鉄道ネタ いい日旅立ちと485系(12月10日 曇り時々晴れ 5℃)
雲が優勢ながら、比較的穏やかな冬の一日。
だが寒気は居座り続けて、最高気温は全く上がらず冷たい空気に包まれた。
家の中も、いつしか弱くなった日差しでは温まらず寒い。
布団から出たくない…ワンパターンなセリフだけど地を行く気持ちだ。
カレンダー通りに季節が変わったようで、ほんの10日前までは「今年の秋は長い」なんて言っていたのに。
世間は否が応にも年末年始気分が増え、テレビのCMもクリスマス一色になりつつある。
考えたらクリスマスまでは2週間、新年までは3週間しかないのだ。
「平成最後」と言う言葉が何かと流行しているが、年末を迎えるとなるほど、と思う。
それを言ったら来年4月までは全てが「平成最後」になって、キリがないのだが。
商売上付加している感は否めないが、国民のどれだけが天皇陛下の退位・譲位に関心を持ち、受け止めているのだろう。
いろんな意見はあって良いと思うが、天皇陛下交代による元号改正は大きな歴史の転換点。
その場に立ち会える私達は幸せである事を知って欲しい。
元号は元々中国で王朝が交代する度つけられた制度で、それは新王朝の証明だった。
中国では「群雄割拠」が当たり前だったので、新王朝が元号を定める事で、前王朝の「滅亡」を露わにしたのである。
朝鮮半島でも元号を使っていたが、百済・新羅・高句麗とも王朝は基本的に日本と同じ「世襲制」だったため、7世紀に新羅が半島を統一した後は、いつしか元号制度はなくなり定着しなかった。
中国では近世まで使われていたが、最後の王朝「清」以降元号制度は廃止されている。
日本で元号が採用されたのは645年に制定された「大化」が最初で、「白雉」と続いた。
その後28年間元号は途絶えたが、「壬申の乱」で皇位に就いた天武天皇から「朱鳥」で復活し、以後現在まで途切れる事なく続いている。
実に1332年も続いているのは、日本人が誇れる文化の継承であると思う。
実際には日本はそれ以前の4世紀頃から、中国や朝鮮半島の元号を一緒に使っていた可能性が高い。
独自の元号制度を「律令」で定めたのは、天武天皇。
現在も皇室典範を含めて元号は制度化されており、確かに生活上は使う頻度が減ったけれど、廃止する必要性はあるまい。
メディアに出る「識者」の中には、「時代が変わった」など最もらしい理由で元号廃止を口にする者もいるが、何でも「時代」で片づけようとするのは、頭の悪い理論としか言いようがなく、むしろ自分の存在を否定しているようなものだ。
私達は果てしない数の先祖を経て存在しているのであり、元号もそれを証明する一つの物差し。
生活上不必要と言うのは、それこそ時代の流れかも知れないが、「歴史と誇り」を自分の都合で捨てる権利は私達にはないのだ。
来年のクリスマスは新元号最初のクリスマス。気分の問題だけど、それはそれで何となく楽しみだし、流行的なキライはあるが「平成最後」と言うのも、良い意味で大切にしたいものだ。
鉄道ネタ。
先日テレビで、シンガーソングライター・三浦祐太朗さんが「いい日旅立ち」を歌っていた。
ご存じのように、彼はかつて大活躍した歌手・山口百恵さんの息子。
母親の大ヒット・代表曲を自ら謳っていることに、ちょっと感心した。
この歌の作者も、有名な谷村新司さん。
「レコード」自体のリリースは78年11月で、今年で何と40周年を迎える。
私を含めた一定年代以上の人であれば、一度は聞いたであろうし、今改まって聴いても古さは微塵も感じさせない、まさに名曲中の名曲であると思う。
この歌は、当時国鉄が企画した全国的長期キャンペーンのために企画・制作された異色の経歴を持つ。
この曲が発売された1か月前、国鉄では10年ぶりに「白紙ダイヤ改正」を行った。
白紙ダイヤ改正とは、それまでの列車ダイヤを全て「消去」し、列車体系やダイヤを全面的に見直す「維新」的な大事業である。
70年代の国鉄は、相次ぐ労使闘争とそれに伴う莫大な赤字が国庫を圧迫していて、50%にも及ぶ運賃値上げを連蔵させ、国民から大顰蹙を買っていた。
若い人には理解できないかも知れないが、「国鉄」の正式名称は「日本国有鉄道」で「国営」だった。
即ち運営には全て税金で賄われていた訳で、運賃値上げはもちろん、労使闘争によるストライキの頻発や現場のサービス低下に、国民は我慢の限界が来ていた時代である。
それは政治問題まで発展し、政治家の進退問題にも及ぶ所になり、ついに「分割・民営化」と言う、半ばタブー視されていた現実に手をつけなければならなくなった時代であった。
70年代後半になると、労使闘争に国が本格的に介入し、騒ぎは収まったが高速道路の全国展開によるモータリゼーションの成長の他、それまで「高根の花」だった航空機も一般国民が普通に利用し始めた時代で、国鉄の利用率は低下が止まらなかった。
特に大幅値上げが致命傷となり、使わざるを得ない通勤・通学客以外、つまり旅行客の減少は目に余るほとであった。
通勤・通学客は大半が定期券利用で、値上げされても割引運賃。
