飛行機ネタ 全ての原点はここにある、B767-200(1月12日 雪時々晴れ 6℃)
※2日分の日記を掲載します。
◎1月10日 晴れ 8℃
「成人の日」の3連休、最終日。
連休とは言え、正月が明けて一週間足らずだからあまりありがたみはなさそう。
加えて急速に拡大するコロナが、せっかくの休日に水を射す。
仙台はほぼ快晴に近く、気温も高めで穏やかな冬の一日だった。
決して暖かさは感じないけれど、この時期特有の冷たい風もなく、ちょっと出掛けたくなるような天気だった。
「成人の日」は今日だが、自治体によっては昨日と言うところもあったようで、仙台市も昨日行われたと言う。
昨年はコロナ禍で全国的に中止されたが、今年は予防対策を講じての開催とした自治体も多かったようだ。
一方で再拡大に鑑みて、急きょ取りやめした自治体もあったらしく、新成人たちはまたしてもコロナに翻弄された形だ。
残念な事ではあるけれど、将来いつか一つの思い出になるのだろう。
「自分の成人式は、コロナで出来なかったなあ・・」なんて言う日が、きっと来るだろう。
コロナ禍はともかく、今日の様な天気は個人的には好き。
寒いのは苦手だけれど、弱い冬の日差しは、見方を変えれば優しく見えるし、冬枯れの樹木の枝は青空に綺麗なモザイク模様を浮き上がらせる。
それを見ながら、歩くのは冬の楽しみの一つだ。
◎1月12日
「爆弾低気圧」の影響で、真冬の寒さ。
最高気温6℃は0時過ぎの記録で、日中は最高で2℃。
昨日も寒かったが、湿度が高く雨が降ったが、今日は雪。
断続的な降り方で、時々薄日が射す時間もあった。
懸念された強風は大した事なかったが、明日明後日も強い冬型の天気が続くと言う。
昨日の雨で、正月以来まだ残っていた日陰の雪は結構融けたが、また雪が積もり始めている。
しかも融けかかっていた残雪は、低温で表面が凍結し数日前より酷い状態だ。
事実県内では今朝から凍結による車のスリップ事故、歩行者の転倒事故が相次いだという。
低気圧が停滞する北海道や日本海側は、年末年始に続いて大雪になっており、交通障害が長引く可能性も出ている。
暦の上では今が「寒」の時期で、最も寒く雪が多い時。
実際には3月上旬ぐらいまで寒さは続くが、この冬は雪が多いかも知れない。
どうも「温暖化」「異常気象」に耳慣れてしまい、冬も暖冬気味が当然のようになってしまって、「本当」の冬に面喰っているのではないか。
異常気象以前に、人間が天候に付いていけなくなったいるのでは?と思う事がある。
冬は寒くて雪が降って当たり前・・・と思えば、備えが出来るはず。
なのに世間は混乱する。
最近鉄道は「計画運休」が流行し、荒天が予想される時は前日に運休や間引き運転が決定する。
安全対策と言えばそうなのだろうが、大雪や吹雪は今に始まったことではない。
むしろ鉄道関係者は、それこそ不眠不休で少しでも運転できる事に全力を尽くした。
なぜなら鉄道は重要なインフラであり、運休は社会に大きな影響を及ぼすからだ。
当事者に危険を冒せと言うつもりはないが、国民の為に戦う人がたくさんいたのだ。
今は天気予報の精度も向上し、対策も昔に比べれば遥かに選択肢が多いはずなのに、異常気象と理由にしているだけに見えてしまう事もある。
いっそのこと荒天の時は、世間全てがお休み・・になれば良いだろうが、そうもいくまい。
天気に関わらず仕事を含め、社会は動き続ければならないのだから。
夕方以降、雪は止んだが風が強い。
空には綺麗な月と星が出ていたが、しばらくすると突然ブワーッと吹雪いてくる。
何とも始末の悪い天気で、路面凍結も時間の問題だ。
しかも10分単位で変わり、典型的な冬の仙台と言った感じだ。
夜には県北の高速道路で事故が発生し、上下線とも通行止めと言う速報が流れていた。
恐らく「地吹雪」による視界不良と路面凍結かと思うが、近所の道でも危険性は同じだ。
元気ですか?
今日は良い一日でしたか?
体調はどうですか?
風邪など引いてませんか?
雪と風、君は大丈夫でしたか?
この冬は「らしい」冬のようで、寒さ・雪が多くなっています。
北国生まれの君は、まだこんな程度・・と言うかも知れませんが。
明日も雪・風が続きそうで、外出の際には特に気をつけて下さい。
小柄な君を思うと、今日のように冷たい暴風が吹くと転倒などしていないか、とても心配になります。
またコロナも拡大しているので、引き続き予防対策と寒さ対策はしっかり行って下さい。
出かける時はとにかく足元と周囲に気をつけて、充分暖かい格好で。
でも雪を見ると、君を思いだしています。
明日もどうかお元気で。
君に笑顔がありますように。
お休みなさい。
沫雪の 降らえて咲ける 梅の花 君がりやらば よそへてむかも(万葉集巻八 1641 角朝臣廣辧)
飛行機ネタ。
2022年は、ボーイング767が初就航してちょうど40年を迎える。
原形機の初飛行は1981年で、翌年の82年にユナイテッド航空が同機をデビューさせた。
ファンにはすっかりお馴染みのB767、日本では現在も日本航空、全日空、そしてエア・ドゥで約50機が現役にあり、一部の機体は国際線でも活躍している。
B777、B787、A350など、既に「21世紀型」の最新鋭旅客機が席巻して久しいが、前世代となったB767はなおも貴重な戦力として運航が続けられている。
日本の3社では、老朽化した機体は順次退役しているが、現時点で完全な退役は予定されていない。
製造期間、導入期間が長期に渡っていることから、機齢の若い機体も多く、充分現役に耐えられるからであろう。
現在日本のエアラインのB767は、メインモデルとなった「300ER」だけで、初期に導入された200・300型は退役している。
これまでB767に就いては何度も書いて来たけれど、それでも書き足りないぐらい魅力に溢れた旅客機だと思っている。
B767の開発は、実に1972年まで遡るから、ちょうど半世紀も前の事である。
当時飛行機がグッと身近な乗り物になって、世界的に需要が急増した時代だった。
それは「より速く、より多くの乗客」を可能とする機体が求められ、それは最大の旅客機B747や3発機DC-10、トライスターの開発に繋がった。

↑(2枚)82年にデビューしたユナイテッド航空のB767-200。200ERも導入し10年代まで使われた(ウィキペディア英語版より)
航空先進国だったアメリカは、国内需要も増加していたが、70年代以降になると「オイルショック」から始まる燃料高騰と不安定要素が噴出し、B747を始めとする大型ワイドボディ機はもてあまし気味になってきた。
オイルショックやベトナム戦争でドルの価値は下がり、航空運賃も値上げが続きようになり、需要が急降下し始めていたのである。
その為には運賃を下げる顧客の奪い合いに発展し、エアラインは低コスト運航が生き残るカギになっていた。
しかし運航コストの大きな大型機では、低運賃だとペイ出来ないことになり、特にB747は長距離国際線でないと利益を上げられなくなってしまった。

