月命日 7月28日 晴れ時々曇り 30℃

※2日分の日記を掲載します。

※7月24日 晴れ時々曇り 29℃

7月は、もう下旬なのである。

子供達の「夏休み」も先週から始まったようで、それさえ知らなかった私はいかに世俗から離れていることか。

道理でスーパーなどで家族連れが多かったし、いつもはシンとしているご近所が、終日どたばたしている訳である。

夏休みが始まって最初の週末と言う事になるが、それに合わせてイベントが開催され、子供達で賑わったようだ。

しかしどうも「夏本番到来!」と言う気分にはなれない。

真夏を思わせる猛暑は、「異常気象」と言われるほど早く到来し、ちょうど1カ月が経つ。

記録的な短い梅雨だと言って、先日は正に梅雨らしい雨が続き、我が宮城県では大雨の被害も出た。

ようやく雨が降らなくなったものの、もう季節感がぐちゃぐちゃに思えてしまう。

6月末の猛暑に比べれば、暑さはやや落ち着いたと言えるが、今後どう推移するのか分からない。

気象庁は「9月まで残暑が厳しい」と予測しているが、今年に限らず毎年の事だ。

加えて急に拡大するコロナ禍も、なるべき気にしない・・と思っても、どこか引っかかってしまう。

本来東北地方南部は、今頃梅雨明けが普通。

夏休み開始と梅雨明けが近く、まさに「夏本番」を感じられたものだが、今年の季節感はさっぱりだ。

ふと思いついて、過去の気象データを調べてみた。

1978年(昭和53年)、今から44年も前の夏。

私はまだ小学生で、この年は6月12日に「宮城県沖地震」が発生している。

気象庁のデータでは、78年は梅雨が記録的に短く、平年より3週間以上早く梅雨明けしたと言う。

最も早かった地域では、1カ月以上も早く、以降晴天・猛暑が続いたとある。

同時に雨が少なく、特に西日本では秋にかけて農作物の被害も多かったそうだ。

台風も3個程接近したが、被害が出るようなものではなく、より少雨傾向が続いたと言う。

このことを受けて、本棚をかき回して見ると、小学校の卒業アルバムが出て来た。

この年の私は6年生で、アルバムに載せる写真の多くがこの時期に撮影されており、懐かしさとともに記憶が蘇った。

写真の幾つかは、夏休み直前、まさに今頃の撮影。

教室の黒板には、かすかに「7月12日」などの文字が見える。

宮城県沖地震からちょうど1カ月後と言う事になるが、大きな余震などはあまり記憶にない。

私の学区は殆ど被害はなく、このころには何の影響もなかったのだろう。

子供にとっては、夏休み目前でそれどころではなく、写真を撮った頃にはそのことでワクワクしていたに違いない。

今は温暖化がどうのと騒いでいるが、暑さの「質」は今と何ら変わりはない。

災害だって、地震、台風、大雨、猛暑、大雪、厳寒は何度もあったし、被害だってたくさん出た。

それでもこの時代の人間は、今と比べてたくましかったと思う。

例えばエアコン。

今や我が家でさえあるけれど、当時家庭用エアコンなどほんの一部の「お金持ち」の家にあるかないか。

正確に言えば「エアコン」ではなく、「冷房装置」だ(要するに暖房機能はない)。

車だって、普段は「窓全開」が基本。

自家用車のエアコンが標準装備になったのは、この2~30年間の事。

私が運転免許を取った大学生の頃でさえ、自家用車のエアコン率は半分以下で、多くはまだ「オプション」の時代である。

家にある「冷房装置」は扇風機。

しかも各部屋に1個なんてとんでもない。せいぜい家族が集まる居間に1つが普通だった。

古い戸建て住まいの住民が多かったから、涼を取るには家中の窓や戸を明け放つ事。

そうすればどこかしらから風が入るので、暑いながらもなんとか凌げるのだ。

夜も窓なんて閉められないから、寝室には蚊取り線香を焚いて、それでも足りない時は「蚊帳」を張る。

こうしておけば寝ている隙に、蚊に刺される心配は皆無だ。

我が家では、扇風機の風に当たったまま寝ると「体に悪い」とか言っていたから、さすがに寝苦しい夜もあったけれど、私を含めて家族の誰かが暑さで体調を崩したという記憶はない。

祖父母も母も、基本的に冷房なしで元気に夏を過ごしていたのだ。

むしろ子供の私の方が恵まれていたのであって、昼間は毎日プール通いだ。

夏休み前半は、学校のプールが解放される。

確か地区の子供会ごとだったと思うが、毎日2時間程度は使えたと思う。

ただし8月初旬までだったので、後半は「市民プール」だ。

そう言えば・・と思いだす方もいると思うが、仙台市営のプールが西公園の近くにあった。

実際には10年ほど前まで存在していて、地下鉄東西線のルート上にあったため、工事開始とともに廃止されてしまった。

家からだと自転車を飛ばせば30分程度の距離だったし、学校のプールと違って時間制限はない。

料金はかかるが、これも時間制限はなく一度入場すれば外に出ない限り有効だった。

良く覚えていないが、小学生料金で100円か150円程度だったように思う。

朝祖母に昼食としておにぎりを作ってもらい、水筒には「麦茶」を入れて出かけるのだ。

確か「冷蔵ロッカー」みたいなものがあって、弁当は保存出来たのだ。

後は「死ぬほど」プールで遊んでいれば良く、身体が水でふやけてしまうのではないかと思うほどであった。

中学生になると、思春期を迎えたのか、何となくプールに行かなくなってしまったが、今思えば夏・夏・夏を目いっぱい楽しんでいた時代であった。

プールに行かなくとも、友人と日が暮れるまであちこち吹っ飛んでいたから、よく熱中症にならなかったなと思う。

思えば時々遊び過ぎて疲れて、頭痛を感じる事があったが、これが熱中症だったのだろうか。

でも友人やその家族も同様に、そもそも「熱中症」と言う言葉自体がなく「日射病」と言っていた。

確かに外では必ず帽子を被っていたが、それはギンギンの日差しによる障害であり、屋内で罹るものだとは誰も思わない。

最近では熱中症患者の多くが屋内、すなわち自宅で罹ることが多く、故にエアコンや扇風機の使用、水分補給を促されている訳だが、当時高齢者でさえ罹る人は少なかったように思う。

時代とともにライフスタイルも変化し、特に都市部ではおおらかな暮らしが出来なくなった事も原因だと思うが、いつから夏が苦しいものと感じるようになったのだろう。

エアコンはありがたいものだが、高騰する電気代の事を考えると快適感が削がれるこの時代である。


◎7月28日

朝から暑く、寝苦しい日々が続く。

午前中こそ雲が多かったが、午後からは夏空が広がった。

強い日差しに気温はグングン上昇したが、同時に風も吹いていていくらか凌ぎやすい暑さでもあった。

ここ数日、猛暑ではないものの、湿度が非常に高く、無風に近い事が多く、何とも不快な暑さだった。

月末とは言え、まだ7月。

常識的に考えれば、少なくとも8月いっぱいは暑いと仮定して、1カ月以上もある。

いい加減体は慣れて来たように思うけれど、気にならない程慣れてはいない。

暑いものは暑いのだ。

今は「在宅」が主流の為、ある意味エアコンなり扇風機を使えば快適なのだが、一方で高騰する電気代を気にせずにはいられない。

必要以外、できるだけエアコンを止めるようには心がけているが、それこそ身体の事を考えるとどうしても使わざるを得ない。

これならば外に出かけていた方が・・とも思うが、そうもいくまい。

あくまで根拠のない予測なのだけれど、今年は夏が異常に早かった分、秋と冬も早い様な気がする。

少なくとも、宮城県では7月中旬は正に「戻り梅雨」で、大雨の被害も出た。

またここ数日も、全国的に「大気が不安定」な状態が続いていて、各地で「ゲリラ豪雨」が発生している。

天気図を見ると、実はまだ「梅雨前線」がうろうろしている事に気付く。

今週は太平洋高気圧が勢力を戻して晴れ間が出ているが、一方で冷たい空気を持つオホーツク海高気圧も勢力を保っている他、大陸には北からの高気圧も顔を見せ始めた。

今すぐ秋になることはないだろうが、どうも消えたようで消えない梅雨前線が、このまま「秋雨前線」になるような気配を感じる。

事実大気が不安定なのは、暖かい空気と冷たい空気がせめぎ合っているからで、太平洋高気圧自体が安定していない証拠。

逆に異常に暑くなった6月下旬は、「梅雨明け」した通りドンと安定していたからだ。

今年はどうも「夏本番」がいつなのか、さっぱりわからない夏になってしまっているのは事実だ。








28日、今日は母5年4カ月の「月命日」。

以前ほど「28日」と言う響きに辛さを感じる事はなくなったけれど、今も特別な想いの日であることに変わりはない。

毎月やってくるのだから、それほど気にしなくて良いとはわかっているけれど、そうなりたくもないのだ。

月命日だからと言って、特別何かする訳でもなく、せいぜい新しい花を供えるぐらいだ。

花は毎週買い換えているし、毎日手を合わせて、その日あったことを報告しているから、母はまあ満足している事だろう。

明後日7月30日は、母の誕生日でもある。

今となっては「生誕日」と言った方が相応しいかも知れないが、ちょっとだけ祝ってあげようとも思う。

亡くなった人の年齢は数えるものではない、と聞いた事があるが、私は構わないと思っている。

最も、母自身がそれを望んでいない可能性もあるが。

1-1-1-1J Nitinitisou.jpg ↑7月30日の誕生花、ニチニチソウ(ウィキペディアより)

お祝と言っても、それこそ何もできないが、何か小物のプレゼントを仏前に供えておこうとも思う。

母はハンカチが好きで、それこそ何十枚も持っていた。

高級品などはないが、市中では数百円程度でも充分使えるものが多く、いわゆる「ブランド品」でも安価で入手できるのが良いらしい。

恐らく今でも、母のタンスや衣服の段ボールなどに詰め込んであると思われるが、あえて確認しようとは思っていない。

私などとびきり不精な人間なのだが、母には最後までいつもハンカチを1枚持たせられていた。

まるで小さな子供だが、「普段使わずとも、持ち歩いていれば何かと役に立つ」と言うのが母の言い分であった。

かばんに入れておいているが、それこそ普段は忘れている事が多い。

しかし例えば、今頃の季節であれば、汗をかいた時、雨や雪でちょっと顔や頭がが濡れた時など、無意識にハンカチを使っている自分がいる。

母の知恵とは、本当に役立つありがたいものだと、今頃感じるのだ。

さすがに洗う事を忘れて入れっぱなしにしてしまう事もあるけれど、今もカバンに持ち歩いている。

変な所で、母の血筋を受け継いでいるなあ、と、この頃思うのである。

なので久し振りに、母にハンカチを1枚プレゼントして上げよう。

ふと母と同じ7月30日生まれの有名人、を調べてみたら、東条英機、ヘンリー・フォード、アーノルド・シュワルツェネガー、ジャン・レノと錚々たる名前が並んでいて、今更ながら驚いた。





元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

暑い日が続いていますが、大丈夫ですか?

水分補給はもちろん、決して無理せず涼しい環境で過ごすようにして下さい。

一方でコロナの再拡大も気になります。

君はワクチンを接種したかどうかわかりませんが、仮に感染したとしても無症状・軽症で済む・・などとは考えないで下さい。

過敏に反応する必要もないと思いますが、感染しない事に越した事はありません。

この暑さでマスク着用は苦痛ですが、人込みでは我慢してこれまで通り予防対策を続けましょう。

お仕事に支障をきたさないと良いのですが、君の健康が何よりです。

せっかくの夏休み、期待とは裏腹になるかも知れませんが、できる範囲で君なりの夏を楽しんで下さい。

今日は母の月命日です。

君はもう、母の顔を覚えていないでしょうが、よろしければ心の中で手を合わせてやって下さい。

必ず母に伝わるでしょうし、喜ぶと思います。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



水底に しづく白玉 誰ゆえに 心つくして わが思はなくに(万葉集巻七 1320 比喩歌)






7月20日 曇り時々晴れ 30℃

やっと青空が見えるように。

先週は正に「戻り梅雨」で、宮城県は大雨の被害が続出。

浸水した地区では、今も大きな影響が残っていると言う。

予報では晴れだったが、どちらかと言えば雲が優勢で、夏空と言うほどではなかった。

心配なのは、コロナの拡大だ。

おおよそ予想はされていたものの、先週から連日全国で10万人ペース。

そして今日、宮城県は過去最大の2,000人超えとなった。

昨日までは900人前後が最多で、1,000人超えは確実と見られていたが、その予想を遥かに超える人数。

東京や大阪も2万人を記録しており、ある意味爆発的拡大にも見える。

一方で重症者・死亡者は非常に少なく、政府・行政は行動制限などは行わない見通し。

3連休明けと言う事もあり、一気に増加するとは思っていたけれど、本当なのかとも思う。

確かに子供達は今週から夏休みで、連休も前哨戦として行楽地は賑わったと言う。

そうでなくとも、春以降はスポーツなど人が集まりやすいイベントの多くが復活しているから、当然と言えば当然なのかも。

だが私自身は、これまで知人や知り合いがコロナに感染した、もしくはその周囲の人が、と言う話を聞いたことがない。

まあわざわざ言う人はいないのだろうけれど、どういう状況で増えているのか良く分からない。

ワクチンも2回接種は8割以上だが、3回目は6割程度で高止まりしており、それも理由なのだろうか。

最近では年齢的にワクチンをしにくい、低年齢層を中心に拡大していて、今も30代以下が大半を占めている。

恐らく子供が罹って、親やきょうだい、学校や塾の関係者などが感染しているのかも知れない。

でも本当に「陽性」なのか、ワクチンをしたことでその抗体が反応する率もあるのでは?と思うが、どうだろうか。

油断は禁物だが、私は普段人との接触は殆どない。

せいぜいスーパーやコンビニ、カフェなどで店員さんとやり取りする程度。

カフェなども、混雑する時間帯はほぼ行かず、空いている時間ばかりで感染リスクは少ない方だ。

もちろんどこでもマスクは着用しているし、事あるごとに手洗いや消毒していて、すっかり慣習化してしまった。

多くの人がそうであると思うが、ここにきて「新種株」だと言っても、こんなに急に拡大するものなのだろうか。

子供達は夏休みに入り、学校での拡大リスクは低下するだろう。

同時に、久しぶりの「夏」を楽しみたいと言う人もたくさんいるだろう。

私にできることは、やはり今まで通りの予防対策に加え、人との接触を出来るだけなくす…だけだと思うが。



申し訳ございません。

再び当ブログの更新が滞っており、ご迷惑をおかけしております(誰も気づいていない・泣)。

相変わらず、パソコンが原因不明の不調が続いていて、使えない事が多くなっています。

スマホで書く事も考えられますが、パソコンの様な「自由さ」がなく、しかも「老害」(笑)の身には、あの小さな端末で長時間打ったり見ることは難しいのであります。

加えてこの10日間ほど、やや体調不良を自覚しておりまして、なかなか向かい合えない日々が続いております。

体調は過去から持つ慢性疾患(と言うか体質)と、急な暑さが影響したものと思われます。

ここ数日は結構元気ですが、いわゆる倦怠感や頭痛などが残っています。

こう言うと「それってコロナ?」と言われそうですが、基本的に自宅に籠っての生活であり、それこそここ1カ月間、人との接触は4~5人くらい。

発熱もないし、実際には腰痛から来る体調不良のようです。

正直更新遅れの理由にはさっぱりならないと言う事で、やはりパソコンの不調の方が大きいかと。

前にも言った通り、新しいパソコンなど買える経済力はなく、さりとて修理代も同じ。

全く詳しくないので、中古を買ってもデータの移植やセッティングなどできるはずもなく。

様子を見つつ、だましだまし使うしかないようです。

ですので更新は気長に付き合って待って頂ければ・・と思います。

尚「CRECHAN」のネームで、ツィッターもやっていますので、ブログの更新が分かると思います。

ただし通常の「つぶやき」は殆どしていないので、何も面白くないです。




元気ですか?

今日は良い1日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

先日の猛暑は収まりましたが、暑さは続いています。

大雨だったり、気温差が出たり、君は大丈夫かな・・と思います。

そしてコロナの再拡大。

もう今更、と言う感じがしないでもないですが、わざわざ感染する必要も全くありません。

これまで通りの予防対策、しっかり取って下さい。

そんな中、夏休みもない感じではありますが、この夏君は何か予定がありますか?

どうなるかわからないけれど、七夕祭りや各地の花火大会などは3年ぶりに行われるところが多いようです。

君なりの夏を楽しめるように願っています。

蒸し暑さは暫く続きそうですので、体調管理には充分気を付けて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



なでしこは 咲きて散りぬと 人は言へど わが標めし野の 花にあらめやも(万葉集巻八 1510 大伴宿禰家持)


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016.JPG ↑7月の花、ナデシコの花(ウィキペディアより)と、ハスの花(奈良県奈良市、筆者撮影)

飛行機ネタ 思えば全てのスタートはA300だったのだ(7月8日 曇りのち晴れ 27℃)

※2日分の日記を掲載します。

◎7月2日 晴れ 34℃

令和4年・2022年も「折り返し点」。

あっという間に、1年の半分が過ぎた。

そんな感慨に浸ることを許さないかのように、今日も全国的な猛暑が続く。

仙台もまる一週間続きっぱなしで、公式には「猛暑日」ではないものの、連日34℃前後と実質的には猛暑日だと思う。

今更「平年」を行っても仕方ない気がするが、仙台は一夏当たりの平均「真夏日」が10日前後なのに、6月中にそれを「消化」してしまっているのだ。

生活上家にいる事が大半の私は、ある意味炎天下の中に行かないと言う特典はあるものの、我が家も相当に暑いのである。

何度か書いて来たように、我が家は昔ながらの鉄筋コンクリート造りの集合住宅。

住み心地が良くて気に入ってはいるのだが、ごついコンクリート住宅故のデメリットも存在する。

良くも悪くも「保温性」が良い為、冬は非常に暖かい。

氷点下、雪の日でも事実上暖房なしでも過ごせる。

と言う事は、反対に夏は暑いと言う事でもある。

コンクリートに熱が「保管」されるのか、一度室温が上がると容易に下がらないのである。

エアコンを付ければちゃんと涼しくなるが、切れば小一時間で外気と同じ程度まで戻ってしまう。

外気以上には上がらないのだが、困るのは気温が下がる夜間でも「保温」されやすいと言う事だ。

しかもここ数日は風が殆どないため、窓を開けても暑い空気が入るだけ。

何とかエアコンは使わずに・・と思うのだが、室温30℃では使わざるを得ない。

ただでさえ電気代が高騰しているのに、どうしたものか。

母に供えている仏花も、異常な暑さに長持ちしない。

毎日花瓶の水を取り換え、花と葉に霧吹きで水をかけてやっても、すぐ萎えてしまう。

冬場だったら2週間ぐらいもつのに、この暑さでは頑張っても数日。

エアコンをかけても状況は変わらず、人工的な冷たい風に当たってもダメらしい。

近年は自宅で熱中症になる人も多いと聞くが、私も危険かな?と思う時もある。

特に朝起きた直後、酷く喉が渇いているような気がして、一気に500mlぐらい一気飲みしてしまう事もあるし、何となく頭痛を感じる事もある。

夏は暑くて当たり前なのだが、我が仙台は全国レベルから見ると涼しい都市であり、僅か一週間程度でも続くと結構堪える。

ドイツでは32℃を超えると「仕事をしてはいけない」と言う法律があり、その日は強制的に休日になると聞いたことがあるが、それは極端にしても、何か手を考えた方が良い。

これだけ猛暑続きなのに、政府は電力不足を理由に「節電」を呼び掛け、円安や戦争を理由に電気代は毎月のように値上げ。

一方で「熱中症予防のために、適切なエアコンの利用を」と聞くと、暑さのせいもあってかムカッと来る。

言っている事とやっている事が違う。

ちょうど今は参院選。

景気対策とか防衛政策も結構だが、「今ここにある危機」をまずは政治が行うべきでは?

投票はもちろんだが、街角で口角泡を飛ばす候補者、そして応援する政治家に、直接訴える、いや怒なってやっても良いのではないか?


◎7月8日

まさか、そんな・・・気の早い夏の到来に戸惑う日本に、追い打ちをかけるかのような衝撃。

もはや世界中を駆け巡った大事件。

昼前、奈良市で参院選の応援演説を行っていた安倍元首相が、突然暴漢に発砲され緊急搬送されたものの、17時過ぎに死亡と報道された。

これを殺人事件と言うべきか、首相は辞職したもののつい最近のことであり、れっきとした衆議院議員。

「暗殺」と言っても良いだろうか、まさか彼が凶弾に倒れるとは誰が予想したことだろう。

私事で恐縮だが、現場は良く知っている。

奈良に行く時は、いつも京都から近鉄線に乗って、大和西大寺駅で下車。

そこからバスかタクシーで中心部に向かうのが、一種のルーティンになっているからだ。

ある意味非常に馴染み深い場所であり、そこが凶行の現場になったかと思うと遺憾と言わざるを得ない。

同時に激しい怒り、悔しさも湧く。

犯人は計画的で、元首相を「許せなかった」と供述していると聞くが、単なる暴力行為に他ならない。

このような自己中心的な犯罪を、決して許してはならないと思う。

気になるのは報道だ。

SNS上でも騒がれているが、確かに重大事件とは言え、各局とも昼以降ブチ抜きで事件の瞬間を流し続けるのはいかがなものか。

事実ツイッターを見ていると、哀悼の意を表する意見の他、気分が悪くなったと言う意見も数多く見られる。

メディアは「事実の報道」を理由に、スクープのつもりなのだろうが、人が襲われ殺された瞬間である。

その映像をこぞって流すと言うのは、報道と言うよりもただの「野次馬」的無責任ではないだろうか。

事件直後ならまだしも、深夜まで「特別報道」と銘打って同じ画像を何十回も流すのが報道なのだろうか。

幸い、現代はそうした画像を見たくなければ、ネットなど別の物を見ると言う手段はある。

でも事件の瞬間を繰り返し流す事に、何の意味があるのか、メディアに聞きたい。

元総理はいわば「強行派」とも言われ、独裁者などと悪口も言われていたが、私は決して嫌いではなかった。

真のリーダーとは、反発やそれこそ恨みや妬みも覚悟の上で、すなわち「命がけ」でなければ務まらない。

安倍元総理は、骨のある首相、リーダーだったと思う。

無能だとか、不適格だとか、散々言っていた野党の面々は、今どう思っているのだろうか。

特に外交政策では、これまでにない手腕を発揮したし、賛否両論あれど内政も決して妥協しない政策を取り続けた。

良い悪いは結果論であり、日本のリーダーとして素晴らしい人であったと思う。

安倍晋三元首相のご冥福を、心よりお祈りいたします。

そしてこの日本が、あらゆる苦難に決して負けてはならない事を、国民の一人として受け継いでいきたい。



今日は終日曇り一時雨と言う予報だったが、曇っていたのは午前中だけで、昼ごろから青空が広がった。

先日までの予想外の猛暑に辟易していたので、悪天候でも涼しい方が・・と思っていた事が裏切られた気分だった。

しかし心地よい風が吹いていたせいで、気温は思った程上がらず、平年より少し高いくらい。

夕方まで日差しがあったことを考えれば、むしろ過ごしやすい暑さだっただろう。

慣れとは恐ろしいもので、30℃以上が10日間ぐらい続いたから、今日は特に涼しく思えてしまう。

あまりに早い梅雨明けに、「戻り梅雨」も予想されていたが、今後の予報を見ると確かにそんな感じ。

週末から週明けにかけては再び30℃超えが予想されているものの、その後はずっと「梅雨空」で気温も25℃前後だと言う。

蒸し風呂状態の我が家も、今日はいくらか落ち着き、エアコンを使う時間は少なくて済んだ。

まだ7月になったばかり。常識的に言えば、夏は少なくともあと2カ月近く続く事になるが、異常気象が異常でなくなりつつある今、もしかしたら夏の「終り」は早くなるのかも知れない。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

毎日暑さが続いていますが、大丈夫ですか?

そして不安をあおるような事件が起きて、暑さとともに気分が悪くなってしまいます。

でも不安は誰にでもある訳で、決して「私だけ」と思ってしまい込んだままにしないでください。

不安・心配は恥ずかしい事ではありません。

むしろ誰かに「吐き出す」ことで、心が軽くなる事が多いのです。

家族でも、友人でも、職場の同僚でも良いから、話して下さい。

出来る事なら私が受け止めたいですが、それが出来ない限り、君にこう促すしかありません。

またコロナ禍が、ジワリと再び拡大しているのも気になります。

恐らく人の流れが増加したことが原因と思われますが、決して油断しないようにして下さい。

私は君がワクチンを受けたかわからないし、その効果が絶対であるとも思っていませんが、罹らない事に越したことはないでしょう。

どうもこの夏の日本は、全てにおいて「メンタル」が試される年のように思います。

面倒ではあるけれど、くれぐれも普段の生活は穏やかに、そして夏を味わい、気を付けて日々をお過ごしください。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




故郷の 奈良思の岳の ほととぎす 言告げやりし いかに告げきや(万葉集巻八 1506 大伴田村大嬢)







飛行機ネタ。

今から遡る事半世紀、1972年秋。

フランス南西部の都市、トゥールーズ近郊にあるブランニャック空港から、ピカピカの旅客機が初飛行した。

今や航空大国アメリカのボーイングを「手玉」に取る程、世界の旅客機市場を席巻する「エアバス社」だが、そのスタートはこの日飛び立った1機の飛行機であった。

A300。

「エアバス製300人乗り旅客機」と言う、何とも簡素というか、ある意味適当につけたような名称だが、以降新しく開発した機種は310,320・・・と数字を重ねて行くことになる。

結論から言ってしまうと、オリジナルの「A300」を改良した「A300-600R」を含めると、「ほぼ」原形を保ったまま、50年後の現在も現役にあると言うから、改めて驚きの旅客機である。

1-1-1-1H A300B4-203_Airbus_Industrie_(AIB)_F-WUAB.jpg ↑1972年に初飛行したA300原形機。4機が生産され、各種テストに用いられた。4機のうち、最初の2機は「B1」と呼ばれるタイプ、3・4号機は胴体を約2.5メートル伸ばした「B2」として落成した。原形機で形状が異なるのは珍しく、全くの「未経験」からスタートしたA300らしい展開だった。量産機は「B2」仕様で決定された(ウィキペディア英語版より)

これまでも同機の事を何度か書き綴って来たけれど、今も良い飛行機だなあ・・と思うのだ。もちろん個人的志向の観点ではあるけれど。

だってそうだろう、現在の旅客機の形を思い浮かべた場合、殆どが「双発機」だ。

当たり前すぎて「旅客機のエンジンは2基」と思いこんでしまう程だが、かつては3発機・4発機と言う「多発機」も普通に存在していた。

今はB787、A350と言った新世代「21世紀型」の双発ワイドボディ機が、15,000キロにも及ぶ航続距離を有し、2点間輸送と言う意味でもはや直行出来ない都市はないほどだ。

だがA300を目の当たりにしたアメリカの関係者は、懐疑的な、場合によっては嘲笑とも言える目で同機を見ていた。

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1-1-1-1H A300B2-1C,_Air_Inter.jpg ↑(3枚)A300を最初に就航させたのは、エアバス社の地元であるエール・フランスで、74年5月の事だった。ヨーロッパ初、世界初の実用双発ワイドボディ機であったが、域内と言った短中距離路線用として開発されたため、長距離性能は有していなかった。それでも100~150席程度の小型ナローボディ機ばかりの時代に、300席級の機体は画期的であり、革命的ですらあった。エール・フランスのA300は、80年代後半に系列エアラインのエール・アンテールに移籍して90年代まで活躍したが、発展型の600は導入せず、さらなる発展型であるA330を選んだ(ウィキペディア英語版より)

同時期、アメリカでは名門ダグラス(のちのマクドネル・ダグラス)とロッキードが、新時代の旅客機としてDC-10、トライスターを開発中だった。

両機とも実用化されつつあった高バイパスエンジンを3基搭載する、3発ワイドボディ機として開発されていた。

60年代まではエンジンを始め、技術が進化の途中であったため事故も多く、ようやく実現の目処がつき始めた高バイパスエンジンに対しても、同様の見解があった。

故にDC-10とトライスターは、安全性という見地からエアライン側の要望に合わせて敢えて3発としたのであった。

一方エアバスが、そうした一種の「タブー」に挑戦したのは、確かに賭けに近い状況であった。

1-1-1-1H A300B4-203_JAS(JA8560).jpg ↑日本エアシステムのA300-B4-200。エアバス社自身のデビュー作A300は、80年旧東亜国内航空が日本で最初に導入、運航を開始した。日本でのエアバス機は、91年に就航を開始した全日空のA320までなく、「ヨーロッパ製」のジェット旅客機はA300が初めてだった(ウィキペディア英語版より)

第二次大戦まで、ヨーロッパ各国は自国開発をしている国が多く、技術力ではアメリカに勝るとも劣らない実力を持っていた。

しかし戦後世界情勢が変化すると、莫大な資源と資金、生産力を持つアメリカが力量で圧倒した。

ヨーロッパ各国も暫くは自主開発を続けていたが、技術の進歩とともに開発費も膨大なものとなって1国ではとても賄えない状態になっていた。

旅客機部門ではイギリスが世界初の実用ジェット旅客機「コメット」を、フランスは双発ナローボディ機「カラヴェル」を開発していたが、商業的にはうまくいかず、大きな赤字を出していた。

そこでイギリスが先頭に立って、各国に「共同開発プロジェクト」を呼びかけたのがエアバスの発端である。

最も完全な政府主導ではリスクを伴う事から、各国の航空機メーカー自体が話し合っての設立であり、しかも言い出しっぺのイギリスはいざプロジェクトが動き出すと消極的であった。

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1-1-1-1H A300B4-605R,_Lufthansa.jpg ↑(2枚)第二次大戦の敗戦で、長らく航空機の自主開発を禁止されていたドイツ(旧西ドイツ)だが、他国との合弁企業と言う形でエアバスに参加。フランスと並んでリーダーシップを取る事になった。エアバスの本社はフランスにあるが、ドイツにも現地法人が設立され、部品の生産と機体の組み立ても行う。A300はドイツにとって「国産機」の様な存在で、フラッグキャリアのルフトハンザも当然のように採用した。同社は初期型の他(上・B4)、500・600Rも導入し、域内だけでなく中東や北アフリカ方面などの中距離路線でも主力として運用し、00年代後半まで現役にあった(ウィキペディア英語版より)

結果新会社の設立にはフランスのアエロスパシアル、旧西ドイツのMBB(現DASA)などが中心となり骨子を整えた後、イギリスからはホーカーシドレー(現BAEシステムズ)とスペインのCASAが参加して、70年に正式に「エアバス社」として設立された。

ただし同社への出資はアエロスパシアルとMBB、CASAであり、ホーカーシドレーは後から参加したオランダのフォッカーとともに部品の生産分担だけに留まり、事実上仏独の国際企業であった。

言いだしこそイギリスだったが、出資率と生産分担、そして売り上げの分配で仏独側と折り合いがつかなかったのである。

同社初の機体は、いきなりワイドボディ機であった。

それこそ大きなリスクを孕んでいたが、来るべき航空時代に備え、大量輸送出来る大型機は必須だと考えられていた。

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1-1-1-1H A300B4-103,_Dan-Air_London.jpg ↑(3枚)イベリア航空、アリタリア航空、イギリスのダン・エア・ロンドンのA300初期型。当初こそ受注の伸びなかったA300だが、大きなトラブルもなく、安価で経済性に優れた機体であることが分かると、大手の発注も増加した。スペインとイタリアは部品の生産分担を担当したこともあって、採用は当然と言えたが、初めての短中距離用ワイドボディ機と言う事で導入は大手に限られた事の事実だった。一方プロジェクトを提案しながら、経済的理由で脱退したイギリスは、遠慮があったのか採用例が少ない。新造機で発注したのは、画像のダン・エア・ロンドンとLCCのレイカー航空だけだった(ウィキペディア英語版より)

更に冷戦時代にあり、最前線であるヨーロッパだけでなく、世界は途上国もまた米ソの影響が強く、ソ連寄りの国々は最新鋭のアメリカ機は購入しにくい状況にあった。

同じ西側諸国でも、フランスやドイツはそうした国々との交流ももっており、アメリカ機が入り込めない新たな市場への目論みがあったのだった。

その基盤となるのが「経済性」であり、機体価格も出来るだけ安く、短中距離機と言う割りきりがあった。

それが当時としては常識外れだったとも言える、「双発ワイドボディ」だったのである。

とは言え、60年代末から70年代初頭は、B747が登場したばかりで、DC-10とトライスターも同様の時代で、ワイドボディ機はこれだけだった。

いきなり巨大なB747が出たと言っても、いわゆる大型旅客機はまだ試行錯誤の状態だった訳だ。

ならばA300が失笑の対象になるのはおかしく、アメリカだけの「上から目線」的な要素も強かったであろう。

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1-1-1-1H A300B4-203 PAN AM-N6254X.jpg ↑(3枚)旅客機市場をアメリカが独占していたことで、エアバス社の悲願は北米でのセールス成功であった。多くのメジャーは双発ワイドボディ機に懐疑的な目を向けたが、そうした一種の「愛国主義」に対抗する異端児大手、イースタン航空への売り込みに成功した。当然アメリカの航空業界は圧力をかけようとしたが、エンジンがアメリカ製とあって強固な態度は取れなかった。イースタン航空は初期型だけで32機も導入し、世界最大数であった。主に需要が高く、本拠地でもある東部とカリブ海諸国や中米路線に投入され、先に導入したトライスターよりも業績が良かったと言われる。その後パンナム、コンチネンタル航空と言ったメジャーも採用し、「無名」に等しかったエアバスの名が知れ渡った(ウィキペディア英語版より)

だがエアバス内も決して順風満帆という訳ではなく、先に書いたように各国の足並みがなかなか揃わなかった。

加えてワイドボディ機は、フランスもドイツも、そしてイギリスも全く未経験だったからなおさらであった。

おおよその構図・仕様は何とか固まったものの、特にエンジンの選択は時間を要した。

A300の基本コンセプトの一つに、「すべて欧州製で作る」と言うものがあった。

その中で唯一エンジンだけは、選択する余地がない状態であった。

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1-1-1-1H A300B4-203_QANTAS.jpg ↑(3枚)ブラジル、VARIGとクルゼイロ航空、オーストラリア・カンタス航空のB4。数自体は少なかったが、A300は全州制覇を果たしている(ウィキペディア英語版より)

当初イギリスは、A300向けとして全く新しいエンジン「RB207」を提唱していたが、トライスター用の「RB211」を優先させることになり、それは開発遅延で会社が倒産する騒ぎまで発展。RB207の話は何処かへ消えてしまった。

ヨーロッパ製の高バイパスエンジンは、イギリスのロールス・ロイス「RB211」だけで、アメリカのトライスターに供給するだけで手いっぱいの状態であった。

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1-1-1-1H A300-600R Olympic_Airlines_SX-BEM.jpg ↑(2枚)ギリシア、オリンピック航空のB4と600R(ウィキペディア英語版より)

「ヨーロッパ製の旅客機を」と言っておきながら、自国のエンジンはアメリカ機の為に作っていたのである。

それがあったせいかどうかはわからないが、唯一の「RB211」が入手しにくいならば、とエアバスが選んだのはアメリカ、GE製「CF-6」であった。

CF-6はDC-10に合わせて完成したエンジンだったが、開発遅延でいっぱいいっぱいのRB211と違って余裕があった。

同エンジンはその後改良・発展を続け、B747やB767の主要エンジンとして現在まで使われるエンジン。

「完全なヨーロッパ製」にこだわっていたら、今日のエアバスはなかったかもしれない。

1-1-1-1H A300-B4-300-SAS.jpg ↑僅か4機だけ生産されたB4-300。スカンジナビア航空だけが発注したバリエーションで、座席数を増やし離陸重量を引き上げて輸送力を重視したタイプ。その為に脚や床が強化されたが、後に燃料タンクを増設し「B4-200」仕様に変更された。また300は初めてJT-9Dエンジン装備のタイプでもある(ウィキペディア英語版より)

A300の初飛行はDC-10より2年程遅かったが、その間にCF-6エンジンは改良されていた。

DC-10初期型に搭載されたのは「6」シリーズで、発展型の「30」型で「50」シリーズに換装されたが、A300は最初からこの「50」シリーズを搭載する事が出来た。

またエアラインの選択肢として、P&W製「JT-9D」も用意されたが、当初はCF-6-50一本で開発が進んだ。

機体のコンセプトは、アメリカ機にはない要素が詰め込まれた。

A300は、まさに「空飛ぶバス」と言う、アメリカで発生した「エアバス構想」をより煮詰めたものであった。

安全性を意識して3発機としたDC-10/トライスターとは対照的に、短距離路線で大量輸送を目的としていたことである。

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1-1-1-1H A300-600R KoreanAir.jpg ↑(2枚)日本線でも常連だった大韓航空の600R。600を含めて24機導入し、国内線と近距離国際線の主力だった(ウィキペディア英語版より)

それは大型ワイドボディ機ながら、離着陸性能を特に重視した設計を施していた。

主翼の後退角は25度と比較的浅く、30度以上を持つDC-10・トライスターとは対照的で、巡航速度もマッハ0.83~0.84とやや低い。

断面は大きな膨らみを持つ「リア・ローディング翼」を採用し、前縁スラットと大型のスロテッド・フラップを持つ。

1-1-1-1H A300-600RJAL (JA8559).jpg ↑比較的大きな面積の主翼と、高揚力装置を持つA300(ウィキペディア英語版より)

これは滑走路の短い空港での運用を考慮したもので、ローカル空港での運用が可能であった。

胴体は完全な真円形の断面をもち、キャビンでの座席は標準が2-4-2の8列、ハイデンシティ(高密度)ならば9列である。

真円形にしたのは床下貨物室のスペースを大きく取るための措置で、LD-3規格のコンテナを並列に搭載できる。

1-1-1-1H A300_cross.jpg ↑A300の胴体断面を表した実物大モックアップ。真円形にしたことでほぼ同じ容積で上下2分割でき、貨物室にはLD-3規格のコンテナが並列で搭載できる。B747、DC-10、トライスターよりも直径が小さいにも関わらず、これだけの積載能力を持たせたのは真円形胴体ならではの事であった(ウィキペディア英語版より)

これは前部貨物室だけでなく、後部貨物室もそうしたので、キャビンでは後方に行くほどやや床が持ち上がった状態になっている。

この思想は、後にエアバスの大ヒット作となるA320シリーズでも継承されている。

短中距離機が故に、多くの乗客とともに貨物輸送もこなせるようにした訳である。

1-1-1-1H A300-600R IRAN AIR-EP-IBC.jpg ↑真円形の胴体と、中心線付近に位置する主翼。中翼配置にすることで接合部に燃料タンクを増設することが出来るが、その分脚が長い(ウィキペディア英語版より)

また短距離機として運用する事は、キャビンの装備品も簡略化できる訳で、乗客向けのオーディオ装置などやギャレーは全てオプションとされた。

原形機は4機生産され、記念すべき初号機と2号機は「A300B1」と名付けられたが、3・4号機は「B2」だった。

最初の「B1」は全長51メートル、最大座席数は320席だったが、2クラス制ではやや座席数が少ないと言う意見があったため、「B1」の胴体を約2.5メートル延長し、53.6メートルとしたのが「B2」となった。

その為「B1」は先行量産型的な要素が強く、生産は2機だけで終了し、以後3・4号機を含めて生産は「B2」になった。

1-1-1-1H A300B1,_Transeuropean_Airlines.jpg ↑たった2機の生産で終わった「B1」。各種テスト後、トランス・ヨーロピアン航空に売却され、短期間ではあったが営業運航を行っている(ウィキペディア英語版より)

コクピットは当時標準的なアナログコクピットで、航空機関士が乗務する3人乗務。

就航後74~76年にかけては、複数の派生形が登場した。

「B2K」は、主翼内側、エンジンと胴体の間部分の前縁に「クルーガー・フラップ」を追加し、離着陸性能を向上させた型。

これによって2,000メートル級滑走路での運用が可能になり、ワイドボディ機としては世界初の快挙であった。

「B2K」は「B2-200」とも呼ばれ、さらに離陸重量を引き上げて短距離運用に適した仕様とした「B2-300」も存在する。

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1-1-1-1H A300-600R THAI-HS-TAZ.jpg ↑(2枚)タイ国際航空のB4と600R。どちらも日本線の常連だった。同社は600も導入しているが、後にウイングチップをレトロフィットさせて外観上Rと同様になっていた(ウィキペディア英語版より)

尚「300」はスカンジナビア航空が発注した4機だけの生産で、エンジンも初めてP&W製の「JT-9D」が搭載された。

以後の派生形はクルーガー・フラップが標準装備となり、A300の大きな特徴にもなった。

加えて機体重量を引き上げた「B4」が生産され、主翼中央部すなわち胴体と交わる部分に燃料タンクを増設して航続距離を伸ばした。

基本型が「B4-100」、さらに機体重量を引き上げたのが「B4-200」とされ、航続距離は最大で約7,000キロ程度まで確保できた。

この「B4」が、初期型A300ではメインの機種となって、「C4」と「F4」が枝分かれしている。

「C4」は貨客両用型で、胴体前部左側に貨物用ドアをもち、キャビンの床が強化されている。旅客・貨物の転換はパレット状になった床ごと取り換えるシステムだ。

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1-1-1-1H A300F4-200_GCS_Cargo.jpg ↑(3枚)トルコの貨物エアライン、MNGカーゴのA300C4-200と、ジョージアの貨物エアライン、GCSカーゴのA300F4-200。「C4」は貨客両用型、「F4」は純貨物型として製造された機体。C4では両用で運用したエアラインは少ない。C4では客室窓をそのままになっている機体と、埋めてある機体があり、その場合外観上F4との区別が難しい(ウィキペディア英語版より)

「F4」は貨物専用型。

こうして難産だった「初のヨーロッパ製双発ワイドボディ機」は、徐々に受注を拡大させていった。

その背景には、時代を先読みした、ある意味特化した経済性にあった。

例えば最も重視された離着陸性能は、広大な国土を持つアメリカやカナダでは、殆ど認識されていなかった。

大都市近郊の空港では、滑走路や騒音規制が敷かれてはいたが、いずれも小型ナローボディ機で充分とされていたのである。

「エアバス構想」で作られたDC-10とトライスターは、大陸横断が可能な機体として開発されたのであって、いわば幹線用として特化されていたものだった。

1-1-1-1H A300-B4F Tristar_Air_Cargo_SU-BMZ.jpg ↑エジプト、トライスター・エア・カーゴで運用されていたA300B4-200F。形式名の通り、元旅客機を貨物機に改造したタイプ(ウィキペディア英語版より)

つまりA300は、当時としては真逆の通念で製作されたエポックメイキング的な旅客機であったのである。

当初は各国の政府やメーカーの思惑に左右されたが、「使える飛行機」の理念は保たれていた。

国としての面積がどこも小さいヨーロッパにとって、短距離離着陸性能や経済性は特に重要だった。

意外な事だが、80年代初頭に、フランスではヨーロッパ初の高速鉄道「TGV」がデビューしたが、実はA300に触発されてのことだった。

同じフランスの事だったが、日本と同じくヨーロッパも鉄道と飛行機は熾烈な競争を繰り広げるライバルであった。

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1-1-1-1H A300-600R-Compass_Airlines.jpg ↑(2枚)中国東方航空と、オーストラリア・コンパス航空の600R。自由化解放後の中国は内外とも需要が急増したため、座席数を確保できるA300の導入が相次いだ。東方航空は日本線でも同機を投入していた。コンパス航空はオセアニアで唯一600Rを運用し、主に大陸横断線やポリネシア方面へ運航した(ウィキペディア英語版より)

日本では一足先に新幹線が開業し、飛行機は後を追う形だったが、ヨーロッパでは逆に飛行機を鉄道が追いかけたのだ。

1便当たりの輸送力と言う点では鉄道に敵わないが、それまでせいぜい150席程度だった飛行機が、A300によって一気に300席以上で輸送するようになったのだ。

しかも高速であり、短距離路線ならば多数の便を往復させることも可能だから、当時の鉄道会社は大きな衝撃を受けたのである。

また初期型A300では、設計の段階でさらなる発展も考慮してあった。

先に書いたように、同機は当時標準的な3人乗務機として開発されたが、将来的に2人乗務が可能であるよう、コクピットのシステムが整えられていた。

同機のシステムはもちろんアナログだが、緊急時におけるフューエルセーフ機能はアメリカ機のそれよりも進んでいて、自動化されていた。

操縦システムも従来の油圧・電気式だが、「フライ・バイ・ワイヤ」に変更しやすいように設計されていた。

先にも書いたようにA300のコクピットは従来型のアナログ式だが、アメリカ機にはない集約性を持たせており、航空機関士の操作パネルを天井側に移設させることも可能であった。

これによって機関士は常に前方を向いて操作で着。かつパイロットへのアシストがしやすいよう工夫されていた。

実はこのシステムは「2人乗務」を前提に開発されたもので、「FFCC(Foward Facing Crew Cockpit」と呼ばれる。

このシステムを搭載した機体は、テスト飛行で世界初の2人乗務ワイドボディ機として記録されており、実はB767が最初ではなかったのである。

このFFCC仕様のB4は、フィン・エアとインドネシアのガルーダ航空が発注し、さらに数社からの受注を得た他、既存の機体を改修したものも存在する。

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1-1-1-1H A300-B4-203FF-Qeshm_Air.jpg ↑(4枚)B767より先に「2人乗務化」を実現した「B4-200FF」。アナログ式のコクピットではあったが、システムを統合することで、設計段階から2人乗務が考慮されていた。純アナログコクピットのワイドボディ機では、この「200FF」が唯一の2人乗務機である。フィン・エアとガルーダ・インドネシア航空が最初に発注した。下はイラン航空が中古で購入した200FFで、4枚目も同じくイラン、ケシェム航空の200FF。現在はラインから外れて「退役」扱いになっているが、いつでも復帰できるよう整備保存されている。そういう意味で、飛行できる貴重な200FFと言える(ウィキペディア英語版より)

すなわちA300の開発段階で、既に現在の「標準」となる「2人乗務の双発ワイドボディ機」を見据えて設計だったのであった。

加えてCF-6-50エンジンとJT-9DエンジンやAPU、エアコンなど一部の部品は、パイロンなどを含めてDC-10と共通だった。

これはDC-10を導入したエアライン、もしくは導入を検討しているエアラインに対して有利な事であった。

ただ唯一の欠点は航続距離の短さで、燃料タンクを増大させたB4-200でも運用ベースだと最大で5,500キロ程度と中距離機の範囲を出なかった。

1-1-1-1H A300-B4-Singapore_Airlines.jpg ↑シンガポール航空のB4。同社にとって最初のエアバス機だった。東南アジアのみならず、アジア線全体で運用され、一時期は日本線に投入された事もある。ただし航続距離の関係で経由便で運航された(ウィキペディア英語版より)

最もそれが同機のコンセプトだった訳だが、ライバルと見ていたDC-10は10,000キロに迫る長距離性能を持つようになっており、エアバスもやはり長距離機は必須であった。

そこで単純ながらも、A300の胴体を短縮し、自重を減らす事で航続距離を伸ばしたのが「A310」だった。

最初こそA300に失笑したアメリカだったが、双発機の安全性と経済性は将来的に必須と見るようになり、その答えがボーイングのB767である。

同機の登場で、双発機による長時間洋上飛行規制「ETOPS」が見直され緩和されることになると、時代は徐々に双発機へ傾いていく。

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1-1-1-1H A300B4-603,_Lufthansa_Ecconomy.jpg ↑DC-10よりやや細い胴体径を持つA300のキャビン。エコノミークラスは2-4-2、8列、上級クラスは2-2-2の6列が標準。このレイアウトは、A330neoが登場した現在まで受け継がれている。画像はルフトハンザ、600アールのビジネスクラスとエコノミークラス(ウィキペディア英語版より)

A310は単に胴体を短縮させただけでなく、エアバスが温めていた発展性を盛り込んだ機体になった。

A310は当初「A300-B10」と言う名称で、あくまでA300のバリエーションとして考えられていたが、「中身」もかなり変更したことから新たなモデルとして「A310」に変更された。

同機は座席数こそ少なくなったが、10,000キロ近い航続距離を持つ事になり、エアバス初の本格的長距離機になった。

同機の新機軸をフィードバックする形で開発されたのが「A300-600」であり、正式には「A300-B4-600」と言う。

「600」の原形機は83年に初飛行し、翌年にはローンチカスタマーのサウディアによって営業運航を開始した。

1-1-1-1H A300B4-620,_Saudia.jpg ↑サウディアのA300-600(ウィキペディア英語版より)

同機の全長は54.8メートル、翼幅は44.8メートルと、全長は僅かに長く、翼幅は同じである。

全長が伸びたのは、A310で開発した空力性を向上させた尾部とやや大型化した尾翼を付けた為だ。

システム・部品ともA310と共通部分を多く持ち、主翼の高揚力装置も簡略化された。

最初の生産型「600」の直後に作られた「600R」は同シリーズのメインモデルで、A310と同じく水平尾翼に燃料タンクが増設されている。

ここの燃料は、消費量に応じて胴体タンクと行き来させて機体のバランスを取るシステムを採用しており、離陸重量の大幅な引き上げに貢献している。

コクピットもA310で実用化された2人乗務機、グラスコクピットが採用され、両機種のライセンスが共通化された。

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1-1-1-1H A310-204,_S7_-_Siberia_Airlines.jpg ↑(2枚)A300初期型のコクピットと、グラスコクピット化された600のコクピット(画像はA310)(ウィキペディア英語版より)

エンジンは「600」ではCF-6-80とJT-9D-7Rに加え、PW4158が指定されたが、「600R」ではJT-9Dが廃止された。

航続距離は「600」で最大約7,000キロ、「600R」で約8,000キロ。

この数値はB767の「「ER」と比べると低い水準だが、A310があったことで割りきった。

外観こそ「初期型」であるA300とほぼ同じであるが、中身のそれは「A310」と同格であり、A300はあくまで中距離機と言うカテゴリーだった。

それでも初期型の比べて、エアラインの反応は高かった。

600は84年、600Rは87年にデビュー。

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1-1-1-1H A300-600R American_Airlines_Main_Cabin.jpg ↑(4枚)600型で、ついにアメリカのメジャーが採用に踏み切った。アメリカン航空は老朽化したDC-10の後継機として600Rを採用。34機を導入した。600型の新造機では最大の導入数で、国内線の他カリブ海諸国や中南米路線で活躍した(ウィキペディア英語版より)

主力となったのはもちろん後発の600Rで、先に書いたように水平尾翼の燃料タンクの他、翼端には整流性を高める為の「ウイング・チップ」が装着された。

今の旅客機では当たり前となったウイングレット・ウイングフェンスだが、標準装備として装着されたのはA300-600Rが最初であった事を忘れてはならない。

操縦システムも初期型をベースに改良され、動翼の一部はフライ・バイ・ワイヤ化された。

胴体と主翼の一部には複合材も用いられ、全体の重量は軽量化された。

ルフトハンザのように初期型から導入し、更新機材として600・600Rを導入したエアラインもあったが、逆に600で初めてA300を運航するエアラインも多かった。

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1-1-1-1H A300-B2K Mahan_Air.jpg ↑(4枚)経済制裁で、機材更新がままならないイランでは、A300は今も貴重な戦力機材。制裁の監視をかいくぐるかのように、世界中から中古機・部品をかき集めている。故にエアラインごと調達するのではなく、国が行い機材を各エアラインに「分配」するシステムが取られている。その為機体の所属は年単位で入れ替わり、かつ古い機体は時間をかけて整備保存・再生させることから、機数は一定しないのが現状だ。少なくとも革命前に導入したボーイング機よりは機齢が若い為、初期型A300も、複数がいつでも復帰できるように保存されている。現時点で初期型の運用は見られないが、600・600Rは20機以上が現役にあると思われる。上からイラン国営航空、メライ航空の600R。マハーン航空の600とB2K。600型ではあるが、翼端のウイングチップがレトロフィットされている(ウィキペディア英語版より)

アメリカでは既にB767がデビューしており、A310に大いに触発されての開発だったが、A300は輸送力重視型としてヨーロッパだけでなく、途上国のエアラインの人気も高かった。

中には長距離用にA310、短中距離用にA300と運用する途上国エアラインも見受けられた。

両機は別機種であるが、パイロットのライセンスは基本的に共通で、メンテナンスも共通部分を持っていたからだ。

1-1-1-1H A300-600RF A7-ABY_Qatar_Cargo.jpg ↑カタール航空の600RF。今でこそ最新鋭機をバンバン飛ばす同社だが、00年代までは小規模の新興エアラインだった。600Rは00年代初期までの主力機で、主にヨーロッパ線で活躍したが、その後貨物機に改造され、近年まで現役にあった(ウィキペディア英語版より)

ただA310と並んで、初期には大きな事故も何度か起こしている。

これは初期型では見られなかった傾向で、その原因の多くは自動化されたシステムの統合製の欠如にあった。

94年に旧名古屋空港で発生したチャイナ・エアラインズ140便事故では、着陸直前にパイロットが意図せず自動操縦のモードを切り替えてしまい、それに気付かず相反する操縦を続けたため、機体は垂直に近い上昇姿勢になって失速・墜落した。

同社は4年後に676便で同様の大事故を起こしており、パイロットの操作ミスに加え、自動操縦装置のフューエルセーフ機能の統合製が欠如していた結果であったとされる。

1-1-1-1H A300-600R-China_Airlines.jpg ↑チャイナ・エアラインズの600R(ウィキペディア英語版より)

エアバス社も緊急時における誤作動を認識していたものの、エアライン側に的確な操作法や装置の改良を徹底していなかった。

また01年に発生したアメリカン航空587便事故では、離陸直後風による揺れに驚いたパイロットが、修正しようとラダーを踏み込んだところ、踏み過ぎてかえって姿勢が変わってしまい失速して墜落した。

これは同機のラダーを操作するペダルが、他機の比べて軽く作られていた事の加え、ラダーの動く範囲も大きく取られていた事が原因だった。

1-1-1-1H A300F4-600 AIR HONGKONG-B-LDG.jpg ↑エア・ホンコンの600RF。現在も日本に飛来する、貴重な現役のA300(ウィキペディア英語版より)

ただし機体自体の欠陥ではなく、一種の特徴であったのだが、パイロットがその「クセ」を周知しておらず、緊急時における訓練も充分されていない事が最も大きな原因だったとされた。

80年代後半から90年代は、A320が急成長した時代で、世界中のエアラインはアメリカ機とともにエアバス機を併用することも多くなっていた。

それはパイロットの移行も増える訳で、アメリカ機とエアバス機の違いが充分浸透していない時期だったとも言える。

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1-1-1-1H A300-600R-C4-Kuwaiti_Government.jpg ↑(2枚)エジプト航空の600RFと、クウェート政府の600R-C4(ウィキペディア英語版より)

600のバリエーションは、貨物型の「F」と貨客両用型の「C」がある。

両社の正式名称は「A300F4-600」「A300C4-600」であり、ややこしい。

一般的には「600F」「600C」などと呼ばれることが多く、どこか自動車の呼称と似ていて、アメリカや日本のそれとは印象が違う。

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1-1-1-1H A300-600R C4 MNG_Airlines.jpg ↑(2枚)トルコ、MNGカーゴの600RFと600R-C4。前者は旅客機から改造機、後者はC4ながら、客室窓を埋めており外観上はRFと同じだ。さらにRFは新造機と改造機が存在し、形式上はどちらも「RF」である(ウィキペディア英語版より)

また旅客型から改造した貨物機も多く存在するが、こちらは「A300B4-600R(F)」が正式名称で、余計ややこしい。

これも基本的には「600RF」と呼ばれるが、新造機・改造機の区別がなく、エアライン側が(F)としている事が多い。

日本では80年に旧東亜国内航空が初期型である「B2K」を受領、日本で初めてエアバス機の運航を開始した。

以前も書いたように、エアバス社は同社にたしするセールスに非常に熱心で、それに感動した東亜側はコーポレートカラーの移譲を懇願。

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1-1-1-1H A300B2K-3C_JAS (JA8464).jpg ↑(2枚)セールスのため世界各地をデモンストレーションで訪れた3号機のB2。デモに合わせて「レインボーカラー」が施された。下は東亜航空時代の80年に導入された初号機「JA8464」(ウィキペディア英語版より)

エアバス側は当初は断ったものの、あまりの熱心さに根負けし移譲することにしたと言う。

最もこのエピソードはエアバス側は否定的で、単なる「使用許可」に過ぎず、カラー自体も大したこだわりがなかっただけとも言う。

事実この後開発されたA330・340の原形機でも、やや色調を変えながらも使用されており、ブルーを基調とした現在のカラーになるのは少し先の事である。

それでも日本初上陸のエアバス機は、当時のメディアを賑わせた。

同機をきっかけに、東亜国内航空のイメージカラーは、それまでの「レッド&グリーン」から、鮮やかな「レインボーカラー」に変更された。

ライン塗装とは言え、レッド・イエロー・オレンジが目立つ塗装は日本初の事で、どこにいても目立つ存在であった。

1-1-1-1H A300-B4C-JAS JA8237.jpg ↑運航実績が好調だった為、日本エアシステム(JAS)に社名を変更した後も増備が続いた。しかし生産は600型に移行したため、B4の増備のいくつかは海外からの中古機で調達した。画像の「JA8237」は元々リビア航空が発注した機体で、アメリカとの紛争が発生したことからフランスに保管されたままになっていた機体だった。しかも同機は貨客両用型の「C」型で、胴体左側前方にカーゴドアがついている。JASでは貨物機として運用したことはない。よく見るとキャビン前方の客室窓の一部がなく、この部分にカーゴドアがある。筆者も同機に何度か搭乗したことがあるが、キャビン内では内装材で保護されていてドアの存在を窺い知ることは出来なかった。600まで通して、日本で唯一運用されたC型である(ウィキペディア英語版より)

国内の規制が緩和され、自由に路線を開設できるようになったことに合わせ、それまでローカル線専門で小型機しか保有していなかった同社にとって、A300は初めての大型ワイドボディ機であった。

当初は幹線の主力機として活躍し、日本航空や全日空と肩を並べる事が出来るようになったが、同時に需要の多いローカル線にも投入された。

ひとえに同機の離着陸性能の良さを充分活かした運用であり、特に北海道や九州では、東京・大阪線の間合い運用で短距離線の運航も多かった。

89年に東亜国内航空は、国際線進出を狙って「日本エアシステム」に改称。

機材も、600Rで増備させた。

A300は東亜時代から非常に優秀で、大きなトラブル・事故もなく、定時運行率も高い機体だった。

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1-1-1-1H A300-600R JAS_JA8562.jpg ↑(3枚)初期型に代わって、22機が導入されたJASの600R。国内線は元より、韓国線や中国線など近距離国際線でも活躍した。それに合わせ、同社のA300として初めて2クラス制を採用した。国内線機材も「スーパーシート」として運用され、同社の主力機に成長した。下は飲料メーカーとコラボ企画で実現した「ポカリスウェット号」。実は日本で最初のアドカラー機でもある(ウィキペディア英語版より)

80年代後半には初期型の製造は停止され、600に移行していたが、海外から程度の良い中古機を探して導入までするほど気に入っていた。

初期型は合計17機が導入され、うち9機が「B2K」、8機が「B4-200」だった。

一方「600R」は90年代にかけて22機が導入され、国内線は元より国際線機材としても運用されるマルチ機材であった。

97年にはB777の導入が開始されたが、同機は完全な国内幹線用で、A300の方が活躍範囲は広かった。

日本エアシステムは00年代末、日本航空と統合することで消滅したが、初期型はそれ以前に退役したものの、600Rは継承された。

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1-1-1-1H A300-600R JAL JA8529.jpg ↑(2枚)日本航空と統合後、しばらくはJALのロゴを入れて日本エアシステムのフルカラーで運航された600Rだが、完全統合後は統合に合わせて採用された新塗装「アーク」に変更した。経営不振による再編で退役を余儀なくされたが、11年まで現役に留まり、初期型から約30年間、一度も重大事故を起こさなかった(ウィキペディア英語版より)

最も経営破綻による再編で、まだまだ寿命があるにもかかわらず整理という名目で退役を余儀なくされたが、その直前に発生した東日本大震災による輸送力補強のために、急きょ退役を延期したと言うエピソードを残した。

「if」を言っても仕方ないが、経営不振さえなければもう少し活躍できたであろうし、退役から約10年後には「A350」が導入された事は皮肉にも思える。

本体である日本航空は、A350までエアバス機を発注した事は一度もなく、日本エアシステムのA300が最初で最後だったからだ。

昔は半官半民のフラッグキャリアだったせいで、アメリカ機オンリーだったことが尾を引いていたと言えるが、A300自体は当然のように整理していたのだ。

日本航空機として活躍した期間は短かったが、相変わらず定時運航率に優れた機体だった。

日本エアシステム時代は、エアバス社から「優秀ユーザー」として表彰を受けたほどで、日本の空に良く馴染む旅客機であった。

1-1-1-1H A300-600RF GALAXY AIRLINES JA01GX.JPG ↑僅か2年で運航を停止したため、すっかり忘れ去られた感が強いギャラクシー・エアラインズの600RF。佐川急便グループが設立した貨物エアラインで、自社貨物専用として運航を開始したが、コストが膨らみ継続できなかった。2機が導入されたが、いずれも中古機だが、日本で運用された唯一のRFである(ウィキペディア英語版より)

何よりも、現在標準となった旅客機の形態を、いち早く実現したのがA300であることを、意外と忘れられているように思う。

後発のA330、そして4発機のA340は、いずれも胴体はA300と同じ意匠の物であり、A350はエアバスにとって「2種類目」のワイドボディである。

故に「XWB(エクストラ・ワイドボディ)」と言う別名を持つ。

言いかえれば、現時点でもエアバスのワイドボディはA300が「基本形」であると言う事だ。

真円形の胴体によって、広いキャビンと大きな容積を持つ床下貨物室を持ち、空力性を重視した高い離着陸性能、最大で400席に迫る輸送力、高い経済性と環境性。

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1-1-1-1H A300B4-622R(F)_EAT JA8566.jpg ↑(3枚)DHLの受託運航を行うヨーロピアン・エア・トランスポート・ライプツィヒの600RF。EATはグループ全体で30機以上の600RFを現役で運用中。元JAS・日本航空の600Rを導入し改造している事でも知られ、上は元JA8566、中は元JA8564だ。下は一目で日本航空とわかる元JA8566で、貨物機に改造された直後、塗装変更されないまま営業運航した時の画像。白色ボディのままなので、改造箇所がよくわかる(ウィキペディア英語版より)

そして世界初の「2人乗務のワイドボディ機」と言う称号を持つのに、知名度が低いのはどうした訳だろう。

さすがにB787やA350程の能力は持っていないものの、開発時期を考慮すれば「今」を見越した、それは恐ろしいまでの先見性を持っていた機体なのである。

00年代初めに製造は中止されてしまったが、現時点でもまだ現役で残る機体は多い。

そのほとんどは貨物機であるが、フェデックス・UPS、ヨーロピアン・トランスポートなど大手貨物エアラインは、未だ数十機のA300を運用中だ。

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1-1-1-1H A300B4-622RF FEDEX N742FD.jpg ↑(2枚)現時点で最も多くのA300を運用するフェデックス。同社は42機も新造機のRFを導入したが、その後も中古改造機で頻繁に入れ替えを行っており、今も70機以上を保有している。今のところ退役の予定はない(ウィキペディア英語版より)

いずれも新造機での導入より、旅客機を改造した中古機が圧倒的に多い。

フェデックスでは、リースによって安価で導入し、期間を迎えた機体は退役させているが、入れ替わりに新たな機体を次々導入しており、具体的な退役計画はない。

旅客機としては減少の一途を辿っているが、イランなどではまだ現役としてまとまった数が運用されている。

1-1-1-1H_A300-600R_JAL (JA014D.jpg ↑日本航空の600Rを、上から見たところ(ウィキペディア英語版より)

若い旅客機ファンなどは、既に「双発機」が当たり前であろうが、A300が登場した時には正に「奇異」に見られたのである。

50年経った今、世界を飛び回る旅客機の9割は双発機だ。

それ以上に10,000キロをゆうに超える航続距離さえ、双発機はもはや当たり前の時代である。

そう思うと、A300がやけに格好良く、凄い飛行機だったのだな・・・と感慨深いものを抱くのである。

月命日/飛行機ネタ マルチ旅客機の元祖DC-10(6月28日 晴れ 31℃)

※2日分の日記を掲載します。

◎6月25日 晴れ 35℃

何かの間違いだろうか?