国鉄としては「正規料金」で乗ってくれる旅行客が、最も重要な資金源でもあった。
そこでそれまでの「公務員的」態度を一斉に改めるとともに、旅行キャンペーンを実施して車や航空機に流れた利用客を取り戻そうとしたのが、78年末から始まった「ディスカバー・ジャパン2・いい日旅立ち」キャンペーンであった。
国鉄は大手旅行者の日本旅行や、鉄道車両・国鉄の電化機器を扱っていた日立製作所の協力およびスポンサーとして招致。
「お役所」だった国鉄が民間会社とスポンサー契約を結ぶ、異例のことであった。
それだけ国鉄にとっては減収・利用減は深刻な状況だった。
ファンの間では「53-10(ゴーサントオ」と呼ばれる白紙ダイヤ改正では、全国の優等列車を全面的に見直し、それまで列車の号数を「上り○号」「下り△号」としていたのを、わかりやすく上り列車は偶数、下り列車を奇数号数に改めた。
また新幹線と一部を除き、特急列車のヘッドマークをイラスト入りにすることで親しみやすさを演出し、ローカル色を押し出した。
運賃関係では、全国数十か所に区分けした「ミニ周遊券」を設定し、それまでの「周遊券」より利用できる範囲は狭いが、安価で利用しやすくした。
その他全ての特急列車には「自由席」を設けることになり、一部にあった「全車指定席」は事実上廃止され、混雑期に指定席が確保できずとも「自由席」で利用できるようになった。
この数年前から電車特急を中心に、在来線特急を「L特急」と名付けて宣伝していたが、ダイヤ改正では親しみやすさを強調するとともに、パターン化されたダイヤを設定して(フリークウェント化)、いつでも乗れるような利便性も付加した。
キャンペーンの「ディスカバージャパン」は、70年代前半に一度行われたキャンペーンに引き続く名前である。
「いい日旅立ち」に当たって、スポンサーの日本旅行と日立製作所が資金を提供したと言われ、曲名には両社を表す「日」と「立」の文字が入れられている。
当時山口百恵さんはもちろん、谷村新司さんもニューミュージックユニット「アリス」で大人気のアーティストであり、メディアが大きく取り上げることで、国民の関心も高かった。
「国鉄は変わったのか?」
結論は今でもわからないが、結局僅か9年後の87年に国鉄は消滅。JR化されたので、今思えば100年以上の歴史の国鉄「最後」の輝きだったのかも知れない。
同曲は最近も「旅立ちの歌」として、結婚式や送別会などで歌われることが多いと聞くが、谷村新司さんは今も「歌詞を良く見て下さい。そんなに幸せな歌ではないです。」と言っているそうだ。
謙遜だと思うが、確かに「希望」に満ちたような歌詞ではなく、孤独な旅立ちに悲しみも混じったような歌であり、どちらかと言うと「旅情」を強調したと言えるだろう。
要は本物の「旅」の歌、と言えるのである。
曲が発売された時、私は小学6年生。
ちょうど「テツ」(鉄道ファン)になっていくらか経った頃であった。
翌年中学生になると、小遣いを溜めてはローカル線を乗りに出かけたり、学校が休みや早く終わる日などは仙台駅に足しげく通い、カメラ片手に列車の写真を撮っていた。
当時駅には「入場券」と言う切符があり、100~120円くらいだったのではないか。
時間制限はなかったから一度構内に入ってしまえば、私にはT○Lより楽しい場所であった。
仙台駅はまだ新幹線開業前。
現在の駅舎は78年に完成していたが、新幹線ホームは工事の真っ最中であった。
東北本線は全国に名だたる「特急・急行」街道として有名で、東北の中心地である仙台駅には優等列車のほとんどが発着していた。
東京の玄関口・上野駅からは東北・信越・羽越方面へ、在来線の特急・急行列車が1日に数百本も発着しており、仙台駅も地方駅としては全国でトップクラスの優等列車発着駅であった。
仙台始発の特急は「ひばり」と常磐線経由の「ひたち」があり、前車は1日15往復も設定されていた。
↑上野駅で並ぶ485系「ひばり」と583系「はつかり」
「ひたち」の仙台発着は2往復ぐらいだっただろうか、その他上野~盛岡間の「やまびこ」が4往復、上野~青森間の「はつかり」が6往復あり、更に常磐線経由で上の~青森間を走る「みちのく」があったから、昼間の特急列車だけで28往復も発着していた。
最も多い「ひばり」は1時間ヘッドで、毎時「58分」発だったと記憶している。
福島県郡山駅になると「ひばり」「やまびこ」「はつかり」のほか、山形行きの「やまばと」、秋田行きの「つばさ」、会津若松行きの「あいず」があったから、本来本数・種類としては郡山駅の方が多かったが。
小中学生の少年に特急列車はまさに「高根の花」で、親の実家で暮らしていた私には「帰省旅行」も存在しない。
年に1~2度、東京から訪れる叔父一家が羨ましく、鉄道に詳しくない従兄弟にどの列車の何号車に乗ってきたかなどを聞いたものである。
特に貧しい訳ではなかったと思うが、家族旅行などはとても贅沢な時代。
我が家でなくとも同級生で、夏休みの旅行など行った子はほとんどいない時代だ。
