古代史探偵A 新薬師寺・十市皇女の涙(12月11日 晴れ時々曇り 7℃)

真冬並みの寒波は少しだけ収まり、気温も僅かに上がった。

だが寒い事に変わりはない。

特に家の中は日増しに気温が下がっている。

日差しが弱くて温まらないのだろうか、我が家は善くも悪くも保温性の良い建物なのだが、夏は一度温まると容易に涼しくならず、冬は一度冷えるとやはり容易に温まらないと言う欠点がある。

貧乏だから、暖房器具はまだ出してさえいない。

そこまで寒くもない、と言う事ではあるが。

それでも、以前住んでいた家よりはマシ。

前の家は変に広くて、ストーブを焚いてもなかなか温まらず、その部屋以外に暖房など光熱費がどれだけかかるかわからず、居間から一歩も出られなかった。

トイレや風呂に行くのも憚られるほど。

その前の家は古い木造家屋で、隙間風だらけ。

そういう意味では、鉄筋コンクリート造りの今の家が最もコンディションが良いと言えるのだが、どうもいつでも快適、と言う訳には行かない。

夏はエアコンや扇風機を使うなり、窓を開けるなどの対処方法があるが、冬は暖房するしかない。

かと言って我慢し過ぎて体調不良になるのもバカバカしいし、難しい所だ。


低気圧が今夜から明日午前中にかけて接近し、県内は深夜から雨か雪・・と言う予報は聞いていた。

予報士は「早くて日付が変ることから雪かみぞれが降ると思います。」と言うのを、私ははっきり聞いていた。

コ○ギ~!話が違うぞ、信じた私が馬鹿だったか。

22時過ぎに急に雪が降り始めている。

一見ミゾレか、と思ったが、水分の多い大粒の雪。

もちろん傘は持っていない。

バスにするか・・と思ったが、歩くつもりでカフェでゆっくりしていたので時間切れ。

歩くしか手立てはなく、ずぶ濡れではないけれど、冷たい雪に頭や上着はしっかり濡れた。

買い物はビニール袋に入っていたので大丈夫だったが、帰宅後すぐ風呂に入ったのは言うまでもない。

気温自体はそれほど低くないので、帰るまで道路は積もっていなかったが、歩道はびちゃびちゃでシャーベット状になっていた。

仙台特有の「ベチャ雪」。雨の様に始末が悪い。

わかっていれば傘を持って出かけたのに・・・。





元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

帰り道、雪には当たりませんでしたか?

明日朝まで降ると言うので、外出の際には足元に注意して下さい。

寒さも本格的になりましたの手、体調管理にも気をつけて下さい。

冬の寒さは辛いですが、それを楽しむように過ごして下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




天霧し 雪も降らぬか いちしろく このいつ柴に ふらまくを見む(万葉集巻八 1643 若桜部朝臣君足)




☆今日のバス

0005号車 18年式いすゞエルガ(LV290N2) 野村車庫






◎古代史探偵A(新薬師寺 十市皇女の涙)



奈良市の奈良公園は、数キロ四方に及ぶ広大な敷地が指定され、年間通して観光客が絶える事がない。

奈良時代、平城京においては宮城の外側「外京」に当たり、神奈備・春日山を中心に都の「守護神」として寺院と神社が置かれた。

東大寺を中心に、春日大社、興福寺と言った平城京を代表する大寺院が建ち並んでいる。

公園区域の最南端に位置するのが、平城京遷都の立役者・藤原不比等が祀った春日大社が鎮座し、周辺部は山自体をご神体とする神奈備である。

そのため参道以外に足を踏み入れる事が出来ない「禁足地」に指定されており、1.300年間守られている。

おかげで春日山の森林は奈良時代から手つかずの状態で保存され、都会にもかかわらず原生林として厳しい管理の下、受け継がれている。

春日大社へは興福寺東側の表参道から入るのが一般的だが、東大寺から若草山を散策しながら至る参道や、原生林の中を通る古代から残る狭い参道がいくつか存在する。

春日大社から南側へ下ろうとすると「囁きの道」「禰宣の道」などと名付けられた小径があり、恐ろしいまでの静寂の中、森林浴を楽しめる。

これらの道は山を下ると高畑町と言う旧市街地に抜け、神域の外に出られる。

この街は普通の住宅街だが、かつては春日大社への門前町の一つであった。

現在は静かな古い住宅地で、この一角にあるのが「新薬師寺」である。

ちょうど裏手には奈良市立写真美術館や奈良教育大があり、ちょっとした文芸地区でもある。

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           ↑新薬師寺(奈良市高畠町、筆者撮影)

「新薬師寺」は「続日本紀」によると、745年(天平17年)聖武天皇の眼病平癒を祈願して光明皇后によって建立されたと見える。

創建当時は4町もの広大な敷地と伽藍を誇ったと言われるが、現在は本堂と鎌倉時代に立てられた南門と東門、茶室が残るだけの小さな古刹である。

観光ルートからちょっと外れた位置にあり、春日大社への参道から入り組んだ狭い道を進んだ場所にあるので、シーズンでも訪れる人は少なく、穴場的な寺である。

同寺南門の正面には、美しい稜線を持つ「高円山」があり、毎年お盆には山頂付近で送り火の「大文字焼き」が行われる。

この時ばかりは猛暑の日中から「場所取り」の地元客や観光客で混雑するが、それ以外は静かな住宅街のお寺である。

現在の境内は小さな公園程度の狭い場所だが、本堂は貴重な奈良時代の建物である。

本尊は「薬師如来像」だが、それを守る「十二神将」像こそ同寺最大の魅力と言える。

薬師如来像は平安時代初期の木彫で、全高2メートルある。

一木造りの木彫像は珍しくないが、2メートルを超す物は異例である。

ただし一体削り出しではなく、頭部と胴体、両手などは別に削り出して組み合わせてあるが、木目や節から同じ1本の木から削り出していることが分かる。

「眼病封じ」の如来と言うことで、目が大きくぱっちりしており、「国風文化」が意識され始めた時代の仏像なので「ポッチャリ」体型と相まって、初めて見る女性などだと思わず「可愛い」と思うだろう。

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            ↑本尊・薬師如来像(ウィキペディアより)

一方本尊を円形に取り巻く十二神将像のうち「ハイラ」以外は、奈良時代の作品で、全て当時スタンダードだった脱活乾漆法で作られている。

「ハイラ」は明治時代の地震で倒れ損壊した為、1931年に複製されたものである。

このため「ハイラ」を除く11体が「国宝」であり、本尊薬師如来は重文となっている。

もちろん本堂も国宝である。

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             ↑十二神将像(ウィキペディアより)

2008年、奈文研を主導とする調査で、西側にある奈良教育大のキャンパスで、大型の建物跡が確認され、関係者の間で大騒ぎになった。

建物は礎石作りで、正面54メートル、奥行き27メートルと言う「正長方形」であることが分かった。

高さは不明だが、礎石の大きさから12~15メートルはあったのではないかと言われ、当時の東大寺・大仏殿に匹敵する大寺院だったことが事実上証明された。

記録から新薬師寺は朝廷から食封(経営費用)を下賜される「官寺」だったことが分かると同時に、平城京・外京が大臣・藤原不比等の勢力がおよんだ地域でもあったことも影響していよう。

不比等は既に720年に亡くなっていたが、その後は不比等の子「藤原四兄弟」が後を継ぎ、権勢を奮った。

しかし735年に遣唐使の帰国船が持ち込んだと思われる「天然痘」が、九州から瞬く間に平城京にも拡がると、権力を掌握していた四兄弟、武智麻呂・房前・宇合・麻呂は僅か半年のうちにり患し死去している。

その後政権は藤原氏が一時的に衰え、橘諸兄が右大臣として責任者になるが、同時に藤原武智麻呂の子・仲麻呂が権力に近付いていた。

彼は叔母に当たる光明皇后と親しい間柄にあったとともに、擁護を受けて諸兄政権を圧迫する。

新薬師寺はまさにその時代に建立されたことになり、広大な敷地や伽藍も光明皇后の一存であるより、仲麻呂の働きかけも強く作用したはずである。

光明皇后は、夫・聖武天皇にならって仏教を深く信仰した。

父・不比等から受け継いだ敷地を「法華寺」や「海龍王寺」を建立し、尼寺である法華寺では貧しい人や病気の人を救うための施設「施薬院」を作ったりしている。

特に病気・健康については深い関心と知識があったと思われ、新薬師寺もそうした彼女の想いを反映して建立されたと思われる。

記録によると奈良時代後期の780年(宝亀11年)に落雷で西塔が焼失、平安時代中期の962年(応和2年)秋の台風で、伽藍のほとんどが倒壊・損壊したと見える。

1180年の平重衡による「南都焼き討ち」では、辛うじて兵火から逃れたが、台風以降寺は衰退し、伽藍の復興は行われず現在に至っている。

記録から東西両塔があったことが分かるが、現在はほとんどが住宅地になっているため、遺構は確認されていない。

しかし正面54mもの本堂らしき建物だったことから、両塔もそれ相当の高さであったことは確実である。

東大寺の東西両塔が「七重塔」で、高さは約100メートルあったから、新薬師寺のそれも近い高さを誇っていたことだろう。

藤原氏の隆盛は、平城京の大都市化を促進させ、東大寺の他元興寺や大安寺(南大寺)・興福寺にも数十メートルの多重塔が設置されていたから、まるで「摩天楼」の様な景色が拡がっていたはずである。

今やその面影は全くなく、奈良市内で最も高い建物は大仏殿の約49メートル。

市の条例で大仏殿より「高い」建物は作ってはいけないことになっているため、もし光明皇后や聖武天皇がタイムマシンでやってきたら、「平城京時代の方が大都市っぽい」と嘆くかも知れない。

話が逸れたが、現本堂は見つかった大型建物の位置と方向から「食堂」か「講堂」だったと考えられる。

大きさから「食堂」ではないか、と言う説が有力だ。

新薬師寺の「新」とは、三重塔と薬師如来像で有名な西ノ京の「薬師寺」に対して「新しい」と思われがちだが、本来は「霊験新たか」と言う意味である。

だが聖武天皇が眼病に罹ったという記録は見えず、老眼に対する「守護」の目的で建立されたのではないかと思う。

なお予備知識として、お寺で薬師如来像の由来を聞くと「左手に薬壺」を持っていることが識別ポイント・・・などと説明されることがあるが、実際には誤り。

仏教による薬師如来は、物理的な「病気」以外、心の病気も含め、ありとあらゆるものを救済するという意味を持つ。

薬壺を持つようになったのはわかりやすくするためや、分派した宗派によるもので、本来の薬師如来に薬壺はないのだ。

さて新薬師寺に行くと、狭い路地を越えて南門から入ることになるが、その横に神社があるのに気づくと思う。

西側には小さな神楽舞台を持つ「南都鏡神社」があるが、正面右側・南門の東側にとても小さな神社・・と言うより「祠」があるのに気づく人は、どのくらいいるだろうか。

言葉は悪いが、どこにでもある祠であり、奈良の寺院では寺の守護神として小さな祠がよく見かけるものだ。

この祠には「比売神社」と言う立派な名前があるが、正式に祀られたのは1980年。

高畠町の住民有志が建立した神社で、御祀神は「十市皇女」(とおち)である。

彼女の事を知っている人は、かなりの「古代史好き」と言って良いだろうか。

十市皇女は飛鳥時代の皇族で、天武天皇の皇女である。

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         ↑比売神社。右側奥が新薬師寺(ウィキペディアより)

671年12月3日(新暦では672年1月8日)、天智天皇が48歳(推定)で崩御した。

治世では実弟・大海人皇子が「皇太弟」に指定されていたが、天智天皇は「大化の改新」に始まる改革を進めるうちに、子である大友皇子に後を継がせる雰囲気を醸し出していた。

大海皇子には世継ぎとして複数の妻に6人の男子がいたが、天智天皇には地方豪族の娘で「嬪」の身分に過ぎない伊賀宅子娘の間に生まれた大友皇子しかいなかった。

当時皇位継承権は、両親とも皇族であることが必須条件であったが、正妃で皇族出身の倭姫との間には子自体が出来ていなかった。

天智天皇は「改革」の一環として、母親が皇族でなくとも皇位は「親子相続」に出来る方針を作ろうと考えていたフシがあり、政権では大友皇子を重用した。

同時にそれは既に「皇太弟」だった大海人皇子と大友皇子の皇位争奪の様相を見せ始めたため、天智天皇が崩御する直前に大海人皇子は臣籍降下を申し出て「僧」として出家、吉野に隠匿すると宣言する。

大友皇子へのあからさまな重用は、朝廷内で大海人皇子を「邪魔者」「政敵」と見なしかねない状況にあったのである。

やがて天智天皇が崩御すると、都のあった近江京で大友皇子賀事実上後継者としての立場についた。

そして吉野に隠匿していた大海人皇子は挙兵し、「壬申の乱」が勃発。

紛争は大海人皇子側の勝利に終わり、大友皇子は近江京郊外で自害。

大海人皇子は「天武天皇」として即位し、都を飛鳥に戻した。

即位した天武天皇は、近江朝についた人物についてはほとんど罪とせず、紛争を指揮した高官以外は無罪にしていた。

ところが問題が一つ残っていた。

天武天皇の娘である、十市皇女の処遇であった。

彼女は乱の前に大友皇子の妃として嫁いでおり、天智天皇崩御後は事実上の「皇后」であったのである。

もちろん政治には直接関わりなかったので不問で当然だったが、乱が終わると大友皇子は「反乱者」「敗軍の将」と言う烙印を押されていたのである。

十市皇女の母親は、我が国最高の女流歌人「額田王」その人で、当然天武天皇の妃の一人である。

伝承では天智天皇に払い下げられたという説があるが、記録を照らし合わせると親しくはあっても天智天皇の妃になったという事実はないことから、ここではあくまで天武天皇の妃としておく。

正規かどうかが別として、壬申の乱の結果は十市皇女の立場を微妙な物にしていたのは確かである。

大友皇子と彼女の間には葛野王(かどのおう)という男子がいたが、母子とも飛鳥に戻るには時間が必要であった。

記録では壬申の乱の最中、皇族の子女はほとんどが近江京に残っていたが、全員戦火に巻き込まれることはなく、その後飛鳥に戻っているが、なぜか十市皇女の消息は見えてこない。

大友皇子の妃と言うことから、ほとぼりが冷めるまで近江に留まったとも考えられるが、都は天武天皇側が火を放って焼き討ちしており、住民も飛鳥に送還されていることから、彼女もほどなくして飛鳥には戻っていたと考えられる。

しかし壬申の乱後、記録に彼女は僅かに散見出来るだけで、その去就は謎に包まれている。

「日本書紀」は天武天皇が国史として正式に編纂を命じたもので、大友皇子の「即位」は当然認めていない。

認めると天武天皇はクーデター・武装蜂起による「政権奪取」となるだけでなく、それは元々の「皇太弟」と言う立場を否定しかねない。

そのため長年大友皇子は政権を掌握はしていたものの正式に「即位」していない、とされてきた。

ところが明治時代に改めて日本書紀の吟味が行われ、大友皇子の「即位」を認めて「弘文天皇」の名前が送られ、「天皇」として認められた経緯があるが、当時天武天皇政権は認める訳には行かなかったのである。

だとすれば本来十市皇女は、「違法」な皇子の横暴に巻き込まれた悲劇の皇女として同情されて然るべきであったはずである。

僅かに残る記録では、675年春に阿閉皇女(天智天皇の皇女で、のちの元明天皇)とともに伊勢神宮に参拝したと見える。

当時伊勢神宮には「斎王」として、彼女の異母妹・天武天皇の娘大伯皇女が務めていた。

何故十市皇女と阿閉皇女が、この組み合わせで行幸したのか理由は不明である。

しかし記録に載せていることから、皇祖神アマテラスを祀る伊勢神宮に勝利の報告を仰せつかったのではないか、と見られているが、なぜこの二人であったのか理由はわからない。

十市皇女は648年生まれと653年生まれの2つの説があり、行幸の時は20代後半だったことになる。

一方阿閉皇女と斎王の大伯皇女は10代半ばと見られる事と、神への奉仕は「未婚・処女」であることが前提であったことから、十市皇女の行幸自体不審と言わざるを得ない。

この後、彼女は再び記録から姿を消し、3年後突如登場する。

678年春、天武天皇は国家安泰を祈願して「初瀬の杜」と言う神社を祀る事を決定し、そこの斎王に十市皇女を指名したのである。

先に書いたように斎王は古代における巫女と同じく「潔癖」でなくてはならず、結婚して子を持つ十市皇女は完全な「不適格」だったにも関わらず、天武天皇は彼女を斎王に指名したのである。

理由はわからないが、天皇にしてみれば娘でありながら「敗軍の将」の妃と言う事に、何らかの負い目もしくは引っかかりがあったのだろうか。

明らかに無理強いして、彼女を世間から隔絶させる意味を持っていた。

そして斎王として出家する当日朝、十市皇女は急死した。

日本書紀では「病で急死した」と書いており、通常死因を示さない紀としては些か不審である。

故に自殺説・暗殺説が今も絶えず、彼女はまさに「悲劇の皇女」として語り継がれている。

特に自殺説では、同年代で異母兄弟に当たる高市皇子が、彼女の死を悼んで歌を残しており、幼少のころから親しかった高市皇子と恋仲だったのでは・・・と言う憶測が自殺説を支持する。

高市皇子も天武天皇を父に持つが、母は大友皇子と同じく地方豪族出身の「嬪」出る尼子娘。

天武天皇にとっては最年長の「長男」だったが、皇位継承権はなかった。

彼は天武天皇に重用され、崩御後後を継いだ女帝・持統天皇には太上大臣として最高位にまで上り詰めた人物である。

しかし前後に彼の歌は残されておらず、十市皇女への「挽歌」とも受け取れる文面に、許されぬ愛があったのでは?と言う憶測があっても不思議はない。

ただ皇女と言う立場が固定観念を引き起こしているように、私は思う。

歴史では不審死を自殺や暗殺と結び付ける嫌いがあり、正直ドラマや映画の見過ぎに思えてしまう。

古代での平均寿命は40~50歳で、もちろん十市皇女はまだまだ若かったに違いないが、不慮の病気の可能性は捨てきれまい。

増して上記の様に、壬申の乱以降彼女の立場は、たとえ世間が同情しても皇族・朝廷に対してはかなり微妙であることは間違いなく、かつ一人息子である葛野王の将来も母親として大いに心配していたことだろう。

壬申の乱から6年と言う月日を考え、直前に斎王に命じられたのも、あるいは心の病やストレスに大きな心労を伴っていたのではないか、と考えられまいか。

医療や食事が未発達だった当時、たとえ心の病でもそこから大きく体調を崩し、突発的な病気に襲われたとしても不思議ではないだろう。

例えば心臓や脳関係の疾患とも考えられるし、伊勢行幸後年間記録に登場しないことから、病気で臥せがちだった可能性もあると思う。



霜降りいたも 風吹き寒き 夜や旗野に こよひわが ひとり寝む

これは現在の三重県津市にある波多神社に、十市皇女の作と伝わる歌である。

恐らくは伊勢神宮行幸の途中に、神社に立ち寄って詠んだものと見られるが、まだ冬の気配が残る旅路の途中、寒さの中一人で寝る寂しさを表現していると思われる。

もし十市皇女の歌であれば、彼女は675年の時点で「孤独」に打ちひしがれていた、と考えられよう。

20代後半と言う若さであれば、体力はあっても精神的に不安定になりやすい時期だったとも言えるかも知れない。

新薬師寺前の「比売神社」の背後には、昔から「比売塚」と呼ばれる小さな古墳のようなものがあったと伝えられている。

同時に記録では、十市皇女が死去後天武天皇は「赤穂」の地に手厚く葬った・・・と見える。

現在赤穂と言う地名は残されていないが、高畠町付近がかつて赤穂と呼ばれていた記録がある。

加えて新薬師寺から南に約300メートルほど行った辺りに、「赤穂神社」が祀られており、天武天皇の妃の一人で、中臣鎌足の娘だった「氷上娘」も赤穂に葬る・・と記録が残る。

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              ↑赤穂神社(ウィキペディアより)


三輪山の 山辺真麻木綿 短木綿 かくのみゆえに 長しと思いき(万葉集巻二 157 高市皇子)


山ぶきの 立ちよそいたる 山清水 酌みに行かめど 道知らなく(万葉集巻二 158 高市皇子)


万葉集には他にもう1首、十市皇女が薨去しませる時に高市皇子が捧げる歌と言う注釈がついており、彼が十市皇女の死を大きく悲しんでいたことは間違いない。

約4,500首の歌の中で、高市皇子の歌はこの3首だけ、十市皇女の歌は1首も残されていない。

そう考えると、邪推は禁物だが、二人には世間が許さない間柄にあった可能性は捨てきれず、それも含んで十市皇女は心を重く病んでいたのかも知れない。

時代は違うが、新薬師寺の薬師如来は彼女の心を治そうとする仏として、今まで見守り続けて来たのではないか。

あるいは光明皇后自身、十市皇女の悲劇を知っていたからこそ新薬師寺を建立したのかも・・と思う。


鉄道ネタ いい日旅立ちと485系(12月10日 曇り時々晴れ 5℃)

雲が優勢ながら、比較的穏やかな冬の一日。

だが寒気は居座り続けて、最高気温は全く上がらず冷たい空気に包まれた。

家の中も、いつしか弱くなった日差しでは温まらず寒い。

布団から出たくない…ワンパターンなセリフだけど地を行く気持ちだ。

カレンダー通りに季節が変わったようで、ほんの10日前までは「今年の秋は長い」なんて言っていたのに。

世間は否が応にも年末年始気分が増え、テレビのCMもクリスマス一色になりつつある。

考えたらクリスマスまでは2週間、新年までは3週間しかないのだ。

「平成最後」と言う言葉が何かと流行しているが、年末を迎えるとなるほど、と思う。

それを言ったら来年4月までは全てが「平成最後」になって、キリがないのだが。

商売上付加している感は否めないが、国民のどれだけが天皇陛下の退位・譲位に関心を持ち、受け止めているのだろう。

いろんな意見はあって良いと思うが、天皇陛下交代による元号改正は大きな歴史の転換点。

その場に立ち会える私達は幸せである事を知って欲しい。

元号は元々中国で王朝が交代する度つけられた制度で、それは新王朝の証明だった。

中国では「群雄割拠」が当たり前だったので、新王朝が元号を定める事で、前王朝の「滅亡」を露わにしたのである。

朝鮮半島でも元号を使っていたが、百済・新羅・高句麗とも王朝は基本的に日本と同じ「世襲制」だったため、7世紀に新羅が半島を統一した後は、いつしか元号制度はなくなり定着しなかった。

中国では近世まで使われていたが、最後の王朝「清」以降元号制度は廃止されている。

日本で元号が採用されたのは645年に制定された「大化」が最初で、「白雉」と続いた。
その後28年間元号は途絶えたが、「壬申の乱」で皇位に就いた天武天皇から「朱鳥」で復活し、以後現在まで途切れる事なく続いている。

実に1332年も続いているのは、日本人が誇れる文化の継承であると思う。

実際には日本はそれ以前の4世紀頃から、中国や朝鮮半島の元号を一緒に使っていた可能性が高い。

独自の元号制度を「律令」で定めたのは、天武天皇。

現在も皇室典範を含めて元号は制度化されており、確かに生活上は使う頻度が減ったけれど、廃止する必要性はあるまい。

メディアに出る「識者」の中には、「時代が変わった」など最もらしい理由で元号廃止を口にする者もいるが、何でも「時代」で片づけようとするのは、頭の悪い理論としか言いようがなく、むしろ自分の存在を否定しているようなものだ。

私達は果てしない数の先祖を経て存在しているのであり、元号もそれを証明する一つの物差し。

生活上不必要と言うのは、それこそ時代の流れかも知れないが、「歴史と誇り」を自分の都合で捨てる権利は私達にはないのだ。

来年のクリスマスは新元号最初のクリスマス。気分の問題だけど、それはそれで何となく楽しみだし、流行的なキライはあるが「平成最後」と言うのも、良い意味で大切にしたいものだ。



鉄道ネタ。

先日テレビで、シンガーソングライター・三浦祐太朗さんが「いい日旅立ち」を歌っていた。

ご存じのように、彼はかつて大活躍した歌手・山口百恵さんの息子。

母親の大ヒット・代表曲を自ら謳っていることに、ちょっと感心した。

この歌の作者も、有名な谷村新司さん。

「レコード」自体のリリースは78年11月で、今年で何と40周年を迎える。

私を含めた一定年代以上の人であれば、一度は聞いたであろうし、今改まって聴いても古さは微塵も感じさせない、まさに名曲中の名曲であると思う。

この歌は、当時国鉄が企画した全国的長期キャンペーンのために企画・制作された異色の経歴を持つ。

この曲が発売された1か月前、国鉄では10年ぶりに「白紙ダイヤ改正」を行った。

白紙ダイヤ改正とは、それまでの列車ダイヤを全て「消去」し、列車体系やダイヤを全面的に見直す「維新」的な大事業である。

70年代の国鉄は、相次ぐ労使闘争とそれに伴う莫大な赤字が国庫を圧迫していて、50%にも及ぶ運賃値上げを連蔵させ、国民から大顰蹙を買っていた。

若い人には理解できないかも知れないが、「国鉄」の正式名称は「日本国有鉄道」で「国営」だった。

即ち運営には全て税金で賄われていた訳で、運賃値上げはもちろん、労使闘争によるストライキの頻発や現場のサービス低下に、国民は我慢の限界が来ていた時代である。

それは政治問題まで発展し、政治家の進退問題にも及ぶ所になり、ついに「分割・民営化」と言う、半ばタブー視されていた現実に手をつけなければならなくなった時代であった。

70年代後半になると、労使闘争に国が本格的に介入し、騒ぎは収まったが高速道路の全国展開によるモータリゼーションの成長の他、それまで「高根の花」だった航空機も一般国民が普通に利用し始めた時代で、国鉄の利用率は低下が止まらなかった。

特に大幅値上げが致命傷となり、使わざるを得ない通勤・通学客以外、つまり旅行客の減少は目に余るほとであった。

通勤・通学客は大半が定期券利用で、値上げされても割引運賃。

国鉄としては「正規料金」で乗ってくれる旅行客が、最も重要な資金源でもあった。

そこでそれまでの「公務員的」態度を一斉に改めるとともに、旅行キャンペーンを実施して車や航空機に流れた利用客を取り戻そうとしたのが、78年末から始まった「ディスカバー・ジャパン2・いい日旅立ち」キャンペーンであった。

国鉄は大手旅行者の日本旅行や、鉄道車両・国鉄の電化機器を扱っていた日立製作所の協力およびスポンサーとして招致。

「お役所」だった国鉄が民間会社とスポンサー契約を結ぶ、異例のことであった。

それだけ国鉄にとっては減収・利用減は深刻な状況だった。

ファンの間では「53-10(ゴーサントオ」と呼ばれる白紙ダイヤ改正では、全国の優等列車を全面的に見直し、それまで列車の号数を「上り○号」「下り△号」としていたのを、わかりやすく上り列車は偶数、下り列車を奇数号数に改めた。

また新幹線と一部を除き、特急列車のヘッドマークをイラスト入りにすることで親しみやすさを演出し、ローカル色を押し出した。

運賃関係では、全国数十か所に区分けした「ミニ周遊券」を設定し、それまでの「周遊券」より利用できる範囲は狭いが、安価で利用しやすくした。

その他全ての特急列車には「自由席」を設けることになり、一部にあった「全車指定席」は事実上廃止され、混雑期に指定席が確保できずとも「自由席」で利用できるようになった。

この数年前から電車特急を中心に、在来線特急を「L特急」と名付けて宣伝していたが、ダイヤ改正では親しみやすさを強調するとともに、パターン化されたダイヤを設定して(フリークウェント化)、いつでも乗れるような利便性も付加した。

キャンペーンの「ディスカバージャパン」は、70年代前半に一度行われたキャンペーンに引き続く名前である。

「いい日旅立ち」に当たって、スポンサーの日本旅行と日立製作所が資金を提供したと言われ、曲名には両社を表す「日」と「立」の文字が入れられている。

当時山口百恵さんはもちろん、谷村新司さんもニューミュージックユニット「アリス」で大人気のアーティストであり、メディアが大きく取り上げることで、国民の関心も高かった。

「国鉄は変わったのか?」

結論は今でもわからないが、結局僅か9年後の87年に国鉄は消滅。JR化されたので、今思えば100年以上の歴史の国鉄「最後」の輝きだったのかも知れない。

同曲は最近も「旅立ちの歌」として、結婚式や送別会などで歌われることが多いと聞くが、谷村新司さんは今も「歌詞を良く見て下さい。そんなに幸せな歌ではないです。」と言っているそうだ。

謙遜だと思うが、確かに「希望」に満ちたような歌詞ではなく、孤独な旅立ちに悲しみも混じったような歌であり、どちらかと言うと「旅情」を強調したと言えるだろう。

要は本物の「旅」の歌、と言えるのである。

曲が発売された時、私は小学6年生。

ちょうど「テツ」(鉄道ファン)になっていくらか経った頃であった。

翌年中学生になると、小遣いを溜めてはローカル線を乗りに出かけたり、学校が休みや早く終わる日などは仙台駅に足しげく通い、カメラ片手に列車の写真を撮っていた。

当時駅には「入場券」と言う切符があり、100~120円くらいだったのではないか。

時間制限はなかったから一度構内に入ってしまえば、私にはT○Lより楽しい場所であった。

仙台駅はまだ新幹線開業前。

現在の駅舎は78年に完成していたが、新幹線ホームは工事の真っ最中であった。

東北本線は全国に名だたる「特急・急行」街道として有名で、東北の中心地である仙台駅には優等列車のほとんどが発着していた。

東京の玄関口・上野駅からは東北・信越・羽越方面へ、在来線の特急・急行列車が1日に数百本も発着しており、仙台駅も地方駅としては全国でトップクラスの優等列車発着駅であった。

仙台始発の特急は「ひばり」と常磐線経由の「ひたち」があり、前車は1日15往復も設定されていた。

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        ↑上野駅で並ぶ485系「ひばり」と583系「はつかり」

「ひたち」の仙台発着は2往復ぐらいだっただろうか、その他上野~盛岡間の「やまびこ」が4往復、上野~青森間の「はつかり」が6往復あり、更に常磐線経由で上の~青森間を走る「みちのく」があったから、昼間の特急列車だけで28往復も発着していた。

最も多い「ひばり」は1時間ヘッドで、毎時「58分」発だったと記憶している。

福島県郡山駅になると「ひばり」「やまびこ」「はつかり」のほか、山形行きの「やまばと」、秋田行きの「つばさ」、会津若松行きの「あいず」があったから、本来本数・種類としては郡山駅の方が多かったが。

小中学生の少年に特急列車はまさに「高根の花」で、親の実家で暮らしていた私には「帰省旅行」も存在しない。

年に1~2度、東京から訪れる叔父一家が羨ましく、鉄道に詳しくない従兄弟にどの列車の何号車に乗ってきたかなどを聞いたものである。

特に貧しい訳ではなかったと思うが、家族旅行などはとても贅沢な時代。

我が家でなくとも同級生で、夏休みの旅行など行った子はほとんどいない時代だ。

だから駅で列車に近づくだけでも、旅情を感じたし、ピカピカに磨かれた特急や急行列車は常に憧れだった。

「乗りテツ」になると、実際列車に乗るようにはなったが、やはり高価な特急列車に乗る機会はなく、頑張っても急行だった。

当時「特急街道」を闊歩していたのは、485系と583系電車である。

当時の特急列車には「格」があり、長い編成には普通車指定席と自由席車のほか、グリーン車と食堂車が連結されていることが「1級」である証明みたいなものであった。

「53-10」では、いわゆる「合理化」が図られ、列車によってはグリーン車も食堂車もない「モノクラス」列車も設定され、ファンには論議が醸し出されたほどだった。

東北本線筋では「あいづ」と「ひたち」だけ、走行時間が短いのを理由に食堂車の設定がなかったが(概ね4時間以上)、グリーン車は連結していた。

それ以外の列車には全て連結されており、編成も12~13輌編成が「当たり前」であった。

現在新幹線「はやぶさ」のE5系が、10輌編成が基本であるということを考えると、当時いかに列車を使う人が多かったかと言うことが分かる。

上野~仙台間が4時間15分、盛岡まで6時間半、青森まで9時間もかかっていたが、利用者は長時間でも通常のことだった。

特に青森行きの「はつかり」「みちのく」は、青函連絡船に乗りついで北海道へ向かう人の利用も多く、年間通じて混雑する列車だった。

「ひばり」も利用率の高い列車として知られ、15往復全てが485系で運転されていたが「53-10」の前後僅かな期間だけ、青森所属の583系が間合い仕様で運用されていた時期がある。

「やばびこ」と「はつかり」も485系電車で、後者は半分が583系である。

485系は64年から製造された国鉄標準型の特急用電車で、正確には「485系交直両用特急型電車」と言う。

東京オリンピックを境に高度経済成長を遂げた日本は、地方幹線の電化が一気に進み、首都圏や大阪圏・名古屋圏の直流電化区間から直通できる交直両用電車がこぞって開発された時期で、当初は西日本の交流60Hz用が「481系」、東日本の50Hz用を「483系」として製造されたが、すぐに50/60Hz共用の「485系」に生産が移されている。

基本的な仕様は共通で、481・483系の生産数は少ない。

485系は79年まで生産が続けられ、合計1,453輌が生産された。

在来線用特急電車としては、現在まで最大の生産数を誇る。

そのため後期になると寒冷地仕様の「1,000番代」、北海道用の「1,500番代」が生産された。

JR化後も数を減らしつつも継承・運用され、耐用年数を伸ばすためにほとんどの車両が「リノベーション」されて面影はなくなったが、最後の定期使用はつい一昨年前に終了している。

即ち50年間も現役で活躍したのであり、当時は「全盛期」だったのである。

仙台駅では「4番ホーム」が上り特急(現5番ホーム)、1番ホームが下り専用。

出発ベルが鳴ると、7号車に連結していた食堂車のスタッフが全員ホームに向かって並び、列車が動くと深々と頭を下げるのが特急食堂車の恒例であった(始発のみ)。

食堂車は床下に電動発電機があって、ひときわやかましいのだが、それが「特急」らしくて好きだった。

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       ↑食堂車「サシ481」型とその車内の様子(ウィキペディアより)


車内は白い枕カバーが綺麗にかけられた座席がずらっと並び、グリーン車は重厚なエンジ色のシートが高級感を見せていた。

特急電車は高速で走るためにギア比が高く、出発時の加速はあまり早くない。

ドアが閉まると、先頭車から「プワーン」と言うホイッスル。

そしてゆっくりと動き出す列車。食堂車のスタッフが一斉に頭を下げ、列車は遠ざかっていく。

この時ホームにはいつも「いい日旅立ち」が流れていて、子供心に歌と風景のマッチさに感動していた。

家から歩いて数分のところには、東北本線の踏切があって、暇さえあれば鉄道好きの友人と眺めに言っていた。

仙台駅の北側にあったので「ひばり」は、運転所に出入りする回送列車だけだったが、「やまびこ」「はつかり」の北行きが通過する。

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     ↑485系「はつかり」と583系寝台特急「はくつる」(ウィキペディアより)

仙台駅を出て約2キロぐらいの地点で、列車は既にフルスピードに近い。

友人とも列車のダイヤはだいたい覚えていて、踏切が鳴ると「おっ、はつかり7号じゃない?」なんて言う。

距離があるので、今何かと騒がれる「撮りテツ」などしない。

踏切では、ただ通過する列車を見るだけ。

2~3時間立っていても平気で、合間には学校の事やつまらぬ話を止めどなく続けて退屈などしなかった。

今なら「不審な少年」とでも通報されただろうか、もちろん大人に注意されたり警官に「尋問」などされたことはない。

駅にはこの友人と行くことも、一人で行くことも多く、一人旅の習性はこの時代に形成されたのではないかと思う。

友人とは、このブログでたびたび登場するI君で、彼は元々兵庫県の出身。

そのため現地に鉄道好きの友人がいて、しょっちゅう列車の写真をやり取りしていた。

I君はその友人に頼んで、同じ写真を2枚ずつ焼き増しして送ってもらい、いつも私に分けてくれた。

行ったことはもちろん、本でしか見たことのない大阪周辺の特急や列車の写真に、すっかり興奮した私であった。

お返しに私が撮った写真を、その友人に送ってくれるよう頼むと、そのうちI君は紹介してくれて「文通」になった。

名前も住所も失念してしまったことが悔やまれるが、鉄道を通じて遠くに友人が出来ることに驚いたものである。

I君とは小学校低学年からずっとクラスが一緒で、中学では離れてしまったが、休日にはよく一緒だった。

同じ学習塾に通っていたが、そこに行く前も踏切を通るので、2回に1回は少し家を早く出て踏切で列車を「チェック」した。

帰りは21時頃だったが、その後寝台列車の「新星」が回送列車で通過するので、必ず見ようとパッと帰ったものである。

以前書いたようにI君と、もう一人T君(鉄道ファンではなかった)の3人は、中学生にもなって「いつまで半袖姿」を競った仲。

当初は体育の授業の体操服だけのことだったが、いつしか意地になって私服でも半袖半ズボンで過ごした仲だが、今頃の季節も列車を見るために踏切でじっとしているのに、二人とも薄いTシャツ1枚に太もも全開の半ズボン姿。

特に塾に行き来する時間など真っ暗で、雪が降っていても寒くて地団駄を踏みながら列車を見ていたおバカな少年だったが、夕方に通過する「やまびこ」「はつかり」は、それを推しても待つ価値はあった。



・・・雪解け間近の 北の空に向かい・・・・帰らぬ人たち 熱い胸を過る・・・・



青森行き「はつかり」は、上野を出て約4時間の仙台がちょうど中間点。

9時間もの長い旅路はまだ半分。

冬の夕方は既に夜と同じく真っ暗で、その中を485系電車が青森へ急ぐように疾走してくる。

子供にとって、時間より暗さは既に1日の終わり。

しかし「はつかり」は、これから約350キロ4時間以上闇の中を走る続ける。

煌々と明かりのついた車内だけが温かみを感じさせるが、乗客たちは暗闇に大半が疲れきっているように見えた。

・・・この人たちは一体こんな寒い夜に、これからどこまで行くのだろう…僕はこれから暖かい家に帰って、ご飯を食べて暖かい布団で寝れるのに、列車の人々はまだまだ旅を続けている・・・

歌詞と同じように、遥か遠くまで走る特急列車だからこそ、少年は心を締め付けられるような想いを感じた。

食堂車では、夕食の時間だろうか、お客さんがたくさんいる。

忙しく揺れる車内を動き回る「ウェイトレス」のお姉さんの姿が、ちらっと見える。

夕方の「はつかり」は深夜にようやく終点青森駅に着くが、乗客の半数以上は長いホームを歩いて「青函連絡船」の深夜便に乗り換える。

冬の津軽海峡は荒々しく、函館まで約4時間の航路は苦しい。

そしてまだまだ夜の明けない早朝4時頃函館に到着し、札幌行きディーゼル特急「北斗」「北海」に乗り継ぐと札幌に到着するのはお昼頃。

私が見送る「はつかり」の乗客の旅路は、その後12時間以上も続ける人がいた。

この人たちにとって485系電車は「いい日旅立ち」なのだろうか・・・。

踏切を通過するのは僅か10秒か20秒。

疾風のごとく、485系は通過し、踏切が上がると赤いテールランプがすうっと消えていく・・・。

485系はまだ「広かった」日本を縦横無尽に走り、人々に「いい日旅立ち」を与えていた。

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     ↑上野~秋田間の「つばさ」。新幹線開業直前には仙山線経由で仙台駅にも乗り入れていた(ウィキペディア英語版より)

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     ↑昼間特急では最長距離を走った大阪~青森間の「白鳥」(ウィキペディアより)


馬鹿みたいに冬の半袖姿で震えながらも「いいなあ、乗ってみたいなあ」と思う反面、長い旅路を想うとどこか憂鬱にも思えたのが不思議であった。

「いい日旅立ち」は、産まれて初めて歌詞に共感できた歌だったと思う。

それはもはや終盤に差し掛かった今も、同じような感覚を思い起こさせる。

当時の事を突如鮮明に思い出すと同時に、赤と肌色と言う「国鉄特急色」がとても懐かしく思い出され、目の前にした時のドキドキ感も僅かながら思い出した次第である。


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      ↑「国鉄色」に復刻された新潟区の485系(ウィキペディアより)







「冬将軍」はまだ居座り続けている。

雪こそ振らないが、気温は低く、外はとにかく寒い。

風がないのが救いだが、18時頃で気温は2℃と真冬並み。

外を歩くだけで憂鬱になりそう。

歳を重ねるごとに寒さが辛くなり、今回の様に一気に寒くなるのは特に辛い。

慣れれば良いが、既に冬特有の筋肉の「強張り」が出始めている。

月曜と言うことと寒さで、街は早々に・・と思いきや、日曜の昨日より人とが多い。

レストラン街やカフェバー、カフェは遅くまでお客さんがおり、道路も歩く人・車とも多い気がする。

年末に向けて忙しいのか、忘年会の関係か。

あまりに寒くて、冷え切った家に変えるより、まずはどこかで暖かいものを・・と無意識に欲するのかもしれない。

確かについ暖かいお店に入って、飲んだり食べたくなるのが冬らしく思える。





元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

寒さは大丈夫ですか?