35℃の「猛暑日」。

仙台は観測史上初めて、6月に猛暑日を記録した。

原因は夏の太平洋高気圧と、北に寄った低気圧・梅雨前線のせい。

低気圧・前線に向かって高気圧から暖かい空気が流れ込んだためで、加えて西寄りの風がフェーン現象を起こした。

仙台では日中15~18メートルの強風は吹き、湿度も30%代まで下がったから、高温は典型的なフェーン現象によるものだ。

最も午前9時には30℃を超えており、どう見ても8月前半と言った盛夏の暑さだ。
 
猛暑は全国的で、群馬県ではついに40℃を記録。こちらも6月としては初めてのことだと言う。

7月下旬であれば、身体も心もある程度準備が出来ると言うものだが、さすがに6月と思うと面食らう。

我慢したわけではないが、電気代が高騰していることもあり、「どこまで」我慢できるか試してみた。

もちろん熱中症にならないよう気を付けてだけれど、風があって乾燥していたせいか、家ではエアコンを付けずに済んでしまった。

扇風機も殆ど使わず、それでいて汗だくだとか暑いと言う感覚はなかったのは幸い。

むしろ湿度が上がった夕方以降の方が、何となく暑く感じて扇風機を回したほどだった。

まあ「夏」には違いないから、暑さにいちいち驚いていたらキリがない訳で。

この暑さは今日がピークだそうだが、平年以上の暑さは数日続く見込みだと言う。

しかし先に書いたように、電気代の高騰はゆゆしき問題で、ついエアコンの使用をためらう人が増えるのではないか心配だ。

気象庁はいつものごとく「我慢せずエアコンを使用し、熱中症対策を」と言うが、電力容量のひっ迫など、言っている事とやっている事がめちゃくちゃではないか。

特に低所得者層には電気代値上がりは厳しく、私でさえ使用料は増えていないのに昨年より数百円以上上がっている。

光熱費だけでなく、ありとあらゆるものが値上げばかりして、政治は救済しようとしない。

ちょうど参院選、国民ははっきりと政治に「口出し」すべきだと思う。


◎6月28日

暑い!暑い!

今日までに全国では「梅雨明け」になってしまい、残すところ我が東北だけになっている。

しかも予想として、明日明後日中には東北も「梅雨明け宣言」になりそうで、6月中と言う異例中の異例な事態になりそう。

この時期は気まぐれに暑くなることは珍しくないが、こう連日と言うのはあまり記憶がない。

仙台も先週末からほぼ毎日30℃超えで、何よりも本格的な暑さはまだ先・・と思っている体にはきつい。

それでも東北はまだ良い方で、関東の内陸などは連続の猛暑日を過ぎて「40℃」前後が続いている。

やはり「異常気象」と言う他なく、一体これからどうなってしまうのか・・と心配だ。

体はいずれ慣れて来るだろうが、急な猛暑に電力不足が懸念されている。

政府や電力会社は、連日の猛暑で電力需要が急増。節電を呼び掛けているが、現代の日本でなぜ?と言う疑問はぬぐえない。

電力会社は原発の停止や、地震などの災害で稼働していない発電所を理由に上げるが、昨年も夏・冬にひっ迫を上げている。

猛暑や厳寒は今に始まった事ではなく、何を今更・・と思う。

近年「脱CO2」が流行して、自動車を筆頭に「オール電化の世界」が叫ばれているが、今の状況を見たら全くのお笑い草ではないか。

国民の生活も、意識しないうちに、古い言葉を使えば「電脳世界」が当たり前になっていて、それこそ電力が不足したらどうするのだろう。

昔とある国が、豊富な水資源や鉱物資源を活かして国中に発電所を作り、まさに「電脳国家」を建設しようとした。

都市はもちろん、農村部まで一気に電気が通じ、鉄道は全線を電化して世界でトップクラスの電化率を達成した。

街もどんどん電化で整備され、国民の生活は豊かになった。

しかしその「夢」は、長続きしなかった。

世界情勢の変化、そしてその国は「独裁国家」でもあったため、世界から孤立していた。

発電所だけでなく、送電設備はどんどん老朽化し、直すにもお金がなく、資源も掘り出せなくなった。

そして電気は足りなくなった。

偉大なる「首領様」は理想の国家を実現させてくれたが、永年の保証はなかったのである。

これは30年も前のことで、当然その国は今も同様の状態から抜けていない。

その国とは全く事情は異なるけれど、「電気不足」で国が弱体化する事は実際あり得ると言う事だ。

そもそも今の日本は、その国以上に電気に頼り過ぎだと思う。

それこそほんの30年ぐらい前までは、充分足りていた。

要するに現代日本は、必要以上の電力を使い過ぎているのだ。

便利な生活は結構なことだが、ほんの30年前になくても生活に不便は感じなかったはずである。

本当に必要なものだけ、と今こそ考える時ではないか。

だいたい今叫ばれている「エコ」は、それをするために電力を要するのである。



28日、今日は母の5年3ヶ月目の「月命日」。

少しずつ母といた日が遠くなる。

それを思うと、辛いし悲しく寂しい。

毎月この日の前後になると、今頃の時期の母は何をしていただろう・・と思う。

結構季節を味わう事が好きで、それは草花だったり、旬の食べ物だったり。

年中ボーっと生きている私は、あまり興味を示して聞いた事が少なかった気がするが、最近はふと思い出す事も多い。

意識していなかったけれど、残った私が母の想いや生き方を、僅かかも知れないが受け継いでいるようにも思う。

そう考えると、母がいなくなったこの歳月は、実に短く、そして記憶に薄い。

まるでタイムマシンに乗った様な感覚で、母の全ては鮮明に覚えている。

いつもより早く到来した「夏」を、母に報告する。

そして今日も、これからもこの場所で母と生きて行くのだ。

人には笑われるだろうが、今も出かける時は「行ってきます」、帰宅した時は「ただいま」を言うし、今日あったことを報告している。

食事もあの時と全く変わらず、テーブルを挟んでテレビを見ながら摂る。

愛用していた座イスを毎晩出して、茶碗にはご飯をよそい、箸を置いて。

未だ調理は不得手で、メニューもワンパターン。半数以上が出来あいのお惣菜や冷凍・レトルト食品だけど、そのぐらいは大目に見てもらおう。




辛うじて熱帯夜は避けられているが、夜もまだまだムッとした空気が漂う。

日中は何とかしのげても、問題は夜の暑さ。

今のところ、辛うじて「熱帯夜」にはなっていないが、今後一週間程度は猛暑が続きそうで時間の問題だろう。

一晩中エアコン、と言うのは電気代を考えると気が引けるし、身体にも良くないように思ってしまう。

さりとて窓を全開・・と言うのも、音や防犯上気になってしまい、悩ましいところだ。

いずれ慣れては来るだろうが、まさか1カ月も早く「夏」になるとは予測していなかったので、結構きつい。

まだ夏休みには早いし・・。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

6月だと言うのに、この猛暑。

君は大丈夫でしょうか?

暑いのは平気だと言っていた気がしますが、いきなりの連続猛暑、油断は禁物です。

天気が良いのは嬉しいですが、ちょっと暑すぎですね。

まだ身体が順応していないので、体調管理には充分注意して下さい。

「隠れ熱中症」も多いと聞きますので、水分補給はもちろん、できるだけ涼しい環境で過ごすよう心がけて下さい。

早すぎる夏に戸惑いを覚えますが、夏を楽しめるよう過ごして下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



ほととぎす 思はずありき 木の暗の かくなるまでに 何か来鳴かぬ(万葉集巻八 1467大伴宿禰家持)






飛行機ネタ。

「3発ワイドボディ機」と言うのは、文字通り3基のエンジンを持つワイドボディ機の事であるが、史上3機種しかないのは意外と言えば意外。

これまで何度も書いて来たように、MD社(マクドネル・ダグラス)の「DC-10」と「MD-11」、ロッキードの「トライスター」だけである。

ファンには周知の事だろうが、MD-11は実質的にDC-10の改良・発展型と言えるから、オリジナルと言う点では2機種しか存在しない事になる。

1-1-1-1G DC-10-40I,_Japan_Airlines_JA8535.jpg ↑日本航空のDC-10-40。76年に就航を開始。20機が導入され、国内線・国際線双方で、約30年間に渡って活躍した(ウィキペディア英語版より)

ちょうど50年前の夏1972年(昭和47年)7月、羽田空港にMD社の最新鋭機DC-10が、デモンストレーションに訪れた。

その様子は各メディアでも取り上げられたそうだが、それが功を奏してか、翌73年に日本航空が20機を発注した。

最もこれには些かカラクリがあって、前年に全日空が初のワイドボディジェット機としてトライスターを発注していたと言う事情が絡んでいた。

1-1-1-1G DC-10-10 First_McDonnell_Douglas_DC-10.jpg ↑MD社のハウスカラーを施したDC-10原形初号機。72年7月、デモンストレーションとして羽田空港と大阪・伊丹空港に飛来した(ウィキペディア英語版より)

DC-10もトライスターも、60年代に提起された「エアバス構想」に基づいて開発された旅客機だった。

これは現在のメーカー名である「エアバス社」とは違い、飛行機を「バス」のように気軽に乗れるような運用構想の事だった。

60年代以降、アメリカでは民間エアラインの競争が激しさを増していて、営業権の規制緩和が動き出した時代であった。

航空先進国アメリカでも、それ以前まではまだ飛行機は高価で特別な交通手段だったが、ジェット時代を迎えると急激に浸透し始めていた。

しかし比較的短距離の路線では、初期のジェット機ではコストの方が高くつき、B707やDC-8のようにもっぱら大型の長距離機が主流だった。

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1-1-1-1G DC-10-10,_American_Airlines_N909WA.jpg ↑(2枚)DC-10のローンチカスタマー、アメリカン航空のDC-10-10。規制緩和による競争激化のため、大陸横断が可能な大型機として導入した。同社は最も多くのDC-10を運用したユーザーの一つで、30年以上活躍した。89~90年代は全米の空港で見られた主力機種で、国内線の他カリブ諸国や中南米路線の主力でもあった。多少写り込みがあるが、下は珍しい「ホワイトボディ」のDC-10-10。これは元ウエスタン航空の機体だったため。3機がアメリカン航空で運用されたが、キャビンの仕様が異なり使い勝手が悪く、短期間で離脱している(ウィキペディア英語版より)

60年代になると、小型機用のエンジンの開発が開始され、当時のダグラスは90席級の「DC-9」を開発し、国内向けとして成功を納めていた。

一方ボーイングは、B747と言うけた外れの超大型4発機を開発し、世界そのものがジェット時代を迎えたのである。

だが規制で長距離国際線を持たず、近距離国際線や国内線が主体の大手はB747では大きすぎ、DC-9では座席数も航続距離も少なく、「エアバス構想」には不向きであった。

大手エアラインの一つ、イースタン航空は機材こそ小さいものが多かったが、ニューヨーク~ボストンなど短距離幹線でシャトル便を運航していた。

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1-1-1-1G DC-10-30CF_United_N1856U.jpg ↑(3枚)ローンチカスタマーの一つ、ユナイテッド航空。上は導入当初の塗装で「フレンドシップ」と言う独自の愛称を付けていた(第二エンジン部分に記入されている)。同社も長期間、延べ50機以上を運用した。主に国内線・近距離国際線で活躍したが、後期には30型も導入し、貨物型に改造した機体も存在する。下は貨客両用型の30CF。日本線でもハワイ線などで定期便として飛来していた(ウィキペディア英語版より)

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1-1-1-1G DC-10-10 Western.jpg ↑(2枚)ナショナル航空とウエスタン航空のDC-10-10。それまでナローボディ機しか保有していなかった中小エアラインは、DC-10の登場で大量高速輸送が可能になって多くのエアラインが導入した。しかしそれは競争を激化させることにもなり、各社の統合・再編も相次いだ。前者はパンナム、後者はデルタ航空に合併・吸収された(ウィキペディア英語版より)

それこそ電車やバスのように多数運航し、空いていれば予約なしでいつでも乗れると言うサービスで好評を得ていたのだった。

これを見たライバルであるアメリカン航空やユナイテッド航空は、対抗するべく国内線向けの中型機が出来ないか、ダグラスに持ちかけていたのである。

タイミングの良い事に、ダグラス自身も同様の事を考えていた。

それは先に開発された米空軍の新型戦略輸送機ロッキード「C-5ギャラクシー」に搭載された、大型ターボファンエンジンが民生用として開発が開始されていたからであった。

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1-1-1-1G DC-10-10,_Sun_Country_Airlines.jpg ↑(2枚)デルタ航空とサン・カントリー航空のDC-10-10。実は「レア」なデルタのDC-10で、合併したウエスタン航空の機体。数機が使用されたが、同社は元々DC-10を発注しておらず短期間で放出されてしまった。サン・カントリー航空はチャーターエアラインだが、現在は定期便も運航している(ウィキペディア英語版より)

このエンジンはGE社が開発した「TF-39」と言うターボファンエンジンで、それまでに開発されていた小型の低バイパスエンジンとは一線を画する大口径ファンを持ちいた高バイパスエンジンであった。

高バイパスエンジンの理論は既に確立していたが、材質など技術面で未解決問題を残しており、TF-39が事実上初めて量産・実用化した高バイパスエンジンだったのである。

メーカーのGE社は、このエンジンをベースとした民生用「CF-6」エンジンを開発しており、実用化すれば低燃費・低公害の大型機が可能になるのであった。

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1-1-1-1G DC-10-15,_AeroMexico.jpg ↑(2枚)メキシコのエアライン、メヒカーナ航空とアエロメヒコが導入したDC-10-15。基本は10型と同じで、エンジンもCF-6-6だが出力を上げたタイプを搭載する。両社の拠点となる首都メキシコ・シティは標高が2,200メートル以上の高地にあり、有効酸素量が不足するためエンジンの出力を上げることで離着陸性能を維持させた。15型は両社だけの発注で7機が生産された。当時としては珍しいゴールドを纏ったメヒカーナ航空機はなかなか格好良い(ウィキペディア英語版より)

そこでダグラスは、アメリカン・ユナイテッド双方に対し、一定数の発注を確約することで正式に開発をスタートさせたのであった。

CF-6の見通しがついたことで、ヨーロッパではフランス・ドイツ(当時は西ドイツ)を主体とした国際合弁企業「エアバス社」が設立され、同社初の機体となる「A300」が計画されていた。

同機はCF-6エンジンを持ちいた「双発ワイドボディ機」で、極めて経済性を重視した機体だった。

域内運航を想定したため、座席数はそれまでのナローボディ機の倍である300席前後とし、代わりに航続距離は最大でも4,000キロ程度とされていた。

しかし当時はまだジェットエンジンの信頼性が低く、洋上飛行規制いわゆる「ETOPS」が厳しく設定されていた。

1-1-1-1G DC-10-10,_Hawaiian_Air.jpg ↑ハワイアン航空の10型。同社は本土用としてトライスターを導入したが、90年代にDC-10と交替させると言う、変わったエアラインだった。DC-10は中古機での購入で、ポリッシュド・スキン塗装(銀塗装)から元アメリカン航空機とわかる。00年代まで同社最大の機体として活躍したが、その後B767、そしてA330と変化。B767時代には念願の日本線を開設した(ウィキペディア英語版より)

A300は域内を中心に、長時間の洋上飛行を必要としないと言った観点から、あえて双発機にしたのだが、アメリカでは懐疑的であった。

事実ダグラスは当初、DC-10のコンセプトを双発機に考えていたのだが、ローンチを考えているアメリカメジャーの多くは安全性を理由に3発機を望んでいた。

確かに実用化はされたものの、極初期のCF-6エンジンは不具合が多く、トラブルが多発しており、メジャーの考えも否定できなかったのである。

1-1-1-1G DC-10twin.png ↑70年代に考えられていたDC-10の双発機バージョン、その名も「DC-10ツイン」。CF-6エンジンの成功とA300のデビューを見て、経済性の高いモデルとして提案された。しかしメインユーザーであるアメリカのエアラインは全く興味を示さず、草案だけに終わった。だがもし実現していたなら、アメリカ初の「双発ワイドボディ機」になったはずで、B767や777に影響を及ぼしただろう(ウィキペディア英語版より)

結果確実性と言う点で3発機と決まり、座席数は標準で300席前後、航続距離は3,500~4,500キロ程度と言う要求が提示されたのである。

これは北米大陸を直行できるパフォーマンスであり、実際DC-10もライバルのトライスターも「中距離機」と言うカテゴリーであった。

アメリカン・ユナイテッド・デルタは、B747も採用したが、大陸横断できる性能はあるものの、国内線と言う枠の中では運航コストの方が高くついて、いずれも短期間の運用に留まった。

結局大陸横断路線や幹線は、B747より小さくかつ航続距離が長いが、既に旧式化しているB707やDC-8に頼らざるを得ず、DC-10は大きな期待をかけられた最新鋭機であったのである。

そして68年、アメリカンとユナイテッドがそれぞれ確定50機、オプション50機を発注し、DC-10は正式にローンチ。

70年に原形初号機が初飛行、71年にアメリカン航空・ユナイテッド航空で初就航を果たした。

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1-1-1-1G DC-10-30 -Continental_Airlines.jpg ↑(2枚)コンチネンタル航空の10型(上)と30型。アメリカン・ユナイテッドに次いで、DC-10を導入したコンチネンタル航空。当初は国際線が少なかったが、ハワイやミクロネシアなど太平洋地域の「国内線」が多かったため、当初から比較的長距離路線で運用された。90年代前半までは子会社「コンチネンタル・ミクロネシア航空」にも配属され、日本線の主力機の一つとして最もDC-10で飛来する海外エアラインの一つだった。東京~グアム~サイパン線も運航され、グアム発着便の接続便として利用した日本人は多いはず。日本にはハワイ線は30型が多かったが、ミクロネシア線は10型が主力で、日本線で定期運航された貴重な10型でもある(ウィキペディア英語版より)

DC-10の全長は55.5メートル、全幅50.4メートル。

大きさとしては後のB767-300に近く、トライスターとはほぼ同格である。ただし翼幅はDC-10の方がやや大きく、面積も大きい。

主翼の後退角もトライスターと同じく35度あり、現在の機体よりも鋭いと言える。

前縁には大型のスラット、フラップはダブル・スロテッドタイプを持ち、優れた離着陸性能を持つ。

1-1-1-1G DC-10,_Biman_Bangladesh.jpg ↑正面から見たDC-10-30。大型の高揚力装置、上半角が強い水平尾翼など、現代機にはない個性的なスタイルが魅力だ(ウィキペディア英語版より)

同機のバリエーションは、大きく分けて3種類あり、それにサブタイプが加わる。

だが外観的には初期生産型と後期生産型に大きな違いはなく、発展型としてのバリエーションは仕様の変更によるものだ。

一方トライスターは、生産後半に胴体を短縮・自重を軽くして航続距離を伸ばしたタイプが生産されており、DC-10と対照をなしている。

両者とも3発ワイドボディ機と言う点で一致しているが、生産開始後の発展・改良過程が大きく異なるのが特徴とも言える。

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1-1-1-1G DC-10_Engineer_Panel.JPG ↑(2枚)DC-10のコクピット。下は航空機関士席で3人乗務機である。同じアナログコクピットながらも、最新の技術を盛り込んだトライスターとは対照的に、手堅く従来の方式を採用した(ウィキペディア英語版より)

DC-10自体の最大の特徴は、なんといっても尾部に装着した「第二エンジン」だろう。

60年代にはB727やトライデント、ツポレフ154など、ナローボディ機でも3発機が作られたが、いずれも第二エンジンはS字ダクトを用位、胴体の尾部に埋め込むように装着されている。

これは機体の空気抵抗を考慮すれば当然のデザインと言えるが、エアインテイクからエンジンまで距離があり、かつS字に曲がっていることから流入効率が悪く、場合によってはストールの原因にもなる可能性があった。

1-1-1-1G DC-10-30 Amsterdam_Airport.jpg ↑ファンには有名な機首部分。コクピット右側航法の窓には「壁」の様な物が見えるが、これは機関士用の操作パネル。本来は窓の後ろ側に位置するはずだったが、設計後エアライン側からもう少しキャビンを拡張して欲しい・・と言う要望が出たため、急きょ内装だけを変更した結果、止むなく機関士席を数十センチ前方にずらす事になって、パネルが窓にはみ出してしまったのだ(ウィキペディア英語版より)

また胴体の構造・工作も複雑になる欠点があり、ダグラスは敢えて別の装着法にした。

それは垂直尾翼に「串刺し」にしたように装着する方法で、これならば空気流入の問題は殆どなかった。

ただし垂直尾翼の面積が減り、エンジントルクで直進性が強まることから、ラダーを上下2分割にして効きをよくしている。

また整備性と言う点では、S字ダクト式より劣り、エンジンの位置は地上10メートル近くになることから、脱着には専用の機材を必要とした。

1-1-1-1G DC-10-10,_Pan_American_World_Airways.jpg ↑トライスターのユーザーだったパンナムだが、ナショナル航空を統合した後、同社が保有していた10型を、短期間だったが継続して運用した。パンナムにとっては「望まない」DC-10だったが、これにより同機はアメリカの大手エアラインを制覇したことにもなった。これもレア機の一つ(ウィキペディア英語版より)

でもメリットもあった。

意外と知られていないことだが、この第二エンジンは主翼のエンジンと同じように「パイロン」を介して吊り下げてあると言う事だ。

尾翼付近をよく見ると、テールコーン上部にカバーのようにフィレットがついているが、実はこれが「パイロン」の一部。

それが整流板の役目も果たすようになっているのだが、パイロンとしての役目も果たしている訳だ。

すなわち主翼のエンジンと部品が共通化されている訳で、意外にも整備性を考慮されていたのである。

1-1-1-1G DC-10-30,_Northwest_Airlines_N233NW.jpg ↑後方から見た迫力あるDC-10の姿。特徴的な第二エンジンは専用のパイロンに取り付けられている(ウィキペディア英語版より)

また同機の水平尾翼は異様に大きく見えるが、これもごつい第二エンジンに対応させるためであった。

しかもジェット旅客機としては、かなり大きな上半角を持たせており、機体規模の割には不釣り合いとも言える大きな尾翼である。

第二エンジンによって、機体の重心を後ろに置いているため、どうしてもテールヘビーになりやすく、半ばアンバランスなスタイルになってしまったが、それが同機の魅力とも言えよう。

1-1-1-1G DC-10-30,_Eastern_Air_Lines.jpg ↑イースタン航空と言えば、トライスターのローンチカスタマー。DC-10は使ってないのでは?と思うが、大西洋路線ではトライスターの航続距離が乏しかったため、DC-10-30を80年代後半に5機導入した(ウィキペディア英語版より)

基本型となるのは「10」型で、航続距離を大幅に延長した「30」型、エンジンをP&W製「JT-9D」に変更した「40」型が主なバリエーションである。

ラインナップとしてはやや薄いと思えるが、実際には細かい仕様が多く存在するのがDC-10の特徴でもある。

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1-1-1-1G DC-10-40,_Northwest_.jpg ↑(2枚)大幅に性能を向上させたCF-6-50エンジンの登場で、DC-10は本格的な長距離性能を持つに至って、「30」型がメインモデルとなった。画像は日本でもお馴染みだったノースウエスト航空の30型と40型(下)。40型はエンジンをP&W製「JT-9D」に換装した型で、当初は「20」型として計画されていた。導入はノースウエスト航空と日本航空だけで、CF-6よりもやや出力が劣る為、航続距離も若干短い。外観上区別が難しいが、下の40型では第二エンジンのカウリングが少しくびれているのが分かる。これはJT-9Dの直径がCF-6よりも小さいためである(ウィキペディア英語版より)

大きく変わったのは「30」型からで、それ以前の10型は当初の目的である座席数の多い中距離機と言う位置づけだった。

しかし将来的にはB747を補完する役割、古くなったB707やDC-8の代替え機として売る為に、長距離用に発展させることも考えられていた。

同機はトライスターに比べて、全体的に武骨なスタイルを持つが、これも発展性を持たせた結果であった。

胴体と主翼、主翼中央部(胴体との結合点)などには追加の燃料タンクが装備できるように設計されており、「30」型では「10」型と比べ、燃料の最大積載量は40%以上も増加する事が出来た。

だがそれだけでは機体が重くなるだけで、逆に燃費が低下してしまうが、CF-6エンジンもまた、発展の余地を充分持ち合わせていた。

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1-1-1-1G DC-10-30CF,_Sabena.jpg ↑(6枚)30型の登場で、世界各国からの受注も相次いだ。747程の需要がなく、運航コストが安く長距離運航できるDC-10は、200~300席と言う「中型機」の規模でも直行便が実現した。ヨーロッパの大手もこぞって30型を導入した。上からアリタリア航空、ルフトハンザ、KLM、イベリア航空、サベナ・ベルギー航空の30型。サベナの30型は貨客両用型の30CF。イベリア航空以外の各エアラインは、日本線の主力機としても運用し、80年代の成田空港や大阪・伊丹空港は多様なDC-10を見る事が出来た(ウィキペディア英語版より)

「10」型では、最初の生産型である「CF-6-6」シリーズを搭載していたが、30型では大幅に改良した「CF-6-50」シリーズが完成し搭載されていた。

この50シリーズは、最大出力にオプション機能を備えており、ユーザーによって設定変更が可能であった。

最も大きな出力では「6シリーズ」と比べて50%近くもアップされており、それに合わせて機体の離陸重量も引き上げられた。

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1-1-1-1G DC-10-30,_Scandinavian_Airlines.jpg ↑(2枚)ヨーロッパLCCの先駆者とも言われるレイカー航空と、北欧SASの30型。SAS機は日本線専用みたいな存在で、フィン・エアとともにノンストップ運航を行って、10年以上日本線の主力だった(ウィキペディア英語版より)

これによって30型の航続距離は、最大で8,000キロ以上に達する事になり、世界中のエアラインから受注が増加した。

キャビンは747より一回り小さいが、標準的な座席配列は9列で、モノクラスならば350席まで設けることが可能。

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1-1-1-1G DC-10-30,_British_Airways.jpg ↑(2枚)カレドニアン航空とブリティッシュ・エアウエイズの30型。ブリティッシュ・エアウエイズは国策企業でもあったため、「国産」であるRB211エンジンを装備したトライスターを当然のように採用したが、同社のライバル関係にあった民営のカレドニアン航空はDC-10を導入し、北米線やアフリカ線などに投入した。しかし政府指導の元、エアラインの再編が行われ、カレドニアン航空はあっけなくブリティッシュ・エアウエイズに統合。DC-10もフルカラーに変更して運用が続けられたが、数年で退役した。同社カラーのDC-10も「レア機」と言える(ウィキペディア英語版より)

アメリカのエアラインの多くは、導入当初は2-4-2、8列配置を採用しており、747よりもかなり広々としたキャビンを提供していた。

アメリカンやユナイテッド、コンチネンタルなどではファーストクラスだけでなく、エコノミークラスにも「バーカウンター」などを供えており、ラグジュアリー感を高めて好評を得ていた。

ライバルのトライスターは、イギリスのロールス・ロイス製「RB211」エンジンだったため、その開発遅延で、開発がほぼ同時進行していたDC-10に僅差で就航が遅れ、発展性に乏しかった為にセールス面でもDC-10に敗北してしまった。

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1-1-1-1G DC10_BHX.jpg ↑(3枚)初期の10型のファーストクラスとエコノミーのキャビン(上・中)。ファーストクラスは2-2-2の6列配置だが、エコノミークラスは2-4-2の8列とかなり余裕を持たせたレイアウトを持っていた。下は最後まで現役としてDC-10を運用していたビーマン・バングラデシュ航空のエコノミークラス。2-5-2の9列配置で、こちらが標準だった。初期のキャビンは、天井にオーバーヘッドストウェッジがない事に注意。トライスターも中央部のストウェッジを持たず、それがDC-10との差だったとも言われるが、初期のDC-10もオプション扱いであった。上はコンチネンタル航空の10型のファーストクラスだが、中央ストウェッジがない分、そして座席が大型でピッチも広いためか、まるで高級ホテルのラウンジの様な、広々とした空間になっている(ウィキペディア英語版より)

とは言え、DC-10も決して順風満帆と言う訳ではなかった。

同機の開発は正式には68年に開始されたが、基本案は66年ごろに打ち立てられていた。

ところがこの時期、ダグラスは極度の経営不振に陥っていた。

ダグラスは傑作機DC-9の成功を得ていたが、予想を遥かに上回る受注を得た為に、生産遅延が恒常化し、材料費や生産コストも全く予想外に高騰していた。

既に受注契約を結んだエアラインには「値上げ」は出来ず、むしろ遅延の賠償を負担する立場まで追い詰められていた。

いわゆる「豊漁貧乏」と言うヤツで、これを発端に経営陣の権力抗争が発生。より窮地に追い込まれてしまった。

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1-1-1-1G DC-10-30,_AOM_French_Airlines.jpg ↑(3枚)フランスで使われたDC-10-30。上はUTAフランス航空で、主にフランス本土と海外領を結ぶ路線を運航していたエアラインで、日本にも東京~タヒチ線に投入された。この路線はパリ~ロサンゼルス~ヌーメア~東京と言う、ダイナミックな運用が組まれていた。ドア部分だけがライトグリーンと言う、センスの良いデザインは人気があった。同社は国営エアライン、エール・フランスに統合され、DC-10も同社塗装に変更されたが(中)、ごく短期間でAOMフランス航空(下)に売却された。日本線もエール・フランス便として運航が継続されたが、2年弱でAOMフランス航空にリースと言う形で移籍した。エール・フランスはDC-10の自社発注をしていないので、これも「激レア機」扱いで人気があった。またAOM機は、日本では最後まで同機で運航したヨーロッパ系のエアラインでもある(ウィキペディア英語版より)

そこで軍用機メーカーだった「マクドネル社」と経営統合することになり、倒産は免れた。

基本的に旧ダグラスは「部門」として残る事になったが、マクドネル側と新たな経営陣同士の衝突などが起こり運営に大きな支障をきたしていた。

例えばDCとは「ダグラス・コマーシャル(ダグラスの商用機)」と言う意味を持つが、DC-10がデビューしたのは統合後MD社になってからの事だ。

それで旧マクドネルの上層部は、同機の呼称を「MD-10」にすべきと主張(のちの改修機呼称とは別)したが、設計自体は「ダグラス」時代だったと反論されて、そのままDC-10になったと言う経緯があった。

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1-1-1-1G DC-10-30_JAT YU-AMB_-City_of_Belgrade.jpg ↑(2枚)80年代初期に登場した旧ユーゴスラビア、JATの30型。社会主義国のエアラインでは初めての導入だった。同時に旧ソ連を含む東欧圏でも唯一の西側製ワイドボディ機でもあった。内戦後もJATエアウエイズ(下)と改称して、90年代後半まで現役にあった(ウィキペディア英語版より)

それが尾を引いたのか、新型機にありがちな初期トラブルが幾度か重大事故を引き起こした。

事の始めは、初就航から僅か1年後。アメリカン航空の10型が、離陸直後後部貨物室のドアが空中で突然開き、その勢いでドアと周辺部を著しく損傷し、尾翼のコントロール部もダメージを受けた。

幸運にも、パイロットが事情を察知し緊急着陸に成功したが、ドアの設計にミスがあり、きちんとロックされない場合があることが判明した。

その2年後の74年3月、今度はパリ・オルリー空港を離陸したトルコ航空の30型が、再び貨物室のドアのロックが外れて開き、完全な操縦不能に陥って墜落。乗員・乗客全員が死亡すると言う大事故が発生した。

原因はアメリカン航空機と全く同じで、ドアロックに欠陥があったことに加え、それを確認するコクピットのランプにも欠陥があったことが判明した。

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1-1-1-1G DC-10-30(F),_Varig_Cargo.jpg ↑(3枚)「極楽鳥」をイメージしたと言われ、美しい塗装で知られた南米エクアドル、エクアトリアーナと、ブラジルのフラッグキャリアVARIGの30型、改造貨物機30F。VARIGの30型は日本線に投入され、ロサンゼルス・アンカレッジ経由24時間以上と言う超ロングフライトで運用されていたが、数年でB747-300と交替。その後は北米線やヨーロッパ線で活躍し、貨物機に改造されて00年代まで使用されていた(ウィキペディア英語版より)

最初の事故ではMD社は対処措置ばかりに捉われ、全面改修と言った対策を講じず、事故後も全く動かなかった。

未だ不明な部分も多いものの、こうした重大トラブルに対する組織的体系が機能していなかった事が、最も大きかったと言われている。

トルコ航空事故でようやく既存の機体に対し、一時的な運航停止と改修がされたが、まだ出来たてのMD社にとっては高い勉強代を支払う事になった。

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1-1-1-1G DC-10-30_Canadian.jpg ↑(2枚)広大な太平洋を横断して日本に就航していたCPエア(カナダ太平洋航空)と、名称変更後のカナディアン航空の30型。カナディアン航空時代には東京~バンクーバー~トロント線などの長距離運用もあった(ウィキペディア英語版より)

機体の欠陥・不具合ではないが、79年5月には再びアメリカン航空の10型が、今度は「エンジン脱落」で墜落事故を起こした。

これは同社がメーカーが支持した正式な整備方法に従わず、効率を優先させて勝手な方法でエンジンの交換作業を行っていなのが原因だった。

正式な手順を踏まず交換作業をしたことで、パイロンと本体を支えるボルトに無理がかかって金属疲労を作り破損が生じたのだった。

同年の秋には、南極遊覧飛行のチャーター便で運航されたニュージーランド航空の30型が、操縦ミスで墜落。

1-1-1-1G DC-10-30-Air_New_Zealand.jpg ↑日本線でも活躍したニュージーランド航空の30型。事故をきっかけに全機が退役した(ウィキペディア英語版より)

この3件だけでも約850名もの犠牲者を出しており、その後も死亡事故を複数起こしている。

故に「殺人機」などと言われる事もあるのだが、初期の事故はともかく、大半の事故は人為的ミスである。

言い換えれば、それだけあらゆる場面で使われるマルチな旅客機だった訳で、安全対策・リスクマネージメントが追い付かなかった時代だったのだ。

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1-1-1-1G DC-10-30,_Korean_Air.jpg ↑(4枚)シンガポール航空、タイもエア・サイアム、大韓航空、ガルーダ・インドネシア航空の30型。アジアでの採用数は少なく、日本航空を除いて30型が殆ど。これらのDC-10は全て日本線に投入されていた。シンガポール航空とエア・サイアムの運航期間は短かったが、大韓航空とガルーダは00年代初頭まで乗り入れていた。大韓航空とガルーダは、テロと福岡空港での離陸失敗事故で機材を失っている(ウィキペディア英語版より)

またB747程巨大で高価ではないにも関わらず、30型以降長距離機としての才能を開花させたことによって、途上国のエアラインの多くも同機の採用に動いた。

それもリスクマネージメントの不足に繋がった部分は、否定できないだろう。

日本では、76年に日本航空が就航を開始したが、大きな事故・トラブルは起こしていない。

同社は20機導入し、発展型であるMD-11も運航したが、後者は早々と退役したにも関わらず、DC-10の退役は05年だった。

1-1-1-1G DC-10-40_JAL (JA8548.jpg ↑76年から導入が開始された日本航空の40型。既に主力機として多数保有していたB747-100/200との整備性を高めるために、同じエンジンであるJT-9Dを搭載した40型を選択した(ウィキペディア英語版より)

その期間は実に29年にも及び、いかに信頼性の高い機種であったかを象徴するものだろう。

ファンには周知の事だが、日本航空が導入したのは「40」型だけだ。

40型は基本的に30型と共通しているが、エンジンをP&W製「JT-9D」に変更したタイプだ。

ノースウエスト航空が最初に発注し、当初は「20」型と呼ばれたが、正式受注後「40」に変更された。

40型を導入したのはノースウエスト航空と日本航空だけで、前者が22機、合計42機が生産された。

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1-1-1-1G DC-10-40D_JAL_JA8548.jpg ↑(2枚)20機を導入し、30年近く現役を続けた日本航空の40型。その期間中には何度も細かい改修が行われている。上の「JA8531」と下の「JA8548」を比べてみると、若干わかりにくいが、主翼付け根部分に違いがある。同社の40型では後期の導入機に、整流性を高める為に主翼付け根部がやや膨らんだフェアリングを追加している。これは30型でも見られる改修だ(ウィキペディア英語版より)

敢えてJT-9D搭載型を望んだのは、両社とも既に多数保有していたB747のエンジンと共通だったからだ。

まるごとの互換性はないが、部品自体は共通であることから、整備性を重視してからの発注だった。

ただしCF-6-50シリーズに比べるとやや小振りで、出力も少し低く、航続距離も30型よりやや短かった。

1-1-1-1G DC-10-40D,_Japan_Asia_Airways.jpg ↑日本航空系列の日本アジア航空にリースされた40型。日本航空のDC-10は機体とキャビンの仕様によって国内線用と国際線用があり、それぞれ「40D」「40I」と呼んでいた。日本アジア航空機はリースと言う形を取っていたため、機材は頻繁に入れ替わっていたが、台湾線専門だったこともあり、国内線仕様の「40D」が使われる事が多かった(ウィキペディア英語版より)

日本航空のDC-10はなかなか興味深く、当初はB747を補完し、旧式のDC-8の後継機と言う意味も込めて国際線機材として導入した。

しかしその汎用性の高さから、半数の機体は離陸重量を軽くした国内線機材として導入・運用していた。

30型では自重が重くなったことで、胴体中央部にセンターギア(中央脚)が追加されたが、日本航空の国内線仕様ではセンターギアをわざわざ外して運航させていた。

ただしこのセンターギアは取り外しが可能である他、収納した状態でロックしての運航も可能だった為、需要に応じて変更できる。

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1-1-1-1G DC-10-40I_JAL JA8542.jpg ↑(2枚)新旧塗装のDC-10-40。上の「JA8545」と下の「JA8542」は共に国際線用機材として導入されたが、「8542」のセンターギアがない事に注意。「アーク塗装」が施された90年代末には、長距離国際線の運用がなくなったため、機体重量を軽くするためセンターギアを外した機体が見られた。センターギアは取り外しが可能なほか、外さず「未使用」に設定することも出来たので、柔軟な運用が可能であった(ウィキペディア英語版より)

つまり日本航空は、その時の状況・需要に応じて仕様を変更すると言う、柔軟な運用を行っていたのだ。

88年には、当時の東亜国内航空が2機の30型を導入。それに合わせて社名を「日本エアシステム」に変更した。

同社の30型は、燃料タンクを最大まで拡張した「ER」仕様だったが、登録上は通常の30型のままだった。

「30ER」は、最初にスイス航空が発注し、その後フィンランドのフィン・エアが発注した。

実際にはいずれも完全なオプション仕様での生産で、燃料搭載量はフィン・エア機の方が多く設定されていた。

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1-1-1-1G DC-10-30ER,_Finnair.jpg ↑(3枚)スイス航空とフィン・エアのDC-10-30ER。両社とも日本ではお馴染みのDC-10で、特に後者は83年、初めて日本とヨーロッパをノンストップ運航した。フィン・エアは日本線用として同機を発注し、「ムーミン・ヨーロッパ号」は飛行機ファン以外にも大人気だった(ウィキペディア英語版より)

日本エアシステム機もフィン・エアとほぼ同じ仕様で、規制緩和による国際線運航に備えての発注だった。

DC-10の生産最終号機は、89年に納入されたアフリカ、ナイジェリア航空向けの30型だったが、受注は東亜国内航空が最後だった。

これにはちょっとしたエピソードがあり、同社が発注したのはMD社が同機の受注を締め切る寸前で、事実上受付終了の時期であった。

しかし日本の規制緩和の状況がギリギリまで判明せず、発注自体が多鼻に遅れていたのだった。

MD社は「丁重に」断ったと言うが、東亜国内航空側は諦めず食い下がったと言う。

1-1-1-1G DC-10-30 JAS_(JA8551.jpg ↑88年に導入された日本エアシステムの30型。東亜国内航空時代に発注、同機に合わせて社名を「日本エアシステム」に変更した。日本では最初で最後、唯一の30型であり2機が導入された。規制緩和策による国際線進出の足掛かりとして期待されたが、予定通り計画が進まず、1機は受領さえできず大韓航空にリースされてしまった。だが元「エアバスカラー」のDC-10は、意外にも良く似合っていて最も美しいDC-10の一つだ(ウィキペディア英語版より)

結局MD社が根負けした形で受注したが、既に生産スケジュールは決まっていて同社向けの機体の生産に余裕がなかった。

止むを得ず、米空軍が発注していた空中給油・輸送機型の「KC-10Aエクステンダー」2機分を、東亜国内航空・日本エアシステム向けに切り替えて生産することになった。

何とか確定発注にこぎつけたが、同社はそれを良い事に更に無理難題を持ちかけた。

それは同社のシンボルカラーだった「レインボーカラー」だ。

これは東亜時代に日本で初めて導入したエアバスA300から採用された塗装で、元々はエアバス社自体のコーポレートカラーだったことは有名だ。

東亜国内航空が大変気に入って、交渉して譲ってもらった塗装である。

1-1-1-1G DC-10-30_JAS(JA8551.jpg ↑「ピーターパン・フライト」のイラストを記入した日本エアシステムの30型。念願のハワイ線には就航したが業績が伸びず撤退、その後はシンガポール線にも就航したがやはり運休。中国線や韓国線にも投入されたが、こちらはA300が主力で、結局東京~福岡・新千歳・沖縄線などの国内幹線に転用された。しかし僅か2機で中途半端感は否めなかった(ウィキペディア英語版より)

そう言う意味では同社オリジナルの塗装ではあったが、MD社にしてみればボーイングやロッキードに次ぐライバルであり、そのカラーを自社機に塗装する事に強い抵抗感があったらしく、難色を示したと言う。

大口顧客ならともかく、僅か2機・・と言う、ある意味「上から目線」もあったかもしれない。

面倒くさい手順を踏んでの受注に加え、ようやく機体が完成し納入の段階になると、今度は「待った」がかかった。

日本エアシステムを発足させたのは良かったが、同機を運航させる予定だった東京~ホノルル線の航空交渉がまとまらず、納入まで開設が間に合わなかったのだ。

更に社名変更の手続きも遅れており、初号機はせっかく「レインボーカラー」になったのに尾翼のロゴマークが最後まで決定しなかった。

さすがにこれ以上「待った」とは言えず、とりあえず初号機だけを受領することになったが、羽田空港に到着した機体は尾翼に「JAS」の文字はなかったのである。

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1-1-1-1G DC-10-30,_Harlequin_Air_3.jpg ↑(3枚)もてあまし気味だった日本エアシステムの30型は、1機をノースウエスト航空に売却。初号機である「JA8550」は新たに設立したチャーターエアライン「ハーレクィン・エア」に移籍させた。関係旅行会社と提携し、ヨーロッパやオーストラリア、カナダなどへ運航した。繁忙期にはウェットリースと言う形で日本エアシステムの定期便や臨時便でも運航され、同機の本領を発揮した。しかしそれは遅すぎ、僅か3年で運航を終了。先に売却された2号機と同じく、ノースウエスト航空に売却された。ビジョンの定まらない会社方針に、最初から最後まで翻弄され続けた不遇のDC-10だった(ウィキペディア英語版より)

2号機も受け取り拒否にはできず、いったん受領し、そのまま大韓航空にリースすると言う異例さであった。

リースされた2号機は、約1年半ほどで日本エアシステムに返却され、やっと2機が揃い、念願のハワイ線も遅れながらも開設した。

ピカピカのレインボーカラーを纏ったDC-10は、国内はもとより海外のファンからも大きな注目を集めた。

しかしハワイ線は発着枠の都合で、週2便と他社便とは比べ物にならない程貧弱は運航しかできず、僅か1年で運休。

同機はシンガポール線などの、中距離国際線に活躍の場を移した。

だがそれも長続きせず、結局国内幹線で使われるようになった。

90年代後半には、同社が設立したチャーター専門エアライン「ハーレクィン・エア」に移籍した。

残念ながらそれは1機だけで、残りの1機はノースウエスト航空に売却。

1機のDC-10もチャーター便の他、JASのウェットリース便として国内定期便でも運航を続けたが、00年退役した。

日本航空の機体は、80年代までは系列会社の日本アジア航空にリースと言う形で運航した他、チャーターエアライン「ジャパンエア・チャーター」に移籍し、日本航空のウェットリース便として運航された。

90年代末には「JALウエイズ」に改称、チャーターエアラインから定期便運航エアラインに変わり、ハワイ線を中心に中距離国際線の運航を担当。地方空港からの定期便も運航した。

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1-1-1-1G DC-10-40I_JALways(Resocha)_JA8544.jpg ↑(3枚)チャーター専門エアラインとして設立されたジャパンエア・チャーターに移籍した40型。実際にはチャーター運航は少なく、もっぱら日本航空のウェツトリース便としてハワイやグアムなどのリゾート路線で活躍した。3機が「JAZ」のロゴとともに「スーパー・リゾート・エクスプレス」塗装に変更された。同社はその後中距離国際線定期便を担当する「JALウエイズ」に変更され、日本航空とコードシェア便として運航した。JAZ時代から地方空港発着のハワイ線などでも活躍した(ウィキペディア英語版より)

日本では2社だけ、合計22機が運用されたに過ぎないが、日本航空、日本アジア航空、ジャパン・エア・チャーター、JALウエイズ、日本エアシステム、ハーレクィン・エアと、実に6つのブランドで運航された事は、いかに重宝されマルチな旅客機だった事がわかるのだ。

1-1-1-1G DC-10-40I-JA8541.JPG ↑「アーク塗装」になったDC-10-40。発展型ながら問題も多かったMD-11の方が先に退役し、古いDC-10は05年になってようやく退役した。最後は国内線で運航されていたが、同じ3発ワイドボディ機で全日空のトライスターと比べると、導入は2年遅かったが、退役は10年も後だった(ウィキペディア英語版より)

海外ではB767やA310/330などの登場で、90年代後半にはメジャーから退役が相次いだが、意外にも「本家」アメリカでは多くのエアラインで00年代以降まで現役にあった。

90年代のアメリカは航空不況が続いた事もあって、メジャーでも新機材への買い替えが難しいという事情もあったが、使い慣れたDC-10は逆にそうした窮地を救う事にもなった。

さすがに老朽化した機体が多かったが、国内幹線を中心に活躍し、チャーターエアラインなどでも中古機を使うエアラインが多数存在した。

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1-1-1-1G DC-10-30 -Northwest_Airlines-KLM_N237NW.jpg ↑(5枚)40型を最初に発注したノースウエスト航空だが、生産中止を受けて、世界中から中古の30型を多数導入。中型機としては既にB767があったにもかかわらず、1機も発注せずDC-10にこだわり続けた。B747に次ぐ規模の機材として、良い意味で酷使し続けたエアラインである。国内線はもちろん、国際線でも多数を運用し、日本では最も多くのDC-10便を運航したエアラインでもある。日本線では以遠権を使ったアジア線やミクロネシア線の他、ハワイ線、そして米西海岸線でも運航し、米東海岸とヨーロッパを結ぶ大西洋路線では退役まで主力であり続けた。下の2枚は、オランダのKLMと業務提携したことを記念して、両社の塗装を半分ずつ施した特別塗装機。いわゆる「航空連盟」が生まれる直前の事で、両社の便は全てコードシェア運航になって利便性が増した。90年代末に、後継機としてA330が導入されると徐々に退役が始まったが、デルタ航空と統合する直前まで現役に留まり、同社最後の塗装(3枚目)も登場した(ウィキペディア英語版より)

残念ながら現在現役で活躍する機体はごく少数で、旅客機として運用されている機体は「0」。

唯一大手貨物エアライン、フェデックスが数機だけ現役に留まっているが、退役は間近だ。

同社はDC-10最大のユーザーで、延べ100機以上を運用した。

最初は新造機として純貨物型の「30F」を20機程度導入したが、以降は全て旅客機を改造した中古機。

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1-1-1-1G DC-10-10F FedEx_MD10_.jpg ↑(2枚)DC-10最大のユーザー、フェデックスのDC-10-10F。現時点でもまだ数機が現役にあるが、全て独自改修を施した「MD-10」である(ウィキペディア英語版より)

00年代以降は独自の改修に踏み切り、コクピットはMD-11と同じタイプの完全なグラスコクピットに変更。

もちろん従来の3人乗務から、航空機関士を廃した2人乗務機になり、操縦システムも限定的ではあるがフライ・バイ・ワイヤ化すると言う、一種の「魔改造」を施している。

1-1-1-1G MD10-30F_FEDEX N307FE.jpg ↑フェデックスのMD-10-30F。表記の通り、この機体は30型から改造した機体で、さらに「MD-10」に魔改造されている。少しわかりにくいが、コクピット右側後方から覗かせていた機関士用パネルが見えなくなっており、2人乗務のMD-10であることが分かる。同社は100機近くの中古機を導入・貨物機に改造し、その半数以上を「MD-10」に再改造している(ウィキペディア英語版より)

興味深い事に、日本は最も多くのDC-10が就航する国だった事だ。

同時期ではないものの、日本の「6ブランド」以外では、定期便としてDC-10を就航させた海外エアラインは実に25社に上る。

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1-1-1-1G DC-10-40F_Aeroflot_Cargo_JA8533.jpg ↑(2枚)ソ連解体後、ロシアで初めて運航されたトランスアエロの30型と、アエロフロートの「40F」。前者は塗装で分かる通り、元アメリカン航空の機体。アエロフロート機は「40F」と言うように、元日本航空の機体だ。同社機は数年間だけだったが、貨物定期便として成田線に投入され「里帰り」を果たしている(ウィキペディア英語版より)

アジアのエアラインも多いが、それ以外の地域からの方が多く、B747ほど大きすぎず、同程度の航続距離を持つ「万能中型機」としての認識があった事が窺える。

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1-1-1-1G DC-10-30 Biman_Bangladesh_Airlines_S2-ACQ.png ↑(2枚)DC-10を旅客機として最後まで運行した、ビーマン・バングラデシュ航空。日本線でも20年近く運航されたが、12年に退役。A310-300と交替した8ウィキペディア英語版より)

事実やや特別仕様ではあったが、先のフィン・エアの30ERは日本線用に発注した機材で、約10,000キロと言う747顔負けの長距離運用を行っている。

当初は対処のまずさから事故の多い機体、と言うレッテルを張られてしまったが、熟成された後は今に通じるマルチぶりを十二分に発揮した最初の旅客機であった。

ちょっとした言い訳とご報告(6月24日 曇り 27℃)

大変ご無沙汰いたしております。

ブログの更新が大幅に遅れており、ご迷惑をおかけいたしました(誰も迷惑していない・笑)。

私事ではございますが、ここしばらく、当ブログを書くためのパソコンの調子が悪く、更新できませんでした。

何しろ「骨董品」の様な古いパソコンで、さりとて新しい機器を購入する程の経済力もなく、いつダメになってもおかしくない状態で使用し続けております。

故障の原因は不明で、電気店でも聞いてみましたが、「古いのでなんでもあり」みたいに言われる始末。

奇跡的に復活したようになったので、ここで「一筆」に至った訳であります。

筆者自身、10年以上もパソコンを使ってはおりますが、全く詳しくなく故障の原因などもまた、全く分かりません。

周囲に詳しい人もおらず、正直途方に暮れるばかりで今後の事を考えると気が重くなるばかりですが、この瞬間のパソコンは文字通り正常に動いております。

出来れば中古品でも良いヵら買いかえれば良いのでしょうが、そうした余力もない状態でして・・・本当に貧乏は困ったものです。

あれ?まさか辞めちゃったのかなあ、とか、死んだのでは?と思った方もおりましたかと思いますが、単なるパソコントラブルでしたのでご報告申し上げます。

って、そんなの知らねーわ・・と言われれば、それまでですが(笑)。

今後「大丈夫」であれば、以前通り書きつづる事が出来ると思いますが、そうでない場合はパソコントラブルだと思って下さい。




ここ数日梅雨らしい天気が続き、気温も低め傾向。

でも決して過ごしやすいと言う訳ではなく、湿度が高く不快指数は高い。

そして明日以降、数日は太平洋高気圧が張り出し、梅雨前線を押しのけるため、全国的に「真夏」の様な天気になるとか。

昨日は温度こそ低かったものの、終日断続的に霧雨が降り、湿度は100%。

暑さは感じないのに、歩くだけでいつしかジトッと汗をかいている状態。

今日の仙台の最高気温は、曇っていながら27℃で蒸し暑く、充分不快。

そして明日は晴れ間もあるようだが、代わりに予想最高気温は34℃!

