飛行機ネタ 見ても乗っても楽しかった「リゾッチャ」(3月26日 晴れ時々曇り 15℃)

※諸般の事情により2日分の日記を掲載しています。

◎3月23日 晴れ時々曇り 13℃

雲が優位ながら、概ね天気は良好。

最近週末と言うと雨が降ったり、地震があったりと落ち着かないのに、平日は実に穏やかだ。

少し空気が冷たい気がしたが、近所の桜は目に見えるほど蕾が膨らんでいた。

今週後半から数日は天気も良く、暖かくなるそうで、気象台では仙台市の桜開花予想を29日としている。

私にはまだ春を実感できないけれど、季節はちゃんと歩んでいるのだ。

しかし春を目の前に、コロナ禍はそれを阻む。

県内では急に感染拡大が広がり、連日100人規模の新規感染者が出ており、25日から「酒類を提供する店舗、接待を伴う飲食店、カラオケ店」が再度営業自粛要請に入る。

それでも効果が見られない場合は、従わない店舗に対して自粛命令を出せるよう、県知事が厚労省に陳情した。

昨日は40人程度だったが、今日は再び120人を数え、仙台市だけでも90人を超えた。

大半が「クラスター」による集団感染だが、対策に効果があるとどうかは疑わしい。

確かに呑み屋さんやカラオケ店、福祉施設などでのクラスターが目立つ事は確かだが、「時短営業」で効果は薄いと思う。

本気で「それ」が原因と言うならば、全面休業にしなければならないだろう。

しかも21日で首都圏の緊急事態が解除されており、宮城県だけ制限することに意味があるのだろうか?