↑(2枚)アメリカン航空のB767-200と200ER。国内線の他、近距離国際線に投入された他、末期には大西洋路線でも活躍したが、300・300ERに交替した(ウィキペディア英語版より)
近距離路線用として大量に運用されていたのは、小型のB737やDC-9で、中距離向けではナローボディ3発機のB727が当時の主力であった。
B727は最大で200席、2クラスだと180席程度の機体で、航続距離は最大で4,000キロと大陸横断には不足だった。
その為にB747程大きくなく、大陸横断が可能な機体としてDC-10やトライスターが登場した訳だが、やはりコストは高くついた。
そこでアメリカのエアラインの多くは、B727とDC-10クラスの中間サイズで、運航コストの安い機体を要求した。
ボーイングは「7X7」と名付けた計画をスタートさせたが、エアライン側との意見がなかなか合わず、世界情勢も絡んでコンセプトが決定しなかった。
↑デルタ航空のB767-200。影響力の強かったパンナムが採用を見送ったことで受注に苦戦を強いられたが、経済性が認められてアメリカメジャーの多くが次第に発注を増やしていった(ウィキペディア英語版より)
ユナイテッド航空やアメリカンは、250席級で5,000キロの航続力を持つ3発機を望んでいた。
しかしボーイングは、大型機で実用化した髙バイパスエンジンを使えば双発機でも充分要求は満たせるとして提案した。
だが安全性と言う点でエアライン側は納得せず、基本計画では双発機と3発機を提案し、さらにナローボディ機とワイドボディ機を案として提出した。
ここでその経緯は割愛するが、原形を決定するだけで数年を要することになり、「B767」として正式に開発が決定したのは77年ごろのことであった。
当初のプランでは双発機ながらも、T字尾翼機が考えられており、これは3発機化しやすいようにデザインされたものだったと言われている。
↑北欧SASのB767-200ER。同社と言えば日本線でも活躍した300ERが有名だが、少数ながらも200ERを運用した(ウィキペディア英語版より)
またワイドボディ機かナローボディ機かでも、エアライン側とは最後まで紛糾することになり、別の計画であった「7N7」と統合することになった。
「7N7」はその後「B757」として開発されることになり、システムは767と共通化させることで、エアラインに同格の性能を持ちながらもワイドボディかナローボディかを選択出来る事が可能となるのである。
機体の形状が定まらなかったのは、ワイドボディ機としてのサイズも論議されたからだった。
すなわちB747やDC-10では大きすぎる・・・と言う要望が強く、かといって2本通路を持つことは相反する事だったのである。
そこでボーイングは、2本の通路を持ちつつもDC-10やトライスター、そしてA300よりも一回り小さい断面を持つ全く新規のカテゴリーを提案したのである。
座席の標準的な配列は、B747が10列、DC-10/トライスターが9列、A300が8列だったのに対し、B767は「7列」としたのである。
↑「セミワイドボディ」と呼ばれる所以となった2-3-2のキャビン。中間席が1席しかない事で好評を得たが、現在までB767だけの特徴となっている(ウィキペディア英語版より)
今から見れば、ワイドボディ化ナローボディか拮抗する中での「妥協案」の様な部分もあっただろう。
更にボーイングは、一回り小さくすることで機体重量が軽くなり、低燃費が実現出来る事、そして乗客に嫌われる「中間席」を減らせるメリットを強調した。
B767の座席配列は2-3-2の7列が標準で、これだと中間席は1席だけである。
一方8~10列だと、どうしても2席以上の中間席が出来てしまい、そこに座らせられる乗客は窮屈な思いを強いられる。
エアラインの多くが、サービスが向上すると歓迎し受け入れるとともに、ボーイングは「セミワイドボディ」と名付けた。

↑(2枚)ニュージーランド航空のB767-200ER。長距離路線が必然の同社にとって、B747程大きくない同機は貴重な機材となって、至便性が向上した。日本線では300ERが中心だったが、200ERも頻繁に飛来していた(ウィキペディア英語版より)
機体の形状もごく一般的な低翼式で、2発のエンジンはポッドを介して吊り下げる形がまとまり、ユナイテッド航空が正式発注することでローンチが決定した。
しかしなおも不満を漏らすエアラインもあり、前途は多難であった。
B767最大の特徴は、ワイドボディ機として初めて2人乗務機とした事である。
それまで必要とされた航空機関士になり替わり、エンジン関係の機器をコンピューターで統合化させ、操縦席の計器板をデジタル化させた「グラスコクピット」にすることで、運航効率を一気に高めたのである。
↑200・200ERではロールス・ロイス製エンジンが選べなかった為か、ヨーロッパではあまり人気がなかった。イギリスではブリタニア航空が唯一新造機で200型を導入したが、ブリティッシュ・エアウェイズと統合されると放出され、チャーターエアラインのエクセル航空(のちのXLエアラインズ)に売却された(ウィキペディア英語版より)
ところがこの「2人乗務」に関しては、パンナムやアメリカン航空が強い難色を示していた。
一つは大型機である以上、安全性と言う点から航空機関士は必須と言う固定概念に捉われていた事に加え、仕事を失う可能性が出て来た機関士の為労組が猛反発を起こしたからであった。
当時のコンピューターはまだ未成熟な部分もあり、反発は当然だったと言えるが、一方で2人乗務はコストを抑制出来ると言う支持も多かった。
耐空証明を認めるFAAも、どちらの言い分も否定することができず、開発は遅延が出始めた。
結果ボーイングは再び「妥協案」として、コクピット内に航空機関士用の操作パネルを残し、オプションとして2人乗務か3人乗務を選べるオプションとした。
↑オセアニアで最初にB767-200を導入したアンセット・オーストラリア航空。組合の反対を受けて、航空機関士が乗務する「3人乗務機」を導入した唯一のエアライン。実際にはほんの初期に3人乗務で運航しただけで、2人乗務に変更した(ウィキペディア英語版より)
紆余曲折が続いたおかげで、同機のセールスはあまり伸びなかった。
ユナイテッド、アメリカンと言った大手は発注したものの、最大大手のパンナムは結局採用に至らなかった。
上記の理由の他に、細くなった胴体の為に、床下貨物室に積載するワイドボディ機用の航空コンテナ「LD-3」が積載出来ないと言う理由だった。
これは他のエアラインも同様の意見だったが、ボーイングはB767専用の新規格である「LD-2」を作ることでコンテナ輸送を可能とした。

↑(2枚)カンタス航空はアジア線用としてB767を採用した。300型が主力だったが、200ERは85年に導入され同社初の長距離中型機だった。日本線へもレギュラーで運用され、新千歳線や福岡線の常連だった(ウィキペディア英語版より)
だが同機専用で、しかも新規格のコンテナとなるとエアラインだけでなく、空港の設備も新たに追加する必要があり、それが受注の伸び悩みに繋がっていたと言われる。
そして82年に、ローンチユーザーのユナイテッド航空が初号機を受領し国内線に就航させた。
この最初の生産型となったのが「200型」であり、以降旅客機のあり方を示す「お手本」となるのであった。
スタートこそやや躓き気味のB767だったが、運航実績は大変良好だった。
原形機の初飛行が81年、初就航が82年と僅か1年でデビューできたのは、原形機で大きな問題が殆ど発生しなかったからだ。
↑コンチネンタル航空のB767-200ER。ユナイテッド航空と統合後も引き継がれて運用された(ウィキペディア英語版より)
B767-200は全長48.5メートル、全幅は47.6メートル。
エンジンはGE製CF-6-80Aと、P&W製JT-9D-7R4の2種から選択できた。
300型ではイギリスのロールス・ロイス製RB211エンジンが選択肢に追加され、90年代にはJT-9Dエンジンは発展改良型であるPW4000エンジンに変更されたが、200型では上記の2つが基本である。
スタイルは全体的にプレーンな外観を持つが、主翼は揚力特性を高める為にスーパークリティカル翼形を採用し、後退角も31度とやや浅目に設定された。
これは滑走路の短いローカル運用を考慮したもので、ワイドボディ機ながら近中距離運用を考慮したA300のコンセプトと似ている。
ただ機体規模の割に主翼は大きく、これは将来的に燃料タンクを増加させる目的もあっての設計であった。
事実初就航した82年には、アフリカのエチオピア航空がローンチユーザーとなって、航続距離延伸型である「200ER」の開発が開始されている。
↑200ERのローンチユーザーのエチオピア航空。1機はハイジャック事件で失われている(ウィキペディア英語版より)
アメリカではパンナムが発注しなかったが、ユナイテッド・アメリカンの他、デルタ、USエアウェイズ、TWAも続けて発注した。
日本では全日空が先駆けて発注し、日本航空も続いた。
↑3機だけ導入された日本航空のB767-200(ウィキペディア英語版より)
全日空はまだ国内専門のエアラインだったが、規制緩和が決定しており国際線を含む路線拡大が予定されていた。
幹線用としては既にB747SR、トライスターが運用されていたが、その下となるとB727しかなく、需要増に向けて新型機を必要としていた。
またB767は、ボーイング機としては初めて国際共同開発の要素を持った旅客機で、イタリアのアエリタリア(現アレニア)などがプロジェクトに参加していたが、日本の企業もサプライヤーとして指定を受けた最初の旅客機であった。
開発設計には直接参加しなかったものの、機体の25%以上を日本のメーカーが生産を受託することになっていた。
これが日本のエアラインに有利に働いたのか、逆に押し付けられる事になったのか、何とも言えないが導入は自明の理であったと言える。
部品の製造にはイタリアを始め、各国のメーカーが請け負っていたが、日本製の占める割合が最も多く、一時ボーイングは同機の生産ラインを日本に置く案も持っていた。
実際主要サプライヤーには、合弁で「ボーイング・ジャパン」(現在の販売チャンネルとは別)を設立してはどうかと働き掛けていたと言う。
最も当時は日米貿易摩擦が表面化していたこともあり、政治的な意味もあって実現しなかったが、こうした事実から「準国産機」などと呼ぶファンもいる。