籠り熱の酷い我が家では、既に扇風機を使用し、先日「試運転」としてエアコンも起動。

ある意味夏対策は準備しているけれど、下旬とは言えまだ6月よ?

まあ、この時期はギュンと暑くなることは珍しくないけれど、6月初旬は15℃とか肌寒い日が多く、この豹変ぶりはストレスになってしまいそう。

ちょうど週末と重なり、外出する人も多いと思うけれど、外でも家でも暑さ対策は万全に。

今回はとりあえず「ご報告」まで。

パソコンの調子が大丈夫であれば、これまで通り再開します。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

天気が不順で、蒸し暑さに君も大変かと思います。

明日以降は真夏の暑さになるようで、とにかく体調管理だけは気を付けて下さい。

この時期は、身体がまだ慣れていない事も多く、気付かぬうちに不調に至ることもあります。

水分補給はもちろん、家でも外でも涼しい環境にいることを常に意識して下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



思ふらむ 人にあらなくに ねもころに 情つくして 恋ふる吾やも(万葉集巻四 682 大伴宿禰家持)



県民防災の日(6月12日 曇り一時晴れ 21℃)

※2日分の日記を掲載します。

◎6月7日 雨 15℃


これでもまだ「梅雨」ではない、と言う。

低気圧の接近で、県内はまる一日雨が降り続いた。

特に昨日の夜から今朝にかけでは土砂降りで、深夜には土砂災害警報、避難指示が出た地域もあった。

被害はなかったものの、道路冠水や土砂崩れが発生した所もあったと言う。

昨夜遅く、よせば良いのに止むを得ず近所のコンビニまで言ったのだが、雨のピークで、風も吹いていて最悪だった。

もちろん傘を差していたけれど、ほんの数分先のコンビニまで往復しただけで靴やズボンの裾が濡れてしまった。

車道も歩道も水溜りだらけな上、坂道ではまるで川のように水が流れていた。

仙台では24時間降水量が約130ミリと、6月としては最大の降水量だったと言う。

日中雨の勢いは収まったものの、時々パラパラと夜まで断続的に続いた。

気温も昨日・今日と15℃前後と、9月後半並みの肌寒さ。

6月を迎えた途端、これである。

「制服組」は「衣替え」を迎えたはずだが、これではとても夏服は無理だろう。

若い人ならシャツ一枚でも大丈夫だろうが、薄手の上着が欲しくなる程だ。

今後も週末はいくらか気温は上がるものの平年並み程度で、それまでとその後は低い状態が続く見込みだ。

この雨を受けて、昨日関東・甲信越が「梅雨入り」したが、九州北部を含めて他地域はまだ梅雨入りしていない。

仮に梅雨入りしても、仙台の梅雨はいわゆる「湿気寒い」天気が主流で、地元人が本格的な夏服を着るのは梅雨明けしてからだ。

天気予報を見ていると、関東以西では梅雨でも最高気温が30℃近い日が多い。

しかし冷たい「海風」を伴いやすい宮城では、この時期の雨天と言えば「湿気寒い」が常識なのだ。

初めて梅雨時の奈良に行った時、まさに今日のように終日本降りの雨が続いたが、予想最高気温は29℃と言っていた。

雨が降れば日差しは全くないし、空気も雨で冷やされるから涼しい・・はずなのに・・・と、以前から疑問に思っていた。

そして実際現地で体験すると「なるほどな」と、変に納得してしまった。

じっとしていると、実際には暑さはほぼ感じない。にもかかわらず歩くなどちょっと体を動かすと、気付かないうちにびっしょり汗をかいている。

暑いと言う感覚がないにもかかわらずで、湿度100%の中で雨で濡れたのか汗なのか、一瞬わからないのである。

これは熱中症の危険ありありだなあ・・と思う反面、こう言う雨もあるのだなあと感心した。

少なくとも仙台では、いくら真夏でも30℃の雨はない。

どっちにしても、ムシムシ・ベタベタには違いないのだけれど。


◎6月12日

今週はずっと変わり映えのない天気で、陰鬱と言う言葉がぴったりだ。

贅沢を言わせてもらえば、気温が低いのは私自身は助かっており、季節外れの肌寒さとは言え体は楽だ。

これで25℃前後なら、相当厄介だろう。

県内の人気天気予報士も、「なぜ梅雨入りじゃないのだろう?」と言っていた程。

これは宮城県は「ほぼ梅雨」の状態なのだが、日本海側の山形県が晴れて気温も高めだからではないか、と言うことだ。

気象庁の言う「梅雨入り・梅雨明け」は地域で区切っており、宮城県は「東北南部」で括られている。

つまり当該地域である宮城・山形・福島が、揃っていなければ「宣言」とはならない、と言う事らしい。

最も宣言そのものに大きな意味はなく、あくまで季節的な目安。

宣言を出すのは大雨が降りやすい時期・・と、注意を促す為のものだそうだ。

それでも日本人には「梅雨」と言うのが生活慣習に染みついているので、意外と気になるものだ。

今日は変わりやすい天気で、予報されていた雨は大した事なく、夕方には雲が切れて青空が顔を出した。

家にいたので最初は気付かなかったが、青空と日差しはそれこそ一週間ぶりだ。

今日6月12日は、「県民防災の日」。

1978年(昭和53年)6月12日、17時過ぎ。

宮城県沖を震源とするM7.4の地震「宮城県沖地震」が発生し、28名の死亡者を出した。

戦後初めて大都市を直撃した大地震として注目され、県内では軟弱地盤の地域を中心に建物の倒壊・破損が相次いだ他、インフラの停止も相次いだ。

特に仙台は、ガス局の工場が破損・火災を起こし、配管設備の被害も加わって完全復旧するまで1カ月以上を要した。

この地震をきっかけに、国と地元自治体は防災対策を強化し、建物の耐震基準を設けたり、緊急時の対策を整備するきっかけになった。

この時代、今のように震度が機械的に計測されておらず、気象台の担当者が「体感」で判断していた。

現在では考えられないが、この後各地に揺れの大きさを数値化できる「地震計」が設置されたのである。

仙台市は「震度5」とされたが(当時5・6の強弱はなかった)、被害の大きさや市民の多くの「体感」はそれ以上とかなり批判を受けた。

現在では、5強から6弱程度だったと言われている。

あれから44年、もうそんなに昔の事かと思うことしきりである。

その時は生涯最大の地震体験と思っていたが、その33年も後に震災を経験するとは思いもよらなかった。

3月にも福島沖の地震があり、震災級は確率が低いと言っても、今後も大きな地震は確実に発生する。

それは全国どこでもあり得る事であり、日ごろの心構えは必須だ。

特に現代は、情報化社会になって細かな情報をいつでもどこでも知ることが出来るようになったけれど、裏を返せば情報源が断たれると何もできない時代になりつつある。

78年当時は、もちろんスマホもパソコンもなく、情報はテレビとラジオ、そして「一般電話」だけ。

停電すればテレビと電話は使えなくなるから、ラジオだけになってしまう。

それでも何とか切り抜ける事は出来た訳で、現代人は果たして大丈夫だろうかと心配になってしまう。

地震だけでなく、台風や大雨、大雪と言った災害はより発生確率が高いのは誰でもわかっているはずだ。

それを気候変動だ、地殻変動だなどと言うのは勝手だが、災害は太古から存在し、我々の祖先は犠牲を払いつつも乗り越えて来た。

故に現代の日本がある、と言う事を一人一人が自覚すべきだ。

40年以上の間に、何度も災害を経験し目にしてきたが、世界ではトップクラスの「災害大国」の日本。

それでも我々の生活は、諸問題あれど安泰である。

それはDNA的に、日本人として災害とともに生きる事が身についているからだと思う。

最近メディアではあり得る災害への対策や予想をして、普段からの意識・対策を促す。

行政も、また然り。

ところがいざ発生すると、「予想外」「住民の意識の低さ」など実に無責任な「言い逃れ」としか思えない言動をする。

情報がかえって人々の混乱を招き、判断を狂わせる事もないとは言えないのだ。

人の言う事ばかりでなく、まず自分の周囲の状況を落ち着いて判断すること。

先人たちはそれで乗り越えてきたのだから。



夜空を見上げると、綺麗な月が出ていた。

時々雲に隠れていたが、明日明後日は晴れが期待できそう。

先月以降気温が安定せず、なかなか身体が付いていけない状態が続いている。

体調を崩す程ではないけれど、朝晩は結構肌寒く、寝る時に薄着のままだとくしゃみで目を覚ます事がある。

日中行動するにはシャツ1枚でも充分なのだけれど、お店などで冷房になっているとやはり寒く感じたりする。

一方駅までの道のり約2キロを早足で歩くと、汗をかく。

暑いのか、そうでないのかはっきりしない。

でも真夏になれば夜も暑い訳で、今はまだまだ過ごしやすいコンディションと言えるのだろう。

コロナは何となく落ち着いているように見えるが、県内では連日200~400人と「高止まり」傾向だ。

一時の拡大よりはかなり低いが、季節的な体調不良が感染・発症を引き起こさないとも限らない。

本格的な梅雨になれば、なおさら気をつけねばならない。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

すっきりしない天気が続いていますが、気分も何となく重くなってしまう季節です。

君は季節を過ごすのが上手な人だから、きっと梅雨時でもそう過ごせるでしょう。

君なりの良い過ごし方があれば、教えて欲しいものです。

それでも体調を崩しやすい時期には違いないので、充分注意して下さい。

まだ暑いと言う感じは少ないでしょうが、「隠れ熱中症」が増える時期でもあるので、充分な水分補給と涼しく過ごすよう気を使って下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




ひさかたの 雨には著ぬを あやしくも わが衣手は 干る時なきか(万葉集巻七 1371 比喩歌)




飛行機ネタ 「出来過ぎ君」のB727(6月2日 晴れのち雨 24℃)

※2日分の日記を掲載します。

◎5月31日 雨のち曇り 16℃

梅雨を思わせる、冴えない空模様で5月が締め括られた。

仙台の最高気温は、4月中旬並みの僅か16℃。

予報通り朝から雨が降り続き、終日強弱を繰り返すような降り方だった。

梅雨入りまではもう少しあると思うが、準備をせよ・・と言うサインの様な気がする。

沖縄や奄美諸島では大雨になった所もあり、自然災害が増える季節になって来たようだ。

先週末は夏を思わせるような晴天と暑さで、この気温差に身体が悲鳴を上げてしまいそう。

街では長袖以上に「上着」を羽織っている人を多く見かけたが、今朝地下鉄に乗るとTシャツ1枚の若い女性が隣にいた。

いくらなんでもその格好では・・・と、周囲の人は時々彼女をチラ見する。

予報を知らなかったのか、せっかく切り替えた初夏の服装を崩したくなかったのだろうか。

最も明日は一転して青空が広がり、夏日の予想が出ており、軟弱者!と笑うのは彼女かも知れない。

だが週間予報を見ると、晴れて気温が上がるのは明日・明後日だけ。

週後半以降「お日様マーク」は一つもなく、気温も20℃以下が予想されている。

結果最後に笑うのは上着を着込む方か、我慢してでも薄着の方か・・・。

明日は6月1日「衣替え」の日で、予報通りならば文字通り相応しい天気になりそうだが、その後はどうだろうか。

同時に長いと思っていた5月は、あっという間に終わる。

「31日」までと言う事もあるが、GWもあったせいか初旬は長いなあと感じた。

気付けば6月、季節は「夏」を迎える時期である。


◎6月2日

2022年の「折り返し点」は、本当にあっという間にやってきた。

いかに普段ボーっと生きているかが分かると言うものだが、とにかく月日の流れは無情なほど早い。

そして今日の仙台は、「空荒ぶる」。

この時期としては非常に強い寒気を伴った低気圧が接近したため、関東・東北を中心に荒れ模様の天気であった。

予報は出ていたものの、朝は穏やかで青空が広がり、この時期特有の強い日差しで気温も上昇。

しかし昼ごろから一転、明らかにヤバそうな黒い雲がみるみるうちに空を覆ってしまった。

同時に雷鳴が聞こえ始め、突然滝の様な雨が降った。

大雨はごく短時間だったが、市内では西部を中心に「雹(ひょう)」も降ったと言う。

私は雨以外目撃しなかったが、数キロ西の団地で雹が降ったらしい。

雹は各地で降ったそうで、より気温の高かった関東では大粒の雹で窓ガラスが割れるなどの被害が出たほか、大雨で道路が冠水した所もあったと言う。

また雷が凄く、市内では落雷が相次ぎ、建物が少なく平坦な地域が多い若林区南東部では一時落雷による停電が発生したと言う。

夏の「夕立」とは違った雷で、大砲の様な音だった。

ゴロゴロ、バリバリと言うよりも、「ズゴゴゴゴ」と言う感じで、しかも間隔が少なく連続して鳴っている感じ。

最初は雷ではなく、大型トラックが通過でもした様な音だった。

同時に冷たい風が吹いており、気温も20℃を切ったぐらいだから、相当「大気の状態が不安定」だったようだ。

関東でも雷雨や雹が降った地域があり、明日も大気の不安定な状態が続くと言う。

予報を見ると、晴れるのは土曜日だけで、来週など「お日様マーク」は一つもない。

気温も低めの日が多く、晴れて暑い日が多かった5月とは対照的になりそうだ.



雨が降った後は気温が下がり、夜はシャツ一枚だと少し寒く感じる。

ただ湿度が高いのか、何となく空気がべたっとしているのが分かる。

梅雨入りは間近。

6月は連休もなく、梅雨の時期とあって何となく憂鬱な月でもある。

コロナはややお勢いを弱めているようだが、油断は禁物。

天気の変化で体調を崩しやすい時期であり、それが再拡大の引き金になるとも限らない。

せめて気持ちだけでも健康を維持できるよう、それこそ雨もたまには良いもんさ・・と思えるようでありたい。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

雨の季節、気分も暗くなりがちですが、見方を変えれば梅雨も楽しいものです。

そろそろアジサイも咲く頃、君なら季節の花を楽しむ事でしょう。

とは言え気温の変動が大きいのも確かで、体調管理にはくれぐれも気を付けて下さい。

雨の日の外出には、足元の他見通しも悪いので、周囲に注意して下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




思ひ出づる 時は術なみ 佐保山に 立つ雨霧の 消ぬべく思ほゆ(万葉集巻十二 3036 物に寄せて陳ぶ)





飛行機ネタ。

最近街を走る車を見ると、「軽自動車」が実に多い事が分かる。

近年新車の販売数の半数を占めているそうで、その理由は経済性なのだろう。

日本では車の維持費が先進国ではトップクラスに高く、特に税金が高い。

車を購入・所有しようとすると、消費税はもちろん、自動車税、重量税、取得税、ガソリン税など「多重税」が否応なしにかけられる。

世相の変化に合わせ、こうした加算税の見直しを求める声が広がりつつあると聞くが、最も高い自動車税はオーナーの大きな負担になる。

故に税金の安い軽自動車に人気が集まるのは、当然と言えるかもしれない。

ただ敢えて苦言を言わせてもらえば、最近の軽自動車は「大きすぎる」と思う。

軽自動車は車体の大きさが決められているほか、エンジンの排気量も660ccまでと決められている。

以前の「軽四」は、エンジンが小さい事に合わせて車体も小さいのが相場だったが、今の軽四は一昔前の小型車とほぼ同格である。

ただし長さと幅が決められているので、「全高」を上げて車内空間を広げた軽四が多い。

だが車体が大きく、装備も豪華になったと言う事は重量も必然的に増加しているのであって、エンジンは40年も前から660ccのままである。

もちろん改良が重ねられて、昔とは比較にならない程エンジンの性能は良くなっているが、同時に車体は立派な「メタボ」になってしまっている。

恐らく維持費が安いと思って購入したオーナーの中には、思いのほか軽四の燃費が良くない事に気付くだろう。

一概には言えないが、エンジン自体は軽量コンパクトで低燃費・・と言っても、それで動かす車体が重く、抵抗の大きいボディではエンジンは常に過重な負担を強いられて回る事になる。

名前の通り軽四は全体が「軽い」から良いのであり、小さなエンジンでも充分だったのだ。

単純に出力に余裕のある大きなエンジンならば、さほど回さなくとも速度・パワーを得られる訳で、「小さい=経済的」とは言えないのである。

一見無駄と見えるかも知れないが、やや大きな車体に大きく出力の大きいエンジンを積んだ車の方が、低速回転でも高速・登坂出来る「余裕」があるとも言えるから、条件によってはこちらの方が遥かに経済的になることもある。

飛行機でも、かつては同じ事が言えた。

ジェット創世記の50~60年代のエンジンは、まだ技術が未熟だったこともあって、性能には限界があった。

初期のジェットエンジンは「ターボジェット」で、燃焼ガスの推進力のみであったが、燃費は非常に悪く騒音もハンパなかった。

高い出力と高速を出せるメリットがあったため、主に軍用機に使われたが、旅客機には全く不向きであった。

一方高速を必要としない代わりに、燃費の良い「ターボファン」エンジンは理論としてわかっていたが、50年代までその生産技術は確立されていなかった。

両者を比べると、車に例えるならばターボジェットエンジンはスポーツカー向け、ターボファンエンジンはバスやトラックに遣うディーゼルエンジンの様な物だろうか。

1-1-1-1E B727-200F-LAS_HK4636.jpg ↑22年現在も現役にある、南米コロンビアの貨物エアライン、LASカーゴのB727-200F。現時点で6機保有し、全て旅客機から改造された機体。胴体はB707と同じ意匠を持ち、現在のB737NG/MAXシリーズまで受け継がれるボーイング伝統のナローボディ。ナローボディの3発機はボーイングでは唯一の存在で、ほかにはイギリスのトライデント、旧ソ連のTU154、YAK40、YAK42など種類は少ない。尾部に集中したエンジントルクを受け止めるため、ナローボディ機としては異様に大きな尾翼が特徴。それでも全体的なデザインは流麗であり、60年も前に開発されたとは思えない美しい形状を持つ。エンジンナセルに「SUPER27」と記入されているが、この機体はエンジンを従来の「JT-8D-7」から「JT-8D-217」に換装した改修型の名称(ウィキペディア英語版より)

ターボファンエンジンの実用化が遅れたのは、推進力を得る「推進ファン」と、それに関係する機構が複雑で、材質などの点で生産が難しかったからだ。

60年代になってようやく難問が解決すると、旅客機のジェット化は一気に進むことになる。

事実画期的だったB707やDC-8の初期型はターボジェットを搭載しており、4発と言う大型機ながらも航続距離は5,000キロ程度しかなかったが、ターボファンエンジンの実用化で10,000キロ近くまで飛躍的に伸びたのである。

こうした流れに、それまで「特別」な存在だったジェット旅客機は「一般的」になる糸口を見つけた訳で、各国は近中距離用の旅客機開発を開始した。

ボーイングはジェット旅客機の処女作、長距離用4発機「B707」で成功を収めつつあったが、その技術を応用して国内線向けの小型機を開発した。それが「B727」であった。

1-1-1-1E B727-22_N72700.jpg ↑1963年に初飛行したB727原形初号機。当時のハウスカラーだった黄色とブラウンの塗装を纏っている。登録記号は「N72700」(ウィキペディア英語版より)

同機はB707と同じ胴体を使う事で開発コストを抑え、エンジンを「3発」にすることで707の「小型版」と言うコンセプトで開発された。

同時に国内線と言った短距離路線での運航を考慮し、座席は最大で140席前後、航続距離は3,000キロ前後を想定して、63年に原形初号機が初飛行した。

当時航空大国だったアメリカは、既に一般的な公共交通手段として飛行機が活躍していたが、国内線の主力はまだプロペラ機が主流だった。

座席数は大型のDC-6やDC-7だと120席程度あったが、航続距離こそ長いものの巡航速度は500キロ程度だった。

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1-1-1-1E B727-200-Eastern.jpg ↑世界で最初にB727を発注・就航させたイースタン航空。64年から100型で運航を開始した。下は200型(ウィキペディア英語版より)

またこれらレシプロ機は、ボーイングはライバルのダグラスに大きく水を開けられており、小型ジェット機で先手を打ちたいと言う強い願望も持っていたのだ。

B707の成功は、旅客機メーカーとしてはダグラスの後を追うボーイングに信用を得る格好の材料となり、B727に関しては国内大手からの受注も順調に受けることになった。

ボーイングは国内線向けの機体として、既存のB707の構造を継承することで開発費や価格を抑え、経済性を重視して双発機も考えていた。

しかしローンチカスタマーとなるイースタン航空やユナイテッド航空は、カリブ諸国など洋上飛行を伴う近距離国際線での運用を考えており、洋上飛行規制「ETOPS」をクリアするために3発機を要望した。

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1-1-1-1E B727-51,_Northwest_Airlines_N462US.jpg ↑(4枚)アメリカの大手エアラインの多くがB727を導入し、残存していたプロペラ機を一掃させ、近距離運航では効率の悪いB707やDC-8から切り替えた。程度の座席数と高速性、取り回しの良さでジェット化を一気に加速させた。上からパンナム、ユナイテッド航空、アメリカン航空、ノースウエスト航空のB727-100。パンナムは以遠権を持つヨーロッパ域内の接続便用として導入し、他社は国内線の他近距離国際線でも運用した。いずれも200型を多数導入することになるが、それ以後も100型は長期間に渡って運用された。ユナイテッドとアメリカンの100型は、90年代まで使われている(ウィキペディア英語版より)

加えて3発機ならば滑走路の短い空港でも離着陸が容易にできる「STOL性」も望んでいたことから、3発機が決定された。

そして63年に完成・初飛行した原形機は、小さなトラブルによる修正は余儀なくされたものの、大きな問題は発生せず、順調にテスト飛行を行い、64年には量産初号機がイースタン航空に納入、就航を開始した。

この最初の生産型が「100」型で、全長は40.6メートル、全幅約33メートルあり、エンジンはP&W製ターボファンエンジン「JT-8D-3」が3発搭載されていた。

最大座席数は145席設定されていたが、アメリカのエアラインの多くはファーストクラスを含む2クラス、120席前後を設けている。

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1-1-1-1E B727-230,_Lufthansa.jpg ↑(2枚)ヨーロッパで最初にB727を導入したルフトハンザ。100・200型双方を導入し、延べ50機近くを運用した(ウィキペディア英語版より)

「3発ナローボディ機」のメリットは、イギリスも認識しており、B727より若干早くホーカー・シドレー(現BAEシステムズ)が「トライデント」を開発していた。

航空先進国としてイギリスは、国産機の開発に力を入れており、それは世界初のジェット旅客機「デ・ハビランド・コメット」で力量を示していたが、全てを国産にこだわっていたため、ターボファンエンジンの開発はアメリカより遅れていた。

「トライデント」は機体規模、座席数ともB727とほぼ同格であったが、ロールス・ロイス製「テイ」エンジンは小型で非力であった。

その為胴体を延長した発展型では出力が不足し、垂直尾翼の後端部分に小型の「補助エンジン」を取り付けていた。

1-1-1-1E Hawker_Siddeley_HS-121_Trident_3B,_British_Airways.jpg ↑イギリスが自主開発したホーカー・シドレー・トライデント3B。同機も初期生産型は120席級として開発されたが、胴体を延長・大型化して最終的には160席級まで拡大した。しかしエンジンの出力不足に悩まされ、垂直尾翼直下に小型の補助ジェットエンジンを追加すると言う荒技で性能不足を補った。そうした事も理由となって、生産数は200機程度と少なかったが、開発はB727よりも早かった(ウィキペディア英語版より)

一方B727が搭載するJT-8Dはずっと強力で、整備性・発展性にも優れていた。

いざ営業運航が開始されると、同エンジンの威力が如実に示されることになったのである。

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1-1-1-1E B727-200-Comair_ZS-NOU.jpg ↑(2枚)一目でブリティッシュ・エアウエイズと分かるが、実は同社は1機もB727を導入していない。タネを明かせば、登録記号「ZS」は南アフリカ共和国。機体はコム・エアの保有機で、ヨハネスブルグやケープタウンと言った大都市から国内、近隣諸国へブリティッシュ・エアウエイズの接続便を運航していた。イギリスでは同時期に国産機である「トライデント」があったため、B727は導入できなかったのである(ウィキペディア英語版より)

それはSTOL性を持たせるために、主翼の形状を全く新しい構造を取り入れたことであった。

後退角は32度もあり、もちろん抵抗を減らして高速性を持たせる為である。

フラップは「3枚構造」の「トリプル・スロテッド・フラップ(三重隙間フラップ)」を採用し、前縁全域にスラットを装着した。

1-1-1-1E B727-286(Adv),_Iran_Air_VIW.jpg ↑下方から見たB727-200。主翼は後退角が大きく高速飛行に適しており、面積が広く、大型の高揚力装置によって優れた離着陸性能を有していた。フラップは大型機で使われるようなトリプル・スロテッド・フラップを採用し、前縁スラットはエルロンを除くと全域に装着した。前縁スラットは上面からせり出すタイプではなく、下面から前方に突き出すタイプでB707と同じ機構を持つ(ウィキペディア英語版より)

これだけの高揚力装置は本来、自重の重い大型機に使われるものであって、小型機には「行き過ぎ」感があったほどだ。

構造が複雑になるほか、機体の重量も増えるデメリットはあるものの、それを充分カバーできる程離着陸性能が優れる結果をもたらした。

離着陸性能だけでなく、高揚力装置は離陸後いち早く巡航高度に到達でき、着陸前の降下もギリギリまで巡航出来ることを意味した。

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1-1-1-1E B727-284,_Olympic_SK-CBF.jpg ↑(2枚)ギリシア、オリンピック航空の200型。域内路線の主力機として20機以上を運用し、90年代末まで活躍した(ウィキペディア英語版より)

すなわち速度の遅い上昇・降下距離を最大限減らす事が出来る訳で、それは異常なまでの速達性をも合わせ持っていたのである。

つまりただ速いだけでなく、「商業機」としての素質を持つとともに、ジェット旅客機の概念を変え、確立させたのがB727であったと言えるのである。

1-1-1-1E B727-256-Adv,_COCKPIT Iberia.jpg ↑B727-200のコクピット。B707に準じたレイアウトを持ち、航空機関士を含む3人乗務機だ。中古機を含め、多数のエアラインで長期に渡って運用されたため、末期にはエアライン独自の改修を加えた機体も数多く存在する(ウィキペディア英語版より)

日本では64年から65年にかけて、日本航空、全日空、日本国内航空が揃って導入した。

特に全日空と日本国内航空は初めてのジェット機であったが、国内大手3社がほぼ同時期に同機種を導入と言う事も初めてのことだった。

これは政府が主導して、国内線の拡充・充実を推奨した結果であった。

同機種を運用することで、初めてとなる全日空と日本国内航空にジェット機のノウハウを蓄積させ、公共交通機関として先進国並みの交通網を構築する・・と言う政治的目論みがあった。

1-1-1-1E-B727-46,_Japan_Airlines_(JAL).jpg ↑日本で最初にB727を導入した日本航空。主に国内線で使われ、旧式化していたDC-6などのレシプロ機を一気に置き換え、保有機のジェット化を達成した。同社は100型のみ20機を導入し、うち2機は短期間ながら日本国内航空にリースしている。200型は1機も導入しなかったが、80年代後半まで活躍し、末期には福岡~ソウル線や新潟~ハバロフスク線など、当時としては一風変わった近距離国際線にも投入されていた(ウィキペディア英語版より)

折しも日本は戦後約20年が経過し、64年には東京オリンピックが開催された。

それと合わせて新幹線が開業し、全国に高速道路網が整備され始めていた時代。いわゆる歴史的な「高度経済成長」である。

まだ飛行機は高価な交通手段ではあったが、利便性を向上させれば運賃が安くなり、一般国民でも気軽に利用できるようになることを目指していた。

政府のテコ入れで、全国の空港の整備も進められており、機材の更新はエアラインよりも政府の方が強く望んでいたのである。

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1-1-1-1E B727-109C_CHINA AIRLINES B-1822_.jpg ↑(2枚)大韓航空とチャイナ・エアラインズのB727-100。アジア諸国では意外にもB727は売れなかった。比較的長距離路線が多かったことや、ベトナム戦争の影響もあった。また中国が自由化解放される前であった事も理由だっただろう。大韓航空もまだ規模が小さく、近距離用機材は僅かで初めての小型ジェット機として中古のB727が導入された。だが数は少なく画像の機体は元日本航空機。チャイナ・エアラインズは唯一日本へ定期便として100型を運航したエアラインで、貨客両用型の「100QC」を導入した数少ないエアラインの一つ(ウィキペディア英語版より)

当時日本航空は国際線を独占し、国内線は幹線のみ。一方2社は完全な国内専門のエアラインに規制されていた。

戦後復興のため、日本航空は半官半民のエアラインとして優遇されていたが、他の2社は純粋な民間であり、機材も戦後の中古機ばかりで事故も多かった。

それがB727を導入することで、一気に近代化が進むことになった。

100型は日本航空が20機、全日空が12機導入。日本国内航空は、日本航空からリースで2機を運用した。

日本航空は国内線の他、近距離国際線にも投入した。

67年には、100型の胴体を約6メートル延長し、最大座席数も180席に増やした200型が登場。

この200型が、事実上メインモデルとなった。

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1-1-1-1E B727-251_Northwest_N286US.jpg ↑(2枚)100型の胴体を約6メートル延長し、180席級となった200型。最初に導入したのはノースウエスト航空。80年代以降になると、以遠権を行使した日本線にも投入された。羽田及び成田に本土からフェリーしたB727が常駐し、ミクロネシア線や韓国線などを運航していた。ヨーロッパでも同様に、ロンドンなどをベースに接続便として運航した(ウィキペディア英語版より)

70年代後半にはには改良が加えられ、エンジンは同じJT-8Dながらも最大出力が引きあげられ、燃料タンクの増加、キャビンの内装を改良した「アドバンスド」に生産が切り替えられた。

また都市部では騒音や排気ガスなど、環境規制が厳しくなった事で、エンジンナセルも改良された。

初期生産型の中には、エンジンを換装し「アドバンス」仕様に改造された機体も多い。

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1-1-1-1E B727-2F2-Adv,_Turkish_Airlines_TC-JCA.jpg ↑(2枚)ターキッシュ・エアラインズの200型(ウィキペディア英語版より)

日本では全日空が31機もの200型を導入し、その後導入したB737-200と共に同社の国内線ネットワーク構築に大きく貢献した。

初期の200型は航続距離は3,000キロ程度だったが、「アドバンスド」では一気に最大で4,500キロ程度まで延長された。

今でいえば「ER」と呼べるだろうか、この「200アドバンスド」の登場で、エアラインの事情は更に進化することになる。

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1-1-1-1E B727-2L8(Adv),_Aviogenex.jpg ↑(2枚)ユーゴスラビアの国営エアライン、JATユーゴスラビア航空と民営だったアビオジェネックスの200型。B727は冷戦最盛期に生産されたため、当然ながら社会主義国での導入はなかった。唯一導入したのが社会主義国ながらもソ連とは一線を画し、「非同盟路線」を貫いて西側諸国と交流していたユーゴスラビアだった(ウィキペディア英語版より)

当初の同機は、B707をベースとした「短距離向け」の旅客機だった。

ただ北米系エアラインの多くが、2,500キロ程度の航続距離を望んだからである。

当時広大な国土を持つアメリカでは、既に飛行機は一般的な交通手段になっていたが、性能の問題で大陸横断便など長距離便は限られた存在だった。

さすがのアメリカでも直行便は機材が限られるので、運賃が高く設定されていた。

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1-1-1-1E B727-223-Adv,_American_Airlines_N883AA.jpg ↑(4枚)アラスカ航空、ユナイテッド航空、アメリカン航空の200型。200型の生産が開始されると、アメリカでは大手のみならず中小エアラインでも導入が続き、ジェット化が一気に進んだ。大手では中古機を含めて多数の200型を運用し、上記3社も00年代初頭まで現役で運用した。90年代まではB737とともに全米どこの空港でも見られた機種だった(ウィキペディア英語版より)

多くは航続距離の長い4発機で、プロペラ機も当たり前だった。

B707やDC-8も主要幹線で運航されたが、基本的には国際線機材の間合い運用で、当然運航コストも高かった。

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1-1-1-1E B727-2Q9-Adv,_Avianca.jpg ↑(3枚)南米コロンビアのACESとアビアンカのB727。1枚目は100型で、形式名は「B727-46」。すなわち元日本航空の機体だ(ウィキペディア英語版より)

故に国内線の長距離便の多くは「経由便」が普通で、何か所も経由する事も珍しくなかった。

小型機の航続距離が短かった事もあるが、B727が登場した事でそうした状況は一変した。

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1-1-1-1E B727-227(Adv),_Southwest_Airlines.jpg ↑(2枚)デルタ航空とサウスウエスト航空の200型。デルタ航空は100機以上の200型を運用し、末期には「デルタ・シャトル」として大都市接続便で活躍した。LCC大手サウスウエスト航空のB727は貴重で、ほんの一時期だけ使われた。中古機だったがB737と区別するため、機体塗装は同じデザインながら737の「サンドイエロー」ではなく「ゴールド」に変更していた。金色のB727は恐らくこれだけだろう(ウィキペディア英語版より)

更に「アドバンスド」の出現で、直行便の割合が大幅に増加し、利便性とともに利用率も急増したのである。

「アドバンスド」でもニューヨーク~ロサンゼルスなど大陸横断は無理だったが、シカゴ~ロサンゼルスなら可能だったし、経由便でも経由地を少なくすることが出来た。

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1-1-1-1E B727-200-LAB_Airlines(CP-1366).jpg ↑(9枚)中南米のB727コレクション。90年代、中南米諸国のエアラインは、まるでブームのようにB727をこぞって運用していた。これはB737の新シリーズやA320がデビューした事で、大量のB727が中古で放出されたからだ。加えて先進国では環境基準で3発機が運用しづらくなった事もあって、中古B727は「激安」だった。これらの国は経済状態、環境基準が低く、安くて程度の良いB727はもってこいの機種だったのだ。上からVARIGブラジル航空の100型、ベネズエラのセルビベンサとアベンサの200型、メキシコ、メヒカーナ航空の200型と、グアテマラ・アビアテカの100C。エクアドル・タメ航空の200型、ボリビア・LABの100,200、そして「スーパー27」。VARIGとメヒカーナは新造機で導入しているが、他は全て中古機での導入。00年代、もしくは10年代まで現役にあった機体も多いが、エアライン自体の経営が不安定なこともあって、ここにあげたエアラインは現在一つも存在しない。それでもアビアテカやタメ航空はブルー系の塗装が美しい(ウィキペディア英語版より)

高速性も加わったから、仮に経由便でも運航時間は劇的に短縮する事になったのである。

これにより、B727は「中距離旅客機」と言う新しいカテゴリーを生み出したのであった。

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1-1-1-1E B727-256-Adv,_Iberia.jpg ↑(4枚)A320登場前のヨーロッパでは、メジャーの多くがB727-200を採用した。座席数が多く、航続距離が長い事で域内だけでなく、中東や北アフリカなど近距離国際線を直行できる機材としてまとまった数で運用された。上から(2枚)エール・フランス、アリタリア航空、イベリア航空(ウィキペディア英語版より)

日本のように、短距離運用でも同機の効率は際立った。

3発機と一見燃費が悪そうに見えるが、国内線ならば離陸重量が軽くて済み、3発機ならではの上昇力で素早く巡航高度に駆け上がり、高揚力装置でサッと降下することで時間を短縮し、結果的にさほど燃料を使わず運航出来ると言う芸当を持っていた。

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1-1-1-1E B727-281-Adv,_MIAT_Mongolian_Airlines.jpg ↑(2枚)活躍期間は短かったが、日本線に定期便として運航されていた大韓航空とMIATモンゴル航空の200型。いずれも元全日空機である(ウィキペディア英語版より)

200型では大型化された為、その持ち味はやや薄れたと言われるが、初期の100型では顕著だった。

有名なエピソードとして、日本航空と全日空の100型が、東京~大阪間でスピード競争を繰り広げたことだ。

1-1-1-1E B727-81,_All_Nippon_Airways_(ANA).jpg ↑65年に導入が開始された全日空のB727-100。200型が登場する前は形式名が存在せず、正式には単なる「B727」にボーイングが付与するカスタマーコードがつけられていただけだった。因みに日本航空は「46」、全日空は「81」で、日本航空の100型は「B727-46」、全日空機は「B727-81」となる。200型であれば「B727-281」である。カスタマーコードは半永久的で、現在も継承されている。B727は全日空初のジェット機であり、顧客競争の手段として日本航空と熾烈な争いを演じたが、それが原因の事故も発生した。全日空は12機の100型を導入した(ウィキペディア英語版より)

当時日本の空は、今と比べ物にならないくらいトラフィックが少なく、航空管制もまだ未整備だった。

航空機を監視・誘導するレーダーは全国で数えるほどで、民間機の運航は無線誘導が主流だった。

その為運航そのものはパイロットの裁量に任せられる部分が多く、気象条件によっては「有視界飛行」が認められていた。

それとB727の高い離着陸性能を活かし、東京~大阪間を実に30分弱と言う、今では信じられない時間で運航されていた(記録では全日空が26分が最短)。

また東京~札幌間でも1時間を切っており、同機の高速性をまざまざと見せつけていた。

1-1-1-1E B727-200_ANA JA8335.jpg ↑国内では唯一200型を運用した全日空。合計31機を運用し、ローカル線のジェット化に大きく貢献した。筆者の地元仙台空港では、80年代初頭まで定期便の主力で、羽田・大阪・札幌線に投入されていた。私事ではあるが初めて乗った飛行機が、東京~仙台線の同機で、所要時間は約50分だった。東京~仙台線は82年の東北新幹線開業と同時に廃止、大阪・札幌線も同時期にデビューしたB767-200に置き換えられた(ウィキペディア英語版より)

しかしその「栄光」は長く続かなかった。

66年(昭和41年)2月、札幌・千歳(このころは旧千歳空港)発東京・羽田行き、全日空60便が羽田到着直前、東京湾に墜落。

乗客・乗員全員が死亡すると言う、痛ましい事故が発生した。

この便はB727-100で、「さっぽろ雪まつり」の帰りなどの観光客で満席だった。

更に羽田周辺の天候は良好で、パイロットは着陸前管制に有視界飛行を要請。

計器飛行による周回飛行を避け、有視界で羽田へショートカットしようとしていた矢先であった。

当時旅客機にはブラックボックス・フライトレコーダーの搭載が義務付けられておらず、事故が夜間だったこともあって事故原因は現在まで不透明のままである。

だが60便の直前に、日本航空のコンベア880が計器飛行で予定通り着陸しており、その後の調査で60便と管制とのやり取りに意思の疎通が欠けていたことが分かっている。

原因は決定づけられなかったが、60便のパイロットは有視界飛行でショートカットし、コンベア880よりも先に着陸しようとしていて、降下率を見落とし海上に墜落してしまったものと考えられた。

有識者の中には、機体の欠陥を指摘する者もいたが、引き上げられた機体の調査で、機体自体の異常は認められなかったという。

1-1-1-1E B727-281_ANA(JA8343.jpg ↑末期には現行塗装になった全日空のB727-200。90年、山形~東京線を最後に退役した(ウィキペディア英語版より)

事故後旅客機の有視界飛行は原則として禁止されたが、B727の性能をいわば過信しての、操縦ミスだったと言う事であろう。

全日空はこの事故の前にも、YS-11による墜落事故を起こしており、経営破綻直前まで追い込まれることになる(全日空は200型でも自衛隊機と空中衝突事故を起こしているが、こちらは自衛隊機の完全なミスだった)。

海外でも、その高速性能と離着陸性能を見誤った事故が頻発しており、当時のパイロットや管制では予測不可能な事態を起こしてしまうほどの性能だったのである。

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1-1-1-1E B727-2J4(Adv)(F)_DHL_(Tasman_Cargo_Airlines)_VH-DHE.jpg ↑DHLの100Fと200F。なかなか派手で挑発的な塗装もB727は良く似合う。DHLは自社の他、各国に委託運航を行って業務を拡大した。80年代急速に発展した「宅配貨物」がメインの為、中古のB727で充分だった。同社は各国の現地法人を含めて、延べ100機以上のB727を運用しており、特に100Fは最大のユーザーだった(ウィキペディア英語版より)

しかしその性能自体は、やはり常識を覆す卓越したものであり、教訓となって事故数は減少した。

B727は1,831機が生産され、初期型である100型は407機、貨客両用型の「100C」が164機。

200型は1,245機、貨物型の「200F」が15機生産された。

純貨物型の「200F」が意外と少ないように思うが、B737やMD-80の登場で代替えされ退役した中古の200型が多数あったため、改造機の貨物型の方が多いためだ。

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1-1-1-1E B727-233-Adv(F),_FedEx_N265FE.jpg ↑エメリー・ワールドワイドと、延べ100機以上のB727を運用したフェデックス。200Fの新造機はごくわずかで、大半が元旅客機からの改造機だ(ウィキペディア英語版より)

尚200型を最初に就航させたのはノースウエスト航空、「200アドバンスド」はルフトハンザ、「200F」はフェデックスだった。

特にフェデックス向けの「200F」は、B727の最終生産号機となり、その機体は84年に納入された。

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1-1-1-1E B727-232_Continental_N77780.jpg ↑(2枚)コンチネンタル航空の200型。上は日本各地に定期便として就航していた「コンチネンタル・ミクロネシア航空」の機体だが、90年代に本社と統合されたため「ミクロネシア」の文字は徐々に消された。ノースウエスト航空と違い、同社のB727はホノルルベースで、グアムに分駐させていた。このほか改造貨物機で日本や台湾へマグロを輸送していた事もある(ウィキペディア英語版より)

最近のB737やA320シリーズと比べると、生産数は比較にならないが、時代を考えると驚異的な数だった。

80年代後半には「不経済な3発機」と言うイメージが強くなっていたが、運輸するエアラインの多くは長年の蓄積と言う意味で、同機への信頼を寄せており、00年代初頭まで活躍した機体も少なくない。

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1-1-1-1E B727-254,_Trump_Shuttle.jpg ↑(2枚)全日空の様な塗装の、アリアナ・アフガニスタン航空と、アメリカのトランプ・シャトル航空の200型。前者はソ連侵攻前に導入され、同社の主力機として活躍した。後者は名前で分かる通り、トランプ前大統領が経営していたエアライン。不動産王として成功したトランプ氏だが、エアラインビジネスには疎かったようで、数年で倒産してしまった。その後大統領選の遊説のため、プライベート機としてB727を使った(ウィキペディア英語版より)

90年代には環境基準をクリアさせるために、エンジンを同じJT-8D系ながらもMD-80シリーズなどに搭載された「217」シリーズに換装したオプションも追加された。

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1-1-1-1E B727-200 Aeropostal_YV41C.jpg ↑(2枚)ベネズエラ、アエロポスタルで運用されていたB727-200「スーパー27」。エンジンをJT-8D-271に換装した改修機で、やや不鮮明な画像だが従来のJT-8D-7より大型であることが分かる(ウィキペディア英語版より)

この他翼端にウイングレットをレトロフィットさせるなどのオプションも加えられ、これら改修機を非公式ながら「スーパー27」と呼んだ。

尚初期生産型は「100型」と呼んでいるが、これは67年に200型の生産が開始されてから区別を付けるために付けられた形式名で、それまでは単なる「B727」であり、その後に発注エアラインのコードナンバーが付けられている。

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1-1-1-1E B727-200F Amerijet_N395AJ.jpg ↑(2枚)数年前まで現役だった、アメリカ・フロリダに本拠を置く貨物エアライン、アメリジェット・インターナデョナルの200F「スーパー27」。ウイングレットを追加したB727のスタイルは、全く古さを感じさせない。元々スマートだった機体が、ウイングレットでより洗練されたスタイルに変化する(ウィキペディア英語版より)

今の目で見ると、ナローボディ機なのに3発機と言うのは奇異に感じる。

当時はまだエンジンの信頼性が低く、非力だった事が一番の理由だが、同機が搭載したJT-8Dエンジンは完成度の高いエンジンだった。

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1-1-1-1E B727-200F CargoJet.jpg ↑(2枚)つい最近まで現役だったカナダの貨物エアライン、カーゴ・ジェットの200F。3発機と言う特殊な形状ながらも、DC-10やトライスターなどワイドボディ機と違って、実にスマートで格好良い機体である(ウィキペディア英語版より)

3発機とすることで、短距離路線から中距離路線まで運用でき、運航コストも安く、それは運賃の引き下げによる需要増を促した。

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1-1-1-1E B727-200F-Aerosucre_HK-4544.jpg ↑(2枚)コロンビアの貨物エアライン、アエロスクレの200F。同社は4機の200Fを保有していたが、近年1機が事故を起こして運航停止中。残りの3機は首都サンタフェ・ボゴタに保管されている模様だが、コロナ禍もあって同社の復活・再開は目処が立っていないようだ(ウィキペディア英語版より)

それは現代の航空事情の基本でもあり、B727はその礎を築いた機体だったと言える。

改めて同機を見ると、現代機にはない個性があり、同時に実にスマートで美しい機体である。

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1-1-1-1E B727-286(Adv),_Iran_Air.jpg ↑(5枚)世界中のファンに注目された、イラン・アーセマン航空の200型とそのキャビン。同社のB727は、旅客機として最も最後まで現役にあった。ラストフライトは19年である。80年代以降、世界中から厳しい経済制裁を受けているイランは、親米時代に導入した機齢30年以上の機体を自前で直しつつ使い続けて来た。キャビンも装備自体は一昔前のものだが、手入れが行き届いて綺麗に保たれているのが分かる。下はイラン航空の200型で、15年ごろまでは現役にあった。退役してもイランにとっては貴重な機体らしく、「整備保存」されている事が多く、両社のB727は、テヘランのメハラバード国際空港に保存されている姿が目撃されている。ラストフライトに当たっては、貴重な外貨取得のチャンスだったらしく、搭乗目的の外国人を多数受け入れた他、原則として禁止されている写真・動画撮影も一定条件下で許可されたと言う。イラン国内でも、同機の退役は大きな話題になったそうである。「整備保存」されていることから、今後の状況次第では「復帰」する可能性も少なくなく、政治情勢はともかく、ファンにとっては侮れない魅力をイランは持っている(ウィキペディア英語版より)

現在は「絶滅」寸前の機種ではあるが、なおも少数が残存している。

旅客機として運用されている機体はなく、貨物機として現役で残る機体がある他、政府専用機、そしてプライベート機として使われる機体があり、世界全体では数十機が残存していると言われている。

最も生産が終了して38年も経っており、古いを通り越して完全なビンテージと言った方が良さそうだが、将来の旅客機のあり方の一つを示した功績機だったと言えよう。

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1-1-1-1E B727-200F MAINDECK.jpg ↑(2枚)最後の現役B727であろう、アメリカの貨物エアライン、カリッタⅡとコロンビアの貨物エアライン、LASカーゴの200F。現時点で両社とも6機のB727を保有している。カリッタⅡは、日本でもお馴染みの「カリッタ・インターナショナル」のチャーター部門。いずれも「スーパー27」仕様に改修された機体で、騒音基準の「ステージⅢ」をクリアしたナセルを装備している。下はメインデッキの様子(ウィキペディア英語版より)

言い方を変えれば、B727は「出来過ぎ」な旅客機だったと思う。

当時あるパイロットは、同機を「まるで戦闘機」のようだと言った。

胴体が延長され重くなった200型は、やや「マイルド」になったと言うが、それでも旅客機とは思えぬ俊敏さを持っていたと言う。

1-1-1-1E_B727-200_Burkina_Faso XT-BFA.jpg ↑途上国を中心に、政府専用機や軍用機として現役にあるB727は30機前後あると思われる。画像は西アフリカ、ブルキナ・ファソ政府専用機で、ウイングレット付きの「スーパー27」仕様だ(ウィキペディア英語版より)

それが初期には操縦ミスを引き起こす事になるのだが、習熟すれば旅客機と言う「鈍重」なイメージは完全に払拭された機体だった。

低バイパスエンジンではあったものの、4発機に比べてずっと小ぶりな機体に3発も搭載していた上、そうした飛行性能を考えて設計されていた完成度の高い旅客機だったのである。

このような旅客機が、60年近くも前に開発されていたと言う事実を、今更ながら驚くべき事に気付くのである。








月命日(5月28日 晴れ 24℃)

最近、当ブログの更新が遅れております。

読者、そしてファンの方々(んなもんいない・笑)にはご心配、ご迷惑をおかけいたしております。

少なくとも体調不良とか、深刻な状況による遅延ではありませんのでご安心を。

以前少し書いたと思うけれど、3月から外部委託の別の仕事が入り、現在も継続中。

結構遠い場所(とは言っても通勤で約1時間程度)に通う必要があり、帰宅するとそこそこ疲れてしまいまして・・。

加えて些か朝が早いので、普段昼夜逆転生活の自分にはリズムの矯正も必要で、なかなか時間が割けないでおりました。

月末になって、ようやく仕事の目処、終焉が見えて来たところなので更新も徐々に戻るかと思います。

今しばらくの気まぐれを、お許し頂きたいと思います。

苦しい言い訳(笑)。


昨日は半日が台風の様な暴風雨。午後は急転して晴れ。

そして今日も見事な五月晴れ、毎年見ているはずなのだが、確かに5月の青空は美しい。

ずっと見ていたくなる。

しかし日差しも強烈で、日なたは気温以上に暑く感じる。

ところが一歩日陰に入ると、風が心地よく爽やかで、家や建物の中にいるのがもったいなく思えてしまう。

昨日に引き続き気温は25℃に迫り、街では半袖姿の人もちらほら見受けられるようになった。

「ちらほら」と言うのがポイントで、これこそ仙台人の季節感。

4~5月は夏の様な暑さがあったかと思うと、桜の前辺りの様な肌寒い日があることも多く、特に仙台では顕著。

しかも1日の中で、そうした激しい変化になることも珍しくなく、仙台人の「衣替え」は非常に慎重だ。

いわゆる「調節しやすい服装」が主流で、季節に敏感な若い女性も、半袖姿はまだまだ少数派だ。

半袖になっていても、手元やバッグにはカーディガンの様な物を持っている事が多い。

昨夜遅く、ごみ出しにTシャツ一枚で行ったら、思いのほか寒かった。

空気がひんやりしていて、日中の初夏の陽気がウソのよう。

制服組の「衣替え」は一週間後控えているが、仙台では冬服こそ脱いでも長袖のままの人の方が多い。

またこの時期は真夏よりも、太陽の紫外線が強く、それを意識する女性も多いようだ。

でも街では、初夏の鮮やかな花があちこちで咲いている。

ツツジやサツキ、ライラック、そして藤。

そろそろアジサイも咲き始めると思うが、初夏の花は実にカラフルだ。

ツツジのように、まるで自ら光っているかのように鮮烈なピンク色もあれば、ライラックのように爽やかでほんのり紫色、そしてみずみずしい青色のアジサイ・・・。

その中で意外と控えめながらも、美しいのが藤だ。

意外な事に、藤は日本の固有種。正真正銘「日本の花」。

最も古い文献の一つである「古事記」や「万葉集」でも記述が見られ、少なくとも飛鳥時代・奈良時代には季節を感じる花として認識されていたことが分かる。

1-1-1-1E Wisteria.jpg ↑藤の花(ウィキペディアより)

マメ科に属するつる性の植物で、海外でも亜種が存在する他、現在日本では数種類の交配亜種が存在すると言う。

つる性植物なので、いわゆる「藤棚」に絡ませ、縦長に咲く花が暖簾のように垂れ下がる。

種子はマメ科なので細長い「さや」に包まれ、硬くなると中に入っている種子をポンと弾き飛ばす。

私は直接見たことがないが、かなりの勢いで跳ね飛ばすそうで、場合によっては怪我をすることもあると言う。

花はうす紫色だが、日本では古代から「藤色」と呼んで来た。

藤の花を見たことがあるならば、藤色と聞いて何となく想像できるから不思議だ。

公園や個人宅では藤棚を設けている事が多いが、実はちょっとした林などでも見かけることが出来る。

IMG_5565.JPG ↑涼しげで上品な藤色(奈良県王寺町、筆者撮影)

あまり目立たないのだけれど、10メートルはあろうかと思う樹木の間から花を咲かせている事がある。

多分飛ばされ運ばれた種子が自生し、樹木につるを巻き付けて成長したのだろう。

意外とどこでも見られる花、とも言えるかもしれない。

だが見応えのあるのは、やはりちゃんと手入れされた藤棚に咲く藤で、その控えめな色はとても上品で爽やかなイメージを持つ。

それにしても「藤色」とは綺麗な名前で、日本人は本当に言葉の表現が巧みで上手いと思う。

英語ならば紫色は「パープル」か「バイオレット」と言う事が多いが、日本では「すみれ色」「ぶどう色」など花や果実の名前で色合いを区別することが多い。

また赤みの強い紫を「赤紫」、逆に青みが強い場合は「青紫」などと言ったりする。

日本人は古代から色の表現を事細かく使い分け、季節感や喜びを表して来た。

1-1-1-1E-Sunazuri-no-Fuji.jpg ↑春日大社の藤棚「砂ずりの藤」(奈良県奈良市、ウィキペディアより)

特に植物は、自然界からの「贈り物」のように捉えていて、毎年必ず咲き誇る花に敬意を表していたとも言える。

故に花の色自体を、色そのものとして扱って来たのだと思う。

植物の事は詳しくないけれど、母が結構好きだったこともあって、全く疎いと言うほどでもない。

母は、よく花を買ってきては庭先やプランターに植えていた。

その割に意外と不精で、手入れを怠ってダメにしてしまう事も少なくなかったが、しょっちゅうホームセンターに「ガーデニング」の買い物の付き合わされたし、綺麗な花が咲いている場所へドライブと称していつも一緒に行っていた。

そのせいで、咲く季節や花の種類を比較的覚えてしまった。

今も家には母の植物図鑑のような本が何冊か残してあり、時々思い出したようにページをめくることもある。

最も最近はネットで検索した方が早くて確実だが、街で見かけた花を調べてそうだったのか、と思う事も多いし、母があまり興味を示さない私に一生懸命説明していたことも思い出すのだ。


