古代史探偵A 新薬師寺・十市皇女の涙(12月11日 晴れ時々曇り 7℃)
真冬並みの寒波は少しだけ収まり、気温も僅かに上がった。
だが寒い事に変わりはない。
特に家の中は日増しに気温が下がっている。
日差しが弱くて温まらないのだろうか、我が家は善くも悪くも保温性の良い建物なのだが、夏は一度温まると容易に涼しくならず、冬は一度冷えるとやはり容易に温まらないと言う欠点がある。
貧乏だから、暖房器具はまだ出してさえいない。
そこまで寒くもない、と言う事ではあるが。
それでも、以前住んでいた家よりはマシ。
前の家は変に広くて、ストーブを焚いてもなかなか温まらず、その部屋以外に暖房など光熱費がどれだけかかるかわからず、居間から一歩も出られなかった。
トイレや風呂に行くのも憚られるほど。
その前の家は古い木造家屋で、隙間風だらけ。
そういう意味では、鉄筋コンクリート造りの今の家が最もコンディションが良いと言えるのだが、どうもいつでも快適、と言う訳には行かない。
夏はエアコンや扇風機を使うなり、窓を開けるなどの対処方法があるが、冬は暖房するしかない。
かと言って我慢し過ぎて体調不良になるのもバカバカしいし、難しい所だ。
低気圧が今夜から明日午前中にかけて接近し、県内は深夜から雨か雪・・と言う予報は聞いていた。
予報士は「早くて日付が変ることから雪かみぞれが降ると思います。」と言うのを、私ははっきり聞いていた。
コ○ギ~!話が違うぞ、信じた私が馬鹿だったか。
22時過ぎに急に雪が降り始めている。
一見ミゾレか、と思ったが、水分の多い大粒の雪。
もちろん傘は持っていない。
バスにするか・・と思ったが、歩くつもりでカフェでゆっくりしていたので時間切れ。
歩くしか手立てはなく、ずぶ濡れではないけれど、冷たい雪に頭や上着はしっかり濡れた。
買い物はビニール袋に入っていたので大丈夫だったが、帰宅後すぐ風呂に入ったのは言うまでもない。
気温自体はそれほど低くないので、帰るまで道路は積もっていなかったが、歩道はびちゃびちゃでシャーベット状になっていた。
仙台特有の「ベチャ雪」。雨の様に始末が悪い。
わかっていれば傘を持って出かけたのに・・・。
元気ですか?
今日は良い一日でしたか?
体調はどうですか?
風邪など引いてませんか?
帰り道、雪には当たりませんでしたか?
明日朝まで降ると言うので、外出の際には足元に注意して下さい。
寒さも本格的になりましたの手、体調管理にも気をつけて下さい。
冬の寒さは辛いですが、それを楽しむように過ごして下さい。
明日もどうかお元気で。
君に笑顔がありますように。
お休みなさい。
天霧し 雪も降らぬか いちしろく このいつ柴に ふらまくを見む(万葉集巻八 1643 若桜部朝臣君足)
☆今日のバス
0005号車 18年式いすゞエルガ(LV290N2) 野村車庫
◎古代史探偵A(新薬師寺 十市皇女の涙)
奈良市の奈良公園は、数キロ四方に及ぶ広大な敷地が指定され、年間通して観光客が絶える事がない。
奈良時代、平城京においては宮城の外側「外京」に当たり、神奈備・春日山を中心に都の「守護神」として寺院と神社が置かれた。
東大寺を中心に、春日大社、興福寺と言った平城京を代表する大寺院が建ち並んでいる。
公園区域の最南端に位置するのが、平城京遷都の立役者・藤原不比等が祀った春日大社が鎮座し、周辺部は山自体をご神体とする神奈備である。
そのため参道以外に足を踏み入れる事が出来ない「禁足地」に指定されており、1.300年間守られている。
おかげで春日山の森林は奈良時代から手つかずの状態で保存され、都会にもかかわらず原生林として厳しい管理の下、受け継がれている。
春日大社へは興福寺東側の表参道から入るのが一般的だが、東大寺から若草山を散策しながら至る参道や、原生林の中を通る古代から残る狭い参道がいくつか存在する。
春日大社から南側へ下ろうとすると「囁きの道」「禰宣の道」などと名付けられた小径があり、恐ろしいまでの静寂の中、森林浴を楽しめる。
これらの道は山を下ると高畑町と言う旧市街地に抜け、神域の外に出られる。
この街は普通の住宅街だが、かつては春日大社への門前町の一つであった。
現在は静かな古い住宅地で、この一角にあるのが「新薬師寺」である。
ちょうど裏手には奈良市立写真美術館や奈良教育大があり、ちょっとした文芸地区でもある。
↑新薬師寺(奈良市高畠町、筆者撮影)
「新薬師寺」は「続日本紀」によると、745年(天平17年)聖武天皇の眼病平癒を祈願して光明皇后によって建立されたと見える。
創建当時は4町もの広大な敷地と伽藍を誇ったと言われるが、現在は本堂と鎌倉時代に立てられた南門と東門、茶室が残るだけの小さな古刹である。
観光ルートからちょっと外れた位置にあり、春日大社への参道から入り組んだ狭い道を進んだ場所にあるので、シーズンでも訪れる人は少なく、穴場的な寺である。
同寺南門の正面には、美しい稜線を持つ「高円山」があり、毎年お盆には山頂付近で送り火の「大文字焼き」が行われる。
この時ばかりは猛暑の日中から「場所取り」の地元客や観光客で混雑するが、それ以外は静かな住宅街のお寺である。
