終戦記念日(8月15日 曇り時々晴れ 32℃)
予報では曇りだったが、午前中には青空と日差しが。
おかげで気温も上がり、再び真夏日となった。
しかし日中以降、東よりの風が強く吹き始めた。
大型の台風10号は、午前中に四国へ上陸。
その後中国地方を縦断し、夜遅く日本海へ抜けるコースを取っている。
東北は台風から1,000キロ以上も離れているが、強い風は台風に向かって吹く風だ。
直撃となった西日本では、大雨や暴風が相次ぎ、鉄道を筆頭に交通機関は終日運休した。
これは上陸が確実になった昨日のうちに決定されたもので、甲子園で開催中の高校野球も昨日中止が決定されている。
お盆休み真っ最中の台風だったが、Uターンラッシュのピークは17・18日であり、大きな混乱はなかった。
それでも今日行動予定の人は、昨日のうちに移動したり、飛行機から鉄道やバスに急遽変更した人も多かったようだ。
また強風が山越えとなった東北日本海側から北陸は、「フェーン現象」で気温が上昇。
40℃を越えた場所もあった。
仙台は生暖かい風が吹いており、湿度たっぷりでかなり蒸し暑い。
明日以降台風は日本海を北上後、温帯低気圧に鳴るが、北海道に「再上陸」する見込み。
この為北海道や日本海側では、明日から明後日にかけて大雨のとこともあると言う。
お盆休みの台風は何とも興ざめだが、ちょうど半ばというタイミングは不幸中の幸いだったかも。
今日は74回目の「終戦記念日」。
追悼式典には天皇・皇后両陛下が、初めてご参列なされ天皇陛下はお言葉を述べられた。
「令和」初の終戦記念日、「昭和20年」は更に遠ざかっていく。
私はもちろん戦争を知らない世代だが、生まれたのは戦後20年を少し過ぎた時代。
記憶にないが、現在に繋がる戦後復興の経済成長時代だった。
このころはまだ戦争が人々の記憶に強く残っている時代で、自分の年齢より隔世の感を感じざるを得ない。
最もそれを私が直接感じることはなかったが、家族には戦時中の話をよく聞かされた。
子供だったのでピンと来ないし、古臭い退屈な話だったけれど、不思議なことにちゃんと覚えている。
母は1939年(昭和14年)生まれのきょうだいの末っ子で、終戦時はまだ6歳。
長兄は大手書籍店のサラリーマンで社会人だったが、海外赴任中でインドネシアのジャカルタに勤務中だった。
二男は今で言う高校生で、神奈川県の自動車工場に「学徒動員」。
そして中学生の三男と小学生の四男、そして祖父母が家に残っていた。
終戦当日、祖父は会社、三男は学校で「軍事教練」で外出しており、自宅には祖母と四男、そして母の3人だけだったと言う。
天気が良くてとても暑い日だったが、町内会からお昼に重大な放送があるからなるべく聞くようにと通達があったそうである。
それが終戦・敗戦を告げる昭和天皇の「玉音放送」であった。
時間には四男は何処か遊びに行って自宅にはおらず、放送を聞いたのは祖母と母だけ。
6歳の母にはもちろん内容など分からなかったが、放送は雑音が多く聞き取りにくかったと言う。
加えて冒頭の「耐え難機を耐え、偲び難きうぃ偲び・・」と言うお言葉だけ、なぜか耳に残っていたと言う。
放送が終わると母は祖母に何のことか尋ねたが、祖母は「戦争が終ったんだよ。」と一言だけ呟いたそうである。
「母」と言う立場から、終戦は結果はどうであれホッとしたに違いない。
同時に「国民総出」の戦争だったから、例え6歳の子供の前でも、素直に喜ぶことは出来なかっただろう。
しかも長男と二男は、兵隊ではないにせよ戦地に赴いているのと同じ。
祖父母は筋金入りの「明治人」だったから、覚悟はしていただろう。
家に残った3人の子供は無事だったが、私の母が生まれる約2年前には母の「姉」となる女の子を、祖父母は乳児のうちに亡くしていた。
早い話私にとっては、会った事のない実の「叔母」である。
母に言わせれば「姉」が生まれてすぐ亡くなったから、代わりに私を生んだのだろうと笑っていたが、男女産み分けることは出来ないから違うと思う。
だがまだ幼い唯一の「娘」を、祖母はこよなく可愛がり、苦しい戦中・戦後の生活も苦しい想いは記憶にないと言っていた。