だから駅で列車に近づくだけでも、旅情を感じたし、ピカピカに磨かれた特急や急行列車は常に憧れだった。
「乗りテツ」になると、実際列車に乗るようにはなったが、やはり高価な特急列車に乗る機会はなく、頑張っても急行だった。
当時「特急街道」を闊歩していたのは、485系と583系電車である。
当時の特急列車には「格」があり、長い編成には普通車指定席と自由席車のほか、グリーン車と食堂車が連結されていることが「1級」である証明みたいなものであった。
「53-10」では、いわゆる「合理化」が図られ、列車によってはグリーン車も食堂車もない「モノクラス」列車も設定され、ファンには論議が醸し出されたほどだった。
東北本線筋では「あいづ」と「ひたち」だけ、走行時間が短いのを理由に食堂車の設定がなかったが(概ね4時間以上)、グリーン車は連結していた。
それ以外の列車には全て連結されており、編成も12~13輌編成が「当たり前」であった。
現在新幹線「はやぶさ」のE5系が、10輌編成が基本であるということを考えると、当時いかに列車を使う人が多かったかと言うことが分かる。
上野~仙台間が4時間15分、盛岡まで6時間半、青森まで9時間もかかっていたが、利用者は長時間でも通常のことだった。
特に青森行きの「はつかり」「みちのく」は、青函連絡船に乗りついで北海道へ向かう人の利用も多く、年間通じて混雑する列車だった。
「ひばり」も利用率の高い列車として知られ、15往復全てが485系で運転されていたが「53-10」の前後僅かな期間だけ、青森所属の583系が間合い仕様で運用されていた時期がある。
「やばびこ」と「はつかり」も485系電車で、後者は半分が583系である。
485系は64年から製造された国鉄標準型の特急用電車で、正確には「485系交直両用特急型電車」と言う。
東京オリンピックを境に高度経済成長を遂げた日本は、地方幹線の電化が一気に進み、首都圏や大阪圏・名古屋圏の直流電化区間から直通できる交直両用電車がこぞって開発された時期で、当初は西日本の交流60Hz用が「481系」、東日本の50Hz用を「483系」として製造されたが、すぐに50/60Hz共用の「485系」に生産が移されている。
基本的な仕様は共通で、481・483系の生産数は少ない。
485系は79年まで生産が続けられ、合計1,453輌が生産された。
在来線用特急電車としては、現在まで最大の生産数を誇る。
そのため後期になると寒冷地仕様の「1,000番代」、北海道用の「1,500番代」が生産された。
JR化後も数を減らしつつも継承・運用され、耐用年数を伸ばすためにほとんどの車両が「リノベーション」されて面影はなくなったが、最後の定期使用はつい一昨年前に終了している。
即ち50年間も現役で活躍したのであり、当時は「全盛期」だったのである。
仙台駅では「4番ホーム」が上り特急(現5番ホーム)、1番ホームが下り専用。
出発ベルが鳴ると、7号車に連結していた食堂車のスタッフが全員ホームに向かって並び、列車が動くと深々と頭を下げるのが特急食堂車の恒例であった(始発のみ)。
食堂車は床下に電動発電機があって、ひときわやかましいのだが、それが「特急」らしくて好きだった。
↑食堂車「サシ481」型とその車内の様子(ウィキペディアより)
車内は白い枕カバーが綺麗にかけられた座席がずらっと並び、グリーン車は重厚なエンジ色のシートが高級感を見せていた。
特急電車は高速で走るためにギア比が高く、出発時の加速はあまり早くない。
ドアが閉まると、先頭車から「プワーン」と言うホイッスル。
そしてゆっくりと動き出す列車。食堂車のスタッフが一斉に頭を下げ、列車は遠ざかっていく。
この時ホームにはいつも「いい日旅立ち」が流れていて、子供心に歌と風景のマッチさに感動していた。
家から歩いて数分のところには、東北本線の踏切があって、暇さえあれば鉄道好きの友人と眺めに言っていた。
仙台駅の北側にあったので「ひばり」は、運転所に出入りする回送列車だけだったが、「やまびこ」「はつかり」の北行きが通過する。
↑485系「はつかり」と583系寝台特急「はくつる」(ウィキペディアより)
仙台駅を出て約2キロぐらいの地点で、列車は既にフルスピードに近い。
友人とも列車のダイヤはだいたい覚えていて、踏切が鳴ると「おっ、はつかり7号じゃない?」なんて言う。
距離があるので、今何かと騒がれる「撮りテツ」などしない。
踏切では、ただ通過する列車を見るだけ。
2~3時間立っていても平気で、合間には学校の事やつまらぬ話を止めどなく続けて退屈などしなかった。
今なら「不審な少年」とでも通報されただろうか、もちろん大人に注意されたり警官に「尋問」などされたことはない。
駅にはこの友人と行くことも、一人で行くことも多く、一人旅の習性はこの時代に形成されたのではないかと思う。
友人とは、このブログでたびたび登場するI君で、彼は元々兵庫県の出身。
そのため現地に鉄道好きの友人がいて、しょっちゅう列車の写真をやり取りしていた。
I君はその友人に頼んで、同じ写真を2枚ずつ焼き増しして送ってもらい、いつも私に分けてくれた。