↑(2枚)83年日本で初めてB767を就航させた全日空。200型は25機導入し、地方空港のジェット化に大きく貢献した(ウィキペディア英語版より)
全日空は老朽化したB727の後継機として25機の200型を導入するとともに、B727の代替えだけでなく、新規のローカル線にもどんどん投入して顧客獲得に成功した。
同社でのデビューは83年のことで、東京~岡山線に就航。続いて大阪~仙台線に就航した。
日本航空はやや遅れて85年に初号機を受領したが、胴体を延長した300型も発注していた。
後に主力機種となる300型は、日本航空がローンチユーザー。
ただ計画段階だった事で、とりあえず200型を発注していた。その為200型の導入は僅か3機で、以降全て300型を導入している。
これは当時はまだローカル線の運航が少なかった為で、200型は近距離国際線用として導入されていた。
一方200ERは日本航空が2機発注していたものの、300型に切り替えた為、日本では同機の導入は1機もなかった。

↑(2枚)日本航空のB767-200は当初モノクラスだったが、後に2クラスに変更され、近距離国際線で活躍した(ウィキペディア英語版より)
海外では200ERが発売されると、ようやく海外エアラインが発注し始めた。
ローンチユーザーはエチオピア航空だったが、先に導入・就航させたのはイスラエルのエルアル航空である。
200ERは主翼及び胴体に燃料タンクを増設したタイプで、最大航続距離は実に12,000キロ以上もあった。
標準型の200は、約5,500キロとあくまで中距離機として開発されたが、倍以上の航続距離の延伸である。
この時代洋上飛行に関しては、安全性という観点から国際的な規制が課せられており、3・4発機でなければ運航出来なかった。


↑(3枚)双発機として初めて洋上飛行規制をクリアしたB767-200/200ERは、途上国エアラインの発展にも大きく寄与した。上からLANチリ航空(現LATAM)、VARIGブラジル航空、アビアンカ・コロンビア航空のB767-200ER(ウィキペディア英語版より)
双発機には、緊急時に60分以内に到達できる空港があるルートを飛ばなくてはならない「ETOPS60」が適用されていた。
83年、200型を導入したエア・カナダが、同機を初めてトロントからカリブ海のバミューダ諸島への路線に投入した。
洋上飛行を伴う為、本来は「ETOPS60」の適用を受けなければならなかったが、ルートの大半が大陸上である事と、カリブ海上空も着陸可能な空港が多いことから、特別ルールとして「ETOPS75」の適用を受けたのである。
もちろん運航自体は問題なく、これを皮切りに「双発機」による長距離運用が試みられるようになる。

↑エア・カナダのB767-200(ウィキペディア英語版より)
84年にはイスラエルのエルアル航空が、導入したばかりの200ERを使いテルアビブ~モントリオール線に投入した。
この時は「60」を保持したままで、大西洋上ではやや遠回りのルートを取ったが、航続距離は申し分なかった。



↑(4枚)世界で初めて定期便として大西洋横断したエル・アル・イスラエル航空のB767-200ER。最大航続距離は12,000キロに及び、現在に至る「双発機の時代」の基礎となった。同機はB747を補完する役割で、長距離路線で10年代初頭まで活躍した(ウィキペディア英語版より)
85年にはTWAが同じく200ERを使って、ボストン~パリ線を運航し、これまで多発機にしか認められなかった大洋黄疸が実質的に認められる事になったのである。
これらの事例を踏まえ、B767のETOPSは「90」そして「120」まで延長され、最終的には「180」まで認められるようになったのである。
今こそ双発機はごく当り前で、4発機のB747はもちろん、新しいA380までもが邪魔者扱いされる時代になってしまったが、双発機の安全性と経済性を完璧な形で証明・確立させたのはほかならぬB767-200であったのである。


↑(3枚)アメリカのエアラインとして初めてB767で大西洋路線を運航したTWA(トランス・ワールド航空)。200型は国内線と近距離国際線、200ERはヨーロッパ線で活躍し、長距離洋上飛行規制「ETOPS120」を初めて獲得した。座席の過剰供給がなく、多発機と同等の航続距離を持つB767-200ERは経済性に優れた旅客機としての認識を広めた(ウィキペディア英語版より)
200型は最大で250席を設ける事が出来るが、2クラスで200~220席と言う設定のエアラインが多かった。
そうなると「姉妹機」でナローボディ機のB757とほぼ同格となることから、経済性と言う点ではB757の方が若干優位だったと言えるが、長時間飛行では当然「セミ」ではあるがワイドボディのB767の方が好評だったし、ERの10,000キロを超す航続性能は絶対的だった。
因みに200ERが登場した頃、10,000キロ以上の航続距離を持つのはB747と旧ソ連製イリューシン62くらいだった。
それにしても基本型が中距離向けで5,000キロに対し、ERで12,000キロとは極端な値とも言えるが、それだけ設計に余裕を持たせていたと言う事でもあり、それは後の300及び300ERに受け継がれている。

↑(2枚)西アフリカ・ガボン共和国、エール・ガボンと南米ボリビアのボリビアーナ・デ・アヴィアシオン(BoA)のB767-200ER。殆ど知られていない激レアB767である。後者のB767はエア・アトランタ・アイスランディックが保有していた200ERで、BoAのフルカラーながらウェットリースで運航していた(ウィキペディア英語版より)
ちょうど世界的に需要が高まった事、そして経済性や環境性が重視されるようになったことで、B767の主力は300型に移ってしまったが、コンパクトながらも超長距離機の性能を持つ200ERは、地道ながらも人気があった。
加えて300型に人気が移った事で、中古機が出回るようになると安価ながら長距離を飛べる機体と言う事で導入するエアラインが多かった。
特に民主化・自由化直後の東欧や、中近東・アフリカ・中南米諸国など途上国のエアラインが中古の200・200ERをこぞって採用した。
2人乗務の「ハイテク機」だった事や、キャビンも最新の水準にあることなどが理由だった。


↑(3枚)LOTポーランド航空、バルカン・ブルガリア航空、マレーヴ・ハンガリー航空のB767-200ER。80年代末に自由化した東欧諸国は、初めての西側製旅客機としてB767を選択した。既に中古機材も出回っていたので、リースで格安で導入出来たからだった。マレーヴのB767は、日本の旅行会社と提携してチャーター便として頻繁に日本へ飛来しており、仙台空港や広島空港、松山空港など地方空港へも幾度となく飛来した。旧東欧系エアラインとして最初に日本に運航したエアラインでもある(ウィキペディア英語版より)
300型では基本型の300から、長距離型のER、貨物型のFが新造機のラインナップになっているが、200型では基本型の200と長距離型の200ERのみが生産され、貨物機は全て中古機からの改造機である。
200はERを含めて約250機が生産され、その数は300・300ERの1/4程度に留まった。
しかしその生産ラインは、実は今も残されている。
ファンならご存知かと思うが、「軍用機」としての需要が未だ続いているためである。
最初にB767-200の「軍用型」を採用したのは我が航空自衛隊であり、同機をベースに我が国初の早期警戒機「E-767」、そして空中給油機「KC-767J」がそれだ。