事実街に行くと、旅行か仕事かわからないが旅行用トランクを引っ張っている人を連日見かけるし、相変わらず若者の集団も見かける。

行政の責任を追及するのは結構だが、まずは個人の「自制心」。

我慢するのではなく、コロナ禍の中でやれること・出来ることを心がけるべきだと思う。



春のお彼岸が過ぎてしまったけれど、ふと21日が祖母の誕生日であることを思い出した。

昨年10月に30回忌を迎えた祖母だが、彼女は明治32年(1899年)生まれ。

亡くなった人の年齢を数えるものではないと言うけれど、あえて言うならば今年は「生誕122年」と言う事になる。

祖母は享年91歳と長寿であったが、「19世紀」生まれの人で元号も明治・大正・昭和そして平成まで4つも経験した。

私でさえ昭和・平成・令和で3つ目で、4つ目を体験できるかどうかは年齢的にかなり微妙だと思っている。

祖母は母子家庭だった私にとって、もう一人の「育ての親」に近い存在。

子供の時は意識しなかったけれど、私の「祖母」で19世紀生まれと言うのは凄いなと思う。

残念ながら私は曽祖父母に会ったことはなく、名前しか知らない。

なぜならば彼らは完全に「江戸時代」の生まれだから。

いわゆる幕末の「維新世代」なのだが、私の「3代前」が江戸時代と言うのは凄すぎる。

亡くなって30年が過ぎるが、不思議なことに祖母の事は匂いや肌触りまで細かく覚えており、声も鮮明に記憶している。

私の誕生日が18日だから、いつも祖母と一緒にお祝いされていた事を覚えている。

そして母が亡くなったからか、祖母を再び身近に感じるようになった。

我が家には祖母の形見が幾つか残っている。

母はあまり興味を持たなかったが、祖母が亡くなったあと親戚どうして遺品整理した時に私が持ちだした物が多い。

着物や愛用の財布などの他、昭和初期のものと思われる「茶箪笥」は今も現役である。

最も中身は私の作った飛行機の模型や、本が入れてあって本来の使い方をしていないが、我が家に鎮座している。

仏壇には母の遺影・遺骨とともに、祖母の遺影も供えているが、時々明らかに祖母の「匂い」を感じるのだ。

どんな匂いか、言葉ではうまく言い表せられないのだけれど、間違いなく祖母だ。

気のせいと言われるかも知れないが、私は時々母と一緒に祖母が「来ている」んだな・・・と思っている。
 

◎3月26日

もう春と言って良いのだろう、いつの間にか青空の色が濃くなった気がする。

でも日中は北西から少し強い風が吹き、15℃と言う気温はあまり実感できなかった。

「鈍い」私も、先週からようやく春物の上着に変えたが、今日は一瞬後悔しかけた。

桜の開花はまだのようだが、たまたま通過した市内中心部の公園では咲き始めていた。

しかし桜を前に、県内のコロナ拡大が続く。

3日連続で150人を突破。昨日25日からは呑み屋さんなどの時短要請が発効した。

夕方の駅前(泉中央)も、週末金曜の割には人出が少なかったように思う。

今後しばらくは気温の高めの状態が続き、一気に桜が咲きそうな気配。

そうなると世間は「お花見」したくなるのが理と言えるが、残念ながら2年連続でお預けになりそう。

市内で最も有名な名所、榴ヶ岡公園では毎年「桜祭り」が開催され、お花見する多くの市民で賑わうが今年もお預けになりそう。




元気ですか?

今日は良い一日でしたか?

体調はどうですか?

風邪など引いてませんか?

暖かな日々が続き、君も春を感じている事と思います。

昨年に引き続き、春を目いっぱい体感できる状況にありませんが、やり方次第という事もあるでしょう。

君なりの春、何かありますか?

君と春の花の事を話した事を、今も覚えています。

ちょうど今頃だったと思います。

暖かいのは良いですが、空気が乾燥しています。

また体も「冬モード」で、ちょっと汗ばんでしまい、薄着になりたくなりますが、それが風邪を引きやすくすることもあります。

コロナが気になるでしょうが、それ以前に季節の変わり目による体調管理には気をつけて下さい。

明日もどうかお元気で。

君に笑顔がありますように。

お休みなさい。



うぐひすの 鳴き散らすらむ 春の花 いつしか君と 手折りかざさむ(万葉集巻十七 3966 大伴宿禰家持)






飛行機ネタ。

94年、関西空港が開港した日本は一種の「航空ブーム」に沸いた。

それは長年続いた航空業界への規制が緩和された時でもあり、エアライン各社はあらゆる手段を通じて顧客獲得に乗り出した。

異業種からの新規エアライン設立なども、この時期から始まったし、海外エアラインへの発着枠の拡大なども順次行われるようになった。

国内では大手3社(日本航空、全日空、日本エアシステム)の競争が一気に激しくなり、多様な割り引く運賃やツアー、タイアップキャンペーンなどが次々と打ち出され、飛行機が一気に身近になるきっかけでもあった。

「乗って見たくなる飛行機」も重要な宣伝材料となり、多くの特別塗装機が出現した。

例えば全日空では、旅行キャンペーンの一環として特別塗装機のデザインを、初めて「一般公募」を行い「マリンジャンボ」を登場させた。

これをきっかけに、日本のエアラインは特別塗装機のブームになった。

就航する空港では休日ともなると、これらの機体を見たさに多くの人が訪れ「見たい・乗りたい」の効果は抜群だった。

映画やイベント、人気キャラクターのコラボも増えて、飛行機に興味のなかった人々をも取り込むことに成功した。

当時はまだラッピング技術が未発達だったため、特別塗装機の殆どは通常塗装と同じく「ペイント」だった。

それは大変な手間と経費がかかることで、今ではちょっと考えられない事であったように思う。

そのことを差し引いても、顧客を誘致さえすれば元は取れると言う事でもあったのである。

この中で日本航空は、国際線の強みを活かしたキャンペーンを開始した。

規制緩和後の日本航空は、国内線では全日空・日本エアシステムに後塵を喫していた。

国際線はほぼ独占状態にあり、名実ともに日本のフラッグキャリアだったが、国内線に関しては幹線がメインだった。

その強みは誰でも気軽に行ける海外旅行こそ、大きな収益をもたらすと考えて同社がその実力を発揮できるリゾート路線が対象に選ばれた。

日本航空が絶対的優位であるハワイ・グアム線を中心にしたキャンペーン、「リゾッチャ」である。

開始されたこのキャンペーンでは、専用の特別塗装機も多数用意されて話題になった。

1-1-21A-B747-246B,_Japan_Airlines_-_JA8149 JAL_Super_Resort_Express.jpg ←94年に登場した「スーパーリゾート・エクスプレス」(イエロー)のB747-200(ウィキペディア英語版より)