学徒動員していた二男は、終戦直後程なく帰って来たが、インドネシアにいた長男が帰還したのは戦後2年近く経ってからであった。
兵隊ではないので国の戦死通知はなく、祖父母は敢えて口には出さなかったが諦めていたと言う。
長男、すなわち私にとっても叔父に当たるが、実際には終戦直後に「マラリア」を患い、すぐには帰国できなかった。
更に現地に取り残された日本人は、兵隊が優先的に「復員」と言う形で帰国し、民間人は後回しだった。
終戦直後はアメリカ軍が進駐し、日本人は軍民関わらず収容所に収監され、順次帰国の途に就いたが、病人の叔父は源氏人に匿われて療養したと言う。
インドネシアは元々オランダの植民地で、原油を含む同地の産物は全て搾取されていた。
戦争が始まると、日本もまたインドネシアの原油や石炭、食糧などを確保するためオランダに戦争を挑み、弱小なオランダ軍はすぐ降伏。
インドネシアにとっては、支配者が日本に変わっただけだった。
しかしオランダと違ったのは、日本はインドネシアに道路や発電所を作り、病院や学校を作り、水道を引いた。
それは日本人のためだけではなく、現地の人々のためでもあった。
日本の「ため」に鳴ってもらうため、生活を向上させ、子供たちには教育を行い、住民の健康を管理し、交通を整備して流通を確立させた。
一方オランダは、産物の取得のために開発をするだけで、現地には何一つそうした保障は行わず、油田や鉱山、農園ではインドネシア人は奴隷のごとくこき使われ、差別されていた。
日本人は働いてもらう現地人に、きちんと給与を支払い、インフラを自由に使わせた。
「アメとムチ」とも言えなくないが、インドネシアの人々にはオランダより自分たちを認めてくれる日本を大いにありがたがった。
戦後同国はアメリカの管理下に置かれたが、オランダ程ではないにせよ扱いはどう見てみもアジア人への差別感が拭えず、数年後には独立を巡る内戦に発展した。
現在インドネシアの道路は左側通行、鉄道も日本の中古電車を大量に輸入し、近代化が進んでいるが、これらは日本統治時代の名残だ。
叔父はインドネシアの人々の優しさは、日本人のそれと似ていて、いつかお礼を言いに再訪したいと言っていた。
それが叶ったかどうかは知らないが、無事長男の期間で、我が家の「戦争」は終わったのだろう。
それから20年と少し経って、私がこの世に生を受けることになるのだが、犠牲になった家族がいなかったのは幸せだっただろう。
最も亡くなった赤ちゃんの死因は不明で、戦時中故栄養失調や病気でも治療が出来なかったのかも知れず、だとすれば「叔母」が唯一我が家では間接的ではあるけれど、戦争の「被害者」だったと言えるかも知れない。
そして74年経た今、時代は「令和」となって、昭和は遠い過去のものになりつつある。
同時に祖父母はもちろん、叔父達、そして母も他界し、四男の叔父だけが残っている。
既に80代半ばのはずで、残念ながら現状は不明。
もう30年近く私とは行き来がなく、消息は不明である。
この叔父が亡くなれば、家系では直接戦争を語る家族がいなくなる。
まだ家族ではなかった伯母か、こうして間接的に覚えている私だけになる。
そして私もそれを伝える家族は、今のところいない。
ここでこうして辛うじて「書き残す」だけだ。
世間でも、戦争体験している人は年々減少している。
長寿のおかげで、まだ多数残られているとはいえ、近い将来全員がいなくなることは確実だ。
その時日本の「戦争」は、遠い過去の「人ごと」にしか思えない時代が来る。
教科書や本で知るだけで、テレビや映画でさえ取り扱う事はなくなるだろう。
その時未来の日本人は戦争と言うものを、どう感じているのだろうか。
歴史を直接伝える・残すと言う事は、本当に大切なことだと思う。
我々「知らない世代」は、例え「人ごと」に思えても、自分の「先祖」が困難な時代を切り抜けてきたからこそ、今があると言う事を忘れてはならない。
物があふれ、苦労をせずとも済む時代に、目の前の事だけを見がち。
それを否定はしないけれど、祖父母や曾祖父母たちが一生懸命生きて「血筋」を今につないだ事を、絶対忘れてはいけない。
元気ですか?