今日は母の5年2カ月の「月命日」。

今年の初夏は早く、花も少し早めに咲き揃っている。

今頃の花だと、母は藤の他ライラックが好きで、控えめな色合いの花が好きだったようだ。

相変わらず詳しくはないけれど、母の意思を受け継ぐつもりで、季節ごとの花や植物を、可能な限り見て感じていたいと思うようになった。

時々小さな鉢植えでも買って見ようかと思うのだけれど、さすがにすぐ枯らしてしまいそうでなかなか手を出せずにいる。

仏前に花を供えるのがやっとで些か情けないが、いつかプランターで良いから季節の花を育ててみたいと思う。

母は季節を感じて楽しむ事がとても好きで、私もそうして行きたいと思うこの頃である。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

気付けば5月は下旬。

来週には、もう6月を迎えます。

月日、季節の流れが何と早い事か。

君も歳を重ねるごとに、時の流れを感じる事が増えて来たと思います。

君は花が好きでした。

初夏を迎え、街には明るい色の花が咲き、新緑が陽光に美しく輝いています。

君は毎日それらを見て、季節を生きている事と思います。

過ごしやすい時期と言えますが、一方で夏の様な暑さだったと思うと肌寒くなったりと非常に気温差が大きい時期でもあります。

体調管理には、くれぐれも気を付けて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



かくしてぞ 人の死ぬとふ 藤波の ただ一目のみ 見し人ゆえに(万葉集巻十二 3075 物に寄せて思を陳ぶ)



飛行機ネタ 消えてしまった美しき星、トライスター(5月11日 曇り時々晴れ 21℃)

※2日分の日記を掲載します。

◎5月8日 晴れ時々曇り 18℃

10日間に渡るGWは、ついに最終日。

2年連続の「コロナ自粛」から一応解放された今年、観光地やイベントは多くの人で賑わったと言う。

また海外でも、一部の国や地域では入国規制が緩和されており、海外旅行へ出かけた人もいただろう。

前半は天気が不安定で気温も低かったが、後半は初夏を思わせる陽気が続いた。

私はと言えば、連休前半は仕事で「休日出勤」だったし、後半も結局何もできなかった。

普段の週末が3回ぐらい連続した様な感じで、どこかへ遊びに行くことは一切なかった。

今更もったいなかったかなと思う反面、特に行きたい場所もなかったし、お金の問題も。

仮にそれらをクリアしても、混雑ばかりの場所へ行く気にはならなかっただろう。

唯一「わざわざ」出かけたのは、ワクチンを受けに行ったことぐらいだ(笑)。

今回はコロナ自粛がなかった分、それに関わる仕事の人は逆に忙しく、息をつく暇もないほどだったかも知れない。

休日返上で仕事している人が沢山いるから楽しめる訳で、心からご苦労様と言いたい。

そう言う人達は「これから」交替で休みを取るのだろうが、ゆっくり休んで頂きたいと思う。

かつて母が元気で働いていた頃、私たち親子は毎年GW「後」に旅行するのが習わしだった。

母も私も以前から北海道が大好きで、春と秋、年末と年3回行っていた。

春は必ずGW直後で、二人とも連休中は仕事を入れておき、明けた後に休みを取った。

仕事場ではむしろ喜ばれていたので、気は楽だった。

何よりもGW明けは、旅行費が比べ物にならない程格安になる。

最近はネットで格安案件を探せるだろうが、旅行会社が販売する個人ツアープランもかなりお得だった。

往復の飛行機、現地でのホテルやレンタカー代をセットすれば連休中の半額程度まで安い。

代わりに観光地でのイベントなどはやっていない事が多いが、混雑はほぼなくゆっくり楽しめた。

今日のニュースで、釧路市で桜が咲いた事を伝えていた。

例年よりやや早い開花宣言だったそうだが、気象庁が発表して来た開花宣言は、この釧路をもって終了である。

今年最も早く宣言されたのは沖縄で、1月17日の事。

「桜前線」は、実に約4カ月もかけて日本列島を北上したことになる。

年と場所にもよるが、この時期の北海道各地では桜の季節であり、全道の名所を巡った事もある。

最も季節の変わり目でもあり、天候が不安定な事も多く、旅行中ずっと雨だったこともあるし、雪が降った事も珍しくない。

特に山岳部や道北・道東は気温差が激しく、夏日になって暑い日もあれば雪が降る事もある。

今年は天気が良く、気温も高かったようだが、今後寒くなる可能性もあるだろうか。


◎5月11日

予報では終日曇り、気温も17℃と言っていたが、確かに雲は多めながらも青空も見える時間が多く、気温も20℃を超えた。

しかし遥か南には「梅雨前線」が停滞し、鹿児島県の奄美地方まで「梅雨入り」した。

前線は徐々に北上し、この週末は全国的に雨の予報が出ている。

最も梅雨入りはまだ先だろうが、いわゆる「梅雨のはしり」みたいな天気が暫く続くと言う。

少なくとも昨日までは「五月晴れ」が続いていたが、連休が明けた途端に梅雨の声を聞くとは思わなかった。

街では高温と晴天が続いたせいか、初夏の花が一斉に咲き始めている。

目も覚めるような鮮やかな色が多く、改めて季節を実感する。

ツツジ、サツキ、そしてフジなど実にカラフルだ。

一方ある程度予測されてはいたが、一時ナリを潜めていたかと思ったコロナが再び拡大傾向に転じている。

県内では3月後半から、新規感染者数が200~300人程度だったのに、連休後半になると500~600人前後と倍増している。

全国的にも同様で、やはり連休中の大移動や人混みによる部分が大きいのだろう。

自覚症状がなくとも、人混みの中に出かけた人が検査を受けて陽性になる例も多いようだ。

感染者の多くは相変わらず若い世代が多く、言いたくはないが未だ意識が低いと言わざるを得ない。

3回目ワクチンの接種率は、30歳以下で4割程度だと聞くが(18歳未満を除く)、街ではどうしても若い人たちの不注意的な行動が見えてしまう。

この1カ月程、私は外部以来の仕事で市内にある某大学に通っている。

ちょうど新年度が始まり、キャンパスは多くの学生で溢れている。

大学側では感染対策を徹底させ、「密」にならないよう指導しているようだが、人数が多いためどうしても外れる者もいる。

確かに学校=友人でもあるから、当然友人同時一緒にキャンパスライフ・・は仕方ないことだ。

殆どの学生はマスクを着用しているが、昼休みなどはついマスクを外して会話してしまう事も多い。

休憩時間、時々喫煙所に行くのだが、「会話禁止」と書かれているにも関わらず狭い喫煙所内で大声で会話、騒ぐ者が後を絶たない。

申し訳ないが、彼らが集中する授業間の休憩時間に喫煙所に近付かないようにしているけれど、あの世代はどうも友人同士集まると「抑え」が効かなくなってしまう。

もちろん「オトナ」でもそう言う人はいるので、若者だけが悪いのではない。

実際この大学は、何度か「クラスター」を発生させていることもあり、もう少し意識させる指導を行っても良いと思う。



日中汗ばむ陽気でも、朝晩の空気はひんやり感じる事があり服装に悩ましい。

季節に敏感な若い人も、薄着ではあるけれど夏服は殆ど見かけない。

薄手の上着をまだ着ているが、日中はやはり暑く思え違和感を覚える。

かといって終日シャツ一枚と言うのも、まだ早い様な気がする。

極度の面倒くさがりなので、何とか既存の服で対応したいと思うが、どうもちぐはぐになってしまう。

それが今頃の季節の特徴で、それも味わいの一つなのかも知れない。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

気付けばもう5月も半ばで、すっかり初夏になりました。

君も街の美しい新緑を、毎日見ている事と思います。

まだ高温に身体が慣れていない場合もあるので、体調管理には充分注意して下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



天雲の たなびく山の 隠りたる わが下ごころ 木の葉知るらむ(万葉集巻七 1304 雑歌)






飛行機ネタ。

いきなり別方向の話で恐縮だが、広い宇宙において「連星」と言うものが存在する。

連星とは2個以上の複数の恒星が、共通の重心を持ちその周りを公転している事を言う。

主に自ら燃焼し光を放つ恒星での事を指すが、惑星同士で共通の公転重心を持つ場合もある。

恒星の場合、こうした「連星系」は決して珍しい事ではなく、私たちがいる「天の川銀河」の中でも、多数の連星系が確認されており、太陽のような「ソロ」の方がむしろ珍しいと言われている。

連星の形態は多様で、まさに「きょうだい」のようにすぐ近くで公転し合う星もあれば、数千・数万光年と言う途方もない距離で公転し合う連星系もある。

現時点で少なくとも最大で「7連星」まで存在することが分かっており、2~3個の連星系はごく当たり前の存在だと言う事だ。

地球から見た星は、当然「見かけ」の物であり、見た目が複数の星で固まっているように見えても、実際には何光年も離れていることも多いが、古代から連星は意識されていた。

それはやはり目立つからであり、天測や季節の目印にされたり、吉兆など宗教的な意味合いで見られる事も多かった。

その中で言葉として使われて来たのが「三ツ星」で、実際に「3連星」ではなかったにせよ、3つの星が固まって見えたのは吉祥と思われていたのであろう。

アニメファンの方ならば、往年の名作「機動戦士ガンダム」に登場した「黒い三連星」を思い浮かべるだろうか。

1972年4月26日、当時アメリカの大手エアラインの一つだったイースタン航空が、最新鋭機の大型機を初就航させた。

今から実に、そしてちょうど50年も前の事である。

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1-1-1-1D L-1011-385 TriStar_Eastern_Air_Lines.jpg ↑(2枚)今からちょうど50年前に初就航した、イースタン航空のロッキードL-1011トライスター。シルバー塗装にブルーのラインが同機の流麗なスタイルを引き立たせている(ウィキペディア英語版より)

その2年前に初飛行した原形初号機は、美しいオレンジ色の帯塗装を纏った機体で、ロッキード社にとって歴史的な瞬間であった。

その機体は「L-1011トライスター」。正に「三ツ星」の名付けられたこの旅客機は、エンジンを3基持つ「3発ワイドボディ機」で、ロッキード社が初めて開発したジェット旅客機である。

ロッキードは現在、世界最大の軍用機メーカーとして名高く(現名ロッキード・マーティン社)、宇宙部門でも世界トップの技術を持つメーカーでもある。

現代であればステルス戦闘機で、航空自衛隊も導入した「F-35ライトニングⅡ」をはじめ、第二次大戦前から数々の軍用機を開発して来たメーカーだ。

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1-1-1-1D L-1011_FIRST.jpg ↑(2枚)1970年11月に初飛行したトライスター原形初号機(ウィキペディア英語版より)

戦後は戦闘機や攻撃機だけでなく、大型の輸送機なども開発した他、多数のレシプロ旅客機を作って民間航空にも大きな影響を与えたメーカーだった。

しかし軍用機開発が多かった為に、ジェット旅客機の波には乗り遅れた感があって、同機の開発は唐突な部分もあった。

C-5ギャラクシーなど超大型機のノウハウはボーイングと同じくらい持ってはいたが、民間ジェット機と言う市場とは殆ど無縁であった。

60年代はジェット旅客機が急成長し、将来的に莫大な需要が必要だと予測されており、特にアメリカでは既に飛行機が足りない状況が訪れていた。

そこで生まれたのが「エアバス構想」で、それまで機体規模が小さくて当然だった短・中距離用機を大型化し、効率的な運用を確立させる構想であった。

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1-1-1-1D L-1011-500_Tristar_AIR CANADA C-CAGF.jpg ↑(2枚)エア・カナダのトライスター100と500。トライスター100は1型より燃料搭載量を若干増やしたバリエーションで、新造機としては14機が生産された(ウィキペディア英語版より)

すなわちバスのように一度に大量の乗客を乗せ、かつ国内の高需要路線で高頻度運航すると言う構想であった。

当時はアメリカ国内でも、飛行機はまだ運賃が高く、座席数の多い機体と言えば長距離用のB707やDC-8が主流で、運航コストは割高であった。

また同時期に開発中だったボーイング747は画期的な超大型機ではあったが、やはり長距離向けであり、何よりも常識外れの大きさだった。

そこでB747程大きくなく、それでいてB727などのナローボディ機よりも座席数の多い「ワイドボディ機」・・がエアバス構想だった。

短距離でも座席数が多ければ運航コストは相殺され、むしろ利益率は上昇するからである。

エアバスとは現在のようなメーカー名ではなく、「バスのように安価で気軽に乗れる飛行機」と言う意味が込められていたのである。

その考えに乗じたのが、第二の旅客機メーカーであり名門でもあるダグラス、そしてロッキードだった。

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1-1-1-1D L-1011_PSA N10114.jpg ↑(2枚)コクピットの風防を「目」に例え、「スマイルマーク」を書き込んだ事で有名なパシフィック・サウスウエスト航空(PSA)。同社は規制緩和で設立された70年代の新興エアラインで、カリフォルニア州サンディエゴに本拠を置いたエアライン。低運賃・高頻度運航で業績を伸ばし、アメリカのLCCの奔りと言われている。現在米最大のLCC、サウスウエスト航空は同社を参考に設立したと言われる。80年代競争激化による再編で、USエアウエイズに統合された。トライスターは同社初、最大の機材で大陸横断路線や高需要路線で活躍した。チートラインのデザインは古めかしいが、ピンクを基調とした明るいデザインとスマイルマークは、いかにもカリフォルニアのエアラインらしい楽しい雰囲気を持つ(ウィキペディア英語版より)

先に書いたようにボーイングは747の開発中だったため、この2社がエアバス構想に着手したのであった。

コンセプトからワイドボディであるために、エンジンは3発が理想とされ、ダグラスは「DC-10」を開発することになった。

両社はほぼ同時進行で開発したが、世間では既にジェット旅客機の経験を積んでいるダグラスが優勢と見ていた。

実際にはダグラス自身、DC-10は初めてのワイドボディ機、初めての3発機と「初めてづくし」であり、ロッキードに対して技術的な大きいアドバンテージはなかったのである。

ただセールスと言う点では、DC-8/DC-9を既に成功させていたダグラスの方が明らかに上手であり、経験の少ないロッキードは不利だった。

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1-1-1-1D L-1011 TRISTAR Cathay_Pacific.jpg ↑2枚)日本で馴染みのトライスターと言えば、キャセイ・パシフィック航空。イギリス領だったことから、RB211エンジンの想定がないDC-10ではなく、トライスターを選んだ。90年代まで成田線の主力機として運用されていた。同社は20機以上のトライスターを運用し、初期型の1型もエンジンを換装して「50」型としていた(ウィキペディア英語版より)

40~50年代、ロッキードは「コンステレーション」や「エレクトラ」と言った4発プロペラ機を生産していたが、ジェット時代になってからは市場から遠のいており、ライバルのDC-10と競争するには卓越したテクニックが必要であった。

60年代のアメリカエアライン業界は、まだ厳しい規制が敷かれていて、大手と中小エアラインの間には格差が広がっていた。

需要が高まるにつれ、そうした格差に不満を持つエアラインも多く、政治的な色合いもあからさまにでていた。

時代はより経済的で高い出力が出せる高バイパスエンジンの実用化が実現し、アメリカでは軍用から民生用に改良したGE製「CF-6」やP&W製「JT-9D」が登場して、航空機大国アメリカは正に世界の頂点に立っていた。

一方航空機「発祥国」であるイギリスも、第二次大戦後の経済悪化に喘ぎながらも、国が航空機やエンジン開発を率先して開発していた。

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1-1-1-1D L-1011-200_TriStar_Saudi_Arabian_Airlines_HZ-AHR.jpg ↑(2枚)イギリス、カレドニアン航空のトライスター1と、サウジアラビア、サウディアのトライスター200。200型はサウディアがローンチした、100型よりも離陸重量を引き上げたタイプ。24機が生産された(ウィキペディア英語版より)

しかし高品質・大量生産、そして新たなカテゴリーの開拓と言う点では、どうしてもアメリカに及ばない状態だった。

そこで自動車とエンジンの名門であるロールス・ロイス社に、政府は莫大な資金を提供し、新時代に相応しい旅客機用の高バイパスターボファンエンジンを開発させていた。

これが「RB211」と呼ばれるエンジンであるが、この時点でイギリスに搭載できる旅客機は皆無であった。

この時点で、同エンジンはトライスター用として開発された事は明白で、同時にそれはロッキードとイギリス政府の、ある意味「忖度」があったからだった。

イギリスにしてみれば、機体の自国開発・セールスは諦めても、アメリカ製の機体にイギリス製エンジンを搭載させることで面目を保とうTPしていたとも言えた。

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1-1-1-1D L-1011_TriStar_1;_DELTA N1732D.jpg ↑(2枚)デルタ航空のトライスター1。導入当時、同社は長距離国際線を持たなかったため、基本型のトライスター1のみを自社発注し、国内幹線で運航した。その後エンジンを換装し、50型仕様に変更。中南米路線やハワイ線などにも投入し、後から中古で導入したトライスター500よりも後に退役している(ウィキペディア英語版より)

またロッキードも、いわば「どっぷり国産」のボーイングやダグラス機と比べ、「イギリスの血」が入ったトライスターならば多くの国に売れるのではないか、と言う算段も抱えていたのである。

故にトライスターはRB211エンジンありきで開発されたが、唯一の誤算はRB211の開発と同時進行だったことだった。

このエンジンはイギリスで最初に実用化・量産された大型高バイパスエンジンで、CF-6やJT-9Dが従来の2軸構造を持つのに対し、中空タービン部分も別系統とした3軸構造を持つエンジンだった。

ジェット時代を迎えたヨーロッパでは、既に騒音や排気ガスと言った環境基準が厳しくなりつつあったことや、より低燃費を目指す事も加えて採用された構造だった。

更に推進ファンは、当時イギリスで開発された軽量の複合材が使われ、自体がコンパクトで軽量である事も特徴であった。

1-1-1-1D L-1011-385-1-15_TriStar_200_GULF AIR.jpg ↑バーレーン、ガルフ・エアのトライスター200(ウィキペディア英語版より)

莫大な費用のかかる機体の開発を諦めたイギリスは、エンジンだけでも世界トップをシェアする事を目論んだのである。

しかもロールス・ロイスは民間企業ながらも国策企業の一つでもあったから、開発には政府から多額の資金が投入されていた。

機体の開発は順調に進み、DC-10よりも先じていたのだが、完成直前になって大問題が発生した。

同時進行で進められていたRB211は一足先に試験を始めていたのだが、ファンブレードに使用する新しい複合材の耐久性に問題があることが分かり「使えない」ことが判明したのである。

ロールス・ロイスは急遽通常のチタン製に替えることにしたが、多くの部分で設計の変更を余儀なくされ、開発資金が予想以上に膨らんで同社は事実上倒産に追い込まれてしまった。

当然トライスターの開発も停止することになり、大混乱を引き起こす事になったのである。

1-1-1-1D L-1011-385-3_TriStar_500,_LTU 2.jpg ↑RB211エンジンは低燃費、低騒音の優れたエンジンだったが、始動の際に多量の煙を吐くのが特徴だった。日本でも全日空機の煙は、ファンに良く知られていた(ウィキペディア英語版より)

ロッキードは遅延を避けるため、CF-6やJT-9Dへの換装も考えたが、元々トライスターはRB211「のみ」を搭載するよう空力的にも設計されており、他のエンジンを搭載するとなるとそれこそ大規模な設計変更をせざるを得ず、不可能であった。

イースタン航空を始め、既に数十機の確定発注を取っていた為、今更後へは引けない、まさに「四面楚歌」の状態に追い込まれたのである。

残念ながら、初飛行はDC-10に先を越されたものの、僅差まで追いついたのは今見れば奇跡だったかもしれない。

そこには大量の「税金」を投入したイギリス政府のなりふり構わない売り込み、と言うか、裏工作があったからだ。

当時のヒース首相が自ら音頭を取り、世界中にトライスターをセールスしまくった。

それは旧植民地に対する押しつけであったり、巨大商社や政治家を賄賂を使うと言う、悪く言えば汚ない手段も厭わなかった。

開発遅延とロールス・ロイス社の倒産は、「国産機」が独占していたアメリカの市場経済をも荒らし、外交問題にまで発展した。

たった1機種の旅客機が、1国の経済を混乱させ、外交問題まで起こす程になったのは、冷戦時代で「軍需メーカー」でもあるロッキードがいかに影響力の大きい会社であるかを物語っていた。

1-1-1-1D L-1011-385-1 TRISTAR Court_Line.jpg ↑全体が薄いピンクと言う、ありそうでない塗装を施したコート・ラインのトライスター1。同社はカナダのチャーターエアラインで、最も美しいトライスターの一つだと思う(ウィキペディア英語版より)

日本でも全日空がトライスターの導入にあたり、ロッキードと日本側の窓口となる商社が、田中角栄首相に賄賂を送って導入を促した「ロッキード事件」も、そもそもの発端はRB211の遅延とイギリス政府の焦り、プライドへの固執が発端であったのである。

当時日本のエアラインは、「46・47体制」と言って路線開設や運航に関して国がエアラインごとに規制を敷いていたが、それが事実上「自由化」される時期だった。

半官半民だった日本航空は、名実ともフラッグキャリアとして国際線を独占する代わりに、国内線の運航は幹線だけに限られていた。

一方全日空と東亜国内航空は国内線だけが認められており、国際線はチャーター運航も認められていなかった。

最も緩和されたからと言って、勝手に国際線運航が出来る訳でもなく、エアラインには相当の準備と実績が必要だった。

全日空はその実績を積む為に、機材の最新鋭化を図っており、国内線でトップシェアを確保するために大型機材は不可欠だった。

70年代初頭、全日空がまだB747は保有しておらず、トライスターは初の大型ワイドボディ機であった。

1-1-1-1D L-1011_Tristar_ANA A8502.jpg ↑全日空初のワイドボディ機として、73年に導入されたトライスター。当初は「モヒカン・ルック」だった(ウィキペディア英語版より)

同機が選ばれたのは、ライバルである日本航空がDC-10を発注していたからだったが、ワイドボディ機の経験さえない同社にとって、実際にはどちらが良いかと迷いがあったと思われる(実際全日空はDC-10を発注しており、初号機が完成した直後違約金を払ってキャンセルしていた)。

そこへ政治的圧力が加わり、トライスターの発注に傾いた訳だが、導入に関しては予定通り行われた。

全日空がトライスターの初号機を受領したのは73年。

同機の初就航の直前、日本では沖縄が米軍占領から返還され、あらゆる意味で「沖縄ブーム」に沸いていた時代だ。

その一環として、75年に沖縄で「海洋博覧会」の開催が決定しており、トライスターはこれに合わせる形で導入された。

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1-1-1-1D L-1011-385-1_TriStar_1 ANA JA8509.jpg ↑(2枚)全日空は22機のトライスターを導入した。80年代には現在の「トリトンブルー」塗装に変更され、国内幹線や亜幹線で運用された。導入時同社最大の、唯一のワイドボディ機であり、75年に開催された「沖縄海洋博覧会」に合わせて導入した。同時に開設した東京~沖縄線の主力でもあった。また同社のツアー商品で今日まで続いている「ANAスカイホリデー」はトライスターの就航がきっかけで始まった(ウィキペディア英語版より)

それまで全日空が保有していた最大の機材は、180席のB727だけ。

一方日本航空は国内線用の「B747SR」を導入しており、全日空にとってトライスターは何が何でも不可欠な機材であった。

導入前後は、全国ネットでテレビCMを流す程宣伝に力を入れていた。

導入から3年後の76年、政治スキャンダル(ロッキード事件)が明るみに出たことで、トライスターもある意味汚名を着せられた形になってしまったが、それを晴らすかのように同社での活躍は渾身と言う言い方が相応しいほどであったと思う。

全日空が国際線に進出するのはなおも時間を擁し、86年まで待たなくてはなかったが、その前には実績作りと言う形でトライスターが国際チャーター便を運航していた。

86年の国際線初就航(東京~グアム線)も同機が担当し、同社初の「内外両用機」として発展に貢献した。

全日空は21機導入し、既に後継機種であるB767の導入が開始されていたため、国内線での運用は導入後約10年で減勢に転じたが、アジアやミクロネシア方面の国際線では主力だった。

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1-1-1-1D L-1011-385-1_TriStar_1_ANA_JA8509.jpg ↑(2枚)チャーター運航の実績を重ね、86年に念願の国際線を開設した全日空。既にB747SRは保有していたが、航続距離が短い上、国内幹線で手いっぱいだったため、国際線の主役はトライスターが選ばれた。それに合わせて胴体のロゴも、漢字タイトルの他に英文タイトルが加えられたが、スペースの関係で些かデザインとしてバランスが悪かったように思う。国内線でも継続して運用され、「内外両用機」としてフルタイムで活躍した。キャビンはビジネスクラスを含む2クラスで、国内線ではスーパーシートとして使われたが、晩年には国際線仕様のビジネスクラスシートが装備された。政治スキャンダルで汚名を着せられたトライスターだったが、運用期間中事故は一度も起こさず、その汚名を挽回したと言える。後継機種はB767-300で、95年に22年間の運航を終えた(ウィキペディア英語版より)

スキャンダルの汚名とは裏腹に、トライスターは優秀な機体で、全日空では退役した95年までの22年間一度も事故を起こさなかった。

海外でも大きな事故は数件だけで、原因はいずれも人為的ミスであり、構造上の問題となる事故はない。

一方DC-10は、開発期間中にダグラス社の業績が悪化してマクドネル社に売却「マクドネル・ダグラス」社に変更。

経営陣の抗争などが続いた事もあって、初期のDC-10は設計ミスや工作不良、リスクマネージメントの欠如などが重なって重大事故を頻発させており、トライスターとは対照的であった。

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1-1-1-1D L1011_Tristar_500_BWIA_West_Indies.jpg ↑(2枚)機数は少なかったが、個性的な機体が多かった中南米。上はフォーセット・ペルー航空のトライスター50、下はトリニダード・トバゴ、BWIAのトライスター500(ウィキペディア英語版より)

トライスターは、70年代の旅客機としては非常に先進的なシステムを持つ機体だった。

それはロッキードが軍用機メーカーであったことに加え、宇宙部門も持っていたことが大きい。

特に「アポロ計画」では、宇宙船の開発を担当していた事もあって、そのノウハウがトライスターにも使われていたのである。

同機は航空機関士を含む3人乗務機であり、もちろん計器は全てアナログ式である。

しかしそのシステムは先進的で、この時代常識だったトグルスイッチに変わり、「スイッチライト」を初めて標準化させた。

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1-1-1-1D L-1011 FLIGHT DECK.jpg ↑(2枚)トライスターのコクピット。下は航空機関士席。アポロ宇宙船で採用された技術を盛り込んでおり、スイッチライトの実用化を始め、当時としては先進的なシステムを持っていた(ウィキペディア英語版より)

これは現在一般家庭でも使われている者の原形で、「ON」にするとスイッチ自体が点灯するようになっているものだ。

機関士席のパネルでは、スイッチライトが機能的に配置される事で作業・確認しやすくなっていた他、夜間でも一目で状況が把握できるようになっていた。

機体では、水平尾翼が安定版とエレベーター(昇降舵)に分割されている従来のタイプではなく、全体が動く「全遊動式水平尾翼(オール・フライング式)」を採用した。

これは戦闘機などに使われている事が多いが、旅客機では初めてのことだった。

更に当時としては最新のコンピューターを搭載し、航法システムも含めてボーイングやダグラス機よりも優れていた。

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1-1-1-1D L-1011-1_Tristar,_Rich_International_Airways.jpg ↑(4枚)90年代になると、メジャーエアラインの多くがトライスターを退役させた為、チャーターエアラインが中古機として購入した。上3枚はアメリカン・トランス・エア(通称アムトラン、後のATAエアラインズ)のトライスターで、上から1型、50型、500型。4枚目はリッチ・インターナショナルのトライスター1で、いずれも一般チャーターの他、米軍チャーターでも活躍した。日本でも00年代初頭までは、横田基地や嘉手納基地、岩国基地などに頻繁に飛来していた(ウィキペディア英語版より)

主翼の上面には3分割されたスポイラーを装備するが、これはトライスターの「目玉商品」でもあった。

通常スポイラーとは、名前の通り「エア・ブレーキ」の役目を果たす。

着陸するとリバーサ(逆噴射装置)が作動すると同時に、スポイラーが立ちあがって減速させるが、機種によっては飛行中の減速に使える場合もある。速度を抑えつつ、降下する時に使われる事もある(B747のように地上でしか作動しない機体もある)。

動翼作動が電気的に分割できるフライ・バイ・ワイヤ機では、左右別々に作動させエルロンの役割を持たせている物もあるが、トライスターでは飛行中に作動が可能だった。

1-1-1-1D L-1011_TriStar_wing_with_partly_open_spoilers.jpg ↑飛行中に「DLC」で作動しているトライスターのスポイラー。3分割されたスポイラーが、それぞれ独立した動きをしているのが分かる。自動操縦でそれぞれのスポイラーが細かく作動することで、主翼の揚力効果を調整し、着陸降下中の機体を安定させる機能を持つ。当時旅客機では唯一トライスターが持つ機能だった(ウィキペディア英語版より)

加えて自動操縦のコンピューターと連動されており、3枚のスポイラーは別々に、そして1度以下の細かい角度での作動を可能にしていた。

これが「DLC(ダイレクト・リフト・コントロール)」と呼ばれるシステムで、全遊動式尾翼と合わせて精密着陸を実現していた。

このシステムのおかげで、着陸時に速度と角度を微調整するために機首を上げ下げさせる必要がなく、自動操縦装置に降下角度と速度を入力しておけば、完全な自動着陸が可能であった。

これによって同機は「カテゴリーⅢ」と呼ばれる、悪天候で滑走路が殆ど視認できない条件下でも、安全な自動着陸が許された初の旅客機であった。

3発機の機体形状も、DC-10とは対照的だ。

最大の特徴である「第3エンジン」が、DC-10では垂直尾翼を「串刺し」にするように取り付けられているのに対し、トライスターは胴体尾部に取り付け、エアインテイク(空気取り入れ口)が尾翼の直前にある「S字ダクト」方式を用いていることだ。

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1-1-1-1D L1011_TriStar_back.jpg ↑(2枚)トライスターと熾烈な開発・販売競争を演じたDC-10とトライスターの尾部。同じ3発ワイドボディ機ながら、構造やシステムは対照的だった。特に尾部の第3エンジンの装着法が特色で、DC-10はエンジン自体の効率化を図るために垂直尾翼の付け根に串刺しするように取り付けた。しかし整備が非常に複雑になり、尾翼の面積が小さくなってしまいラダー(方向舵)の効きが低下するため、上下2分割している(ウィキペディア英語版より)

B727やトライデント、TU154と言った3発ナローボディ機でも「S字ダクト」方式が採用され、こちらの方が一般的だ。

この方式ではエアインテイクからの空気が、エンジンに到達するまでに距離が長くなる為、ダクト内で乱流が発生する恐れがある。

その為内部に整流板などを設置する必要がある他、胴体の有効長が抑えられてしまうデメリットがある。

一方全体的な空力性は優れており、燃費向上には役立った。

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1-1-1-1D L-1011-1_TriStar_TWA cabin.jpg ↑(4枚)イースタン航空に続きトライスターを採用したTWA(トランスワールド航空)とそのキャビン。同社は国内幹線で運用した他、航続距離を伸ばした100型を導入して大西洋路線の主力として運用した。乗客の荷物スペースが少ないと言う欠点を持っていたが、その分広々としていて居住性は良かった(ウィキペディア英語版より)

キャビンはDC-10とほぼ同じ幅があり、座席の標準的な配列は横8~9列である。

デビュー当時は8列配置を採用するエアラインが多かったが、末期には輸送力を上げるために9列にしたエアラインもあった。

キャビン中央部天井にはオーバーヘッドストウェッジがなく、窓際上部のみに設置されていた。

その為キャビンは非常に広々としていて、感覚としてはB747並みに開放的で好評だったが、やはり乗客の荷物スペースが少ないと言う問題は残った。

それを考慮し、窓際のストウェッジは左右幅を抑えて個数を増やし高さを取る形にしたが、満席に近いと全員分は賄えなかった。

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1-1-1-1D L-1011-385-1_TriStar_1_BRITISH AIRWAYS.jpg ↑(2枚)ブリティッシュ・エアウエイズのトライスター1。同社は各型50機近いトライスターを運用した、ヨーロッパ最大のユーザー。理由はもちろん「国産エンジン」であるRB211エンジンを装備していたから。多額の資金・税金を投入してからのトライスター故、導入は当然のことと言えた。主に中距離線の主力として活躍したが、ロンドン~パリ線など、短距離高需要路線でも輸送力を活かして運用された。尚同社のトライスターはオプションとして「1」型でも出力を上げたRB211-524B(1型の基本はRB211-233)を装備したことから独自に「スーパートライスター」と呼んでいた(ウィキペディア英語版より)

また中央部の4列座席を、2-2にしてその中間に小物入れ兼用の仕切りを作った。

ハンドバッグ程度しか入れられない大きさではあったが、座席同士のパーティションのようにもなり、2-2-2-2配置みたいな座席になっていた。

面白いのは床下にもギャレーが設けられた事で、食料を保管し食事をセットする為に置かれた。

メインデッキとの間は、乗務員は専用の階段で行き来し、床下でセッティングした食事などはリフト(エレベーター)に載せてメインデッキに上げる。

これによってギャレーの為に減少するキャビンの面積を減らす事が出来、その分座席を増やす事が可能であった。

1-1-1-1D L-1011-385-1_TriStar_50,_Hawaiian.jpg ↑ハワイアン航空のトライスター50。50は1型のエンジンをRB211-524Bに換装した型だが、ロッキード社では「トライスター1」のままで登録された。同じくエンジン換装型の150と250も、登録上は100,200である(ウィキペディア英語版より)

コクピットの風防は、旅客機としては初めて曲面ガラスを使っていた。

当時の曲面ガラスだとどうしても歪みが生じてしまうほか、光の拡散などの問題があったのだが、ロッキードは「アポロ」宇宙船で開発した特殊ガラスの技術を用いて、曲面ガラスをトライスターに使っていた。表面も特別なコーティングを施しており、歪みは光の拡散を抑えており、おかげでコクピットからの視界が他機に比べて広く、明るかった。

客室窓もオリジナルが用いられており、遮光の為のカーテンやシェードは供えられておらず、「二枚重ね」の偏光ガラスを採用した。

これは窓際のツマミを回す事で、色つきのガラスが回転して遮光すると言う、今で言えばアナログな方式だが、当時としては画期的な方法であった。

機体の製造には一般的だった「ビス止め」から「金属接着」を多用し、軽量化させた他、フレームの構造なども独自の技術を使っていた。

胴体の直径はDC-10よりも僅かに小さかったが、これらの技術でキャビン幅はむしろ広くなっていた。

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1-1-1-1D L-1011-385-3_TriStar_500,_Delta_Air_Lines.jpg ↑(3枚)意外と知られていないユナイテッド航空と、デルタ航空のトライスター500。実は両社とも500型の自社発注は行っておらず、ユナイテッド航空に至っては1型も発注していない。これらの機体は元パンナムのトライスター500で、経営不振によって同社の太平洋路線を含む長距離路線を売却した時に、同時に委譲された機体だ。規制のせいで長距離国際線の運航が出来なかった両社は、当然機材も保有しておらず、実はトライスター500が両社にとって初めての本格的長距離機材であった(B747は国内専用しか保有していなかった)。デルタ航空は同機を、初のアジア線となった東京~ポートランド線に投入した。ユナイテッド航空は主に大西洋路線で運航したが、どちらも運用期間は数年間と短かった(ウィキペディア英語版より)

同機の特色をいざ見直してみると、70年代前半と言う時代を考えれば実に先進的な旅客機であった事がわかるのだ。

もちろん「デジタル」的な要素は全く見えないが、現代の旅客機に通ずる概念を既に持ち合わせていた機体だったと言えるのだ。

自動着陸まで可能にした航法機器とコンピューターも、宇宙開発で培った技術を応用したものであった。

言い方を変えれば、トライスターは宇宙船とほぼ同格の技術で作られた最初で唯一の旅客機だったのである。

しかし当時、これらの技術が高く評価され、セールスに繋がる事はなかった。

これは先に書いたように、政治に翻弄された事が大きかったのだが、それ以外にも上記の技術を理解できるエアラインが少なく、世間もまた同様の時代だった事も理由だった。

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1-1-1-1D L-1011_Tristar_500_Air_Transat.jpg ↑(2枚)ドイツのLTUインターナショナルと、カナダ、エア・トランザットのトライスター500(ウィキペディア英語版より)

どんなに「ハイテク」でも、旅客機と言う「商品」で、「商売道具」である以上、メーカーとエアラインに利益をもたらさなければ意味がない。

今ならば将来性を見越す事も出来るだろうが、当時はそこまで細かく評価することは少なかったのである。

1-1-1-1D L-1011-385-1-15_TriStar_250,_Hewa_Bora_Airways.jpg ↑コンゴ民主共和国、ヘラ・ボワ・エアウエイズのトライスター250。その存在を殆ど知られていない「激レア」のトライスターだ。250は200の重量をやや引き上げた改造型(ウィキペディア英語版より)

最後まで同格のDC-10とライバル関係が続き、比べらられたトライスターだったが、生産数はDC-10が約450機だったのに対し、トライスターは250機だった。

販売不振の理由として挙げられるのが、航続距離の不足である。

トライスターのバリエーションは、大きく分けて2つある。

基本型となるのは「1」型で、最大航続距離は約5,000キロ。

これは先の「エアバス構想」から得られた距離で、北米大陸を横断できる性能を満たしたものである。

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1-1-1-1D L-1011-150_Tristar,_Eastern.jpg ↑(2枚)エア・アトランタ・アイスランディックのトライスター100と、イースタン航空のトライスター150。100は「1」の航続距離を伸ばした機体。150は更に延長したモデルだが、全て100からの改造機で新製された機体はない。エア・アトランタ・アイスランディックのトライスターは、最も遅くまで現役で活躍した一つで、10年代前半まで運用された(ウィキペディア英語版より)

そして離陸重量を引き上げ、エンジンの出力を増加、航続距離をやや伸ばした「100」型と更に伸ばした「200」型があり、「1」型から100仕様に改造した「150」型と200仕様に改造した「250」型、そして100型ほど重量を増加させず僅かに増やした「50」型がある。

しかしいずれも「1」型に比べれば・・という程度の、若干の改修であった。

それに対し、DC-10は初期の「10」型こそ「トライスター1」とほぼ同等の性能だったが、続く「30」型では離陸重量を大幅に引き上げ最大で10,000キロ、運航ベースで8,000キロ以上の飛躍的に航続距離を延ばしていた。

同機は大型ワイドボディという特性を活かし、将来的には長距離機として使える事を予め想定していた。

それは燃料タンクの増設などを見越して、設計段階で余裕を持たせており、太い胴体と大きな主翼は充分余裕があった。

加えて重量増加の為に、胴体下部中央に「センターギア(中央脚)」が追加できるよう設計されており、「30」型では前脚・主脚に加えてオプションとして中央脚が装備されたのである。

1-1-1-1D L-1011-385-3_TriStar_500,_British_Airways.jpg ↑ブリティッシュ・エアウエイズのトライスター500(ウィキペディア英語版より)

ところがトライスターは、長距離運航を想定しておらず、センターギアはもちろん、重量増加に対応できる脚の強化も難しい構造になっており大幅な延伸は事実上不可能であった。

そこでロッキードは苦肉の策として、胴体自体を短縮し機体全体の重量を軽減させることで航続性能を向上させた。

それが「500」型である。

「1」型の全長は約54メートルあるが、「500」型では4メートル短縮し50メートルである。

重心バランスが変わったため、主翼を全体で約4メートルも延長させたが、これは整流効果ももたらし燃費軽減に役立っている。

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1-1-1-1D L-1011-385-3_TriStar_500,_Pan_American_World_Airways.jpg ↑(3枚)世界のエアラインに大きな影響力を持っていたパンナム。同社は路線の多くが長距離であり、「中距離ワイドボディ」のトライスターには当初関心を示さなかった。しかし航続距離が大幅に延長された500型を導入したことで、セールスにも弾みがつくと期待されたが、DC-10も航続距離が伸びたためパンナム効果は現れなかった。80年代になると規制緩和でパンナムの独占が崩れ、業績が悪化。看板機材だったB747を次々と手放すようになると、トライスター500が長距離線の主力になっていった(ウィキペディア英語版より)

またトライスターのウリでもあったアンダーフロアギャレーは、胴体短縮で廃止され、代わりの燃料タンクに充てられた。

これで「500」型の最大航続距離は約9,000キロに達し、DC-10-30と同格に追いついた。

だがDC-10は胴体を含み、基本的に機体そのものの変化がなかったのに対し、トライスターは「小型化」した訳で、ワイドボディ機最大のメリットである輸送力を犠牲にしてしまった。

それまでトライスターを導入したエアラインの多くは、500型に興味を持ち発注したエアラインもあったが、生産数は50機と振るわなかった。

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1-1-1-1D L-1011-385-3_TriStar_500,_AirLanka.jpg ↑(2枚)ロイヤル・ヨルダン航空とエアランカ(現スリランカ航空)のトライスター500。両社とも長距離機材として中古で導入し、00年代初頭まで現役にあった。後者は日本線にも投入され、日本では国際線定期便としては最後のトライスターだった(90年代後半にA340・330に交替)(ウィキペディア英語版より)

予想をはるかに下回る実績に生産は停止され、同時にロッキードは半永久的に民間機事業から撤退することになった。

同社は大戦前から旅客機を作り、レシプロ機時代はボーイングよりもずっと上を行くメーカーであった。

だがジェット時代が始まった50年代は、軍用機開発に相殺され、その間にダグラスが先行しボーイングにも追い抜かれていた。

米空軍の戦略輸送機計画のコンペでは、ロッキードとボーイングの「ガチ対決」になって、ロッキードが巨大輸送機「C-5ギャラクシー」で勝利したが、敗れたボーイングはその機体を手直しして「B747」を開発。旅客機に大革命を起こした。

気付けばロッキードはジェット旅客機を一つも作っておらず、セールスに失敗したことでトライスターは同社にとって「最初で最後」のジェット旅客機になってしまった。

それに加え、バリエーションの少なさと発展性を持ち合わせていなかった事が行き詰まりの決定的原因であったことは間違いない。

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1-1-1-1D L-1011 TRISTAR K.1 RAF_ZD951.jpg ↑(2枚)イギリス空軍のトライスターK.1。唯一同機を軍用機として運用したユーザーで、退役したブリティッシュ・エアウエイズのトライスター500を改造し、輸送機・空中給油機として9機運用した(ウィキペディア英語版より)

当時のワイドボディ機として250機と言うのは、数的には決して少ない訳ではない。

DC-10にしても500機に届いておらず、し烈な販売競争を行った事や開発時の躓き、それに伴う政治の介入などで余計な汚名を被ったトライスターの分が悪かった。

先に書いたようにDC-10は初期を中心に、機体構造の不備が原因の大事故を頻発させているが、トライスターは皆無である。

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1-1-1-1D L-1011_Tristar_K1_-_RAF_ZD948.jpg ↑(2枚)イギリス空軍の空中給油機トライスターKC-1(ウィキペディア英語版より)

全日空機も、22年間の運用期間中大きな事故は一度も起こしておらず、極めて優れて安全な機体だった。

特に先進的な航法装置は、気象条件の厳しい日本では非常に有効で、同機の欠航率は低かった。

メンテナンスもシステマティックであり、整備しやすく頑丈で故障も少なかったと言う。

これはタフさが要求される軍用機の技術を応用しており、エアラインには好評だった。

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1-1-1-1D L-1011 TRISTAR K.1-RAF_desert_pink.jpg ↑91年の湾岸戦争に投入されたトライスターK.1。機首上部に自機用の空中給油棒が取り付けられているが、作戦後は取り外された。イギリス空軍は派遣した機体に「デザートピンク」と呼ばれる砂漠塗装を施したが、これは応急的な水性塗料で、剥離が見られる。同機は10年代まで使用されたがA330MRTT「ボイジャー」と交替した(ウィキペディア英語版より)

しかしサービス体制と言う点では、ダグラス・MDやボーイングの様な経験値が低かった事で部品の供給や対応への不満も見られたと言う。

また曰くつきのRB211エンジンがイギリス製であったため、サービス対応に難が出ていたとも言われる。

1-1-1-1D L-1011 Stargazer_and_Pegasus,_carrying_ICON,.jpg ↑現時点で唯一現役のトライスターと思われる、ノースロップ・グラマンの社有機「スターゲイザー」。ペガサス・ロケットの発射母体として運用される(ウィキペディア英語版より)

その為DC-10のように中古機の需要も少なく、貨物機に改造された機体も少数に留まって90年代末までには殆どの機体が退役し、スクラップされてしまった。

軍用や政府専用機などで運用例も少なく、静かに忘れ去られて行った薄命の「名機」だった。

改めて見ると、3発機と言う独特の形状を持ちながらも、そのスタイルは実に流麗で美しい。

1-1-1-1D L-1011-500_Tristar,_EuroAtlantic_Airways.jpg ↑3発機ならではの迫力と、美しさを併せ持つトライスターの離陸(ウィキペディア英語版より)

どちらかと言うといかにも、と言う感じで武骨なDC-10とは非常に対照的で、女性的な雰囲気を持つ。

だが商品としては「失敗作」で、機体の優秀さとは裏腹な運命を辿った。

何よりもトライスターが50年も前の機体であることが、ちょっと信じられないくらい今では斬新で格好良い着たいだと思うのである。



飛行機ネタ 意外と先進的だったB737「オリジナル」(5月4日 晴れ 26℃)

※2日分の日記を掲載します。

◎5月1日 雨 14℃

今日から5月、GW3日目。

この連休、まだ始まったばかりではあるが、晴天率は33%。

初日となった一昨日は雨と低温で、県内では季節外れの雪。

まるで私の予感が的中したかのごとく(以前の日記で書いています)、仙台市内でも夜になって雪が観測された。

それでも観測史上「5番目」に遅い記録だそうで、珍しい事ではあるけれどあり得ない事でもないと言う事だ。

仙台市内は雪と言うよりも「みぞれ」だったが、山沿いでは完全な雪となり、山形県との県境である関山峠(国道48号)付近では10センチ近い積雪になった他、沿岸部の石巻市でも5センチの積雪を観測した。

そして4月末日となる昨日は一転して「快晴」に、絶好の行楽日和だった。

ところが今日は再び雨の一日で、当然気温も上がらず湿気寒さを感じずにはいられない。

連休後半は晴れて、気温も20℃以上になると言うが、これでは身体が悲鳴を上げて来そうだ。

せっかくの大型連休、くれぐれも体調管理にはご注意。

それにしても29日と言い、今日と言いとても「5月」を迎える瞬間とは思えない。

カレンダー上とは言え、5月と言うからには季節は春を過ぎ「初夏」である。

服装もより軽やかになり、1年で最も爽やかで過ごしやすい時期が5月だと言われる。

実際そうなのだけれど、今日に限って言えば初夏とはとても思えないし、気温も桜が咲くか咲かないかぐらいの時期の気温だ。

知り合いによれば、この連休は小学校で「運動会」が催される所が多いと言う。

昨年・一昨年はコロナ禍で自粛した学校が多かったようだが、今年はいわば感染対策を施しての開催だと言う。

確かに私の時代も「運動会」は今頃で、秋は「体育祭」とか「体育記録会」と言うイベントがあったと思う。

中学校では「運動会」はなかったが、代わりに「体育祭」が今頃にあった記憶がある。

通っていた中学校は市内随一の「マンモス校」で、生徒数は2,000人近くもあり、かつ校庭が狭く全校生徒が集まっての体育祭は出来なかった。

なので日取りを変えて「学年ごと」だった。

それでも1学年10クラス以上あったので、いろんな競技を行う事が出来ず体育祭とはイコール「球技大会」であった。

しかもやはり学校では出来なくて、市営の運動場を借り切っての開催。

更に「球技大会」と言っても、いろんな球技がある訳でもなく、男女全員全てバレーボールだけだった。

最近の運動会や体育祭の事情は知らないが、子供達にとっては大人になっても意外と忘れない楽しいイベント。

出来る事なら「オトナの事情」で中止や自粛は、もう二度とないように祈りたい。


◎5月4日

長い連休の中間地点。

天気も安定して、絶好の行楽日和とは今日の事を言うのだろう。

気温も一気に上昇して「夏日」を記録したが、空気が乾燥していたのでさほど暑さは感じなかっただろうか。

私もせっかくの大型連休、家から一歩も出ずテレビやネット動画を見たりゴロゴロと実に楽しく健康的な休暇を(笑)。

家にこもっていたから、暑さは全く感じなかった。

明後日辺りまでは良い天気が続くようだが、日差しが強いのと気温が高めで乾燥しているから、行楽に出かける人は要対策。

女性ならUVケア、もちろん水分補給も心がけて。

2日、コロナワクチン「3回目」の接種を受けて来た。

「副反応」を考えて、昨日・今日はどこへも行かず家でゴロゴロしていようと決めていた事もある。

1・2回目と同じく、駅東口ヨドバシビルの「大規模接種」会場で受けて来たのだが、思いのほか空いていた。

予約の段階でかなり空きがあることは分かっていたが、約・本人確認などのチェックは行列になっておらず、むしろトントン拍子過ぎてこっちがアタフタしてしまうほど。

接種後の経過観察時間を含めて、30分で会場を出て来てしまった。

夜19時過ぎで、混雑はしないものの入れ替わり立ち替わり人が来るぐらいのペースだ。

大規模会場はモデルナ製だが、3~8日までは12歳以上の子供も対象とするためファイザー製が使われるとのこと。

交互接種も可能とされているが、1・2回目がモデルナ製だったから同じ方が良いかなと思って済ませた次第。

気になる「副反応」は、当日夜注射痕周辺がやや筋肉痛で硬くなったが、発熱や寒気、倦怠感はいっさいなし。

注射痕も昨日には殆ど気にならない程度になっており、「副反応なし」であった。

実は1・2回目も殆ど異常は見られず、「本当に接種されたのだろうか」と思った程だ。

先に3回目を受けた30代の知り合いは、1・2回目と同様発熱と倦怠感が出て2日程仕事を休んだと言う。

副反応は個人差があり、一概には言えない訳だが、私は体が「雑」だと言う事だろうか。

一般的に言われている通り、若い世代ほど強く出る傾向があり、3回目は女性より男性の方が多く見られると言う。

少数ではあるものの重篤な症状が出た人もいるので軽々しく言うつもりはないが、このワクチンに限らず副反応はなんでも起こりうる。

最近はお世話になることが少なくなったが、普通の風邪を引いて病院で注射をされると、たいてい注射痕が「痛痒く」なることはよくある。

またインフルエンザの予防接種などでは、接種後発熱したり体調を崩す人が結構いて、そうした副反応は珍しくないはず。

確かに「健康被害」を心配する気持ちはわからなくもないが、ネットや街頭で「ワクチン反対」を叫ぶ輩の気持ちは理解しかねる。

そういう人たちは多分、普段から風邪を引いたり胃腸の調子が悪いなどがあっても一切病院にかからず、例え売薬でも「毒」だと言って一切飲まないのだろう。

もしかしたら大病を患っても、怪我をしても病院すら行かないのかも知れない。

そのぐらい徹底してからの反対であればわからなくもないが、恐らくは絶対そう言う事はあるまい。

もちろんワクチンは治療薬ではないし、絶対的効果が保障されている訳でもないので言いたい事は少しは理解できる。

だからこそ外国のように義務ではなく、あくまで個人の判断に任されているのだから、周囲に反対論をまき散らす行為はおかしい。

まして圧力的行動は犯罪に等しく、騒ぐ意味は全く支持出来ない。

そもそも反対論者の根拠は全くないに等しく、意味のない行為だ。

どうしても副反応が心配ならば、専門機関に相談する手段があるし、どんな注射・薬でも人によって副反応(副作用)は考えられるので、万が一に備える事を考えた方が得だと思う。

2年続いたコロナ禍による「自粛」から、一応解放された初めてのGW。

各地では観光客が増加していると言う。

経済効果と言う点からも歓迎すべき事なのだろうけれど、また感染者増加につながる事も充分予想される。



GWもあっという間の折り返し地点。

後半は好天が続きそうで、お出かけ日よりになりそう。

でも夜はまだ空気がひんやり感じられ、気温差を実感する。

日中は薄着でも良いと思うが、朝晩は上着があった方が良さそうで、外出での服装が悩ましくなるかもしれない。

買い物帰りに立ち寄ったコンビニでコーヒーを求め、近くにあったベンチに腰掛けて飲んだ。

三日月が綺麗に見える。

ついこの前までは、寒くてすぐに席を立ってしまったが、今夜はしばし月を眺めていた。

連休が終われば季節はすっかり「初夏」となり、春は夢のように過ぎ去った。

あと4日間の連休、私はどこへも行かないだろう。

普段と同じく、せいぜい買い物に出かけ、どこかでコーヒーを飲んで来るぐらい。

連休と言うよりも、普通の「休日」が続けてあるだけ・・のようだ。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

大型連休、君はどう過ごしていますか?

