古代史探偵A 法起寺の真実(10月10日 曇り時々晴れ 24℃)

※2日分の日記を掲載しています。


◎10月8日 曇り 24℃

秋雨前線が行ったり来たり。

それが気温差を生じさせているのだが、10月上旬はこんなものかもしれない。

昨夜からニュースを賑わせているのは、22:40分ごろに発生した千葉県北西部を震源とするM5.9の地震。

埼玉県と東京の一部で最大震度5強を観測し、千葉県や神奈川県、山梨県では震度5弱を観測した。

6日未明には岩手県沖を震源とするM6の地震が発生し、こちらも最大震度5強を観測しており、頻発する大きな地震に不気味さを感じる。

東京23区で震度5以上は、「3.11」以来のことで大きな被害こそ出なかったものの影響が出た。

鉄道各線は点検に時間を要し、今日まで運休が続いた。

大きな揺れを感じた足立区では新交通システム「舎人ライナー」が脱線し、復旧まで少なくとも数日かかる見込みで、昨夜の帰宅時、今朝の通勤・通学時間に大きな混乱が生じている。

また地震に驚いて怪我した人が数十人出たほか、水道管が破裂した所もあったと言う。

地震発生時、私は自宅にいたが家具や室内の扉などがカタカタ音を立てた事で気付いた。

仙台の震度は1だったが、揺れは殆ど感じなかった。

ただ音を聞く限り、ゆっくりとした揺れで強弱を繰り返したように思われ、震源が遠いと言う事は分った。

何となくわかってはいたけれど、大都市の災害に対する脆弱さ。

これまで常にそれらが指摘されていても、やはり混乱が起きる。

停電などのインフラ被害はなかったが、それが加わったらより混乱が広がったに違いない。

仙台でも今年の春に3度も震度5以上の地震が起きたが、さほど影響は出なかった。

首都圏と単純比較はできないけれど、今後首都圏により大きな地震が発生する可能性は高いと言われており、国や行政だけに防災を押し付けるのは酷だろうと思う。

地震だけでなく、台風や大雨でもすぐ混乱するのだから、住民自身がそう言う時の為の意識を常日頃持っている事も大切だと思う。

今更だけど、首都圏は人も物も多過ぎ。

田舎者の主観だけど、なぜあんなに人が多いのか不思議で仕方ない。

私は用事がないのでめったに行く事はないが、たまに行くと「メガシティ東京」の凄さに驚くとともに「異常さ」も感じる。

現地ではごく普通の事なのだろうが、深夜になってもどの電車も乗客でいっぱい。

繁華街に至っては、深夜を過ぎても人でいっぱいだ。

コロナ禍でだいぶ事情は変わったのかも知れないが、地方人から見ると異常としか思えない事も多い。

現代では便利な東京かも知れないが、こんなところで大地震に遭ったら絶対危険だな・・と思える場所がどこにでもあるのが怖い。



◎10月10日

仙台は午前中はどんより曇り空だったが、午後からは晴れ間も覗いた。

気温は平年よりも高めだが、日差しが出てもこのくらいなのは秋の証拠。

出来ればドーンと晴れても、空気は何処かひんやり・・の方が秋らしいけれど、それももうすぐだろう。

最近あまり聞く事がないけれど、10月10日は「10」を横に倒して並べると「目」に見えることから「目の日」。

私は最近目の手術を受け、現在も眼科に通っているので目の大切さは分かっているつもり。

パソコンやスマホを毎日眺める事が普通になった現代人は、視力低下だけでなく目の病気も増加傾向にあると聞く。

コンタクトレンズの誤った使用で眼科の世話になってしまう人も多いそうで、「見えて当たり前」と言う気持ちは改めた方が良い。

神経質になる必要はないけれど、自ら目に負担をかけないように意識するだけでも違うと思う。

8月に受けた白内障の手術の予後は順調で、先週検診を受けて異常なし。

おかげさまでクリアな視界を取り戻し、普通に見える目の健康のありがたさを実感している。

本来この週末は「スポーツの日」として、3連休になるはずだった。

だが東京オリンピック開催に合わせて、7月に移動したため明日11日のスポーツの日は「取り消し」である。

普段連休とかあまり影響のない生活をしているので、正直どうでも良い事なのだけれど、カレンダーを見るとつい「連休か」と思ってしまう。