今日は良い一日でしたか?
体調はどうですか?
風邪など引いてませんか?
暑さは大丈夫ですか?
お盆休み、君はどう過ごしているでしょうか?
休日返上のお仕事、と言うかも知れませんが、少しは夏休み気分を味わっているでしょうか?
旅行に行ったり、生まれ故郷を訪ねたり、懐かしい友人と会ったり、楽しい予定もあることでしょう。
奈良へは行かないのですか?
詳しい日付は覚えていませんが、君が初めて一人旅で奈良を訪れたのは猛暑の夏休みでしたね。
あれからもう10年も経つのかと思うと、ちょっと不思議な感じもします。
昨日今日、奈良ではお盆恒例の「東大寺盂蘭盆供養会」「春日大社万灯篭」「高円山送り火」などが行われました。
ひょっとしたら君は見に行っているかも知れないし、過去には行った事があるかも知れません。
私はいろいろ事情があって、なかなか行けない日々が続いていますが、この秋には久し振りに行きたいと思っています。
いつも奈良の事を考えると君のことを思い出し、君がまだ行ったことのない場所に連れて行きたい、一緒に行ってみたい・・と思ってしまいます。
暑さはまだ続きそうですので、体調管理には気をつけて、楽しい夏休みを過ごしてください。
明日は台風の影響で風が強くなると思いますので、外出の際には充分注意してください。
明日もどうかお元気で。
君に笑顔がありますように。
お休みなさい。
遠音にも 君が嘆くと 聞きつれば ねのみし泣かゆ 相思ふ吾は(万葉集巻十九 4215 大伴宿禰家持)
☆今日のバス
692号車 02年式三菱ふそうニューエアロスター(MP37JM) 野村車庫(元名鉄バス)
780号車 01年式日野ブルーリボン・シティ(HU2PMEA) 野村車庫
692号車は昨年末にまとまって導入された中古車グループ。
780号車は宮交には4台しか存在したい「シティ」の劇レア車。
このうち3台が自社導入車で、同社は今年初めまで「宮城ナンバー」の427号車で登録されていた。
泉営業所の1台は数年前に「仙台ナンバー」に変更されていたが、こちらは車検に合わせて「仙台ナンバー780号車」に再登録されている。
おかげで気温も上がり、再び真夏日となった。
しかし日中以降、東よりの風が強く吹き始めた。
大型の台風10号は、午前中に四国へ上陸。
その後中国地方を縦断し、夜遅く日本海へ抜けるコースを取っている。
東北は台風から1,000キロ以上も離れているが、強い風は台風に向かって吹く風だ。
直撃となった西日本では、大雨や暴風が相次ぎ、鉄道を筆頭に交通機関は終日運休した。
これは上陸が確実になった昨日のうちに決定されたもので、甲子園で開催中の高校野球も昨日中止が決定されている。
お盆休み真っ最中の台風だったが、Uターンラッシュのピークは17・18日であり、大きな混乱はなかった。
それでも今日行動予定の人は、昨日のうちに移動したり、飛行機から鉄道やバスに急遽変更した人も多かったようだ。
また強風が山越えとなった東北日本海側から北陸は、「フェーン現象」で気温が上昇。
40℃を越えた場所もあった。
仙台は生暖かい風が吹いており、湿度たっぷりでかなり蒸し暑い。
明日以降台風は日本海を北上後、温帯低気圧に鳴るが、北海道に「再上陸」する見込み。
この為北海道や日本海側では、明日から明後日にかけて大雨のとこともあると言う。
お盆休みの台風は何とも興ざめだが、ちょうど半ばというタイミングは不幸中の幸いだったかも。
今日は74回目の「終戦記念日」。
追悼式典には天皇・皇后両陛下が、初めてご参列なされ天皇陛下はお言葉を述べられた。
「令和」初の終戦記念日、「昭和20年」は更に遠ざかっていく。
私はもちろん戦争を知らない世代だが、生まれたのは戦後20年を少し過ぎた時代。
記憶にないが、現在に繋がる戦後復興の経済成長時代だった。
このころはまだ戦争が人々の記憶に強く残っている時代で、自分の年齢より隔世の感を感じざるを得ない。
最もそれを私が直接感じることはなかったが、家族には戦時中の話をよく聞かされた。
子供だったのでピンと来ないし、古臭い退屈な話だったけれど、不思議なことにちゃんと覚えている。
母は1939年(昭和14年)生まれのきょうだいの末っ子で、終戦時はまだ6歳。