どこか旅行に出かけたり、家族や友人と買い物や食事に行ったり、それとも家でのんびりでしょうか。

もしかしたら掻き入れ時のように、仕事で忙しいと言うかも知れませんね。

その時君の連休は、「これから」となるでしょうか。

最初は天気が悪かったですが、後半は気温も上がって、初夏の日差しがまぶしく新緑が美しく見えます。

君なりの5月を楽しんで下さい。

日中は汗ばむ陽気ですが、朝晩は冷えますので体調管理には気を付けて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



恋しけば 形見にせむと わが屋戸に 植えし藤波 いま咲きにけり(万葉集巻八 1471 山部宿禰赤人)









飛行機ネタ。

ファンならばご存じかと思うが、世界で最も多く生産された旅客機はボーイング737である。

現在まで累計10,000機以上が生産され、それは劇的数字と言って良い程だ。

最もライバルであるA320シリーズに、どんどん追いつかれている感は否めないが。

同機の原形機の初飛行は、なんと67年。

今年でちょうど55年、生産ラインも55年間続いていて「最も長く生産されている旅客機」でもある。

半世紀で10,000機と言うと、年間で最低でも200機ぐらいが生産されている事になり、3日に2機程度のペースである。

ざっくりとした計算ではあるけれど、ジェット旅客機と言う「商品」として考えると驚異的な数値と言えるだろう。

もちろん55年もの長期の間には様々な改良が積み重ねられて「からの」、今がある訳だ。

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1-1-1-1C B737-200 Nolinor_Aviation_interior_cabin.jpg ↑(2枚)カナダ、ノリノール・アビエーションのB737-200C。同社はケベック州ミラベルに本拠を置くチャーターエアラインだが、極北地方への定期運航も行っている。同社は現在で9機のB737-200を保有し、現役にある。現時点で世界最大の200型を保有・運用するエアラインだ。貨客両用の「C型」の為、前方にカーゴドアを持つ。下は同機のキャビンで、座席は豪華な黒い革シートで、機体全体も良く整備され古さを感じさせない。コクピット上方にあった天測窓も埋められている(ウィキペディア英語版より)

B737の開発は60年代前半から開始され、既に成功を収めつつあった「B727」を小型化させるコンセプトであった。

当時ジェット旅客機は創世記であり、長距離向けが主流だった。

国内線や近距離路線の主役は、レシプロ・ターボプロップのプロペラ機が主体だった。

ジェット機はプロペラ機とは比べ物にならない程の高速性をもたらしたが、同時に燃費は極端に悪く、騒音・排気ガスなどの問題もあり、長距離機でないと採算が取れないと見られていたからである。

しかしボーイングは4発長距離機「B707」の成功を経て、「中距離機」としてB727を開発した。

外観は全く違うが、基本的に同機は707を小型化して3発機にしたような機体で、胴体の意匠は707の物を踏襲していた。

航続距離は4,000キロ程度で、プロペラ機よりも若干劣っていたが、座席数は初期の100型で150席、メインモデルの200型では180席と4発機並みとなり大ヒット作となった。

1-1-1-1C 1964_B737.png ↑64年にボーイングが発表したB737のコンセプト図。70~90席級を想定し、現在のリージョナル機と同じ規模で、エンジンを後部に装備するリアジェット式が考えられていた。もっともこのイラストでは、水平尾翼がエンジンより下側についており、実際だったら飛べない機体だっただろう。尾翼には「737」と書かれており、仕様が定まらないうちに「737」が正式名称が決まっていたことが分かる(ウィキペディア英語版より)

B727は少なくとも4発機よりもずっと経済的で、かつ高速であったことで、近距離路線でも利益が出る事が明白だったからだ。

事実メインの市場であった地元アメリカでは、まだジェット機の信頼性を疑問視するエアラインはプロペラ機に固執していたが、B727を導入したエアラインとの競争に勝てず倒産するエアラインが相次いだのである。

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1-1-1-1C B737-2A1-Adv,_VASP.jpg ↑(2枚)ブラジル2大エアラインだったVARIGとVASPのB737-200。中南米でも最大級の両エアラインだったが、現在は両社ともない(ウィキペディア英語版より)

しかしB727は座席数。機体規模と言う点からどちらかと言えば幹線向きであり、ジェット機の有効性は認めるものの、もう少し小型の方が良いと言う意見も出始めていた。

それにすぐ対応したのは、ボーイングの最大のライバルであるダグラスで、同社もまた成功を収めていた長距離用4発機「DC-8」の技術をフィードバックさせた「DC-9」を開発、市場に投入すると爆発的人気を得ることになった。

同機が人気を得たのは、「短距離専用機」として、ローカル路線でも運用しやすいよう考慮されていたからだ。

再初期のモデルは90席級と、現在のリージョナル機並みの大きさだったが、需要の高まりに合わせて胴体を延長し120席級まで発展させていた。

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1-1-1-1C DC-9-31,_Continental_Airlines.jpg ↑(2枚)B737より一足先にデビューしたDC-9。上はノースウエスト航空の10型、下はコンチネンタル航空の30型(ウィキペディア英語版より)

当然ライバルの成功を黙って見ている訳にも行かず、何よりもボーイングユーザーからも「DC-9の様な短距離機を」と言う要望が多く寄せられていた。

ボーイングは新しい機体として、コンセプトの時点で727に次ぐモデルとして「737」と命名しており、100~120席程度の機体を計画した。

しかし全く新しい設計となると、開発コストがかかり機体価格にも影響することから、胴体は707・727と同じ意匠を使う事にした。

開発コストを抑える事は最優先課題で、DC-9に対抗するには欠かせない要素だった。

とは言え安普請な機体では売れないから、機体のアウトラインが決定するまで時間を要した。

同時にエアライン側も、全くの新しい機体であるがゆえに興味を示すエアラインは予想以上に少なかった。

65年には機体の仕様がほぼ決定し、ルフトハンザが20機発注したことで「B737」は正式にローンチが決定した。

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1-1-1-1C B737-130,_Lufthansa_D-ABED.jpg ↑(2枚)半世紀以上に渡る歴史をスタートさせたB737-100。68年ルフトハンザが初就航させた。当初20機を発注したが、その後10機を追加した。100型の生産はこの30機だけで、胴体の長さは200型と比べて約1.5メートル短い(ウィキペディア英語版より)

最も当時新型機がローンチするには、少なくとも数十機以上の仮発注が必要とされており、僅か20機でのローンチは異例であった。

これはボーイングがDC-9を強く意識していた証であり、ルフトハンザも様々な事柄で深く関わっていたことを物語っている。

事実なかなか決まらなかったコンセプトも、ルフトハンザが同機への関心を示した事で決定されたフシがあり、一種の理想像が現実化した機体だったと思われる。

こうしてやっとスタートラインを切った737だったが、当時でも世界的に大手エアラインだったルフトハンザが発注した影響は大きく、他社もようやく目を向け始めたのだった。

記念すべきB737の原形機は67年に初飛行、翌年ルフトハンザに引き渡され就航した。

以後21世紀まで続く歴史的初就航の機体は「100型」で、標準座席数は110席だった。

1-1-1-1C B737-130 Continental_N77204.jpg ↑コンチネンタル航空の100型。ルフトハンザからの中古機で、200型と併用された(ウィキペディア英語版より)

当時ヨーロッパでは、イギリスとフランスが自主開発を行っており、域内用短距離機としてジェット旅客機を開発していた。

フランスは50年代末に「カラヴェル」を、イギリスはB727と同じ3発機の「トライデント」、DC-9と同格の双発機「BAC1-11」を開発していた。

しかしまだ「戦後」の体制を引きずっていた時代で、当時の「西ドイツ」は航空機の自主開発に制限がかけられていた他、冷戦の最前線として米英の強い影響下に置かれていた。

特に英仏はナチス・ドイツの侵略を受けた立場にあり、自国の飛行機を西ドイツへ売ることは難色を示していた。

それ以上に軍事的に多くの支援を行うアメリカへ依存する傾向が強く、旅客機は一貫してアメリカ製を購入していた。

1-1-1-1C B737-2H4(Adv),_Southwest_Airlines.jpg ↑今や500機以上のB737を保有し、「ビッグ3」に次ぐ規模を誇るサウスウエスト航空。大成功したLCCとして知られるが、創業当初の70年代は中古の200型をかき集めて、数十機と言う単位の規模だった。黄土色と言う独特の塗装は、本拠を置くテキサス州の砂漠をイメージしたと言われる(ウィキペディア英語版より)

その分域内用短距離機は英仏より遅れており、それらに対抗すべくB737が導入されたのであった。

ルフトハンザが意識したのは経済的な双発機、カラヴェルとBAC1-11と同格な機体だったのだ。

しかし他のエアラインは、B737の総合的な性能を鑑みると100型では小さすぎる事を指摘した。

ボーイング自身も当初からわかっており、100型がデビューする前に胴体を約1.5メートル延長し、標準座席数を125席程度にした「200型」を提示しており、こちらはすぐに複数のエアラインが発注を行いローンチしている。

ルフトハンザは100型の追加発注を行ったが、ほかのエアラインからの発注は殆どなく30機生産されただけで200型に切り替えられた。

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1-1-1-1C B737-230C,_Lufthansa_Cargo.jpg ↑(2枚)ルフトハンザの200型。下は改造した貨物仕様のC型。100型でB737を世界デビューさせたルフトハンザだったが、運用期間は短く200型と交替した。同機の運用は逆に長く、A320シリーズの導入後も続けられ00年代初頭まで使われていた(売り機PD亜英語版より)

ただ胴体の長さ以外のスペックは両社ともほぼ同じで、100型は独立したモデルと言うよりも「先行量産型」的な性格が強い。

現在生産される「MAX」まで、737はシリーズを区別していて、300~500型を「クラシック」、600~900型を「NG」と呼ぶが、100・200型はまとめて「オリジナル」と呼ばれる事が多い。

当のルフトハンザも、その後200型を導入し100型は中古機として放出したが、アメリカのコンチネンタル航空などが購入。

200型と混用しており、100型を独立したタイプと見る向きは少ない。

そして200型は歴史に残る、大ベストセラーとなっていくのである。

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1-1-1-1C B737-229C-Adv,_Sabena.jpg ↑(3枚)エール・フランスとイギリス、ブリタニア航空、サベナ・ベルギー航空のB737-200.サベナ機は「200C」(ウィキペディア英語版より)

先に書いたように、100・200型はDC-9を強く意識した「短距離機」であり、ローカル運用に特化した構造を持たせている。

設備が充足していないローカル空港でも運用しやすくするため、機体の地上高を限りなく低くさせ、乗客の乗降、荷物の上げ下ろしに大きな道具を必要としないようにした。

当時ボーディングブリッジは大空港にしかなく、それも限定的だった。

B737は前方乗降口の下に収納式のエアステア(タラップ)が装備され、空港側のタラップを必要としない。

尾部にはAPU(補助動力装置)が標準装備され、地上で自機の電源を確保できる。

今でこそジェット旅客機にAPUは当たり前だが、当時としては珍しい豪華装備でもあった。

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1-1-1-1C B737-236-Adv,_British_Airways_G-BGDO.jpg ↑(2枚)ヨーロッパでは最も多くの200型を運用したブリティッシュ・エアウエイズ。メインモデルとなった改良型「アドバンスド」を最初に受領したエアラインで、同社は「スーパー737」「737X」と言う独自の呼称を用いてアピールした。騒音規制の厳しいロンドン周辺の空港で運用するため、低騒音のエンジンナセルを最初に装備したのも同社だった。延べ50機以上の200型を運用したが、90年代に退役した(ウィキペディア英語版より)

更に200型の最大航続距離は約4,000キロもあり、機体規模としては燃料搭載量が大きかった。

これも未整備の空港では、燃料補給が出来ない事を考慮しての措置であった。

1-1-1-1C B737-200 Air_Nauru.jpg ↑南太平洋の島国、ナウル共和国、エア・ナウルの200型。90年代短期間であったが、同機で日本線を運航した事もある(ウィキペディア英語版より)

そして100・200型最大の特徴は、エンジンだろう。

同機のエンジンはP&W製の「JT-8D」ターボファンエンジンで、低バイパスエンジンの中では後期に開発されたエンジンだ.

60年代、効率と言う点で現代の様な高バイパスエンジンが有利だと言う事は理論上わかっていたが、技術の点でまだ実用化されておらず、その中にあってJT-8Dは優れたエンジンであった。

元となるのは創世記に量産化されたJT-3系であったが、耐久性・燃費・排気ガスや騒音は大幅に改善されており、軽量で大きな出力を出せた。

DC-9も同エンジンを搭載しているが、こちらは胴体後部に取り付け、その後流を避けるために水平尾翼を垂直尾翼の上に持ち上げた「T字尾翼」を採用しており、リアジェット機として標準的なデザインを持つ。

この構造は主翼がプレーンになることで、軽量化できるほか、機体の地上高を低く出来るメリットがある。

一方尾翼とエンジンが尾部に集中するので、どうしても重量が偏る「テールヘビー」状態になり、機体のバランスが微妙になることと、それが将来的に胴体を延長するなどの発展を阻害するデメリットを持っていた。

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1-1-1-1C B737-200_SAT_Airlines_(2).jpg ↑(3枚)サハリン航空の200型・上は初代塗装で、函館・新千歳線にも投入された事がある。下は後期の塗装で、世界で最も派手なB737-200だろう。機齢20年を超える中古の老朽機だったが、ピカピカに仕上げてあって美しい。尚同社はプーチン大統領の国有化政策によって、アエロフロートの子会社化され、機材も同社から移籍したA319と交替。組織も旧ウラジオストク航空と統合され「オーロラ航空」に変わった(ウィキペディア英語版より)

ボーイングはあくまでもDC-9と一線を画する機体を模索しており、エンジンは一般的な主翼に取り付ける方法を選んだ。

ところが地上高を低くする為には、パイロンを介してエンジンを吊り下げる方式だとクリアできなかった。

JT-8Dは低バイパスエンジンゆえ、現代の高バイパスエンジンと比べて直径はかなり小さく、推進ファンの直径は約1メートルしかない。

にもかかわらずパイロンに吊り下げる方式が使えず、主翼に「直接」取り付けるようなやり方で装備した。

正確には上下寸法が極めて短いパイロンを使っているのだが、それは取り付け部をガードする「フェアリング」であり、実質上直接主翼に取り付けているのと同じである。

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1-1-1-1C B737-200_reverser.jpg ↑(2枚)200型に装備されたP&W「JT-8D」エンジン。初期の機体はエンジンナセルがスマートだったが、70年代後半に低騒音用のハッシュキットが追加され、下部が膨らんだ形に変更された。下はスラストリバーサ(逆噴射装置)を展開した瞬間。テールカバーが分割して噴流を遮蔽・逆方向へ飛ばす(ウィキペディア英語版より)

最近の旅客機に見慣れていると、「737オリジナル」は正に主翼とエンジンが一体化させてあるように見え、悪く言えば「エンジンが主翼から生えている」ごとくの形状を持つ。

直径の小さいJT-8Dですらこの苦労だったのだから、高バイパスエンジンに換装した「クラシック」以降がいかに無理やりだったかがうががえるのである。

だがこの方式は思わぬ効果をももたらした。

スリムな形態と相まって、エンジンから生じる空気抵抗が予想以上に軽減され、それは燃費性能を向上させたのである。

1-1-1-1C B737-200_view.jpg ↑主翼と一体化させたようなエンジンは、優れた空力性を生み出した。格納しても剥き出しの主脚は、冷却効果を高める事と、機体の軽量化に効果をもたらした。この方式は「MAX」まで継承されている(ウィキペディア英語版より)

また「オリジナル」は、ボーイングのジェット旅客機で初めて「2人乗務機」となった機体である。

アメリカでは技術の向上を理由に、60年代半ばに基準の機体重量を満たした機種は航空機関士を乗せなくとも良いと言う規制緩和策を決定し、DC-9はその先峰であった。

737もその基準を満たすよう設計されていたが、エアライン側の反発も大きかった。

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1-1-1-1C B737-296-Adv,_Piedmont_Airlines.jpg

1-1-1-1C B737-297(Adv),_Pan_Am.jpg ↑(3枚)規制緩和が進んだ70年代のアメリカでは、新興エアラインも安価なB737をこぞって導入した。上はウエスタン航空、中はピードモント航空の200型。下はパンナムの200型で、アメリカ国内の他、ヨーロッパ域内でコネクション便として運用された。特に冷戦時で「陸の孤島」だった西ベルリンへは、同社が優先的に運航権を持っており、ロンドンやパリ、ローマなど大都市から自社便の接続便として同機が使用されていた(ウィキペディア英語版より)

同機は727の「小型版」とも言える機体であり、エンジンを含めて共通部分が多く、飛行特性も似せて作られており、ライセンスは別途必要だったが、727のパイロットが比較的スムーズに移行できるようになっていて、人件費の削減に役立っていた。

同時に多くの航空機関士が職を失う可能性もあったため、労働組合などが中心となって反対運動が起きた。

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1-1-1-1C B737-275-Adv,_Canadian_Airlines.jpg ↑(2枚)世界最大級のLCC、ライアン・エアが急成長したのは200型を導入してからだった。当初は格安の中古機で機数を増やして路線網を拡大させた。下はカナディアン航空の200型で、同社は70機以上の同機を運用した(ウィキペディア英語版より)

大半のエアラインは、機関士をパイロットに転向させることで2人乗務が実現したのだが、発売当初はまだ抵抗が強く、それはアメリカの大手でその傾向が強かった。

最終的にはコストと言う点で、エアラインも組合も迎合して行くことになるのだが、それだけ当時はボーイングの影響力が大きかったと言う事だ。

1-1-1-1C B737-2V6_Advanced_Cockpit.jpg ↑完全なアナログ方式のコクピット。エンジン関係の計器を集約化したことで、ボーイングのジェット旅客機として初めて2人乗務機となった(ウィキペディア英語版より)

70年代後半には、エンジンの出力を上げ、キャビンの内装を改良、燃料タンクの増積を施した「アドバンスド」に生産が移行し、既存の機体も「アドバンス仕様」に改修するオプションが用意された。

並行して各地の騒音規制をクリアできるように、エンジンナセル(覆い)が改良されており、この「低音ナセル」もハッシュキットとして追加された。

200型の生産は、後継機の「クラシック」が生産開始された88年まで続けられ、1,114機に達した。

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1-1-1-1C B737-247-Adv,_Delta_Air_Lines.jpg 

1-1-1-1C B737-2B7-Adv,_USAir.jpg ↑(3枚)アメリカの大手は、2人乗務機への反発もあって意外にも同機の導入は遅く、機数も多くなかった。増加したのは70年代後半になってからだったが、国内線の主力はB727で、同機はシャトル便やコネクション便が主体だった。上からユナイテッド航空、デルタ航空、USエアウエイズの200型(ウィキペディア英語版より)

日本では69年に全日空が、78年に南西航空(現日本トランスオーシャン航空)が導入し、前者は22機、後者は8機、合計30機の200型が活躍した。

全日空は92年に系列子会社のエアー・ニッポンに移籍させたが、両社とも00年代まで運用された。

同機の登場で、地方空港のジェット化が進み、それまで鉄道が主体だった日本の公共交通に大きな変化をもたらした功労機となった。

80年代以降「クラシック」が登場した事で、メジャーエアラインは機材更新を加速させたが、200型の中古機も大量に出回る事になり、近代化が遅れていた途上国のエアラインがこぞって導入した。

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1-1-1-1C B737-281_Advanced_ANK(JA8415.jpg ↑(4枚)日本で初めてB737を採用した全日空は、22機導入して国内線専用機として運用した。92年以降は日本近距離航空(のちのエアー・ニッポン)に移籍し、ローカル線のジェット化に大きく貢献した(ウィキペディア英語版より)

これらの200型は近年まで現役にあった機体も多く、安全性はともかく機齢が30年以上の機体が飛んでいた。

単一モデルとして当時は最大の生産数だった為、部品も豊富に残されており、それが今世紀になっても残存する要因となっていた。

こうした背景から事故も多い機種であったが、機体構造そのものに起因する事故はそれほど多くない。

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1-1-1-1C B737-205_JTA_JA8366.jpg ↑78年に運航を開始した南西航空のB737-200。日本トランスオーシャン航空に社名変更、後継機である400型が導入された後まで活躍した。同機によって那覇~宮古・石垣線の高速化・輸送力の倍増が実現した他、天候による欠航率も一気に低下した。念願だった本土直行便も、同機によって実現した。晩年には「スカイシーサー」と言う愛称が付けられ、オリジナルのキャラクターも記入された8ウィキペディア英語版より)

初期には水平尾翼のエルロンが、一定の速度と角度を超えると逆方向に作動する「エルロンリバーサル」と言う欠陥が露呈したが、すぐに改善されている。

最も同機ならではの事故は、88年4月に発生したアロハ航空の事故で、巡航中突然胴体の「天井部」が吹き飛び、影響で側面まで破壊すると言う事故であった。

これはハワイという土地柄、非常に短距離・短時間のフライトを多数繰り返す運用が多く、機体が金属疲労を起こした為だった。

アロハ航空の安全管理体質が問われたものの、機体の履歴となる「飛行時間」と離発着回数を示す「フライトサイクル数」の基準が、メーカーや航空局で明確にされていなかった事も原因だった。

すなわち機体に大きな力がかかる離着陸回数が多いと、総飛行時間とは無関係に老朽化が進む可能性が明確になったのである。

1-1-1-1C B737-200-Aloha_Airlines_N819AL.jpg ↑アロハ航空のB737-200(ウィキペディア英語版より)

今こそ当然の理論と思えるが、「短距離機」として過酷な運用が多い737の特徴を示す事故だったと言えるかも知れない。

この事故では、客室乗務員1人が空中に放り出されて死亡したが、僅か30分程のフライトであったため、乗客はシートベルトを締めたままで、けが人は出たもののそれ以上の死亡者はでなかった。

日本でも点検基準が見直され、就航から退役まで大きな事故は一度も起こさなかった優秀な機体であった。

先に書いたように、200型の生産は88年で終了し、既に34年もの月日が経つ。

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1-1-1-1C B737-200M Canadian_North.jpg ↑(6枚)22年の時点で、最も多くの「現役」のB737-200が残るのがカナダ。およそ20機前後が旅客機として運用中。その多くは貨客混載型の「200M」や貨客両用型の「200C」だが、純粋な200型も残っている。1枚目がエア・イヌイットの200Mで、モントリオールをベースとするエアライン。2・3枚目はケベック・シティをベースとするクロノ・アビエーションの200M、4~6枚目は首都オタワの拠点を持つカナディアン・ノースの200C。3社は極北地方の生活路線を運航するため、貨物輸送も担う。いずれもチャーターエアラインとして登録されているが、これは極北地方の気候が厳しく、定期運航が困難な為で、実際には「不定期運航」に近い形態を持つ。極めて特殊な地方を運航するために、機体には特別装備が施されている。クロノ・アビエーション機は全体が黒、フラップのフェアリングが赤と言う、現代的で挑発的なデザイン。同社のコールサインは「マット・ブラック」(ウィキペディア英語版より)

すなわち「現存」している機体があるとすれば、最も新しい機体でも機齢は34年な訳で、さすがに現役機はない・・・と思うがさにあらず。

確かに「絶滅」には近いのだけれど、ごく少数がまだ生き残っている。

200型は1種類として紹介されることが多いが、実際にはバリエーションがあり、胴体前部に貨物用のカーゴドアを持つ貨客両用型の「C」型と、前部が貨物室、後部が客室のコンビ型、そして軍用型が存在する。

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1-1-1-1C B737-200_Gravel_Kit.jpg ↑(3枚)現役にあるカナダの200型が持つ特別装備。上は前脚に取り付けられたグレーベル・ディフレクター。中は改造されたディフレクター収納部。下はエンジン下部に取り付けられたグレーベル・ノズル。これらは未舗装の空港で離発着する場合、巻き上げる可能性のある異物(小石や氷、雪の塊)を避ける装置。ディフレクターは跳ね飛ばし、遮蔽するため、ノズルはエンジンから抽出したエアーを先端部から噴き出して、エンジンへの異物混入を防ぐ。上の機体写真でもこれらの装備品が確認できる(ウィキペディア英語版より)

ボーイング機は両用型を「C」型(Convertible)、コンビ型を「M」型(Mixed)として区別することが多いが、200型では公式に名称は加えられていなかった。

登録上はいずれも「B737-200」のままで、後に区別するため「C」「M」と付け加えた機体が大半だ。

またこれらの機体は純粋な旅客機から改造された機体も多く、完全な貨物型の「F」型(Freiter)も存在するが「200F」と言う形式は公式には存在しない。

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1-1-1-1C B737-219QC_Air_New_Zealand.jpg ↑(2枚)エルアル・イスラエル航空の200型とニュージーランド航空の200C(ウィキペディア英語版より)

ところがこれらの貨物搭載型は、現在も運用中の機体があり、意外にもカナダで活躍している。

確認出来るだけでも20機近い200型がカナダでは現役にあり、れっきとした定期便として貨物・乗客を運んでいると言うから驚きだ。

いずれも小さなエアラインだが、主に極北地方の路線を運航するエアラインで、道路や鉄道がなくかつ広大な地域の住民の生活を確保するための路線が主体。

純粋な旅客型も混じって運用されており、へき地の重要な交通手段として使われている。

1-1-1-1C B737-200 T-43A (USAF).jpg ↑アメリカ空軍が大型機の搭乗員訓練用として採用した200型。空軍ではT-43Aとして運用されたが00年代に退役した(ウィキペディア英語版より)

この他軍用型として、1~2機単位で保有する国もあり、100機近くの200型はまだ現役にあると思われる。

メカニズムとしてはもう3世代以上も前の物であるが、一方でシンプルな事が生き残っている原因なのかもしれない。

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1-1-1-1C B737-277-Adv,_Shaheen_Air_International.jpg ↑(3枚)殆ど存在の知られていないB737、カリノウ・エアラインズの200型(上)。同社は中央アフリカ共和国のエアラインで、登記上1機が現役になっている。しかし定期運航はしていないようで、詳細は不明。アフリカ象のマークが面白い。中は西アフリカ、マリ共和国のエア・マリ、下はパキスタンのシャヒーン・エア(ウィキペディア英語版より)

「オリジナル」は半世紀以上に渡るB737の「ルーツ」であることはもちろんだが、ナローボディ旅客機のスタイルを確立した機体であった。

特に空力的には、後の世代より遥かに優れた機体であり、短距離機ながらも長い航続距離を持つマルチ性を持ち合わせていた最初の旅客機でもあった。

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1-1-1-1C B737-200F -Aerosucre.jpg ↑カナダと同じく未だ現役機が残るのが中南米。上からベネズエラのアビオールとベネゾラーナ航空の200型、コロンビアのエアロ・スクレの200「F」。殆どのエアラインが貨物機で、保有数も5機以下。ベネズエラの2社は旅客型で国内線で運航しているが、経済が破綻している状態なので動静は流動的だ(ウィキペディア英語版より)

今やただ古いだけの、昔の旅客機にしか見られていないが、現在B737は「MAX」に発展を遂げてなおも生産され続けている(やや問題があるが)。

これはいかに「オリジナル」が卓越した機体だったかを物語る事で、当時の開発者もまさか2020年代まで続くとは思ってもみなかったであろう。

1-1-1-1C B737-200 -Iranian_Government.jpg ↑これも現役にあるイラン政府専用機の200型。運航は民間エアラインのメライ航空が担当している。塗装は元イラン国営航空の物で、首都テヘランのメハラバード国際空港では数機のB737-200が保管されている。今のところ稼働中なのはこの1機だけと見られる。尚前脚にはグレーベル・ディフレクターが付いており、元がカナダで使われていた機体だと推察できる。事実この機体はカナディアン・ノースで使われていた機体だ(ウィキペディア英語版より)

そう言う意味で「737オリジナル」は、「奇跡の旅客機」だったと言えるのではないだろうか。

「主翼から生えたようなエンジン」も、苦肉の策だったとはいえ、今見れば実に流麗に見えるのである。


月命日(4月28日 晴れ 18℃)

快適な春の陽気に、雲一つない快晴。

いよいよ明日から大型連休がスタートするが、前日であることがもったいなく思えてしまうほどだ。

仙台の最高気温は18℃で、暑くも寒くもない・・という表現がぴったりだ。

少し風があったのだが、それが実に心地よく外でただボーっとしていたくなるような。

でも日差し自体は結構強烈で、女性が気にする紫外線も今頃が一番強いそう。

あっという間に桜のシーズンは終わってしまったが、八重桜が見ごろを迎えている。

桜を含めて、多くの樹木が「新緑」に変わり、強めの日差しに輝いて美しい。

それに濃いめのピンク色の八重桜が、よく映える。

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IMG_5631.JPG ↑(2枚)八重桜(筆者撮影)

見た目はすっかり初夏の様相だが、街の人々の装いはまだ春。

季節に敏感で先取りしやすい若い女性たちも、軽やかとは言え「肌出し」とまでは行かないようだ。

ところが肝心の明日以降、天候はイマイチ。

明日は午後以降、低気圧の接近で次第に雨と言う予報が出ており、連休中は変化が激しいようだ。

加えて明日午後からは、気温が急激に低下。

標高の高い所では「雪」になる可能性があり、仙台市でも予想最高気温は15℃。

これは雨が降る前の予想気温で、降り出す前後には「一桁」に下がると言うから驚く。

これがあるから、今日の様な青空や最近続いた高温は信用できない。

関東以西では25℃超えの「夏日」どころか、場所によっては30℃前後まで上がった所もあったが、こっちは一桁台だ。

低温傾向は連休前半続く見込みで、これでは「初夏」の気分は消し飛んでしまいそう。

最も東北ではありがちなことで、仙台市内でも過去に降雪の記録がある。

子供の頃、小学校高学年から中学校にかけて、この連休に東京の親せきの家に泊まりに行っていた。

当時いわゆる「鉄オタ」少年で、今や懐かしい「東京ミニ周遊券」を使って首都圏の鉄道を乗りまくっていた。

あのころは「撮り鉄」とか「乗り鉄」と言う言葉はなかったが、どちらにも属していただろうか。

「撮り鉄」と言っても、現在のように携帯はもちろん、デジタルカメラもない時代で、お年玉や小遣いを貯めて買った安い「フィルムカメラ」だ。

だから写真を撮るのは駅のホームであり、プロの様な沿線写真など撮れる訳もない。

それでも「田舎の子供」にとって、首都圏では当たり前の「電車」は心躍る存在であった。

当時少年たちの間では「ブルートレイン・ブーム」が起きていて、ブルートレインすなわち「寝台特急」が連続して出発する夕方の東京駅など、まるでテーマパークさながらの大混雑だった。

もちろん私にも夢のような光景であったが、山手線や中央線と言った普通の「電車」すら憧れの対象だった。

半ば興奮して走り回るから、気付かぬうちに体中汗だくになっている。

ふと周囲の「お仲間」たちを見ると、ほとんどの子供達はまだ「春」にもかかわらず、半袖姿が多い事に気付いた。

首都圏・関東の子供は冬でも「半ズボン」、今では絶滅してしまった「短い半ズボン」、が常識であることは知っていたし、なるほど小学生らしき子はほぼ全員半ズボン姿である。

それに比べて、私は長袖長ズボンにしっかりと上着を着込んでいたから、道理で暑い訳だ。

ああそうか、ここは東京何だ・・と変に旅情を感じてしまった。

実は「上京前」に、親せきから「こっちは結構暑いから夏服も持って着た方が良いよ」と言われていて、一応荷物の中に入れては置いたのだが、まさか4月後半・5月上旬に半袖はないだろう・・と思っていたのだ。

それ以降思い切って半袖半ズボンで出かけて歩き、そのまま帰ってきたら、こっちは寒い事と言ったら。

東京と仙台の気候がこんなにも違うものか、と逆に驚いたものである。

昔のことはともかく、それだけ天気の変動が激しい時期と言う事。

コロナ禍がやや落ち着いて(落ち着いたのだろうか)、3年ぶりにレジャーに出かけようと考えている人は多いと思う。

今年は人によっては10連休が可能と言われているから、長期間の遠出を計画したり、「安・近・短」であちこち行くと言う人もいるだろう。

楽しむのは結構だが、ただでさえ疲れが溜まり、その上気候の変化で体調を崩したら元も子もない。

この連休はコロナ禍の再拡大も懸念されており、疲れが隙となって感染しないよう気を付け、のんびりと連休を過ごして頂きたい。


28日、母5年1カ月目の「月命日」。

先月の祥月命日に続き、仕事の都合で家にいられず申し訳なく思う。

基本的に「ホームワーク」の私は、この5年1カ月の殆どの月命日に仕事や用事を入れないようにしていたが、この2カ月間は叶わなかった。

でも仕事だから、母も許してくれると思う。

幸い今日は予定以上に早く切り上げる事が出来、明るい時間帯に帰宅出来たのが救いだ。

この連休、明日は仕事があるが、その後は8日まで休み。

どこへ行く予定もなく、多分母と家で過ごすだけだろう。

どこかへ行きたくなるけれど、母がいなくなって以来ある意味不精になってしまった。

出かければ当然お金がかかるし、疲れてしまう。

何より、連休の楽しさを共に楽しむ相手もいない。

でもそれで良いのだ、とも思う。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

明日から大型連休、君は何か予定があるのでしょうか?

逆に仕事が忙しいかも知れません。

ここしばらく汗ばむ陽気が続いていましたが、連休は一転して肌寒い日が続きそうです。

季節の変わり目と言えばそれまでですが、体調を崩しやすい時期でもありますので充分気を付けて下さい。

今日あの公園の傍を通ったら、新緑がとても綺麗でした。

君の好きだった公園は、あの日と変わらず美しい季節の風景を見せてくれます。

今君があの公園を訪れる機会があるかどうかわかりませんが、もし時間があったら行って見て下さい。

今日は母の月命日です。

よろしければ、心の中で手を合わせてもらったら、母が喜ぶと思います。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。


春の野に 心のべむと 思ふども 来し今日の日は 晩れずもあらぬか(万葉集巻十 1882 春雑歌)



飛行機ネタ ベストセラーの陰にハズレ玉あり、B737-600/900(4月22日 雨のち晴れ 23℃)

※2日分の日記を掲載します。

◎4月18日 晴れのち曇り 18℃

週末は快晴だったけれど、今日は雲が優勢。

午後からは県南部を中心に、小雨がぱらついた時間もあったようだ。

今日の様な天気を「花曇り」と言うのだろうか、桜のピークは過ぎたもののそんな空だった。

気温は平年より高いが、日差しがなかった分暖かさはあまり感じられなかった。

いつしか4月は下旬を迎え、世間ではGWの話題が出ている。

昨年・一昨年はコロナ禍で規制中で、そうでなくとも大型連休を楽しめる気分ではなかった。

さりとて今年もコロナ禍が収まっている訳ではないが、ワクチン接種が進んだことや重症者・死者が激減していることから「3年ぶり」の大型連休に期待が寄せられている。

最もメディアが行ったアンケートでは、「どこかへ出かける予定はない」と答える人が7割近くを占めたと言う。

一方JRや航空会社は「昨年比」として、予約状況が7割増しだと言うが、コロナ前と比べると半分以下。

GWの「民族大移動」は、コロナ禍で慣習から消されてしまったのかもしれない。

特に状況が異なる海外へ行く人は相変わらず少ないようで、ウクライナ情勢も大きく影響していそうだ。

今年は日並びが良く、29日から10日間連続休みも可能だと言う。

特に5月第一週は2日と6日が「空き」なので、この2日間を埋めれば正月休み以上の長さになる。

私も今年はほぼ同じくらい休みに出来そうだが、もちろん出かける予定など一切ない。

お金がない事が一番の理由だが、どこへ行っても無駄に混雑しているし、やはりコロナが気になってしまう。

多分普段と変わらないパターンの生活が、連休中も続くのだろうと思う。

夜、近所の桜並木の道を通ったら、まだ満開状態であった。

暗かったのではっきりとはわからないけれど、「葉桜」になりつつあるようだがまだ見ごろと言っても良いように見えた。

先週の雨と低温で、散ってしまったかと思っていたが、確かに花弁が落ちてはいるが思いの外・・と言う印象。

満開になって一週間は経っているから、今年の桜は「長持ち」だ。

今度の週末は間に合わないと思うが、明日明後日ぐらいまでは「満開」を見ることが出来そう。


◎4月22日

初夏を思わせる気温に、ちょっと体を動かすと汗ばむ。

まだ高温に慣れていないせいか、「暑い」と感じてしまうほどだ。

夜明け頃まで雨が降っていて、午前中まで降ると言う予想だったが、8時頃には青空が広がった。

ちょうど出かける時間で雨の影響は受けなかったが、道路はところどころ濡れていたし、そのせいで空気もムシッとしていた。

今週始めまでは満開だった桜は、一気に今年の「任務」を終えて「葉桜」から「若葉」に移りつつある。

雨が降った事もあるのだろう、周囲を見るといつの間にかあちこち鮮やかな緑の若葉が増えていることに気付いた。

考えてみたら4月ももう下旬で、来週にはGWが始まる。

正に新緑の季節を迎える訳だが、ほんの数日前は街が「桜色」だったから、その変化に戸惑いを感じる。

予報では、しばらく20℃前後の高温傾向が続くと言うが、あくまで「季節外れ」の高温。

春先にはよくあることで、高低を繰り返しながら季節が移って行くのだろう。

服装はさすがに半袖姿の人は見かけないが、軽やかな姿の人は、特に若い女性を中心に増えて来たと思う。

しかし「仙台人」は良くも悪くも、服装には保守的で気温が上がったからとすぐ半袖で出歩く人は少ない。

時代とともに変わるかなと思っていたが、令和になってもその「伝統」は生きているようだ。

日中汗ばむ陽気でも、朝晩はまだまだ寒く感じる事も多く、軽はずみに薄着は出来ない。

今私は期間限定の「外注」の仕事で市内の某大学キャンパスに「通って」いるが、学生の殆どもせいぜい「春の装い」で夏服は見かけない。

それに今日は終日北寄りの爽やかな風が吹いており、日差しは少しきついながらも「暑い」と言う感触はなかった。

それ以上に季節を感じたのは、キャンパスの中に「燕」が多数飛んでいた事。

そうか、そう言う季節でのあるのか・・と感慨深い。

彼らが飛び交う建物の軒下には、良く見るとたくさんの「巣」があった。

ちょうど休憩時間に、屋外のベンチで暫く見ていたら、数組の「つがい」らしい。

時期的にはまだ「巣作り中」で、産卵・子育てはもう少し後の事だと思う。

見ていると、確かに巣と空を行ったり来たりしているのは2羽の燕で、「新居」を整えているのだろう。

燕は全く新しい「新築」の巣を作る場合と、前年の「中古」を使う場合がある。

しかも中古で再利用する場合、以前に「本人たち」が作った巣である事も珍しくないそうである。

燕は秋になると南下し、暖かい国で越冬し春になると日本へ戻ってくる「夏鳥」、渡り鳥だ。

その姿を見てわかる通り、スズメの仲間で体長も大きくて20センチ程度の小鳥だ。

にもかかわらず、越冬のために海を渡り、なんと数千キロも離れたフィリピンやインドネシア辺りまで南下する個体もいると言う。

最も全てがそうではなく、国内のあまり寒くなく雪が少ない地域で越冬する燕も多いそうだ。

人間が多数いる所でよく子育て出来るなあ、と思うが、人間のいる場所の方が子育てには安心だからだ。

燕の「夫婦」は、毎年7~8個の卵を産み雛を育てるが、独り立ちできるまでの雛には当然天敵も多い。

タカ・ハヤブサなどの猛禽類はもちろん、カラスも雛を襲う事は珍しくない。

この他猫・ヘビも天敵である。

それらから雛を守るには、人間界の中が一番安全と言う事らしい。

加えて軒先と言う高い場所に巣を作るから、より天敵は近付く事がない。

そう言う意味で、本当の天敵は人間かもと思う。

昔から日本では、燕の巣は縁起物で、その家には幸福が訪れると言われて来た。

しかし「フン害」を嫌い、駆除する人もいる。

既に「空き家」になっている場合は仕方ないと思うが、子育て中に破壊する「外道」もごくたまにいるらしい(卵や雛を傷つける行為は鳥獣保護法に抵触する)。

最近では巣を作られやすい駅や商業施設などでは、「この上に燕の巣があります。フンに注意し、子育てが終わるまで暖かく見守って下さい」なんで張り紙を掲げる風景も増えた。

「フン害」になりやすい直下には、わざわざ段ボールを置いていたりして、その心意気に感動してつい巣を見上げてしまう。

燕の「つがい」は生涯共に過ごし、子育てをする。

産卵後、雛は生まれ独り立ちするまで、夫婦が責任を持って、そして正に命をかけて育てる。

雛は親が餌探しから帰ってくると、顎が外れそうなくらい口を開けて餌をねだる。

そんな光景を見た人も多いと思うが、その時期に雛を見ようと近づくと、親鳥が威嚇してくることもある。

人間が雛に危害を加えるとは思っていないようだが、警戒してその人間の目の前を何度も高速で通過する。

「家に近づくな!」と言っているようで、彼らにとって我が家と雛は命がけで守る対象なのだ。

数羽の雛の中には、独り立ちする前に死んでしまう者もいる。

餌のおねだりは、生まれて最初に課せられる「生き抜く」ための試練で、ほかの兄弟より弱く、取り合いにどうしても勝てない場合もあると言う。

ところが親鳥は、そうした気弱な子を特別扱いしない。

生き抜く「貪欲さ」「器用さ」を持てなければ、仮に成長できても独り立ち以後自分で生きて行くことは不可能であり、親鳥はそれを知っているからこそ敢えて甘やかさない。それで死んでしまっても、それが雛の運命だったと割り切っているのだろうか。

過酷過ぎるけれど、親鳥は命がけで雛を「立派な大人」に、そして責任を持って育てる事は間違いない。

燕を見ていると、それに比べて人間って・・・と思ってしまうのは私だけだろうか。



夜に寒さを感じないのは、本当の春が来た証拠。

車や人通りが減る夜の道を歩くと、ほのかに新緑の匂いがした。

これから日ごと、それを感じる日が多くなるのだろう。

季節の移ろいは毎年同じなのに、その速さにどうしても戸惑う。

来週には大型連休がスタートし、季節は初夏、そして夏へと向かう。

この春、新しい生活をスタートさせた人たちも、少しずつ慣れて季節を思う日々が来るのだろう。

帰り道、駅からずっと歩いてきたら、家に着く頃少し汗ばんでいた。

上着自体も、そろそろ要らない時期かな、と思う。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

桜も終わり、街の風景も新緑を始めとして華やかさが増しています。

君も軽やかな春の装いで出かけていることでしょう。

この春、君は桜を見ましたか?

まだ咲いている所もあるようですが、これからは更に花の季節を迎えます。

世の中は、そんな季節の風景とは裏腹な事も多いですが、心だけでも季節に目を向けていたいものです。

この先、気温や天気は変化を繰り返しそうですので、体調管理には充分注意して下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



霞たつ 春の永日を 恋ひ暮らし 夜のふけ行きて 妹にあへるかも(万葉集巻十 1894 春相聞歌)





飛行機ネタ。

続けざまで申し訳ないが、今回も「B737NG」。

ファンなら周知のことだが、「ネクスト・ジェネレーション」と呼ばれるB737シリーズは、大きく分けて4つのバリエーションが存在する。

前回書いた700型は、標準座席数が140席で基本型として開発されたが、実際に売れたのは一回り大きく180席級とした800型である。

90年代、同シリーズが開発が始まった時点では前作である「クラシック」と同様、「大・中・小」の3つのバリエーションが計画されていた。

なので最初に作られたのが「中」モデルである700型であり、やや遅れて「大」モデルの800型、そして「小」モデルの600型が登場した。

600型の全長は31.2メートルで、700型よりも約2メートル短く、標準座席数は120席でこれは「オリジナル」の200型、「クラシック」の500型とほぼ同格である。

一方900型の全長は約42メートルで、700型よりも約9メートルも長く、B737では最大のモデルである。

元々「大・中・小」と考えられていたのは、「クラシック」の300~500型のバリエーションを継承したからである。

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1-1-1-2A B737-990(ER)_ALASKA N434AS.jpg ↑(2枚)B737-900のローンチカスタマー、アラスカ航空。画像は現行塗装の900ER(ウィキペディア英語版より)

しかし「737NG」では、もう一つバリエーションが加えられて合計4つになったことが特徴である。

実際最大の900型は、計画当初全く考えられていなかった。

理由としてボーイングには737より一回り大きい「中型ナローボディ機」、B757があったからだ。

90年代以降、エアラインは過当競争時代を迎えて、機材にはそのエアラインに応じた細かな適応性が強く求められるようになった。

同モデルながら座席数の違いが数十と言うのは、あまり関係ないように思えるが、この時代になるとシビアな数字の差となっていた。

通常旅客機の利益は、もちろん利用者数によって左右されるが、利益は運航コストを差し引いた金額である。

定期便1便を運航するには、燃料代と人件費以外に空港使用料がかかる。

それは単なる利用料だけでなく、乗降の為のボーディングブリッジなどの施設、燃料補給の手数料、貨物載せ下ろしの手数料、飲食物の料金と手数料などが加算される他、国際線であればその価格や利用料も違ってくるし、税金が課される場合もある。

1-1-1-2A B737-9K2,_KLM_Royal_Dutch_Airlines.jpg ↑ヨーロッパで最初にB737-900を導入したKLMオランダ航空(ウィキペディア英語版より)

特に基本となる利用料は、金額こそ国によって違うものの、基本的にはその機体の重量や大きさで金額が決められている。

極端な話、飛行機が大きければ大きいほどこうしたコストは高くなるのが当然だが、その分座席数も多いから搭乗率が高ければ利益も上がる。

しかし365日いつでも「満席」になるとは限らない訳で、当然「ガラ空き」の事もあり、そうなれば当該便は「赤字」となってしまう。

ならば機材は少しでも小さい方が良い・・となるのは自明の理で、21世紀になって機体の小型化・ダウンサイジングが進んでいる。

以前の小型機はあくまで短距離用だったが、技術の進歩で航続距離が飛躍的に向上し、中距離線の運航も可能になった。

小型機であれば運航コストは安く、かつ「搭乗率」も高く維持しやすくなる。

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1-1-1-2A B737-900ER KOREANAIR-VVO.jpg ↑(2枚)アジアでは最大数のB737-900を持つ大韓航空。同社は700・800型も保有しているが、最も数が多いのは900型で17機保有している。機体は全て初期生産型である「900」で、「900ER」は保有していない。導入当初はウィングレットを装備していなかったが、現在はレトロフィットさせている。日本線でも定期便で飛来する。日本のエアラインで900・900ERは1機も導入されていないので、日本で乗れる貴重な900型でもある(ウィキペディア英語版より)

そうした変化はエアバスが初めて開発したナローボディ機、A320で決定づけられた。

しかもA320は「大・中・小」に加えて、「極小」と言うモデルを持っていた。

極小と言っても、従来のナローボディ小型機の常識の範囲の座席数で、それに当たるA318、B737-700に対応するA319、そしてメインモデルA320はB737-800に対応し、基本型がB737と比べて大きいモデルが設定されていた。

B737NGでは180席級として800型が存在し、最も生産数の多いモデルであるが、当初ボーイングはそれほど売れないと見込んでいた。

やはりこのクラスは大きくても150席級で、180席級は半端で大きすぎると言う認識を持っていた。

座席数が欲しいならば757があるので、800型はとりあえず作ってみる・・と言う感じであった。

だがA320は予測を大きく超えてセールスを伸ばし、「大きなナローボディ機」こそ経済性に優れると言う新たな展開に発展。

1-1-1-2A B737-900 Shenzhen_Airlines.jpg ↑深玔航空のB737-900。737大国の中国でも、900の採用例は少なく少数に留まった(ウィキペディア英語版より)

737も良い意味でアテが外れ、800型が売れ筋となった。

「大は小を兼ねる」みたいな事だろうか、エアバスも200席級のA321を登場させていた。

発売当初はパッとしなかったが、徐々に売れ始めていた。

321は320よりも僅か20席前後大きいだけだが、それだけではなかった。

胴体が大きい分、機体重量も増えているがA320とさほど変わらない航続距離を持つことから、長距離路線でも運航が可能であった。

A320シリーズの胴体は円形で、床下スペースを大きく取っており燃料タンクや貨物スペースも大きく、比較的長時間の運航にも適していた機体だった。

座席数をそのままにして、その分利益率の高い上級クラスの座席数を増やす、長距離運航に対応するキャビンレイアウトも可能であり、4~5時間程度の中距離路線では、経済性も非常に優れた機体であった。

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1-1-1-2A B737-900ER ALASKA-N467AS.jpg ↑(2枚)アラスカ航空(旧塗装)の900と900ER。同社は双方を保有する珍しいエアライン。運用上の区別は少ないが、大陸横断路線ではERが充当されることが多い。900型ではウイングレットをレトロフィットさせたが、ERでは「スプリット・シミタール・ウイングレット」が追加装備されている(ウィキペディア英語版より)

それでいて機体そのものはB757よりもやや小さく、機体価格・運航コストも安い。

総合的なパフォーマンスと言う点では、B757よりやや劣ったが、充分対抗できる性能であった。

こうした状況を踏まえて新たに開発されたのが「900」で、ローンチカスタマーはアラスカ航空だ。

同社はMD社のMD-80シリーズのユーザーだったが、80年代後半にはB737「クラシック」の導入も開始し、「737NG」の導入も当然だった。

700・800型を発注していたが、より座席数の多いモデルを希望しており、900型のローンチに至った。

180席級の800型と220席級のB757の間を埋めるモデルとして、最大で200席設けられる900型には他のエアラインの興味を引いたが、実際には躓きもあった。

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1-1-1-2A B737-900 KLM_.jpg ↑(2枚)KLMオランダ航空のB737-900。ヨーロッパメジャーでは唯一900型を運用する。保有機は全て初期生産型の900で、ウイングレットを追加、天測窓を埋めるなどの改修を行っている。900・900ERの外観上の大きな違いはなく、改修機に至っては殆ど区別が付かない。唯一の識別点は胴体後部の非常口。900型では800型などと同じ従来型の配置を持つ(ウィキペディア英語版より)

900型の概要は、700型よりも胴体が約8.5メートルも延長され、全長は42.1メートルにもなった。

ところが座席数が最大で189席と、800型と殆ど変らない事が問題であった。

これは設置された「非常口」の問題で、900型には800型までと同じ数の非常口しか設定されていなかったためだ。

と言うよりも数は最初期の「オリジナル」200型以来変更がなく、前後の乗降口に加え中央部・主翼の上にある小さい専用非常口は2個と言うレイアウトだ。

1-1-1-2A B737-900ER Ukraine_International_Airlines,_UR-PSI.jpg ↑ウクライナ国際航空の900ER。同社は800型も保有しているが、座席数の多い900ERは高需要路線に投入されて「いた」。22年2月に始まったロシア軍の侵攻で、同社はもちろん運航休止状態にある。ロシア軍は緒戦で空港施設を集中的に攻撃したため、同機の消息は不明。1日も早く復活することを願わずにはいられない(ウィキペディア英語版より)

国際的な規定で、旅客機は緊急時に機内の全員が「90秒以内」に脱出できなければならない事になっており、非常口の数と大きさがおのずと決まっているのだ。

大型化した分、座席数を増やせる構造にはなったが、非常口が同じ為900型の座席数は実際には増やせないと言う、意味のないモデルになってしまったのである。

ローンチ以前から、この問題は浮上していたが、新たに非常口を設けると機体強度などの関係から設計の一部を変更しなければならず、機体重量も増加することで製造コスト・機体価格が上昇すると言う理由で、ボーイングはそのままとしたのである。

最も最初に発注したアラスカ航空や、KLMオランダ航空、大韓航空などは、総座席数よりもキャビン面積が広くなった事で、上限が180席前後だとしても上級クラスを増やす、エコノミークラスの座席を拡大するなど「快適性」を盛り込む事が出来るとして900型を発注、運用した。

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1-1-1-2A B737-900ER DELTA.jpg ↑(3枚)現在B737-900を最も多く保有するのはデルタ航空で、その数は159機。全て900ERで、大半の機体が「スプリット・シミタール・ウイングレット」に改修している。キャビンは2クラス180席(ウィキペディア英語版より)

しかしこうしたエアラインは少数派であって、多くのエアラインは大型化したのに座席数が増えない900型を期待はずれと見てしまった。

その証拠に900型の受注は全くと言って良いほど伸びなかったが、00年代になって変化の兆しが現れた。

ちょうどLCCが世界的に流行し出した時期で、インドネシアの大手LCC[ライオン・エア」がボーイングに900型の改修案を打診したのである。

同社は900型の本来の持ち味である200席級とし、規制をクリアするため非常口の増設を希望した。

もし改修案を通すなら・・と言う条件付きで、ライオン・エアは200機と言う空前の発注を出す事になった。

加えて機体重量が増加することから、900ではオプション扱いだった胴体内の増加燃料タンクを標準装備に変更。

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1-1-1-2A B737-900ER_Lion_Air_.jpg ↑(2枚)B737-900ERのローンチカスタマー、インドネシアのLCC、ライオン・エア。同社の900ERは非常口を増設した「ハイデンシティ」タイプで、主翼後部の胴体に乗降口と同じ大きさもドアが増設されている。これによって最大で215席まで設けることが出来る(ウィキペディア英語版より)

形式も新たに「900ER」に変えて、以後900型の生産は全て「900ER」とすることに決められた。

900型の航続距離は約5,000キロだったが、「ER」では約5,500キロと、800型とほぼ同じ距離まで延長された。

一方200席もいらないと言うエアラインには、900型と同じ非常口配置タイプが逆にオプションとして用意された。

この改修により、「900型」の生産は僅か52機で停止された。

900ERでは最大で215席まで設ける事が出来るが、2クラス制だと180~190席が標準である。

これは800型よりも多く、航続距離もやや短い程度で中距離路線には十分対応できるスペックと言える。

エンジンはシリーズ共通のCFM-56-7B系列だが、900ERだけはやや出力を上げたタイプが搭載されている。

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1-1-1-2A B737-900ER-El_Al_Israel_Airlines(4X-EHB).jpg ↑(2枚)エルアル・イスラエル航空のB737-900ER。同社では800型が主力だが、900ERも幹線用として現役。胴体後部の非常口は小型のタイプで、ハイデンシティ仕様でない事が分かる。尚この非常口も、初期の「900」にはない(ウィキペディア英語版より)

同機の初号機は、07年ライオン・エアに引き渡され、機体はボーイングのハウスカラーを纏っていた。

ボーイングとしても、同機への大きな機体を寄せての宣伝だったことが分かる。

何しろ半世紀以上に渡るB737の歴史で、ついに200席級と言う「大台」に載った初めての機体である。

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1-1-1-2A B737-900ER MALINDO AIR 9M-LNG.jpg ↑(2枚)ライオン・エアの系列LCC、バティック・エアとシンガポールに拠点を置くマリンド・エアの900ER。200席超の737は900ERが唯一でLCCでも流行するかと思われたが、同社以外発注するLCCは殆どなかった。このほかタイに拠点を置く「タイ・ライオン・エア」も同機を保有し日本線でも投入されたが、これらの機体は全て「本社」からのリース機として運用されている。その為機材の往来も多い(ウィキペディア英語版より)

120席前後の「短距離機」だったはずが、200席で大陸横断が可能となるなど、デビュー当時は全く考えられない進化を遂げたのである。

そう言う意味で、900・900ERは革命的ですらあった。

だがボーイングの意気込みとは裏腹に、以降の受注はパッとしなかった。

ボーイングは900ERを登場させたことで、旧式化していたB757の受注・生産を打ち切り、同機を後継機種にしようとしていた。

しかしアメリカのメジャーを含む、世界中のB757ユーザーはその思惑に乗らなかったのである。

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1-1-1-2A B737-924(ER)_United_Airlines N38451.jpg ↑(5枚)コンチネンタル航空とユナイテッド航空の900ER(2枚目はレトロ塗装機)。ユナイテッド航空はデルタ航空に次いで900型を保有するエアラインで、現在148機を運用している。自社発注機と統合した元コンチネンタル航空機が存在する。デルタ航空とユナイテッド航空だけで、総生産機数の6割以上を占めている(ウィキペディア英語版より)

確かにB757はメカニズムと言う点では旧式化していたが、パフォーマンスはなおも他に類を見ないものを保持していた。

胴体径こそ737と変わらないナローボディ機だが、能力と言う点では姉妹機であるワイドボディ機のB767と同格を有していた。

装備するPW2000、RB211エンジンは元々ワイドボディ機用に開発された強力なエンジンであり、改良を重ねて来たB757は大西洋横断運航も日常化するほど長距離機としての才能も持ち合わせており、ユーザーの多くはB757の生産停止に強い拒否反応を示していたのである。

ボーイングが推す900ERでは、座席数が757よりも少なく、航続距離も短く、そして貨物室の容積が小さい事が代替えにはならないと言う見方が強かったのであった。

長時間運航となれば乗客の荷物も必然的に多くなる他、航空貨物の需要も増える。

だが737の胴体は、50年代のB707から継承した意匠であり、現代の需要を予測したものとは言い難い部分を持っている。

もちろんボーイングも充分承知の上で、開発コスト削減を優先させた結果なのだが、搭載能力ではB757にはどうしても及ばなかった。

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1-1-1-2A B737-900ER-Oman_Air,_A4O-BY.jpg ↑(2枚)タジキスタン、サモン・エアとオマーン・エアの900ER。同機の最も新しいユーザーだが、機体は中古機(ウィキペディア英語版より)

更にライバルであるエアバスのA321を強く意識してでの900型ではあったが、同シリーズは737を「反面教師」にした部分が多く見受けられ、特に胴体意匠は対照的であった。

A320シリーズは、737が「逆卵型」の断面をもつのに対し、ほぼ真円形にして床下スペースを大きく取っている。

これによって貨物室にはコンテナの積載が可能であり、旅客便として運航しつつ「簡易貨物便」としての機能も持たせてあった。

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1-1-1-2A B737-900ER-Turkish_Airlines,_TC-JYM.jpg ↑(2枚)ターキッシュ・エアラインズの900ER。側面から見ると、改めて胴体の長さが分かる(ウィキペディア英語版より)

特に胴体の長いA321は容積が大きく、オプションとして貨物室の一部を燃料タンクに出来るようになっており、約7,000キロの航続距離を持っていた。

結果757を求めるエアラインは、中古機を探すか、A321に流れる傾向に走り、900ERを発注するエアラインは増えなかった。

600型はSAS(スカンジナビア航空)がローンチカスタマーとなって開発され、98年に同社で初就航した。

737NGでは最小モデルで、全長は31.2メートル。

「オリジナル」の200型、「クラシック」の500型に相当し、座席数は2クラスで110席前後、最大で132席。

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1-1-1-2A B737-600 LN-RPB.jpg ↑(2枚)737NG最小モデル、B737-600。SASは同機のローンチカスタマーで98年から就航した。現在は退役し、800型が主力(ウィキペディア英語版より)

200・500型の後継機種として開発され、機体規模は従来の短距離機としては標準サイズである。

だが経済性が向上したことで、機体が小さく軽量な分航続距離も長く、最大で約6,300キロにも及ぶ。

600型がデビューした時点では、歴代737では最大であった。

最もそれを活かしての運航をするエアラインはなく、SASも域内線用の短距離機として発注した。

しかしこの時点で、100席前後の新しいリージョナル機、ボンバルディアのCRJシリーズやエンブラエルのEシリーズが登場しており、運区コストと言う点で600型は大きなアドバンテージを背負っていた。

リージョナル機は従来70~90席が標準だったが、性能が向上したことや運航コストの削減が当たり前になったことで、それまでの形態に変化が現れていた。

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1-1-1-2A B737-6CT_WestJet_C-GWCT,.jpg ↑(2枚)最近引退したばかりの、カナダ・ウエストジェットのB737-600。サイズとしては200・500型とほぼ同じ。胴体上部にはWiFiアンテナのバルジが追加されている(ウィキペディア英語版より)

リージョナル機は名前の通り、主に大都市から小都市への接続便やローカル線向けであったが、ジェット化が進んで運航距離が延びるようになっていた。

それに伴い座席数も90~110席級が開発され、需要の低い路線でも収益が出せるようになった。

そうなるとこれらの機体よりも大きく重い737よりも、リージョナル機で運航した方が効率も良い訳で、発売当初から半端な機体になってしまった。

600型自体のパフォーマンスは優れており、軽量小型の機体に大出力のエンジンを持つので離着陸性能に優れ経済性も高かった。

1-1-1-2A B737-6Q8_,MALEV HA-LON.jpg ↑マレーヴ・ハンガリー航空の600型(ウィキペディア英語版より)

しかし110席と言う中途半端な座席数が、新しいリージョナル機と比べられる事になり、受注は全く伸びなかった。

受注の多くはローンチ直後のもので、それらの69機が生産されただけであった。

それでも生産ラインが共通の為、販売カタログには載せられていたが00年代以降1機も生産されていない。

1-1-1-2A B737-600 -Janet_EG&G.jpg ↑エアラインではないものの、プライベートチャーターなどを運航するアメリカ、ジャネットEG&G社のB737-600。ミリタリーファンの人ならご存知化と思うが、同社はラスベガスのマッカラン国際空港をベースとしていて、米軍関係の人員輸送を受託している。一見民間エアラインの様な塗装を持つB737で、同空港では頻繁に行き来する姿が見られるが、行き先は不明の事が多い。何故ならば、一般の民間機が飛行中自機の位置を知らせる発信装置「トランスポンダ」を切って飛行するからだ。ラスベガスを離陸すると、民間航路とは全く別方向のルートを飛び、軍の管理空域を飛ぶためである。公然の秘密となっているが、砂漠のど真ん中に位置する極秘エリア「エリア51」を含む、トーノッパ近郊の空軍基地とラスベガスを往復して入域を特別許可された軍関係者、政府関係者、技術者を輸送しているとされている。(ウィキペディア英語版より)