今日もとても寒い1日でした。

風邪だけでなく、本当に君の体調が心配です。

無理をせず、ちゃんと食べて暖かくして過ごして下さい。

身体を冷やさぬよう、どうかご自愛下さい。


明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。






沫雪かは だれにふると 見るまでに 流らへ散るは 何の花ぞ(万葉集巻八 1420 駿河采女)


飛行機ネタ 見逃されがちなA319(12月9日 雪のち晴れ 5℃)

この冬最初の「冬将軍」は、なかなか骨のあるヤツ。

仙台は昨日「初雪」「初積雪」を観測し、最大4センチの積雪になった。

最低気温も-3.5℃と、もちろん一番の寒さ。

衛星画像では、日本海にびっしり筋雲が広がっていて、寒気の強さを思わせる。

午前中のうちに雪雲は抜けて、日中は青空に。

幸い雪は殆ど消えたが、青森や秋田では大雪となり、青森県酸ヶ湯では積雪が早くも1メートルを超えたと言う。

北海道では日本海を中心に雪が続き、気温も真冬並みに。

札幌市の最高気温は-4℃。先週始めには14℃と言う日があり、一週間の気温差が記録になった。

今朝最も寒かったのは、道東十勝の陸別町で、なんと-23.8℃!

陸別町は寒い事で有名だが、12月初旬でこの気温は非常に珍しい。

雪はあまり降らない十勝地方は、放射冷却で気温が下がりやすく、真冬には-30℃になる事も。

地元は慣れているだろうが、早い時期にちょっと慌てたのかも知れない。

本州以南の人には、-20℃以下と言う気温はなかなか想像出来ない。

たまに冷凍倉庫などにあるけれど、人工的な気温より自然の低温の方が遥かに厳しい。

私が体験した最低気温は富良野市での-22℃で、さすがに-30℃はない。

一言で表現するのは難しく、実際体感してみないとわからないが、無理やりに表現するとすれば「痛い」。

よく言われるのが、厚着していても、身体の暖気が内側から抜けて行く…と言うもの。

確かにその通りで、いくら分厚いダウンジャケットを着ていても、ただ着ているだけでは、隙間から暖気がどんどん抜けてしまう。

即ち首筋や裾、袖口を「密封」するように着ないとダメ。

とにかく寒気が肌に潜り込まないようにしないといけない。

だが顔だけは隠しようがないので、マフラーなどで覆うしかない。

何より-20℃以下になると「凍傷」の危険性も出て来るので、なめてはいけないのだ。

ネットなどの書き込みに「北海道の女子高生は、-10℃でも短いスカートに生足」なんて書いてあるが、これは都市伝説。

彼女達がいくら若くても、せいぜい0℃くらいが限界で(それでも凄いけど)、真冬にはタイツなどでしっかり防寒している。

と言うより、そうしなければ命に関わってしまう。

仮に踏ん張ったとしても、凍結路面で転倒したら大怪我になりかねず、そこまで極端な子はいない。

寒いより物理的に冷えて、まずは指先や耳が、そして身体全体が筋肉痛のような痛みを感じる。また体調によっては、めまいなどの症状を起こしたり、とにかく筋肉が本能的に強張っているから、くしゃみした瞬間に「こむら返り」や「ぎっくり腰」を起こしてしまう人もいる。

特に観光客に多く、冬の北海道に感動する一方、体調を崩して散々な旅の思い出になってしまう人もいる。

さすがに地元の人は慣れているが、半年以上ぶりの寒さに、勘を取り戻す時間は多少必要だ。

今日みたいにいきなり-20℃以下では、さぞかし戸惑った事だろう。

「寒暖差疲労」と言う症状があるそうで、この時期極端な気温差に身体がついて行けず、無意識のうちに体力が低下、風邪はもちろん臓器不全や心不全など重篤になる事もあるそうだ。

北海道の極端な寒さでなくとも、最近全国的に気温差が大きい日々が続いている。

またお店などで制服の人も、この寒暖差疲労に注意が必要だと言う。

暖房の効いた室内だからと、飲食店などの制服は年間通じて半袖と言う事があるが、脳の体温維持機能に支障をきたす事があるそうだ。

頭で考えていなくとも、脳はコンディションに合わせるよう体温を調整する。

季節によって「0」修正するのもそうで、外では厚着、暖房の効いた室内だから半袖1枚、となると脳が混乱するらしい。

確かに家で暖房を利かせて25℃あっても、Tシャツ1枚…にはならず、少し暑いかなと思ってもセーターは着たままだろう。

真夏も、エアコンで20℃くらいに冷やしても、セーターや上着は着ない。

脳が季節に合わせて体感温度の調整をしているからで、なるほど極端な気温差は疲れる訳だ。

今回の寒気は一時的で、来週は平年並みの寒さになると言うが、冬の寒さには違いないので、くれぐれも体調には注意。



飛行機ネタ。

前回日本に「100機目」のエアバス320シリーズである、A321neoが全日空に納入されたことを書いたが、100機のうち86機は標準型である「A320」である。

これまで何度も書いて来たように、320シリーズは胴体の長さが違う4種類の機材が用意されている。

基本型として最初に開発されたのが「320」だったので、派成型は数字を1ずつずらした型式名をつけられた。

ボーイングやダグラスなどアメリカ製の旅客機は、機体の名前は共通でサブタイプを表す数字が宛がわれている。

100~900と言った3ケタ数字はボーイング、10~90と行った2ケタはダグラス機に多い。

そういう意味ではアメリカ式の方がわかりやすい。

エアバス社でも現在は3ケタ数字で表すことが主流だが、その中で320シリーズだけは異色である。

胴体を短縮したモデルが「318」と「319」で、逆に延長したモデルが「321」である。

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        ↑最近初飛行したA319neo(ウィキペディア英語版より)

これは操縦システムが全て共通化されていて、パイロットは機種ごとのライセンスは必要なく、「320シリーズ」のライセンス1種で、全てのモデルを操縦できる。

同機は世界で初めて操縦システム全てをデジタル化した「フライ・バイ・ワイヤ」旅客機として知られるが、胴体の長さと機体重量などによる飛行特性はコンピューターによって制御されるので、ライセンスを共通に出来たのである。

それを強調させるために、あえて別型式とせずサブタイプとして名称を細分化させたのだ。

エアラインにとっては、パイロットの教育や確保が容易と言う経営上のメリットをもたらす。

加えて需要によって機材の大きさを変えると言う、融通性が「後発」メーカーだったエアバス社の名声を押し上げることになった。

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        ↑シリーズ共通のコクピット(ウィキペディア英語版より)

日本では90年に全日空と、系列子会社エアー・ニッポンによって初めてA320が導入されたが、以降暫くエアバス機の導入はなく、本格的に増加したのは規制緩和で設立された「スターフライヤー」からである。

2010年代になるとLCCのピーチ、ジェットスター・ジャパン、エア・アジア・ジャパン、バニラ・エアがこぞってA320を採用した。

そして現時点で遂に「100機目」の320シリーズが到着した訳だが、日本に於いて約30年に渡るエアバス・ナローボディ機の歴史の上で、1機も採用されていないのが短胴型の「A318」と「A319」である。

このうち「319」は、海外では比較的ウケた機体で、これまで約1,500機が生産され、ほとんどが現役にある。

原型機が初飛行したのは95年で、320シリーズは320→321→319→318の順に開発されている。

これはエアバス社がリサーチをしつつ、エアラインの要望を受けて開発したからだ。

「319」は320より約4.5メートル胴体を短縮させたモデルで、座席数は2クラスで125席、モノクラスで最大156席。

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     ↑A319のエコノミークラス(TAPポルトガル航空、ウィキペディア英語版より)

当時のライバルB737で言うと、「400」「700」に相当する大きさである。

エンジンは320・321と共通で、「CFM-56」か「IAE V2500」を選択出来るが、機体が小型で軽量のためオプションとして出力厳格型か標準型かも選択出来る。

しかし燃料搭載量は320とほぼ同じのため、軽量化した分航続距離が伸びると言う効力をもたらした。

エアバス社ではすぐに「LR」と言うオプションも追加し、燃料タンクを増加させて航続距離を10,000キロ弱まで伸ばしたモデルも用意した。

標準的には2クラス運航で約7,500~8,000キロの航続力を持ち、320より一回り長い脚を持つ機体として発注を集めた。

特に地元ヨーロッパの他、アメリカでヒット作になった。

理由としてヨーロッパでは150席前後と言うキャパシティが、域内運航に適していたということと、320・321と同じエンジンであることから運航コストが抑えられること、そして軽量な分離着陸性能が非常に優れていることであった。

滑走路の短いローカル空港でも、150席で離着陸が可能であり、大きな空港ではフルパワーで離陸しなくても良いことは燃費も良いということになる。

また機体重量によって、空港利用料が変るから、その点でも320・321より有利であった。

航続距離が長いことは、全く逆の意味でも効力を発揮した。

アメリカの大手ユナイテッド・旧USエアウェイズ・旧ノースウェストなどがこぞって319を導入したのは、大陸横断性能を持っていたからであった。さらに西海岸~ハワイなどの洋上横断も、双発機の洋上飛行規制「ETOPS」の認可を受けられたので可能になっていた。

このほかニューヨーク~カリブ海諸国などの路線など、数時間の中距離便に積極的に投入されている。

面白いところでは、カナダのフラッグキャリア、エア・カナダの大西洋横断路線に319が運航されていること。

さすがにカナダの大都市、トロントやモントリオールとロンドンやパリへの直行便は不可能だが、カナダ東部の「グースベイ」を給油経由地にして、大西洋を横断する。

直行便より運賃が安価に設定されているほか、グースベイで乗り換えてアメリカ東部へ向かうなど「リーズナブル便」として運航される。

ヨーロッパ~中近東方面などにも投入されることが多く、ヨーロッパと北米ではメジャーな機体である。

代わりにLCC以外では2クラス制で運航される例が多く、輸送力重視の便にはモノクラスの320や321が宛がわれる。

「LR」は02年にカタール航空の発注で生産が開始されたが、既存の319から改造も行われている。

機数は少ないが、エール・フランスとドイツのルフト・ハンザでは座席数70~80席の「オールビジネス」便が「LR」で運航され、やはり大西洋を横断して北米線に投入されている。

胴体の長い321より、一見320と区別が付きにくい319。

あれ?320にしてはやけに短く「詰まった」様な・・・と思ったら、319であろうか。

もちろん違うのは胴体長だけで、他はほぼ共通だが、主翼のフラップなどに若干の違いがあるだけだ。

だがアップで見ると、機種はシリーズ共通のため、短い胴体が太く逞しく見えることも確かで、特に前方や斜め前から見ると意外と迫力あるスタイルなのが319と言える。

現在同機を最も多く運航するのはヨーロッパ最大手LCC、イギリスの「イージージェット」で132機を運用する。

同社はかつて737シリーズが主力だったが、2010年代以降320シリーズを急激に増やして交代させている。

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     ↑最大の319を保有するイージージェット(ウィキペディア英語版より)

続いて多いのは意外にもアメリカン航空で、128機と続く。もっとも同社はオリジナルの319ユーザーではなく、合併したUSエアウェイズとアメリカ・ウェスト航空が保有していた機材である。

しかしコンパクトで経済性に優れていることが分かったためか、その後独自に追加発注していて、主翼端のウィングチップがシャークレットに変更された機体も増えている。

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     ↑シャークレットがついたアメリカン航空のA319(ウィキペディア英語版より)

その他統合でグローバル企業となった中南米最大の「LATAM」グループが61機の319を保有するが、半数は統合前ブラジルで最大手だった「TAM」の保有機。LATAMはチリに本社を置くエアライングループで、コロンビアの「アビアンカ」と並び、中南米各国に現地法人を置いて機材の共通化を図っている。

アメリカのデルタ航空と先に書いたエア・カナダも319の大手ユーザーで、デルタも統合前のノースウェスト航空が導入した機体が多い。

ユナイテッドも67機と、アメリカンに次ぐ319ユーザーだが、こちらは自社導入機。

同社は319では珍しく、ファースト・プレミアムエコノミー・エコノミーの3クラスで運航し、主に大陸横断便やアラスカ方面など、長距離便に319を投入している。

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     ↑(3枚)北米のA319。上からデルタ航空、エア・カナダ、ユナイテッド航空。ユナイテッド機はV2500エンジン(ウィキペディア英語版より)


319の特徴は短距離用・LCC・長距離運用と、一般的に考えられる旅客機の運用方法全てに使われていることである。

これは同機のパフォーマンスを如実に示すもので、キャパシティ重視とするか飛行パフォーマンスを重視するか、エアラインによって使い分けがしやすい機体と言う事だ。

「ETOPS」を含めた技術力の向上と、経済性がたった130席程度の小型機で大西洋や大陸を横断する。

座席数から言えば初期のボーイング707やダグラスDC-8よりちょっと少ない程度、パフォーマンスは同等なのだから、エアラインにすれば高い需要がなくとも「儲けさせてくれる」機体なのである。

いつも言う通り、ライバル737に比べ同シリーズの胴体径は太く、床下にコンテナを搭載できる貨物室を持つと同時に、キャビンもギャレーやトイレのスペースは737より広い。

画像を比べると分かるが、319は胴体中央にある非常口が片側1か所の機体と2か所の機体がある。

これは国際基準である、非常時の脱出の「90秒ルール」によるものだ。

イージージェットなど、オールエコノミー最大座席数に近い仕様では2か所、2クラスもしくは3クラスで運航する機材は1か所が多い。

大雑把な計算なのだけれど、通常のドアを含め1か所当たり20~30人が90秒以内に機外に脱出できるように規定されており、中央非常口が1か所の319ならば座席数が少ない2クラス以上の機材と思って良い。

床下貨物室には標準型「LD-3」コンテナが4個か(320では7個、321では10個)、パレットを8枚搭載できる。

胴体長の割にキャビンが広いので、長距離飛行にも適しているという利点が欧米のエアラインに人気があるのだ。

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     ↑(2枚緒)モノクラスからオールビジネスクラスの長距離便までこなすルフトハンザとエール・フランスのA319(ウィキペディア英語版より)


ヨーロッパではそうした「マルチロール」的な運用が多く、域内の近距離路線や国内線から、オールビジネスクラスの長距離便まで実に多様な使われ方をする。

旧東欧諸国などでは経済性を重視し、自由化後最初に導入した「西側製旅客機」が319だったエアラインも多く、現在も主力機種として運航するエアラインが多い。

320シリーズはフランスではなく、ドイツにある「ドイッチェ・エアバス」が製造を担当するが、320・321に比べ例え少数機でもヨーロッパ諸国のほとんどの国で319が使われている。

機体価格もさることながら、小国のエアラインでも扱いやすい大きさだからだろう。


イギリス・イタリア・スペインはもちろん、チェコやセルビア、ブルガリアやクロアチアなどの旧東欧諸国のフラッグキャリアにも、たいてい319の顔がある。

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     ↑明るいトリコロールカラーがよく似合うアリタリア航空のA319(ウィキペディア英語版より)

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     ↑(3枚)旧東欧のエアラインのA319。上からエア・モルドバ、エア・セルビア、CSAチェコ航空の特別塗装機(ウィキペディア英語版より)


アジアでは中国やインド、南アジア諸国で319の採用例が多いが、欧米と違い座席数重視の短距離便で使われることが多い。

アジアで流行のLCCでは、座席数が少ないことから採用例は少ないが、準LCCのフィリピンのセブ・パシフィック程度。

中国での採用例が多く、中国東方航空が35機、中国南方航空が34機、中国国際航空が33機、四川航空が23機を運用している。

このうち中国南方航空が日本に定期便としてレギュラー運航しており、唯一日本で乗れる319でもある。

ただ他者はレギュラーではないものの、320や321と共通運用が組まれることが多く、需要に合わせて頻繁に機材変更で飛来している。

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     ↑中国国際航空と中国南方航空のA319(ウィキペディア英語版より)


興味深いのはヒマラヤ山中にある小国・ブータンのエアライン、ロイヤル・ブータン航空(ドルック・エア)。

両社とも数機の319を保有し、バンコク・シンガポール線などに投入している。

同国は80年代まで鎖国に近い政策を保ち、エアラインが設立されたのも20世紀末になってから。

当初は隣国ネパールまで、小型プロペラ機だけを運航していたが、若い現国王ワンチュクの解放政策により、外国人観光客を積極的に受け入れるため、エアラインも整備。

A319は同国初の「ジェット機」であり、唯一のジェット機でもある。

しかし山深い国であるため、空港は首都ティンプーに空港はなく、20キロほど離れた人口15,000人のパロに同国唯一の国際空港がある。

ところがこの空港は深い谷間に僅かな平地にあるため、滑走路は2,000メートルしかない上に、周囲はどこまでも山と谷が続いていて、離着陸のための管制レーダーやILS(計器進入電波装置)は一切ない。

即ち例え最新の319と言えども、離着陸には「有視界飛行」しか出来ず、当然ながら天候が悪い時と夜間に運用は出来ない。

このためパイロットは高度な操縦技術を要求され、ジェット機が発着する空港では世界一難しい空港と言われる。

もちろん他国から乗り入れるエアラインはなく、ロイヤル・ブータン航空(ドルック・エアは現地での正式名称)だけである。

同社は現在4機の319を保有して、「桃源郷」と言われるブータンへ唯一の定期航空便として運航している。


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     ↑ロイヤル・ブータン航空(ドルック・エア)のA319(パロ空港、ウィキペディア英語版より)


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     ↑日本のローカル空港を思わせるパロ空港(ウィキペディア英語版より)



エアバス社ではA319を「BJ」と称したプライベートジェットも生産している。

ボーイングでは737をベースとした「BBJ」が存在するが、A319BJは機体に余裕があるため、機内の仕様が専用になっているだけで、必要がなくなれば通常の旅客機に簡単に改造できる。

一方「737BBJ」の方は、機体の構造から変更しているので融通性が乏しく、エアバス社はそれをウリにセールスしている。

全体の重量が軽く、燃料タンクは「LR」と同じ増量されているので、航続距離は12,000キロにも及ぶ。

現在までに80機以上の「BJ」が生産され、半数は「政府専用機」として各国の空軍が運用するが、残りの半数は未公表のプライベート機。

大企業の社有機のほか、有名芸能人や実業家などが購入していると言う。


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     ↑イタリア空軍のA319(ウィキペディア英語版より)A319(ウィキペディア英語版より)


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     ↑A380の様な豪華なキャビンのA319BJ(ウィキペディア英語版より)


319は個々数年発注数が減っており、出足の遅かった321に抜かされてしまっている。

これは70~120席級の新型のリージョナル機、エンブラエル「Eシリーズ」やボンバルディアの「Cシリーズ」が搭乗した影響が大きい。

しかもボンバルディアのCシリーズは、エアバス社が提携して「A220」として発売を開始しており、120席級として被っている事情がある。

それを踏まえて「BJ」の販売に乗り出し、未公表の受注も数十機あると言われている。

またこれまでの319の更新機材として、エンジンを換装した「neo」も初飛行したが、今のところ受注はカタール航空とアビアンカ航空など、約60機に留まっており、「BJ」もneo化の予定だ。

日本では現在まで319を導入したエアラインはなく、ファンにとっては「レア」な機種。

だが320シリーズは確実に機数を増やしており、今後受注するエアラインがないとも限らない。

出来れば全日空がneoで発注して欲しいところだが、MRJとの絡みもあり、日本での319への評価はイマイチ。

A319は本当の意味で「マルチロール旅客機」ではないか、と思う。

運用方法によるだろうが、日本でも充分活用できると思う。

因みに320を最初に導入した全日空は、当初319も検討していたことがあるが、ちょうどB737-500を導入したことで319計画は立ち消えになった経緯がある。






今朝はあっという間に真っ白になって、いったいどうしたものかと思ったが、日中は寒いながら日差しが出たため、市内の雪はほとんど消えた。

土の上に残る程度で、路面凍結も山沿い以外は大丈夫だろう。

だが寒い事に変わりはなく、とにかく手先が冷たい。

手袋があれば良いのだろうけど、持っていないので・・・。

家の中も冷えており、暖房を考えるが、電気代節約のため我慢。

「綿入れ」を着ていればなんとか凌げそう。

街では寒さで鼻を啜る人が増えた。

風邪と言うより、冷たい空気のせいだろう。

カフェでは寒さにもかかわらず、日曜日で混んでいたが、あちこちから啜る音。

仕方ないのだけれど、数秒ごとに「ズズッ」と言うのはいかがなものか。

うるさいし、何より「汚い」。

テッシュで噛めば済むことなのに、スマホに夢中でいつまでも啜る若者。

僧、若者に多く、たいてい男子なのだけれど、今夜は若い女性もズズッ・・・。

いい加減「テッシュ使えや!」と言いたくなる。

はっきり言って不愉快なマナー違反なので、寒い日はテッシュを常備するか、ない時は紙ナプキンで始末して下さい・・・。






元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

寒さは大丈夫ですか?

今朝の雪は大丈夫でしたか?

真冬の様な寒さ、君がちょっと心配です。

一時的なようですが、本格的な冬には違いありませんので、暖かくして過ごして下さい。

外出の際には、残った雪にも注意して下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




このころは 君を思ふと 術も無き 恋のみしつつ ねのみしぞ泣く(万葉集巻十五 3768 娘子)





☆今日のバス

1263号車 06年式日野ブル―リボンⅡ(KV234N1) 野村車庫

2374号車 01年式いすゞエルガ(LV280L1) 富谷営業所(元京浜急行バス)

12月9日 6時35分 仙台市泉区 -3℃

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昨夜は一度止んで星空でしたが、日の出時刻前から雪になっています。

気温も明るくなってから下がり続けていて、現在2センチくらい積もっています。

市内中心部方面は真っ白で何も見えません。

仙台は昨日初雪、昨夜「初積雪」を観測しましたが、道路には積もりませんでした。

日曜日なので、通勤/通学に影響は少ないと思いますが、外出で車の運転や歩行には細心の注意を。

初雪、初積雪でいきなり真っ白かよ…とツッコミたくなります(笑)。

飛行機ネタ 100機目のA320シリーズ(12月8日 晴れのち雪 5℃)

天気が悪くなる予報だけは、よく当たる。

朝はあんなに良い天気で、出かけたくなるような冬晴れだったのに、午後には雲が出始め、夕方にはついに雪が舞い始めた。

仙台、「初雪」である。

この冬一番の寒気がじわりじわりと南下、それが目でわかるような空模様で、冷たく強い北西の季節風に乗って雪がパァーッと飛んで来る。

山沿いは積雪しているだろう、積雪がなくとも路面の凍結も、この冬初めてなりそうな気配。

今夜から明日朝に車に乗る人は、初めてだけにより慎重な運転を。

積雪せず濡れただけの路面の方が、暗い時間では判断しづらく、凍結しているかどうかわからない。

いっそのこと積雪している方が無意識に慎重になるが、まだ冬道運転を思い出していないタイミングだけに、事故のないようにしたい。

雪道より凍結路面の方が遥かに危険。よく「急」のつく操作は禁物と言うが、中には「スタッドレスタイヤだから大丈夫。」と変な履き違えしているドライバーもいる。

毎年この時期になるとテレビでは、スタッドレスタイヤのCMが流れるが(地域差はあるようだが)、あれよく公取委に引っかからないなあ、と思う。

まあ実際冬道を走らざるを得ない北国のドライバーは、CMのキャッチコピーを鵜呑みにしないと思うが、いかにもどんな凍結路面や雪道でも滑りません…と言わんばかりだ。

誤解を与えやすいと公取委が文句を言っても良さそうなものだが、スタッドレスタイヤは「滑りにくい」のであって「滑らない」のではない。

またタイヤは車の性能とのマッチングでも、感覚は全く違って来る事を認識していないドライバーが多いと思う。

自分の車の「特性」を把握せず、スタッドレスタイヤのCMに頼ってしまうのはどうかと思う。

駆動方式がFF(前輪駆動)なのか、FR(後輪駆動)なのか、それとも4駆なのか?

例えば軽自動車と一口に言っても、乗用車タイプもあれば、背の高いワゴン車タイプもある。

背の高いワゴン車タイプの方が明らかに重量が重く、重心も高い位置にあるから、遠心力が強くて滑りやすい。

またマニュアル車が絶滅寸前の時代、AT車ばかりになり、冬道での減速テクニック「エンジンブレーキ」を知らない、出来ないドライバーが多過ぎ。

失礼ながら、AT車のセレクトレバーの「2」「L」(メーカーによって表示が違う)と言った、低速ギアの意味すらわかっていないドライバーがいて、私は驚いてしまう。

メーカーもそうしたドライバーを見下して、最近では低速ギアがない無段AT車も増え、減速はフットブレーキに頼らざるを得ない車種まである。

無段AT車は低速ギアを用意している車種もあるが、たいてい一段だけの申し訳程度の使えないギア比が多い。

冬道だけでなく、長い下り坂での「抑速」にエンジンブレーキは効果が大きいのに、フットブレーキを使わざるを得ない。

レーダーでの緊急ブレーキなど、実際には本末転倒の装置で、そのうちフットブレーキのやり方さえ忘れてしまうのではないか、と不安になってしまう。

コンピューター制御もAT車もない時代、それでも車はきちんと用を成していた訳で、最近の車はただ「金取り」の為に、不必要な装置が多過ぎる。

だからドライバーの質全体が低下し、実に下らなくバカバカしい「煽り運転」が起こるのだ。

私はAT車を減らし、MT車を復活させるべきだと考える。

最近高齢者ドライバーがアクセルとブレーキを間違えて暴走し、死亡事故を引き起こす事例が増え、免許証返納を呼びかけているが、これも実に本末転倒でバカバカしい話だ。

MT車ならば、クラッチを踏みギアを入れ、再びクラッチを繋ぐと言う手順を踏まないと車は動かない。

停止中はフットブレーキを踏み続けるか、サイドブレーキを引いて置く必要があり、少なくともアクセルとブレーキの踏み違えは起こらないはず。

誤解を恐れずに言えば、常に四肢を動かすから、高齢者ドライバーの認知症予防になるし、スマホやケータイをいじくりながら運転する愚行も大幅に低下する。

例え若いドライバーでも、MT車ならば「ながら運転」は出来ず、運転に集中出来るのだ。

またMT車ならば、万が一の事態に陥っても、クラッチを切らず速度が落ちれば、車は「エンスト」して停止する。

実に単純な理屈なのに、下らないメーカーの思惑に載せられ、ドライバーの質が日増しに低下する事を、何故世の中は気づかないのかと思う。

女性ドライバーなど、メカと言われただけで拒絶反応するかも知れないが、せめて「愛車」の素性くらい知っていても損はないはずである。

本格的な冬を迎え、ドライバーの力量が試されるシーズンでもあるので、くれぐれも慎重な運転をお願いしたい。



飛行機ネタ。

今週全日空が新造機としてA321neoを1機受領し、10機目のA321neo体制となった。

同時に現時点で、日本で運用・登録されるエアバス320シリーズの「100機目」になった。

全日空はneoシリーズを320・321合わせて32機を発注しており、320neoもすでに5機受領している。

同社の320・321neoシリーズは、同機最大の特徴である「PW1100G」ギアード・ターボファンエンジン装備機だが、このエンジンの開発が遅延した為、とりあえず従来型の「ceo」をリースと言う形で導入し、現在4機の「321ceo」を運航している。

「neo」が予定数に達すれば、これらの「ceo」は返却される予定だが、20年の東京オリンピック開催時には大幅な利用増が見込まれるため、全日空では具体的なリース期間の終了を公表していない。

リースの場合、需要に応じて期間を延長できる他、機材の都合によっては期間の延長と同時に新しい機材と入れ替えもできるメリットを持つため、少なくとも2年以上はこのまま運用されると思われる。

全日空では、同社初のエアバス機として91年から320の運用を開始し、これまで30機近くの同機を運用して来た。

2010年代にはナローボディ機を「B737」に統一する計画を発表、老朽化した320は「引退」することになっていた。

同時に737の数が揃うまで、短期間リース機を運用したこともある。

ところが一昨年、同社は急に機材計画の大幅な見直しを発表する。

機材統一化自体が見直され、古い320については順次引退という計画は変更なかったものの、新たに計画されていた「neo」シリーズを一気に30機も発注したとして、世間を驚かせた。

あまりの手の平返し的な、不審とも思える計画変更だったが、既にエアバス社とは契約を交わしており、直後日本初となる「A380」を3機発注、321neoも2機追加発注している。

これについて全日空は「新型エンジン」を含めた、先進性の強い経済性と国内線・国際線双方に融通の効く機体として再検討した上で発注に踏み切ったとしている。

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           ↑全日空のA321neo(全日空提供)

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    ↑日本初登場となった「PW1100G」ギアード・ターボファンエンジン(全日空提供)


特にファンにとっては、90年代末に10機導入され、10年経たずに退役した「A321-100」の事があっただけに、321neoとリース機ceoの導入は「青天の霹靂」であった。

初期に導入した321は、320と違ってエンジンが「IAE V2500」を装備しており、整備運用上経費が高いとして退役に至っていた。

321は同社初、ナローボディ機で2クラス制を導入して話題となったが、2クラス190席と言うキャパシティが当時としては半端に思われたのである。

ローカル線でも230席級の767-200が現役にあり、後継機としては40席も少ない321は実質的な後継機には成りえなかったのである。

モノクラス163席で運用された320の方が、ローカル線や幹線のアシスト分には適しており、321は使いにくい機材と見られたのである。

しかし20年近い時間が経ち、同じ320シリーズでも性能が向上したことに加え、航空需要が大きく変化し、ナローボディ機が主力を占める時代になったのである。

またそれまではエアラインにとって、機材のメーカーは均一の方が何かと都合が良いこともあった。

「お得意さん」として、価格やサービス面で優遇される場合が多かったからだ。

加えて90年代まで、エアバス社はまだ若いメーカーであり、アメリカのボーイングとマクドネル・ダグラスが遥かに大手でもあった。

ところがその後エアバス社は「ヨーロッパ製」を武器に、アメリカとあまり関係が良くない途上国や社会主義国をS中心にセールスを伸ばし始め、同社初の320シリーズも、胴体長を変えた4種類の機体を用意することで爆発的な売れ行きになった。

丸ごとの新設計機であり、21世紀を見据えた技術が盛り込まれていたことも、エアラインの目を引くことになった。

80年代末にマクドネル・ダグラス社がボーイング社に統合されると、最も需要の高いナローボディ機の販売競争は「2巨頭」体制となって熾烈を極める。

エアラインにとっては両社を「競合」させる方が、価格などの面で有利になり、一辺倒の時代は終焉を迎えている。

737のウリは「堅実性」にあり、生産開始から改良を重ね半世紀が経つ。

初期の100/200型と、現在の「MAX」シリーズまで、胴体のコンポーネントは共通であり、遡ると50年代の「707」と同じ胴体を使い続けている。

これが改良型を作ってもコストが抑えられ、かつ熟成された機体としてエアラインの「信用」に繋がっている。

737が「保守」ならば、エアバス320シリーズはまさに「革新」であり、エアラインの好みが大きく左右する事になった。

320シリーズは、完全に737の「ライバル」である。

胴体径は僅かに320が太く、キャビンの広さでは床面積では320、上下寸法では737の方が広い。

これは床下の構造による違いで、737は元々短距離用旅客機であったこと、胴体の基本設計が50年代の思想であることから「貨物室」がない。

正確には「貨物スペース」があるだけで、旅客機用「航空コンテナ」を搭載することは出来ない。

707が開発された当時、コンテナ自体もまだ開発されていなかったので当然のことなのだが、737と言う性質上コンテナ搭載能力は不必要と割り切っての設計である。

一方エアバスの方は「現代っ子」であるため、床下には標準のコンテナ「LD-3」が搭載できるように設計されている。

ワイドボディ機であれば、並列に搭載できるが320シリーズは1個ずつであるが、これが737と大きな違いになっている。

コンテナは密閉性があるため、貨物の保護に役立つほか、機内から電源を接続する「冷蔵」「冷凍」コンテナも存在する。

その他貴重品や「壊れ物」を搭載するためなど、様々な種類のコンテナがあり、「準貨物機」としての機能を持たせた世界初のナローボディ機でもある。

リーマンショックでは、乗客・貨物とも世界的に需要が落ち込んだが、ここ数年LCC等の台頭や途上国の経済発展により航空貨物の需要増と多様化が進んでいる。

一昔前には考えられなかった、ナローボディ機の長距離・長時間飛行が可能となり、今や数時間程度の国際線でナローボディ機は全く珍しくない。

エアライン側にすれば、運航経費の高い大型ワイドボディ機を1機飛ばすより、きめ細やかな需要に対応できるナローボディ機を2機運航した方が、効率が良い。

更に貨物が搭載出来れば、その分の収益も期待できる訳である。

全日空が320シリーズに戻った理由の一つに、貨物需要を上げている。

IT部品や軽工業品、最近当たり前になったネット取引の商品など、軽量でかさばらない貨物の需要が最も伸びており、日本ではアジア域内での貨物需要が特に増加している。

日本ではアメリカの様に、宅配貨物を専門に扱う貨物エアラインはないため、増え続ける国内貨物の需要にも320シリーズは大きく貢献できると全日空は見こんだのである。

neoシリーズでは320の方が機数が少ないが、こちらはアジア方面への国際線機材。

321neoは国内線機材として、間もなく寿命を迎えつつあるB767-300の後継機種に据えている。

座席数が大幅に減少するが、同社では787-8/9も767の後継機種と定めているため、むしろ路線や季節上に合わせて柔軟な機材運用が可能になるとしており、将来的には321neoも国際線機材として運用する予定もある。

既にファンには注目で人気のあるneoシリーズだが、国内線用の321neoは同社初の「全席パーソナルモニター」月と言う事が話題になっている。

前方に8席ある「プレミアムクラス」だけでなく、普通席にも全てモニターが完備されており、機内WiFiももちろん最初から装備されている。

歯がゆいのはスケジュール上「ceo」と「neo」の区別がつかず、共通運用になっている事。

座席数とアレンジは同じなので仕方ないが、搭乗する日まで「ceo」なのか「neo」なのかはわからない。

「ceo」にはモニターは装備されていないので、楽しみにしているとがっかり・・と言うことも。

だが機数としては「neo」の方が倍以上になったので、今後当たる確率は高くなるだろうし、ファンにとっては「期間限定」の「ceo」の方が貴重と思えるだろうか。

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      ↑ビジネスクラスを思わせるA321neoの普通席(全日空提供)

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        ↑4機運用中のA321ceo(ウィキペディア英語版より)


「ceo」と「neo」の外観上の区別は、特に遠目ではほとんど不可能。

空港のボーディングブリッジでも、パッと見では識別できない。

「neo」の方がエンジンの口径が大きく、カウリングの後部から突き出す「コーン」が短い。

余程詳しい人でないと見分けは付きにくく、主翼や胴体に書かれたレジ(登録番号)で判断するしかない。

因みに「ceo」は「JA111A~114A」までの110番代、「neo」は「JA131A」から130番代で始まっている。

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    ↑(2枚)A320「ceo」と「neo」(下)。エンジンの大きさに注意(ウィキペディア英語版より)

A320は「ceo」は残り5機まで減っており、いつの間にか「絶滅危惧種」になってしまった。

近年の320「ceo」は、オプションとして翼端がそれまでの小さな「ウィングチップ」から「シャークレット」に変更されているが、全日空の「320ceo」にシャークレット装備機はなく、付いていれば「neo」である。

当分320neoは国際線機材となるため、同社の国内線での活躍は暫く見おさめになるだろう。

最も将来的には増備の上、国内線機材になる可能性は大きいと言える。

今後日本の320シリーズは「ceo」と「neo」が混在する時代を迎えるが、夏以降LCCの「ピーチ」と「ジェットスター・ジャパン」は相次いで「A321neoLR」を発注した。

現在日本で最も320シリーズを運用するのは、全日空の26機、次いで24機保有するジェットスター・ジャパンで、ピーチが21機と続く。

その他バニラエアが15機と続くが、来年度以降ピーチと統合され、機材も全て移籍することになっているので、ピーチがトップになることが保証されている。

その他スターフライヤーが12機、エア・アジア・ジャパンが2機。

一方ライバルのB737は、400~800が7社で約170機運用されており、機数と言う点ではまだボーイングが勝っている。

ところが国内エアラインでの737の新規発注は鈍っており、ここ2~3年では日本トランスオーシャン航空とスカイマークが「800」を発注しただけである。

しかも生産が開始された「MAX」シリーズについては、今のところ発注の動きはない。

日本トランスオーシャン航空は「400」の後継機として「800」を発注、オプションとして「MAX8」に変更できる契約を交わしたが、これまでにその動きはなく「800」で済ませる公算が大きい。

スカイマークも一時「MAX8」の発注を示唆したが、経営破たんで白紙撤回され、「800」の追加だけに留まっている。

日本航空・全日空とも「700」「800」の導入は既に終了しており、追加の動きは出ていない。

全日空は700型も16機導入したが、このうち特別仕様の「700ER」は退役、通常型のうち9機はAIR DOにリースしているし、「クラシック」の「500」型は「MRJ」の就役を待っての退役が決定しており、737の減勢は既に始まっている。

同時に一度手放しそうになった320シリーズが、最盛期の数に近付いており、来春ごろには初期の運用数を上回る見込みだ。

LCCでも増機に関しては、ピーチとジェットスター・ジャパン以外は停止状態にあるが、今後増えるとすれば320シリーズになろう。

いずれ「ceo」を「neo」に変更するエアラインは出てくるであろうし、スターフライヤーも発注には至っていない者ん尾検討中であると言われている。

退役した機材を含めると、日本でのエアバス機は160機を越えたが、今後も増え続けることは間違いない。

長らくアメリカ製一辺倒だった日本のエアラインだが、航空事情の変化や規制緩和で、客観的に機材を選択するエアラインが殆どになった。

大型機でも来年全日空がA380を、数年後には日本航空がA350を導入する。

ヨーロッパ製と言う事になかなか躊躇して来た日本だが、ここにきて形勢は変わりつつある。

2種のワイドボディ機が登場すれば、なおさらエアバス機の日本市場は拡大する事であろうと思う。

特に「マルチロール」な320シリーズについては、今後も需要は大きい。

ファンとしてはA350を発注している日本航空が、320シリーズに手を出さないか、と言うこと。

旧日本エアシステムから受け継いだワイドボディ機「A300」以来、同社とグループ企業はエアバス機の経験がない。

今のところA350が初めてとなるが、真っ白なボディに赤い鶴丸を描いた320シリーズ・・・一度見てみたいと思うがどうだろうか。

私は今後、日本のナローボディ機は320シリーズを含めたヨーロッパ機(ターボプロップ機も含めて)が徐々に増えていきのでは、と考えている。





おお~寒い!

20時頃まで振っていた雪は、22時頃には止み、空は星が出ていた。

典型的な仙台の冬空。

必ず夕方から宵の口に雪が降り、深夜には綺麗に晴れる。

積もらず路面は濡れただけ、放射冷却で路面凍結…実際帰宅する頃には凍結が始まっていた。

気温も21時にはついにこの冬初めての「氷点下」に。

「初積雪」も観測され、「初雪」は昨年より14日遅れ、「初積雪」は平年並みだという。

予想されてはいたが、指先が痛いほど寒い。

にも関わらず街では買い物客や食事の人で賑わっており、帰り際に寄ったカフェでは、閉店間際になって満員だった。

不思議な事に、女性のグループ客ばかりで、男性は私を含めて3人だけ。

仲間同士の忘年会だったのだろうか。

地下鉄からは、やはりたくさんの人が寒さにも関わらず下車してきて、タクシー乗り場が行列していた。

中心部で何かイベントでもあったのだろうか?

寒さは明日も続き、午前中を中心に雪が降りやすいという。

せっかくの日曜日だが、子供たちは喜びそうだ。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

寒さは大丈夫ですか?

今日はとても寒かったですね、君もすっかり冬仕度の格好で過ごしたと思います。

帰り道、雪や凍結は大丈夫でしたか?

