砂漠地帯で、緑地は海岸沿いのわずかしかない。

雨季はあるが、最も暑い6~7月には平均気温が40℃を超える猛暑が続き、気候はきわめて厳しい。

加えて国内に川は一つもなく、「ワジ」と呼ばれる雨季だけ川になる渓谷が存在するだけだ。

60年代に油田が発見され、独立とともに主要輸出品になって、同国の経済は一気に向上した。

近年では天然ガス田も発見された他、砂漠地域で有名なナツメヤシも重要な産物の一つである。

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1-1-6A OMAN-Khanjar.jpg ←(4枚)00年代初頭まで使用された旧塗装のATR-42-500、B737-700、B737-800。下はその尾翼に書かれたマークの元となる、オマーン伝統の刀「ハンジャール」(ウィキペディア英語版より)

マスカットの年間降水量は僅か100ミリ足らずだが、北部の山脈は岩盤質で雨水が地下水となって溜まっており、オアシスが点在している。

日常生活用水は、主に海水を淡水に変えた物を利用しており、そのプラントの中心は日本製である。

また渇水に備えて、地下水を備蓄するシステムを整えているほか、淡水プラントの水とともに野菜などの栽培も盛んに行われている。

日本へはサヤインゲンを輸出しており、冷凍食品や加工品などに多く使われている。

実際には日本と同国の関係は親密で、20世紀初頭に在位した国王の妻は日本人で、国王自身20年代に日本に居住していた事もある。

日本では殆ど知られていないが、オマーン国民は良く知っているそうで、アラブ諸国では珍しい親日国だ。

その縁もあって、皇室との親交も深く、マスカットには「平安日本公園」と言う日本庭園がある。

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1-1-6A-Airport_muscat_terminal_2_2016_1.jpg ←(2枚)マスカット国際空港(ウィキペディア英語版より)

東日本大震災では、福島県に20億円以上の支援を行うなど、国レベルでの友好関係は強い。

イスラム圏の絶対君主制と言うと、厳しい戒律があるように思えるが、オマーンは比較的寛容で人種・女性差別は法律で禁じられている。

同時に外国人労働者の受け入れも多く、住民の3割が外国籍。

主にインドや東南アジア諸国からの技術者や出稼ぎ労働者が占めていて、日常生活での信仰は自由である。

公用語はアラビア語だが、イギリス統治時代が長かったことや外国人が多いことから、英語が準公用語として広く通用する。

今世紀初頭アラブ諸国に起きた自由化運動は、オマーンでも騒動に発展したが、王室への信頼度も高く、国内状況は安定した国と言える。

オマーンにはフラッグゃリアとして「オマーン・エア(オマーン航空)」がある。

企業形態は民営だが、株式の80%をオマーン政府が所有しており実質的には国営エアラインである。

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1-1-6A OMAN AIR A330-300-A4O-DB.jpg ←(3枚)オマーン航空のA330-300(ウィキペディア英語版より)

同社の創業は70年の国営「オマーン・インターナショナルサービス」が原点だが、当初はイギリスからほぼ無償で提供された小型機で国内線の運航を開始した。

何より独立直前までは、事実上の「鎖国」にあったため、空港はイギリス軍の基地を拝借していた。

その後UAEなどに路線を拡げるが、20年以上「常識的」なエアラインは持っていなかった。

まだ未開発の国であり、航空需要が殆ど見込めなかったからだ。

そこで政府は、同じくアラビア半島の小国バーレーンに設立された「ガルフ・エア」に、UAEアブダビとともに共同出資と言う形で経営に参加した。

同社の本社はバーレーンにあったが、オマーンのエアラインとしての名目も持っており、実質上フラッグキャリアであった。

このおかげで中東各国の他、ヨーロッパ線の運航が開始され、同時に投資を呼び込むことになるのである。

しかしオマーンの経済が向上すると、やはり自前で・・と考えたのか、93年にオマーン・エアを再編の上運航を開始した。

この時は民間資本で立ち上げた為、機材の購入費用は用意できず、当面はオーストラリアのアンセットグループからB737を乗務員込みの「ウェットリース」で導入し、運航した。

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1-1-6A OMAN AIR_A310-304,_HiFly_JP7187331.jpg ←(2枚)オマーン・エア初の長距離ワイドボディ機A310-300は、TAPポルトガル航空からのリース機。現行塗装後返却され、ロゴだけ落としてポルトガルのチャーターエアライン、ハイ・フライにリースされた(下)(ウィキペディア英語版より)

その後もトルコのペガサス航空、チェコのCSAチェコ航空、TAPポルトガル航空などから機材をリースまたはウェットリースで運航し、自社運航へのノウハウを蓄積させた。

この為当時の機材は短期間で変化することが多かったが、今世紀になって自社導入機材を持つようになった。

00年代には同社初の長距離機A310を導入し、リース機を含めてヨーロッパの他、東南アジア線を一気に拡大した。

興味深いのは、近年まで短期リースを使いながら、徐々に自社発注機材と入れ替えていることである。

1-1-6A OMAN AIR-B737-7Q8,_Oman_Air.jpg ←機材更新と統一のため最近退役したB737-700(ウィキペディア英語版より)

オマーンは産油国としては、国民所得は高い方ではない。

加えて人口が少なく、国内も南西部の第二の都市サラーラを始めとして数路線しかない為、需要の予測には慎重なのである。

だが原油や天然ガスと言った資源は、これから増大する見込みもある事や、それに頼らず農作物などの輸出にも積極的なことから、海外から注目を浴びつつある。

同社の利用率も急激ではないものの、順調に増えているという実態もある。

ここ10年間で、リース機材を含む古い機材は殆ど入れ替えが終了しており、エアバスとボーイング両方の機材を運用している。

現時点で51機を保有し、世界50都市に就航している。

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1-1-6A-Oman_Air_B787-9_Dreamliner.jpg ←(2枚)オマーン・エアのB787-9(ウィキペディア英語版より)

長距離機材はB787-8/9、A330-200/300を持つ。

近距離機材はB737が主力で、21機の800型をメインに5機の900ERと運航停止中だが、5機のMAX8を保有。

MAX8は更に25機を発注しており、運航及び生産が再開されれば800と順次置き換える予定だ。

この他国内線や近距離用に、E175も運航する。

サービスはビジネスクラスを含む2クラス制が基本で、全機でサービスされる。

B787-9とA330-300の一部の機体には、最近新たに個室タイプの「ファースト・スィート」が設けられ、主に高需要路線に投入される。

B787-8とA330-200は、2クラスだ。

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1-1-6A-Oman_Air_A330-343.jpg ←(3枚)A330-200(上2枚)と300は混用されるが、300の一部の機体には新しいファーストクラスが設定される(ウィキペディア英語版より)

北米には就航していないが、アジア線は非常に充実しており、日本からだと距離的にはマニラ線が最も近い。

同社の利用もしくはオマーンへ行くならば、広州・バンコク・クアラルンプール辺りが便利だろうか。

機材の更新が順調に進んだおかげで、サービスも世界レベルと評価も上がっている。

1-1-6A-Oman_Air_B787-8_(A4O-SB).jpg ←オマーン・エアのB787-8(ウィキペディア英語版より)

惜しむらくは自社のマイレージサービスはあるものの、世界的航空同盟への加盟をしていないことだ。

この辺「マイラー」などのファンには、若干不満が出ているようだが、代わりに同盟の括りなく多くのエアラインと提携している。

07年にガルフ・エアへの出資を取りやめ、オマーン航空への出資比率を上げたことで、同社は正式に国営のフラッグキャリアとなったが、ガルフ・エアとの関係は提携と言う形で存続している。

この他エミレイツ航空、エチオピア航空、エティハド航空、ケニア航空、ターキッシュ・エアラインズ、カタール航空、サウディア、ロイヤル・ヨルダン航空、KLM、ルフトハンザ、マレーシア航空、シンガポール航空、タイ国際航空と提携しており、3大航空同盟の大手エアライン、そして中東・アフリカの大手と提携しているのが注目される。

提携エアラインの中には、オマーン・エアの利用者が提携エアラインの空港ラウンジを使える事もある。

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1-1-6A-Oman_Air 737-8SH.jpg ←(3枚)近距離線の主力E175LRとB737-800(ウィキペディア英語版より)

イスラム圏のエアラインなので、キャビンサービスにアルコールはないが、持ち込みは可能。

もちろん全クラスフルサービスで、イギリスのリサーチ会社ランキングでは10年以降毎年上位にランクされ続けている。

新たなファーストクラスを設けたことで、ビジネス・エコノミークラスもグレードアップが図られており、ミールサービスも充実している。

中東はエミレイツ航空、エティハド航空、カタール航空などが正にワールドワイドに展開し、競争が激しくなっている。

1-1-6A-Business_class_cabin_on_Oman_Air_A330-300.jpg ←A330-300のビジネスクラス(ウィキペディア英語版より)

目下オマーン・エアのライバルは、これら他国の大手ではなく、17年にオマーン初のLCCとして設立された「サラーム・エア」だ。

同社はオマーンの公共投資組織が立ちあげたエアラインで、民営エアラインであるが実際には「公営」に近いエアライン。

投資先の一つに、南米チリの大手LATAMがあったことから、同グループのA320をリースしてもらって就航した。

開業してからわずか3年、昨年にはLATAMからのA320は全機返却され、自社発注したA320neoに更新している。

石油関係の経営にも携わっていることから、資金力が豊富で、既に30都市に就航している。

現時点では6機のA320neoが中東地域を中心に運航しているが、アゼルバイジャンやジョージア、スリランカやタイにプーケットまで路線網を拡大しており、今後ヨーロッパへの進出も予定されている。

近年中東のLCCが活発で、UAEドバイの「フライ・ドバイ」、同じくシャルジャの「エア・アラビア」など、開業僅かで機材・路線数を休息に拡大しているエアラインも多い。

「サラーム・エア」もそれに乗じて、と言う事のようだが、オマーン・エアにとっては強力なライバルになっている。

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1-1-6A-SalamAir,_A4O-OVE_A320-251N_.jpg ←(2枚)オマーン初のLCC、サラーム・エアのA320とA320neo(ウィキペディア英語版より)

そしてエアラインではないが、ファンの注目を浴びそうなのが「オマーン・ロイヤル・フライト」と呼ばれる王室専用機である。

先に書いたように、同国は絶対君主制の国であり、政府は王室直轄である。

その為政府専用機は王室専用機でもあり、運航・整備はオマーン国軍が担当している。

しかも旅客機型の専用機を6機も保有していて、その他に小型ビジネスジェット機やヘリコプター、驚くことにC-130ハーキュリーズ輸送機まで保有していて、これだけでも小さなエアラインのようだ。

国王専用機は「B747SP」と「B747-400」が宛がわれているが、基本的には「B747SP」が専用機として利用されることが多い。

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1-1-6A OMAN B747-400_Royal_Oman_Flight.jpg ←(2枚)国王専用機B747SPとB747-400(ウィキペディア英語版より)

国王以外の政府および王室関係者は、A319/320を利用することが多い様だ。

機体はオマーン国旗をあしらったものだ。

問題はC-130ハーキュリーズで、軍用輸送機を一体何に使うのかと思うが、一つは外国で発生した災害などへ緊急物資を輸送したり、当該国で被災した自国民を救出する任務。

もう一つは国王が外遊する際に、「専用車」やそれに伴う資材を運搬する任務を持つ。

1-1-6A-Oman_Royal_Flight_A320.jpg ←オマーン・ロイヤル・フライトのA320(ウィキペディア英語版より)

アメリカでも大統領外遊の際には、相手先の用意した車でなく専用車をわざわざ持ち国ことが多いが、通常その任務は空軍である。

オマーンでは、ある意味国王が自分専用のB747やA320とともに、C-130も持っている・・とも言え、何とも「お金持ち」の王様である。



飛行機ネタ 日本の空にもA330を(1月22日 晴れ時々曇り 11℃)

※2回分の日記を掲載しています。

◎1月20日 晴れ時々曇り 3℃


今更だけど、この冬は何年かぶりに「冬らしい」寒さが続く。

今日は晴れ間も出て風もなく、穏やかではあったが最高気温は3℃。

昨日東北道で「地吹雪」による多重衝突事故が発生し、数十台が巻き込まれ死亡者も出た。

日本海側や北海道では時々耳にする事故だが、県内では珍しい。

最も現場となった大崎市周辺は平野部で、西には奥羽山脈が控えていて冬から春にかけては風が強い地域でもある。

事故発生当時は20メートル以上の暴風が吹雪を引き起こしており、巻き込まれたドライバーによると周囲が雪で真っ白になる「ホワイトアウト」状態だったと言う。

ここ何年か暖冬が続いていて、急に寒い冬が来たからかも知れないが、大雪による障害なども目につく。

私も過去に「ホワイトアウト」を経験した事があるが、この時は高速道路でなくて山間部の一般道。

危険を感じて車を道路わきに寄せ、収まるまで動かなかった記憶がある。

まだ1月、今後もこうした天気は充分ありうるのでドライバーは注意が必要だ。

今日は二十四節気の「大寒」。

1年で最も寒い時期・・とされるもので、気候変動がどうのと言っても昔と変わっていない。

確かに温暖化などはあるかも知れないが、現代人はいくらでも寒さから逃れる手段がある訳で、身体が「弱っている」だけではないかと思う。

今は家でも外でも、どこでも完璧な暖房が用意されており、暖かく過ごせるのが当然になっている。

それがいつしか身体に沁み込んで、感覚が鈍ってしまったのではないかと思う。

子供の時、暖房は家族が集まる居間・お茶の間「だけ」にあるのが基本。

時々寝室や子供部屋に置いている家庭もあるにはあったが、それは結構贅沢で経済的に余裕のある家庭が多かった。

我が家も決して貧乏ではなかった(と思う)が、暖房はお茶の間にしかなかった。

しかも暖房器具と言えば石油ストーブと電気コタツぐらいで、エアコンなど当然どこにもない。

だいたい夏場のエアコンは、「冷房」専用が普通で、エアコンではなく「クーラー」だった。

学校でも11月下旬になると、用務員のオジサンが各教室を回ってストーブを設置する。

高さ1メートルはある大きな「ダルマストーブ」で、アルミ製の筒状の煙突も設置する。

教室には煙突用の穴があって、時には教師や生徒も設置に手伝った。

今では考えられないが、朝「着火」するのは生徒の役目。

もちろん必ず教師が監督するのが条件だが、「芯」を出して灯油のコックを開け、マッチで着火する。

家庭でこんな大きなストーブはないが、「火の取り扱い」も教育の一環だったのだ。

ただし給油だけは今日しか用務員がやっていたし、下校時の消火も教師の役目だった。

このダルマストーブは非常に強力で、30分もすれば教室全体が温まる。

付き始めの時などは、ゴーッと言う音を立てるほどの火力だった。

暖かいだけでなく、ストーブはいろいろ役に立った。

例えば給食では、カレーやシチューなどの「スープ系」のおかずはストーブの上に載せておき、いざ食べる時は出来たてのようにアツアツになっている。

雪の日は、誰もが嬉しくて「雪いじり」するから手袋や靴が濡れてしまう。

時々調子に乗り過ぎて、長靴の中までびしょぬれにしてしまう事もあるから、ストーブの前に置いて乾かすのだ。

最も高温で蒸発する水蒸気が、非常に「臭い」場合もあったが。

そういえばストーブに「あたる」と言う行為を、いつしかしなくなった。

学校でも家でも、外から帰ると子供でもまずはストーブの傍によって手をかざして温まったものだ。

故に家族も、自然と集まる訳だ。

これまで何度か書いているように、中学生の時友人二人と競い合って冬になっても「半袖半ズボン」で過ごした時がある。

当時この二人とは週3回、夜塾に通っていた。

その時も意地を張って半袖半ズボンのまま塾へ行き、夜だから当然気温は氷点下。

真っ暗で雪が降っていても、傘をさしつつ半袖1枚に太もも全開。

寒いと言うよりも、さらけ出した肌が寒さで真っ赤になってピリピリ痛い。

家に帰ると、ストーブの前に直行。

はああ・・暖かい・・・と一息つくのだけれど、しばらくすると今度は熱くなってしまう。

だいたいなんで半袖半ズボン姿でストーブにあたっているのだ・・・と疑問に感じ、家族からも「馬鹿じゃないの?」と言われて、止めた次第。

でもストーブの火は、人を惹きつける魅力があった。

我が家では乾燥防止に、祖母が必ず南部鉄器のヤカンに水を一杯入れてストーブの上に載せていた。

やがてシュンシュンと音を立てて、お湯が湧く。

そこから出る蒸気は「加湿器」の役目を果たし、お茶やコーヒーも飲める。

時々湯量をチェックしなければならないが、大した手間でもない。

今頃の季節ならば、時々ストーブの上で餅を焼くこともあった。

確かにストーブは火の元が重要だし、時々換気が必須。

でもお茶の間には祖父母を始め、たいてい誰かがいるので、火がついたまま無人になることがないのである。

地震があっても、パッと火を消せる状態が保たれていたし、当時は既に緊急時にすぐ消火出来るような構造になっていたと思う。

高校ではストーブではなく、セントラルヒーティングのスチーム暖房(ラジエター)だった。

さすが私立校は洒落ているなあと思ったものだが、校内にボイラーがありそこで沸かして沸騰させた蒸気を教室のヒーターに送っていた。

朝技師さんがボイラーを焚くと、教室のヒーターにキンキンと言う音とともに蒸気が回って来て教室を温めていた。

直に触るとやけどするので、フェンスで囲っていたと思うが、その上に持参した弁当を置いておくと「ホカ弁」になるのだ。

「あるある」話で、つい中身を確認せず温めてしまい、果物やサラダまでホカホカになっていたり、脂が液状化して中身がびちゃびちゃになってしまったり。

この暖房のある学校出身者は、少なからずこう言う思い出があるだろう。

今思えば暖房の「ありがたみ」を、子供心にも結構感じていたように思う。

それが今はどうだろう。

エアコン・加湿器が主流になって、石油ファンヒーターや一時もてはやされたセラミックヒーターもあまり見かけなくなった。

確かに灯油暖房は買う手間があるし、給油も面倒臭い。うっかりこぼすとしばらく匂いが取れないし、火災の危険もあると言われればそれまでだ。

エアコンならばリモコンスイッチ一つで、何の手間もいらない。

そして先日のように寒波が来ると、「電力不足」だと騒ぐ。

間もなく10年を迎える東日本大震災では、長期間に渡って停電したため、暖房出来ないと言う人が続出した。

その後緊急事態に備えて、石油ストーブが見直されバカ売れした。

震災後深刻なガソリン不足が続いたが、灯油は比較的確保しやすくストーブのある家庭や避難所では寒さを凌ぐ事が出来た。

先に書いたように、ヤカンを乗せておくことで常時お湯が湧かせ、加湿器代わりになり、また大きな地震が来てもお湯をかけて火災を防ぐこともできることなど、メリットを思い出した人が多かった。

だが10年も経つと、その教訓を忘れ再び「楽」に走り、また災難が起こると慌てふためく。


◎1月22日

季節外れ?と思うほど、穏やかな天気。

昨日に引き続き高気圧に覆われ、気温は二桁を超えた。

暖かいとは言えないけれど、年末以来厳しい寒さが続いていたので、ちょっと一息と言う感じだろうか。

なかなか消えなかった日陰の雪も、昨日今日で随分融けた。

地面温度が低いのか、それでもまだ「頑張っている」場所もあり、気を抜いて歩くと滑ることも。

また1月、雪の季節はまだまだ。

仙台市は、来週27日から市内約10,000店舗ある飲食店に対して「時短営業要請」を行うと発表した。

市内では歓楽街である国分町で、既に時短営業が要請されているが、市内全域に対して22時までの営業を要請する。

際立って感染者が拡大はしていないが、連日10~30人程度が判明。最近では市外でのクラスターも起きている。

市は要請に応じた店舗に対して、協力金を支払うとしている。

SNSなどでは概ね賛成の意見が多く、国分町だけ・・と言うのは不公平と言う意見も見られるようだ。

だが私は疑問を抱かずにはいられない。

なぜなら飲食店が、本当の意味で感染拡大の「源」と言うならば、時短営業は全く意味がない。

それこそヨーロッパのように、飲食店の営業を一切「禁止」しない限り、効果はない。

賛成する人には申し訳ないが、仮に時短営業しても営業自体は続いている事をどう思うのだろうか。

私は飲酒しないので、いわゆる「飲み屋」さんの事情は知らない。

だが普段行くカフェやファミレス、ラーメン店など「純粋」な飲食店は、日中普通に混雑している。

時々コーヒーを飲もうと覗くと、ある程度「ディスタンス」は取られているものの、多くのお客さんで賑わっている。

「夜間のお客さん」を目の敵にすること自体、絶対に間違っている。

確かに飲み屋さんや風俗店では、つい大声で会話したり「密」になることはあると思うが、一般の飲食店ではそこまでルール違反する人は少ないし、そうした店舗での「クラスター」は起きてない。

要するに政治と行政の「責任逃避」でのパフォーマンスであり、「やって当然」「対応が遅い」と批判する人が理解できない。

既に外食産業のみならず、食品業界は青色吐息で、コロナそのものではなく「風評」が先行している。

自粛要請に反対するつもりはないが、昨年春の自粛は何の効果があったのか?

自粛中は確かに感染が弱まったかも知れないが、緩和した途端元に戻ったではないか。

本当に出て歩くなと言うならば、当然国・自治体は「一時給付金」でなく「継続的な」給付と、食料品や生活用品を最大限一人一人に配布しなければならない。

いつまでもただ自粛・自粛と言っても、全然効果が表れていない。

医療ひっ迫と言うならば、たとえ「超法規的」措置でも、即座に医療関係者にワクチンを投与するなどやれることはあるはずなのに、何もしていない。

メディアも悪い。

ただただ不安を煽るだけで、何が正しいかをさっぱり伝えていない。

「不安」「怖い」と言う気持ちは、私にだってあるが、ならば何が怖くて不安なのか?と考えたら、多くの人は「なんとなく」と答えるだろう。

恐れるなと言うつもりはないけれど、一人一人がもう少し「真実」を見極める必要があると思う。

「ウィズ・コロナ」が叫ばれて久しいけれど、今の日本人は医療も科学も未発達だった昔と同じだ。

噂や不安からの、勝手な解釈で騒いでばかり。

「テレワーク」だって、できる人はごく少々数だろう。

テレワークで物が作れるのか?運べるのか?それで社会が成り立つならば、コロナがなくともそういう社会になっていただろう。

今一度、この「疫病」がどういうもので、それこそどうすれば「ウィズ・コロナ」できるのか?

行政に任せてばかりは、ただの「無責任」だと思う。



日中の暖かさが、夜になってもまだ残っていて、帰りがけ歩くのが楽だった。

今日は少し早めに帰宅したのだけれど、金曜日とあって街の人出は比較的多い。

コロナと絡めると、何ともやりきれない想いがするが、いつまで遠慮しなければならないのかと思う。

少し冷たい北風が吹いていて、明日は寒さが戻りそう。

暦の上では、まさに今が「寒」の時期。

子供の頃、祖母にこの時期に水を飲めとよく言われた。

「寒水」と言って、1年で水が最も冷たく澄む時期でもあり、風邪の予防や胃腸の健康に繋がると言っていた。

医学的根拠はないと思うのだけれど、何となく筋は通っているようにも思える。

でも現代人は、飲料水と言うとペットボトル。

確かに「寒水」の理屈は、綺麗な湧水だったらそうかも知れないが、水道水だと違う気も・・・。

でも昔の人の言い伝えは、あながち嘘とは言えない事も多い。

医学的・化学的と言うのは現代人の悪いクセで、昔の人は「体験・経験」から言う。

日本の水道水は、今も世界トップの水質と安全性を備えている。

よく大都市の水は不味い・臭いと聞くが、それは水そのものではなく浄水場から家庭までの送水施設や環境に問題があるのだ。

子供のころは水道から直接飲んでも不味いと思ったことはないが、大人になってから味覚が変わったのか時々そう思う事はある。

しかし外国産の水を、お金を払って飲むと言うのはちょっと理解しかねるとも思っている。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

少し寒さが和らぎましたが、冬はまだ本番中です。

今後厳しい寒さも予想されるので、油断せず体調管理に気をつけて下さい。

時々君の夢を見ます。

内容は覚えていない事が多いけれど、とても不思議な気がします。

君とであったのが、雪の多い冬だったからでしょうか。

ついこの間のような気もします。

明日は平年並みの気温と言いますので、暖かくして過ごして下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



今のごと 心を常に おもえらば まづ咲く花の 地(つち)に落ちめやも(万葉集巻八 1653 縣犬養娘子)






飛行機ネタ。

最近SNSなどを見ていると、ファンの方だろうエアラインから運用を離脱して日本を離れる機材の情報が目立つ。

先行き見えないコロナ禍に、日本だけでなく世界中のエアラインが苦境に立たされている。

少しずつワクチンの実用化の兆しも見えており、感染拡大は遅くとも年内には終息するという見方がある一方、経済の回復には数年以上かかると言う暗い予測も出ている。

特に世界的流行となってしまった「COVID-19」は、仮にワクチンが実用化されても全人類に一斉に行き渡るには相当の時間を要すると見られるし、今後別種の新たなウィルスが発生しないとも限らない。

増して世界190以上の国と地域がある以上、同数以上の社会と文化が存在する訳で、相互間の人の行き来が「コロナ前」のようになるには尚の時間が必要と考えられている。

今となっては後の祭りだが、そもそもこうした非常事態は絶対ないと言えないはずで、資本主義社会に於いては「リスク管理」と言う点で余裕を持たせるべきであった。

行かに目前の潮流だけに利益を追従していたか、僅か1年の間に経済はガタガタである。

そうでなくともエアライン業界は競争が激しく、社会動向に左右されやすい一面を持っており、誰が悪い訳ではないけれど多くのエアラインが右往左往していることは間違いない。

日本では2巨頭の一つである全日空が、コロナ後半年で数千億円の赤字を計上し、比較的傷の浅い日本航空と「統合」の噂まで出る始末だ。

全日空は機材の大幅リストラを発表し、経年機を中心に30機以上の削減を決定。

機齢が若く、フラッグシップ機でもあるB777-300ERまで退役機が出始めた。

また数年後以降に退役予定だった機材は、どんどん前倒しして退役が続き、国内幹線の主力機だったB777-200ER/300も毎月のように退役機を出している。

一歩対照的なのは日本航空で、同社も経年機の退役は前倒しすることもありながら、現在8機まで増えたA350-900を今後2~3年以内に14機まで増やす事を公表した。

同社も国内線用のB777-200/200ER/300を順次退役させる計画を既に開始しているが、コロナ禍に合わせてA350への全面交替を加速させる。

日本航空では近い将来、国際線用のB777-300ERに代わってA350-1000の導入も決定しており、両型合わせて30機の確定発注の他、20機のオプション発注も行っていて、こちらも確定発注に切り替える見込みだと言う。

将来的には長距離国際線は需要に応じてA350-1000とB787-9、国内幹線はA350-900とB787-8/9をメインに構成して行く予定だと言う。

注目すべきは、約50機あるB737-800で、国内線の他近距離国際線でも運用しているが、昨年から初期導入機の一部が退役を開始している。

全日空では新しいナローボディ機としてA320/321neo、B737-MAX8を発注しているが、日本航空では後継機種はまだ決定していない。

ファンとしては、A350の順調さから「鶴丸」のA320を・・・と夢見てしまうが、どうだろうか。

だが亜幹線や幹線の補完的な役割を果たすB767の退役が迫りつつある状態で、「中型機」がどう展開して行くのかも気になるところだ。

日本航空のB787は、導入以来一貫して国際線用機材。

国内線用も持つ全日空とは対照的だったが、昨年からついに国内線用機材の運用が開始された。

ただコロナ禍の今後次第では、国際線に中型機であるB787の需要が逆に増加する可能性もあり、国内線需要に追い付かなくなる可能性もあると思われる、

今や日本では100機以上のB787が運用されており、東京や伊丹、関空などの大都市圏空港では珍しくない機体となった(地方ではまだまだ珍しいが)。

何ゆえにこんなに同機が溢れているのかと言えば、もちろん性能が良いからであるが、それ以上に機体部品の半分が「日本製」だから。

最もそれで価格が安いのかと言えば、実際にはさほどでもない。

日本はサプライヤーに過ぎないので、メーカーは利益を得るが、エアラインが値引き価格・・にはならない。

それでも「日本製」部分が多いと言う事で、導入するのは不思議な事ではないとも言える。

B767が多いのも、本来は同じ理由である。

故にB767や787と同じカテゴリーにありながら、日本のエアラインが殆ど見向きもしない機体がある。

それこそファンならばすぐおわかりだろうが、エアバス社の双発ワイドボディ機A330である。

上記の2機種があったからいらない・・と言われればそれまでだけれど、実際には非常に「コスパ」に優れた優秀な機体である。

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1-1-7A_A330neo_first_take-off_(cropped).jpg ←(2枚)17年に初飛行し、18年から就航したA330-900neoの初号機(ウィキペディア英語版より)

ワイドボディ機としてはベストセラーであり、近年では開発費用などの原価償却が進み機体価格が低下し、一時はエアバス社の株価引き下げて「豊漁貧乏」になりかけたこともある。