↑(2枚)B767の軍用型として初めて生産され、航空自衛隊が採用した早期警戒機E-767と空中給油機KC-767J。E767は日本だけが保有しており、KC-767Jと組み合わせて24時間体制で日本の空を守っている。KC-767Jは輸送機としての能力も持っており、有事や災害救援などにも活躍する。ベースはB767-200ERである(ウィキペディア英語版より)
これを機に、米軍も老朽化したKC-135の後継機種として「KC-46Aペガサス」の導入を決定し、現在も生産中である。
最も軍用機なので受注数には限りがあり、生産ペースも旅客機とは比較にならないが、特殊な軍用機にもB767-200が最適であると判断された事は注目すべき事だろう。

↑(2枚)イタリア空軍とコロンビア空軍のKC-767A。このほかブラジル空軍も採用しているが、イタリア空軍機とブラジル空軍機は中古の旅客機を改造した機体で、コロンビア空軍機は自衛隊機と同じく新造機である(ウィキペディア英語版より)
尚米軍が発注したKC-46Aは、自衛隊のKC767とほぼ同格の給油機だが、そのシステムが改良されたタイプで、自衛隊も新規での導入が開始されている。
↑アメリカ空軍が採用した空中給油機KC-46Aペガサス。KC-767を改良したタイプで、現在も生産が継続されている(ウィキペディア英語版より)
現在軍用機以外では、約70~80機程度が現役にあると思われるが、その大半は貨物機とプライベート機である。
コロナ禍のせいもあり、旅客機として現役機を確認するのは難しいが、今のところロシアのUTエア、南部アフリカ・ジンバブエのエア・ジンバブエ、アメリカのチャーターエアライン、オムニ・インターナショナルとイースタン航空が保有している。
いずれも200ERで、オムニ・インターナショナルは米軍関係のチャーター便も運航しており、日本でも300ERとともに飛来することがある。

↑(2枚)オムニ・インターナショナルのB767-200ERとキャビン(ウィキペディア英語版より)
また日本では見ることが出来ないが、アメリカの貨物エアライン・ABXエアとアトラス航空がヨーロッパ域内でDHLにウェットリースで運航中で、双方とも10機以上の200SF・BDSFを保有する。
しかもどちらにも、元全日空機が在籍していて現役にある。
↑300型を含めて、世界で最も派手であろうと思われる、ボリビア・アエロスールの200ER、通称「シャルコ(サメ)」。機首に大きく描かれた「シャークマウス」は、軍用機のマーキングを思わせるが楽しいデザインだ。だがボリビアは海を持たない内陸国。サメのイラストとはジョークなのだろうか(ウィキペディア英語版より)
日本では全日空は00年代半ば、日本航空は00年代末までに全機が退役し、300・300ERに統一された。
25機も導入した全日空は、一貫して国内線で運用され、チャーター便を含めて国際線で運用されたことはなかった。
その為キャビンも導入以降全く変わらず、最後まで普通席のみのモノクラスだった。
対照的に僅か3機だったにも関わらず、日本航空の200型は多彩な形態であった。
当初こそ全日空と同じくモノクラスで、旧名古屋空港発着路線や繁忙期の臨時便などで運用されたが、その後はビジネスクラスを設定した2クラス制に変更され、名古屋や関空、福岡などから韓国線などの近距離国際線に投入された。
また短期間ではあったが、グループの日本トランスオーシャン航空にウェットリースされ、東京~宮古島線などで運用されていた(のちに300型に変更)。この時は日本航空の塗装ではなく、トランスオーシャン航空のフルカラーに変更してでのウェットリースだった。
↑新規路線開設のため、全日空からリースされたエア・ドゥのB767-200(ウィキペディア英語版より)
この他いずれも短期間だったものの、全日空の200型がエア・ドゥとスカイマークにリースされ、いずれもフルカラーで運航された。
広義の意味で、200型は日本では実に5社で運用されたと言う事になり、今思えば地味な存在ながらも「働き者」の機体だった。
全日空・日本航空とも、2人乗務のハイテク機は初めての事で、多くのパイロットに愛された機体だった。
全日空では新人パイロットが、訓練生時代に初めて操縦する実地訓練機としても使われており、四半世紀に渡ってパイロットを育てた「親」の様な存在であったと言う。
「ハイテク機」と言っても、それは当時のレベルの事で、現在のB777や787と比べるべくもないのは止むを得ないが、当時は良い意味で操縦が格段に楽な機体と感じたと言う。
何よりも航法装置が自動化された事で、ワークロードが大幅に軽減されたからだった。
ただ後から導入された300型と比べると、操縦性はややナーバスな部分もあったと言う。

↑(2枚)アジアでは採用エアラインが少なかったB767だが、中国国際航空とエバー航空の200ERは日本線でも常連だった(ウィキペディア英語版より)
B767の外観は非常にシンプルで洗練されたスタイルを持つが、200型では垂直尾翼が胴体規模に比較してかなり大きい。
これは300型を意識して予め大きくしたそうだが、その分離着陸時の低速域では横風の影響を受けやすかったと言う。
一方面積が大きく、後退角の少ない主翼は良い意味で硬く感じられ、上空での安定性は優れていたそうである。
特に気流の悪い空域では、胴体に対して近い長さを持つ主翼は揺れを抑え込んでしまうような感覚があったと言う。
つまりどこまでもまっすぐ飛ぶような性質があり、短時間で離着陸しなければならない国内線では降下のタイミングが難しい事もあったらしい。
↑軍用機のような見るからに怪しい雰囲気の200ER。胴体にはイギリスの登録記号とシルバージェットと書かれているが、実際にはヨルダンのヨルダン・アビエーションが保有する機体である(シルバージェットはブランドとしている)。尾翼の模様は単なるシルバーでなく、鏡面シルバーなのが珍しい。この機体は主にウェットリースで使われる機体で現役である。現在はヨルダン籍に変えられ、内戦が続くシリア航空にウェットリースされて運航しているが、モスクワやロンドンに時折飛来する程度で定期運航はされていない模様。もっとも運航しても誰が利用するのか、謎に満ちたB767である(ウィキペディア英語版より)
「初のグラスコクピット」も、現在の目から見ればいかにも過渡期と言えるデザインだ。
6枚のモニターが特徴的だが、一方で従来のアナログ計器も残されているのは、当時モニターはCRT(ブラウン管)であり、コンピューターの信頼性もイマイチだったことから、速度計・高度計などあくまで緊急用としてアナログ計器が併設された。
エンジン関係も自動化されてはいるが、FADECと呼ばれる回転数を調整するコンピューターは備えられておらず、パイロットが微調整する必要があった。
↑世界初の「グラスコクピット」を備えたB767のコクピット。6枚のCRTが装備されているが、従来のアナログ計器も多く残されている(ウィキペディア英語版より)
300型では初期生産機こそ同じだったが、00年代以降は順次FADECが標準装備となった他、計器板もエアラインによってECD(液晶ディスプレイ)に交換したり、アナログ計器自体を小型のECDに交換する機体も多くある。
操縦システムは従来型の油圧及び電気式で、動翼は金属ケーブルとロッドがアクチェーターを通じて操作する。
ただし主翼上面のスポイラーだけ完全な電気式、すなわちフライ・バイ・ワイヤ化されており、左右別々に操作できるようになっておりエルロンの役目も果たす。
B767に乗ると、着陸後フラップを収納する時に「キュイーン、キュルキュル」と言う妙な音が聴こえるが、これはフラップを出し入れする油圧アクチェータの音だ。
↑エアロメヒコのB767-200ERは、メキシコシティ~東京線開設時に投入された。現在まで定期便として運航されたB767-200/ERとして、最長距離の記録を持つ。それでも海抜2,000メートル以上の高地に位置するメキシコシティからは燃料を満載できず、アメリカとの国境に接する都市ティファナで給油を強いられた。一方東京発はノンストップだった(ウィキペディア英語版より)
先日ある動画で、面白い事を取り上げているYoutuberの方がいた。
それはB767の主脚が、空中では前方に傾いていることだ。
動画では「あくまで私的な推察」として、主脚が胴体に収納された時「機軸」に真っすぐ揃うようにするため傾くようにしたのではないか・・と言うものだ。
ボーイング側では正式な見解は公開していないと言うが、大変興味深い考察である。
ただ私は以前、離着陸性能を向上させる為と言う資料を見たことがある。
初期に200型を発注したユナイテッドやアメリカンは、国内幹線用として同機の運用を予定しており、経済性や環境性を重視して離着陸性能も要求していた。