行ったことはもちろん、本でしか見たことのない大阪周辺の特急や列車の写真に、すっかり興奮した私であった。
お返しに私が撮った写真を、その友人に送ってくれるよう頼むと、そのうちI君は紹介してくれて「文通」になった。
名前も住所も失念してしまったことが悔やまれるが、鉄道を通じて遠くに友人が出来ることに驚いたものである。
I君とは小学校低学年からずっとクラスが一緒で、中学では離れてしまったが、休日にはよく一緒だった。
同じ学習塾に通っていたが、そこに行く前も踏切を通るので、2回に1回は少し家を早く出て踏切で列車を「チェック」した。
帰りは21時頃だったが、その後寝台列車の「新星」が回送列車で通過するので、必ず見ようとパッと帰ったものである。
以前書いたようにI君と、もう一人T君(鉄道ファンではなかった)の3人は、中学生にもなって「いつまで半袖姿」を競った仲。
当初は体育の授業の体操服だけのことだったが、いつしか意地になって私服でも半袖半ズボンで過ごした仲だが、今頃の季節も列車を見るために踏切でじっとしているのに、二人とも薄いTシャツ1枚に太もも全開の半ズボン姿。
特に塾に行き来する時間など真っ暗で、雪が降っていても寒くて地団駄を踏みながら列車を見ていたおバカな少年だったが、夕方に通過する「やまびこ」「はつかり」は、それを推しても待つ価値はあった。
・・・雪解け間近の 北の空に向かい・・・・帰らぬ人たち 熱い胸を過る・・・・
青森行き「はつかり」は、上野を出て約4時間の仙台がちょうど中間点。
9時間もの長い旅路はまだ半分。
冬の夕方は既に夜と同じく真っ暗で、その中を485系電車が青森へ急ぐように疾走してくる。
子供にとって、時間より暗さは既に1日の終わり。
しかし「はつかり」は、これから約350キロ4時間以上闇の中を走る続ける。
煌々と明かりのついた車内だけが温かみを感じさせるが、乗客たちは暗闇に大半が疲れきっているように見えた。
・・・この人たちは一体こんな寒い夜に、これからどこまで行くのだろう…僕はこれから暖かい家に帰って、ご飯を食べて暖かい布団で寝れるのに、列車の人々はまだまだ旅を続けている・・・
歌詞と同じように、遥か遠くまで走る特急列車だからこそ、少年は心を締め付けられるような想いを感じた。
食堂車では、夕食の時間だろうか、お客さんがたくさんいる。
忙しく揺れる車内を動き回る「ウェイトレス」のお姉さんの姿が、ちらっと見える。
夕方の「はつかり」は深夜にようやく終点青森駅に着くが、乗客の半数以上は長いホームを歩いて「青函連絡船」の深夜便に乗り換える。
冬の津軽海峡は荒々しく、函館まで約4時間の航路は苦しい。
そしてまだまだ夜の明けない早朝4時頃函館に到着し、札幌行きディーゼル特急「北斗」「北海」に乗り継ぐと札幌に到着するのはお昼頃。
私が見送る「はつかり」の乗客の旅路は、その後12時間以上も続ける人がいた。
この人たちにとって485系電車は「いい日旅立ち」なのだろうか・・・。
踏切を通過するのは僅か10秒か20秒。
疾風のごとく、485系は通過し、踏切が上がると赤いテールランプがすうっと消えていく・・・。
485系はまだ「広かった」日本を縦横無尽に走り、人々に「いい日旅立ち」を与えていた。
↑上野~秋田間の「つばさ」。新幹線開業直前には仙山線経由で仙台駅にも乗り入れていた(ウィキペディア英語版より)
↑昼間特急では最長距離を走った大阪~青森間の「白鳥」(ウィキペディアより)
馬鹿みたいに冬の半袖姿で震えながらも「いいなあ、乗ってみたいなあ」と思う反面、長い旅路を想うとどこか憂鬱にも思えたのが不思議であった。
「いい日旅立ち」は、産まれて初めて歌詞に共感できた歌だったと思う。
それはもはや終盤に差し掛かった今も、同じような感覚を思い起こさせる。
当時の事を突如鮮明に思い出すと同時に、赤と肌色と言う「国鉄特急色」がとても懐かしく思い出され、目の前にした時のドキドキ感も僅かながら思い出した次第である。
↑「国鉄色」に復刻された新潟区の485系(ウィキペディアより)
「冬将軍」はまだ居座り続けている。
雪こそ振らないが、気温は低く、外はとにかく寒い。
風がないのが救いだが、18時頃で気温は2℃と真冬並み。
外を歩くだけで憂鬱になりそう。
歳を重ねるごとに寒さが辛くなり、今回の様に一気に寒くなるのは特に辛い。
慣れれば良いが、既に冬特有の筋肉の「強張り」が出始めている。
月曜と言うことと寒さで、街は早々に・・と思いきや、日曜の昨日より人とが多い。
レストラン街やカフェバー、カフェは遅くまでお客さんがおり、道路も歩く人・車とも多い気がする。
年末に向けて忙しいのか、忘年会の関係か。
あまりに寒くて、冷え切った家に変えるより、まずはどこかで暖かいものを・・と無意識に欲するのかもしれない。
確かについ暖かいお店に入って、飲んだり食べたくなるのが冬らしく思える。
元気ですか?
今日は良い一日でしたか?
体調はどうですか?
風邪など引いてませんか?
寒さは大丈夫ですか?