それ以前の90年、日本航空は初のチャーターエアライン「ジャパン・エア・チャーター」(JAZ)を立ち上げていた。

同社は季節波動の多いリゾート路線に対応させるため、基本的には独自の運航は行わず、親会社である日本航空が「ウェットリース」する形だった。

加えて運航コストの削減も加味して、客室乗務員の大半を外国人が採用されていた。

機材はもちろん日本航空から「リース」され、最初はDC-10-40が専用機材として運用された。

塗装は80年代末に変更された「ランドー・アソシエイツ」の新塗装と共通化されていたが、区別するため尾翼の「鶴丸」は廃止。

グループのイメージカラーである赤とグレーを三角形でデザインしたマークが施された。

社名のロゴも「Japan Air Charter」に変えられたほか、胴体前部の「JAL」ロゴは「JAZ」に書き換えられており、一応のオリジナル性を持たせていた。

「JAZ」の「Z」は、日本航空グループがエアラインとして「AからZまで」なんでも・・と言う意味が込められていたとされるが、諸説もある。

だが国際的エアライン略号のICAOコードでは「JAZ」で登録されており、運航時の便名も独自の「JO」が割り振られていた。

ただしこのオリジナル塗装での運航期間は短く、便によっては通常の日本航空塗装機が当たることも多かった。

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1-1-21A DC-10-40 (JA8544 JAZ.jpg ←(2枚)日本航空グループのチャーター部門として設立された「ジャパン・エア・チャーター」のDC-10-40。実質的には日本航空のウェットリース便として定期運航を行った(ウィキペディア英語版より)

「リゾッチャ」キャンペーンが開始されると、日本航空本体ではB747が専用機として特別塗装が施されたが、同時にJAZのDC-10も変更された。

これらの機体は、日本人が「ビーチリゾート」をイメージしやすいハイビスカスと「ゴクラクチョウ」をモチーフとした鳥のイラストが描かれ、「スーパーリゾート・エクスプレス」と言う愛称が付けられた。

当初「リゾッチャ」は旅行キャンペーン全体の名前であり、機体はあくまで「スーパーリゾート・エクスプレス」であった。

しかしファンは、どちらかと言えば機体の方が「リゾッチャ」と呼ぶことが多かったように思う。

最初の「リゾッチャ塗装機」は、パープルとイエローの2種。

JAZのDC-10はパープルで塗装されると同時に、地方初の定期路線機材として3機に増強された。

1-1-21A-_B747-246B_(JA8106 JAL.jpg ←「パープル」のB747-200(ウィキペディア英語版より)

90年代前半の日本は、「バブル経済」の崩壊で不況に見舞われたが、後半になると回復傾向を見せ、円高が進んだ時代を迎える。

それは一般人が気軽に海外旅行に行ける事を指し、特に地方発着の国際線がにわかに注目された時代でもある。

日本航空は札幌・仙台・広島・福岡と言った、これまでになかった地方発着の国際線を次々開設した。

目的地は絶対的な人気を誇るハワイで、上記の空港からはJAZのDC-10がほぼ「専用機材」として投入された。

実は期待を込めてのチャーターエアラインだったが、日本ではそもそも運航経費が高く、主催する旅行会社の多くは外国のエアラインをチャーターする場合が多く、JAZの請負先は日本航空系の旅行会社に限られており、思いのほか業績は伸びていなかった。

しかし需要の拡大でのキャンペーンで、同社の方針を変更。

運航便自体を「日本航空便」として運航するようになり、「リゾッチャ」が同社の本業になっていったのである。

一方成田や関空発着の「リゾッチャ」は、B747が主体であった。

行き先もJAZの地方便はハワイだったが、日本航空はグアムの他、オーストラリアまで対象を拡大させた。

1-1-22A_B747-246B_JA8105_JAL.jpg ←「リゾッチャ」機は、比較的初期導入の機材が充当されていた。写真の「JA8105」はアッパーデッキの窓が3枚の、ごく初期の200型(ウィキペディア英語版より)

だがB747便も、運航は徐々にJAZに移籍され、同社の乗務員で運航するようになった。

非常にややこしい関係なのだが、3機のDC-10は「JAZ」塗装のリゾッチャで、客室乗務員はJAZの社員。だが販売は日本航空便でウェットリース運航。

B747「リゾッチャ」は、機材は日本航空で、乗務員がJAZ。便名はもちろん日本航空。

尚パイロットは、B747は日本航空、DC-10は日本航空からの「出向」と言う形が取られていた。

また機材も基本的には全て日本航空の物なので、検査などの場合は日本航空塗装機に変更されることも珍しくなかった。

機内では南国リゾートをイメージしたミールや、クーポン付きのキャンペーンブックの配布、記念写真撮影などのサービスが行われた他、客室乗務員は通常の制服でなく、アロハシャツなどを着用して出発の時点で南国リゾートを味わえるように工夫されていた。