↑(2枚)00年代、中古の200ERを使い「オールビジネスクラス」運航をウリにして話題になったMAXジェット・エアウェイズとキャビン。全面パープルとブルーの塗装が古さを感じさせず、筆者が最も格好良いと思うB767だ(ウィキペディア英語版より)
これは大都市の空港で騒音規制があったこともあり、できるだけ短距離で離着陸できる性能を求めていたと言う。
主脚が前傾することで、離着陸時に機首を持ちあげた場合、ぎりぎりまで主脚が地上に接していることで仰角を取れて滑走距離を短くできる・・と言うことだ。
同じ思想として、エアバスのワイドボディ機も「ロッキングギア」と名付けてぶら下がるように傾く主脚を持つ。
ただしエアバス機は、B767とは逆に後方に傾いているのは設計思想の違いだろうか、目的は同じである。
またB767-200は、機外カメラを初めて装着した旅客機でもある。
↑筆者も知らなかったヘワ・ボラ・エアウエイズのB767-200ER。同社はコンゴ民主共和国(旧ザイール)のエアラインで、たった1機のB767は旧宗主国ベルギー・ブリュッセル線で運用されていた。同社は94年に設立、11年に運航を停止した(ウィキペディア英語版より)
今では超当たり前のサービスだが、標準装備したのは同機が最初である。
座席にモニターが付く時代ではないので、キャビン前方の大型スクリーンに投影されるタイプで、今や懐かしいプロジェクターを使っていた。
カメラは前脚に付いていて、離着陸時の迫力ある画像見たさに、わざわざ同機を選んで乗ったものだ。
↑激レア機、アフガニスタンのサフィ航空で使われていた200ER。全面仁塗装されたライトブルーが美しい(ウィキペディア英語版より)
日本で200型が退役して、10年以上が経ち殆ど忘れ去られた存在になっている。
しかし発展型である300型は、なおも現役にありどこの空港でも見る事の出来る機種の一つ。
老朽機を始めとして徐々にその数を減らしているが、それでも全日空・日本航空・エア・ドゥで数十機が現役にある。
全てが300ERではあるが、23年には日本就航40周年を迎え、少なくともそれまで全機が退役する事はないだろう。
これまではB747が、最も長期に使われた機種だったが、B767が記録を更新する可能性も高い。

↑(2枚)現在も現役にあるロシア・UTエアとアメリカ・イースタン航空の200ER。少数ながらも前者は定期便に、後者は主にチャーター便で運用されている(ウィキペディア英語版より)
B787やA350、A320など完全な「ハイテク機」が闊歩する中で、しっかりと根を張っているのがB767だ。
それだけ旅客機として優秀な機体である事の証明であるが、その礎を築いたのは他ならぬ200型なのである。
今こそ万能機のように見られるB787は、「長距離を飛べる中型機」として開発された。



↑(4枚)中古機を改造した貨物機は、今なお数十機が現役にある。アメリカのABXエアとアトラス航空(DHL)は、元全日空の200型を改造した200F/BDSFを保有している。2枚目のDHL塗装機はアトラス航空の機体で、主にドイツをベースにヨーロッパ域内で運航している。画像の機体は元全日空のJA8238。3枚目はコロンビアの貨物エアライン、タンパ・カーゴの200ERF、下はカナダのカーゴジェットの200BDSF(ウィキペディア英語版より)
だがその根底はB767-200にあり、200ERに至っては単純比較すれば殆ど同じスペックなのである。
今から40年も前に、250席程度の中型双発機で航続距離は最大で12,000キロ。
787には及ばないが、実用レベルからすればほぼ同格とも言えまいか。
21世紀の旅客機のあり方を示したのは、間違いなくB767-200なのである。
◎1月10日 晴れ 8℃
「成人の日」の3連休、最終日。
連休とは言え、正月が明けて一週間足らずだからあまりありがたみはなさそう。
加えて急速に拡大するコロナが、せっかくの休日に水を射す。
仙台はほぼ快晴に近く、気温も高めで穏やかな冬の一日だった。
決して暖かさは感じないけれど、この時期特有の冷たい風もなく、ちょっと出掛けたくなるような天気だった。
「成人の日」は今日だが、自治体によっては昨日と言うところもあったようで、仙台市も昨日行われたと言う。
昨年はコロナ禍で全国的に中止されたが、今年は予防対策を講じての開催とした自治体も多かったようだ。
一方で再拡大に鑑みて、急きょ取りやめした自治体もあったらしく、新成人たちはまたしてもコロナに翻弄された形だ。
残念な事ではあるけれど、将来いつか一つの思い出になるのだろう。
「自分の成人式は、コロナで出来なかったなあ・・」なんて言う日が、きっと来るだろう。
コロナ禍はともかく、今日の様な天気は個人的には好き。
寒いのは苦手だけれど、弱い冬の日差しは、見方を変えれば優しく見えるし、冬枯れの樹木の枝は青空に綺麗なモザイク模様を浮き上がらせる。
それを見ながら、歩くのは冬の楽しみの一つだ。
◎1月12日
「爆弾低気圧」の影響で、真冬の寒さ。
最高気温6℃は0時過ぎの記録で、日中は最高で2℃。
昨日も寒かったが、湿度が高く雨が降ったが、今日は雪。
断続的な降り方で、時々薄日が射す時間もあった。
懸念された強風は大した事なかったが、明日明後日も強い冬型の天気が続くと言う。
昨日の雨で、正月以来まだ残っていた日陰の雪は結構融けたが、また雪が積もり始めている。
しかも融けかかっていた残雪は、低温で表面が凍結し数日前より酷い状態だ。
事実県内では今朝から凍結による車のスリップ事故、歩行者の転倒事故が相次いだという。
低気圧が停滞する北海道や日本海側は、年末年始に続いて大雪になっており、交通障害が長引く可能性も出ている。
暦の上では今が「寒」の時期で、最も寒く雪が多い時。
実際には3月上旬ぐらいまで寒さは続くが、この冬は雪が多いかも知れない。
どうも「温暖化」「異常気象」に耳慣れてしまい、冬も暖冬気味が当然のようになってしまって、「本当」の冬に面喰っているのではないか。
異常気象以前に、人間が天候に付いていけなくなったいるのでは?と思う事がある。
冬は寒くて雪が降って当たり前・・・と思えば、備えが出来るはず。
なのに世間は混乱する。
最近鉄道は「計画運休」が流行し、荒天が予想される時は前日に運休や間引き運転が決定する。
安全対策と言えばそうなのだろうが、大雪や吹雪は今に始まったことではない。
むしろ鉄道関係者は、それこそ不眠不休で少しでも運転できる事に全力を尽くした。
なぜなら鉄道は重要なインフラであり、運休は社会に大きな影響を及ぼすからだ。
当事者に危険を冒せと言うつもりはないが、国民の為に戦う人がたくさんいたのだ。
今は天気予報の精度も向上し、対策も昔に比べれば遥かに選択肢が多いはずなのに、異常気象と理由にしているだけに見えてしまう事もある。
いっそのこと荒天の時は、世間全てがお休み・・になれば良いだろうが、そうもいくまい。
天気に関わらず仕事を含め、社会は動き続ければならないのだから。
夕方以降、雪は止んだが風が強い。
空には綺麗な月と星が出ていたが、しばらくすると突然ブワーッと吹雪いてくる。
何とも始末の悪い天気で、路面凍結も時間の問題だ。
しかも10分単位で変わり、典型的な冬の仙台と言った感じだ。
夜には県北の高速道路で事故が発生し、上下線とも通行止めと言う速報が流れていた。
恐らく「地吹雪」による視界不良と路面凍結かと思うが、近所の道でも危険性は同じだ。
元気ですか?
今日は良い一日でしたか?
体調はどうですか?
風邪など引いてませんか?
雪と風、君は大丈夫でしたか?
この冬は「らしい」冬のようで、寒さ・雪が多くなっています。
北国生まれの君は、まだこんな程度・・と言うかも知れませんが。
明日も雪・風が続きそうで、外出の際には特に気をつけて下さい。
小柄な君を思うと、今日のように冷たい暴風が吹くと転倒などしていないか、とても心配になります。
またコロナも拡大しているので、引き続き予防対策と寒さ対策はしっかり行って下さい。
出かける時はとにかく足元と周囲に気をつけて、充分暖かい格好で。
でも雪を見ると、君を思いだしています。
明日もどうかお元気で。
君に笑顔がありますように。
お休みなさい。
沫雪の 降らえて咲ける 梅の花 君がりやらば よそへてむかも(万葉集巻八 1641 角朝臣廣辧)
飛行機ネタ。
2022年は、ボーイング767が初就航してちょうど40年を迎える。
原形機の初飛行は1981年で、翌年の82年にユナイテッド航空が同機をデビューさせた。
ファンにはすっかりお馴染みのB767、日本では現在も日本航空、全日空、そしてエア・ドゥで約50機が現役にあり、一部の機体は国際線でも活躍している。
B777、B787、A350など、既に「21世紀型」の最新鋭旅客機が席巻して久しいが、前世代となったB767はなおも貴重な戦力として運航が続けられている。
日本の3社では、老朽化した機体は順次退役しているが、現時点で完全な退役は予定されていない。
製造期間、導入期間が長期に渡っていることから、機齢の若い機体も多く、充分現役に耐えられるからであろう。
現在日本のエアラインのB767は、メインモデルとなった「300ER」だけで、初期に導入された200・300型は退役している。
これまでB767に就いては何度も書いて来たけれど、それでも書き足りないぐらい魅力に溢れた旅客機だと思っている。
B767の開発は、実に1972年まで遡るから、ちょうど半世紀も前の事である。
当時飛行機がグッと身近な乗り物になって、世界的に需要が急増した時代だった。
それは「より速く、より多くの乗客」を可能とする機体が求められ、それは最大の旅客機B747や3発機DC-10、トライスターの開発に繋がった。