機数的にはA320シリーズに比べるべくもないが、ワイドボディ機としての「資産価値」はナローボディ機よりも高い分変動も大きいとされる。

すなわちいつか退役して中古機として売れるのか、耐用年数ギリギリまで使ってスクラップにするか。

ナローボディ機の場合は、フライトサイクルが多く、中古機としての価格も安いため、資産価値と言う点では低くなる。

一方ワイドボディ機は年数の割にフライトサイクルが少なく、機体も頑丈に作ってあるので、旅客機としての使命を終えても改造して「貨物機」として第二の人生を歩むこともあり、資産価値は高い。

だがコロナのように、予測しがたい変動もありうるわけで、商売道具として買うエアラインは見極めが難しい。

A330は原形機が92年に初飛行した、ワイドボディ双発機である。

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1-1-7A_A330-343X,_Cathay_Pacific_Airways_JP6841345.jpg ←(3枚9日本では馴染みのA330-300.カンタス航空のエンジンはGE CF-6、大韓航空はPW4000、キャセイ・パシフィック航空はロールス・ロイス・トレント700を選択した(ウィキペディア英語版より)

エアバス社では70年代半ばに最初のA300を筆頭に、A310、A300-600と発展させてきたが、システム的に一世代前のものだった。

80年代にボーイングが「セミワイドボディ機」と言う新しいカテゴリーで、B767を開発すると、経済性が注目されるようになった。

当時民間航空では、長距離洋上飛行に於いて双発機の規制「ETOPS」が設けられており、その規制にとらわれずに済むのは3・4発機に限られていた。

それはジェットエンジンの信頼性に依るものだったが、B767の実用化で徐々に規制の緩和が認められるようになった。

エアバス社ではB767の成功を受けて、A300をベースとした長距離機A310を開発した。

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1-1-7A_A330-323X,_Delta_Air_Lines_JP6876755.jpg ←(2枚)アメリカで初めてA330を採用したエアラインの一つ、ノースウェスト航空とそれらの機体を統合後も運用するデルタ航空のA330-300(ウィキペディア英語版より)

しかし今のような構造材自体の軽量化やデジタルシステムが普及していなかった事もあり、胴体自体を短縮することで機体重量を軽減させた。

コクピットも一部計器をデジタル化することでグラスコクピットにしたが、胴体を短縮したことで座席数は200席程度に留まり、B767よりも輸送力は少なかった。

しかもB767は、基本型である200型の胴体を延長した300型で、航続距離を延伸した「ER」を登場させたことで、A310のアドバンテージは広がるばかりであった。

最もまだ世界は冷戦時代で、アメリカ機を導入しにくい国々も多く、それらのエアラインがこぞってA310を導入したが、機数と言う点では遠く及ばなかった。

80年代末、エアバスは初のナローボディ機であるA320シリーズで世界市場に殴り込みをかける。

1-1-7A_A330-203,_Turkish_Airlines_AN1119518.jpg ←A330のエコノミークラスキャビン。2-4-2の8列が標準(ウィキペディア英語版より)

旅客機として世界初のデジタル式フライ・バイ・ワイヤ方式を採用し、コクピットはもちろん全面グラスコクピット。

それまで常識だった「操縦桿」が消え、「サイドスティック」に変更された革命的な旅客機であった。

同時に売れ行き不振のワイドボディ機も刷新することになり、A320のシステムを踏襲したA340とA330が開発されたのだった。

両機は4発と双発の違いだけで、システムは殆ど共通化されており、パイロットのライセンスも共通である。

当初4発機のA340は長距離機、双発のA330は中距離機と言う名目で開発された。

A340は10,000キロ以上の航続距離を持ち、B747ほど大型でない事が経済的と取られて受注が増えた。

1-1-7A_A330-302_Iberia_EC-LYF_cockpit_(10983484845).jpg ←A340と完全共通のコクピット。違いはスラストレバーの数だけ。A320シリーズとも高い共通性を持つ(ウィキペディア英語版より)

一方A330は革新的だったにも関わらず、当初のセールスは伸び悩みパッとしない機体だった。

その理由は「双発機としては大きすぎる」だった。

計画時のスペックは、最大で400席、航続距離は5,000キロ程度とされ、A300-600Rを大型化した様な機体と見られていた。

ところが90年代半ばに、B777が登場すると世界の見方が一変する。

B767やA310を以てしても、まだ双発ワイドボディ機の有効性には懐疑的なエアラインが多かったのだが、B777がそれを排除することになったのである。

最大径を持つエンジンと、747に匹敵するキャビン幅、10,000キロの航続力、経済性と環境性の優秀さが実証されたからであった。

実際には、それらの性能をA330は持っていたのだが「双発機」と言う古い認識に抑えつけられていたのだった。

1-1-7A A330-300-Delta_Air_Lines,_N826NW(49593545681).jpg ←中央翼タンクを増設して最大重量を242トンまで引き上げたデルタ航空のA330-300HGW(ウィキペディア英語版より)

基本がA340と同じなので、燃料搭載量を増やして機体重量を上げる余裕を充分持たせており、エアバス社はオプションとして機体重量を引き上げた機体を発売した。

同機は200型・300型の2つバリエーションがあるのは、姉妹機A340と同じだ。

その中身も同じで、200型は300型の胴体を約4メートル短縮した航続距離延伸型である。

面白いことに300型は94年から就航したが、番号の若い200型が後からで97年に就航した。

なぜ順番が逆かと言うと、単に数字の若い方が「胴体が短い」を連想させるから。

因みにA340とも、デビューは同機が先なのに型式名は後番になっているが、これも「340」は4発機、「330」は数が少ないからエンジン数の少なさもイメージできる・・と言う、いささか意味不明な理由だ。

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1-1-7A_A330-200 QANTAS_VH-EBO@BNE;01.08.2012_667cz_(7819143482).jpg ←(2枚)A330を運用するエアラインは、200・300両型を保有する事も多い。大韓航空とカンタス航空のA330-200(ウィキペディア英語版より)

最も計画当初から200型も検討されており、受注に当たって座席数の多い300型の方がエアラインの興味を引いたから、先に開発した。

それでも200型が欲しい、と言う要望は途上国のエアラインを中心に増えていたことから、200型の生産が開始されている。

しかしA330は将来を見越した発展性を考慮されており、300型は直ぐに機体重量を引き上げたモデルが作られて、200型の航続距離13,000キロとには及ばないものの、12,000キロの迫る航続距離を確保している。

一般的には型式名の後に「X」とつくモデルが重量を引き上げたモデルで、単なる「300型」は初期生産分だけである。

1-1A1 A330-200 NEPAL-9N-ALY@HKG_(20181006165043).jpg ←最も新しいA330-200で日本線を復活させたロイヤル・ネパール航空(ウィキペディア英語版より)

エアバス社では200・300型双方とも、近距離用として機体重量を「引き下げた」モデルから上記のモデルまで、サブタイプを用意することで選択肢を広げ、それが多くのエアラインの支持を得ることになったのである。

更に10年代には中央翼部分に燃料タンクを増設し、航続距離をさらに伸ばして機体重量をMAXまで引き上げた「HGW」タイプがデルタ航空によってローンチされ、200型に迫る航続距離を持つに至っている。

一方「軽量モデル」は、「X」「HGW」に比べて機体重量を40トン近く軽減したモデルで、エアバス社では非公式ながら「リージョナル」と呼ぶ。

同機は航続距離をA300と同程度、5~6,000キロに抑えたモデルで、サウディアがローンチしている。

1-1-7A A330-300-Saudia,_HZ-AQ29(46913407434).jpg ←機体重量を軽くして近距離用としたサウディアのA330リージョナル(ウィキペディア英語版より)

そして現在、エアバスの最新鋭A350の技術をフィードバックさせた「A330neo」シリーズに生産が移行しつつある。

「neo」は外観こそ従来のA330と同じだが、主翼はA350と良く似たねじりをつけた複合材を使っており、翼端は主翼と一体化した様なシャークレットに変更された。

エンジンはA380に搭載された「GP7000」と同系列の、ロールス・ロイス「トレント7000」に変更した。

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1-1-7A_A330-900NEO_just_arrived_at_Lisbon_airport_(40589888703)_(cropped).jpg ←(3枚)A330-900neoを最初に就航させたTAPポルトガル航空と、トレント7000エンジン(ウィキペディア英語版より)

このエンジンはB787の「トレント1000」をベースにしており、従来型よりも運航コストが低くなっている。

また胴体の構造も、複合材を使用するA350の技術を移植して、キャビンの幅が拡大。A350よりも狭いものの、その差は数センチに迫った。

コクピットの計器は従来型と同じであるが、EFBなどがオプションで装備できる他、コンピューターもソフト・ハード面が進化している。

同機は元々A350となるはずだったが、B787の出現で一度白紙に戻され、全くの新規格に変更された。

現在A350は基本型となる900と、胴体延長型である1000が生産されているが、当初「短胴型」として800も計画されていた。

しかし機体価格と座席数などの面から、B787と競合することでメリットがないと判断され「A350-800」は中止され、A330neoとして復活した。

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1-1-7A A330-900 THAI AIRAJIA.jpg ←(2枚)アズール・ブラジル航空とタイ・エア・アジアのA330-900neo(ウィキペディア英語版より)

A350はB777に対抗する機種であるが、A330neoはB787とB777の中間クラスに位置付けられており、座席当たりのコストは座席数が同格のB787-10に比べて25%以上低くなるとされる。

加えてB787は超長距離用に開発された機体であり、5,000~10,000キロの中距離路線以下では逆にコストが高いとエアバスは主張しており、エアラインの中でもそうした意見が増えている。

すなわちB787は、需要が高くない路線における中型機ながらも、12,000キロ以上の長大路線に於いては低燃費で大きなメリットをもたらすが、中距離以下ではそれほど利益率は高くない。

それは機体価格と、路線ごとの収益のバランスを考えた上でのことで、A330neoの方が多くの路線で利益率を上げることが可能と言うのである。

1-1-7A A330-900 DELTA.jpg ←初めて日本に就航させたデルタ航空のA330-900neo(©AIRBUS)

A330の新規受注は基本的にこの「neo」になっているが、従来型の生産ラインは閉じていない。

従来型A330はこれまで1,300機以上の受注を得て、バックオーダーは30機前後を残すのみ。

A330neoは17年に初就航して以来、約330機の受注を集めている。

従来型は「A330MRTT」と名付けられた軍用型で、空中給油及び輸送機型で、既にイギリス空軍やオーストラリア空軍が運用している。

フランス空軍も、老朽化したKC-135Fの後継機種としてA330MRTTの導入を決定し、先ごろ初号機が納入された。

同機はA330-200をベースに改造した機体だが、それは主に給油装置に集中している。

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1-1-7A A330MRTT RAF-BZN-UNCLASS-20140129-073-01_(16076158009).jpg ←(3枚)A330-200をベースにしたA330MRTT。イギリス空軍では「ボイジャー」と命名した(ウィキペディア英語版より)

運用先によって異なるが、給油装置は尾部の「フライング・ブーム式」と、主翼ポッドの「プローブ&ドローグ式」両方を持てる。

キャビンは貨客両用仕様になっているが、旅客型と同じキャビンにすることができる。

同機は米空軍の次期給油機として採用されかけたが、受注に関して不正があったとアメリカ国内で指摘され、取り消しの憂き目にあっているが、これはボーイングによる露骨な妨害工作であることは明らかだ。

米空軍はB767-200をベースとしたKC-46Aの導入を決めたが、現場ではキャパシティを比べてA330MRTTを支持する声が今でも大きいと言う。

それでもNATO、サウジアラビア、シンガポールなどが同機を採用しており、今後も軍用輸送機としての受注が期待されている。

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1-1-7A_A330_MRTT_F-UJCG_-_French_Air_Force.jpg ←(3枚)オーストラリア空軍、UAE空軍、フランス空軍のA330MRTT。オーストラリア空軍ではKC-30Aと呼んでいる(ウィキペディア英語版より)

この他、新造貨物機として10年代に開発されたA330-200Fや、中古旅客機を改造した「P2F」の生産も開始しており、エアバス社では今後従来型の受注もあれば受け付けるとしている。

日本ではスカイマークが唯一A300-300を導入し、幹線で運航したが、経営不振に陥り僅か7ヶ月余りで運用を離脱した。

後にも前にも「日本籍」のA330は同社の機体だけで、今も日本のエアラインは同機にそっぽを向いている。

アジア諸国ではB767よりも遥かにメジャーな機体であり、各国から日本線に投入されている。

1-1-7A-A330-300_JA330D_Skymark_RJTT_Taxing.jpg ←唯一の日本籍だったスカイマークのA330-300(ウィキペディア英語版より)

ざっと見ただけでも、中国国際航空・中国東方航空・大韓航空・エバー航空・チャイナエアラインズ・フィリピン航空・ガルーダインドネシア航空・シンガポール航空・マレーシア航空・タイ国際航空・キャセイパシフィック航空・香港航空・エア香港・ロイヤルネパール航空・エア・アジアXなど、アジアの主なエアラインの殆どがA330ユーザーかつ日本に飛ばしている。

それ以外ではアエロフロート・ターキッシュエアラインズ・カタール航空・フィンエア・SASなどヨーロッパ系エアラインはB787やA350が増えているものの、機材変更や季節増便などで頻繁に飛来する。

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1-1-7A A330-223_Delta_Air_Lines_(4700380450).jpg ←(2枚)ノースウエスト航空とデルタ航空のA330-200(ウィキペディア英語版より)

北米では旧ノースウエスト航空の機材を急襲したデルタ航空が、長距離機の主力として運用しており自社発注機も持っている他、ハワイアン航空が日本に飛来している。

19年には「neo」の導入も開始され、日本に飛来している。

オーストラリアのカンタス航空も、日本線のメイン機材としてA330を運用しており、日本は世界中のA330が集まる国なのだ。

にもかかわらず日本のエアラインは、B767/B787にこだわり続けている。

しかし日本で最大勢力を誇っていたB767は、老朽化そしてコロナ禍が重なって退役が加速し始めている。

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1-1-7A_A330-800neo KUWAIT.jpg ←(2枚)エア・モーリシャスのA330-900neoと20年秋に初めて納入されたクウェート航空のA330-800neo(ウィキペディア英語版より)

日本航空と全日空は、B787を後継機種にしようと考えているが、コロナ禍で長距離国際線が軒並み運休する事態になり、フラッグシップ機だったB777がB767以上に速いペースで退役を余儀なくされている。

再開後は航続距離の関係からB787が充当されることは明白で、国内線や近中距離国際線に回す余裕がなくなるのではないかと思う。

「コロナ後」を見据える余裕が今はないかも知れないが、私はA330こそB767の後継に適していると思う。

先に書いたように、同機のコクピットはA320とも共通性があり、こちらに共通ライセンスはないが、短期間で移行訓練が可能になっている。

国内ではA320シリーズが多数運用されている事実から、パイロットの養成は全くの新機種よりも容易なはずだ。

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1-1-7A A330-200F-Turkish_Airlines_Cargo,_TC-JDS,_Airbus_A330-243F_(18024319083).jpg ←(3枚)アヴィアンカ・カーゴ、香港航空、ターキッシュ・エアラインズのA330-200F(ウィキペディア英語版より)

コロナ禍を除いて考えても、日本のエアライン事情にA330は有効な機材であると思う。

無責任なファンとしての私見であるが、今もって同機の流麗な姿は美しい。

4発機のA340もそう思うが、何よりも「ヨーロッパ・テイスト」を思わせるスレンダーさがある。

ファンには申し訳ないけれど、正直B787やA350は格好良いと思えない。

むしろライバルだったB767に通じるセンスがある。

B767は「セミワイドボディ」と言う独特の大きさが、細身ですっきりとしたシルエットを持っており、私も好きな機体である。

A330はワイドボディ機ながら、767と似たようなスマートさを兼ね備えているように思える。

従来型A330はエンジンの選択制を取っており、GE製「CF-6」、P&W製「PW4000」、ロールス・ロイス製「トレント700」の3種類がある。

これまで生産された機体では、40%以上が「トレント700」装備機で、残りは半数ずつ程度。

ただし初期の頃に、ソフトウェアとのマッチングに問題が発生したことから、後半の生産機の大半は「トレント700」である。

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1-1-7A_A330-200F PW4000(F-WWYE)_(4337113707).jpg ←(3枚)A330の搭載される3種のエンジン。上からトレント700、CF-6、PW4000(ウィキペディア英語版より)

いずれも優秀なターボファンエンジンの代表格だが、トレント700は最も出力が高い事も人気の理由のようだ。

「トレント700」は、テールコーンまで流線型のカウリング(覆い)で覆われており、外観的な特徴となっている。

大きなカウリングのおかげで、バイパス比も他の2種に比べて若干高くなっており、燃費・騒音性も低くなっている。

「neo」では選択制が廃止され、「トレント7000」のみにされたのも、同系列として同機に最適なエンジンと判断されたようである。

日本では機体の重量によって、空港の使用料が課される仕組みになっているので、国内線では「リージョナル」仕様で運用すれば運航コストは下がる。

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1-1-7A_A330-200F_Turkish_Named_Trakya_-_Will_be_TC-JDS.jpg ←(3枚)トルコ・MNGカーゴとMASカーゴのA330-200F。200Fでは機体の水平を保つため、前脚はバルジを設けてかさ上げしている(ウィキペディア英語版より)

なかなか「脱アメリカ製」をできない日本のエアラインだが、最近は少しずつ良い意味で崩れつつある。

LCCを含む新興エアラインの多くがA320シリーズを導入し、ついには日本航空がフラッグシップとしてA350を採用。

限定的運用ではあるが、全日空がA380を導入した事は大きい。

唯一運用したスカイマークのA330は汚点になってしまったが、同機のせいではない。

従来型の生産は事実上停止されたが、中古機市場では数が多く価格も安いし、貨物機としての有効性もある。

現在新造機として生産されている貨物機はB777F、B767F、そしてA330Fだけだ。

最近ではエアバス社有機として、生産機の胴体や部品を輸送する「ベルーガXL」の生産が始まり、前代の「ベルーガ」と交替する。

ボーイングでは、日本でも馴染みの「B747-400LCFドリームリフター」があるが、こちらは中古のB747-400の改造機。

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1-1-7A_A330-743L_Beluga_XL_(48928991596).jpg ←(2枚)生産中の機体を輸送するベルーガXL。正式には「A330-700」と言う形式名を持つ。ベルーガとは「イルカ」の事だが、どうしてもマッコウクジラに見えてしまうのは私だけだろうか(ウィキペディア英語版より)

すなわち現時点でA330は、200・300・200F・800neo・900neo・ベルーガXL(エアバス以外で運用するエアラインはないだろうが)と6種類のラインナップを持つのだ。

中古機も視野に入れれば、200・300型には基本型と「X」「HGW」が存在し、改造貨物機「P2F」が存在し、選り取り見取りであることが最大の魅力ではないだろうか。

日本のエアライン事情では、まだ難しいと思うが、それこそ「アフター・コロナ」を見据えた場合、決して損する機材ではないはずである。

1-1-7A A330-200P2F EGYPTAIT.jpg ←中古の200型を貨物機に改造したエジプト航空のA330-200P2F(ウィキペディア英語版より)

尚改造貨物機である「P2F」の語源は、「Prduct To Frighter」の略。

ならば「PTF」でも良いと思うが、「To」を「2」に置き換えることで、機体の「第二の人生」を表すとともに「見た目が格好良い」からだとか・・・。

こんなところにもヨーロッパ的なシャレが効いている。

飛行機ネタ 陰に隠れたアラブのエアライン、クウェート航空(1月17日 曇り時々晴れ 4℃)

朝から厚い雲が空を覆っていた。雪や雨こそ降らなかったが、日差しが届かず寒々しい風景の日曜。

この2,3日は気温が高めだったが、今日は平年並み。

先日積もった雪は随分融けたけれど、日陰は相変わらず。

日中融けきれず、夜になると凍るを繰り返すから、降った直後よりも始末が悪い。

シャーベット状なのかと思っていると、凍っていていきなりズルッ・・と言う事もあり、油断できない。

この週末は、なんだかいろんな事があった。

私自身は極めて静かだったけれど、世間では大学の「共通試験」。

今年からこれまでの「センター試験」に代わって、新しく「大学入試共通テスト」が導入されたらしい。

失礼ながら、その内容は良く分からないけれども「受験生」にとって、「本番」の到来と言う事に変わりはない。

コロナ禍での開催で、受験生は予防対策の他、予め検査を受けるなど余計な事ばかり付加されて、さぞかし大変だったと思う。

試験勉強に集中したくてもできず、言いようのないストレスや不安に捕われた人もいただろう。

社会不安でいつも「割りを食う」のは、子供と高齢者。

彼らを支え守る義務を持つ「普通の大人」たちは、自分勝手な保身と都合に終始して守りきれない。

先週地元のニュースで報じられていたが、現在県内で確認されている「インフルエンザ」の患者はたった1人だと言う。

確か12月の始めにも同じニュースを聞いた記憶があり、どうやらそれ以上新規の感染者が出ていないらしい。

早い時には11月頃から流行し始めるのに、1月半ばになっても全くなのはどうしたことだろう。

保健所では「過去には1月下旬以降から流行したこともある」として、注意を呼び掛けている。

それにしても妙ではないか。

一見コロナがインフルエンザを「抑えて」いるようにも見えるが、「専門家」と言われる人で言及した人は見たことがない。

あくまで無知な私の「妄想」ではあるが、ひょっとしてコロナの「混同」しているのではないか?と思ってしまう。

12月を迎えた頃から、コロナ感染者が急増し、11都府県で再度の「緊急事態宣言」が出されたのは周知の事実。

でも急に感染者が増加した時期と、例年インフルエンザが流行し出す時期と一致しているような気がする。

感染者が増加したのは「PCR検査」を受ける人が増えたからだと言うが、果たしてそうだろうか?

最近では検査方法が多様化され、結果もすぐわかる方法が出ていると聞く。

また従来の鼻の粘膜での検査法は、正解率が70%前後とも言われていたはず。

いつの間にか検査の確率が、どこかに消えてしまっている。

医療現場では「ひっ迫」「崩壊」に騒ぎ、大混乱している中で、「確実」な検査と解析が行われているのか、正直根拠が示されていない。

散々騒いだ挙句「コロナかインフルエンザか分からない」なんてことにならなければ良いが。

そしてコロナ禍の影響は、じわじわ効いて来る。

「内輪」の事なのだけれど、泉中央駅近くにあるファミレス「ココス泉中央店」が境を以て閉店した。

閉店理由はやはりコロナ禍による売り上げ減少のようだが、実際には不明。

お店の人にもさりげなく聞いてみたけれど、コロナ禍の影響は同店だけではなさそうで、総合的なリストラ策の一環だったらしい。

「ココス」は泉区と富谷市に3店舗あるが、こちらはこれまで通り営業を継続すると言う。

同店は「駅前」と言う一等地にあり、他店舗のように車での利用が主体の郊外型ではなかった。

私を含めて近隣住民など、徒歩や自転車の学生さんの利用も多かったのに、自らの移動手段を持たない人には深夜営業のレストランを失う事になる。

付近では駅から約1キロの「ミルキーウェイ泉七北田店」も、先月閉店しており「副都心泉」の求心力はより減衰した。

同店は泉中央と言う地名さえまだなく、統合前の「泉市」時代に仙台で最初にオープンした。

記憶では私が高校生の時と記憶しているから、少なくとも35年は経っているはずである。

実は20年ほど前に、一度「閉店」したことがある。

確か土地の賃借問題だったように聞いていたが、約1年後に建物を全面的に新築して「再オープン」した経歴がある。

その時も「リニューアルオープン」と告知せず、とりあえず「閉店」であったと記憶している。

オープン当初、向かいにある「泉署」はもちろん、駅もアリオもセルバもなく、「泉市役所(現泉区役所)がぽつんとあっただけだった。

都市計画で道路は出来つつあったが、現在の区役所前の道路はなく、泉署の北側・今のバスポール辺りから田んぼのあぜ道が1本「市役所」に通じていた。

地下鉄駅ができるずっと前のことで、先を見据えたオープンだった。

その後地下鉄が延伸し、駅前が整備され、泉市は仙台市泉区になり、警察が出来、「ユアスタ」が出来た。

アリオさえ駅ができた頃にオープンしたのだから、ココスは正に泉中央の発展を直に見守って来たと言える。

35年間には「バブル経済」とその崩壊、未曽有の大震災も経験しながら頑張って来たのに、どうして「たかが風邪ウィルス」に負けなければならないのか、行き先のない怒りを感じてしまう。

私にとっても、非常に思い出深いお店であり、学生時代にはどれだけ友人たちと行ったことか。

そして亡き母とも、数えきれないほど行った。

閉店は一か月前に告知されていたので、この年末年始は出来るだけ通った。

故に食事ではなく「お茶」することが主流で、あまり売り上げには貢献出来なかったけれど、最後を見届けて来たつもりである。

バカバカしいと笑われようが、寂しいとか残念とか単純な言葉で終わらせたくない。

世間はコロナ禍で仕方ない事・・と言うのだろうが、30年以上の思い出を簡単に消されることに虚しさと悲しさを禁じ得ないのである。

だが震災を乗り越えておきながら、どうして「疫病」ごときで・・と、日本経済の情けなさも感じる。

そして今日は、「阪神大震災」から26年目でもある。

大きな被害を受けた神戸市や淡路島では、四半世紀を過ぎて震災を知る住民が減っていると言う。

東日本大震災も、この3月に10年を迎え、やはり「記憶の風化」が懸念されている。

忌まわしい記憶は消してしまいたいが、災害はこれからも必ず発生する訳で、人々の体験を教訓として後世に残さなければならない。

そして今、我々が直面している「疫病」もまた同じであり、未来へ教訓として伝える義務がある。

何十年、何百年後の「子孫」たちに、「2020年辺りの日本人は愚かで情けなかった」などと言われたくないだろう。

逆に「あの時の日本人は凄かった」と言われなければならない、そう思う。




ここ数日、夜の寒さが和らいでいる。

まだ1月、油断は禁物。

来週は再び寒気が流れ込み、日本海側では大雪の恐れもあると言う。

お店の閉店を「見送って」の帰宅だったが、なんだか悲しい気持ちでいっぱいだった。

たかが・・なのだろうけれど、居場所を失ったような気分だ。

人からは下らないと思われるのだろうけれど、コロナのせいだと思うとやり切れない。

そしてただ制限ばかりしてうろたえる政治や行政、「専門家」に腹立たしさも感じて来る。

これが「二次作用」と言う事か。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

少し寒さが和らいでいますが、また寒くなりそうですので暖かくして過ごして下さい。

コロナ禍に翻弄されてばかりですが、どうか君らしさを失わず、前向きに生きて下さい。

日記に書いたように「ココス泉中央店」が、今日で閉店しました。

君と行った記憶はありませんが、君自身は友人や家族と行った事があると思います。

仕方ないと言えばそれまでですが、街の灯がまた一つ消えてしまい寂しい限りです。

君の地元でもあるこの街に、少しでも明るい未来が訪れるよう祈って下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



雪の色を 奪ひて咲ける 梅の花 いま盛りなり 見む人もがも(万葉集巻五 850 大宰府卿大伴宿禰旅人)






飛行機ネタ。

1月17日は95年の「阪神・淡路大震災」の日であるとともに、その4年前には「湾岸戦争」が開始された日でもある。

前年夏に、イラクの独裁者サダム・フセイン大統領は、ペルシア湾北端に位置するクウェートに軍を越境させ侵攻。

僅かな日数でクウェート全土を占領し、「クウェート県」として併合した。

明らかな国際法違反の侵略行為として、国連安保理は「国連軍」の派遣を決定。

国連は期限を設けて、それまでにクウェート国内のイラク軍を全て撤退するよう勧告した。

しかし兼ねてからクウェートを「イラク領」だと主張するフセインは、国家主権を盾に要求を拒否。

軍事介入が迫ると、今度はクウェートやイラク国内に留まっていた外国人を人質に取って「人間の盾」にするなど、交渉は平行線を辿った。

翌91年1月17日未明、トルコやサウジアラビアに展開したアメリカ軍を主体とする「多国籍軍」が一斉にイラク国内で攻撃を開始した。

多国籍軍はイラク本国と、クウェート両面から攻撃を開始し、クウェート国内のイラク軍はすぐに敗走したが、直前に占領していたクウェートの油田や製油施設をことごとく破壊し放火し、最後には数百万バレルとも言われる大量の原油をペルシア湾に流出させた。

湾岸戦争は史上初の「実戦ライブ」が世界中に配信され、大きな話題となったが、同時に流出した原油が深刻な環境汚染を引き起こした事も話題になった。

今日は正に「開戦30周年」でもあるのだ。

舞台となったクウェートは、面積約1.8万平方キロの小国。

国土は岩手県よりやや大きい程度だが、9割以上が砂漠。

人口は約400万人、首都は世界では珍しい国名と同じだが、区別するために「クウェート・シティ」と呼ばれることが多い。

行政上の市域は狭く、人口は約30万程度だが周辺に都市圏が広がっており、都市圏人口は約250万人もある。

すなわち居住者の大半が、首都クウェート市にいる計算だ。

1-1-5A KUWAIT-All_major_buildings_in_kuwait_in_one_shot_by_irvin_calicut.jpg ←クウェート市の高層ビル群(©Irvin Calicut)