1-1-21A_B747-246B_JA8114_Japan_Airlines(Resocha).jpg ←「スーパーリゾート・エクスプレス」の愛称は、キャンペーン名と同じく「リゾッチャ」に変更され、機体のロゴも書き換えられた(ウィキペディア英語版より)

一方大半の乗客がツアー申し込みの「包括運賃」利用だったため、ビジネスクラスを含む2クラス制の機材が充当された。

ちょうどこの時代、こうした包括運賃が一般的になっていたこともあり、大型連休や夏休み、年末年始は「リゾッチャ」の利用が拡大した。

乗客は旅行会社が主催する「ツアー」に申し込むが、添乗員つきの団体旅行だけでなく、いわゆる「個人ツアー客」も包括運賃で利用できるようになったためだ。

ライバルの全日空もリゾート路線の拡大を初めていたが、この時点ではやはり日本航空の方に1日の長があった。

上記のようにJAZのおかげで、それまでチャーター運航しかできなかった地方都市からの定期便運航が可能になったことは大きかった。

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1-1-21A B747-100B-JA8128_JALways(Resocha).jpg ←(2枚)「JAZ」の後を受け継いだJALウェイズのB747。下は最後まで現役にあった100型のJA8128(ウィキペディア英語版より)

また同社は設立にあたって、多くの外国人客室乗務員を採用したことも特徴であった。

そのほとんどがタイ人で、バンコクにはトレーニングセンターも設置された。

これは日本人が理解しやすい、タイ人のサービス精神が一致していた事が理由とされているが、コストと言う事も大きかったようである。

もちろん日本人乗務員も多く乗務していたが、タイ人乗務員の大半は日本語の訓練も受けていた。

「リゾッチャ」は国際線限定だったが、人気を受けて国内線にも進出。

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1-1-21A_B747-346SR_JA8187 JAL.jpg ←(2枚)沖縄線用として新たに「ピンク」で登場したB747-300SR「スーパーリゾート・エクスプレス・オキナワ」。のちにグアム線などにも充当された為「OKINAWA」の文字は短期間で消滅した(ウィキペディア英語版より)

東京~沖縄線が指定され、専用機として2機のB747-300SRが選ばれて、塗装もパープル・イエローに続いて「ピンク」で登場した。

胴体のロゴには「OKINAWA」が付け加えられたほか、国内線で「リゾッチャに乗れる」として、当該機便は季節を問わず満席が多かった。

あまりの人気ぶりに、ごく短期間ではあったが2機のB747-300SRのキャビンをオール普通席に変更し、584席で運航した事もある。

通常同機は最前部の「Aコンパート」にスーパーシートが設置されていたが、そこも普通席に変更した。

584席は当時としては世界最大の座席数であり、後に全日空のB747-400Dに抜かれるまでギネスのタイトルを保持したほどであった。

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1-1-21A_B747-146_ JA8116 Japan_Air_Lines(Resocha).jpg ←(2枚)アッパーデッキの窓が2枚しかないB747-100Bと新しい「リゾッチャ」ロゴに変更された200型(ウィキペディア英語版より)

99年、日本航空はJAZを「JALウェイズ」と社名変更して、同社を運航会社として再編した。

これによりJAZと日本航空の「リゾッチャ」機はJALウェイズに「移籍」した形を取り、運航は日本航空との「コードシェア運航」になった。

尚人気だった「リゾッチャ・オキナワ」は、一足先に国内線から「引退」し、2クラス制(一部のB747は3クラス)に戻され国際線に転用されている。

その為胴体に書かれていた「OKINAWA」の文字だけ消され、主にオーストラリア線に投入された。

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1-1-21A_B747-346SR_JA8186 JALways(Resocha_Okinawa).jpg ←(2枚)「リゾッチャ・オキナワ」のB747-300SRは、JALウェイズ発足後「サーモンピンク」に変更され、国際線専用機材になった(ウィキペディア英語版より)