航空先進国だったアメリカは、国内需要も増加していたが、70年代以降になると「オイルショック」から始まる燃料高騰と不安定要素が噴出し、B747を始めとする大型ワイドボディ機はもてあまし気味になってきた。
オイルショックやベトナム戦争でドルの価値は下がり、航空運賃も値上げが続きようになり、需要が急降下し始めていたのである。
その為には運賃を下げる顧客の奪い合いに発展し、エアラインは低コスト運航が生き残るカギになっていた。
しかし運航コストの大きな大型機では、低運賃だとペイ出来ないことになり、特にB747は長距離国際線でないと利益を上げられなくなってしまった。


近距離路線用として大量に運用されていたのは、小型のB737やDC-9で、中距離向けではナローボディ3発機のB727が当時の主力であった。
B727は最大で200席、2クラスだと180席程度の機体で、航続距離は最大で4,000キロと大陸横断には不足だった。
その為にB747程大きくなく、大陸横断が可能な機体としてDC-10やトライスターが登場した訳だが、やはりコストは高くついた。
そこでアメリカのエアラインの多くは、B727とDC-10クラスの中間サイズで、運航コストの安い機体を要求した。
ボーイングは「7X7」と名付けた計画をスタートさせたが、エアライン側との意見がなかなか合わず、世界情勢も絡んでコンセプトが決定しなかった。

ユナイテッド航空やアメリカンは、250席級で5,000キロの航続力を持つ3発機を望んでいた。
しかしボーイングは、大型機で実用化した髙バイパスエンジンを使えば双発機でも充分要求は満たせるとして提案した。
だが安全性と言う点でエアライン側は納得せず、基本計画では双発機と3発機を提案し、さらにナローボディ機とワイドボディ機を案として提出した。
ここでその経緯は割愛するが、原形を決定するだけで数年を要することになり、「B767」として正式に開発が決定したのは77年ごろのことであった。
当初のプランでは双発機ながらも、T字尾翼機が考えられており、これは3発機化しやすいようにデザインされたものだったと言われている。

またワイドボディ機かナローボディ機かでも、エアライン側とは最後まで紛糾することになり、別の計画であった「7N7」と統合することになった。
「7N7」はその後「B757」として開発されることになり、システムは767と共通化させることで、エアラインに同格の性能を持ちながらもワイドボディかナローボディかを選択出来る事が可能となるのである。
機体の形状が定まらなかったのは、ワイドボディ機としてのサイズも論議されたからだった。
すなわちB747やDC-10では大きすぎる・・・と言う要望が強く、かといって2本通路を持つことは相反する事だったのである。
そこでボーイングは、2本の通路を持ちつつもDC-10やトライスター、そしてA300よりも一回り小さい断面を持つ全く新規のカテゴリーを提案したのである。
座席の標準的な配列は、B747が10列、DC-10/トライスターが9列、A300が8列だったのに対し、B767は「7列」としたのである。

今から見れば、ワイドボディ化ナローボディか拮抗する中での「妥協案」の様な部分もあっただろう。
更にボーイングは、一回り小さくすることで機体重量が軽くなり、低燃費が実現出来る事、そして乗客に嫌われる「中間席」を減らせるメリットを強調した。
B767の座席配列は2-3-2の7列が標準で、これだと中間席は1席だけである。
一方8~10列だと、どうしても2席以上の中間席が出来てしまい、そこに座らせられる乗客は窮屈な思いを強いられる。
エアラインの多くが、サービスが向上すると歓迎し受け入れるとともに、ボーイングは「セミワイドボディ」と名付けた。


機体の形状もごく一般的な低翼式で、2発のエンジンはポッドを介して吊り下げる形がまとまり、ユナイテッド航空が正式発注することでローンチが決定した。
しかしなおも不満を漏らすエアラインもあり、前途は多難であった。
B767最大の特徴は、ワイドボディ機として初めて2人乗務機とした事である。
それまで必要とされた航空機関士になり替わり、エンジン関係の機器をコンピューターで統合化させ、操縦席の計器板をデジタル化させた「グラスコクピット」にすることで、運航効率を一気に高めたのである。

ところがこの「2人乗務」に関しては、パンナムやアメリカン航空が強い難色を示していた。
一つは大型機である以上、安全性と言う点から航空機関士は必須と言う固定概念に捉われていた事に加え、仕事を失う可能性が出て来た機関士の為労組が猛反発を起こしたからであった。
当時のコンピューターはまだ未成熟な部分もあり、反発は当然だったと言えるが、一方で2人乗務はコストを抑制出来ると言う支持も多かった。
耐空証明を認めるFAAも、どちらの言い分も否定することができず、開発は遅延が出始めた。
結果ボーイングは再び「妥協案」として、コクピット内に航空機関士用の操作パネルを残し、オプションとして2人乗務か3人乗務を選べるオプションとした。