現在の境内は小さな公園程度の狭い場所だが、本堂は貴重な奈良時代の建物である。
本尊は「薬師如来像」だが、それを守る「十二神将」像こそ同寺最大の魅力と言える。
薬師如来像は平安時代初期の木彫で、全高2メートルある。
一木造りの木彫像は珍しくないが、2メートルを超す物は異例である。
ただし一体削り出しではなく、頭部と胴体、両手などは別に削り出して組み合わせてあるが、木目や節から同じ1本の木から削り出していることが分かる。
「眼病封じ」の如来と言うことで、目が大きくぱっちりしており、「国風文化」が意識され始めた時代の仏像なので「ポッチャリ」体型と相まって、初めて見る女性などだと思わず「可愛い」と思うだろう。
↑本尊・薬師如来像(ウィキペディアより)
一方本尊を円形に取り巻く十二神将像のうち「ハイラ」以外は、奈良時代の作品で、全て当時スタンダードだった脱活乾漆法で作られている。
「ハイラ」は明治時代の地震で倒れ損壊した為、1931年に複製されたものである。
このため「ハイラ」を除く11体が「国宝」であり、本尊薬師如来は重文となっている。
もちろん本堂も国宝である。
↑十二神将像(ウィキペディアより)
2008年、奈文研を主導とする調査で、西側にある奈良教育大のキャンパスで、大型の建物跡が確認され、関係者の間で大騒ぎになった。
建物は礎石作りで、正面54メートル、奥行き27メートルと言う「正長方形」であることが分かった。
高さは不明だが、礎石の大きさから12~15メートルはあったのではないかと言われ、当時の東大寺・大仏殿に匹敵する大寺院だったことが事実上証明された。
記録から新薬師寺は朝廷から食封(経営費用)を下賜される「官寺」だったことが分かると同時に、平城京・外京が大臣・藤原不比等の勢力がおよんだ地域でもあったことも影響していよう。
不比等は既に720年に亡くなっていたが、その後は不比等の子「藤原四兄弟」が後を継ぎ、権勢を奮った。
しかし735年に遣唐使の帰国船が持ち込んだと思われる「天然痘」が、九州から瞬く間に平城京にも拡がると、権力を掌握していた四兄弟、武智麻呂・房前・宇合・麻呂は僅か半年のうちにり患し死去している。
その後政権は藤原氏が一時的に衰え、橘諸兄が右大臣として責任者になるが、同時に藤原武智麻呂の子・仲麻呂が権力に近付いていた。
彼は叔母に当たる光明皇后と親しい間柄にあったとともに、擁護を受けて諸兄政権を圧迫する。
新薬師寺はまさにその時代に建立されたことになり、広大な敷地や伽藍も光明皇后の一存であるより、仲麻呂の働きかけも強く作用したはずである。
光明皇后は、夫・聖武天皇にならって仏教を深く信仰した。
父・不比等から受け継いだ敷地を「法華寺」や「海龍王寺」を建立し、尼寺である法華寺では貧しい人や病気の人を救うための施設「施薬院」を作ったりしている。
特に病気・健康については深い関心と知識があったと思われ、新薬師寺もそうした彼女の想いを反映して建立されたと思われる。
記録によると奈良時代後期の780年(宝亀11年)に落雷で西塔が焼失、平安時代中期の962年(応和2年)秋の台風で、伽藍のほとんどが倒壊・損壊したと見える。
1180年の平重衡による「南都焼き討ち」では、辛うじて兵火から逃れたが、台風以降寺は衰退し、伽藍の復興は行われず現在に至っている。
記録から東西両塔があったことが分かるが、現在はほとんどが住宅地になっているため、遺構は確認されていない。
しかし正面54mもの本堂らしき建物だったことから、両塔もそれ相当の高さであったことは確実である。
東大寺の東西両塔が「七重塔」で、高さは約100メートルあったから、新薬師寺のそれも近い高さを誇っていたことだろう。
藤原氏の隆盛は、平城京の大都市化を促進させ、東大寺の他元興寺や大安寺(南大寺)・興福寺にも数十メートルの多重塔が設置されていたから、まるで「摩天楼」の様な景色が拡がっていたはずである。
今やその面影は全くなく、奈良市内で最も高い建物は大仏殿の約49メートル。
市の条例で大仏殿より「高い」建物は作ってはいけないことになっているため、もし光明皇后や聖武天皇がタイムマシンでやってきたら、「平城京時代の方が大都市っぽい」と嘆くかも知れない。
話が逸れたが、現本堂は見つかった大型建物の位置と方向から「食堂」か「講堂」だったと考えられる。
大きさから「食堂」ではないか、と言う説が有力だ。
新薬師寺の「新」とは、三重塔と薬師如来像で有名な西ノ京の「薬師寺」に対して「新しい」と思われがちだが、本来は「霊験新たか」と言う意味である。
だが聖武天皇が眼病に罹ったという記録は見えず、老眼に対する「守護」の目的で建立されたのではないかと思う。
なお予備知識として、お寺で薬師如来像の由来を聞くと「左手に薬壺」を持っていることが識別ポイント・・・などと説明されることがあるが、実際には誤り。
仏教による薬師如来は、物理的な「病気」以外、心の病気も含め、ありとあらゆるものを救済するという意味を持つ。