君は冬道を歩くのは慣れていると思いますが、明日も雪が降りそうです。

慣れるまで、足元には充分注意して外出して下さい。

冷え込みも真冬並みになりそうですので、家でも外でもとにかく暖かく過ごして下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




沫雪の 庭にふりしき 寒き夜を 手まくらまかず 一人かも宿む(万葉集巻八 1663 大伴宿禰家持)



飛行機ネタ エキゾチックなロイヤル・エア・モロッコ(12月7日 曇り時々晴れ 14℃)

どうもすっきりしない、半端な空模様が寒々しさを増長させる。

今朝出かける時、傘を持つかどうか悩んだ人は多かっただろう。

夜明け頃から小雨が降っていて、10キロ先の中心部の高層ビル群は見えなかった。

時折雲の隙間から朝焼けが見えていて、この後晴れて来るのか…忙しい時間にイラッとしそう。

日中は一時晴れたものの、全般的に曇っていた。

この冬一番の寒気が降りて来ており、気温も平年より高くなったが、午後からは急降下している。

どうやら秋と冬の境目が来たようで、明日の寒気は仙台に雪を降らせそう。

週間予報でも、来週いっぱいすっきりしない天気になっていた。

だが気象庁は、この冬は全国的に「暖冬」になると言う予想を出した。

南米ペルー沖太平洋の水温が高くなる「エルニーニョ現象」が起こりつつあると言う。

科学的根拠以外にも、猛暑の後は暖冬、そして暖冬の後は冷夏と言うパターンが多い。

今年は「災害級」と言う言葉が流行になるほどの猛暑だったから、多分暖冬傾向になるのでは?と思っていたが、やはりそうかと思う。

最もあくまで予想だしデータ上の事だから、暖冬だったと言えるのは春以降の事だ。

出来る事ならば暖冬であり、雪が少ない冬であって欲しいが、自然は人間に合わせてくれる訳はないので。




飛行機ネタ。

日本は世界でも、多くの国と国交を持ち殆どの国と事実上行き来が可能だ。

国交のない国に、日本人が行けない事はないが、誰もが持つパスポートの効力は発揮されない危険性がある。

即ちパスポートとは国際協定に基づいて、相手国が日本人である事を認めると同時に、何らかの有事の際には大使館が保護する責任と、保護される権利がパスポートでもある。

日本は主な主権国家と自治権を持つ地域に大使館もしくは領事館を置くが、小国だったり滞在する日本人が殆どいない場合は、近隣国の大使館が兼任する場合もある。

正式な国交を持たない国に対しても、近隣国の大使館が担当するので、例えば北朝鮮などに入国する日本人は在北京大使館が担当する事になる。

また台湾も日本と正式な国交を結んでいないが、これは中国との関係が原因。

ご存知の通り、中国は台湾を「台湾省」として独立国家として認めていない。

ただ日本と台湾は、文化・経済面での繋がりが強いので、建て前は「断交」状態で中華民国を承認していないが、協定を結んでいる。

あくまで中華人民共和国に対する「気遣い」であり、事実上日本と台湾は良好な友好関係を持ち、両国民のパスポートも有効である。

大使館もしくは領事館は置けないが、お互い「外務省出張所」を置く。

中国も常日頃強硬な態度を取っているが、台湾渡航歴を持っていても、日本人の中国への出入国に問題はない。

国交のない国でも、このように大抵渡航する事に支障はない国が殆どだが、北朝鮮は日本人の個人出入国は認めておらず、団体だけ。

これは日本側の事情にもマッチしたやり方と言える。

国交を持たない国は、北朝鮮以外大半が「承認」していない国で、民族紛争などで勝手に独立したと言う地域が殆どだ。

例えば北キプロス・トルコ共和国やロシア国内の民族紛争地域などだが、いずれも根本的な承認国家の一部と見做している。

ところが正式な国交を持ちながら、日本政府すらあまり事情を知らない国と言うものもあり、先に書いたように近隣国の大使館が兼任する国が意外と多い。

そうした国が集中するのがアフリカである。

アフリカ大陸には53カ国と地域があるが、このうち日本政府が国家として承認していないのは、大陸北西部にある「西サハラ」だけだ。

日本人でこの名前を知っている人は、かなりの世界地理好きだろう。

西サハラの政府は「サハラ・アラブ民主共和国」として主権国家を主張しているが、承認している国はほんの一部。

アフリカ大陸の大半は、60年代までヨーロッパ諸国の植民地にあり、イギリスとフランスが殆を支配していた。ドイツとイタリアも植民地を持っていたが、第二次大戦の敗戦で放棄、連合国が代わって支配していた。

西サハラはアフリカ大陸の北端にあり、イスラム教圏の一つで、モロッコ・モーリタニア・アルジェリアと国境を持つ。

76年まで西サハラはスペインが領有していたが、それが放棄され独立するかと思われたが、モロッコとモーリタニアが領有権を主張するとともに、モロッコが軍事介入した。

西サハラでは解放と独立を目指す武装組織が内戦を起こし、長い紛争後一応の和平に至ったが、現在も領土の2/3はモロッコが実効支配している。

モロッコと国交を持つ多くの国は、支持はしないもののモロッコとの関係を維持するため西サハラの主権は承認しておらず、中南米やアフリカ諸国の一部が承認しているだけだ。

西サハラの大半は名前の通りほとんどがサハラ砂漠にあり、国土の面積は日本の2/3ほどだが人口はたった57万人しかいない。

首都のラユーンは同国最大の都市で、「サハラ・アラブ民主共和国」の政府となる「ポリサリオ戦線」も首都として主張しているが、実際にはモロッコの支配下にあり、「西サハラ自治区」の首都にされている。

モロッコの実効支配地域とポリサリオ戦線が支配する内陸部には、モロッコが築造した約2,000キロに渡る高さ数メートルの「土の壁」で封鎖され、周囲には地雷原が敷設され行き来は出来ない。

戦線は同国北東部で国境を接するアルジェリア領内に「亡命政府」を置いているが、「土の壁」のおかげでモロッコとの停戦は守られている。

首都ラユーンの他、モロッコが支配する西部は大西洋に面していて、天然の良港を持つ。

全く未開発ながら近年燐鉱などの鉱物資源が発見され、モロッコ側の外貨取得に一役買っている。

国連でも30年に渡って問題にされてきたが、現在の状態で落ち着いている。

このため同国の人口集中地域はほぼ「モロッコ」領となっているため、インフラもモロッコのものである。

当然ながら「西サハラ籍」のエアラインや鉄道はなく、人口が希薄なため、道路も海沿いが中心。

空港もラユーンにと南部の都市ダフラにしかなく、就航するのはモロッコのフラッグキャリア、ロイヤル・エア・モロッコとスペインのビンター・カナリアス航空だけ。

一応「国」と主張していて、これだけの面積を持つ場所で空港が2つしかないと言うのは同国の複雑な事情を反映している。

ロイヤル・エア・モロッコは、名前の通り「モロッコ王国」のエアラインであり、同国はアフリカ大陸では唯一の立憲君主制を執る国である。

大陸北部に位置し、チュニジア・アルジェリアと並んで古い地域名称の「マグレブ3国」の一つ。

首都はラバトだが、最大の都市はカサブランカ。観光地として有名なマラケシュも同国の都市である。

国土面積は約44万平方キロ・人口は約3,400万人で、日本より一回り大きく、東西に長い。

北部には標高4,000メートル級の山が連なるアトラス山脈があり、南北で気候は大きく違う。

カサブランカなどの都市の殆どは、アトラス山脈の北側・地中海沿岸にあって、スペイン南部やイタリア南部と同じく地中海気候に属するが、山脈から南は極端に換装したサハラ砂漠になっている。

アトラス山脈は冬になれば雪も多く、砂漠と雪が両方存在する極めて珍しい国だ。

中世にはイスラム王朝が隆盛を極め、数十キロの海を隔てたスペインとも往来が多く、スペイン南部を統治していた時代もある。

また現在でも地中海沿岸に「セウタ」と言う、スペイン領の都市が「飛び地」として存在する。

主要民族は西部アラブ人の一派ベルベル人が多く、言葉はアラビア語とベルベル語。

18世紀になるとフランスの植民地になったため、国民の半数はフランス語を話すため公用語になっているが、スペインに近い地方ではスペイン語も良く通じる。

ロイヤル・エア・モロッコはアラブ系の北アフリカ諸国では、エジプト航空に次いで大きなエアライン。

57年に設立され現在55機を保有し、コードシェア提携を含むと世界94都市に就航している。

古くからヨーロッパ、とくにフランスとスペインとの繋がりが強く、観光地としてカサブランカの「キング・ムハンマド5世」空港には、欧米のエアラインも多く就航していて、これもカイロに次ぐ規模を誇る。

今年の夏、たった1機残っていたB747-400が引退し、後継機としてB787-8が導入された。

既に5機の787が同社に納入されているが、もちろん幹線・長距離路線の主力として運航される。

また787-9も発注しており、アフリカではエチオピア航空に続いての787ユーザーとなっている。

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     ↑ロイヤル・エア・モロッコのB787-8(ウィキペディア英語版より)

機材はナローボディ機が中心で、ワイドボディ機は787だけ。

747の他767も保有していたが、767は貨物型が1機あるだけで旅客便はない。

ナローボディ機はB737-700/800とA320シリーズ双方運用しており、320neoシリーズも発注している。

路線の中心はヨーロッパとアフリカ・中東諸国が多いので、737や320シリーズで充分。

国内線コネクション便を運航する「ロイヤル・エア・モロッコ・エクスプレス」で運用される小型プロペラ機以外は、全て2クラス制。

パリまでは約3時間、マドリードまでは1時間45分なのでナローボディ機の独壇場でもある。

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       ↑この夏引退したB747-400(ウィキペディア英語版より)

787の導入に合わせ、機体の塗装が変更されている。

同社のコーポレートカラーは、モロッコのナショナルカラーでもある赤と緑。

旧塗装では胴体のロゴはアラビア文字で、尾翼に略号である「RAM」が入れられていてエキゾチックだったが、新塗装では片側胴体に「ROYAL AIR MOROC」とローマ字に代わり、尾翼はデザインを変えたマークだけに変更されている。

今風のあっさりしたデザインだが、少々古臭いチートラインの方が「らしさ」はあったような気がする。

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      ↑最もM機数の多いB737-800(ウィキペディア英語版より)

日本からは直行便はないので、ヨーロッパで乗り換えることになるが、利便性ではパリが最も良い。

一昨年日本線を復活させたスペインのイベリア航空も、通しのチケットで行ける。

特にイベリア航空の場合は、スペイン領の「セウタ」からノービザで入国できる。

イスラム国家のため、中東諸国との繋がりも多く、最近ではUAEドバイやアブダビでの乗り継ぎも便利だと言う。

話題になっているのが、20年半ばに同社は航空同盟「ワンワールド」に加盟が決定したこと。

これまで同社は同盟には参加しておらず、規模としては珍しいエアラインだったが、加盟の基準を満たしたことで決定された。

加盟には共通の予約システムの構築のほか、安全基準などをクリアするなど様々な条件があるだけでなく、同盟の維持費用も負担する資金力が必要だ。

同社は中近東・アフリカのエアラインでは珍しく、持ち株会社制の純粋な民営エアラインで、同じマグレブ諸国・チュニジアのフラッグキャリア、チュニス・エアや現在は運航を停止しているがモーリタニア航空やセネガル航空など、旧フランス植民地諸国のエアラインの筆頭株主を務めていた。

独自のマイレージシステムや提携クレジット会社も所有し、先進国のエアライン並みの多角経営をしているのが特徴である。

現在はアエロフロート、アリタリア、ブリュッセル航空、エティハド航空、イベリア航空、ケニア航空、カタール航空、サウディア、TAAGアンゴラ航空、トルコ航空とコードシェア提携を結んでおり、日本からは直行便はなくとも比較的生きやすいアフリカと言える。

「ワンワールド」では、同社が初のアフリカ大陸のエアラインとなるため、大きな期待が寄せられている。

他の航空連盟では「スターアライアンス」ではエチオピア航空・エジプト航空・南アフリカ航空が、「スカイチーム」ではケニア航空が加盟しているが、「ワンワールド」ではアフリカ、特に北アフリカ・西アフリカ方面が希薄である。

同社の加盟によって、路線が大きく拡大するだけでなく、利便性も向上する。

「ワンワールド」には日本航空が加盟しているため、日本からの渡航もグッと便利になるだろう。

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    ↑(2枚)暫定塗装のA320と新塗装のA321(ウィキペディア英語版より)


さて「西サハラ」についてだが、どうしても行こうとすると同社を利用するしかない。

だが先に書いたように、日本は西サハラの「サハラ・アラブ民主共和国」を承認しておらず、同時にモロッコの実効支配も国際法上「違法」と見なしている。

外務省のウェブページによると、西サハラ地域では首都のラユーンと南部のダフラを結ぶ街道筋は「危険度レベル1」。それ以外のモロッコ支配地域では「危険度レベル3」(渡航延期)、モーリタニア・アルジェリア国境沿いのポリサリオ戦線支配地域は「危険度レベル4」の「退避」となっていて、かなり極端だ。

都市部以外が危険なのは、全て居住地域のないサハラ砂漠であることも大きいようだ。

ただ上記の様に、西サハラは日本国は基本的に国交を持たない未承認国であると同時に、双方の対外事務所もない。

万が一の事故や事件に巻き込まれると、モロッコ政府の担当にはなるが、早急な対応は望めないと言うことになる。

調べてみると、外国人でもモロッコ側からだと陸路による入国も可能の様だが、テロ対策のため「国境」の検問所は厳しく、時には何時間も待たされることもあるようだ。

空路もカサブランカからロイヤル・エア・モロッコ便で入国するしかないが、空港でも審査があり、時間がかかると言う。

国際的に空白地帯なので、手つかずの自然が残り、大西洋沿岸では外貨取得のためリゾート地も作られている。

だが政治情勢は流動的であるほか、日本人自体が殆ど馴染みのない地域である以上、現地での対応も「それなり」であると言う。

ラユーンではインフラも整っているが、それ以外では病院などの施設も少ないため、「怖いもの見たさ」以外で行く必要性はなさそう。

現地での行動は許可されても、万が一の時日本側が即座に対応できるか不明な部分も多く、あまり観光には適さないと言った方が良さそうである。


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    ↑西サハラに運行するロイヤル・エア・モロッコ・エクスプレスのATR-72-600(ウィキペディア英語版より)

ロイヤル・エア・モロッコは機材更新を急激に進め、747の引退後機材の平均使用年数は低くなっていて、安全性でも高い評価を受けている。

しかしそこはアフリカのエアライン、サービスと言う点では今一歩の様で、特に定時性は悪いと言う。

機内サービスは、北米線以外はフライトタイムが短いので平均点だと言うが、予約をすれば「特別食」も提供される。

また前回書いた「ロイヤル・ヨルダン航空」と同じく、イスラム国家のエアラインながらアルコールのサービスも行われる。

モロッコは地中海性気候を持つので、ブドウの栽培も盛ん。

あまり知られていないが、チュニジアと同じくワインの生産国でもあり、安価なブレンド用としてヨーロッパに輸出される。

近年ではインフラが整っていながら、人件費を含めてコストが安い国と言うことで、ヨーロッパの自動車メーカーが部品生産工場をモロッコに見おってくるケースが増えている。

GDPはアフリカでは5位と上位にランクインしているが、産油国ではなく、人口も少ない割にGDPが高いのはこうした事情があるようだ。

特にフランスとスペインの企業が多く進出しており、何かと話題になっているフランスのルノーも、関連企業をモロッコに置いている。

モロッコのルノーは「日産」の工場の一つでもあり、主力車種「ドッカー」を生産している。

元々ルノー傘下のルーマニアの自動車メーカー「ダキア(ダチア)」が開発したミニバンタイプの小型車だが、ヨーロッパ域内とアフリカ向けに「ルノー・日産・モロッコ工場」で生産されている。

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    ↑モロッコで生産される「ルノー・ドッカー」(ウィキペディア英語版より)

現代ビジネスが多く進出するモロッコは、西サハラ問題があるものの本国はアフリカ諸国の中では最も安定し、唯一の君主制国家として王室の人気も高い。

ロイヤル・エア・モロッコも王室専用のフライトに指定されることも多く、元国王ムハンマド6世の外遊にはB747-400が使われることが多かった。

同機が引退したので、今後はA320か海外のVIPチャーター機を使うことになりそうだと言う。

国王自身も、海外投資の誘致には積極的で、アフリカでは最も「欧米化」が良い意味で取り入れられている国の一つ。

それに合わせて同社のレベルも引き上げたようで、「ワンワールド」の加盟はモロッコにとって大きな宣伝になりそうである。

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       ↑アトラス・ブルーのB737-400(ウィキペディア英語版より)

なおモロッコでは定期便を飛ばすエアラインは、ロイヤル・エア・モロッコがほぼ独占しているが、近年同LCC「アトラス・ブルー」が設立され、イタリア・スペインを中心に運行を始めている。

機材は中古のB737「クラシック」だが、社名とURLを大きく書き込んだ塗装はいかにもLCC。

デザインもヨーロッパのLCCと共通しており、モロッコ自身強くヨーロッパを意識していることが分かる。

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    ↑ヨーロッパ線に投入される最新機材エンブラエル190。これも2クラスで運航8ウィキペディア英語版より)

エキゾチック・・と言うのは、何か好奇心をくすぐる。

モロッコは比較的名前は知られているけれど、かなりの海外通の人でないと行った事はないだろうと思う。

日本からは遠いながら、意外と利便性は良いというアフリカでは珍しい国の一つ。

便利なエアラインで行くのが良いのだろうが、できればロイヤル・エア・モロッコで行ってみたい。

「ワンワールド」に加盟すれば、日本航空でパリに飛び、そこから同社便に乗り換えることが可能になる。

日本人にはなかなか縁遠い北アフリカ、サハラ砂漠。西サハラも安心して行ける事情になれば良いが。




週末金曜日。

私自身はちょっと疲れが溜まっているのか、忘れ物をしたり凡ミスばかり。

危ない、こういう日はいろんなことをしない方が。

金曜日と言うこと自体、忘れていた。

街はひときわ人が多く、飲食街では「忘年会」の人も多いだろう。

泉中央では、レストラン街も金曜とは言え平日にしてはどこもいっぱいで賑やか。

アリオのフードコートも、なぜかいっぱいで、各カウンターには行列が。

一瞬土日を思わせる光景だった。

買い物も何故だか、頭の中でまとまらず、買い忘れ。

母に供える物も、買おうとしていたのに家に帰ってから思い出し、急がなくて良い調味料なんかを買ってしまった。

寝不足が続いていたからだと思うが、今夜は少しでも早めに寝ようと思う。

帰りは歩いて来たが、ずっと向かい風。

予報通り、冬型が強まってきたようで、かなり寒い。





元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

寒さは大丈夫ですか?

明日はグッと冷え込みそうで、初雪になるかも知れないとのことです。

外出の際には、しっかり暖かい格好で。

帰りがけには君の好物の、甘くて暖かいココアでも飲んで下さい。

身体を冷やさぬよう、体調管理には気をつけて、楽しい週末を過ごして下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。





夢のみに 見てすらここだ 恋ふる吾は うつつに見ては ましていかならむ(万葉集巻十一 2553 正に心緒を述ぶ)



☆今日のバス

687号車 02年式三菱ふそうニューエアロスター(MP37JM) 野村車庫(元名鉄バス)

747系のボディを持つ、初期のノンステップ車。宮交では新車の290エルガの導入が続き、中古車の導入が鈍っていたが、この夏1年ぶりに数台が名鉄バスから移籍して来た。そのうちの1台。

古代史探偵A 番外編・冬の奈良旅(12月6日 曇り時々雨 5℃)

12月に入った途端、冬の洗礼みたいに寒い一日。

低気圧の通過で朝から分厚い曇り空で薄暗く、断続的に冷たい雨が終日続いた。

寒いと言うより、12月の雨と言う事が何とも侘しく思える。

雨は夜には止んだが、気温は夜中から殆ど変化がなく、仙台はこの冬一番低い最高気温となった。

家の中も寒く、そろそろ大きな布団が必要かと思う。

明日の気温は一旦平年並みに上がりそうだが、お昼頃までで、午後からはどんどん寒くなると言う。

予報では土曜日辺りに、もしかしたら「初雪」になるかも、と言う。

昨日は大陸でこの冬一番の寒さとなり、北京の最低気温は-6℃、モンゴルの首都ウランバートルでは-15℃まで冷え込んだ。

中国やモンゴルを冷やしている寒気が、明日の午後以降日本にやって来て、週末には沖縄を除く全国を覆う見込み。

特に北海道、東北、北陸では雪が降りやすくなり、日本海側では積雪量が増える可能性もあると言う。

今朝の夜明け前、ニュースの中継で札幌市が出ていて、気温は-2℃。カメラには少し大きめの雪が、フワフワ飛んでいるのが映っていた。

週始めには異常な暖かさ、週末には先取り的な寒さと雪。

極端にも程がある。週始めでは、沖縄の与論島がニュースで流れていて、映っていた若い女性にTシャツにショートパンツ姿。

気温は27℃だったから、こんな格好でも充分な訳で、タイムラグはあるけれど、日本は広い国なのだ、と今更ながら感心してしまう。

夜いつものカフェに行くと、遅い時間にもかかわらずお客さんが多い。

寒さが「帰る前にちょっと熱い飲み物でも?」と言う心理が働くようだ。

日中ソフトバンクの回線が不具合を起こし、ケータイとネットやメールが繋がらなくなると言う騒ぎ。

実は私もユーザーなのだけれど、日中はほとんど電源を切っているので気づかなかった。

最もそうした昨日は使わないし、結果的に電話・メールの必要もなかったので関係なかった。

当初東京・大阪・名古屋などの大都市圏だけ、と言っていたが、午後遅くには全国的に通話しにくい状況が拡大したと言う。

テレビではちょうどスマホの地図を使っていたが、急に消えてしまって道に迷った・・・と言う人が出ていたが、なんでも楽しようとするといざという時に何も出来なくなる。

困った文明社会。ソフバンによると、接続機器が何らかの理由で不具合を起こし、連帯して接続不能になったと言う。

宅配業者などでは全面的に連絡不能になり、配達・集荷が停止したところもあったと言う。

仙台で影響はあったのだろうか、一応ユーザーなのに何も知らない私。

夜には雨が止んだが、時折小雨が飛んで来た。濡れるほどではないが、不安定な空模様。

寒さはさほどではない。日中とほとんど変わらない分、そう感じるのだろう。


元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

寒さは大丈夫ですか?

週末には雪が降るかも知れません。

充分な寒さ対策をして、暖かく過ごして下さい。

寝不足や疲れはありませんか?

寒さは、意識せず知らぬ間に体力を使うので、体調管理には気をつけて、食事や飲み物を美味しくしっかりと摂って下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




沫雪の 消ぬべきものを 今までに ながらへぬるは 妹にあはむとぞ(万葉集巻八 1662 大伴田村大娘)







◎古代史探偵A(番外編 冬の奈良旅)



奈良もそろそろ秋の行楽シーズンを終え、一年で最も静かな季節を迎える。

初詣の正月三が日を除けば、来年の春を迎えるまでは観光地はどこも空いていて、私のような個人旅行者には最適のシーズンでもある。

奈良の冬は比較的穏やかで、冬晴れが続く。

世界遺産が集中する奈良盆地は、雪もめったに降らず、仮に降ったとしても積雪する事は殆どない。

ただ2月の後半になると、早くも春を呼び込むかのように季節の分かれ目の雨が多くなり、冷たい雨がよく降る。

しかも土砂降りになる事もあり、北国の人間には少し驚く事もある。

私が初めて奈良に行き始めたのはこの時期で、終日土砂降りの雨が続き、傘を差しても足元はびしょ濡れ。

ズボンも靴もびしょ濡れの上泥だらけになった思い出がある。

まだ奈良旅の要領が試行錯誤していた時で、旅の最終日を奈良公園に充てようと、レンタカーは前日に返却していた。

晴れていれば、気持ちよい歴史散策が出来たであろうに、土砂降りの雨に身体は冷え切り、さりとて予定をキャンセルする訳にもいかず、東大寺・二月堂脇の「茶所」(休憩所)のストーブでようやく暖を取った。

今あるかどうかはわからないが、珍しい「ダルマストーブ」が焚かれていて、みっともなかったが、靴とソックスを脱いで湯気が出るほど乾かし、2時間くらい動かなかった。

雪ではないにせよ、雨でも指先がかじかむほどで、その寒さに驚いた。

今頃から2月ぐらいは、先に書いたように冬晴れが多いが、雨は雪と同じように冷たく寒いので注意が必要だ。

県南部の紀伊山地では、積雪する事も珍しくなく、なかなか冬の奈良は変化が著しい。

奈良盆地は夏ともなると、地元では「鍋の底」と言う程酷暑に見まわれる。

盆地特有の暑さで、湿度は低い。

非公式ながら、場所によっては軽く40℃近くまで達するが、カラッとしているので意識しにくく、ある意味慣れない旅行者には危険とも言える。

暑いからと言って、それこそ女性がTシャツにショートパンツ姿などで動き廻ると、汗が蒸発しやすいために脱水症状になりやすい。

日差しは痛いほどなので、出来れば風通しの良い長袖やロングスカートなどが望ましい。

ならば冬はどうか?

比較的暖かいイメージがあるだろうが、夏の暑さが「鍋の底」ならば、冬の奈良は「底冷え」であり、言い得て妙とはこの事。

冬晴れが多いと言う事は、朝晩は放射冷却になりやすいと言う事でもある。

都市部でも0℃近くまで下がるのは珍しくなく、山間部ではなくとも、少し標高の高い宇陀市や明日香村などだと氷点下になる事もしばしばある。

日中日差しはあっても、盆地だから温まった空気は地面に滞留しにくく、どんどん上昇するので、まさに「底冷え」状態が続くのだ。

なので大げさな耐寒装備は必要ないが、きちんとした冬物をしっかり着込んで行く事が必要だ。

そうした事を見込めば、古代史好き、文化財に興味のある人には、是非冬の奈良をお勧めしたい。

先に書いたように、冬の奈良は有名観光地でも比較的空いており、私が最も忌み嫌う(笑)団体客が殆どいない。

吉野方面に向かうには、天気の不具合に気をつける必要があるが、奈良盆地での12~2月ならばあまり気にする必要はないことは旅行者にはありがたいことなのだ。

寺院や博物館などでは、拝観時間などで冬期の変更のあると心もあるが、休館日などは年末年始を除いて通常通りである。

年によっては、1月の後半になるとあちこちで梅の花が咲き始める。

「万葉集」では梅が冬の花・季語として盛んに使われるが、寒さの中に明るい色と甘い香りを放つ梅の花は、奈良独特の冬の風物詩とも言える。

ほとんど花が咲かない地域の人間にとっては、真冬に梅の花と言う「春らしい」雰囲気があるのは不思議な感じがする。

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            ↑冬晴れに梅(天理市、筆者撮影)

郊外に行くと、八朔などの柑橘類が旬を迎え、これも畑一面に丸く大きな花を咲かせたように美しい風景を見せる。

また古代史好きの人の中には、古墳や遺跡巡りが好きな人もいると思うが、冬こそチャンスの季節と言える。

奈良には大小合わせると、8世紀までのものと限定しても数千基あると言われる。

この中には調査されていないもの、県や地元自治体の史跡として整備されている者、「陵墓」として宮内庁が管理しているものと様々な古墳・遺跡があるが、大半が良くも悪くも「自然」に近い状態にある。

このため初夏から秋にかけては雑草が生い茂り、盛夏ともなると昆虫を含めた小動物も繁殖する。

これが意外と危険を伴う事が多い。

特に奈良は高温なので、雑草など植物の生育がよく、藪がとにかく多い。

イコールそこで繁殖する昆虫、そして爬虫類が多いのである。

最も注意しなければならないのは夏以降活発化するスズメバチなどの蜂やアブと言った「刺す」昆虫で、古墳が多く存在する丘陵の奥では特に注意が必要だ。

また「蚊」が非常に多く、しかも育ちがいいのか、飛んでいるのがわかってしまうほど大きい。

ただし蚊は近くに「水場」がないと繁殖できないので、発生する場所は限定されるが「手水舎」のある神社や寺はほぼ蚊がいると言っても良い。

最も注意すべきなのは「毒蛇」で、マムシ・ヤマカガシなどがいる。

特に古墳の周辺はたいてい雑草が生い茂っていることが多いため、マムシが潜んでいる可能性があり、道を外れて歩くことはかなり危険である。

冬には一切こうした危険がないと言えるので、遠慮なく見学する事が出来ると言う訳だ。

もちろん立ち入り禁止区域に踏み込むなど、マナー違反は厳禁であると言う上での話。

寺院では拝観者は相対的に少ないので、気に言ったならいくらでもたたずんでいることが出来るのが良い。

ただし思いのほか寒いことも、頭に入れておかなくてはならない。

ご存じの様に、お寺の館内は火気厳禁。

古い建物にはエアコンもないことが普通なので、外よりも「底冷え」することが多いのである。

受付の人など、座っているだけだが吹きさらしになっていて、の方がさぞかし大変だろうと思うが、見えないようにしっかり足元には電気ヒーターを置いていたりする。

だが我々一般の拝観者にその暖気は全く届かないので、厚着は必須だ。

厳寒地の北海道だと、建物はどこも24時間ぎっちり暖房が完備されているため、人々は上着だけはしっかりとした物を着こむが、室内では薄着で過ごせるような着方をする(時々半袖で過ごすと言われるが、実際にはそこまで極端ではない、とは地元の声)が、奈良では上着以外でもしっかり寒さ対策が必要だ。

よく北海道の人が冬に「内地」に来ると、室内の暖房が弱いので風邪を引く・・と言う「都市伝説」があるが、奈良では意外と「実感」することもある。

実際私も初めて冬に行った時は、お寺や神社がとにかく寒くて風邪をひいた。

気温と言う数字では仙台の方が遥かに寒いはずなのに、体感的には奈良の方が寒く感じた。

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           ↑初冬の風物詩の一つ「残り柿」(奈良市大安寺、筆者撮影)

奈良の秋は紅葉が美しいが、意外にも自然植生では常緑樹が多い土地柄でもある。

寺院には植えられた落葉樹が、冬晴れの青空にモザイク雇用の様に枯れ枝を伸ばしているが、郊外の丘陵や山は多少くすんではいるが緑色が多く残る。

車でないと気づきにくいのだが、針葉樹以外ほとんど冬枯れする北国の人間には、よく見ると不思議な光景なのだ。

それがあまり寒々しさを感じさせず、反対に物理的な寒さを実感させているとも言える。

さすがに水田や畑、芝生などは完全な「冬色」なのだが、妙なコントラストが奈良らしくも思え、心落ち着く風景でもある。

また世界遺産の寺院では、建物の建材をじっくり味わうのに適していると思う。

日本一世界遺産の多い奈良県は、世界で最も古い木造建築が残ることで知られる。

しかしイメージほど数が多い訳ではなく、奈良時代以前の建物・建造物では奈良市の唐招提寺・金堂と経庫、東大寺・三月堂と経庫・正倉院・転害門、薬師寺・東塔、斑鳩町の法隆寺・五重塔と金堂、東院伽藍の夢殿、法起寺の三重塔、葛城市の當麻寺・東西両塔と本堂の内陣(平安時代初期の説もある)、奈良市の元興寺、新薬師寺の本堂と数えるくらいだ。

しかし大変貴重な歴史遺産であることに代わりはなく、狭い範囲にこれだけの古代建築が残存すると言うのは当時の建築技術のレベルの高さを見せつけられる思いがする。

決していたずらで汚したり傷をつけたりすることは許されないが(文化財保護法違反、器物損傷などの罪に問われます)、柱などに手を触れることは禁止ではないので、優しく触ってみたい。

夏だと熱を持っているだけでなく、木の「温もり」を感じるには冬が最も適しているからだ。

ざらざらした手触りの中に、ふと暖かさを感じる。

1,300年以上もの気の遠くなるような時間を耐えて来たヒノキや杉が、まさに「生命力」を持っていることが伝わってくるのだ。

所々には長年の収縮に耐えきれず、割れ目が出来てしまっている事もあるが、それが却って味わいを深くする。

当たり前なのだけど、柱に向かってグッと手で押してみる。もちろんびくともする訳がない。

柱は「礎石」に建てられ、組み立てることによって全てが支えあっている。

しかし礎石に立っている柱は「ただ載せている」だけである。

しゃがんでみると良い。確かに「載せて」あるだけなのだ。

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         ↑礎石に立つ奈良時代の柱(新薬師寺、筆者撮影)

これは「石口拾い」と言って、礎石はなるべく凹凸の少ないものを選び、かつ雨水がたまりにくいよう置き場所を慎重に選んだあと、「おさ」と呼ばれる大きな「櫛」の様な道具で礎石の凹凸を測り、それを丸ごと柱の底面に「写し取る」のである。

更に何種類ものノミで細かく・間違いなく彫って、礎石の凹凸とピタリの形に立てると、一切の隙間もなく柱が立つ。

柱は何トンもの重さがあるから、礎石との間には雑草・砂粒一つ入り込む隙がないほどだ。

上の写真でもわかると思うが、まるで礎石から柱が「生えている」の様に見えるのである。

この工法を「礎石建ち」と言うが、面白い事に大きな地震があると、揺れで柱がまるで「歩く」ように細かく動くことがあるのだと言う。

固定器具は一切ないから、地震で建物全体に振動が共震状態になり、細かい揺れに増幅される。

すると「礎石建ち」の柱が、振動で浮くように動くことがあるのだそうである。

凄いのは仮にそうなっても、揺れが収まると自然と元に戻るのだと言う。

めったにないそうだが、それが1,300年以上も耐えて来た理由なのである。

正確な築造年は不明だが、最も古いのは法隆寺の金堂で、少なくとも飛鳥時代後期、別名「白鳳時代」と呼ばれる680~690年代の築造であることは間違いないが、とてもそこまで古いとは見えない。

何よりどっしりとした形状が安定しており、古さを感じさせないのである。

奈良時代は710年の「平城京遷都」以降を指すから、着実にそれ以前とわかる建物は法隆寺・金堂と法起寺・三重塔で、こちらは心柱の銘板に706年に竣工したことが記されている。

法隆寺は最も有名な観光地の一つであり、シーズン中は観光客・団体客でごった返すが、冬場は同じ場所かと思うほど人が少なく、日中でも静寂に満ちている。

金堂の本尊「釈迦三尊像」は、シーズン中タイミングが悪いと見ることも困難で、「立ち止まらずに」などと促されてしまうこともあるが、冬ならば好きなだけ見ていられる。

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      ↑冬晴れの法隆寺は静寂に満ちている(斑鳩町、筆者撮影)

時には監視役のボランティアの方と、お話を聞けたりするのも冬の奈良旅の醍醐味。

寺や仏像の事を聞くだけでなく、周辺地域の見所やグルメスポットを教えてもらえることもある。

明日香村の飛鳥寺は、本尊の「飛鳥大仏」が、確認出来る最古の仏像として知られるが(612年)、訪れる観光客が少ない冬はお寺の方々とじっくりお話を聞くこともできるし、暇だからとお茶まで頂いたことがある。

そう、古代史に直に触れ、地元の人々とも触れ合えるのが冬なのだ。

もちろん夏でも出来なくはないが、見どころは観光客が多いし、外も中も正直暑く、ゆっくりと見ていられない場合が多いのだ。

冬の奈良旅は、ガイドに載っている以外の「何か」を発見できると思う。

古墳や遺跡も、雑草がない冬では、外観や周辺状況を確認するのに適しており、発掘・実測調査などは冬に行われることが多い。

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     ↑(2枚)古代と時を越えて繋がる(唐招提寺・金堂、筆者撮影)

仏像などを見飽きるぐらい見入るのも良いし、何も考えずに古代史の舞台を歩く・・・何とも贅沢・至福の一時を味わう事が出来る。

私は「男一人旅」なので(泣)、グルメ旅行とは縁がないが、夏の奈良だとひたすら涼を求めて冷たいものばかりを欲しがってしまう。

だが冬の奈良では、たまには・・とゆっくり美味しいものを堪能する余裕もあると思う。

この辺はネット情報なりガイドを見て頂きたいが、先に書いたように地元の方々との触れ合いでゲットした情報を生かすこともできるだろう。

以前「山の辺の道」を歩いた時は、体の芯まで冷えてしまったが、大神神社の入り口脇の店で、名物「三輪そうめん」を頂いた。

夏場は通常の冷たいそうめんが提供されるが、冬は暖かい「にゅうめん」がある。

シンプルなれど、関西特有の「ダシ」を聞かせたつゆの暖かさが、心に沁みる想いであった。

大神神社のある桜井市は「三輪そうめん」で有名。

古代から作られていたと言われ(少なくとも奈良時代には類似品が存在していた)、今更ながら感慨深く思えた。

夏には家で何の気なしに食べてしまうそうめんだが、冬の「にゅうめん」を頂くだけで遠い過去と繋がったような気がした。

身も心も温まって店を出ると、短い冬の日はとうに暮れていて、神社の参道には灯篭のおぼろげな明かりが揺らめいていた。

そして間もなく空と地面の区別がつかなくなりそうな瞬間、盆地の反対側にある葛城山の向こうに、ほんの僅かに弱い残照が見えた。

それは「紅」に違いなかった。


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         ↑葛城山、冬の日没(桜井市から、筆者撮影)

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          ↑日没直後、霊峰三輪山に冬月が上る(桜井市、筆者撮影)



飛行機ネタ チャコールグレーの凄い奴、ロイヤル・ヨルダン航空(12月5日 曇りのち晴れ 16℃)

今朝は殆ど徹夜。

ただでさえ不眠症で悩んでいるのに、朝から予定がビッシリだと思うと目が冴えて、結局2時間ほどウトウトしただけだ。

たまに変わった予定があると、全く眠れなくなるのは一種の「パニック障害」ではないか?と思ってしまう。

午前中は雨こそ降らなかったが、雲が多く、気温も高め。

既に風が強めに吹いていたが、歩くのは気持ち良いコンディションだ。

近所はさすがに紅葉は終わったおり、先週末の寒さで一気に落葉したようだ。

最も我が家のベランダから遠くを見ると、まだ赤やオレンジ色の木々があちこち見えており、近所一帯が落葉したと言う事らしい。

今日は遠出だったので、ついでに墓参りもして来た。

最近暇があるなら、月一ペースで行くようにしている。

何度か書いたように、墓参りする親戚はおらず、私だけだ。

事情があって、母を納骨せずにいるが、そのうち決心する時が来る。

祖父母や叔父・叔母を交えて、どうしようかと考える。

墓は人並みなのだが、管理者は叔父名義。連絡が取れず、正直生きているのかどうかもわからない。

母の遺骨を納めた途端、跡を継いだ従兄弟辺りに勝手に「墓仕舞い」されては困る。

いずれ探して真意を聞こうとは思っているが、どちらにしろ私の決心はつかない。

来年春、二周忌(三周忌)を境に分骨の上納骨するかどうか決めようと思っているが、祖父母はどう思っているだろうか。

先月来た時は、まだ紅葉が見頃に近づいていたが、今日は殆ど散っていた。

だが近所のお宅のモミジは見事な紅葉ぶりで、秋と冬が混同した夕暮れの墓地は居心地が良かった。

墓地からは前回同様、地下鉄駅まで歩いたが、朝は比較的暖かかったのに風が冷たくなって来て、予報通り空気の入れ替えが始まったようである。

間もなく市内中心部では仙台冬の風物詩「光のページェント」が始まるが、例年だと10日前後の週末から。

しかし今年は開催後初めて、一週間遅れの14日から。

実行委員会によると、資金不足や人手不足で期間を短縮せざるを得なかったと言う。

また名物だった勾当台公園の電飾ツリーも、スポンサーだった通信会社が方針転換したため、今年は中止だと聞いた。

「光のページェント」は商工会と市民の寄付で運営されるが、年々その額は減少。

またライトの交換や補修経費も上がっており、やむを得ず期間短縮にしたと言う。

「光のページェント」は全国に先駆けて、市内中心部の街路樹全てに電飾を施すと言うイベントで注目されたが、今や全国で開催されるようになり、仙台より派手なイルミネーションも当たり前になっている。

当初は定禅寺通りと青葉通り、西公園通りまで電飾されて、真冬の町は温かなイルミネーションで包まれていた。

しかし地下鉄東西線工事を機に、青葉通りと西公園通りのイルミネーションが中止され、定禅寺通りだけになってしまった。

それでも運営資金が足りず、電球の数はピーク時の半数まで減っているのが現状だ。

私も毎年微力過ぎではあるが、協力しているが、段々先細りになっているのが残念だ。

人手不足も深刻で、会場ボランティアもなかなか集まらなくなっているそうで、このままだと近い将来、全面的な見直しや最悪完全中止の可能性もあるかも知れない。

それ以前に、長い間に市民の関心も薄れて来たのだろうか。

スタート当初から知る市民が少なくなり、以前に比べて毎年見に行く、と言う話も聞かなくなった。

この頃は郊外でもちょっとしたイルミネーションはよく見かけるし、何となく「ワンパターン」化しているのだろうか。

でも何年も根付いたイベントであるし、何とか盛り返して欲しいと思う。



飛行機ネタ。

先週、ヨルダンのアブドゥラ2世国王夫妻が来日し、天皇皇后両陛下とご会談なさった。

皇室とヨルダン王室は、昔から親密な関係にあり、アブドゥラ国王夫妻はこれまで何度も来日している。

来年の新天皇即位の儀にも、参列の予定であることを伝えたと言う。

日本ではあまり馴染みのないヨルダンだが、何かときな臭い中東に於いて、比較的穏健中立を保つ国でもある。

イスラム教国家ではあるが、早くから民主化されて、日本と同じく国王を国家元首とする立憲君主制を執る。

第二次大戦までイギリスの統治下にあり、戦後独立すると同時に、同じくイギリス統治下にあったパレスチナが「バルフォア宣言」に基づき、半ば勝手にユダヤ人国家・イスラエルが建国されると、ヨルダンは否が応にも戦火に巻き込まれ、領地だったヨルダン川西岸をイスラエルに占拠された。

これにより、多数のパレスチナ人が難民としてヨルダンに逃れ、政府は同じアラブ人国家としてイスラエルと妥協・和解に応じ、イスラエルによるヨルダン川西岸の統治を事実上黙認している。

現在イスラエルはヨルダン川西岸はパレスチナ自治区とされているが、西岸にこだわり過ぎると、ヨルダン全土が戦火に巻き込まれる可能性があったからだ。

現在ヨルダンは国民の4割がパレスチナ人と言われ、既に2世以降のヨルダン生まれヨルダン育ちの人々が大半を占めるが、未だイスラエルとの間に正式な和平協定は結ばれていないが、94年アラブ諸国ではエジプトに次いで2番目に国交を結んでいる。

基本的に両国の国境は閉鎖になっていて、唯一「国境」のヨルダン川の道路一本だけが解放されている。

これはイスラエルとヨルダンに住むパレスチナ人達の離散家族の為に暫定的に解放されているだけで、許可証を持っているパレスチナ人だけが通行出来る。

事実上両国は平静を保っているが、中東戦争自体は決着がついておらず、あくまでも休戦状態にある。

またヨルダン川西岸の中心には「エルサレム」があり、市内東部はイスラエルの「不法占領地」になっている為、首都とするイスラエルの主張を認めていない。

こうした複雑な状況から、ヨルダンはイスラエルを認めないとしつつ、現状維持で平和を保っている。

イスラエルはパレスチナ人の武装組織「ハマス」をテロ組織に指定し、現在も武力行使を続けているが、ヨルダン政府はハマスも認めていない為、イスラエル側の報復攻撃は受けない事になっている。