紆余曲折が続いたおかげで、同機のセールスはあまり伸びなかった。
ユナイテッド、アメリカンと言った大手は発注したものの、最大大手のパンナムは結局採用に至らなかった。
上記の理由の他に、細くなった胴体の為に、床下貨物室に積載するワイドボディ機用の航空コンテナ「LD-3」が積載出来ないと言う理由だった。
これは他のエアラインも同様の意見だったが、ボーイングはB767専用の新規格である「LD-2」を作ることでコンテナ輸送を可能とした。


だが同機専用で、しかも新規格のコンテナとなるとエアラインだけでなく、空港の設備も新たに追加する必要があり、それが受注の伸び悩みに繋がっていたと言われる。
そして82年に、ローンチユーザーのユナイテッド航空が初号機を受領し国内線に就航させた。
この最初の生産型となったのが「200型」であり、以降旅客機のあり方を示す「お手本」となるのであった。
スタートこそやや躓き気味のB767だったが、運航実績は大変良好だった。
原形機の初飛行が81年、初就航が82年と僅か1年でデビューできたのは、原形機で大きな問題が殆ど発生しなかったからだ。

B767-200は全長48.5メートル、全幅は47.6メートル。
エンジンはGE製CF-6-80Aと、P&W製JT-9D-7R4の2種から選択できた。
300型ではイギリスのロールス・ロイス製RB211エンジンが選択肢に追加され、90年代にはJT-9Dエンジンは発展改良型であるPW4000エンジンに変更されたが、200型では上記の2つが基本である。
スタイルは全体的にプレーンな外観を持つが、主翼は揚力特性を高める為にスーパークリティカル翼形を採用し、後退角も31度とやや浅目に設定された。
これは滑走路の短いローカル運用を考慮したもので、ワイドボディ機ながら近中距離運用を考慮したA300のコンセプトと似ている。
ただ機体規模の割に主翼は大きく、これは将来的に燃料タンクを増加させる目的もあっての設計であった。
事実初就航した82年には、アフリカのエチオピア航空がローンチユーザーとなって、航続距離延伸型である「200ER」の開発が開始されている。

アメリカではパンナムが発注しなかったが、ユナイテッド・アメリカンの他、デルタ、USエアウェイズ、TWAも続けて発注した。
日本では全日空が先駆けて発注し、日本航空も続いた。

全日空はまだ国内専門のエアラインだったが、規制緩和が決定しており国際線を含む路線拡大が予定されていた。
幹線用としては既にB747SR、トライスターが運用されていたが、その下となるとB727しかなく、需要増に向けて新型機を必要としていた。
またB767は、ボーイング機としては初めて国際共同開発の要素を持った旅客機で、イタリアのアエリタリア(現アレニア)などがプロジェクトに参加していたが、日本の企業もサプライヤーとして指定を受けた最初の旅客機であった。
開発設計には直接参加しなかったものの、機体の25%以上を日本のメーカーが生産を受託することになっていた。
これが日本のエアラインに有利に働いたのか、逆に押し付けられる事になったのか、何とも言えないが導入は自明の理であったと言える。
部品の製造にはイタリアを始め、各国のメーカーが請け負っていたが、日本製の占める割合が最も多く、一時ボーイングは同機の生産ラインを日本に置く案も持っていた。
実際主要サプライヤーには、合弁で「ボーイング・ジャパン」(現在の販売チャンネルとは別)を設立してはどうかと働き掛けていたと言う。
最も当時は日米貿易摩擦が表面化していたこともあり、政治的な意味もあって実現しなかったが、こうした事実から「準国産機」などと呼ぶファンもいる。


全日空は老朽化したB727の後継機として25機の200型を導入するとともに、B727の代替えだけでなく、新規のローカル線にもどんどん投入して顧客獲得に成功した。
同社でのデビューは83年のことで、東京~岡山線に就航。続いて大阪~仙台線に就航した。
日本航空はやや遅れて85年に初号機を受領したが、胴体を延長した300型も発注していた。
後に主力機種となる300型は、日本航空がローンチユーザー。
ただ計画段階だった事で、とりあえず200型を発注していた。その為200型の導入は僅か3機で、以降全て300型を導入している。
これは当時はまだローカル線の運航が少なかった為で、200型は近距離国際線用として導入されていた。
一方200ERは日本航空が2機発注していたものの、300型に切り替えた為、日本では同機の導入は1機もなかった。


海外では200ERが発売されると、ようやく海外エアラインが発注し始めた。
ローンチユーザーはエチオピア航空だったが、先に導入・就航させたのはイスラエルのエルアル航空である。
200ERは主翼及び胴体に燃料タンクを増設したタイプで、最大航続距離は実に12,000キロ以上もあった。
標準型の200は、約5,500キロとあくまで中距離機として開発されたが、倍以上の航続距離の延伸である。
この時代洋上飛行に関しては、安全性という観点から国際的な規制が課せられており、3・4発機でなければ運航出来なかった。



双発機には、緊急時に60分以内に到達できる空港があるルートを飛ばなくてはならない「ETOPS60」が適用されていた。
83年、200型を導入したエア・カナダが、同機を初めてトロントからカリブ海のバミューダ諸島への路線に投入した。
洋上飛行を伴う為、本来は「ETOPS60」の適用を受けなければならなかったが、ルートの大半が大陸上である事と、カリブ海上空も着陸可能な空港が多いことから、特別ルールとして「ETOPS75」の適用を受けたのである。
もちろん運航自体は問題なく、これを皮切りに「双発機」による長距離運用が試みられるようになる。


84年にはイスラエルのエルアル航空が、導入したばかりの200ERを使いテルアビブ~モントリオール線に投入した。
この時は「60」を保持したままで、大西洋上ではやや遠回りのルートを取ったが、航続距離は申し分なかった。




85年にはTWAが同じく200ERを使って、ボストン~パリ線を運航し、これまで多発機にしか認められなかった大洋黄疸が実質的に認められる事になったのである。
これらの事例を踏まえ、B767のETOPSは「90」そして「120」まで延長され、最終的には「180」まで認められるようになったのである。
今こそ双発機はごく当り前で、4発機のB747はもちろん、新しいA380までもが邪魔者扱いされる時代になってしまったが、双発機の安全性と経済性を完璧な形で証明・確立させたのはほかならぬB767-200であったのである。



200型は最大で250席を設ける事が出来るが、2クラスで200~220席と言う設定のエアラインが多かった。
そうなると「姉妹機」でナローボディ機のB757とほぼ同格となることから、経済性と言う点ではB757の方が若干優位だったと言えるが、長時間飛行では当然「セミ」ではあるがワイドボディのB767の方が好評だったし、ERの10,000キロを超す航続性能は絶対的だった。
因みに200ERが登場した頃、10,000キロ以上の航続距離を持つのはB747と旧ソ連製イリューシン62くらいだった。
それにしても基本型が中距離向けで5,000キロに対し、ERで12,000キロとは極端な値とも言えるが、それだけ設計に余裕を持たせていたと言う事でもあり、それは後の300及び300ERに受け継がれている。


ちょうど世界的に需要が高まった事、そして経済性や環境性が重視されるようになったことで、B767の主力は300型に移ってしまったが、コンパクトながらも超長距離機の性能を持つ200ERは、地道ながらも人気があった。
加えて300型に人気が移った事で、中古機が出回るようになると安価ながら長距離を飛べる機体と言う事で導入するエアラインが多かった。
特に民主化・自由化直後の東欧や、中近東・アフリカ・中南米諸国など途上国のエアラインが中古の200・200ERをこぞって採用した。
2人乗務の「ハイテク機」だった事や、キャビンも最新の水準にあることなどが理由だった。



300型では基本型の300から、長距離型のER、貨物型のFが新造機のラインナップになっているが、200型では基本型の200と長距離型の200ERのみが生産され、貨物機は全て中古機からの改造機である。
200はERを含めて約250機が生産され、その数は300・300ERの1/4程度に留まった。
しかしその生産ラインは、実は今も残されている。
ファンならご存知かと思うが、「軍用機」としての需要が未だ続いているためである。
最初にB767-200の「軍用型」を採用したのは我が航空自衛隊であり、同機をベースに我が国初の早期警戒機「E-767」、そして空中給油機「KC-767J」がそれだ。