今日もとても寒い1日でした。
風邪だけでなく、本当に君の体調が心配です。
無理をせず、ちゃんと食べて暖かくして過ごして下さい。
身体を冷やさぬよう、どうかご自愛下さい。
明日もどうかお元気で。
君に笑顔がありますように。
お休みなさい。
沫雪かは だれにふると 見るまでに 流らへ散るは 何の花ぞ(万葉集巻八 1420 駿河采女)
だが寒気は居座り続けて、最高気温は全く上がらず冷たい空気に包まれた。
家の中も、いつしか弱くなった日差しでは温まらず寒い。
布団から出たくない…ワンパターンなセリフだけど地を行く気持ちだ。
カレンダー通りに季節が変わったようで、ほんの10日前までは「今年の秋は長い」なんて言っていたのに。
世間は否が応にも年末年始気分が増え、テレビのCMもクリスマス一色になりつつある。
考えたらクリスマスまでは2週間、新年までは3週間しかないのだ。
「平成最後」と言う言葉が何かと流行しているが、年末を迎えるとなるほど、と思う。
それを言ったら来年4月までは全てが「平成最後」になって、キリがないのだが。
商売上付加している感は否めないが、国民のどれだけが天皇陛下の退位・譲位に関心を持ち、受け止めているのだろう。
いろんな意見はあって良いと思うが、天皇陛下交代による元号改正は大きな歴史の転換点。
その場に立ち会える私達は幸せである事を知って欲しい。
元号は元々中国で王朝が交代する度つけられた制度で、それは新王朝の証明だった。
中国では「群雄割拠」が当たり前だったので、新王朝が元号を定める事で、前王朝の「滅亡」を露わにしたのである。
朝鮮半島でも元号を使っていたが、百済・新羅・高句麗とも王朝は基本的に日本と同じ「世襲制」だったため、7世紀に新羅が半島を統一した後は、いつしか元号制度はなくなり定着しなかった。
中国では近世まで使われていたが、最後の王朝「清」以降元号制度は廃止されている。
日本で元号が採用されたのは645年に制定された「大化」が最初で、「白雉」と続いた。
その後28年間元号は途絶えたが、「壬申の乱」で皇位に就いた天武天皇から「朱鳥」で復活し、以後現在まで途切れる事なく続いている。
実に1332年も続いているのは、日本人が誇れる文化の継承であると思う。
実際には日本はそれ以前の4世紀頃から、中国や朝鮮半島の元号を一緒に使っていた可能性が高い。
独自の元号制度を「律令」で定めたのは、天武天皇。
現在も皇室典範を含めて元号は制度化されており、確かに生活上は使う頻度が減ったけれど、廃止する必要性はあるまい。
メディアに出る「識者」の中には、「時代が変わった」など最もらしい理由で元号廃止を口にする者もいるが、何でも「時代」で片づけようとするのは、頭の悪い理論としか言いようがなく、むしろ自分の存在を否定しているようなものだ。
私達は果てしない数の先祖を経て存在しているのであり、元号もそれを証明する一つの物差し。
生活上不必要と言うのは、それこそ時代の流れかも知れないが、「歴史と誇り」を自分の都合で捨てる権利は私達にはないのだ。
来年のクリスマスは新元号最初のクリスマス。気分の問題だけど、それはそれで何となく楽しみだし、流行的なキライはあるが「平成最後」と言うのも、良い意味で大切にしたいものだ。
鉄道ネタ。
先日テレビで、シンガーソングライター・三浦祐太朗さんが「いい日旅立ち」を歌っていた。
ご存じのように、彼はかつて大活躍した歌手・山口百恵さんの息子。
母親の大ヒット・代表曲を自ら謳っていることに、ちょっと感心した。
この歌の作者も、有名な谷村新司さん。
「レコード」自体のリリースは78年11月で、今年で何と40周年を迎える。
私を含めた一定年代以上の人であれば、一度は聞いたであろうし、今改まって聴いても古さは微塵も感じさせない、まさに名曲中の名曲であると思う。
この歌は、当時国鉄が企画した全国的長期キャンペーンのために企画・制作された異色の経歴を持つ。
この曲が発売された1か月前、国鉄では10年ぶりに「白紙ダイヤ改正」を行った。
白紙ダイヤ改正とは、それまでの列車ダイヤを全て「消去」し、列車体系やダイヤを全面的に見直す「維新」的な大事業である。
70年代の国鉄は、相次ぐ労使闘争とそれに伴う莫大な赤字が国庫を圧迫していて、50%にも及ぶ運賃値上げを連蔵させ、国民から大顰蹙を買っていた。
若い人には理解できないかも知れないが、「国鉄」の正式名称は「日本国有鉄道」で「国営」だった。
即ち運営には全て税金で賄われていた訳で、運賃値上げはもちろん、労使闘争によるストライキの頻発や現場のサービス低下に、国民は我慢の限界が来ていた時代である。
それは政治問題まで発展し、政治家の進退問題にも及ぶ所になり、ついに「分割・民営化」と言う、半ばタブー視されていた現実に手をつけなければならなくなった時代であった。
70年代後半になると、労使闘争に国が本格的に介入し、騒ぎは収まったが高速道路の全国展開によるモータリゼーションの成長の他、それまで「高根の花」だった航空機も一般国民が普通に利用し始めた時代で、国鉄の利用率は低下が止まらなかった。
特に大幅値上げが致命傷となり、使わざるを得ない通勤・通学客以外、つまり旅行客の減少は目に余るほとであった。