昨年から延期になったオリンピック。年末の時点でもコロナ禍が拡大し、延期か中止か全く予測がつかなかったから殆どのカレンダーは明日が祝日になっているはず。

今時間違って仕事や学校を休んでしまう・・と言う人はさほどいないと思うが、どうだろう。

それにしてもいつから「スポーツの日」に変わったんだっけ・・・と思って調べたら、つい一昨年の19年からだった。

それまではもちろん「体育の日」だった訳だが、近年法律改正で祝日の一部が移動してしまいありがたみが薄れてしまった。

確かに「10月10日」と決めて飛び石連休になるより、「第二月曜」とかにして必ず3連休になる方が良いとは思う。

だがなぜ「体育」を「スポーツ」に変更したのか、理解しかねる。

オリンピック開催に合わせ「より自発的に、誰でも多様なスポーツに親しむ」と言う事から変更されたと聞くが、意味が分からない。

意外と知られていないが、オリンピックの為に作られたもしくは変えられた法律や条例がある。

例えば健康増進法による禁煙策で、飲食店も原則として禁煙とすることや、今話題になっているレジ袋の有料化は、基本的にオリンピックを意識してでの法律だ。

多くの外国人やメディアがオリンピックに来るからの改正であることは、意外と意識されていないように思う。

日本人は社会全体を思う人が多いから、環境や健康面と言う事でおおよそ受け入れているが、オリンピックが実に半端な形で終わった今どうだろうかと思わざるを得ない。

最近良く耳にするのは「ヨーロッパではこう言う事をしているから、日本でも・・」と言った理屈。

そもそも考え方も文化も違う外国に、なぜ無理やり足並みをそろえなくてはならないのかと思うし、逆を言えば欧米文化に「媚び諂って」いるようにしか見えない。

大いに参考にするのは結構だが、そこは日本人の文化や考え方、社会性を充分考慮してからの事にしなければならない。

特に何かと「海外では」「ヨーロッパでは」と、何とかの一つ覚え見たいに言う政治家、そして「専門家」と呼ばれる人に腹が立つ。

欧米文化が先進的で、日本の文化は「遅れている」と決めつけているとしか思えず、自虐的・卑下を通り越して自己否定にしか見えてこない。

プライドのかけらも見当たらないし、むしろ日本のやり方・考え方をグローバル・スタンダードにしてやろうと言う意気込みが出ないものだろうか。

環境面に対しては言えば「正義」みたいに考えている人が、今の日本には多すぎる。

因みにヨーロッパは統一された1国ではなく、数十カ国の単なる地域である。

おおよそどうだとい言いだす国は決まっていて、たいていはイギリスかドイツである。

イギリスはEUを脱退したが、政治的・経済的には両国が絶対的な権力を持っている事に変わりはない。

近年イギリスは近い将来自動車を全てEV(電気自動車)にすると言って世界に影響を与えているが、産油国でもある同国がそれを実現できるはずがない。

日本ではあまり知られていないが、イギリスは広大な北海油田の権利を持つエネルギー国で、自国分はもちろんパイプラインを通じてヨーロッパ全域に輸出しており、重要な国家財政を担っている。

仮に自国だけでなく、ほかのヨーロッパ諸国も追随したら一番困るのはイギリス本人なのである。

にもかかわらず言いだしたのは「口火を切った」ことが重要で、いわばリーダーシップを取りたいだけなのである。

車だけでなく、様々な「改革案」を世界に発信することがとにかく好きなだけで、逆に行動は全く伴わないのがオチである。

事実この自動車問題については、国民の殆どが非現実的と捉えているそうだ。

すなわち政治パフォーマンスと言う事なのだが、ヨーロッパでは「言った者勝ち」的な文化もある。

10~20年後にガソリン車を全て廃止する・・と「公言」して、その時公約が守られなくとも当然なのだ。

時の政治家は「10年前と今は、当時予測できなかったほど状況が変化した」「当時の首相、大統領、議会がそう決めたと言って、今の我々に責任はない」「彼らの見通しは甘かった」と言えば、それでおしまいである。