他のアラブ諸国に比べて強硬な態度になれないのは、先に書いたように国民の多くがパレスチナ人難民とその子孫で、「アラブの大義名分」を貫くとヨルダンは即座に焦土と化す可能性があるからだ。

またヨルダンは冷戦時代から、西側諸国よりの政策を続けているため、アメリカやイギリスの擁護を受けている事も大きい。

加えてヨルダンは中東諸国では唯一産油国でない為に、軍事力も小さいと言う現実があった。

中東戦争では、イスラエルもヨルダンもイギリス製の兵器で戦うと言うおかしな戦争であった事も、妥協の理由だったとされる。

イスラエルとの南部国境地帯には、世界一低い土地の「死海」があり、世界的な観光地。

塩分の濃い湖は、人間がプカプカ浮いてしまうことでも有名だが、風に任せて流されてしまい「銃撃」されると言う洒落にならない事件が起きたこともあり、両国の関係は今も緊張にあることは間違いない。

ヨルダン国内でも、元パレスチナ人・現パレスチナ人との軋轢などで暴動がおこることもあると言う。

現国王アブドゥラ2世は、父王フセイン1世の2番目の妃でイギリス人だったムナ・アルー・フセイン妃との間に生まれた子で、99年にフセイン1世の崩御とともにヨルダン国王に即位した。

妃のラーニア妃は、クウェート人。

国王はイギリスで教育を受け、母国語であるアラビア語とともに英語もネイティブ並みに堪能。

イギリス軍に従事したこともあり、その経験を生かして先に書いたように「乗り物マニア」としても有名。

イギリスでは陸軍に属し、ヘリコプターと戦車の操縦資格を持つばかりでなく、父王フセイン1世と同じく「飛行機マニア」としての1面を持ち、操縦ライセンスも持つ。

現ヨルダン陸軍の主力戦車、イギリス製の「チャレンジャー」(ヨルダン名、アル・フセイン)の運転もできるほか、指揮官としての能力を持つ。

テロ組織「ISIS」にヨルダン軍の兵士が殺害された時に、国王はたいそう怒り、自ら軍を指揮し、攻撃ヘリに搭乗してISISの拠点を攻撃したと言われるが、政府は否定している。

真偽のほどはさておき、そのぐらいの事をこなせるような優れた「軍人」であると言う事であろう。

飛行機では王室専用の高級ビジネスジェットを自ら操縦することでも有名で、以前は王室専用の大型機「エアバスA310」のライセンスを取得し、外遊時には操縦桿を握っていたと言う。

父王の飛行機須機も有名で、70年代にヨルダン空軍の主力戦闘機だったイギリス製戦闘機「ホーカー・ハンター」をこよなく愛し、暇を見ては飛ばしていたと言うから、正に血筋である。

今回の訪日で、専用機の操縦桿を握っていたかは一切公表されていないが、現在も友好国エジプトへの外遊にはほとんど操縦桿を握ると言う。

またタクシーの運転手に変装して街に繰り出し、国民の声をじかに聞いて回るなど、どこかの「時代劇」で聞いたようなエピソードもあって、国民の人気は高い。

ヨルダンの正式国名は「ヨルダン・ハシェミテ王国」と言うが、アブドゥラ国王はイスラムの開祖・ムハンマドの子孫とされる「ハーシェム家」の王であることから、この名がついている。

ヨルダンのエアラインの歴史は意外と浅く、63年にフセイン1世が設立した「ロイヤル・ヨルダン航空」が最初である。

当初妃に名前を取って「アリア・ヨルダン航空」と呼んでいたが(アリア妃は77年に事故死)、その後現社名に変更されている。

「ロイヤル」の名前の通り、経営形態は民営エアラインだが、実質的なオーナーはヨルダン王室であり、広義において「国営エアライン」もしくは「王立」に近い。

ヨルダンの面積は約92,000平方キロと、日本の約1/4程度の広さであり、空港のある都市は数か所しかないので、同国のエアラインはロイヤル・ヨルダン航空の他、純民間の「ヨルダン・アビエーション」の他、ロイヤル・ヨルダン航空のチャーター子会社「ロイヤル・ウィングス」の3社しか存在しない。

当然ロイヤル・ヨルダン航空が同国にナショナル・フラッグキャリアである。

フリート数は24機、就航都市は43と小規模のエアラインに属するが、安全性やサービス面では常に中東のエアラインでは高い評価を受けている。

同社は航空連盟「ワン・ワールド」(日本航空が加盟)のメンバーだが、他の連盟を含み中近東では初めて加盟が認められたエアラインとしても知られている。

ファンの間では、メタリック・チャコールグレイと言う、前例のない塗装でよく知られる。

80年代に採用されて以来、現在まで僅かな変更をした以外、独特の塗装は同社と言うより「ヨルダン」の代名詞みたいな部分があり、乗り入れているヨーロッパや北米ではファンの人気が高いエアラインだ。

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    ↑ロイヤル・ヨルダン航空の最新フリート、B787-8(ウィキペディア英語版より)

同社は中東をメインに運行するが、ヨーロッパの他古くから友好関係にあるアメリカ(ニューヨーク)にも就航しており、機数は少ないながら長距離機材を保有し続けているエアラインでもある。

そのため「アリア」時代にはB707の他、その長距離型である「B720」を中東で唯一導入したエアラインでもあり、70年代にはロッキード・トライスターの長距離型「トライスター500」や、中東では最も早くB747を採用したエアラインの一つでもある。


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    ↑アリア・ヨルダン航空時代のB707-320B(ウィキペディア英語版より)

これまでの主力長距離機材はA330-200だが、後継機として787が導入されたため、間もなくA330は退役予定となっている。

このほかエアバス320シリーズの他、数年前からエンブラエル190の導入も行われ、新型機への更新が急速に進んでいる。

330の前は、アブドゥラ国王の「愛機」でもあったA310が長年使われてきたが、現在は民営の「ヨルダン・アビエーション」に移譲され、貨物型のA310Fを運用している。

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    ↑(2枚)長距離機材の主力だったA310とA330-200(ウィキペディア英語版より)

最近のエアラインは凝った塗装が増え、見るには興味が尽きないが、同社は30年も前からこの塗装だ。

ありそうでない、と言うより通常ならば思いつかない色である。

ダークグレーと言う点では、アメリカのユナイテッドの旧塗装を思い浮かべるが「色目」と言う点ではロイヤル・ヨルダン航空には及ばない。

べた塗りグレーのユナイテッドと違い、こちらはマイカ色・メタリック調で、日本ではちょうど30年くらい前自動車で流行った「ガンメタ色(ガン・メタリック)」である。

こうした暗い色調の色は軍用機に多く、華やかなイメージのエアラインには常識から言えば全くの「反対色」である。

しかも尾翼には、同色調の黒でくさび模様が入れられ、同社のシンボルマークの「王冠」を、胴体下部は明るい白と言う対照的な色合いを、ゴールドと赤のラインを境目に入れることで上手く融和させている。

そのおかげで暗いメタリックチャコールグレーが、上品もしくはいかにも「王立」らしさを醸し出させているのだ。

これを80年代にやり切ったのだから、デザイナーと同社の決断力には脱帽してしまう。

だが当時はかなり「前衛的」に見られ、少々「邪気」を感じるようなデザイン・・と取られたようだ。

しかし原色豊かでポップなデザインが多い現代のエアラインの中では、逆に目立つ存在でもあり、同社は新型機の787を導入後も変更する予定はない。

初期に比べ、エンジンカウルもチャコールグレイに、前側に赤を配色舌が、イメージはほとんど削がれていない。

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    ↑(2枚)70~80年代の主力機だったトライスターとB747-200(ウィキペディア英語版より)

しかもこの塗装は、どの機体にも似合い格好良く見えるから不思議なのだ。

たいてい暗い色は小さな機体には似合わないことが多いのだが、エアバス320シリーズやリージョナル機であるE190でさえ、一目で同社と分かるだけでなく、一回り大きく見えるような迫力を感じる。

名前から、よく知らないと王室専用機と見間違えてしまう重厚さがあり、ヨルダンと言う国が「王国」であることを誇りにしていると言うことの表れなのだろうと思う。

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    ↑(3枚)近距離・中距離線に投入されるA320/321、E195(ウィキペディア英語版より)

同社のフライトは2クラス制で、ファーストクラスはなく、ビジネスクラスとエコノミークラスのみ。

ビジネスクラスは「クラウンクラス」と言い、787やA330では2-2-2の6列だが、隣り合う座席の前後をずらしたクラドルタイプで、大型のパーソナルモニターも標準装備。

保有機全てに「クラウンクラス」が装備され、機内食はエコノミーともフルサービス制を取る。

人気が高いのは、本場「アラビックコーヒー」のサービスだが、イスラム国家のエアラインながらアルコールも無料サービスされる。

近年メジャーキャリアでも、アルコールなどは有料と言うエアラインが増える中「王立航空」は乗客へのサービスも「王様」級と言うところだろうか。

近距離国際線では軽食とソフトドリンクだけの場合も多いが、フライトタイムが短い割には2クラスともフルサービスと言うのは凄い。

同社のウェブページには4大陸58都市に就航、とあるが、このうち内戦状態のシリア・イエメン・リビア線は運休中となっている。

興味深いのは、イラクへの就航都市が多いことで、バグダッド・バスラ・エルビル・モスル・ナジャフの5都市。

その他イスラエルのテルアビブと、レバノンの首都ベイルートに路線を持つことだ。

イラクは欧米のエアラインの就航はないため、同社は国際機関関係者がイラクへ向かう時に重宝されていると言う。

また「一応」の平和関係を保つために、テルアビブとベイルートに運行するのも、ヨルダンの国際的な立場を象徴していると言える。

両都市とも首都アンマンから200~300キロ程度しか離れておらず、フライトタイムは3~40分。

なおヨルダンとイスラエルを行き来するには、この空路しかなく、ヨルダン川西岸での陸路は情勢により非常に流動的で危険であり、外国人観光客には制限が厳しい。

加えて他のアラブ諸国へ渡航する場合、パスポートにイスラエルのスタンプがあると入国を認められないので注意を要する。

ヨルダン→イスラエルを空路で入国する時は、テルアビブの「ベングリオン空港」税関で「NO STAMP,PLEASE」と申告すると、スタンプを押した別紙を手渡してくれる。

ヨーロッパ各都市の他、北米ではニューヨーク・デトロイト・シカゴ・モントリオール。

アジアでは広州の他、日替わりでバンコク経由クアラルンプールと香港に就航している。

バンコク~クアラルンプール・香港線では、同社は「以遠権」を持つため、区間利用が可能。

もちろん日本人でもOK。どちらも2時間半程度のフライトで、ビジネスクラスの格安チケットもあるそうで、日本では乗れない同社のフライトを手軽に体験するファンもいるようだ。

「ワンワールド」加盟の日本航空とはコードシェア提携は行われていないが、マイレージは共通である。

なお国土が狭く、大半が砂漠の同国での国内線はペルシア湾沿いのアカバにしか路線がないのも特徴である。

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    ↑チャーター便の子会社ロイヤル・ウィングスのA320(ウィキペディア英語版より)

同社は専用機を使って貨物便を運航しており、現在貴重なA310Fを1機だけ運用しているが、後継機としてA330-200Fを最近受領。間もなくA310は引退の予定。

なお同社で使っていたA310は1機だけの貨物機に改造され、2機が民営のヨルダン・アビエーションに移譲され「定期チャーター」便や、ウエットリース便として運用されている。


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    ↑(2枚)1機だけ残存するA310Fと移籍したヨルダン・アビエーションのA310(ウィキペディア英語版より)

チャコールグレーのエアライン、ロイヤル・ヨルダン航空。

どこか憧れみたいなものと、エキゾチックさを感じるエアラインである。


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    ↑最近導入された「ワンワールド」塗装のA319(ウィキペディア英語版より)





さすがに疲れた私…しかも気温は時間とともに低くなり、22時頃には5℃以下に。

気象データをみると、今日の最高気温は何と午前1時過ぎ。

その後緩やかに下降し、夕方以降急激に下がっている。

溜めこんでいた買い物があって荷物が重く、風も冷たいので駅からバスに乗った。

バス停から自宅までも寒い・・・。

21時半ごろ、泉中央では突然大きな人波が。

ユアスタでサッカー「天皇杯」が行われ、ベガルタとモンテディオの「東北ダービー」だった。

聞けば久しぶりの東北ダービーに、朝早くからサポーターが並んだと言う。

帰宅客が一気に押し寄せたので、地下鉄の改札口では一時入場規制が行われ、時間待ちの人がカフェにも押し寄せて来た。

日中はそれほど感じなかったが、街行く人は意外にもきちんと「冬物」。

そりゃあ12月だもの・・と思うが、一方で短いスカート姿の女子高生はマフラーだけで上着も着ず。

若いって羨ましい(笑)。

週末は強烈な寒気が流入し、仙台も「初雪」になるかも知れないとの事。

いくらなんでも「生足」は控えた方が良さそうだが。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

寒さは大丈夫ですか。

冬晴れの中を歩いて、寒いながら「陽だまり」と言う言葉を思い出しました。

これから長い冬が始まりますが、とても良い言葉だと思います。

同時に君を思い出し、今更ながら「陽だまりの様な笑顔」とは君のことだった事も思い出しました。

きっと今も、君にしか出来ない「陽だまりの様な笑顔」が残っていることでしょう。

とても懐かしく、また見たくなりました。

明日以降はグッと冷え込みそうですので、暖かくして過ごして下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




ひさかたの 月夜を清み 梅の花 心開けて わが思へる君(万葉集巻八 1660 紀少鹿女郎)



☆今日のバス

553号車 02年式三菱ふそうニューエアロスター(MP35JM) 泉営業所(元東濃鉄道)

539号車 14年式三菱ふそうニューエアロスター(MP38FK) 泉営業所


今日はお休みします(12月4日 曇り一時雨 16℃)

前線を伴った低気圧が、北海道付近を通過。比較的大きな低気圧で、そこに向かって吹く暖かい風。

全国的に12月としては「記録的」な暖かさとなったが、仙台は16℃と確かに暖かいが、予報では19℃だった。

だが九州では25℃近くまで上がった所もあり、北海道でも二桁まで上がった所もある。

仙台は思いの外、と言う感じで「寒くない」程度。

朝から半端な空模様で、曇り空ながら薄日が射したり、小雨がバラつくなど不安定な一日だった。

しかし低気圧が東に抜ける明日以降は、西高東低の冬型気圧配置になり、強い寒気が流れて来そう。

今日は九州や四国などでは半袖姿で過ごせそうだが、週末は全国的に真冬並みの寒さに。

街行く人々も、あまり変わり映えしない服装が多く、そこは仙台人、多少の異常気象にはブレないらしい。

昨日からテレビでは、ある事件の裁判が話題になっていた。

とある元女子マラソン選手が「万引き」で逮捕され、猶予つき有罪判決を受けた。

彼女は「二度目」の裁判で、前回も万引きによる「窃盗罪」で有罪判決を受け、執行猶予期間に再び逮捕されたと言う。

ところが彼女は「窃盗症」と言う「心の病気」と診断され、罪は真摯に償うが、病気である事もわかって欲しいとしてテレビに出演した。

「窃盗症」なる病気がある事は全く知らなかったが、確かに何度見つかって捕まっても万引きを繰り返してしまう人はおり、特に中高年の女性が圧倒的だと聞いた事がある。

いわば「やりたい」と言う欲求が止められず、お金は持っているのに万引きしてしまう。

弁護人によれば、強いストレスなどで心の病気になり、「万引き」が成功するという一種の「達成感」を味わいたくてやり始めると言う。

万引きする理由には、通常二つの理由がある。

一つは目的物があって盗むこと。これは単純に欲しいけれど、お金がないからと言う理由。

もう一つは別に欲しい物はないのに、万引きして成功するという達成感、スリルを味わいたくてやる人。

「窃盗症」とは後者の事を言うのだろうが、スリルを味わいたいとは、単なる自己満足であり、何よりも相手が困ると言う事を熟知しての行為ではないか。

万引きすることが病気による「不本意」な行動と言うならば、何もスーパーやコンビニだけでなく、その辺にある個人的所有物を盗る事もあるはずだ。

例えば傘立ての傘だったり、金銭的価値のない物もつい盗ってしまう…のではないか?

私は「窃盗症」と言う病気を詳しく知らないので、強くは言えないが、有名人である本人が「私は窃盗症という病気で、治療も受けてます。」とわざわざテレビに出るのは、誤解を恐れずに言うなら、大いに違和感を覚える。

同じようにその病気に苦しんでいる人を擁護するというならば、完全に罪を償い、治療で完治してから言うべきではないか?

裁判直後にテレビ出演は、大変申し訳ないが言い訳がましく見えるし、「病気なのでまたやるかも知れません。」と言い訳しているようにしか見えず、共感出来ない。

きちんと自分の始末をつけた上で、病気で苦しむ人々の役に立ちたいと言うならば、大いに共感出来るのだが。


明日は早朝から予定がびっしり(と言うほどではないのだけれど)あって、今夜はいつもより早く休みます。

と言うことで、今日の呟きはお休みにします。ごめんなさい。

久しぶりにいろいろやること、行くとこがあって、正直頭の整理がつかないくらい。

年末には新しい仕事もありがたく招待されて、人並みに行ったり来たりの12月になりそう。

明日は全く関係なく、半分遊びのようなものだけど。

買い物もたくさん溜まっているし、考えていることの半分もできなかったりして。

19時頃から小雨がパラついていて、傘は持っていたのだけれど、その後は降ったり止んだり。

帰宅する直前、22時半ごろ急に雨が強くなった。予報で言っていた寒冷前線だな・・・と思ったが、本降りになって来る。

ところが自宅に着くと止んでしまい、単なる降られ損じゃん・・・。

入れ替わり寒くなると言うが、今夜の時点では「まだ」寒くは感じない。

明日は雲が多めながら晴れると言うが、出歩く予定なのであまり寒くならなければいいが。

と言うことで、また明日改めて。


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            ↑円成寺のもみじ(奈良市、筆者撮影)


何も画像がないのが寂しいので、奈良・円成寺の紅葉を貼っておきます。奈良は猛暑のせいで、今年の紅葉は遅め・長めだそうです。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

少し暖かい1日でしたが、明日以降は冬らしい気温になっていきそうです。

街では冬のイベントも始まります。

君はこの秋を楽しみましたか?

今度は良い冬を過ごせますように。

気温差が大きくなりそうですので、体調管理には気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




天霧し 雪もふらぬか いちしろく このいつ柴に ふらまくを見む(万葉集巻八 1643 若櫻部朝臣君足)



飛行機ネタ アラスカ航空のオジサン(12月3日 晴れ時々曇り 14℃)

予報通り、雲が多めながら気温が少し上がって厳しい寒さはない。

北を通過する低気圧に向かって暖かい風が流れ込み、気温が上がったのだ。

暖かいのは明日までで、10月下旬から11月初旬の暖かさ…しかし油断禁物。

問題はその後、週後半。

今度は強烈な寒気が一週間は居座り続ける予想で、気象庁は昨夜「異常気象注意報」を発表。

北海道・東北では平年よりかなり気温が低くなる見込みで、日本海側では雪が降りやすくなると言う。

仙台も、こなタイミングで初雪になるかも知れない。

テレビの気象予報士も「今日明日が秋物最後」と言っていた。

12月ですから、寒さや雪は仕方ないのだけど、今週は秋の名残と本格的な冬の気配が同居することになりそう。

私はこの晩秋、いつもより酷いアレルギーに悩ませられている。

寝ようとすると、決まって身体が痒くなり始め、我慢するのだけど、ついにはボリボリと掻き始め止まらない。

下世話な話で申し訳ないのだが、痒いのは何故か下半身に集中する。

下半身と言っても陰部ではなく、足から臀部、腰部までとにかくあちこち。

掻いてはいけないとわかっていながら、無意識に掻いてしまうから、両足は既に傷だらけだ。

今はお金がないので薬も買えないが、今週は軟膏や飲み薬を買って来ようと思う。

毎冬寒冷アレルギーに悩ませられているが、今年は早く始まり症状も酷いのだ。

日中も痒みを覚える事はあるが、あまり気にならない。

皮膚科に行けば良いのだろうけど、最近の病院はすぐ検査とか言って医療費を取ろうとするし…。



飛行機ネタ。

日本航空は来年3月から開設する成田~シアトル線開設に当たり、コードシェア提携をするアラスカ航空のコード対象路線が55路線増えることになり、予約を開始する。

日本航空のシアトル線は27年ぶりの「再開」で、以前はB747-200Bでシカゴ線の経由地だった。

再開にはB787-8が投入され、成田から毎日1往復デイリー運航される。

シアトルからコードシェア対象のアラスカ航空便に乗り継げば、アメリカ西海岸を中心にコネクションが大きく広がる。

アラスカ航空は、32年に設立されたアメリカでは老舗のエアラインで、名前の通り「飛び地」であるアラスカ州内で運航を開始した。

しかし現在アラスカに本社はなく、本土ワシントン州シアトル・シータックにある。

アラスカ航空と言いながら、アラスカに本社がないと言う不思議なエアラインだ。

国際航空同盟には加盟していない独立系エアラインで、アメリカではアメリカン・ユナイテッド・デルタと言った3大メジャーに続く大手エアラインの一つ。

保有機は328機にもなり、これは日本航空や全日空よりも多い。

アメリカ国内の他、カナダ・メキシコなど115都市、全米に路線を持つ。

最も濃密な路線網を持つのは西海岸だが、ニューヨークやシカゴなど中部・東部にも路線を持つ。

日本航空が加盟する「ワンワールド」と近い関係にあり、同社は独自のマイレージサービスを持つが、コードシェア提携エアラインは対象路線のマイレージを共有できる。

日本航空では16年から同社のコードシェア運行を開始し、ロサンゼルス・サンディエゴ・サンフランシスコ・バンクーバー乗り換え便がコードシェア対象になっていたが、今後シアトル発の同社便が増えることになる。

アラスカ航空は328機を保有しておきながら、ワイドボディ機は1機も保有していない。

アメリカに多く見られるタイプの国内線大手で、サウスウェストやジェットブルーも同様である。

ただこれらのエアラインより、アラスカ航空はずっと老舗であると言う違いがある。

主力となるのはボーイング737である。

本拠地シアトルはボーイングの本社・工場があり、当然と言えば当然なのだろうが、メーカーお膝元のエアラインでもある。

以前は300、400と言った「737クラシック」を運航していたが、現在は全て「NG(New Generation)」シリーズで統一されており、737最大の「900」を87機、世界最大のユーザーとなっている。

特に900の航続距離延長型「ER」のローンチカスタマーで、初期の12機は「900」で、同社しか保有していない。

現在737-900の生産は全て「ER」だけである。

このほか800型を53機、700型を11機運航するが、16年にLCCの一つ「ヴァージン・アメリカ」を買収・統合し、同社のエアバス320シリーズ70機もアラスカ航空機に編入された。

アラスカ航空にとっては初のエアバス機で、納入されたばかりの「A321neo」も8機含まれている。


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      ↑アラスカ航空のB737-900ER(ウィキペディア英語版より)


特に737-900ERとA321neoは、根本的にバッティングする機種であり、今後同社はボーイング党を貫くのか、エアバス党に傾くのか興味深い。

航続距離と言う点ではA321neoに軍配が上がり、座席数ではほぼ同じである。

アラスカ航空は大陸横断便や、本土とアラスカ州を結ぶ路線が多いため、航続距離の長い機体が必要だ。


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     ↑移籍したA321neoの特別塗装機(ウィキペディア英語版より)


アラスカ航空と言えば気になるのが、全ての機体に描かれている尾翼の「オジサン」である。

世界広しと言えど、オッサンがモチーフになっているエアラインはアラスカ航空だけ。

特別塗装ではなく正規の塗装と言うのだから、余計事例はない。

一体誰なのか?知らないと創始者とか、アラスカ州の由緒ある人物とか思うが、実は全くの「創作上」の人物。

アラスカ州と言えば、アメリカ独立前から「イヌイット」と呼ばれるネイティブの人々が暮らしており、現在も住民の15%がイヌイットの人々。

アラスカ州は19世紀には「ロシア領」で、1867年にたった720万ドルでアメリカが購入した。

当時は「巨大な冷蔵庫に無駄遣い」と批判されたが、原油や天然ガスなどのエネルギー資源、アメリカ人の入植当初は「ゴールド・ラッシュ」にも湧き、豊かな資源を持つ。

面積は約148万平方キロと、全米50州で最も広くに日本の約3.5倍もある。

人口はたった70万人で、人口密度はもちろん全米最低。

最大の都市は人口約30万のアンカレッジ、州都は人口約4万のジュノー。

このほかフェアバンクスと言う都市があり、都市部人口だけで半数を占める。

アメリカの最高峰マッキンリー山も、アラスカ州にある。

北極圏の厳しい気候に、太古から暮らしてきた原住民「イヌイット」のイメージが強く、アラスカ航空も採用したのである。

特定の民族を州の特徴とし、それを「商標」とするのは差別ではないか・・と言う意見が、現在でもアメリカでは非常に強いのだが、特定のモデルはおらず、あくまで「イメージとし作り上げた創作上の人物」と、同社は言っている。

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       ↑アラスカ航空のB737-800(ウィキペディア英語版より)


でも一度見たら忘れられないデザインであり、胴体のロゴも自筆のサイン見たいで、デザインとしては秀逸だと思う。

あのオジサンだけで遠くからでも「アラスカ航空」と分かるのだから、その効果は大きい。

最も、同社はオジサンについて正式には「イヌイット」とも言っていない。

あくまでアラスカをイメージする人物像・・・と言っているだけなので、人種的ヘイトではないと言う訳だ。

なるほど、見た者がアラスカ航空と聞いて勝手に「イヌイットのオジサン」と思いこんでいるだけなのである。

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    ↑さすがに「オジサン」はいなかった、ディズニー特別塗装のB737-900(ウィキペディア英語版より)


アラスカ航空は傘下に「ホライゾン・エア」と「スカイウェスト航空」を持ち、地方コミューター路線を運航しているが、塗装は全て共通である。

ホライゾン・エアが運航するプロペラ機DHC-8-400以外、スカイウェスト航空が運航するCRJ700も含め、アラスカ航空便は全て2クラスで運航される。

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    ↑(2枚)コネクション便のDHC-8-400とCRJ700(ウィキペディア英語版より)

加えて737は機材によって「プレミアムエコノミー」があるので、ナローボディ機ながら実質的に3クラスと言うハイクオリティなサービスを行っている。

しかし90年代、アメリカは規制緩和で新興エアラインが乱立し、設立と倒産が相次ぐ異常事態になったことがある。

アラスカ航空も、新興エアラインのサービス競争に巻き込まれ、利用率が著しく低下した。

ちょうど機材の更新が計画された時期だったが、とても機材の導入など出来る情勢になく、当時の経営陣はとにかく収益優先を率先させた。

新興エアラインに比べ機材と路線数が多いことを武器に、便数を増やして利便性をアピールしたのである。

ところがこれには「インチキ」があって、機体の整備が会社ぐるみで勝手に「簡素化」され、連邦航空法に明らかに違反する「手抜き整備」をし始めていたのである。

整備記録の改ざんはもちろん、機体の定期点検も法的に定められた期間の何倍も延長させ、普段の飛行前点検さえ「省略」させたのである。

機体の部品も、「650時間」で交換する部品を「2,500時間」に勝手に延長し、ほとんどの機体はロクな整備をせず、見た目と機内だけ清掃して飛ばしていた。

そして2000年に当時の主力機だった「MD-83」が墜落事故を起こし、乗員乗客全員が死亡した。

アメリカの事故調査委員が調べた所、事故機は離陸の時点で水平尾翼の作動が出来ず、自動操縦が不可能な状態にあった。

パイロットは何とかマニュアルで巡航速度・水平飛行まで持ち込んだが、緊急着陸を要請。

ところが会社側は近くの空港ではなく、予定通りの目的地まで飛ぶことを要求したと言う。

結局機長は近くの空港に緊急着陸しようとしたが、もたついている間に海上に墜落したのである。

事故機はほとんど整備をされておらず、水平尾翼とエレベーター部分はほとんど「オイル切れ」になっており、アクチェータや可動部分の金属部品が地肌のまま噛み合っており、無理に負担をかけて事で金属疲労を起こし、水平尾翼の固定が外れたことで墜落したのである。

事故を境に、同社の社員が上記の「インチキ」を内部告発。同社は社員を名誉棄損で逆に告訴しようとしたが、FBIが動いたことで社員とは和解するとともに、改ざんや違法の整備を認めることになった。

ケチをして儲けようとしながら、80名以上の尊い命が奪われ、ケチった分は賠償金で全て吹っ飛んでしまったと言う、典型的な「ダメ経営」であった。

事故後経営陣は総入れ替えとなり、ようやく「まとも」なエアラインに戻ったが、事故の影響で機材計画は大幅に遅延し、一気に古い機材ばかりのエアラインになってしまった。

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    ↑墜落事故を起こした同型機、MD-83(ウィキペディア英語版より)


機材更新が始まったのは2010年代に入ってからで、現在は737クラシック・MD-80シリーズは一掃されている。

長い歴史の中で2000年前後は同社にとって正に「黒歴史」だが、今では比較的堅実な経営を続けている。

機内サービスはアメリカンスタンダード、と言った形で、日本人にはちょっと物足りないかも。

短距離から大陸横断便の数時間と言う長いフライトまであるので、サービスには偏りがあるようだが、同社のウェブサイトを見ると、WiFiなどは現在増備中、個別シートモニターはエコノミーにもあるようだが、機材によって違う。

ミールもソフトドリンクは無料だが、スナック類は1時間半以上のフライトで有料販売。

ミールはファーストクラスは時間帯により提供されるが、有料メニューがある。有料メニューの内食事はネットでの予約も可能。

アルコールも基本的に有料となっており、サービスはLCCに近い。

最も大半のフライトは2時間程度の路線なので、特に不評と言うことではないようだ。

コーヒーはもちろん、本拠地シアトルでお馴染みの「スターバックス」が提供される。

お国事情があるので一概には言えないが、私は国内線ならばドリンクは無料で提供すべし・・と思っている。

最近は空港はロビーでコーヒーなり、お茶なり自分で買って持ち込めば・・と思う人が多いようだが、逆にコーヒーやジュース1杯ぐらいで、チケットが大幅に下がるとは思えない。

日本では1時間未満と言う路線も多く、ドリンクサービスもない場合があるが、それは万国共通。

中には30分ほどのフライトでもミールサービスをしてしまうエアラインもあるぐらいだから、一概には言えないが、飛行機の楽しみはサービスだと思う。

「空弁」などがもてはやされているが、そこまで行くと何故わざわざ弁当を・・と思ってしまうし、ならば機内サービス自体いらない・・となってしまう。

本末転倒であり、過度のサービスはどうかと思うが、なんでも「有料」「予約」と言うのは私はあまり賛成できない。

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    ↑「ボーイングカラー」をまとったB737-800(ウィキペディア英語版より)


波乱万丈を乗り越えて来たアラスカ航空だが、試行錯誤しつつも着実に実績を伸ばしているようだ。

シアトルは日本人でも良く知る大企業が本社を構え、大リーグ「シアトル・マリナーズ」の本拠地。

気候は穏やかで、治安も良く、「住んでみたい街」にいつもトップに選ばれることでも知られる。

シアトル地域の人々にとって、アラスカ航空はまさに「地元」のエアラインで愛着を持つ人が多いと言う。

本当は1,500キロも離れた「アラスカ州」のエアラインなのだけど、本社が移っても「アラスカ航空」と言う名前を捨てないのが面白い。

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      ↑最も機数が少ないB737-700(ウィキペディア英語版より)


16年にヴァージン・アメリカを買収・統合したが、機材はまだそのまま使う場合も多い様で、アラスカ航空を予約したのに機体はヴァージン・アメリカ機・・と言うこともあるようだ。

同社はこれを期に、塗装の変更を実施しているが、何しろ300機以上あるため、変更のペースはゆっくりの様だ。

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    ↑(2枚)新塗装になったB737-700とB737-900ER(ウィキペディア英語版より)

ヴァージン・アメリカとは今年の4月に統合が完了して、同社は消滅した。

しかし塗装変更は一気に出来ないので、とりあえず「オジサン」だけと言う機体もあるそうだ。

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      ↑ヴァージン・アメリカのA321neo(ウィキペディア英語版より)


またアラスカ航空は事あるごとに特別塗装機を登場させることで知られるが、過去に「ひげのオジサン」が話題になったことがある。

通常塗装なのだけど、どれかの機体のオジサンだけひげを生やしている・・・そんなキャンペーンもあったほど「オジサン」は親しまれている。

新塗装でももちろん健在だが、旧塗装より少し大ききなったのと、同じ「白ヌキ」ながら周囲のブルーが明るくなり、胴体の下部までデザインされて、微妙にオジサンが浮き上がらなく鳴ったような気がするし、「Alaska」のロゴも、おとなしくなった。

パリッとしていた、という意味では30年近く親しまれてきた旧塗装の方が良いように思う。


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    ↑新塗装になったスカイウェスト航空のE175(ウィキペディア英語版より)


日本ではほとんど話題にならない同社だが、アメリカでは「オジサン」の影響で有名なエアラインでもある。

日本航空とのコードシェアが増えることで、日本人の利用も今後は増えることだろう。

なお今も「オジサン」は、機体によって表情が違うとか、間違い探しみたいな「都市伝説」があるのも同社ならではと言えようか。

ある意味世界で最も「愛されて」いるオジサンは、アラスカ航空の「彼」であろうと思う。

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    ↑特別塗装でもオジサンの存在感は高い(ウィキペディア英語版より)




夜になって、寒さが緩んでいるのはありがたい。

昨日までは頭が働かない様なほど寒かったし・・・。

最も週末の寒さが気になるところだが、今夜と明日は安心できそうだ。

でも12月だから、本当は寒い方が気分が出るのでしょうけど、明日など九州では「夏日」になるかも?なんて予報で言っていた。

やはり異常気象。台風シーズンが終わり、全国的に穏やかな秋が過ぎていたが、また異常な「冬」に悩まされなければいいが。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

気まぐれな天気に翻弄されそうですが、頑張って行きましょう。

ただ体調管理には、充分注意して下さい。

最近君は喉や咳などはどうですか?

昔は弱いと聞いてましたが、今は治りましたか?

私は逆に歳のせいか、あちこちガタが来ています。

もし久しぶりに君に逢えたら「老けたなあ」と、思わず言われるかも知れません。


気温差が大きくなるようですので、服装にも気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。


やみの夜は 苦しきものを いつしかと わが待つ月も 早も照らぬか(万葉集巻七 1374 月に寄する)



飛行機ネタ まだいたの?なんて言わないで、A300現状(12月2日 晴れ 11℃)

快晴、に近いのではないか。朝から素晴らしい青空。

気象庁によると、空の8割が青空であれば「快晴」なのだそうだ。

何割はどう決めるのか?と言うと、担当者の「肉眼」なんだそうな。

ビルの屋上に立ち、全天を仰いで判断するそうで、「全天の8割」が雲だと「曇り」と判断される。

今朝は文句なく「快晴」だったと思う。

私も珍しく朝からドバッとカーテンを開け、洗濯した。

その後寝ました(笑)。

お出かけ日和…には違いないが、晴れた分朝は放射冷却が強まり、仙台の最低気温は3℃。

内陸部では氷点下になった所もあったようだし、日中も日差しの威力はあまりなかった。

12月最初の日曜日は、いかにも「冬晴れ」で、秋のようなアウトドア的お出かけはもう終了かも知れない。

街ではまだ紅葉が残っているし、スキー場もまだまだだろうから、秋の名残を感じる事は出来よう。

だがちょっと寒いかなとは思う。

誰しも12月の声を聞いて、何かしら年末年始の準備を…なんて考えているのだろう。




飛行機ネタ。

昨日アメリカの元大統領、ジョージ・W・ブッシュ氏が94歳で亡くなった。また一昨日には、奇しくも同じ94歳で、女優の赤木春恵さんが亡くなった。

どちらも大変な高齢で、まさに天寿を全うされた感じだが、失礼ながらお二人ともまだ生きていらした事自体に驚いた。

「あんた、まだ生きてたの。?」なんて言ったら,大変失礼になってしまうが、どちらも記憶には大昔の有名人と言う認識がある。

ブッシュ元大統領と言えば「湾岸戦争」だし、赤木春恵さんと言うと「渡鬼シリーズ」が有名だが、私には「金八先生シリーズ」の校長先生役のイメージが非常に強い。

湾岸戦争は約30年前、「金八先生シリーズ」は40年も前の事だ。

特に赤木春恵さんは、つい最近まで現役を続けられ、5年前には89歳で映画に初主演し、「最高齢の主演」としてギネスの認定も受けた。

なんと静かな引退生活は、わずか数年だったのだ。

こんな素晴らしい方々と比較するのはおかしいのだけれど、飛行機にも「あんた、まだいたの?」と言ってしまいそうな機体がある。

ビンテージ機と言う意味ならば、保存機として大戦機などいくらでもあるが、「現役」となると旅客機の場合、残存率は低い。

安全性の他に、新しい機体に比べて運航経費が比べものにならない場合が多く、最近では騒音や排ガスなどの環境規制で、古い旅客機は飛べない場合も多い。

そうして基準が年々シビアになり、機体の寿命より潮流に合わなくなる方が早めになりつつあり、製造後20年程度が寿命になる事が多い。

しかしそんな厳しい潮流の中でも頑張って現役を続ける機材は、意外にもたくさんある。

その中でも、失礼ながら「あんた、まだいたの?」と言ってしまいそうな機体の一つに、エアバスA300がある。

今でこそエアバス社は、ボーイングと肩を並べる旅客機メーカーだが、70年代に開発された双発ワイドボディ機、A300こそ「ルーツ」と言う偉大な機体なのである。

詳しくは「CRECHANのブログ 風の道 9月10日記」に書かせて頂いたので割愛するが、A300の原型機が初飛行して45年。

しかも双発ワイドボディ機が全盛の現代に、パイオニアの同機もまた「現役」にある事は、驚きに値しよう。


A300は大きく前期型と後期型に分かれ、外観はほぼ同じながら、中身は大きく違う。

前期型は70年代スタンダードの3人乗務機だが、83年に初飛行した後期型は「600」型と言われ、2人乗務機になっている。

話がややこしくなるのだが、前期型A300はエアバス社最初で最後の3人乗務機、エアバス社最初の2人乗務機は「A310」である。

ちょうどボーイング767が、中型機ながら長距離飛行が可能として売り上げを伸ばしており、エアバス社はA300の胴体を短縮した長距離型「A310」を開発し、同時にコンピューターシステムを導入して2人乗務機とし、コクピットの計器板もグラスコクピット化させた。

胴体短縮により座席数では767に太刀打ち出来なかったが、航続距離は同規模の1万キロに迫り、機体価格の他冷戦時代でアメリカ製を買いにくい途上国や、ヨーロッパ諸国でベストセラーとなった。

A310はエアバス社最初の「ハイテク機」となった訳だが、座席数の多い中距離機A300にそのハイテクをフィードバックさせたのが「A300-600」である。

つまりオリジナルの「A300」に次いでエアバス社が開発したのが「A310」(計画段階ではA300-B10と呼ばれた)で、数字が戻って「A300-600」が開発されたことになる。

日本では前期型の「A300B2/B4」と「600R」は、旧日本エアシステムが合計30機以上を運用したが、日本航空の破たんによる機種統合策で11年に全て引退した。

同時期に宅配便大手の佐川急便が立ちあげた「ギャラクシーエアラインズ」が、日本で初めて貨物型の「600F」を2機運用したが、僅か2年で運航停止になっており、日本でのA300は完全な過去の機体になってしまった。

世界でも事情は同じで、年々数は減り続けている。

「600」は胴体をA300と同じ長さの戻したが、操縦システムの変更とエンジンが変ったことで、垂直尾翼と尾部の形状がA310と同じ形になった事と、尾部に就いているAPU(補助動力エンジン)が大型化したことで、全長が僅かに長くなった。

また「600」の生産数は僅かで、すぐに「600R」に切り替わっているが、これは燃料タンクを増設した航続距離延長型。

更に水平尾翼にも燃料タンクがつき、飛行中には燃料を移動させることでトリムを自動的に調節する装置も組み込まれている。

初期の「600」も「R」仕様に改修された機体も多いが、600の生産が本格的になったのは「R」からで、80年代後半のことである。

最も多く受注したのはアメリカの貨物エアラインUPSが53機、フェデックスが42機で、いずれも新造機の貨物型「600F」である。

旅客機型ではアメリカン航空の34機を筆頭に、大韓航空の24機、日本エアシステムの22機、タイ国際航空の21機と続くが、それ以外は20機以下のユーザーが殆どである。

これはエアバス社がA300の胴体を用い、デジタル式フライ・バイ・ワイヤを導入したA330/340の計画があったからで、A300-600Rが登場した時点で、現在に繋がる「A320」も登場していた。

メカニズム的には既に「旧式化」の感が否めない状態にあり、セールスは伸び悩んだ。

幸い貨物機としての評価が高かった事もあり、「600」シリーズは317機生産され、最後に納入されたのはフェデックス向け「600F」で、07年のことである。

これを最後にA300シリーズは、足掛け30年の生産の幕を閉じて、後継機に道を譲ったのである。

前期型の「B2/B4」を合わせて561機生産されたA300だが、18年秋の時点で現役機は204機が確認されている。

現存率は40%程度だが、現役機の殆どは比較的機齢の若い「600」シリーズであり、未確認機を推定すると「600」だけの残存率は6割以上にもなる。

ほとんどが貨物機なのは仕方ないが、旅客機として運用しているエアラインもまだある。

もちろんこうした古い旅客機を使うのは「あの国」、イラン。

イラン国営航空はA300を発売開始から運用していた「お得意さん」であるが、長引く経済制裁の中で唯一維持できているのがエアバス機と言える。

イラン・イラク戦争や、アメリカとの対立が激しい時代はヨーロッパからも制裁を受け、やむなく旧ソ連・ロシアから中古機を購入したりしていたが、2000年代以降はヨーロッパが経済制裁を緩和させたので、エアバス機の導入が出来るようになった。