737NGシリーズでは、「BBJ」と言ったプライベート・VIP仕様や軍用型など派生型が作られているが、600型では生産されていない。

また700型以降は、生産途中から翼端のウイングレット追加やコクピット上方の天測窓の廃止など改修が加えられたが、600型では一切ない。

ウイングレットを後から装着した機体もない。

1-1-1-2A B737-683,_Flyglobespan.jpg ↑イギリス、エディンバラをベースとして設立されたLCC、フライ・グローバルスパンのB737-600。中古の600型を購入しての新興エアラインは珍しかったが短期間で運航を停止した(ウィキペディア英語版より)

10年代には実質上「カタログ落ち」状態になり、737全体では最も数の少ないモデルとなった(100型が更に少ないが、これは先行量産モデル)。

現在737は「MAX」シリーズに移行中だが、600型だけ「MAX」化されなかったのも不遇と言える。

ライバルのA320シリーズは、「極小」モデルA318が600型と同じような理由で売れなかったので、600型だけが「ハズレ玉」だった訳ではない。

登場時に需要がなかっただけの「不運」だった訳で、600型自体は上記のようにNGシリーズの中では優れたパフォーマンスを持つモデルであった。

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1-1-1-2A B737-600-Air_Algerie 7T-VJU.JPG ↑(2枚)現時点で「最大数」の600型を保有する、アルジェリアのエール・アルジェリー。5機が現役にあり、フランスなど近距離国際線にも運用されている(ウィキペディア英語版より)

一方数としては比較的売れた900型ではあるが、900・900ER合わせて557機は、ファミリーである800型の5,000機と比べればあまりに少ない。

700型でさえ約1,200機だったから、商品としてはやはり「ハズレ玉」だったと言えるかもしれない。

先に書いたように、ボーイングは人気があったにもかかわらず生産を中止したB757の代わりになるとした900型であるが、実際そのような運用をしたエアラインは皆無である。

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1-1-1-2A B737-600_Tunisair_(TAR)_TS-IOP.jpg ↑(2枚)4機の600型を保有するチュニジアのチュニス・エア(チュニゼール)(ウィキペディア英語版より)

まとまった数を運用するアメリカのメジャーは、2クラス運航が主流なので座席数が多いと言う理由で900型を使っている。

現在900型は約400機が現役にあるが、最大のユーザーはデルタ航空で159機。次いでユナイテッド航空が148機、アラスカ航空が91機と、全体の8割以上を占めている。

いずれも後継機種の導入が進んでいるが、900型自体の機齢は若く、今のところ退役計画はない。

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1-1-1-2B B737-MAX9 United_Airlines.jpg ↑(2枚)900・900ERの後継機種「MAX9」。全長はほぼ同じだが、キャビンレイアウトの変更で僅かながら座席数が増加した。現時点で「MAX」の受注・生産は圧倒的に「MAX8」が多い(ウィキペディア英語版より)

3社ともMAXやA320もしくは321neoの導入を開始しているが、当分現役に留まると見られる。

一方600型を現役で運用するエアラインは、北アフリカ・チュニジアのチュニス・エアと、アルジェリアのエール・アルジェリーだけ。

前者は4機、後者は5機保有しているが、世界で僅か9機だけの現役B737-600と言う事になり「絶滅危惧種」でもある。

ファンの中でも「B737-600とか900なんてあったっけ?」などと言われそうで、世界最大の生産数を誇るB737にあって、こんな「レア種」も実は存在しているのである。

飛行機ネタ 全ての始まりだったB737-700(4月12日 晴れ 24℃)

※2日分の日記を掲載します。

※4月9日 晴れ時々曇り 20℃

気象台は昨日、仙台で桜の開花宣言を出した。

昨年より11日遅いと言う事だが、この週末は好天で気温も上がるため、「満開予想」は僅か3日後の11日だと言う。

高気圧が全国を覆って、南から暖かい空気が流入するため各地で20℃を超え、まさに春本番の週末だ。

内陸やフェーン現象がおこる場所では25℃前後まで上がった所もあり、春を通り越して「初夏」の陽気になった所もあったようだ。

お花見には最適の週末と言えそうだが、この気温で動き回ると汗ばむくらいではないか。

ただ油断は禁物。週刊予報を見ると晴れて気温が高いのは週明けまでで、その後は曇りや雨が続くようになり、気温も平年並みかそれ以下になると言う。

この週末、子供や若い人は上着どころか「半袖」になりたくなるだろうが、そのままにしておくと大変な事に・・・。

最もこの極端さが、春なのかも知れない。

昨日市内では学校の「入学式」が集中したそうで、新入生の新しい生活が始まったようだ。

夕方街に行くと、帰宅ラッシュ以上の人出があって驚いた。

区内の公立高校の入学式の帰りの生徒が多かったらしく、通りがかった地下鉄駅の定期券販売窓口では、これまで見たこともない大行列が出来ていた。

まるで「団体」のようで、良く見ると同じ制服の生徒の他、同伴した保護者も一緒なので混雑に拍車がかかったらしい。

交通局のHPを見ると、なんと「90分待ち」と出ていて、仙台駅では「120分待ち」の時間帯もあったそうだ。

なるほど高校生の場合は、学生証など証明書が必要だから入学式以降でなければ購入できないので集中したのだろう。

生徒の中には、生まれて初めて定期券を持ち、一種の「長距離通学」を体験するのだ。

公立の小中学校は基本的に地域にあるから、初めてバスや地下鉄を使って遠くまで通学する生徒もいるだろう。

私もまた、同様であったことを行列を見て思い出した。

今こそ居住するのは「仙台市泉区」だが、当時はまだ合併前で独立した「泉市」だった。

当時住んでいたのは現在の「宮城野区」で、学校は「泉市」だった。

もちろん地下鉄はまだなく、学校まではバスの乗り継ぎだった。

しかも最寄りのバス停から学校までは、徒歩で10分くらいかかったので、通学時間は1時間半ぐらいであった。

ほんの3週間前まで通っていた中学校は、自宅から徒歩10分。

それがいきなり、バスを2本乗りついで1時間半の通学生活になったのだから戸惑いは大きかった。

幸い中学の同級生の何人かも同じ高校だったから、同類相哀れむではないけれど最初のうちは待ち合わせして一緒に通ったので心強かった。

そして初めて手にした定期券は、何となく大人に一歩近づいた気がした。

今こそ定期券はICカードが主流だが、当時は窓口で発行する本当の「券」。

なのでパスケースに入れて、運転士さんに「はっきりと見えるように」提示して降車するのだ。

今もこうしたアナログ的な定期券が存在するのか分からないが、懐かしい思い出だ。



◎4月12日

今週は一気に「春爛漫」と言う言葉が相応しい、青空は続く。

気象台は昨日、市内の桜に「満開宣言」を出した。

「開花宣言」が9日だったから、なんと2日間で満開になったことになる。

予想通り初夏の様な気温が後押しした訳で、仙台の最高気温は昨日が24.7℃、今日が24.5℃と7月中旬並みの「暑さ」だった。

内陸では28~29℃まで上がった所も多く、桜も一気に・・と言うよりも慌てて満開になったのかも知れない。

私も今日は、今年初めて上着なしで外出した。

空気が乾燥している事もあり、私には長袖シャツ1枚でちょうど良かった感じだ。

確かに行く先々で桜は満開に近く、中心部よりも咲き方の遅い泉区も、今日は満開に近い桜が多かったように思う。

加えて学生の新学期も始まった所で、いやがうえにも春の風景で街は埋め尽くされていた。

櫻で有名な中心部の「西公園」や「榴ヶ岡公園」では、お花見の「さくら祭り」が始まって多くの人で賑わったと言う。

コロナ禍で一昨年・昨年は中止。

コロナ禍自体はまだ収束していないが、一定の落ち着きを見せていることから3年ぶりの開催となったと言う。

たまたま所用が重なって、私にしては珍しく市内を動き回る一日だったが、こうして見るといかに桜が街中に植えられているかを認識する。

桜が満開なのは数日間。来週の半ばにはもう見ごろは過ぎているだろうから、まさに美しくもはかないとはこの事。

同時に1年の大半はどこにでもある葉っぱで覆われた樹木にしか見えず、意外と目立たず認識しづらい。

少し高い場所から見ると、本当にあちこちで「桜色」の塊が見え、こんなにも桜はあるものかと思うのだ。

それだけ日本人にとって、桜は大事で大好きな花・樹木であると言う事なのだろう。

季節外れの高温で、今年はまとまった桜を見ることができそうだ。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか。

春を通り越したような陽気、君もちょっと暑さを感じたことでしょう。

ふと以前君と公園を散歩した時、こんな暖かさの日だった事を思い出しました。

この春、君はどんな想いで桜を見るのでしょう。

桜はとても美しい樹木ですが、好き嫌いが出るとも言われます。

春を代表する花であることは、人によって印象も変わるからでしょう。

私は以前はとても好きでしたが、今はあまりそう思わなくなってしまいました。

でも君は笑顔で桜を見ているかも知れない、と思うと、少し心が和みます。

あっという間に散ってしまうのではかなさを感じる桜ですが、また来年も見たい・・と思う気持ちが大切なのかも知れません。

週末は、一気に肌寒くなると言う予報が出ています。

今日の様な汗ばむ陽気から、一気に上着が手放せない気温になると言いますので、体調管理には充分注意して下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。


朝かすみ 春日の晩(く)れば 木の間より うつろふ月を いつとか待たむ(万葉集巻十 1876 春雑歌)






飛行機ネタ。

全日空からB737-700が退役して、間もなく1年が経とうとしている。

言い換えれば、まだ1年も経っていないと言う事なのだが、すっかり「過去帳入り」したように忘れ去られた存在になってしまった。

同じく同社グループで活躍した「737クラシック」の500型は、それより先の20年初夏に退役し、全国ニュースでも報道された。

また整備訓練機材として、日本のエアラインでは初めて1機が残され、機体登録も残され保存されている。

同機は元グループエアラインだったエアー・ニッポンが初めて自社発注で導入した機材で、退役まで実に四半世紀に渡って飛び続けた。

一方「クラシック」を大幅に改良した「737NG(ネクスト・ジェネレーション)」シリーズであるはずの700型は、初号機の導入が05年。

退役が21年だから、活躍期間は16年間と500型に比べて遥かに短い期間であった。

トータル数は500型が、リース機を含めてのべ25機だったのに対し、700型は18機。

数としてはそれほど大差がないはずだが、終始地味な存在だった事は否めなかった。

1-1-1-1B B737-700_ANA(JA02AN).jpg ↑21年6月に退役した全日空のB737-700。その活躍期間は約16年と比較的短かった。最後に残ったのは3機。そのうちの1機は画像の「JA02AN」で、05年に「ゴールドジェット」として導入された機体(ウィキペディア英語版より)

「737NG」を日本で最初に発注、就航させたのは全日空で、運航自体は500型を運用していたエアー・ニッポンだった。

計画当初は500型の後継機種であったが、700型のパフォーマンスを考慮して新たなカテゴリー機種として当面併用する計画に変更した。

これはグループの再編に伴う変更で、それまでエアー・ニッポンは全日空との共同運航のほかに、独自路線の運航を行っていたが、全てが共同運航及び全日空便としての受託運航に切り替えられたからだ。

その為500型はエアー・ニッポンが発注・受領していたが、700型では全日空の発注機として導入されている。

それまでの737の基本コンセプトであった「短距離旅客機」と言う概念を、「737NG」では一気に打ち破る性能を有していたからに日かならない。

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1-1-1-1B B737-700(JA02AN)_Gold_Jet.jpg ↑(2枚)日本で初めて「737NG」を導入した全日空。初号機と2号機は宣伝を兼ねて塗装のブルー部分を金色に変えた「ゴールドジェット」として就航した。塗料の関係でトーンが落ち着いた金色で、今の目で見るとあまり目立たない金色であった(ウィキペディア英語版より)

同シリーズで最初に完成・生産が開始されたのは700型で、基本型である。

座席数はモノクラス標準で140席、2クラスならば125席前後。

これは「クラシック」だと300型と400型の中間にあたるが、経済性が大きく向上したことで基本型としてやや大型化させたからである。

逆に200・500型に相当する120席級として、後から600型が生産されたが、既に100~120席前後のリージョナル機(CRJやEジェットシリーズ)が現れていたことから受注は伸びず、極初期段階で受注した69機の生産に留まった。

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1-1-1-1B B737-700,_ANA JA14AN.jpg ↑(3枚)ER2機を含めて18機を運用した全日空。当初運航はエアー・ニッポンが担当した為、小さいながらも社名ロゴが記入されていた。グループ再編後はエアー・ニッポンの後継となるANAウイングスが運航して、「IOJ」ロゴに統一された。00年代までは国内線と近距離国際線で運用されていたが、10年代後半になると中部や関空発着の近距離国際線専用機材になって、キャビンも2クラスながら国際線仕様で運航されていた(ウィキペディア英語版より)

これは737「オリジナル」の100型に次ぐ少数生産で、同機は先行量産型的な役割であったのに対し、600型は実質的な「ハズレ玉」モデルであった。

700型が登場した90年代末は、燃料価格の高騰や世界情勢の激変・細分化、環境問題の高まりとエアライン業界も無縁ではない時代に突入していた。

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1-1-1-1B B737-700 SOUTHWEST-N730SW.jpg ↑(2枚)737NGの時代の幕を開けたサウスウエスト航空。上は導入当時の塗装で、初期生産機にはウイングレットがなかった。のちにオプションとして装着されたが、殆どの機体が装着済みで生産されている。同社は現在も約500機と言うけた外れの700型を保有し、全米の空港で見ることが出来る。もっとも成功したLCCとして、世界中から「お手本」にされているが、実際には無料の機内サービスや預託荷物のシステムを持ち「準LCC」の様なエアラインだ。サービス自体は日本の国内線と同レベル程度だが、機体の多くはアメリカでは珍しくエコノミークラスだけだ。後継機種として「MAX7」を発注しているが、それが出揃うまでは700型がメイン機材として活躍することが決まっており、生産停止以降代替えなどで放出された700型を中古機として世界中から買い集めて機数を維持している(ウィキペディア英語版より)

すなわち新しく求められる旅客機とは、経済的・低公害と以前なら相反する要素が同時に求められるようになっていたのである。

だが技術の進歩で、それらは不可能から可能になり、737NGもまた「クラシック」とは一線を画する性能を持つにいたった。

複合材の利用や主翼形状の変更などで機体の軽量化が図られ、改良型のエンジン「CFM-56-7B」が加わって航続距離が大幅に増大していた。

700型の最大航続距離は約6,300キロにも及び、同シリーズの開発のきっかけとなるエアバスA320シリーズに迫る性能が実現した。

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1-1-1-1B B737-700-Transavia_(PH-XRC).jpg ↑(3枚)なぜか頑なにA320シリーズを使わない、オランダのエアライン。フラッグキャリアKLMと、傘下のLCCトランザビアの700型。どちらも主力は800型だが、路線需要に合わせて700型も活躍している。KLM機は主に域内路線の主力でもある(ウィキペディア英語版より)

機体規模はA320より一回り小さいA319とほぼ同サイズで、航続距離も同格となった。

もちろんB737としては驚異的な性能であり、エンジンも当初から長時間洋上飛行規制「ETOPS」の取得を念頭に置いていた。

97年に初飛行した原形機のテストでETOPSを取得しており、安い運航コストでの長距離飛行が可能であった。

デビュー後は短距離運航を主体とするエアラインが多かったが、徐々に3~4時間に及ぶ中距離路線へ投入される事も増え始めていた。

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1-1-1-1B B737-758,_El_Al_Israel_Airlines_4X-EKD.jpg ↑(2枚)エルアル・イスラエル航空の700型は、初期生産型のみでウイングレット未装着。800・900ERが導入されたことで退役した(ウィキペディア英語版より)

700型の全長は33.6メートルで、300型よりも僅かに長くなっているがキャビンの全長はほぼ同じ。

内装構造の見直しで、300型よりもキャビンアレンジが増えて座席数も増加したが、主翼が大きくなったことで機体重量も増加した。

それは総重量、すなわち燃料を筆頭とする積載量が増えた事を表し、航続距離に関しては300型よりも倍近く延長している。

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1-1-1-1B B737-700 Turkish_Airlines,_TC-JKO.jpg ↑(2枚)フィジー・エアウェイズとターキッシュ・エアラインズの700型(ウィキペディア英語版より)

初期の機体では、翼端にウイングレットは装備されていなかったが、すぐにオプションとして装着されるようになり、結果的には標準装備とされた。

ウイングレットを含む翼幅は35.8メートルとなり、全長よりも長いことになる。

これは離着陸性能の効果を及ぼすだけでなく、燃料タンクが大きい事をも意味し、それが長大な航続距離をもたらしていた。

1-1-1-1B B737-700_ANA JA18AN.jpg ↑メインモデルとなった800型と比べると、700型は小さくコロッとした印象を受けるが、主翼は全長よりも長く、新しく設計された主翼の効果が一番現れるモデルでもある。この角度から見るといかに主翼が長く大きい事が分かる(ウィキペディア英語版より)

ファンにはよく知られる所だが、全日空が発注した700型の中で「国際線専用機材」として2機の「700ER」が含まれていた。

ボーイングは、同機の性能を鑑みてプライベート機として「737BBJ」を計画しており、全日空はこの「BBJ」をベースにした「700ER」を発注したのである。

同機は完全な特別仕様で、経済発展の著しかった東南アジア・インド方面へのビジネスマンを対象とした「オールビジネスクラス」であった。

最初に導入した「JA10AN」は、ビジネスクラスの他に「エコノミーBJ」と名付けた新規格のクラス(現在のプレミアム・エコノミーに相当)の2クラスで、座席数は僅か48席。

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1-1-1-1B B737-700ER ANA(JA10AN).jpg ↑(2枚)世界初となった全日空の「700ER」初号機、「JA10AN」。キャビンはビジネスクラスと、同機専用の「エコノミーBJ」の2クラスで、座席数は48席。需要が高まっていたアジア方面のビジネス客専用機として「ANAビジネスジェット」の名付けられた。生産数は僅か2機の「激レア」機種であった(ウィキペディア英語版より)

当初はビジネス需要の多い中国線に投入されたが、それでも3~4時間と日本のB737では最長距離・時間の定期便であった。

やや間を置いて導入された2号機「JA13AN」は、2クラス制ではなく本当の意味で「オールビジネスクラス」だけで、座席数は36席だった。

この機体は東京~ムンバイ間に投入され、その飛行距離は約6,700キロ。時間にして9~10時間と言う、定期便の双発ナローボディ機としての記録を樹立した。

実はこの2機、1,000機以上生産された700型では唯一「ER」として登録された機体であるが、中身は若干異っていた。

真の意味での「700ER」は、2号機である「JA13AN」の方で、この機体は主翼の一部と胴体の貨物室を燃料タンクが追加された構造を持ち、航続距離は何と10,200キロもあった。

1-1-1-1B B737-700ER ANA-JA13AN.jpg ↑外観こそ「JA10AN」と同じ、2号機の「JA13AN」。補助燃料タンクを装備し、最大航続距離は約10,200キロにも及び、これはB767-300ERやB777通常型、B747クラシックに相当する。本来の意味での「700ER」はこの2号機だった。キャビンも1号機とは異なっていて、オールビジネスクラス38席と言う豪華仕様だった。東京~ムンバイ線に投入され、B737の定期便としては世界最長距離を誇った。しかし路線の需要が急増したと言う理由で、B767に変更。同機の活躍は数年間だけだった(ウィキペディア英語版より)

一方初号機の「JA10AN」に増加燃料タンクはなく、燃料積載量は通常の700型と同じだった。

ただ長距離運用を考慮して、脚や主翼桁の一部が強化されていたり、水タンクの容量が増やされており機体重量は設計値最大で運航できるようになっていたため「ER」となっていた。

1-1-1-1B B737-700ER_ANA JA10AN.jpg ↑通常塗装になったB737-700ER。機材変更後、2機の700ERは塗装だけでなく、キャビンも通常型と同じレイアウトに変更され、700型と混用された。しかし機体重量がやや重い事などから他の機体よりも早く、16年に退役した(ウィキペディア英語版より)

2機の700ERの運用は世界でも注目され、現在に至るまで700型最大のユーザーであるアメリカのサウスウエスト航空とアロハ航空は、全日空の様子を見たうえで西海岸~ホノルル間の直行便に700型を投入。同社初のハワイ線を開設している。

双発機の洋上飛行規制「ETOPS」が緩和された事もあり、欧米ではナローボディ機B757での大西洋横断路線や5~6,000キロ程度の路線でも運航されていた。

座席数が供給過多にならず、運航コストの安い双発ナローボディ機での長距離運用は現実味を帯びてはいたが、それはワイドボディ機並みの飛行性能を持つB757ならではの事と考えられていた。

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1-1-1-1B B737-760,_Ethiopian_Airlines.jpg ↑(2枚)TAAGアンゴラ航空と、エチオピア航空のB737-700.いずれも現役(ウィキペディア英語版より)

しかし「短距離機」であったはずのB737が、700型によってB757やワイドボディ機でもあるB767と同じ路線で運用できる事に、多くのエアラインはそれまでの概念を変えざるを得なくなったのである。

最もライバル・エアバスのA319も、大西洋横断路線での運航を開始しており、B737による完全なアドバンテージとはならなかったが、知名度と言う点ではまだ737の方が上であり、「737NG」の名声を押し上げる事になるのである。

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1-1-1-1B B737-700 AIR ZENA-4L-TGM.jpg ↑(2枚)中央アジアトルクメニスタンのフラッグキャリア、トルクメニスタン航空とカフカス諸国、ジョージア、エア・ゼナのB737-700.いずれも機数は少ないが現役にある(ウィキペディア英語版より)

もちろん従来の短距離路線では、持ち前の経済性・安全性で高い運航率を維持した他、「クラシック」に比べて燃費も良く利益を向上させたが、それまで不可能とされて来た3~5,000キロ前後の中距離路線では、より実力を発揮したのである。

またこうした新しい性能によって、派生形も生み出した。

全日空の「700ER」は、元々計画されていたプライベート機・ビジネス機から派生したもので、「BBJ(ボーイング・ビジネス・ジェット)」と名付けられた。

同機の航続距離も10,000キロに達しており、企業向けと言うよりも政府専用機などのVIP輸送機として受注している。

1-1-1-1B B737-7Z5_BBJ_ABUDABI.jpg ↑プライベート・VIP機として開発された700型ベースの「737BBJ」。画像はUAEアブダビ王室専用機(ウィキペディア英語版より)

この他通常の700型とほぼ同じ軍用輸送機、そして胴体上部に大型のレーダーを装着した早期警戒機「B737AEW&C」も生産されており、融通性の高い機種として証明されている。

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1-1-1-1B B737-700  C-40B U.S._Air_Force,_05-0932,BBJ.jpg ↑(2枚)軍用型B737-700であるアメリカ海軍のC-40Aと空軍のC-40B。A型のベースは通常の700型で、主に人員輸送に使われている。一方空軍のB型のベースは「BBJ」で、塗装を見ればわかる通り運用こそ空軍だが、政府専用機・VIP輸送機として使われている(ウィキペディア英語版より)

だが旅客機としては、胴体を延長した800型の生産が開始されると、多くのエアラインはそちらに目が向き、メインモデルの称号は800型に奪われてしまった。

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1-1-1-1B B737AEW&C ROKAF.jpg ↑(5枚)700型をベースに開発された早期警戒機「737AEW&C」。胴体上に長方形の大型走査レーダーを装備しているのが特徴。このレーダーは最大で800キロの走査能力を持ち、陸上・海上の目標物を追跡できるルックダウン能力を持つ。ただしE-3AやE-767の様な円形で回転する全周レーダーではないので、レーダーの走査角度には制限がある。上3枚は最初に同機を配備したオーストラリア空軍機で、3枚目のように空中給油能力を持つ。4枚目はトルコ空軍、5枚目が韓国空軍機。能力はやや限定的であるものの、機体価格や維持費が比較的安価で済むことから、複数の国が導入を検討している(ウィキペディア英語版より))

700型は1,128機が生産され、貨客両用型の「700C」が22機、「BBJ」が121機、AEW&Cが17機生産された。

旅客機としての生産は「MAX」に移行したため、実質上中止されたが、BBJと早期警戒機や軍用輸送機は若干の受注残があり、全体としての生産は継続されている。

これは800型の哨戒機「P-8A」と同じく、700型も生産ラインが維持されていると言う事だ。

BBJは800・900型にも存在するが、メインは700型だ。

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1-1-1-1B B737-700 ALASKA N626AS.jpg ↑(2枚)700型から900型まで運用する、737NGのヘビーユーザー・アラスカ航空。その多くは800・900ERで700型は少数派。一部の機体は改造して貨物機として運用しており、同社は世界で唯一改造貨物機「700SF」(下)を保有している(ウィキペディア英語版より)

生産数としては決して少なくないが、800型が5,000機近くと言う未曽有の生産数を達成したことで、700型はその約1/4程度と完全に「陰」の存在になってしまっているのは明らかだ。

1世代前のワイドボディ多発機並みの航続距離を有した700型は、出現当時こそ脚光を浴びたが、やがて「理想と現実」に引き離されることになる。

世界のエアラインはまだ、そこまで徹底したコストセーブ・ダウンサイジングに固執する程ではなく、むしろ経済性をより引き出せる座席数の多い800型を選んだ。

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1-1-1-1B B737-732,_Delta_Air_Lines.jpg ↑(3枚)意外にもアメリカのメジャーで700型は少数派。ユナイテッド航空の機体は、統合前のコンチネンタル航空が導入した機体。下はデルタ航空の700型(ウィキペディア英語版より)

800型の航続距離は約5,300キロだが、ナローボディ機として充分過ぎる値であり、座席数が遥かに多い800型の方が多目的性に優れていると判断されたのである。

700型はサウスウエスト航空がローンチカスタマーだったが、現在も同社が最大のユーザーだ。

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1-1-1-1B B737-700 TAROM -YR-BGI.jpg ↑(2枚)SASとタロム・ルーマニア航空の700型。前者は統合したノルウェー、ブラーゼンス航空が導入した機体。タロム航空機は800型とともに、同社のフラッグシップ機として活躍している(ウィキペディア英語版より)

新造機として400機以上と言うけた外れの700型を導入し、現時点でも約500機を保有する「バケモノ」的700型ユーザー。

生産停止後も、世界から放出された700型をかき集めてまで勢力を維持している。

ただし世代交代の日はそう遠くない将来に控えており、同社は「MAX」への更新を予定している。

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1-1-1-1B B737-700 EASYJET G-EZKF.jpg ↑(2枚)ヨーロッパで最も多く700型を導入したドイツのLCCエア・ベルリンと、イギリスのLCCイージージェット。前者は40機以上を運用したが、A320シリーズに変更し、700型はチャーターエアライン「TUI」に売却された。同社は17年に倒産した。イージージェットも現在はA320シリーズに交替している(ウィキペディア英語版より)

現在「MAX8」を保有しているが、最近「MAX7」の導入も開始され、200機を発注している。

1,128機のうち、半数近くがサウスウエスト航空機であり、同社のある意味「異常さ」を感じる半面、世界的には意外と「ウケなかった」と言っても良いかも知れない。

同社以外でも600機前後が売れているが、B737と言う機種である事、そして後からデビューした800型の快進撃と比べると「ハズレ玉」感が強い。

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1-1-1-1B B737-700 Xiamen_Airlines.jpg ↑(2枚)中国国際航空と履門(アモイ)航空のB737-700。中国では複数のエアラインが700型を導入したが、その後800型に変更する例が多く、相対的な数は少ない(ウィキペディア英語版より)

事実737NGの魅力で700型を発注し運用したエアライン数は100社以上に上ったが、多くが後に800型やA320シリーズに変更する例が見られる。

その為現役機の数は減りつつあり、ますます目立たない存在になっているが、それでも800機以上が現役にあると思われる。

17年には「MAX7」の原形機が初飛行し、サウスウエスト航空が200機と大量発注して正式にローンチ。

これまでに280機以上の受注を得ている。

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1-1-1-1B B737_Max7_N720IS.jpg ↑(2枚)最近生産が開始されたB737-MAX7(ウィキペディア英語版より)

140席級と言うのがいささか中途半端で、人気がなかった700型であるが、実際にはそのパフォーマンスは卓越していた。

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1-1-1-1B B737-781_AIR DO JA16AN.jpg ↑(2枚)現在日本で唯一B737-700を運用するエア・ドゥ。8機保有し、自社路線の他全日空とのコードシェア便として西日本まで幅広く運用されている。同機は全て全日空からのリース機であるが、同社から退役したことで「供給元」が途絶えた形になっている。機体寿命はまだ残っているが、少なくとも数年以内に後継機種の選定が迫っている。一方で800型を運用するソラシード・エアとの経営統合が決定しており、800型に変更するのか、中古の700型を探すのか、それとも「MAX」シリーズにするのか、去就が注目される(ウィキペディア英語版より)

800型に見慣れていると、いかにも小さく昔ながらの短距離機に見えてしまうが、先に書いたように737NGシリーズ中最も航続距離が長いモデルであった。

乗客にとっては賛否両論だろうが、エアラインには激変著しい時代にあってそれに耐えうる性能を持つ機体だったのである。

現在日本では、エア・ドゥだけが700型のユーザーで、その数は8機。

日本の737の中で、同機は最小の勢力であり、「レア機」になりつつある。

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1-1-1-1B B737-700 WESTJET C-GWCN.jpg ↑(4枚)現役にあるASLエアラインズ・フランスと、中米パナマのコパ航空、南米ボリビアのBoA、カナダ第二のエアライン、ウエストジェットが保有する700型。ASLエアラインズは、アイルランドに本社を多く貨物エアラインで、ヨーロッパ各地やトルコにも拠点を持つ。同機は中古で導入した通常の700型だが、「貨物機」として運用している。その多くは郵便物や小口宅配貨物なので、機体は無改造のまま使用しており、キャビンは座席を一部撤去しただけの「簡易貨物機」として使っている(ウィキペディア英語版より)

世界でも年々数は減少しつつあり、機体規模から貨物機に転用される事例もまだ少ない。

だが700型は、737の歴史を大きく変えた功績機であった事を忘れてはならないのである。

飛行機ネタ まだまだメインモデルのB737-800(4月3日 晴れ 12℃)

※2日分の日記を掲載します。


◎4月1日 曇り時々晴れ 10℃

気付けば4月、新年度「令和4年度」のスタート。

世の中良くも悪くも変わる事多し、であるが、もちろん私は何の変化もなく、昨日と同じような1日が過ぎるだけだ。

しかし天気は4月と言うには相応しくなく、冬が戻った様な空気が冷たい一日だった。

予報では気温こそ低めながらも「晴れ」だったはずだが、寒気の影響で雲が優勢であった。

日中仕事の都合で市内西部にいたが、昼ごろだっただろうか、強く冷たい風と共に雪が飛んでいた。

4月の雪は決して珍しくないけれど、昨年の仙台は3月31日に桜の「満開宣言」が出されていたから、今年は随分と違う。

肌寒さは週末いっぱい続き、来週は暖かくなるとの見込みだが、雪を見るのは意外でもあった。

一昨日は20℃近くまで暖かくなったから、まさに「三寒四温」と言えるのだが、生身の体は堪らない。

暫くナリを潜めていた鼻も、昨日今日はグズグズしている。

それでも一足先に咲いたヤマザクラや、梅の花が所々で見かけられ、春の到来は間違いないようだ。

子供の頃、春は嫌いではなかったが好きでもなかった。

学校では卒業・進学、そして進級と全員が変化を受ける。

新しい環境はワクワクする半面、どこか不安と緊張も伴っていた。

仲の良かったクラスメートと離れることもあったし、それこそ新しいクラスメートと馴染めるのかと言う不安も大きかった。

最も新しい環境は、1カ月もしないうちに慣れ親しんでしまうものだが、大人になるにつれそれに時間がかかるようになってしまう。

多分大人になってからの変化は、一人だけであることが多いと言う事もあるだろう。

学校では全員が例外なく、平等に変化するけれど、成人になると人それぞれだ。

今日は新社会人の入社式だった会社も多かったであろうが、「同期」は研修中までは一緒でも、それが終われば配属先で「たった一人の新人」になる可能性もある訳で、学生時代よりも大いに戸惑う人はたくさんいるに違いない。



◎4月3日

この週末は天気に恵まれた。

欲を言えば、もう少し暖かければ・・と思うが、お出かけには充分な好天だっただろう。

ただ空気も乾燥していて、花粉症の人は青空を手放しで喜べないかも。

それに相変わらずコロナが収まらず、新規感染者は高止まり状態が続く。

メディアでは幅は小さいながらも増加傾向にあると言うが、「まん防」の全面解除が影響していることは確実だろう。

折しも春休みを迎え、関東以西では桜も見頃。

加えて人の移動が増える時期であり、感染拡大は当然と言えば当然であろう。

私が見た範囲でも、街での人出は特別多いとは思わないものの、控えめと言う感じでもないのが分かる。

世間はウクライナ問題で大騒ぎで、どこかコロナ禍が置き忘れられている様な気がしないでもない。

近所の桜並木を見たら、つぼみが膨らんでおり開花準備は順調のようだった。

今年は各地で、感染対策をしつつお花見イベントも復活するらしいから、感染者数と言う点では今後も高止まり状態が続くのではないか。

でも2年連続で「自粛」だったから、今年は予防対策を意識しつつ春を愛でたいと言う気持ちは否定できまい。

さすがに通常のお花見は控えた方が良いと思うけれど、「そぞろ歩き」で春を味わう事はしたいと思う。




いつしか夜の寒さも薄らいでいる。

先週やっと冬物上着を止めて、春物に着替えたのだけど、特に寒さは感じない。

微妙な感じではあるけれど、身体を春モードに合わせることも必要だ。

仙台の桜の開花予想日は8日で、最初の5日よりも3日遅くなった。

週末は20℃前後の暖かさになりそうなので、満開は間に合わないかもしれないがほころび始めた花を見ることは出来そう。

今週は学校の入学式が多いそうで、世間全体が春ムードだ。

この冬は結構寒い冬だったので、春の暖かさが待ち遠しい。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

いよいよ4月、新年度を迎えました。

新しい生活が始まると言う人も多い中、君はどんな春を迎えたのでしょう。

特に変化なし・・と言うかも知れませんが、それはそれで良いでしょう。

この冬は寒かった事もあって、暖かな春は待ち遠しかったと思います。

街でも早咲きの桜や梅、ヤマザクラが咲き始めており、君も花の季節を実感した事と思います。

一方で朝晩と日中の気温差が大きくなっていますので、体調管理には充分気を付けて下さい。

この春が、君にとって嬉しい季節となりますように。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



鶯の 春になるらし 春日山 かすみたなびく 夜目に見れども(万葉集巻十 1845 春雑歌)






飛行機ネタ。

3月21日、中国・昆明から広州に向かっていた中国東方航空5735便が、巡航中墜落。

乗員乗客合わせて132名全員が死亡するとういう、重大事故が発生した。

墜落現場は山深い場所で、先日ようやくブラックボックスが発見されて、現在事故原因を究明中だ。

報道によると、事故機は高度約9,600メートル付近を飛行していたが、突如殆ど垂直に近い姿勢で墜落したと言う。

事故直前まで、管制とパイロットの交信で異常は見られず、突発的な「何か」が起きて墜落したとみられる。

目撃情報は錯そうしており、機体が左右に揺れた後墜落したとか、後部から煙を吐いていたと言う情報が寄せられた他、まるでロケットの様な形で堕ちて行く動画もSNSで公開されている。

中国航空局は現在原因を調査中としているが、お国柄「隠ぺい」するのではないか、と言う見かたも強い。

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1-1-1-1A B737-89P_China_Eastern_Airlines_(Orange_Yunnan_Peacock)B-1791.jpg ↑(3枚)中国東方航空のB737-800。上は旧塗装、中は現行塗装。下は3月21日に事故を起こした「B-1791」(ウィキペディア英語版より)

ただ事故の状況だけ見ると、順調に飛行していたのに突然垂直降下しているのは、尋常ではない事は確かだ。

筆者には無責任な憶測しかできないが、ありがちなエンジントラブルとは考えにくい。

仮にエンジンが全て停止してしまったとしても、高高度を巡航中ならば「滑降」できるはずだ。

実際そうした事態に備えた設計が施されており、パイロットも常時訓練している。

状況にもよるが、100~200キロ程度の滑空は可能であり、機体には緊急用のラムエアタービンと言う風力発電装置が供えられており、無線や最低限の機体操作が出来るようになっている。

故に突如エンジンが故障して墜落したとは考えにくく、ある意味不可解な事故と言える。

事故を起こした機体はB737-800で、生産されて約15年程度と決して新しくはないが、老朽機と言うほどでもない。

同機は「737NG」として開発された一連のシリーズの1種で、同シリーズのメインモデルでもある。

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1-1-1-50 B737-800_ANA JA80AN.jpg ↑(3枚)全日空のB737-800。現在39機保有し、ローカル線から幹線まで幅広く運用される(ウィキペディア英語版より)

全長は約39.5メートル、最大座席数は約190席。

原形機は94年に初飛行し、98年からローンチカスタマーであったドイツのチャーターエアライン「ハパグ・ロイド」で初就航した。

800型は、当初NGシリーズ最大の機種で、前身となる「737クラシック」で最大のモデル、400型の後継機種して開発された。

B737は60年代に「短距離用」旅客機として開発されて以来、最初期の100型からスタートして200~500型と5種類のバージョンを展開していた。

長年200型だけの単一モデルだったが、80年代に大幅に改良した300~500型が開発され、初めて座席数の違いによるバリエーション展開を行った。

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1-1-1-1A B737-86N_SKYMARK JA73NJ.jpg ↑(2枚)日本で最初にB737-800を導入・就航させたのは、新興エアラインだったスカイマーク・エアラインズ。リース機で導入した機体は初期生産型で、翼端のウイングレットがない(上)。ウイングレットなしの800型を運用したのは同社だけ(ウィキペディア英語版より)

当時B737のライバルは、マクドネル・ダグラスのDC-9/MD-80シリーズであった。

同シリーズは需要の増加とともに、胴体をどんどん延長しバリエーションが多彩であった。

初期のDC-9は座席数が100席以下と、現在で言えばリージョナル機並みであったが、70年代末にデビューした80シリーズ、名称を変更したMD-80シリーズになると160~170席級まで大型化していた。

ただ座席数のバリエーションは同時生産・販売しておらず、航続距離やエンジンの違いのバリエーションだけであった。

そこでボーイングは、生産コストが上昇しても、ユーザーに選択肢を与える座席数のバリエーション展開を新型で導入することにした。

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1-1-1-1A B737-846_JAL JA326J.jpg ↑(4枚)スカイマークに続きB737-800を98年から導入した日本航空。当初はアーク塗装だった。同社は国内線と国際線双方で運用しており、キャビンの仕様も複数存在する。00年代には国内線は子会社JALエクスプレスに移籍した機体が増えた。現在JALエクスプレスは日本航空に統合され、全機が日本航空塗装になっている。同社は最大50機を導入し(現在は48機)、国内線の他、アジア線を中心とした近距離国際線の主力機材としても活躍している。導入から四半世紀近く経つが、今のところ後継機種は決まっていない(ウィキペディア英語版より)

またエンジンも、小型ナローボディ機としては初めて大口径ターボファンエンジンを採用することで、低燃費・低公害も実現させた。

こうして登場したのが300~500型の「737クラシック」で、文字通りベストセラーを記録することになる。

300型は200型よりやや大きめ、400型は標準座席数が150席と737最大となり、少し遅れて登場した500型は200型とほぼ同サイズとして、エアラインの需要に細かく対応できるようになった。

エンジンを筆頭に大幅な改良が加えられた事で、200型の「短距離旅客機」と言うカテゴリーはぼやけたものになっていった。

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1-1-1-1A B737-800_JTA JA10RK.jpg ↑(3枚)前3社に続き、国内エアラインでは800型の導入が続いた。ソラシード・エアは、日本航空の400型をリースしていたが、自社発注で800型に切り替えた。春秋航空日本(現スプリング・エアラインズ)は、日本初の中国系LCCで、本社はA320シリーズを運用しているが、日本では737のパイロットが多いと言う理由で800型を導入した。現時点で日本のLCCで唯一同機を使うエアラインだ。日本航空グループの日本トランスオーシャン航空は、日本で「最も新しい737NGユーザー」。発注から納入完了まで長期に渡ったため、ボーイングはオプションとして「737MAX」に変えられる条件を付けていたが、全機800型で受領した。国内では全日空が737MAXを発注しているが、それ以外のエアラインでの発注はまだない(ウィキペディア英語版より)

航続距離が2,000キロ程度だったものが、倍の4,000キロ程度まで延長されたことで中距離路線での運用も可能であった。

デビュー時は、737が中距離路線を飛ぶことに世間はまだ懐疑的な部分も強かったが、運航コストが大幅に削減できる事、エンジンの低騒音化でキャビンの快適性も向上したことから、3~4時間の路線に投入するエアラインも増えて行った。

ライバルDC-9/MD-80シリーズを大きく引き離す事が出来た737クラシックだったが、その栄光は意外と短かった。

それは90年代初頭にデビューした「A320」シリーズであった。

同機はエアバス初のナローボディ機であったが、操縦システムは完全にデジタル化されたフライ・バイ・ワイヤ機として開発されていた。

同じナローボディ機ながら、胴体全体は737よりもやや大きく、断面形も737が「卵型」であったのに対して、A320はほぼ真円に近い形状を持っていた。

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1-1-1-1A B737-800 American_Airlines N991AN.jpg ↑アメリカで800型を最大保有するアメリカン航空。その数は実に300機を超える。国内線だけでなく、近距離国際線にも投入されるが、エアバス機の導入も進んでいる(ウィキペディア英語版より)

これは胴体下部の容積を多く取るための措置で、それは貨物室・燃料タンクを大きく出来るメリットを持ち合わせていた。

またオールデジタルのシステムは、安全性と経済性を両立させており、技術と言う点で737を一気に引き離す存在であった。

唯一アドバンテージであったのは、エアバス初のナローボディ機と言う事で、セールスを含み信頼性と言う点が不安材料だった。

エアバスは航空ショーだけでなく、デモンストレーションとして原形機を世界に飛ばして派手な宣伝を行ってアピールした。

更に東欧民主化に始まる東西冷戦の終結、ソ連の崩壊により、旧東側諸国がこぞって西側製の機体を求めていた。

しかしアメリカはまだ、これらの国々に対して輸出規制を緩和しておらず、エアバスはそこに目を付けてある意味なりふり構わずセールスを展開し受注数を伸ばしていた。

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1-1-1-1A B737-8AS,_Ryanair.jpg ↑(2枚)B737-800を最も多く保有するのは、アイルランドのSLCC(超格安航空)のライアン・エア。徹底的なコストセーブで有名で、キャビンもシートはリクライニングなし、緊急用のセーフシートはシートカバーに印刷、あちこち広告だらけ。1グラムたりとも妥協を許さず、荷物の超過料金を接収するなど、超格安の裏には悪評判も多い。本国アイルランドの他、イギリスやポーランドなどに現地法人を持つほか、同社ブランドで運航を委託するエアラインもあり、グループ全体での保有数は実に500機。全て800型で統一されているが、後継機種として「MAX」が選定されている。同社はヨーロッパ域内全体に路線を持ち、アイルランド発着の路線よりも、外国同士の路線の方が遥かに多い(ウィキペディア英語版より)

基本型となるA320の最大座席数は180席であり、この時点でB737の上を行っており、最小のA318から最大も321まで実に4種のバリエーションを展開させたのである。

デビューして10年も経たないうちに、B737は旧式化してしまい、文字通り「クラシック」になってしまった。

ただ長年の蓄積、比較的安価だった事もあってA320が登場した後も受注は続いたが、先細りは確実であった。

しかしこの時点でボーイングは、737の発展型のビジョンは不明確であった。

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1-1-1-1A B737-800 UP-4X-EKU.jpg ↑(3枚)イスラエルのフラッグキャリア、エルアル航空と傘下のLCC「UP」のB737-800。UPの機体はエルアル航空のものだが、業績が伸びなかったため短期間で運航を終了。機材はエルアル航空に戻っている。2クラス制で主にヨーロッパ線の主力として運用されている(ウィキペディア英語版より)

90年代は世相が激変し、燃料価格の高騰など先の読めない経済時代に突入しており、今後どういう旅客機に需要が生まれるのか予想がつきにくかったからであった。

最初は懐疑的に見られていたA320は、順調にセールスを伸ばしていた。

何よりも「処女作」である以上、ライバルとなるB737を徹底的に研究してからの機体だったからだ。

B737の胴体は、50年代に開発されたボーイング初のジェット旅客機「B707」のデザイン意匠を受け継いでいる。

これは「中距離機」だったB727でも採用され、そのサイズは現代までナローボディの基準となっているものである。

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1-1-1-1A B737-800-Delta_Air_Lines,_N377DA.jpg ↑(3枚)アメリカメジャーの多くが800型を大量に導入した。コンチネンタル航空機はユナイテッド航空と統合後も、引き続き運用され現在約140機保有する。コンチネンタル時代は、日本~ミクロネシア線でも運航された。デルタ航空は現在75機の800型を保有するが、エアバス機が優勢である(ウィキペディア英語版より)

B737も同じ意匠を継承することで、開発コストの大幅削減を実現していた故、安価かつ堅牢な機体としてベストセラーになったと言えた。

だがキャビンサイズこそ殆ど同じながらも、A320は大きかった。

キャビンの座席レイアウトは3-3の6列が同じであるが、全体の幅は数センチではあるがA320の方が大きい。

燃料搭載量が多く、航続距離も5,000キロを超える事でもはや短距離機・中距離機と言う概念は消滅したのである。

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1-1-1-1A B737-800 STERLING-OY-SEM.jpg ↑(4枚)現在のフジ・ドリーム・エアラインズのように、1機ずつ違うカラーを施したデンマークのチャーターエアライン、スターリング・ヨーロピアン航空。同社はチャーター運航のほか、他社の運航を受託するウェットリースなども行っていたが、00年代に運航を停止した。胴体全てだけでなく、エンジンナセルまで同色にするという徹底ぶりはファンの注目を浴びた。特に赤は目がチカチカしてくるほど鮮烈な赤。デンマークのエアラインは、おもちゃの様な配色を施すエアラインが多い(ウィキペディア英語版より)

しかし737クラシックは、基本的に「短距離機」としての設計思想で作られており、柔軟な運用性と言う点では明らかにA320に劣っていた。

だがA320を意識して、全く新規の設計にすることは多額の費用が必要なだけでなく、セールスが果たしてうまくいくかどうか未知数な部分が大きく、ボーイングは決定づけることが出来ない状態にあった。

結果としてリスクを回避することが優先され、これまでの737の改良・発展型として新しく開発することが決定され、新規格のナローボディ機実現はならなかった。

実際には社内では、新規格機に根強い支持があったと言うが、「737クラシック」の後継機・更新機材として需要が見込める発展型の道を選んだ訳だ。

それが「次世代737」と呼ばれるシリーズで、クラシックと違い最初から「大・中・小」の3つのモデルを作る事にした。

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1-1-1-1A B737-800 GOL PR-GYC.png ↑(2枚)南米アルゼンチンのフラッグキャリア、アルゼンチン航空と、ブラジル最大のLCC「GOL」の800型。GOLの800型は、首都ブラジリアとアメリカ、フロリダ州オーランドを結ぶ路線で運航され、その距離約6,000キロは、定期便の800型としては世界最長距離を飛ぶ(ウィキペディア英語版より)

最初にデビューしたのは基本型となる「700」型で、140席級のモデル。「クラシック」では最も多く生産された300型に対応するタイプで97年、アメリカのサウスウエスト航空で初就航した。

翌98年には、「小」モデルでクラシックでは500型に対応し、200型にも対応する120席級の600型と、400型に対応する800型が登場した。

開発順から見ても、本来ボーイングでは700型をメインに置いていたことが窺え、事実ローンチカスタマーのサウスウエスト航空はいきなり150機以上の700型を発注し、現在まで主力機として運用を続けている。同機の生産中止後も、中古機で700型を買い集めのべ400機近くの700型を運用している。

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1-1-1-1A B737-800 ALASKA N577AS.jpg ↑(2枚)アラスカ航空の800型。同社は900ERの方が多いと言う珍しいエアライン。また翼端のウイングレットは、下方にも小さな翼を追加した「スプリット・シミタール・ウイングレット」に変更しており、ユナイテッド航空などでも改修機が多い。アラスカ航空は後継機種として「MAX9」の導入を開始した他、統合したヴァージン・アメリカのA321neoも保有しており、A321neoLRも発注している。その為800型は900ERよりも先に退役すると思われる(ウィキペディア英語版より)

だがいざ販売を開始すると、最初こそ700型の受注が多かったが間もなく伸び悩むようになり、受注は最大モデルであった800型に集中した。

ボーイングにとっては嬉しい誤算であっただろうか、それともこの期に及んでも予測が甘かったと言う事なのだろうか。

800型は、700型の胴体を約6メートル延長したタイプで、歴代737では最大の大きさであった(更に大型化した900は01年にデビュー)。

標準座席数は180席で、これはかつての長距離用4発機B707に迫る座席数である。

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1-1-1-1A B737-800 HAINAN-B-5478.jpg ↑(3枚)中国国際航空、中国南方航空、海南航空のB737-800。国別での保有数は中国もトップクラスで、最も多くの800型を保有するのは中国南方航空。他の2社も100機以上を保有し、中国国内では800機近い800型が運用されており、日本線でも馴染みである事が多い(ウィキペディア英語版より)

80年代に開発されたB757が200席級だったから、それに次ぐ大きさの機体となった。

これでボーイングの双発ナローボディ機は、120席級の600型、140席級の700型、180席級の800型、そして200席級のB757とラインナップが揃った事になった。

運用面ではB757は全くの別機種ではあったが、A320に対抗出来得る「品ぞろえ」が出来た事になるのである。

だが当初800型は「大きすぎる」のではないか、と言う見方も多かった。

しかしA320は180席級、A321は200席級である事に加え、世相は経済的なナローボディ機での運航が増えており、格安航空会社も徐々に増加しつつあった。

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1-1-1-1A B737-800 -Air-albania TC-JZG.jpg ↑(4枚)東欧系エアラインでも800型の人気は高い、東欧で最初に800型を導入したのはLOTポーランド航空。2枚目はルーマニアのフラッグキャリア、タロム航空。同社は700型も保有しており、機体の塗装は何処かLOTと似ている。3枚目はチェコを本拠とするLCC、スマートウイングス。ロシアには同じLCCとして「スマート・アヴィア」があるが別会社。そしてスマート・ウイングスにはロシアの現地法人があるからややこしい。下はヨーロッパでもっとも新しい800型のユーザー、エア・アルバニア。18年から運航を開始したアルバニアのエアライン。トルコのターキッシュ・エアラインズの系列会社で、同機もターキッシュ・エアラインズの機体で、登録はトルコ籍のままだ(ウィキペディア英語版より)

モノクラスで180席は、このクラスの機体としては最大値である。

これは機体の乗降口・非常口の大きさや数によって設定される国際基準で(正確には189席)、800型は同シリーズとしては事実上最大の座席数である。

A321やB757だと、前方左側の乗降口に加え、その後ろ側に№.2ドアが設置されているため200席が可能だ。

しかしB737-800では構造上、このドアを設置する余裕がないので180席が標準最大値となる(因みに800型の後に登場した900型でも、ドアの関係上座席数は制限されている)。

それでも180席あれば、1席当たりの単価を抑える事が出来、搭乗率も上昇する。

いわば「薄利多売」の様な論理であるが、新しいエアライン事情の画期的な出来事だったと言える。

最初にやってのけたのはA320だったが、B737も同格に追いついたことでナローボディ機全盛時代が幕開けしたと言える。

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1-1-1-1A B737-800 Corendon_Airlines,_TC-TJS.jpg ↑(3枚)ターキッシュ・エアラインズ、アナドル・ジェット、コレンドン航空のB737-800。今や世界中に路線網を拡大させるトルコのエアラインも、同機を多数運航している。近年はA320シリーズも増加し、激しい販売競争の舞台と化している。アナドルジェットはターキッシュ・エアラインズのチャーター部門として設立されたが、現在は同社便として定期運航を行っている。コレンドン航空も元々はチャーターエアラインだったが、現在はLCCとして定期運航を行っている。このほかトルコ第二のエアライン、ペガサス航空も800型のヘビーユーザーだ(ウィキペディア英語版より)

737NGのコンセプトは、「オリジナル」「クラシック」の後継機種と言う位置づけだったが、800型の登場でこれまで同機の運用歴のないエアラインも発注に動き、新たな市場を開拓することになったのである。

日本では07年に全日空(運航はエアー・ニッポンが担当)が初めて700型を導入し、737NG時代の幕を切った。

続いて08年にはスカイマーク、日本航空がそれぞれ800型の導入を開始いたが、全日空も800型の汎用性が優れていると判断し、発注していた残り分の700型を800型に切り替えると言う事態を起こしている。

140席級の700型は、航続距離と言う点では800型より優れていたが、運航上の融通性では800型の方が上と判断されたのである。

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1-1-1-1A B737-800 FlyDubai,_A6-FEY.jpg ↑(2枚)中央アジア・タジキスタン、サモン・エアと、UAEドバイのLCC、フライ・ドバイのB737-800(ウィキペディア英語版より)

「クラシック」と比べて、「NG」の改良点は多岐にわたる。

外観上では胴体の長さの他、それに合わせて水平・垂直尾翼と、ラダー(方向舵)・エレベーター(昇降舵)の面積が拡大された。

主翼も形状・材質が見直され、フラップの形状も変更された。

翼幅はやや伸ばされただけだったが、生産開始直後にオプションとしてウイングレットの装着が可能となり、さらに長さが延長している。

尚このウイングレットは00年以降の生産機では、ほぼ全機が装着されており、初期製造機へのレトロフィットも可能である。

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1-1-1-1A B737-800 JET.2 G-JZHV.jpg ↑(2枚)ヨーロッパでは「地元産」のA320シリーズと拮抗しているが、B737はLCCでの運用が目立つ。上はノルウェーを本拠とするノルウェイジャン、下はイギリスのLCC、JET2の800型(ウィキペディア英語版より)

重量が軽減された分、機体総重量が引き上げる事が出来るようになり、燃料タンクが大型化されている。

コクピットはB777と同じタイプが採用され、737では初めて完全なLCD画面のグラスコクピットになった。

同時に操縦システムやエンジン関係システムも殆どデジタル化され、経済性が飛躍的に向上している。

意外と知られていないが、本来コクピットの形式が変わってしまうとパイロットのライセンスは新たに設ける必要があるが、737NGでは「クラシック」との共通化が図られている。

1-1-1-1A B737-800_Flight_Deck.jpg ↑完全なグラスコクピットになった737NG。中央のLCDには「クラシック」のアナログ計器と同じ表示を出す事が出来、ライセンスの共通化を図っている。また737NGでは旅客機として初めてHUDが装備された。HUDは機長席側に付きオプションであるが、後期の生産機では副操縦士席にも装着が可能になった(ウィキペディア英語版より)

これはエンジン関係のディスプレイに、「クラシック」時代と同じ表示が出来るようにしているためだ。

もちろん737NGとしての表示に切り替えることも可能で、パイロットは短期間の移行訓練で操縦資格を取得でき、エアライン側のメリットが大きい。

ただし動翼の作動は、従来型と同じく油圧・電動作動で、フライ・バイ・ワイヤ化は見送られた。

A320に対抗する意味で、フライ・バイ・ワイヤ化は最初から考慮されていたものの、大幅な設計変更が必要で、機体価格が上昇することを抑える事もあって、従来型が踏襲された。

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1-1-1-1A B737-800 SAS_LN-RRG.jpg ↑(2枚)ヨーロッパメジャーでは、意外と採用例が少ないB737-800。その中でKLMとSASは貴重な800型ユーザー。KLMは700型とともに、域内路線の中核を担っている。SASも737NGは600・700・800型を運用した珍しいエアラインだが、近年A320シリーズに移行しつつある。800型は全機がノルウェー籍に集約されている(ウィキペディア英語版より)

エンジンは「クラシック」と同じ、CFM-56系だが、発展型である「CFM-56-7B」に換装された。

「クラシック」では、同エンジンを搭載するためにエンジン自体を大きく前にせり出させ、やや持ちあげて取り付けると言うかなり無理な方法を取っていた。

これも大幅な設計変更を嫌ってのことで、元々短距離機としてローカル空港での運用を考慮した地上高の低い構造からであった。

NGではさすがに無理やり付けることはできず、ついに脚を約20センチ延長させてエンジンと地上のクリアランスを確保している。

実際にはそれでも足りず、「クラシック」ほどではないにせよ、前方にせり出し持ちあげると言う構造は継承された。

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1-1-1-1A B737-800 Virgin_Australia_(VH-YFC).jpg ↑(2枚)カンタス航空とヴァージン・オーストラリアの800型。両社とも70機以上を保有し、国内線と近距離国際線の主力として活躍している。中はレトロ塗装機(ウィキペディア英語版より)