とかく責任を重視する日本とは、根本が全く違うのである。




日中少し汗ばんでも、夕方以降は急に温度が下がる。

なんだかんだ言っても、秋は着実に近づいていると言う事だろう。

来週は天気が周期的に変わり、ひと雨ごとに気温も低くなると言う。

いつまでも暑い様な気がするが、だいたい10月上旬はこんなもの。

逆に突然、そして一気に秋めく事になるから気温差には注意が必要だ。

コロナは下火になったように見えるが、油断は絶対禁物。

せっかくそうなったのなら、今度はそれを「維持」することも義務。

「コロナ前」の秋は楽しめないが、意識しつつの秋を楽しめるようになりたいものである。



元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

まだ秋を体感出来ないかも知れませんが、どうやらこれまでのようです。

来週以降はグッと秋を実感できそうですが、同時に肌寒さも出てきそうです。

体調管理にはくれぐれも注意して下さい。

この秋もコロナを意識せずには入られませんが、少しは秋を楽しむ事が出来るかも知れません。

君なりの秋を、笑顔で過ごせるように願っています。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



もみち葉の 散りなむ山に 宿りぬる 君を待つらむ 人し悲しも(万葉集巻十五 3693 葛井連子老)








◎古代史探偵A(法起寺の真実)


奈良県斑鳩町は、日本で最初に世界遺産に登録された場所である。

その中核となるのが「法隆寺」で、金堂は7世紀末ごろの築造で世界最古の木造建築物である。

実際には世界遺産は法隆寺を始めとする周辺域が指定されているが、同寺だけと勘違いされる事も多い。

法隆寺から北へ1~2キロの範囲には、「法起寺」と「法輪寺」が存在し指定区域に含まれている。

法隆寺は金堂の他、五重塔でも有名だが、こちらの二寺には「三重塔」が存在する。

「法輪寺」の三重塔はオリジナルは残念ながら火災で焼失し、戦後再建されたものであるが、「法起寺」の三重塔は8世紀初頭に築造されたオリジナルである。

広大な伽藍を持ち、歴史的に貴重な遺物を多数持つ法隆寺は奈良県随一の観光スポットでもあり、多くの人々が拝観に訪れる。

特に小学生の校外研修や、中高生の修学旅行での定番スポットになっておりシーズンともなると境内は人と観光バスでごった返す。

近年では日本の魅力に惹かれた外国人観光客も増え、日本の古代史に置いては重要な位置を占めている。

「法起寺」は法隆寺から北東に約1.5キロほど離れた田園の中にあり、小さなお寺でもあるのでいつも静寂に満ちている。

境内も狭く、多数の参拝者を受け入れられる事は物理的に困難なので、団体客は一切訪れる事がない。

個人観光客もやや離れているためか、法隆寺だけで引き返す人が大半である。

099.JPG   ↑コスモスが咲き乱れる秋の法起寺(奈良県斑鳩町、筆者撮影)

私が奈良に行くと「ルーティン」として、斑鳩は必ず初日に行くことにしている。

奈良では公共交通機関を使う事は少なく、レンタカーで動くのが基本である。

レンタカーはたいてい奈良市中心部で借りるが、第一歩として西の京の唐招提寺・薬師寺に行き、その後斑鳩へ向かう。

奈良の第一歩と言えば、奈良公園ではないかと言う意見もあるだろうが、もちろんそう言う時もある。

ただしその時車は不要なので、レンタカーは二日目からと言う事になるので、「ルーティン」としての斑鳩は車での事と言える。

西の京を終えて県道9号線を南下し、大和郡山城址を見ながら更に進むと20分ほどで斑鳩町である。

そして最初に視界に入ってくるのが、法起寺の三重塔なのである。

住宅地と街路樹の隙間から見え隠れするように近づいて行き、やがて左手にドンと現れる瞬間が堪らない。

法起寺の縁起は古く、厩戸皇子(聖徳太子)ゆかりの古刹である。

この地は7世紀始め頃、厩戸皇子が飛鳥から斑鳩に移住し宮を立てた後、別邸として「岡本宮」があった場所とされている。

事実法起寺敷地内には、この頃のものと思われる建物跡が確認されており史実と一致する。

また地名も現在まで「岡本」が残されており、伝承どおり岡本宮を後年寺に変えた事は間違いないと見られる。

岡本宮は、厩戸皇子が執筆した仏教要典「三経義疏」の中で、「法華経」を初めて講義した場所として知られる。

寺伝によると、法起寺は厩戸皇子が子である山背大兄皇子に、岡本宮を寺に改めよと命じた事が発端だとされる。

その為に上宮王家の大和・近江の所領から、食封が施入されたと言う。

厩戸皇子が薨去したのは622年の事であるが、法起寺で最初に建立されたのは金堂で、638年の事だったと言う。

その後685年に宝塔の建立が発願され、706年に三重塔が完成した。

現在国宝にも指定されている三重塔には、露盤が706年に完成したと言う表記が残されており、目下最古の三重塔である。

097.JPG ↑年間通じて静寂に包まれている法起寺(奈良県斑鳩町、筆者撮影)