通勤・通学客は大半が定期券利用で、値上げされても割引運賃。
国鉄としては「正規料金」で乗ってくれる旅行客が、最も重要な資金源でもあった。
そこでそれまでの「公務員的」態度を一斉に改めるとともに、旅行キャンペーンを実施して車や航空機に流れた利用客を取り戻そうとしたのが、78年末から始まった「ディスカバー・ジャパン2・いい日旅立ち」キャンペーンであった。
国鉄は大手旅行者の日本旅行や、鉄道車両・国鉄の電化機器を扱っていた日立製作所の協力およびスポンサーとして招致。
「お役所」だった国鉄が民間会社とスポンサー契約を結ぶ、異例のことであった。
それだけ国鉄にとっては減収・利用減は深刻な状況だった。
ファンの間では「53-10(ゴーサントオ」と呼ばれる白紙ダイヤ改正では、全国の優等列車を全面的に見直し、それまで列車の号数を「上り○号」「下り△号」としていたのを、わかりやすく上り列車は偶数、下り列車を奇数号数に改めた。
また新幹線と一部を除き、特急列車のヘッドマークをイラスト入りにすることで親しみやすさを演出し、ローカル色を押し出した。
運賃関係では、全国数十か所に区分けした「ミニ周遊券」を設定し、それまでの「周遊券」より利用できる範囲は狭いが、安価で利用しやすくした。
その他全ての特急列車には「自由席」を設けることになり、一部にあった「全車指定席」は事実上廃止され、混雑期に指定席が確保できずとも「自由席」で利用できるようになった。
この数年前から電車特急を中心に、在来線特急を「L特急」と名付けて宣伝していたが、ダイヤ改正では親しみやすさを強調するとともに、パターン化されたダイヤを設定して(フリークウェント化)、いつでも乗れるような利便性も付加した。
キャンペーンの「ディスカバージャパン」は、70年代前半に一度行われたキャンペーンに引き続く名前である。
「いい日旅立ち」に当たって、スポンサーの日本旅行と日立製作所が資金を提供したと言われ、曲名には両社を表す「日」と「立」の文字が入れられている。
当時山口百恵さんはもちろん、谷村新司さんもニューミュージックユニット「アリス」で大人気のアーティストであり、メディアが大きく取り上げることで、国民の関心も高かった。
「国鉄は変わったのか?」
結論は今でもわからないが、結局僅か9年後の87年に国鉄は消滅。JR化されたので、今思えば100年以上の歴史の国鉄「最後」の輝きだったのかも知れない。
同曲は最近も「旅立ちの歌」として、結婚式や送別会などで歌われることが多いと聞くが、谷村新司さんは今も「歌詞を良く見て下さい。そんなに幸せな歌ではないです。」と言っているそうだ。
謙遜だと思うが、確かに「希望」に満ちたような歌詞ではなく、孤独な旅立ちに悲しみも混じったような歌であり、どちらかと言うと「旅情」を強調したと言えるだろう。
要は本物の「旅」の歌、と言えるのである。
曲が発売された時、私は小学6年生。
ちょうど「テツ」(鉄道ファン)になっていくらか経った頃であった。
翌年中学生になると、小遣いを溜めてはローカル線を乗りに出かけたり、学校が休みや早く終わる日などは仙台駅に足しげく通い、カメラ片手に列車の写真を撮っていた。
当時駅には「入場券」と言う切符があり、100~120円くらいだったのではないか。
時間制限はなかったから一度構内に入ってしまえば、私にはT○Lより楽しい場所であった。
仙台駅はまだ新幹線開業前。
現在の駅舎は78年に完成していたが、新幹線ホームは工事の真っ最中であった。
東北本線は全国に名だたる「特急・急行」街道として有名で、東北の中心地である仙台駅には優等列車のほとんどが発着していた。
東京の玄関口・上野駅からは東北・信越・羽越方面へ、在来線の特急・急行列車が1日に数百本も発着しており、仙台駅も地方駅としては全国でトップクラスの優等列車発着駅であった。
仙台始発の特急は「ひばり」と常磐線経由の「ひたち」があり、前車は1日15往復も設定されていた。
↑上野駅で並ぶ485系「ひばり」と583系「はつかり」
「ひたち」の仙台発着は2往復ぐらいだっただろうか、その他上野~盛岡間の「やまびこ」が4往復、上野~青森間の「はつかり」が6往復あり、更に常磐線経由で上の~青森間を走る「みちのく」があったから、昼間の特急列車だけで28往復も発着していた。
最も多い「ひばり」は1時間ヘッドで、毎時「58分」発だったと記憶している。
福島県郡山駅になると「ひばり」「やまびこ」「はつかり」のほか、山形行きの「やまばと」、秋田行きの「つばさ」、会津若松行きの「あいず」があったから、本来本数・種類としては郡山駅の方が多かったが。
小中学生の少年に特急列車はまさに「高根の花」で、親の実家で暮らしていた私には「帰省旅行」も存在しない。
年に1~2度、東京から訪れる叔父一家が羨ましく、鉄道に詳しくない従兄弟にどの列車の何号車に乗ってきたかなどを聞いたものである。
特に貧しい訳ではなかったと思うが、家族旅行などはとても贅沢な時代。
我が家でなくとも同級生で、夏休みの旅行など行った子はほとんどいない時代だ。
だから駅で列車に近づくだけでも、旅情を感じたし、ピカピカに磨かれた特急や急行列車は常に憧れだった。
「乗りテツ」になると、実際列車に乗るようにはなったが、やはり高価な特急列車に乗る機会はなく、頑張っても急行だった。