長兄は大手書籍店のサラリーマンで社会人だったが、海外赴任中でインドネシアのジャカルタに勤務中だった。
二男は今で言う高校生で、神奈川県の自動車工場に「学徒動員」。
そして中学生の三男と小学生の四男、そして祖父母が家に残っていた。
終戦当日、祖父は会社、三男は学校で「軍事教練」で外出しており、自宅には祖母と四男、そして母の3人だけだったと言う。
天気が良くてとても暑い日だったが、町内会からお昼に重大な放送があるからなるべく聞くようにと通達があったそうである。
それが終戦・敗戦を告げる昭和天皇の「玉音放送」であった。
時間には四男は何処か遊びに行って自宅にはおらず、放送を聞いたのは祖母と母だけ。
6歳の母にはもちろん内容など分からなかったが、放送は雑音が多く聞き取りにくかったと言う。
加えて冒頭の「耐え難機を耐え、偲び難きうぃ偲び・・」と言うお言葉だけ、なぜか耳に残っていたと言う。
放送が終わると母は祖母に何のことか尋ねたが、祖母は「戦争が終ったんだよ。」と一言だけ呟いたそうである。
「母」と言う立場から、終戦は結果はどうであれホッとしたに違いない。
同時に「国民総出」の戦争だったから、例え6歳の子供の前でも、素直に喜ぶことは出来なかっただろう。
しかも長男と二男は、兵隊ではないにせよ戦地に赴いているのと同じ。
祖父母は筋金入りの「明治人」だったから、覚悟はしていただろう。
家に残った3人の子供は無事だったが、私の母が生まれる約2年前には母の「姉」となる女の子を、祖父母は乳児のうちに亡くしていた。
早い話私にとっては、会った事のない実の「叔母」である。
母に言わせれば「姉」が生まれてすぐ亡くなったから、代わりに私を生んだのだろうと笑っていたが、男女産み分けることは出来ないから違うと思う。
だがまだ幼い唯一の「娘」を、祖母はこよなく可愛がり、苦しい戦中・戦後の生活も苦しい想いは記憶にないと言っていた。
学徒動員していた二男は、終戦直後程なく帰って来たが、インドネシアにいた長男が帰還したのは戦後2年近く経ってからであった。
兵隊ではないので国の戦死通知はなく、祖父母は敢えて口には出さなかったが諦めていたと言う。
長男、すなわち私にとっても叔父に当たるが、実際には終戦直後に「マラリア」を患い、すぐには帰国できなかった。
更に現地に取り残された日本人は、兵隊が優先的に「復員」と言う形で帰国し、民間人は後回しだった。
終戦直後はアメリカ軍が進駐し、日本人は軍民関わらず収容所に収監され、順次帰国の途に就いたが、病人の叔父は源氏人に匿われて療養したと言う。
インドネシアは元々オランダの植民地で、原油を含む同地の産物は全て搾取されていた。
戦争が始まると、日本もまたインドネシアの原油や石炭、食糧などを確保するためオランダに戦争を挑み、弱小なオランダ軍はすぐ降伏。
インドネシアにとっては、支配者が日本に変わっただけだった。
しかしオランダと違ったのは、日本はインドネシアに道路や発電所を作り、病院や学校を作り、水道を引いた。
それは日本人のためだけではなく、現地の人々のためでもあった。
日本の「ため」に鳴ってもらうため、生活を向上させ、子供たちには教育を行い、住民の健康を管理し、交通を整備して流通を確立させた。
一方オランダは、産物の取得のために開発をするだけで、現地には何一つそうした保障は行わず、油田や鉱山、農園ではインドネシア人は奴隷のごとくこき使われ、差別されていた。
日本人は働いてもらう現地人に、きちんと給与を支払い、インフラを自由に使わせた。
「アメとムチ」とも言えなくないが、インドネシアの人々にはオランダより自分たちを認めてくれる日本を大いにありがたがった。
戦後同国はアメリカの管理下に置かれたが、オランダ程ではないにせよ扱いはどう見てみもアジア人への差別感が拭えず、数年後には独立を巡る内戦に発展した。
現在インドネシアの道路は左側通行、鉄道も日本の中古電車を大量に輸入し、近代化が進んでいるが、これらは日本統治時代の名残だ。
叔父はインドネシアの人々の優しさは、日本人のそれと似ていて、いつかお礼を言いに再訪したいと言っていた。