国民の8割がイスラム教徒のアラブ人だが、クウェート国籍は少なく、他のアラブ人は出稼ぎや難民だと言われている。

また同じく出稼ぎ目的の外国人も多く、住民の半数以上は外国籍と言う。

公用語はアラビア語だが、外国人が多い事と18世紀からイギリス領だったこともあって、英語が良く通じる。

同国は中世から「領主」として支配して来た「サバーハ家」を「首長」とする、法的には立憲君主国家である。

その為議会を持つが、その支配権は首長にあるため、事実上は「絶対君主制」である。

隣国のサウジアラビアが「サウド家」を首長とする絶対君主制で、議会はもちろん憲法も存在しないことで知られるが、クウェートは建前として「立憲君主制」としている。

しかしながら王家に対する「不敬」の概念が活かされており、体制に対する批判は謀反罪に問われる事もある。

しかもそれは子供や外国人に対しても適用され、学校を停学や退学処分にされたり、国外追放される場合もある。

故に言論の自由は殆どなく、ネットの監視や強制も当然のように行われており、個人の権利での国際的評価は北朝鮮やシリア、エリトリアなどと並んで最低ランキングに位置している。

国の収入の殆どが原油に頼っているが、国民に還元されているため、体制への不満はあまり露出していない。

湾岸戦争で大きなダメージを被った石油産業だが、世界中からの支援のおかげで、90年代後半には戦争前の水準まで戻り、現在も国民所得は高いレベルにある。

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1-1-5A KUWAIT B777-300ER -thumbnail.jpg ←(2枚)クウェート航空のフラッグシップ、B777-300ER(ウィキペディア英語版より)

そしてクウェートのフラッグキャリアが、クウェート航空だ。

クウェートが国際法上独立したのは61年のことだったが、戦後はイギリス領ながら自治権が与えられたことで53年に「クウェート・ナショナルエアラインズ」として設立された。

設立にはイギリスが深くかかわり、自治政府とBOACなどが共同出資した。

機材は大戦で放出されたC-47ダコタ(DC-3)などを使い、イラクのバクダッドやバスラなどの運航した。

1-1-5A_C-47B_G-AMSM_Kuwait_Natnl_STA_10.04.55_edited-2.jpg ←イギリスからリースで54年から運航を開始したクウェート。ナショナルエアラインズのC-47(ウィキペディア英語版より)

独立後には国営エアラインとなり、60年代初頭には初のジェット機である「コメット」や「トライデント」が導入された。

当時としては最新鋭機材の一つで、中東では最も先進的なエアラインの一つであった。

ジェット化されたことで、路線網が拡大し、主にヨーロッパ線の充実が図られた。

それはヨーロッパから石油事業へ投資を呼び込むこととなり、同国の経済は一気に向上した。

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1-1-5A-Kuwait_Airways_Trident1E_Groves.jpg ←(2枚)クウェート航空のデ・ハビランド・コメット4Cとホーカー・シドレー・トライデント1E(ウィキペディア英語版より)

60年代後半には長距離機材としてB707が導入され、念願の北米線を開設した。

冷戦時代、中東諸国はエネルギー供給源として米ソが凌ぎを削って支援していたが、多くは米英寄りであった。

なぜならば、大戦直後の48年にイスラエルがアラブ諸国と対立した状態で一方的に建国・独立し、以後30年以上戦争状態が続いた。

イスラエル建国を指示した米英にとって、アラブ諸国が離反するのはソ連の影響力を拡大させることも意味するため、ある意味必死でアラブ諸国へ支援を続けていたのである。

実際73年の「第4次中東戦争」では、イスラエルに経済的・軍事的支援を続ける西側諸国へ反発したアラブ諸国は、原油の一斉減産に踏み切り、「オイルショック」を引き起こす事態になったことがある。

更にアラブ諸国を抑えることは、エネルギー源も抑えることを意味したため、「オイルダラー」は中東諸国を大いに潤す事になるのである。

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1-1-5A Kuwait_Airways_B707-369C_9K-ACM_-Failaka-_(26796832520).jpg ←(2枚)クウェート航空初の本格的長距離機材となったB707-370C(ウィキペディア英語版より)

だが70年代末になると、イランのイスラム革命を始めとする変化が起き始める。

その前フリとして、対イスラエルの先鋒だったエジプトが「キャンプデービッド合意」で和解し、国交を樹立したことで、中東のバランスが揺らぎ始めたのである。

クウェートは隣国で親米国家であるサウジアラビアと強い友好関係があり、表向き米英に対抗する姿勢は見せない国であった。

米英にとってペルシア湾の奥にある同国は、絶対離反させられない重要な国であった。

それはクウェート航空にも利潤をもたらす事でもあり、70年代にはB747をいち早く導入して幹線の主力機に据えるとともに、アジア線なども拡大していった。

クウェートは小国であり、都市は実質的に首都クウェート市しかないため、同社は現在まで「国内線」の定期便は存在しない。

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1-1-5A KUWAIT-B747-269B(M),_Kuwait_Airways_JP174640.jpg ←(3枚)70年代になるとアメリカ機を導入して、欧米路線拡充を図った。B727-200は中東域内やヨーロッパ線、B747-200Mは北米線に投入された(ウィキペディア英語版より)

80年代になると、ソ連のアフガン侵攻、先のイランのイスラム革命とイラン・イラク戦争の勃発で、クウェート周辺はにわかに騒がしくなるが、原油と言う最強カードを持つ同国は比較的安泰であった。

だがそれは、90年のイラク軍の侵攻を引き起こす「油断」にもなった。

イランとの戦争で疲弊したイラクだったが、なおも大きな軍事力を持っており、小さな軍しか保有していないクウェートは瞬く間に占領された。

クウェート空港もイラク軍の攻撃に晒され、駐機していた同社のB767などが破壊されてしまった。

イラクは同国への攻撃・侵入を警告しており、当時の首長だったジャビル首長は国外へ逃避、クウェート航空の機材も渡航先で停留していたが、クウェートに残っていた機体の避難は間に合わなかった。

当然同社は全面運休となり、解放後1年以上経ってからようやく再開した。

1-1-5A KUWAIT-B767-269-ER,_Kuwait_Airways_AN0070124.jpg ←80年代に導入されたB767-200ER。一部の機体はイラク軍に破壊された(ウィキペディア英語版より)

80年代以降、同社はボーイング機の他、ヨーロッパ線や中距離線用としてエアバス機の導入も開始しており、戦後「復興」でも各国の支援を受けてエアバス機を中心に機材を増やした。

ボーイング機では96年にB777を発注し、北米線用に投入するなど、数年間で戦前以上に規模が拡大した。

長距離機材ではA340も導入し、00年代にはB727以来の新造ナローボディ機A320も導入した。

1-1-5A KUWAIT_DC-8-62H(F)_Kuwait_Airways_Cargo_(Air_Transport_International_-_ATI).jpg ←貨物専用機DC-8-62F。クウェート航空のフルカラーだが、運航はアメリカのATIに委託していた。機体も同社の物(ウィキペディア英語版より)

90年代末には民営化の計画が打ち出され、法案も成立したが現時点では株式は全て政府が保有しており、事実上国営エアラインのままだ。

同社はヨーロッパと北米の間で「以遠権」を持っていて、近年まではロンドンやパリとニューヨーク間の単独利用が認められていた。

しかしアメリカに居住するイスラエル国籍の乗客の搭乗を拒否した事が発覚し、アメリカでは法廷闘争まで発展したが、同社はイスラエルを認めていない立場から補償や謝罪を逆に拒否。

代わりに以遠権による営業権を停止することで、問題は宙に浮いたままになっている。

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1-1-5A KUWAIT_A300-600ER_A306_-_KAC_(16000988394).jpg ←中距離幹線用として10機以上を運航したA300-600R。00年代初頭まで活躍した(ウィキペディア英語版より)

路線で特徴的なのは、アジア線に多くの便を運航すること。

残念ながら日本への就航は一度もないが、デリー・コロンボ・マニラなどの都市に就航している。

これらの国々からは、多くの人々がクウェートに出稼ぎに来ているせいだ。

そのためであろうか、同社の運賃は一般のメジャーエアラインよりもかなり安く、日本やヨーロッパから見るとLCCに近いほど安い。

国営エアラインだからという事もあるようだが、路線によってはクウェート人よりも外国人の利用が多いと言う。

客室乗務員も外国人が多く、事情はともあれどこか閉鎖的に思えるアラブ諸国のエアラインとしては開放的とも言える。

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1-1-5A-Kuwait_Airways_A310-300_9K-ALB_FCO_2007-09-30.png ←(2枚)クウェート航空のA310-300(ウィキペディア英語版より)

最も戦後復興が落ち着くと、周辺アラブ諸国のエアラインが台頭して、同社は「格安」エアラインのようになってしまった。

00年代以降、日本でもお馴染みのUAEのエミレイツ航空やエティハド航空、カタール航空などが豪華さをウリにした上級サービスで利用率を上げた。

同時に地理的条件を元に、乗り換えの利便性を充実させるなどしてネットワークを拡大させている。

ところがクウェート航空は、そうした競争から外れており、00年代末期には機材の老朽化などで後れを取るようになる。

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1-1-5A KUWAIT-B777-269-ER,_Kuwait_Airways_AN0056812.jpg ←(2枚)長距離線の主力として導入されたB777-200ERだが、A330/340と交替したため運用期間は短かった(ウィキペディア英語版より)

加えて05年には同国初の民間でLCCである「ジャジーラ航空」が設立されると、機材計画が求められた。

長距離用にはB747-400、B777-200ER、A340-300。中距離用にはA300-600R/A310-300と言う棲み分けができていたが、コストの面でも条件が悪いことから、10年代に更新計画を立てて徐々に交替を行う事になった。

現時点で同社は30機、季節運航を含めて43都市に就航(コロナ禍を除く)しているが、まずはA300-600R/A310-300をA330-200に交替して機種を統一させるとともに、長距離機としてB777-300ERを発注。

納入ごとにB777とA340を退役させ、現在のワイドボディ機はB777-300ERとA330に変更された。

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1-1-5A KUWAIT_A340-313,_Kuwait_Airways_AN0690074.jpg ←フラッグシップとして長距離線の主力だったA340-300(ウィキペディア英語版より)

ファンにとっては「激レア機」だったのが、僅か1機だけのB747-400Mで、コンビ型と言う事もあり、19年まで孤軍奮闘を続けている。

クウェートは農業がないに等しく、食料品や生活用品は殆ど輸入に頼っている。

その為以前から貨物便が重要視されており、アメリカの貨物エアラインがウェットリースでクウェート航空便として運航していた時期もある。

現在は各国の貨物エアラインに依存している状態だが、唯一のB747-400Mも同国の物流を支える機材だった。

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1-1-5A-Kuwait_Airways_B747-400M,_Final_approach_to_9L_Heathrow_(15921161393).jpg ←(3枚)激レア機種だったB747-400Mは1機だけ保有していた(ウィキペディア英語版より)

昨年秋には世界で最初の「A330-800neo」が2機納入され、順次A330-200と交替する他、近距離線の主力A320も「neo」への交替が開始されている。

B777-300ERの納入に合わせ、機体の塗装を変更したが、更新が現在も進んでいるため、従来機の新塗装化は進んでいない。

今のところB777-300ER、A320neo、A330-800neoが新塗装だが、A320/330-200は旧塗装のままだ。

1-1-5A KUWAIT A330NEO.jpg ←2020年10月に受領したA330-800neo(©AIRBUS)

サービスではB777-300ERとA330-200は、ファーストクラスを含む3クラス制。

同社はアラブ航空機構には加盟しているが、グローバルアライアンスには加盟しておらず、マイレージプログラムは独自の物だけだ。

ターキッシュ・エアラインズやエティハド航空などとコードシェア運航は行っているが、世界的なネットワークサービスはない。

フルサービスキャリアなのでミールサービスは無料だが、イスラム教国家であるためアルコールサービスはない。

近年中東のエアラインは「お金持ち」と言うイメージが強く、今や「アラブ」「イスラム」と言うイメージは薄れつつある。

同時に日本ではよく知られていなかった地域が身近になり、観光業も盛んだ。

今や世界中の「セレブ」が集まると言われるUAEドバイなど、30年前までは殆ど注目される事のない「アラブの小国」に過ぎなかったが、今では全く様子が違う。

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1-1-5A KUWAIT_A330-243_(9K-APA)_coming_in_from_Geneva.jpg ←(2枚)中距離幹線の主力A330-200(ウィキペディア英語版より)

地域的にはクウェートも同じ条件が揃っているはずだが、地味な印象は否めない。

最も石油産業で充分賄っているからか、観光業には積極的でなく、同国を訪れる外国人の殆どはビジネスだと言う。

故にクウェート航空も、規模やサービスと言う点でどうしてもエミレイツ航空やエティハド航空、カタール航空と比較されて「二線級」エアラインになってしまっている。

同社は機材更新と共に、サービスの向上にもようやく力を入れ始めた時期に差し掛かったと言える。

昨年受領したA330-800neoの他、A350-900も発注しており、将来的にはエアバス機で統一することになるようだ。

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1-1-5A KUWAIT_A320-251N_(49569943488).jpg ←(2枚)近距離線の主力機A320-200と新塗装で導入が始まったA320neo(ウィキペディア英語版より)

興味深い所では、クウェート政府の保有機がある。

同国は君主国家なので、政府専用機=王室専用機と言う一面を持つ。

通常政府専用機は数機であることが多く、国によっては空軍がVIP輸送を担当するが、クウェート政府専用機は何と6機もある。

A320、A310、A319がそれぞれ1機ずつ、A340-500が2機、そしてB748-8I(BBJ)も1機保有している。

現クウェート王家は、2つの分家から構成されていて、歴代首長は交替で出す事になっていたが、王族が多いと言ってもこれだけVIP機を持つ国は珍しい。

もちろん国民救済の救援などにも使われる為の機体だが、この他にも小型ビジネスジェットやヘリも保有しており、これだけで一つのエアラインが出来てしまうほどの充実ぶりだ。

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1-1-5A KUWAIT-State_of_Kuwait_Airbus_A310-300_Verkuringen.jpg ←(2枚)クウェート航空と同じ塗装ながら政府専用機のA300C4-600とA310-300。A310は現役(ウィキペディア英語版より)

湾岸戦争では一躍有名になったクウェートだが、あれから30年。

日本では殆ど忘れ去られ、話題に上ることも少ない。

増して観光国でもないから、いっそう地味な印象が強いのも事実。

そういう意味では一度行ってみたい気もするが、確かに魅力と言う点だと・・・。

だが東日本大震災の時には、湾岸戦争時の支援の「お返し」として、福島などに数百億円規模の支援をクウェートが行っており、地元では現在も同国と民間レベルでの交流が続けられていることも付け加えておこう。

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1-1-5A-Jazeera_Airways,_A320-214.jpg ←(2枚)クウェート初のLCC、ジャジーラ航空のA320。同国にはクウェート航空とジャジーラ航空の2社だけ(ウィキペディア英語版より)

中学生の時に、外国のラジオ放送を聞く「BCL」と言う趣味に没頭した事がある。

主に短波ラジオ放送を聴き、「受信報告書」と言うレポートを書いて放送局に送ると、「ベリカード」と言う証明書を返送してくれる。

レポートの書式は自由だが、聴いた場所(すなわち自宅)で、音声の強さや雑音の状況などを報告することで、放送局には大事なデータになった。

もちろんでたらめを書いてもダメで、受信した時間は日本時間もしくはグリニッジ標準時を明記し、番組名と簡潔で良いから内容も書かなければ証明してもらえない。

ベリカードは絵葉書みたいに綺麗な物が多く、タイプで打つ場合もあれば、担当者の直筆サインの事もある。

何度か贈ると「常連」扱いになって、本当の絵葉書や放送局発行の小冊子、切手などを「サービス」してくれる事も多く、年末になると国際小包でカレンダーを頂いた事もある。

当時各国では「日本語放送」があり、報告書は日本語で良かった。

1-1-5A-Kwait_inter_national.jpg ←クウェート国際空港(ウィキペディア英語版より)

ある日の深夜、いつものようにラジオにかじりついてダイヤルを回していると、突然「フナール、クウェイトー(こちらはクウェートです)」と言う言葉が聞こえて来た。

辛うじて「クウェイト-」がクウェートであることが分かり、狂喜乱舞したが、続いたのはアラビア語で当然一つも分からない。

最も英語ですら学校の英語力しかないから、例え英語番組だったとしてもレポートなど書ける訳もなかった。

その後同じ周波数を探してみたが、「フナール、クウェイトー」は二度と聴くことはなかった。

恐らくたまたま電波状況のせいで、私のラジオがその電波を一瞬捕まえたのだろう。

クウェートと言う国は知っていたが、まさかアラビア半島から聴こえて来るとは予想できず、興奮はなかなか覚めなかった記憶がある。

クウェートにも日本まで聴こえるラジオがあるんだ・・と些か失礼な感動を覚えたが、今ほど情報がない時代だから、どんな国かさえ想像つかなかった。

80年ごろの事だから、もう40年も前の話である。






飛行機ネタ 蜃気楼はまだ消えず、ミラージュ2000近代化(1月13日 晴れ時々曇り 7℃)

久し振りに厳しい寒さから解放された気分。

昨日の仙台は、朝雪が降って8センチの積雪。

市内では渋滞が発生したが、今日は一気に雪解けが進んだ。

最も乾ききるまではいかず、午前中は路面凍結が各所で見られたようだ。

正月の雪がまだ残っている中での積雪に、少々げんなりしてしまうが、青空が出れば少しは気が休まるというもの。

長期予報によれば、しばらくは強い寒気の南下はない見込みで、気温も平年並みで推移すると言う。

しかし記録的な大雪に見舞われた日本海側では、気温の上昇で大変らしい。

メートル単位で積もった地域は、雪解けによる落雪や「水」が道路に溢れ出る事もあるらしい。

また普段積雪の少ない地域では、今日も暖房による電力需要が増えていると言う。

コロナ禍による地域限定の緊急事態宣言、そして寒波と大雪。

全くこの国はいつになったら、安堵の空気に包まれるのだろう。

前回も書いたが、冬に「電力不足」とはこれまで聞いた事がない。

SNSなどを見ると「暖房に加湿器、テレビにパソコン、そしてお湯を沸かしたらブレーカーが落ちた」と言う書き込みが見られた。

私には「どれだけ電気だらけの生活を送る人たちなのだろう?」と、首をかしげてしまう。

しかも「30Aだから足りない・・」って、まさに「どんだけ~?」である。

確かに貧乏人の私は、家電製品は非常に少ない。

恒常的に使うのは照明とテレビ、冷蔵庫ぐらい。

食事の時に電子レンジを使う事はあるが、調理はガス。お湯を沸かす時もガスで済ませてしまう。

エアコンは夏以外使ったことはないし、暖房も基本使わない。

良くも悪くも我が家は古い鉄筋コンクリート造りなので、室温が10℃以下に下がることがない。

さすがに今回の寒波ではかなり寒かったが、それでも12℃前後を維持。

寒いには違いないが、服装で何とか乗り切れる。

寒がりの母がいた時は電気ヒーターを使っていたが、今は私一人我慢できている。

なので電気代は至極安く済んでいるし、30Aのブレーカーが落ちた事は一度もない。

ただし冷房を使う真夏だと、電子レンジやオーブントースターを使う時にエアコンを止めるようにしているが、多分ブレーカーは落ちないだろう。

近年は夏が暑く、そのたびに「電力ひっ迫」なんて聞くけれど、冬に聞くのは初めて。

コロナのせいで家に籠る人が増えたせいもあるだろうけど、電気代を考えたら何か一つだけでも我慢できないのかなあ・・と思う。


今夜は冷え込みもない様だ。

寒いには違いないけれど、先日の事を考えればまだ良い方だ。

首都圏の他、関西や東海でも「緊急事態宣言」が決まり、行政や医療団体は慌てふためいている。

宮城も連日数十人単位で感染者が出ているが、幸いに重症者は少なく、県知事・市長とも経済に打撃が出るような要請は行う予定はないと言う。

最も今後の状況次第と言う事であろうが、政府は今後陽性者が入院を拒否したり、濃厚接触者がPCR検査を拒否した場合、罰則規定を設ける検討をしていると言う。

これはおかしい。

賛成する向きも多いだろうが、「強制」「強要」であり憲法違反になる可能性があるだけでなく、強制によって仕事や生活が崩壊しそうンあった場合、国が全面的に保証するとは言っていない。

言いたいことは分からなくもないが、政府・自治体、そして専門家や医療団体は狂い始めているのではないか。

今こそ国民自身が冷静になって、彼らの方針が正しいかどうか判断し、動かさねばならないと思う。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

寒さは一段落したようですが、冬はまだまだ続きます。

どうか体調管理に気をつけて、暖かくして過ごして下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



世の中の 常の道徳(ことわり) かくさまに なり来にけらしす ゑし種子から(万葉集巻十五 3761 中臣朝臣宅守)



飛行機ネタ。

前回に続いて「ミリタリー」ネタです。

11日フランス空軍はHPの最新記事として、このほど同軍が保有する戦闘攻撃機「ミラージュ2000D」の能力向上型の改修機が完成したと報じた。

これは兼ねてから計画されていた19~25年までの、中期装備計画の一つとして進められていたものの一つ。

今後同軍が装備するミラージュ2000D55機を順次更新し、少なくとも2030年代まで運用を続ける。

主な改修点は、機体構造の延命工事の他、電子装備の大幅刷新。

特に電子装備関係では、フランス軍が導入中の次世代型ミサイルなど最新の兵器を運用できるように改良されている。

兵装を担当する後部席の計器はこの時代らしく、ウィンドウズのOSを用いたタブレット端末のような大型パネルが装備され、もちろんタッチセンサーでの操作が可能である。

このほどその改修1号機が完成、今後1年程度の各種テスト運用を行い、その間にも他の機体の改修作業を続ける。

来年初頭には、正式に部隊に配備して運用を開始する見込みだが、テストの結果によっては年内に前倒しする可能性もあると言う。

1-1-3A MIRAGE2000D-Coalition_refueling_training_enhances_interoperability,_partnerships.jpg ←近代化工事が開始され、30年代まで現役に留まる事が決定したフランス空軍のミラージュ2000D(アメリカ空軍提供)

「ミラージュ2000」は、70年代にフランスの老舗大手航空機メーカー「ダッソー・アヴィアシオン(AMD)」が開発したマッハ2級戦闘機。

原形機は78年に初飛行し、80年代半ばから部隊に配備されている。

元々はそれまでの主力戦闘機だった「ミラージュⅢ」「ミラージュF.1」の後継機として、純粋な戦闘機として開発された。

だが冷戦終結による世界情勢の変化で、フランスも軍事費の見直しが迫られ、同機をベースとした派生型を作ることで装備の統一化を図る事になった。

その為当初は迎撃・要撃機だったが、派生型の出現で「マルチロール(多目的機)」としての才覚を表す事になった。

1-1-3A-Mirage_2000C_in-flight_2_(cropped).jpg ←最初の生産型となった制空戦闘機のミラージュ2000C(ウィキペディア英語版より)

フランスは、第二次大戦後から外交・軍事に関しては独自のスタンスを取り続けている。

第二次大戦中、フランスはナチス・ドイツに「電撃戦」で侵略され、首都パリを「無防備都市」宣言することで占領された。

同時に政府はイギリスに「亡命」し、占領地から逃れた兵士が戦ったが、終戦と同時に亡命政府は連合国の「一員」だったとして「戦勝国」の権利を得た。

戦後ドイツは東西に分裂して、米英とソ連が対立する「冷戦時代」に突入した訳だが、フランスは米英と同盟関係にありながらも、軍事的には独自の道を歩んだ。

冷戦時代の軍事同盟である「NATO」には、オブザーバーとして参加はしたもののフランス軍を「NATO軍」とすることには強く反発していた。

それは米英からの批難を受けることになるのだが、それでも主旨を変えることはなく、50年代初頭には米英ソと並んで独自で核開発・実験を行い、国際法上認められた「核保有国」になった。

冷戦下では「中立」的な立場でもあり、兵器の大半を自前で開発・生産して来た。

1-1-3A_Mirage_IIIC,_France_-_Air_Force_AN0695826.jpg ←60年代の主力機だったフランス初のマッハ2級デルタ翼戦闘機「ミラージュⅢ」(ウィキペディア英語版より)

それらは同時に、途上国を中心とした外国に外貨取得の手段として積極的に輸出もした。

特に米英と対立し、どちらかと言えばソ連寄りだった国にさえ堂々と売る始末で、時にはフランス製兵器「同士」で戦争になったこともしばしばである。

故に「黒い商人」と言う、ありがたくない異名で呼ばれることもあるが、現在も多くの兵器が重要な輸出品目になっている。

当然航空機もその対象であるが、旅客機は60年代に独自開発を諦め、ヨーロッパ域内での国際共同事業に転換した。

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1-1-3A_Mirage_2000D_627_-_30-JO(30963720523).jpg ←(2枚)フランス空軍のミラージュ2000D(ウィキペディア英語版より)

しかし軍需産業は現在も国家戦略の一つであり、航空機だけでなく陸上兵器や艦船なども輸出が多い。

軍用機に関しては、大戦前に設立された「ダッソー」が主要メーカーの一つで、50年代にはフランス初のジェット戦闘機「ウラーガン」「ミステール」など次々と開発し、60年代初頭には初のマッハ2級戦闘機「ミラージュⅢ」を成功させた。

同機はアメリカのF-104やソ連のMiG21、イギリスのライトニングなどと同世代の単座戦闘機で、唯一「無尾翼デルタ」の形状を持つ機体だった。

コンパクトかつ安価であったため、電子装備や武器搭載力では米英機に一歩及ばない部分もあったが、シンプルな分維持しやすく、故障も少ないことから途上国空軍の発展にも大きく貢献した。

70年代になると「ミラージュⅢ」の後継機種として、「ミラージュF.1」を開発したが、こちらは後退翼と水平尾翼を持つ通常の形状を持つ戦闘機だった。

1-1-3A-MirageF1CR-647.jpg ←改修を重ねて近年まで現役にあったミラージュF.1CR(ウィキペディア英語版より)

そして3代目となる「ミラージュ2000」は、再び無尾翼デルタ機として復活したのである。

無尾翼デルタ機は、飛行機が登場したころから「理論上」確立されていた。

子供の頃誰でも一度は作ったことがあるだろう紙飛行機は、その典型である。

技術的には第二次大戦中に、ナチス・ドイツが事実上無尾翼デルタ機を完成させていた。

デルタ翼は最も空気抵抗が少ない形状で、高速には最適の形状である。

ただしそれはまっすぐ飛ぶ上での利点であって、旋回や速度が低下する離着陸時には「無尾翼」だと極めて不安定になる欠点は解消できなかった。

デルタ翼では、後縁に「エレボン」と呼ばれる動翼があり、それがフラップとエルロンの役割を果たすのだが、空力的にエレボンの一部で旋回すると揚力が低下し速度も一気に落ちる性質を持っていた。

また着陸時にはエレボンがフラップの役目を果たすので、機首上げしながら速度を落とすと言う着陸ができず、着陸速度が異常に高くなる性質も合わせ持っていた。

1-1-3A_Mirage_2000D_(43528972471).jpg ←特徴的な外観を持つミラージュ2000D(ウィキペディア英語版より)

「ミラージュⅢ」が登場した時代は、まだミサイルも未発達の時代で、いざ敵戦闘機と出会うと大戦中のような「空中戦」になることが多く、高速で旋回できる通常型に比べて欠点であった。

同機を始めて本格的な実戦に投入したイスラエル空軍も、当初は古いながらも小回りの効くアラブ連合軍のMiGに翻弄された。

腕の良いパイロットが多かったイスラエル空軍は、ミラージュの欠点を充分承知の上で「一撃離脱」戦法で戦った。

デルタ翼の利点を大いに生かした戦術と言えるが、エンジンの出力不足も同機の欠点の一つで、武器の搭載量も少なかった。

それを教訓に「ミラージュF.1」では通常型に戻したのだが、デジタル技術が大きく進化したことで、次世代機である「ミラージュ2000」は再びデルタ翼に戻したのである。

70年代に「フライ・バイ・ワイヤ」システムが実用化されたことで、デルタ翼の欠点である低速域での不安定性を逆手に取ったのである。

すなわち高速直進では極めて安定するデルタ翼を、物理的に「わざと」不安定になるような形状にさせる。

そのままでは直進さえもフラフラで、すぐ失速しそうな機体にして、その不安定さをコンピューターで補正しながら飛ぶのである。

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1-1-3A_Mirage_2000D COCKPIT.jpg ←(2枚)近代化改修される前のC型のコクピットと、D型の前席コクピット(ウィキペディア英語版より)

それはパイロットの手動による操縦よりも、常時遥かに細かく微調整することでどんな状態でも「安定」させるのである。

この技術はアメリカのF-16が実証しており、ミラージュ2000でもデルタ翼の利点を保持しつつ欠点をフライ・バイ・ワイヤで克服することに成功したのである。

デルタ翼は構造上も頑丈にできる他、生産工程を簡略化できるメリットがあり、機体価格の抑制に効果があった。

78年に初飛行した原形機は合計4機製造され、最初の2機は主にフライ・バイ・ワイヤシステムの評価、3・4号機は実戦機としての飛行性能を確認するテストに用いられた。

フライ・バイ・ワイヤシステムは概ね良好で、垂直尾翼など機体形状の一部に手を加えるだけで大丈夫な事も分かった。

1-1-3A_Mirage_2000,_France_-_Air_Force_AN1205303.jpg ←塗装が美しい試作2号機。機首にはまだレーダーが装備されていない(ウィキペディア英語版より)