薬壺を持つようになったのはわかりやすくするためや、分派した宗派によるもので、本来の薬師如来に薬壺はないのだ。
さて新薬師寺に行くと、狭い路地を越えて南門から入ることになるが、その横に神社があるのに気づくと思う。
西側には小さな神楽舞台を持つ「南都鏡神社」があるが、正面右側・南門の東側にとても小さな神社・・と言うより「祠」があるのに気づく人は、どのくらいいるだろうか。
言葉は悪いが、どこにでもある祠であり、奈良の寺院では寺の守護神として小さな祠がよく見かけるものだ。
この祠には「比売神社」と言う立派な名前があるが、正式に祀られたのは1980年。
高畠町の住民有志が建立した神社で、御祀神は「十市皇女」(とおち)である。
彼女の事を知っている人は、かなりの「古代史好き」と言って良いだろうか。
十市皇女は飛鳥時代の皇族で、天武天皇の皇女である。
↑比売神社。右側奥が新薬師寺(ウィキペディアより)
671年12月3日(新暦では672年1月8日)、天智天皇が48歳(推定)で崩御した。
治世では実弟・大海人皇子が「皇太弟」に指定されていたが、天智天皇は「大化の改新」に始まる改革を進めるうちに、子である大友皇子に後を継がせる雰囲気を醸し出していた。
大海皇子には世継ぎとして複数の妻に6人の男子がいたが、天智天皇には地方豪族の娘で「嬪」の身分に過ぎない伊賀宅子娘の間に生まれた大友皇子しかいなかった。
当時皇位継承権は、両親とも皇族であることが必須条件であったが、正妃で皇族出身の倭姫との間には子自体が出来ていなかった。
天智天皇は「改革」の一環として、母親が皇族でなくとも皇位は「親子相続」に出来る方針を作ろうと考えていたフシがあり、政権では大友皇子を重用した。
同時にそれは既に「皇太弟」だった大海人皇子と大友皇子の皇位争奪の様相を見せ始めたため、天智天皇が崩御する直前に大海人皇子は臣籍降下を申し出て「僧」として出家、吉野に隠匿すると宣言する。
大友皇子へのあからさまな重用は、朝廷内で大海人皇子を「邪魔者」「政敵」と見なしかねない状況にあったのである。
やがて天智天皇が崩御すると、都のあった近江京で大友皇子賀事実上後継者としての立場についた。
そして吉野に隠匿していた大海人皇子は挙兵し、「壬申の乱」が勃発。
紛争は大海人皇子側の勝利に終わり、大友皇子は近江京郊外で自害。
大海人皇子は「天武天皇」として即位し、都を飛鳥に戻した。
即位した天武天皇は、近江朝についた人物についてはほとんど罪とせず、紛争を指揮した高官以外は無罪にしていた。
ところが問題が一つ残っていた。
天武天皇の娘である、十市皇女の処遇であった。
彼女は乱の前に大友皇子の妃として嫁いでおり、天智天皇崩御後は事実上の「皇后」であったのである。
もちろん政治には直接関わりなかったので不問で当然だったが、乱が終わると大友皇子は「反乱者」「敗軍の将」と言う烙印を押されていたのである。
十市皇女の母親は、我が国最高の女流歌人「額田王」その人で、当然天武天皇の妃の一人である。
伝承では天智天皇に払い下げられたという説があるが、記録を照らし合わせると親しくはあっても天智天皇の妃になったという事実はないことから、ここではあくまで天武天皇の妃としておく。
正規かどうかが別として、壬申の乱の結果は十市皇女の立場を微妙な物にしていたのは確かである。
大友皇子と彼女の間には葛野王(かどのおう)という男子がいたが、母子とも飛鳥に戻るには時間が必要であった。
記録では壬申の乱の最中、皇族の子女はほとんどが近江京に残っていたが、全員戦火に巻き込まれることはなく、その後飛鳥に戻っているが、なぜか十市皇女の消息は見えてこない。
大友皇子の妃と言うことから、ほとぼりが冷めるまで近江に留まったとも考えられるが、都は天武天皇側が火を放って焼き討ちしており、住民も飛鳥に送還されていることから、彼女もほどなくして飛鳥には戻っていたと考えられる。
しかし壬申の乱後、記録に彼女は僅かに散見出来るだけで、その去就は謎に包まれている。
「日本書紀」は天武天皇が国史として正式に編纂を命じたもので、大友皇子の「即位」は当然認めていない。
認めると天武天皇はクーデター・武装蜂起による「政権奪取」となるだけでなく、それは元々の「皇太弟」と言う立場を否定しかねない。
そのため長年大友皇子は政権を掌握はしていたものの正式に「即位」していない、とされてきた。
ところが明治時代に改めて日本書紀の吟味が行われ、大友皇子の「即位」を認めて「弘文天皇」の名前が送られ、「天皇」として認められた経緯があるが、当時天武天皇政権は認める訳には行かなかったのである。
だとすれば本来十市皇女は、「違法」な皇子の横暴に巻き込まれた悲劇の皇女として同情されて然るべきであったはずである。
僅かに残る記録では、675年春に阿閉皇女(天智天皇の皇女で、のちの元明天皇)とともに伊勢神宮に参拝したと見える。
当時伊勢神宮には「斎王」として、彼女の異母妹・天武天皇の娘大伯皇女が務めていた。
何故十市皇女と阿閉皇女が、この組み合わせで行幸したのか理由は不明である。