国営フラッグキャリアのイラン航空は、現在もA300-600Rを9機保有し、国内幹線の他ヨーロッパ線にも投入されている。

また他のイランのエアラインも、中古でA300を購入しており、民間では最大のマハーン・エアが5機、キシム・エアが4機、メライ・エアが2機運用していることが確認されている。

これだけでイランでは20機のA300-600Rが現役にあることになり、旅客型の運用数としてはもちろん最大である。


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      ↑メライ・エアのA300-600R(ウィキペディア英語版より)


上の画像はメライ・エアの同機で、イランに生息・保護指定を受けている「アジア・チータ」の特別塗装機。

歴代のA300の中では、恐らく最も派手なA300の一つだろう。「チータ」を除いた部分が同社の通常塗装の様だが、それでも21世紀風の派手なカラーリングである。


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      ↑キシム・エアのA300-600R(ウィキペディア英語版より)

こちらも派手なA300だが、一見LCC「エア・アジア」をインスパイアしたと思われるデザインで、イランの世界遺産「ペルセポリス遺跡」を宣伝したキシム・エア機。

この2機種は世界でも、最も派手なA300で間違いないだろう。

両社とも2010年ごろにトルコの「オヌール・エア」などから中古機として購入しており、機内もオヌール・エア時代のままオール・エコノミー350席前後で運航しているようだ。

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    ↑(2枚)ロンドン線に投入されるイラン航空のA300-600R(ウィキペディア英語版より)


イラン航空の塗装は正統派で、機内は2クラスで運航される。

このほかイラン航空の子会社の「イラン・エア・ツアーズ」が、前期型の「A300B4」を1機保有しているが、定期運用はないようで、チャーター便などに使われているようだ。

取りあえず「現役」だとすれば、世界で唯一旅客機として飛んでいる前期型になるが、どうだろうか。

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      ↑イラン・エア・ツアーズのA300B4(ウィキペディア英語版より)


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       ↑マハーン・エアのA300-600R(ウィキペディア英語版より)


イラン航空やマハーン・エアは、A330/340も保有しているし、ナローボディ機320シリーズも運航しているが、イランは座席数が多い割に使いやすいサイズのA300がお気に入りの様だ。

A300-600Rはモノクラスで最大360席、3クラスで220席前後を設けることが出来、航続距離は「600R」で約8,000キロ。

今では微妙に中途半端な性能なのだが、中距離国際線などに使う分には座席数が多い事が重宝する。

ライバルとなるのはB767だが、座席数ではA300、航続距離では767の方が優勢で、A310になると航続距離では同等、座席数では767に負ける。

この中途半端さが767に生産数で勝てなかった原因であり、エアバス社もそれを認めている。

結果320の最新鋭のデジタルシステムをフィードバックし、より大型化させたA330でようやくエアラインの希望を実らせる事になるのだが、前回も書いたようにA300は「双発ワイドボディ機」であり、現在に続く双発機の時代をパイオニアであることを忘れてはならない。

胴体直径は767より太いが、777よりは小さく、断面は真円形である。

A300は、床下の貨物室に標準型コンテナ「LD-3」を並列に積載するため真円形の胴体にしたのだが、これが貨物機としても有効と認められ、現在運航されるA300の9割は貨物型。

新造機のほか、旅客型から改造された機体も含まれるが、エアバス社では改造機も「600F」もしくは「600RF」としており、外観上もほとんど区別がつかない。

現在最も多くのA300を運航するのはアメリカの大手貨物エアライン、フェデックス(フェデックス・エクスプレス)で、なんと68機も運航している。

全て「600F」で、自社発注の42機は全機が現役にあり、中古で20機以上も増やしたことになる。

貨物型はメインデッキと床下貨物室にコンテナやパレットを積載し、最大40トン積んで約4,500キロの航続力を持つ。

フェデックスの様に「宅配業者」にはうってつけの大きさで、同社ではアメリカ国内・カナダやメキシコと言った近隣諸国への路線に投入している。

同社の最大のフリートは112機のB757PFだが、次いで多いのがA300-600Fである。

日本に乗り入れているのは長距離機のMD-11FとB777Fだが、機数の上ではA300の方が上位を占めている。

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    ↑(2枚)68機も現役にあるフェデックスのA300-600RF(ウィキペディア英語版より)


同じく大手宅配業者の「UPS」も52機の同機を保有し、フェデックスと同じく国内線や近隣諸国への路線に投入している。


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         ↑52機を運用するUPS(ウィキペディア英語版より)


両社とも日本では古くから乗り入れている馴染み深い貨物エアラインの一つで、UPSは767-300Fも日本線に就航させているがA300はなく、日本で見ることはできない。

ヨーロッパでも世界的大手宅配業者の一つ「DHL」がA300-600F/RFを運用するが、主たる運用エアラインはヨーロピアン・エア・トランスポート社で、21機のA300-600F/RFが登録されている。

ただし数機がアイルランドのASL社が運航しているが、塗装はどちらも「DHL」カラーとなっている。


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    ↑ヨーロピアン・エア・トランスポートが運航するDHLのA300-600RF(ウィキペディア英語版より)


DHLは世界中に委託した貨物機を運航しているが、A300はヨーロッパ域内での運航である。

日本で現在唯一A300で乗り入れるエアラインがある。

貨物エアラインのエア・ホンコンで、成田と関空に定期便として乗り入れているため、ファンには馴染みのエアラインだろう。

同社は10機のA300-600RFを保有し、日本線にも投入されているが、よく見れば日本に来るただ一つのA300なのだ。


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    ↑エア・ホンコンのA300-600RF。現在日本で唯一見られるA300(ウィキペディア英語版より)


同社のA300のうち、2機は元日本航空・旧日本エアシステム機の改造機で、何度も「里帰り」している孝行息子だ。

エアバス社では貨物機需要の増加に合わせ、10年ぶりに新造機として昨年「A330F」の生産を始めたが、まだ受注は伸びていない。

中型貨物機としては767Fが改造機を含めてライバルとなるが、767はセミワイドボディで「LD-3」コンテナは積載出来ない欠点があるため、A300にもまだ分がある。

しかし生産は10年前に中止、767Fは生産中と言うこともあり、貨物機分野でのエアバス社は大きく出遅れている。

使い勝手と言う点では評判の高いA300なのだが、もう古い世代に属して忘れ去られた存在になりつつある。

日本航空では11年に退役したが、乗客の他現場でも使いやすい機体として乗務員の評判も良かった。

日本エアシステム時代から、大きな事故やトラブルは一度も起こしておらず、エアバス社から「ベストユーザー」として称賛された事もある。

最も600が搭乗して暫くは、航法装置の不具合で重大な事故が多発した時期もある。

2002年に起きた旧名古屋空港でのチャイナエアラインズの墜落事故の様に、ボーイング機と勝手の違う航法機材に、操縦ミスを引き起こした。

似たような事故が連続し、エアバス社は訓練と注意喚起の徹底を是正した経緯があるが、以降事故は少ない機体となった。

熟成された、と言うことだろうか、しかし時代の流れは急激で、その時点で「旧式機」になってしまったのは何とも皮肉である。

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    ↑綺麗な塗装が古さを感じさせない、トルコのMNGカーゴのA300-600RF(ウィキペディア英語版より)

旅客機としての使命は終えたかも知れないが、貨物機としての需要はまだ多く、実は当分の間「現役」に留まるはずである。

中型貨物機、という点では767Fと757Fしかなく、757も生産中止になって久しい。

ボーイングでは737-800をベースとした「B737-800F」の改造機を生産し始めたが、搭載量と言う点では敵わない。

A330Fが実質的な後継機種となるが、A300に比べ大きく長距離用だ。

フェデックスやDHLの様に、小型軽量の宅配貨物を扱うには中型機が必須であり、当面A300も重要な貨物機として運用されるであろう。

フェデックスの様に、中古機を探して増備するエアラインがあるのだから、需要は続くはずである。


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    ↑激レア中の激レア、スーダン航空のA300-600R(ウィキペディア英語版より)


上はアフリカ・スーダン航空のA300-600R。同社は「危険エアライン」に指定され、ヨーロッパへの乗り入れが禁止されているが、スーダンのフラッグキャリアでもある。ウィキペディアなどには3機のA300-600Rがあり、小型機が数機あることになっているが、別の情報ではA300は引退し、A320が運行されているとも言う。

試しに同社のウェブサイトを除いて見たが、機材やサービスに関してのページは一切ない。

唯一路線の検索を見ると、国際線はエジプトのカイロの、サウジアラビア、エチオピア、南スーダンに路線があり、ジェッダとリヤド(サウジアラビア)行きに使用機材が「A300」と出ている。

だが一緒に「777」とも書かれており、これはサウディア航空の機体だろうか。

カイロにも飛んでいるようだが、こちらはA320カATRが飛んでいるようで、A300-600Rはサウジ線専用なのかもしれない。

メンテナンスがきちんと行われているかどうか不明だが、同社のウェブページには「メンテナンスセンターとトレーニングセンター」があり、アフリカを中心として各国から業務を受託している・・と書いてあるが、これはエチオピア航空の事ではないか。

保有機数が数機、路線数も国内線と合わせて10路線程度のエアラインにメンテナンスとトレーニングセンターを持つこと自体、意味がなさそうだが・・・。

写真は数年前にカイロで撮られた物の様だが、機体自体は綺麗に見える。

紛争の多い地域でもあるので、今現在同機が飛んでいるかどうかは不明だ。


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    ↑5機のA300-B4-200Fを運航するメキシコのエアロ・ユニオン(ウィキペディア英語版より)


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    ↑貨物型だけ3機運用するエジプト航空(ウィキペディア英語版より)


これら以外にも中国やジョージアの貨物エアラインが何機か同機を運航しているようだが、詳細は不明。

元々見た目がパッとしないA300だけに、引退が進むと完全に忘れ去られた存在になってしまった。

767よりも遥かに先に「双発ワイドボディ機」と言うカテゴリーを確立させた、同機はもっと称賛されても良いと思う。

何より日本でも親しまれた機体ながら、777や787に押されて既に忘れ去られた機体になりつつある。

だが200機以上の同機がまだ世界を飛んでおり、最も有用性を認めているのがアメリカと言うのも、同機の隠れた「ポテンシャル」を物語っているような気がするのである。

旅客機としては、やはりイランが最期の牙城になるようだが、A300-600Rは比較的新しいのでもうしばらくは現役に留まるであろう。

最後に懐かしい日本航空のA300-600Rの、在りし日の姿を。



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       ↑日本航空のA300-600R(ウィキペディア英語版より)



よく見ると、シンプル故のカッコよさがあると、私はいつも思う。良い飛行機だ。





今夜もまた寒いが、風がないのが助かる。

明日は南風が入って、少し暖かくなると言うが、週末にはまた寒くなるとも。

春先の「三寒四温」ならぬ「三温四寒」と言うことか、と思う。

今年は北海道の初雪が記録的に遅かったが、仙台もまだ初雪はなし。

紅葉もまだ残っているし、できれば「暖冬」であって欲しい。

12月は週末スタートだったので、今週が実質的スタートと思う人も多いだろう。

いよいよ年末年始の準備が、誰にもやってくる時期。

私はほとんどないけれど、毎年恒例のバイトも既に依頼されていて、休みはない。

おせちもいらないし、一人は良くも悪くも12月の忙しさが妙に感じる。

帰省もないし、旅行も行くことが出来ない。

初詣も一人では行く気にならないし、年末年始だぞと頭で思いこんでも、体が反応しないのだ。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

君の12月は忙しいのでしょうね、大変だとは思いますが無理をせず、身体優先で適度に休みながら仕事して下さい。

気温も上下しそうですので、体調管理には気をつけて下さい。

時にはカフェで「冬メニュー」を味わって、心を癒して下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



もみち葉の 散りなむ山に 宿りぬる 君を待つらむ 人し悲しも(万葉集巻十五 3693 葛井連子老)

古代史探偵A 大仙陵古墳調査(12月1日 曇りのち晴れ 13℃)

師走は青空でスタート。早朝は曇り空だったが、日が登るに従って青空に。

しかし日中は強い北西の季節風が吹き、この冬初めて家の中でも音が聞こえる強風だった。

仙台では当てはまらないが、「木枯らし」の風だったようで、風が止んだ夕方以降道路は、あちこち枯れ葉の吹き溜まりが出来ていた。

ある意味12月らしい、冬を思わせる空模様だった。

強風の分、午後は「快晴」に近い。そして今日からはの青空は「冬晴れ」に切り替えだ。

私の身体は「冬」に変わる訳でもなし、カレンダーがめくれても何も変わらない。

相変わらずの不眠症で寝つきが悪く、寝不足は解消しないし、寒冷アレルギーは毎晩。

お金があれば薬を買ってくるのだけど、あと数日の我慢…。

テレビでも耳にするが、来年の年末年始は「平成」じゃない。

そろそろ「年賀状」の準備をする人は多いと思うが、「平成」が印刷された年賀状はこの年末年始が最後。

「平成32年」の年賀状はないので、記念に何枚か買っておこうかとも思う。

最も「平成最後」と言ったらキリがない訳で、日付の入った新聞や雑誌も対象になってしまう。

「平成31年」は4カ月しかないから、むしろその方が貴重かも。

因みに「昭和64年」は一週間しかなく、「平成元年」はほぼ一年丸ごとだった。

平成31年は4月30日まで。「新元号」は5月1日から。

31歳以下の人は初めて「異時代の人間」になる訳だ、ざまあみろ(笑)。

「昭和って、生まれるずっと前の知らない時代」と大人をからかって来た若者たちは、来年からそれが言えなくなるのだ。

まあいつの時代も繰り返しで、若者たちは必ず中高年になるのだから。

でも「昭和」と「平成」の間には、明らかなギャップがあり、特に平成生まれは良い理屈にしているのも事実だろう。

最も31歳以上の人は、「3つ」の時代を生きる事になるが…。

因みに私の祖母は1899年に生まれ、1990年に亡くなったが、明治・大正・昭和・平成と4つの時代を生きた。平成は辛うじて一年弱だけだったが、私が4つの時代を生きるには、あと30年以上は必要になりそう。ちょっと難しい。

逆に今幼少の子供、単純計算して10歳以下ならば4つの時代の可能性があるかも。

そう考えると、単なるタイミングなのだけど祖母は凄い人だったのかも知れない。



土曜日は、たとえお金がなくともどこか楽しい気分がする。

街はあまり人ではなく、平日と同じくらい。

師走に入って忙しいのか、恐らくは「寒い」からではと思うが。

歩いていると、とにかく空気が冷たく、暖かい場所を無意識に探してしまう。

帰りがけ、前を歩いていた制服姿の女子高生二人。

今日は休みだと思うのだが、二人とも制服姿だし、もう23時近い。

何時しか姿は見えなくなったが、二人とも短いスカートで「生足」だ。

気温は5℃を切っており、最近の高校生はまた強くなって来たのか?と思う。

二人でキャアキャア騒ぎながら歩いていたから、寒さなど平気なのだろう。

この秋は、女子高生のスカートが夏より短くなっているのが気にかかる。

だからなんだと言われれば、そうなのですが(笑)。





元気ですか?

今日は良い1日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

寒さは大丈夫ですか?

今日から12月、2018年も僅か1カ月を残すのみになりました。

君も12月は仕事を含め、何かと忙しいと思いますが、無理をせず体調管理には気をつけて下さい。

18年の締めくくりを、笑顔で過ごせますように。

明日も寒いそうなので、外出の際には暖かくして出かけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。





天雲の たゆたひやすき 心あらば 吾をなたのめ 待たば苦しも(万葉集巻十二 3031 物に寄せて思を陳ぶ)











◎古代史探偵A(大仙陵古墳調査)


最近ネットを中心にいろいろ調べられることが多くなって、様々な情報を得られる時代になって来た。

ただ情報は一つで信用する訳には行かず、客観的・多面的に調べないと分からないことも多い。

今年はどこかのオッサンが連発した「フェイクニュース」が話題となったが、うその情報だけでなく、「書き手」の勝手な解釈や不明の情報源だけを頼りに真実と思いこむのは非常に「危険」であり、昔より真実は見えにくい時代になったような気がする。

この秋、大阪・堺市にある「大仙陵古墳」にて、宮内庁が初めて堺市教育委員会とともに「御陵」の発掘調査を許可し、今日報道陣にも公開された。

「大仙陵古墳」とは、考古学者の故森浩一氏が便宜上つけた名称で、一般的には「仁徳天皇陵」などと呼ばれている。

日本で最も大きな前方後円墳で知られ、墳丘の全長は525メートル、最も高い地点で35.8メートルもある。

古代から16代仁徳天皇陵、「古事記」「日本書紀」に記載された「百舌鳥耳原中陵」として明治時代に宮内庁の正式な敷地に指定され、他の111の御陵や陵墓参考地に指定された古墳は一切の立ち入りはもちろん、発掘調査も認められていない。

現在の宮内庁治定の陵墓は、江戸時代に正式に調査が進められ、同時に改修工事などを行い、明治維新後宮内庁が「陵墓」と定めたもので、発掘調査は明治以前に行われた事もある一方、全くなされていない陵墓も多い。

そのため治定は全てが正しいとは言えず、考古学者・歴史学者の議論の的になっているが、宮内庁が調査発掘を受け付けない限りその正体は不明である。

最も日本の考古学・歴史学に於いて、その古墳の「被葬者」や正確な築造時期などは「文字」による「証拠」がないと立証できないとされているので、仮に発掘しても結論は全て「推論」でしかない。

また古墳が「墳墓」である以上、学術上の事としても興味本位・調査と称して荒らすことは厳粛に慎むべきであり、「伝承」は「伝承」として、推論は推論として現状維持が良いと私は考える。

今回何故宮内庁がこの「大仙陵古墳」の調査を行ったかと言うと、堺市にある「百舌鳥古墳群」をユネスコの世界遺産に登録しようと考えているからである。

そうなるときちんと国や自治体がシステマティックな管理を行っていることが、条件の一つとなっており、その一環としての調査である。

大仙陵古墳は二重の周濠に囲まれており、今回は立ち入り禁止区域の「内側」の土壇部分に調査が行われた。

調査は「内濠」の3か所、数メートルの範囲を約1メートル掘り下げただけであるが、そこからは「埴輪」の他、葺き石が確認された。

宮内庁によると、埴輪は直径約25センチの「円筒埴輪」で、綺麗に1列に並べられた跡があることから数キロに及ぶ内濠にびっしりと並べていたと考えられる。

埴輪の周囲には幅1・5~2メートル程の石畳みの様に石が敷き詰められており、大きさも拳ほどのもので揃えられている。

以前から予測はされていたが、築造当時の大仙陵古墳は膨大な数の円筒埴輪と墳丘まで白亜の葺き石が敷き詰められていた事を裏付ける調査結果とも言えよう。

大仙陵古墳は5世紀前半の築造と見られており、江戸時代まで残った記録によると前方部と後円部どちらにも竪穴式石室があり、前方部の石室には「家形石棺」が確認されている。

なお後円部の石室は地震などで崩れ、江戸時代と明治時代に補修した(埋め戻した)と言う記録が残るが、どういった状況で同補修したのかは不明である。

墳丘は3段構成になっており、これは4世紀に始まる巨大前方後円墳の標準的な構造である。

宮内庁では古墳群の世界遺産登録について、「皇室の墳墓」であることを理由に難色を示しているが、全く手をつけていないこともあり、内濠の浸食が拡大していることが明治時代の治定時から指摘されており、将来の「保護」のためには宮内庁以外の専門家の意見も必要・・と言う見地で、今回の調査が行われた。

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              ↑大仙陵古墳(©国土交通省)


江戸時代には二重の周濠の補修が行われたと言う記録もあるが、内濠までは一般人の立ち入りも認められており、明治初期までは市民の憩いの場として親しまれていたと言う。

その後敷地内は立ち入り禁止となったが、その時に宮内庁がどこまで補修し管理していたかの記録がなく、以後詳細な調査は行われていない。

宮内庁では定期的に古墳の中を点検しており、時には専門家を招いて立ち入りを許可する事もあるが、歩いて見て歩くだけで、土を掘ったり削ったりすることは一切禁止である。

仁徳天皇は16代天皇だが、記録にある記紀ではその生涯や治世の時代があやふやで異常に長いのは周知のとおりである。

これは5世紀頃まで、日本には天文学で導かれた「暦」を採用しておらず「春秋年」と言う大雑把な暦で記録していたからだ。

「日本書紀」によると仁徳天皇の在位は87年にも及んでおり、父王である応神天皇は在位41年目に崩御して、仁徳天皇が即位したと見える。

紀には年齢を詳らかにしていないが、単純計算で120歳以上生きていたことになり、どう見ても現実的ではない。

ところが仁徳天皇の子、第一皇子の去穂別皇子(履中天皇」の条になると、在位は僅か6年。享年70歳と急に具体的・現実的な数字に切り替わるのだ。

しかし履中天皇も逆算すると64歳と言う高齢で即位したことになり、ないとは言えないが不自然ではある。

紀では去穂別皇子は「仁徳31年に15歳で皇太子になられた」とあるが、そうすると仁徳天皇が崩御した「87年」では61歳であり、崩御の年齢と合わない。

また即位直前妃として、羽田八代宿禰の娘・黒媛を迎えようと思ったが、彼女を迎えに言った異母弟の住之江仲津彦皇子が、黒媛があまりに美しい女性だったため「去穂別皇子」と身分を偽って犯し、ばれそうになって兄を殺そうとした「住之江仲津彦の乱」に有名なエピソードを持つが、紀の通りに解釈すると去穂別皇子は60歳過ぎてから妃をもらおうとし、恐らくは年齢の近い弟が偽って媛を犯した事件となり、いよいよ信憑性と言う点で不審である。

現代ならないとも言えないが、60過ぎの「ジジイ」の話とはとても思えず、増して平均寿命の短い古代にいくらなんでもこの年齢はおかしい。

紀の編纂者・飛鳥および奈良時代の忍坂皇子や舎人皇子も、紀の年数には相当頭を悩ませたことだろう。

だが仁徳天皇の在位が87年、その子の履中と反正天皇はどちらも数年の治世で終わっていると言うことは、ここに記録の「断層」がある、と言う事だ。

実年齢は先代の重複を引き継いでいるようだが、仁徳天皇の子である履中・反正・允恭天皇以降は在位年数がいずれも現実的な数字になっている。

記録では、このころから正しい「暦」が導入されて、奈良時代に残されていた記録も正しい年数になっていたのだろう。

そうすると紀年換算が必要となってくるが、同時に「異常な長生きと在位年数は創造された人物」と否定することも出来なくなるのである。

計算すると仁徳天皇は4世紀末から5世紀初期辺りの人物で、在位年数は20年程度と見られる。

何故かと言うと仁徳天皇以前の15人に「神功皇后」を含めた皇室の人物たちは、在位だけで100年以上、150歳以上まで生きたことになるが「春秋年」の1/2に、さらに高位に召せるため更に「倍増」させた数字が伝わっていたと考えられるのである。

因みに記紀に掲載されている年数を1/4に換算すると、かなり現実的な数字になるのだ。

加えて「想像上の人物」と言われて憚らない初代・神武天皇は2世紀後半から3世紀初期の人物と見ることが出来る。

仁徳天皇は名前の通り「人情に厚い」天皇で、凶作で国民が飢えて、煮炊きするかまどの煙すら立たないことに酷く心を痛められ、3年間の兵役と租税を免除した。

また宮も国民が豊作になって豊かになるまで、建て替えをせず、雨漏りも我慢した。

仁徳天皇は難波に宮を構えていたが、当時の難波は低湿地で雨が降ると洪水し安かったため、大規模な治水工事を行い、川には橋を架けさせたと言う。

皇后は皇室としては、初めて血筋の繋がらない豪族・葛城氏出身の「磐乃媛」である。

彼女は葛城氏の始祖と言われる襲津彦の娘で、当時葛城氏がいかに皇室にとって重大な豪族で会ったかを窺わせるとともに、後世蘇我氏・藤原氏の隆盛にも繋がる歴史になった。

ここでは割愛するが、優しい天皇と言いながら、女性関係も非常に派手だったとともに、磐乃媛自身も非常に嫉妬深い女性であったと言う。

最終的には「家出」したように、実家のある奈良・葛城に戻ってしまい、天皇がいくら呼んでも戻ることはなかったと言う。

もちろん「昔話」的な伝説なのだが、エピソードの多い天皇と皇后だったことは間違いないようだ。

だが「兵役や租税の免除」と言うのは、記紀の編纂時である飛鳥・奈良時代の律令体制に照らし合わせた表現であって、4世紀末に徴兵や租税が国民の義務だった可能性はほとんどない。

各地を領地として治めていた豪族が、朝廷に必要に応じて貢いでいたのであって、それを形骸化していたかどうかは不明である。

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         ↑大仙陵古墳の拝所(ウィキペディア英語版より)


百舌鳥古墳群には44基の古墳が登録され、大仙陵古墳は最大規模である。

次に大きいのは応神天皇陵と見られる「誉田御廟山古墳」、履中天皇陵に治定される「上石津ミサンザイ古墳」など、300メートルを超す前方後円墳が多く存在する。

治定はあくまで推定であり、確証が得られていない天皇陵は古ければ古いほど根拠に乏しい。

仁徳天皇陵とされたのも、記紀の伝承から周辺で最も「相応しい」とされたからであり、「百舌鳥耳原中陵」と伝わることも含めて大仙陵古墳に治定されたに過ぎない。

研究者の中には履中天皇陵に治定されている「上石津ニサンザイ古墳」の方が、大仙陵古墳より築造が古いとし治て、治定は「逆」と唱える人もいる。

つまり大仙陵古墳の方が新しいので、仁徳天皇陵ではない・・と言う事だ。

だがあくまで「推論」の一つに過ぎない事と、古墳時代全盛期と呼ばれる5世紀前後に「寿陵」(存命の内に築造する陵)だったのか、崩御後築造する事が普通だったのかわからない。

古墳時代末期の飛鳥時代には、ほとんどが崩御後作られているので、5世紀もそうだったと考える方が自然ではないか。

だとすれば大仙陵古墳を作ったのは、子である履中天皇か、その弟の反正・允恭天皇だったことは充分ありうるし、偉大な父の為に作った大きな陵は、予想より時間がかかったと考えるべきだ。

とある建設会社が試算したところ、大仙陵古墳は当時の道具などを考慮すると建設に最大15~20年、工事に携わる人々は延べ20万人必要だったと言う。

因みに現在ならば・・と試算すると、それでも最短で5年以上、延べ人数も1万人は必要と言う。

専門家が見ても、まさに「国家プロジェクト」に近い大規模工事であった。

それに値するのは「仁徳」の名前の通り、国民から愛された天皇に相応しく、最も大きな古墳に治定されてもおかしくはない。

下手をすると後世3代では終わらず、孫に当たる雄略天皇の時代までかかった可能性もあるだろう。

先に書いたように、当時の難波は低湿地だったため、大阪湾は元より明石海峡辺りから大仙陵古墳は見えたと考えられる。

高さはビル10階に匹敵し、3段の墳丘は全体も葺き石と埴輪で飾られていたはずで、海上からは巨大なモニュメントとして見えていたと思われる。

同時にそれは皇室の権威と支配力を内外に示す、格好のモニュメントでもあったはずである。

巨大前方後円墳の出現は、4世紀の崇神天皇から築造され始めたと考えるが、この時に「ヤマト政権」が全国に支配力を拡大しつつある時代であり、仁徳天皇時代にはピークを迎えたからこそ「百舌鳥古墳群」が集中的に築造されたのである。

歴代天皇(大王)の権威は、巨大な陵墓であると言う権威の証だったのだ。

仁徳天皇量が最大規模だとすれば、「ヤマト政権」の全国支配が一定の結果を出したのが仁徳だったのではないか、と思う。


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        ↑ミサンザイ古墳の3D画像(ウィキペディアより)


今回宮内庁が内濠の一部、と言う小ぶりながら発掘調査を行ったのは進歩だと思うが、学界はもちろんメディアが無責任に「調査は必要」とか「皇室の墳墓と言うのは前近代的」などと言った、底の浅い無責任な意見は言わないで頂きたい、と思う。

仮に徹底調査をして、古墳の全容が解明できたとしてもそれこそ「書簡」でも出ない限り、被葬者の特定は不可能である。

昔はいい加減・・と決めつけるのは現代人の悪い癖で、現代人が英知に富んでいると錯覚しているだけだ。

今から1,600年も前の日本人が、これだけの大規模土木工事を行えたと言うことは、当時の人々もそれなりの英知を見につけていたからに他ならない。

「伝承」を何の根拠も実証も見せず、「作り話」と決めつけるのも日本の歴史の悪癖である。

何らかの根拠があったからこそ伝承になったのであり、それを探ることが我々子孫の義務ではないか。

古墳の保護と未来への継承はしっかりやっていかなくてはならないが、無理に発掘調査する必要もあるまい。

今回の調査だけでも充分事実は明らかになったのだから、今後は保護に力を入れていくべきだろう。

なおアメリカ・ボストン美術館の「日本コーナー」には「伝仁徳天皇陵出土」とされる刀や勾玉など服う数が収蔵されているが、これは全て6世紀~7世紀のものであり、それはそれで貴重だが、4世紀のものではないことが明らかになっている。

どうもボストン美術館開設に力を貸した、美術家の岡倉天心が京都の古物商から入手したものだと言う。

天心が「仁徳天皇陵出土品」と、うそをついて持ち込んだのか、美術館側が勝手にそうしたのか、今も不明だ。

出どころ不審と言うことで、普段は公開されない事になっていると言う。


飛行機ネタ 日本エアコミューターDHC-8-400退役(11月30日 晴れ時々曇り 9℃)

少し雲が多く、気温が上がらない肌寒い一日だ。

あっという間に11月は終わり、カレンダー上では秋も終わる。

明日から12月、週間予報では天気も良く、最初の週は気温が高めに推移し、関東以西では20℃を超える日も出て来そうだと言う。

この秋も、真冬みたいに寒かったり、ポカポカ陽気だったり上下差の大きな気候だったが、12月もその傾向が続きそうだ。

今日は寒気に覆われた東北・北海道が寒く、空模様は不安定。

日本海側を中心に雪が降ったが、明日以降は雨になると言う。

月始めが週末になるため、街では商品の入れ替えやポスター貼りに忙しく、明日以降クリスマス一色になるのだろう。

既にお店のBGMなどはクリスマスソングが流れているが、嫌々ながらもクリスマス、そして年末年始のムードに身も心も染まってしまう。

願わくば、この冬は「暖冬」であって欲しい。

冬を目当てに商売する人には申し訳ないけれど、寒さも雪もない方が良い。

百歩譲って寒さはある程度仕方ないとして、雪はない方が良いに決まっている。

あまり意識されないが、真冬にほとんど雪が降らない、降っても積もる事のない地域は羨ましいと思う。

子供の頃は何故あんなに雪を喜んだのか?今もって謎だ(笑)。

雪が降ると「積もれば良いな…」と思ったが、高校生以後は嫌いになった。

行動範囲が広くなり、雪が降ると阻害される事が多くなったからだ。

好き嫌いの話ではないけれど、雪は客観的に見るから綺麗なのであって、生活場面には正直不必要だと思う。

道を歩けば滑って危険だし、車の運転もそう。

まとまって降ればパニックになるし、融ければ街はビシャビシャ泥だらけ。

はっきり言って雪が降って良い事ってあります?と聞き返したいぐらい。

北海道で一冬過ごした時も、ある程度覚悟していたが、半年も続く冬はことのほか身も心も疲れてしまう。

逆に奈良を含む近畿地方に通うようになって、雪の降らない冬の楽で、楽しい事と言ったら…。

奈良県と言っても広く、県南部の山地では積雪は珍しくないが、人口の集中する奈良盆地では、めったに雪は降らず、降っても積雪する事はほとんどない。

初めて訪れた時にそう聞いて、冬に行くと、なるほど噂通りなのだなと実感した。

まず車。

仙台ではこの時期冬用のスタッドレスタイヤに履き替えるのは常識であって、万が一忘れて雪の日を迎え、スリップなどしようものなら、周囲から完璧なバッシングを受けるほどスタッドレスタイヤは常識。

当然ながら雪が降らない奈良で、スタッドレスタイヤを履く車はほとんどなく、積雪・凍結の恐れがある山道を仕事などで走る人だけ。

市内を走るバスやタクシーが、スタッドレスタイヤを履いていないのだから、雪が積もらないと言う話は信用出来るとわかる。

唯一宅配便のトラックが履いているが、標高の高い場所や日陰で凍った場所へも行くからだろうか。

少なくとも年2回の強制的なタイヤ交換作業がない、と言うのは羨ましい限りだ。

タイヤ交換作業は労力が必要だし、自分で出来ない場合はお金を払って交換してもらわなくてはならないし、スタッドレスタイヤは寿命が短く、夏タイヤより高価。

北国では冬と言うと、こんな面倒と無駄遣いを強いられるのだから、雪などない方が良いのだ。



飛行機ネタ。

日本エアコミューターは、今日付けで3機保有していた「ボンバルディアDHC-8-Q400」の全ての運航を終了。

同社から引退した。同機は03年に導入されたが、15年間と言う比較的短い期間で退役する事になった。

後継機種としてフランス・イタリアの国際共同コミューター機「アレニアATR-42-600」と「ATR-72-600」を導入。

既に営業運航に入っており、今日を持って同社の世代交代の一つが終了した。

現在50席級のATR-42が5機、70席級のATR-72が1機到着。

今後4機が導入され、合計10機が出そろう。

このほか導入後20年経過したスウェーデン製の「サーブ340B」も、ATRに置き換えて、機材統一を図る。

保有機数が減少する事については、同じJALグループのコミューターエアライン「J-AIR」の路線の一部を引き継ぎ、ジェット機の運航できる路線を中心に移管。

日本エアコミューターは、本来あるべき姿でもあるプロペラ機による地方路線運航に専念する。

また新型のATRは「天草エアライン」や「北海道エアシステム」が同機を導入する事により、共同事業機として運航する事も決定しており、より効率的な運用を目指す。


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     ↑(2枚)退役した日本エアコミューターのDHC-8-Q400(ウィキペディア英語版より)

日本エアコミューターでは、旧日本エアシステムのグループ時代に同機を導入。

初期には尾翼のマークが、日本エアシステムと同じデザインで「JAC」のロゴが入れられていた。

当時同社では国産ターボプロップ旅客機「YS-11」が主力機だったが、国交省の方針で日本の航空機には「TCAS」と呼ばれる「衝突防止・警報装置」の装備が期限付きで義務付けられた。

しかしYS-11は、製造後40年近く経つ経年機であり、同じくYS-11を運航していた「エアーニッポン」はTCAS装備の経費がかかりすぎるとして、計画を前倒しして退役させた。

日本エアコミューターは一部の機体にTCASを装備する事にしたが、やはり全機の装備は経費と言う点で困難であり、機材更新計画を急きょ変更することになった。

エアーニッポンでは、既にYS-11は北海道の丘珠~道内路線や東京~大島線など限定的だったため、とりあえず50席級の「DHC-8-300」を導入し、同時にローカル線のダウンサイジング化機材として74席の「DHC-8-Q400」も採用した。

日本エアコミューターでは、64席だったYS-11の「代わり」になるのは74席のDHC-8-Q400が妥当であると判断し、導入に至っている。

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     ↑導入当時の日本エアコミューターのDHC-8-Q400(ウィキペディア英語版より)

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      ↑「アーク」塗装時代のDHC-8-Q400(ウィキペディア英語版より)


日本では2000年代前後から、DHC-8を初期の100型から400型まで全てを運用した国であるが、初期にはトラブルも多かった。

07年ANAグループが運航していたDHC-8-Q400が、高知空港着陸時に前脚が出ないと言うトラブルに遭遇。

止む無く胴体着陸すると言う事故を起こし、調査の結果前脚の製造ミスであることが判明した。

同じ年にはSASの同機も似たようなトラブルを起こし、SASは同機の運用を中止。そのまま退役させている。

更にエンジントラブルや、不具合が前後に頻発したこともあり、DHC-8-Q400の評判は著しく低下してしまった。

製造元のカナダ、ボンバルディア社は製造ミスを認めて保障したが、元々同シリーズはカナダでは老舗のメーカー「デ・ハビランド・カナダ」社が開発した機体であり、「DHC」もその頭文字である。

90年代前半にボンバルディア社が航空機部門を買収し、Q400はボンバルディア社になってから開発された新型であったが、設計・開発に携わっていたのは「デ・ハビランド・カナダ」社時代の社員だったとされる。

ボンバルディア社は逆に航空機メーカーではなく、船舶のエンジンや小型のボート、雪上車やスノーモービルなどを作る総合乗り物メーカー見たいな会社で、買収した「デ・ハビランド・カナダ」部門には航空機の事がわからないボンバルディア社の幹部が牛耳っており、元社員と大きな軋轢があったと言われる。

Q400の初飛行は96年のことで、トラブルが頻発したのは10年も後のこと。

しかし03~05年に製造された機体に多くのトラブルが見られたことから、総点検も指示された。

実際に社内トラブルが、製造ミスに繋がったと言う証拠はないが、同機の信用は著しく低下したことは確かであった。

日本エアコミューターも10機以上の同機を運用し、やはり小さなトラブルが頻発していた。

いずれも警告ランプの接触不良などが大半だったが、油圧系統のトラブルも多く、日本エアコミューター・ANAともトラブルが見られなくなるには2~3年を要している。

ANAでは現在も21機のQ400を保有。

系列子会社「ANAウィングス」が運行を担当し、全国で運用されている。

主に騒音規制の厳しい大阪・伊丹空港をベースに運行され、ジェット機に混じって亜幹線での運航も多い。

Q400は設計が新しいだけあって「プロペラ機」の概念を覆すような、高性能を誇る。

胴体こそ初期の100~300の長さを変えただけに見えるが、エンジンも違う。

エンジンはP&W社の「PW135A」ターボプロップエンジンで、100~300より倍近い出力を持つ(約5,100馬力)。

プロペラブレードは4枚から6枚に変更され、巡航速度は約670キロとプロペラ機としては最速機の一つである。

飛行距離の短い国内線に於いて、ジェット機でも平均巡航速度は700~750キロ程度で収まるから、さほど変わらない速度で運航できる。

就航時から仙台空港にもANA機が運航され、現在も馴染みの機体となっているが、例えば伊丹~仙台間だと、向かい風となる伊丹行きではジェット機で約80分、DHC-8-Q400便では約95分と言うスケジュールになっている。

この路線は比較的長距離に分類されてしまう為これだけの差が出てしまうが、伊丹~高知・松山など近距離になるとジェット機とほとんど差がない。

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         ↑ANAのDHC-8-Q400(ウィキペディア英語版より)


ANAでは同機の退役の具体的な計画は発表していない。

早ければ2年後に完成する国産初のジェット旅客機「MRJ」が後継機ともされるが、ANAではまず老朽化したB737-500の代替えと考えており、DHC-8-Q400の直接の後継機とは定めていない。

昨年長崎県のコミューターエアライン「オリエンタル・エアブリッジ」が、老朽化したDHC-8-100の後継機としてQ400を1機導入。

これは相互協定でANAとの「共通事業機」となり、塗装もANA機のまま運航される。

つまり1機増えたことになる。

これで日本エアコミューターが、なぜ退役させるのかがちょっと疑問にも思えるのだが、ボンバルディア社は2010年以降30~50席級の100~300型の生産を中止し、Q400だけに限定した。

また今年にはQ400の生産部門を、同じカナダのメーカー「バイキング」社に売却し、自らは新型のリージョナルジェット「Cシリーズ」とCRJだけを生産する「ジェット機」メーカーになった。

このことから、今後Q400の生産や部品供給などのサービス体制に不安が出てくる可能性もあり、そうした点も退役の理由の一つだったと思われる。

またANAグループと違い、日本エアコミューターは西日本、特に本拠地である九州を中心とした路線網に限定されており、同じグループ内に於いてジェット機だけを運航する「J-AIR」の比率が高まったことも、機材整理・縮小に繋がったものと見られる。

しかし15年に同じJALグループの「琉球エアコミューター」が、新造機として5機のDHC-8-Q400CCを導入している。

「CC」はいわゆる「貨客混載型」で、同社がローンチカスタマー。

胴体は同じながら、後部の貨物室を広げたタイプで、座席数は50席。

物資輸送が重要な離島航路に最適としてボンバルディア社にローンチし、世界で最初に導入したエアラインである。

今後は「バイキング」社が引き継ぐことになると同時に、生産は継続されることになっている。

世界的にプロペラ機の需要は減少しつつあると言われ、リージョナルジェットが大ブレイク。

現在50席クラスではATRしなく、70席級だとジェット機と被る。

ボンバルディアの「CRJ700」、エンブラエルの「E170」「E175」などがあるため、「あえてプロペラ機は・・・」と言う雰囲気が蔓延している。

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     ↑(2枚)琉球エアコミューターのDHC-8-Q400CC(ウィキペディア英語版より)


最近のジェットエンジンが低燃費と言っても、ターボプロップの方が遥かに燃費は良いし、滑走路の短いローカル空港での運用も楽に出来る。

騒音と言う点でも、ジェット機とは比べ物にならないほど静かで「エコ」と言う点では追随を許さない。

昔のターボプロップ機と違い、キャビンも広くて綺麗であり、乗り心地もジェット機とほぼ変わらない。

プロペラ機と言うと、なんだか怖いと言うイメージを持つ人もいるようだが、現在は全くジェット機と遜色ない。

ただ巡航高度が低いため、天気や気流に左右されることが多いとも言えるが、ジェットと比べてのハンデになるほどではない。

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     ↑(2枚)ANAのDHC-8-Q400と特別塗装機「エコポン」(現在は終了)(ウィキペディア英語版より)


特に日本の空港は住宅街が近かったり、ローカル空港では大きな改修をせず就航できるプロペラ機の需要は今後も続く。

それでいてジェット機並みの高速を持つQ400は、退役させるにはもったいない・・と思うほど優秀な機体だ。

信用を落としてしまった過去はあるが、それはほぼ解決されているのでハンデにはならないであろう。

何よりも細長い胴体と特徴的な高翼、長い脚は同機ならではのスタイルで、私は好きだ。

何度か乗っているが、機内は2-2の4列だが、座席は前後左右とも広く、LCCなどより遥かに快適だ。

うるさいと思われるプロペラも、機内に騒音を打ち消す周波数を流す特殊なスピーカーが取り付けられており、ジェット機より遥かに静かなキャビンである。

高翼式なので、窓際座席全てから景色が楽しめるのも特徴で(ATRもそうだが)、プロペラ機の概念は覆されるほど快適な機体。

いずれ全てが退役する日が来るだろうが、あまり新しく見えないスタイルのATRよりずっと格好良いと思うのは私だけだろうか?