しかし問題は山積みであった。

同機はいわば「制空戦闘機」として開発されたが、将来的な発展性を持たせるために新世代には必要不可欠なレーダーが求められた。

同機の開発スタート以前から、新しいマルチモードレーダーの開発が進んでいたが、空軍が要求した性能がどうしても満たせなかった。

また「ミラージュⅢ」に搭載されていた「スネクマ・アター8」エンジン、「ミラージュF.1」に搭載された「アター9」ターボジェットエンジンが、故障の少ない優秀なエンジンではあったが、小型で出力が低いのが欠点だったため、「ミラージュ2000」ではフランス戦闘機として初めてターボファンジェットエンジン「M53」を予定していた。

しかし時代は初期のターボファンが登場する頃で、自前での経験がないフランスでは耐久性などの点で予定の性能が出せない状態であった。

だが同機をフランス空軍の次期主力機とするほか、海外セールスで成功を収めていた前2作の後継機として目論みがあったことから、とりあえずある意味「未完成」のレーダー「RDM」とM53エンジンを採用して正式に採用、生産のゴーサインを出した。

80年の時点で、エジプト・インド・ペルーなどから既に多くの注文を得ていたのである。

1-1-3A MIRAGE2000_M53-P2_(cropped).JPG ←ミラージュ2000専用のスネクマ・M53ターボファンエンジン。画像は現行型で改良型のP2。もちろんアフターバーナーつき(ウィキペディア英語版より)

最初のタイプは単座の制空戦闘機「2000C」と命名され、83年に最初の機体がフランス空軍に引き渡された。

更に機首転換訓練用として。複座型の「B」型も生産が同時進行した。

「C」はフランス語の「Chasse」(狩猟)を意味する頭文字。

米英だと最初のタイプから順にA、B、Cや1・2・3と型式名をつけるが、そこも独自のフランス流が通されている。

複座型の「B」は、単純に複座を表す「Biplace」から。

生産が開始されたことで、4機のプロトタイプは便宜上「2000A」に変更されたが、これは非公式で正式には「2000‐01~04」である。

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1-1-3A Mirage_2000B_-_RIAT_2010_(13721091254).jpg ←(2枚)転換訓練用複座型のミラージュ2000B。機関砲はついていないが、ミサイルの運用能力は残されている(ウィキペディア英語版より)

若干性能不足は否めなかったが、代わりに順次改修させることで生産は予定通り続行された。

当初「2000C」は、エアインテーク下側に「DEFA554」30ミリ機関砲2門パックを固定武装とし、下面には胴体中央部に大型増槽陽のセンターパイロンと主翼には武装及び小型増槽を吊るせるパイロンが左右2か所ずつついていた。

フランス空軍の基本的な形態は、中央パイロンに1,300Lの「ハイG」増槽、主翼パイロンの内側には中射程セミ・アクティブ式対空ミサイル「マトラ・シュペル530」、外側パイロンは短射程の赤外線ミサイル「マトラ・マジック2」を左右2発ずつ、合計4発。

なお「DEFA554」機関砲は3発リボルバー電気式で、1門辺り60発の弾丸を持つ。

1-1-3A MIRAGE2000C-Canon_DEFA_MG_1359.jpg ←固定武装のDEFA554 30ミリ機関砲連装パック(ウィキペディア英語版より)

目玉はアメリカの「AAM-7スパロー」に相当する「シュペル530」ミサイルだったが、ネックとなる「RDM」レーダーは旧式の「シラノレーダー」を改良したモノパルス式のレーダーである。

同レーダーはデジタル化され、探知モードや距離、ルックダウン能力は兼ね備えていたが、シュペル530ミサイルに対して、レーダー波の連続照射能力に欠けていた。

加えてシュペル530自体、射程を長くするため本体はスパローよりも大型になり、重量が増えたことから炸薬量は同じ程度、大型の分運動能力が劣る欠点があった。

1-1-3A-MATRA_530_(4892761750).jpg ←マトラ・シュペル530空対空ミサイル(ウィキペディア英語版より)

C型の部隊配備が始まった頃に、初めて派生型として開発されたのが複座型「B」をベースにした「2000N」である。

「N」は文字通り「Nucle'air」(核攻撃機)の略。

当時フランス空軍では、大型デルタ翼爆撃機「ミラージュⅣ」を核攻撃専用機として運用していたが、老朽化していたことでミラージュ2000の改良型に白羽の矢がたった。

ミラージュ2000Nは、中央パイロンに巡航戦術核ミサイル「ASMP」を1発搭載し、主翼の内側パイロンには1,700Lもしくは2,000Lの増槽を、外側には自衛用の「マジック2」ミサイルを積載する。

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1-1-3A ASMP-4 SG1059332.JPG ←(2枚)核攻撃型のミラージュ2000Nと巡航核ミサイルASMP-4のレプリカ(ウィキペディア英語版より)

攻撃機なので、機関砲は搭載していない。

後部席には核攻撃選任士官が搭乗し、専用の航法電子機器を扱う。

なお「N」型の後期生産型では、ASMP核ミサイルだけでなく、通常誘導爆弾なども運用できるよう改修され、後席の操作装置も変更されている。

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1-1-3A-Mirage_2000N_-_RIAT_2015_(24025344135).jpg ←(2枚)核攻撃型のN型は、ラファールにその任務を渡して退役した(ウィキペディア英語版より)

そしてこの「N」を更にベースにして、通常兵器による長距離侵攻攻撃機として91年に搭乗したのが「D」型である。

「D」は「Diversifie」(多様、多目的)の頭文字。

レーダーはN型で実用化されたものと同系列の「アンテロープⅤ」で、完全な地形追従モードを備え、夜間・悪天候での超低空飛行が可能である。

更に国産の「ダモクル」、アメリカ製の「ライトニング」レーザー照射ポッドが胴体下に新設されたパイロンに常時装備され、誘導兵器を運用できる。

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1-1-3A MIRAGE2000D 625-3-XG_(26827307565).jpg ←(2枚)長距離侵攻を目的とするN型とD型はグリーン&グレー迷彩で、下面まで迷彩塗装。外観では殆ど識別できないが、機首のレドームが黒くなっているのが(上)2000N、迷彩になっているのが(下)2000D(ウィキペディア英語版より)

「C」ではパイロンが合計5か所だったが、構造を強化しエンジンの出力を若干上げたことで胴体前後、片側に2か所合計4か所のパイロンが増えて、9か所になった。

当然N型と違って核兵器運用能力は省略されているが、パイロットは暗視ゴーグルを使う事が出来、コクピットを覆うキャノピー(風防ガラス)には、敵レーダー波の反射を避ける薄い金のフィルムが張り付けてある。

一方N型とD型が実用化されたことで、それまで暫定的だったC型が、90年代後半からアップグレードが開始された。

これは性能不足だった「RDM」レーダーから、要求を満たせる(RDI)が完成し、既存の機体に順次交換された。

同レーダーは前作で能力不足が指摘された目標追跡・識別能力や探知距離が飛躍的に向上したレーダーで、コクピットの計器盤も火器管制装置などを統合する液晶モニターを有するグラスコクピットに変更され、フランス空軍では「ミラージュ2000-5」と言う名称を与えている。

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1-1-3A MIRAGE2000D 657-3-JM_(26827307085).jpg ←(2枚)低空侵攻を得意とするミラージュ2000Dは、米軍との共同演習の常連で、何度も防空網をかいくぐって勝利を収めている(ウィキペディア英語版より)

エンジンもN・D型に搭載した改良型の「M53-P2」エンジンに変更し、武装を取り付けるパイロンが9か所に増設された。

90年代後半には輸出向けとして多機能モードを持つ「RDY」レーダーが開発されたが、当初フランス空軍では導入予定がなかったものの、「ミラージュ2000-5」の一部に換装することで「ミラージュ2000-5F/MK.2(輸出モデル名)」と言うサブネームを追加した。

1-1-3A MIRAGE2000C-5 -88_115-KV_(8660322077).jpg ←フランス空軍のミラージュ2000-5F(ウィキペディア英語版より)

このタイプは「-5」の制空能力の他、地上攻撃などマルチロール性を持たせることが可能である。

フランス空軍では、老朽化した初期生産機を除き、これまで100機以上の「C」型のほぼ全機を「-5」仕様に変更したが「F/MK.2」への変更はあまり進んでいない。

これはミラージュ2000に代わる「4.5世代機」である「ラファール」との兼ね合いがあるためだが、ラファール自体の開発は大きく遅延しており、その配備状況を見つつ更新する・・と言う計画に留めているためだ。

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1-1-3A_Mirage_2000 5F 2019_(49324192688).jpg ←(2枚)フランス空軍のミラージュ2000-5F(ウィキペディア英語版より)

「ラファール」もダッソー社が開発した機体だが、現在も配備計画は大幅に遅れているのが現状である。

ヨーロッパで唯一固定翼機を搭載する空母を持つフランス海軍が、主力機だった「シュペル・エタンダール」の後継機として「ラファール」を選んでいた。

選んでいたと言うよりも、国産機を主旨とするフランスでは選択の余地がないとも言えるのだが、「シュペル・エタンダール」は70年代の古い戦闘攻撃機で、老朽化が進んでいた。

このことから「ラファール」は、海軍型となる「M」型の開発が先行した。

それでも予定よりかなり遅れて、「シュペル・エタンダール」が退役したのはほんの数年前の事である。

更に機体価格の高騰や世界情勢の変化で、輸出向けが優先されるなど、フランス空軍がワリを食った形になっており、空軍型ラファールの配備はゆっくりの状態にある。

しかも空軍が優先したのは単座で制空戦闘機型の「ラファールC」ではなく、攻撃機型の「D」型で、とりあえず「ミラージュ2000N」と核攻撃任務を交替した。

1-1-3A-Dassault-Rafale.jpg ←ミラージュ2000の後継機ラファール。複座型は核攻撃任務も持つ(ウィキペディア英語版より)

計画では10年代にはフランス空軍・海軍とも、全て「ラファール」で統一される予定だったが、今のところこの計画は棚上げ状態にある。

ミラージュ2000自体は、00年代後半に既に生産を終了しているが、軍事費削減でラファールの調達数も減らされなお流動的であることから、「ミラージュ2000」の延命及び更新計画が実施されることになった。

現時点でフランス空軍の戦闘機・攻撃機は約220機保有しているが、ラファールとミラージュ2000は拮抗状態にある。

ラファールは単座型のC型と複座型であるB及びD型が102機配備されているが、ミラージュ2000は115機と僅かながら多い。

このうち単座型である「ミラージュ2000C-5F」が28機、未改修の「C」が12機、複座練習機型の「B」型が7機。

そして「D」型が68機と最大勢力を誇っているが、今回の改修・更新計画ではまず55機の改修が決定されている。

残る13機については、「ラファールB」の配備状況を鑑みてと言う事になるようだが、何機かは機齢の点で退役するものと思われる。

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1-1-3A_Mirage_2000RAD UAE_jets_(modified).jpg ←(3枚)台湾空軍のミラージュ2000-5Ei、カタール空軍のミラージュ2000EDA、UAEアブダビ空軍のミラージュ2000-9(ウィキペディア英語版より)

ミラージュ2000は、ギリシア・ペルー・ブラジル・エジプト・インドが最初から発注して導入したが、90年代になってカタール・UAE・台湾が新たに導入した。

このうちペルー・ブラジル・エジプトは初期生産機だけで、「2000-5/MK.2」への改修をダッソー社が売り込んだが、国防予算の関係やF-16、JAS39グリペンなどに変更することで更新されず退役している。

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1-1-3A-_Mirage_2000_F-2000C Orange_Air_Base_ope_(2937788939).jpg ←(2枚)ペルー空軍とブラジル空軍のミラージュ2000C。ブラジル空軍は「F-2000」と言う独自の呼称も持つ(ウィキペディア英語版より)

一方ギリシアとインドのC型は、10年代以降順次「MK.2」仕様に改修が決定され、現役にある。

ただしギリシア空軍はF-16の増備の他、ラファールの導入も予定している。

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1-1-3A Mirage_2000D_(26432497375).jpg ←(2枚)C型とD型の機首部分。折れ曲がった棒は空中給油装置(ウィキペディア英語版より)


後期に導入した3カ国は最初から(MK.2)仕様で導入しており、UAEの同機は精密攻撃制度を向上させアメリカ製の機器を搭載した「2000-9」と言う名称で区別されている。

なお輸出モデル(MK.2)では、対艦ミサイル「AM39エグゾゼ」の運用能力を持たせている。

この他、対空ミサイルは「シュペル530」に代わって、同じ形ながら赤外線方式と「打ちっぱなし」が可能のアクティブ式がある「MICA」ミサイルが主要武器となり、「5F」「D」に搭載する。

UAEやカタールなどは、電子機器の一部がアメリカ製であることから「AIM-120AMRAAM」ミサイルの搭載が可能だ。

1-1-3A MIRAGE2000C-MICA_P1220883.jpg ←新型のMICA空対空ミサイル(ウィキペディア英語版より)

今後「D」型は、「スカルプ」などの無動力誘導滑空爆弾やスマート爆弾などの精密誘導兵器と自衛用の「MICA EM」ミサイルが標準へ移送となるほか、各種電子ポッドを搭載して電子偵察などの任務も帯びることになる。

ミラージュ2000は約600機が生産され、単一機種としては悪くない数と言えるが、前代の「ミラージュⅢ」「ミラージュF.1」と比べると半分以下であった。

採用国数でも、数十カ国が導入し、一部の国ではまだ現役にある2機種だが、それよりずっと新しいミラージュ2000は先細り状態にある。

機体規模としてはF-16がライバルと言えるが、当初「軽戦闘機」として開発された同機が、どんどん進化して30カ国以上が採用。

現在も生産中であることを見ると、勝負としては明らかに敗退である。

F-16は発展性を重要視していたことに加え、同じ単発機ながら高出力のターボファンエンジンを選んでいたことが大きい。

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1-1-3A MIRAGE2000EG.jpg ←(2枚)ギリシア空軍のミラージュ2000EG。「MK.2」仕様に近代化改修されている(ウィキペディア英語版より)

ミラージュはフランス機と言うよりも、「ヨーロッパ機」と言える思想で作られており「コンパクトで高性能」を目指した。

問題となった「M53」エンジンは、ターボジェットだった「アター8・9」を元に発達したエンジンであり、1軸と言う単純で故障の少ないエンジンに仕上がったが、同時に自身がコンパクト故にF-16の「GE F110」のような発展は望めなかった。

現在改修された「P2」ではかなり性能はアップしたと言えるが、F110シリーズやF404と言ったアメリカ製には一歩及んでいない。

それでもまだ現役にあるのは、ある意味奇跡と言って良いかかも知れない。

なお複座型では「B」型は各国に輸出されているが、「D」型はフランス空軍のみの保有・運用である。

1-1-3A_Mirage_2000TH_Indian_Air_Force_(8414614218).jpg ←インド空軍のミラージュ2000TH。同軍のミラージュはパキスタンとの紛争などで実戦経験が豊富(ウィキペディア英語版より)

以前フランス空軍が宣伝としてアップしている、ネット動画を見たことがある。

恐らくはアフリカに展開した部隊の訓練風景なのだが、どこまでも続く砂漠や海岸線上空僅か20メートルぐらいの超低空をぶっ飛ぶミラージュ2000。

昼間なので操縦はマニュアルであると思われるが、撮影機があると言う事は「編隊飛行」していると言う事。

空気抵抗の強い「ほぼ地上」をまっすぐ飛ぶと言うのは、非常に危険でかつ高度なテクニックとパイロットの高い技量が要求される。

更に数十メートルの岩場では、それらを掠めたり間をバンクさせて通り抜けるなど、見ているだけで息が切れてしまいそう。

1-1-3A-Mirage_2000D_-_RIAT_2007_(2351978748).jpg

1-1-3A-MIRAGE2000D_spa_102.JPG ←フランス空軍だけが保有するミラージュ2000D(ウィキペディア英語版より)

下手なSF映画より、はるかに面白い。

それだけフランス空軍のパイロットが優秀だけと言う事ではなく、機体も優秀と言う事だ。

しかも低速域では不安定なデルタ翼である。

フライ・バイ・ワイヤの効果が実によくわかると言う動画で、一見の価値あり。

後継機のラファールは、主翼はデルタ翼の先端を切り落とした形で、カナード翼を持つ。

フランス伝統の「純デルタ翼」は、ステルス機を始めとする「現代っ子」に追いやられてしまうかと思ったが、まだまだ頑張るのはファンとして嬉しい。

「ミラージュ」とは、フランス語で「蜃気楼」と言う意味だが、なるほど消えそうで消えない・・と言う意味で、同機に最も相応しい名前と言えるだろう。

飛行機ネタ ありがとう、F-4ファントム引退(1月10日 曇り時々晴れ 2℃)

3連休中日。

雪こそ降らないが、厳しい寒さが続く。

昨日仙台の最低気温は-7.6℃を観測し、平年を大きく下回った。

今朝も-6.3℃と、ちょっと考えられない寒さだ。

この時期我が家のトイレの窓が凍ることはあるのだが、昨日今日は真っ白に凍っていた。

結露が凍ったので、日中になるまで開けることも出来ない程。

日本海側では「災害級」の大雪が続き、北陸では再び道路での立ち往生が相次いだ。

冬は寒くて当然なのだけれど、少し過剰に思える。

しかも今は1月初旬で、「真冬」はこれからだ。

予報では、今回の寒気は間もなく峠を越えて、しばらく平年並みになると言うが、それ以降どうなるかは分からない。

北陸では数日の間に、一気に2メートルも雪が積もった所もあるそうで、生活に大きな支障が出ていると言う。

でもこうした大雪は過去にもあったはずで、どうして混乱するのだろうと思う。

全くの「初めて」であれば仕方ないけれど、そうでないのに世間が混乱する。

よく首都圏で「積雪」し、大混乱と言うニュースを聞く事がある。

聞けば積雪はほんの2~3センチ。にもかかわらず交通がマヒし、大騒ぎすることに、地方の我々は正直笑ってしまう。

台風と同じで、雪の予測はある程度できるはずなのに、どうして混乱するのか理解に苦しんだ事もある。

以前夜行高速バスで近機へ向かった時、ちょうど深夜に通過する首都圏で足止めを喰らった事がある。

その前日から大雪の予報が出されていて、私は大幅な遅延は覚悟していた。

最も恐れていたのはバスが「運休」してしまう事だったが、幸い予定通り出発した。

雪を降らせる低気圧はいわゆる「南岸低気圧」で、仙台では雪が降り始めの状態だった。

東北道を南下すると、徐々に雪が積もって来て、休憩場所である栃木県のサービスエリアではシャーベット状だった。

それでも速度規制だけで、渋滞や通行止めはなかったのだが、深夜首都高に入った途端「立ち往生」してしまった。

しかも長い「代々木トンネル」の真ん中で、前後は深夜にもかかわらず車がびっしり。

まだスマホが普及していない時代だったから、状況は良く分からない。

後から運転手さんに聞くと、事故や本当の立ち往生ではなく、除雪と融雪剤散布の為に先が通行止めにされたのだと言う。

結果約5時間もトンネルの中で動かず、排気ガスで息苦しくなった頃ようやく動いたのである。

今の状況に比べればなんてことはない、笑える思い出だけれど、いつでもそういう事が起こりうるのを知っていて、なぜ繰り返してしまうのだろう。

最近では台風の時も事前に警報を出したり、交通機関が「計画運休」するようになったが、それでも混乱するのはおかしい。

だいたい高速道路など、積雪すれば事故や立ち往生は必須であり、予め除雪作業を行うとかそれこそ「計画規制」しても良いのではないか。

散々積もって身動き取れなくなってから除雪作業した所で、無意味なことは子供でも分かりそうなもの。

いつまで経っても「その場凌ぎ」では、この国に未来はないと言う事になってしまう。

厳しい寒さに「電力不足」が指摘されている。

猛暑の夏にはたまに聞くけれど、冬は初めて聞いた。

これは西日本や九州の事で、大雪・厳寒で電力需要が集中し、供給量の9割を超える時間が出始めていると言う。

電力会社では、他社から余力分を分けてもらったり、停止中の発電所を再起動するなどしている。

厳しい寒さは分かるけれど・・と一瞬首を捻ったけれど、なるほど最近の暖房は「エアコン」が主流だからだ。

最も寒くて当たり前の地域では、石油ストーブやファンヒーターを使う家庭が多く、いくら寒くても「電力不足」にはならない。

あくまで憶測だけれど、冬が比較的暖かい西日本では暖房器具を用意していない家庭が多く、暖房=エアコンなのかも知れない。

最近は灯油の購入や扱いが面倒で、かつ火災の危険もあるから冷房も暖房もエアコンと言う事は増えただろう。

エアコンでなくとも、電気ヒーター・セラミックヒーターと言う場合もあるだろう。

マンションやアパートでは、火災の危険性の他匂いや煙の問題もあるとして、賃貸・分譲問わずストーブやファンヒーターが禁止されている場合もあると聞く。

我が家ではそうした条件はないが、やはり階段の上り下りや駐車場の関係から、電気暖房を使う人が多いようだ。

それでもこの地域で、暖房による電力不足は聞いたことがない。

西日本では、よほど驚くような寒さに感じたのだろう。

今や何でもかんでも電気の時代で、本当にそれで大丈夫なのか心配だ。

昨年政府は、環境保全のために計画を前倒しして自動車の「電化」を促進するとした。

メディアが勇み足で誤解を生じたようだが、現在数の増えた「ハイブリッド車」も「電気自動車」のカテゴリーに入るため、すべての車が電動になる訳ではない。加えて「これから多面的に検討する」のであって、後10~20年以内にガソリン車やディーゼル車が禁止される訳でもない。

私は日本の自動車事情を鑑みて、完全な「電気自動車」社会はほぼあり得ないと思っている。

某メーカーはやたら自社の電気自動車を宣伝しまくるが、そもそもバッテリー容量と持続性、そして「充電」のインフラが整備されない限り不可能である。

家庭用コンセントから充電できる「PHV」にしても、マンションやアパートの人は難しいし、フル充電まで何時間もかかるなんてまるで意味がない。

しかもリチウムイオンバッテリーは、今もなお性質上不安定さは解消されておらず、突然放電したり充電できなくなることもある。

現代は電力を万能と考えるフシが見られるが、そればかりを推進するといざと言う時「不足」する。

間もなく10年を迎える東日本大震災では、「福島第二」事故で深刻な電力不足を露呈したばかりだ。

一方で原発の危険性は解消されておらず、火力発電を増やせば「CO2」が増えて本末転倒。

まずは根本から考えないと、万能どころか「全く使えない」世界になってしまうのではないかと思う。



夜町に出ると、人出は少ない様に見えた。

コロナ禍の事もあろうが、寒い事も影響しているだろう。

市内ではコロナの中「成人式」が行われたそうだが、それらしい若者の姿は見れなかった。

だが近くの飲食店街辺りでは、大声で騒いでいる輩もいたようだ。

このご時世に度胸あるなあ、と思ったが、成人のお祝いで酔った人かどうかは分からない。

仙台市長は20~30代の感染者が多い事に、「できるだけ大人数での飲食は控えて」と訴える。

最もオッサン・オバハン、高齢者でもそういう人もいるので、若者だけ名指しするのはどうかと思うが。

成人式を抜きにしても、複数のグループ行動を取りたがるのは若い人が多いのも事実。

でもそれが一番楽しい世代であり、私にだって覚えがある。

コロナは本当に、いい加減にして!と言いたい。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

寒さは大丈夫ですか?

昨日今日は、本当に驚くような寒さでした。

君はこのぐらいは、まだ平気でしょうか?

それとも歳のせいもあって・・(笑)。

冬だから仕方ないですが、体調管理には特に注意して下さい。

コロナだけではなく、極端な冷え込みは様々な体調不良の原因になるので、暖かく過ごして下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



正月(むつき)たつ 春のはじめに かくしつつ 相し笑みてば 時じけめやも(万葉集巻十八 4137 大伴宿禰家持)










飛行機ネタ。

ご覧になった方もいると思うが、先日某テレビのバラエティ番組で航空自衛隊の「F-4」戦闘機を取り上げる場面があった。

「自衛隊オタク」で有名な、とある人気芸人がリポートする人気のコーナーの一つ。

当日は茨城県百里基地の301飛行隊を取材し、「退役間近」であるF-4戦闘機を取材した。

1週間前くらいから、しつこいほど番宣していたのでみた人も多かっただろうし、ファンには若干肩透かし的な印象もあっただろうか。

番宣では彼が同機に「体験搭乗」する場面が映し出されていたが、実際には確かに「体験搭乗」には違いないが、滑走路を急発進して急ブレーキをかけただけ。

戦闘機パイロット候補生が、初めて受ける訓練の一つを体験したのだった。

確かに戦闘機に乗る場合は、たとえ特別許可をもらった一般人・芸能人だったとしても、既定の訓練を受ける必要があるためだ。

取り上げられた「F-4」は、正式には「F-4EJ改ファントムⅡ」と言う。

1-1-2A_F-4EJ_Kai_301SQ (5).jpg  ←昨年12月で運用を離脱した306飛行隊のF-4EJ改ファントム(ウィキペディア英語版より)

原形はアメリカのマクドネル社が、50年代後半に開発した「艦上戦闘機」。

その後改良・発展が続けられ、80年代に生産が終了するまで実に5,000機以上が生産された。

F-4は元々アメリカ海軍の空母で運用する艦上戦闘機がコンセプトで、同海軍初の「マッハ2級」の戦闘機として開発された。

しかし当時の国防長官であったマクナマラが、増大する国防予算削減のため、空軍が予定していた新型戦闘機と「共通化」させる政策を進めたことから、開発は難航を極めた。

そもそも海軍機は空母と言う限定された場所で運用を行う事が多いため、コンパクトさが要求されるのに対し、広大な地上基地を使え、かつ長距離作戦が多い空軍とは、要求される性能は全く異にするものだった。

更に両軍とも、新型機には対空能力だけでなく、地上攻撃性能なども求めていたことから、実現不可能と見られていた。

幸いだったのは、エンジンの技術が向上して大出力が可能になったことや、電子機器の発達で「全天候性」が安定し始めた時代にさしかかっていたことだった。

54年にマクドネル社は「モックアップ」を完成させ、58年に「XF4H-1」として原形機が完成した。

同社は40~50年代に、海軍機の開発・生産を行っていたが、本格的な海軍用超音速機の開発は初めてであった。

1-1-2A_F4H-1_Phantom_II_prototype_on_5_June_1958.jpg ←58年に完成したXF4HA-1.まだ後部座席は設けられていない(ウィキペディア英語版より)

面白いことに、原形機は「単座型」でデビューした。

これは当時としては最新型のレーダーを、同機が搭載するかどうか海軍が答えを出せずにいたからで、一応複座型に出来るよう設計されていた。

同機にはマクドネル社が40年代に開発した艦上戦闘機「FD-1ファントム」にあやかって、「ファントムⅡ」の愛称が与えられた。

結果的に全天候性が優先されることで、高性能大型のレーダーが搭載されることになり、複座型に決定した。

更に空軍も渋々同機の採用を決め、まず海軍型として「F-4A」が61年に配備され、空軍は「F-110A」として導入した。

最もこれら初期型は「テストヘッド」的要素が強く、慣熟訓練を経て装備など一部が改良されて「F-4B」が空母航空軍に本格的に増備されることになった。

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1-1-2A_F-4B_Phantom_II_of_VF-111_in_flight,_in_1973.jpg ←(2枚)空母アメリカ搭載の101飛行隊「グリム・リーパーズ」と空母コーラル・シー搭載の111飛行隊「サン・ダウナーズ」所属のF-4B(アメリカ海軍提供)

空軍が本格的に装備を開始したのは、やや遅れて64年頃からで「F-4C」として実戦配備されている。

折りから激化していたベトナム戦争で、同機の生産と配備が急がれ、現地に送られた。

ファンには承知のことだが「F-4ファントム」には、大きく2つのタイプがある。

一つは上記の初期型に代表される「ショートノーズ」型。

ファントムが開発された50~60年代は、冷戦状態の米ソが競って宇宙開発に勤しんでいた。

この裏には大陸弾道弾を筆頭とする軍事開発が隠されていたのだが、アポロ計画を始めとしたロケット開発が盛んだった。

軍用機でもそれまでの機関銃や爆弾に代わり、ロケットエンジンを使った「ミサイル」が大幅に進化しつつあり、アナログ的な航空機用の機関銃・機関砲は「時代遅れ」と言う認識があった。

ファントムはその先鋒の一つとも言える新型機で、対空用の兵器はミサイルで充分とされた為、固定機関砲の搭載は見送られたのである。

ところが初陣となったベトナム戦争は、ちょうど同機の「実戦テスト場」になった。

1-1-2A F-4C-310th_Fighter_Squadron_Phantom_64-0777.jpg ←空軍のショートノーズ型であるF-4C(アメリカ空軍提供)

旧ソ連が支援する北ベトナム空軍は、既に旧式化しつつある古い「MiG17」戦闘機などで果敢に立ち向かって来た。

最新鋭のマッハ2級戦闘機「MiG21」も供与されていたが、これらソ連戦闘機のミサイルは信頼性が低いばかりか、せいぜい2発程度しか搭載できなかった。

一方ファントムは、主翼パイロンに短射程用の赤外線追尾式ミサイル「サイドワインダー」を左右2発ずつ、胴体下部に中射程用のセミアクティブ式ミサイル「スパロー」を4発、合計8発ものミサイルを搭載出来たことから、米軍は絶対的な自信があった。