それが叶ったかどうかは知らないが、無事長男の期間で、我が家の「戦争」は終わったのだろう。
それから20年と少し経って、私がこの世に生を受けることになるのだが、犠牲になった家族がいなかったのは幸せだっただろう。
最も亡くなった赤ちゃんの死因は不明で、戦時中故栄養失調や病気でも治療が出来なかったのかも知れず、だとすれば「叔母」が唯一我が家では間接的ではあるけれど、戦争の「被害者」だったと言えるかも知れない。
そして74年経た今、時代は「令和」となって、昭和は遠い過去のものになりつつある。
同時に祖父母はもちろん、叔父達、そして母も他界し、四男の叔父だけが残っている。
既に80代半ばのはずで、残念ながら現状は不明。
もう30年近く私とは行き来がなく、消息は不明である。
この叔父が亡くなれば、家系では直接戦争を語る家族がいなくなる。
まだ家族ではなかった伯母か、こうして間接的に覚えている私だけになる。
そして私もそれを伝える家族は、今のところいない。
ここでこうして辛うじて「書き残す」だけだ。
世間でも、戦争体験している人は年々減少している。
長寿のおかげで、まだ多数残られているとはいえ、近い将来全員がいなくなることは確実だ。
その時日本の「戦争」は、遠い過去の「人ごと」にしか思えない時代が来る。
教科書や本で知るだけで、テレビや映画でさえ取り扱う事はなくなるだろう。
その時未来の日本人は戦争と言うものを、どう感じているのだろうか。
歴史を直接伝える・残すと言う事は、本当に大切なことだと思う。
我々「知らない世代」は、例え「人ごと」に思えても、自分の「先祖」が困難な時代を切り抜けてきたからこそ、今があると言う事を忘れてはならない。
物があふれ、苦労をせずとも済む時代に、目の前の事だけを見がち。
それを否定はしないけれど、祖父母や曾祖父母たちが一生懸命生きて「血筋」を今につないだ事を、絶対忘れてはいけない。
元気ですか?
今日は良い一日でしたか?
体調はどうですか?
風邪など引いてませんか?
暑さは大丈夫ですか?
お盆休み、君はどう過ごしているでしょうか?
休日返上のお仕事、と言うかも知れませんが、少しは夏休み気分を味わっているでしょうか?
旅行に行ったり、生まれ故郷を訪ねたり、懐かしい友人と会ったり、楽しい予定もあることでしょう。
奈良へは行かないのですか?
詳しい日付は覚えていませんが、君が初めて一人旅で奈良を訪れたのは猛暑の夏休みでしたね。
あれからもう10年も経つのかと思うと、ちょっと不思議な感じもします。
昨日今日、奈良ではお盆恒例の「東大寺盂蘭盆供養会」「春日大社万灯篭」「高円山送り火」などが行われました。
ひょっとしたら君は見に行っているかも知れないし、過去には行った事があるかも知れません。
私はいろいろ事情があって、なかなか行けない日々が続いていますが、この秋には久し振りに行きたいと思っています。
いつも奈良の事を考えると君のことを思い出し、君がまだ行ったことのない場所に連れて行きたい、一緒に行ってみたい・・と思ってしまいます。
暑さはまだ続きそうですので、体調管理には気をつけて、楽しい夏休みを過ごしてください。
明日は台風の影響で風が強くなると思いますので、外出の際には充分注意してください。
明日もどうかお元気で。
君に笑顔がありますように。
お休みなさい。
遠音にも 君が嘆くと 聞きつれば ねのみし泣かゆ 相思ふ吾は(万葉集巻十九 4215 大伴宿禰家持)
☆今日のバス
692号車 02年式三菱ふそうニューエアロスター(MP37JM) 野村車庫(元名鉄バス)
780号車 01年式日野ブルーリボン・シティ(HU2PMEA) 野村車庫
692号車は昨年末にまとまって導入された中古車グループ。
780号車は宮交には4台しか存在したい「シティ」の劇レア車。
このうち3台が自社導入車で、同社は今年初めまで「宮城ナンバー」の427号車で登録されていた。
泉営業所の1台は数年前に「仙台ナンバー」に変更されていたが、こちらは車検に合わせて「仙台ナンバー780号車」に再登録されている。
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