しかし記録に載せていることから、皇祖神アマテラスを祀る伊勢神宮に勝利の報告を仰せつかったのではないか、と見られているが、なぜこの二人であったのか理由はわからない。
十市皇女は648年生まれと653年生まれの2つの説があり、行幸の時は20代後半だったことになる。
一方阿閉皇女と斎王の大伯皇女は10代半ばと見られる事と、神への奉仕は「未婚・処女」であることが前提であったことから、十市皇女の行幸自体不審と言わざるを得ない。
この後、彼女は再び記録から姿を消し、3年後突如登場する。
678年春、天武天皇は国家安泰を祈願して「初瀬の杜」と言う神社を祀る事を決定し、そこの斎王に十市皇女を指名したのである。
先に書いたように斎王は古代における巫女と同じく「潔癖」でなくてはならず、結婚して子を持つ十市皇女は完全な「不適格」だったにも関わらず、天武天皇は彼女を斎王に指名したのである。
理由はわからないが、天皇にしてみれば娘でありながら「敗軍の将」の妃と言う事に、何らかの負い目もしくは引っかかりがあったのだろうか。
明らかに無理強いして、彼女を世間から隔絶させる意味を持っていた。
そして斎王として出家する当日朝、十市皇女は急死した。
日本書紀では「病で急死した」と書いており、通常死因を示さない紀としては些か不審である。
故に自殺説・暗殺説が今も絶えず、彼女はまさに「悲劇の皇女」として語り継がれている。
特に自殺説では、同年代で異母兄弟に当たる高市皇子が、彼女の死を悼んで歌を残しており、幼少のころから親しかった高市皇子と恋仲だったのでは・・・と言う憶測が自殺説を支持する。
高市皇子も天武天皇を父に持つが、母は大友皇子と同じく地方豪族出身の「嬪」出る尼子娘。
天武天皇にとっては最年長の「長男」だったが、皇位継承権はなかった。
彼は天武天皇に重用され、崩御後後を継いだ女帝・持統天皇には太上大臣として最高位にまで上り詰めた人物である。
しかし前後に彼の歌は残されておらず、十市皇女への「挽歌」とも受け取れる文面に、許されぬ愛があったのでは?と言う憶測があっても不思議はない。
ただ皇女と言う立場が固定観念を引き起こしているように、私は思う。
歴史では不審死を自殺や暗殺と結び付ける嫌いがあり、正直ドラマや映画の見過ぎに思えてしまう。
古代での平均寿命は40~50歳で、もちろん十市皇女はまだまだ若かったに違いないが、不慮の病気の可能性は捨てきれまい。
増して上記の様に、壬申の乱以降彼女の立場は、たとえ世間が同情しても皇族・朝廷に対してはかなり微妙であることは間違いなく、かつ一人息子である葛野王の将来も母親として大いに心配していたことだろう。
壬申の乱から6年と言う月日を考え、直前に斎王に命じられたのも、あるいは心の病やストレスに大きな心労を伴っていたのではないか、と考えられまいか。
医療や食事が未発達だった当時、たとえ心の病でもそこから大きく体調を崩し、突発的な病気に襲われたとしても不思議ではないだろう。
例えば心臓や脳関係の疾患とも考えられるし、伊勢行幸後年間記録に登場しないことから、病気で臥せがちだった可能性もあると思う。
霜降りいたも 風吹き寒き 夜や旗野に こよひわが ひとり寝む
これは現在の三重県津市にある波多神社に、十市皇女の作と伝わる歌である。
恐らくは伊勢神宮行幸の途中に、神社に立ち寄って詠んだものと見られるが、まだ冬の気配が残る旅路の途中、寒さの中一人で寝る寂しさを表現していると思われる。
もし十市皇女の歌であれば、彼女は675年の時点で「孤独」に打ちひしがれていた、と考えられよう。
20代後半と言う若さであれば、体力はあっても精神的に不安定になりやすい時期だったとも言えるかも知れない。
新薬師寺前の「比売神社」の背後には、昔から「比売塚」と呼ばれる小さな古墳のようなものがあったと伝えられている。
同時に記録では、十市皇女が死去後天武天皇は「赤穂」の地に手厚く葬った・・・と見える。
現在赤穂と言う地名は残されていないが、高畠町付近がかつて赤穂と呼ばれていた記録がある。
加えて新薬師寺から南に約300メートルほど行った辺りに、「赤穂神社」が祀られており、天武天皇の妃の一人で、中臣鎌足の娘だった「氷上娘」も赤穂に葬る・・と記録が残る。
↑赤穂神社(ウィキペディアより)
三輪山の 山辺真麻木綿 短木綿 かくのみゆえに 長しと思いき(万葉集巻二 157 高市皇子)
山ぶきの 立ちよそいたる 山清水 酌みに行かめど 道知らなく(万葉集巻二 158 高市皇子)
万葉集には他にもう1首、十市皇女が薨去しませる時に高市皇子が捧げる歌と言う注釈がついており、彼が十市皇女の死を大きく悲しんでいたことは間違いない。
約4,500首の歌の中で、高市皇子の歌はこの3首だけ、十市皇女の歌は1首も残されていない。
そう考えると、邪推は禁物だが、二人には世間が許さない間柄にあった可能性は捨てきれず、それも含んで十市皇女は心を重く病んでいたのかも知れない。
時代は違うが、新薬師寺の薬師如来は彼女の心を治そうとする仏として、今まで見守り続けて来たのではないか。
あるいは光明皇后自身、十市皇女の悲劇を知っていたからこそ新薬師寺を建立したのかも・・と思う。