しかしいざ実戦となると、これらのミサイルの信頼度の低さを露呈するようになる。

「サイドワインダー」は、目標の「熱源」すなわちエンジンの排気を探知して追尾・命中させるが、その探知角度が極めて狭く、かつ熱源センサーの信頼性は最低だった。

また開発されたばかりとあって故障も多く、発射できなかったり発射してもロケットモーターが故障したり、信管が不作動する場合も多かった。

「スパロー」に至ってはもっと酷く、機首のレーダーで敵影を発見し「ロックオン」すると、「スパロー」はそのレーダー波に「誘導」される仕組みだったが、初期型ファントムの火器管制レーダーは自動追尾できなかった。

すなわちレーダー操作を担当する後席の乗員が、目標に対してレーダーを「手動」で当て続ける作業が必要だったのだ。

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1-1-2A-F-4S_VMFA-251_at_MCAS_Cherry_Point_1985.JPEG ←(2枚)レーダーなど電子装備を一新してベトナム戦争の主力となったF-4Jと、J型の主翼に前縁スラットを追加した海兵隊のF-4S(ウィキペディア英語版より)

空中戦では旋回・降下・上昇を激しく繰り返すのが基本だから、その中でレーダー波をピンポイントで照射など出来るはずもない。

北ベトナム軍はすぐその弱点に気付き、当初ファントムが現れると低空を高速で逃げることしかできなかったが、逆に接近戦に持ち込むようになったのである。

武装力は小さいが、小型で小回りの効く「MiG」には、固定武装である機関砲が搭載されており、激しい空中戦に巻き込んでファントムの背後から機関砲弾を浴びせて来た。

更に「囮」を使ってファントムのミサイルを打ち尽くさせ、丸腰になった所で、別の機体が高い位置から攻撃を仕掛けて来るのだった。

こうした理由から、海軍・空軍・海兵隊のファントムは、胴体の下に「バルカン砲ポッド」を吊り下げるようになったが、その分増槽がつけられなくなり行動半径が小さくなるほか、射撃すると震動が大きく命中率も悪かった。

そこで空軍は「固定武装」の必要性を強く示し、機首下部に「M61 20ミリバルカン砲」を固定装備した改良型「E型」が68年にデビューしたのである。

M61は動力ユニットを含めると3メートル近い大きさがあるため、機首が延長された。同時にレーダーも高性能化・小型化されて、初期型に比べてスマートになった。

故に初期型の「ショートノーズ」に対して、E型系列を「ロングノーズ」と呼んで区別する。

だが海軍と海兵隊は、最後までこのロングノーズは採用しなかった。

1-1-2A_F-4E_Phantom_II,_USA_-_Air_Force_AN0833349.jpg ←「ヨーロピアン・ワン」迷彩塗装したアメリカ空軍のF-4E(ウィキペディア英語版より)

空軍へのライバル心やプライドとも言われるが、空母での運用はショートノーズ型でもギリギリの大きさであり、E型では搭載機数を減らしたり、空母自体の改修も必要となることが主な理由であった。

だが固定武装の威力は絶大であり、地上攻撃の爆弾や対地ミサイルを搭載して攻撃しても、丸腰にならずに済むようになった。

航空自衛隊は、60年代の主力戦闘機としてロッキードF-104Jスターファイターを運用していたが、老朽化していたF-86Fの後継機として66年から開始した次期戦闘機導入計画で「F-4E」を選択した。

最も戦闘機としてだけでなく、攻撃機としても使える「多目的性」が野党からの吊るし上げを食う事になる。

当時の日本は、現代以上に「専守防衛」を頑なに通しており、ファントムの性能が「優秀すぎ」て周辺国の「脅威」となる・・と言うものだった。

結果通常の「E型」ではなく、「要撃機」(防空)に特化したオリジナルモデルにすることで導入が決定した。

それは長距離侵攻出来ないように、空中給油装置を廃止。

核兵器用の操作機器、および爆撃コンピューターの削除などが盛り込まれていた。

更にF-104に続いて「ライセンス生産」による国産化も決定された。

1-1-2A-F-4EJ_306SQ (13653569345).jpg ←71年(昭和46年)から実戦配備された306飛行隊のF-4EJ(ウィキペディア英語版より)

日米間の取り決めにより、最初の2機はマクドネル・ダグラス製の輸入機、続いて11機は部品だけを輸入し、国内で組み立てるノックダウン生産(当初は12機分だった)、以後は完全な国産機としてのライセンス生産になった。

1・2号機は70年末に空輸で到着し、ノックダウン生産も直ちに開始。

71年に実戦配備された。

74年には写真偵察型である「RF-4E」も導入されたが、導入された15機は全てアメリカ製の輸入機である。

上記のように日本オリジナルモデルであったことから、従来の「E型」と区別するために「F-4EJ」と言う異質の形式名が正式に登録されている。

航空自衛隊では最終的に140機のF-4EJを導入し、最後の機体が生産されたのは86年の事である。

1-1-2A _RF-4E_501SQ 20090822-01.JPG ←全て輸入機だった501飛行隊のRF-4E(ウィキペディア英語版より)

ファントムはアメリカ3軍、自衛隊の他ドイツ(当時は西ドイツ)、イギリス、スペイン、ギリシア、トルコ、イラン、韓国、オーストラリア、イスラエル、エジプトと12カ国で採用された。

このうち「ショートノーズ」型はイギリス・スペイン・イラン・韓国が採用し、イランと韓国はロングノーズの「E型」も採用した。

イギリスは空軍と空母艦載機としてショートノーズ型を採用したが、エンジンは国産でターボファンエンジンである「ロールスロイス・スペイ」に換装し、海軍用のファントムFG.1(F-4K)は、カタパルト発進に備えて前脚が1メートル以上も延長できるように改造されている。

最終的に最も多く生産されたのはE型で、こちらも初期生産型と後期生産型に大別される。

後期生産型では主翼前縁に旅客機のような前縁スラットを追加し、空中での機動性を向上させた(EJ/EJ改は未装備)。

機首のバルカン砲は、初期型では発射口が短かったため排煙がインテークに侵入してフレームアウトするトラブルが多発したため、延長した発射口に変更されている。

電子装備も進化した他、米空軍や一部の国では左側主翼に筒上のTISEO(光学視認装置)を取り付けた機体もある。

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1-1-2A_F-4EJ_Kai_302SQ 2019_(48660624988).jpg ←(2枚)尾翼の「オジロワシ」で人気だった302飛行隊のF-4EJ改(ウィキペディア英語版より)

日本の「EJ」と同じく、国防上の理由から爆撃能力を省略したのが旧西ドイツ空軍の「F-4F」である。

ただしF型は地勢的な理由から、長距離要撃の必要がないことから「スパロー」の運用能力も省略し、機関砲と短射程の「サイドワインダー」だけが主要武器である。

その為当初は後席のレーダー手も必要ないとして「単座」のファントムを考えていたが、費用効果が薄いと言う理由で複座型のまま導入された。

他の国では通常の「E型」を輸入したが、イスラエルのように独自の空中給油装置を付加したり、電子装備を換装した例もある。

航空自衛隊は退役したF-86Fに代わり、全国6個飛行隊にファントムを配備し、冷戦下「最前線」の一つであった日本の空を主力機として守ることになった。

特に武装と言う点でのファントムは圧倒的であった。

F-86FもF-104もミサイルは「サイドワインダー」2発だけで、F-104はM61バルカン砲を持っていたが、F-86Fは12.7ミリ機関銃が固定武装だった。

速度もF-104Jはマッハ2級だったが、小型故に航続距離が短く「CAP」と呼ばれる空中哨戒が事実上困難だった。

F-86Fに至っては、最高速度がマッハにも届かない亜音速機で、レーダーもなかった(一時レーダー付きのF-86Dを運用したが、短期間で退役した)。

F-104Jは晩年こそ熟成された機体だったが、初期の武装はバルカン砲と無誘導式のロケット弾だけだった。

1-1-2A -F-4EJ_301SQ (13779944513).jpg ←ライトグレー塗装時代の301飛行隊のF-4EJ(ウィキペディア英語版より)

それがファントムでは、短距離用と中距離用の対空ミサイルを最大8発も搭載でき、バルカン砲もあるのだ。

ソ連やまだ国交を回復していなかった中国は、当然ながら同機を警戒し「地域が不安定になる」と批判した。

だが欠点がない訳でもなかった。

76年(昭和51年)に発生した「ベレンコ中尉事件」では、その欠点を露わにした。

極東防空軍所属で「MiG25」のパイロットだったベレンコ中尉は、訓練飛行を利用してアメリカへ政治亡命しようとした。

本来は青森県三沢基地の米軍に直接投降しようと思ったが、撃墜される可能性があったので、北海道千歳基地に強行着陸しようと試みた。

礼文島のレーダーは、彼のMiG25の動きを察知しており、異常な行動から千歳基地の302飛行隊のファントムにスクランブルを指令した。

飛び上がったファントムは、いったんベレンコ機の捕捉に成功したものの、直後に喪失してしまった。

対空ミサイル攻撃を避けるために、ベレンコ中尉は低空飛行に転じていたのである。

加えて千歳基地の方向も見失い、最終的に函館空港に強行着陸して、駆け付けた自衛隊や警察に亡命意志を伝えて投降した。

問題なのは「要撃機」であるはずのファントムが、MiG25を見失い,こともあろうに領空侵犯どころか上空に堂々と侵入させてしまった事であった。

これはファントムに装備されていた「APQ120」レーダーの、「ルックダウン」能力が不足していたのが原因だった。

ルックダウンとは自機より下方を捜索する能力だが、APQ120はグランドクラッター(地上反射)を取り除いて計算する能力がなかったのである。

このことは導入前から問題視されていたが、要撃機であることと地上レーダーとの連携で充分賄えると言う判断から放置されていたのだった。

幸いベレンコ中尉は亡命が目的であり、双方に被害は生じなかったものの、もしこれが日本本土を攻撃する目的の機体であったら・・・と、政府はもちろん、国民すべての背筋が凍るような事件であった。

当然同レーダーの問題を認識していながら対策を講じなかった自衛隊・防衛庁(当時)は、赤っ恥をかいた上に猛烈な批判を浴びることになるのである。

しかしこの時点で残存していたF-104Jに代わる新型機として、同じくマクドネル・ダグラス製の最新鋭戦闘機「F-15」の導入が決まっていたため、ファントムの欠点克服は手つかずのままであった。

だがF-15の導入計画が明らかになると、同機の充足まではしばしの時間が必要で、その間もファントムの要撃任務が続行することから、81年になってようやく改修計画と設計が開始され、84年に改修原形機が完成した。

これが現在まで繋がる改修型ファントムで、「F-4EJ改」となった。

最も重要な改修点であるレーダーは、F-16に搭載されていたマルチモードレーダー「APG-66」に変更した。

このレーダーはルックダウン能力を有しているだけでなく、探知距離は倍近くもあり、対地攻撃モードやマッピング機能と言った航法能力も有している。

加えてセントラルコンピューターを一新し、射撃用の光学照準器からあらゆるデータが映し出されるHUDに変更された。

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1-1-2A_F-4EJ_Kai_301SQ 2019_(48661461117).jpg ←(2枚)日本最後のファントムとなった301飛行隊のF-4EJ改(ウィキペディア英語版より)


同時に国際情勢の変化と防衛戦略の変更で、オリジナルのE型に比べて遥かに能力の高い地上攻撃兵器の運用が可能となったほか、シーレーン防衛用の国産対艦ミサイル「ASM-1」「ASM-2」の搭載も可能になった。

導入時は「専守防衛」に特化したモデルだったが、「F-4EJ改」ではマルチ能力が復活したと言うよりも、さらに能力が向上することになった。

この他胴体下部に各種の電子ポッドが搭載可能となり、誘導爆弾や対地ミサイル運用能力が格段に向上した。

コクピットのレイアウトも大幅に変更され、EJではアナログ計器だけだったのが、液晶ディスプレイを追加した「グラスコクピット」に改修された。

「F-4EJ改」は「スーパーファントム」とも呼ばれ、89年に小松基地所属の306飛行隊から再配備が開始された。

「改」への改修は、経年機を除いて100機近くが改修された。

また「EJ」から17機は、偵察機「RF-4EJ」に改造された。

「RF-4EJ」も日本オリジナルのモデルで、胴体下部中央のセンターパイロンに取り外し可能な「偵察ポッド」を装備出来るようにした機体だ。

従来の「RF-4E」は、機首のバルカン砲を撤去し、代わりに各種カメラを搭載できるようにしたモデルだが、「RF-4EJ」では機体の基本は変更しておらず、「TAC(戦術偵察)」用ポッドには、低高度用・高高度用のカメラの他、赤外線カメラを内蔵する。

「LOROP(長距離偵察)」用ポッドは、高高度から斜め撮影用カメラで遠距離を撮影するもので、条件さえ良ければ数百キロ先の地上を撮影できる。

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1-1-2A_RF-4EJ_Kai 501SQ 2019_(48661182468).jpg ←(2枚)F-4EJから改造したRF-4EJ(航空自衛隊提供、ウィキペディア英語版より)

そして最も重要なのが「TACER(電子偵察)」用ポッドで、これは敵のレーダー波やデジタル通信を傍受・分析し、地上とデータリンクする。

後年には側方合成開口レーダーを搭載したポッドも運用されたが、これらのポッドは極秘扱いのため詳細は不明である。

先に書いたように、同機の機体は戦闘機の「EJ」のままなので、機首のバルカン砲やミサイルの運用能力は残されている。

最も退役するまで、ミサイルを搭載しての任務は殆ど行われていなかったと言う。

1-1-2A_RF-4EJ_LOROP_Pod_in_Hamamatsu_Air_Base_20140928.JPG ←RF-4EJに搭載されるLOROP(長距離偵察用)ポッド(ウィキペディア英語版より)

RF-4EJは初期導入であるRF-4Eの損耗分を埋める役割を持っていたが、機体の性質は全く異質であり、唯一の偵察飛行鯛である501飛行隊では両機を混用し、通常1飛行隊辺り15機程度の所を、倍の30機前後で運用していた事故もある。

偵察機など、日本の防衛事情ではあまり必要性がない様に見えるが、80年代以降国際情勢が急変。

現在までロシア・中国・北朝鮮など、新しい緊張関係が始まった時代でもあり、偵察機は重要な戦略である。

また災害時には、被災地の状況をいち早く把握する事が出来、95年の阪神大震災や11年の東日本大震災では、地震直後にRF-4E/EJが緊急発進して、写真撮影しながら被害の状況を報告している。

特に11年の東日本大震災では、飛行隊が駐屯する茨城県百里基地も大きな揺れに見舞われたが、余震が続く中同機が発進した。

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1-1-2A_RF-4E_501SQ 20090822-04.JPG ←(3枚)501飛行隊のRF-4Eと機首部分(ウィキペディア英語版より)

実は私も、地震から1時間半後くらいの夕方に、遠くからジェット機の音を聞いている。

旅客機とは明らかに違う、大きなジェット音で、これが501飛行隊のRF-4だったのだろうと思う。

ただしRF-4EJは、元々戦闘機として現役だった機体を改修したもので、機体寿命は延伸されたものの、トータル飛行時間が多く、結果的に飛行時間が少ない「RF-4E」よりも先に全機が退役してしまった。

昨年最後のRF-4Eが退役し、機材がなくなった501飛行隊は解散した。

同機の退役に当たって、航空自衛隊ではF-15Jの一部をRF-4EJのような偵察ポッドを搭載できる改修を計画していたが、防衛予算の都合で計画は宙に浮いた状態である。

防衛省では「グローバルホーク」の様な「無人機」を後継にするとしているが、現場ではれっきとした「偵察機」の必要論が根強いと言う。

そして延期に延期が続いていた、わが国初のステルス戦闘機「F-35A」の導入が開始されたことで、ファントムの引退が決定した。

本来はF-15Jと国産機F-2Aで穴埋めする予定だったが、F-2Aが予想以上に高価になって、当初の予定より大幅に機数が削減されたことで、ファントムの退役はどんどん先送りになっていた。

実際には2010年前後にF-2Aか、もしくは輸出禁止になってしまったステルス機「F-22A」と交替予定だった。

そして昨年末、百里基地所属306飛行隊のファントムが、48年間に渡る運用から離脱した。

正式な「退役」は年度末であるが、事実上の引退である。

ただし飛行開発実験団には、現在も数機のファントムが残されており、日本の空から完全に消えてしまう訳ではない。

とは言え、約半世紀という長期間現役と言うのは、改めてファントムのタフさを実感する。

F-15やF-35と比べて、ファントムの姿は実に武骨である。

若い世代の人ならば、一目見て「古い」と言うだろうか。

エンジンはターボファンでなく、「ターボジェット」エンジンで、GE製「J79」エンジンをIHIがライセンス生産・国産化したもの。

既にF-104で生産していた事で、整備性や信頼性は確保されていた。

1-1-2A F-4EJ_JASDF_-_panoramio_(5).jpg ←F-4EJ/EJ改に搭載されるJ79ターボジェットエンジン(ウィキペディア英語版より)

ターボジェットエンジンとしては高出力で傑作と言える成功作だが、当然燃費は悪い。

離陸時や戦闘中には加速できる「アフターバーナー」を装備しているが、2基搭載しているので燃料は「がぶ飲み」である。

ファントムは胴体背部と主翼に燃料タンクを持つが、それだけだとせいぜい1時間半程度しか飛行できない。

増してミサイルや爆弾を積めばなおさら航続距離が短くなるため、増槽は必須だ。

増槽は下部胴体中央のセンタータンクと、主翼に1本ずつ最大3本携行できる。

自衛隊ではセンタータンクがほぼ常時使用し、移動時には主翼タンクも使用していた。

いずれも超音速飛行できるタンクだが、「改」のセンタータンクは「ハイG」タンクで空中戦時でも使うえ事が出来る。

基本設計の古いエンジンなので、飛行中黒煙を吐くのが特徴だ。

これは敵に発見されやすくなる欠点にもなるので、後に改良されている(それでも黒煙は出るが)
最大速度はマッハ2。

日本の防空戦略は、海上を含む広範囲に及ぶため緊急時に備えて双発機が重要視され、単発のF-104よりも信頼度は高かった。

ファントムで目立つのは、約20メートルに及ぶ全長の割りに背の低い垂直尾翼と、外翼部が上に折れ曲がった主翼だろう。

これらは空母で運用できるようにした苦肉の策で、外翼は折り畳むことができた。

垂直尾翼も、本来はもう少し高さがあったが、空母内格納庫の高さに抵触するので止むを得ず低くし、その代わり前方部分の面積を広くした、

水平尾翼も「どこが水平なの?」と思うほど、下半角(23度)つけられているが、これも上向きになった主翼のためである。

ある意味構造的にはかなり無理をして作っているように見える訳だが、それは操縦性にも影響した。

着陸時の低速度では、旋回しようとする時補助翼を使ってバンクさせると「アドバース・ヨー」と言う悪癖を持っていた。

例えば右に旋回する場合、通常は補助翼を上げると右翼が下がって旋回を始めるのだが、ファントムの主翼には外側だけに上半角がついているため、揚力が「反発」してしまうのである。

すなわち上半角部分は、万対方向に揚力を発生させてしまうため、機体はまるで嫌々するように左へ向こうとする。

つまり「失速」してしまう危険性があり、低速域での旋回はラダー(方向舵)で微調整しながら行う。

自衛隊では同機の新人パイロットには、最初徹底的に身体にその動作を覚え込ませたと言う。

分かりやすく言うと、自動車に例えれば前輪で操舵で操舵するのではなく、後輪で操舵することと似ているだろうか。

正面から見ても、ファントムは特異である。

主翼は分厚く、主脚の幅は広い。

これは「艦上戦闘機」ゆえの頑丈さを求めた結果なのだが、おかげで多少のハードランディングをしてもびくともしないそうだ。

風が強い時の離発着にも強い。

ただし舵が重く、空中戦の訓練ではかなりの体力を消耗するそうで、パイロットたちは「空飛ぶダンプカー」と呼ぶそうである。

自衛隊のファントムは、運用期間が長かったことで、塗装のバリエーションが多く、ファンを引き付ける理由の一つ。

導入当初、F-4EJは白みの強いライトグレーと下面が艶消し白で塗装されていた。

1-1-2A-F-4EJ_306SQ (13069831105).jpg ←ロングノーズの空軍型では唯一「海軍塗装」だった自衛隊のF-4EJ(ウィキペディア英語版より)

この塗装は当時の米海軍の標準塗装で、いわゆる「ショートノーズ」型の代名詞である。

一方米空軍では、ショートノーズもロングノーズも初期は「ベトナム塗装」と呼ばれるジャングル塗装が基本だった。

その後州軍の要撃機は「エアスペリオリティブルー」と呼ばれる、青みがかったグレー塗装のファントムが登場したが、前線部隊のファントムはベトナム塗装の後には、グリーン系の「ヨーロピアン・ワン」と言う迷彩塗装、退役間近の時代にはF-16と共通の「エジプト・ワン」と呼ばれるグレー2トーン塗装に変わった。

輸出されたファントムも、イギリス以外は「ベトナム塗装」が主流で、末期には各国オリジナル塗装も現れたが、「空軍型」の別称を持つロングノーズファントムで、海軍塗装を施したのは自衛隊のF-4EJだけである。

ショートノーズにイメージが強いだけに、若干違和感がなくもないが、スラッと伸びた機首部分が強調されて実は格好良いのだ。

「改」が登場してからは、順次F-15と同じ「制空迷彩」であるグレー2トーンに変更された。

異色だったのはRF-4E/EJで、前者はグリーンとタン(土色)迷彩で、明るめのEJとは対照的である。

1-1-2A-RF-4EJ_501SQ (13610318603).jpg ←試験的なブルー系迷彩を施したRF-4EJ(ウィキペディア英語版より)

似た塗装で、国産機の「F-1」があるが、実際にはトーンや塗り分けが違っており、独特の迷彩だった。

改造機であるRF-4EJも独特の「森林迷彩」で、グリーンとダークグレーと言う凄みのある迷彩塗装。

どちらも日本の気候風土を考慮した迷彩である。

また近年ではF-2Aと同じダークブルーとスカイブルーと言う「洋上迷彩」を施した「改」があり、ファンには人気だった。

沖縄に派遣されたRF-4Eも、一時期「洋上迷彩」を施した事がある。

1-1-2A_RF-4E_Kai_501SQ 2019_(48666935657).jpg ←沖縄に派遣された501飛行隊のRF-4Eは、洋上迷彩を施した(ウィキペディア英語版より)

この他、自衛隊お得意の「特別塗装」も多く、飛行隊の創設記念やイベントなどで登場することも多く、それだけで1冊の本ができるほどだ。

海外のファントムも、なかなか魅力的な物が多い。

イスラエルとイランのファントムは、どちらもお国柄を反映して「砂漠迷彩」だが、イスラエルのファントムは明るいトーンで、イラン機は濃いめだ。

ドイツのファントムは、導入当初は第二次大戦中のドイツ機と似た森林迷彩、80年代には茶色がかったグレー迷彩、そして退役時にはライトグレーの制空迷彩に変更されていた。

ドイツ空軍のファントムも、日本と同じく近代化改修を受けて「ICE」と言う略号が付加されていたが、10年代半ばにに後継機である「ユーロファイター」と交替した。

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1-1-2A F-4F_Phantom_II_(Luftwaffe)_(8854889579).jpg ←ドイツ空軍(旧西ドイツ)のF-4Fと塗装の変異。10年代の退役時には近代化改修を受けてF-4F(ICE)と呼ばれた(ウィキペディア英語版より)

現在ファントムを保有しているのは、トルコとイラン、韓国。

ギリシア空軍のファントムは、F-16C/Dと交替して退役したばかり。

トルコはF-16やF-35と言った最新鋭機を多数保有する傍ら、今も100機以上のファントムを現役に就かせている。

多くは米軍などからの中古機だが、イスラエルと協力して「ターミネーター2020」と言う名称で大幅な近代化改修を行っている。

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1-1-2A F-4E TURKISH-Lechfeld_Elite_2008_056_(2663682930).jpg ←(2枚)100機以上が現役にあるトルコ空軍のF-4Eは、イスラエルからの技術供与で大幅な近代改修を受け「ターミネーター2020」と言う別称を持つ(ウィキペディア英語版より)

イランはアメリカと蜜月時代に導入したファントムで、長らく飛べない状態が続いていたが、今世紀になって自力での更生を行い、基地の片隅で埃を被っていたファントムを見事再生させた。

正確な機数は不明ながら、少なくとも40機以上のファントムが現役に復帰しており、さらに古いショートノーズの「D」型も稼働状態にあると言う。

韓国はF-16/F-35と交替が決定しているが、予算の都合で更新が進まず2個飛行隊程度のファントムが現役である。

1-1-2A_F-4E_Phantom_II_17_FW_152_FS_RoK_(3098518234).jpg ←予算の都合で退役が遅れている韓国空軍のF-4E(ウィキペディア英語版より)

今のところ退役の声が聞こえていないのはトルコ空軍とイラン空軍だけと言う事になるが、デビュー後60年以上になることは確実である。

軍用機の場合、長期に渡って現役に留まることは珍しくないが、世界的にみても戦闘機としては長寿である。

それは完ぺきではないにせよ、絶大な信頼性の証と言える。

メカニズムは古いかも知れないが、改良されたおかげで近代兵器もある程度運用ができるようになった。

「何とかとハサミは使いよう」と言っては失礼かも知れないが、耐用年数・耐久性さえクリアできれば、ファントムは充分兵器としての能力を充分持ち合わせているのである。

時代は何となく「トレンド」としてステルス機流行りだが、国家の「防衛戦略」とは同じ事はない。

既に利権を求める他国への「侵略戦争」は国際法で禁止され、果たしてステルス機が必要なのかと言う疑問は多い。

特に日本の場合はあくまでも「専守防衛」なのだから、正直ステルス機は必要性が薄い。

むしろ侵略しようとする相手に対し、「やらせない」と言う態度の方が重要である。

ファントムは全くの「ローテク」であるがゆえに、逆にマルチな性格も併せ持つと言う飛行機であり、これだけ完成度の高い戦闘機は稀有なのだ。

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1-1-2A_F-4E_Phantom_II,_Greece_-_Air_Force_AN1345329.jpg ←(3枚)独特のブルー系迷彩が格好良いギリシア空軍のF-4E。下は米空軍塗装のまま中古で導入された機体(ウィキペディア英語版より)

残念ながら機齢と言う点で、いつかは引退しなければならず、日本のファントムは今がその時である。

ファントムが日本の「守り」に就いた時、私はまだ幼児。

大袈裟だけれど、人生とほぼ同時代をファントムが守ってくれたのだと思っている。

自衛隊機と言う事もあって、最初に好きになった戦闘機がファントムであった。

プラモデルを作るようになった小学生のころから、何十個作っただろうか。

事情があって、プラモデルのコレクションは殆ど処分してしまい、手元には僅かしか残していないが、実はその大半がファントムのプラモデルだ。

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1-1-2A_F-4E_IRIAF in_Bushehr_Airbase.jpg ←(2枚)自力更生で「現役復帰」させたイラン空軍のF-4E(ウィキペディア英語版より)

自衛隊機だけでなく、各国軍機も大好きで、夢はかなえられなかったが、ずらりと何十機のファントムを卓上に並べたいと思ったものだ。

パイロットの中には、親子代々と言う人もいるし、パイロットになって以来30年間通してファントム・・と言う人もいるそうだ。

新人養成課程はとうに閉鎖されて、最後はベテランの「ファントム・ライダー」だけで優秀の美を飾る。

F-15やF-2と違い、ファントムは操縦が難しいがパイロット冥利に尽きるそうで、度量が試される機体だったと言う。

故に養成が行われていたころの若い新人パイロットの中には、新しいF-15/F-2よりも敢えてファントムを希望する人も多かったそうである。

半世紀近くに渡って日本の空を、私たち国民を命がけで守って来た「F-4EJ/改」ファントムに、ただただ拍手を贈りたい。

なお航空自衛隊創設以来、24時間待機の防空体制を取っていて、領空侵犯の恐れがある「国籍不明機」にはスクランブルをかけて対処するJことは知られているが、これまでに「実弾」を発射したのはたった1回。

1987年12月9日、旧ソ連空軍の大型偵察機「TU16バジャー」が、沖縄本島と鹿児島県沖永良部島上空を警告を無視して領空侵犯。

当時那覇基地に所属していた302飛行隊のファントム2機がスクランブル発進し、再三警告したにも関わらず領空侵犯したため、機首のM61 20ミリバルカン砲による「警告射撃」を行った。

その後TU16は領空を逸脱し、ソ連側は航法機器及び通信機器の故障による不本意な領空侵犯として正式に謝罪した。

しかし後の報告で、同機に故障の様子は見られず、乗員からもそのような通達はなかった事が分かっており、意識的な領空侵犯であったとされている。

1-1-2A-F-4EJ_(344_&_321)_of_302SQ.jpg ←領空侵犯措置で、史上唯一実弾警告射撃を行った302飛行隊のF-4EJ(ウィキペディア英語版より)

ファントムだけでなく、現在に至るまで実弾による警告射撃、それに続く強制着陸、撃墜は一度もない。

「ベレンコ中尉事件」では恥をかいたファントムだったが、この時は自ら刃を抜き祖国防衛への闘志を露わにしたのである。

この事件後、沖縄駐留米軍の司令官は「我々ならば問答無用で撃墜したかも知れない。辛抱強くそして最も危険とされる警告射撃で平和的解決をした自衛隊の勇気は、称賛に値する」と言ったそうである。

その後日本を取り巻く国際情勢は大きく変化したが、その中でファントムは日本を守り愛し続けたのである。



飛行機ネタ 未知のイラク航空(1月8日 雪のち晴れ -1℃)

※2日分の日記を掲載しています。

◎1月6日 曇り時々晴れ 2℃

つかの間の冬晴れか。

朝から穏やかに青空が広がって、寒いながらも街の冬景色が綺麗に見える。

気温は僅か2℃。

昨日市内では8センチの積雪を観測したが、日陰の雪は融けるまでいかなかった。

明日夜以降、北を低気圧が通過し台風並みに発達する予想。

同時に年末かそれ以上の寒気が流入し、北海道から九州まで日本海側では週末にかけて大荒れの予報が出ている。

気象庁は「大雪に関する注意報」を出し、鉄道や航空は当該地域の「計画運休」も発表している。

前回は「記録的暖冬」だっただけに、その反動のようにこの冬はガンガンやって来る。

我が家の近くにはとても広い風致公園があって、昔からあると言う大きな沼がある。

今日は偶然だったのが、ふと沼を見ると水面の8割ぐらいが凍っていた。

氷の厚さは大したことないと思うが、そうかこれだけ寒くて雪ばかり降れば・・と思った。

考えたら凍ったこの沼を見るのは久し振りのような気がして、しばし歩みを止めて見入ってしまった。

大雪が懸念される中で申し訳ないのだけど、こうした冬景色はいつみても綺麗だなと思う。

冬枯れしている木々の枝も、寒々しいと思うよりも青空や雪をバックにするとモザイク模様のように見えて来る。

この頃出歩くことが少なくなって、そうした風景を見る機会が減ってしまったが、良いものだ。


◎1月8日

寒波居座る。しかも全国的。

仙台は昨夜雪が降り、一面「銀世界」の朝を迎えた。

雪は早朝まで続き、日中は青空も覗いたが、気温は全く上がらず「真冬日」になった。

道路は融雪剤で比較的コンディションが良くなったものの、ところどころ凍結したままで、日中にスリップ事故が相次いだ。

融けていると思って油断しやすいコンディションとも言え、何とも始末が悪い。

日本海側では北海道から九州まで大雪で、雪に慣れていない地域では交通障害も多発した。

雪だけでなく極端な低温で、停電や断水の被害もあちこちで出たと言う。

停電は送電線に「ツララ」が付着し切断したり、断水は低温過ぎて水道管が破裂したのが原因。

水道管破裂は良く聞くが、氷による停電はあまり聞いた事がない。

この冬はやけに寒く雪が多い。

それが原因なのか、コロナ拡大も止まらず、首都圏では今日から「緊急事態宣言」に突入した。

関西でも大阪・京都・兵庫が、同じく緊急事態宣言に入る予定という。

東京では新規感染者が2,000人と言う過去最大の数を記録し、歯止めがかからない状態だ.