当時「特急街道」を闊歩していたのは、485系と583系電車である。
当時の特急列車には「格」があり、長い編成には普通車指定席と自由席車のほか、グリーン車と食堂車が連結されていることが「1級」である証明みたいなものであった。
「53-10」では、いわゆる「合理化」が図られ、列車によってはグリーン車も食堂車もない「モノクラス」列車も設定され、ファンには論議が醸し出されたほどだった。
東北本線筋では「あいづ」と「ひたち」だけ、走行時間が短いのを理由に食堂車の設定がなかったが(概ね4時間以上)、グリーン車は連結していた。
それ以外の列車には全て連結されており、編成も12~13輌編成が「当たり前」であった。
現在新幹線「はやぶさ」のE5系が、10輌編成が基本であるということを考えると、当時いかに列車を使う人が多かったかと言うことが分かる。
上野~仙台間が4時間15分、盛岡まで6時間半、青森まで9時間もかかっていたが、利用者は長時間でも通常のことだった。
特に青森行きの「はつかり」「みちのく」は、青函連絡船に乗りついで北海道へ向かう人の利用も多く、年間通じて混雑する列車だった。
「ひばり」も利用率の高い列車として知られ、15往復全てが485系で運転されていたが「53-10」の前後僅かな期間だけ、青森所属の583系が間合い仕様で運用されていた時期がある。
「やばびこ」と「はつかり」も485系電車で、後者は半分が583系である。
485系は64年から製造された国鉄標準型の特急用電車で、正確には「485系交直両用特急型電車」と言う。
東京オリンピックを境に高度経済成長を遂げた日本は、地方幹線の電化が一気に進み、首都圏や大阪圏・名古屋圏の直流電化区間から直通できる交直両用電車がこぞって開発された時期で、当初は西日本の交流60Hz用が「481系」、東日本の50Hz用を「483系」として製造されたが、すぐに50/60Hz共用の「485系」に生産が移されている。
基本的な仕様は共通で、481・483系の生産数は少ない。
485系は79年まで生産が続けられ、合計1,453輌が生産された。
在来線用特急電車としては、現在まで最大の生産数を誇る。
そのため後期になると寒冷地仕様の「1,000番代」、北海道用の「1,500番代」が生産された。
JR化後も数を減らしつつも継承・運用され、耐用年数を伸ばすためにほとんどの車両が「リノベーション」されて面影はなくなったが、最後の定期使用はつい一昨年前に終了している。
即ち50年間も現役で活躍したのであり、当時は「全盛期」だったのである。
仙台駅では「4番ホーム」が上り特急(現5番ホーム)、1番ホームが下り専用。
出発ベルが鳴ると、7号車に連結していた食堂車のスタッフが全員ホームに向かって並び、列車が動くと深々と頭を下げるのが特急食堂車の恒例であった(始発のみ)。
食堂車は床下に電動発電機があって、ひときわやかましいのだが、それが「特急」らしくて好きだった。
↑食堂車「サシ481」型とその車内の様子(ウィキペディアより)
車内は白い枕カバーが綺麗にかけられた座席がずらっと並び、グリーン車は重厚なエンジ色のシートが高級感を見せていた。
特急電車は高速で走るためにギア比が高く、出発時の加速はあまり早くない。
ドアが閉まると、先頭車から「プワーン」と言うホイッスル。
そしてゆっくりと動き出す列車。食堂車のスタッフが一斉に頭を下げ、列車は遠ざかっていく。
この時ホームにはいつも「いい日旅立ち」が流れていて、子供心に歌と風景のマッチさに感動していた。
家から歩いて数分のところには、東北本線の踏切があって、暇さえあれば鉄道好きの友人と眺めに言っていた。
仙台駅の北側にあったので「ひばり」は、運転所に出入りする回送列車だけだったが、「やまびこ」「はつかり」の北行きが通過する。
↑485系「はつかり」と583系寝台特急「はくつる」(ウィキペディアより)
仙台駅を出て約2キロぐらいの地点で、列車は既にフルスピードに近い。
友人とも列車のダイヤはだいたい覚えていて、踏切が鳴ると「おっ、はつかり7号じゃない?」なんて言う。
距離があるので、今何かと騒がれる「撮りテツ」などしない。
踏切では、ただ通過する列車を見るだけ。
2~3時間立っていても平気で、合間には学校の事やつまらぬ話を止めどなく続けて退屈などしなかった。
今なら「不審な少年」とでも通報されただろうか、もちろん大人に注意されたり警官に「尋問」などされたことはない。
駅にはこの友人と行くことも、一人で行くことも多く、一人旅の習性はこの時代に形成されたのではないかと思う。
友人とは、このブログでたびたび登場するI君で、彼は元々兵庫県の出身。
そのため現地に鉄道好きの友人がいて、しょっちゅう列車の写真をやり取りしていた。
I君はその友人に頼んで、同じ写真を2枚ずつ焼き増しして送ってもらい、いつも私に分けてくれた。
行ったことはもちろん、本でしか見たことのない大阪周辺の特急や列車の写真に、すっかり興奮した私であった。
お返しに私が撮った写真を、その友人に送ってくれるよう頼むと、そのうちI君は紹介してくれて「文通」になった。