日本エアコミューターから完全退役したことで、日本のQ400はANA・琉球エアコミューター・オリエンタル・エアブリッジの27機になった(官公庁機を除く)・

なお明日明後日の土日、日本エアコミューターでは「Q400さよならイベント」として、臨時チャーター便を運航する。

「鶴丸」がよく似合っていたが、今後琉球エアコミューター機で残るのが救いだろうか。


11月は1日少なく、今日でおしまい。

明日は週末だけど「12月」が始まる。

今夜は12月を告げるかのように寒く、22時の仙台は4℃まで下がっている。

泉は2℃程度まで下がっていると思われ、今夜は特に寒くて震えながら歩いた。

歩くのも憚られるような寒さで、冷えたせいか足と腰が痛い。

そろそろ「忘年会」シーズンだが、寒いからだろうか。

飲食街ではさほど混んでいなかったようで、駅側のカフェやダイニングバーの方がいっぱいだった。

こんな寒い夜は・・・なんて歌があった気がするが、明かりの下で誰かと暖かい食事をしてみたい。

本当にそう思う。





元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

寒さは大丈夫ですか?

明日から12月ですね、懐かしい気持ちも甦ります。

いつも言うように、私にとって君は「冬」のイメージが強いのでよく思い出すのです。

もう冬の装いになったでしょうか?

あの時の君の姿を、思い出しました。

今夜はとても冷え込んでいますので、暖かく過ごして下さい。

同時に体調管理にも気をつけて、12月・冬を迎えて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




家にして 結いてし紐を 解き放けず おもふ心を 誰か知らむも(万葉集巻十七 3950 大伴宿禰家持)



飛行機ネタ 4発機の魅力、B747-400現状(11月29日 晴れ時々曇り 12℃)

寒さ戻る…予報通り、北から寒気が流入し、昨日より6~7℃も低い気温。

風が冷たく、体感温度は更に低い。

街の人々も気紛れな気温差に翻弄されつつ、少しずつ冬の装いに変わっている。

極端なのは相変わらず若い女性、制服の女子高生達で、寒がりな子はマフラーや手袋を使っているが、傍らではいきなり短いスカート姿の制服の女子高生が闊歩していたりする。

私も上着を冬物に替えようかどうか迷っているが、もう少し秋物でも大丈夫そうに思える。

紅葉はさすがにピークを超えて久しいが、まだ落葉していない木が多い。

市内中心部のケヤキがその状態で、12月14日から始まる「光のページェント」に間に合わない可能性があると言う。

つまり紅葉が落葉せず、イルミネーションが陰になってしまう…かも知れないと言う。

今朝の地元紙に、比較的大きめの記事扱いで地下鉄の話題。

仙台市交通局は、22年度以降から南北線を走る「1000系」電車の、「置き換え」の検討を始める事にした。

1000系は南北線が開業した87年前後に製造され、その後90年前後に2編成が追加されているが、開業時の19編成76両と追加された2編成8両は全車現役にある。

2000年代には、約10年かけて車両の全面更新工事を行い、冷房化の他制御・走行装置の更新、座席の取り替えなど多岐に渡って行われ更新車は「1000N系」とも呼ばれる。

記事によると、交通局では大事に使っているが、車体は製造後30年経っており、陳腐化が進んでいると言う。

車体寿命は40年に設定されている為、交通局ではそれを目処に車両の置き換えを計る計画。

具体的な事はこれからで何も決まっていないが、22年度頃から新型車両の置き換えを始め、5~7年かけて1000系を全て引退させる見通し。

車両の仕様やメーカーなどは、来年度以降検討・決定に入るが、車両のデザインなどは公募・市民の意見などを取り入れたいとしている。

ただ新型車両は東西線の2000系と同じく、軽量ステンレス製になる可能性が高く、そうなると30年間親しまれて来た1000系の「オフホワイト&グリーン」が消えてしまいかねず、シルバーのステンレスボディにグリーン帯は、JR車両に採用されている問題もある。

交通局では時代にふさわしい経済的、バリアフリー車両を目指すとするが、南北線での車両置き換えは初めての事になり、難題は多いと見る。

一つは車両交代の予算をどう捻出するか、と言う事。

現在地下鉄は当然ながら「赤字」経営。

南北線の建設費用は償却されたが、開業したばかりの東西線の建設費用は「予想通りそれ以上」の利用客が増えて、25~30年の償却は南北線と同じだ。

しかも東西線の建設費用は、意外にもかかっており、南北線より大きくなっている。

だが東西線の利用客数は、予想以下それ以下の横ばい状態であり、南北線は微増。

ここに新型車両の投入は、予算はもちろん市民や議会の大きな反発も見込まれよう。

利用者やファンは、単純に新型車両を楽しみにしたい所だが、民営化されているならともかく、仙台市地下鉄である以上経費は全て「税金」である事を認識しなければならない。

車両だけではない。駅や線路施設も同時に老朽化が進んでいる訳で、車両置き換え計画を手放しでは喜べないし、交通局の勝手にさせてはいけない。

平成生まれの世代や、市外出身者に南北線の駅のホームは、全ての駅で「長すぎ」る事に気づいているだろうか?

実は30年前の開業時、「将来的には必ず利用客数が増えるから、いずれ編成を6両化する」予定で、全駅のホームは「6両分」の長さがあるのだ。

最も開業後僅か2~3年で、非現実的である事がわかり、以後「6両編成化」は自然消滅してしまった。

つまり南北線は皆知らない事を良い事に、開業前の根拠の薄い甘い見通しの「ムダ」を、今も引きずっているのである。




飛行機ネタ。

日本時間の26日、イギリスのフラッグキャリア、ブリテッシュ・エアウェイズから最後のボーイング767が引退した。

同社最後の767定期便は、キプロス・ラルナカ発ロンドン・ヒースロー行き663便。

到着後には「引退セレモニー」が開催され、機体はストックヤードのあるウェールズに移動した。

同社は90年から767を運用し、初便はロンドン~パリ線。その後ヨーロッパ域内の他、大西洋を越えた北米・カリブ海路線、アフリカ・中東路線など、東アジアとオセアニアを除く同社のほとんどの路線で運用された「マルチプレーヤー」的存在であった。

意外にも初期の「200」型や「300」は使っておらず、全てが「300ER」。

同社の767は国産エンジン「ロールス・ロイスRB211」を搭載しているのが特徴で、外観も日本の767とはちょっと違う。

最後の機体は、98年製の「G-BZHA」。

同社は後継機種としてB787-9を選定し、経済的でキャパシティの大きな同機を767の後継機として「最適」としている。

日本では全日空・日本航空・AIR DOが767を運用し、数十機が現役にある。

そろそろ引退の時期が迫って来てはいるものの、具体的な時期・引退その物はまだ決定しておらず、しばらくは現役に留まる見込み。

「セミワイドボディ」と言う、大き過ぎず小さ過ぎずと言う特異のサイズが日本では「大ウケ」し、アメリカの大手でも現役にあるが、ヨーロッパや東南アジアなどでは意外にも受けなかった。

ヨーロッパでは大量に運用したのはブリテッシュ・エアウェイズぐらいで、他は少数出の運用が多く、メジャーではかなり引退が進んでいる。

これは767の後継機種として「メイド・イン・ヨーロッパ」のエアバスA330があるからで、2000年代初頭まで日本線に767を投入していたSASやアリタリアは、早々にA330に切り替えているし、ルフトハンザやエール・フランスは90年代に少数をリースで短期間運用しただけで、A310/A330に切り替えている。

ロシアのアエロフロートも、ソ連解体直後はリース機で暫く767を主力機にしていたが、今は全て引退している。

アジアではさらに限定的で、日本の他は韓国のアシアナ航空、中国国際航空、台湾のエバー航空程度で、大手エアラインでも採用例は意外と少なかった。

中国国際航空とエバー航空は、既に767を引退させているので、日本以外ではアシアナ航空だけになっている。

この中でブリテッシュ・エアウェイズが30年近く767を運用したのは異例であり、同社にとって使いやすく慣れた機体だったと言える。

それ以前に同社はかつての「旅客機発祥地」のプライドがあるのか、エアバス機はあまり使わない事でも目立つエアライン。

今こそ短距離・国内線用にエアバス320シリーズを主力とし、neoシリーズも発注しているが、ワイドボディ機に関しては「A380」が唯一のエアバス機で、787・777を含め他は全てボーイング機に統一されている。

実は同社で最も特徴的なのは、B747旅客型の「最大オペレーター」であることだ。

747と言うと日本航空が「747SP」を除く、全タイプを使ったエアラインとして世界的に有名だが、運用数ではブリテッシュ・エアウェイズが世界最大の747ユーザーである。

日本では破たんした日本航空が11年に、全日空も15年に全ての747を引退させ、現在日本にある747は日本貨物航空のB747-400FとB747-8Fだけ。

「旅客型」と言う点では政府専用機の2機の747-400が唯一だが、後継機B777-300ERが既に到着し来年度747-400は引退する。

ブリテッシュ・エアウェイズは2000年代初頭に、747-400の後継機として「B747-8I」をほぼ決定し、30機以上の発注を予定していた。

ところが世の中は経済的は大型双発機全盛の時代を迎え、4発機は売れなくなっており、ボーイングは「747-8」についてエンジンは新開発の「GE-Nx」の身として、選択制を取りやめていた。

当初747-8は、イギリス製「ロールス・ロイス・トレント」も装着する予定であったが、世間の発注への反応は鈍く、ボーイングは国産エンジンのみの発売とした。

そのためブリテッシュ・エアウェイズは「不服」として、発注を取りやめ急きょ「A380」に変更したと言う経緯がある。

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     ↑現在最大のB747-400を運用するブリテッシュ・エアウェイズ(ウィキペディア英語版より)


イギリス人の「性」とでも言うのか、経済性が悪いとか流行とかではなく、半世紀に渡って熟成され信頼性の高い「747」こそ、フラッグシップ・・と言う「こだわり」があるのか、現時点で36機もの747-400を保有・運航する。

仕方なく導入したA380の方が、インパクトと言う点ではフラッグシップに相応しいはずだが、同社は380が永遠のライバル、フランス・ドイツ製と言うのか性能云々ではなく、気に入らないらしい。

そういう割には、747より効率に優れている777と787を増やしているのだが、777を747の「代替え」とは全く考えていないところが「イギリスらしい」と言えるのではないか。

同社では上級クラスを含め、機内サービスの変更などは747から行う事が多い。

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      ↑ブリテッシュ・エアウェイズのA380(ウィキペディア英語版より)

同社では来年からA350-900/1000の導入も始まり、B747-400については2024年頃までに退役させる予定を公表しているが、実際には流動的である。

イギリスはEUの脱退を決定し、先週EU側に正式に申し入れ・受理され、今後条件などの話し合いに入る予定だが、完全に脱退するにはなおも国内外出のハードルは高く、エアバス機を「武器」にされる可能性がある。

先に書いたように、エアバス社は本社がフランスにあり、企業国籍はフランス。現地法人として「ドイッチェ・エアバス」があるが、こちらはドイツの企業として登録されている。

A350だけでなく320シリーズは、EU脱退の話以前に発注してはいるものの、脱退手続きが上手くいかないとエアバス機自体が高騰させられる可能性があり、EU側が「圧力」をかけて引き渡しを先延ばしし、価格を上げて来る恐れがあるのである。

何より使いなれた広大なキャビンや、熟成された747の代わりになる機体はサービス上は380しかなく、運用上は747以外ない、と言うのがブリテッシュ・エアウェイズの「本音」であろう。

380の方がキャビンは遥かに広大だが、大きさの他重量が重く、乗り入れ空港に「制限」が多いと言う欠点がある。

380が思いのほか売り上げが伸びないのは、この点なのだ。

オール2階建てである以上、乗客の乗降にはメインデッキとアッパーデッキ両方にボーディングブリッジを用意する必要がある。

ターミナル側も「二階建て」機に合致した構造が必要であると同時に、重量が747より遥かに重いため、滑走路・誘導路・ランプの路面強化が必要なのだ。

どうしても380を「招致」したい空港ならともかく、380しかも外国の機体の為に多額の費用と手間をかけて380を受け入れる筋合いはなく、どうしてもと言う場合はエアライン側が改修費用を負担する事になる。

そうなると380の採算性が落ちるのは当然で、先進国の大空港以外就航出来ないと言うデメリットは今も解消されていない。

公害規制で4発機自体の就航が出来ない空港も増えたが、747ならば滑走路の長ささえあれば就航が可能である場合が殆どであること、アフリカ諸国など旧植民地には双方との人・物資の行き来が今も多いことから、座席数だけでなく貨物も多く搭載できる747は重宝されている。

特にアフリカ諸国への便は747が充当されることが多く、貨物積載量も重要視されている証である。

残念ながら787や777、A350などの機体では747を凌ぐ輸送量確保は難しく、それが36機も747を取っておく理由なのである。

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     ↑ブリテッシュ・エアウェイズのB747-400、ファーストクラスとRB211エンジン(ウィキペディア英語版より)


現在旅客型のB747-400は、どのくらい現役にあるのか調べてみると、ブリテッシュ・エアウェイズの36機は断トツ世界一。

だが合計163機ものB747-400が「旅客機」として現役にあることは、意外と言っては失礼だが驚きに値する。

生産数からすると半分以下の残存率ではあるが、この数字には一旦旅客機として退役した後、貨物機に改造された機体はカウントされていない。

一方貨物型の400は、新造した「400F」と旅客型からの改造機「400BCF」「400BCDF」などを含めると216機が現役にあり、「400」自体は約380機もが現役にあるのだ。

機数としては二桁のエアラインはさすがに少ないが、この夏の時点でブリテッシュ・エアウェイズの他、ドイツのルフトハンザが13機、オーストラリアのカンタス航空が10機、オランダのKLMが12機運用している。

残念ながらどのエアラインも遅くとも25年ごろに747を引退させると表明しているが、ルフトハンザは「747-8I」を導入したばかりだし、大韓航空や中国国際航空の様に「400」は退役したが、「8I」に切り替えたエアラインもある。

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     ↑季節運航で日本にも就航するルフトハンザのB747-400(ウィキペディア英語版より)


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     ↑世界で唯一B747-400「ER」を運航するカンタス航空(ウィキペディア英語版より)



KLMは持ち株会社の同門、エール・フランスが昨年同機の旅客型の運航を終了させており、20年前後には退役させる予定になっているが、貨物型は運航を続ける見込み。

日本では惜しくも運休してしまったヴァージン・アトランティック航空は、8機を運用中。

同社は日本線にも就航させていたA340-600も運航中で、「4発機」の好きなエアライン。

ブリテッシュ・エアウェイズやルフトハンザでは、いくらエンジンの信頼性が高くなっても、「4発機」の安全性と乗客の安心感は不変で絶対的・・と言う認識を持っているため、今後全機を双発機に変えるつもり自体がないのである。


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     ↑(2枚)現役のKLMオランダ航空とヴァージン・アトランティック航空(ウィキペディア英語版より)


面白いのはロシアで設立された「ロシア航空」で、現在9機のB747-400を運航するが、全て「元日本航空」の747であると言うこと。

実際には「トランスアエロ航空」が中古機として導入していたのだが、同社は倒産した為、ロシア政府が出資する「ロシア航空」が機体をそのまま引き継いだ。

半官半民のエアラインで、政府のVIP輸送などを行うが、ロシア国内線も運航しており、747は極東路線などの長距離便に充当されている。

中でも1機にはシベリアの保護動物「アムール虎」を描いた特別塗装が施され、ファンの人気が高い。


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     ↑恐らくは世界で最も派手な747-400、ロシア航空(ウィキペディア英語版より)


ロシア航空は747の運用を主力機の一つとしており、騒音や排ガスに対する4発機の規制を受けないロシア国内や周辺諸国には重要な戦力になっており、今後も程度の良い中古機を増強する話もあると言う。

このほかイスラエルのエルアル航空、インドネシアのガルーダ・インドネシア航空、インドのエア・インディアがまだ同機を保有している。

エルアルは787-9と交替の予定だが、僅か2機のガルーダと4基を保有するエア・インディアは具体的な退役計画は公表していない。

特にガルーダは777-300ERの導入に合わせた新塗装を747にも施しており、座席数の多い機体を残しておくつもりのようだ。

イスラム教徒の多い同国では「メッカ巡礼団」が利用する「ハッジ・フライト」があり、747は座席数が多いことが大きな戦力になるからだ。

エア・インディアはVIP輸送などにも使用するため、当面4機体制を維持すると思われる。

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     ↑最もセンスの良いデザインだと思う、エルアル航空のB747-400(ウィキペディア英語版より)


確かにデータとして777・787と言った最新鋭機には、効率と言う点で747は「時代遅れ」と採られるかもしれない。

しかし最近のエアラインは格安のLCCとフルサービスキャリアに二極化しつつあり、サービスは多様化の傾向にある。

最近ではWiFiなどを含めた、ネット館Kょうサービスなどが重視されているようだが、LCCでも同様。

フルサービスは座席や3クラス・4クラスと言った乗客の選択肢、食事のサービスなど出売り上げが大きく左右する時代である。

私はすぐとは言わないまでも、広大なキャビンを持つ「4発機」がいずれ見直される日が来るのでなないか・・・と考える。

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     ↑(2枚)新塗装のガルーダ・インドネシア航空と、エア・インディアのB747-400(ウィキペディア英語版より)



事実経済効率を理由にさっさと4発機を廃止した日本が、来年僅か5年で「4発機」が復活する。

既にご存じの方も多いだろうが、全日空が3機のA380を導入し、来年5月24日から東京~ホノルル線に就航を決定した。

380の投入に疑問を持つ向きもあるようだが、全日空は自身を持っており、広大なキャビンスペースで格安シートから上級クラスまで、1機であらゆるサービスを楽しめる可能性を託していると言う。

海外でも全日空の380は注目されており、リゾート路線と言う限定された運用をどう生かすのかと言うことだろう。

残念ながら747では「400」の生産は終了し「8」だけになっているが、旅客型の発注は初期だけで追加の受注はなく、貨物型だけが生産されている。

「間に合えば」と言う感じだが、全日空の380の使い方が成功すれば747を含めた4発機が見直される時代が来るのではないか、と言う気がしないでもない。

事実機数は確かに減ったものの、こうして747の運航を続けるエアラインは確実に存在しており、個体数も決して少なくはない。


サウジアラビアのフラッグキャリア・サウディアは王室専用機を含めて8機の旅客型「400」を運用しているし、面白いところではアイスランドのチャーターエアライン「エア・アトランタ・アイスランディック」が7機を保有する。

特に後者は機材と乗務員をウェットリースする事が多く、16年には伝説のヘビメタバンド「アイアン・メイデン」のワールドツアー専用機として長期間チャーターされ、機体も「アイアン・メイデン」とそうで世界中を飛んで大きな話題になった。

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     ↑「アイアン・メイデン」のツアーにチャーターされたエア・アトランタ・アイスランディックのB747-400(ウィキペディア英語版より)


日本ではほとんど知られていないが、UAEドバイが政府専用機として747-400を3機運用するほか、フランスのリゾート専門エアライン「コルスエール」が4機、スペインのチャーターエアライン「WAMOS AIR」が6機もの747-400を保有し、ヨーロッパでは比較的よく見かける747だと言う。

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     ↑コルス・エールとワモス・エアのB747-400(ウィキペディア英語版より)


マニアックなところでは08年に、アフリカ・ナイジェリアで設立された新興エアライン「マックス・エア」が747-400を1機導入している。

同国北部カノと言う都市をベースにするエアラインで、定期チャーター便を運航しており、主に国内を飛んでいるらしいが詳細は全く不明。

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     ↑(2枚)サウディアと、ナイジェリアのマックス・エアのB747-400(ウィキペディア英語版より)


画像が公開されていて、綺麗な機体だがいかにも中古機と言う感じの塗装で、旧オーナーは不明。

目下「最も新しい747-400ユーザー」でもある。

貨物型に比べると大手は双発機に変えることを表明したがるが、途上国のエアラインやチャーターエアラインは退役の予定は少ないと言うことも、747には捨てがたい魅力がまだ残されていると言うことではないだろうか。


747を1便飛ばすのと、787を2~3便飛ばすのとの違い。

機材を揃えられる大手ならば787と言うのだろうが、それは一種の押しつけではないか。

何時間も乗らなければならない長距離飛行に置いて、ただ経済性がいいという理由で狭い機内に詰め込まれる乗客は堪らない。

天井も高く広い747や380だからこそ・・というメリットが、大きく見直されるその日まで、細々ながらでも「旅客機」として乗客を運び続けて欲しいと思う。

戦闘機並みの大きな後退翼、流麗とも思えるアッパーデッキと長い胴体。

更に大きい「8」でもそれは受け継がれているが、4発機の持つ本来の能力を埋もれさせるにはまだ早い・・と思う。






夜は雲が出始めて来て、22時頃パラパラと小雨が。

濡れる、と言うほどではないがちょっと慌てた。

少し体調が良くないこともあって、早めに帰宅したが、風も吹いていて帰路の寒い事。

バスに乗れば良かったと思うが、月末は完全な「金欠」でバス代どころか食事代もままならない訳で。

収入のある数日後まで我慢しなければ・・・。

今日は11月29日「いいにく」で、「肉の日」だそうで。

あらら、肉どころか今夜の夕食は納豆だけです…誰か御馳走して下さい(笑)。

寒いからカロリー多めの食事は、必須の季節。

熱々の肉料理、いいですね。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

寒くはないですか?

変化の大きい天気が続きますが、気温差も大きいので体調管理には気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。





秋の雨に ぬれつつをれば 賤しけど 吾妹が屋戸し 思ほゆるかも(万葉集巻八 1573 大伴利上)

月命日/飛行機ネタ  遂に本音が・・・F-35増備?(11月28日 晴れ 17℃)

晩秋、初冬とは思えない穏やかで暖かい一日に、正直調子が狂う。

昨夜も冷え込みがなく、布団が何となく暑く感じるのか、寝付きが極端に悪かった。

最近乾燥アレルギーが顕著で、寝ようとすると待っていたかのように身体が痒くなり、我慢すれば良いのだろうが、つい…掻き始めるともう止まらず、あちこちが傷だらけ。

不思議な事に、一定時間を過ぎるとピタッと止まり、日中起きている間は気にならないのだ。

ベタベタする塗り薬はあまり好きではないし、飲み薬は高価。皮膚科に行くのは面倒な上、やはり治療費は高くつく。

今に始まった事でないので、慣れていると言えばそうだが、今年は痒みの範囲が広くなった気がする。

しかも痒みが始まると、部分ごと順に痒くなる気がする。

肌に当たる繊維、食べ物、様々な原因があるのだろうが、さっぱりだ。

しかも毎晩必ず痒くなる訳ではないから、布団や毛布の繊維アレルギーではなさそうだし、寝る前から痒くなる事も。

夏場は殆ど気にならなかったから、乾燥アレルギーなのだと思う。



飛行機ネタ。

政府は新しい「防衛大綱」を発表し、今年から配備が始まったステルス戦闘機「F-35A ライトニングⅡ」について、近い将来100機程度の「追加」を盛り込んだ。

現在航空自衛隊は老朽化した「F-4EJ改ファントム」の後継機として、2個飛行隊分42機の導入を決定。

今年から「臨時飛行隊」が開設され、機数が揃い次第正規の飛行隊に昇格、実戦配備となる。

これでギリギリ延命して使って来たF-4EJ改ファントムを、ようやく更新する事が出来るが、追い討ちをかける事項がある。

現在航空自衛隊の主力戦闘機は約210機を保有する「F-15Jイーグル」戦闘機だが、配備されて間もなく40年を迎える。

初期の機体は既に引退しているが、現役機でも半分弱の機体が製造されて30年近い。

まだ機体寿命はあるものの、限界は見え始めている。

航空自衛隊では新しい機体に対して、電子装備や機体の延命工事を続いているが、機齢の高い機体は改修費用をかけられないため、長くとも10年以内にF-15Jの勢力は減退する。

更に2030年頃には、支援戦闘機「F-2」の耐用年数に達する。

こうした将来を見込み、「防衛大綱」では退役する初期のF-15JやF-2の代替えとして、「F-35A」の増備を考えていると言う事だ。

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        ↑航空自衛隊に配備されたF-35A(航空自衛隊提供)

また海上自衛隊が保有するヘリコプター搭載護衛艦「いずも」級に関して、ついに「空母化」する計画が明文化され、搭載機にV/STOL型の「F-35B」の導入も盛り込まれた。

「防衛大綱」はあくまで「方針」の一環なので、決定事項ではない。

だが安倍政権の憲法解釈を巡る改正案がほぼ確定しつつある事が、大綱発表のタイミングだったようだ。

繰り返しになるが、防衛省が国防の将来性を分析し「このぐらいが望ましい」と考えている事であり、イコール決定では決してない。

この辺メディアの報道は、頭の悪さと左派的偏りがあると、いかにも国民が知らず知らずのうちに「決定事項」になったような印象を与えている。

予算や国会の審議が通過すれば、そうなる可能性は高いが、それが一番高いハードルであり、防衛省もよくわかっていての「大綱」だ。

私は「いずも」級護衛艦を見て、一目で将来的に「空母」に改修するなとわかった。

現在は建て前上「ヘリコプター搭載護衛艦」となっているが、甲板の構造が「空母化」しやすい形状になっているからだ。

Fー35Bならばカタパルトはいらないから、艦首には「スキージャンプ台」と呼ばれる傾斜がつけられるだろうし、甲板の強化も容易に行える構造になっているはずである。

将来を見据えた準備工事こそ、日本人の最も得意分野。

どうなるかわからないが、いつかゴーサインが出ても大丈夫なように作ってある事は間違いない。

「大綱」なので、必ずその通りになるとは限らないが、安倍政権が長期政権になることや中国・韓国との関係を鑑みての大綱であろう。

F-35はアメリカ、ロッキード・マーティン社が開発したステルス機で、戦闘機と言うより「マルチロールファイター」と言う、攻撃機や偵察機など多様な任務を遂行できる機体として開発された。

NATO諸国を含め、機材更新を予定していた同盟国は費用や部品の生産などを分担することで安く。優先的に輸入できる権利を持ち、旅客機開発の様な手法を初めて採った戦闘機でもある。

日本は「戦闘機」に特化した「F-22Aラプター」が欲しかったため、このジョイントベンチャーには参加していない。

しかしオバマ前政権は「F-22A」の生産中止と輸出禁止を行い、日本の「次期戦闘機」計画はとん挫。

急きょF-35に切り替えた、と言う経緯がある。

このためF-4EJ改を延命工事で運用しており、F-35は一種の「妥協」の産物でもある。

国際情勢の変化で、既存の機体より最新鋭の「ステルス機」がどうしても欲しい・・と言う思惑も強く作用している。

日本は長い海岸線と広範囲の海上領域を持つため、専守防衛思想からしても「要撃機」は航続距離が長く、万が一のための「双発機」であることが望ましいとしてきた。

だがエンジンの信頼性が向上したことや、空中給油能力を持ったことから単発のF-2が採用されている。

最も同機は「支援戦闘機」の位置付けなので、単発機でも構わないと言う見方もあり、この辺は微妙な解釈だと言う事だ。

F-35Aはコンパクトで運動性も優れており、エンジンは「ラプター」のエンジンを改良した「P&W F135」ターボファンエンジンは単座機に搭載するエンジンとしては最強のパワーを持ち、アフターバーナーを使わずとも超音速飛行が出来る「スーパークルーズ」能力を持つ。

空自にとっては創設以来初の「スーパークルーズ」機であり、要撃機・支援戦闘機として現場へ急行できる時間を短縮できる。

F-35は通常型の「A」型と、V/STOLの「B」型、空母艦載機の「C」型があり、いずれも飛行性能に差はほとんどないと言われる。

ただしV/STOL機のB型は、垂直離着陸をするための「リフトファン」と可変ノズル装置があるため、武器搭載量と燃料搭載量が少なくなっている。

B型はアメリカ海兵隊が「AV-8ハリアー」の後継機として開発したもので、攻撃機としての運用が中心。

空母より小型でカタパルトのない「強襲揚陸艦」で運用され、既に実戦配備が始まっている。

またイギリス海軍は、当初半世紀ぶりの新造空母「クイーン・エリザベスⅡ」用に「C」型を採用する事にしていたが、予算の削減と空母の仕様変更に迫られ「B」型に変更。

昨年竣工した同艦と共に導入・配備され、現在試験運用中だ。

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     ↑強襲揚陸艦に着艦するアメリカ海兵隊のF-35B(アメリカ海兵隊提供)


今年はイタリア海軍にも納入されており、同海軍も「ハリアー」の後継機として空母での運用を予定している。


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     ↑イギリス海軍とイタリア海軍(下)のF-35B(ウィキペディア英語版より)


F-35Bはコクピット後方に「リフトファン」を持ち、エンジンとロッドで繋がっている。

離着陸の時にはファンのカバーが開けられ、尾部のエンジンノズルが最大92度まで折れ曲がって下方に向く。

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       ↑(2枚)F-35BのV/STOLのシークエンス(ウィキペディアより)


「ハリアー」はV/STOL専用機で、陸上基地で通常の離着陸(CTOL)が出来なかったが、F-35Bは各型とも脚が共通のため、CTOL運用が可能。

実用化されたV/STOL機では、世界で初めてCTOL運用が出来る機体である。

リフトファンや可変ノズルの影響で、航続距離はA型の75%程度、武器搭載量は80%程度とハンデを背負うが、陸上基地から運用し、上空で空中給油すればある程度のハンデは克服できる。

防衛省では中国・ロシアの海洋進出を重要な国防上の脅威と捉えており、特に沖縄を含む本土から離れた島嶼防衛に関し、抜本的な見直しと戦力増強を続けている。

一昨年陸上自衛隊に初めて「強襲揚陸部隊」が創設され、万が一島嶼の主権を侵された場合に上陸作戦による奪取作戦が想定されている。

間もなく配備となる「V-22オスプレイ」も、災害救援の他遠隔地へ多くの物資・武器・人員を迅速に輸送できる機材として導入される。

「オスプレイ」に関しては、いろいろ問題があると言われるが、自衛隊は3組織とも導入の予定だと言うことを、国民のどれだけが認知して米軍のオスプレイを「悪者扱い」するのか、と思う。


冷戦後日本の取り巻く国際状況は大きく変化しており、日米同盟に頼るだけでは済まされないだけでなく、いざ有事となれば自国の防衛は必須であると言うことを国民は認識すべきであろう。

「ヘリ護衛艦いずも」級も、現在は「建前」として大型ヘリコプターを搭載・運用できる「護衛艦」となっているが、アメリカを含め、海外では「事実上の空母」と言う認識を持っている。

F-35Bを運用するには改修が必要だが、先に書いたようにそこは日本人の知恵。

公表されていない「隠し技」が盛り込まれているはずで、いつでも最短距離で「空母」化できるよう設計されているはずである。

「オスプレイ」が実戦配備されると、まず「いずも」級と「ひゅうが」級ヘリ護衛艦に搭載される予定だが、既に島嶼防衛の意図が見て取れる。

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           ↑ヘリ護衛艦「いずも」(海上自衛隊提供)

F-35Bがこれらの「空母」に搭載されれば、島嶼防衛は堅固なものとなるだけでなく、日本の防衛ラインは北東アジア地区では最強のものとなりうる。

冷戦後、「紛争」と言う点で日本を含む北道アジアは最も不安定だと言われており、中国・ロシアの他、なおも核問題が絡む北朝鮮、中国と対抗する台湾、フィリピンやベトナムなど東南アジア諸国を巻き込んでいる南シナ海問題など、諸国の思惑が交差し、ある意味「一触即発」状態にある。

友好関係にある韓国・中国・台湾は、日本との軋轢も併せ持っており「友好関係」に甘んじていると、とんでもない「裏切り」に遭う可能性は否定できない。

確たる平和と防衛思想を持つ日本ならではの「姿勢」を、今後はっきりとさせるべきで、諸外国の「軍拡脅威だ」などの批判を気にする時代は終わったと思う。

空母と言っても、アメリカのそれと比べれば1/5しかない小型空母であり、攻撃・進攻型ではない。

空自向けのF-35Aは、必ず追加になるなとは思っていたが、F-35Bの導入が一気に具体性を帯びたことになる。

ただ導入されたとして運用はどうするのか、という問題もある。

即ち現在の海上自衛隊には、ジェット戦闘機は1機もない。

同様にパイロット・整備士も一人もいないことになり、導入となれば教育など一からの準備が必要であり、莫大な予算と費用がかかる。

空自にB型はないが、基本は同じ機体のためパイロットの移行訓練はたやすく、パイロットや整備士は空自から派遣・・という形が理想的だろう。

防衛省は3隊の共同運用化も促進しているため、F-35Bが現実化すれば当面は空自と海自の共同運用となるだろう。

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     ↑垂直着陸態勢のF-35B。前脚の直後にリフトファンがある(アメリカ海兵隊提供)


イタリアでは空軍がA型を導入するほか、空母「ジュゼッペ・ガリバルティ」を運用する海軍がF-35Bを採用したが、空軍もB型を採用している。

これは乗員の相互運用を可能とするための措置で、海軍・空軍双方のパイロットは通常型のA型とV/STOLのB型、両方のライセンスを持つことになっている。


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     ↑イタリア海軍の空母「ジュゼッペ・ガリバルティ」(ウィキペディアより)


イギリスは新型空母に搭載する海軍の他、やはりハリアーを運用していた空軍がF-35Bを導入する。

現状ではB型を発注する唯一の「空軍」で、海軍との共通性も視野に入れた結果である。

日本も当然イギリスやイタリアの運用を参考にすることになるだろう。

今のところB型を採用しているのはアメリカ海兵隊、イギリス空軍・海軍、イタリア空軍・海軍で、2タイプ以上を保有するのはアメリカとイタリアだけだ。

イタリアだけでなくA型を導入したオランダ・ノルウェー・オーストラリア・イスラエルも、まだ機数は揃っておらず、試験運用中。

実戦部隊を持つのはアメリカ空軍と海兵隊だけで、開発が大幅に遅延している艦載機「C」型はアメリカ海軍で試験中である。

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     ↑(3枚)アメリカ空軍、ノルウェー空軍、オランダ空軍のF-35A(ウィキペディア英語版より)


F-35を見ていると、ステルス機だから・・と言うことを差し引いてもファンとしては見栄えのしない面白くない機種だと思う。

旅客機程とは言わないけれど、軍用機の塗装やマーキングは各国の事情や特徴が見て取れるところが面白いのだが、F-35にはそれが一切ない。

今後予定も含めると20カ国以上が採用する同機だが、全て塗装は「均一」なのである。

これはステルス機として、機体の表面の塗料も「テフロン・フェライト」の一種であるため、他の塗料が塗れないためだ。

最もステルス能力以外の能力も、同機は高いものがあるので敢えて「捨てる」つもりであれば、オリジナル塗装も可能だろうが、今のところ各国とも均一である。

加えて国籍マークや尾翼の舞台マークも「モノトーン」化させているため、よく見ないとどこの機体かすらわからないのだ。

写真や模型を並べても、全く見栄えしない機体は珍しいくらいだ。

唯一形状の異なるB型が目立つ程度で、艦載機の「C」型も、主翼が大きいことぐらいでA型と外観は見分けにくい。

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          ↑アメリカ海軍のF-35C(アメリカ海軍提供)


しかしタイプの違うF-35を運用するのは、上記の様にアメリカ本国とイタリアだけで、ひょっとすると日本が加わることになる。

大綱では空自用のA型を100機以上・・と明記し、B型は「別枠」なので、将来日本はF-35A/Bを200機前後保有する「ステルス大国」になるかもしれない。

現在アメリカ以外では、イスラエルが200機以上の同機を導入予定だが、それに次ぐ保有国になる日が近い将来やって来るかも知れない。




夜、冷たい北風が吹いていた。

それほど気温は下がっていないはずだが、間断なく吹いている。

駅から我が家へは、ほぼ北から北西の道筋で、家に着くまでの間ずっと向かい風に逆らいながら歩かなければならず、秋物の上着では寒くて仕方ない。

冬物に変えても良いかと思うが、長期予報では来週以降も気温は高め傾向で、暖かい12月になると言う。

最近歳のせいか、寒さが身体に堪えるようになり、これが結構辛かったりする。



今日は28日。

母の「月命日」、あの日から1年8カ月目を迎えた。

ようやく一人に慣れて来たように思うが、ふと耐えがたい孤独感と罪悪感に襲われる。

今もって母の死は受け入れられず、ある意味実感が湧かない。

遺骨はまだ手元にある。

いろいろ事情があって納骨していないのだけど、それ以上に私が離れたくないと言う感情がある。

母には、毎日仏壇を通して遺骨の事を聞いている。

どうしてもお墓など静かな所に置いて欲しいと言うなら、「直接」私に伝えてくれと。

母はよく夢で逢っているが、これまでそのことを言ったり、そうして欲しいと言う様子を見せたことがないので、しばらくは傍にいてもらうつもりだ。

同時に母が永遠にいなくなったと思うより、親不孝過ぎる息子を見限ってどこか遠くへ「家出」してしまった・・・と思うようにもなった。

今も家の中で母の「定位置」は、あの日のまま母の持ち物を置いてあるし、着替えも母が使っていた通りに服を重ねて置いてある。

時々埃を払い、月に一度洗濯している。

早く帰ってくりゃあ良いのに・・と思うと、本当に私のことなど忘れてどこかでのんきに過ごしているような気がするのだ。

いずれ遠からず「あの世」で再び親子で暮らすことになるだろうから、その日まで母は家出したものと思って悲しさを押し込んでいる。

あと1カ月少々、私は産まれて初めて丸ごと「1年」を一人で過ごしたことになるが、その日自体は迎えられるだろうか・・・。


元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

いい天気で、君は空を仰いだ事だと思います。

間もなくカレンダーでは冬を迎えますが、今年はちょっと長い秋になりそうです。

君は母のことを覚えているでしょうか?