宮城も今週は50~70人と、一段上の数が続く。

毎日「最多の感染者」と言うニュースに、SNSでは「最多、最多ってチューリップか!」と言うツッコミがあったが、不謹慎ながら笑ってしまった。

私ももう書くのが面倒になって来るほどだし、これをユーモアと取るかどうか。

移動および外出自粛は概ね歓迎されているようだが、今となっては判断しづらい。

拡大を抑えても、緩和すればすぐに広がることは明白である。

緊急事態宣言のタイミングに、政府や行政を批判する向きが多い。

分からなくもないが、じゃあヨーロッパのように完全な「封鎖」をしても拡大は止まらないと言う事実も考えるべき。

私だって罹りたくなくて当然だが、行くな出るなだけでは何も解決しない。

やらないよりは良いのかも知れないが、疑問視する声も多く、「専門家」もそういう人が現れている。

政府は2月後半にはワクチン実施にこぎつけたいとしているが、国民全員に行きわたるには半年以上かかるとも言う。

そうなると「オリンピック」も無理では・・・?

コロナ禍で世間は困窮している。経済的に追い込まれている人や企業も増えており、オリンピックよりも優先されるべきだと思う。



考えたら明日から今年初めての3連休。

しかしコロナと寒波で、どうもピンと来ない。

特に「成人式」は、中止する自治体、「オンライン」で実施する自治体、対策を取って会場実施する自治体と分かれている。

仙台市は会場実施するそうだが、首都圏や近畿圏からの「参加」はご遠慮願いたい・・と言う市長の発言に物議が醸し出されている。

生涯一度きりの成人式を心待ちしている人も多く、単に「延期」で良かったのでは?

世間の困惑に、ただ振り回されるのはいつも子供や学生、高齢者だ。

「オトナは分かってくれない」なんて言うけれど、本当にそう思う。

結果的に責任ある「オトナ」が、自己責任回避のために喚き散らしてしまう。

寒波はピークを迎え、明日朝仙台の予想最低気温は「-9℃」!

予想通りになると、実に37年ぶりの寒さになるとか。

0時近くに帰宅したのだが、無風で星も見えていた。

確かに顔がピリピリした。

気温を確かめたら、23時で-5.4℃!

そこまで下がっているとは思わなかったが、やばい寒さだ。

我が家は集合住宅なので、水道管凍結の心配はないのだが、トイレの窓が真っ白に凍っていて、引っ越してきてから初めて見た気がする。

今朝降った歩道の雪は全く融けておらず、「新雪」のようにフカフカ。

究極の「放射冷却」になりそうだ。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

寒いですね、君は大丈夫でしたか?

冬なので寒くて当たり前だし、北国生まれの君ならばこのくらい・・と言うでしょうか?

それでも厳しい寒さが「続く」と言うのは、久しぶりの事です。

今夜だけでなく、明日の日中・夜も同じくらい冷えるそうですので、どうか充分暖かくして過ごして下さい。

道も凍っていますので、外出の際には気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



雪の上に 照れる月夜に 梅の花 折りて贈らむ 愛しき児もがも(万葉集巻十八 4134 大伴宿禰家持)






飛行機ネタ。

若い世代には「知らない」であろう、「湾岸戦争」から、今月でちょうど30年を迎える。

もうそんなに経つのか・・と、感慨深くもある。

「湾岸戦争」とは、中東の大国の一つで合った「イラク」が、突如国境を超えて隣国クウェートに侵攻。

首都クウェート・シティが陥落した。

当時イラクは強権を行使するサダム・フセイン大統領の独裁政権。

イラクはこの3年前まで、イランとの泥沼戦争を続けて経済は疲弊していた。

国民の支持を得るために、かねてから領有権を主張し続けていたクウェートに侵攻し、豊かな同国の資源や財産を奪うと言う、前近代的な侵攻であった。

そして米英を中心とした「多国籍軍」が結成され、大規模な戦争に発展した。

多国籍軍はクウェートを解放するだけでなく、イラク自体も攻撃した。

当然ながらイラク軍は手ひどい被害を被ってクウェートから退却。紛争は約1カ月で終結した。

しかしフセイン大統領はなおも独裁者として留まり、国民からは大きな反感を買う事になる。

03年アメリカを中心とした「イラク戦争」によって、フセイン政権は崩壊。

大統領は逃亡したが、その後潜伏先で米軍特殊部隊に捉えられ、暫定政権による裁判で処刑された。

ここでイラクの歴史に詳しく触れる余裕はないが、フセイン元大統領死後も国内の混乱が続き、10年代になってようやく米軍が撤退したものの、なおもイスラム原理主義武装勢力のテロや、クルド人問題などで多くの問題を抱えるのが現在のイラクだ。

アメリカを始めとして、今世紀になって世界中から支援を得て、戦争で壊滅したインフラなどは徐々に復興している。

イラクは世界第四位の石油埋蔵量を誇ると言われるが、30年続いたフセインの独裁は外貨を軍事に投入していて、未開発の油田が多く残されていると言われる。

イラクの正式国名は「イラク共和国」。

面積は43.7万平方キロで、日本より一回り大きい。

国全体の人口は約3.300万人だが、首都バクダッドは約700万人、都市圏人口は900万人を超え、1/3が首都圏に集中している。

学校の歴史で誰もが記憶にあるであろう「メソポタミア文明」は、現イラクを流れる大河チグリス川とユーフラテス川に挟まれた肥沃な沖積平野で約6.000年前に発展した文明である。

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1-1-1A BAGDAD-Haifa_street_2017.jpg ←(2枚)チグリス川が流れるイラク共和国の首都バグダッド(ウィキペディア英語版より)


いわゆる「中東」のど真ん中に位置するイラクは、イメージ通り広大な砂漠を持ち、南部では世界最高気温の記録を持つほど酷暑の地域だが、北東部は隣国イランに連なるザグロス山脈の麓に当たる高原地帯で、冬は雪が降ることもある。

バグダッドは砂漠気候に位置するが、市内を貫くチグリス川のおかげで古代から「オアシス都市」として発展して来た。

肥沃な大地はデーツ(ナツメヤシ)などの農作物をもたらし、古くから産地として知られている他、石油産業も海外からの積極的な投資で発展しつつある。

イラクのフラッグキャリアは「イラク航空」で、原形は46年に設立され中東では最も古いエアラインの一つである。

1-1-1A-Iraqi_Airways_B747-400.jpg ←今も現役にあるイラク航空のB747-400(ウィキペディア英語版より)

18世紀以降、イラクは「イギリス領メソポタミア」として統治されており、イギリスとの関係が深く、イラク航空もイギリスの支援によって設立された。

そのおかげで機材も当時としては最新鋭だったイギリス機を導入し、中東域内だけでなくヨーロッパなどの国際線も早期から運航していた。

60~70年代のイラクは石油資源に恵まれ、中東では豊かな国だった。

しかし内政が安定せず、79年サダム・フセインが大統領になると徐々に傾き始める。

ほぼ同じ時期に、隣国イランで「イスラム革命」が発生したからだ。

イラクはイランと国境になっているシャトル・アラブ川の領有を巡って、何年間も係争を続けていたが、革命でより両国に緊張が走るようになった。

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1-1-1A-Iraqi_Airways_Hawker_Siddeley_HS-121_Trident_1E_.jpg ←(2枚)50年代に導入されたヴィッカース・バイカウントと60年代に導入されたホーカー・シドレー・トライデント1E(ウィキペディア英語版より)

フセインは国会の複数党制などを含む行政改革を行い、イラクにイランの革命が及ばないようにしようとしたが、一方で独裁色も強めていた。

国内では秘密警察による国民の監視社会を築き、反体制派を弾圧した。

前年には40年代以降戦争を続けて来たエジプトとイスラエルが和解したため、フセインはエジプトを強く非難し、自ら「アラブ諸国の盟主」になろうとしたのである。

石油の外貨は軍事費に優先され、国民の生活を圧迫した。

1-1-1A IRAQI AIRWAYS-B707-370C,_Iraqi_Airways_AN1046768.jpg ←70年代長距離線の主力だったB707-300C(ウィキペディア英語版より)

そして80年、国内の不満の目を背けさせる為にイランとの戦争に踏み切るのである。

冷戦時代に於いて、イラクは米ソ双方と友好関係を結んでおり、兵器を大量に購入していた。

更にイランのイスラム革命は反米を掲げていた事もあり、アメリカはイラクを支援した。

当初兵力ではイランに比べて優勢と思われていたイラクだったが、イランは「革命防衛隊」を含む民兵組織が戦争に参加し、兵士の士気は高かった。

結果短期決戦でイランを屈服させられると考えていたイラク軍は押され始め、戦争は開戦後僅かで膠着状態に陥った。

そして9年にも長期間、戦争は泥沼化したのである。

戦時中イラク航空は運航を続けたものの、無尽蔵に膨れ上がる戦費で機材の整備費はままならず、ついに首都バクダッドにもイランが攻撃を開始したことで事実上の運休を強いられた。

イランとの戦争は89年に停戦したが、フセインの暴走は止まらず翌年夏に突如クウェートに侵攻し「併合」するという暴挙に出た。

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1-1-1A Iraqi_Airways_B747-200_KvW.jpg ←(2枚)週1便ながら東京・成田線で運航されていたイラク航空のB747-200C。胴体後部左側にカーゴドアを持つのはコンビ型の「M」と同じだが、イラク航空機は「貨客両用型」の「C」(ウィキペディア英語版より)

そして91年の年明けに「湾岸戦争」に発展。

バグダッドはいち早く多国籍軍の攻撃に晒され、「史上初」と言える「戦争ライブ」が世界中に流れたのである。

イラク航空はバクダッドの「サダム・フセイン国際空港」に待機していた機材を、急きょ講和を結んだイランなどに「非難」させたりしたが、空港自体多国籍軍に占領されてしまった。

ここに事実上「イラク航空」は消滅することになった。

それでも戦争終結後、国内線の運航を再開したが、03年の「イラク戦争」が終結するまでは殆ど機能しなかった。

1-1-1A-Iraqi_Airways_B747SP_Gupta.jpg ←北米線用に導入されたB747SP。戦争で多くの機体が飛べなくなり、同機もしばらく壊れた状態でバクダッド国際空港に放置されていた(ウィキペディア英語版より)

現在のイラク航空は、04年に再編された組織である。

ヨルダンの首都アンマン線を皮切りに、「新生イラク航空」として再開したが、イラク戦争で残存していた機体はほぼすべて破壊されたり、部品の盗難に遭うなどして飛べる機体はなかった。

アメリカを筆頭に、各国の支援が寄せられ中古機材がほぼ無償で提供され、翌年にはロンドン線なども運航できるようになった。

しばらくはB727やB737-200など、一世代前の機体で凌いでいたが、00年代後半になると少しずつ機材の更新が進むようになった。

現在のイラク航空は28機保有し、国内外合わせて45都市に就航している。

1-1-1A IRAQI AIRWAYS B727-200-YI-AGR-1981.jpg

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1-1-1A IRAQI AIRWAYS-B727-270-Adv,_Iraqi_Airways_AN2048546.jpg

1-1-1A-Iraqi_Airways_B737-200Adv_N239US_PRG_2004-10-17.png ←(4枚)イラク航空のB727-200とB737-200。上2枚は戦前運用されていた機体で、下2枚は04年以降の「新生イラク航空」で使われていた機体(ウィキペディア英語版より)

意外なことに、機材はリース機ながら新造機が多い。

また長距離線を開設するにあたって、中古機ながらもB747-400を導入したり、近年ではB777-200LRとA330-200も導入している。

加えて機材によっては、他のエアラインに運航を委託する「ウェットリース」も見られる。

再開時には中古のB767-200ER/300ERが、アメリカの支援で導入されていたが、現在同社に登録はないものの短期間限定でウェットリースされることがある。

イラク戦争前は、メッカへのイスラム巡礼の為の「ハッジ・フライト」だけ運航を認められた時期があるが、現在もその時期に他社のB767が運航される事がある。

オバマ政権時代に駐留米軍が撤退し、現在は少数が「軍事顧問」として残留するだけとなり、今も治安に不安が残る。

1-1-1A IRAQI AIRWAYS B767-300ER(GULF AIR)-YI-AQW_(15463725621).jpg ←復興直後、バーレーンのガルフ・エアからウェットリースしたB767-300ER(ウィキペディア英語版より)

同社再開直後は、バクダッド市内と空港を結ぶ幹線道路は、政府軍・反政府ゲリラ・イスラム過激派武装勢力などの戦場と化していて、「世界で最も危険な空港」と言われた時期もあった。

現在はイラク軍や警察などが完全に掌握しているが、たびたび空港を狙ったと見られるテロも発生しており、一般利用者は少ない。

機材が更新されたとはいえ、かなりのばらつきも見られ、特に大型機材は中古機だったり、1機しかないなどで定期運航の維持がしにくい状況にある。

長距離線は北京。クアラルンプールなどアジアの都市に限られており、主な路線は中東とヨーロッパである。

これらの地域は主に新しいB737-800とA320が就航するが、A320はトルコの「アトラス・グローバル」が受託運航している。

機体も同社の物で、現時点で3機がイラク航空のフルカラーでヨーロッパ線に投入されている。

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1-1-1A-Iraqi_Airways_A320-214_(47585391732).jpg

1-1-1A Iraqi_Airways_A321-231_YI-AGR_(21479946102).jpg ←(3枚)A320とA321は、トルコのアトラス・グローバルが運航している(ウィキペディア英語版より)

意外にも90年前後のごく短期間であったが、日本にも就航していた。

70年代までのイラクは一応「平和」で、バグダッドは各国エアラインの拠点でもあった。

日本航空を含む多くのエアラインが、「南回りヨーロッパ線」の経由地としてバグダッドに就航していた。

石油関係の業者がビジネスでイラクを訪れることが多く、それを受けてイラク航空も日本線を開設した。

機材はB747-200Cで、週1便程度の目立たない存在だった。

加えて香港やバンコクを経由する便で、日本人の利用者は少なかった。

ごくわずかの利用者によると、ちょうどイラン・イラク戦争終結後で、キャビンは相当汚く、客室乗務員の質も非常に悪かった・・・と言う。

イラク航空の塗装は、イスラム教の色でもあるグリーンをベースにしたもので、旧塗装も現行塗装もなかなか美しい。

70~90年代としては先進国並みのデザインセンスとも言え、成田でも結構目立つ存在だったと言う。

現行塗装は白部分も多く使われ、現代的である。

実は数年前、新しく導入した「CRJ900」が、ブルーを基調とした新塗装で納入された。

同社は今後既存の機体も、この新塗装に変更すると発表していたが、今のところ数年経ってもこのCRJ900だけのようだ。

1-1-1A IRAQI AIRWAYS CRJ900LR YI-AQA_(6447598499).jpg ←「新塗装」と思われたCRJ900LRだが、もう1機は無色ホワイトのまま運航されている(ウィキペディア英語版より)

ファンとして興味深いのは2機のB747-400が現役にあることで、「激レア」機の一つだろう。

しかも1機は元マレーシア航空の機体だが、もう1機はリース会社を通じて導入した「元日本航空」の機体。

日本航空のB747は、ロシア航空が8機保有していることで知られるが、イラクでも1機が現役にある。

同機は北京線や、需要の高いロンドン線などに投入されるが、整備上の理由でB777やA330に変更されることもある。

1-1-1A IRAQI AIRWAYS B7470400(JA8912)-YI-AQQ_(41844058544).jpg ←登録記号「YI-AQQ」のB747-400は、元日本航空の「JA8912」(ウィキペディア英語版より)

航空同盟には「アラブ航空機構」以外加盟しておらず、マイレージサービスもない状態だったが、現在は独自のマイレージプログラムを設けている。

フルサービスキャリアなので、ミールサービスは基本的に無料。

キャビンはA320の一部を除いて、ビジネスクラスを含む2クラス制。

イスラム教国なので、アルコールと豚肉のサービスはない。

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1-1-1A IRAQI AIRWAYS B737-800-YI-ASG@LGW_05JUN14_(15721649351).jpg ←(2枚)イラク航空事実上の主力機B737-800は、国内線の他、ロンドンまで足を延ばす(ウィキペディア英語版より)

試しに同社のウェブページを確認すると、保有機などのページは05年前後の物から変更されておらず、一方で新規路線となるロンドン・ガトウィック線の広告にB737-800で就航などと書かれている。

しかもバグダッド本社のページはホームしか見られず、動くのはロンドン支社のページだけ。

それによると、ヨーロッパ線はロンドンとマンチェスターだけが運航中となっている。

コロナ禍の影響もあると思うが、どうもそれ以前に「定期便」と言う認識がない様な雰囲気さえ感じる。

一方国内線や中東方面の路線は、比較的動いているようだ。

かつての宿敵であるイランへは、首都テヘラン以外の都市へも運航しているのが興味深い。

戦争・内乱を経て10年以上経つが、「ISIS」などの過激派テロ組織が北部に進出したり、なおも国内の治安は悪い国の一つと言える。

それでも経済はかなり復興していて、産油国としてはまだ低いレベルにあるものの、徐々に戦争前の水準に戻りつつあると言う。

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1-1-1A,_Iraqi_Airways_B777-200LR AN2268784.jpg ←(2枚)北京線など長距離線に投入されるA330-200とB777-200LR。A330は中古、B777は「売れ残り」の機体をリースしているためホワイトボディのまま(ウィキペディア英語版より)

先に書いたように、治安レベルは良い方ではないため、旅行者が簡単に訪れる事は難しい。

エアラインにしても、トルコのターキッシュ・エアラインズ、UAEドバイのエミレイツ航空、UAEアブダビのエティハド航空、カタール航空など、中東の大手が乗り入れており、仮に観光で行けたとしてもこれらのエアラインを使う方が便利かつ安全のようだ。

30年に渡るフセイン大統領の独裁で、世界から敵視され、その後は忘れ去られたようになってしまったイラク。

1-1-1A IRAQI AIRWAYS-B737-7BD_AN1621960.jpg ←復興後アメリカから「供与」されたB737-700。元エア・トランの塗装が残されたままだ(ウィキペディア英語版より)

私事ではあるが、昔叔父が造船所に勤めていて、彼は海外顧客の通訳をしていた。

いわば「船主」たちで、今でいえば「接待」のように釣りや「いも煮会」などに彼らをよく招待していた。

叔父はそうした場面に、私を連れて行くことがよくあった。

まだ小学生の頃で、身体が大きく目の青いドイツ人など、子供心にちょっと怖かった記憶があるが、その中にはイラクからの船主がいた。

あまり覚えていないのだが、2~3人で来ていたと思うが、会社の人に「お土産」としてイラクのお菓子を持ってきた。

確かパウンドケーキみたいなお菓子で、日本の菓子折りのようにきちんと箱に入れられ、1個ずつ包装されていた。

だが甘さが半端なかった。

叔父によれば、イラクは暑い砂漠の国だから味付けが濃いのだと言う。

子供の私でさえ、かなりの甘さに辟易した覚えがあるので相当の甘さだったのだろう。

だが見た目は綺麗だし、ナッツなどがたくさん入っていた。

1-1-1A-Baghdad_International_Airport_(October_2003).jpg ←バグダッド国際空港(ウィキペディア英語版より)

70年代半ばの頃だから、イラクが最も裕福で平和な時代だった。

結構な上得意さまだったようで、タンカーを含めて何隻か注文していた。

叔父の造船所で作られた船は、いまどうなっているのだろうか。

戦争で攻撃され、破壊されたのかも知れない。

なお14年には、イラク初のLCC「フライ・バグダッド」が設立された。

1-1-1A FLYBAGHDAD B737-700-YI-BAN_(44120865232).jpg ←フライ・バグダッドのB737-700(ウィキペディア英語版より)

本格的な運航開始は17年からで、2機のB737-700と1機のCRJ200を保有。

国内線の他、トルコ・ヨルダン・シリア・パキスタン・レバノンなどへ国際線も運航している。

イラク航空は現在も国営エアラインだが、「フライ・バグダッド」はイラク初の純民間エアラインである。

飛行機ネタ 「最後の3発機」と「やばい」ロシアのエアライン②(1月3日 晴れ時々曇り 2℃)

正月3日にして、ようやく空模様が落ち着いた。

この年末年始は厳しい寒さと雪ばかりで、初詣や初売りに行った人は大変だっただろう。

今朝の仙台の最低気温は、-4.8℃。

-5℃前後が続くのは異例のことで、昨夜我が家のトイレの窓など完全に凍っていて開ける事が出来なかった。

ようやく日差しが出たことで、道路の大半は雪が融けて乾燥した部分が多いが、気温が低いため陰ではまだ真っ白だ。

明日から仕事・・と言う人もいるだろうが、徒歩・車共に充分注意を。

年明け早々転倒して怪我・・じゃ、モチベーション下がってしまいます。

この年末年始は曜日の「キリ」が良すぎて、今日で休みが終わる人もいるだろう。

ニュースではコロナ禍による帰省・旅行自粛で、鉄道・飛行機・高速道路とも混雑は少なかったと言う。

最も今こそ繁忙期という職業の人は、「これから休み」も多いはず。

来週末は「成人の日」で3連休があるから、それを目指して休む人もいるだろうから、街での人の流れが元に戻るのはそれ以降だろう。

感染拡大が止まらない首都圏では、東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県の各知事が、政府に「緊急事態宣言」を要請している。

しかし政府は必要性を理解しつつも、経済優先に考えると慎重論が強い様だ。

問題はその内容であり、ただ外出を自粛・制限するだけでは国民は納得できまい。

首都圏では「医療ひっ迫」を理由に掲げるが、春の宣言時を見ればわかる。

自粛すれば確かに「一時的」に感染拡大は減るだろうし、その間に入院患者が回復すれば医療ひっ迫は避けられるかも知れないが、規制を解除すれば同じ事だ。

殆ど「自転車操業」のように、ウィルス自体が弱体化・消滅するまでそれを半永久的に繰り返さなくてはならない。

世間では宣言して、その分「給付金」や「補助金」を出せばよいと言う意見もあるようだが、前回の結果を見ればわかるはず。

おかしいと思うのは企業に対する「雇用助成金」で、雇用を維持するために資金を提供すると言うのはおかしい。

会社自体の仕事が減っているのだから、雇用を維持してもすることがなければリストラするしかない訳で、失業者は増加している。

仕事を探す人も、求人は正直感染リスクを伴う職種が人手不足で、お金と命を天秤にはかけられないだろう。

どうしても自粛・帰省するならば、個人と個人事業者への「給付金」を一度でなく、数カ月連続して給付すべき。

それが不可能と言うならば、コロナへの見方を180度変えなければならないだろう。

今の状態では、ワクチンと治療薬・治療法が確立しない限り感染は続く。

そして8割の陽性患者は軽症もしくは無症状であることから、これらの人々には行動の「自粛」を求める。

入院は既往症や重症もしくは中症患者に限定し、治療に集中させる。

見方・考え方を変えないと、いつまでも悪い連鎖が続くだろう。

特に不審に思えるのは「専門家会議」が、ひたすら拡大予防と医療ひっ迫ばかりを訴えること。

もちろん現場の大変さは理解できるが、良く考えれば何の「専門家」かわからない連中が、卓上の理論だけで騒いでいるように見えて仕方ない。

自粛しても、コロナはなくならないのだから。



結局私は正月らしいことは、何一つしなかったし出来なかった。

充分承知の上ではあったのだけれど、雪が続いた事もあって家から殆ど出なかった。

テレビも相変わらずワンパターンで飽きるし、ネット動画も然り。

お金がないから初売りには行けないし、と言うよりもそもそも初売りで欲しいもの自体がない。

よく考えたら、30日から今日まで誰とも合わなかったし会話も全くしなかった。

唯一コンビニの店員さんぐらい。

おせちも雑煮も当然ないし、残っていた餅は食べたけれど食事は普段と同じ。

年賀状をやり取りする相手もいない。

しかもクリスマス頃から若干体調を崩していて、それが治らず年を越してしまった。

更に暖房費が惜しいので、使わないようにしているから寝ているのが一番。

早い話単なる「寝正月」だったと言う事だ。

正月と言うのは、家族や友人・恋人など「一緒」に過ごしてくれる人がいて初めて成立するもの。

所詮私には、その資格がないのだ。

まあ「静かな新年」だった・・・と言う事にしておこう。


元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

寒さは大丈夫ですか?

2021年の正月、君はどう過ごしていますか?

もしかしたら年末から仕事で忙しく、ゆっくりするのはこれから・・かもしれませんがどうでしょう?