名前も住所も失念してしまったことが悔やまれるが、鉄道を通じて遠くに友人が出来ることに驚いたものである。
I君とは小学校低学年からずっとクラスが一緒で、中学では離れてしまったが、休日にはよく一緒だった。
同じ学習塾に通っていたが、そこに行く前も踏切を通るので、2回に1回は少し家を早く出て踏切で列車を「チェック」した。
帰りは21時頃だったが、その後寝台列車の「新星」が回送列車で通過するので、必ず見ようとパッと帰ったものである。
以前書いたようにI君と、もう一人T君(鉄道ファンではなかった)の3人は、中学生にもなって「いつまで半袖姿」を競った仲。
当初は体育の授業の体操服だけのことだったが、いつしか意地になって私服でも半袖半ズボンで過ごした仲だが、今頃の季節も列車を見るために踏切でじっとしているのに、二人とも薄いTシャツ1枚に太もも全開の半ズボン姿。
特に塾に行き来する時間など真っ暗で、雪が降っていても寒くて地団駄を踏みながら列車を見ていたおバカな少年だったが、夕方に通過する「やまびこ」「はつかり」は、それを推しても待つ価値はあった。
・・・雪解け間近の 北の空に向かい・・・・帰らぬ人たち 熱い胸を過る・・・・
青森行き「はつかり」は、上野を出て約4時間の仙台がちょうど中間点。
9時間もの長い旅路はまだ半分。
冬の夕方は既に夜と同じく真っ暗で、その中を485系電車が青森へ急ぐように疾走してくる。
子供にとって、時間より暗さは既に1日の終わり。
しかし「はつかり」は、これから約350キロ4時間以上闇の中を走る続ける。
煌々と明かりのついた車内だけが温かみを感じさせるが、乗客たちは暗闇に大半が疲れきっているように見えた。
・・・この人たちは一体こんな寒い夜に、これからどこまで行くのだろう…僕はこれから暖かい家に帰って、ご飯を食べて暖かい布団で寝れるのに、列車の人々はまだまだ旅を続けている・・・
歌詞と同じように、遥か遠くまで走る特急列車だからこそ、少年は心を締め付けられるような想いを感じた。
食堂車では、夕食の時間だろうか、お客さんがたくさんいる。
忙しく揺れる車内を動き回る「ウェイトレス」のお姉さんの姿が、ちらっと見える。
夕方の「はつかり」は深夜にようやく終点青森駅に着くが、乗客の半数以上は長いホームを歩いて「青函連絡船」の深夜便に乗り換える。
冬の津軽海峡は荒々しく、函館まで約4時間の航路は苦しい。
そしてまだまだ夜の明けない早朝4時頃函館に到着し、札幌行きディーゼル特急「北斗」「北海」に乗り継ぐと札幌に到着するのはお昼頃。
私が見送る「はつかり」の乗客の旅路は、その後12時間以上も続ける人がいた。
この人たちにとって485系電車は「いい日旅立ち」なのだろうか・・・。
踏切を通過するのは僅か10秒か20秒。
疾風のごとく、485系は通過し、踏切が上がると赤いテールランプがすうっと消えていく・・・。
485系はまだ「広かった」日本を縦横無尽に走り、人々に「いい日旅立ち」を与えていた。
↑上野~秋田間の「つばさ」。新幹線開業直前には仙山線経由で仙台駅にも乗り入れていた(ウィキペディア英語版より)
↑昼間特急では最長距離を走った大阪~青森間の「白鳥」(ウィキペディアより)
馬鹿みたいに冬の半袖姿で震えながらも「いいなあ、乗ってみたいなあ」と思う反面、長い旅路を想うとどこか憂鬱にも思えたのが不思議であった。
「いい日旅立ち」は、産まれて初めて歌詞に共感できた歌だったと思う。
それはもはや終盤に差し掛かった今も、同じような感覚を思い起こさせる。
当時の事を突如鮮明に思い出すと同時に、赤と肌色と言う「国鉄特急色」がとても懐かしく思い出され、目の前にした時のドキドキ感も僅かながら思い出した次第である。
↑「国鉄色」に復刻された新潟区の485系(ウィキペディアより)
「冬将軍」はまだ居座り続けている。
雪こそ振らないが、気温は低く、外はとにかく寒い。
風がないのが救いだが、18時頃で気温は2℃と真冬並み。
外を歩くだけで憂鬱になりそう。
歳を重ねるごとに寒さが辛くなり、今回の様に一気に寒くなるのは特に辛い。
慣れれば良いが、既に冬特有の筋肉の「強張り」が出始めている。
月曜と言うことと寒さで、街は早々に・・と思いきや、日曜の昨日より人とが多い。
レストラン街やカフェバー、カフェは遅くまでお客さんがおり、道路も歩く人・車とも多い気がする。
年末に向けて忙しいのか、忘年会の関係か。
あまりに寒くて、冷え切った家に変えるより、まずはどこかで暖かいものを・・と無意識に欲するのかもしれない。
確かについ暖かいお店に入って、飲んだり食べたくなるのが冬らしく思える。
元気ですか?
今日は良い一日でしたか?
体調はどうですか?
風邪など引いてませんか?
寒さは大丈夫ですか?
今日もとても寒い1日でした。
風邪だけでなく、本当に君の体調が心配です。
無理をせず、ちゃんと食べて暖かくして過ごして下さい。
身体を冷やさぬよう、どうかご自愛下さい。
明日もどうかお元気で。
君に笑顔がありますように。
お休みなさい。
沫雪かは だれにふると 見るまでに 流らへ散るは 何の花ぞ(万葉集巻八 1420 駿河采女)







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