だが寒い事に変わりはない。
特に家の中は日増しに気温が下がっている。
日差しが弱くて温まらないのだろうか、我が家は善くも悪くも保温性の良い建物なのだが、夏は一度温まると容易に涼しくならず、冬は一度冷えるとやはり容易に温まらないと言う欠点がある。
貧乏だから、暖房器具はまだ出してさえいない。
そこまで寒くもない、と言う事ではあるが。
それでも、以前住んでいた家よりはマシ。
前の家は変に広くて、ストーブを焚いてもなかなか温まらず、その部屋以外に暖房など光熱費がどれだけかかるかわからず、居間から一歩も出られなかった。
トイレや風呂に行くのも憚られるほど。
その前の家は古い木造家屋で、隙間風だらけ。
そういう意味では、鉄筋コンクリート造りの今の家が最もコンディションが良いと言えるのだが、どうもいつでも快適、と言う訳には行かない。
夏はエアコンや扇風機を使うなり、窓を開けるなどの対処方法があるが、冬は暖房するしかない。
かと言って我慢し過ぎて体調不良になるのもバカバカしいし、難しい所だ。
低気圧が今夜から明日午前中にかけて接近し、県内は深夜から雨か雪・・と言う予報は聞いていた。
予報士は「早くて日付が変ることから雪かみぞれが降ると思います。」と言うのを、私ははっきり聞いていた。
コ○ギ~!話が違うぞ、信じた私が馬鹿だったか。
22時過ぎに急に雪が降り始めている。
一見ミゾレか、と思ったが、水分の多い大粒の雪。
もちろん傘は持っていない。
バスにするか・・と思ったが、歩くつもりでカフェでゆっくりしていたので時間切れ。
歩くしか手立てはなく、ずぶ濡れではないけれど、冷たい雪に頭や上着はしっかり濡れた。
買い物はビニール袋に入っていたので大丈夫だったが、帰宅後すぐ風呂に入ったのは言うまでもない。
気温自体はそれほど低くないので、帰るまで道路は積もっていなかったが、歩道はびちゃびちゃでシャーベット状になっていた。
仙台特有の「ベチャ雪」。雨の様に始末が悪い。
わかっていれば傘を持って出かけたのに・・・。
元気ですか?
今日は良い一日でしたか?
体調はどうですか?
風邪など引いてませんか?
帰り道、雪には当たりませんでしたか?
明日朝まで降ると言うので、外出の際には足元に注意して下さい。
寒さも本格的になりましたの手、体調管理にも気をつけて下さい。
冬の寒さは辛いですが、それを楽しむように過ごして下さい。
明日もどうかお元気で。
君に笑顔がありますように。
お休みなさい。
天霧し 雪も降らぬか いちしろく このいつ柴に ふらまくを見む(万葉集巻八 1643 若桜部朝臣君足)
☆今日のバス
0005号車 18年式いすゞエルガ(LV290N2) 野村車庫
◎古代史探偵A(新薬師寺 十市皇女の涙)
奈良市の奈良公園は、数キロ四方に及ぶ広大な敷地が指定され、年間通して観光客が絶える事がない。
奈良時代、平城京においては宮城の外側「外京」に当たり、神奈備・春日山を中心に都の「守護神」として寺院と神社が置かれた。
東大寺を中心に、春日大社、興福寺と言った平城京を代表する大寺院が建ち並んでいる。
公園区域の最南端に位置するのが、平城京遷都の立役者・藤原不比等が祀った春日大社が鎮座し、周辺部は山自体をご神体とする神奈備である。
そのため参道以外に足を踏み入れる事が出来ない「禁足地」に指定されており、1.300年間守られている。
おかげで春日山の森林は奈良時代から手つかずの状態で保存され、都会にもかかわらず原生林として厳しい管理の下、受け継がれている。
春日大社へは興福寺東側の表参道から入るのが一般的だが、東大寺から若草山を散策しながら至る参道や、原生林の中を通る古代から残る狭い参道がいくつか存在する。
春日大社から南側へ下ろうとすると「囁きの道」「禰宣の道」などと名付けられた小径があり、恐ろしいまでの静寂の中、森林浴を楽しめる。
これらの道は山を下ると高畑町と言う旧市街地に抜け、神域の外に出られる。
この街は普通の住宅街だが、かつては春日大社への門前町の一つであった。
現在は静かな古い住宅地で、この一角にあるのが「新薬師寺」である。
ちょうど裏手には奈良市立写真美術館や奈良教育大があり、ちょっとした文芸地区でもある。
↑新薬師寺(奈良市高畠町、筆者撮影)
「新薬師寺」は「続日本紀」によると、745年(天平17年)聖武天皇の眼病平癒を祈願して光明皇后によって建立されたと見える。
創建当時は4町もの広大な敷地と伽藍を誇ったと言われるが、現在は本堂と鎌倉時代に立てられた南門と東門、茶室が残るだけの小さな古刹である。
観光ルートからちょっと外れた位置にあり、春日大社への参道から入り組んだ狭い道を進んだ場所にあるので、シーズンでも訪れる人は少なく、穴場的な寺である。
同寺南門の正面には、美しい稜線を持つ「高円山」があり、毎年お盆には山頂付近で送り火の「大文字焼き」が行われる。
この時ばかりは猛暑の日中から「場所取り」の地元客や観光客で混雑するが、それ以外は静かな住宅街のお寺である。
現在の境内は小さな公園程度の狭い場所だが、本堂は貴重な奈良時代の建物である。