家族や友人といつも通り楽しめない正月ではありますが、君なりに楽しんでもらえばと思います。

この冬は久し振りに「らしい」冬で、雪も多くなっています。

雪を見ると、どうしても君の事を思い出してしまいます。

私には何故か、君は「雪」「冬」のイメージが今も強いのです。

まだあちこちが凍っていますので、外出の際には足元に充分気をつけて下さい。

寒さも続きそうですので、暖かくして過ごして下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



わが屋前の 冬木の上に ふる雪を 梅の花かと うち見つるかも(万葉集巻八 1645 巨勢朝臣宿奈麻呂)









飛行機ネタ。


ここで一つ訂正しなければならないことがある。

12月15日記の同ブログに於いて、タイトルに「最後の3発機」と入れてしまったこと。

これはロシアの地方エアライン、アルロサ航空がTU154を退役させた事でのタイトルだった。

だがちょっと気になって、後から調べたところ、なんと同社のTU154は「最後の3発機」とは言えないことが分かったのである。

正確には「最後のTU154」であり、それは旅客機として・・という条件付きなのだが、実はまだ残っていたのだ。

TU154自体については、アルロサ航空が最後の「現役機」として運用し、残るはロシア政府と空軍・海軍に所属する機体だけとなった。

ここで言う「旅客機としての現役機」とは、定期便・チャーター便であれ実際に運賃を取って一般旅客を乗せると言う事。

故に政府機や軍用、プライベート機は含まない。

些か言い訳じみてしまったが、そういう意味でTU154は退役した。

これはこれで大きな事なのだけれど、「3発旅客機」の現役はまだ別に存在していたのである。

しかもアルロサ航空と同じく、またまた「ロシア」である。

全くロシアと言う国は、多少皮肉を込めさせてもらえば、常識の通じない国である。

底が知れない・・とも言えるが、一定の枠に捕われない部分が多く見られ、状況を把握するのが極めて難しい。

そして「今度こそ」、「最後の現役3発旅客機」であろうと思われるのが、旧ソ連時代に開発された「ヤコブレフ42」なのである。

1-1A30--YAK42D IZHAVIA_45204229142.jpg ←今も現役にある「3発旅客機」、ロシア・イジャビアのYAK-42D(ウィキペディア英語版より)

このブログでもこの機体については一度書かせて頂いたが、現時点でもまだ現役にあることが分かった。

旧ソ連機は、当時開発した「設計局」がメーカー名のようになっており、同機も「ヤコブレフ設計局」が担当した小型ジェット旅客機である。

ヤコブレフ設計局は、第二次大戦に航空技師であったアレクサンドル・セルゲイビッチ・ヤコブレフが設計した「I-26」と言う単発戦闘機が認められたことで、設計局主任としての職務を命じられた。

彼が設計した「I-26」は、頭文字を取って「YAK-1」として大量生産を命じられた。

因みに「YAK」は英語名での頭文字であり、ロシア語では「ЯК」である。

同機はその後改良・発展型として「YAK-3」「YAK-9」が生産され、シリーズとして4万機以上が生産された。

1-1A30_Yak-1_first_series.jpg ←ヤコブレフの処女作となったYAK-1戦闘機(ウィキペディア英語版より)

ソ連の大戦機の戦闘機としては、最大の生産数で、戦後も衛星諸国や同盟国向けとして生産が続けられた傑作機でもある。

戦後ソ連はナチス・ドイツの航空技術者の多くを「捕虜」として連行し、その技術を取り入れた。

戦後ヤコブレフはこうした技術を利用して、軍用ジェット機の開発に取り組んだ。

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1-1A30 Yak-9M_in_flight.jpg ←(2枚)YAK-1から発展したYAK-3とYAK-9M。シリーズとして戦後まで数万機が生産された。上のYAK-3は戦時中亡命フランスパイロットで構成された部隊「ノルマンディ・ニーメン」の機体(ウィキペディア英語版より)

冷戦時代を迎えて、ソ連は「鉄のカーテン」の中でアメリカに対抗するべく兵器開発に勤しむことになるが、ミコヤン・スホーイと言った「大手」設計局の陰になっていたものの、70年代にはソ連初のVTOL機「YAK-38」戦闘機の実用化に成功している。

どちらかと言えば軍用機専門の設計局の色が濃かったが、戦時中から小型の輸送機なども開発しており、60年代には初めてのジェット旅客機「YAK-40」を開発・成功させている。

ソ連崩壊後も同局は残存したが、当然民営化され、現在は「公開株式会社A・S・ヤコブレフ記念試作設計局」と言う、堅苦しい名称になっている。

1-1A30 Yak-38_(14598742).jpg ←ソ連初の実用VTOL機・YAK-38「フォージャー」(ウィキペディア英語版より)

更にプーチン政権による、航空業の統合及び公営化政策により、04年に民間機メーカーとして設立された「イルクート」の傘下に入り、現在は「統一航空機製造会社」の一部門となっている。

さてYAK42だが、75年に原形機が初飛行し、80年に国営アエロフロートで就航を開始した「3発ナローボディ機」である。

同機の「元」となったのは、68年に就航した小型機「YAK-40」である。

YAK-40は他に例を見ない、ソ連独特の旅客機で、標準で僅か30席と言う「コミューター機」ながらも「3発ジェット」である。

旧ソ連には50席級のターボプロップ機「アントノフ24」があるが、それより小型にも関わらず「3発ジェット機」なのである。

これは想像を絶する広大な国土を持つソ連(現ロシアも同じだが)に於いて、気候が厳しく空港が未整備な地方での航空路を確保するための機体であった。

1-1A30 YAK40-Vologda_Air_Enterprise_Yak-40.jpg ←ヴォログダ・エア・エンタープライズのYAK-40(ウィキペディア英語版より)

すなわち通常ならばアントノフ24程度で充分なれど、特に冬季に視界不良や積雪により欠航率が高まってしまうので、少しでもそれをクリアできるジェット機が必要とされたからだ。

小さな機体に3発もエンジンをつけたのは、へき地での運用でエンジンの故障を考慮してのことだった。

同機に装備される「イフチェンコAI-25」は、初期の低バイパスターボファンエンジンだが、「メンテナンスフリー」に重点を置いて開発されたエンジンだった。

構造が単純で、素材も堅牢であり、故障だけでなく、「バードストライク」に代表される異物混入による破損にも強いエンジンであった。

シンプルながら「ごつい」エンジンであり、当然燃費は当時の西側製と比べると悪く、騒音も大きかった。

だが石油資源が豊富で、基本的に環境基準が「0」に等しかったソ連では気にする必要性がなく、燃費については速度を抑えることで確保している。

同機の巡航速度は僅か500キロ前後で、ターボプロップ機並みかそれ以下。

50年代、初期のジェット機だったフランスの「カラヴェル」でさえ、750キロ程度だった事を考えると、異常に「遅いジェット機」と言える。

速度が遅いから、主翼も「直線翼」である。

巡航速度500キロ、直線翼のジェット旅客機とは実にユニークと言わざるを得ず、ソ連独特の機体とも言える。

1-1A30_Yak-40K,_Vladivostok_Air_AN1104657.jpg ←ウラジオストク~富山線で運航されていたウラジオストク航空のYAK-40(ウィキペディア英語版より)

同機はソ連や衛星国だけでなく、メンテナンスフリーが途上国にも歓迎されて1,000機以上が生産された。

ある意味YAK-40は、かなり目的に「絞った」旅客機であり、柔軟性と言う点では微妙な面を持つことも確かだった。

ヤコブレフも充分承知の上で開発していて、すぐに標準的な旅客機である「YAK-42」の開発に取り掛かった。

YAK-40は初めてのジェット旅客機だったこともあり、新型機YAK-42は同機をベースに開発された。

最大の目標は大型化と、一定のローカル運用基準を持たせる事だった。

開発ナンバーから「YAK-40」の発展型と見る向きもあるが、実際には3発リアジェット方式、T字尾翼と言う、3発機の一般的な形状を継承したに過ぎず、YAK-40と42には殆ど共通性はない。

西側ではアメリカのB727、イギリスのトライデントが既に登場しており、ソ連ではツポレフがTU154を開発していたので、YAK-42は一回り小さい120席級とされた。

YAK-40が30席だから、一気に4倍に拡大することになるのだから、全くの別機種であって当然であった。

1-1A30 YAK42-Aeroflot_Yakovlev_Yak-42_Gilliand.jpg ←80年に国営アエロフロートでデビューしたYAK-42(ウィキペディア英語版より)

ソ連時代の事なので、YAK-42の詳しい開発経緯はわからないが、75年に完成し初飛行した原形機は少なくとも3機以上あったと言う。

座席数の違いや主翼の形状が違う機体だったようで、最終的には最大座席数120席の機体で落ち着いたようだ。

同機の全長は36.4メートル、全幅は34.9メートル。

胴体は真円形で、床下には貨物室と燃料タンクが設置される。

主翼は当初YAK-40と同じく直線翼が考えられていたようだが、効率性を優先し後退翼が採用された。

エンジン出力がまだ未熟だった時代、後退翼出抵抗を減らすのは常套手段であり、西側の機体も同様だった。

後縁にはフラップとエルロン、上面にはスポイラー、前縁全てにスラットが装備され、ソ連機特有の離着陸性能が確保されている。

1-1A30-Yak-42D_(5453983163).jpg ←下方から見たYAK-42D(ウィキペディア英語版より)

エンジンは「イフチェンコ・ロタレフD-36A」ターボファンエンジンを3基装備するが、このエンジンは同機に合わせて開発されたエンジンである。

当時ソ連では、TU154などに搭載されたNK-8、D-30などが存在したが、いずれも低バイパスエンジンである。

D-36Aが計画されたのは60年代半ばのことで、アメリカでは現在も現役にあるCF-6・JT-9D(PW4000)と言った髙バイパスエンジンが登場する頃である。

1-1A30 YAK42-Ivchenko_Progress_D-36MV.jpg ←YAK-42の為に開発されたイフチェンコ・ロタレフD-36Aターボファンエンジン(ウィキペディア英語版より)

恐らくはそれを見て、ソ連当局はエンジン専門の設計局の一つであるウクライナのイフチェンコに開発を依頼したのであろう。

60年代末から70年代初頭は、米ソが軍縮交渉などで歩み寄る「デタント」の時期に差し掛かっており、アメリカは直接寄与はしなかったものの、イギリスやフランスと言ったEC諸国との交流ができた時代であった。

航空機分野では軍事機密に抵触する部分が多くを占めたが、この時代の西側はソ連の技術は10年以上遅れていると分析していたこともあって、一定の技術提携などが行われていた。

例えばイギリスとフランスが共同開発した超音速旅客機「コンコルド」と、ソ連が開発した「TU144」は実に似通った外観とスペックを持つ。

故にTU144はコンコルドの「コピー」と今でも言われることがあるが、初飛行はTU144の方が先であり、ダブルデルタ翼や収納式のカナード翼などTU144だけのオリジナルが随所に見られる。

確かにTU144の開発では、イギリスの技術提携が行われたが、それは主にエンジンについてであったとされている。

ソ連は大戦中から航空力学専門の研究所を持っており、超音速機の理論は自前で持っていたのであった。

ただ「西側に負けるな、追い付き追い越せ」と言うスターリン時代からの国策があったので、「向こうが作るならウチも」と言う事はしょっちゅうだったようである。

1-1A30 KUBAN AIRLINES YAK42D_4520422303017_RP9389.jpg ←クバン・エアラインズのYAK-42D(ウィキペディア英語版より)

D-36エンジンも恐らくは、そうした意味も含めて開発が決定されたのであろう。

初めての試運転は71年とされており、YAK-42の初飛行が75年だったから、そこそこ手間のかかる開発だったのだろう。

意外に知られていないのだが、このD-36エンジンはソ連で最初に実用化された「高バイパス」ターボファンエンジンであること。

同エンジンのバイパス比は5.5:1ぐらいで、当時としてはかなりの高バイパス比である。

1-1A30 YAK42D DONBASSAERO_4520422014576_RP11.jpg

1-1A30 YAK42_DONBASSAERO 4520422014576 RP571.jpg ←(2枚)ドンバスアエロのYAK-42D。エンジンの向こう側が「透けて」見えるのは高バイパスエンジンの証拠(ウィキペディア英語版より)

ただしエンジン自体の規模は、現在のエンブラエルEシリーズに搭載される「TF-34」程度の大きさであり、リージョナル機用のエンジンと言える。

ジェットエンジンは初期のターボジェットでも同じことだが、高速・高熱で回転するタービンなので、それに対応できる素材が開発のネックであった。

加えてターボファンは、推進ファンを大型化し回転数を調整する必要性があるため、開発は困難を極めた。

D-36は3軸ターボシャフトを構成し、チタンを主に使用して耐久性を高めている。

大きさが違うので単純比較はできないが、少なくともD-30など既存の低バイパスエンジンに比べれば、遥かに西側水準に届いた髙バイパスエンジンであった。

事実このD-36はその後も進化を遂げて、アントノフ72・74などにも使われている。

ただしYAK-42に搭載されたD-36Aにはスラストリバーサ(逆噴射装置)がない。

前作のYAK-40では尾部の第三エンジンにのみだがついていたのに対し、YAK-42では省略されている。

今の常識では考えられないが、着陸時の減速は主翼のスポイラーと車輪のブレーキだけで行う。

1-1A30_Yak-42D,_Kuban_Airlines_-_ALK_AN0329381.jpg ←ソ連特有のメカニズムを持ちながらも、流麗なスタイルを持つYAK-42D(ウィキペディア英語版より)

ソ連・ロシアの空港は、広大な土地があることで地方空港でも滑走路が長く取られている事や、同機の脚を見ると分かるように、小型機にも関わらず主脚は2軸4輪ボギーである。

旧ソ連機特有の「不整地」での運用も考慮されており、極論ではあるが戦時中のような平坦な「草地」でも離着陸できるようになっている。

こうしたことから敢えてリバーサを省略したと考えられるが、リバーサは構造が複雑になり、整備も多くなることが原因ではないかと思う。

すなわち同機・同エンジンの実用化を優先し、リバーサは「出来なかった」と考えられる。

事実アントノフ74に付けられた発展型ではリバーサがつけられているし、YAK-42には地上での電源確保用のAPU(補助動力装置)も搭載されている。

更にキャビンの出入り口と尾部には、乗降用の収納式ステアが装備されており、ローカル運用が多い地域に適した装備が多い。

故にリバーサは敢えて付けなかったのではなく、付けられなかったのではないかと思う。

その分離着陸速度を下げてあり、何とか対処できるようにしたのであろう。

キャビンは広く、座席は3-3の6列が標準である。

1-1A30_Yak-42D,_Donbassaero_AN2185477.jpg ←YAK-42Dのキャビン。画像の機体はハットラックだが、オーバヘッドストウェッジに変更された機体もある(ウィキペディア英語版より)

2クラスや長距離用にギャレーなどを大型化した場合には、100席前後となる。

最大120席と言うのは、現代のリージョナル機だとA220-300やE195-E2などの最新鋭機に相当するが、標準的にはE190シリーズと同格と見て良い。

航続距離は、初期生産型では約3,000キロ程度だったが、燃料タンクを増設した「D」型は約4,500キロ程度まで延長された。

大半の機体はこの航続距離延長型である「YAK-42D」だが、初期生産型である「YAK-42」も燃料タンクを増設して「D」仕様に変更されている。

1-1A30 YAK42D TATALSTAN_4520422014549 RP54449.jpg

1-1A30 YAK42D-_Air_Moldova_International_ER-YCA@FRA,20.10.2000.jpg ←(2枚)タタールスタン航空とモルドバ共和国のエア・モルドバが運用したYAK-42D(ウィキペディア英語版より)

営業機での初就航は80年に、国営アエロフロートで開始された。

ところが2年後の82年6月、サンクト・ペテルブルグからウクライナのキエフに向かっていたアエロフロート8641便が墜落し、乗員・乗客全員が死亡すると言う事故が発生した。

当時としては珍しく、ソ連当局は事故とその後の調査を公開した。

原因は水平尾翼にあるスクリュージャッキが金属疲労を起こして破損し、水平安定(スタビライザー)が制御できなくなったことだった。

それは部品の品質が規定以下の品が取り付けられていたこと、安定版を動かすアクチェータにも設計上の不備があることが原因とされた。

同機は既に多数が生産されていたが、当局は即刻同機の全面飛行停止措置を取り、部品の交換と改修を指示した。

加えて複数の機体が輸出されていたこともあって、改修と点検に時間がかかり、運航再開が許可されたのは2年後であった。

ソ連崩壊後までは何件かの事故を起こしているが、機体の不具合は解消されておりパイロットや管制ミスによる事故がほとんどだ。

1-1A30_Yak-42D,_Fars_Air_Qeshm_AN1140417.jpg

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1-1A30 YAK42D ARMAVIA-EK-42470(1)_(8020611928).jpg ←(3枚)イラン・ケシェム航空、カザフスタン・SCAT、アルメニア・アルマヴィアのYAK-42D(ウィキペディア英語版より)

航法機器も随時更新され、最初からレーダーを装備し2人乗務が基本である。

旧ソ連旅客機で100席以上の機体では、最初の2人乗務機でもある。

最もソ連時代は人員コストを考えなくとも良かったことや、地方では気象レーダーや通信、空港での整備が未発達だったこともあり、都市間以外では機関士や航法士が乗務する事も多かったようだ。

1-1A30_Yak-42D_Cockpit.jpg ←YAK-42Dのコクピット。アナログ式だが、一部デジタル計器に変えられている(ウィキペディア英語版より)

操縦性も良い機体だったが、前作のYAK-40が1,000機以上も生産されたに比べて、YAK-42は200機前後と数は少なかった。

最初のトラブルが尾を引いたとも言えるが、当時のソ連では些か半端な機体だったようだ。

人口が希薄な路線では、YAK-40やTU134があったし、幹線ではより大きなTU154やIL62があったからだろう。

生産ペースが非常に遅く、それでも最終生産機は03年だった。

1-1A30 YAK42D-Sudan_Airways_Onyshchenko-1.jpg

1-1A30B YAK42D-Cubana_Idaszak.jpg ←(2枚)スーダン航空とキューバ・クバーナ航空のYAK-42D。後者は最近まで稼働していたが、現在の状態は不明(ウィキペディア英語版より)

現時点で同機を確認できるのは20機程度であるが,旅客機として営業運航行っているのは2社。

いずれもロシア国内のローカルエアライン。

その一つがウラル地方南部のウドムルト共和国の首都、イジェフスクに本社を置く「イジャビア」。

イジェフスクは人口約63万人の工業都市で、周辺には原油や鉄鉱など天然資源が豊富にあることから、戦時中には機械工業が発達した。

大戦中、モスクワから西をナチスドイツ軍に占領されたソ連は、兵器生産の拠点をウラル地方に疎開させたが、イジェフスクもその一つだった。

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1-1A30 YAK42D-Izhavia,_RA-42421_(16270525257).jpg ←(2枚)フルカラーのイジャビアのYAK-42D(ウィキペディア英語版より)

戦後も兵器生産の一大拠点都市として発達し、ソ連崩壊まではソ連人でも許可なしで訪れる事の出来ない「閉鎖都市」であった。

有名な自動小銃「AK-47」(カラシニコフ銃)も、ここで生まれた。

現在は自動車産業なども発達しており、重要な工業都市である。

所属するウドムルト共和国とは、住民の多数を占めるフィン・ウゴル系民族「ウドムルト人」から付けられた名前。

因みにフィギュアスケートのザギトワ選手はイジェフスクの出身だが、彼女はタタール人である。

イジャビアは、92年のソ連崩壊後国営アエロフロート・イジェフスク支局がそのまま民営化されたもの。

現在はイジェフスク市を主体とする公営エアラインとして運営されており、3機のアントノフ24と8機のYAK-42Dを保有している。

就航都市は30近くあるが、殆どが夏季の季節運航で、通年運航しているのはモスクワとサンクト・ペテルブルグだけ。

イジェフスクにはアエロフロートの他、S7航空やウラル航空と言った大手も就航しており、これだけで商売になるのか心配だが、公営と言う事で細々と運航を続けているようだ。

季節運航の他、チャーター便も手掛けているようで、YAK-42Dもそこそこ需要があるらしい。

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1-1A30 YAK42D-Izhavia RA42549.jpg ←(2枚)現在のイジャビアが保有するYAK-42Dはホワイトボディ(ウィキペディア英語版より)

もう1社は、シベリア西部の大都市クラスノヤルスクに拠点を置く「クラス・アヴィア」で、こちらも8機のYA-42Dが現役にある。

同社も国営アエロフロートから民営化されたエアラインの一つで、国内に10都市程度を同機で運航する他、Mi-8などのヘリコプターも保有して、実業チャーターなども行っている。

1-1A30 YAK42D KRASAVIAVVO_96711_(21640013272).jpg ←8機のYAK-42Dを保有するクラス・アヴィア(ウィキペディア英語版より)

ごく最近のイジャビアのYAK-42Dの動画を見る機会があったが、外観は白一色にロゴと言うシンプルな物だが機体自体は綺麗に保たれていた。

キャビンは最近の機体と比べるまでもなく、モニターなどは一切ないが通常のナローボディ機と言う感じである。

初期の機体はハットラックだったが、同社のYAK-42Dはオーバーヘッドストウェツジになっており、現代旅客機の基本は抑えているようだ。

面白いのは、乗降に後部ステアを使う事で、尾部のエンジンを見上げながら乗ると言うのはファンならば垂涎ものだ。

欧米ではかつてハイジャック犯がB727の後部ステアから「飛び降りて」逃走すると言う事件があって以来、後部ステアを乗降に使わなくなったが、ロシアでは何の問題もなく使われている。

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1-1A30 YAK42D-Polet.jpg ←(2枚)アルアヴィアとポーレット航空のYAK-42D(ウィキペディア英語版より)

YAK-42は、実に洗練されたデザインを持つ機体だ。

知らない人ならば、一瞬B727だと思うかも知れない。

TU134/154のような、実用性主義見たいな武骨さがなく、当時の西側機レベルの美しさを持っている。

B727と違うのは胴体の長さもあるが、ソ連機特有の円形の客室窓、そして髙バイパスエンジンだろう。

1-1A30 YAK42D-Volga-Aviaexpress_Yak-42_tail.jpg ←YAK-42Dの後部エアステア(搭乗口)(ウィキペディア英語版より)

尾部の第三エンジンのインテークは、垂直尾翼から連なるように設置されているが、インテークの口は若干傾斜がつけてある。

これは3発機で問題になりやすい、空気の乱流を減らす為だ。

機体の抵抗と言う意味では、同機やB727、トライスターと言った「S字ダクト」の方が良いが、エンジンの効率と言う点ではDC-10のような形の方が良いとされる。

整備性と言う点でS字ダクトが優勢だが、代わりに乱流を起こしやすい欠点もある。

YAK-42は、ダクト口を傾斜させることで乱流を軽減させているのだ。

1-1A30 YAK42D-Russian_Air_Force,_RF-44710_(49570331756).jpg ←少数機が現役にあると思われるロシア空軍所属のYAK-42D(ウィキペディア英語版より)

後退角の強い主翼、シャープな機首もソ連機としてはある意味「異例」と言えるほど洗練されたスタイルである。

ロシアもコロナ禍の影響を受け、多くのエアラインが運休を余儀なくされているが、国内は比較的動いているようだ。

こうした事態を踏まえて、「3発機」は不経済・・となって退役する可能性もなくはない。

ただ最終生産が今世紀初頭まで行われているので、機齢と言う点ではもう少し生き延びられる要素もあるように思う。

TU154は少なくとも20年以上経った機体だったが、YAK-42Dはもう少し若い。

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1-1A30_Yak-42D,_Gazpromavia_JP7644200.jpg ←(2枚)ガスプロムアヴィアのYAK-42D(ウィキペディア英語版より)

政府専用機や軍用機では、数機が現役にあると見られているが、詳細は不明だ。

上記の2社以外にも、ロシア国内や旧構成国などで「保存」されている機体があると思われ、2社以外のYAK-42Dが実際にどのくらい残っているのかは不明である。

それでもローカル運用とは言え、少なくとも16機が現役にあるとは驚きと言えよう。

残念ながらいつ退役するか不安定要素も多いが、それでも先のアルロサ航空のTU154だけでなく、この瞬間に「3発旅客機」が現役にあるとは・・・やはりロシアのエアラインは良くも悪くも「やばい」のである。






2021年・令和3年 1月1日 曇り時々雪 -2℃

新年明けましておめでとうございます。

新しい1年が、無事始まりました。

今年こそ、喜びに満ち溢れる1年になりますように。

「年末寒波」は、今日から「正月寒波」に。

日本海側では大雪が続いており、2メートルを超える積雪になった所も出て来た。

我が仙台は、断続的に雪がちらつく寒い元旦である。

同じ市内でも宮城野区や若林区はそうでもなかったようだが、完全な「山沿い」である我が泉区や青葉区の西部は雪の1日だった。

最高気温も、昨日に引き続いて氷点下のままの「真冬日」。

加えて最低気温は-5.4℃と、今期最低を観測した。

これは気象台の公式記録だから、泉区では-7℃ぐらいになったのではないか。

今朝がたトイレに行くと、窓が凍ってツルツルになっていたし張り付いて開ける事が出来なかった。

積雪は昨日以来6センチと変わらないが、当然融ける事は全くなし。

-5℃前後は午前中続いたから、初詣に出かけた人はさぞかし寒かっただろう。

この寒さと天気は明日も続く見込みと言うから、恒例の「初売り」を楽しみにしている人は防寒対策を万全に。

道路の交通量は少ないから良いが、車で出かける人はより慎重な運転を。

県内では海沿いの石巻市や気仙沼市で「初日の出」が見られたようだが、仙台は残念ながらNG。

「一応」日の出の時間に外を見たが、雪が降っていた。

太陽は見られなかったので「初明かり」とでもしておこうか、ちょっと残念。

昨年のこのブログを見返したら、大晦日の最高気温は何と15℃。

元旦も8℃と、今年とは対照的だった。

例年の年末年始は寒波が来る事が多く、実は珍しくない風景なのだが、今年はちょっと厳し過ぎ。

12月半ばも1週間雪が続いたし、「冬」は少なくともあと3カ月は続く。

北海道では昨日道北の幌加内町で-30℃を記録したが、太平洋側の帯広市では観測史上初めて「積雪0」の新年を迎えたと言う。

札幌市も積雪こそあるが、20センチ程度で例年の半分以下。

寒さはそこそこなのだが、雪が少ない冬になっていると言う。

最も来週後半には、再び強い寒気の南下が予想されており、北海道では低気圧の通過で全道で大雪の可能性も予想されている。

「冬」はこれまでが序章であり、本番は「これから」。

昨年は記録的な暖冬と言われただけに、今年の冬は手厳しいものになるかも知れない。

私は今のところ初詣に行く予定はないが、正月明けは幾つかうろうろする予定があるので、そのついでに行っても良いかとは思っている。

初詣で一番良いコンディションは、冬晴れで寒さが厳しい事。

個人的見解ですが、ああ正月だなあと思うのだ。

もちろん今日のように雪景色を見ながらも良いのだけど、寒いし足元も危ういし・・・。

早い話、私の元旦は家から一歩も出ず、ボーっと過ごした言い訳であります(笑)。

今朝宮内庁から、天皇・皇后両陛下による「国民へのメッセージ」のビデオが公開された。

異例の事で、特に天皇陛下はコロナ禍に触れ国民への励ましと、ご自身が供にある事を述べられた。

また皇后陛下は厳しい寒さへのご配慮を述べられていた。

コロナ禍で正月恒例の一般参賀が出来なくなる事態に、両陛下がメッセージを贈られたと思われる。

「1日も早く、皆様とお会いできる事を楽しみにしております」と言うお言葉に、陛下の労わりを感じずにはいられない。

正月早々不謹慎かも知れないが、疫病・災害はこれからも何度も襲来する。

その都度うろたえるのではなく、一つ一つ冷静に対処して行くこと。

何もせずとも、冷静でいることが一番大切だ。

コロナのせいで、2021年に希望を見出せない気分もあるが、両陛下のお言葉のように苦痛は必ず終わると信じて。

皆さまにとって良い1年になりますように。




君へ。

明けましておめでとうございます。

2021年・令和3年が、君にとって健康で幸せな1年になりますように。

寒さが続いていますので、充分暖かくして楽しいお正月を過ごして下さい。

外出の際には、足元にも気をつけて。




2020年大晦日(12月31日 雪のち晴れ -1℃)