もう10年近い前のことですから、顔も忘れてしまったかも知れません。

私のことはともかく、時々で良いので母のことを思い出してあげて下さい。

母は君の事が大好きでしたので。

気温差が大きく、風が冷たいので暖かく過ごし、体調管理には気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



もみち葉の 過ぎまく惜しみ 思ふどち 遊ぶ今夜は 明けずもあらぬか(万葉集巻八 1591 大伴宿禰家持)


飛行機ネタ アルキア航空A321neoLRデビュー(11月27日 晴れ 17℃)

朝から青空。思わずどこかに行きたくなるね。

南風の影響で、気温も少し上がり、連休中の寒さがウソみたい。

時間とやる気があれば、洗濯と布団干しをやりたいものだ。

私はやりませんけど(笑)。

暖かいのは今日までだが、今後寒くなる訳でもなく、平年並みが続きそうだ。

若干体調不良もあり、身体の自由が効かないのが惜しく、今年も秋を体感する事は僅かに終わりそう。

最も今年は大雨や強風がないため、落葉が少なく、毎年お馴染みの落ち葉の絨毯はあまり見かけない。

今後もしばらく強風を伴う強い冬型気圧配置はないらしいから、仙台では珍しく12月になっても紅葉が見られそうだ。

九州や四国で20℃を超えた所もあったそうだ。

考えたら週末はもう12月。時と季節の流れは恐ろしく早い。

気まぐれに今日のように暖かくなったりすると、調子が狂うと言わざるを得ない。

空気も乾燥しているので、風邪などの体調管理には配慮が必要だ。






飛行機ネタ。

日本のLCC「ジェットスター・ジャパン」が、記者会見を開き、エアバス社に「A321neoLR」を3機発注。

東南アジア方面を視野に、中距離国際線拡大の計画を発表した。

現在同社は24機のA320を運航し、今後20機の同機を発注しているが、「A321neoLR」がオプションとしてこの発注数に含まれているのか、新たに発注したのかについては公表しなかった。

同社によるとA321の納入は20年夏ごろの予定で、新規の中距離国際線の他、国内線の幹線に投入し輸送力増強を図るとともに、それで余裕の出来る320を使って国内線の拡充も計画していると言う。

特に同社にとって空白地域になっている東北や、新千歳空港以外の北海道内路線などを例として挙げており、現在成田~庄内線(山形県)の開設を検討中であることも、具体例として挙げた。

同社は日本のLCC としては、最大の旅客輸送人員を誇るが、羽田空港には就航しておらず、関西空港では本拠地とする「ピーチ」の方がシェアが強い。

成田発近距離国際線のLCCとしては、ピーチより輸送量は多いが、国内線ではピーチに対し苦戦している。

A321neoLRは、この夏ピーチが導入・発注を公表しており、ジェットスターも追随する形になった。

現在日本のLCCはジェットスター・ジャパンとピーチ、バニラ・エア、春秋航空日本、エア・アジア・ジャパンが運航するが、バニラ・エアは来年ピーチに統合される予定であることと、後者2社は路線数自体伸ばせず苦戦中であることから、今後日本航空が出資するジェットスター・ジャパンと全日空が出資するピーチの「2大巨頭」体制になると思われる。

ただ日本航空が数年以内に中距離国際線を中心とした子会社のLCC設立計画があり、そうなるとジェットスター・ジャパンの持ち株率を同動かすかが焦点となりそうだ。

今月になって日本発着の海外LCCのうち、シンガポールの「スクート」やエア・アジアX・インドネシアが来年初めまでに日本発着の中距離路線の運休を表明しており、19年から20年にかけて日本のLCC事情は大きく様変わりする可能性が出て来た。

ジェットスター・ジャパンとピーチが導入を表明した「A321neoLR」は、16年に初号機が完成・初飛行したばかりの、エアバス社では先日デビューした「A330neo」と並んで、最新鋭・新商品の機体。

エアバス社は大ヒット中のナローボディ機320シリーズを、「neo」シリーズと名付けて発展型を計画している。

全く新型機にしなかったのは、既に数千機と言う従来型320シリーズが世界中を飛んでおり、そのまま機材更新であることが重要である事と、ナローボディ機の技術そのものが現在臨界点に達していることが挙げられよう。

ライバルのボーイングも、「737MAX」としてマイナーチェンジ型の進化に留めているのも、そうした事情がある。

ならば787やA350の様に、複合材を使った軽量機と考えられるが、今複合材は高価であり、320程度の機体としては製造コストが高く、最大重量100トン以下の小型機に複合材による軽量化はメリットがないのである。

何より機体価格が高くなり、エアラインとして200席以下で採算を取るのは難しい。

それこそ低価格を標榜するLCCにとってはもっとメリットがなく、複合材自体が安価になるまで、丸ごとの新型機は作られないであろう。

むしろ機体の一部を複合材に変更し、燃費を改善した方が手っ取り早く、320neoシリーズ・737MAXとも機体の主な構造材は従来通りのアルミ合金である。

320neoシリーズの最大の変更点はエンジンにあり、より大口径ファンを持つターボファンエンジンに変更し、従来型より15%~20%の低燃費を実現する。

エンジンは2択で、アメリカP&W社の「PW1100G」とフランスに本社を置くCFMインターナショナル社製の「LEAP-1」エンジン。

前者は「ギアード・ターボファン」エンジンで、前面の推進ファンの付け根に「減速ギア」を取り付け、高度・速度に最適な回転数を与えると言うもの。

後者は通常のターボファンエンジンだが、ファンやタービンブレードを「3D」方式で製造し、材質をこれまでにない新しい金属材料を用いることで、破損しやすい部品の耐久性を高めたことの軽量化に成功した。

従来型エンジンに比べての燃費は両社とも同じくらいで、選択はエアラインの「好み」による部分が大きい。

ただし「低公害」と言う点では、回転を低く抑えられる「PW1100G」エンジンの方が、わずかに低いと言われるが、ほぼ同性能と思われる。

日本では全日空がA320・321neoを導入しているが、PW1100Gエンジンを選択している。

neoシリーズは320一連の機体に施されることになったが、唯一最小モデルだった「A318」だけneo化は見送られた。

318は100席級、エアバス社では最小の機体だったが、90年代の発売以来60機程度しか売れず、エアバス社は事実上「生産中止」としており、319・320・321がneo化される。

現在までneoシリーズだけで4,000機以上の受注を受けているが、9割以上が基本型の320。

これはエアラインの受注意向を鑑みての生産だからだ。

321neoは15年に数社が受注の意向を示したためローンチ。現在は約220機の受注を集めている。

なお最小モデルとなる「319neo」はまだ受注がなく、生産は行われていない。

321は通常型となる「ceo」と胴体は同じで、標準座席数は200~220席。

標準航続距離は6,500キロ程度だが、エアバス社ではボーイング757の代替え機として321neoに着目し、中央胴体部分に燃料タンクを増設した長距離型「LR」(Long Range」型を計画した。

これにより航続距離は約7,500キロとなり、ナローボディ機としては757以来最大の航続距離を持つ機体となった。

757はセミワイドボディ機767のナローボディ機版で、前後の規模は同じため航続距離が長いことで多くのエアラインで採用された。

日本での採用はなかったが、機内の広さにこだわらない海外では、ナローボディの長距離機を歓迎し、大西洋横断路線などに大量に投入された。

しかし2000年代に生産が中止され、以後ボーイングは後継機種を作らなかった。

2クラスで200席前後、大西洋を横断できるパフォーマンスは今なおエアラインには魅力的な機体で、年々老朽化が進む中代替え機種がないため、現在も数百機が現役にある。

従来の321は長距離運航を考慮していないため、757と似ているのは座席数だけだったが、エアライン側から航続距離の延伸が求められており、エアバス社は「LR」を「757の後継機種に出来る」としている。

先日A321neoLRの初号機が、イスラエルの「アルキア航空」に納入され、話題を呼んだ。

同時にポルトガルのフラッグキャリアの「TAPポルトガル航空」に、A330neo納入。

neoシリーズの本格的始動が始まった。

エアバス社では321neoに対し、長距離飛行に適するよう機内も改良が加えられ、ギャレーとトイレのコンポーネントを改良して、座席数を減らさずミールサービスの対応が出来るようにしたり、大きなインテリアの変更が行われている。


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     ↑世界初のA321neoLRを就航させたアルキア航空(ウィキペディア英語版より)


アルキア航空は50年設立された、イスラエルではフラッグキャリア「エルアル航空」に次いで古いエアライン。

当初はイギリスから買い集めた中古の「ドラゴン・ラピード」などを使って、国内線を運航した。

主にチャーター便を運航するエアラインとして現在まで存続して来たが、近年はヨーロッパ・中東諸国を中心に定期運行を拡大し、国内3都市のほか海外22都市に就航している。

フリート数は7機と小所帯だが、輸送量でもエルアル航空に次ぐ。

最大の機体はB757-300で、最近まで2機保有していたが、現在は1機だけ。

このほかエンブラエルE190と195を、それぞれ2機・3機保有している。

321neoも今後5機導入予定で、B787-9も発注しており、北米線の開設を予定している。

同社は10年ころから機材の更新を開始しており、現在保有する7機のうち、塗装は3種類存在する。

最も古いのが757だが、数年前に導入されたEシリーズで新しい塗装に変更したと思いきや、今回の321neoは全く違う塗装で納入され、正直どれが正式の塗装なのか不明だ。

マゼンダを中心とした非常にカラフルな塗装で、「ARKIA」の文字も一緒にデザイン化された優れ物。

明るく楽しい塗装で、LCC当たりが喜んで使いそうな塗装だが、同社はフルサービスキャリアである。

321neo初号機だけの「特別塗装」とも考えられるが、757の引退が予定されているのでこれが「正式」になるかもしれない。


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     ↑(2枚)7機しかないのに3種類と塗装。E195とB757-300(ウィキペディア英語版より)


アルキア航空と言えば、2002年11月28日、ちょうど16年前の事。

上に挙げたB757-300で運航されたチャーター便の582便が、ケニヤ・モンバサ空港を離陸した直後、空港の外から何者かが発射した空対空ミサイルの攻撃を受けると言う事件が発生した。

画像の機体がその当事者でもあるのだが、582便はイスラエルからケニヤ観光に来ていた旅行会社の団体ツアーであった。

イスラエルでは「ハヌカ祭り」の休暇シーズンで、582便はチャーター便ではあったが、テルアビブとモンバサ間を往復する「定期チャーター便」でもあった。

582便は着陸直後、ナイロビの管制に「ミサイル攻撃を受けた」と緊急連絡するとともに、機体に損傷はないとして機長は予定通りそのままテルアビブに向かう旨を伝え、ケニア政府は緊急にイスラエルに連絡した。

同機が攻撃された時と同時刻、モンバサ市内のホテルで爆弾テロが発生していた。

このホテルには前日アルキア航空581便で来ていたイスラエル人観光客60人が宿泊していて、このうち3人を含む13人が死亡、80人が怪我をするというテロ事件が起こっていた。

同時多発テロで、複数犯による組織的テロであることが分かったのである。

それを知って、582便はモンバサやナイロビに敢えて戻ろうとしなかったのは正解であった。

その後イスラム過激派武装組織が犯行声明を出し、582便に関してはミサイル攻撃が失敗した場合、空港に引き返したら再度攻撃する計画が会ったことも、ほのめかしていたからだ。

ミサイル攻撃はモンバサ空港から2キロほど離れたサバンナの中から発射されたと思われ、周辺を調べた地元警察が2基の旧ソ連製携帯空対空ミサイル「SA-7」のランチャーを発見している。

ミサイルは兵士一人で発射可能な小型ミサイルで、目標の追尾は単純な赤外線追尾式で、射程も最大5キロ程度。

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     ↑SA-7(正式名9K32)ミサイルの本体とランチャー(ウィキペディアより)


ミサイル本体は約1.5メートル、弾頭には約1.2キロの炸薬弾を持つ。

パイロットの夜と、離陸直後地上から花火の様なものを発見し、回避機動を行ったところミサイルは機体の下方を通過し、その後自爆した言う。

ところが攻撃された時、582便からやはり「花火」の様なものが複数まき散らせていた・・という複数の目撃情報が寄せられたのである。

これは軍用機が装備するミサイル回避装置の一つ「フレア」と呼ばれるもので、基本はまさに「花火」と同じ。

赤外線追尾式ミサイルは、目標の熱源を探知・追尾するが、飛行機の場合絶対に隠せないのがエンジンの熱である。

そのため狙われると「囮」の熱源を複数空中に撒き散らし、ミサイルをかく乱させるのだ。

規模にもよるが、通常フレアは数十センチ平方の板状のカセットに50~100個程度のフレアを収納する。

フレア自体はタバコの箱ぐらいの大きさで、発火すると数千度の熱が最大30秒程度続く。

そのためタイミングを見計らいながら、順番に散布するようになっている。

目撃情報から、アルキア航空の757にはこの「フレア」が装備されていた、と推測できるのである。

それだけではない。

先にのべたように、フレアを効果的に使うにはタイミングが重要で、パイロットが発射の瞬間から発見し、フレアを作動させるのは事実上不可能である。

軍用機にはたいてい「赤外線探知レーダー・警告器」はついており、即ち敵がミサイルを照準すると、その電波を感知して警報を発する。

これによって自機が「狙われて」いることを知り、回避行動とフレアなどを使用するのが手順である。

なのでアルキア航空機にはフレアの他、ミサイル警報装置も搭載されていたことが想像できるのである。

空港から僅か2キロ地点と言うことは、582便はまだ上昇中で、高度も数百メートルしかなかったはずである。

速度も加速中であり、パイロットの証言の様に「花火」を発見して回避機動した、と言うのは大いに疑問なのだ。

犯人は582便の離陸は知っているから、最初から狙いを定め、充分射程に入ってから発射したはずである。

同時に582便も飛び上がった瞬間から警報装置が鳴っていた可能性があり、上昇を停止してフレアを巻き、空千階などの回避行動を取ったとしか考えられない。

装置の他、すぐにミサイル攻撃だと理解するパイロットも相当な物で、「経験者」でなければとっさの判断は出来まい。

イスラエルのエアラインのパイロットは、空軍を中心に軍出身者が多く、同国の事情から「実戦」を経験している者が多いことで知られる。

非公式には「出向」と言う形で、現役の空軍パイロットもエルアル航空も含め多いと言われている。

イスラエルは国情で、国民のテロからの保護は徹底しており、582便はその後順調に飛行し、約5時間後テルアビブの「ベン・グリオン国際空港」に到着したが、途中イスラエル空軍のF-15が急行。

582便を出迎え、テルアビブまで「護衛」した。

結果として無事だったにもかかわらず、万が一を想定して戦闘機を護衛に向かわせるなど、「半端ねえ」ではないか。

旅客機の防衛装置に関して、イスラエル政府は「ノーコメント」。否定も肯定もしないという立場を貫いた。

細かいことを言えば「フレア」は武器ではないにせよ、発火すると言う「危険物」に当たり、仮に日本の航空法では民間機としての搭載は認められない。

「武装」と言う点でも解釈の違いで、応戦出来ずとも「自衛」できるので「武装」と解釈される場合もあり、微妙な問題である。

最も装置は取り外しが可能であり、日本にチャーター便で飛来する場合はミサイル攻撃の可能性はほぼ0である。

実際90年代には現在は退役したが、B757-200でチャーター便として何度か日本に飛来している。

某健康食品メーカーが、社員の研修旅行を兼ねてアルキア航空でイスラエル旅行を実施したことはCMで流された。

恐らく情報収集で分析し、就航先によって取り付けたり外したりしているものと思われる。

今後納入されたばかりのA321neoLRにも、同様の装置が装備されるのだろうか。

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      ↑フレアを放出するアメリカ海兵隊のCH-46(アメリカ海兵隊提供)

新型機、そしてカラフルで楽しい塗装のアルキア航空の新型機A321neoLR。

イスラエル国民には「公然の秘密」の様だが、我々外国人には理解しがたい同国の事情が見える。

恐らくこの機体にも装置が取り付けられていることは間違いなさそうで、それを582便の様に実際に使われない事を祈るのみだ。

話が大きくそれてしまったけれど、A321neoLRが就航したことは大きい。

実は321neoはエンジンの生産遅延が災いして、納入が遅れ気味であった。

通常型の321neoは既に70機前後がエアラインに納入されているが、LRのデビューは今後LCCだけでなくメジャーキャリアもその実績に注目するだろう。

7,500キロと言う航続距離は、日本からだとオーストラリアも範疇に入ることになり、10時間近いフライトが可能である。

今回発注したジェットスター・ジャパンは、具体的な新規路線は述べていないが、本社のあるオーストラリア方面への展開も考えているのかもしれない。

長距離運航に関し、ビジネスクラスなどの2クラス制での運航に関しては明言を避けたが、高密度使用2290席で10時間は非現実的。

ピーチもそうだが、A321neoLRの日本デビューは、我が国最初の2クラスLCCとなる可能性が高いと思う。

同時に現在の様なサービスはすべて有料などの方式も、変化が表れてくるのではないか。

同じ距離・同数座席では、757より運航経費は25%低くなると言うので、導入するエアラインは増えることだろう。

離陸重量の調整によっては日本~ハワイ間にも投入できる可能性があり、このぐらいの区間はナローボディ機、と言う「革命」を起こすことになるかも知れない。




今夜も寒さはいくらか和らいでおり、空を見ると月が雲に隠れては消え、を繰り返す。

明日は雲の多い空になるようで、日中の気温は平年並みかそれ以下になりそうだ。

12月は、「らしくない」穏やかで暖かいスタートになると言う。

北海道や北東北は寒気の影響で雪が降りやすいそうだが、「積もらない雪」が多く、平野部では雨と雪が交じる空模様になりそう。

間もなく「秋」は終了。

カレンダー上では名実ともに「冬」を迎える一週間。

出来れば寒いのは仕方ないとして、雪は少ない冬であって欲しい。





元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

寒くはないですか?

気温差が大きくなりそうですので、体調管理には気をつけて下さい。

最近「あの」マンガをふと読み返し、大いに参考にしています。

教えてくれたのは君でしたね、覚えていますか?

君は今も奈良と、その歴史に興味があるのか・・と思います。

私は君のおかげで「自称研究家」(笑)になりましたし、奈良への移住も考え始めています。

すぐの実現は難しいでしょうが、君と奈良の事をたくさん話したいなあ、と漫画を読み返しつつ思っています。

明日は少し気温が引きくなりそうですので、暖かくして過ごして下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。




一日こそ 人も待ちよき 長き日を かく待たゆれば ありかつましじ(万葉集巻四 484 磐乃媛皇后)



鉄道ネタ 憧れだったブルートレイン24系(11月26日 晴れ 15℃)

連休明け、ちょっと皮肉に思えるのは今朝の冷え込みがなかった事。

日中もよく晴れて、気温は平年並みに戻った。

気圧配置の影響で南風が入り、明日にかけて続くそう。

明日など日中の最高気温は16℃が予想されており、悪くはないが気紛れな天気になりそう。

連休の寒さは冬への予行演習か、それともそれっきり?

いやいや、それはないだろうと思うが、今度の冬は如何なるものか気になる所。

今年は灯油価格が高騰し、宅配灯油価格は平均で1900円台だと言う。

ちょっとびっくりだ。私は灯油を使わない生活なので関係ないのだけど、いつの間にかこんなに高くなっているとは。

単純計算で、リッター当たり100円はかなりの高さ。

ガソリンも知らぬ間にリッター当たり160円台だそうだから、この冬の家計を圧迫しそう。

産油国の情勢は比較的安定しているはずだが、好景気が原因なのか?

それにしても18リッターで約2000円は高過ぎ。

そうなるとエアコンや電気ヒーターに切り替える家庭が増え、今度は電力需要に問題が出ると困る。

北海道電力は、本格的な冬の訪れを前に「節電」を公式に呼びかけている。

9月の「北海道胆振東部地震」で、前代未聞の全道大停電を引き起こし、現在はすっかり回復しているものの、主幹発電所の「苫東発電所」は今なお一部が修理中。

また震源地でも余震は続いており、緊急事態に備えて節電を訴えている。

そうなると益々灯油の需要が跳ね上がる事になり、同時に価格も更に高騰するのではないか。

仙台は北海道ほどの寒さ・雪はないが、震災時の大停電を教訓に石油ストーブに切り替える家庭が続出した。

震災後初の冬、ちょうど今頃に家電量販店やスーパーの家電売り場では、昔ながらの石油ストーブが山積みされ、あっという間に売り切れた。

石油ストーブは給油の手間がかかるのと、火災への細心の注意が必要だが、火の暖かさや水を入れたヤカンを置いて置けば加湿器の代わりになるし、お茶の為の保温ポットも必要ない。

最近の賃貸アパートやマンションでは、火災や匂いの点から石油ストーブを禁止する所があると聞くが、実にバカげて頭の悪い大家だと思う。

日本人は、あまりに楽し過ぎ。

震災の教訓は被災地だけだと言う気持ちが強く、だから突然災いが降りかかるとパニクる。

教訓を覚えられない、国民総健忘症なのか?と腹立たしくさえ思う。

そこに灯油価格高騰だ。貧乏人は買う事を躊躇し、電気代も躊躇してしまう。

裕福層はひたすら楽を求め、価格高騰を招き、ムダ金を無意識にバラまく。

来年秋には消費税が上がり、もし灯油やガソリン価格が高止まりのままだったら、そして厳冬だったら…自然は警告しているのだと思うが、世間は気づかないのではないか。

大袈裟になってしまうけれど、仕方ないと諦めている傾向は見直して良い時代かも。

貧乏人はつい恥ずかしくて卑屈になってしまうが、未来の為に声を上げても良い時代ではないか。

革命とか危険思想ではないですけど、深く考えず楽ばかり考える薄っぺらい連中に、危機管理を徹底させても良いと思うがどうだろうか。



鉄道ネタ。

寝台車と言う鉄道用語が過去のものとなって、約3年が経とうとしている。

現在「クルーズ列車」に「寝台車」は存在するが、定期列車ではないし、何より簡単に利用できる列車でもない。

まだ飛行機や夜行バスが未発達だった時代、旅程を効率よく行うには「夜行列車」が最適であり、つい20年前までは寝台列車だけでなく、リーズナブルな座席車だけの夜行列車まで全国各地に夜行列車が走っていた。

しかし交通網の多様化と低価格化が進み、自家用車の普及率が高まると寝台列車は斜陽の時代を迎え、国鉄末期/JR発足時には寝台車の命運は尽きていたように思う。

今でこそ鉄道ファンは惜しみ懐かしむが、全廃された近年までJRの寝台列車は「高価」過ぎた。

もはや過去の事になってしまったが、国鉄そしてJRは現在まで料金は「加算制」である。

即ち基本が普段通勤・通学で利用する「普通列車」であり、それより格上の列車を利用するには「特別料金」が加算される。

新幹線ならば「運賃」のほかに「新幹線特急料金」が必要であり、自由席と指定席では税込みで540円が加算されるし、グリーン車や「グラン・クラス」の利用には相応の料金が加算される。

仮に「寝台特急」だと、運賃・特急料金のほかに「寝台料金」が必要で、A/B寝台の他末期には個室料金などが加算された場合もある。

正に「多重徴収」の典型であり、国鉄時代の悪い習慣が民営化された後も続けられたのである。

一方90年代以降、ホテルなどの宿泊施設も多様化するとともに、集客律を上げるため低価格化が進み、今世紀になるとバス・トイレ付は当たり前で、シングルルームは5,000~8,000円が普通になった。

最後の定期寝台列車「北斗星」「トワイライト・エクスプレス」が廃止された15年頃、最も安いB寝台(個室を含む)の利用料金は税込みで6,480円。

これに運賃と距離に応じた特急料金が加算されるから、東京(上野)~札幌間を利用すると3万円程度になってしまう。

この区間に夜行バスはないが、同じ程度の距離のバスであれば半額以下、飛行機でも正規料金でさえこれより安い。

「北斗星」では全区間乗車で約16時間半かかったから、「わざわざ」選ぶ人以外料金・時間と言う点でのメリットは「0」であった。

それが「ブルートレインブーム」に沸いた80年前後から既に現れており、ブームとは裏腹に寝台列車の利用率は年々下がり続けた。

80年代初期に東北・上越新幹線が開業すると、「寝台列車離れ」はより顕著となり、ただでさえ赤字に苦しむ国鉄の財政を圧迫した。

当時国鉄の車両は国庫積立金を「担保」として「借金」して作っており、列車は簡単に廃止出来ない状況にあった。

JR化後も列車と車両は受け継がれたが、複数のJRをまたがって走る列車も多く、利用率低下を理由に90年代以降は廃止が相次いだ。

看板列車としてファンのみならず、テレビや映画にも数多く登場した東京口の九州方面寝台特急は、運転区間の短縮や編成の短縮、別列車同士の併結運転などで運航経費の削減に努め、時代に合わせて個室寝台車を中心としたり、寝台料金のいらない車輌を連結したり涙ぐましい集客を行ったが、2000年代になるともはや乗客は新幹線・高速バス・飛行機から戻ってくることはなかった。

国鉄時代以降、現在のJRまで寝台車の新製は80年の「24系25形」を最後にJR化後東日本が99年に製造した「カシオペア」用のE26系客車までなく、同系列は1編成12輌しか生産されていないので、量産された寝台車は80年以降1輌もない(サンライズ用の285系は電車のため、ここでは対象外とする。それでも35輌の生産しかない)。

事実上日本最後の量産型寝台客車(機関車が牽引する車輌)24系は、73年に登場した。

前年古くなった国鉄初の寝台専用固定編成系列「20系」客車の置き換えとして、「14系」客車がデビューしていた。

このころはまだ寝台列車の需要は多く、大量輸送が必要であった事と生活水準の向上もあって、B寝台車は20系と同じ3段式ベッドながら寝台幅は52センチから70センチに拡大され、列車定員の増加をさせるためA寝台の個室は廃止。「プルマン式」と呼ばれる2段式開放型ベッドに変更した。

最も特徴的だったのは、列車本数を増やせるように20系の「集中電源方式」を改め、「分散電源方式」を採用したことであった。

これは編成の端に連結される「緩急車(車掌室がある車両)」の床下にディーゼル発電機を搭載し、自車を含め最大6輌分のサービス電源を供給した。

当時寝台特急列車は10~12輌編成が標準で、20系では電源車は編成に1輌だったため、2つの列車を併結することは出来なかった。

14系であれば途中まで2列車を併結し、分岐駅で分割・併合が容易になる。

デビュー当時東京発の寝台特急に「いなば」「紀伊」と言う列車が設定されたが、これは名前からも分かる通り「いなば」は山陰・米子行き、「紀伊」は紀伊勝浦行きで全く行き先が違う。

2列車は東京~名古屋間が併結され、名古屋駅で分割・併合されていた。

こうした柔軟な運用を組める14系は、国鉄標準となる予定であった。

しかし翌年に、北陸トンネルを走行中の「急行きたぐに」の食堂車で火災が発生し、その原因が床下のディーゼル発電機と考えられた(現在に至るまで特定はされていない)ことで、防災上の問題が持ち上がることになってしまった。

そこで国鉄は14系と同じ設備ながら、20系と同じ電源車を使う「集中電源方式」に改めた「24系」の製造に着手。

14系は1年半、118輌の製造で打ち切りとなり24系に移された。

見事な偏向とも言えるが、発電機の発熱・加熱はメーカーで対策は講じてあり、「きたぐに」事故以後、14系には新しい耐火装備が追加されており、開発・製造の費用を「垂れ流し」状態で、好きに使っていた事になる。

しかも24系が量産され始めた僅か7カ月後には、B寝台をこれまでの3段式から2段式に改めた新型車が生産されている。

正式にはこの2段式B寝台車も「24系客車」だが、車両の型式名で判別できるよう「25」番台が採用されたため便宜上「24系25形」とされる。

これならば最初から2段式にすれば良かった訳で、現在だったら世間はでたらめな予算消費を糾弾したに違いない。

「25形」のB寝台は、上段が電動で上下して収納されるようになっており、ベッド・昼間の座席として使用する場合でも天地方向がA寝台車並みに拡大され、居住性は大幅に向上した。

このため初期の「24系」では解放式A寝台車が作られたが、「25形」ではA寝台車との格差が少ないとして当初B寝台だけのモノクラスとされた。

先行量産車は大阪口のブルートレイン「あかつき」「彗星」に組み込まれ、徐々に2段式車に変更された。

乗客の評判は良好で、国鉄は以後寝台客車の標準として大量生産を決定。

20系・14系で運転されていた寝台特急を置きかえることにしたが、問題も発生した。

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     ↑寝台車の概念を決めた24系25形のオハネフ25形(ウィキペディアより)

東京発九州方面の寝台特急・ブルートレインは、国鉄在来線のステイタスシンボルであり、利用率は高いだけでなく、新幹線博多開業後も芸能人や政治家の利用が多かった。

時間を有効に使えるブルートレインは、まだその有効性を発揮していた時代であり、A寝台車の必要性が訴えられた。

しかし同系列のA寝台車「オハネ24」形は、先に書いたように解放式2段式であり、25形の格と言う点でバランスが取れなかったため、急きょ「個室寝台」が開発されることになった。

それが完成するまで東京発のブルートレインは、25形への置き換えは見送られ、モノクラスで運転できる大阪口のブルートレインが先に置き換えられた。

25形専用のA寝台車「オロネ25」形が登場したのは77年のことで、国鉄の個室寝台車は約20年ぶりの登場であった。

これにより「富士」「はやぶさ」「あさかぜ」と言った代表的な寝台特急が、フル編成で25形に置き換えられることになる。

オロネ25形は折りからのブルートレインブームに則って、大人気の注目車輌。

当時全国ニュースにもなったほどだった。

車内は全て1人用個室寝台で、廊下が車輌の片側に寄せられており、進行方向に対して直角に細長い個室である。

そのため前後は1メートルちょっとしかなく、座席兼用の寝台の幅はB寝台と同じ70センチ。

窓際にはテーブル兼洗面台があり、テーブルを持ちあげるとお湯も出る洗面台になっていた。

部屋は14室で、当時国鉄車両では最も定員数の少ない贅沢な車輌だったが、そのインテリアは急ごしらえ感も否めなかった。

何より閉塞感が強く、閉所恐怖症の人には無理だLと言われたほどで、もちろんトイレはなく共同である。

それでもオロネ25形は国鉄車輌中最も豪華な車両で、料金は通常のA寝台車より遥かに高い12,000円だった(2段式B寝台は4,500円)。

40年後の現在でも、12,000円払えばかなり高級なホテルに泊まれるから、いかに贅沢な車輌だったかが分かる。

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            ↑(3枚)オロネ25形(通路側)と室内、洗面台(ウィキペディアより)

同車は12輌だけ製造され、全て当時の品川客車区に集中配備。

JR化後は細分化され「シングルDX」と称されたが、廃車になるまで他線区への転出は一切なく、上記の列車意外で運用されることはなかった。

初期生産の25形は上段ベッドが電動収納式だったが、オロネ25形のデビューに合わせ、B寝台車もマイナーチェンジ。

上段ベッドは少し位置を下げられ、固定式に変更された。同時に寝台側の客室窓も上下寸法が小さくなって、車版も区別できるよう100番代以降に付加されている。

また3段式でデビューした24系は、14系と同じくブルーの車体に白帯がペイントされていたが、25形からはステンレスの銀帯に変更され外観上の識別点になっている。

また緩急車も、初期社車は14系の様に「折り妻」型だったが、中期生産車は平面の「切り妻」型、後期生産車はハイブリッド型とも言える「半切り妻」デザインになっている。

なお80年代後半になると、3段式だった14系と24系のB寝台車も「2段ベッド」化されることになり、当初は「中段」を収納したまま固定しての運用だったが、のちに中段ベッドと収納機構を撤去。上段ベッドの位置も25形と同じに改修され、今世紀の全面廃車まで使われている。

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     ↑標準となった2段式B寝台のオハネ25形の車内(ウィキペディアより)


「53-10」と言われる白紙ダイヤ改正では、主な在来線特急のヘッドマークがイラスト入りになり、小中学生を中心に空前のブルートレインブームが起きたのは前述のとおりである。

ちょうどデビュー直後だった25形は、少年たちはもちろん一般の鉄道ファンにも憧れの存在となっただけでなく、ブームに敏感な若い女性間で夏休みの旅行にブルートレインを使うなど、25形は国鉄にとって起死回生になる車輌であった。

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     ↑14系の発展型の24系。電源車のカヤ24形と緩急車オハネフ24形(ウィキペディア英語版より)

87年に国鉄は解体、民営化された後は先に書いたように通過する各社の利益差が生じることになり、ブルートレインは減少に生じた。

それでも東京口と上野口の列車は残されたが、特に九州行きブルートレインは何時しかステイタスは「過去」のものとなり、90年代になると大幅な整理が始まった。

車輌が余剰になったため、改造して個室寝台やロビーカーなど話題性の高い車両も連結されたが、消費税導入後は寝台料金自体も値上げされ、利用率向上には繋がらなかった。

唯一89年に開業した青函トンネルを走る「北斗星」と「トワイライト・エクスプレス」だけが、起死回生を図って大人気となったが、車両は全て既存の24系・25形から改造したものだった。

九州行きのブルートレインも、まず大阪発の列車が淘汰され、東京発の列車も「みずほ」「あさかぜ」といった国鉄の代表列車が姿を消し、「富士」「はやぶさ」に至っては運転区間が大幅に短縮され、両列車併結運転と言う凋落ぶりであった。

比較的長生きしたのは大阪発青森・函館行きの「日本海」や、上野発の東北方面の寝台特急。

東京口で最後まで奮闘したのは出雲市・益田行きの「出雲」だけだった。

前出の「オロネ25形」は、「富士」「はやぶさ」「あさかぜ1・4号」「出雲1・4号」だけの限定運用だったが、「富士」「はやぶさ」は併結列車となったため、14系とその2段式に変わった15形に変更。

往時を偲ばせる編成を最後まで保ったのは「出雲」だけだ。

「出雲」もその後世界で唯一の「寝台電車」、285系に置き換えられ「サンライズ出雲」として現在併結列車「サンライズ瀬戸」とともに、日本で唯一の定期寝台特急として運転されているのは「奇跡」に近い。

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     ↑オハネフ25形2態。上が初期の0番代、下は100番代(ウィキペディアより)


25型は東京・大阪発に集中され、上野口は24系が晩年まで使われていた。

「日本海」は2往復あって、24系と25形が1往復ずつ。

24系は青森区に集中されていたため、「日本海」と「ゆうずる」「あけぼの」「出羽」「鳥海」などに、大阪・宮原区の25形は「日本海」「つるぎ」「彗星」「なは」など。

末期には25形も余剰となったため583系寝台電車で運転されていた上野~青森間の「はくつる」が置き換えられ、北斗星と並んで初めて東北路を走る25形になって話題を呼んだ。

面白いところでは名門「あさかぜ」で、本体の「1・4号」は東京~博多間根個室寝台つき。

「あさかぜ2・3号」は四国連絡特急〔瀬戸〕と共通運用のB寝台だけもモノクラス列車で、東京~下関間の列車。

晩年には全線電化区間を走ることから、電源車が省かれ、ロビーカーに改造した「スハ25形」にパンタグラフを搭載し、電動発電機を装備した事がある。

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     ↑一見「電車」に見える電動発電機を搭載したスハ25形(ウィキペディアより)

24系には食堂車として14系の「オシ14」形と同じ「オシ24」形が連結されていたが、90年代には営業不振で編成からはずされており、「北斗星」「トワイライトエクスプレス」には、なんと電車特急485系で余剰化した食堂車「サシ481」形を「客車」に改造して使用した。

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       ↑オリジナルの食堂車オシ24形(ウィキペディア英語版より)

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     ↑485系電車から改造された「北斗星」用食堂車スシ24形(ウィキペディアより)


200年代まで辛うじて残ったブルートレインも、年間通して利用率は良くなく、ガラ空きの事が多かったと言う。

私は中学生の頃、上野~青森間を走っていた「ゆうずる」に乗ったことがある。

当時人気のある列車で、583系電車・14系客車・24系客車とバラエティ豊かな列車で、24系の「ゆうずる」を選んだ。

また3段式ではあったが、朝盛岡からベッド解体の業者さんが乗車してきて、中段ベッドを収納し、リネン類を片づけて、座席使用に変えて八戸辺りで下車していたと思う。

夏休み後半で列車は空いていて、本来ならば使いやすい下段ベッドにするべきだったが、お馬鹿テツ少年は、なんでも触ってみたくて上段を選んだ。

実は上段ベッドには通路部分の天井の空間があり、荷物が置けるようになっていた。

上野発の時点でベッドはセットされており、カーテンの他白いシーツと毛布、まくらが眩しく見えた。

めったに乗れない寝台特急に興奮して、車内をうろうろしてばかりいた。

ベッドには「浴衣」が1枚付属しているのだが、狭いベッドで気がえるのも面倒なのでそのまま寝てしまった。

ところがカーテン越しとはいえ、冷房のダクトが上段の目の前にあり、起きているうちは涼しいだけだったのに、横になると寒い。

この時一人旅の私はTシャツ1枚に、ピチピチの短いショートパンツ姿。

青森に到着したときはくしゃみと鼻水か止まらず、夏だと言うのにすっかり風邪を引いてしまった。

帰宅後「寝台車なんて贅沢な野に乗ったからだ」と、母に散々バカにされた記憶がある。

もちろん旅費は月々の小遣いを溜め、足りない分だけ出してもらった旅行だったが、大人になっても何度か14・24・25形には乗ったが、やはり夏場はエアコンが効き過ぎと言う感じであった。

20系ではそれほど気にならなかったが、寝台車は空気の流れが悪い構造になっているので、夏場は温度を低く設定していたのかも知れない。

最もサービスの浴衣を着ても寒かったように思うが・・・。

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     ↑解放式A寝台車のオロネ24形。上部の「のぞき窓」に注意(ウィキペディアより)


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     ↑最も豪華な個室寝台「スィーツ」のトワイライト・エクスプレスのスロネフ25形と「ロイヤル」の北斗星・オロハネ24・500番代(ウィキペディアより)


「北斗星」では電源車が不足し、一般型客車「50系」で余剰になっていた「マニ50」形を改造した「カニ24・500番代」が使われていた。

114系の時に描かれた分割・併合列車の理想は、一部列車以上増加することはなく、現場での保守点検も集中電源方式の方が楽だった。

何より14系では客車にディーゼル発電機がついており、その車両では一晩中騒音と振動が出るのだから。

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     ↑(2枚)オリジナルの電源車カニ24形と改造車の500番代(ウィキペディアより)

「北斗星」には何度か乗ったし、青函トンネルブームの時は切符が取れにくかったので臨時特急「エルム」に乗ったこともある。

廃止までは市内の踏切で、新型の大型電気機関車「EF500」にけん引された25形と客車は、夜にもかかわらず外套の明かりに鈍く光っていて、独特の「夜行列車」感を出して過ぎ去って行った。

末期には原型がわからないほど改造され、台車も交換して「延命」しながらろうそくの灯が消えるように静かに去って行った「ブルートレイン」。

ブームの火付け役となった25形こそ「代名詞」であり、たった3年前まで老体にムチ打つように細々と頑張っていた。

保存運動か起こり、博物館や「列車ホテル」として面影を辛うじて残すだけで、大半の車両は解体処分されている。

同時に国民の記憶から25形だけでなく「寝台列車」「ブルートレイン」と言う言葉さえ、消えつつあるのは、時代の流れとは言え、ファンとしては寂しい限りである。




今夜はあまり寒くない。「あまり」であって、決して暖かくはないのだが。

連休明けは皆疲れていそうだが、夜遅くも人が多かった。

仕事上連休明けに休む、と言う人がいそうだ。

今週末はもう12月。

意味はないけど、何となく気が急くような気がする。

皆さんも気ばかり急いて、思わぬミスやトラブルに巻き込まれないように。

寒さは一段落しそうだが、連休中に比べて・・なので、冬は目前であることも忘れないようにしたい。




元気ですか?

今日は良い1日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

寒くはないですか?