本尊は「薬師如来像」だが、それを守る「十二神将」像こそ同寺最大の魅力と言える。
薬師如来像は平安時代初期の木彫で、全高2メートルある。
一木造りの木彫像は珍しくないが、2メートルを超す物は異例である。
ただし一体削り出しではなく、頭部と胴体、両手などは別に削り出して組み合わせてあるが、木目や節から同じ1本の木から削り出していることが分かる。
「眼病封じ」の如来と言うことで、目が大きくぱっちりしており、「国風文化」が意識され始めた時代の仏像なので「ポッチャリ」体型と相まって、初めて見る女性などだと思わず「可愛い」と思うだろう。
↑本尊・薬師如来像(ウィキペディアより)
一方本尊を円形に取り巻く十二神将像のうち「ハイラ」以外は、奈良時代の作品で、全て当時スタンダードだった脱活乾漆法で作られている。
「ハイラ」は明治時代の地震で倒れ損壊した為、1931年に複製されたものである。
このため「ハイラ」を除く11体が「国宝」であり、本尊薬師如来は重文となっている。
もちろん本堂も国宝である。
↑十二神将像(ウィキペディアより)
2008年、奈文研を主導とする調査で、西側にある奈良教育大のキャンパスで、大型の建物跡が確認され、関係者の間で大騒ぎになった。
建物は礎石作りで、正面54メートル、奥行き27メートルと言う「正長方形」であることが分かった。
高さは不明だが、礎石の大きさから12~15メートルはあったのではないかと言われ、当時の東大寺・大仏殿に匹敵する大寺院だったことが事実上証明された。
記録から新薬師寺は朝廷から食封(経営費用)を下賜される「官寺」だったことが分かると同時に、平城京・外京が大臣・藤原不比等の勢力がおよんだ地域でもあったことも影響していよう。
不比等は既に720年に亡くなっていたが、その後は不比等の子「藤原四兄弟」が後を継ぎ、権勢を奮った。
しかし735年に遣唐使の帰国船が持ち込んだと思われる「天然痘」が、九州から瞬く間に平城京にも拡がると、権力を掌握していた四兄弟、武智麻呂・房前・宇合・麻呂は僅か半年のうちにり患し死去している。
その後政権は藤原氏が一時的に衰え、橘諸兄が右大臣として責任者になるが、同時に藤原武智麻呂の子・仲麻呂が権力に近付いていた。
彼は叔母に当たる光明皇后と親しい間柄にあったとともに、擁護を受けて諸兄政権を圧迫する。
新薬師寺はまさにその時代に建立されたことになり、広大な敷地や伽藍も光明皇后の一存であるより、仲麻呂の働きかけも強く作用したはずである。
光明皇后は、夫・聖武天皇にならって仏教を深く信仰した。
父・不比等から受け継いだ敷地を「法華寺」や「海龍王寺」を建立し、尼寺である法華寺では貧しい人や病気の人を救うための施設「施薬院」を作ったりしている。
特に病気・健康については深い関心と知識があったと思われ、新薬師寺もそうした彼女の想いを反映して建立されたと思われる。
記録によると奈良時代後期の780年(宝亀11年)に落雷で西塔が焼失、平安時代中期の962年(応和2年)秋の台風で、伽藍のほとんどが倒壊・損壊したと見える。
1180年の平重衡による「南都焼き討ち」では、辛うじて兵火から逃れたが、台風以降寺は衰退し、伽藍の復興は行われず現在に至っている。
記録から東西両塔があったことが分かるが、現在はほとんどが住宅地になっているため、遺構は確認されていない。
しかし正面54mもの本堂らしき建物だったことから、両塔もそれ相当の高さであったことは確実である。
東大寺の東西両塔が「七重塔」で、高さは約100メートルあったから、新薬師寺のそれも近い高さを誇っていたことだろう。
藤原氏の隆盛は、平城京の大都市化を促進させ、東大寺の他元興寺や大安寺(南大寺)・興福寺にも数十メートルの多重塔が設置されていたから、まるで「摩天楼」の様な景色が拡がっていたはずである。
今やその面影は全くなく、奈良市内で最も高い建物は大仏殿の約49メートル。
市の条例で大仏殿より「高い」建物は作ってはいけないことになっているため、もし光明皇后や聖武天皇がタイムマシンでやってきたら、「平城京時代の方が大都市っぽい」と嘆くかも知れない。
話が逸れたが、現本堂は見つかった大型建物の位置と方向から「食堂」か「講堂」だったと考えられる。
大きさから「食堂」ではないか、と言う説が有力だ。
新薬師寺の「新」とは、三重塔と薬師如来像で有名な西ノ京の「薬師寺」に対して「新しい」と思われがちだが、本来は「霊験新たか」と言う意味である。
だが聖武天皇が眼病に罹ったという記録は見えず、老眼に対する「守護」の目的で建立されたのではないかと思う。
なお予備知識として、お寺で薬師如来像の由来を聞くと「左手に薬壺」を持っていることが識別ポイント・・・などと説明されることがあるが、実際には誤り。
仏教による薬師如来は、物理的な「病気」以外、心の病気も含め、ありとあらゆるものを救済するという意味を持つ。
薬壺を持つようになったのはわかりやすくするためや、分派した宗派によるもので、本来の薬師如来に薬壺はないのだ。
さて新薬師寺に行くと、狭い路地を越えて南門から入ることになるが、その横に神社があるのに気づくと思う。