平安時代には法隆寺の末寺となったが、鎌倉時代以降は衰退し、江戸時代初期頃には三重塔だけが残っていたと言う。

1694年に講堂が再建され、1863年には聖天堂が完成し現在に至っている。

三重塔は何度か解体修理が行われており、江戸時代の改修ではかなりデザインが変更されてしまったが、1972年から75年に行われた「昭和の大修理」では、江戸時代の改修変更箇所が確認されたため、ほぼオリジナルである現在の姿に戻されたと言うエピソードを持つ。

昭和の大修理に合わせ、敷地とその周辺では初めて本格的な発掘調査も行われ、先のように7世紀初頭の建物跡の他、やや時代が下る建物跡も確認された。

現在はなくなっているが、当時の法起寺は南大門を中心とした南向きの伽藍を持ち、向かって右側、東側に三重塔、左側・西側に金堂が建っていた事がわかった。

法起寺から西に約500メートルの法輪寺も、金堂と三重塔の伽藍を持つが、位置関係は法隆寺と同じく東側に金堂、西側に三重塔がある。

いずれにせよ金堂と塔が横並びと言う配置は一致しており、「斑鳩三寺」と呼ばれるようにお互いに関連性を持っていた事は明白である。

ただし法起寺のみが、なぜ左右逆なのかは不明だ。

これについての深い考察を見た事がないが、法輪寺が法隆寺と同じであることを考えると、何か意味がある事と思われる。

1-1-1-25 Hokki-ji,_seitendou.jpg ↑旧金堂跡に建つ聖天堂(ウィキペディアより)

また上記では縁起を簡潔に書いたが、良く見ると実にあやふやで不審な点が多い。

日本で初めて本格的な仏教寺院となったのは、現明日香村にある「飛鳥寺」である。

創建当初は仏教の興隆を祈願して「法興寺」と呼ばれたが、710年の平城京遷都の際に「移転」したため、「飛鳥寺」と改称している。

飛鳥寺は五重塔を中心に、3つの金堂がそれを囲むように立つ荘厳な伽藍を持っていたが、当時寺院を建立する最初の手立てとして塔の「心礎」が作られた。

そこから塔や金堂もしくは本堂が整えられて行く訳だが、全てが完成するまでには10~20年かかることは珍しくなかった。

しかし法起寺では史料を見る限り、全体が完成するまで実に80年近くもかかっている計算になる。

現在本尊は平安時代に作られたと見られる「十一面観音立像」であるが(収蔵庫に安置)、創建時は亡き厩戸皇子を弔う為に「弥勒菩薩像」が作られたと見える。

残念ながらそれは確認されていないが、同寺には古来木彫の「如来立像」が伝わっていた。

だが暫くの間その形式から飛鳥時代のものではなく、平安時代以降の仏像であるとされていた。

現在この仏像は奈良国立博物館が受託保存しているが、近年詳しく調べたところ後年の補修が加わってはいるが木材が飛鳥時代のものであることがわかった。

ただ史料に見える「弥勒菩薩像」とは違い、単なる「如来」としか伝わっていないことから創建時の本尊だったかどうかの確定には至っていない。

1-1-1-25 Hokki-ji,_koudou.jpg ↑法起寺現金堂(ウィキペディアより)

本尊は金堂もしくは本堂に安置される物だから、それが完成した638年を含めて以降の製作と見るべきだ。

まず気をつけねばならないのは金堂が638年に作られた、と言う事である。

638年は舒明天皇13年に当たるが、厩戸皇子が薨去してから16年も経っている。

史料を素直に信じれば・・という条件がつくものの、厩戸皇子の「遺言」の一つとしての創建であれば月日が経ち過ぎていると言わざるを得ない。

当然施行主は山背大兄皇子と考えるべきだが、彼は643年に蘇我入鹿によって(正確には諸豪族や一部の皇族)一族もろとも自害に追い込まれている。

この話は「日本書紀」に比較的詳しく描かれているが、皇子と家族は斑鳩宮が入鹿らの軍勢に包囲され放火された後、隙を見て脱出。

生駒山に逃れ、舎人は「乳部(みぶ、上宮王家の所領)」の人材と物資を使って徹底抗戦を進言したものの、山背大兄皇子は「無実の民を犠牲にする訳には行かぬ」として抗戦を拒絶。