秋は終わりつつありますが、寒い冬もまた良いものです。

私は君が冬が一番似合っている・・と勝手に思っています。

君とよく会ったのは冬だったからでしょう。

君の姿が、一気に思い出せるのは冬です。

風邪を引きやすいコンディションですので、体調管理には気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



いにしへに ありけむ人も わがごとか 妹に恋ひつつ いねかてずけむ(万葉集巻四 497 柿本朝臣人麻呂)



飛行機ネタ ハイテク機の原点はトライスター(11月25日 晴れ時々曇り 13℃)

3連休最終日。意外にも今朝は早くから、ご近所が賑やかであった。

何か学校の行事かイベントでもあるのか、子供達の歓声とともに外出するご家庭が多かった。

子供達とは関係ないだろうが、この連休は大学や専門学校の文化祭も多かったと聞く。

随分遅い時期に思うが、連休を利用する事や、他校とあまりバッティングしない方向づけなのかも知れない。

ちょっと寒い連休ではあったが、天気はまずまずだったし、イベントは良かった事だろう。

街では早くも「クリスマス」色が出始めていて、季節の流れに驚く。

お店では既にクリスマスソングがBGMで流れており、今年もまたずっと聞かされるのか…とウンザリ(笑)。

気分を盛り上げるのはわかるし、否定したくないけれど、どこに行っても同じ曲でイライラする。

いっそのこと本筋である賛美歌でも流したら、と思うが、ほぼ間違いなくマラ○ア・キャリーとジョン・レ○ン&オノ・○ーコの「あの曲」が流れる。

ファンには申し訳ないけれど、後者はあのオバチャンのパートを聞くとイラっと来るのよね…カラオケで酔っ払って歌っているオバチャンみたいで(笑)。良い曲なのはわかっているけれど。

スーパーの中にあるカフェにいると(君ならああ、あそことわかるだろうか)カフェオリジナルのBGMと、スーパー全体に流れるBGMが被っていて、約10分置きにCMが流れる。

仕方ない事なのだけど、CMは音量が一段階大きく、やかましい。

しかも今はクリスマスセールの案内かと思うと、いきなり「琴」の音楽とともに年末年始セールまで被せて来て、正直訳のわからない状況に。

BGMの被りは、普段は本を読んだりケータイをいじったりするから 慣れていて気にならないが、あの大音量CMは何とかして欲しい。

クリスマスソングと正月をごちゃ混ぜにして、サブリミナル効果でも狙っているのか?と思ってしまう。

季節の風物詩と言えばそうなのだけど、間もなく気ぜわしい時期を迎えるので、余計な慌ただしさはもう少し考えられないものだろうか。





飛行機ネタ。

ロッキードL1011「トライスター」(以下トライスター)を知っている人は、かなりの旅客機ファンか、もしくは50代以降の方が多いと思う。

「CRCHANのブログ 風の道 7月21日 」記で書かせて戴いたが、新しい画像をいくつかゲットしたので、補足として改めて書いてみたい。

トライスターは60年代、アメリカで「エアバス構想」が持ち上がって計画された、ワイドボディ旅客機で、原型機は70年に初飛行した。

メーカーのロッキード社(現ロッキード・マーティン)は、第二次大戦前からあらゆる航空機を開発した大手メーカーで、軍用機を中心に主力機となりうる数々の機体を開発していた。

どちらかと言うと軍用機メーカーの色が濃かったが、30年代には「ベガ」などのレシプロ旅客機を開発し、大戦中は戦闘機「P38ライトニング」の他、「ハドソン」などの中型爆撃機・輸送機を開発した。

また終戦直前には、アメリカ初の実用ジェット戦闘機「P80シューティングスター」を開発。

大戦には間に合わなかったものの、50年に勃発した朝鮮戦争に投入され、翌年北朝鮮空軍のジェット戦闘機「ミグ15」と史上初、ジェット機同士の空中戦を記録した。

旅客機では50年代に「スーパーコンステレーション」「エレクトラ」などのレシプロ旅客機を生産していたが、ジェット旅客機の経験はこの時まで一切なかった。

最もその前に、アメリカ空軍の戦略輸送機「C-141スターリフター」、そして60年代後半にはボーイングとの競争で世界最大の輸送機「C-5ギャラクシー」の採用を勝ち取っており、大型ジェット輸送機のノウハウは持ち合わせていた。

50年代後半に世界はジェット旅客機の時代を迎え、60年代は急成長の時代を迎えていたが、初期のジェット旅客機はいずれも小型で、航続距離も短かった。

ボーイング707、ダグラスDC-8と言った4発長距離ジェット旅客機が一気に世界を狭めることになったが、座席数は180~250席で、しかも長距離用なので中距離以下の路線では年になどの点で不経済だった。

特にジェット旅客機のおかげで大量輸送時代を迎えたアメリカでは、国内線向けのボーイング727やダグラスDC-9が多数運航されていたが、100~180席級のナローボディ機で、航続距離は2,000キロ程度。

東西約5,000キロに及ぶアメリカ大陸を横断することは不可能で、当時の定期便は全て「経由便」であった。

そのため例えばニューヨーク~ロサンゼルス間など、2~3か所を給油と区間利用客の為に経由し、大陸横断には10時間近い長い時間がかかっており、これなら速度は遅くとも務給油で横断出来る古いレシプロ機と何ら変わりがなかった。

経由地を減らすには機体の重量を軽くし、その分燃料を多く積むことになるが、そうすると座席数を減らすことになり、収益率は悪化する。

こうしたジレンマを解決するのが「エアバス構想」であった。

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     ↑21機のトライスターを採用した全日空(ウィキペディア英語版より)


60年代初期に大手エアラインや連邦政府が指針を打ち出し、300席以上で機内の通路を2本設ける、3発機などの骨子が固まり、メーカーに提示した。

ボーイングは輸送機コンペで敗れた機種を発展させた超大型旅客機の開発に取り掛かっていたため、「エアバス構想計画は辞退し、ダグラスの他競作としてロッキード社が応じることになっていた。

この計画は連邦政府がメーカーの打診した最後の計画であり、2社競作にしたのは、将来空軍など軍の輸送機としての採用も見込んでいたためであった。

早速設計が開始されたが、旅客機政策には一日以上の長があるダグラス、大型機のノウハウは持つがジェット旅客機のは初めてのロッキードと、世間の注目を浴びた。

旅客機は「商品」であり、性能だけでは売れず、未来の需要を分析するリサーチが売れ行きを左右する。

そのため「エアバス」は、ダグラスが有利と思われたが、同社にとってワイドボディ機は初めてのことであり、ハンデと言う点では同格であった。

ただ既に大手民間機メーカーとして名を打っていたダグラスの方が、知名度と言う点では有利だったと言える。

しかし両社ともコンセプトの段階から、設計は困難を極めた。

それは「3発機」と言う縛りである。

両社とも「寄数」のエンジンは、飛行性能に難があると考えており、安定性のとれる4発としたかったが、それだと要求される航続距離を満たせなかった。

ちょうどエンジンメーカーでは、GE社がC-5用のエンジンとして「TF-39」と言う初の量産型高バイパス比ターボファンエンジンの実用化に成功しており、P&W社も「JT-9D」エンジンが完成間近にあった。

加えてイギリスの名門ロールス・ロイス社も、同様の高バイパス比エンジンを開発中だったため、ダグラス・ロッキードとも、この新型エンジンを採用する事とし、それならば3発機でも300席以上のワイドボディと航続距離をみたせるとした。

しかし3つ目のエンジン装着方法に問題が残り、最終的には両社とも対照的な手法を取ることになる。

ダグラスが作ったDC-10は、トライスターと同じながら3つ目のエンジンは垂直尾翼に「串刺し」するような方法で取り付けた。

これだとエンジンの空気流入にロスがなく、効率的出ると同時に生産効率も良いとの判断であった。

一方トライスターは、727やイギリスのトライデントと言った既成の小型3発機を参考に、3つ目のエンジンは機体の尾部に配置し、空気は垂直尾翼付け根部分から「S字ダクト」で導く方式を採用した。

全体的の空力性では、滑らかなボディのトライスターが優れており、DC-10はエンジンのおかげで垂直尾翼とラダ‐が機体の割に小さくなると言うデメリットをもたらしていた。

そこでDC-10はラダ‐を上下2分割させて、細かな動きを持たせて効きをゆくさせるとともに、水平尾翼を異常の大きくすることで、安定性を確保すると言う荒業で解決した。

技術的には保守的で、あえて新技術を使わず、これまでの手法で機体を完成させたのであった。

両機の寸法とキャパシティはほぼ同じであり、開発も両社譲らぬ同時進行に近い状態であった。

そのため商品として成功するには、お互い「セールスポイント」が必要だった。

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     ↑初飛行を終えたトライスター初号機(ウィキペディア英語版より)

既に大手のパンナム・アメリカン・ユナイテッド・TWA・イースタンなどが「エアバス構想」に乗っており、これらのエアラインのローンチが勝敗を決める。

しかし直前になってパンナムが747に全面的にシフトすることで、ローンチは混迷を極めることが予想された。

ロッキードはアメリカ国内だけでなく、海外セールスも視野に入れることと、開発資金を削減するために、エンジンをロールス・ロイスに持ちかけ、まだ計画段階だった新型エンジンをトライスターの専用エンジンにすることを申し入れた。

当時イギリスは不景気のどん底にあり、国庫の外貨は大幅に減少していた。

ロッキードにエンジンの契約を取ることは願ってもないことで、トライスターはアメリカ機では戦後初めて最初から外国製エンジンを採用した旅客機になった。

だがこれが大きな誤算であった。

DC-10は国産の「CF-6」エンジンをすんなり採用したのだが、ロールス・ロイスがトライスター用として開発した「RB211」は、仕様変更もあって開発が大幅に遅延し始めていたのである。

「RB211」はロールス・ロイスにとって初めての大口径ファンを持つ高バイパス比ターボファンエンジンであり、通常のエンジンの様に2軸構造ではなく3軸構造を持つ。

当初は空軍の大型輸送機や爆撃機用に計画されていたが、急に旅客機用に変更されたことに加え、ファンブレードや複雑な3軸構造による材質の強度不足が露呈し、予定通りの完成は困難であると同時に、開発経費が膨らみ、事もあろうに同社は「破たん」してしまったのである。

慌てたのはロッキードだけではなく、イギリス政府もであった。

イギリスにとっては大きな外貨取得源となる同社の破たんは、政府の失墜を招くだけでなく、アメリカとの関係にもひびが入る恐れがあった。

ロッキードも「C-5」の採用は勝ち取ったものの、開発経費は赤字であり、トライスターを400機売ってC-5と共に何とか採算に合うと見込んでいた。

ところがアメリカの大手は、やはり知名度と言う点でアメリカン航空がDC-10を採用し、ユナイテッドもそれに続いていた。

トライスターもイースタンとTWAが採用の意向を示していたが、エンジンがなければ生産は出来ず、皆DC-10に流れてしまう恐れが出て来た。

幸いイギリス政府が緊急措置として、ロールス・ロイス社の株式を買い取り一時的に国有化することで、操業停止と言う最悪の事態を免れたが、トライスターは数カ月の遅れは覚悟しなければならなかった。

遅れは致命的だと思われたが、ロッキード社は見通しはついたとして、エンジン以外の製作のピッチを上げ、初号機の完成はDC-10より遅れたものの、初飛行は微妙なところまで追いついたのである。

開発自体はトライスターの方が当初は進んでおり、エンジンの躓きがなければその後のセールスは逆転していたことは間違いなかった。

残念ながら初号機の初飛行も、ほんのわずかの差でDC-10が先であった。

唯一の慰めは、心配されたイースタンやTWAが待ってくれたこと、機数は少なかったがデルタ航空やPSAなどのアメリカのエアラインの他、エンジンの供給元であるイギリスのブリティッシュ・エアウェイズやカレドニアン航空が発注したことであった。

ロッキードでは「RB211」を諦め、「CF-6」に変更することも考えたが、尾部のS字ダクトなどの設計変更をしなければならず、嫌が応にも「RB211」を待つしかなかった。

と言うより「RB211」ありきのトライスターであり、ロッキードのこだわりでもあったのである。

トライスターの初号機は70年に初飛行し、生産2号機からローンチカスタマーのイースタン航空に引き渡された。

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     ↑最初に運行を開始したイースタン航空のトライスター(ウィキペディア英語版より)


テスト飛行での同機はほとんど問題は見つからず、ロッキードの完成度の高さを見せつけていた。

またトライスターには、同社が培ってきた軍用機技術がふんだんにフィードバックされていた。

特に60年大盛んに行われた宇宙開発に携わっていたロッキードは、「アポロ宇宙船」で採用した技術まで渡来歌‐につぎ込んでいた。

当初NASAと国防総省は、秘密漏えいに当たるのではと難色を示したほどの「ハイテク」であり、同機は史上初の先進技術を持つ「ハイテク機」だった。

例えば操縦席の計器板や、頭上のスイッチパネルには航空機として初めて「スイッチライト」が採用された。

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          ↑(2枚)トライスターのコクピットと機関士パネル(ウィキペディア英語版より)

今では家庭でも良く見かけると思うが、押して「ON」になるとボタンが赤や黄色・オレンジに光る、あれである。

DC-10を含め、当時の飛行機のスイッチ類は「トグルスイッチ」が一般的であり、ボタン式のスイッチライトはアポロ宇宙船で初めて実用化されたものであった。

トライスターは航空機関士が乗務する3人乗務機だったが、機関士の操作パネルもスイッチライトが主体になっており、パネルは図案化された様にシステマティック化されていた。

パイロットも同様に、スイッチは系統ごとにまとめられ、ONN/OFFの順番が線で結ばれており、操作ミスが出ないように工夫されていた。

即ち系統ごと順にON/OFFしないと、作動しないように出来ているのだ。

乗務員はライトの様子でチェックが容易となり、ミスもなかった。

室内が暗くなるナイトフライトでも、ライトの有無で確認出来るので、ワ―クロードは大幅に低減した。

後期生産型では、旅客機としては初めて「電子運航管理システム」が搭載され、既存の機体にもレトロフィットされている。

航法装置では、やはり世界で初めて「エリア・ナビゲーション・システム」を採用し、慣性航法装置と地上の航空機用電波灯台の電波とデータを照合し、自機と正確な位置・速度・方向・高度を知ることが出来、現在の自動操縦装置にほぼ近い完璧な自動操縦が可能であった。

トライスターでは離陸直後から着陸まで自動操縦が可能であると同時に、計器飛行における視程制限の最も厳しい「カテゴリーⅢA」もクリア出来た。

これは霧などで滑走路が着陸まで全く見えない状態でも、安全・確実に着陸できることを意味し、当時はトライスターだけの装備であった。

また水平尾翼はエレベーターのない1枚式で、尾翼全体が動く「オールフライング式」。

これは戦闘機に標準の装備だが、この尾翼と自動操縦装置の組み合わせは「DLC(ダイレクト・リフト・コントロール」を可能にした。

通常旅客機は、速度が遅い着陸時に機種を持ちあげて着陸する。

これは機体を抵抗にして、失速しないギリギリの速度まで落とし、着陸のショックを和らげるためだが、トライスタ‐‐はその必要がない。

DLCはオールフライング式の水平尾翼を細かに調整し、主翼上のスポイラーも自動的に立てて降下しつつ最適な速度を維持する。

着陸するとDLCとスポイラーの関係は自動的に切れ、スピードブレーキとして作動できる。

これにより着陸時に機体の姿勢をほとんど変えず、衝撃のない「3点着陸」が可能なのである。

機内も独特の装備を持っており、胴体後部・床下貨物室の一部を「ギャレー」にしたことが注目された。

通常乗客に食事や飲み物を提供するギャレーは、キャビンの端か中央部にある。

トライスターでは、床下に集中ギャレースペースを設け、大型の冷蔵庫とオーブン・電子レンジを置き、運航中は担当の客室乗務員がインターホンを使いながら調理など準備。料理を「エレベーター」でキャビンに持ち上げるのである。

これは「エアバス構想」で、数時間以上の長時間飛行を考慮してのアイディアである。

経験ある人は多いと思うが、食事時間に調理すると良くも悪くも客室内に匂いが充満する。

料理によっては調理中に強い匂い、例えば焦げ臭い匂いを発する場合もある。

また分散されたギャレーではオーブンなどの能力が限定され、調理に時間がかかることもある。

集中ギャレーならばそうしたデメリットが解消できたのである。

担当の乗務員は同じエレベーターを使って昇降するが、一人分でかがまないと乗れなかったそうだが、斬新なアイディアであった。

当時のキャビンはファーストクラスとエコノミーの2クラスが標準で、ファーストは2-2-2の6列、エコノミーは2-4-2の8列が標準。

中央の4列の中央には「衝立」があり、乗客の小物を収容できるだけでなく、隣席とくっつかないようになっていたので、実質的には2-2/2-2に近いレイアウトであった。

またキャビンを広く見せるため、中央部のストウェッジは省略され、左右だけに設けられたが、これは失敗であった。

中央4列の乗客分の収容力はないため、搭乗時にはストウェッジの「奪い合い」となり、荷物を座席に下に押し込まなければならなかったのは唯一評判の悪い事項であった。

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     ↑(2枚)TWAのエコノミークラスとイースタン航空のファーストクラス。CAのファッションや雰囲気は、まさに70~80年代(ウィキペディア英語版より)


しかしトライスターは売れなかった。

開発中のエンジンの躓きによる遅延の他、航続距離が予想よりも短かかったからどぇあった。

トライスターは基本型の「1」の他、「50」「100」「150」「200」「250」と言うサブタイプがあるが、いずれもエンジンをパワーアップし、最大重量を徐々に引き上げて航続力を伸ばしただけであり、外観上の違いはない。

特に「50」「100」「250」は、新造機と「1」からの改造機が存在するが、しょせん対処療法で、航続距離はせいぜい数百キロの延伸に過ぎなかった。

何とか「ER」型になったのは「250」から出、先の床下ギャレーを廃止し、その部分に燃料タンクを増設した形である。

長距離ワイドボディ機として747の様な豪華な設備を持ったトライスターだったが、大陸横断以上の長距離性能はなく、床下ギャレーは本末転倒であった。

採用したエアラインは、むしろ短距離大量輸送機として遣う事が多く、豪華なギャレーは不要だったのである。

加えて機内食の技術も進んだことがら、大型の調理器を必要とせずホットミールの提供が可能になり始めており、海外エアランの殆どは改造して50~200仕様にしていた。

なお「250」は価格が高い事と、本格的な長距離仕様の「500」が計画されたことで発注はなく生産されなかった。

トライスターは空力的には優れた機体だったが、そのデザインは完成されたもので、航続距離を伸ばすために機体の大型化は不可能であった。

そこで基本型の胴体を主翼の前後で合計約4メートル短縮し、燃料搭載量は同じとした「500」が生産された。

これで2クラス300席が、250席程度に減少したが、航続距離は10,000キロに達する事が出来た。

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     ↑TWAのトライスター100とデルタ航空のトライスター500。胴体の長さに注意(ウィキペディア英語版より)

トライスターは3発機なので、洋上飛行の制限「ETOPS」には抵触しないため、500型でようやく国際線を遠慮なく運行できる性能を持つに至ったが、登場時期が遅かった。

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     ↑パンナムとブリテッシュ・エアウェイズのトライスター500(ウィキペディア英語版より)

半端な3発機を敬遠していたパンナムも500型には食指を動かし、ブリテッシュ・エアウェイズを始め海外のエアラインも導入したが、既に時代は747が席巻しており、ライバルのDC-10も胴体を変えずに航続距離を10,000キロ程度まで伸ばした「30」シリーズがヒットしており、座席数を減らしたトライスター500は約40機生産されただけであった。

同時に旅客機ビジネスの難しさを痛感したロッキードは、トライスターの生産を239機で打ち切り、以後民間機の開発は行わないことにしたのである。

一方初期は未熟な機体で事故が多発したDC-10も熟成され、生産が続けられてトライスターの倍近くをセールスし、80年代にはアメリカ空軍から宮中給油機「KC-10A」の受注にも成功した。

機体性能としてはトライスターの方が遥かに先進的で、操縦しやすく、信頼性は高かった。

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     ↑機種を顔に見立てた塗装が人気だったPSA(パシフィック・サウス・ウェスト航空)のトライスター(ウィキペディア英語版より)


日本では75年に全日空が初のワイドボディ機として発注したが、「ロッキード事件」に代表されるように政治スキャンダルに巻き込まれ、ここにきてもトライスターは不運であった。

最も同機に責任はなく、全日空は20年に渡って合計21機のトライスターを運用した。

規制緩和でM国際線運航が認められ、同社初の国際チャーター便グアム行きにはトライスターが宛がわれた記念すべき機体で、現在まで社員には思い入れの深い機材であると言う。

21機のトライスターは全て基本型の「1」だったが、末期にはエンジンが換装され「200」仕様に変更されている。

20年間の運用の間、同機は一度も事故を起こさず、小さなトラブルも他機種に比べて極めて少ない優秀さを誇っており、乗務員の評判は最も良い機材だった。

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     ↑全日空の国際線進出を促したトライスター(ウィキペディア英語版より)

海外でも機体構造を原因とする事故はほとんどなく、機数と言うハンデはあるもののDC-10と比べて非常に対照的であった。

だが旅客機を作り慣れていないロッキードは、思い入れが強すぎて将来性を見越せなかった。

そこが慣れているダグラスとの決定的な違いで、需要に合わせて改良するダグラスの方が1枚上手であったのが悔やまれる。

機体としてはトライスターの方が遥かに先進的で安全性も高く、伊達に「アポロ」の技術を使っている訳ではなかった。

フライトサイクルの少ない500は、90年代以降途上国のエアラインに中古機として人気があったが、DC-10の様な貨物機への改造は少なく、現在まで残っている機体はない。

唯一元ブリテッシュ・エアウェイズのトライスターを改造し、空中給油機・輸送機として運用したイギリス空軍だけで、最後のトライスターは14年に退役した。

日本では全日空が95年に退役、乗り入れエアラインでは香港のキャセイ・パシフィック航空やエアランカ(現スリランカ航空)が2000年代初めまで定期便として就航していた。

チャーター便では中古機を再生して運用していた「エア・アトランタ・アイスランディック」(アイスランド)や、米軍チャーターで「リッチ・インターナショナル」「ATA」などが2010年ごろまで日本に飛来していた。

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     ↑キャセイ・パシフィック航空のトライスター1とエアランカのトライスター500(ウィキペディア英語版より)

現代はまさにハイテク機全盛で、それが当たり前になったが、トライスターこそ目立つことはなかったが、その「ハイテク」を実現したパイオニアである。

極論だが、ボーイング777も787も、エアバスA320もA350もトライスターなしでは出来なかったであろうと思う。

飛行機の技術は軍用機から発生数ことが多いが、トライスターは見事民間機にフィードバックさせた機体である。

ただ時代とマーケティングがマッチしなかった、と言うだけで「失敗作」と言い切るのはトライスターに失礼と言うものなのだ。

トライスターは各国で運用されたが、70年代のアメリカを象徴するデザインのエアラインも多く、私はTWA機などがいかにもアメリカらしくて憧れたものだ。

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     ↑2010年代まで使われていたエア・アトランタ・アイスランデックのトライスター。日本にも何度か飛来している(ウィキペディア英語版より)

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     ↑(3枚)最も派手なトライスター。ハワイアン航空、ATA、リッチ・インターナショナル。いずれもアメリカのエアライン(ウィキペディア英語版より)






3連休最終日。さすが街は人の引けが早い・・かと思ったら、意外と多くの人が遅くまで残っている。

地下鉄からもたくさんの人が降りてくるし、カフェも昨夜より混んでいた。

連休中仕事だった人は、明日以降「代休」と言う人もいるだろうし、サービス業の人はこの連休を境に年末年始の大旧を取る人も出てくるかも知れない。

今夜は昨日・一昨日寄り寒さが緩い様で、体は楽だ。

来週は平年並みに戻るようで、札幌では連休中雪が降ったが、11月の平均最低気温は3℃と、史上最も暖かい11月になりそうだと言う。

紅葉も落葉が始まっているが、まだ見ごろの木々も多く、ひょっとすると12月になっても紅葉が楽しめるかも知れない。

今夜は家の中も、そんなに寒くないのは助かる。





元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

寒さは大丈夫ですか?

3連休、君はどう過ごしましたか?

お仕事で、明日以降休み、と言うかもしれませんが晩秋と初秋が同居する今を、君なりに味わって下さい。

空気が冷たく乾燥しているので、喉や鼻の調子には気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。






三諸の神の 神杉 夢にだに 見むとすれども 寝ねぬ夜ぞ多き(万葉集巻二 156 高市皇子)


古代史探偵A 大津皇子と二上山(11月24日 晴れ時々曇り 11℃)

この秋最後の連休、そして中日は秋と言うより「冬」の到来を感じずにはいられない、厳しい冷え込み。

今朝の仙台の最低気温は2.5℃。気象台は市内中心部にあるから、我が泉区や青葉区・太白区西部などでは、0℃前後だったと思われる。

泉区民憩いの場、泉ヶ岳では昨日から断続的に雪が降り、うっすら積もったそうだが、雲に阻まれて「初冠雪」にはならなかった。

青葉区西部でも、昨夜は雨が雪に変わった時間帯もあったと言う。

11月も終盤、雪が降っても不思議のない時期ではあるが、寒さはこの連休まで。

来週は変わりやすい天気が続くものの、気温は平年並みか高くなると予想されている。

あまりの寒さに連休中、車のタイヤを履き替えようとしている人は多いと思うが、週間予報を見て躊躇したのでは?

だが雪は降らずとも、雨で濡れた路面が朝晩凍結する可能性は高くなるので、タイヤの交換はしておいた方が良さそうだ。

昨夜は久し振りに寝付きが良く、すぐ眠れたが、寝相の悪い私は寒かったのか、何度か目を覚ました。

しかも後から玄関のインターホンのピンポーン、で強制起床。

無視しようと思ったが、知り合いだと困るので仕方なく出ると、イケメンの外国人青年二人が「あなたは神を信じますか?」。

やはり我が家のピンポーンは、ロクな事がない。

もちろん速攻かつご丁寧に引き取って戴いたが、ご苦労な事である。

昨夜25年の万博開催地が大阪に決定した。ロシアのエカテリンブルグと決戦投票の結果、過去の実績を踏まえて大阪に決定した。

日本での万博は05年愛知県で開催された「愛地球博」以来20年振り、大阪は70年以来実に55年振りの開催として、決定は大騒ぎ…なのは、自治体や政府のお偉方と一部だけ。

大半の府民は、意外にも冷静だと言う。

万博は25年のGWから11月初めまでの半年間で、大阪市湾岸の夢洲で開催される。

開催まで6年半もあるが、課題は山積み。

松永府知事は喜びとともに「あまり時間がない。すぐさま準備に取りかかる」と言っている。

政府を含め、行政は半年間の来場者は約2800万人を見込み、2兆円の経済効果を示している。

万博は単なる博覧会ではなく、産業界における絶好の取引市場であり、ビッグビジネスが立ち上がる機会でもあり、経済効果はあるだろう。

大阪はオリンピック候補地で敗退し、ライバル東京に持っていかれた屈辱を果たしたと思っているようだが、いつから日本はオリンピックを含め、イベント頼りの安易な金儲けに走るようになったのか、私は素直に喜べない。

確かに経済効果は期待出来るだろうが、開催までかかる費用は税金であり、公共事業である。

儲かるのはゼネコンを中心に、極めて限定された企業ばかりで、市民に還元される事はない。

最もそうなったら「公平」の意味がなくなるかも知れないが、経済効果の恩恵を受ける自治体は、いっそのこと住民に都道府県税を「免除」する事くらいの覚悟が必要ではないか。

設ける自治体や一部企業の為に「それとこれとは別」と言われる筋合いはないし、市民にも収益を「直接」受け取る権利があるのではないか。

オリンピックも万博も、盛り上がるのは開催まで。

問題はその後であり、単なる祭りで終わらせば無責任だ。

例えばオリンピックでは、開催までに都内を中心に公共の場所での禁煙を条例化するとしており、「世界中から来るお客様に対し、グローバルな姿勢を見せる」と言うが、即ちオリンピックありきであり、終了後はどうなのかと言う明確なビジョンが見いだせない。

事実禁煙条例化は、サービス業を中心に猛反発があり、「分煙化」を義務づける事で収まりそうだが、たかが3週間のお祭りに全てを変え、その後の事はさっぱりだ。

万博も開催で大阪を含んだ近畿圏が、将来的な発展に確実に繋がる保証もビジョンも全く不明瞭で、誘致まで府民の反対意見はなかったのだろうか?

オリンピックと万博で、経済効果は一点集中化され、地方は益々白けて不景気になる。

来年はラグビーのW杯が日本で開催されるが、やり過ぎ。

「強者どもの夢の跡」にならぬよう、くれぐれも気をつけて欲しい。



連休中日。最も気分的に楽な日ではないか。

泉中央のユアスタでは、今シーズン最後のベガルタのホームゲーム。1カ月ぶりで最後と言うこともあり、多くのサポーターが駆け付けたようだ。

残念ながら最後のゲームを負けで終わらせ、ちょっとは地元で格好つければ良いのに、何とも締まらない結果。

降格しないだけでも・・と慰めたのか、夜も食事や買い物M、飲み会の人で賑わっていた。

レストラン街は空席待ちが多く、店内は騒々しい。

私が行くカフェも、閉店間際まで多くのお客さんで混んでいた。

今夜も月が出ているが、同時に気温も低下中。

歩けば身体は暖まるが、手や顔だけが冷たく、もはや冬の中。

来週は平年並みに戻ると言うが、この連休の寒さは来るべき厳しい冬への「予行演習」かも。





元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

寒さは大丈夫ですか?

秋最後の3連休、楽しんでいますか?

それとも君はお仕事だったでしょうか?

冬の備えも必要になってきましたが、来週は穏やかな秋が戻りそうで、残った紅葉を最後に楽しめそうです。

空気が冷たく乾燥していますから、体調管理には気をつけて下さい。

帰り道には、一息ついてカフェで甘く暖かいものを飲んで見て下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。





見えずとも 誰恋ひざらめ 山の末に いさよふ月を 外に見てしか(万葉集巻三 393 満誓沙彌)










◎古代史探偵A(大津皇子と二上山)


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          ↑夕暮れの二上山(奈良県葛城市、筆者撮影)


686年10月6日、ヤマト国飛鳥北方の静かな池のほとり。

一人の青年が、自ら命を絶った。

若干24歳の未来多き青年は、自ら死を望んでいなかった。

彼の名は大津皇子。

旧暦10月6日は、新暦に換算すると今年は11月13日に当たる。

大津皇子は天武天皇の皇子で、ちょうど1カ月前50代半ばで崩御したばかり。

天武天皇の皇后、鵜野讃良皇女主催で「殯」が始まったばかりの事であった。

日本書紀には「大津皇子が皇位を狙って謀反を企てた」として、国家反逆罪に問われ「死罪」を賜ったと伝えるが、彼の具体的な行動は不明である。

故に歴史学において、様々なそして無責任な「決めつけ」が横行し、24歳と言う若さでの死に同情とも取れる感情が、歴史学にまかり通っている。

大津皇子に死罪を言い渡したのは、亡き天武天皇の皇后(当時の正式名称ではないが、便宜上皇后とする)鵜野讃良皇女であった。

彼女には夫・天武天皇との間に一人息子、草壁皇子がおり、5年前の681年に「皇太子」に指名されていた。

その9年前の672年、天武天皇は「壬申の乱」で、亡き実兄・天智天皇の嫡子・大友皇子から政権を奪取。

都を近江から飛鳥に戻し、翌年天武天皇として即位していた。

この時草壁皇子は11歳、大津皇子は9歳。

まだ立太子するには幼少だったが、天武天皇は皇太子指名に苦慮していた。

草壁皇子と大津皇子は異母兄弟で、大津皇子の母は鵜野讃良皇后の実姉・大田皇女であった。

しかし大田皇女は、天武天皇が即位する6年も前の667年に23歳で死去していた。

大津皇子には一つ年上の姉・大伯皇女がいたが、母が亡くなったのはどちらも4~6歳と言う幼い時であり、詳しくはわからないものの、実妹である鵜野讃良皇女の近くで育てられたことは間違いないだろう。

天武天皇には実兄・天智天皇の娘で同母姉妹の大田・鵜野讃良両皇女の他、2人の「妃」と3人の「夫人」、2人もしくは3人の「嬪」がいたことが分かっている。

これは彼女たちの出身身分による区分けであるが、今でいう「夫人」は少なくとも9人いたことになる。

最初の妃は大田皇女だったが、天武天皇が即位する前に逝去しており、次位の妃であった鵜野皇女が即位時には「正妃」の位置にあった。

天武天皇は、兄天智天皇が手掛けた皇室への中央集権国家体制を改革を引き継ぎ、合議制時代の有力豪族の台頭を排除した。

即ち家系だけによる権力継承は皇室だけにして、政府の官僚は幅広い人材から登用した。

国政の決定権は「天皇」に集中させ、権力抗争を根絶やしにしようと考えていた。

同時に皇后となった鵜野皇女を「共同統治者」としての権限を与え、夫婦で「律令体制」の構築を目指していた。

しかし天武天皇は律令の完成や、その実質的な証拠となる「新京」の完成を待たずに崩御したのである。

普通ならば既に皇太子に指名した草壁皇子が即位して然るべきだったが、なぜか天皇位は空位のままであった。

これは鵜野皇女が亡き天皇の「殯」を続けていたからであり、それが明けるまで新天皇の即位は行われないのが慣例であった。

加えて皇太子・草壁皇子もまだ15歳であり、当時慣例として即位は20~30歳が妥当と見られており、皇后にしてみれば困った事態であった。

天武天皇は多くの妃・婦人を持ち、当然ながらその地を引く皇子もいて、2人の他最も年長の高市皇子を含めて6人が皇位継承権を持っていた。

最も高市皇子の母は、天武天皇の「嬪」すなわち地方豪族の出身で、継承者としては半歩ずれた立場におり、逆に他の皇子はいずれもまだ年少であった。

しかし空位のままでは、天武天皇が積み立てて来た国家改革の基盤が緩む危険性もはらんでおり、草壁皇子の聖人まで待つことは不可能であった。

ところが天武天皇崩御後の1カ月後、11月9日(旧暦10月2日)に大津皇子が「謀反」を企ていると言う情報が皇后側に伝わり、新羅僧行心を含む30数名が身柄を拘束された。

この時空位のままの皇位は、皇后が「称制」と言う形で指揮していたと言うが、皇太子即位について世間はざわついていた。

確かに草壁皇子が正式な皇太子ではあったが、大津皇子の人望は篤く、父である天武天皇も政権の仕事を任せるなど、絶大な信頼を寄せていた。

年少のことから文武に長けて、性格も大らかで、人から好かれる性格であったと言う。

一方記録では草壁皇子の人なりについては沈黙しており、これが後世二人の「人望」の差として解釈されて来た。

確かに天武天皇は、大津皇子を寵愛し朝廷の要職に就かせていたが、草壁皇子は際立った活躍が見て取れず、これは政治家としての手腕を天武天皇が密かに買っていたと言う事であり、一方それに気づいていた鵜野皇女は、是が非とも後継者に我が子・草壁を即位させる決意を固めていた。

「謀反」の罪で拘束された人物が30名以上と言うと、なるほど大津皇子を支持する勢力は確かに存在していたことになり、皇后が大津皇子を「要注意人物」としていた可能性は高い。

同時に大津皇子は亡き夫と姉の忘れ形見であり、鵜野皇女にしてみれば大津皇子は我が子同然であったはずである。

しかし「日本書紀」では事件の真相をの多くを語らず、支持した数十名に対して「「大津皇子に欺かれた者」と完全な罪人扱いする一方、彼を「才能豊かな人物」とフォローしている点が極めて不自然である。

こうしたことから現在も、大津皇子は是が非とも草壁皇子に即位させたいとする皇后が仕組んだ「罠」であり、後に即位する事になる皇后、「持統天皇」は「悪女」的な扱いが優勢となっているのである。

このことについて、疑問を持った漫画家・里中満智子氏は「独自の解釈によるフィクション」と前置きしつつ、自著「天上の虹」で事件を描いている。

人間関係やドラマに関しては、ご本人がおっしゃるようにあくまで「推論」であり解釈であり、私は全面的に支持することはできないが、世俗の固定観念である「持統天皇陰謀論」の否定には賛同する。

実は当時「皇太子」の地位は、絶対的な保証制度ではなかった。

あくまで前代の意思によるものであり、それがなければ年齢や母親の出自などを考慮した上で即位が決定された。

しかし草壁皇子は大津皇子より年上であるに加え、母・大田皇女は「皇后」にはなれなかった。

妹の鵜野皇女より先に天皇に嫁いでおり、もし早逝せず皇后になれば、大津皇子が皇太子になった可能性はある。

しかし草壁皇子の方が2歳年上であり、大田皇女と鵜野皇女は実の姉妹であり、生きていればもっと複雑な状況になっていたであろう。

気の毒にも大田皇女は若くして逝去し、身分・出自の点から鵜野皇女が皇后になることは必然であった。

同時にその子である草壁皇子が皇太子、いずれは皇位に就くこと自体も必然だったのである。

つまり大津皇子を「邪魔者」として排除する理由は、皇后には見当たらないのである。

彼女は天武天皇の「共同統治者」としての立場は揺るぎないものになっており、正式な即位はしておらずとも「詔」できる立場にあり、大津皇子を恐れる必要はなかったのだ。

かと言って、大津皇子の「謀反」とはいかなる概要だったのか、「日本書紀」は一切を語ろうとしない。

しかも謀反が発覚した翌日の10日には早くも「死罪」を言い渡しており、同時に共犯者達は重くて流罪・官位はく奪など比較的軽い罪に留め、舎人などはほぼ「無罪」に赦免している。

要するに事実関係や取り調べと言った調査を行わず、しかも首謀者として大津皇子だけ死罪と言うのも不審であり、なぜ急ぐ必要があったのか、という疑問は残る。

別伝によれば異母兄弟で、大津皇子に加担したと言われる川島皇子が皇后に計画と参加者を密告し、彼自身は「謹慎」だけで赦免されたとも言われるが、事実は不明である。

「日本書紀」のあっさりしすぎた事件の顛末自体、何か不都合を隠そうとする意図が見えなくもなく、これが持統天皇陰謀説の根拠の一つになっている。

だがもし陰謀であれば、30名以上と言う多数の支持者は「司法取引」で全員裏切るだろうか?

絶対的な皇后に立ち向かう者はおらずとも、これだけの人数が陰謀であることに口をつぐむとは思えず、やはり大津皇子には少なくとも「謀反」と取られても仕方ない言動が認められたのと同時に、天武天皇崩御前後からそうした雰囲気があり、それこそ皇后が監視と情報収集をしていたことは充分考えられる。

もしくは皇后の側近であった高市皇子などが、それを支持し、万が一を想定していたとも考えられよう。

少なくとも後世の「長屋王の変」の時の様な、「讒言」による陰謀ではない。

ただ若い大津皇子を「利用」して、謀反を企むように誘導したある「勢力」がいたことも大いに考えられるが、イコールその「黒幕」が皇后と言うのは短絡的であろう。

大津皇子もまた、覚悟の上だったのか逃亡したり釈明する事もなく死罪を賜ったところをみると、何らかの行動を起こそうとしていたか、起こしたのであろう。

大人数を従えていたとすると、謀反は武装蜂起であった可能性が高い。

古代史漫画「天上の虹」では、事前に天武天皇が大津皇子に直接譲位を伝えており、それを根拠に蜂起すると言うストーリーだが、譲位の意向は無理があるものの、大津皇子に対する天武天皇の言動を「譲位」することと思いこんだ可能性はあるだろう。

若い大津皇子は、それが真実であり、我こそ亡き父王の意思をついで新しい日本を作る・・・と言う使命感に燃えていたのだろうか。

だが、焦りすぎであった。

恐らく事前から、草壁皇子と大津皇子は噂と言う点で何かと比べられ、冗談半分にどちらが後継者に相応しいかなどと言われ続けていたのであろう。

「日本書紀」の彼へのフォローも、短い文章ながら「焦らなければ良かったのに」と言っているようにも見える。

当人の知る由もなく、結果論ではあるが、草壁皇子は大津皇子が亡くなって僅か2年後の688年に28歳と言う若さで逝去、皇位に就くことなく人生を終え、悲観に暮れる間もなく称制を続けていた鵜野皇女が持統天皇として正式に即位した。

歴史に「もしも」は禁物だが、仮に「草壁皇子より自分が皇位に相応しい」と思っていたのなら、もう少し待つべきであった。

草壁皇子が亡くなれば、大津皇子が即位出来た可能性は充分出てくるし、そうでなく持統天皇が即位したとしても、今度こそ正式な皇太子に指名されたかもしれない。

結局持統天皇は草壁皇子の第2子で、唯一の男子・軽皇子を皇太子に指名し、なんと僅か14歳で譲位し(文武天皇)、自ら初の「太上天皇」に就いている。

大津皇子の事件が忘れられなかったのであろう、7世紀に於いて14歳での即位は史上最年少であった。

逆説的には、草壁皇子も10代で即位させることもできた訳で、持統天皇本人は大いに後悔したのであろうと察せられまいか。

持統天皇・草壁皇子・大津皇子とも、彼らにはあと少しの時間があれば、血なまぐさく若い命を投げ出すことはなかったのではないか。

持統天皇にしてみれば、恐らくは同じことを想い、断腸の思いで断罪したのである。

…大津よ、なぜあなたは焦ったの・・・?

日本書紀からはあまりに短い一節で、真相を知るのは困難に思えるが、大津皇子は何らかの謀反行動を企て、言い訳できない所まで進んでしまったと見るべきであり、持統天皇を草壁皇子を想うばかりに大津皇子を排除したと決めつけるのは、間違っているし失礼であろう。

日本は天皇を元首とする「律令」国家の道を歩み出しており、単なる「内輪もめ」で終わらせる状況になかった。

まだ称制だったとはいえ、事件当日の最高権力者が皇后鵜野皇女・持統天皇であることは明白であり、夫とともに立ちあげた律令体制を私情で踏みにじることは出来なかった。

むしろ彼女は「冷徹」と言う汚名を敢えて甘んじる覚悟で、日本の国家体制を守り通したと言える。

故に大津皇子も、その想いを受け入れていれば、謀反を起こすことはなかったのかも知れない。





「ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠れなむ」(万葉集巻三 416)



この歌は死を直前に「辞世の句」として、大津皇子が詠んだと伝わる。

当時皇族に対する「死罪」は、自害の強要である。

また神仙思想から切傷による自害は禁止されており、「縊死」か「服毒」を選択した。

謹んで死罪を賜った、と言う事と、辞世の句を詠んだことからも彼の覚悟が却って悲しく思える。

磐余の池は、現在はない。

古墳時代から池の存在は史料に現れ、その所在に諸説唱えられているが、現在奈良県桜井市池之内地区が古代の磐余池である。

これを否定する研究者も多いが、11年に周囲から6世紀末から7世紀前半のものと思われる建物跡が確認され、時代は遡るが用明天皇の「池辺双槻宮」の跡である可能性が高い。

検出された場所は、周囲の水田から数メートル程土が「弓状」の盛り上がった場所で、昔から池の「土壇」と伝えられている。

地図や上空から見ると、確かに人工的に土が弓の弦の様になっていて、南側に広がる水田も良く見ると池らしき地形になっていることが分かる。

「大和三山」の香具山東麓に当たるが、水田地帯の中央に「半島」の様な丘が張り出し、南端には現在も小川が流れており、地形を見る限り大きな池であったことはほぼ間違いない。

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     ↑(3枚)磐余池跡地と大津皇子歌碑。3枚目の住宅がある辺りが土壇跡(奈良県桜井市、筆者撮影)


大津皇子の自宅は磐余池の近くにあって、朝もや煙る秋の早朝に、鴨が1日の始動に飛び立つ姿を見つつ辞世したのである。

現在池跡の北西端には、奈良時代の高級官僚・吉備真備が発願したと言われる「御厨子観音」が存続しており、入り口には大津皇子の辞世の句が建てられ、同寺では毎年命日に法要を行っている。

24歳の青年皇子は、最後に何を見たのであろうか。

同時に若さゆえの過ちに気付き、生きることの大切さにも気づいたのであろうか。

死後皇后の命令により、大津皇子の遺体は都から遠く離れた二上山の頂上に葬られた。

罪人であると同時に皇族でもあったことへ、皇后のせめてもの供養は都から離されながらも、古くからパワースポットとして崇められてきた二上山に眠ってもらうことだったのだろう。

二上山は雄岳と雌岳からなる「ツインピークス」だが、標高の高い雄岳山頂付近には宮内庁治定の「大津皇子の墓」があり、気軽なハイキングコースと相まって古代史ファンが供養に訪れる。

特に「天上の虹」が発行後、若い女性の来訪も増えたと聞く。

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         ↑二上山山頂にある大津皇子墓(ウィキペディアより)

水を指すようで申し訳ないが、この治定墓は「古墳」ではなく、古墳「らしき」ものである。

治定前の資料を見ると、確かに古墳らしきものあるが形を留めておらず、損壊ではなく「未完成」であると言う。

しかも、ほとんど基礎部分だけで終わっているような跡だと言う。

宮内庁が治定してしまったので、それ以上の調査は行われていないが、同じ二上山の南麓の登山道の入り口付近に「鳥谷口古墳」があり、調査の結果7世紀後半のものと考えられている。

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           ↑鳥谷口古墳(奈良県葛城市、筆者撮影)


墳丘は失われているが、石棺が残されている。既に盗掘されてはいたが、残された遺品には須恵器などの土器の他、わずかに金製品が残されており、高位の人物が葬られたことが分かる。

当麻寺から数キロ上った狭い登山道の土手の上にあり、思い当たる周辺豪族も考えられないことから、こちらが大津皇子の墳墓である可能性が高い。