脚の延長は簡単に思えるが、ナローボディ機では収納部も余裕がなく、脚の延長は収納部や周辺まで設計を見直す必要が出てしまうのだ。

特に737の主脚は、収納しても表面がむき出しと言う特殊な形状を持つ。

これは短距離運用で短時間で頻繁に離着陸を繰り返す為、タイヤとブレーキの冷却効果を狙ったものだ。

またカバーが必要ない事は、収納部の小型化・簡略化も出来る。

キャビンも内装材の進化などで、サイズこそ変わらないが若干の拡張など快適性も向上しており、10年代になると照明をLEDに変更し、オーバーヘッドストウェッジを大型化した「ボーイング・スカイインテリア」仕様も追加され、長時間運航に適した改良も加えられた。

それでいて180席も設けることが出来る上、クラシックまで3,000機近く生産されて来た737と言う「ブランド力」があるから売れて当然の様な機体でもあったのである。

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1-1-1-1A B737-800 Sky_Interior_first_cabin.jpg ↑(2枚)従来型のキャビンと、「ボーイング・スカイ・インテリア(BSI)」のキャビン。BSI仕様のキャビンでは、調光可能なLED照明、B777タイプの大型オーバーヘッドストウェッジなどが標準となった(ウィキペディア英語版より)

737NGは、これまで約7,000機も生産されたが、その7割に当たる4,991機が800型だ。

この割合から見ても、同機がいかに人気の機種であったかを物語っている。

800型の航続距離は最大で約5,600キロ。これは東京~シンガポール間に相当し、「クラシック」までの短距離機と言うスタイルは完全に消滅した。

これはエアラインに運用の効率化と利益率の向上効果をもたらし、国際線での運航はもはや珍しくなくなったのである。

しかしそうした柔軟な運用が増えるにつれ、最大のライバルであるA320と比較されることも多くなった。

中距離運用では、性能的に互角であるが、飛行時間が数時間に及ぶ長距離運用となるとB737はやや性能不足であった。

それは機体全体の余裕がなかったことだ。

1-1-1-1A B737-800 Spicejet.jpg ↑インドのLCC、スパイス・ジェットの800型。インドのLCCはA320シリーズが多い中、同社のB737は目立つ存在(ウィキペディア英語版より)

先に書いたように、歴代B737は一貫して胴体のデザインは一貫している。

そのおかげで開発コストを抑えているだけでなく、長年同シリーズを使って来たエアライン側にも「慣れ」と言うメリットがあった。

だがB707から伝統の胴体は、その開発時期から全体の容積が小さく、特に床下のスペースは60年前の設計思想そのままである。

まだ航空需要は特別な時代で、航空コンテナは存在せず、貨物と言えば郵便物ぐらいだった。

空気抵抗を減らす意味も含め、同機の胴体断面は「逆卵型」をしており、床下貨物室にコンテナを搭載することは出来ない。

A320はそれを踏まえたうえで、胴体断面を円形にして貨物室の高さを取っていて、コンテナの搭載が可能だ。

加えてその部分にオプションとして燃料タンクに変えることもできるため、航続距離もB737より長い。

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1-1-1-1A B737-800_Korean_Air_Lines_HL8241.jpg ↑(2枚)美しいブルー系塗装の大韓航空と、ドイツの大手チャーターエアラインTUIフライ。TUIフライは、元ハパグ・ロイドで、800型を最初に就航させたエアライン。大韓航空はアジアでは珍しく900ERを保有することで知られるが、800型は僅か2機と少数派。

長距離運用に加えて、座席数が増えると言う事は、貨物も増えると言う事であり、積載量の少ない737はジレンマになってしまった。

また04年には、人気だった「大型ナローボディ機」のB757の生産を中止したことで、長距離運用に適した機体がボーイングのカタログから消えてしまい、多くの顧客(エアライン)が後継機の選定に迷う事になった。

エアバスは、機体規模が近いA321を改良して航続距離を延長させ、10年代にはエンジンをより経済的なものに換装した「neo」シリーズを発表。

同社はA321及びneoをB757の後継機種になるとして、航続距離延長型の「LR」、そして超長距離型の「XLR」の生産も決定した。

A320は当初から、エンジンの選択制を取っており、B737と同じ「CFM-56」と「V2500」を選べるようになっている他、「neo」でも「PW1100G」と「LEAP-1A」を選択出来る。

一方737は一貫して選択制は取っておらず、CFM-56だけだ。

これは先述したように、構造上同エンジンしか装備できない設計になっているためである。

アドバンテージが大きくなったことで、ボーイングはさらなる発展型「737MAX」に切り替えて、受注も順調だが、就航直後に起きたエチオピア航空とライオン・エアの事故で、全面運航及び生産の一時中止状態となり、その後のコロナ禍が加わって苦戦を強いられている。

1-1-1-1A B737-86N_BCF_(West_Atlantic_UK).jpg ↑ボーイングが開始した貨物機改造プログラムの初号機となったB737-800BCF。イギリスの貨物エアライン、ウエスト・アトランテイック航空に納入された。尚ボーイング以外で改造された貨物機は「SF」と呼ばれる(ウィキペディア英語版より)

現在運航の規制は解除されつつあるが、その間にA320シリーズに追い抜かれた感は否めない。

むしろシンプルで汎用性の高い800型の方が、コロナ禍ではコスト削減に役立つ部分も多く、機数も多いことから今後10年単位での活躍が続くであろう。

特にLCCでは100機単位で運用するエアラインも多く、今なお世界で最も広く・多く使われている旅客機の一つである。

中古機での採用も増えており、現役・退役を含め、800型を運用したエアラインは世界で300社を超える。

生産数が多い事で、中古機の数も多く出回っており、世界的不況に乗じて市場価値は上がっていると言う。

統計を見ると、中国東方航空機を含めて重大事故も多いが、機体そのものの欠陥よりも数が多い故のヒューマンエラーによる事故が大半である。

また「737MAX」で問題になった「ECAS」と呼ばれる姿勢制御装置だが、737NGにも搭載されている。

ただしMAXのそれとは異なる装置で、システムも機構も比較的シンプルなものだ。

1-1-1-1A B737-800BCF China Postal Airlines B-5157.jpg ↑中国郵政航空のB737-800BCF(ウィキペディア英語版より)

737NGでは、機体の大型化・重量化に合わせて主翼・尾翼の大幅な改良が行われており、制御装置の問題は発生していない。

大きく、せり出したエンジンによるバランスの悪さはあるものの、それらの改良で解消されている。

最もA320のようにフライ・バイ・ワイヤ式であれば、MAXの様なトラブルは起こらなかったと思うが。

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1-1-1-1A B737-800BCF Amazon Air(Sun Country Airlines)N7901A.jpg ↑(2枚)需要増を踏まえ、大量増備を計画している通販大手アマゾンが経営するアマゾン・エア(プライム・エア)。今後数十機と改造貨物機を導入すると発表しており、ボーイングと20機以上の契約も交わしている。上は800SFで、ASL航空アイルランドが受託運航し、主にヨーロッパ、北アフリカ・中東方面に投入される。下は800BCFで、アメリカ国内で運用する機体。こちらはサン・カントリー航空が運航を担当する(ウィキペディア英語版より)

近年では中古機を改造した貨物機に注目が集まっており、ボーイングでも改造プログラムを開始した。

コロナ禍で宅配貨物の需要が急騰し、大手通販業者「アマゾン」は20機以上の貨物機導入を決定して話題になった。

この他軍用型として、米海軍が発注した哨戒機「P-8Aポセイドン」は800型をベースとしており、アメリカ以外での採用も増えている。

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1-1-1-1A_P-8A_Poseidon_US_Navy_VX-1.jpg ↑(4枚9B737-800の軍用型である、哨戒機P-8Aポセイドン。4発プロペラ哨戒機P-3オライオンの後継機種として、米海軍が発注した。その後低価格・とり扱いしやすさで採用国数が増えている。2枚目はオーストラリア空軍のP-8A。3枚目は空中給油中の同機。4枚目は下方から見たところで、旅客機殿違いが明確に見てとれる。主翼端はウイングレットではなく、B777やB747-8で採用された「レイクド・ウイングフェンス」に変更。後部貨物室は兵器格納庫となり、画像のように空中で開閉できる。また主翼には対艦ミサイル「ASM-84ハープーン」が搭載されており、旅客機の面影は薄い。同機は現時点で100機以上の受注を抱えており、800型の生産ラインは当面維持されることになっている(ウィキペディア英語版より)

伝統的シンプルさと、現代性を兼ね備えたB737-800。

残念ながら生産は737MAXに移行しつつあるが、P-8の受注が100機以上あるため生産ラインは当面維持されることになっている。

今のところ800型に新規の受注はないものの、世界状況を踏まえ同機の需要は意外と多く、今後どう推移して行くのだろうか。

少なくとも同機の活躍は、まだまだ世界中で見られるはずである。

祥月命日 3月28日 晴れ時々曇り 13℃

春を思わせる青空が美しい。

でも終日風がやや強く、やや冷たい風で暖かさはあまり感じられなかった。

花粉症の人は、症状MAXだったかもしれない。

予報を見ると、明日明後日と晴れて、31日には今年初の「20℃」超えが予想されているが、その後は再び下降を辿り、4月開始となる週末は「一桁」だと言う。

桜前線は関東まで北上しているが、この激しい温度差がどう影響するのか。

仙台の開花予想日は5日。




今日3月28日は母の祥月命日、5回忌を迎えた。

最初の年以降、この日は必ず家にいるようにしていたが、5年目にして初めてそれが叶わなかった。

外部委託の仕事がどうしても今日でなければならず、調整を試みたが駄目だった。

仕事故仕方ないと言われればそれまでなのだけれど、母にはとても申し訳なく思う。

息を引き取った時間も、仕事の手が離せず、何とか手を合わせられたのは昼休みになってからだった。

母が逝って以来、まともに法要をしていない。

していない・・と言うよりも、正直「できない」のだ。

今の私には、連絡をやり取りする友人や知人はおらず、親せきも交流は一切ない。

私一人だけで法要を行っても良いかとも思うが、恥ずかしながらどこでどうやれば良いかもわからないし、いい加減な寺に頼んで宝容量を支払える経済的余裕も、またない。

母には本当に申し訳なく、死んだあとまで親不孝していると思っている。

5年を迎えた今も、母の遺骨は手元にある。

先祖代々の墓はあるが、管理者である親せきとの連絡が取れない。

年に何度か墓参りはしているけれど、その親戚とは30年以上も音信不通で、いつ勝手に「墓仕舞い」されるかわからない。

母を納骨するには、まずはその親戚と連絡を付け、今後の真意を窺わなくてはならない。

管理出来ないようであれば、私が引き継いでも良いと思っているが、現状ではとても母を納骨する気にはなれないのだ。

それに母が「いて」くれたことで、今日を迎えられた・・と思う。

突然母に逝かれて、絶望のどん底に落とされ、私も1年以内に母の元へ行くと思っていた。

だがそんな覚悟をよそに、今日の私は生きている。

振り返ってみれば、この5年間記憶がない。

誤解されそうだけれど、そうとしか思えない程あっという間だったのだ。

そして母と別れて、まだ何月程度しか経っていない気がしてならないのである。

時々母が亡くなったと言うのは「長い夢」で、明日の朝母に叩き起こされるのではないか・・・とさえ思うのだ。

それは「夢」であってほしい・・と言う、叶わぬ「夢」であることも分かっている。

やっと息子として、本当の親孝行ができると実感した直後、ちょっとした風邪を引いた母は、臥せてから僅か3日後突然息を引き取った。

私の人生で、最も残酷で恐ろしくて、そして悲しい瞬間であり、今やトラウマになってしまった。

思い出さないようにしているけれど、ふと頭を過ぎると全身が硬直したようになってしまう。

そうなのだ、意地ばかり張って、最も母を愛する私が、母を死なせたようなものなのだ。

だからあの日以来、母を差し置いて幸せにはなれないだろうし、なってはいけないのだと思っている。

母が親不孝の私を、最終的に見離して、天界に赴いた今でも憎み恨んでいるなら気が楽だ。

母は人を憎んだり恨んだり、心の底から悪口を言う人ではなかった。

これは祖母から受け継いだ生き方で、数十年一緒にいて人の事を悪く言う母を、私は一度もないのである。

故に「お人よし」として損をした事も多かった母だが、それが私最大の誇りである。

万が一、母を侮辱するような者が現れたら、私は例え誰であろうとも、絶対許さないだろう。

幸い、これまでそう言う人物は現れず、今後もきっと現れないだろう。

母を知る人ならば、侮辱する理由が一つもない事を知っているからだ。

当然のことなのだけれど、母がいてくれたから私がいる。

これは、永遠の誇りだと思っている。

5年を経ても、毎日夕食は母と一緒だ。

愛用していた座イスを出して、遺影を置く。

茶碗にご飯を、箸も添えて。

1年のうち、少なくとも夕食は殆ど母と一緒だった。

もちろん仕事の関係などで、一緒に食べれない事はあったけれど、少なくとも私だけ外で済ませる事はなかった。

どんなに遅く帰っても、母の作った食事を食べていたし、起きて待っていてくれて温めなおしてくれた。

それがとてつもなく当たり前の日常で、母がいなくなった後、私は長く生きられないと思った。

でもこうして生きているのは、母が今も家で一緒に過ごしていてくれるからだ・・と確信している。






母ちゃんへ。

あの日から、あっという間に5年経ちました。

良くも悪くも、何も変わっていません。

家もまるであの日からタイムマシンで運ばれたかのように、何も変わっていません。

母ちゃんの服も、時々洗っていつものように畳んで置いています。

玄関には靴と杖も、そのまま。

部屋の「定位置」には、バッグや化粧道具もそのままです。

人のものだと思って!と怒っているかも知れませんが、多少汚れてしまったりしているのは勘弁して下さい。

今日は青空がとても綺麗でした。

でも母ちゃんの事を思い出して、とても悲しくなりました。

命日なのに、何もしてあげられなくてごめんなさい。

あの日も、同じような天気だったような気がします。

今もさっぱり親孝行出来ていないけれど、近いうちに必ずするから、どうか見捨てず傍にいて見守って下さい。

母ちゃんへ、今日もありがとう。

今年も間もなく、通りの桜が咲きます。

あの時は本当に直前で、生まれて初めて桜が嫌いになりました。

でも月日が経って、少しずつ綺麗だし見たいな・・と思うようになっています。

よかったら、今年は一緒に散歩がてら見に行きましょう。


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196.JPG ↑(2枚)毎年欠かさず母と見た、桜並木(仙台市泉区、筆者撮影)

鉄道ネタ 開業40周年と200系(3月26日 曇り一時雨 12℃)

快晴だった昨日とは、真逆の空模様。

日本を南北から挟み込むように、2つの低気圧が通過。

仙台は午後から雨が降り出し、日差しが射す時間は一度もなかった。

市内の小中学校は、この週末から春休みとなったそうで、最初の週末は残念ながらパッとしないスタートだっただろう。

でも明日は一転して晴れるとの予想で、お出かけ日和になりそうだ。

そう言えば、時々使うバスが空いている気がしていたが、高校や大学はもう少し早くから春休みで、学生の数が少なかったのだ。

また卒業して、新たな土地で進学・就職する人、社会人でも転勤などで動く人も、この週末がピークではないか。

私の周辺でそう言う人はいないが、公務員の知人も異動だと言っていた。

最も市の職員だから、異動と言うよりも「移動」だと言っていたが。

大変なのは、16日に発生した地震による影響だ。

余震は日ごと少なくなっているが、極め付けである新幹線の不通が春休み中続きそうな事。

当のJRはもちろん、バス会社や航空会社などが臨時便を運航して対処しているようだが、輸送力・速達製と言う意味で新幹線に勝る物はなく、それこそ移動が必要な人は苦渋の春であろう。

車を使える人は影響ないが、多くの人は公共交通を使うだろうから、本当に大変だと思う。

JRによると、脱線した列車の移動が開始されたが、全ての車輛の撤去は4月始めになると公表している。

こうして見ると、新幹線と言う乗り物が、日本人にとっていかに生活の一部となっているかが窺える。

仙台からだと東京方面はもちろん、盛岡・青森方面へも8割以上の人が新幹線を使うと言う。

恥ずかしながら、私は新幹線を使う用事があまりないのだが、今や東北の人で乗った事がないと言う人は殆どいないだろう。

ふと考えてみたら、東北新幹線の開業は82年(昭和57年)6月で、なんと今年「開業40年」を迎える事に気付いた。

同年上越新幹線も開業しているが、こちらは11月だったから、東北新幹線の方が約5カ月早い。

40年・・・もうそんなに昔の事なのか、と、実に感慨深い。

1-1-1-50 SERIES200.jpg ↑今年開業40年を迎える東北新幹線。開業以来30年間現役で、東北地方の発展に大きく貢献した200系。当初は12輌編成が基本だった(ウィキペディアより)

当時私は高校生で、現役バリバリの「鉄オタ」(笑)。

開業当日は平日で、さすがに学校をさぼってまで駅に見に行くことは憚られ(まじめな高校生だった)、放課後に行った。

初列車を生で見ることは叶わなかったが、夕方でも仙台駅は見学する人、「初乗り」する人、そしてメディアでごった返していた。

私自身の「初乗り」は、少し経ってからの7月だったと思う。

夏休みだと混雑が予想されたので、初乗りは比較的空いていそうな仙台~盛岡間だった。

そう、開業当時の東北新幹線は大宮~盛岡間の「暫定開業」であった。

本来東京~盛岡間が予定されていたが、大宮~東京間が用地買収などで計画が大幅に遅延していた為である。

ならば開業自体遅らせても良かったように思えるが、この時はまだ「国鉄」時代。

しかも末期の事で、既にJRへの「分割・民営化」が具体化しつつあった時期だった。

60~70年代の労使抗争で、「国営鉄道」の信頼はガタ落ちしていた。

毎年のように莫大な赤字を累積させ、放漫経営とされて国会でも毎度のように与野党が争っていた。

「国営」であるから、経営資金は全て「税金」であり、労使抗争によるストライキの頻発、相次ぐ値上げ、サービスの低下は国民を怒りに導いていた。

70年代末には、少なくともサービスと言う点で襟を正し、その質はいくらか向上していた。

1-1-1-50 SERIES200_K31.jpg ↑90年代になると、新たに開業した山形新幹線の400系と並結運転されることで、下り方の先頭車両には連結器が追加された。2列車並結運転は、新幹線史上初めてのことだった(ウィキペディアより)

しかし常日頃国民の目は厳しく、当初の開業予定を変更することは難しかったのである。

最もそれ自体不評を買ったのだが、大宮~上野間は「新幹線リレー号」が接続した。

当時東北・上信越方面の玄関口だった上野駅に乗り入れたのは、開業から約3年後の85年。

東京乗り入れは更に6年後、91年だった。

「リレー号」は、専用の185系200番代が充当されたが、全車自由席だった。

グリーン車の乗客は、新幹線のグリーン料金に含まれていたのでそのままグリーン車を利用することが出来た。

上野~大宮間は約26分で、乗り換え時間を含めると上野~仙台間は約3時間強かかった。

それでも在来線時代の「ひばり」「やまびこ」「はつかり」などの特急列車だと、4時間15分だったから時短の効果は絶大であった。

ダイヤも、開業直後は「暫定ダイヤ」で、速達タイプの「やまびこ」と各停タイプの「青葉」が1時間当たり1本ずつだったと思う。

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1-1-1-50 SERIES_200-2000 13.jpg ↑(2枚)90年代には、100系と同じデザインを持つ先頭車両と、「ダブルデッカー(二階建て)」車両も登場した。下の画像は二階建て車輛の249型が連結されているが、後に2輌(248型)に増やされ、編成自体も東海道新幹線と同じ16両編成になった。二階建て車両はグリーン席と普通個室、カフェテリアが設けられていたが、構造上軽量のアルミボディではなく普通鋼製の上無動力だったので、編成の走行性能は低下した。また需要も見込み程増えず、カフェテリアは売店、末期には「マッサージサービス」と、良く分からない方向に向いてしまい、編成から外された。「シャークノーズ」と呼ばれた先頭車はその後も運用されたが、新形式とはならず「新番代」だった。新造された車輛と改造車輛が存在した(ウィキペディアより)

この時点で車輛の調達が間に合っておらず、共通運用となる上越新幹線の開業まで暫定ダイヤが続けられた。

その為従来の在来線特急も、便数を減らして存続した。

唯一列車名を新幹線に奪われた上野~盛岡間の「やまびこ」が廃止されたが、仙台発着の「ひばり」は半数が残されて利便性を保管していた。

いくら暫定開業だったとはいえ、並行する在来線特急が走っていたとは、今では考えられない設定だ。

最も新幹線は本数が少なく、料金も割高、大宮で乗り換えを強要されると言う理由で、全面廃止となった11月まで、在来線特急の需要は結構高かったと記憶している。

車輛は往年の名車「200系」で、当初は12輌編成。

「ザ・新幹線」の0系と同じデザイン意匠を持つが、寒冷地・積雪地帯を走ることから耐寒・耐雪設備が施されていた。

先頭車両のスノープラウ(雪よけ)や下部のカバーの他、客室窓も跳ねた雪や氷で破損しにくいよう小窓が採用されてので、先頭車両以外0系とはイメージが違った。

塗装は白(アイボリー)にグリーン帯で、新幹線と言えば「白と青」と言う固定観念のせいで、正直「ヘンな新幹線」に見えなくもなかった。

自然豊かな東北をイメージさせるためにグリーンが採用されたと言うが、一方で「田舎臭い」などと揶揄される事もままあった。

東海道・山陽新幹線のように、途中名古屋・京都・大阪・神戸、そして博多・福岡と、日本有数の大都市圏を貫いていないことも「田舎くさい」と言われてしまったのかも知れない。

車体は新幹線としては初めて(0系しかなかったのだから当然だが)、車体はアルミ合金で作られており軽量化が図られていた。

走行時間が短い事と、東海道よりも利用客が少ない事もあって、編成も短く、食堂車はなし、グリーン車も1輌だった。

食堂車の代わりに「ビュッフェ」が連結されていて、車両の半分が客室、半分がビュッフェ。

1-1-1-50 SERIES200_F17.jpg ↑原形とも言える12輌編成。前から2輌目・11号車がグリーン車、4輌目が「ビュッフェ・普通車」(ウィキペディアより)

飲食スペースに椅子はなく立ち席だけだったが、コーヒーなど飲み物の他、軽食も食べる事が出来た。

ただし火を使えないので、全て電子レンジ調理品で、当初は「激マズ」と言われていた。

食事メニューは少なく、「うな丼」「牛丼」「カレー」ぐらいで、要するにレトルト食品だったと言う事だ。

ご飯は炊飯器で炊いていたようだが、ビュッフェと言う性格上本格的な調理器具は搭載されておらず、40年前のクオリティでは仕方なかったかもしれない。

でも「うな丼」だけはまあまあ美味しい・・・と言う評判があり、私も食べた事がある。

1-1-1-50_200buffet.JPG ↑当初9号車に連結された237型は、半分が普通車、半分がビュッフェだった。椅子はなく「立ち席」だった。軽食や飲み物が提供された他、売店としても機能していた。利用者減で次第に営業自体が縮小され、休止されるようになったが、車両自体は暫く連結されていた(ウィキペディアより)

今こそ「嫌煙権」の跋扈で、列車内の禁煙は当たり前だが、座席では「喫煙車」と「禁煙車」に分かれており、ビュッフェでも喫煙できた。

コーヒーを飲みながら一服しながら、飛ぶような景色を地元沿線で体験できるようになった事は大きな喜びであった(もちろん喫煙は20歳過ぎてからです・笑)。

客室も0系とは一線を画していて、普通車の座席は2-3の5列は同じだったものの、最初からリクライニングシートであった。

0系はリクライニングしない「転換式シート」の時代で、リクライニングシートに変更されつつある時代。

ところが技術的な関係で、横幅のある3列座席は前後への方向転換が出来ず、車両中央部を境に前後方向に固定されていた。

2人座席の方は転換できたのだが、3人座席は列車の動く方向とは無関係で、半分は「後ろ向き」で座らなければならなかった。

これも当然評判悪く、混雑時以外の指定席はいつも空席であることが多かった。

1-1-1-50 SERIES200_F_interior.jpg ↑普通車の車内。画像はモケットやリクライニング機構を改良した後の姿だが、3人座席はまだ固定されたまま。見にくいが、奥の方の座席は反対方向を向いている(ウィキペディアより)

その後回転機構を工夫して、転換できる座席に変更されたが、今思えば全てに「半端」だった気がする。

インテリアデザインでは、壁や天井の配色が号車ごと違っていて、偶数号車がグリーン、奇数号車がオレンジだった(反対だったかも)。

最高速度は210キロ。

仙台~白石蔵王間は、新幹線の中で最も長い直線区間であり、故郷宮城の風景が210キロで見られる事は、やはり感慨深かった。

200系は20年近くに渡り、700輌も生産された為、多数の派生形が存在する。

改造された車両や、改修された車輛・編成も多い。

最高速度が240キロ、上越新幹線では275キロ運転も実施されたことから、先頭車両の空力特性改善やパンタグラフ及び周辺機器の改造を施された編成もある。

00年代になると、客室なども大幅にリニューアルされ、車体の塗装も変更された。

1-1-1-50 SERIES200_K47.jpg ↑最高速度を引き上げるために改修した車輛も登場した。運転席の窓が空気抵抗の少ない形に変更された他、パンタグラフの遮風板などが追加された(ウィキペディアより)

編成は当初は12輌だったが、柔軟な運用を目指すために10両・8輌編成になったり、90年代に開業した山形新幹線と並結できるように改修された編成も出た。

40年もの間に、国鉄は分割・民営化され消滅。

JR東日本になってからは、東京乗り入れ、八戸・新青森まで延伸。ついには北海道まで到達。

車輛も200系以後は、「ダブルデッカー」のE1系、E4系、ハイテク仕様のE2系、そしてE5系とどんどん進化・発展した。

最高速度も210キロから240キロ、そして320キロと比べ物にならない程早くなった。

開業時は仙台~東京間が3時間もかかっていたのに、今は最速で僅か1時間45分。

なるほど40年経った訳だ・・と、変な納得をしてしまう。

1-1-1-50-JR_East_Shinkansen_200(renewal).jpg ↑13年の引退まで運用されたリニューアル塗装(ウィキペディア英語版より)

200系が引退したのは13年のことで、開業後実に31年後の事である。

車輛の老朽化はもちろん、320キロ運転のE5・E6系が登場し、速度の遅い200系ではダイヤの均衡を保てなくなったことも大きかった。

車輛自体は比較的新しい物も多かったが、性能と言う点でもはや時代遅れになってしまったのはいたしかたない事であった。

最近「鉄道系」動画をよく見させてもらっているが、アップ主の多くは20代・30代の若い人が多い。

彼らにしてみれば近未来的なフォルムを持つ現行型が、物心付いた頃から「常識」であり、あの「卵型」の丸い形をした200系は単なる「レトロ」にしか見えないのだろう。

だが引退してから、まだ10年過ぎていないと言う事実がある。

確かに今の車輛は実に快適で、とても320キロで走行しているとは思えない程車内は静かだ。

そして東京まで2時間もかからない事は、もはや「当然」の域になっていて、進化とは便利でありがたいものである。

だがそれは最初の200系があったからこそ、今がある・・と思うのである。




夜になって雨は止んだが、前線に向かって暖かい空気が入って気温が上がっている。

12℃と言う最高気温は夜になってからで、買い物した後徒歩で帰宅したらうっすら汗をかいてしまった。

実は面倒で、まだ春物の上着を出しておらず、冬物を着ていたからだ。

さすがにもう限界だな・・と、明日は春物を出そうと思う。

天気も当分は良さそうだし、日中出歩く分にはもう充分だろう。

次の週末はもう4月。

コロナや地震、外国の戦争と嫌な事が続いたが、本当の春は気持ちよく楽しく迎えたいものだ。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

今日は雨でしたが、春を告げに来た雨だったかもしれません。

まだ寒さや雪の可能性も否定できませんが、日ごと春の近付きは実感できそうです。

君はこの春を、どう迎えるのでしょう。

何か変化がある春でしょうか、それともいつもと変わりなく迎える春になるのでしょうか?

いずれにしても、春は人間だけでなく、動物や植物も喜ぶ季節です。

君も、喜びの春を迎えられるよう心から願っています。

朝晩と日中の気温差が大きくなりますので、体調管理には充分注意して下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




春雨に 萌えし柳か梅の花 ともに後れぬ 常の物かも(万葉集巻十七 3903 大伴宿禰書持)


古代史探偵A 復元された牽午子塚古墳(3月22日 雪のち晴れ 4℃)

※2日分の日記を掲載します。

◎3月20日 晴れのち曇り 10℃

3連休。

今年はカレンダーの並びが良く、明日の「春分の日」は月曜で3連休に。

近年祝日は「第3月曜日」など移動する事が多く、つい週末3連休が当たり前のように思ってしまうが、「春分の日」は変更できない。

故に年によっては22日だったりすることもあり、綺麗に連休になることは案外珍しいのだ。

朝は青空が出ていたが、日中は雲が優勢。

その為日差しが少なく、肌寒い。

今日東京では桜の開花宣言が出たそうで、平年・去年よりもやや遅いと言う。

今後各地から次々と聴こえてくるのだろうが、仙台はまだ先だ。

それでも「日の長さ」は日ごと実感でき、いつしか冬の長い夜は終わっている。

明日「春分の日」の仙台は、日の出が5:39、日没が17:49。

「昼」の長さが12時間10分と、僅かではあるが夜よりも長くなっている。

これから6月の「夏至」までの約3カ月間は、昼がどんどん長くなって行く。

そしてこの連休は春の「お彼岸」の中日でもあり、日本人が代々受け継いできた季節の「節目」である。

私も期間中に墓参りに行くべきだが、墓苑は意外と混雑するので、お彼岸が終わる頃行こうかと思う。

要は先祖を供養する心が大切で、墓参りや法要をせずとも、手を合わせて祈る事はいつでもどこでも出来ることだ。

近年お墓の維持が難しくなったり、地価の高騰で買えないなど「お墓参り」自体変化を余儀なくされていると言う。

コロナ禍も加わって、簡単に帰省を兼ねた墓参りも何となく憚られる時代で、それはそれで止むを得ない事だと思う。

でも今の自分があるのは、父母・祖父母はもちろん、先祖のおかげであることに誰一人例外はない。

会った事のないご先祖の事はピンと来ないけれど、感謝した方が良い。

最近ふと思って、先祖の事を調べるようになった。

完全な思いつきだけれど、今はネットでもある程度調べられるし、ヒントを得られる事もあるから便利だ。

以前調べた時、直系と言う点では室町時代前半まで遡る事が出来ていた。

また奈良に行くようになってからは、我が家はあの「藤原氏」の一門であることも突き止めたのだが、その間が繋がらない。

ところが最近少なくとも、平安時代末期もしくは鎌倉時代初期まで辿れる事が分かってきた。

子供の頃、祖父母から先祖の事を聞かされていたのだが、子供故難しい事を言われても理解できなかったし興味も湧かない。

おぼろげながら記憶に残っていただけで、全く自信がなかったのだが、調べて行くと聞いた話と一致することが分かり嬉しかった。

先祖の事を知っても、今の自分と何ら関係ないと言われるかも知れないが、感謝するぐらい大した手間暇ではあるまい。

むしろ何百年と言う血筋が繋がれて、今の自分があると思うとどこか不思議な気持ちもするし、生きている事の喜びも感じて来ると思う。



◎3月22日

連休明け。ただでさえ気分が乗らない日なのに、「寒の戻り」が更に追い打ちをかける。

仙台は午前中から昼過ぎにかけて雪が降り、道路は濡れただけだったが樹木や土の上はうっすら白くなっていた。

最高気温4℃は、正に真冬並み。

3月下旬とは思えない、街の風景。

16日に発生した地震の影響で、一部稼働停止した発電所の為「電気不足」の懸念。

昨日、政府と東京電力は首都圏を中心に緊急の「節電要請」を行い、今日になって東北電力管内も要請対象になった。

これは低気圧の通過による気温の低下と降雪のせいで、暖房など電力需要がひっ迫する可能性が出たからだ。

事実東京でも積雪こそなかったが、雪が降った時間もあり、日中でも2℃前後と非常に寒く電力需要が急増した。

一時的に供給量を超えた時間もあり、他社から融通してもらう事で停電は避けられたと言う。

季節外れの寒さと地震のダブルパンチでは仕方ない・・と思うが、寒さも地震も今回が「初めて」ではあるまい。

昨年だったか、関西で記録的な寒さが続き、やはり電力事情がひっ迫した事があったし、夏場も時々耳にする。

首をかしげざるを得ない。

確かに先日の地震は大変だったが、震災はもちろん、昨年も同様の地震が発生しており、なぜ同じ事を繰り返すのか。

新幹線だって、元々地震多発地帯を走る前提から、その対策を講じて建設されたはず。

震災は特別だったとして、なぜ再び長期間の運休を余儀なくされるのか。

脱線した列車はともかく、施設の損傷は数百か所以上に上るとされているが、震災後JRは一体何をやっていたのかと思う。

多くの人は災害だから・・と理解を示すだろうが、「想定以上」の対策を施すのは出来ないはずがなく、結局お金がかかるから・・みたいな理由だろう。

だがこうした影響で、仕事や生活に大きな支障をきたす人がたくさんいる訳で、これはもはや「業務上過失」にあたるのではないか。

もちろん電力会社や鉄道の現場の職員は、必死になって復旧作業を続け、今後も保守作業を続けて行くだろう。

早い話「上」がデタラメな訳で、ワリを喰うのは一般の国民だ。

しかも「脱二酸化炭素」を訴えて、今後もっと電気だけの時代を推し進めようとしているのは、どう考えても矛盾である。

特にインフラは命に関わる問題であり、無責任にハードルを下げてもらっては困る。

地震だけでなく、台風や大雨、猛暑、極寒、考えられない程の状況でも耐え得るようにしなければ、文明の発展は望めないではないか。

現代日本で「電力が足りない」とは、実に馬鹿げた話。

これで「将来自動車は全て電気自動車だ」、などとよく言えるものだ。



帰宅する時、ものすごく寒かった。

気温を調べてみたら、0℃を既に下回っており寒いはずだ。

空は星が綺麗に見えていて、放射冷却になっているようだ。

仙台はまだ春物を着るほど暖かくないが、東京などではしまい込んだ冬ものを慌てて出した、と言う人もいただろう。

それでも少しずつ暖かくなってきて、夜もいくらか過ごしやすくなっていたから、今更の寒さは結構堪えそうだ。

今後も「三寒四温」が続くとのことで、寒さ対策は残しておいた方がよさそうだ。

そう言えば昨日21日は「春分の日」であると同時に、祖母の誕生日だった。

1899年(明治32年)生まれだから、昨日で満122歳!

もちろん存命のはずもなく、昨年はちょうど30回忌を迎えた。

亡くなった人の年齢を数えるのは演技が良くない、などとも言われるが、私はあまりこだわっていない。

「祖母」なのに、もう120年以上前に生まれた人だと思うと、なんだか凄いなと思う。

母が末子だったこともあるが、祖母は91歳と長寿でもあったのでより世代間が長いのが私のルーツだ。

因みに祖父は、祖母より6歳年上だったので1893年(明治26年)生まれ。来年生誕130年。

曾祖父母となると、もう「江戸時代」の人になってしまう。どれだけ昔の人たちなんだ!とツッコミたくなる。

祖父は中学校の時に亡くなったが、祖母は大人になってからなので記憶も濃い。

それに母は勤めに出ていたので、普段の生活では祖母にも育てられたようなもの。

しつけを始め、今思えばたくさんの事を祖母から学び、今の私にしっかりと身についている。

1日遅れだけど、ばあちゃん「誕生日、おめでとう。」



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

急に寒さが戻り、雪まで降りましたが大丈夫でしたか?

春は着実に近づいていますが、まだまだ油断も出来ません。

今後も気温差の大きい日が続きそうですので、体調管理には気を付けて下さい。

君はもう春物を出しましたか?

今日の様子では、もう少し冬物も出しておいた方が良さそうですね。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




今更に 雪ふらめやも かきろひの もゆる春べと なりにしものを(万葉集巻十 1835 春雑歌)


◎古代史探偵A(復元された牽午子古墳)


公共放送の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が、かなり人気だと言う。

豪華な出演陣もさることながら、比較的取り上げられなかった中世史を知るきっかけになることは間違いなさそうだ。

ドラマである以上エンターティメントであるから、あくまでも「史実に基づいたフィクション」と言う認識が必要だが、ならば史実はどうであったのか?と興味を持つ人が増えるのは素晴らしい事だろう。

脚本を手掛ける三谷幸喜氏は、本来飛鳥時代や奈良時代と言った古代を舞台とした物語をやりたかったそうだ。

公共放送にもその事を告げたそうだが、やんわりと断られたと言う。

理由は時代考証が大変で、衣装や大道具・小道具、セットなど、これまで使って来たものの「流用」が出来ず、仮に全て新製しても、今後流用できる機会は限られる・・・と言う理由だったらしい。

大河ドラマと言うと、視聴率を稼げると言う理由もあってか「戦国時代」か「幕末」が確かに多い。

これらの時代は史料も多く残され、親しみやすい部分もあるので当然とも言える。

今回のドラマは、平安時代末期から鎌倉時代初期が舞台だが、既に何度か戦のシーンが登場している。

中世史ファンの方であれば気付いたであろうが、よく見かける戦のシーンのように見えて実はちゃんと考証が現れている。

それは武士・兵士たちが、「槍」を持っていないことだ。

実は「武器」として槍が確実に使われるようになったのは、この時代からもう少し後。

室町時代からであると言われており、平安時代・鎌倉時代にはまだなかったとされるからだ。

全く存在しなかった・・と言う確証はないようだが、量産された跡は確認されておらず史料にも現れていないのだそうである。

恥ずかしながら、中世史は詳しくないので非常に勉強になる思いであるが、この時代の武器は主に刀と弓矢であり、槍は一般的でなかったことはほぼ間違いないようだ。

戦となれば、両陣営とも大量の武器が必須であり、常に「備蓄」することも戦略である。

それは「生産」することでもあり、いわば「インフラ」の充実が戦の重要なファクターでもあった。

このことは古代でも全く条件は同じで、権力の維持と誇示はインフラであったと私は考えている。

今月初め、奈良県明日香村で復元された「牽午子塚古墳」が完成し、一般公開が始まった。

牽午子塚古墳は、近鉄吉野線・飛鳥駅から西に約500メートルの小高い丘の頂上にある古墳である。

かねてから古代史上貴重で重要な古墳と見られて来たが、本格的な調査は行われておらず、2010年に地元明日香村が主体となって詳細な調査を行った。

1-1-1-50 Kengoshiduka kohun.jpg ↑復元された牽午子塚古墳。正面奥にオリジナルの石室があり、正面の階段は見学の為に設けられたもので、オリジナルにはない(奈良県明日香村、ウィキペディアより)

国の「史跡」には指定されていたものの、現状を維持・保護されて来ただけであったため、調査結果は多くの事実を生み出すことになった。

復元前の同古墳は、明らかに人為的に作られた土が盛られているようにしか見えず、そのたもとに切り出しの石室が残されていた。

石室自体は過去に何度か調査が行われ、同古墳の築造は7世紀後半、石は凝灰岩が主体で、二上山から採掘されたものだとされた。

また墳墓・墳丘とも崩れて殆ど原形を留めていなかったが、石室の形や規模から「八角墳」である可能性が以前から指摘されていた。

10年以降の調査で、墳丘を取り巻く石畳なども確認され、その角度が135度であることが分かり「八角墳」であることが確実になった。

加えて周辺部から「七宝焼き」を含む、豪華な装飾品が出土したことから被葬者はかなり高位の人物である事も確実視されていた。

そしてそれは女帝「斉明天皇」の真陵ではないか、と言う見方も以前から有力視されており、これまでの調査結果でほぼ正当化されたと言って良い。

「日本書紀」によると、斉明天皇は「越智崗上陵」に葬られたと見える。

墳墓には娘である「間人皇女」が合葬され、近隣には彼女の孫である「大田皇女」の墳墓があると記述されている。

しかし同じ紀の中には、斉明天皇が生前の遺言として、同じく孫である「建皇子」を自らの墳墓に合葬するように命じたとも見えている。

牽午子塚古墳の石室は、約80トンにも及ぶ巨大な岩石をくりぬいて作られており、内部は明らかに棺を置くための平板が左右設置されており、二人分の石室であった事が見て取れる。

更に同古墳のすぐ下には、やや小ぶりな「陪塚」と思われる小さな円墳があり、こちらが大田皇女の墳墓である可能性が高い。

しかし宮内庁が治定する御陵は、ここから約2キロ西に当たる高取町の越智崗(おちのおか)になっており食い違いを見せている。

治定御陵は小高い山の山頂部に置かれ、斉明天皇と建皇子の合葬陵としている。

御陵までは山の麓から急で長い階段が連なっており、途中に「大田皇女墓」が置かれている。

山は駐車場のある麓から数十メートルの高さがあり、参拝するには階段とは言え殆ど「登山」に近く、天皇陵の中では最も行きにくく過酷な場所にある陵でもある。

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386.JPG ↑(4枚)宮内庁治定の斉明天皇陵「越智崗上陵」。同墓には斉明天皇と建皇子が合葬されているとする。下2枚は山腹にある大田皇女墓(奈良県高取町、筆者撮影)

だが天皇陵自体、比較的古くから治定されていたこともあって、学術的調査は全く行われていない。

そもそも古墳ではなく、頂上部が円丘になっているだけだとされている。

ある意味何らかの墳墓である可能性もなくはないが、天皇陵としては疑問が残る御陵となっている。

故に早くから牽午子塚古墳こそ、斉明天皇の真陵であると言われて来た。

御陵を管理する宮内庁は、同古墳が真陵である可能性を認めつつも、証拠となる墓誌でも発見されない限り治定の変更はないとしている。

今回復元された牽午子塚古墳は、3段構造を持つ八角墳である。

詳しい調査の結果同古墳の直径は周辺部最大で約33メートル、高さは約4メートルだったと推察されたため、そのサイズで復元された。

その下にある「越塚御内古墳」も同時に復元され、周囲も史跡公園として整備された。

八角墳は、7世紀の登場した独特の墳墓である。

古墳のタイプとしては珍しい方で、同じく明日香村には「天武・持統天皇陵」、文武天皇の真陵と思われる中尾山古墳も八角墳であり、この2つは牽午子塚古墳の東1~2キロに位置する。

379.JPG ↑被葬者が確定している数少ない陵墓「野口王墓」。宮内庁は天武・持統天皇陵に治定している。墳丘は樹木に覆われているが、八角墳としての全体像が残されている(奈良県明日香村、筆者撮影)

八角墳は大陸の「仙人思想」に基づいたものと思われるが、日本では天皇クラスの人物にしか使われていない特殊な形状である。

2~3世紀に始まる古墳は、最盛期を迎える4~5世紀になると前方後円墳に代表される巨大な古墳が流行するが、6世紀になると徐々に小型化する。

それと同時に複雑な形状を持つ古墳が増え、被葬者・築造者の権威を示す為に工夫された形状として多様化した。

6世紀までは、前方後円墳のように円形と方形が中心であったのに対し、それ以降は「方墳」と呼ばれる四角錐などが現れるようになる。

巨大な古墳は、築造には当然膨大な時間・資材・人手が不可欠であり、中央集権体制が整うと朝廷の権力を明確にするためにも、築造には一定の基準が必要になったものと思われる。

6世紀までは、地方でも大型の古墳が各地で築造されているが、形状や大きさは時代とともに平均化されるようになる。

大型古墳は、ある意味「流行」でもあり、地方を治めていた首長がこぞって築造していたが、ヤマト朝廷の全国支配が盤石になるにつれ、天皇を頂点に皇族・有力豪族と階級的に墳墓の大きさや形状が形作られていった。

だが権威のためとはいえ、莫大な手間と経費のかかる墳墓は国民の不満・反発を買う恐れもあり、それが小型化・多様化した原因ではないかと思う。

164.JPG ↑壁画で有名な高松塚古墳。長年全体も放置されていたが、壁画修復・保存事業に合わせて復元された。3段形式の円墳である。7世紀後半築造(奈良県明日香村、筆者撮影)

八角墳はその典型例であり、はっきりとした形で確認されている八角墳は。牽午子塚古墳が最古の物と思われる。

斉明天皇は舒明天皇の皇后で、本名は宝皇女と言う。

642年、舒明天皇が崩御すると「皇極天皇」として即位したが、645年長男で後に天智天皇となる中大兄皇子が「乙巳の変」を起こすと、実弟であった軽皇子に生前譲位した。

これが孝徳天皇である。

10年後の655年に、孝徳天皇が崩御すると、宝皇女は再び皇位に返り咲き、斉明天皇として重祚(二度即位すること)した。

皇位の生前譲位と重祚は、史料上では初めての事であり、そういう意味で異例の女帝であったと言える(ただし生前譲位はそれ以前にもあった可能性が高い)。

一方合葬されたとされる間人皇女は、舒明天皇との間に生まれた3人の子の第二子で、孝徳天皇の皇后でもある。

第三子は大海人皇子で、後の天武天皇である。

斉明天皇は茅渟王と吉備姫を父母に持ち、欽明天皇のひ孫にあたるが、当時実質的な権力を握り、皇室の外戚でもあった蘇我氏の血筋は持っていない。

「乙巳の変」で一旦退位し弟に皇位を譲った彼女だが、10年後再び斉明天皇として即位すると、皇極天皇時代とは打って変わって多くの動きを見せ始める。

乙巳の変後開始された政治改革「大化の改新」で、首謀者の中大兄皇子の内臣・中臣鎌足はそれまでの有力豪族による「合議制」を廃し、天皇に権力を集中化させたとされている。

この変については今回割愛するが、斉明天皇が重祚した時も当然改革の政治構造を受け継ぎかつ強化されていた。

「日本書紀」を見ると、宮の整備から始まり北方の「蝦夷」対策を実施している。

東北地方を中心とした蝦夷対策は、奈良時代から平安時代初期に盛んに行われたが、斉明天皇は現在の秋田まで城柵を作り、海を渡って北海道まで進出した。

紀では北海道南部の蝦夷は朝廷に帰順したが、「大河」の向こう側の「粛慎(はしみせ)」と呼ばれる部族と交渉を行ったとしている。

粛慎を帰順させたとは書いていないが、少なくとも東北地方北部まで勢力を伸ばし、北海道と言う地域を完全に認識し、今で言えば「日本の一部」だと認識していた事は確実であろう。

更に女帝は飛鳥の都を大々的に整備し、わが国初の「石の都」を築いた。

奈良だけでなく、周辺からあらゆる石材を取り寄せ、その輸送のために運河まで掘った大事業で、国民からは「狂(たぶれ)心の渠)と批判されたと見える。

明日香村では、7世紀後半のものと見られる多数の石造物が発見されており、それらのほとんどは斉明天皇時代と一致している。

私は以前、このコーナーで、斉明天皇の飛鳥は「白亜の都」だったと書いた。

海外では石の文化が先行したが、日本では木造文化が発達している。

これは国土が狭く、インフラを賄える程の石を採掘したり輸送することが難しかった事、地震が多い事、多湿な気候であることで当然の成り行きだったと言える。

ところが斉明天皇は、国民から悪口を言われるほど石の文化を取り入れた人物であった。

建物こそ木造だったが、飛鳥の都は多数の石造物で埋め尽くされていたと考えられる。

宮では石畳みやモニュメントが置かれ、まるで大陸の都の様な正に「白亜の都」が演出されていたのである。

それは朝廷の権力を誇示するには充分過ぎる演出であり、来日する海外からの使者に対しても大きな効果をもたらした。

飛鳥は、わが国初の「未来都市」の様な様相を見せていたのである。

それは見たことも聞いたこともない多くの国民には、素晴らしいと感じる前に奇異と感じたかも知れない。

なぜ斉明天皇時代に、石造物が増えたのか。

上記の理由の他に、技術の向上があげられる。

牽午子古墳は、築造時に約7,200トンにも及ぶ石が使われたと推測されている。

石室だけで約80トンと言うから、現代でも工作するのも運ぶのもかなりの大工事である。

それを1,300年以上前にやってのけた、と言う事は、そうした技術が出来たからに他ならない。

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162.JPG ↑(2枚)復元前の牽午子塚古墳(奈良県明日香村、筆者撮影)

先に述べたように、古代日本では石の文化は発達しなかった。

例えば仏像を取っても、最初期は銅を使った鋳造、その後は漆・絹・木を使った乾漆像、そして木彫と塑像に移行していったが、石像は普及しなかった。

石造物としては五輪塔の様な、いわば墓石などとして盛んに作られるようになったのは平安時代以降である。

それは硬い石を加工する技術・道具がなかったと言う事でもあり、7世紀半ばに急に出現したのはそれらを得ることが出来た時代だったのである。

当初恐らくは大陸から輸入されたのであろうが、飛鳥の石造物を見る限り、それだけでは賄えなかったはずである。

すなわち輸入した道具、来日した技術者が日本人に指導し、かつ道具の生産もしなければ大量に石造物を作ることは不可能だ。

それだけではない。

何千トンもの岩石を山で切り出す作業、それを飛鳥まで運ぶ作業にも膨大な道具と人員が必要だ。

加えてどうやって巨石を輸送したのか?

これは削って太さを揃えた丸太を使った・・との説が有力で、筆者もそう思うのだが、一方で疑問も残る。

当然ながら丸太は10本20本と言う単位ではなく、何千本も必要だったはずだ。

それを調達し、加工する必要があるばかりでなく、起伏の多い飛鳥で果たして自由に輸送出来たか、と言う事だ。

事実牽午子塚古墳は、小高い丘の頂上にあり、仮に勾配の緩い所を迂回させたとしても坂道を登る事は避けられない。

80トンもの巨石を、二上山で切り出し飛鳥まで運ぶと言う事が、当時どれだけ可能だったのだろうか。

古墳が現実に存在している半面、意外にもそれに関する遺構は殆ど見つかっておらず、どうやって築造したのかはっきりとした事はわかっていないのである。

160.JPG ↑巨大な岩石をくりぬいて作られた牽午子塚古墳の石室。中央に柱を残し、両側に棺を置く平板が作られている(奈良県明日香村、旧案内板より・筆者撮影)

牽午子塚古墳だけでなく、ほぼ同時期に築造されたと思われる古墳の多くが、まるで現代の物のように綺麗に成形された石室を持つ。

加工技術だけでなく、測量技術もかなり進んだものとみられる。

八角墳の場合、精密な測量・実測を伴っての築造であるから、そうした技術者も必要だったろうし、数学的知識もまた必要だったであろう。

図面も存在した可能性が高く、関与する人の数も相当なものであっただろう。

また牽午子塚古墳が斉明天皇墓だとして、それは彼女が生前に作らせた「寿陵」であったのか、崩御後誰かが築造させたものなのかも不明だ。

ただ彼女は、後を継ぐことになる天智天皇に「公共工事は控えよ」と進言していることから、寿陵であった可能性が高い。

疑問は他にもある。

現時点で牽午子塚古墳の被葬者は、紀に見られるように二人分の石室は斉明天皇と間人皇女、隣にある越塚御内古墳は大田皇女と見られている。

しかし先に描いたように、斉明天皇は寵愛した孫の建皇子を合葬するように遺言しており、天皇の遺言として尊守されるのが原則である。

建皇子は僅か8歳で亡くなり、明日香村の南に隣接する「保久良古墳」が当初の墳墓であったと伝わっている。

同古墳は推定で直径20メートル前後の円墳と思われるが、記録には「今城」の山に殯墳を作って葬ったと見える。

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1-1-1-50 Hokura_Kofun.jpg ↑(2枚)保久良古墳(奈良県大淀町、ウィキペディア英語版より)

わざわざ殯墳としていることは、埋葬した時点では「仮の」墳墓であった可能性が高く、斉明天皇の遺言と一致する。

実際宮内庁治定の「越智崗上陵」では、建皇子と合葬墓としている。

また間人皇女に関しては、紀での記述が曖昧な部分が見受けられ、いくつかの伝承も存在する。

法隆寺のある斑鳩町には、「ぽっくり寺」として信仰を集める「吉田寺(きちでんじ)」に、間人皇女の墳墓と伝わる古墳がある。

遺言を正しいとみるべきか議論の余地はあるが、それに従えば牽午子塚古墳の被葬者は斉明天皇と建皇子、と言う事になる。

死去後は暫定的に「殯墳」に葬ったが、祖母である斉明天皇が崩御したことで、御陵に追葬・改葬したのだろう。

二人分の石室を見ると、棺の配置関係から、私は間人皇女よりも建皇子の方が相応しいと思える。

間人皇女は、中大兄皇子(天智天皇)の妹であると同時に、孝徳天皇の皇后でもあった。

間人皇女は665年に死去したと言う記録が残っており、正しいとすればいつ牽午子塚古墳に葬られたのかが問題になる。

紀では一緒に葬られたように書かれているが、斉明天皇の崩御は661年であり、寿陵であったとすれば追葬された事になり記録とずれが生じてしまう。

そうなると先の「吉田寺古墳」の伝承が効いて来る可能性も出るが、既に御陵があったにも関わらずなぜ別の場所に葬り、しばらくしてから追葬したのか理由がわからない。

同古墳の傍にある、大田皇女の墳墓と見られる越塚御内古墳を間人皇女の物・・・と見ても良いが、それだと大田皇女がはじき出されてしまう。

かといって現在の見解では、建皇子の事は殆ど無視されたようになっているのもまた事実なのである。

ただ斉明天皇より先に死去したのは建皇子であり、順を追えばこちらが正しいのではないかと思う。

ここでは割愛するが、間人皇女の経歴は今一つ不明な部分があり、没年も正しいと判断できない部分もある。



私はまだ復元された牽午子塚古墳をじかに見ておらず、メディア発表の画像しか見ていないのではっきりした事は言えない。

だがそれを見る限り、いささか違和感を覚えてしまう。

古墳を保存し、未来に残す事は非常に重要な事だとは思うが、今回の復元は遺跡の上にどでかい「カバー」で覆っただけのように見えてしまう。

こんな形の古墳だった・・と言う意味なら、別の場所で復元しても良かったのではないか・・と思うのだ。

事実復元前の古墳は、墳丘はとうに失われており、形作っていた石も殆どがない状態だった。

一部残った石も、風化して原形を留めておらず、そのままにしておけば更に風化することも充分考えられた上での復元であろう。

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1-1-1-50 Kengoshiduka_4.jpg ↑(2枚)後ろ側から見た復元された牽午子塚古墳と、越塚御内古墳。下、手前側が越塚御内古墳(ウィキペディアより)

ただ特徴的な石室は、コンクリートで覆われ埋められたようになってしまった。

石室は元々3段構造の2段目にあったと推察されたことから、周囲の土を取り除き整備したうえで拡張されている。

その為石室の見学用として、正面に階段が設けられたが、オリジナルにはもちろんない。

御陵である以上「聖域」であるから、特別な場合を除いて石室の出入りは不可能である。

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1-1-1-50 Kengoshiduka_5.jpg ↑(2枚)復元前の石室入口部分と、復元後の様子(奈良県明日香村、上・筆者撮影、下・ウィキペディアより)

復元・保存と言うならば、見学用の階段は不要ではないか、と思うのである。

隣の越塚御内古墳、そして周辺も史跡公園として綺麗に整備されたのは良い事だと思う。

以前だと同古墳を訪れるには、飛鳥駅を出た後北側の住宅街を大きく迂回し、非常に分かりにくく、丘を登る道も整備されていなかった。

それも大幅に整備されたようで、多くの古代史ファンが行きやすくなっただろう。

そう言う意味では、復元・整備は歓迎すべき事である。

だが例え風化していても、1,300年前の人々の「息吹」をじかに感じられなくなった事も確かである。



誕生日(3月18日 雨のち雪 6℃)

予報通り、朝から重苦しい雲に覆われ雨。

私の住む泉区は降り出しこそ雨だったが、昼ごろからみぞれに代わりその後雪になった。

最高気温6℃は朝の気温で、その後下降。昼ごろで2℃前後と季節が1カ月逆戻りした感じだ。

昨日九州・福岡や宮崎では今年一番に桜の「開花宣言」が出されたそうだが、仙台の春は遠い・・と思わざるを得ない。

気象台では平年より早い、4月5日頃を予想しているが、近所の桜並木を見たらつぼみこそ出ていたが、まだまだ硬く小さい。

あと2週間で咲くとは、ちょっと無理な気がする。

まして今日の雪を見ると、なおさらそう思う。

一昨日の地震の影響は、一部続いているが、昨日のうちに大半が戻った。

最も大きな影響を受けた鉄道は、昨日徐々に再開。

一部区間で列車の遅延・運休が続くものの、仙台圏はほぼ復旧している。

ただ緊急停止で脱線した新幹線は、原因調査から行うため脱線を直し移動させるだけでも数日かかる見込みで、JRでは今月中の完全復旧は難しいとの見解。

脱線した列車は下りの最終列車で、最も揺れの強かった場所を通過中だった。

17輌編成中、16輌が脱線したそうだが、車両には地震対策が施されており、もしそうでなかったら脱線転覆と言う大事故になったかも知れないと言う。

むしろ転覆しないために「わざと」脱線したようなもので、何よりも人的被害が出なかったのは幸いだ。

スーパーやコンビニでもパンや弁当類などがやや品薄だったが、今後通常通りの入荷になると言う。

余震も続いていて油断は出来ないが、時間とともに回数・間隔は少なく開いて来ており減衰傾向にあるようだ。

市内の公立小中学校は、今日が卒業式だったそう。

昨日であれば中止もしくは延期になった可能性もあり、無事子供達の「旅立ち」を叶えてあげられただろう。

残念だったのは天気が悪かった事で、晴れ着が汚れなかったかと余計な心配をしてしまう。

コロナ禍も続いていて、複雑な気持ちで卒業式を迎えた子もいたと思うが、いずれ「思い出」に変わるだろう。

私が小中学校を卒業したのは、ウン十年も前の話。

その頃のことは意外と記憶に残っていて、今更ながらもうそんなに昔なのか!と驚く。

小学校では人数が少ない学校だったので、卒業式は「アットホーム」な雰囲気だった。

証書授与式の後は「謝恩会」とか言って、出席した保護者とともに食事会みたいなものが開催され、学芸会みたいな「出し物」をした記憶がある。

小学校とは真逆に、中学校は市内一のマンモス校で、体育館では生徒・保護者が入りきらず、県民会館(現東京エレクトロンホール宮城)で行われた。

卒業式の想いは、これからの新生活への機体よ不安より、同級生との「別れ」だった。

私が通っていた小学校は、なぜか中学校だと学区が二分される位置にあった。

更に同学年は3クラスしかなかったから、一緒に同じ中学校へ進めるのは半分、1.5クラス分の導入せいだけ。

中には私立中に進む者も何人かいたから、より少なかった。

一方進学した中学校は、私の学校の他2つの小学校「全員」が入って来る学校で、しかもその2つの小学校も当時市内では屈指のマンモス校であった。

その為1学年10~12クラスもあり、当時は40~45人学級だったから学年当たり約500人前後いたことになる。

だから入学すると、同じ小学校出身者は40人の中で数人いれば良い方でアウェイ感がものすごかった。

しばらくは人恋しくて、別の中学校に行った友人としょっちゅう連絡を取り合い、休日ともなるとよく会っていたが、夏休みを迎える頃には「新しい同級生」との関係も深まり、徐々に会えなくなってしまった。それはそれで寂しいものがあった。

もうウン十年経ってしまったが、時々思い出すと楽しい事ばかり。

卒業式は子供にとって、初めて自身の精神的自立の日。

大人はそれをきちんと見守ってあげなければならない。

高校や大学は今月初旬に卒業式を終えているだろうが、ともども良い春を迎えて欲しい。

改めて卒業生のみなさん、おめでとうございます。


1-1-1-48 Magnolia_denudata.jpg ↑3月の花ハクモクレン(ウィキペディアより)


おめでとう「ついで」に、恐縮ながら今日は小生の誕生日であります。

自分で言うのは正直恥ずかしいし、今更祝って欲しい歳でもないし・・・。

でも今の私には、誕生日を知っている人もいなくなった。

母が私を産んでくれた日、それは感謝だ。

散々親不孝したし、親孝行する前に逝ってしまった母。

だからこそ「3月18日」と言う日を、心から誇りに思いたい。

誰かに祝って欲しいのではなく、母に、そしていろいろ大変だけれど再び誕生日を健康で迎えられた事を感謝する日にしたい。




結局夜まで雪が降り続き、我が家周辺では3~4センチ積もったように思う。

23時頃近くのコンビニに買い物に行ったら、完全な雪ではなく再びみぞれに変わっていて、積もった雪がべちゃべちゃだ。

ただでさえ湿った雪だったのに、余計水っぽくなっていて靴がじわっと濡れて来る。

明日は晴れると言うので大方融けてなくなるだろうが、気温の低い朝はコンディションが悪そう。

明日から3連休だが、早い時間にお出かけの方は足元にご注意を。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

寒さが戻ってしまいましたが、雪は大丈夫でしたか?