これを機に、米軍も老朽化したKC-135の後継機種として「KC-46Aペガサス」の導入を決定し、現在も生産中である。
最も軍用機なので受注数には限りがあり、生産ペースも旅客機とは比較にならないが、特殊な軍用機にもB767-200が最適であると判断された事は注目すべき事だろう。


尚米軍が発注したKC-46Aは、自衛隊のKC767とほぼ同格の給油機だが、そのシステムが改良されたタイプで、自衛隊も新規での導入が開始されている。

現在軍用機以外では、約70~80機程度が現役にあると思われるが、その大半は貨物機とプライベート機である。
コロナ禍のせいもあり、旅客機として現役機を確認するのは難しいが、今のところロシアのUTエア、南部アフリカ・ジンバブエのエア・ジンバブエ、アメリカのチャーターエアライン、オムニ・インターナショナルとイースタン航空が保有している。
いずれも200ERで、オムニ・インターナショナルは米軍関係のチャーター便も運航しており、日本でも300ERとともに飛来することがある。


また日本では見ることが出来ないが、アメリカの貨物エアライン・ABXエアとアトラス航空がヨーロッパ域内でDHLにウェットリースで運航中で、双方とも10機以上の200SF・BDSFを保有する。
しかもどちらにも、元全日空機が在籍していて現役にある。

日本では全日空は00年代半ば、日本航空は00年代末までに全機が退役し、300・300ERに統一された。
25機も導入した全日空は、一貫して国内線で運用され、チャーター便を含めて国際線で運用されたことはなかった。
その為キャビンも導入以降全く変わらず、最後まで普通席のみのモノクラスだった。
対照的に僅か3機だったにも関わらず、日本航空の200型は多彩な形態であった。
当初こそ全日空と同じくモノクラスで、旧名古屋空港発着路線や繁忙期の臨時便などで運用されたが、その後はビジネスクラスを設定した2クラス制に変更され、名古屋や関空、福岡などから韓国線などの近距離国際線に投入された。
また短期間ではあったが、グループの日本トランスオーシャン航空にウェットリースされ、東京~宮古島線などで運用されていた(のちに300型に変更)。この時は日本航空の塗装ではなく、トランスオーシャン航空のフルカラーに変更してでのウェットリースだった。

この他いずれも短期間だったものの、全日空の200型がエア・ドゥとスカイマークにリースされ、いずれもフルカラーで運航された。
広義の意味で、200型は日本では実に5社で運用されたと言う事になり、今思えば地味な存在ながらも「働き者」の機体だった。
全日空・日本航空とも、2人乗務のハイテク機は初めての事で、多くのパイロットに愛された機体だった。
全日空では新人パイロットが、訓練生時代に初めて操縦する実地訓練機としても使われており、四半世紀に渡ってパイロットを育てた「親」の様な存在であったと言う。
「ハイテク機」と言っても、それは当時のレベルの事で、現在のB777や787と比べるべくもないのは止むを得ないが、当時は良い意味で操縦が格段に楽な機体と感じたと言う。
何よりも航法装置が自動化された事で、ワークロードが大幅に軽減されたからだった。
ただ後から導入された300型と比べると、操縦性はややナーバスな部分もあったと言う。


B767の外観は非常にシンプルで洗練されたスタイルを持つが、200型では垂直尾翼が胴体規模に比較してかなり大きい。
これは300型を意識して予め大きくしたそうだが、その分離着陸時の低速域では横風の影響を受けやすかったと言う。
一方面積が大きく、後退角の少ない主翼は良い意味で硬く感じられ、上空での安定性は優れていたそうである。
特に気流の悪い空域では、胴体に対して近い長さを持つ主翼は揺れを抑え込んでしまうような感覚があったと言う。
つまりどこまでもまっすぐ飛ぶような性質があり、短時間で離着陸しなければならない国内線では降下のタイミングが難しい事もあったらしい。

「初のグラスコクピット」も、現在の目から見ればいかにも過渡期と言えるデザインだ。
6枚のモニターが特徴的だが、一方で従来のアナログ計器も残されているのは、当時モニターはCRT(ブラウン管)であり、コンピューターの信頼性もイマイチだったことから、速度計・高度計などあくまで緊急用としてアナログ計器が併設された。
エンジン関係も自動化されてはいるが、FADECと呼ばれる回転数を調整するコンピューターは備えられておらず、パイロットが微調整する必要があった。

300型では初期生産機こそ同じだったが、00年代以降は順次FADECが標準装備となった他、計器板もエアラインによってECD(液晶ディスプレイ)に交換したり、アナログ計器自体を小型のECDに交換する機体も多くある。
操縦システムは従来型の油圧及び電気式で、動翼は金属ケーブルとロッドがアクチェーターを通じて操作する。
ただし主翼上面のスポイラーだけ完全な電気式、すなわちフライ・バイ・ワイヤ化されており、左右別々に操作できるようになっておりエルロンの役目も果たす。
B767に乗ると、着陸後フラップを収納する時に「キュイーン、キュルキュル」と言う妙な音が聴こえるが、これはフラップを出し入れする油圧アクチェータの音だ。

先日ある動画で、面白い事を取り上げているYoutuberの方がいた。
それはB767の主脚が、空中では前方に傾いていることだ。
動画では「あくまで私的な推察」として、主脚が胴体に収納された時「機軸」に真っすぐ揃うようにするため傾くようにしたのではないか・・と言うものだ。
ボーイング側では正式な見解は公開していないと言うが、大変興味深い考察である。
ただ私は以前、離着陸性能を向上させる為と言う資料を見たことがある。
初期に200型を発注したユナイテッドやアメリカンは、国内幹線用として同機の運用を予定しており、経済性や環境性を重視して離着陸性能も要求していた。


これは大都市の空港で騒音規制があったこともあり、できるだけ短距離で離着陸できる性能を求めていたと言う。
主脚が前傾することで、離着陸時に機首を持ちあげた場合、ぎりぎりまで主脚が地上に接していることで仰角を取れて滑走距離を短くできる・・と言うことだ。
同じ思想として、エアバスのワイドボディ機も「ロッキングギア」と名付けてぶら下がるように傾く主脚を持つ。
ただしエアバス機は、B767とは逆に後方に傾いているのは設計思想の違いだろうか、目的は同じである。
またB767-200は、機外カメラを初めて装着した旅客機でもある。

今では超当たり前のサービスだが、標準装備したのは同機が最初である。
座席にモニターが付く時代ではないので、キャビン前方の大型スクリーンに投影されるタイプで、今や懐かしいプロジェクターを使っていた。
カメラは前脚に付いていて、離着陸時の迫力ある画像見たさに、わざわざ同機を選んで乗ったものだ。

日本で200型が退役して、10年以上が経ち殆ど忘れ去られた存在になっている。
しかし発展型である300型は、なおも現役にありどこの空港でも見る事の出来る機種の一つ。
老朽機を始めとして徐々にその数を減らしているが、それでも全日空・日本航空・エア・ドゥで数十機が現役にある。
全てが300ERではあるが、23年には日本就航40周年を迎え、少なくともそれまで全機が退役する事はないだろう。
これまではB747が、最も長期に使われた機種だったが、B767が記録を更新する可能性も高い。


B787やA350、A320など完全な「ハイテク機」が闊歩する中で、しっかりと根を張っているのがB767だ。
それだけ旅客機として優秀な機体である事の証明であるが、その礎を築いたのは他ならぬ200型なのである。
今こそ万能機のように見られるB787は、「長距離を飛べる中型機」として開発された。




だがその根底はB767-200にあり、200ERに至っては単純比較すれば殆ど同じスペックなのである。
今から40年も前に、250席程度の中型双発機で航続距離は最大で12,000キロ。
787には及ばないが、実用レベルからすればほぼ同格とも言えまいか。
21世紀の旅客機のあり方を示したのは、間違いなくB767-200なのである。
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