西側には小さな神楽舞台を持つ「南都鏡神社」があるが、正面右側・南門の東側にとても小さな神社・・と言うより「祠」があるのに気づく人は、どのくらいいるだろうか。
言葉は悪いが、どこにでもある祠であり、奈良の寺院では寺の守護神として小さな祠がよく見かけるものだ。
この祠には「比売神社」と言う立派な名前があるが、正式に祀られたのは1980年。
高畠町の住民有志が建立した神社で、御祀神は「十市皇女」(とおち)である。
彼女の事を知っている人は、かなりの「古代史好き」と言って良いだろうか。
十市皇女は飛鳥時代の皇族で、天武天皇の皇女である。
↑比売神社。右側奥が新薬師寺(ウィキペディアより)
671年12月3日(新暦では672年1月8日)、天智天皇が48歳(推定)で崩御した。
治世では実弟・大海人皇子が「皇太弟」に指定されていたが、天智天皇は「大化の改新」に始まる改革を進めるうちに、子である大友皇子に後を継がせる雰囲気を醸し出していた。
大海皇子には世継ぎとして複数の妻に6人の男子がいたが、天智天皇には地方豪族の娘で「嬪」の身分に過ぎない伊賀宅子娘の間に生まれた大友皇子しかいなかった。
当時皇位継承権は、両親とも皇族であることが必須条件であったが、正妃で皇族出身の倭姫との間には子自体が出来ていなかった。
天智天皇は「改革」の一環として、母親が皇族でなくとも皇位は「親子相続」に出来る方針を作ろうと考えていたフシがあり、政権では大友皇子を重用した。
同時にそれは既に「皇太弟」だった大海人皇子と大友皇子の皇位争奪の様相を見せ始めたため、天智天皇が崩御する直前に大海人皇子は臣籍降下を申し出て「僧」として出家、吉野に隠匿すると宣言する。
大友皇子へのあからさまな重用は、朝廷内で大海人皇子を「邪魔者」「政敵」と見なしかねない状況にあったのである。
やがて天智天皇が崩御すると、都のあった近江京で大友皇子賀事実上後継者としての立場についた。
そして吉野に隠匿していた大海人皇子は挙兵し、「壬申の乱」が勃発。
紛争は大海人皇子側の勝利に終わり、大友皇子は近江京郊外で自害。
大海人皇子は「天武天皇」として即位し、都を飛鳥に戻した。
即位した天武天皇は、近江朝についた人物についてはほとんど罪とせず、紛争を指揮した高官以外は無罪にしていた。
ところが問題が一つ残っていた。
天武天皇の娘である、十市皇女の処遇であった。
彼女は乱の前に大友皇子の妃として嫁いでおり、天智天皇崩御後は事実上の「皇后」であったのである。
もちろん政治には直接関わりなかったので不問で当然だったが、乱が終わると大友皇子は「反乱者」「敗軍の将」と言う烙印を押されていたのである。
十市皇女の母親は、我が国最高の女流歌人「額田王」その人で、当然天武天皇の妃の一人である。
伝承では天智天皇に払い下げられたという説があるが、記録を照らし合わせると親しくはあっても天智天皇の妃になったという事実はないことから、ここではあくまで天武天皇の妃としておく。
正規かどうかが別として、壬申の乱の結果は十市皇女の立場を微妙な物にしていたのは確かである。
大友皇子と彼女の間には葛野王(かどのおう)という男子がいたが、母子とも飛鳥に戻るには時間が必要であった。
記録では壬申の乱の最中、皇族の子女はほとんどが近江京に残っていたが、全員戦火に巻き込まれることはなく、その後飛鳥に戻っているが、なぜか十市皇女の消息は見えてこない。
大友皇子の妃と言うことから、ほとぼりが冷めるまで近江に留まったとも考えられるが、都は天武天皇側が火を放って焼き討ちしており、住民も飛鳥に送還されていることから、彼女もほどなくして飛鳥には戻っていたと考えられる。
しかし壬申の乱後、記録に彼女は僅かに散見出来るだけで、その去就は謎に包まれている。
「日本書紀」は天武天皇が国史として正式に編纂を命じたもので、大友皇子の「即位」は当然認めていない。
認めると天武天皇はクーデター・武装蜂起による「政権奪取」となるだけでなく、それは元々の「皇太弟」と言う立場を否定しかねない。
そのため長年大友皇子は政権を掌握はしていたものの正式に「即位」していない、とされてきた。
ところが明治時代に改めて日本書紀の吟味が行われ、大友皇子の「即位」を認めて「弘文天皇」の名前が送られ、「天皇」として認められた経緯があるが、当時天武天皇政権は認める訳には行かなかったのである。
だとすれば本来十市皇女は、「違法」な皇子の横暴に巻き込まれた悲劇の皇女として同情されて然るべきであったはずである。
僅かに残る記録では、675年春に阿閉皇女(天智天皇の皇女で、のちの元明天皇)とともに伊勢神宮に参拝したと見える。
当時伊勢神宮には「斎王」として、彼女の異母妹・天武天皇の娘大伯皇女が務めていた。
何故十市皇女と阿閉皇女が、この組み合わせで行幸したのか理由は不明である。
しかし記録に載せていることから、皇祖神アマテラスを祀る伊勢神宮に勝利の報告を仰せつかったのではないか、と見られているが、なぜこの二人であったのか理由はわからない。