2020年(令和2年)大晦日。

予報通り「年末寒波」の襲来で、年は締めくくられた。

仙台はこの冬初めて終日氷点下の「真冬日」。

積雪は公式で4センチだったが、我が泉区は7~8センチ積もったようだ。

昨日の雪は夜に止んだが、未明から再び降り始め、一時強く降った。

午後には止んで青空も見えるようになったが、気温は上がらず僅かに融けかかった雪はすぐ凍った。

日本海側、特に北陸から山陰では既に数十センチの大雪になっており、交通障害も出始めている。

鉄道や飛行機などの公共交通機関も、今日明日にかけては「計画運休」する路線も増えている。

でもコロナ禍で、帰省や旅行に出かける人は少ないそうで、不幸中の幸いと言えるかも知れない。

ニュースで日中の仙台駅の様子が出ていたが、東京方面から到着する新幹線は空席が目立ったそうだ。

寒波は2日にかけてピークで、東海から西日本では太平洋側でも積雪の可能性があると言う。

でも寒くて雪景色の年末年始は、嫌いじゃない。

「真冬」は1月~2月に当たるが、日本では寒いからこそ正月気分が出ると言うものだ。

私は例年以上に、「何もない」年末年始。

昨年まではせめて気分だけでも・・とお供え餅を置いたりしたが、今年は何故かそういう気分になれない。

今月中ごろから若干体調を崩していると言う事もあるのだが、年末年始を味わうのは「誰か」と一緒だから良いのではないかと思う。

それでも今日は洗濯して、風呂場を綺麗に掃除して・・・まではやったが、後は何もしませんでした。

明日も、テレビをボーっと眺めて寝ているだけだと思う。

この年末はコロナのせいか、お店関係も時短・休業が多い。

よく行くファミレスでさえ、今日明日は時短営業だし、スーパーも明日だけだが休業だ。

今回は良くも悪くも曜日並びがぴちっとしていて、お店関係は3日ごろから通常営業に戻るようだ。

そういえばコロナ禍で「年末年始休暇を延長」と言う話があったけれど、どこに行ったのだろう。

私個人の2020年は、正直振り返るほどの事はない。

良い意味では、まあまあ健康で生きながらえたな、と思うぐらい。それで充分。

とにかく2020はコロナコロナ・・ただそれだけだ。

メディアは「予期せぬ初めての恐怖」「日常が強制的に変えさせられた」「WITHコロナ」ばかりを繰り返した。

しかしコロナは昔で言う「疫病」である。

私は歴史をかじっているので、日本の歴史の中で何度も「疫病」が流行した事を知っている。

今から1.300年以上前に編纂された「古事記」「日本書紀」でさえ、「神代」と言われる時代から奈良時代までの数百年間にも疫病に見舞われていることが分かる。

医療・科学が未発達の時代、われわれの「先祖」は時には大きな犠牲を払いつつ乗り越えて来たと言う「事実」がある。

その証拠にこの国は疫病だけでなく、風水害や地震と言った世界トップクラスの「災害大国」でありながら、今日も「日本」と言う国として存続している。

疫病が「細菌」によるものだと証明されたのは、つい150年前のことだ。

古代でも「感染」することは知られていたが、細菌・ウイルスの存在はずっと知られていなかったのである。

それがわかったことで治療法や薬、ワクチンが開発されるようになったのだ。

現代に生きる我々は、歴史上最も科学と文明が発達している時代と思っている。

それは恐るべき「うぬぼれ」である。

そうではないか、科学が発達していてもウイルス一つに右往左往しているではないか。

普段の生活で予防対策をすることは重要だし、あえて拡大させることはない。

だがこれまで風邪のウイルスを潰す薬は一つもなく、「風邪薬」とは諸症状を緩和させる対処療法に過ぎない。

予防のためのワクチンは「コロナウイルス」にはこれまで存在せず、「インフルエンザウイルス」などにしかない。

逆に言えば風邪は気をつけることと対処療法さえきちんとすれば、何とかなるとされて来たのだ。

「COVID-19」が、どこかの大統領のように「ただの風邪」と言うつもりはない。

たが世間は、まるでホラー映画のごとく根拠のない恐怖・不安に翻弄されている。

亡くなった方々は気の毒だと思うが、通常の風邪・インフルエンザが原因もしくは合併症を引き起こして亡くなる人は、毎年万単位いる。

これは日本の事である。

ワクチンがあるインフルエンザでさえ、毎年10万単位の人が感染し、数千人以上が亡くなっている。

現代は情報に「溢れ過ぎ」で、正しい事が分からなくなっていて、その最中のコロナだったように思う。

それこそつい近世までは、普通の風邪もインフルエンザも「恐怖」の対象だった。

恐れるなと言う事は出来ないが、ただ恐れてそのストレスを誹謗や中傷、差別するのは昔の人々より酷く愚かな行為だ。

どこかで「科学の万能」を信じていないからだろうか、不安のストレスを人のせいにしてはいけない。

正直この2020年は、いつから日本人はこんなに情けなくなったのだろうと感じた1年に思えてならない。

故に気付けば、思い出せば、先祖たちのように乗り越えられるはずである。

コロナ禍は世界中に広がり、海外では感染者数・死亡者数がケタ違いの国もある。

免疫力など、生物学的に何らかの因縁があるのだろうが、日本はそれらの国よりも遥かに頑張っているし、日本人は強い。

中には関係ない、自分だけは大丈夫と考える人もいるだろうが、日本人は意外とそう決め込んで生きる事が出来ない。

廻りが、国が安泰であることこそ自分の幸せが掴めると言うDNAを受け継いでいる。

この先、多分コロナは終息に向かう日が来るだろう。

それはきっと「来年」の事だと思う。

その日を信じる事が、新年を迎える一番の気持ちになるだろう。

同時にコロナ禍で仕事や生活が追い込まれている人々を、どんな形でも良いから守って欲しい。





君へ。

2020年もあっという間に過ぎて行きました。

今年は君にとって、どんな1年だったのでしょうか。

コロナ禍が少なからず、君に影響を及ぼす事もあったかも知れません。

辛い1年だったかも知れません。

今の私には、仮に君が辛い時間を過ごしていても、直接守ってあげる事が出来ないのが逆に辛く思います。

君がどこで何をしているのか、私は何も知りません。

でも何となくわかるのです、あの時と同じあの笑顔はそのままであると。

今君に、さだまさしさんの「奇跡~大きな愛のように」を贈ります。

13年ぶりに出場した紅白歌合戦で、さだまさしさんが歌った曲です。

コロナ禍に翻弄された1年、本当にお疲れ様でした。

来るべき2021年・令和3年が、君にとって幸せな1年となりますように。

今夜はとても寒く、明日も雪の予報が出ています。

暖かくして、楽しい新年をお迎え下さい。

外出の際には、足元に注意して寒さ対策を万全に。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。



天霧らひ ふりくる雪の 消えぬとも 君にあはむと ながらへわたる(万葉集巻十 2345 冬相聞歌)





※1年間、このブログを見て下さった方々に、心から感謝を申し上げます。

皆さまにとって、新しい1年に幸ありますように。



月命日/飛行機ネタ「やばい」ロシアのエアライン(12月28日 曇り時々晴れ 9℃)

当たり前だけど、クリスマスが過ぎると社会は瞬間に「年末年始」ムードになってしまう。

人並みに何かしなくちゃ・・と思う反面、独り身の私には特に何することもない。

せめて餅ぐらいは、と思うけれど、ただ1~2枚焼いて食べるだけで、雑煮など作れない。

大掃除?普段から掃除してるし、狭い家だし、まあ30・31日ごろに掃除くらいはするつもりだけれど。

昨日は上が一日中ドタンバタンうるさかった。

まさか年末に引っ越し?と思ったが、何のことはない。それこそ家族総出で大掃除をしていただけだった。

雲が多くすっきりしない空模様ではあったが、穏やかな「御用納め」になった。

しかし大晦日と元旦は、先日のような強い寒波が予想されており、日本海側では北海道から西日本まで大雪の可能性があると言う。

気象庁では帰省や旅行予定の人が多いと見て、異例の注意を促している。

先日の大雪では、高速道路が突然通行止めになって多数の車が立ち往生したこともあっての注意のようだ。

この年末はコロナ禍で、行政は帰省や旅行の自粛を呼びかける一方、「密」を避けるために公共交通ではな自家用車での移動も呼びかけており、何ともちぐはぐなことだ。

昨夜もニュースで「帰省や旅行にはレンタカーと言う手も」なんて言っていたが、普段あまり運転しない人がいきなり雪道を運転すること自体「自粛」させるべきでは?

コロナの拡大は相変わらずだが、ここにきてヨーロッパで「変異種」が確認され、帰国した日本人からも変異種の陽性反応が出たと言う。

故に、今日から新規の外国人入国を禁止する措置が採られている。

しかしウィルスの「変異種」は、春先までに既に数種が確認されている事をなぜ報道しないのか不思議だ。

元々風邪のウィルスは「核」となる基本型から、消えては姿を変えてを繰り返す性質がある。

つまり「核」は「covid-19」でありながら、身体は同じなのに服装が違っているようなものなのだと言う。

時には全くの新種が発生する場合もなくはないが、今回報道されている「変異種」は数個目の変異種に過ぎないと言う。

にもかかわらず最初に報道したイギリスは、いかにも新種のように騒ぎ、世界へ蔓延させている。

最悪の事態を想定して準備するのは当然だが、何の確証もないうちに「上」が騒ぐと言うのは、どこか陰謀的に思えて来る。








飛行機ネタ。

先日ロシア南部の鉱山都市、ミールヌイを本拠地とする民間エアライン「アルロサ航空」から、「3発機」のツポレフ154が退役した事を書いた。

これまで何度も書いているので、ロシアのエアライン事情の経緯は省略するが、旧ソ連時代が周辺した92年以降、国営アエロフロートが唯一のエアラインだったロシアや旧ソ連構成国は、それぞれ民営化したエアラインを設立した。

約30年の間に、激変と言うよりも常に変化しつつ現代に至ったと言う感じで様々なエアラインが設立しては消えた。

結局民営化されながらも本体が存続したアエロフロートが、現ロシアのフラッグキャリアになり、世界トップレベルのエアラインに成長している。

当初は経済が安定せず、古い旧ソ連製を使わざるを得なかったが、リースと言う形で経費を抑えることで徐々に「西側製」のボーイング・マクドネルダグラス、そしてエアバス機に交替した。

現在のアエロフロートは、最新鋭のA350を始めとして世界標準の機材を保有するが、一方で同社以外のエアラインは他国にはない「魅力」がある。

先のアルロサ航空のように、未だ旧ソ連機を運用するエアラインが残っていると言う事実である。

最もアルロサ航空のツポレフ154は退役したが、旧ソ連機以外にも「えっ?」と思うような機材が、ひょっこり残っていたりする。

同社は秋に同じく旧ソ連機であるツポレフ134を引退させ、それもファンとしては驚きである。

しかしツポレフ134・154は絶滅した訳ではなく、軍用機としては今も20機以上が「現役」にある。

また軍用輸送機として開発された「イリューシン76」は、軍用はもちろん民間の貨物機として多数現役にあるし、改良発展型はなおも生産中である。

この他唯一の4発旅客「イリューシン86」と、その発展型の「イリューシン96」も、政府専用機や軍用機として残存している。

性能云々以前に「国産機」と言うプライドも大きく働いていると思うが、独特の魅力を持つ旧ソ連機はまだ「歴史」にはなっていないのである。

1-1A29 ROSSIYA EI-XLD_B747-400_Rossiya_Airline_VKO_UUWW_1_(34150354993).jpg ←世界では既に姿を消しつつあるB747-400は、ロシア航空で9機が現役にある。「TIGROLET」と呼ばれるアムール虎を機首に描いた特別塗装機(ウィキペディア英語版より)

今こそロシアは世界に良くも悪くも強い影響力を持つ大国の一つだが、経済力と言う点では若干力不足の感が否めない。

そこは今も社会主義を貫きながらも市場経済を導入した中国の存在があるのだが、エアライン事情を見てもロシアは一歩遅れていると言わざるを得ない。

旅客機を含む民間機は、個々に「籍」を示す登録記号が記入されるが、これは国際的な決まりである。

例えば日本籍ならば「JA」、アメリカ籍は「N」、イギリス籍は「G」から始まる記号だ。

たいてい胴体の後部や主翼に記入されていることが普通だが、頭文字でその機体の「国籍」が分かるようになっている。

ソ連時代は一貫して「CCCP」で、これはロシア語の「ソビエト社会主義共和国連邦」の略号。

国号がそのまま登録記号に使われていた唯一の事例である。(ちなみに中国は開放前から「B」)。

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1-1A29-B747-446,_Japan_Airlines_-_JA8914 AN0846028.jpg ←(5枚)B747史上最も格好良く、迫力ある特別塗装機、ロシア航空B747-400「TIGROLET」。4枚目はトランスアエロ時代、そして日本航空時代の「JA8914」(ウィキペディア英語版より)

ソ連崩壊後は各国独自の記号に変更され、ロシアは「RA」が宛がわれている。

しかし日本に飛来するエアロフロートやS7航空の機材は、大半が「RA」ではなく「VP」「VQ」「EI」と言った登録番号である。

すなわち外国に登録された機体であり、それは「リース機」と言う事だ。

リース機だと期間終了後には更新手続きや、機材を一旦変換し新たにリースすると言う手間を生じるが、自社導入よりも遥かにコストは安い。

リースには条件がつくことも多いが、基本的には自由に使える。

また機体にはどこの国でも「税金」がかかるが、リース機の場合「国籍」の国に税金を払う事になるが、世界には税金が安い国があり、そこの登録機であれば更にコストを安くできるのである。

ならばロシア政府にとっては税収を失う事になるが、ほかの税金は支払う事になるし、エアラインとして稼いでもらう方が良いと言う事なのだろうか、今のところ「ロシア籍」でなければならない、という法律はない。

だが旧ソ連時代から残る機体は「RA」が多く、中小エアラインでも「RA」で登録していることもあり必ずしも一定はしていない。

アエロフロートはリース機ながらも新造機が多いが、新しい国産機の「スホーイスーパージェット100」は最初から「RA」で登録されている。

現在利用者数・収益・便数と言う点では、アエロフロートが文句なく第一位だが、その後にはS7航空、ウラル航空が続く。

S7航空・ウラル航空もA320neoシリーズやB737MAXシリーズなどの最新鋭機を導入しているが、これ以外のエアラインになると「中古機」でのリース機が多いのがロシアの特色である。

中古機ならば更に導入コストが安い、と言うのが理由だろうが、故に「まだあるの?」みたいにファンが驚くような機種があったり、格安すぎる運賃で運航するエアラインもある。

92年に設立された「ロシア航空」は、名前こそ似ているがアエロフロートとは別の会社である。

実はこのエアライン、設立後から何度か経営基盤が変わっておりその正体が今一つ掴みにくいエアラインでもある。

元々はソ連崩壊直後、「政府系エアライン」として設立された。

その発端は一般の旅客事業ではなく、政府からの委託運航やチャーター便を専門に扱うエアラインで、いわゆる「政府専用機」を担当するエアラインであった。

しかし一般旅客営業も取り扱うようになり、混乱機のロシアに於いてはアエロフロート便として「ウェットリース」便を運航していた事もある。

大きく変化が訪れたのは06年に、ロシア第二の都市サンクト・ペテルブルグを拠点に運航していた「プルコヴォ航空」と合併してからである。

初期の「ロシア航空」の機材は、旧ソ連機だけで、軍所属の機体も多く含まれていた。

一方プルコヴォ航空も当初は旧ソ連機で運航していたが、中古リースで西側製の機体に更新しつつあった時期である。

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1-1A29_Rossiya_Airlines_B737-500 JP6457481.jpg ←(2枚)プルコヴォ航空の塗装のままロシア航空に編入されたTU154MとB737-500(ウィキペディア英語版より)

この統合で同社は「ロシア連邦統一企業航空会社」と言う、非常に堅くかつよくわからない社名に変更された。

プーチン大統領は、ロシア航空業界の統合・整理を政策の一つとして推進しており、航空機メーカーも同様の統合が進んでいる。

かつてメーカーは「設計局」として国家部門であったが、ソ連崩壊後は民営化された。

しかしそれは経営が困難になることを意味し、「航空大国ロシア」が傾くことも意味していた。

そこで表面上は株式会社でありながら、政府が主要株主となり、経営は民間に行わせると言う形態に移行させてきた。

ロシア航空もその一環として、プルコヴォ航空と統合したと思われる。

現在同社はこの面倒な社名は登記上の事で、一般的には「ロシア航空」のままで通用されている。

16年には地方エアラインだった「ドナヴィア」「オレン・エア」を買収した後、アエロフロートが株式を取得し、事実上子会社になった。

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1-1A29-Rossiya,_VQ-BUE,_B737-800 (34195197980)_(2).jpg ←(2枚)オレン・エアと統合されてロシア航空に移籍したB737-800(ウィキペディア英語版より)

アエロフロートは「半官半民」のエアラインであり、ロシア航空も最初は民間だったが、最終的には「政府系」の半官半民エアラインにさせたと言う事になる。

ロシアの経済に関しては浅学なので詳しいことは書きかねるが、どうやらプーチンの政策の筋書き通りのエアラインのようである。

15年には「倒産」した純民営エアラインの「トランスアエロ航空」の機体を引き取っているが、同社は業績が良かったにもかかわらず倒産した謎のエアラインでもある。

表ざたにはなっていないが、急成長したトランスアエロ航空を「快く思わない」セクトがあらゆる手段を尽くして、急な業績不振に陥れたという噂が今も絶えない。

何よりも機体を引き取る義理が全くないロシア航空が、機体や路線の一部を引き継ぐこと自体不審と言えなくもない。

そしてこのトランスアエロ航空から引き継いだ機材の一つがB747-400で、現時点で9機を保有している。

1-1A29 ROSSIYA -B747-446,_JA8920 Transaero_Airlines_JP7705030.jpg ←トランスアエロ航空のB747-400。元は日本航空の「JA8920」で、現在はロシア航空で現役にある(ウィキペディア英語版より)

近年旅客機の経済性が主張され、多発機は世界中で退役を余儀なくされて来た。

そこに「コロナ」が蔓延することで、多くのエアラインは苦境に立たされ、ただでさえ「不経済」の烙印を押されて追い込まれていた多発機に致命傷を与えているが、ロシアではまだ「健在」なのである。

ファンには知られているが、これら9機のB747-400は全機トランスアエロ航空が導入した機体で、しかも8機は元日本航空の機体である。

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1-1A29-Rossiya,_EI-XLE,_B747-JA8916(26903296642)_(3).jpg ←(2枚)日本航空の「JA8916」のB747-400は、トランスアエロ航空を経て現在ロシア航空の「EI-XLE」として現役にある(ウィキペディア英語版より)

トランスアエロ航空のB747-400は、中古機ながらロシアでは初めての「ジャンボ機」として大きな話題になった機体である。

巨大なキャビンを生かして、3クラス制を導入。長距離線に投入されていた。

ロシア航空に移籍後も、キャビンはそのまま使われていて、ちゃっかり「自分の物」のように宣伝して運航していた。

だがそれは短期間で終了し、現在はオリジナルの2クラス制に改編している。

1-1A29_Rossiya_Airline_B747-400 JA8921 VKO_UUWW_(34393897466).jpg ←通常塗装のロシア航空B747-400。この機体は元日本航空「JA8921」(ウィキペディア英語版より)

同社のB747-400は522席と537席があり、エコノミークラスのうち60~70席前後を「プレミアムエコノミー」に指定している。

上級クラスのビジネスクラスは、アッパーデッキに僅か12席。

後方はエコノミークラス。

メインデッキは最前部のAコンパートがプレミアムエコノミーで、残りはエコノミークラスと言う、日本の国内線専用機(B747-400D)を彷彿とさせる「超輸送力重視」型である。

同機は主にモスクワやサンクト・ペテルブルグと言ったヨーロッパ側の主要都市と、極東など国内長距離線の他バンコクなどの国際線に投入されている。

国内線はともかく、国際線としては随分簡素なクラス制だが、その分運賃は安く設定されている。

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1-1A29_Rossiya_A320-200_(40497564633).jpg ←(3枚)旧塗装、特別塗装のA319と現行通常塗装のA320。旧塗装は現在政府専用機やロシア軍輸送部隊の塗装と同じである(ウィキペディア英語版より)

最も利用したファンのレポートでは、プレミアムエコノミークラスには各座席にパーソナルモニターが装備されているが、古いタイプのエンターティメントチャンネルしかない上、作動していない事も多いとか。

エコノミークラスはシートピッチがLCC並みで、モニターは通路天井にある集中式。

加えてWiFiサービスはなく、ミールサービス以外はひと昔前と言う感じだ。

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1-1A29 Rossiya,_VQ-BAR_A319-111_(33783353036).jpg ←(2枚)サッカーチーム「ゼニット・サンクトペテルブルグ」の特別塗装と通常塗装を施したA319。ロシア航空はオフィシャルスポンサー(ウィキペディア英語版より)

同社には他にB777-300を5機、B777-300ERを5機保有している。

これらも全て中古機で、主に元シンガポール航空やキャセイ・パシフィック航空機。

面白いのは「通常型」である「300」の方がファーストクラスを含む3クラス制で、373席仕様であるのに対し、新しく航続距離の長い「300ER」が2クラス制で457席仕様だと言う事。

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1-1A29 Rossiya_Airlines_(Far_Eastern_Leopard_livery),_B777-312.jpg ←(2枚)「LEOLET」特別塗装のB777-300。元シンガポール航空の機体(ウィキペディア英語版より)

このうちB777-300の1機は、B747-400と同じく機首にレパード(極東豹)の顔を描いた特別塗装機で「LEOLET」の愛称が付けられている。

なおB747-400の1機に描かれているのはシベリアンタイガー(アムール虎)で、こちらは「TIGROLET」の愛称が付けられている。

近距離線の主力はA319と320だが、16年に統合した「オレン・エア」のB737-800があり、エアバス機は2クラス制だが、B737はオレン・エア時代のままLCCと同じハイデンシティ座席を用いている。

機材によってクラス制サービス制が違う事は珍しくないが、同社の場合は旧エアラインのキャビンをそのまま使う事が多く、かなりばらつきがある。

1-1A29 Rossiya_B747-446,_EI-XLD_(29026132433).jpg ←「TIGROLET」のクローズアップ。イラストはボカシを使って立体的に描かれており、単なる特別塗装にしておくのはもったいないくらい(ウィキペディア英語版より)

路線や需要に合わせて運用はしているようだが、B747/777は国際線・国内線の区別はつけられていないようだ。

ロシアもコロナ禍が深刻だが、国内での利用は大きな規制はされていないようで、B747は毎日どこかしら飛んでいると言う。

コロナ禍でも同機を保有していたブリティッシュ・エアウェイズやルフトハンザさえ、先の見えないコロナ禍に耐えきれず、B747だけでなくA380も退役させている中で、ロシア航空は9機もの同機が現役にあるのだ。

今のところ具体的な退役計画はなく、当分現役に留まる予定だ。

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1-1A29-Rossiya,_EI-GFA,_B777-300ER_(46715425565).jpg ←(2枚)ロシア航空のB777-300とB777-300ER(ウィキペディア英語版より)

最近ロシアで注目されているのは、08年に設立された「ノールウィンド航空」。

同社はモスクワに本社を持つ「ペガス・ツーリスク」と言う旅行会社が設立したエアラインで、当初はやはり中古のB757を使い、主に地中海方面へのチャーター便を運航していた民営のエアラインである。

最初は「ペガス」と言う名前だったが、定期路線に就航したのを機に「ノールウィンド航空」に変更した。

本拠はモスクワのシュレメチェヴォ空港である。

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1-1A29-Nordwind_Airlines,_VP-BUB,_Airbus_A330-223_(33789251128).jpg ←(2枚)長距離機として昨年から導入されたノールウィンド航空のA330-200(ウィキペディア英語版より)

日本では「NORDWIND」と言う表記から、「ノードウィンド航空」と紹介されることが多いが「NORD」はフランス語で「北」を意味する。

つまりフランス語と英語を組み合わせた造語であり、本来ならばフランス語読みでは「ノール」である。

ここではあえて「ノールウィンド航空」とする。

経済成長が順調な時期に運航を開始したせいか、同社の利用率は年々上昇した。

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1-1A29_Nordwind_Airlines_B767-300ER(JA767E)JP7127522.jpg ←(3枚)設立時に導入されたB757-200とB767-300ER。このB767はスカイマークが[JA767E」としてリースしていた機体(ウィキペディア英語版より)

チャーター便は主にロシア人向けであったが、B767を導入して輸送力を増強すると、ヨーロッパ方面からの集客も増えた。

また親会社「ペガス・ツーリスク」の独立採算のトルコ支社も経営に携わっていることから、中東方面へのツアー客も増加した。

ツアーオペレーターと言う得意分野を生かし、運賃はメジャーよりも遥かに安く設定しており、事実上ロシア最初のLCCとなったエアラインである。

同社の成功を見て、最大大手アエロフロートも子会社のLCC「ポベーダ」を設立している。

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1-1A29-Nordwind_Airlines,_VQ-BRT_A321-231_(38634805401).jpg ←(3枚)旧塗装と現行塗装のA321(ウィキペディア英語版より)

ノールウィンド航空はLCCらしく、主に近中距離路線が主体だったが、良好な業績を鑑みてハバロフスクやウラジオストクと言った極東ロシア線を近年開設し、その為にA330を中古機ながら導入している。

最もそれ以前にB777-200/300ERを同じく中古機で導入しているが、長距離向けは3機の300ER舵げで、6機の200ERは輸送力重視で幹線に投入されている。

サービスはビジネスクラスを含む2クラス制が基本だが、短距離路線用のA321とB777-200ERはオールエコノミー。

前者は220席、B777は440席と同機では世界最大級の座席数で運航している。

一方B777-300ERも、ビジネスクラスは僅か6席、他は486席のエコノミー。

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1-1A29-Nordwind_Airlines,_VP-BJP,_B777-367ER_(49575222596).jpg ←(3枚)ノールウィンド航空のB777-200ERとB777-300ER(ウィキペディア英語版より)

いかにもLCCらしい雰囲気だが、B777に加えA330と長距離機を多く持つのが特色である。

現時点で32機保有し、81都市に就航。

半数は季節運航だが、地中海方面だけではなく大西洋を超えてカリブ海や中南米への長距離運航が多いのも特徴である。

その為のB777やA330なのだが、LCCゆえの窮屈なキャビンで大丈夫なのだろうかといらない心配をしてしまう。

ミールサービスは有料と無料両方があり、国内線では短距離でもお茶のサービスがある。

長距離線では「チケット代込み」のミール・ドリンクの他、有料メニューも用意されている。


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1-1A29-Nordwind_Airlines,_VP-BSQ,_B737-8ME_(44207282951).jpg ←近中距離線の主力はB737-800だが、全て中古のリース機(ウィキペディア英語版より)

比較的飛行時間の短いヨーロッパ域内では、どこのエアラインもサービスは平均している。

ライアン・エアのように徹底的にLCCしているエアラインもあれば、LCCながら一定の無料サービスが標準だったり、メジャーながら有料サービスが主流だったりと様々だ。

だが先のロシア航空に比べて、サービスと言う点ではノールウィンド航空の方が人気なようで、14年ごろから業績は一気に拡大している。

運賃の安さも支持されているようで、例えばモスクワ~ハバロフスク間が最低で7,000円ぐらいから販売される事も珍しくない。

同区間は空路としての距離は約7,000キロもあり、東京~ホノルル間よりも遠い。

有名な「シベリア鉄道」だと1週間もかかる距離に、たった7,000円である。

最近はLCCのバーゲン価格は珍しくないが、それでも安いし長距離線なので2度のミールサービスが料金に含まれる。

最もロシアでは今も「外国人価格」があるので、その値段で利用できるとは限らないし、ロシアの平均収入は日本人の1/10とも言われるので、現地感覚では激安とは見えないかも知れないが。

途上国だと国民の収入と運賃は比例することが多いが、ロシアの場合は先進国と言われながらも個人レベルの経済は途上国並みと見られる事が多い。

故にエアラインの多くが自社導入せず、リースすることが一般的であり、さらに「外国籍」にして維持費をカットしているのである。

中古機が多いのもそうした理由であるが、利用者もあまりこだわらないらしい。

日本だと機齢が20年以上になると「古い」と見做され、エアラインも退役の対象にするし、利用者もどこか不安を感じてしまう。

これらのB747-400にせよ、B777-300にせよ、日本だけでなく大半の国では既に「古い」と決めつけられている。

ところがロシアではこの通りまだまだ現役であり、先のアルロサ航空のように旧ソ連機を使い続けるエアラインも一定数存在する。

ソ連崩壊後のロシアは混乱して、民営化されたエアラインの多くは経営が続けられなかったり、整備不良やパイロットミスによる事故が相次いだ。

最近こそ事故は減少したが、ロシア航空の経緯は非常に政治的かつ不透明な部分が見受けられるし、ノールウィンド航空も数年前に不正な資金調達の噂が流れた。

上記のように同社は季節運航としてカリブ海や中南米諸国へ、多い時だと30都市近くに運航するが、それが不正に使われていると言われている。

数年前には混乱する南米ベネズエラ大統領の個人資産を、不正に国外に持ち出すのに同社便が使われたと報じられた。

しかも同社が知らずに「利用された」のではなく、ロシア政府による「命令」だったと言う噂もある。

今もその真相は闇の中とされるが、業績向上の裏には何らかの「ズル」が存在したのでは?と言う気がしないでもない。

最も一般の利用者は、安全で少しでも安く便利なエアラインであれば良いのであって、どうでも良いことなのかも知れないが。

しかし機材を見ると、日本では考えられない「奇妙な奥深さ」をロシアのエアラインンい感じずにはいられないのである。

日本ではあまり伝わっていないが、ファンとしてはロシアのエアラインは良くも悪くも「やばいロシアのエアライン」が多いのである。




今日は28日、母3年9カ月目の「月命日」。

1カ月はあっという間で、実際毎月の月命日に特別な感情はない。

母の事を思い出さない日はなく、毎日とは行かずともしょっちゅう夢を見る。

つい母に話しかけるように、独り言も私には日常である。

あと数日で新年を迎え、母のいた日がまた1年遠ざかる。

それが今も苦しく悲しい。

悲しさに時間が止まったようだ・・と言う人の話を良く聞いたが、なるほどこう言う事かと思う。

でもそれは悲しいだけじゃない。

家の中は、今もあの日と殆ど変っていない。

母のハンドバッグも、メモ書きもそのままの位置にある。

最もその上に私が何かしらおいていて、母は怒るだろう。

最後に来ていた服や下着、ハンカチも1カ月に一度洗濯して、母がしていたように同じ場所で干して畳んでおいている。

玄関には愛用の靴と、ステッキ(晩年は腰が弱かったので)もそのままだ。

つい忘れて埃にまみれさせ、慌てて拭き取ったり。

「人の物だと思って!」と文句を言う母の声が聞こえて来る。

時々仏壇の周辺で、ほんの一瞬だが母の「匂い」を感じる事がある。

母が愛用していた化粧品の匂いだと思うが、仏壇の周辺に化粧品や香水はない。

人は気のせいと笑うだろうが、私は母がいる証拠だと確信している。

私と言う「生物的」人間が、母の魂を見聞きするまでの能力がないのだ。

そう思う。

母がいれば、明日あたり正月用品の買い物に行くと言っただろう。

二人だけだったし、親子揃って面倒臭がりなのでおせちなどは作らないし買う事もなかった。

それでもちょっとぐらい気分だけは・・と、かまぼこや金時程度買って食べたし、元旦と2日は雑煮とあんこ餅が定番だった。

母の雑煮を食べられなくなって4度目の正月が、間もなくやって来る。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

あっという間に年末が近づきました。

君は仕事で忙しい1週間になるかも知れません。

今回はコロナ禍で、いつも通りの年末年始を迎えられないのが残念です。

それでも何か予定はありますか?

そういえば君は、毎年F神社に友人と家族と「二回」初詣でに行く・・なんて言ってましたが、今はどうでしょうか。

コロナ禍で神社は「密」を避けるよう呼びかけており、どんな初詣になるのでしょうか。

神社に詳しい君ならわかると思いますが、初もうでは旧正月まで「有効」。

慌ただしさが落ち着いた頃でも、充分間に合います。

君は奈良で初詣したことはありますか?

実は私はまだ経験がありません。

いつか行きたいと思いつつ、どうしても年末年始に奈良へいったことがありません。

この年末年始は、再び寒波の予想です。

寒さだけでなく、雪が積もる事も予想されるので、体調管理はもちろん、外出の際には気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




こと降らば 袖さへぬれて とほるべく 降りなむ雪の 空に消につつ(万葉集巻十 2317 冬雑歌)