暫くは、冬の名残と春の陽気が交互に訪れる事でしょう。

季節の変わり目は、とかく体調を崩しがちです。

くれぐれも無理をせず、元気で本当の春を迎えられるようにして下さい。

明日朝はまだ雪が残ってると思うので、外出の際は気を付けて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




毎年(としのは)に 梅は咲けども うつせみの 世の人君し 春なかりけり(万葉集巻十 1857 春雑歌)


3月16日 23:36

23:36頃、福島県沖を震源とするM7.3の地震。

最大震度は6強。仙台市内は5強。

2分ほどまでに震度3~4程度の地震があり、結構揺れたな・・と思った途端、さらに大きな揺れ。

どうやら「前震」だったらしく、36分の地震が「本震」だったようだ。

私は自宅にいて、そろそろ食事をしようかな通っていたときで、ガスなどは使っていなかった。

揺れは長く、小さな揺れを含めると2分ぐらい揺れていたように思う。

我が家では今のところ「被害」はないが、テレビや棚の上の物が落ち、重ねてあった古新聞やチラシが「雪崩」を起こした。

だが部屋によって差があり、キッチンは洗剤の容器が倒れたぐらい。

寝室も何も動いておらず、片づけていないところが崩れたと言う事か。

ちょうど昨年の今頃、同じく福島県沖の地震があり、震度も同じくらいだったが、崩れ方はこの時の方が酷かったように思う。

全体の被害はわからないが、少なくとも周辺で被害はない様に思う。

停電もしておらず、住民が騒いでいる様子もない。

我が家は3階なのでかなり揺れを感じた気がするが、地上ではそれほどでもなかったのかも。

ただ花瓶が倒れて水がこぼれ、若干畳を濡らした程度だ。

その後余震が続いているが、比較的大きな余震は1回だけだ。

沿岸では「津波注意報」が発令され、0時半ごろ石巻市で20センチほど潮位が上がったと言うが、それ以上は観測されていないようだ。

ちょうど1年でまた大きな地震とは、多発地帯とは言え厄介だ。

先週震災11年を迎えたばかりで、皮肉とした言いようがない。

ただ震源が約60キロと深く、これ以上大きな地震はないと思うし、余震も時間とともに減っていくはず。

津波注意報が気になるが、解除されれば一息つくことが出来ると思う。

ただ鉄道などの被害がどれほどなのか、不幸中の幸いで多くの公共交通は営業を終了している時間帯。

ニュースを見ると、中心部ではビルのガラスが割れたりする被害もあるようだ。

今後大きな地震はないと思うが、思わぬ被害で明日以降影響が出るかもしれないので注意が必要だ。



君へ。

大丈夫ですか?

怪我はないですか?

深夜の地震、君は休んでいる時でさぞかし驚き、怖かったと思います。

余震が続いていますが、徐々に回数は減り、大きな地震もこれ以上ないと思います。

でもさっきの揺れで、家の物が倒れかかったり傾いていたりするものもあるかも知れません。

それだと小さな揺れでも落ちたりすることもあるので、くれぐれも気を付けて下さい。

君が不安なのが心配ですが、不安です。

でも大丈夫だから、心配ないから。

怖い時、落ち着いてと言われても難しいです。

かといって取り乱してもまた、何の意味もありませんので、今しばらく我慢しましょう。

少なくとも朝を迎える頃には、余震も気付かなくなっていると思いますので。

遠く離れていても、君の無事と心の安定をちゃんと願っています。

飛行機ネタ B757はとてつもなく「ぶっ飛んだ」旅客機だった(3月14日 曇り一時晴れ 14℃)

※2日分の日記を掲載します。

◎3月12日 晴れ 17℃

抜けるような青空に、仙台は今年一番の暖かさ。

ちょうど土曜日、どこか出かけたくなるような陽気だった。

しかし見た目とは裏腹に、終日西寄りの風が強く、その風はまだ冷たくて体感的に「暖かい」と言う印象はなかった。

私にしては珍しく、土曜午前中と言う時間帯に駅前に出た(ここで言う「駅前」は地元「泉中央」の事)。

所用があったからなのだが、ショッピングセンターは買い物客で溢れていた。

午後からすぐ近くの「ユアスタ」で、サッカーのホームゲームが開催されたからのようで、久しぶりにサポーターさんの混雑を見た気がする。

昼前とあって、一般の買い物客とサポーターが混在してフードコートは満席だった。

私は混雑を避けたいので、そこはスル―して来たが、いかにも休日の風景であった。

最もサッカーだったからの混雑で、そうでなければあれほど混雑しなかったのかも知れない。

長引くコロナ禍で密を避ける事が、知らずに身についてしまったのか、今や週末・休日の賑わいは見れなくなった。

県内では毎日600~700人前後の新規感染者が出ているが、何となく「普通の風邪」という意識に変わっている気がする。

だとすればこれまでの緊急事態宣言や「まん防」は何だったのか、と思うが、それがあったからこそ対処が可能になったと言う事かも知れない。

風が強かった事で、花粉の飛散も多かったのではないか。

我が家のベランダからは、約1キロほど先の杉林が見える。

先月中旬ごろまでは、赤茶けた色が見えていたが、今日見ると緑色の方が多くなっていた。

どうやら今日の風も含めて、あらかたが飛散したようである。

すっかり葉の色ではないので、まだしつこく残る花粉もあるらしい。

私は「慢性アレルギー性鼻炎」なので、「花粉症」になった事はない。

乾燥した空気、急な温度変化があると鼻がグズグズし始め、くしゃみと鼻水が止まらなくなる。

特に朝起きた後が顕著で、寝ている時間に鼻の粘膜が乾き、起きると刺激されるのかグズグズする。

そして身体がすっかり目覚め、行動を起こして暖まる頃に気付くと止まっている。

故に年間通して症状が現れ、夏場でもエアコンの効いた涼しい部屋に入った後に症状が出ることもある。

時には1日中くしゃみと鼻水が止まらず、翌日には全くなんでもないと言う事も珍しくない。

もしかしたら花粉症も患っているのかも知れないが、いつもの事だから判別できないのだろうか。

でも今日は外にいてなんでもなかったし、逆にずっと家にいるにも関わらず止まらない事もあるので、やはり体質的なものだろうと思う。

テレビでは「花粉症とコロナの症状は似ている」なんて言っていたが、そんなことを言い出したらきりがない。

ならば以前から「普通の風邪」だと思われていたのが、実はコロナだった可能性もある訳だ。

元々咳やくしゃみは「エチケット」として啓蒙されて来たけれど、今はついやってしまうくしゃみも憚られてしまう。

世知辛いとは事ことで、推すつもりは毛頭ないが、エチケットを守りつつ鼻をかんだりくしゃみするくらい自由にしたい。

うっかり市中でくしゃみなどすると、見ていなくても周囲の視線が刺さって来るのが分かる。

花粉症の方は、ただでさえ辛いだろうに、世間の目を気にしなくてはならないのだから、何かが間違っている。

好きで花粉症になった人はいないのにね。



◎3月14日

気温は14℃まで上がったが、なぜか暖かさは感じない。

終日曇り空が優勢で、時折薄日が射す程度。日差しの温もりがないのだ。

遠くを見ると、今日も白く霞んでいた。

春霞なのだろうか、それとも「花粉」なのか、わからない。

関東から西では気温が上がり、東京では24℃と「夏日」一歩手前。

全国では、九州で28℃まで上がった所もあったと言う。

この気温ならば上着が要らないどころか、シャツ1枚、半袖でも良いくらいだ。

気象庁の指標によれば、20℃前後なら春物の薄い上着、25℃までなら長袖シャツ1枚、それ以上で半袖が適していると言う。

小学校高学年から中学生のころは、成長期で暑がり。

今では考えられない程動き回るから、春は暖かいと言うよりも暑い季節に思えた。

暑いと言うよりも上着などが邪魔な訳で、4月を迎えた途端に半袖で出歩いていた記憶がある。

中学校では、5月末まで制服。今と違ってあの分厚く窮屈な「学ラン」だったので、制服は大嫌いだった。

しかも社会問題になったほど「校則」が幅を利かせていた時代で、登下校時は暑くても学ラン着用が義務付けられていた。

下校時は校門を出てしまえば脱いでも問題ないが、朝はしっかりと教師が「服装チェック」に立っていた。

ちゃんと着なさい・・と諭してくれる教師はまだ良い方で、大声で怒鳴り叱責する男性教師も珍しくなかった。

今であれば完全なパワハラ、暴力行為としてただでは済まされないだろう。

最も学校とは、教師とはそういう存在だと思っていたから、怒られないようにしていれば何の問題もなかった。

だから学校が見えて来たら学ランを着て、教室に付いたら脱げばよかった。

不思議な事に校内では学ランを脱いでも良い事になっていたから、当時の校則はやはり理にかなっていない威圧行為だったのだろう。

でもその後校則が改正され、今と同じように体操服での登下校が許されるようになってホッとした。

だから制服は1年ぐらいしか着た記憶がなく、殆ど体操服で過ごしていたように思う。

一度薄着になってしまうと、最初こそ違和感があるけれどすぐ慣れてしまうのが子供。

今などうっかり調子に乗ると、すぐ体調に響くから困ったものだ。

一時的な高温傾向のようだが、九州では桜の開花も始まりそう。

仙台の開花予想は4月5日、例年より数日早い見込みだが、どうだろう。

この冬は雪の日が多く、寒かったから春が待ち遠しい事に代わりはない。



今日は「ホワイトデー」。

先月バレンタインがあったばかりだと思っていたのに、1カ月は本当に早い。

スーパーのセンターコートに設けられた特設会場では、週末からたくさんのお客さんが群がっていて、当日の今日はかなり品数が減っていた。

この催時は1月後半から続いていて、2月14日以降は「模様替え」して今日まで続けられた。

しかしよく見ると、バレンタインの時と全く同じ商品、包装を変えただけ・・と思える商品があり、ちょっとずるいのでは?

私は今、もらう事もあげる相手もいない。

母の仏前にでも・・と思ったが、賞味期限が来れば食べるのは自分。

菓子メーカーの策略なんて悪口もあるけれど、季節感と言う点で目くじら立てる程でもないだろう。

それを横目で見るしかない者には、ちょっと寂しくもあるけれど。

夜は霧雨。

傘を差す程ではないが、遠くの夜景は白くなって見えないくらい。

今年初めての霧雨ではないか。

雪ではない事が、少しでも春に近付いている証拠だ。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

君は花粉症、大丈夫ですか?

経験がなくとも、突然発症する人もいるようですので、注意して下さい。

体感的にはまだ寒いですが、春の足音も日ごと大きくなっているようです。

君は、今年の春をどう迎えるのでしょう。

もう春と言ってドキドキワクワクする世代ではないでしょうが、気持ちだけでも楽しい春を迎えられると良いですね。

そう言えば、君と一度だけ公園を散歩したことを思い出します。

桜の時期は過ぎていたけれど、コブシの白い花が綺麗だったと記憶しています。

今年、君もどこかで春の花を見ることでしょう。

寒暖差が大きくなっていますので、体調管理にはくれぐれも気を付けて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



あしひきの 山櫻花 日並べて かく咲きたらば いと恋ひめやも(万葉集巻八 1425 山部宿禰赤人)



飛行機ネタ。

先日、アメリカの新興エアラインのネットニュースに目が留った。

そのエアラインは「ノーザン・パシフィック航空」と言って、アラスカ州を本拠地とするLCCだ。

昨年設立されたばかりで、22年中の就航開始を目指すと言う。

しかもアメリカ国内だけでなく、国際線として羽田・中部・関空への就航も計画中と発表された。

長引くコロナ禍の中、新しいエアライン設立とは強気が企業だと思う。

同社によると、LCCながらもアラスカを拠点とすることで長距離路線が必然となるので、メジャー並みの高品質サービスを目標としているそうだ。

日本とアラスカでは、あまり需要がないように思えるが、拠点となるアンカレッジで本土線との乗り継ぎをスムーズにするスケジュールを組むと言う。

格安とは言え、日本とアメリカ本土は直行便がバンバン飛んでいて、それこそ需要に疑問を持ってしまう。

だがロサンゼルスやニューヨークと言った大空港は、混雑が恒常化しており、外国人の出入国には多くの手間と時間を取られる。

それに比べ旅客便の少ないアンカレッジで出入国審査を受けた方が圧倒的に早く行え、乗り換えしても大差ない・・と言うのが同社の主張。

遠回りになってしまうが、直行便も通常はアラスカ付近を通過するので、ハンデは小さいと見ているようだ。

そして注目すべきは、公表に当たって納入されたばかりの「初号機」も公開されたことだ。

オリジナル塗装が施されたのは「B757-200」。

一瞬「え?」と見間違えかと思ったが、確かにB757だった。

もちろん中古機で、同社は既に12機のB757を確保しており、就航まで大半が揃うとしている。

中古機を導入することで、初期投資を少なくしたと言う事だろうが、近年LCCと言えばB737やA320が定番。

またリース運用も一般化しているので、新造機を導入しやすい時代なのだが、あえて中古機。しかもファンをうならせるB757なのである。

同機は04年、すなわち15年も前に生産が終了しており、それだけの時間が経過してでの「新規757ユーザー」が登場したのである。

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1-1-1-48 B757-200 ICELANDAIR-Tf-fir.jpg ↑(2枚)北欧アイスランドのフラッグキャリア、アイスランド航空のB757-200。現時点で20機保有し、1機はリース中。同社はB767-300やB737-MAX8なども保有しているが、最大勢力で主力機はB757だ。最初に導入して以来30年以上経過し、程度の良い中古機と入れ替えしつつ運用を続けている。ウイングレットを付けた機体が大半を占めており、退役計画もない。小国の為殆どが国際線で、ヨーロッパと北米線で活躍する。フルサービスキャリアだが、首都レイキャビクで乗り継ぎ割引を設定することでヨーロッパ~北米間の利用客も多い。上記のノーザン・パシフィック航空も、アイスランド航空の方式を参考にしたと言う(ウィキペディア英語版より)

B757はボーイングが開発した双発ナローボディ機で、原形機は82年に初飛行。

83年、ローンチカスタマーだったアメリカのイースタン航空と、ブリティッシュ・エアウエイズで運航を開始した。

初飛行以来、今年はちょうど40周年を迎えた事になる。

同機は日本でもお馴染みで、まだまだ現役を続ける「B767」の姉妹機としても知られている。

元々両機は3発ナローボディの傑作機「B727」の後継機として、短・中距離機として開発がスタートした。

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1-1-1-48 B757-200 Eastern_Air_Lines_N504A.jpg ↑82年のイギリス、ファーンボロ航空ショーに出場したB757原形機と、ローンチカスタマー、イースタン航空のB757-200(ウィキペディア英語版より)

それは70年代半ばの頃で、ちょうど「オイルショック」など国際情勢が複雑化した時代。

結果燃費の良い経済的な旅客機が求められようとしていた時期でもあったが、技術もまだ途上にある時代でもあった。

エンジンや航法機器もまだまだ「アナログ時代」であり、事故やトラブルを重ねての進化中であった。

その為かボーイングとエアラインとの間で、意見が食い違い機体のコンセプトさえままならない状態だった。

ただもたついている間に、低燃費・低騒音・高出力の高バイパスエンジンの実用化が進み、コンピューターの実用化も目処が立った事で計画は再び動き出した。

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1-1-1-48 B757-236,_British_Airways_.jpg ↑(4枚)ローンチカスタマーの一つ、ブリティッシュ・エアウエイズ。同社にとって初めての本格的双発ナローボディ機で、域内路線の他長い航続距離を活かして中近東やアフリカなど中距離国際線にも投入された。エンジンは「国産」のロールス・ロイス「RB211」で、ボーイング機としては初めて外国製エンジン搭載でローンチした。意外と知られていないが、初期に生産されたRB211搭載型は「RB211-535C」で、その後出力・燃費を改善した「RB211-535-E4B」に変更された。上3枚の機体のエンジンナセルは、全体的に丸みを帯びテールコーンが露出しており、B747-200/300/SPで採用されたタイプと同型。4枚目は主力となった「535-E4B」エンジンで、ナセルはテールコーンまで覆った流線型になっている。この形状は現在の「トレント」シリーズまで受け継がれている、ロールス・ロイスの伝統。尚「535C」エンジン搭載機の中には、後で「E4B」に換装した機体もある(ウィキペディア英語版より)

最も当初はB727の胴体を延長し、エンジンを換装した3発機が計画されており、さらにワイドボディ機とナローボディ機の2案が提出されていた。

将来性を考えると、どちらも甲乙つけがたく、結局両方を設計することになった。

そしてワイドボディ機がB767、ナローボディ機がB757として開発されたのである。

両機の設計はほぼ同時と言われているが、B757の方は最後まで双発か3発か決定せず、しまいには折衷案として双発機なのにリアジェット式の様な「T字尾翼機」になりそうであった。

1-1-1-48 BOEING_AIRPLANES_-_757_AND_767.jpg ↑設計開始前に描かれたB757のコンセプトイラスト。双発機なのにT字尾翼を持っていた(ウィキペディア英語版より)

これはエンジンなどの信頼度が、エアライン側ではまだ賛否両論があったためで、2発のエンジンは主翼につけていながら、要望があれば尾部にもう1発付けて3発機にできる・・と言う、正直苦しい言い訳的なプランだった。

もし3発機が実現していればDC-10やトライスターの様な形で、双発機ならば何の意味があってのT字尾翼?みたいな変な旅客機になっていただろう。

結局ごく普通の形態にすることで決着が付いたが、2機種の同時開発もボーイングにとっては初めてのことだった。

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1-1-1-48 B757-256_-_Iberia_-_EC-HIS.jpg ↑(2枚)フィンランド、フィン・エアとイベリア航空のB757-200は「中型機」としてヨーロッパ域内幹線や中近東、南アジア方面など多彩な路線で運用された。00年代以降はチャーター運用も活発で、フィン・エアの757は日本のツアー会社と提携して複数回飛来している。その多くは地方空港で、初めてのヨーロッパ機になった空港も多かった。塗装は旧塗装だが、現行塗装変更前に退役した(ウィキペディア英語版より)

そこで開発コストを少しでも抑制できるように、B767と部品の共通化を図った。

座席数も、イースタン航空はB727の後継機種としてほぼ同格の180席級を望んだが、ブリティッシュ・エアウエイズは経済性を考慮し一回り大きい200席級を望んだ。

また興味を示したエアラインも、北米系は180席級、チャーターエアラインが多いヨーロッパでは200席級を望む声が多かった。

高出力エンジンを持つ事もあって、融通性を兼ねてやや大きめの方が良いとの結論から200席級とされ、座席数だけでは4発機のDC-8やB707に匹敵する「大きなナローボディ機」になった。

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1-1-1-48 B757-231,_Delta_Air_Lines.jpg 

1-1-1-48 B757-200_Delta_Lines_N717TW.jpg ↑(4枚)100機以上が現役にあるデルタ航空は、現在同機の最大運用者でもある。自社発注機の他、統合した元ノースウエスト航空機も多数残存している。北米メジャーでは珍しく、エンジンはPW2000を採用したエアライン。老朽化した初期の機体は順次退役しているが、757自体の退役計画はまだない。ほぼ全機がウィングレットをレトロフィットさせており、キャビンのリニューアル工事も進んでいる。数年前までは、ノースウエスト航空の後を継いで日本とミクロネシア線も運航していた。ノースウエスト時代と同じく、本国から回送した757が成田に数機常駐していたが、利用客減少で路線自体撤退してしまった。日本から定期便として乗れる貴重な757であった。現在は国内線の他、ヨーロッパ線や中南米線などの国際線でも運用されており、キャビンも国内線仕様と国際線仕様がある(ウィキペディア英語版より)

767と部品の共通点が多い事は、製造コストつまり機体価格へも反映されるメリットをもたらした他、北米系のエアラインは767を発注している事も多く、維持コストの抑制にも効果があった。

こうして完成したB757は、いざ出来あがるとかなり「ぶっ飛んだ」旅客機であった。

それは短中距離旅客機としての常識を、全て覆すようなある意味「ごつい」機体だったのだ。

唯一「常識」として踏襲されたのはキャビンの幅で、最大3.54メートルはB707以来現在のB737MAXまで受け継がれる伝統の幅。

故に標準的な座席配列は3-3の6列が基本で、これ自体に目新しさはない。

にもかかわらずB757は、その外観とスペックは明らかに一線を画す「ぶっ飛んだ」旅客機であった。

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1-1-1-48 B757-22L_AZERBAIJAN.jpg ↑(2枚)現役にあるトルクメニスタン航空と、アゼルバイジャン航空のB757-200(ウィキペディア英語版より)

基本型であるB757-200の全長は47.3メートル、これはB767-200とほぼ同じだ。

ナローボディ機で比較すると、B737-400は約36メートル、800型は39.5メートル。

現時点で最も胴体の長い900ERでも約42メートルで、757の方が5メートル以上も長い。

開発予定となっている「B737-MAX10」でさえ、43.8メートルである。

加えてDC-8-62、B707-320Bよりも757の方が「大型」なのである。

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1-1-1-48 B757-200 LA COMPAGNIE F-HCIE.jpg ↑(2枚)筆者が最も格好良いと思うB757、フランス、ラ・コンパニー。同社は中古のB757-200を2機導入し、オールビジネスクラス、僅か74席と言う豪華仕様でパリ・オルリー~ニューヨーク線を運航した。20年にA321neoLRに置き替えられ、この刺激的なメタリックブルーのB757は姿を消してしまった(ウィキペディア英語版より)

数値だけみると、意外にもB727-200が約46メートルもあるが、これは3発機の上垂直尾翼の後端が大きく張り出している為で、キャビンを含む「有効長」では757よりはるかに小さい。

また全高は約14メートルもあり、767よりも1.8メートル短いだけである。

翼幅は38.5メートル、767と同じく下面にも膨らみを持たせた「スーパークリティカル翼」が採用されたが、後退角は約25度と767より浅くなっている。

これは上記のように、B727の後継機種として短中距離機として設計されたからで、空気抵抗低減による高速化よりも離着陸性能を重視した結果だ。

1-1-1-48 B757-200_Lofting.jpg ↑B757-200を上方から見る(ウィキペディア英語版より)

巡航速度も、平均でマッハ0.78~0.8程度に設定されており、これはB737などと同レベルにある。

エンジンは当初767と同じくGE製のCF-6系を予定していたが、ナローボディ機としてファン径を小さくするなど設計上の変更が必要で、GE社が難色を示したことから除外された。

代わりにP&W社が軍用として新規で開発していた「F117」エンジンを民生用とした、「PW2000」シリーズが採用された。

1-1-1-48 B757-200 Northwest_Airlines.jpg ↑PW2000エンジンを搭載したノースウエスト航空のB757-200。同エンジンは定格出力のオプションがあり「2037」「2040」「2043」の3種類がある。ファン径はRB211よりやや大きく、出力も若干大きい(ウィキペディア英語版より)

ボーイングではこのエンジンだけを予定していたが、ローンチカスタマーであるブリティッシュ・エアウェイズが自国製である「ロールス・ロイスRB211」を希望した。

同エンジンは従来の2軸構成タービンではなく、3軸構成を特徴とする大口径高バイパスエンジンで、燃費に優れたエンジンであった。

元々70年代に開発された、ロッキード社初のジェット旅客機「L-1011トライスター」用に開発されたエンジンだったが、新機軸を持たせたことで開発が遅延、費用もかさみ、それが原因でロールス・ロイス社は破綻してしまった曰くつきのエンジンである。

同社はイギリスにとって重要な国策企業で、一時国有化することで莫大な資金をつぎ込んでなんとか再生させたが、英米間の政治問題まで発展してしまう騒動を起こしていた。

1-1-1-48 B757-200-TF-FIK.jpg ↑RB211-535-E4Bエンジン。今でこそA320neoやB737MAXで、胴体に比べて大きいエンジンは当たり前になったが、757登場時は「異常な」大きさであった。その為ナローボディ機にも関わらずワイドボディ機並みの出力を持つ、バケモノ的な旅客機だった。RB211エンジンは極めて優秀なエンジンだったが、開発時に大赤字を出していた。757では費用回収の目的もあって比較的安価で提供された為、生産数の7割以上がRB211装備だった。また767に比べて細長い主翼と、それに占める割合の大きいフラップの様子がよくわかる(ウィキペディア英語版より)

そのこともあってか、ボーイングも同エンジン搭載型にはすぐ応じることになり、最終的にはつぎ込んだ資金を回収できるまでになっていく。

RB211自体は非常に優秀なエンジンで、トライスター以後B747にも搭載されていたが、最初からイギリス製エンジン搭載型でローンチしたのは、ボーイング機では757が最初であった(767は後から追加)。

757に搭載されたRB211は、747や767に搭載された物より推進ファン径が一回り小さいが、基本は同じだ。

しかしPW2000もRB211も、本来ワイドボディ機を含めた大型機用として開発されたエンジンであり、ナローボディの757に搭載されること自体異例であり、その姿も奇異であった。

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1-1-1-48 B757-200 Air_Baltic.jpg ↑(2枚)アイルランドのフラッグキャリア、エア・リンガスとラトビア、エア・バルティックのB757-200。エア・リンガスのB757は、初めて大西洋横断運航を行ったが現在はA321neoLRと交替した。エア・バルティックも、現在はA220に機種を統一している(ウィキペディア英語版より)

初期の757には有名なエピソードがあり、アメリカのとある空港で757の後に着陸予定の小型プロペラ機が、突然コントロールを失い墜落すると言う事故が発生した。

事故直前にパイロットが乱気流にぶつかったらしき事を報告していたが、その日の天候状況は良好でレーダーでも乱気流が発生した形跡はなかった。

ただやや風が吹いてはいたが、離着陸に問題がある訳でもなかった。

ところが詳しい調査の結果、小型機の墜落原因は前方を飛ぶ航空機の「後方乱気流」に巻き込まれた可能性が指摘された。

1-1-1-48 B757-200_F-HTAG_-_La_Compagnie.jpg ↑正面から見たB757。ナローボディ機らしかぬ長い脚、大口径のエンジンが細い胴体と対照をなす。一見アンバランスだが、スタイルだけでも枠を超えた「ぶっ飛び旅客機」だと分かる(ウィキペディア英語版より)

ジェット機は後方に高熱の空気を噴き出して飛ぶため、その部分では乱気流が起きやすくなったり空気の密度が急激に変化して、後続機に危険を及ぼす可能性がある。

なので空港周辺では、前後の航空機が一定以上の間隔を保つよう管制されている。

間隔は機種によっても決められており、4発機などの多発機の後方はより間隔を取らなければならない。

だが管制側は機種まで把握していない事があるので、指定された機種では誘導時にコールサインと便名に大型機を意味する「Heavy」をつけ加える事が義務化されている。

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1-1-1-48 B757-200-Jet_2_.jpg ↑(2枚)B737やA320が主流のLCCにあって、珍しくB757を運用するイギリスのLCC、ジェット2。上はツアー企画の特別塗装機。同社の正式名称は「JET2.com」。ドット・コムまで社名にするエアラインは同社が最初。現在9機のB757を保有し、近い将来A321neoへの交替が予定されているが、今しばらくは現役に留まる。胴体側面のコピー(宣伝文句)は数種類ある。シルバーとレッドの塗装は格好良いが、ヨーロッパLCC特有のコピーは若干騒々しい(ウィキペディア英語版より)

757はナローボディ機の中型機であるから、当然「Heavy」は不要のはずだった。

しかしPW2000とRB211エンジンは、元々ワイドボディ機用の大型エンジンであり、その後方気流もまた同格であったのである。

事故後757に対しては、「Heavy」をコールするようになった。

いかに同機が常識外れの、パワフルな機体であるかを裏付けるエピソードと言えよう。

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1-1-1-48 B757-224,_United_Airlines_N48127.jpg ↑(5枚)コンチネンタル航空とユナイテッド航空のB757-200。コンチネンタル航空はB727の後継機としてB757を導入した為、日本~ミクロネシア線でも運航した。期間は短かったが、地方空港でも定期便として飛来した貴重なB757だった。意外にもユナイテッド航空は自社発注機は少なく、現在保有する757は200・300型とも全て統合した元コンチネンタル航空機。全機がウイングレット装備に改修されていて、200型は約30機、300型は14機保有する。200型に関しては数年以内に退役が予定されている。かつての自社発注機はPW2000エンジンを選択していたが、コンチネンタル機は200・300型ともRB211エンジンだったため、現在はこちらに統一されている(ウィキペディア英語版より)

またこのようなエンジンを搭載出来たのは、767と共通化させた脚の効果も大きい。

見逃されがちだが、757の脚は他のナローボディ機では見られない独特の物である。

767とほぼ共通の為長く、地上高はかなりある。

しかも主脚は2軸4輪のボギー脚で、ナローボディ機では4発機だけでしか見られず極めて珍しい形態を持つ。

1-1-1-48 B757-200  ICELANDAIR TF-FIV.jpg ↑アイスランド航空のB757-200。767と共通の脚は、ナローボディ機としては最も長く、地上高も高い。主脚は2軸4輪のボギー脚で、レトロフィットされたウイングレットと合わせると一見ナローボディ機には見えない重厚感があって格好良い。事実機体総重量はトップクラスで、ワイドボディ機並みの飛行性能を持つ(ウィキペディア英語版より)

だがこの脚のおかげで機体重量を引き上げる事が出来、それは燃料搭載量の増加も可能にさせた。

コクピットも完全に767と共通化されており、パイロットのライセンスも共通であり、もちろん2人乗務機である。

飛行特性も限りなく767に近づけられており、両機を積極的に導入した北米系のエアラインでは人員コスト削減も実現した。

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1-1-1-48 B757-200_Uzbekistan_Airways.jpg ↑(2枚)アビアンカ航空、ウズベキスタン航空のB757-200。後者は現役で、日本へ定期便・チャーター便での飛来歴もある(ウィキペディア英語版より)

操縦システムもほぼ767と同じで、フライ・バイ・ワイヤ機ではないがスポイラーだけフライ・バイ・ワイヤ化されており、エルロンとして使えるよう左右独立して作動できる。

コクピット周辺はやや「垂れた」ような形状になっているが、これもパイロットが視覚的に767との違和感を減らすためだ。

コクピットの軸線は、機体のそれに比べて2度程下方に向けていて前方視界が広く取られている。風防も767と同じ形状にしてとことん共通化を意識した設計になっている。

視界に優れたコクピットは好評で、狭いローカル空港での取りまわしやすさも追随していた。

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1-1-1-48 B757-200 Delta.jpg ↑(2枚)B757の特徴の一つ。「垂れ下がった」コクピット。当時としては斬新なデザインで、どこか現在のB787を思わせる(ウィキペディア英語版より)

そして757最大の特徴は、航続距離の長さである。

上記のように以前の4発機並みの大きさが、燃料搭載量を増やし、燃費に優れたエンジンと相互作用が生まれたのである。

200型の最大航続距離は、実に7,400キロにも及び、80年代前半の時点では驚くべき数値であった。

やや先に世に出た767のおかげで、いわゆる「双発機の時代」が到来し、当然757にも目を向けられるようになった。

長距離洋上飛行規制「ETOPS」緩和を、757はナローボディ機として初めて取得し、大西洋横断路線に各エアラインが投入した。

北米とヨーロッパ間の場合、アメリカ側は東海岸から西ヨーロッパであれば757は余裕で直行できる。

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1-1-1-48 B757-200 American_Airlines_N185AN.jpg ↑(5枚)最も多くのB757-200を導入・運用したアメリカン航空。全米どこの空港でも必ずその姿が見られたほど、「757と言えばアメリカン」と言う時代もあった。延べ150機以上を運用し、国内線はもちろん、ヨーロッパ線、カリブ海、中南米路線の中核として幅広く使われた。しかし19年に始まったコロナ禍で機材のリストラを余儀なくされ、20年全機が一斉に退役に追い込まれた。後継機としてA321neoXLRを発注している(ウィキペディア英語版より)

機体の総重量は大型ワイドボディ機はもちろん、767と比べても軽く、座席数もB767-200とは大きな差がないことから、757は経済性の高さがより実証されるとともに、「姉」である767の売り上げを阻害する存在にまでなってしまった。

結果767葉、胴体を延長した300型で名誉を回復することになるのだが、今度は757へも胴体延長の計画が持ち上がる。

同機はヨーロッパで盛んだったチャーターエアラインからの人気が高く、座席数の増加を望まれていた。

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1-1-1-48 B757-28A_TUI.jpg ↑(3枚)イギリスの大手チャーターエアラインだったモナーク航空とタイタン航空、トムソン航空、ドイツ・TUIのB757-200。B737やA320より座席数が多く、航続距離の長いB757はチャーターエアラインからも歓迎され、特にチャーターエアラインが多数存在したイギリスでは人気があった。しかしLCCの台頭で00年代以降、ほとんどのエアラインは統合・倒産などで姿を消した。その中で残っているのがタイタン航空とドイツのTUIで、同機も現役で運用されている。タイタン航空の757は不思議なオレンジ色の「円」が描かれているが、これは土星の衛星「タイタン」をイメージしたもの。ところがあまり知名度がなかったと見えて、最近では消されてしまう機体が増えている。TUI機はトーマス・クックグループ、トムソングループなどで運用されていたが、最終的にTUIグループに一本化されている(ウィキペディア英語版より)

ボーイングでは200型の発展型として、航続距離延長型とやや胴体を伸ばしたタイプを検討していた。

ただ航続距離に関しては充分であるとなり、胴体を延長した「300型」が96年に初飛行。99年ドイツのコンドル航空が初就航させた。

200型から14年も経ってからのバリエーション展開も極めて異例で、言い換えればいかに200型が優れた機体であったかを物語る。

300型の全長は約7メートル延長して、約54.5メートルとB767-300とほぼ同じ長さ。

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1-1-1-48 B757-300 ARKIA-4X-BAU.jpg ↑(2枚)99年に運航を開始したドイツ、コンドル航空とイスラエル、アルキア航空のB757-300。コンドル航空の300型は現在も現役で活躍中。アルキア航空機は02年、チャーター便としてケニア・モンバサ空港を離陸した直後、イスラム過激派と思われるテロリストからミサイル攻撃を受けた。ミサイルは命中せず、乗客も攻撃には気付かなかったという。目撃者によるとB757-300は機体後部から「花火の様な物」をまき散らしていたとされ、対空ミサイルを回避する装置「フレア」を発射したのではないかと言われているが、イスラエル政府は否定している。尚現在757は退役し、A321LRと交替した(ウィキペディア英語版より)

座席数は200型が最大で230席であるのに対し、300型では280席とB767-300は元よりA300に匹敵する輸送力を持つ。

だったらワイドボディ機で良いのでは・・と疑問が湧くが、パイロットや客室乗務員のライセンスは同じであり、需要に応じて機材を使い分ける事が出来る。

また欧米の空港、特に国内線専用・チャーター便が利用する空港では環境規制が厳しく、大空港でありながらワイドボディ機の運用を禁じる空港もあった。

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1-1-1-48 B757-300 UNITED N78866.jpg ↑(4枚)アメリカで最初にB757-300を受領したのはコンチネンタル航空で、ユナイテッド航空は1機も発注していない。しかし両社の統合によって、ユナイテッド航空が全機を引き継ぎ現在まで運用を続けている。

ならばワイドボディ機並みの座席数を持つ300型であれば、さらなる需要増が見込めるとして生産が決定したのだった。

しかし同機のデビュー後、再び国際情勢の悪化・不安定化の時代を迎え、世相は「ダウンサイジング」化へ傾き始めており、300型の受注は伸びなかった。

期待された200型の大手ユーザーだったアメリカン航空やユナイテッド航空が、あまり興味を示さなかった事も販売に影響した。

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1-1-1-48 B757-300 DELTA N588NW.jpg ↑(4枚)ユナイテッド航空と同じく、200型のヘビーユーザーだったデルタ航空も300型は発注しなかった。コンチネンタル航空と同じくして発注したのはノースウエスト航空で、やはり両社の統合後デルタ航空が全機を引き継いだ。翼端のウイングレットは、コンチネンタル航空が何機か取り付けユナイテッド航空が残りを取り付けたが、ノースウエスト航空は改修しなかったためデルタ航空が全機に施している。エンジンはコンチネンタル・ユナイテッドがRB211、ノースウエストとデルタがPW2000を選択して綺麗に分かれている。尚TWA、USエアウエイズ、アメリカ・ウエスト航空などが使っていた200型は、エンジンが異なっていたため、ユナイテッドとデルタがバーターした機体が存在し、それぞれエンジンを統一させている(ウィキペディア英語版より)

ボーイングでは「737NG」、エアバスもA320シリーズが好調であった事も災いした。

300型では、コクピットを737NGと同じ完全なグラスコクピットを装備する計画もあったが、運用上デメリットの方が大きいと言う事で見送られ、座席数以外目新しいとは言えない機体に見られてしまった。

同時に好調だった200型も、販売が落ち込み、04年中国の上海航空に最後の機体が納入され生産を終了した。

総生産機数は1,050機で、このうち913機が200型、貨物専用型の「200PF」が80機、300型が55機だった。

この他米空軍がVIP輸送機及び人員輸送機として、6機を発注し「C-32」として生産されている。

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1-1-1-48 B757-200 C32-B.jpg ↑(3枚)アメリカ空軍のC-32AとC-32B(中)。C-32Aは4機あり、大統領専用機VC-25A「エアフォース・ワン」に倣って「エアフォース・ツー」として、随行する副大統領や国務長官が搭乗する。大統領の海外訪問では、必ず2機のC-32Aが同行するが、不測の事態に備えて現地到着時間や場所、ルートは公表されない事が多く「エアフォース・ワン」より秘匿性が高いと言える。また単独で運航される事も多いが、その時も「エアフォース・ツー」として飛ぶ。C-32Bは旅客機とほぼ同じ仕様で、米国市民の避難や人道支援に使われる。その為民間登録記号を持っていて、軍用機として敵の「標的」にならないよう敢えて真っ白のボディになっている。尚A型はPW2000エンジンだが、2機のB型はRB211エンジンを装備している。下はKC-10Aから空中給油を受けるC-32B。空中給油をするB757の姿はある意味凄い(ウィキペディア英語版より)

ボーイングは受注減少を理由に生産停止したが、実際には運用中のエアラインの多くは反対意見が多かった。

改めてB757のバリエーションを見てみると、基本型である200型、胴体延長型の300型、そして大型のサイドカーゴドアを持つ貨物型200PFの3種しか存在しない。

他に旅客型の200の胴体前部を貨物室、後部に客室を残したコンビ型「200M」が生産されたが、これはロイヤル・ネパール航空(現ネパール航空)が発注・受領した1機だけ生産されている。

また200型を中古機から貨物機に改造した「200SF」と、ごく少数の「200MSF」が存在するが、いずれも新造機ではない。

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1-1-1-48 B757-200M Nepal_Airlines_9N-ACB.jpg ↑(2枚)ファンの間では「激レア機」として人気がある、1機だけ生産された貨客混載型の200M。ロイヤル・ネパール航空が発注した機体で、ネパール航空に改称後も現役に留まっている。前方左側にサイドカーゴドアを持つ。客室窓が残されたままだが、貨客両用ではなく完全な貨物室として使われる。94年、関空開港時に初めて就航し、日本では現在まで唯一定期運航で飛来したコンビ型である。現在再開した日本線はA330-200で運航される(ウィキペディア英語版より)

何よりも特徴的なのは「ER」や「LR」と言った、航続距離延長型が存在しない事である。

実はボーイングには、「200ER」「300ER」の構想自体はあった。

机上プランのみで終わってしまったが、燃料タンクを増加させ200型で最大8,500~9,000キロ、300型で最大8,000キロ前後が可能と見積もられていた。

00年代初頭まで、これだけの長距離運用はワイドボディ機が常識であった。

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1-1-1-48 B757-200-Far_Eastern_Air_Transport Camry.jpg ↑(6枚)日本を始め、旅客需要の高い時期に差し掛かっていたアジアでは757はあまり人気がなかった。中国国際航空(上2枚)の運用期間は短く、現在は貨物機に改造され数機が現役に残る(3枚目)。中国南方航空(4枚目)、中国西南航空(5枚目)の200型はチャーター便ではあったが初めて日本に飛来した記念すべき757であった。下は台湾・遠東航空の200型で、日本車「トヨタ・カムリ」を描いた特別塗装機。日本にチャーター便で飛来した事がある(ウィキペディア英語版より)

機体の性能よりも、ナローボディ機である事で乗客のストレスに対応できないとされていたからである。

長距離運用となれば、トイレやギャレーを増やし、食料品の搭載量も増え、乗客の荷物を含む貨物も増える。

ところが757は幅こそ標準的なナローボディだが、胴体の上下寸法が大きく、キャビンの高さはワイドボディ機並みを持っていた。

床下貨物室も一般的なコンテナは積載出来ないが、B737よりも遥かに容積は大きい。

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1-1-1-48 B757-200PF-Cargojet.jpg ↑(3枚)純貨物型の200PF。757の貨物型は新造機として生産された「PF」と、旅客型を改造した「SF」がある。外観上の違いは殆どないが、内装の都合でSFの方が積載量がやや少ない。UPSはPF・SF合わせて75機保有し、世界で3番目に757を持つユーザー。DHL機は中米パナマに本拠を置くエアロ・エクスプレッソの機体で、最も新しい200PFの1機。下はカナダ、カーゴジェットの200PF(ウィキペディア英語版より)

しかしこの時代に、ナローボディ機での長距離運用は商業的に難しいと見られていたのである。

だがエアラインの中には、その性能や使い勝手の良さを重視する向きが多く、757の生産停止に反対したのである。

特に多数の757を運用していたアメリカの「レガシー」、アメリカン航空・ユナイテッド航空・デルタ航空・ノースウエスト航空・TWAなどは、国内線のみならず中距離国際線の主力として使っていた。

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1-1-1-48 B757-200SF DHL_(European_Air_Transport_Leipzig_-_EAT).jpg ↑(2枚)中国の貨物エアライン・SF航空と、ヨーロピアン・エア・トランスポート・ライプツィヒのB757-200SF。前者は元中国国際航空機、後者は元ブリティッシュ・エアウェイズ機。DHLはグループ全体で50機近い757PF・SFを運用するが、全て委託したエアラインの機体。この機体のエンジンは初期生産型の「RB211-535C」エンジンで、現在同社が唯一保有・現役にある(ウィキペディア英語版より)

757はB727の後継機として考えられていたが、実際にはDC-10・トライスターなどの中距離用ワイドボディ機の後継機種であった。

実際これらのエアラインは、中南米方面やヨーロッパ線の多くに757を投入しており業績が良かった。

さすがに10時間以上と言う長距離路線はなかったが、5~8時間程度であれば大きな問題は起こらず、むしろ便数を増やして利便性を上げていた。

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1-1-1-48 B757-200 TABAN AIRLINES-Ep-tbi.jpg ↑(2枚)ロシアのLCC、アズール航空、イラン・ターバーン航空のB757-200。まだ少数派だが、旧ソ連構成国や途上国でも近年757が増えている。長年の制裁でアメリカ機を導入出来ないイランでも、最近は第三国経由で購入され始めており、ターバーン航空の757もトルコもしくはロシア経由で導入されたようだ。イランにとっては就航後40年を経て、初めてのB757である(ウィキペディア英語版より)

大西洋路線では、主要都市間だけでなく二次的大都市(アメリカならばフィラデルフィア、ボストン、ボルチモアなど)の路線で直行便運航が可能であった。

その為「ER」を作らずとも、通常型で充分収益性の高い運航が確立していたのである。

00年代以降、767と同じく主翼端にウイングレットをレトロフィットさせる改修が開始され、767よりも多くの機体・エアラインで改修され、燃費が5%程改善し、航続距離も伸びた。

原形機が初飛行し、生産終了まで20年を超えたにも関わらず、基本的なバリエーションは3種しかないのは、それだけ優れた性能を有していたからに他ならないのである。

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1-1-1-48 B757-200 Sunday_Airlines,_UP-B5704.jpg ↑(2枚)カザフスタン、サンデー・エアラインズのB757-200。同社は事実上メインキャリアであるSCATの系列子会社で、主にチャーター運航を手掛けるが、SCAT便として定期運航も行っている。日本への初のカザフスタン機として飛来している。一見ヨーロッパ辺りのエアラインを思わせる明るくポップな塗装が印象的(ウィキペディア英語版より)

わざわざ「ER」を作らなくとも、双発ナローボディ機としては稀有とも言える長距離性能を、40年前に既に実用化していた。

考えてみれば、これは先見の明を通り越してかなり「ぶっ飛んだ」設計思想であった。

同機を多用したエアラインの多くは、その卓越した性能にほれ込んで生産停止後も運用を続けている。

現在生産数の約半数がまだ現役にあると思われるが、コロナ禍の影響で急速に数を減らしつつある。

20年まではアメリカン航空が最大の100機以上を保有していたが、コロナ禍で一気に全機を退役させると言う荒技を起こした。

現時点ではデルタ航空が200・300機合わせて約120機保有し、老朽化した機体を除いて退役計画はない。

同社は現在キャビンの改装を順次行っているが、757も改修の対象になっており、一方で退役が予定されるB767は対象外となっていることからも、同社の757に対する評価が窺われる。

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1-1-1-48 B757-200F_FEDEX N918FD.jpg ↑(2枚)約100機保有するフェデックス。大半の機体が旅客機から改造したSFで、エンジンはRB211に統一している。同社では今後も増備を予定しており、長期に渡ってB757を運用する事が決まっている。長距離運用は出来ないが、北米・カリブ諸国・中南米・ヨーロッパ域内、そして中国や東南アジア域内と世界中に展開している(ウィキペディア英語版より)

その次に多いのがユナイテッド航空で、同社も200・300型両方を保有。

200型に関しては25年ごろを目処に退役が予定されているが、300型についての退役計画はない。

この他貨物機のみであるが、フェデックスが約100機、UPSが75機で運用しており、今後中古改造機での増備も予定している。

生産停止後「ポスト757」を巡って様々な憶測が行き交って来たが、ボーイングは未だ明確な答えを出していない。

同社は開発を予定している「B737-MAX10」を後継機種としているが、座席数は757より少なく、航続距離は約6,000キロ程度と遠く及んでいない。

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1-1-1-48 B757-258_Sun_d-Or_International_Airlines_4X-EBT.jpg ↑(3枚)イスラエルのフラッグキャリア、エルアル航空と系列チャーターエアライン、サンドールのB757-200。エルアル航空は比較的初期からB757を運用し、主にヨーロッパ線の主力として活躍した。サンドールの機体は、エルアル航空旧塗装のままの機体。現在は退役したが、政府専用機として数機が空軍(航空宇宙軍)に移籍して現役に留まっている。これらの機体の中には複数のアンテナやバルジが追加された、見るからに「怪しい」757が目撃されており、VIP機もしくは電子戦機、空中指揮機としての機能を持たせていると思われる(ウィキペディア英語版より)

一方ライバルのエアバスはそれに目を付けて、「A321neo」をベースとした航続距離延伸型の「LR」の生産を開始、さらに長距離能力を向上させた「XLR」をローンチした。

757を全て退役させたアメリカン航空は「A321neoXLR」を大量発注しており、座席数や航続距離では757と同格になると見られている。

世間では、しばらく新機開発が行われていない事に着目し、「797」となるであろう新型機は、757の発展型になるのでは?と噂が絶えない。

ボーイングでは「現時点で新型機開発の計画はない」と否定しながらも、「757を改良した機体も考え得る」と非公式ながら答えていると言う。

かなりざっくりした言い方で、現況を見ると実現は難しそうだが、A321neoの売り上げが絶好調である事は重要だろう。

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1-1-1-48 B757-Hekla_Aurora_cabin_757.jpg ↑(3枚)アイスランド航空のB757-300。現在2機保有し、上のオリジナル塗装は自社発注機。中はアイスランド国旗をモチーフにした特別塗装機で、元アルキア航空機。下はキャビンで、200型も共通のインテリアを持つ。照明にはLEDを使い737NGで採用された「スカイ・インテリア」に準じた改修を行っている(ウィキペディア英語版より)

今のところ「B737-MA10」で対抗できると、表向き豪語しているようだが、胴体全体の意匠が737はまるで別物であり、長距離長時間飛行には適していない。

仮に757を改良するならば、エンジンを新しい物に交換する、操縦システムの全フライ・バイ・ワイヤ化とコクピットの更新、一部素材の複合材適用による軽量化などが考えられ、0からの新設計よりは遥かに安く開発できよう。

デルタ航空やフェデックスはそう訴えているようで、独自でのリファインも視野に入れているようだ。

1-1-1-48 Boeing_757-200_DELTA 2.jpg ↑デルタ航空、B757-200の国内線用ファーストクラスのキャビン。最近全面リニューアルが進んでいる。LED照明の他、オーバーヘッドストウェッジがB777、B787と同じ現代版に改修されている。同社の757は国際線用、300型ともリニューアルが行われている(ウィキペディア英語版より)

比較的生産数が多かった事で、中古機も多く、アイスランド航空のように従来運用して来た機体と交替させたり、新機材として導入するエアラインも、ここ数年現れている。

日本では何故か導入したエアラインがなく、ファンの間では「レア機」扱いされていると言う話もあるが、外国エアラインの飛来は意外と多い。

座Qン念ながら現在、日本へ定期便として飛んで来る757はないが、つい最近までデルタ航空がミクロネシア線に投入していたし、コンチネンタル航空もミクロネシア線で運用していたB727の代わりに、同機を日本各地に飛ばしていた。

この他短期間ではあったが、ロイヤル・ネパール航空、ロイヤル・ブルネイ航空も日本線の定期便で運航していた事があるし、チャーター便としては、羽田・成田・関空以外の地方空港に、複数のエアラインがかなりの頻度で飛来している。

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1-1-1-48 B757-200 ICELANDAIR TF-FIO.jpg ↑(2枚)B767と共通のコクピット。パイロットもライセンス共通で操縦できる。初期の機体はブラウン管が用いられていたが、300型では最初からLCDが標準化されている。既存の200型の多くもLCDに変更されている。下はアイスランド航空が独自に改修したコクピットで、パイロット前面の航法関係のディスプレイが大型化され、従来の縦に2枚ではなく横2枚にレイアウトが変更された。この改修はデルタ航空、フェデックスでも行う予定(ウィキペディア英語版より)

生産を停止した04年から15年以上も経つのに、数を減らしているとは言え現役であるという事実。

先に書いたように、以前から同機を運用し中古機を導入して入れ替えするエアラインまであると言うのは、他に代わる機材がないと言う認識があると言う事だ。

757は作りも堅牢だと言われ、現役機を見ても綺麗に保たれている機体が殆どだ。

1-1-1-48 B757-200 Cabo_Verde_Airlines,_D4-CCG.jpg ↑激レア機、アフリカ西部、大西洋上の島国カボベルデのフラッグキャリア、カボベルデ・エアのB757-200。アイスランド航空からリースしている機体で、たった1機だが同国唯一の長距離機だ。19年から運用を開始、B757の「最も新しいユーザー」の一つでもある。スイーツを連想させる様な綺麗で可愛い塗装が印象的。今風の塗装だと設計の古さを全く感じさせない、新しい旅客機に見える。それだけデザイン・性能とも先見性に卓越した機体でもある(ウィキペディア英語版より)

機体そのものが老朽化していることは止むを得ないが、アメリカン航空のようにA321に切り替えるエアラインがある半面、なおも757を支持するエアラインが多く存在すると言う事実がある。

改めて見ると、B757は極めて特殊なナローボディ機であることが分かる。

簡単に言えば、ワイドボディ機の性能を持つナローボディ機と言える機体で、限界を引きだしたのとは違う。

極論だが、姉妹機767の胴体を取り換えただけ・・の様な性格を持つ。

胴体の長さのバリエーションは、ほかの機体でも良く見られる事であるし、珍しい所ではA330と340のように機体自体は全く同じながら双発と4発のバリエーションと言う事例もある。

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1-1-1-48 B757-200 -RNZAF-757-pegasus.jpg ↑(2枚)ニュージーランド空軍のB757-200SF(M)。中古旅客機をコンビ型に改造した機体で、VIP輸送の他、下のように南極基地への物資・人員輸送にも使われている。同機は史上初めて南極に離着陸した「旅客機」のタイトルを持ち、従来のプロペラ輸送機に比べて高速、搭載量、航続距離とも大きく、堅牢な作りで性能をいかんなく発揮している。自国だけでなく、日本を含む各国の調査隊の輸送にも従事している(ウィキペディア英語版より)

ただナローボディとワイドボディ、と言うのは757と767が唯一で、いかに特別な機体であったかと言う事だ。

性能的にも80年代に開発された機体としては、異色と言うだけでは物足りない程独立したカテゴリーの機体なのである。

1-1-1-48 B757-223,_American_Airlines_N186N.jpg ↑ナローボディ機とは思えない、迫力のスタイルを持つB757(ウィキペディア英語版より)

40年経っても、その性格が受け入れられている機体は他に見ない。

止むなくA321に流れるエアラインもある中、757の改良型に期待を寄せているエアラインもまた、決して少なくないのである。