十市皇女は648年生まれと653年生まれの2つの説があり、行幸の時は20代後半だったことになる。
一方阿閉皇女と斎王の大伯皇女は10代半ばと見られる事と、神への奉仕は「未婚・処女」であることが前提であったことから、十市皇女の行幸自体不審と言わざるを得ない。
この後、彼女は再び記録から姿を消し、3年後突如登場する。
678年春、天武天皇は国家安泰を祈願して「初瀬の杜」と言う神社を祀る事を決定し、そこの斎王に十市皇女を指名したのである。
先に書いたように斎王は古代における巫女と同じく「潔癖」でなくてはならず、結婚して子を持つ十市皇女は完全な「不適格」だったにも関わらず、天武天皇は彼女を斎王に指名したのである。
理由はわからないが、天皇にしてみれば娘でありながら「敗軍の将」の妃と言う事に、何らかの負い目もしくは引っかかりがあったのだろうか。
明らかに無理強いして、彼女を世間から隔絶させる意味を持っていた。
そして斎王として出家する当日朝、十市皇女は急死した。
日本書紀では「病で急死した」と書いており、通常死因を示さない紀としては些か不審である。
故に自殺説・暗殺説が今も絶えず、彼女はまさに「悲劇の皇女」として語り継がれている。
特に自殺説では、同年代で異母兄弟に当たる高市皇子が、彼女の死を悼んで歌を残しており、幼少のころから親しかった高市皇子と恋仲だったのでは・・・と言う憶測が自殺説を支持する。
高市皇子も天武天皇を父に持つが、母は大友皇子と同じく地方豪族出身の「嬪」出る尼子娘。
天武天皇にとっては最年長の「長男」だったが、皇位継承権はなかった。
彼は天武天皇に重用され、崩御後後を継いだ女帝・持統天皇には太上大臣として最高位にまで上り詰めた人物である。
しかし前後に彼の歌は残されておらず、十市皇女への「挽歌」とも受け取れる文面に、許されぬ愛があったのでは?と言う憶測があっても不思議はない。
ただ皇女と言う立場が固定観念を引き起こしているように、私は思う。
歴史では不審死を自殺や暗殺と結び付ける嫌いがあり、正直ドラマや映画の見過ぎに思えてしまう。
古代での平均寿命は40~50歳で、もちろん十市皇女はまだまだ若かったに違いないが、不慮の病気の可能性は捨てきれまい。
増して上記の様に、壬申の乱以降彼女の立場は、たとえ世間が同情しても皇族・朝廷に対してはかなり微妙であることは間違いなく、かつ一人息子である葛野王の将来も母親として大いに心配していたことだろう。
壬申の乱から6年と言う月日を考え、直前に斎王に命じられたのも、あるいは心の病やストレスに大きな心労を伴っていたのではないか、と考えられまいか。
医療や食事が未発達だった当時、たとえ心の病でもそこから大きく体調を崩し、突発的な病気に襲われたとしても不思議ではないだろう。
例えば心臓や脳関係の疾患とも考えられるし、伊勢行幸後年間記録に登場しないことから、病気で臥せがちだった可能性もあると思う。
霜降りいたも 風吹き寒き 夜や旗野に こよひわが ひとり寝む
これは現在の三重県津市にある波多神社に、十市皇女の作と伝わる歌である。
恐らくは伊勢神宮行幸の途中に、神社に立ち寄って詠んだものと見られるが、まだ冬の気配が残る旅路の途中、寒さの中一人で寝る寂しさを表現していると思われる。
もし十市皇女の歌であれば、彼女は675年の時点で「孤独」に打ちひしがれていた、と考えられよう。
20代後半と言う若さであれば、体力はあっても精神的に不安定になりやすい時期だったとも言えるかも知れない。
新薬師寺前の「比売神社」の背後には、昔から「比売塚」と呼ばれる小さな古墳のようなものがあったと伝えられている。
同時に記録では、十市皇女が死去後天武天皇は「赤穂」の地に手厚く葬った・・・と見える。
現在赤穂と言う地名は残されていないが、高畠町付近がかつて赤穂と呼ばれていた記録がある。
加えて新薬師寺から南に約300メートルほど行った辺りに、「赤穂神社」が祀られており、天武天皇の妃の一人で、中臣鎌足の娘だった「氷上娘」も赤穂に葬る・・と記録が残る。
↑赤穂神社(ウィキペディアより)
三輪山の 山辺真麻木綿 短木綿 かくのみゆえに 長しと思いき(万葉集巻二 157 高市皇子)
山ぶきの 立ちよそいたる 山清水 酌みに行かめど 道知らなく(万葉集巻二 158 高市皇子)
万葉集には他にもう1首、十市皇女が薨去しませる時に高市皇子が捧げる歌と言う注釈がついており、彼が十市皇女の死を大きく悲しんでいたことは間違いない。
約4,500首の歌の中で、高市皇子の歌はこの3首だけ、十市皇女の歌は1首も残されていない。
そう考えると、邪推は禁物だが、二人には世間が許さない間柄にあった可能性は捨てきれず、それも含んで十市皇女は心を重く病んでいたのかも知れない。
時代は違うが、新薬師寺の薬師如来は彼女の心を治そうとする仏として、今まで見守り続けて来たのではないか。
あるいは光明皇后自身、十市皇女の悲劇を知っていたからこそ新薬師寺を建立したのかも・・と思う。














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