斑鳩に戻ると「斑鳩寺」の中で妃や子とともに自害したと言う。

運命を共にしたのは20人以上と言われ、悲劇の皇子として伝えられて来た。

しかし事件に至るまでの経緯は全くと言って良いほど伝わっておらず、大臣家・蘇我氏を「逆賊」と見做す日本書紀では、いかにも入鹿の独断による抹殺劇のようになっている。

少し話がそれるが、舒明天皇の前代は公式として我が国初の女帝・推古であった。

彼女が崩御したのは628年の事であったが、この時皇位継承者であった厩戸皇子は既になく、叔父で共同統治者で権力者でもあった蘇我馬子もまた鬼籍に入っていた。

死を目前にした彼女は後継者に悩むが、この時点で皇位継承者として上位にあったのは山背大兄皇子と田村皇子、すなわち舒明天皇であった。

彼女は二人をそれぞれ呼んで遺言したが、どちらともはっきりと明言せず、結果大臣職にあった蘇我蝦夷と諸豪族で構成される合議に図られた。

その結果田村皇子が選出され、舒明天皇として即位するのだが、山背大兄皇子はそれを不服として何度も蝦夷に抗議した様子が描かれている。

最終的には説得に応じて即位を断念したことになっているが、入鹿らの急襲は今なお山背大兄皇子が皇位を狙っている・・と言う理由づけに利用されたのである。

父厩戸皇子が亡くなって20年以上も経ている上、舒明天皇も崩御して皇后だった皇極天皇時代になってからの滅亡劇は、いかにも不自然である。

そう考えると638年と言うタイミングは、重要性を帯びて来ると考える。

この時点で大臣職はまだ入鹿の父である蝦夷であるが、後継者としての入鹿の地位もまた確立されていたであろう。

同時に643年の急襲には入鹿だけでなく、後に孝徳天皇となる軽皇子ら皇族も参加していたことが分かっており、軍勢はほぼ「朝廷軍」であり上宮王家は「反逆者」と見做されていた事がわかるのである。

すなわち法起寺の創建は、中央から上宮王家を外した事に対する「抗議」の意味を含めていたのではないかと思うのだ。

同時に法起寺は建設中止となり、開始後80年と言う長い時を経て完成に至ったのであろう。

095.JPG ↑706年に完成した最古の木造三重塔。過去の改修で何度か形が変えられたが、「昭和の大修理」でオリジナルに戻された(奈良県斑鳩町、筆者撮影)

とある伝承には、岡本宮は厩戸皇子の妃である刀自古娘が晩年を過ごしたとされている。

厩戸皇子には彼女を含めて4人ないし5人の妃がいたと思われるが、刀自古娘は最初の妃・妻である。

彼女は馬子の娘で、蝦夷の妹でもある。ただし馬子の妻は物部守屋の妹と伝わるが、それ以外にも妻はいたと思われるので、蝦夷と刀自古が同母きょうだいか異母きょうだいかは不明である。

加えて彼女の生没年は全く伝わっておらず、それ以上に現在の古代史学で詳しい考察を述べた論は見た事がないほど、研究されていないのが実情である。

少なくとも上宮王家の跡継ぎである山背大兄皇子の母であるから、それなりの事が伝わっても良いはずだが、エピソードが殆ど伝わっていない。

この辺り、645年の「乙巳の変」で滅亡した蘇我本家を「逆賊」扱いした日本書紀が、蘇我直系の系譜を意識的に削除したとも考えられるが、それを考慮しても刀自古の生涯は不明過ぎる。

ただ細かく見て行くと、皇子と彼女は幼少のころから近い関係、すなわち幼馴染の関係にあったようで、厩戸皇子が元服した直後妃として結婚したようである。

103.JPG ↑法起寺南側に広がる田園風景。かつて厩戸皇子の別邸「岡本宮」が存在し、日本で初めて「法華経」が講義された。時の女帝・推古天皇も拝聴したと言う。飛鳥から斑鳩に通じるバイパス路「太子道」があった(奈良県斑鳩町、筆者撮影)

だとすると二人の年齢差もまた、さほど大きいとは考えられず、厩戸皇子が崩御した622年には40代だったと思われる。

ところが日本書紀では、皇子が崩御する直前は3番目の妃であった「膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)」が病床に付き添い、最後には彼女も病に「感染」して、皇子の前日に死亡した事になっている。