JALウェイズに移籍後、花柄マークも順次デザインや色が変更された他、リゾッチャの文字も大型化され、初期よりも目立つようになった。

「新リゾッチャ」は、JAL塗装機にも施された機体があり、JALウェイズ専用と言う訳ではなかった。

「リゾッチャ」キャンペーンは08年で終了したが、これは日本エアシステムとの統合が開始されたからだ。

完全な統合までは「日本航空インターナショナル」と「日本航空ジャパン」と言う、正直訳のわからない新会社に変わった。

要するにそれまでの日本航空は「インターナショナル」として主に国際線を、旧日本エアシステムを国内線専門として「ジャパン」としたのだが、同時に日本航空傘下のJALウェイズとJALエクスプレスは前者と後者に整理されることになり、JALウェイズは「日本航空インターナショナル」に再統合され、「JAZ」時代から約20年間の運航を終了した。

1-1-21A_B747-200B JA8150 JALWAYS.jpg ←JALウェイズに移籍後のB747-200(ウィキペディア英語版より)

だがJALウェイズは一応独立したエアラインであったが、サービスは日本航空と統一化されており、実質的には運航のみであった。

統合そして経営破綻に向かったことで、リゾッチャが消えた事は当然とも思え、どこか中途半端でいつの間にかと言う感じでもあった。

リゾッチャ機も全て通常塗装に戻されたが、統合後新たに制定された新塗装「アーク」になっても一部の機体が残っていたのはファンに注目された。

しかしリゾッチャ機はB747クラシックとDC-10のみで、既に主力の地位にあったB747-400、B777、B767には1機も施されなかった。

故に一部のファンからは、古い機材ばかりだったので「ボロッチャ」などと揶揄されたこともあると言う。

だが会社を上げて、長期間に渡るキャンペーンと言うのは日本航空ならではのやり方であったと言える。

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1-1-21A-DC-10-40I JA8547_JALways_Resocha.jpg ←(2枚)DC-10は社名ロゴだけ変更され、デザイン自体はそのままだった(ウィキペディア英語版より)

飛行機に興味がない人から「リゾッチャに乗った」と言う言葉が良く聞かれたし、空港でも目立って人気であった。

今思えば確かにリゾッチャ機は全て「3人乗務」の古い機材で、格安利用便だから・・と充当されたような気がしないでもない。

でも綺麗な塗装で、「見るだけでも南国リゾート気分」は成功だったと思う。

時代が変わり、こうした特別塗装機の役割は変化してしまった。

ネットなどの普及で、旅行会社のデスクでパンフレットを見ながら申し込むと言うやり方は減少し、いつでもどこでもパソコンやスマホで簡単に申し込める時代である。

1-1-21A B747-300SR JA8183_Resocha_Japan_Airlines.jpg ←唯一「JAL」のまま新デザインになったB747-300SR(JA8183)(ウィキペディア英語版より)

何よりも競争激化でLCCなどが増え、ツアー旅行の意味が薄れてしまっている。

気がつけばキャンペーンが開始された94年とは、もう四半世紀以上前のこと。

日本航空ではB747-400、95年以降になればB777の同級が開始された時代だが「747クラシック」とDC-10もまだまだ現役にあった。

でもB747-200/300とDC-10のリゾッチャ塗装は良く似合っていたし、実に格好良かった。

コロナ禍が加わって、今後こうした特別塗装機によるキャンペーンは行われることはないだろう。

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1-1-21A DC-10-40 JA8544_JALways(Resocha).jpg ←(2枚こちらも唯一「サーモンピンク」に変更されたB747-200と、「アーク」塗装以後残ったDC-10-40のリゾッチャ機(ウィキペディア英語版より)

何よりも特別塗装ではない様な程機数が多く、うそのような話だが「リゾッチャ」と言うエアラインもしくは機体の名称だと思っていた人も多かった。

それだけ浸透していた事は、評価に値するだろう。

考えてみれば、見て楽しくワクワクするような旅客機は、最近見られなくなったなあと思う。

時代の変化、と言えばそれまでだが、「リゾッチャ」機はそういう気持ちを湧かせる魅力を持っていた事は確か。

もうこう言う機体は現れないだろうか、そう思うとどこか寂しく味気ない時代になったな・・とも思う。

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