深い夫婦愛とその悲劇が描かれていて、それが平安時代以降顕著となる「聖徳太子論」に繋がって行くのであるが、この時刀自古の影は全く見られない。

死に付き添ったのが膳大郎女と言う事は、この時点で刀自古は既に亡くなっていた・・と考えるのが妥当と思えるが、ならばなぜ死亡記事が見当たらないのだろうか。

厩戸皇子の妃として史料で確認できるのは、順に刀自古娘、推古天皇の娘である兎自貝蛸皇女、膳大郎女、そして中宮寺の「天寿国繍帳」で有名な橘大郎女だ。

7世紀後半、天智天皇時代になると妃は出身身分で区別されるようになるが、この時代はまだ明確ではなかった。

4人の妃のうち、兎自貝蛸皇女は推古天皇の子だが若年で死亡したと見られている他、橘大郎女は孫と伝わる。

しかし出身身分による格は、皇子が即位していなかったこともあって婚姻順であったようである。

故に皇子の薨去前後、刀自古は他界していたため膳大郎女が傍にいたと考えても良いが、だとしても刀自古の所在が不明過ぎる。

先に書いたように、彼女は晩年岡本宮で隠居したと言う伝承があることから、厩戸皇子薨去時には存命だった可能性も出て来るのである。

膳大郎女は、斑鳩に拠点を構える豪族出身で、父の傾子(かたぶこ)は厩戸皇子が飛鳥から斑鳩に移住し斑鳩宮を建てた際に深く関わった人物の見られており、大郎女が妃になること自体不自然ではない。

だが最初の妃で、王家の跡目を継ぐ山背大兄皇子を生んだのは刀自古であり、実際山背大兄皇子が王家を継いだ事実は刀自古の立場も変わっていなかったはずである。

今にもドラマティックに描かれた厩戸皇子の臨終だが、膳大郎女が具体的に登場するのはこの時だけであり、どこか作為的なものを感じる。

102.JPG ↑秋になると法起寺は鮮やかなコスモスに囲まれる、地元の人が休耕田を利用して植えたと言う(奈良県斑鳩町、筆者撮影)

私は法起寺は厩戸皇子の遺言ではなく、刀自古本人が皇子を弔うために建てようとしたか、山背大兄が父と言うよりも母・刀自古の為に創建したのではないかと考える。

金堂が作られた638年は、皇子の死後16年が経過していることに加え、刀自古の父である馬子も、推古天皇も他界した後である。

もし刀自古が存命したとすれば、夫・父・天皇の叔母とそうそうたる権力者の家族は一人もいなくなっていた。

馬子の後を継いだ蝦夷は兄であるが、蘇我氏の専横体制に危機感を持ち合議制を重視した。

妹とは言え、特別待遇するのは憚られたのではないか。

故に残された遺産をもって、刀自古は岡本宮に隠居し、法起寺を作ろうと考え、死後山背大兄が実現した。

法隆寺の前身となる「斑鳩寺」は、天智天皇の御代の670年に火災により焼失し、恐らくは天武天皇もしくは持統天皇御代の680~690年代に現在の法隆寺が再建された。

法起寺三重塔が706年に完成したならば、若干遅れたものの法隆寺の再建と並行して築造されたと考えて間違いない。

だとすれば80年ものタイムラグがあるのは、643年に上宮王家が滅亡したからに他ならず、工事が中断したのである。

旧斑鳩寺焼失と、法隆寺再建の謎に着いては割愛するが、蘇我本家の権力抗争にいわば犠牲になった上宮王家に対し、天武・持統天皇は供養も兼ねて再建に関わっていたはずである。

それは同時に刀自古の「墓標」でもある法起寺の、工事再開も含まれていた。

三重塔は間口が初層と二層が3間なのに対し、3層だけが2間となっていて、木造三重塔としては極めて珍しい構造を持つ。

高さがない三重塔では、一般的には間口は統一される事が普通である。

そして伽藍配置が法隆寺と左右逆、と言うのも、同寺が特別な意味を持っていたからであろう。

近くの法輪寺は法隆寺と同じ配置であることからも、法起寺には何かメッセージ性を感じる。

先に刀自古の「墓標」と書いたが、もしかすると彼女の遺骨もしくは遺骸が収められていた・・・とは考えられまいか。

彼女の履歴が殆どないため、墳墓は全く不明である。

法起寺に古墳はなさそうだが、周囲に未調査の知られていない墳墓があるかも知れない。

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